はじめに



 表現の世界から離れて、二十数年。表現に対しては、沈黙の世界でこの世界を呼吸していたことになる。その間、一人、吉本隆明さんの本だけは欠かさず読んできた。なにごとかを決して手放さないようにして。沈黙もまた表現であるとはじめて取り出して見せたのは、吉本さんであった。

 読むという行為はなんだろう。表現された世界の追体験、はずれではないけどそれでは何も言っていないに等しい。この現在という世界の場で、作者が格闘しつつ外化した表出から表現にわたる全行程をたどろうとすることによって、開かれ、指示される新たな世界の顔を、その顔の表情とともに追い求めようとする行為ではないか。なぜそんなめんどうでまわりくどい世界に人はつきあうのか。人はこの世界に偶然のように生まれ、必然のように生きていく。日常の具体的な解放感を、ほんとうの解放感へと到達させたいという欲求はとどめることはできないからだ。そしてそれは、人間が大きな歴史として築き上げてきてしまった、あるいは絶えず更新している現在という世界の渦中では、目もくらむばかりの回り道を要するからだというほかない。のめり込めばのめり込むほど、世界は複雑なシステムや多層の構造を内包した表情で立ち現われる。追い求める欲求の言葉も病的にならざるを得ない。それでも人は追い求めてしまう。わたしが、今、この世界に生きているという、存在の輪郭を追い求めるように。

 振り返れば、歴史には無数の言葉にならない言葉が、埋もれているはずであり、そうしてそれは現在という場での言葉たちの格闘の軌跡を内包している。この現在においてもまた。

 親鸞は一念発起にまで、仏教を解体した。親鸞は思想の孤独において、どういった世界を指示していたのであろうか。わたしたちは親鸞―吉本思想により、親鸞の思想が鮮やかにこの現在に発掘される様を目撃するわけだが、いったい浄土とは何だろうか。それは理想の世界ということではなく、浄土へ往って還るというその過程の総体が、この深い世界とほんとうに出会うための道筋であるということではないだろうか。この世界で、現在、一挙に解放されたいという願望は、幻のように立ち現われ、消えていく。日々の感受でわかるように、それは幻だが、やはりその幻を現実化していくにはこの世界の深みまで降りていくほかないように見える。現在的な苦と歴史的な苦とが織り成されている世界に。

 一方、その幻を一挙に現実化したいという欲求が、現在のいろんな事件として現象してくるものの根底にはあるように思える。この社会の死を宣告し、出口の視えない透明な現実を一挙に突き抜けたいという、いくぶん性急な無言の表出をそれらの病に読み取るべきなのだと思う。そして、それらに対して、わたしたちは自らの言葉を深く行使することによって拮抗するほかない。

 言葉のAとBが対立する。言葉のCも対立に加担する。けれど、わたしたちもそれらの言葉の対立・格闘・制圧と無縁ではないが、戦のとばっちりを受けたりもしようが、そしてわたしたちもまたなんらかの立場を余儀なくされるが、言ってみれば、それらの言葉たちの無意識みたいなものの舞台で、立場を無化しようとする立場に立とうとすること。それはとりもなおさず、言葉たちの対立の舞台よりももっと深いところで、この世界と出会いたいということである。それは人間という存在の起源からの照射をあびており、いわば人類史的な時間の現在として言葉を行使したいという願望である。現在、言葉が現在を超えて深く生きて在ろうとするとき、行使する言葉自体が起源からの照射をあびており、あるいは起源を内包しているということに無自覚に行使されないことが、必須の要件のように見える。ちいさな過渡の渦中に、もっと大きな過渡の運動を感じとり、その両者にうまく関わり合えたらと思う。(これは吉本さんの現在的な課題と永遠の課題ということを、わたしなりに受けとめたものである。)

 この世界の言葉の風景の中、言葉を紡ぎ、言葉に触れ、言葉を交わし、黙々と言葉を紡いでいくことを重ねていくと、微かにある深い流れに乗っているような感覚が訪れる。それは一面、言葉というものに淫することかもしれないが、また一面、この世界のなにものかを開示させることも確かなことのようにみえる。

 いまだ古今集の真名序のようにかたい言葉であるが、未知のやわらかい言葉の流れに出会えたらと思う。どこまで歩んでいけるか心もとないが、やってみましょう。 
                              (西村 和俊 2007.11.18)




 (追記)

 二十数年前、十部程度の個人通信を出していた方々には、突然の終刊で申し訳なく思っています。
 この場を続けることでおわびに代えたいと思います。






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