消費を控える活動の記録・その後 1 (2015.1~5)








 目  次 (臨時ブログ「回覧板」より)


        回覧板他    日付
1  人のこの世界でのあり方についての考察 2015年01月02日
参考資料―日本とは何か、日本人とは何か、柳田国男・折口信夫に触れて 2015年01月09日
3  詩の技法「繰り返し」についての小考察 2015年01月18日 
現在という世界についての考察
     ―テレビドラマから、監視・作為・陰謀に囲まれた世界 
2015年01月22日 
日々いろいろ―さつまいもの話から  2015年01月24日  
日々いろいろ―宝くじの話から 2015年01月30日 
7  「曾野綾子問題」からの感想―世界の収縮と高密度化  2015年02月15日 
8  空想ということ、同 補遺 2015年02月21日 
9  わたしの空想 1・2 2015年02月27日 
10 日々いろいろ(日々の感想) 2015年02月28日  
11 日々いろいろ―ツイッター体験から  2015年03月07日 
12 日々いろいろ―「文系理系」ということから  2015年03月10日  
13 日々いろいろ―ツイッター体験から 2   2015年03月12日   
14  『若者は本当に右傾化しているのか』(古谷経衡 2014年)を読む  2015年03月12日  
15 『ドミトリーともきんす』(高野文子 2014年)から  2015年03月18日 
16  覚書2015.3.27
 ― 人の生み出す思想や社会的に共有される思想や理念の推移について 
2015年03月27日  
17  二つの視線から 2015年03月28日 
18 表現の現在―ささいに見える問題から ①  2015年04月01日 
19 覚書2015.4.4 ― 思想や理念の生き死にということ  2015年04月04日  
20 ツイッターについて 2015年04月08日  
21  人間生(人として生きる)について  2015年04月22日  
22 日々いろいろ―タケノコごはんから 2015年04月26日 
23 参考資料―考える吉本さん①、②
 (「どう生きる?これからの10年」吉本隆明インタビューより ) 
2015年05月05日 
24  日々いろいろ―「お鷹ポッポ」から  2015年05月09日 
25  日々いろいろ―「お鷹ポッポ」から・続  2015年05月24日  
26 日々いろいろ―農事メモ2015.5  2015年05月25日 
27 日々いろいろ―ネット接続・プロバイダー変更から  2015年05月27日 






        ツイッター詩     日付
ツイッター詩1 2015年01月02日
ツイッター詩2 2015年01月03日
3  ツイッター詩3 2015年01月03日
ツイッター詩4 2015年01月04日
5  ツイッター詩5 2015年01月05日 
6  ツイッター詩6 2015年01月07日  
7  ツイッター詩7 2015年01月08日 
8  ツイッター詩8 2015年01月08日 
9  ツイッター詩9 2015年01月09日  
10  ツイッター詩10  2015年01月09日   
11  ツイッター詩11 2015年01月10日  
12  ツイッター詩12 2015年01月11日 
13  ツイッター詩13  2015年01月11日 
14  ツイッター詩14  2015年01月12日  
15  ツイッター詩15  2015年01月13日 
16  ツイッター詩16  2015年01月15日 
17  ツイッター詩17   2015年01月15日 
18  ツイッター詩18  2015年01月15日 
19  ツイッター詩19 2015年01月16日 
20 ツイッター詩20 2015年01月16日 
21  ツイッター詩21 2015年01月17日 
22  ツイッター詩22 2015年01月17日 
23  ツイッター詩23  2015年01月18日 
24  ツイッター詩24  2015年01月19日 
25  ツイッター詩25  2015年01月27日  
26  ツイッター詩26 2015年01月27日  
27  ツイッター詩27 2015年01月31日 
28  ツイッター詩28 2015年01月31日 
29  ツイッター詩29 2015年02月01日 
30  ツイッター詩31 2015年02月01日 
31  ツイッター詩31 2015年02月04日  
32  ツイッター詩32 2015年02月10日 
33  ツイッター詩33 2015年03月04日  
34  ツイッター詩34 2015年03月04日   
35  ツイッター詩35  2015年03月07日  
36  ツイッター詩36   2015年05月03日 






        短歌味体(みたい)な Ⅰ     日付
短歌味体な 1-8 2015年02月02日
2  短歌味体な 9-11、戯れ体  2015年02月03日 
3  短歌味体な 12-14 2015年02月03日  
短歌味体な 15-17  2015年02月04日   
5  短歌味体な 18-20 2015年02月05日   
短歌味体な 21-23  2015年02月06日
短歌味体な 24-26 2015年02月07日 
短歌味体な 27-29 2015年02月07日  
9  短歌味体な 30-32  2015年02月08日  
10 短歌味体な 33-35 2015年02月08日   
11 短歌味体な 36-38  2015年02月09日 
12  短歌味体な 39-41 2015年02月10日  
13 短歌味体な 42-47  2015年02月11日
14  短歌味体な 48-53 2015年02月12日 
15  短歌味体な 54-56  2015年02月13日
16  短歌味体な 57-61  2015年02月13日 
17 短歌味体な 62-64 2015年02月14日 
18 短歌味体な 65-67 2015年02月15日 
19 短歌味体な 68-70  2015年02月16日  
20 短歌味体な 71-73  2015年02月17日  
21  短歌味体な 74-76 2015年02月18日  
22 短歌味体な 77-79  2015年02月19日   
23  短歌味体な 80-82 2015年02月19日 
24  短歌味体な 83-85  2015年02月20日 
25  短歌味体な 86-88  2015年02月21日 
26  短歌味体な 89-91   2015年02月21日  
27  短歌味体な 92-94   2015年02月22日  
28  短歌味体な 95-97  2015年02月23日 
29 短歌味体な 98-100   2015年02月24日 
30  [短歌味体な]100首に及んで  2015年02月24日  
         短歌味体(みたい)な Ⅱ
     □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、 ★:起源論
     日付
31  短歌味体な Ⅱ 1  2015年02月24日 
32 短歌味体な Ⅱ 2-5 ▲▲▲▲ 2015年02月26日 
33  短歌味体な Ⅱ 6-7 □□ 2015年02月27日  
34  短歌味体な Ⅱ 8-10□□□  2015年02月28日  
34 短歌味体な Ⅱ 11-12□□ 2015年03月01日 
35  短歌味体な Ⅱ 13-15●●● 2015年03月02日 
36  短歌味体な Ⅱ 16-19 椿シリーズ 2015年03月03日 
37 短歌味体な Ⅱ 20-21 目覚めシリーズ  2015年03月04日  
38  短歌味体な Ⅱ 22-23▲▲ 2015年03月05日 
39  短歌味体な Ⅱ 24-25▲ 2015年03月06日  
40  短歌味体な Ⅱ 26-27□□  2015年03月07日   
41 短歌味体な Ⅱ 28-32 ▲▲□□□ 2015年03月09日  
42  短歌味体な Ⅱ 33-37▲▲▲▲▲  2015年03月10日 
43 短歌味体な Ⅱ 38-40  あそびシリーズ 2015年03月11日  
44  短歌味体な Ⅱ 41-43●●● 2015年03月12日   
45 短歌味体な Ⅱ 44-48●●●▲▲   2015年03月13日   
46  短歌味体な Ⅱ 49-51▲▲▲ 2015年03月14日  
47  短歌味体な Ⅱ 52-54▲▲▲ 2015年03月15日  
48  短歌味体な Ⅱ 55-57▲▲▲ 2015年03月16日 
49 短歌味体な Ⅱ 58-61▲▲▲▲ 2015年03月17日 
50  短歌味体な Ⅱ 62-64□□□ 2015年03月18日  
51  短歌味体な Ⅱ 65-67▲▲▲  2015年03月19日   
52 短歌味体な Ⅱ 68-70▲▲ 2015年03月20日   
53 短歌味体な Ⅱ 71-73□□□   2015年03月21日 
54  短歌味体な Ⅱ 74-76▲▲▲    2015年03月22日  
55  短歌味体な Ⅱ 77-79▲▲▲     2015年03月23日   
56  短歌味体な Ⅱ 80-82▲▲▲  2015年03月24日 
57 短歌味体な Ⅱ 83-84□□      2015年03月24日 
58  短歌味体な Ⅱ 85-87□□□   2015年03月25日 
59  短歌味体な Ⅱ 88 2015年03月26日  
60  短歌味体な Ⅱ 89  2015年03月27日  
61  短歌味体な Ⅱ 90▲   2015年03月28日   
62  短歌味体な Ⅱ 91-94▲▲▲▲     2015年03月29日  
63  短歌味体な Ⅱ 95-97□□□ 2015年03月30日 
64  短歌味体な Ⅱ 98-100▲▲▲   2015年03月31日 
65 短歌味体な Ⅱ 101-103□□□  2015年04月01日 
66  短歌味体な Ⅱ 104  2015年04月02日 
67  短歌味体な Ⅱ 105-107▲▲▲ 2015年04月03日 
68  短歌味体な Ⅱ 108  2015年04月04日  
69  短歌味体な Ⅱ 109-110□□  2015年04月05日 
70 短歌味体な Ⅱ 111-112▲▲ 2015年04月06日  
71  短歌味体な Ⅱ 113-114▲▲  2015年04月07日   
72  短歌味体な Ⅱ 115-116□●   2015年04月08日    
73   短歌味体な Ⅱ 117▲   2015年04月09日   
74  短歌味体な Ⅱ 118  2015年04月10日 
75  短歌味体な Ⅱ 119-120  2015年04月11日  
76  短歌味体な Ⅱ 121▲  2015年04月12日
77  短歌味体な Ⅱ 122-123▲▲   2015年04月13日 
78 短歌味体な Ⅱ 124-125▲▲    2015年04月14日 
79  短歌味体な Ⅱ 126-128 方言シリーズ  2015年04月15日 
80  短歌味体な Ⅱ 129-131●●●  2015年04月16日 
81  短歌味体な Ⅱ 132-134●●●  2015年04月17日  
82  短歌味体な Ⅱ 135-136□□ 2015年04月18日   
83  短歌味体な Ⅱ 137-140 歴史的追体験シリーズ  2015年04月19日  
84  短歌味体な Ⅱ 141-142▲▲     2015年04月20日 
85  短歌味体な Ⅱ 143-144▲▲     2015年04月21日 
86  短歌味体な Ⅱ 145-146▲▲  2015年04月22日 
87 短歌味体な Ⅱ 147-150 現在(いま)シリーズ   2015年04月22日 
88  短歌味体な Ⅱ 151-153 数学シリーズ  2015年04月23日 
89  短歌味体な Ⅱ 154-156▲▲▲   2015年04月24日
90  短歌味体な Ⅱ 157-159 ええっとシリーズ  2015年04月25日 
91 短歌味体な Ⅱ 160-162▲▲▲    2015年04月26日 
92  短歌味体な Ⅱ 163-165●□□  2015年04月27日  
93  短歌味体な Ⅱ 166-168★★★ 2015年04月28日 
94 短歌味体な Ⅱ 169-171 リズムシリーズ 2015年04月29日  
95  短歌味体な Ⅱ 172-175★★★★  2015年04月30日 
96 短歌味体な Ⅱ 176-177★★   2015年05月01日  
97  短歌味体な Ⅱ 178-179★★  2015年05月02日 
98 短歌味体な Ⅱ 180-182▲▲▲   2015年05月03日  
99  短歌味体な Ⅱ 183-186▲▲▲▲  2015年05月04日   
100  短歌味体な Ⅱ 187-190 みどりシリーズ  2015年05月05日  
101 短歌味体な Ⅱ 191-193 みどりシリーズ・続   2015年05月06日   
102  短歌味体な Ⅱ 194-196 みどりシリーズ・続    2015年05月07日 
103  短歌味体な Ⅱ 197-200★□● 2015年05月08日 
104  短歌味体な Ⅱ 201-204 ちょっと試みシリーズ  2015年05月09日 
105 短歌味体な Ⅱ 205-209 ちょっと試みシリーズ・続   2015年05月10日  
106 短歌味体な Ⅱ 210-213 物語シリーズ    2015年05月11日  
107  短歌味体な Ⅱ 214-216 物語シリーズ・続     2015年05月12日 
108 短歌味体な Ⅱ 217-218 物語シリーズ・続  2015年05月13日  
109  短歌味体な Ⅱ 219-222 ちょっと試みシリーズ・続  2015年05月14日   
110  短歌味体な Ⅱ 223-226 □●★▲ 2015年05月15日  
111  短歌味体な Ⅱ 227-230 □●★▲  2015年05月16日   
112  短歌味体な Ⅱ 231-233 ちょっと試みシリーズ・続    2015年05月17日   
113 短歌味体な Ⅱ 234-236 ちょっと試みシリーズ・続     2015年05月18日  
114  短歌味体な Ⅱ 237-240 □●▲★   2015年05月19日   
115  短歌味体な Ⅱ 241-243 ちょっと試みシリーズ・続    2015年05月20日   
116  短歌味体な Ⅱ 244-247 □●▲★    2015年05月21日   
117  短歌味体な Ⅱ 248-249 ちょっと試みシリーズ・続     2015年05月22日 
118  短歌味体な Ⅱ 250-252 ちょっと試みシリーズ・続   2015年05月23日  
119  短歌味体な Ⅱ 253-256 □●▲★     2015年05月24日  
120  短歌味体な Ⅱ 257-259 イメージシリーズ   2015年05月25日  
121 短歌味体な Ⅱ 260-262 イメージシリーズ・続  2015年05月26日 
122  短歌味体な Ⅱ 263 イメージシリーズ・続   2015年05月27日 
123  短歌味体な Ⅱ 264 ちょっと試みシリーズ・続     2015年05月28日  
124  短歌味体な Ⅱ 266-268 イメージシリーズ・続   2015年05月29日   
125  短歌味体な Ⅱ 269-270 イメージシリーズ・続   2015年05月30日 
126 短歌味体な Ⅱ 271 イメージシリーズ・続 、272 速度論シリーズ 2015年05月31日  

































回覧板




 

人のこの世界でのあり方についての考察


①人は誰でも、ある家族の下へ誕生することによってこの世界へ立ち現れ、育ち育てられ独り立ちして、そしてこの世界から去って行く。この両端の誕生と死は、自力だけではままならないものである。この生誕から死に渡る移りゆきは、植物や動物のあり方とも共通しているように見える。しかし人間の場合、それらの中間地帯では、自分の周りに凝集する人間界の現在が、圧倒的なものと見なされる。あくせく自力を行使せざるを得ない。

②昔、効率的な大学受験指導のためカリキュラムの違法な差し替え問題で高校の校長が自殺するということがあった。これに類することはおそらく枚挙に暇(いとま)がないと思われる。そんなに心が追い詰められていたら、辞めちゃえばいいじゃないかと端から思っても、当事者はあくせく自力を行使せざるを得ないのである。観客である外からの視線と当事者である内側の視線では、おそらく見える風景やものごとの軽重が違っているのである。

③このように青年から老年に渡る人生の「中間地帯」では、上のような問題性に限らず、無意識的にも意識的にも、わたしたちは日々の生活を普通のものあるいは至上のものと見なしている。つまり、人間界の家族や仕事での人間的な関わり合う世界に自力の力こぶを入れて日々思い悩み苦しみ喜び楽しみ生きている。

④もちろん、そんな大多数の主流からはずれていく小さな支流もあるかもしれない。しかし、例えば仏教のように、人のこの世でのこのようなあり方に俯瞰(ふかん)する上の方からの視線を加えるとき、「大多数の主流からはずれていく小さな支流」のように、わたしたちの日々の生活が浮力を持たされるのを感じる。つまり、自分のこの世でのあり方を内省している自分がいる。

⑤おそらくこれは、人間界のわたしたちの現在に凝集(ぎょうしゅう)している、わたしたちの割と無意識的な生き方に、人間界を超えた大いなる自然(この宇宙)との関わり合いを感じさせるからだと思う。わたしたちは、葬式などの他人の死や災害などの大きな出来事の時、ふとぼんやりとそんな大いなる自然との関わり合いにこころ触れている。このようなことは、誰もが体験しているはずである。

⑥人のこの世界との関わり合いは、人間界のわたしの現在に凝集するような生き方に関わるものがすべてではない。人の歴史が、まず大いなる自然との関わり合いから始まり、次第にセイフティネットとしての人間界を築き上げてきたように、かけるウェイトの違いはあっても、人は「大いなる自然」や「人間界」との重層する関係を生きている。

  (註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正)








参考資料―日本とは何か、日本人とは何か、柳田国男・折口信夫に触れて


吉本 ただ、ぼくの関心に即していいますと、柳田国男でも折口信夫でも、ほんとうはちゃんとやっていると思うんです。日本での歴史性あるいは時間性をどうとらえるかといえば、いちおうは、大和朝廷の勢力が統一国家を形成した以降のせいぜい千数百年の歴史があるわけです。歴史学の叙述のイントロダクションは、いつもそこから始まっていて、それ以前のことは、何か考古学みたいになっちゃうのが常道です。そこでいきおい天皇制が大きなウェイトを持って出てきちゃう。そんなふうに限定し、区切る限りは、それがあると思うんです。折口さんも柳田さんも礼儀正しい人ですから、あからさまに言わないけど、日本の歴史性あるいは時間性をせいぜい千数百年以前、大和朝廷という統一国家を形成した時間性で考えることを本音のところでいえば、あまり問題にしていなかったと思うんです。それを、あからさまには言わないですが、よくよくあたっていけば、ああこの人たちはどのくらいの時間を想定して日本の民族とか文化とか詩とか、あるいは歴史とかを考えているかということは、何となく見当がつきます。それは少なくとも統一国家が形成された以降の千数百年にはあまり重きを置いていないということだけは、確実なように思えるんです。ぼくなんかはいわゆる戦中派ですから、戦争中そういう考え方にとても影響を受けたり悩まされたりしたことを含めて、大和朝廷が統一国家を形成したことは、あまり日本の文化そのものを論じる場合に、結節点とするほどの重要さはないはずだという観点が、どうしても出てくると思います。それが、時間性あるいは歴史性というものを考える場合の観点ですね。その観点は、ぼくの独創でも何でもないと思います。それは、折口信夫とか柳田国男を読んで学んだ要素に負うところがたくさんあります。
 なぜそう思ったかといえば、それでさんざん悩まされたんで、それでいく限りは三島由紀夫さんのような美的価値観にいくよりしかたがない必然性みたいなものがあります。どうもそれはちがうんだということで、いまみたいに考えるようになったと思います。それを、見つけようとした場合、沖縄に変形を受けないで保存されているものが、大きな要素になってくると思えたんです。

(「わが思索のあと」P153-P154 吉本隆明・小潟昭夫対談1974年
 『吉本隆明全対談集3』青土社)


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 (わたしの註)

 わたしは、折口信夫に関しては少ししか知りません。柳田国男の書き残したものはずいぶん読みたどってきていますし、今も少しずつ読んでいます。したがって、もうずいぶん柳田の文体(個の固有性を持つ言葉の織りなし方)には慣れ親しんでいます。したがって、吉本さんがここで語っていることについては、わたしもそう思います。つまり、天皇や国家と共に始まる古代の歴史以前にも連綿としたこの列島の住民たちの歴史があるということ、柳田国男は民俗学において古代以前にもさかのぼっていますし、またほんとうは一国の民俗学を超えて世界へと橋渡しをしていく構想を時折書き留めています。しかし、柳田国男も述べていましたが、一人の生涯にできることは限られています。この列島の住民たちの精神史をたどるだけでも大変な仕事です。柳田国男は途方もない調査と比較・総合を繰り返しながら、日本人の精神史の古い層へ段階的に降りていくイメージの形成をなし遂げようとしています。正しく苦闘の足跡を記しています。

 ところで、生命や宇宙の起源に関する研究は、次第に起源の方に近づいていきます。それと同じく、文明や文化を生み出してきた人間の精神史もだんだん起源の方に近づいていきます。考古学的な遺跡や文物など、もはや遺されたものが限られてきてもうこれ以上人類の足跡を探査することは不可能ではないかと見えても、遺伝子レベルでの遺された人類の足跡の探査ができるようになってきています。したがって、近代では日本の伝統文化として奈良や平安時代などの美的なものに収束しがちでしたが、現在ではそれらを突き抜けて、古代以前にまでさかのぼって日本人や日本語とは何かが問われています。このことを従来的な捉え方の日本文化や伝統や日本人ということにクロスさせれば、漢字から万葉仮名や平仮名へや律令制の導入など、外来のものを割と積極的に導入し、それに独自の改良を加え、自分たちの世界に接ぎ木する、その接ぎ木された結果ではなく、その真似上手な接ぎ木するこの列島の住民たちの意識の有り様こそが問われなくてはならないという段階に現在は到っています。

 その奈良や平安時代の「接ぎ木された結果」に日本の伝統や文化や美を見てきたのが近代だとすれば、現在はそれよりもっと根深いところが問われるようになってきています。人類は、歴史の進展とともに過去に向かってもより深く捉え返すようになってくるからです。柳田国男もまた、過去を深く捉え日本人の精神史を明らかにしていくことは、同時にわたしたちの未来の有り様を考えることと同じである、とどこかで述べていました。

 現在でも、雑誌やテレビなどが日本の伝統文化として奈良や京都の文物を取り上げることがあります。別に個々人の趣味や好みをどうこういうつもりはありませんが、「日本人とは何か」「日本人の精神史とは何か」「日本語とは何か」というテーマから見て、もはやそのような一時期のものに本質を求めようとすることは終わっていると考えざるを得ません。つまり、グローバル化ということが浮上してきている中で、縄文弥生や奈良や平安や鎌倉江戸などの文化の有り様を生み出してきた日本人の心性の根っこの部分が問われ始めているということです。その兆候の一つとして、おそらく現在のわたしたちは、心のどこかで「なんか世の中が従来とは違ってきているようだ」という大きな変わり目の感覚を抱いているのではないかと思っています。このことは、もちろん世代によって違ってきます。若い世代は、割と自然なものとして現在を受けとめているからです。また、海外で企業などで仕事してている人々は、異文化や異慣習がぶつかり合う中、おそらく切実に日本人としての根っこの部分を反芻させられ、考えさせられているのではないかと想像します。

 わたしたちは日々あわただしい生活を繰り返しています。しかし、現在中心のその中にも奈良や平安というよりもっと数万年前というような、この列島の住民の「起源性」(ものごとのはじまり)から受け継いで来ている精神の遺伝的なものがあります。つまり、現在の感覚や考え方の中にとても古いものが混じり合って、いくつかの層を成しています。吉本さんは、現在の私たちにまで遺されているそのようなとても古い部分を「アジア的な段階」以前の「アフリカ的段階」のものと見なしました。そのような部分にわたしたちは普通は割と無自覚ですが、おそらく欧米などの外国人の目を通すと浮かび上がってきやすいと思われます。

 グローバル化という言葉が、自然なものとなりつつある現在では、世界の各地域の固有の文化や精神史の根深さを踏まえながら、各地域がお互いにどのような付き合い方をしていくのかが、政治・経済・文化などあらゆる面で問われています。つまり、自分の地域の固有性を抱えながら、グローバル化する世界に自分を開いていくということです。例えばイギリスやフランスなどもいろんな人種の人々が混じり合っています。したがって、その過程では、宗教問題から社会問題までさまざまな軋轢(あつれき)や困難な課題に直面しているし、していくでしょう。地域間、人間間の対等な付き合い方や互助という理想の基本線ははっきりしていても、それを実現していくことは大変なことだろうと思われます。しかし、それらが乗り越えられるべき課題としてわたしたちの前に横たわっているのは確かなことです。








 詩の技法「繰り返し」についての小考察


20代の終わり、結婚して子どもができたころ「くりかえす」という詩を書いた。〈くりかえしてこんなにもくりかえしくりかえして…〉と続いていくのだが、毎日の暮らしの繰り返しに飽きるのが、まだ新鮮だったころの作かと思う。

詩にも繰り返し(リフレイン)という技法があるけれど、繰り返すことには意味を強調すると同時に、言葉を音楽化する働きがあるから、あまりたくさん使うとかえって意味が薄まってしまう。その点音楽はうらやましい。〈変奏〉という技法で、繰り返しながら主題を発展させることが出来るのだから。

長いあいだ書く仕事、話す仕事を続けていると、自分を繰り返しているんじゃないかと不安になる。何度繰り返しても、自然はいつも新しい。言葉を自然の次元で発することが出来たらというのが、ぼくの見果てぬ夢。(俊)
(「繰り返す」2015年1月14日 谷川俊太郎*comより )


