昔の詩集から @


 以下の詩は、詩集『言葉の青い影』(1984年7月)を吉本さんに寄贈したら、『試行』(64号)に掲載してもらった詩です。励みになり、とてもうれしかったのを覚えています。しかし、しばらくして詩を書くのをやめてしまいました。以来、昔の自分の詩はまともに読み返すことがありませんでした。昔の詩をここに載せようかと思い立ったことがありましたが、気恥ずかしさが先にたってやめたことがあります。自分の昔の詩も現在の詩もいろいろ問題に感じることはありますが、昔の自分の詩をここに書き記し、読みながら、詩のモチーフや詩の言葉に或る連続性を感じ取ったことも確かです。自分にとっては現在への内省として、読者にとっては過去のわたしの詩の紹介として、ここに載せます。
   (2012.6.15)


1 詩

@ 詩の入口へ
A 水鏡
B ことば遊びの舞台裏
C アランロブグリエに
D ことばの庶民・ワレサ
  (詩集『言葉の青い影』(1984年7月)所収)

2 詩集 『言葉の青い影』の「あとがき」

3 「やっと探し出した吉本さんからのはがき」





 詩の入口へ


ことばといっても
にんげんみたいに
家があり 街や交通や世界があり
肉体や幻想があり
言葉 ことば コトバ
などのかたちをもった性格があり
堅い 柔らかい すねている
運動している
言葉の幻想的な昔風哲学者
ことばの孤独なシンガーソングライター
ことばの甘ったれた少女趣味
ことばの肉体的な八百屋の口上
ことばのことばにならないこ と ば

<愛>はすましている 仁愛
<恋>は涙もろい 涙恋
<好き>は鯉の尾びれのように柔らかい 好奇心
けれど ほんとうにそうか?
乾いた大地にこだまする
ことばの表情から流れ出すもの

昔 昔 その昔
<愛>や<恋>や<好き>は何だったのか
どのようにつぶやいたりうたったりしていたのか
どんなふうに変身を繰り返してきたのか
一寸ぼうしのようにか 浦島太郎のようにか
あるいは語り継がれてこなかった未明の物語のようにか
あるいはまた

こト葉たちの揺らいでいる街角
微かなあわいに
ふしぎな詩の入口があるような
にんげんのふしぎな入口があるような
ような気がする





 水鏡


みず……
ソクラテスがみずを飲む
みずに呑まれる
不見転のことばを蹴散らして
みずについて対話する
古えのことわざを 叩き 引き伸ばし蘇生させる 跳躍する
あるいは非ソクラテスが水を怖れる
語られることのない水の未知の宇宙に
ことばの躯がふるえている

そ そ ソクラテスかプラトンか……
野坂昭如が焼け跡でのみず飲み風に踊り出す

遅れてやってくるなにか
なにかことばの澱嵐のような

みずをのぞくと
みずかがみとなって
なにかが写っている 移っている
揺れる微かな波面がもどかしい
ぴたりと静止させて陶器を手で触ってみる
ようなわけにはいかない
ぬかに釘のように縛られた手がもどかしい
隔てられてしまったあわい
ひび割れた二人の関係のように
みず以前と以後がうまくなぞれない

みずの手前と
みず・わたしの場所とでは
言いようもなくなにか違ってしまっている
その語られたことのない 現在
ひっそりしたちんもくの在所で
手つかずのままことばのバランス・シートが
風の断層に揺らいでいる

手で触るように
みず以前のわたしに変身できない
みず以後にも変身できない
できない密やかな在所
ことばはひび割れて
他人の口調で訣れゆくものがある
幻のミズカガミが宙空に浮かんでいるような

みずをのぞいたことばが
水鏡に変身していく 上っていく
まだらの半身と半身が
反発する 手を握り合う 落ちこぼれる
避けられないことばの舞台裏がある
死んだ 変身し終えたことばたちの無限小の手前に





