詩集 あとがき


 同時進行で三つの詩集を編むのははじめてのことである。各詩集、第T篇を一区切りとして、電子版の詩集ではあるが印刷し五部ずつ作成する。インターネットの世界にあまり出入りしないか、全然出入りしない、ぜひ読んで欲しい人のためである。

 詩の言葉は、圧倒的な現在の、ちいさな場所から過去や未来の遙かな時間の彼方に放つ信号のようなものだろう。その信号は、それぞれ固有の色合いや肌合いを帯びているが、ある普遍のようなものも内包している。そして、その信号はまた、同じ現在を呼吸する人への信号でもある。届くかどうか、どのように届くかどうかは、わからない。

 詩集『ひらく童話詩』という言葉は、ふと思いついて、その後捨てようかとも思ったが、なんとなく捨てがたくそれにしてしまった。自分でも言いようのないイメージみたいなものを感じる。ただ、余り現在の詩は読まないが、現在の言葉や現在の詩の世界らしきもの(それはそれで秘かに紡ぎ続けられているのかもしれないが)を傍流から意識しての言葉ではあると感じている。

 いま、ここの、「わたし」の言葉が、たとえ人界の影が薄いとしても、人はそれぞれ個の必然のようなものに促されながら、この多層的な世界の渦中を歩む他ない。そして、人は自然史や人類史の積み重ねられてきたうねりの現在の渦中で、いま、ここの、ちいさな現在を生きる者ではある。わたしたちが、たとえ人の世界の連綿たるつながりに一存在としてつなぎとめられるものだとしても、わたしたちひとりひとりの、具体的ないまここの、ということがもし存在しないならば、世界は無に等しい。けれど、そのような仮定もまた無意味ではある。言葉という存在になってしまった人間が、もし言葉がなければと仮定するのが無意味なように。わたしたちのこの世界における存在の在り方は、いわば内在と外在とが織り成されるような在り方のように思われる。植物や動物のようにこの世界を内在的に呼吸しながら、同時にそのことに外在的なまなざしや触手を伸ばしていく、あるいは、内在的な流動に触れ、匂い、同調しようと試みる。言葉となった人間の存在の在り方というほかない。

 詩集『沈黙の在所』の12の詩と『ひらく童話詩』の22の詩は、作品として仕上げるまでに一年ほどかかってしまった。一年といっても、ときおり読み返しては、少し手を入れたりということだった。作品としてなかなかピリオドが打てる気がしなかった。表現、その有り様は、いつも「途上」だよ、という思いからとりあえずのピリオドを打った。

 詩を書くことは、わたしの場合、どこか気恥ずかしい。それがどこからくるのかよくわからないが、たぶん自分の沈黙の流動をかたち成すことによって他人の視線の届く場にさらけだすということからくるのかもしれない。しかし、そうだとしても、なにものかに向けて、言葉というものを行使し続けるのも人の宿運であると思われる。

 わたしたちは言葉を行使する。不明のことがたくさんありすぎるように思われるが、不明自体を言葉は日々生きていることも確かなことだ。詩の言葉を書き進めていて、ふと立ち止まって気づくことがある。ああ、これは先行する人が述べていた気づきや着想だなと思われる。わたしたちは、それぞれ気づかないところで、先人たちの意図せぬ「おくりもの」と出会うことがある。そして、自分なりに織り成し、自分なりの色に染め上げてゆく。うまく自分の言葉を行使できたかどうかは心許ないが、このようなわたしの言葉も、いま、ここの、年を重ねてしまったわたしと積み重ねられてきた現在のうねりが促しているのだと思われる。

 ところで、この詩集群は、このたびの大震災と原発の大事故をまたいで書き継がれている。2011年3月11日が、現実とイメージの二重性によって怒濤の勢いで押し寄せ、引きはがし、押し流して、露出した言葉の風景の渦中で、あるいは、大きく壊れてしまった、あるいはとうに壊れていた、この列島という世界の渦中で、わたしの言葉も、ほんとうに生きて在るか、という問いも、詩の言葉のあわいに込められているはずである。

   (2011年7月2日)



  三つの詩集の発行日 2011年12月21日







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