①谷川俊太郎は、「詩にも繰り返しという技法(リフレイン)があるけれど、繰り返すことには意味を強調すると同時に、言葉を音楽化する働きがあるから、あまりたくさん使うとかえって意味が薄まってしまう。」と述べている。わたしも詩で「繰り返し」を使ったばかりだから、意識の目に留まった。異論ではないが、自分なりに捉え返してみたい。
 
②詩で「繰り返し」の技法が選択される時、何かを、どこかを指し示そうとする指示性が強化されている(意味の強調)。逆に作者側から見れば、表現する意識の、そこに向かおうという意識の志向性が強度を増していることになる。一方、繰り返しは、起伏を持ちながら展開していくということに反する単調さも併せ持つから、平板な指示性である意味の強調に陥りやすい。読者の側からすれば、そのことは作品を味わうという旅路の感慨を白けさせることにもなり得る。

③繰り返しは、……タッ…タッ…タッタタ………タッ…タッ…タッタタ…のようにあるリズムを生み出す「音楽化する働き」と言えるかもしれないが、「意味が薄まってしまう」のではなく、平板な意味の強調になり、表現する意識の、そこに向かおうという意識の志向性の強度にともなう生命感の充溢(じゅういつ)が停滞的なものになりやすいということではないだろうか。

④長い詩の経験から来る谷川俊太郎の言葉、「意味が薄まってしまう」は、おそらく含みをもたされたもので、わたしの考える「生命感の充溢が停滞的なものになりやすい」ということと同じ地点の同じ様相を指しているのかもしれない。

 「繰り返し」という詩の技法は、遙か昔から使われている。ここではあげないけれど、万葉集以前の記紀歌謡には繰り返し表現がよく使われている。ほんとは上のわたしの考えは、そのような過去の表現と結びつけないといけないと思われるが、ここでは小考察に留めて置きたい。
(註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正)
 








 現在という世界についての考察

          ―テレビドラマから、監視・作為・陰謀に囲まれた世界


 ①わたしはずっと昔は、アメリカの西部劇が好きでした。日本のドラマはほとんど観ないのですが、ケーブルテレビに加入しているのでアメリカの現在のドラマはよく観ています。今は『フォーリングスカイズ』『ブラックリスト』『フリンジ』『パーソン・オブ・インタレスト』などを観ています。いずれも娯楽番組です。

②アメリカの現在のテレビドラマ『フリンジ』の現代性と西部劇の牧歌性を以前、比較して考えたことがあります。ドラマという架空の表現ですが、そこには明らかに時代性というものが無意識的あるいは自然な感じで刻印されています。そして、その両者の表現の間には、めまいを感じるほどの世界の落差や変貌が横たわっています。

③そのめまいは、先進地域であればどの地域を持ってきても感じられることだと思えます。現代のフランスやイギリスのドラマは数えるほどしか観たことはありませんが、それぞれなんとも言えない味わいや違いがあります。あんまり面白くは感じません。それらはアメリカ映画とも異質です。

④娯楽中心のアメリカ映画といっても、そこにも裏切りや憎しみや家族愛や友情や親愛の情など当然人と人とが関わり合う世界で起こるだろう人間的な光景も十分に描かれています。ただその描く角度やリズムや湿度や陰影などがフランスやイギリスなどとは異なっています。また、娯楽がメインになっています。

⑤しかし、そのような地域性の違いはあっても、先に感じためまいのような世界の変貌の表現としてのある共通性を取り出すことはできそうに思われます。それを簡単に言えば、西部劇の牧歌性に対して、現在ではまずあらゆる道路は舗装され都市的な複雑な景観になってしまっていること、そしてそこで人間たちは監視や作為や陰謀に囲まれた世界に存在しているということです。あるいは、逆の言い方をするとそのように見なすほかないような複雑で多層的な世界にわたしたちは存在しているということです。

⑥そして、どこから来るかよくわからないそれらの監視や作為や陰謀との関わり合いを人は避けることができない状況になっています。アメリカの娯楽映画は、そのようなことを背景としてスピード感や迫力を伴いながら観客にジェットコースター体験のようなはらはらどきどきを味わわせる作品が多いです。

⑦もうひとつの特徴は、大都市の建築群のように監視や作為や陰謀に象徴される複雑に入り組んだ社会ということと関連していますが、他人もそして自分自身もまたよくわからない複雑系の存在であるという認識があるように見えます。親しい者でもいつ豹変して自分を裏切るかもしれないという風に描かれたりしています。膨れあがった都市的な環境やそのシステムが、反作用のように人間の内面にもたらしてきたものと思われます。

 これらの現在のテレビドラマたちは、現在を生きる作者たちが生み出した架空の表現であるわけですが、あきらかに現在の複雑に膨れあがり絶えず増殖し続けている、しかも閉塞感を伴った人間社会の写像的な表現になっています。

⑧以上を枕に、わたしの取り上げてみたいのは次のことです。ツイッターで、出会いました。

NHK大河『花燃ゆ』 大コケの背景に作品巡る政治的配慮あり│NEWSポストセブン


(その本文)

 NHK大河『花燃ゆ』 大コケの背景に作品巡る政治的配慮あり


NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』が視聴率歴代ワースト3位という不名誉な記録とともにスタートした。大コケの背景には作品を巡る”政治的配慮”があると指摘するのは、本作決定時からその経緯に疑問を呈してきたジャーナリストの鵜飼克郎氏である。籾井勝人会長のもと、安倍ポチ路線を突き進むNHKに公共放送を名乗る資格はあるのか。

 * * *
 幕末の長州藩士で維新志士の理論的指導者であった吉田松陰の妹・杉文の生涯を描く新大河ドラマ『花燃ゆ』が出鼻をくじかれた。
 
 1月4日放送の初回視聴率は関東地区で16.7%。1989年の『春日局』(初回14.3%)、1977年の『花神』(同16.5%)に次ぐ史上3番目の低さとなり、第2回も視聴率13.4%とまったく振るわなかった。
 
 井上真央演じる主人公・文は松陰の末妹で、松下村塾の塾生である久坂玄瑞と結婚した女性だ。久坂の死後、群馬県令を後に務める楫取素彦と再婚したが、歴史上の人物としては無名で、作品化されたことはほとんどない。当然ながら人気作家による原作もなく、オリジナル脚本で制作される。視聴率を稼ぐには不利な条件ばかりが揃っていた。
 
 関係者の間では、そんな大コケ濃厚の大河ドラマが制作された背景に「NHKの安倍政権への阿りがある」と当初からいわれていた。安倍首相の地元・山口が大河の舞台となるよう無理に決まった作品だという“疑惑”である。
 
 制作発表までの経緯は異例続きだった。まず目に付くのが、制作発表の「遅れ」だ。通常、大河ドラマは放送開始2年前の5~8月に発表される。
 
 たとえば来年放送予定の戦国武将・真田幸村の生涯を描く『真田丸』の制作発表は昨年5月12日に行なわれた。2012年放送の『平清盛』が2010年8月4日、2013年放送の『八重の桜』は2011年6月22日に発表されている。「キャスト調整に手間取って発表が遅れた」(NHK関係者)とされる昨年放送の『軍師官兵衛』は、発表が2012年10月10日にずれ込んだが、これでも異例の遅さである。

 それに対し、『花燃ゆ』の制作発表はさらに遅く2013年12月3日だった。他の年より数か月~半年も遅れたのはなぜなのか。
 
 筆者が『花燃ゆ』制作発表直後(2013年12月)に舞台となる山口県萩市を取材すると、さらに奇妙な経緯が浮き彫りになった。当時、萩市の商工観光部観光課課長はこう証言した。
 
「NHKのチーフ・プロデューサーがこちらに来たのは9月のことです。脚本家2人を連れて、『山口県に何か大河ドラマの題材がありませんか』などと聞かれ、市内の案内も頼まれました」
 
 例年なら制作発表が終わっている時期にもかかわらず、題材も主人公も未定。しかも舞台となる「場所」だけが決まっていたような言い方だ。
 
「最初男性の主人公候補を提案したが、NHK側からは『女性で誰かいないか』といわれ、伊藤博文夫人などの話をしました。その後、10月になって『吉田松陰ではどうか』と聞かれ、妻や3人の妹について説明した。『女性でいろいろ面白い話がありますね』という反応でしたね。まさか2015年の放送とは思わず、もっと先の大河のリサーチかと思っていました」(同前)
 
 2009年放送『天地人』のチーフ・プロデューサーは雑誌インタビューに〈2006年あたりからこの大河ドラマ48作目の題材を考えはじめていたのですが、当初、局内で「直江兼続でいきたい」と話したとき、みんな知らないわけですよ〉(『時代劇マガジン』2009年1月号)と答えていることからもわかるように、放送の数年前から作品の構想が立てられることも通例で、「主人公を誰にするか」は最重要視されるといわれてきた。

「舞台は山口県であること」が重視された形跡がある『花燃ゆ』は不自然きわまりない。それも、安倍政権発足直後に決まった方針と推測され、それ以外に「山口」である必要性は見当たらないのである。

 (取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト) ※週刊ポスト2015年1月30日号)



⑨わたしは観ませんが今回のNHK大河ドラマが不人気みたいだという情報には少し前に出会っていました。記事に確からしく思われる面も感じますが、あくまで「陰謀」や「作為性」が推測的に読みとられています。どんな事柄でも裁判のように最低でも対立的な二色に分離することができます。当事者本人がいかに抗弁しても、「事実」はいかようにも解釈されることが可能であり、それらをつなぎ合わせて様々な物語を構成することができます。残念ながら、相変わらずのこうした状況が現在の段階です。
 
 こうした「事実」を元に様々な「物語」が、主要にマスコミを通して芸能人や政治家などの有名人の行動を素材にして日々生み出されています。わたしはこの件についてもそうですが、一般にそうした自分が直接に見聞きしていない「物語」については、ふうーん、ということで反応しています。つまり、積極的な興味関心が持てませんし、一種判断保留の中立的な感情の状態です。
 
 しかし、現在はソフトで巧妙な誘惑の広告表現から「オレオレ詐欺」にいたるまで、そのような「物語」に充ち満ちています。明確な詐欺でないかぎり、そのことをわたしたちは割と自然なものとして受け入れています。そして一方で、現在の社会では自分が直接見聞きしたことがないのに、科学的発見や統計データや事故の事実などそのことを借用して、つまり間接性を仲立ちにして語らざるを得ないことが増大してきています。その中には、残念ながら意図しない虚偽も意図的な虚偽も混じっています。したがって、わたしたちはとても慎重にならざるを得ません。

⑩たとえ明らかにするのが難しいとしても、人があることをしたかしてないかという行動の事実ははっきりしているはずです。しかし、その行動の事実の内面的な揺らぎの過程を明らかにすることはとても難しいことです。また、ある問題に対してどちらが悪いかという場合も、それは人と人との関わり合いの結果でもありますから、人間の特に個の行動では二色にすっきりと分けることができないのが普通です。そして、そんな複雑さに対する微妙な肌合いの感覚(自覚)を大切にしながら、複雑な関わり合いには入り込まなければいいのですが、どうしても避けられない場合が誰にでもあり得ます。
 
⑪避けられない場合には、ありきたりですが個や集団の有り様に対するクールな俯瞰的(ふかんてき)な認識の目を働かせながら、流れて来る伝聞や噂ではなく現場に居る自分の目を同時に行使し続けるしかないように思われます。そんなどこからか繰り出されてくる監視や作為や陰謀が加味された間接的なもの(情報)に囲まれて、やや窮屈で複雑系の世界にわたしたちは日々生きています。
 
⑫付け加えると、のん気なわたしは、そんなこと考えたこともなかったのに、東日本大震災と原発の大事故の後、主に原発を巡ってこの列島に張り巡らされていた「陰謀」や「作為性」が大衆的な規模で露わにされました。それらを張り巡らすことに加担してきた官僚層から政治層そして学者たちやマスコミは、日に照らされたモグラのように恐縮して、謝罪し、たとえこの国の経済が収縮しようが当該住民に対する手厚い対策をとるのかと凝視していても、相変わらず居直り続けています。また、人為的な災害性を持つ原発事故の責任者は何も裁かれずに現在に到っています。これだけでも原発への担当能力は無いと判断できます。
 
 まず第一に、事故の緊急的な混乱の後には、当該関係組織(東電、政府、原子力学会等)は、隠蔽や組織防御的な姿勢ではなく、反省と謝罪という生活社会では当たり前のことをなすべきだったのであり、そこから徹底的な開放性と公開性へと到るべきだったと思います。このことが、放射能汚染問題や原発問題の対立や混乱や紛糾の主要因です。このような構図は、例えば諫早湾干拓問題など巨大公共事業などでの住民分断などと共通の構図で、ずっと同じようなことを繰り返してきています。
 
 そして、その結果として当該住民たちに対立的な無用の軋轢(あつれき)を引き起こしています。もし政府・官僚層・学者層がもっと違った柔軟な対策を取っていたら、その軋轢も小さくできたかもしれません。多数の黙する当該住民を背景にして、放射能被害問題について触れる者は、どんなに科学性を主張しても、またどんなにソフトな開かれたような語り口をしても、残念ながら振り分けられるいずれかの側に加担することを免れることはできません。このような対立は、ほんとうに恐ろしい絶対的な蟻地獄のような世界に見えます。ただ、現状ではうまく言えませんが、ここでもやはり、「住民」という存在や考え方が問題への出立点となるほかないという思いがあります。
 
 ほんとは住民レベルで見るならば、日々の生活が安全であり、安心を持てるということでは一致できるように思われますが、政府の自由度のない施策のせい(これこそが、何度でも強調すべき主要因です)で対立的に現象しているのだと思います。また、「住民」の生活世界を超えた様々なイデオロギーが関わっているということも影響しています。わたしは当該住民ではないから、気楽な場所に居ることになります。しかし、もしわたしが当該住民であったなら、その軋轢の渦の中に居るはずです。わたしは一応の圏外ですが、絶えず注視続けています。なぜなら、原発がこの列島に敷き詰められている現状で、もし万一の事故が再び起こったとき、この列島の住民でその被害を免れる者はいないからです。

⑬現代では、「鉄腕アトム」の牧歌的な科学の時代から一段上がり、科学技術が自然とのいっそう深い関わり合いの段階に到っています。また、科学の研究も大規模な実験設備を要するようになり、研究も集団的なものになっているように見えます。そして「STAP細胞」問題のように、わたしたち素人はその現場に容易に立ち入ることはできません。もはや歯車などから成る牧歌的な科学技術の時代には戻れません。それらの科学技術の成果である飛行機や新幹線から医療機器、ジェットコースターなどの大規模な遊戯施設にいたるまで、それらの機能的なスケールや便利さも危険性も大幅に増大してきています。したがって、それらを稼働させる側には従来にない見識の「器」が必須となってきているはずです。もしそれが不十分であれば、今回の原発の大事故に類する大規模事故は、いろんな分野で今後も起こりうるように思います。

 







 
 日々いろいろ―さつまいもの話から


①さつまいもを育て始めて四、五年になる。きっかけは、草刈りをやっていたら隣の畑の人から余ったさつまいものつるをもらったからである。さつまいもは、小まめに面倒を見なくてもいいというのがわたしの性分にも合っている。種芋から芽が出て成長したつるを植えるというのは、まだ試みていない。植えるつるは、店から買っている。紅あずまと紅はるかという品種を少し植えている。紅あずまのたくましさに比べ紅はるかの方が少しデリケートな感じがする。

 今年は、昨年畑に1メートル四方で深さ1.7メートル程の穴を掘って、購入してきたワラやもみ殻とともにさつまいもをいけたので、それを種芋として植えて、つるを取ることを試みてみようと考えている。発芽・成長のための温度管理が難しそうだ。

②さつまいも栽培は、毎年まったく同じというわけではない。大枠の同一性の中に、天候など(日照時間、気温、雨量)の自然条件の変動やこちらの働きかけの違いなどの微妙な差異性もある。ただし、植えてから収穫するまでの大まかな時間性は、わたしの中に肌合いの感覚として収まっている。そして、その時間性は深度と構成を絶えず少しずつ更新していくものとしてある。ちょうど人と人との関係の有り様と同じように。もちろん、人の世界と同じように、関係の失敗ということも起こり得る。そのデリケートさは共通しているのではないだろうか。

③スイカはとっても好きだけど、さつまいもは好きというほどではなかった。それなのになぜさつまいもを育てているのか?人が現実の場面と出会い、ある行動を選択し展開していく過程は、そんなに単純なものではない。けれど、まったく不明で跡づけることができないというわけでもない。

④ところで、「さつまいもは好きというほどではなかった」と言っても、焼き芋ならおいしく食べた経験が何度もある。あのあっちっちではあるけれど、いい匂いや味わいは忘れられない。また、さつまいもを使ったお菓子のようなものを試み、作ってもいる。当然ながら、同じ素材でもその加工や他のものとの組み合わせなどによって、多様な姿を取ることがある。

⑤遠い昔、おそらくそんなに変わり映えのしない日々の食べ物の繰り返しの中から、いろんな工夫が付け加えられ食事に深みと多様性を積み重ねて来たのではないだろうか。そして、それは一般に女性の手に負うことであったのであろうか。しかし、そのような工夫はまた、深い人間的な欲求に根ざしている。

 例えば、今からすれば「塩あん」なんておいしいだろうか、と思うかもしれないが、砂糖というものが一般の人々にまで普及するまでは、砂糖によるあんこのあんこ餅ではなく塩あんだったと柳田国男は書き留めていた。その時代は塩あんでおいしく食べていたのであろう。ちょうど現在の「スイーツ」などと同じように。
 
⑥わたしの農事が「趣味」に分類されるのに不服はない。しかし、人の外面から差し込んでくる言葉と自分の内面から湧き上がる言葉とが、しっくりと共鳴することは難しい。また、自身でさえ自分の行動がよくわからない場合もあり得る。わたしの「不服はない」という言葉には、そんな背景がある。

⑦例えば、わたしは、自身の「さつまいも」に関する物語をひとつも漏らさず語りたいのである。たとえ「さつまいも」の味わいやその栽培の記録など局所的な部分にしか触れていなくても、その触れた言葉の底流では「さつまいも」の総体に触れているという風でありたいのである。このようなことは、わたしたちの自然状態でも幾分かの度合いではなされているだろう。それを意識的な、更なる高い度合いで成し遂げたいという欲求がある。

⑧このことは、人の振る舞いと言葉との関わり合いという一般性の比喩として見なされても構わないけれど、また「さつまいも」それ自体に関することと見なされても構わない。人の表現というものは、個々人という固有の多様性に対応するように一般に恣意的で多様な解釈の可能性に開かれているからである。

 しかし、わたしの本質的な欲求としては、誰にも公然とあるいはまたひそかに流れ込み、流れ出してくるような、普遍的な言葉というものを行使したいのである。様々な事柄に関して対立的な言葉というものが相変わらず花盛りの現状で、その無用な対立の言葉を超えたいのである。わたしの固執する「起源(ものごとのはじまり)という考え方」も「この列島に生きる住民」という考えもそのような流れから流れ出して来ている。
 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)
 








  日々いろいろ―宝くじの話から


①なぜ急に宝くじのことがわたしに湧き上がってきたのかはわからない。ふと湧き上がる言葉やイメージには、必然性が感じられることもあれば、まったくの偶然のように見える場合もある。しかし、もう一段人間の内面を下ってみたら、すべてが必然(あるいは偶然)のように生起すると見なせるのかもしれない。
 
②しかし、人間はまだそんな眺望を十分なものとして手にしていない。つまり、人の生誕から、成長し老いて死ぬという生涯の内面の流れが、言葉に取り出せるほど十分にわかっていない。もちろん、遙か大過去の人々のものの考え方で、それを「迷妄」と見なせるほどには解っていることもある。(わたしたち人間が、人間という存在の有り様や内面の活動の有り様、そして人間の生み出す世界の有り様、これらについての眺望を拡大し深化させて行けば、その眺望から来るまぶしさのために対立的な世界は少しずつこわばりを緩めていくのだろうか。)
 
③そして、同様に遠い未来からの視線では、現在のわたしたちのものの考え方や振る舞い方が「迷妄」と見なされることはあるだろう。そういう意味で、遙か大過去の時代も現在もその世界の在り方の本質は変わらないと思われる。しかし、わたしたちは現在という世界を基準にしてものを考え、判定を下している。喜んだり、思い悩み苦しんだりしている。いつの時代もこのことに例外はないと思う。
 
④ただし知の世界に関わる者は、一方で他と同じように現在という海に漬かり行動しながら、そのような現在の人の有り様を掘り下げて、歴史というものを呼び寄せたり、発掘したり、あるいは未来の姿を構想したりする存在である。これは人間に対する眺望を意識的に獲得し、深化させるのに寄与する行為でもある。
 
⑤しかし、わたしたち大多数の普通の人間は、社会の生み出す技術力や産業的なものとの日々のやりとり(交通)を通して、無意識の内に新たな眺望を生み出していく。知に関わる者は、自らの固有性を通してその無意識的なものを意識的に取り出し言語化や映像化しようと試みる者のことである。彼らは自力を過信したり誤解したりしているかもしれないが、彼らの営為はあくまでも膨大な無名の人々の日々の営みの総和が生み出す力強い流れに支えられているのである。それに気づかない思想やイメージは、誰にも当てはまるという普遍性を持ったものではなく、妄言に近いということができる。芸術的な表現を含めて知の世界に関わる者の活動は、そのような大きな「他力」に支えられた小さな「自力」と見なすことができると思う。
 
⑥ところで、わたしは、遠い昔、気まぐれで二、三度宝くじを買ったことがある。大当たりを期待してではない。目の前に売り場を目にしての購入だったと思う。気まぐれにと言っても、そんなしょうもないと否定せずに買う以上、遊びの要素があったり、どこかに淡い期待も微かにあったのかもしれない。動機は微妙だ。
 
⑦わたしが小さい頃、父が定期的に宝くじを買っている時期があった。ほとんどいい当たりはなかったように記憶している。父の動機は何だったのだろう。大当たりを願望しなかったとは言えないだろうが、少なくとも生活に余裕が出るような当たりを期待してのことだったとは言えるだろう。
 
⑧わたしの父の性格を考慮した上での判定ではそうなる。宝くじは大当たりが当たらないわけではない。この地球及び大地の定常的な大きなリズムから何百年に一度くらいの大災害が繰り出されてくるように、その程度の確率でならば大当たりは現前するのだろう。わたしはそんなものに託す気にはなれないだけである。
 
⑨したがって、わたしの場合は当たるはずはないと見なして、宝くじは買わない。しかし、他人が宝くじに寄せる思いや買う様々な動機を馬鹿にしたり、否定したりする気にはなれない。人、ということは他人や自分自身ということ、その内面の複雑な様相をまだ十分な眺望としてわたしたちは手にしていないし、また、この人間界で人類が積み上げてきた叡智というものはあっても、人の行動に絶対性としての基準はない。人は誰でも、人類が積み上げてきたものを背景として、様々な相対性にさらされながら日々いろんな気持ちを抱き、いろんなものに心込めて、自由に生きようとしている存在であると思うからである。








「曾野綾子問題」からの感想―世界の収縮と高密度化


 幕藩体制の垣根が取り払われた明治維新以降の近代社会で、西欧を範とする政治、産業、教育などの刷新があった。また、言語の統一化(「標準語」の制定とその普及、極端には沖縄の「方言札」のような悲喜劇をともなう方言撲滅運動などもあった)も進められていった。こういう社会の性急な統一と高度化へと推進する流動化の渦中で、人々が都市に流れ出して集まったり、また農村に還流したりしながら、徐々に日本列島内が「グローバル化」されていった。この近代社会の動向に対するすぐれた批評には、たとえば夏目漱石の『現代日本の開化』(講演)がある。

 現在のグローバル化は、ちょうど近代日本が江戸期の無数の藩の垣根を取っ払ったような状況に見える。ただし、この場合は、ほぼ似たような文化や風習を持つ藩とは違い、まったく違う生活時間の年輪を持つ無数の地域の垣根が開かれていることになる。だから、互いの精神的な交通や付き合い方もより難しいものになるだろう。ヨーロッパやアメリカのように様々な国から人々が集まるといろんな軋轢や問題も起こるだろう。しかし、それは、いかに問題や事件を引き起こしたとしても、乗り超えて行く課題としてしか存在していないということは確かなことであると思われる。