 ことば遊びの舞台裏


軽く 軽く
こら!かるくじゃない カルキでもないぞ
軽くだ!
おいおい おまえ!
重く おもーくだ!
へヴィーじゃないんだぞ
格好つけるなって
それからおまえ そこそこ
そこはそうじゃないって何度言えばわかるんだ!
柔らかくでもやわらかくでもないぞ
マイルドだ マ・イ・ル・ド いいか?マーイルドだぞ
ようし じゃいいか? もう一度

軽 軽 
ーるく 軽けっと
カル オモ オモ カル
カルカル 重れっと
オームレツが欲しかったのに
のに のに のに のに のにオモ のにオモ
オーモレツが オーモレツが
いや!母上が作ってくださらなんだ!なんだ ナンダ!
重オー カルカル 軽ー
るく行こうや カルセ!カルセ!
いやいや!いーやの重レット
まあまあまあ
ママもマイルド マーマレード
なあんだおまえもマーカルじゃん 二人いっしょに
マーカル マーカル カルマー カルマー
(? カルマ? カルマ !ぎくっ)
カッカッカッ……軽マ
オモー


こら 何やってんだ!いいかげんにしろ!
何度演ればできるんだ?
(うんうん 冷静に あまりきつくばかり言ってもいかんな)
よおーし じゃ そのまま続けるぞ いいか

(え えへん) (オッホン)
カルカルカールのカルケット
カルオモ マーカル(う・う・うううう)
カルマー かっかっおもマー カルケット
今日は良いお天気です
みんなでいっしょにピクニック
今日こそオムレツあるでしょう
ママもマイルド マママーイルド
オモニ オモニ 重いリュックだ
重重しい オモ
マーカル マーカル
カルマー カルマ…
(うん?)モオ モオ オモニ
カルマ カルマ カルカルマ
(うーん だめだ) (だめだ)

やめやめ!
よおし もういい
今日はこれで終りだ
(ああ もううんざりだ)






 アランロブグリエに


アランロブグリエ
アラン・ロブ・グリエなのか
アラン・ロブグリエなのか
よくわからない
調べれば少しはわかるかもしれないが
それでもよくわからない
赤ら顔で大男というわけでもないが
言葉の内側にうねっている表情がよくわからない

先日かれの講演を聴いた
ナンガサクではトキオの二番煎じで
お茶をにごしたのか
少し当地をなめてきたのか
そうではないのか
同じく気負ってきたのか
相も変わらずエキセントリックにきたのか
言葉の内でも外でも未知の道をきたのか
どうか
よくわからない

ただし 半分だけ付き合った映画は
かれの思想どおり文楽じみていた
じみていてもいいんだが
誰に どうして うけなかったのか
少し気になる
かれもソクラテスやプラトンの匂いがする
どうして小さな言葉の袋小路にこだわるのか
言葉の階段につまづいた俳優たち
の表情はどこへいったか
消去されたか されなかったか
かれの内側からみた
OKとNGとのあわい
俳優から見た
「去年マリエンバードで」と観客とのあわい
非観客からみた
観客と非観客とのあわい

淡いあわいが気にかかる
心に懸かる言葉の国境線
地形図がたどれない
アランアーラングリグリエ
と戯れ呪いしてみても
ほんとはよくわかんないなあ

よくわかんなくても
畏れることはない
言葉の内側に流れる畏こみ畏こむ
その癖を その畏こみを
赤ら顔の大男が通り過ぎたら
じっと見つめてみることだ

正視してはいかんぞ
という黙契があった
と柳田国男は書き留めた
言葉が移行すると韻の匂いが微かに漂う
それに当たると一人のアランロブグリエが
アランロブグリエ
になったり
アランロブグリエ
になったり
あーらんあーらんぐりぐーりえ
になったりする
そこ!
ソコガ微妙ダ
コトバガ揺ライデイル 地ハウ沼ハウ逆立チスル 崇メル逆ラウ
コトバ地獄デ死ニタクナカッタラ
アタラシイ無限小解析が微妙ダ
ホントハヨクワカンナイナア
ト思イツツ
一ツ駒ヲ進メル
ソノ極微ノ一瞬ヲ
マナザシヲ
慎重ニ 慎重ニ勝負セヨ
イツモ5割以上ノ勝チノデル生キ体ヘ
コトバノカラダヲトレーニングショウ





