消費を控える活動の記録・その後 2 (2015.6~10)








 目  次 (臨時ブログ「回覧板」より)


        回覧板他    日付
28 『チベットの先生』(中沢新一 角川ソフィア文庫)を読む 2015年06月10日 
29 日々いろいろ―わたしたち、生活世界の住民ということ 2015年06月16日 
30 日々いろいろ―「この列島の住民」という言葉について  2015年06月16日  
31 回覧板・「消費を控える活動」への参加をお願いします   2015年06月19日  
32 日々いろいろ―佐々木俊尚『21世紀の自由論』から考えたこと  2015年06月23日 
33 表現の現在―ささいに見える問題から② 2015年06月27日 
34 覚書2015.6.28 ―イデオロギー、対立、回避 2015年06月28日  
35 参考資料―吉本さんの「ほんとうの考え・うその考え」のこと
 付.わたしの註
2015年07月06日 
36 やっと探し出した吉本さんからのはがき  2015年07月10日 
37 人、作者、物語世界(語り手、登場人物)についての軽ーい考察  2015年07月11日  
38 漱石に倣って、「生活者住民本位」ということ  2015年07月20日 
39  表現の現在―ささいに見える問題から ③  2015年07月26日  
40 現在とは何か―オリンピックの「エンブレム」盗用疑惑問題から  2015年09月04日 
41  表現の現在―ささいに見える問題から ④(表現の無意識に触れ) 上 2015年09月13日 
42  日々いろいろ―今の今に  2015年09月19日 
43  日々いろいろ―ひとつの川柳から  2015年09月27日 
44  わたしの苦手な経済の話から 2015年09月28日  
45 表現の現在―ささいに見える問題から ④ (表現の無意識に触れ)下  2015年10月12日
46  表現の現在―ささいに見える問題から ⑤  2015年10月14日
47  書物から知ること、ひとつふたつ 2015年10月18日 






        ツイッター詩     日付
37 ツイッター詩37 2015年06月04日
38  ツイッター詩38 2015年07月05日 
39  ツイッター詩39 2015年08月02日 
40  ツイッター詩40 2015年09月01日  
41 ツイッター詩41 2015年10月04日  
     