 今、「曾野綾子問題」というのが起こっている。わたしは曾野綾子に興味関心は全くないが、クリスチャンていろいろだなと思ったことがある。この世界で一番落ちこんだ「弱者」の内面の世界を生きる主人公を描いた、小説『アブラハムの幕舎』。それを書いた大原富枝のような繊細な者もいれば、どこがクリスチャンなのと思えるような世俗的「強者」の文体の曾野綾子もいるし、はたまた、クリスチャンでも戦争に加担している者がアメリカなどたくさんいるだろう。

 曾野綾子が最近、産経新聞に載せたエッセイが世界のマスコミから取り上げられている。抗議もきているようだ。その中身にわたしは入る気はない。この列島に生きる一人の作家(? わたしは読んだことないので)が、私的に書いた文章が世界中を駆け巡り、関係し合う時代になっている。最近の「イスラム国」関連の情報のわたしたちの地平線への現れ方もこのことと関連している。わたしは、今までこのことに触れたことは一度もない。しかし、たとえまったく知らない人々であっても、ただ同じ列島の住民という一点で関心を持ち、注目し続けてきた。

 一言で言うと、世界は収縮している。したがって、わたしたちを取り巻く世界が高密度になっているために、従来なら気にもしないようなことが、さまざまな錯綜する関係として押し寄せてくることになる。そして、それは当然ながらこの列島内においても同様である。このことの指し示す意味のようなものが、わたしにこの文章を書かせている。わたしたちは、今までと同じようにこのような事態に徐々に慣れていくだろうが、少し目まいのようなものを覚えてしまった。

 現代に生きる私たちは、昔々以上に、時には、頭を休め、無数の関係付けを迫ってくる糸々を切り、身体をリラックスすることが大切だと思われる。

 








 空想ということ


①空想というものを、人間の生み出す、現実的な支えや関わりを持たないイメージや考えであると見なせば、空想は余り意味のない遊びのようなものになります。もちろん、今流行の経済効率性という視線からすれば、無意味なものに見えるかもしれません。あるいは、すぐれた経営者ならそういう遊びの要素も現実の駆動力や動因として大切なものと見なすかもしれません。いずれにしても、人の行動の効率性や経済性などに関わりなく、子どもも大人も人は全て「遊び」を手放せない存在です。つまり、人間は、様々な表現-行動の恣意性や自由度を持つ存在でもあります。
 また、人のそういう「遊び」の要素は、経済社会の動向に大きく関わっていて、それを下支えしてもいます。

②空想は、しかし、数百年、数千年、数万年などという個々の人間の時間を超えた大きな時間のものさしで見れば、ある空想が現実(可能)性を獲得するということがあり得るように思われます。わたしたち人間は、それぞれひとり一人であるという固有な光を帯びた個別性であるとともに、また人類と一括りするような類的な(集合的な)存在でもあります。そして、その両者の時間のものさしは違っています。わたしたち人間はひとり一人であるという面では、時間のものさしは、目下、100年程度です。

③例えば、新聞でも取り上げられたことのある「宇宙エレベーター」(「軌道エレベーター」とも言う。これは村上龍の小説『歌うクジラ』にも取り入れられていました。)は、現在のところ空想的ですが、まじめに研究・開発・構想されているようです。これは、地球上と大気圏外の宇宙間に軌道を設けて、その間を宇宙船みたいなものが上り下りするというシステムです。

④また、ベーシックインカム(最低限所得補償)という考えも200年くらい前から構想され、現在まで生き延びてきて、徐々に現実(可能)性を獲得して来ているように見えます。付け加えれば、遠い歴史の段階で、収穫を皆で分かち合うなどひとたびはそれに類する制度のようなものが実現されていた時期もあったと思われます。その遙かな痕跡のようなものは、地引網漁の「もやい」(集団的な智恵としての分かち合い)に限らず、まだまだ残っているかもしれません。

⑤このように、ある時代に洗濯の泡のように次から次に個々人によって生み出される空想も、小さな時間のものさしの中ではほとんど意味のない思考の遊びに見えて、大さな時間のものさしである歴史の大きな流れの中では、空想を離脱することがあり得ることになります。

  (註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正) 


空想ということ 補遺


①物語や批評に限らず、抽象度の高いわかりにくい言葉を書き連ねてあっても、時間の短いものさしや長いものさしに耐え得るような抽象性の言葉は、つまり、空想的でないすぐれた言葉は、必ずある具体性の像がにじみ出し、それを読者に喚起させるものを内包しています。
 
②逆に、叙事的なわかりやすい具体性の言葉が延々と書き連ねてあっても、すぐれた言葉であれば、全体からある抽象性がにじみ出し、それを読者に喚起させるものを内包しています。
 
③両者は、理論物理と実験物理とが互いに相補的であるように、言葉の表現する抽象性と具体性においてそれぞれ相補的です。この相補的な関係が表現においてうまくいってなければ、少しぎくしゃくした空想性に傾いてしまうと思われます。








 わたしの空想 1


①近未来について。「ベーシックインカム(basic income)」(最低限所得保障)は、空想的ではないかもしれませんが、そのため財源などからして空想的だという見方もあるようです。これは、人類が歴史のある段階で、おそらく小さな集落レベルの社会において、「もやい」(分かち合い)として実現していたことでもあります。生活の知恵として生み出されたものでしょう。これが近未来において、再び「ベーシックインカム」という新たな形で実現されることを空想しています。

 もし、これが実現されれば、ほんとうの平等が浸透していく大きな契機(きっかけ)になります。この制度に対して、現在の眼差しからの、人が怠け者になるなどの否定的な意見もありますが、この制度は一度は歴史的に経験していることでもあり、徐々に問題点をクリアーしていくだろうと思います。わたしがこの「ベーシックインカム」で空想するもっとも重要な点は、次のようなことです。

 例えば、現在では大きな苦労をして役者のように装って会社への就職活動をしなくてはなりません。就職難を苦にした学生の自殺もあるようです。求職者と会社というのが上下関係になってるからです。これが実現されれば、嫌な仕事ならすぐに辞めることができます。求職者も会社も変わりゆき、上下関係は徐々に平等な関係へと動いていくと思います。また、現代社会では知識を持つということは、富や権力と結びついていて、無言の内に、あるいは無意識の内に大きな力を発揮し、わたしたちの考え方や行動に規制を加えています。……数え上げれば切りがありません。わたしたちは、覆い被さってくる様々なマイナスと見えるものを押し分けかき分けしながら、自分の大切と思うものごとを守りながら日々生活しています。

 「ベーシックインカム」が実現されたら、舞台は暗転して、徐々に来たるべき社会に相応しい姿を現してくるのではないかと空想しています。遠い遠い遠い歴史の段階の、平等に近い集落の世界の再来のように。つまり、社会内に存在するあらゆる上下の関係が取り払われて、ほんとうに平等にふさわしい人の姿や人と人との関わり合いの芽が穏やかに芽吹き出すのをイメージしています。


②次に、もう少し遠い未来について。現在、英語が日本語化して、カタカナ語のよくわからない言葉や略語がたくさん巷にあふれている印象があります。中国から来た漢字や漢語に対してきたのと同様に、欧米から来る英語に対しても、「日本語」というものが懐が深く自由度の高い言葉だからでしょうか。「日本語」といっても、旧日本語という古代以前にまで拡張して考えると、よくその正体がわからないところがあります。

 ところで、わたしは、英語は日本語をいいかげんに発音したものだくらいに見なして、必要がないから英会話は勉強したことはありません。現在のところ英語が必要な人は、あくせくとあるいは楽しく勉強するしかありません。

 文明度の上昇は、明治近代以降、急激でめざましいものがありますが、数百年後にもおそらく現在のように異国語が互いに存在しているだろうと仮定して、耳に小さな器具を装着すればお互いに割とスムーズに会話できるようになるだろうと空想しています。つまり、自動翻訳のシステムということです。学者以外の普通の人々は、苦労して異国語を学習しなくてもよくなります。





 わたしの空想 2


③さらに遠い未来について。水や火の利用法の改良により、昔と比べると洗濯や炊事などの家事もずいぶん手間や時間など軽減されてきています。わたしの小さい頃は、水や火の利用法において、まだ「桃太郎」の世界(おじいさんは……おばあさんは……)とつながるものでした。
 
 昔よく観ていたアメリカのテレビドラマに、惑星連邦宇宙艦エンタープライズ号のピカード艦長が登場する『新スタートレック』という未来の宇宙を舞台とするものがありました。そのドラマの中で、エンタープライズ内に設置されている「レプリケーター」(これ、名前忘れていたので、検索しました)という機械がありました。欲しい飲み物や料理をその機械に向かって言うと、すぐにそれらが出てきます。
 
 それはおそらく原子や分子レベルでの合成技術でしょう。そういう「レプリケーター」のような装置ができたらいいなと空想します。わたしの小さい頃と比べて調理も格段に簡単になり、多彩な調味料などによって味も多様になっています。あるいはすぐに食べることができるレトルト食品もたくさんあります。インスタントラーメンなども質や味がずいぶん向上してきているようです。そういう意味では、その「レプリケーター」の世界に少しずつ近づいていると言えるかもしれません。
 
 ドラマの中で、どこで手に入れたのか、苦労して手に入れた本物の肉を調理して、「おいしい、やっぱり本物は違うな」というような場面がありました。ここはたぶん、ドラマ制作者たちの「現在」が介入しているものと思われます。つまり、「味」や「味覚」というものは、これまでいろいろ変化してきたし変化していくものだということです。例えば、木村秋則さんの「自然栽培」による「奇跡のリンゴ」は、他のリンゴと比べて長く置いていても他のもののように腐ることはなく、枯れ果てていくというような実験結果を紹介されていました。その味もちょうど温室栽培のトマトに対する露地栽培のトマトのように、力強い味のようです。しかし、その味は過ぎ去られていく味なのかもしれません。若い世代は、おそらく若いわたしたちがそうであったように、わたしたちとまた違う時代の先端の方の味に慣れてきているのかもしれません。
 
 例えば、原初の人間が生肉を食べていたとして、その味や味覚と現在のそれらとはずいぶん変貌しているはずです。その変貌の中に、わたしたちの身体の変貌と関わり合いながらの食や味覚の歴史が横たわっています。この変貌の歴史を推進しているのは、おそらく人間の自然への働きかけとともに、人間の可塑性や馴致性、つまり、変わりやすさと慣れやすさという性質だと思われます。もちろん、どれほどの歴史的な時間の深さを持つのかわかりませんが、生肉や生魚を食べる風習として現在に残っているものもあります。(これまた、どの位の歴史の深さを持つかわかりませんが、昔、NHKのテレビで偶然に、ロシアのバイカル湖の近くに住む人々で生魚を食べるということを観たことがあります。)
 
このような味を巡る綱引きは、現在でも生産者と消費者の間の、はっきりとは見えないところでやり取りがなされているはずです。たぶん、消費者に好まれると思う味(味だけとは限りませんが)のトマトを作り出したとか、それが余り売れなかったとか、様々なやりとりが、この領域においてもなされながら、少しずつ踏み固められていくでしょう。
 
 先ほどのレプリケーター」という装置に関連して、『新スタートレック』には「転送装置」というものも出てきます。人や物をある地点から別のある地点に瞬間移動させることができる装置です。人や物をおそらく原子や分子レベルにまで分解し、復元するということを行うことによって、そのことを実現しているようです。現状ではまったくの空想に見えますが、トラブルを想像すると恐いとともに、魅惑的な空想です。
 
 現在、ネット通販の飛躍的な増大とともに、物の流通量も増大しているはずです。それだけ流通業のトラックの交通量も増大し、その運転手などの負担や疲労も増加しているかもしれません。流通の形態や構造を変えなければどこかで飽和点に達するように見えます。もちろん、車の自動化による運転の軽減や会社の経営側の配慮や人口減による消費の増大の鈍化など、いろんな要素がその飽和点に関して関わってきます。いずれにしても、現在から見たその「転送装置」は、旅行や人や物の移動に対して輸送機関が要らない超革命的な空想に見えます。瞬間移動できるわけですから。
 
④何億年か先のこと。それまで人類が存続していたとして、人間の祖先が海から陸に上陸したように、今度は地球上から宇宙空間へ本格的に上陸していくのかもしれません。現在のところ、地球(太陽系)も危機的状況には見えませんし、宇宙空間の放射能問題、食糧問題などなどたくさんのクリアーすべき条件がありすぎて不可能に見えるかもしれませんが、しかし、この太陽系の終末以前に、人類はそれらをひとつひとつ乗り超えて、宇宙空間に上陸していくのを空想します。わたしたち人類が、途方もない時間の中で、海の世界の魚のような姿かたちから進化して現在に到っているとすれば、この先どのようにも変わりうるように思われます。






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 日々いろいろ(日々の感想)


①遠い昔、私の小さい頃、小学生だったか、昭和天皇の地方巡遊の出迎えに動員された。彼が何を話していたのかは覚えていない。彼はサーカスみたいな高台の上から手を振っていた。私の回りで帽子の振り方など得意げに講釈してる少年もいたが、何にも知らない私は、こんなことって何なのだろうというふしぎな感覚の中、「別に」という以外のプラスの感慨を持たなかった。

②本日、NHK7時のニュース。
英王子、安倍総理、被災地、子どもたちの出迎え。
わたしには〈平等〉ということが肌合いの感覚や感情としてあるから、ここでもまた「別に」という以外のプラスの感慨を持たなかった。

③ただし、もし私が現地にたまたま居たとして、相手が「水戸黄門」みたいなお忍びの普通の姿であれば、あいさつの一つもするかもしれない。住民としての普通の付き合い方やあいさつとして。

(ツイートを少し加筆訂正。)






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 日々いろいろ―ツイッター体験から


 わたしが、思い巡らし考える時くり返し立ち戻って来る地点は、いま・ここに具体的に生活しているひとりひとりの〈住民〉ということです。旧来的な世界は、高度化して(収縮して)以前とは違った、密度の高い新たな形でわたしたちの生活世界に連結されています。ネットワークを介すれば銀行でのお金の出し入れやネット通販による商品の購入など、わたしたちはスムーズに行えます。世界が収縮してSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)などの電子網や電子機器を通して、わたしたちは今までは思いもしなかった遠い関係だったのが、気軽にいろんな関係を取り結ぶことができます。

 この新たな事態の中におけるわたしたち人間のイメージとしては、こちら側(あちら側)で操作しているのは生身の人間ですが、ちょうど人工的なネット空間であるキャラ(キャラクター:ある性格を持つ人物)を動かしている、あるいはそのキャラに語らせているといったような印象を持ちます。このことは、わたしたちが身体や感情などを持つ生身の人間でありながらも、一方で現在の文明が生み出した技術力によってバーチャル( 仮想)化されていることを意味すると思われます。これは全社会的なものであり、別の言い方をすると、わたしたち人間界における自然そのものや自然性ということが従来より一段階上に押し上げられて、つまり、人工化して来ていることを意味しているはずです。これをわたたちの日常の意識の側から見れば、自然を含む外界や他者に対する意識やあるいは自己意識(自分自身に対する意識)が、従来より一段階上がって人工化してきているということです。もちろん、わたしたちはその事態に少しずつ少しずつ慣れて来ています。問題が浮上してくれば、そのことに対処していくのだと思います。
 
 このようにわたしたちは、新たな人工的な空間との接続を獲得しています。それは、ケイタイを持たないとか、ツイッターなどのSNSはやらないとかに関わらず、社会のシステムとして成り立っています。これを社会の側から眺めれば、わたしたちはそのような人工的な空間に接続されている、あるいは、接続されていると見なさないと、いま・ここに具体的に生活しているひとりの〈住民〉ということが成り立たないということになります。つまり、深い山里にこもるなどの閉鎖空間を選択しない限り、誰もその社会の状況から逃れることはできません。

 このように社会の様相が新たな形になると、利便性や快適さとともに問題も湧き上がってきます。世代によってもそれらの受け止め方が違っているはずです。わたしは、偶然のきっかけからSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のひとつであるツイッターを始めました。もう半年ばかり経験したことになります。そこで感じたことをひとつ取り出してみます。

 わたしたちは、ふだんの日常生活の中である事柄について言い合ったり、論争したりすることはめったにありません。旧来であれば、テレビや新聞などのマスコミの情報や社説など、あるいは出版されている本の中などに、情報に対する誤った判断・解説と思えるものや自分とは違う考えに出会ったとしても、「どアホ」とつぶやいてお終いになったはずです。つまり、両者の距離感はとても遠いというものでした。その距離を測ろうとか辿ろうとかしても、曲がりくねったり、どこで接続されるかわからないというものでした。

 しかし、SNSという仮想空間を創出するツールによって、両者の距離感は身近なものになるように接続されています。旧来的な人と人との出会いや関わり合い、つまり関係の構造が変貌してきています。この新たな事態でわたしたちが心すべきことがあるはずです。旧来的な関係の有り様、それにもブラス・マイナスがあったはずですが、そこにおける理想を少しでも実現するものとしてこの新たな事態に対処できればいいなと思います。

 ホームページやブログや、SNSという仮想空間を形成するツールのひとつ、ツイッターなどのネット空間での経験から、良い面を上げると、旧来的にはいろんな人や組織や情報が接続圏外だったのがわりと身近な感覚になり、いろんな情報を時間かけてあちこち走り回って集めることなく、手にすることができるようになりました。このことは、まだ不十分な点がいろいろあるとしても、社会が開かれた感じになるのに大きく貢献していると思います。一方、悪い面で言えば、旧来的にはあり得なかった関係が身近になり(関係の構造変化と関係密度の上昇)、話題が政治的な問題や社会的な問題で、両者が考えが大きく異なる対立的な場合には、ののしりあいや悪口合戦になるようです。わたしも、他人のツイッターやあるいはそこに紹介されている情報などを見て、その戦場に向かう手前まで竹槍持って(笑い)何度か行ったことがあります。
 
 わたしたちが直面している、あるいは現にその渦中にいる新たな事態に対して、できれば過去のマイナス面を呼び寄せたり、退行したりすることなく、未来に向けていい新たな一歩が踏み出せたらいいなと思っています。この場合、相変わらずわたしの手持ちは「この列島の住民」というイメージにあります。〈住民〉といっても、いろんな利害が関わったり、イデオロギーを呼び寄せることもあります。しかし、わたしのイメージする〈住民〉とは、一つは、感じ考えることにおいて、ある所に日々の生活するという地域性や具体性を手放さない者であり、極力、イデオロギーなどの生活世界を離陸する抽象性を退ける者です。例えてみれば、地域に神社があるとして、それが知らぬ間に全国的な神社と密通していた(つながりをつけられていた)というようなことを退ける者です。二つ目は、「住民」同士の置かれた状況の違いによって、利害が対立せざるを得ない場合は、対立するAやBやCなどを妥協的に包括する全体的な「住民」の利害として考えるということです。 
 原発事故や放射能被害問題も、残念ながら上位にある国の適切でない施策によって、住民同士、各種イデオロギーや、原発推進関連組織・同学者などを巻きこんで、対立的な様相を繰り広げてきています。何度も言いますが、東電や国が、住民の意向(移住する、一時避難する、止まるなど)を第一に考え、それに沿った支援・対応を十分にしていたら防げただろう混乱が未だに続いています。

 






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 日々いろいろ―「文系理系」ということから



 文系理系ということが言われることがあります。その言葉の由来は、ネットで軽く調べてもよくわかりません。大まかなことは、まず西欧起源であるということ、次に本格的な自然学や人間学はギリシアに始まりますが、それを源流とするヨーロッパ中世辺りの大学の出現以降であるらしいこと、大学の制度的な学の区分けと関わっているらしいことなどです。

 現在では、大多数が高校に入学していますから、そこから考えると、「文系理系」ということは、高校も普通科(進学校)に入らない者で、そこを卒業して就職したり、専門学校に通ったりする人々には無縁です。したがって、「文系理系」という言葉が意味を持つのは、一般に、大学に進学した人々です。そういう意味でもこの言葉は局所的(部分的)なものです。

 わたしは5年制の高専で3年間工業化学を学び、中退して1年浪人して大学で日本文学を学びました。したがって、わたしの場合は、傍系ということになり、それゆえか「文系理系」という偏見(?)はありません。逆に言えば、いわゆる文系理系と分けられる進学校の高校3年間の制度的な枠組みやそこから下ってくるものの具体性の日々が子どもにもたらす影響は、たいしたことはないと言えると同時に、一方で、その中で過ごす子どもたちのものの考え方の枠組みを規制する(形作る)ものにもなっています。(もちろん、傍系のわたしの場合も、傍系なりのなんらかの影響というものはあるはずです。) また、理系の大学を通過した後のことで考えてみると、いろんな分野の職人さんのように、科学技術者(いわゆる技術屋さん)は、ものの判断や処理や考え方において、あいまいさを排する独自のものを持っているように感じます。つまり、こういう理系的な自然科学的な分野で、その発想の下に、実験―判断―考察のくり返しを長らく続けることは、それが身に染みてくるものです。

 ヨーロッパの中世あるいは近世に活躍した、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家と言われるレオナルド・ダ・ヴィンチは、いろんな学問の分野に通じていたと言われます。しかし、近代以降になると、それぞれの学問もいっそう高度化し複雑になってきますから、ひとりの人間がいくつもの分野に通じることは難しくなってきます。学問の細分化と高度化は、ひとりが専門とする分野が一つになるということと対応しています。またすでに、ヨーロッパ中世の大学では、学ぶ学問はいくつかに分けられています。明治期に西欧から仕入れた文系理系という考え方は、こうした背景の中にあります。つまり、それ以上の本質的な意味はないということです。つまり、その言葉やそういう制度的な区分けが子どもたちに何らかの影響力を行使しますが、「文系だから」や「理系だから」という言葉は、血液型占いと同様の別にたいした意味はないと見なしていいと思います。むしろ、誰もがこの世界を内省する、言い換えると、人間や人間世界を総合的に見る、考えるという点からすれば、自然科学的な視線と精神や心の科学的な視線とのどちらか一方に偏った見方の枠を与えがちで、その「文系理系」という区分けのマイナスの影響が考えられます。

 この地球という同じ世界に住むわたしたちですが、それぞれ文化や慣習の違いもあり、一人ひとり興味や関心や趣味など違います。しかし、わたしたち人類は、個々の違いとともに共通性もあります。そして、わたしたちは、身近な人間的なことに限らず自然や自然界や遠い宇宙にも、つまりあらゆることに関心を持ちうる存在です。「文系理系」という区分けの考え方は、現実に子どもたちの高校3年間を精神的に縛ったりするのかもしれませんが、以上述べた意味で「文系理系」などという区分けや考え方は別に大した意味のないものと思えます。むしろ、両者を統合するものの判断や処理や考え方の方が大切だと思います。

 






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 『若者は本当に右傾化しているのか』(古谷経衡 2014年)を読む


①『若者は本当に右傾化しているのか』を読んでみた。表題に関して様々なデータを駆使して、若者の「右傾化」ではないこと、若者はイデオロギーとは無縁な、自分の日々の生活を第一とする「普通」の人々であることをていねいに実証している。

②また、旧来の保守とは異質な「ネット保守」(ネトウヨとも呼ばれる)という階層が、主に30代から40代の経済的に割りと恵まれた層であることを明らかにしている。

③そういう恵まれた階層性もあって、「ネット保守」は今まで「貧困問題」には冷淡で、一切触れてこなかった。それが保守の停滞の原因である、と古谷経衡は見ている。普通の人々の生活世界の諸問題に触れ得ない「ネット保守」に、イデオロギーのみの形骸化していく危機感を感じているのだろう。

④そこから古谷経衡は、普通の若者たちにも開かれた「ソーシャル保守」という考え方を打ち出している。元来、近代の「保守」や「右翼」的な部分は、例えば2・26事件に見られるように、イデオロギー的な理念も持ちつつも、疲弊する農村社会や農民の窮状に対するまなざしと変革への意志を持っていた。

⑤つまり、それだけの社会的な基盤があった。そこからすると、現在の「ネット保守」は、形骸化した復古的なイデオロギーのみで、現実的な基盤や現実的な視線が空無である。わたしの考えでは、現在の「ネット保守」や「ネット保守」的な現政権は、わたしたちが「住民力」を発揮せざるを得ない、到来しつつあるあらたな社会の手前に咲く、最後の徒花(あだばな)ではないかと思われる。