 ことばの庶民・ワレサ


ことばのワレサがいつものように挨拶してくる
その朝 その磁場
わたしはどうするか
そこに言葉の出立する秘密がある
あどけない秘儀がある
スマートな世間智がある
巧妙な磁場の権力がある
なにげない生活がある
無限の言葉の可能性
が収束していくどこか
どこか微分の中空で
どこか微妙に隔たってしまう

どこからか
すべて対立する
言葉の戦場が舞い降りている
二項対立にすぎん!
乱れに乱れた言葉の綾糸を解きほぐそう……
といっても
言うに言われぬ時代があった
例えば
ことばの法とことばの自然の円環に
逃れられないクモの糸
遠い遠おい行方わからぬ微分のあわいから
粘る 糸張る 粘りつく
自然状態は理想だ悪だと合唱する
粘る 糸張る 粘りつく


微分してみた言葉のあわい
淡いエロスがつまづいている
ええい ええい!
と言葉の綾糸切っても切っても
「ソーダ水で頭がいかれたワレサ!」
と襲ってくる底無し沼
それ無しでは生きてはいけぬ
草食肉食以前の或る空気しょうがない
されど されど!
息が苦しい 言葉が苦しい
お・は・よ・う
といっても微分の夢にうなされる

落ちこぼれの夢の暗渠の向こう
柔らかなことばのワレサが立っている
或る或る未明の空気の層から
暗いcryポーランドの国境線を越えて
柔らかな微分方程式の韻を
散布している
どこか どこか
焦れったい
微妙な解が
確かにあるような

ワカッテイルノハ
自分ガドウイウ生レダッタカ
忘レナイコト
私ガ匂イヲカギツケ
情況ヲ感ジ取リ
群集ガ沈黙シテイルトキ
沈黙ノ中デ言ッテイルコトヲ理解デキル
トイウコトダケダ
私ハ劣等感ナドモッテイナイ
RCサクセションがかき鳴らす
「つ・き・あ・い・た・い」の反語の海
に柔らかく浮上する
わたしは劣等感などもっていない
微妙だ
わたしのもどかしいことばの手を微妙に……
私ハウヌボレテナンカイナイ
私ハウンザリシテルンダ ダケド
モノゴトヲ急ニ変エルコトハデキナイ
焦ラズヤルコトガ必要ダゼ
べいびいー





 詩集 『言葉の青い影』の「あとがき」

 第四詩集である。前の詩集『ことばの青い影』を今年の四月に出した後に、書きついだ作品である。手が以前よりなめらかに動き出してきたことは確かである。これは何んだろうか。これは放し(註.「放恣」)というものとは微妙に異なるように思う。いままでの無意識の固いことばの手のようなものを外側から、そして内側から、どこか解除しているような自在さを感じている。例えば、言葉のあわいで、Aでもなく、¬A(註.Aでない)でもなく、なにか、Aでも¬A(註.Aでない)でもあり、なにかであるような言葉のようなもの、そのような言葉への通路のようなものをわたしのことばの手が感知しているみたいなのだ。まだまだ、「ような」がもどかしいが、である。
 吉本隆明は最近の自分の詩について、それはリハビリテーションであるというようなことを述べていた。わたしたちは、何からの、どのようなリハビリテーションであるのかを、それぞれ、自分のことばの手によって、開示する以外にない。それはまた、わたしたちの言葉は、現在という累層した言葉の風景の中で、言葉の大気の層の現在のようなものを、無意識に呼吸しているのだが、それをどのように、どのような言葉のエロスとして取り出せるかにかかっているように視える。ネガティブな死の病いのエロスとしてではなく、生きつづけようとする病いのエロスとして呼吸しつつ、どのようなエロスとして取り出せるかということである。
 現在の詩で、リハビリテーションの類を要しない詩はないように視える。言葉の時間の尺度の取り方か言葉の空間の泳法か、等等において問われているはずだ。
 初期の吉本は詩への批評の導入を主張していたことがあると記憶するが、現在、さらに、詩の言葉や批評の言葉へ分岐していく以前の言葉の時空の、歴史的な現在の舞台のようなところで、宇宙論でもあり、うたでもあり、詩でもあり、批評でもあるような、それらすべてでもなくすべてでもあるような、微妙な或る新たな言葉の境位へとことばの手を行使することはできないだろうか。
 それは比ゆ的に言えば、都市、農村、対立する都市・農村などの言葉を風呂敷で包み込みつつ、それに自覚的な、今だ名づけようのない或る言葉のようなもの。古里、ふるさと、故郷、フルサトなど死に至る病を終えつつある言葉をすべて包み込む風呂敷のことばのような或るもの。硬直した言葉の肉体と幻想とが、しなやかに折り合いをつけるように織りなしゆくことばの場所。かたい、やわらかい、あかるい、くらい、スマート、ぎこちないなどの言葉で全面対立することなく、世界を記述すること。……はできないか。
 (一八八四年 六月二十一日)