         短歌味体(みたい)な Ⅱ
     □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、 ★:起源論
     日付
127 短歌味体な Ⅱ 273-276 速度論シリーズ・続 2015年06月01日
128 短歌味体な Ⅱ 277-279 速度論シリーズ・続 2015年06月02日
129  短歌味体な Ⅱ 280-284 □●●▲★   2015年06月03日
130  短歌味体な Ⅱ 285-287  ちょっと試みシリーズ・続 2015年06月04日 
131  短歌味体な Ⅱ 288-291 □●▲★ 2015年06月05日  
132  短歌味体な Ⅱ 292-295 □●▲★ 2015年06月06日   
133  短歌味体な Ⅱ 296-298 数学シリーズ・続  2015年06月07日   
134  短歌味体な Ⅱ 299-300 ちょっと試みシリーズ・続  2015年06月08日  
135  短歌味体な Ⅱ 301-302 政治論シリーズ  2015年06月09日 
136  短歌味体な Ⅱ 303-304 政治論シリーズ・続 2015年06月10日  
137  短歌味体な Ⅱ 305-306 政治論シリーズ・続  2015年06月11日 
138  短歌味体な Ⅱ 307-309 政治論シリーズ・続  2015年06月12日 
139 短歌味体な Ⅱ 310-311 政治論シリーズ・続  2015年06月13日 
140  短歌味体な Ⅱ 312-314 ちょっと試みシリーズ・続  2015年06月14日 
141 短歌味体な Ⅱ 315-316 政治論シリーズ・続   2015年06月15日 
142  短歌味体な Ⅱ 317-320 □●▲★  2015年06月16日 
143  短歌味体な Ⅱ 321-323 ちょっと試みシリーズ・続   2015年06月17日 
144 短歌味体な Ⅱ 324-326 ちょっと試みシリーズ・続  2015年06月18日
145  短歌味体な Ⅱ 327-328 政治論シリーズ・続    2015年06月19日 
146  短歌味体な Ⅱ 329-330 政治論シリーズ・続   2015年06月20日  
147  短歌味体な Ⅱ 331-333 政治論シリーズ・続    2015年06月21日  
148  短歌味体な Ⅱ 334-337 □●▲★   2015年06月22日  
149  短歌味体な Ⅱ 338-340 政治論シリーズ・続    2015年06月23日 
150  短歌味体な Ⅱ 341-345 政治論シリーズ・続     2015年06月24日 
151  短歌味体な Ⅱ 346-349 □●▲★  2015年06月25日  
152 短歌味体な Ⅱ 350-352 ちょっと試みシリーズ・続    2015年06月26日  
153  短歌味体な Ⅱ 353-355 ちょっと試みシリーズ・続  2015年06月27日 
154  短歌味体な Ⅱ 356-359 □●▲★   2015年06月28日   
155  短歌味体な Ⅱ 360-362 政治論シリーズ・続    2015年06月29日 
156 短歌味体な Ⅱ 363-365 普通はシリーズ 2015年06月30日 
157  短歌味体な Ⅱ 366-369 □●▲★    2015年07月01日 
158 短歌味体な Ⅱ 370-372 舟のイメージシリーズ  2015年07月02日  
159  短歌味体な Ⅱ 373-375 戯れ詩シリーズ 2015年07月03日  
160  短歌味体な Ⅱ 376-377 普通はシリーズ・続  2015年07月04日  
161  短歌味体な Ⅱ 378-380 独りのシリーズ   2015年07月05日  
162  短歌味体な Ⅱ 381-383 独りのシリーズ・続   2015年07月06日  
163 短歌味体な Ⅱ 384-387 □●▲★     2015年07月07日   
164  短歌味体な Ⅱ 388-389 掛け合いシリーズ   2015年07月08日   
165  短歌味体な Ⅱ 390-391 掛け合いシリーズ・続    2015年07月09日
166 短歌味体な Ⅱ 392-395 □●▲★      2015年07月10日   
167 短歌味体な Ⅱ 396-398 掛け合いシリーズ・続  2015年07月11日  
168 短歌味体な Ⅱ 399-400  □●▲★  2015年07月12日   
169  短歌味体な Ⅱ 401-402  □●▲★  2015年07月13日   
170  短歌味体な Ⅱ 403-404  引用シリーズ  2015年07月14日   
171  短歌味体な Ⅱ 405-407  引用シリーズ・続   2015年07月15日 
172  短歌味体な Ⅱ 408-410  引用シリーズ・続   2015年07月16日 
173  短歌味体な Ⅱ 411-413  ふと眺めるシリーズ  2015年07月17日  
174 短歌味体な Ⅱ 414-416  □●▲★   2015年07月18日 
175  短歌味体な Ⅱ 417-419  □●▲★   2015年07月19日 
176  短歌味体な Ⅱ 420-421  ふと眺めるシリーズ・続 2015年07月20日  
177  短歌味体な Ⅱ 422-424  □●▲★    2015年07月21日 
178  短歌味体な Ⅱ 425-427 この地では誰もがあるあるシリーズ  2015年07月22日 
179  短歌味体な Ⅱ 428-429 何んかよくわからないシリーズ   2015年07月23日  
180 短歌味体な Ⅱ 430-431 何んかよくわからないシリーズ・続    2015年07月24日  
181  短歌味体な Ⅱ 432-434  □●▲★  2015年07月25日   
182 短歌味体な Ⅱ 435-438  □●▲★   2015年07月26日 
183  短歌味体な Ⅱ 439-441 朝シリーズ   2015年07月27日  
184  短歌味体な Ⅱ 442-443  漱石シリーズ 2015年07月28日  
185  短歌味体な Ⅱ 444  漱石シリーズ・続  2015年07月29日  
186  短歌味体な Ⅱ 445-447  小さい子のための歌シリーズ  2015年07月30日  
187  短歌味体な Ⅱ 448-449  □●▲★   2015年07月31日   
188 短歌味体な Ⅱ 450-451  □●▲★  2015年08月01日 
189  短歌味体な Ⅱ 452-453   57577シリーズ 2015年08月02日 
190  短歌味体な Ⅱ 454-455  小さい子のための歌シリーズ・続   2015年08月03日 
191  短歌味体な Ⅱ 456-458  大人のための歌シリーズ 2015年08月04日 
192 短歌味体な Ⅱ 459-461  少年のための歌シリーズ 2015年08月05日 
193 短歌味体な Ⅱ 462-464  □●▲★   2015年08月06日 
194  短歌味体な Ⅱ 465-467  黒シリーズ 2015年08月07日 
195  短歌味体な Ⅱ 468-470 定住と旅シリーズ  2015年08月08日 
196  短歌味体な Ⅱ 471-473 舌足らずシリーズ  2015年08月09日 
197 短歌味体な Ⅱ 474-475  □●▲★   2015年08月10日  
198  短歌味体な Ⅱ 476-478 観察シリーズ   2015年08月11日   
199  短歌味体な Ⅱ 479-481 少年の日々シリーズ 2015年08月12日 
200  短歌味体な Ⅱ 482-484 何気なく音を感じるシリーズ  2015年08月13日 
201  短歌味体な Ⅱ 485-487  □●▲★  2015年08月14日  
202  短歌味体な Ⅱ 488-490  夢うつつシリーズ 2015年08月15日  
203  短歌味体な Ⅱ 491-493  □●▲★     2015年08月16日 
204 短歌味体な Ⅱ 494-496  本流のイメージシリーズ  2015年08月17日  
205  短歌味体な Ⅱ 497-498  赤ちゃんのための歌シリーズ  2015年08月18日 
206  短歌味体な Ⅱ 499  □●▲★ 2015年08月19日 
207  短歌味体な Ⅱ 500  □●▲★  2015年08月20日 
208  短歌味体なⅡ、500篇にて終了  2015年08月21日 