⑥古谷経衡は、三十代前半の人である。「ネット保守」などの集会にも足を運んでいるようだから、それに対して親近感も持っているのだろう。いわゆる保守的な思想を持つ人だと思うが、別にそのことはたいした問題ではない。わたしはこの本一冊しか読んでいないが、この本の古谷経衡はいい。

⑦古谷経衡は、従来、保守と言われてきた部分が、戦争が空無となるほど遠くなり、おそらく最後のイデオロギーの徒花を咲かせている「ネット保守」になってしまってせり出している状況で、それを正当な位置に戻そうとする試みのように見える。

⑧そして、そのことはわたしが考え続けている、「住民」ということ、イデオロギーを退けこの日常の具体的な生活世界を離脱しないわたしたち「住民」ということとどこかで交差するように思われた。最後に、古谷経衡が「ソーシャル保守」という考えのイメージについて触れている部分を引用する。


 ソーシャル保守は、図らずも弱者の立場を、その人生の早い段階で身をもって体験し、それを自力で超克してきた質の高い、比較的若年の保守層が基軸となって、形成されるまったく新しいタイプの保守像であることはすでに述べた。そこで語られる内容とは、日本国家への愛国心を大前提的に有した中で、高度国家論(註.参考「憲法、国防、歴史認識といった高度国家論的な言説」P155)をその支柱とするではなく、貧困、雇用問題、弱者救済、子育て問題、あるいは非政治的分野である芸術や文芸にまで及ぶことが想定される。もしかしたら、それは保守派から現在「左翼」とみなされ、批判的な立場で論調されるような団体や個人との融合をも意味するのかもしれない。このようなソーシャル保守は、旧来、保守系団体が必ずと言って良いほど「保守派の様式美」として保持し続けてきた、国歌斉唱、国旗掲揚、あるいは「天皇陛下万歳」の唱和を、必ずしも必要としないかもしれない。なぜなら、ソーシャル保守が提唱するこういった各種さまざまの社会問題は、そもそも愛国心を土壌としてその上に生育される同胞融和の概念に基づいているからである。
 (『若者は本当に右傾化しているのか』P225-P226 古谷経衡 2014年)


 






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 『ドミトリーともきんす』(高野文子 2014年)から


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 この漫画作品は、科学の世界を対象としてそこに照明を当てています。その世界の代表として、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹を選択し、各々若い頃の彼らの世話をする学生寮(ドミトリー , dormitory)「ともきんす」の寮母「とも子」を登場人物兼語り手とし、彼らとの対話を通して科学の世界を浮かび上がらせていきます。アメリカから、若い頃のジョージ・ガモフ(物理学者で、『不思議の国のトムキンス 』の著者でもある )もその寮に訪れてきます。

 作者の「あとがき」からもわかりますが、本書は科学の世界を子どもたちに興味深く紹介するという啓蒙的な「実用」を目的としています。しかし、そこには自(おの)ずから作者の科学に対する認識やイメージもこの漫画作品の全体から匂い立つように織り込まれています。高野文子の作品は、二、三冊しか読んでいませんが、おそらく作者の中にはこの世界の成り立つふしぎな仕組みに深い関心があり、それゆえそれを科学として取り出すことにも深い関心を持っているのだと思います。大人が読んでも興味深い本です。


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 この漫画作品の構成には触れずに、つまり漫画作品自体を批評するのではなく、そこにコマをまたがったりして描かれている吹き出し(登場人物のせりふ)の連続する一部を抜き出して考えてみます。


「出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること聞くことからはじまる。」

「バラの花の香をかぎ、その美しさをたたえる気持ちと、」

「花の形状を調べようとする気持ちのあいだには、大きなへだたりはない。」

「しかしバラの詩をつくるのと
顕微鏡をもちだすのとでは
もう方向がちがっている。」

「科学はどんどん
進歩して、
たくさんの専門に
わかれてしまった。」

「いろんな器械が
ごちゃごちゃに
ならんでいる
実験室、
わけのわからぬ
数式が
どこまでもつづく
書物。」

「もうそこには
詩の影も形も
見えない。
科学者とはつまり
詩をわすれた
人である。
詩を失った
人である。」

「そんなら一度失った詩は、
もはや科学の世界には
もどってこないのだろうか。」

(「詩の朗読 湯川秀樹『詩と科学―子どもたちのために―』」P105-P106)


 わたしは、湯川秀樹の「詩と科学―子どもたちのために―」という文章に直接当たっていないので、この作品の吹き出しが湯川秀樹の文章そのままなのか、作者が選択したのか、あるいは作者が少し手を加えたのかはわかりません。引用部分の後に、作者はおそらく湯川秀樹の文章に沿って詩と科学の関わり合いを述べていますが、ここではそれに触れずに引用部分について考えてみます。(註.ネット検索したら、ある教育関係のPDFファイルの中に資料として収められている湯川秀樹のその文章を見つけることができました。本の1ページ分で、この漫画にも1ページ分しかありませんから、それが全文でしょう。その全文が湯川秀樹の文章の順番通りですが、作者、高野文子によって湯川の文章が選択され、それが漫画の絵とともに織り込まれて構成されています。つまり、吹き出しは湯川秀樹の文章そのままですが、それがいったん作者、高野文子によって捉え返され、内省され、そこから表現されたもの、すなわち高野文子の作品になっています。)


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 自然科学の本格的な始まりは、ギリシアあたりです。当然のこととして、それ以前にも人々はそれに連なる外界(自然)への探究を行ってきたはずです。わが国の大多数の普通の人々の精神史を追究してきた柳田国男は、現在のような暦(カレンダー)が整備され普及する前には、長らく太陽や月、あるいは寒暖など、周囲の繰り返される自然の観察によって時節をを知っていたと述べていました。お月さんが今のように単に美的な対象としてではなく、生活上の暦の役割を持たされつつ、かつ美的な対象であった時代が長らくあったのだと思います。わたしたちは、今では前日の夕焼けや雲の様子などによって翌日の天気を予想する必要がなくなりました。代わりに気象庁が衛星画像や過去のデータベースの参照から天気予報を割り出しているのでしょう。そして、天気が変わりやすい季節で予報がまだ難しい季節もありますが、天気予報もずいぶん狭い地域毎に詳しく、割と正確になってきています。

 文字が生み出される以前の、語り(伝承、記憶)の人類の段階について、その有り様をたどるのは、いっそう難しくなります。語りの時代の記憶が持ち越されて文字の生まれた後に記録されたということはあるでしょう。それ以外は、わずかな遺物(遺伝情報なども含む)くらいしかありません。したがって、わたしたちがそういう世界を対象とする時、様々な遺物や書き残された資料や歌謡や歌などの文学作品などとの出会いをくり返しながら、昔やさらに昔の人々や太古の人々のものの感じ方や考え方を抽出していく経験を踏まえながら、わたしたちの現在の方から想像力を駆使するほかありません。

 太古の人間界というものを想像してみます。猫などを見ていて感じるのは、わたしたち人間には、ドアが閉まっていて先へ行けない、障害になっていると感じられても、割とその現実をすんなりと受け入れているように感じられます。猫などの動物が、その本質として遙か太古のままだと仮定して、人間も動物生の段階ではそんな風だったのかもしれません。

 そして、人間が動物と違って自分の周囲の世界に対する意識のようなものが芽生えてきて、しかも人間界がまだ十分に発達していない、人々が洞窟などを住居としている段階では、人間にとって外界(自然)は、恵みをもたらすものであると同時に、猛威をふるい恐怖を引き起こすものでした。この段階では、人々の意識では、宗教、芸術、科学などはひとつに溶け合った未分化なかたまりとして存在していました。当時の人々の理想のようなものが心安らかに生きていくことだという点では、おそらく現在のわたしたちと同じであったろうと思いますが、その理想のイメージから来る外界(自然)の恵みへの誉め讃えと自然の猛威をなだめようとする意志の表現として、宗教、芸術、科学などの未分化なものは存在していました。日本の鎌倉時代以降の時期にあたるインカ帝国では自然の恵み(太陽の力の現れ)を絶やさないように、いわゆる人身御供(ひとみごくう)として多数の奴隷や捕虜の命を神への生贄(いけにえ)に捧げていたと言われ、あるいはわが国でも多くの伝承が残っていますが、自然の猛威をなだめるために人柱を設けたりした人類の段階がありました。これらは今では無意味なもの、人類の迷妄として見なされると思いますが、神(自然)に捧げるものも、人から動物へあるいは、生きものではないものへと人類も徐々にその風習を改めてきました。インカ帝国ではずいぶん後まで残っていますが、これらの人身御供の考え方は、とても古い時代の考え方のように思われます。そして、それらは世界各地にあったようですからずいぶん人類のある段階における普遍的な考え方を示しているはずです。

 このように、芸術(詩)や科学が未分化な溶け合った段階から、果てしない時を経て、現在では湯川秀樹の言葉が述べているように、詩と科学は互いに無縁なもののように分化し大きな断層を築いています。

 ところで、わたしはSTAP細胞発見という最初の発表のニュースを聞いて、「ふうーん、そうなの、それは良かったね。」という感想を持ちました。科学の研究も細分化と熾烈な競争を帯びてはいても、わたしたちの世界になんらかのいいものをもたらしてくれるからです。それ以降のふしぎな怒濤の勢いのマスコミに登場する流れには、全然関心を持ちませんでした。
 
 STAP細胞問題は、例えばわたしたちが遠い昔の『古事記』(神話)をどのように取り上げどう批評するか、とかあるいは、現在の国内外のある事件をどのように取り上げどう批評するか、ということと共通した問題を持っています。『古事記』の神話を現在のような「事実」と見なして、研究している人もいます。STAP細胞問題も、その錯綜した内部に入り込んだつもりで、あれこれ「事実」として指摘している人もいます。惨い殺人事件が起これば、テレビのワイドショーや他のマスコミやいわゆる専門家などが「事件」に群がります。また、ネットで素人までがあれこれ論じたりもします。まちがわないためには、論じる人は、対象をどこで取り上げるかとか、取り上げ方によっては膨大な労力を払わなくてはならないことや論じる人の想像力が問われています。したがって、わたしなら対象について最低限言えることは何だろうかと考えます。わたしたちは、まだそれらの対象を論じる方法を十分なものとして獲得できていないからです。戻って、STAP細胞問題を現在の科学の問題として考えてみます。

 現在の科学(科学に限りませんが)の研究が主にグループによって担(にな)われていること、その研究内容が素人にはわかりにくい、慎重さを要する微妙な深さと構成を持っていること、したがって、他の科学者によるその検証も時間がかかることなどを明らかにしました。つまり、現在の科学は(科学に限りませんが)以前より一段深くなった自然と対面し、それを研究対象としています。このように、詩と科学とが互いに全く無縁に見えるほど科学ばかりが高度化を遂げていくことは止めようがないことです。

 しかし、太古の人類の、互いに関わり合う未分化な同一性、つまり詩の中に科学を見、科学の中に詩を見るということは、消えることなく保存され続けていくと思われます。詩と科学とが互いに無縁に見えるほどの関係は、簡単に解消されるものではないと思われますが、人間は科学において何を追究しているのか、科学者とは何かなどを、この湯川秀樹の言葉のように、詩人や科学者が、時折振り返りその現状に内省を加えていくということは今後もなくならないと思います。さらに付け加えれば、それらの文明の大きな流れを最終的に決めていくのは、詩人や科学者や思想家などの一部の専門家ではなく、やはり大多数のわたしたち無名の住民や生活者であろうと思います。






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 覚書2015/03/27
   ―人の生み出す思想や社会的に共有される思想や理念の推移について


 人の生み出す思想や社会的に共有される思想や理念(統一的な思想)は、共に時代性や段階性(例えば、古代、あるいは近代に普及した考え方など)という限界を持つのではないか。言い換えると、人の生み出す思想や社会的に共有される思想や理念というものは、時代や人類の歴史的な段階が更新されたら同様に更新されるべきものとして存在してきているのではないか。

 例えば、遙か昔の歴史の段階で生み出され人々に広く深く浸透していた「輪廻転生」(生まれ変わり)の考え方は、現在では残骸として部分的には生き残りつつも、迷妄に近い無効な考え方と見なされている。しかし、太古も現在もその時代を生きている人々は、ある強度を持ってそれぞれの考え方を保持し繰り出しているはずである。したがって、ある思想や理念がある時代やある歴史の段階では広く深く浸透したとしても、自然界や人間界で人間がそれらに働きかけ、そのことによって自らも変貌していくという相互関係をくり返していく中で、自然界も人間界も人間自身も変貌して、広く浸透していたある思想や理念も徐々に変貌を遂げていくので、人類史を通して普遍的な真というのは、部分的にはあり得ても全体としては不可能ではないかと思われる。また、その変貌の内部として見れば、例えばパソコンやケイタイやネットの普及に対して、人によって受容と拒否あるいは嫌悪など相対立する様相を示すことはあるが、それにもかかわらず変貌する主流は滔々(とうとう)と流れ続ける。

 だから、人の生み出す思想や社会的に共有される思想や理念というものは、現在に重心を置きつつ、さらに様々な対立をも含みながらも、絶えず更新されていくということを本質としているのではないか。しかも、その際、例えば現代の主流の考え方である「科学」は、現状では太古の「輪廻転生」の思想と対立的に見えるが、つまり、「非科学」や「ニセ科学」などと見なしているが、それはそれで当時の「科学」であったのだし、将来的にはその太古の思想は「ここに、こうして位置づけられる」というように包括されていくものと思われる。






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 二つの視線から


 視線といえば普通は人間含めて動物に対して使われるが、人工衛星から捉えた画像も人間の拡張された目が捉えたものと考えれば、人工衛星からの視線として扱っていいと思われる。まず、「火の昔」から柳田国男の視線を取り上げてみる。


 この石油ランプから電燈へ移って行く中間に、都会地だけにはさらに今一種、瓦斯燈(ガスとう)というあかりの方法が行われました。これは石油に比べると、さらにずっと短い歴史しかもっていませんが、三府五港というような大きな市街では、一時は街燈が全部このガス燈になっていて、夕方になると人夫が長い竿(さお)に火の附いたものを持って、この街燈の瓦斯に火をともしにあるきまわっていました。今になって考えたみるとこの最近の四五十年間というものは、日本の夜の燈明に関する限り、過去は申すに及ばず、遠い将来にかけても、ちょっと想像のできないような大きな変化が、連続して起こっていたのであります。私は大正の始め頃に、愛知県のある海岸の岡の上に登って、東海道の村々の夕方の燈火が、ちらちらとつくのを眺望していたことがあります。いつになったらこの辺の農家の屋根が、全部瓦葺きになり、そうして電気がついてその下で働くことになるだろうかと、よほど遠い未来のように想像してみました。ところがたいていの世の中の改良というものが待遠(まちどお)であるのに反して、これだけは予想よりはるかに早く、実現したのであります。その時からわずか十七八年の後、再び同じ場所の高みから里を見ると、見える限りの屋根屋根がすべて瓦葺きで、どの窓にも電気の燈があかあかと映っていたのにはびっくりしました。国には数千年を経ても少しも変らぬものが確かにありますが、一方にはまたこれほどにも激しくえらい速力で、しかも何人も気がつかずに、変って行く燈火のようなものもあるのであります。
 (「火の昔」P242-P243『柳田國男全集23』ちくま文庫)



 柳田国男は、まず「大正の始め頃に、愛知県のある海岸の岡の上に登って、東海道の村々の夕方の燈火が、ちらちらとつくのを眺望して」いる。それから「十七八年の後、再び同じ場所の高みから里を見ると、見える限りの屋根屋根がすべて瓦葺きで、どの窓にも電気の燈があかあかと映っていた」のを目にして、彼の予想に反してその急激な変貌ぶりに驚いている。こういう高いところから人々の生活している集落や農耕地を眺めるということは、柳田国男がそのことに関して意識的かどうかは別にして、古代の「国見」の風習につながるものと思われる。古代の「国見」には人々の生活世界の状況把握と同時に宗教的・儀礼的な意味もあったようだ。

 しかし、この近代の旅人、柳田国男の視線にはもはやその種のものは窺(うかが)い知ることはできない。ただ、生活する人々の家々がおそらく茅葺きかワラ葺き屋根から瓦葺き屋根になり、ということは、替えの茅やワラの確保や何年か毎に集落の共同作業で行われるきつい屋根葺き替えの仕事が軽減されるということであり、また石油ランプから電燈へと変わるということも火の管理をする必要がなくなり、しかもずいぶん明るい照明となり、いずれも人々の生活環境の改良になっている。集落の住民たちは、そういう改良をおそらく驚きと共に喜ばしいものとして受けとめただろう。柳田国男もこれらの改良による人々の生活の変貌を想像し、人々のそういう思いに共感して喜ばしく思い、その人々の喜ばしい思いに自分の共感する思いを重ねるように表現しているように思われる。
 
 例えば、「いつになったらこの辺の農家の屋根が、全部瓦葺きになり、そうして電気がついてその下で働くことになるだろうかと、よほど遠い未来のように想像してみました。」とある。この「その下で働くことになる」という柳田の想像の視線から来る表現は、単に上から眺めている視線ではなく、明らかに柳田が今までに見知っている農の現実を踏まえて、農を営む人々の目線から想像を繰り出しています。上の文章を読みたどれば、そういうことが言えると思う。

 つまり、高いところから人々の集落を眺めたら、家々が瓦葺きになり電灯が点っているという風景としての変貌はつかむことができるが、その変貌がその集落の人々にもたらしているものをつかむことはできない。したがって、その変貌を喜ばしく思えるためには、その集落の人々と同じ目線から眺めるということ、つまり、そのような想像の視線から眺めるということが必要になる。こうして、ここでの柳田国男は、集落を眺めるという高いところからの視線を行使しながら、同時に集落の人々と同じ目線という想像の視線を行使しているということができる。

 二つ目は、人工衛星から見た画像である。(以下に引用した画像2枚。「シリアから消えた灯。衛星画像は語る(比較画像)」The Huffington Post 2015年03月15日 )これはツイッターを通して出会ったものである。

 少し前、北朝鮮の夜の灯りが他の諸国に比べて暗くなっているという衛星画像の比較をツイッターを通して出会い、見たことがあった。シリアの夜の灯りを示す衛星画像もそれと同様のものである。しかし、前者が同時的な諸国間の地域的な差異を示しているのに対して、後者のここに挙げた衛星画像は、同一地域の時間的な差異(2011年と2015年のシリアの諸都市の夜の灯りの画像)を示している。

 わたしたちは、マスコミを通してシリアを脱け出している多数の難民がいるなど地上を飛び交う様々なシリアを巡る情報に出会うことができる。そのなかには真偽がはっきりしないものもあるかもしれない。また、作為や虚偽も混じっているかもしれない。わたしたちは、出会う世界が拡大してきた代わりに、マスコミを通して知るなどという間接的な出会いが多くなってきている。それは信頼性が持てるのだろうか、というわたしたちが抱く疑念や知ることのためらいは、この間接性と世界には集団的な作為や虚偽が存在するということに起因している。

 ところで、人工衛星の高度からの、おそらく画像処理されたものであろうが、その人間の拡張された高度からの視線は、2011年と2015年のシリアの諸都市の夜の灯りの明るさの違いしか映し出さない。そして、これが偽造の画像でない限り、最低限これだけは真と見なすことができるということを示している。つまり、2011年と2015年のシリアの諸都市の夜の灯りの変貌は、多数のシリアの住民がその地からいなくなったということを示している。しかも、現地に行ってあれこれ見聞きしたり、調べたりすることなく、公開された衛星画像を通して知ることができる。なんだそれだけかという思いも湧いてくるかもしれない。

 しかし、この人工衛星からの視線は、偽造などの操作が成されない限り、地上を飛び交う作為や虚偽などに着色される情報に対して、ひとつの優位を持っている。それは地上的な情感や倫理や対立的な見方などを脱け出て乾いた視線に見えるけれども、地上的な作為や虚偽を免れる普遍的な視線を意味しているように思われる。そして、その視線は、その画像を見るわたしたちにその諸都市の明るさの差異は何に起因するどのような状態を意味するのかという問いを投げかける。つまり、シリアという遠い、よくわからない地域でありながらも、わたしたちと同じような住民が日々生活していたのだ、いるのだという、わたしたちの地上的な想像の視線を行使するよう迫ってくる。

 現在では、衛星からの視線による地上のものの位置情報把握と制御など農機具はじめあらゆる分野に及んでいる。わたしたちの現在は、人工衛星の高度からの視線を獲得し、それを様々な分野に応用し始めている。上のシリアの二枚の衛星画像もそういう現在の流れの中から現れてきたものである。






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 表現の現在―ささいに見える問題から ①


 ものごとは、どんなにささいに見えようともその本質は貫かれています。例えば、時々指摘される手紙の宛先の書き方について、その他の地域については知りませんが、アメリカやイギリスとわが国とでは住所(地名)を書き表す順序が逆になっています。前者は自分の居場所から始まり、後者では自分の居場所がどういう大きな場面の中にあるか、その大きな場所から始まります。ここではそのことの地域的な違いについて細かに考えることはしませんが、人々はおそらくなぜそうなのか考えることなく自然に書き記してきていると思われます。しかし、こうした一見ささいに見えることのなかにも、それぞれの地域の人々の長く積み重ねられ来たものの認識や社会意識の有り様が潜在しています。
 
 まず、取り上げる素材として扱いやすいという理由に過ぎませんが、自分の作品から取り出して考えてみます。作者(表現の現場に足を踏み入れたわたし)の、作品へと表現する過程の内部に照明を当ててみます。わたしは西欧の波をかぶって近代にはじまる自由詩(現代詩)はずいぶん書き慣れていますが、短歌は今までほとんど経験がなく今回初めて集中的に書き出しました。したがって、57577の音数律(音数の組み合わせが作り出すリズム)を意識していても無意識的にも自由詩の方に引き寄せられているかもしれません。そういうわけで、短歌の世界や短歌表現を長らく本格的にやられている人々を意識して、「短歌味体な」(短歌のようなスタイル)と自身を少し控えめにあるいは自由に位置づけています。


外力と内力と(そとからうちからひびきあい)
揺れ揺られ
ひとひらひらの流るる小舟

 註.例えば、椿の花びらの落下から
 (短歌味体な Ⅱ 16  椿シリーズ)



 この作品で、「外力と内力と」を無理やり「そとからうちからひびきあい」とルビを振り読ませています。作者としては、前者、あるいは後者だけの言葉では不満がありました。前者だけなら硬めの物理的な論理の言葉になり、後者だけなら情感的な言葉の方に片寄りすぎるという感じを持ったのだと思います。また前者は57577の音数律からすれば破調をなしています。しかも力強い感じを与え過ぎます。そこで、前者と後者の二重化の表現を選択したのだと思います。一般に、短歌のような定型詩は、音数や音数律の制約(考えようによっては、制約による自由)がありますから、自由詩などとは違って言葉が和語的な方に吸引されがちに見えます。

 前者と後者による二重性としての表現は、積極性として理解すれば日本語の自由度とも見なせますが、マイナスと考えれば和語的な日本語の論理性のなさからくる補填(ほてん)と見なすこともできます。言い換えれば、言葉の概念や論理性を駆使しながら情感的な生命感を込めたいという作者の欲求がそのような表現を選択したということになります。作品としての出来不出来は別にして、作者の日本語としての十全な表現への欲求がそういう表現を選択したのです。

 このわたしの表現の内部での選択の揺らぎの問題を歴史性の方に返せば、この列島から見て硬質の論理性を持つ中国の漢語・漢文の大きな波をかぶり、この列島の人々(主に知識上層)が、漢語・漢文から万葉仮名を、そしてさらに平仮名や片仮名など生み出し、現在に受け継がれている、漢語と和語とを組み合わせた漢字仮名交じり文を創り上げていく過程で、直面した言葉の表現の問題があります。漢語を日本語化しながら漢語と異質な和語と組み合わせていくわけですから、そこには様々な困難や苦労があっただろうと推測できます。そして、そこで直面した言葉の表現の問題は、その起源からの刻印のように現在のわたしたちの表現の場においても、起源の困難や苦労がずいぶん希釈された形で、つまり無意識的な感じで、くり返されているのだと思われます。