やっと探し出した吉本さんからのはがき


 わたしの若い頃、数冊目の詩集を自費出版し、吉本さんに寄贈したことがあります。確か、詩を書いている人では、わたしの敬愛する吉本さんと宮城賢さんに寄贈したと思います。後は知り合いに配り、ずいぶん余って、自費出版なんてするもんじゃないなと思いました。最近は、ネット空間での表現が本を出す代わりになり、この点では自費出版に関わるめんどうなことをしなくても済むいい時代になったなと思います。

 ところで、寄贈に対してお二人からはがきをもらいました。吉本さんからは、後に紹介するような言葉をもらい、『試行』64号に「連作抄」としてわたしの詩を何篇か掲載してもらいました。とてもうれしかったのを覚えています。

 宮城賢さんも吉本さんも亡くなってしまわれ、そのことはどうしようもないことですが、時折さびしい気持ちになることもあります。わたしには、古いギャグの「欧米か!」というような、積極的で恥というものを知らないかのようなグローバリストやエコノミストらと違って、この列島の古い遺伝子である控え目過ぎるところがあります。わたしの次の行動は、それに反するように見えるかもしれませんが、時には少し前に出てみたいと思います(笑い)。この場で吉本さんからもらったはがきを公開(見せびらかし)します。ご容赦を。

 この吉本さんからもらったはがきは、若い頃どこに仕舞ったか忘れて二回いろいろ探し回ったことを覚えています。見つかりませんでした。ま、いいかと諦めていました。その後引っ越しも数回しています。つい先日、わたしの奥さんから「あれはどうしたの」と言われ、この度三回目の大がかりな捜索を試みました。といっても、捜索範囲全体の五分の一くらいを終えたところで、ノート類に挟んでいたはがきをひょっこり発掘することができました。わたしは長らく雑誌『試行』を送ってもらった封筒にそのはがきを仕舞っていたと思っていましたが、記憶ちがいでした。記憶は当てにならないところがありますね。


 (吉本さんからのはがき)(1985年1月6日)
-------------------------------------------------------------------------  とうとうやったな、うらやましいなという感じで「言葉の青い影」を読みました。これは充分自己主張できる詩集ですので、それでいいとおもいますが、お希望でしたら、小生に自由に(抄出)と(行替え)をまかして下さるよう。次号に掲さいできると存じます。
 小生もリハビリテイションの末、小生なりにやったあ!ということにいつかしたいと存じております。
 はん有難う存じました。丁度欲しいときでした。吉本隆明拝
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※「はん」について。当時わたしは職場で、仕事が終わってから焼き物を習ってしていましたので、たぶん彫った陶印を詩集に同封したのかもしれません。下手な作りだったと思います。

※因みに、吉本さんはこの数年後、『記号の森の伝説歌』という詩集を出されています。

※わたしの『試行』に掲載してもらった詩は、このページの一番上にあります。
                         (2015年07月10日)


吉本さんからのはがき
 






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