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  覚書2015.4.4 ― 思想や理念の生き死にということ


 思想とか理念(統一的な思想)にも絶対性はない。つまり、例えば大正期の広告を見て今と違ってなんか古いなあという感覚を持つのと同じく、時代とともにイメージに限らず言葉や思想や理念の表現も色あせて古びていく、このことをどうすることもできないし、またわたしたちが「古いなあ」という感覚を持つことも押しとどめようもない。また、逆にその古さがある新鮮さを感じさせて、新たな粧いで現在に生き返ることもある。
 
 時代の流行の感覚や考え方や思想というものがある。それらは、主にこの世界の表面的な部分であり、もちろんわたしたち生活者住民の感覚や意識と無縁ではない。ただし、わたしたち生活者住民の感覚や意識が、家庭や職場や憩いなどの日々の生活の中の諸活動という具体性と切り離せないものとしてあるとすれば、時代の流行の感覚や考え方や思想は具体性を離脱したソフトなイデオロギー(集団思想)と言える。したがって、両者の間にずれやくいちがいなど存在し得る。例えば、現在では自然な考え方と見なされている「民主主義」という時代の流行の思想も、わたしたち生活者住民と政治との関わり合いや距離感として、今までもそして現在も形骸化が感じられよく機能していないものに見える。もっと中身のある「民主主義」を具体的にイメージすることがある。このように時代の流行の感覚や考え方や思想とわたしたち生活者住民の感覚や意識とは、一枚岩ではなく、この世界に層を成して存在している。このときわたしたち生活者住民の感覚や意識は、ある共通性として抽出されているが、その在り方としては個別的にひとり一人の具体性として存在している。

 わたしたちがこの世界に「生きて在る」ということは、わたしたちの生活世界に現れるものとの絶えざる関わり合いがあり、わたしたちは物質的にかつ精神的になにものかを消費したり生産したりするということを日々くり返している。そういう自然や人間界での相互的な関わり合いが、ある共通の感覚や考え方や思想として抽出され時代の流行の感覚や考え方や思想になっていく。もう一つある。特にわが国に顕著であるが、外来の思想や文化や政治制度などがこの列島に押し寄せ、まずは知識上層や政治層への浸透を通って生活世界に下ってくる。わが国の場合、古代では中国から、明治近代には西欧から、大きな二つの波をかぶった経験を持っている。

 時代とともにその流行の感覚や考え方や思想や理念というものは、わたしたちの変貌と関わるようにして少しずつ変貌していく。しかし、息の長い思想や理念というものもあり得るように思う。といっても例えば「アフリカ的」段階にある世界で生み出された思想や理念が、その次の「アジア的」段階までも生き残るのは、部分的にはあり得ても総体として生き延びうるということは難しいと思われる。なぜなら、後者は前者の否定として登場するからである。それでも、わたしたちやわたしたちの生きる世界には、層のようにして人類の古い段階の感覚やものの考え方や思想も保存されているから、部分的に生き残ることができるのだと思う。

 このように、人や言葉や歴史というものは、絶えず<現在>という流動の未明の渦中だと見なしてもいいが、その<現在>というものは、過去(歴史)を呼び込み反復しながら、未来方へ突き抜けていく。

 近代以降の文明の変貌や高度化の度合いを「文明度」と呼べば、明治近代までは地を這うような状態で、明治近代以降は、急激な上昇を遂げている。したがって、この世界の変貌の速度も高まっている。変貌するとは、社会が姿形を変えることと同時に人や言葉やイメージとしての世界が姿かたちを変えるということであり、そのことはその姿かたちや運動を記述する言葉や思想も変貌せざるを得ないということを意味している。もちろん、表面の修正はありつつも、それらを貫く本質論としては生き延びていくことができる場合もあるだろう。近代の生んだすぐれた思想であるヘーゲルやマルクスの思想は、現在ではほとんど見向きもされなくなってきたように思えるが、すぐれた思想の場合は特に、次に生かし乗り越えることによって、その役割を終えるのだと思う。そういう意味では、彼らのこの世界を読む思想は、まだ見向きもされなくなっただけにすぎないように見える。

 わたしたち人間の現在は、現在ばかりに細々(こまごま)と熱中しているように見えるかもしれないが、遠い果てからの人類の歴史の歩みを反芻しながら未来に向けて歩むということを無意識的にも行っているように見える。






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 ツイッターについて


(1/3)ツイッターというソフトを提供する側が、ツイッターというものに「ツイート」「リツイート」「お気に入り」「ダイレクトメッセージ」等々の諸機能を装備させた設計思想というものがあり、思惑やイメージもあるだろう。またユーザーの使用感に合わせた改良も行ってきているようだ。

(2/3)一方、ツイッターを利用する側からの感想としては、おそらく提供側の思惑やイメージを超えていると思われる。例えば、「リツイート」や「お気に入り」の具体的な選択の場面を考えても多様な動機があり得ると思われる。このことは生産―消費のどんなものについても当てはまるような気がする。使用者(消費者、またシステム設計者自身も含む)の動機の領域への想像や考察が、システムの改良やまた新たなシステムの創造を促すものと思われる。

(3/3)わたしたちが「リツイート」や「お気に入り」の選択をするとき、自分では見ることができなかったものと出会い、見ることができるという、わたしたちはいわば拡張された目を獲得しているということになる。そうして、そういうものをもたらす互いに多重のつながりの中に居ることになる。一昔前なら少しの画像でも扱うのが難しかった。ツイッターにおける膨大な画像がどう処理されているのか知らないが、ブロードバンドやシステム設計の現在的な技術力に支えられているのは確かであろう。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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 人間生(人として生きる)について


 現在までの研究の成果によると、人も、途方もない巨きな時間の中で、単純な生命体から様々な生物に進化・分化を遂げてきたことになります。これを思うと目まいのような気分になります。今は亡き三木成夫は、植物生から動物生への移りゆきを興味深く解き明かしてくれています。また、胎児の変貌の様子から魚類から爬虫類を経て人に到る人の進化の様子も明示しくれました。(註.1)
 
 危険があっても逃れられない植物生やそれなりの安楽を持ちつつも群れのむごい掟もある動物生と人間生がどこが違うのかと、遠い彼方の分岐してきた地点から想像の視線を走らせると、危険を避けたりむごさを解除可能なものにすることを人間は手に入れたのではないでしょうか。

 しかし、巨きな歴史の流れを眺めれば、宗教や制度や法としてかたち成してきたむごさや、人と人とが家族や社会の場で関わり合う時のむごさなどがいくらかは解除されてきていても、まだまだという気がします。そのことは、わたしたちが見聞きしたり、体験したりしている現在の世界の現状が示しています。

 この宇宙に偶然のように生まれた生命体の中から、さらに偶然のように言葉というものを手にし、内省することができる存在として、わたしたち人間が登場しました。現在の知見から判断して、もし、この銀河系がなくなればそこに存在するものは形をなくしてしまうのでしょう。さらに、この宇宙自体が無くなればすべての存在は消滅してしまうのでしょう。しかし、そうした宇宙史の中で、人類の歴史に「歴史の無意識」というものを想定すれば、わたしたち人類は、危難やむごさを次々に解除して安楽な生を欲求する、大きな川の流れに棹(さお)さしているように思われます。
 
 
(註.1)
人間の胎児は母親のお腹のなかで、受胎から三十六日前後に、「上陸する」とされています。つまり、水棲動物の段階から両棲類の段階へと進むわけです。
 この進化を確定したのは日本の発生学者、三木成夫(一九二五~八七)さんです。三木さんの『胎児の世界』(中公新書)によれば、人間の胎児は三十六日目前後に魚類みたいな水棲動物から爬虫類のような両棲動物へと変化します。つまり「上陸する」わけですが、そのとき母親はつわりになったり、精神的にすこしおかしくなったりします。たいへんな激動を体験しているわけです。三木さんによれば、水棲動物が陸へあがるときに鰓(えら)呼吸から肺呼吸に変わるわけですが、いかに困難な段階かということはそれでよくわかるということです。(『詩人・評論家・作家のための言語論』P8-P9 吉本隆明 1999年)

 
  (註.ツイッターのツイートを元に少し加筆訂正)






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  日々いろいろ―タケノコごはんから


 わたしが食事当番をしているから、わたしが作るのだが、先日タケノコごはんを作った。もう四年以上は毎年作っているから、材料と作り方は自然と覚え身に付いている。一年の今頃の季節ものの料理である。もちろん、今では材料はほぼ年中あるから、いつでも作ることはできる。ただ他の野菜と同様にほぼ年中手に入るようになったとしても、自然に生えてくる旬のものというのが、まだいくらか生き延びている。

 わたしの作るタケノコごはんは、タケノコ、ニンジン、こんにゃく、色付きかまぼこ、それぞれを小さく刻んで、砂糖、しょうゆ、酒少々で味付けし、煮る。熱いご飯に砂糖を少し加えた酢をふりつつ混ぜ、それにタケノコなどの煮た具を汁気をきって混ぜると出来上がり。その上に、焼き置いた卵焼きを細切りにして、少々乗せる。焼き海苔を刻んで乗せたりもする。めんどうだけど、年一回は作っている。タケノコの食感がとてもいい。

 例えば、作ったカレーをカレーのままやカレーうどんにしたりして、二三日食べ続けることはあるかもしれないが、今では毎日の食事の内容が違うのはほぼ普通になっている。しかし、季節毎に少しずつ変わることはあっても、日々同じようなものを食べ続けて、食事の内容が余り変わり映えのしない段階もあったと思われる。

 こういう過去の情景を思い浮かべるとき、わたしたちは無意識的にも現在を認識やイメージの基点にしている。したがって、そこには誤解や誤りが付きまとう。例えば、平安貴族の女性の十二単も、きんきらきんの美的イメージで捉え描くこともあれば、それは汗臭い体臭を防ぐためだったというような捉え方もある。平安貴族の日頃の食事についてはテレビの映像で見たことがある。現在から見てということになるが、わたしたち庶民の食事より慎ましいものだった。食事の記述や資料がいくらか残されているのだと思う。

 過去は、わたしたち人類が確かに通過してきたものである。しかし、外側の文明史もそうであるが、特にこまごまとした生活史や精神史はもはや大半が埋もれてしまっている。もちろん、それらの過去は、形あるものとしてや精神的なものとして形を変えて受け継がれているものもたくさんあると思われる。したがって、わたしたちが過去のことを考えたり、イメージしたりする場合には、できるかぎりわたしたちの現在から離陸して、過去の遺物や記録などとの出会いを重ねながら、あるいはわたしたちの内面を振り返りながら想像力を働かせ、過去そのものの有り様を浮かび上がらせようとすることが大切である。
 柳田国男の文章を読んでいて、「かて飯」(註.1)という言葉に出会ったことがある。タケノコごはんもその「かて飯」に当たると思う。引用した註によると、「米の消費を抑える目的」とあるが、もちろんそのことも含んで、現在わたしたちが食の工夫をしているのと同様に、もう一つは日々の変わり映えのしない食に彩りを与える工夫として考えられた、粟や稗の頃からのものではないかと想像する。

 何年か前、星野道夫の文章を読み漁っていた時、たぶんアラスカのトーテムポールのある島を訪れた文章だったと思うが、夕方、海辺で漁からの夫の帰りを妻が待ち受けるというはるか太古の人々の情景を想像する場面があった。これもまた、アラスカという大地やそこに生きる動植物や人々との数々の体験を潜り抜けた星野道夫の言葉の場所から織り上げられたイメージだと思われる。


註1.「かて飯」wikiより
かて飯は、米の消費を抑える目的で、雑穀や野菜など他の廉価な食品を炊きこんで増量した飯である。米に加える食品を「かて」と呼び、その種類によって大根飯、蕪飯、芋飯、南瓜飯、小豆飯、山菜飯、海藻飯と呼び分ける。農業技術や輸送、貨幣経済が未発達時代だった近世以前は、全国的に広く食されていた。米が貴重な離島や寒冷地の山村では、粟や稗など雑穀の飯に野菜類を混ぜ炊きする例も見られた。今日では米の不足を補うためというより、季節の料理として、あるいは食卓に変化を持たせるため、えんどう飯、栗飯、松茸飯などの炊き込みご飯や混ぜご飯として食べられることが多い







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 参考資料―考える吉本さん①

 (「どう生きる?これからの10年」吉本隆明インタビューより )
 ( http://www.bookclubkai.jp/interview/contents/0062.html )


B:100年後、人間はどのような意識の状態にいると想像されますか?


100年というと、人間が赤ん坊のころから亡くなるまで、だいたい一代。
そのくらいの範囲で考えられることだけが、
まあ真面目に考えている事なんだっていうことができますね。
レーニンは、唯物論的な政治哲学を持っていたけれど、
それだって150年ももたなかった。
宇宙は人間とは桁違いのことで計らなければいけないけれど、
人間の脳より先に宇宙があったんだよというのは、
どんな宗教家だろうがなんだろうが、
現在ではだいたいにおいて今は認めるでしょう。
物理学者のエルンスト・マッハは、
「そんな事いうけど、目をつむっちゃったらそんなこと問題にならないじゃない」
っていう観念論です。
人間の脳より先に宇宙が無かろうがあろうが、
要するに死んじゃったらおしまいじゃないじゃないかっていう事になります。
まあ、とりあえず、100年以内に考えられる事は考えた方がいいし、
わかればわかった方がいいと思います。
だけども、これが真理だぞっと言えるような事を人間の社会について
考えてみろって言ったって、そりゃあ誰にも不可能でしょう。
僕がいくら考えても10年か15年か、20年までは
ちょっと怪しいというそういう感じがしますね。
それ以上の事を言ったら嘘言っていることになる。



 参考資料―考える吉本さん②

 (「どう生きる?これからの10年」吉本隆明インタビューより )


B:これからの未来を生きる人たちに対して、
何かアドバイスはありますか?


僕は最近、「人間力」という言葉を作りましてね。
もうこうなったら「人間力」と「構想力」だって。
「人間力」って何かって言うと、
「人間が理想の可能性を考える能力」の事なんです。
それから「構想力」を持っていた方がいいですよって、
若い人には言うんです。
その二つだと思う。
「構想力」というのは、たとえば、仮にあなたが文部大臣なら何をするのか、
それを考えておくということです。
今の学校制度のここが駄目だと思うとか、
これは変えたいと思うとか、ここはいいと思うとか、
そういう事について具体的に自分の構想力を持っていた方が良い。
それを実行するかしないっていうのはどうでもいいわけです。
そういう場面がいつ来るかわからないけれど、
もし場面が来たらやればいいし、
そういう必然性が無いのならやらなきゃいいし、
それだけの事なんだけど。
それは一見すると何も意味がないって思われるかもしれなけれど、
それはそうじゃないんですね。
たとえば三人の仲の良い友達がいて、
その中の二人が「構想力」を持っていたら社会は変わります。
これはハイテクが発達すればするほど変わりますね。
だから「構想力」だけはもって、明日からやれって言われたら、
はいって言っていってすぐにやればいいんです。
これは当番みたいなもので、別にそんなの偉いもへちまもない。
いつだって、お前やれよ、ってことになったらやればいいんです。







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 日々いろいろ―「お鷹ポッポ」から


 NHKの大河ドラマは観ないけど、木曜時代劇は時々観る。今は『かぶき者 慶次』を観ている。時は、江戸初期、上杉家に仕えていた前田慶次(藤竜也)が主人公で、舞台は米沢。この第5回(2015.5.7放送)で、前田慶次(藤竜也)に仕える下男の又吉(火野正平)が木彫りの「お鷹ぽっぽ」を彫り、それを雫(壇蜜)という女性にあげる場面があった。「お鷹ポッポ」を見るのは初めてだったが、その場面(言葉)からわたしはすぐさま吉本さん(吉本隆明)を思い浮かべた。

 もうひとつ、親しみを感じた理由があった。その店の庭先には、私が山形県米沢市の高等工業学校にいたとき、「お鷹ポッポ」と呼んでいた、おそらくアイヌの鷹をかたどったにちがいない、木を削っただけでつくった置き物が飾ってあった。
 うれしかった。これを知っているのは東北も山形県あたりの人だろう。もしかしたら、お兄ちゃんも米沢出身かもしれないと、勝手に空想をたくましくした。
 そういえば、高等工業学校時代、首が細く長い教授は、「お鷹ポッポ」というあだ名だった。思い出は果てしない。
 (『開店休業』吉本隆明/ハルノ宵子 「せんべい話」P82 2013年)


 何でもないせんべいの店だと思っていたところ、私は、あっと驚くほど感動した。東北の小さな町で学校に通っていたとき、小型のものを買って持ち帰ったり、町筋の店では飾られている大型のものを見かけたりした。あの馴染み深い「お鷹ポッポ」が店先に飾ってあったのだ。
 「お鷹ポッポ」は、一刀彫で一本の木材を切り開いて、鷹の形に仕上げてつくる見事な民芸品で、思い出すのは学生時代、顔が小さく細長く、首筋も細長い、とある名物教授を親しみを込めて「お鷹ポッポ」という、あだ名で呼んでいたこと。
 私は第二の故郷と言っていいほど愛着を感じていたその土地と、教授先生に誰もが感じていただろう愛情と同じような感情を、このせんべい店に感じた。
 それからは遠回りになってもときどき店に寄って、世間話を交わすようになった。
 (『同上』 「塩せんべいはどこへ」P227)



 本書は、食にまつわる話であるが、身近な食の話に触れながら吉本さんが全力を掛けて生涯考察してきたことの頂からの、未だに決着が付かない問題を考え続ける言葉の表情を窺うことができる。たとえば、「塩せんべいはどこへ」の末尾には、「人間と自然との相互関係には、不可解なところがある。」とある。ということは、わたしにはよくわからない部分にも遭遇したけれども、食に触れながら単なる随筆風ではなく、老いて尚対象の本質的な姿を追求して止まない思想者の新鮮な姿がある。娘ハルノ宵子の文章が吉本さんの文章に唱和するように各回付けられていて、吉本さんの言葉がいくぶん相対化され、本書はいい構成の本になっていると思う。


 「お鷹ポッポ」がどういうものか、以下の引用のページでもその画像を見ることができる。


「お鷹ぽっぽ」に代表される笹野一刀彫は、山形県米沢市笹野地区に伝わる木彫玩具です。お鷹ぽっぽの“ぽっぽ”とは、アイヌ語て“玩具”という意味。 米沢藩主上杉鷹山公か、農民の冬期の副業として工芸品の製作を奨励したことにはじまり、 魔除けや“禄高を増す”縁起ものとして、親しまれてきました。 (「東北STANDARD」 https://tohoku-standard.jp/standard/yamagata/otakapoppo/ )


 この説明によると、近世の起源とある。wikipedia「笹野一刀彫」によると、「お鷹ポッポ」以外の木彫りを含めて、「地元の伝承では、806年(大同元年)開基とされる笹野観音堂の創建当時から伝わる、火伏せのお守り・縁起物とし、1000年以上の伝統があると主張している」とある。こういう伝承自体は、すぐに事実とすることはできないが、かといって近世に過去との何の脈略もなく生まれたとも考えにくい。

 確かにアイヌ語との関わりなどを考えると、そのような木彫りのものは古い歴史を持つだろうと想像される。また、アイヌには木の棒から作られるイナウという祭具がある。そして、今では「民芸品」となっているこうしたものは全国的に様々に存在していると思われる。今では軽い品々になってしまっているけれども、元々は、「お守り・縁起物」のような宗教性をもったものだったのだろう。

 柳田国男が調べていた、東北地方で信仰されている家の神である「オシラサマ」は木で作られているという。木が霊力を持つと見なされていたのだと思われる。当然のこととして、それらの起源を考えれば、「オシラサマ」も「イナウ」も「お鷹ポッポ」も、また全国に残っているそれらと同様のものも、近世や古代や縄文時代を超えて、自然や自然のものに宗教的な霊力を強く感じていた人類の段階へと果てしなくさかのぼることができる。 
 現在では、その霊力や宗教性はずいぶん薄まってしまっている。しかし、人類の起源からの流れは脈々とつながり、形を変えて保存され、流れてきていることになる。






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 日々いろいろ―「お鷹ポッポ」から・続


  人がある懐かしさ(あるいは、痛ましい思い)で過去を振り返ることがある。単なる観光旅行ではなく、人がある地に一定期間生活していた場合を考えてみると、過去はもはや通り過ぎられてきたものであるが、ある地の様々な場面での風物や人々とのくり返してきた出会いがあり、そのことはその人に何ものかを刻みつけているはずである。そして、あるもの(ここでは、「お鷹ポッポ」)を媒介として、その過去の時間や空間がイメージとして蘇ってくる。そして、その湧き上がってくるイメージは、その人固有の色彩や匂いや情感に彩られている。


 何でもないせんべいの店だと思っていたところ、私は、あっと驚くほど感動した。東北の小さな町で学校に通っていたとき、小型のものを買って持ち帰ったり、町筋の店では飾られている大型のものを見かけたりした。あの馴染み深い「お鷹ポッポ」が店先に飾ってあったのだ。
 「お鷹ポッポ」は、一刀彫で一本の木材を切り開いて、鷹の形に仕上げてつくる見事な民芸品で、思い出すのは学生時代、顔が小さく細長く、首筋も細長い、とある名物教授を親しみを込めて「お鷹ポッポ」という、あだ名で呼んでいたこと。
 私は第二の故郷と言っていいほど愛着を感じていたその土地と、教授先生に誰もが感じていただろう愛情と同じような感情を、このせんべい店に感じた。
 それからは遠回りになってもときどき店に寄って、世間話を交わすようになった。
 (「塩せんべいはどこへ」P227 『開店休業』吉本隆明/ハルノ宵子 2013年)


 この文章のイメージや情感の流れを取り出してみると、「何でもないせんべいの店」→「あっと驚くほど感動」→「あの馴染み深い『お鷹ポッポ』」→「とある名物教授、あだ名」→「愛着を感じていたその土地」→「教授先生に誰もが感じていただろう愛情と同じような感情」→「このせんべい店」となっている。もちろん、このイメージや情感の流れは、吉本さんが現場で想起したり感じた流れそのままではないかもしれない。つまり、文章にする過程で付け加えられたものもあるのかもしれないが、そこは分離することはできない。

 まず、外国人に関してはわからないけれども、この列島の住人であるわたしたちには、こういう文章を読んでも異和感はないであろう、つまり、そのイメージの湧き方や情感の流れにスムーズに入り込んで行けると思われる。

 ここから、類推してみると、わたしたちは、それぞれ生い立ちが異なるものがそれぞれの固有性を携えつつ、同一の地域(または、小社会)で、同時代に生きるということは、ある地域(または、小社会)的な共通性を共有しているということである。このことは、昔にさかのぼるほど強かったものと思われる。現在では、このような地域的な固有性は、欧米文化やその考え方の浸透とそれらによる全社会的な均質化のなかに解消されつつある。

 しかし、そんな状況にあっても、この列島に住むわたしたちの精神や心に刻まれた数万年にも及ぶ遺伝子は、現在の状況を許容しつつも、その全体的な解消を許容することなく、避けられないグローバル化(人類の地球規模の再会)の中で、欧米主導のグローバリズムに対しては半ば無意識的にも反発しているものと思われる。そのわたしたちの意識的、無意識的な部分が、効率や競争や市場等々のキーワードに象徴される欧米主導のグローバリズムにやられっぱなしなのか、それともある独自のものを形作ろうとするのかは、これからのことに属している。






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日々いろいろ―農事メモ2015.5


 作物を育て始めて四、五年、サツマイモの苗やショウガの種はずっと購入していた。昨年末、ショウガは土は落として洗わずに濡れた新聞紙に包んで発泡スチロールの箱に入れて室内で保存した。今年の4月上旬に箱を開けたら腐れることなくいい状態で保存されていた(写真)。したがって、今年は種ショウガは購入することなくそれらを畑に植えた。

 同じく昨年末、サツマイモは畑の隅に小さな穴を掘って(写真)ワラや米殻とともに種サツマイモを埋(い)け、最後に土をかぶせた。一番上に覆いをするのかどうかは説明に書いてなくよくわからなかったが、下まで水が染みこむのじゃないかと思って中途半端な覆いをした。今年の4月上旬に掘り出したら、穴の下まで水が染みこんでいて埋けていた三分の一が腐ったり腐りかけていた。後は、大丈夫そうで少し食べて、種芋を同じ畑の隅に作っている小さい温室に20個程度植え込んだ。

 サツマイモの保存用の穴は、深さ80㎝ほどと説明にはあったが、穴の縦横が狭くて、底も固く、身動きが取れずに、70㎝以上は掘れなかった。また、一番上にかぶせる土の厚さが説明より少なくしていたと思う。水が染み込んだ理由は、一番上にかぶせた土の厚さか、一番上に覆いをしなかったからであろう。ちなみに、サツマイモの呼吸用には説明通り中に穴を開けた竹を一本差し入れていた。今度は、別の畑の土手に横穴を掘って(もう掘っている)、試してみようと考えている。ところで、ショウガやサツマイモの保存法は、ネットで調べたものである。わたしの農事は、この無償の〈ネット知〉の助けをずいぶんと受けている。

 ところで、サツマイモの種芋を小さい温室に20個程度植え込んだものは、なかなか芽が出てこなかった。見た目は、腐ってなくても良くなかったのかと思いつつ、何度か見回りをしている内に、一個だけ芽が出て葉を付けていた。昨年そこにも植えていたスイカからのものか、スイカも一苗芽を出していた。(写真) サツマイモが1個だけ芽を出していたのを見つけたときのわたしの感動のようなものは説明しがたい。いろいろ失敗することもあるが、農事の「いい感じ」は、そんな特別の場合に限らず、作物が育っていくのを目の当たりにすることにも存在している。しかもうまくいけばわたしたちに収穫という恵みをももたらしてくれる。

 ことしのスイカ(昨年より減らして9株)も育っている。(写真) 6月上旬にはカラスよけのテグスを張る予定。

 









 








 












 











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 日々いろいろ―ネット接続・プロバイダー変更から


 わたしの家のネット回線・接続は、ADSL→光と十五年余りにわたってNTT・ぷららだった。ここ数年か、こちらがしつこいなあと感じるほど他の業者から時々電話セールスがあった。「もっと安くなりますよ」ということで、では勝手に安くして良いですよと応じると、お宅に伺いますとくる。つまり、契約変更が必要で書類手続きが要るとのことであった。こういうやりとりを何度もくり返していた中で、最近、契約変更に伺うことはありません、という電話が来た。疑問に思いつついろいろ尋ねていたら、NTTと回線をシェアするのが前より自由化された云々。今までにないことでいろいろ不審に思いつつも、そのことに感動したわけではないけど、ついいいですよといってしまった。結局、振り返ってみると今までしつこく電話セールスのあった「契約変更」と同じことであった。我ながら愚かにも、光回線供給元とプロバイダーが二つとも変わってしまうことに最初は頭が回らなかった。少し夢見のような気分であったが、替えてみるのも、まあ、いいかとキャンセルはしなかった。

 それからが大変だった。ホームページは、引っ越ししなくてはならないし、今までのメールアドレスは、マイクロソフトアカウントや筆まめなどなどいくつものアカウントのために登録していたから、これをメールアドレス変更しなくてはならなかった。20件ほどもあった。また、これからはauひかりで、回線速度が最大1Gpbs (1000Mbps)対応になるので、それを生かすにはギガ対応ではない有線lanのスイッチングハブやlanケーブルを交換しなくてはならなくなった。

 現在は、パソコンでもネット回線でも、モデルチェンジが早い。前のシステムから余り面倒もなくスムーズに移行できる場合はいいが、いろんなものが新たな環境になるのはつらい。わたしの面倒くさがり屋のせいもあるが、今までにいろんな設定の困難な場合に遭遇しているから、新しく替えるのには抵抗がある。今回もネットワーク上にのせていた方のプリンターが動かなくなり、二日くらい格闘したけど、認識してくれずに失敗している。

 このことで、思い出すのは、この件とは直接関わらないけれど、ネットにおけるパスワードの件である。最近ではパソコン(windows8.1)がいくらかはパスワードを記憶してくれて楽になっているが、それでもちゃんと控えて置かなくてはならない。パスワードの数も増え、その管理も面倒だ。パスワード認証はもう飽和点に達していて、指紋認証かなんかよく知らないが、何か別の形を考えないといけないと思っている開発側もあるのかもしれない。ぜひもっと楽にしてもらいたいものだ。

 さらに関連して、こちらもゴミの分別はあるけれども、東京辺りよりは大雑把かもしれない。社会の高度化や複雑化に対応していろんな分野の対策も複雑化してきているが、人間はそんな複雑化に日常的に耐えうる存在ではないと思う。しかし、何でも飽和点に近づかないと対策は本格化しない。

 もちろん、考え方さえしっかりしていれば、解決できる複雑化の問題もある。例えば現在の学校の先生の忙しすぎの問題である。成績評価の管理や処理を複雑化させたから、生徒に向き合う時間も減ってそんな雑務に疲弊させられているようだ。先日は、激務のため教頭になる希望者が激減したというニュース記事もあった。わたしから見れば、そんな複雑化させ緻密を装った成績評価は無意味である。その幻想的な価値は、現場を知らないで制度をいじる学者たちや官僚たちの頭の中にしか存在しない。無意味さのために先生たちが翻弄されているとしか思えない。
 
 わたしが教員の時は、テストや提出物を当然参考にするが、いわば直感的に適当に成績を付けていた。それで何の問題もない。つまり、しょうがないから成績付けていただけで、そこには大切な本質的な問題はないからである。したがって、複雑化させた成績評価の管理や処理を取っ払えば、新たに加わってきた無意味な疲弊の問題は、一挙に解決する。ほんとは、こんな場合が、現在の社会には他にもいろいろありそうな気がする。


































ツイッター詩


 [ツイッター詩]をはじめます。

 この列島の住民に限らず、言葉の障壁があっても、万人が感じるだろう考えるだろうある舞台に立ってみたい。歳を重ね過ぎたせいか言葉も固くなっているかもしれません。あちこち油でも差しながら、柔軟体操でもして、まぼろしの言葉をかたち成していきたいです。 (2015.1.2)







ツイッター詩1


例えば
「ソーシャルデザイン」
という言葉があり
何ものかが稼働している
出自は知らないが外からだろう
ちょっと気恥ずかしい響き
社会改造にせよ
というわけでもない
ないけど
社会改造以前の和語が
その和語以前の言葉が……
気になり
大きな木に
鳴っている






ツイッター詩2


例えば
「ソーシャルデザイン」にまたがって
大阪のおばちゃんたちを潜り抜けようとしたら
青年はあめちゃんをもらえるだろうか
もらったとして食べるだろうか
大阪のおばちゃんたちと青年の演じる
あめちゃんに関する劇
急ブレーキはないけど
どこからか
軋む音する






ツイッター詩3


しつこく
「ソーシャルデザイン」にこだわっている
ぶんぶんぶん ぶんぶんぶん
部屋の内外
煙もうもうで
端(はた)からは
ストーカーじみて見える
本人たちは鼻歌歌っている

おばさんたち
ちら見して
そそくさと通り過ぎゆく

言葉と言葉の衝突には
波紋が立ち
上る






ツイッター詩4


こだわりは
個にはじまり
個におわる
(周囲に伝染する場合もある)

そのベクトルたちの軌跡は
それぞれ
色や
匂いや
緩急や
屈折率や
ひとり一人
まるで性格のように違っていて
急には
曲がれない 止まれない 協調できない

こだわりこだわるこだわるるんれ







ツイッター詩5



人間界に呼び入れられて
季節は春となる


裏方の母のように
人の肌合いにどことなく
感じられるもの
人の衣服や食べ物など
衣替えさせるもの


日差しを浴びて
温もるからだ
目 耳 肌
ちいさく打ち震わせている


人の世が曇っていれば
あるいは
ひとりが曇っていれば
春も曇ってくる
二つの春がある


二つの春







ツイッター詩6


「エチオピア 巡礼の大地」
偶然終わりの一分位
台所から観た
一人の女は
後生の安楽を願ってと語り
一人の男は
農民だから難しいことはわからない
ただ祈るだけと語った
誘い出された言葉と共に
顔の表情たちは
乾いた大地 乾いた大気
日差しに
しっくり溶けていた







ツイッター詩7


耳が遠いわけでもないのに
伝わらない
この村が 好むらあに
玉手箱は 小石に
なったりする
伝わってはいるのに
伝わらない
 
人は互いに紐伸ばし
伝っていく
すれ違い ぶつかり 交わり
伝う

一緒に食事したりハグしたり
するとわずかに熱は
伝わっている







ツイッター詩8


ゴラムは「わたしのいとしいしと」と呼び続け
伊東静雄は「わがひと」を歌い上げた
ともに「哀歌」に終わっても
切羽詰まった
心の奥処(おくが)からの
奔流(ほんりゅう)に違いない

けれど
「いとしいしと」はわかっても
「わがひと」は照れるな
伊東が着慣れぬ燕尾服(えんびふく)着ているみたい


註.「ゴラム」は、映画『ロード・オブ・ザ・リング』の登場人物の一人。
   本来の名前はスメアゴルという。







ツイッター詩9


言葉が湧いて
ゆっくり流れ出そうとする……
しばらくあれこれしてたら
忘れてしまった
(メモ取る時もある)

思い出せない
海は
いつものように
いちめん青く
さざ波立っている

とっても大切だったような……
今では
言葉の海に
溶け戻っている





10



ツイッター詩10


同じ日差しを浴びていても
一般に
銅像は外を向き
自画像は内を向く
大気や日差しの
吸収や反射率が違う

詩にも自画像がありうる
けれど
自分の背中は見えない
外界にさらされた
未明の自画像の部分を
隔靴掻痒(かっかそうよう)の歩みで
塗り重ねていく
生涯は





11



ツイッター詩11


数年前
近くの老人が亡くなった
若い頃から温室でランを育てていた
いつどうしてランの栽培を始め
止めたのか……
娘夫婦が戻り
しばらくして亡くなった
まだ道が泥道だった小さい頃から
ほとんど話したことはない
ただ時おり顔を交わした
ことはある

今私におぼろ気にある記憶たちは
私が去ると消えてしまう
わたしは他人の記憶にしばらく残り
百年もすると
いろんなことが消えていく
千年もすると
更地に異様なものが建つ
けれどいつの時でも
こんなこまごましたことが
人のあわいには
泡立っている






12



ツイッター詩12


耳から来る
みかた
味方だと思っていたら
見方の一つだった
誤解の峠を越えて
道に踏み迷う
 
耳から来る
みたか
三鷹に入り込む
たかみから太宰治をみたか
水の匂いする
 
耳から来る
みかた゜
うまく聴き取れない
音とともに
見たかい
景色が自在に変幻する






13



ツイッター詩13


耳から来る
かたみに後ろ髪引かれ
夕暮れの関所を背に
上っていく

きみは神田の民かたみのかみたか
狂おしいおぼろ月
溶け合って
舞い 舞い 舞い

二日酔いの
朝まだき出立してきた
民の神田は小さな点に
上っていく
祭りのこえの響き形見に
土匂う





14



ツイッター詩14


たかみから
たみのみかたか
みたかのみかたか
きみはみたか

みかたから
みたかのたみか
たかみのたみか
きみはみかたか

かたみから
みたかのかたみ
たかみのかたみ
きみはたみのかたみか

かみたから
たみはみたか
みたかのたかみ
きみもみたか





15



ツイッター詩15


こ と

流れ来る
切れ端ではなく
言葉の総量を
しずかに
感じ取りたい
流出させたい

ことば
日々擦り切れながら
かたち成すほかない
としても
皮膚の小さなひびから
痛みの記憶が引き出され来る
としても
………
しずかに
しずかな


※ 画像のテーマは、「言葉」です。上段から右へ、制作過程①②③④。三段目の二つが完成作。






16



ツイッター詩16


今年もまた
うたかいはじめちゃんやってる
シチュー作りながら
ちらちら観てしまった

静まりかえった画面
歌の尾を引く声が流れている
楽屋の階段を晴れがましい影たちが
ゆっくり上っていく

例えばこれはこの列島の住民が
時には避けられない
優しいリトマス試験紙
柔らかな踏絵

私はなーんも興味関心利害損得ないけど
小さい声でつぶやいてる
「当人らが心優しい人であろうとも
これまた 過誤の人類史の象徴である」と

・・・・・
あ 髪型が七三から真ん中分けになっとるやん!





17



ツイッター詩17


考える
万人は考える
振り切ることのできない万有引力に沿って
自然に 知らぬ間に
考えてしまう

一人
考えることには
見えない重力のように
過去の万人の足跡が流れ来て
一人の血流が脈打つ
 
考える
万人が考えている
日々
考え

いる





18



ツイッター詩18


考えない
万人は考えない
草木や犬猫みたいに
自然のままに
風を感じている
肌合いに
脈打つぬくもりに
束(つか)の間
寝そべっている

身を切る冬の冷たさに
つい考え込んでしまっても
夢の奥処(おくが)では
考えない
流れに漬かっている
遙か遠い 日々の暮らしのように





19



ツイッター詩19


わからない
別の国でも
別の地方でも
ないのにわからない
言葉がある

わからない
他人のでも
幼年のでも
ないのにわからない
言葉がある

わからない
言葉には
半ば無意識のように
匂い立っている
言葉の表情がある
駆ける心の
少し乾いた裏地がある





20



ツイッター詩20


とびっきりの
やさしい言葉に
ちゅうりっぷ
を思う

小学校に行くことになり
慣れない教室で
チューリップをうまく描けなかった
なぜみんなできるの?
今でも繰り返すことがある

やさしい言葉は
とびっきり難しい
固く折れ曲がってしまうと
見えなくなる
関係





21



ツイッター詩21


やさしいは
優しいなのか
易しいなのか
いずれをも含むのか
あるいはまったく別のことなのか
それだけでの確定は難しい
 
遠い始まりから
いろんな物語を潜り抜け
言葉は一から多へ
増殖分岐してきた
 
今では廃れた古典の意味に
他人の言葉が
思えるときもある





22



ツイッター詩22


とってもやさしい歌を歌いたいときがある
易しくて優しくて
誰もがやさしいまなざしで振り向くような
とってもやさしい歌
 
犬や猫も振り向き
花や木もなびくような
とってもやさしい歌
 
泡を噴き上げながら
単調に繰り返す
波の音みたいな
やさしい歌 





23



ツイッター詩23


タオルは何度も洗えるけど
濡れてくると 冷!
アメリカ流の使い捨てか
キッチンタオルをよく使う


154円か
まだあるし いいか

120円 一家族二個まで
お やすいやん
二つ買っておこう

スーパーのものの値段図が
私にも肌感覚で記憶されている





24



ツイッター詩24


二月になると
みかんと入れ替わるように
デコポンが店頭に顔を出す
 
遙か昔のように
その形状に沿って
誰が名付けたものか
黄色い響き
 
待ちわびる
わたしのデコポンと同じく
誰もが待ちわびる
お気に入りを抱えている
春の訪れのように
今年初めてを
待ちわびる






25



ツイッター詩25


意味が
あるある
と言っても
大人の打ち上げる線香花火にすぎないこともあり
 
意味は
ない
と言っても
なにか
どこか
微かに流れている
いみのようなものが漂っている
ことがあり
 
人の言葉の
遠おおおい
始まりのようなもの
今も滴り
匂っている





26



ツイッター詩26


ちょ
ちょこちょこ
おっ
ちょこちょこ ちょこまか
おっ
あっ
ちょこっち ちょこりんと
ちょこちょこ
ちょ ちょ
 
おっ あっ
おあ おお おっ
おっ ちょこ
あっ ちょこ
あっちょこちょい
あっちょこちゃい
おっちょこちょい
 
おっちょこちょい






27



ツイッター詩27


もうもうもう
(煙だけじゃない)
もおお もおお もおお
(牛だけじゃない)
もうもうもうもう
(不満だけじゃない)
 
もうおお もおおう もおおお おおおう
(土煙立て
突進していく
牛になった
イメージの
うねり
wave wave wave!)






28



ツイッター詩28


若い頃250CCバイクに乗っていた
福岡から帰省の折りの高速道
フルフェイスをかぶっていても
…110……120…ともなると
風圧に涙が出てくる
世界を越境するわけじゃない
から気が抜けない
固く 張り詰め続ける
時には はっと
魅かれる一瞬
まばたきする





29



ツイッター詩29


一つ事を考える
薄らいでは
またいつの時か
違ったつながりと
違った色合いの中
考えている

考える
3分考えている

考える
1時間考えている

考える
10年考えている

考える
たぶん生涯考えている

考える
日差しの中
知らぬ間に
自然と考えている





30



ツイッター詩30


知らぬ間に
あまりにもお近づきになり過ぎて
目と耳と鼻の先
きつくにおい立つ
互いに
息も荒く
根深く古ーい言の葉のつるぎを武器に
ツイートしている
しそうになる
この駆動はなに?

新たな舞台で
日差しを受けて
こんにちわ
よか天気ですね
とはいかないか





31



ツイッター詩31








風呂敷に包み込むように
つぶやいている
微風とともに
さつまいもの生涯を渡って来る
というわけにはいかないか

名前は
はじめ
ある深みから
汲み上げられ
しまいには
踏み固められた自然のように
呼ばれるけれど
滴り続けるものがある





32



ツイッター詩32


(名前ということを意識することなく)
名前を呼んでいる
なだらかな丘陵
ゆっくり下るように

若い頃には
こんな呼び方もあったような
(さ)
((さっ))
(((さあっ)))
((さ)っ)
さっちゃん

そんな声も
わたしのタンスに仕舞い込まれている





33



[ツイッター詩33]


ちゃぶだいがえし
柳田国男が何度か触れてる伝説の
人柱と同じく
あったかなかったか
よくわからない
見たこともやったこともないけど
深い霧の中
ともにその気配が立ち込めている

近代の人柱は特攻
今なお人柱は無言の内に受け継がれ
ちゃぶだいがえしに至る
〈苦〉や〈悲〉をすくい取る
パラダイスのように
この列島の小社会や
「自爆テロ」や
哀しい血の花開かせている





34



[ツイッター詩34]


卓袱台返しというのがあった
その手前の匂い 嗅いだことがある
テレビアニメで見たくらいだが
一気に闇に越境してしまうから
今では
そのとっさの技は封印された?
代わりに
二人のお天気次第のでこぼこ道
なだらかな丘陵が続いている
時には
深い穴に落ちもする





35



[ツイッター詩35]


言葉は
正確に突き刺さらなくてはならない
張り詰めた時もあれば
まるで刺身のつま
どんな言葉でもゆるゆるされるような
脇役の時もある

例えば
飲み会や
恋してる時や
心の肌を流れる
ひびきあいがあるなら
言葉は要らない

色色色の
言葉の階段があって
日々 刻々
誰もが
知らない間に
上(のぼ)り下(お)りしている
放っている
言葉のスペクトル





36



[ツイッター詩36]


頭が切れるとも思わない
優れた才覚があるとも思わない
自画像の中
きみはどこにいるのか
どんな包みをほどいたり
結んだりしているか
ありふれた朝

人間界では
甲乙丙丁、優良可不可、ABCD……
付くのが自然になってるけど
もし宇宙の次元から透過してみたら
人は誰もが等しく小さな光の明滅
人が十重二十重(とえはたえ)に揺らめいている

若い頃や頭中心の人には
なかなかわかってもらえまいが
気ままに
時にはぼおっとして
生きるのは
すてきなことではないか
誰にもどこか片隅にある
ちょっと
赤ん坊の時のような
ネコみたいな
忌野清志郎の独特の声みたいな





37






























短歌味体な Ⅰ


 [短歌味体な]



百万言費やし合うも
発発 発発発
滲(にじ)み出すは絵の具の濁り




今となっては憎み合う男女
ものみな
磁石みたい二極に分離す




信長は攻め滅ぼし
女子供も数百人閉じ込めて
家々を焼き払ったよ

 註・『信長公記(しんちょうこうき)』より




フロイスは冷静の割には
対立する仏教徒を
悪魔の手先と何度も呼んだよ

 註・『フロイス日本史』より
   フロイスは、日本にやって来た宣教師。




豊後(ぶんご)のキリシタン大名は
十字架汚され
仏教徒を殺してしまったよ

 註・『フロイス日本史』より




歴史とは時間つながり
遠くても
今も着ている心の麻古着(あさ ふるぎ)を




歴史とは時間つながり
新味旧味
層成す心ふいと奏(かな)でる




戦国の世にわれ居れば
血縁の
結ぶ絆に武器持て駆け出(いで)しかも




 [短歌味体な]―戯れ体



見え見えのバレバレなのに
暗転し
別の物語事実を覆う



10
人の世なら何でも有りか
動いてる!
じっと見てたのに
碁石の位置が



11
子どもなら肌で嫌うよ
嘘つきは
言葉塗り重ねても尻尾が出てるし




 [短歌味体な]


12
今の世にわれ徒党・絆なく
寄せ来る言葉の洪水
静かに庭掃く



13
ここでならあいさつもしよう
日々変わらず
日差し柔らか風の匂う



14
ないないと否定の韻の
響く彼方
古びた日差し今日も差してる




 [短歌味体な]


15
(あなたは今ハゼの木の下!)
耳から下り
言葉が肌を発火させる



16
くたびれてスイッチ切れば
まぼろしの
言葉の洪水さっと潮引く



17
まぼろしと思いなせども
渦下り
肌逆立てる波風の立つ




 [短歌味体な]


18
なあんにもなくてもなくとも
てくてくと
日々の足音みたい歌は志向す



19
それはあなたこれはわたし
同じ足
跡でも違う声の響きが



20
言わないが中心にふんばり歌う
「つまらないものですが」の重力を受けて




 [短歌味体な]


21
何気ない「つまらないものですが」にも
遙か果てより
響き貫く人の世の年輪



22
小石にも幾多の歳月
刻まれて
ああ いまここのこの姿かたち



23
歴史とは重力みたい
いまここに
見えない力 重力場のよう




 短歌味体な


24
はらはらとものみなすべて
移りゆき繰り返しゆく
原原原


25
張るの日差し肌ゆるみゆく
なびきゆき滲み出しゆく
春春春


26
りんりんと鳴き出し静まり
梅匂う ゆるみゆく日差しに
凛凛凛




 短歌味体な


27
はっきりと意味はなくとも
微かに見ゆ
靄(もや)のかかる街朝の震えるを


28
はっきりと意味はなくとも
揺れ揺られ
しっとり触れる朝の始まり


29
はっきりと意味はなくとも
身は揺られ
るんるんるん走り出すよ




 短歌味体な


30
オレなんて短歌なんて
おもい渦巻き
清冽に湧く朝もあるさ


31
ずっしりと蹴られなくとも
こころ傾(かし)ぐ
重い渦巻きぐんぐんぐん


32
はっきりと意味では言えぬ
二月の梅
わが眼差しに触るる流るる 




 短歌味体な


33
大きく移ろう時に
姿現す
死んだ男の遺言人は

 註.鮎川信夫の詩「死んだ男」を思い起こして


34
やっぱりねもう忘れてる!
歳のせい?
けれどけれども今こここそ戦場(いくさば)


35
時間の波頭(はとう)の下に
ひっそり
深く残り来る根太いものは

 註.この列島人の精神の遺伝子を思って




 短歌味体な


36
鈴隣鈴 タイマー止まらず
隣倫隣
慌てふためく蟻たちのよう


37
毛布毛布(もふもふ)と波打つ心
砂利砂利
思いの外に砂をかむ時


38
sun sun sun 日差しの下に
曇曇曇
忍び寄るはどこの差し金か




 短歌味体な


39
がんばらんばうーばんぎゃーか
のおのおのお
すうすうすうぎゃあけんついてのお

 註.みな九州の或る地方の方言から


40
らんららん run ran run
駆け出しの
背を押すリズム足に馴染み居る


41
そおおかあ そおだねえええ
知らぬ間に
峠を越えて異流に踏み居る




 短歌味体な


42
駆けていく言葉はおわぬ
こぼれ落つ
ひとつひとつ背負い追いきれぬ


43
追う言葉出会うは靄(もや)の
彼(か)は誰(たれ)時
敵か味方か獣か人か


44
大車輪 光る言葉よ
寄せ来る波
と観客を掻き分け掻き分け


45
ここじゃない ああそこでもない
ふんい気は
肌にわかるのに言葉に終えぬ


46
追う言葉知らぬ所で
ばったりと
ああ小さい頃のけんちゃんじゃ


47
いくつもの層成(そうな)し眠る
駆ける言葉
姿形成(かたちな)す追う言葉に




 短歌味体な


48
世の中の天気模様の
どうであれ
子どもも遊ぶ犬も遊ぶよ


49
他人(ひと)知らず我知らずにか
ぶつかった
通路に尾引く心模様二つ


50
言葉さえ水面(みなも)に落ちれば
ざわざわと
胸騒ぎ波立て駆け出しゆくよ


51
言葉なんて言葉なんてさあ
と言っても
放てば血滲(にじ)み不穏(ふおん)が匂い立つ


52
沈黙の海に飛び交う
飛び魚の
上っては下り耐え居る疲労の


53
きらきらにカッコ良さげに
飛び魚の
心貫く大いなる日差し

註.大いなる自然、そして人間界の喩ということを思って




 短歌味体な


54
走る走る電車はまだか
波打つ肌に
ふいと流れ出すは津軽海峡冬景色


55
カッコつけ踏み出す挨拶
イメージは
根太い足の万葉集


56
まあだだよ もういいかいい
我知らず
顔を出してる梁塵秘抄(りょうじんひしょう)




 短歌味体な

57
ほんとうのほんとにほんとの
ほんとうさ
ほんとうに触れ居(い)るは難しい


58
くりかえしくりかえしても
大声でも
ほんとうは遠い深い霧の中


59
ひっそりと旅する者あり
ほんとうを
あるは銀河鉄道に あるは車に乗り


60
目まぐるしくくたびれるほどの
繰り返し
一ミリしか動かなかった


61
ほんとうは
時の渦のなか主流沿いに
微量の姿形改まりゆく




 短歌味体な


62
日々出会うA→Bの一歩が
目まいのよう
複雑系にすってんころりん


63
一刷毛(ひとはけ)の あ→いに刻まれる
無限に
戦(おのの)き震うこの一歩は


64
例えばA→Zとあ→ん
ちがうねえ
流るる速さ寄せ来る景色




 短歌味体な


65
南無阿弥陀(なんまいだ)
南無阿弥陀(なんまいだああ)
足しびれ
南無阿弥陀(なもあみだああ)
痛みの分かれゆく


66
歌うこと無くても歌う
自己矛盾(ねじれてる)
この駆動する energy flow(ひかりひかるる)


67
なんであれ生き継ぐかぎり
平等に(ひとしなみ)
光輝光(ひかりひかるるひかるらん)




 短歌味体な


68
鈍鈍鈍大気温(ぬる)んで
呑呑呑
からだのなんか緩(ゆる)みゆくよ


69
歯歯歯思わず笑い
roll down roll down
見えないしずく心模様


70
夢無霧萎(しお)れゆく枝葉
水吸水
夢幻の遠い出来事のよう




 短歌味体な


71
よく切れる(あぶな!)
これほどすごい(初めは皆)
包丁は(中程には)
お買い得だよ(鈍くなりいくよ)
さあ スゴーイ さあ スゴーイ さあ(ものみなすべて)


72
風が吹く(そおねええ)
気持ちは懸かる(さむいわねええ)
部屋の中(まだまだね)
古びたハンガーに(春が咲き出すの)
温(ぬる)くくつろぐ(まちどおしいわ)


73
これとこれ(ええっと)
書いてもらうと(あれなんだっけ)
あとはOKです(ハイハイ)
こちらの方で(風に吹かれて……)
うまくやります(ハイハイ)




 短歌味体な


74
節分みたい転げてくるよ
微笑みは
花ほころぶ流れに乗って


75
信号みたい点滅してる
人の手足(てあし)
心も頭も苦の韻を踏み続け


76
春みたい巡り来るよ
昨年と
微妙に違う衣装をまとい




 短歌味体な


77
あいうえお遠い書き始めを
繰り返す
自らは見えぬ背の不安から


78
12 12 そんなリズムが
あったんだ
12 12 12 知らぬ間に滲(し)みている


79
111 11 111 11 11
背景音楽(BGM)のよう
気づいたら遠い海辺を歩いていたよ




 短歌味体な


80
秋風の身に浸(し)む季節は
逆らうよう
情感の「シュミテクト」
 
 
81
何気ない日々のあわいから
敢闘賞!
例えば台所(だいどこ)の「キッチンペーパー」
 
 
82
あれこれと立ち回ると
忘れてる
熱湯にしてた 熱(あちっ)! 「はひふへほー」




 短歌味体な


83
こぼれそうな(あ)
ころがりそうな(う)
煙揺れ(あ)
くり返しくり返す(う)
平均台みたいな(う)


84
打ち上がるこころの下から
くねくねと
幻の風景(けしき)求め坂を上る


85
手すりからどちらに向かう?
付き従う
影みたいな言葉のスロープ




 短歌味体な


86
影の声 ダメよダメダメ
そっちへは
転がり落ちる死語の谷間


87
ひっそりと坂を上りゆく
汗もでる
頼みの綱はわが年輪の現在(いま)


88
ひとりから姿くらまし
のっぺりぺり
徒党頼むは顔立ち歪む(文体臭う)




 短歌味体な


89
ほんとうはどうでもいいのに
あたまいいね
と思うあり人の層成す心は


90
遙かなり人界超えて
振り向けば
人皆同じ光の明滅


91
開かれぬ仏典を背に
仰ぎ見る
今ここの夜空に浮かぶ星々を




 短歌味体な


92
ひとつとて立ち現(あらわ)るが
束になり
ずんずんずんと締め上げて来る


93
戻りがけに蹴つまづくよ
ああそうなんだ
急に剥(は)がされた冬の朝の布団のよう


94
わからないが降り積もりゆく
わからない
それでも平気にはな歌歌い行く




 短歌味体な


95
偶然に小枝が落ちた
流れに
わたしの小枝を浮かべ流してみる


96
鳥の群れつつ飛んでゆく
手が伸びる
触手のよう とんで とびゆく


97
1+1が難問に見ゆる時
つむじ風
さっと掠(さら)いゆく人の不明の闇に




 短歌味体な


98
さっちゃん早いものだね
卒業か
ぐぐぐっと一刷毛(ひとはけ)振り返り来る


99
すいません いえいえこちらこそ
(よそ見してたか)
春の気配匂い立ち流るる


100
はじまりは不明の芽吹き 
中ほどあって
いろんなやり取りふろしきを結びゆく






  [短歌味体な]100首に及んで


①「短歌味体な」の作品数が100首になりました。途中から、100首になったらまた別のことをしようと思い立ちました。普通に誰もが経験していることですが、なんでもその世界に入り込まないと見えない、感じ取れない、ということがあります。そして、そこには何かがおぼろに立ち上がってきます。
 
②わが国のすぐれた批評家の一人である内田樹は、『日本辺境論』(2009年)で、地理的にアジアの辺境たるこの列島が精神史的にも辺境ゆえに、この地からは自前の宇宙論など出たことはないし、これからも出ててきそうにないと述べていました。
 
③中国に任官願いの類いを書いた「倭の五王」辺りから、官僚層・政治支配層のアメリカ追従の現在に到るまでならそのことは当たっているでしょう。しかし、時間のスケールをもっと過去にさかのぼっていくと、その辺境論が無効になる地点があるはずです。その向こうまで突き抜けてみたい。未来に向けて。
 
④わたしは以前、詩で宇宙論的な試みをやったことがあります。内田樹のその本を読んだからではなく、それとは別に、わたしの固有のモチーフからです。
 また、短歌のような詩型でもそのような試みがやれないものか、と書き進めて思うようになりました。これはその無謀な試みです。
 
⑤日々いろいろと書き継いで、あとで総合するように構成できたらな、と考えています。 次から、[短歌味体な Ⅱ]になります。少しゆっくりやります。

 目印が付いているものは、□:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)です。






短歌味体な Ⅱ


   [短歌味体な Ⅱ] □入口論、●宇宙論、▲世界論(人界論)


1 □
葬式の服に付いてる
糸くずの
夢幻(むげん)に舞い深く深く落ちゆく




   [短歌味体な Ⅱ] □入口論、●宇宙論、▲世界論(人界論)


2 ▲
はじめには桜咲き匂う
中程に
きゅうきゅうと追い詰めらるる


3 ▲
ゆったりとくつろぎ微笑む
人は皆
無数の糸引き引かれつつも


4 ▲
歳重ね流れ流され
分かち難し
法の刀のざっくり善悪
 
 
5 ▲
そうそうそう相槌(あいづち)の内に
静かに
わたしだけの響き鳴っている




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


6 □
気づいたら入っていたよ
入り口は?
カフカの迷路城(めいろ)はここじゃない


7 □
気づいたら入っていたよ
入れたよ
万人向けの「どこでもドア」




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


8 □
無意味な仮定としても
もしきみが
いまここにいなければ〈世界〉は無い?


9 □
きみが居るから世界はかげり
父の死に
揺らぎ流るる木々のざわめく


10 □
加速器もSpring-8も要らぬ
誰もが持つ
きみの小石を投げてみよ




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


11 □
世界は志向される前に
空気のよう
不随意的に現前してる


12 □
小石落つ広がる波紋
日々新々(あらた)
世界の顔を盗み来る




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


13 ●
たとえ波風立たずとも
日々微々進(すすむ)
世界の色合い更新しゆく


14 ●
芽をだし枝葉身に付け
花開き
枯れ死にゆく宇宙もまた


15 ●
果てもない
言葉も超えて
星々はまた輪廻転生す




 [短歌味体な Ⅱ] 椿シリーズ


16
外力と内力と(そとからうちからひびきあい)
揺れ揺られ
ひとひらひらの流るる小舟

 註.例えば、椿の花びらの落下から


17
風に揺る赤い椿の
落ちゆきて
死に顔みたい血の気の引きゆく

 註.例えば、椿の花の死ということ


18
血の気引き薄らぎゆくよ
今はもう
眠るる木々に流れ落つ星夢(せいむ)


19
夢に見た明日は消失
静まりゆく
永遠(とわ)に眠るよ深深深(しんしんしん)




 [短歌味体な Ⅱ] 目覚めシリーズ


20
林林林(りんりんりん)奥深くまで
流れ来る
眠霧(きり)打ち払い朝のはじまる


21
ring ring ring(りんりんりん)流れ切断
左手に
慣れた足取り流れ下りゆく




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


22 ▲
知らぬ間に伸びる伸びる
触手は
ここからいくつもの垣根を軽々超え

23 ▲
魚類から人へ何億年?
方舟(はこぶね)出(い)づ
暗黒の宇宙(くらいうみ)へ何億年?




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


24 ▲
大宇宙上陸(くらいうみへ)その時反復する
遙かな
魚類からの記憶ふりふらふりっぷ


25 □
百数十億年(はてしない) 無言の内に
静静静(しいずかに)
血の巡るに耳を重ねる




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


26 □
断崖にふるふるふるう
舞い落ちる
全ゆる言葉踏み締め踏み締む


27 □
無門の隔靴掻痒(かっかそうよう)に
ふいと風
吹く吹き下る大気の言葉

 註.大道無門ということから




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


28 ▲
一人きり限りある時空(せかい)
身に染みて
思い巡るは時空(じくう)を超えて


29 ▲
羽震わし鳥瞰(ちょうかん)しつつ
地に降りて
羽休めては餌(えさ)をついばむ


30 □
掬っても言葉の網が
救えない
ざるをこぼれ落つ水気のような


31 □
たしかにその辺りよね
巣くうもの
姿が見えぬUFOキャッチャー


32 □
はっきりと掬えなくとも
未知の網
しっとり道を濡らしている




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


33 ▲
少しずつそう少しずつ
step by step(すてばいすて)
呪文無くても積み重なりゆく


34 ▲
おまじない痛いのとんでけ
とんでけー
言葉の流線が染み渡りゆく


35 ▲
見渡せば遠い灯りの
明滅す
旅ゆく途次の心細さよ


36 ▲
せわしなく地を這(は)う蟻よ
見渡せば
幾野(いくの)の間にか丘陵(おか)を越えている


37 ▲
像が揺らぎかたち成しゆく
一区切り
旅の中途に一息をつく




 [短歌味体な Ⅱ]  あそびシリーズ


38
やんややんおっとどっこい
すっとこ
どっこいどっこいしょ


39
えいさーさえいやさあー
英才(えいさあ)の
栄西(えいさあ)ころんでお茶飲みころぶ

 註.栄西は、中国(宋)から茶の種を持ち帰り栽培法を広めた、とか。


40
run run run だんだんだん
dam dam dam
らむらむらむだむだむだむだ damnn

 38-40の註.主に音の響きということを思い




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


41 ●
静けさを深く踏みゆく
無音韻
寄せ来る光果てなき時間(とき)の広がり


42 ●
例えばねふとこぼれた
一滴にも
宇宙原理は貫かれてある


43 ●
人を超え言葉を超えて
ただ黙す
絶えず蠢(うごめ)くこの宇宙は




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


44 ●
有無(うむ)もなく日差す光に
這(は)い回る
ただ蟻のよう平たい世界の


45 ●
日差し来る有も無も超えて
ヘーゲル超え
染み渡り来る他力(たりき)の光


46 ●
現るる生あるものの
ずっと前
闇と光の静宇宙(とき)があった?


47 ▲
わかるよ人界でなら
スイスイスイ
自力走行普通に見える

 註.人間界での人間の有り様を思い


48 ▲
それでも何か作動する
子を助く
母のような世界の手招き

 註.人間界での他力性を思い




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


49 ▲
わからないなぜ生まれたか
この問いは
受身のわれらの不安なストーカー


 註.
宇宙的規模における人間存在の根源的な受動性ということを思う。「なぜ生まれたか」、「なぜ生きるか」、「なぜ人を殺してはいけないか」などの様々な根源的な問いも、宇宙的規模においては無意味な問いである。さらに、問いに限らず、生贄(いけにえ)や人柱や殺人や戦争などなどの人間的な諸行動の善悪を問うこともまた、宇宙的規模においては無意味な問いである。そして、あたかも宇宙(大いなる自然)自身の内省でもあるかのように、人間界における人類史の精神史的な歩みそのものがあり、その積み重ね来た人類史の歩み自体がそれらの問いに対する答えに、絶えず更新していく答えに自然となっているように見える。


50 ▲
不安咲きふあんふおんと
神になり
人界にまで引き移さるる


 註.
遙か遠い人類のはじまりに、まず自然界とまだちっぽけな人間界の交わる渦中にまず<何か大いなるもの>が感知され、次第に<神>とかたち成し、生み出されてきた、次の段階として整序され膨れ上がっていく人間界の渦中にその<神>が写像された、つまり、〈自然〉=〈神〉から、それを名残として保存しながら〈特別の人間〉≒〈神〉へ転位した、いずれの段階も果てしない時間をたどりながら、と想像の線分を引きつつ。


51 ▲
わからなかった本願他力
宇宙の下(もと)
受身のわれらにスポットライト


 註.
宇宙的規模における人間存在の根源的な受動性ということと、親鸞の「本願他力」ということを思う。わたしは親鸞の「本願他力」ということがよくわからなかった。わたしたちは、向こうから(現実世界)の助け(他力)も部分的にはあるけれども、生きていくにはこの人間界では日々<自力>を行使しているし、行使せざるを得ないからである。そして、わたしは、人間界を超えたところの宇宙的な規模の下での根源的な受動性の人間存在の有り様を指して、親鸞は<他力>の存在と見なしたのではないかと思うようになった。現在では、宇宙規模のレベルと人間界のレベルははっきり区別されているが、人間の起源のほうへ時間を遡(さかのぼ)っていくにつれて、おそらく現れる世界は、その両者が未分化なものとしてイメージされ、考えられていたと思う。親鸞の人間は<他力>的な存在という見方にもその未分化のなごりがあると思われる。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


52 ▲
塗り替えて輪廻転生は
浄土へ
きちんとそこにあの世として建つ


53 ▲
「そんなの信じられなーい」
茂りゆく
言葉たちに薄らぐ浄土


54 ▲
浄土じょどジョウド
返り咲く
空無通り過ぎ現世(このよ)の大地に


全体の註.浄土というものもよくわからなかった。もはや輪廻転生もあの世の存在もほとんど信じることのできない世界にわたしたちは居る。したがって、現在における浄土とは、現在の社会の死後の、望ましいイメージの世界のことではないか。そうであるとすれば、浄土とは、絶えず更新されゆく現在の渦中の、望ましい未来性の別名に過ぎなくなる。浄土というイメージや考えの移り行きを思って。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


55 ▲
いつの世も言葉(ことのは)以前も
以後もあり
しるしるしゅわ 反復(くりかえし)の現在(いま)


56 ▲
衣替えヘーゲルもマルクスも
日差し新(あら)た
歴史の春芽吹きふくらむ 


57 ▲
くりかえしくりかえす元(もと)に
あるものは
静かな春この桜咲かせる




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


58 ▲
片付いてほっとゆるみゆく
漂うは
入れ立てのコーヒー香舞い立ち匂う


59 ▲
ありがとう たった一言に
おもい悩む
何気なさの遙か手前に


60 ▲
日々流るちいさなことに
ひたすらに
ちから入り入る重心のよう


61 ▲
ナノなのでそう簡単に
花は花は花は
咲く ことはない振り向く抒情

 註.一時テレビでしつこく流れていた「花は咲く」に戯れて。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


62 □
いろ褪(あ)せ縮み枯れゆくも
正視すべき
新たな生命(いのち)生み生まれゆく梅


63 □
見渡せば咲き匂うさくら花
知らぬ間に
散り急ぐ花々はおぼろな記憶のよう


64 □
おぼろげな記憶かき寄せ
選り分けて
静かに積もる人の匂い立つ




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


65 ▲
やわらかに柳あおめる
生まれ育ち
なら自然と言葉の行間(ことば)のせせらぐ

 
 註.石川啄木「やわらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 」 をふと思い引き寄せて。


66 ▲
深傷(ふかで)負い生まれ育ち
冬に墜(お)つ
ぐるぐるぐる毛羽立つ悪は

  註.世の「凶悪」と呼ばれる事件を思って。


67 ▲
悪の華ふいと湧き出る
沈黙のよう
咲き誇るるもこの世のかなしみ

  註.日々現象する事件を思って。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


68 ▲
誰もがなんらかの傷を
刻まれて
生まれ育ち修復しゆく


69 ▲
悪ければ新芽芽吹くよう
くり返し
樹木の年輪探査し(たずね)歩くよ

 註.中途までしか読んでいない『母型論』(吉本隆明)を思いつつ。


70 ●
木の葉が木の枝ぶりが
ああでなく
こうそうなった 言葉もまた?




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


71 □
遙かな 人間になる前は
ネコみたい
だったかどうか 霞(かすみ)棚引く


72 □
あれこれと身振り言葉を
送っても
返りくるくる原型の言波(ことば)

 註.ネコと付き合っていて。


73 □
わからない言葉以前は
もやの中
赤ちゃんばぶばぶ這い出して来る




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


74 ▲
わからない言葉同士でも
匂い立つ
例えば笑みの流れ滲(し)み入る

  註.「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんが、外国に出かけてだったと思うが、互いに外国語を知らないのにある外国人と意思疎通ができて語り合ったとある本の中で述べていたことに、わたしがふしぎな思いを抱いたことを思い出して。


75 ▲
似ていてもフリーズとプリーズ
夕暮れに
彼(か)は誰(たれ)ぞ誰ぞ不穏ざわめく

  註.もうずいぶん前になるが、アメリカ留学中の若者が、ハローウィン期間中に他家に迷い込んで射殺されたというニュースを思い出して。


76 ▲
freezeとplease フリーズとプリーズ
あちらとこちら
耳流れ来たる湧き立つ異形




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)



77 ▲
何気なく過ぎゆく時も
張り詰めて
一秒(とき)を刻むも共に現在(いま)にあり


78 ▲
二層なす身体と頭脳(こころとあたま)
無意識(しらぬま)に
頭ばかりが疾走しゆく


79 ▲
嗅ぎつける不幸の心
ドアを開け
奔流する時代(とき)の舞台裏




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


80 ▲
日々日差す何埋めようと
呼び寄せる?
「あかまたくろまた」(註)湧き立つまなざし

 註.「沖縄県八重山列島の豊年祭に登場する来訪神」


81 ▲
見え見えの自作自演
それでもなお
祭り沸き立つ劇の本質(とりこ)よ


82 ▲
舞え舞い立つ鳥の航跡
汗ぬぐい
ひっそり閑祭りの後は




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


83 □
ぎんぎんぎらぎらぎりゅ
ぎりゃぎん
ぐらぐらぐりぐるぎりゃぎりゅぎん


84 □
しーはほすーはほんのり
すーはしは
すーはほほほんぽんぽんぽんぱ

 83~84註.わたしの愛読する、作家の町田康を思い浮かべつつ。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


85 □
心踏む鈍い音階
風に押され
染み渡りゆき果てまでころびゆく


86 □
麦踏みNO!こころ心踏み
分けゆくよ
みどり滲み入り希薄なりゆく


87 □
避け難く朝は訪れる
色合いは
個の固有値(さだめ)より放たれゆくよ




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


88 □
スルーされ幸いなるか
無邪気に
門の手前に歌い踊るよ


  註.この世界には、例えば、作家に限らず避けようもなく悲劇の門をくぐる人々がいる。おそらく本人のほとんど与り知らぬ「生い立ち」と深く関わっている。そして、生きることにその自らが与り知らぬ由来を求める旅が加わる。無意識的なあるいは意識的な悲劇の旅の途次で、その門を固く閉ざしたり、飾り立てたりする者もいる。しかし、それは特権的なものでもなく、生い立ちの不幸を背負わざるを得ない限り、避けられないということにすぎない。人がほんとうは、その門が見えず、門から「スルーされ」るのは、「幸い」であるよと思いつつ。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


89  ●
今ここが全てのように
風の吹く
宇宙(とき)のすべてを知らないのに
 
  註.人は、現在に重力の中心があるから現在が全てのように生きて活動している。これは生活実感からもそうだ。しかし、一方、わたしたちの生活には自身のあるいは人類の過去や未来もいろんな形でやって来る。このことは人の生み出す考えや思想においても同様である。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


90 ▲
滴定の一滴(ひとしずく)から
湧き立つは
朝靄のなか過去のわたしか

  註.滴定(てきてい)
「定量分析の操作の一。試料溶液の一定体積をとり,これに含まれる目的成分と反応する物質の濃度既知の標準溶液を加えていき,目的成分の全量が反応するのに要した標準溶液の体積から,目的成分の濃度,あるいは全量を求めること。」




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


91 ▲
笑っても泣き出しても
ほんとうは
よくわからない樹液の律動(リズム)


92 ▲
風流る(ぶるっと身震い)
桜匂う
花見の宴に浮かれ騒ぎ立つ


93 ▲
巡り来た春の衣装を
身にまとい
桜花(おうか)の道を西行の行く


94 ▲
やまだくん な やまだくんさあ
おい!きいてるかあ
桜の小舟蛇行し綻(ほころ)びゆく




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


95 □
静かなる会議の時間(とき)
浮遊して
臨死体験(ぼんやり)してる居るのに(?)居ない(?)


96 □
どんなにも些細(ささい)に見えても
誰もがも
その言葉のドア開け閉めし行く


97 □
口癖は我知らぬ間に
踏み固まり
どうでもいいよいいよと開け行く




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


98 ▲
目まいするくたびれ果ての
忘れ果て
追いまくられの「逝きし世の面影」


99 ▲
前駆する言葉晴れ上がり
揺れ揺らぐ
後ろ髪引くためらう心


100 ▲
ありとある習わしを切る
夢に沈む
鋭い爪の前駆細胞

  註.前駆細胞
「幹細胞から特定の体細胞や生殖細胞に分化する途中の段階にある細胞。幹細胞は体のさまざまな組織・臓器に分化する能力をもつが、前駆細胞の分化能力は限られている。」




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


101 □
ひと休みしてもいいけど
染み付いて
あれこれ手の動き立ち回る


102 □
(入り口は どこそこですか)
問う前に
きみはもうすでにそこここに立つ


103 □
目をつぶる深く広がる
沈黙も
何かが在るよさざ波の立つ




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


104 ●
経文も言葉も超え
有と無(うとむ)超え
超えられぬわたし超え行く海原


  註.例えば、蟻の感知し、捕捉できる世界は、わたしたち人間とは異なるのではないか。同様に、どれほど人類史としての歩みと積み重ねをもってしても、わたしたち人間の感知し、捕捉できる世界は、この宇宙の一部に過ぎないのではないかという疑念がわたしにある。それは、地球という局所からの観測であるけれども、この宇宙全体が局所的に等質であると仮定してもである。わたしの内省や言葉を媒介し駆使して、わたしたちは世界を捉えようとする。少しずつ世界の像は深まりゆき、同時に追究するわたしたち人間の像も深まりゆく。いずれにしても、人はこの宇宙を、追究する人間という自らの存在の有り様を含めて、追究することを止めることはないだろう。それが人が「生きて在る」あるいは「生きていく」ということの半ばを占めているだろうから。後の半ばは、現在を味わい尽くすこと。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


105 ▲
お悔やみ欄知ることもなく
若い頃は
微熱の中空さ迷い歩く


106 ▲
年重ねつながりの糸の
絡(から)まれど
自由過ぎも不自由過ぎもなく


107 ▲
結ぼれるこの世の糸が
ぷっつりと
切れ消え行くに線香ひとつ

  註.時折来ていた親類の訃報のみならず、事件などで亡くなった人々をふと思うこともある。直接のつながりはなくても、この世に、共に在ったことからの、お別れのあいさつのような……。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


108 □
赤ちゃんのあぶあぶあぶう
自ずから
添いゆく母の入り口見ゆる




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


109 □
振り返る流れは揺らぎ
片隅に
静かに湧く青い道あり


110 □
くたびれてついうとうとと
小舟に乗り
どこどこ経てか今ここに覚(さ)む




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


111 ▲
何もない何(なん)にもないなあ
風の吹き
雲の流れゆくわたしの中に

  註.この人間界の日々の様々な場面では、言うべきことは何にもなくても何か言わなくてはならないことがある。ほんとうは、自然界と人間界にまたがって何にもないの中に佇んでいたいのに。



112 ▲
わけもなく意図もなくなく
思い出す
ただらあらあと広がり響く

  註.ふと中原中也の「らあらあと」という詩句が思い浮かんだ。調べてみると、「ただもうラアラア唱つてゆくのだ。」(「都会の夏の夜」『山羊の歌』)




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


113 ▲
ただひとりさびしくはない
人間界(ひとのよ)を
超え出る目と手足があれば

  註.わたしたちに閉ざされた人間界だけしかなければ、息苦しすぎるだろう。しかし、それは幸いにも風穴のように自然界や宇宙に開かれて在る。


114 ▲
旅行してもしなくても
誰でもが
日々千里旅し巡り来る

  註.わたしたちの日々の歩みは、具体性としては小さくても精神的には千里の巡回に値するのではないか。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


115 □
気づかれぬ空気のように
日々眠る
覚えなくとも寄せ来る夢波(ゆめなみ)


116 ●
人が居る居ないの外(ほか)に
闇光(やみひかり)
巨きな時を静かに刻む




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


117 ▲
沈黙のさざ波立ち居る
閉ざされた
部屋の窓から言葉の飛び立つ

  註.例えば、遠い昔の重苦しい会議の場を思い出して、言葉というもの、その現実の場を離脱するあるいはそこへ回帰する志向性を思いつつ。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


118 ▲
言葉に色が付いてたら
パッとわかる
例えばみどりそのこころ模様の

  註.ツイッターで時折出くわす「有名人」のつぶやきで、例えば自分の過去の体験の内省なのか自己主張なのか他人を教え導きたいのか、腑分けし難くよくわからないときがある。その人に長らく付き合ってみればわかってくるのかもしれないが、色が付いてて瞬時にそのこころ模様がわかればいいな思う。変なこと言えば自分が自然に恥ずかしくなってしまうような。個々人のこころ模様とそれがどこどことつながっているかという接続図が瞬時にわかれば、世の中無用の混乱や対立が少しは晴れ上がるかもしれない。因みにわたしには他人を教え導くなどという大それた考えは皆無である。




 [短歌味体な Ⅱ] ゆるゆるシリーズ


119
ゆるゆると服ゆるみゆく
ゴム疲れ
時折手を当て気がける気分


120
ゆるゆると日差しに温(ぬる)み
解(ほど)けゆく
日々反復に染みたリズムは

  註.「ゆるキャラ」なるものをふと思い浮かべ、その祖先は太古には神だったのだろうと思いつつ。ああ、わたしはそれにのめり込むのと別にというのとの中間地帯に居るなと思い、自分なりのゆるゆると。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


121 ▲
回って回って回るう
裏通りは
目まぐるしい時に肩固く張りゆく

 註.肩が凝るということ、その現場の有り様を想像して。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


122 ▲
言葉は高層ビル
ずずずんと
寡黙(かもく)な地階からにぎやかな高層まで

 註.社会に流動する全ての言葉を高層ビルに見立てて。


123 ▲
言葉は記号ではない
ざっくりと
こころやからだ突き刺し刺さる

   註.言葉は人間の証(あかし)かもしれないが、一方、言葉は不幸の証でもあるかもしれない。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


124 ▲
深い闇打ち震えるは
何ゆえに
生きものみな体中(からだ)走りゆく


125 ▲
震えるを打ち消し消さんと
声絞る
わあおおおーんわおわおおーん




 [短歌味体な Ⅱ] 方言シリーズ


126
開けば時匂い立ち
閉じれば消え去りし時
方言集


127
方言が消え去っても
残っている
ふっくらくらのスイーツのように


128
声聴けば見えない線が
群衆の
耳柔らかく左右に分断す




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


129 ●
風が立ち日は差し巡り
内になびく
動植物の自然な足跡


130 ●
この地にて
姿形変え
今に在る
数十億年の
黙する大地よ


131 ●
大地には
生あるものが
未だない
聴く者いない
時を刻むばかり




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


132 ●
おぼろげに
不在の日々を描き出す
自由自在の言葉という奴


133 ●
宇宙に股(また)掛ける時
目まいのよう言葉は凍る
(あっおっうっい)


134 ●
人だけか
言葉に咽(む)せる森さまよい
沈黙の太鼓どんどん鳴らす




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


135 □
さざ波立つ内なる森の
葉揺れひとつ
みどりに染まる気は樹を生みゆく


136 □
石投げて水面(みなも)見つめる
時もある
1234………湧き上がる抒情(うた)




 [短歌味体な Ⅱ] 歴史的追体験シリーズ


137
汝我流流哉(ながるるか)
張留野御空仁(はるのみそらに)
汝我流流哉(ながるるか)
木之内鳴御空野(このうちなるみそらの)
光微射手(かすかにさすひかり)


138
Is it flowing ? (ながるるか)
In the spring of the sky (はるのおおぞらに)
Is it flowing ? (ながるるか)
In this inner blue sky (このうちなるそらに)
filled with light.(ひかりみちみちて)


139
「スイーツ」に制圧されても
ひっそりと
当てのある層に饅頭座す


140
時を経て混じり合い
響き合い
饅頭とスイーツ共存す




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


141 ▲
遠目には見知らぬ他人
囲われて
角出し槍出し底なし沼へ


142 ▲
あがいても言葉の手足も
みんな 泥まみれ
ああ どこにある「ほんとうのこと」

註.宮沢賢治―吉本隆明の「ほんとうの考えと嘘の考えを分けることができたら、その実験の方法さえ決まれば」を思いつつ、また現下の福島原発大事故が当該生活者住民にもたらした、もたらし続けているこまごまとした諸問題と、その上空で相対立する放射能被害問題を思いつつ。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


143 ▲
ほんとうは 人それぞれの
色放ち
交錯しても黒く濁らぬなら


144 ▲
誰にでもなじみの音色
ふいと来る
ゆあーんゆよーんゆやゆよん

 註.中原中也「サーカス」より




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


145 ▲
折れ曲がる人付き合いの
意味別れ
二心ありの「いい加減」

註.「いい加減」という言葉に二重の意味が発生したことを想像しつつ。


146 ▲
距離により湧き方ちがう
イメージの
体温となって流れ下る

 註.例えば、歌手や芸能人や有名人や王などに対して人が熱くなるのは、自分との距離感の大きさゆえか、その距離感を縮めようとして熱くなるのか、もちろん、わたしのように距離感の大きさゆえ無関心ということもあり得る。




 [短歌味体な Ⅱ] 現在(いま)シリーズ


147
日差し浴び風の流るる
このひととき
振り返れしみわたる時!


148
おいしいと言わなくたって
流れ下る
このあじわいの言い様もなく


149
いやなこと霧と散ること
なくっても
この束の間は雲散霧消!


150
内向きに生きものみたいに
ただ和(なご)む
宇宙の下(もと)これこそレアメタル!




 [短歌味体な Ⅱ] 数学シリーズ


151
その時の心を微分
探査する
弓形(ゆみなり)集い黙すベクトル場


152
見慣れてる中心近傍
両端の
果ては不明の平行線


153
直感に不審の煙
立つ見ゆれど
補助線なしでは炎が見えぬ




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


154 ▲
ちょっとした一言なのに
軽くなる
人のこころの飛び交う大空


155 ▲
1g増やしただけで
味ちがう
心模様の変化する境界値(へんげするさかい)


156 ▲
投げ入れてしまった一言
こうかいに
荒い波風立つのが見える




 [短歌味体な Ⅱ] ええっとシリーズ


157
ええっと ええっとね なん
だっけなー
ええっとえーとね (ぐるぐる巡る)


158
ええっと日がねええーとえーと
日が赤と
赤と黄そんでねえーと混ざってね


159
えーとはいわかりました。
いいですよ。
えーとはいその日までには。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


160 ▲
独り言つぶやく人も
無言でも
あれこれそれとカジュアル・トーク


161 ▲
くり返しおさらいしてても
相手には
ビミョウな誤差や屈折生まるる


162 ▲
ひとひとがうまくかみ合う
時あれば
流行歌軽やかに舞う




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)


163 ●
沈黙の奥の奥まで
すべり落ち
古井戸の底染み出すものあり


164 □
何もない
と振り返り言うも
何かある
生きてるかぎり
舞台裏は駆動し続ける 


165 □
あ    お
ああー
あっああー  おっおおーー

  註.そういえば、小さい頃山遊びなどでそんな声出していた
    ような………。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


166 ★
う (みず) (水なのか?)
(ちろちろち)
(きらめいている) う (水なのか・・・)

 註.人間の遙かな遠い記憶、瞬間のまぼろしのように。


167 ★
・・・ゆれ・・て・・・・
・ゆ・れ・・
・て・・ゆれてい・・・る・・


168 ★
はじまりは言うに言われぬ
苦労して
この穏やかな海に溶け泡立つ




 [短歌味体な Ⅱ] リズムシリーズ


169
みずみずみずみずみずみず
ずずみずず
みずみずみずみずみずみずみず

 註.短歌形式の中で、何かリズムのはじまりのようなものを思いつつ。


170
たんたんらららたんたんた
んたんらら
らららたんたんらららたんたん


171
みーんみんみんみんみーん
みんみーん
みんみんみんみーんみんみん




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


172 ★
ゆらゆらら 踏み出す一歩
後ろ髪
引かれ幻の踏み行く小道


173 ★
あいさつの「はじめまして」は
遙か遠く
出会いの時の踏み均(なら)し秘め


174 ★
名札付く言葉以前の
顔立ちは
すっぴんぴんと微笑むばかり

 註.言葉の品詞(名札)ということを思いつつ。


175 ★
風の音の沢沢沢と
吹く時は
葦(あし)も膨らみ言葉もふくらむ




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


176 ★
生まれ立ての赤裸(あかはだか)のよう
染み付いた
観念の服脱ぎ立つ気分


177 ★
場面変わり声色(こわいろ)変
・・・さま
初源も今も平等の揺らぐ

 註.名字がないとか言われる人々の映るテレビを観てて、ふと。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


178 ★ 
な・が・れ・て・流れているよ
今ここに
始まりから始まり巻き込み


179 ★
なるようになるほかないか
流れ来た
始まりからの海波に心逆らう




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


180 ▲
「あ」と「い」の距離を走破する
時間(とき)の内に
人それぞれの匂い立ち込む


181 ▲
一つ言葉分解しても
あいうえお
微分して導線の行方見る


182 ▲
ハッとする深み増しゆく
色合いの
言葉染みてる地を踏みゆく

  註.電子空間に限らず、思いがけず、普通の人々の味わい深い言葉に出会うことがある。それぞれなんらかの仕事や専門があるのだろう。このしんどい同時代を踏み歩いてきた年輪からいい香り立つのに出くわすことがある。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


183 ▲
なにゆえにひとりに帰り
ちいさな場
一人一人でまもりまもらん

 註.「まもる」(古語)は、見守ると守るとの意。


184 ▲
洗練しカッコ付けても
やり込める
学の表情(ことばのよそおい)ボスザルに似て


185 ▲
恐れなす獣のように
呼び込むや
宗教・イデオロギー(まじないにきょうつうのまぼろし)


186 ▲
石持て打つ残虐も
イエスを超え
疾走する世界に互いに打たるる

 
 註.事件として浮上する残虐は、ワイドショーでも真面目くさって裁かれるが、内省を迫るイエスを超え、つまり内省の余裕すらなく、当事者たちはこの世界の流れに追いまくられ、互いに打たれている。そこから見ると行き場のない黙する〈悲〉の情景が見えるような。




 [短歌味体な Ⅱ] みどりシリーズ


187
いのち震う木(こ)の葉一枚
イメージの
伝わりゆくは姿形のみ?


188
言葉からみどり滲(にじ)んで
しみ渡る
イメージの野に木々の揺れ立つ


189
説明も意味もいらない
風流れ(風流れ)
みどり滲んで以心伝心


190
ありふれた日々の葉裏に
日の差して
みどりふるえる 掃除の後のよう




 [短歌味体な Ⅱ] みどりシリーズ


191
頭降るあたま振る振る
かぼんすの
自信に満ちてみどり湖渇(こかつ)しゆく

  註.「かぼんす」は、仮分数から来たと言われる方言か。頭でっかちのこと。小さい頃聴いたことがある。近・現代は、言葉に言い表しがたい情感的な「みどり」が隅に追いやられて、人の心~精神の領域は、「頭」中心の段階に入り込んでしまっている。


192
あっ あちっ ずっきんきん
知らぬ間に
みどり流れる木の葉のふるえる


193
ひとりひとり言葉同じく
みどりでも
色香ちがい 共にふるえる




 [短歌味体な Ⅱ]  みどりシリーズ・続


194
しっとりと雨にぬれ煙る
葉のつやの
言葉を超えて 浮上するイメージ


195
日々眠り 起き くり返す
ふしぎはない
けれど 時に みどり影射す


196
「ああいいね」 言葉は走り
意味伝う
その道はずれ 言葉の芯が火照っている




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


197 ★
知らぬ間に心臓動き
大気を吸う
ひとつ流るる 今を生きる


198 □
重々巡り巡っても
始発する
終着点は言葉であるよ


199 ●
静けさの夜の底を
突き抜ける
ただ 暗闇と小さな光


200 ▲
振り返れば あれこれそれと
色鮮やか
ひとつ流れに引き絞られゆく




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ


201
ざっくり るる るるる
はじまりは
新たに設けた引き戸を引く


202
かあかあかあ ふいとカラス鳴き
大気震う
裏切るように無音の時流る


203
どんぶらこ ぐずぐずして
心急(こころせ)き
家の内にて早(はや)出会い演じてる


204
黙黙黙 煙出なくても
母子(ははこ)のように
晴れも曇りも屈折も伝う




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


205
石 木の葉 人の
足音
風の 時は 刻み畳まれゆく


206
音の 湧き 流れ
下る
桜花(おうか)滲み入る 春 sun sun


207
お構い無しに音の湧水あり
例えば
三波春夫 キング・クリムゾン


208
宇宙レベルでたかが音たかが言葉
人界に降り立てば
言うに言われぬ人の織り成し


209
恐っ 刃鋭い
切っ先の
山場を越えて下りゆくあり




 [短歌味体な Ⅱ] 物語シリーズ


[短歌味体な Ⅱ] 物語シリーズ
 
 
210
居たでしょうあの方の側に
微笑んで
イターニン夢の中まで追跡さるる


211
独りなら気楽なのに
背広着て
宗派の門叩き歩く


212
独りでは重量オーバー?
ふらふらと
宗派の門へ荷を運びゆく


213
七日前 あそこにあなたを
見かけました
そんな馬鹿な 事実溶け煙る

  註.裁判というものが存在せざるを得ないように、恐ろしいことに〈事実〉というものは、悪意や作為や精神の病からを含めて、一つとは限らない。




 [短歌味体な Ⅱ] 物語シリーズ・続


214
花ちゃんは笑顔がステキ
と言われても
肌を流れ落つ 花曇り


215
花曇りいのちの陰り
ドア開けて
また輝き出す 春の一日


216
春の一夜(ひとよ)語られなかった
種々(くさぐさ)の
言葉を浮かべ川に流してる




 [短歌味体な Ⅱ] 物語シリーズ・続


217
夢の一世(ひとよ)と離脱はしない
黙黙と
ありふれた日々をゆったり歩く


218
弓なりに引き絞られても
気ままに街歩き
YesとNoの谷地(やち)の住民たちは




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


219
深深途(しんしんと)静まり深まり
ぎっくり
腰折るるときイメージ野、暗転位す


220
るんるんるん言葉揺れ止み
ただ流る
流れに流れるんるんるるる


221
えええっ! 見てたの?
(装いもなく
ぼんやりとして佇む私?)


222
えさ投げる ひたすらの鯉たち
水面(みなも)から
返り来る思い水面へ浮かべ返す




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


223 □
足もとに小石のあるが
ふと懸かり
歩み入るのは何の通路か


224 ●
重力なんて気にしない
実感無く
実感超え作動す宇宙原理は


225 ★
おそらくは月に降り立たずとも
始まりは
体の重み自ずから覚(おぼ)ゆ


226 ▲
知ってても知らなくても
変わらない
この人の世 光り明滅す

 註.人の日々の営みとこの世界の移りゆきということを思い浮かべて。




 [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


227 □
ただいまと日々帰り来る
不思議さよ
と迷い込めば深淵(しんえん)開くか


228 ●
砂を見る ひとつひとつの
乾ききり
夜が下りれば冷えゆくばかり


229 ★
いつからか 振り返ることもなく
手際よく
焼き上げていく厨房の人


230 ▲
目に染みる煙り漂い
ストーカー
振り払っても煙煙煙




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


231
うっ ココデハイエヌ
イッテモ
シカタガナイ舞台ノ上ノヨウナ む


232
春 トイウコトハ
無意識ノ
内ニ季節ガ前提ノ流レ 去り


233
私・も・その・川・の・流れ・に・漬かり
つながり・の
糸・共鳴・し・止ま・ず

  註.この人間界で、人は〈ひとり〉でありながら、誰でもなんらかのつながりの糸を繰り出したり、糸を引き寄せたりする存在であるなあという思いから。




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


234
急に決壊しても
また補修(なお)し
定常値更新しゆく

  註.作品が何を指示(意味)しているのかわからないことがある。それは作者固有の極私的な表出なのか、あるいは、あらゆる対象を貫く抽出された本質的なイメージを指示しようとしているのか、ここでは後者をイメージして。


235
あっ どうしたの?
いや別に
(こころころころ つまづきかける)


236
おっ (言葉はなくてもいい)
ふうはあふう
いま出来たてのコロッケは・・・




 [歌味体な Ⅱ]  □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


237 □
ドア開ける 日々くり返す
透き間より
アブナイ匂い微かに煙る


238 ●
人間界(ひとのよ)の蟻さんたち
俺 俺 俺!
あちこちそちこち (・・・・・・)


239 ▲
ズームイン 一つ一つの
川砂の
重み増し増す画面いっぱいに


240 ★
ズームアウトをくり返し
踏み踏み
固まる芯ははじまり記憶す




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


241
オレオレ! 意味が立つのは
引き連れて
前後左右に仲間居るとき

  註.このことは、言葉の表現に限らず、人間世界でもそうだ。しかし、前者は自然だが、後者は権力的な場面だ。



242
何ですか?! ていねいすぎる
しゃべり口
矢継ぎ早に杭打ち来る


243
独り言と思いきや
輪の中に
描きつつーと中心を占む

  242・243註.ネットでの言葉をたどっていて、ほんとに手ぶらな自分を見つめ語る者ばかりではなく、意識的無意識的に他を当てにする作為的な言葉もあるな、という思いから。




 [歌味体な Ⅱ]  □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


244 □
日差しやら風雨にさらされ
ひび入るよ
芯の芯までざっくりんりん 


245 ●
記憶あり巨きな時間が
ゆったりの
夢の中までりんりんと響く


246 ▲
くり返す日々の自然に
溶け込んで
思いもしないぱっくり破局


247 ★
そういえばいちにーさんぽ
立ち上る
遠い微気配またぎ越し来る




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


248
心急(せ)き流れ下る
笹舟は
右へ左へ「あざーす」と浮上

 
 註.「あざーす」は、若者語で「ありがとうございます」の短縮形と電子辞書にある。 


249
ころがるこころころころ
ちら見して
またころがりごろごろ




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


250
生き急ぐ青葉の季節は
うわの空
しっとり濡れるみどり跨(また)ぎゆく


251
悪意や照れを脱色し
たむろする
茶髪の「きもっ」「あざーす」


252
歳によりものの見え方違う
例えば
「きもっ」「あざーす」はどこへ去りゆく?




 [歌味体な Ⅱ]  □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


253 □
なぜなのか ものみなすべて
静止せず
始まりあって終わりがある


254 ●
生きものの数に合わせて
たくさんの
時間と空間(ときとば)がある 巨きな時間(とき)の内に


255 ▲
人のみがこの宇宙(せかい)の
沈黙の
さざ波立つ由来訪ねてる


256 ★
数百万年(ながいとき)歩み来た人の
足跡は
いろんな癖を今に刻みつつ




 [短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ


257
デコポンと言い終わらない
途上に
イメージは黄色く匂い包まれ


258
当てもなく駆動し初め
煙りゆく
イメージの流線(ながれ)は波立ちゆく


259
気がつけばここで行き止まり
と とっとっと
幕引きかけてまたイメージは流れ出す




 [短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続


260
くり返すくり返しゆくと
おぼろげに
深く イメージ場に言葉の飛び跳ねる


261
ぼんやりとそこに力入(い)り
イメージの
流れ逆巻き言葉の追いすがる


262
夕暮れの降り来る階段
イメージの
火照る終点(おわり)から花火の上がる




 [短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続


263
人界の巨きな年輪
分け入って
〈本願他力〉とイメージす すすっと

  註.おそらく、自己責任や自力中心のこの人間界と自力を超出した宇宙という次元(つまり、無に近い人の存在)とが、言葉によってある深みにおいて相互に出会う場から、親鸞の〈本願他力〉のイメージが浮上してくるという思いから、そのイメージ場に向けて。付け加えれば、親鸞のその〈本願他力〉という概念は、当時の仏教の言葉や概念に囲まれながら、一方で、大多数の人々の現世での苛酷な有り様への眼差しを突き抜けるようにして、繰り出されている。しかも、その言葉は現在に生きる思想性を持っている。




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


264
塀塀塀門という門
鍵がかけ
られ塀塀塀知る由もない

  註.「現在は樹木亭々として景観豊かな庭も古邸も高い塀に囲まれたまま放置されていて、門という門の鍵がかけられているので、内部を窺い知る由もない。」(「是公さんのこと」、『漱石の長襦袢』半藤末利子 文春文庫)




 [短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続


266
三時とは例えば時計
針の位置
暑い日差しを苦しげに動く


267
デジタルはただその時を
生きている
顔立ちして生ひ育ちゆく


268
せせらぎの水音聴こゆる
画像超え
みどり滴り流れが速い

 註.テレビに映るせせらぎの場面や水音から。




 [短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続


269
まぼろしの梅干し赤く
しゅみていく
ぽたりぽったり舌を励起(れいき)す


270
一言(ひとこと)に多言味(たごんあじ)あり
多言にも
ひそやかな一言うずくまり居る




 [短歌味体な Ⅱ] イメージシリーズ・続


271
こぼれ出るちっちゃい子の
ふだん着の
「ぽんぽんいくね」に乗り込んでみる



[短歌味体な Ⅱ] 速度論シリーズ


272
タンタンタタタタンタン
タンタタタ
タンタンタタタタタタタタン はやっ!





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