         短歌味体 Ⅲ      日付
短歌味体Ⅲ  1- 3 始まりシリーズ 2015年08月21日
短歌味体Ⅲ  4- 6 始まりシリーズ・続  2015年08月22日 
3  短歌味体Ⅲ  7- 9 今がすべてだシリーズ  2015年08月23日  
4  短歌味体Ⅲ 10-12 残土シリーズ   2015年08月24日   
5  短歌味体Ⅲ 13-15 対話シリーズ  2015年08月25日 
6  短歌味体Ⅲ 16-18 対話シリーズ・続  2015年08月26日 
短歌味体Ⅲ 19-21 対話シリーズ・続   2015年08月27日 
8  短歌味体Ⅲ 22-24 対話シリーズ・続   2015年08月28日 
9  短歌味体Ⅲ 25-27 ひとりシリーズ  2015年08月29日  
10 短歌味体Ⅲ 28-30 回想シリーズ   2015年08月30日 
11  短歌味体Ⅲ 31-33 太宰治シリーズ・註を付す 2015年08月31日 
12  短歌味体Ⅲ 34-36 ひとりシリーズ・続  2015年09月01日  
13 短歌味体Ⅲ 37-38  2015年09月02日 
14 短歌味体Ⅲ 39-41  2015年09月03日 
15  短歌味体Ⅲ 42-44 イメージシリーズ 2015年09月04日  
16 短歌味体Ⅲ 45-46 内と外シリーズ   2015年09月05日 
17  短歌味体Ⅲ 47-48 内と外シリーズ・続    2015年09月06日 
18 短歌味体Ⅲ 49-51 少年の日々シリーズ・註を付す 2015年09月07日  
19  短歌味体Ⅲ 52-54 少年の日々シリーズ・続 2015年09月08日  
20  短歌味体Ⅲ 55-57 2015年09月09日 
21  短歌味体Ⅲ 58-60 どんどんシリーズ  2015年09月10日 
22  短歌味体Ⅲ 61-62  2015年09月11日  
23 短歌味体Ⅲ 63-65 「国東半島祈りの心―神と仏と人が暮らす里」(NHK 2015.9.12)を観て  2015年09月12日 
24 短歌味体Ⅲ 66-68 音のふしぎシリーズ  2015年09月13日 
25  短歌味体Ⅲ 69-71 秋空シリーズ  2015年09月14日  
26  短歌味体Ⅲ 番外 少し縁ある阿蘇の地を思い  2015年09月14日   
27 短歌味体Ⅲ 72-73 秋空シリーズ・続  2015年09月15日 
28  短歌味体Ⅲ 74-76 イメージみどりシリーズ  2015年09月16日 
29  短歌味体Ⅲ 77-79 政治論シリーズ  2015年09月17日  
30 短歌味体Ⅲ 80-82 ダメージファッションシリーズ   2015年09月18日   
31  短歌味体Ⅲ 83-84 ダメージファッションシリーズ・続    2015年09月19日   
32 短歌味体Ⅲ 85-87 つながりシリーズ    2015年09月20日 
33 短歌味体Ⅲ 88-90 つながりシリーズ・続   2015年09月21日  
34 短歌味体Ⅲ 91-92 つながりシリーズ・続    2015年09月22日  
35  短歌味体Ⅲ 93-94 つながりシリーズ・続     2015年09月23日  
36  短歌味体Ⅲ 95-96 つながりシリーズ・続  2015年09月24日 
37 短歌味体Ⅲ 97-100 つながりシリーズ・続   2015年09月25日 
38  短歌味体Ⅲ 101-102 つながりシリーズ・続  2015年09月26日 
39  短歌味体Ⅲ 103-105 ぱくりんちょシリーズ  2015年09月27日  
40 短歌味体Ⅲ 106-108 ふるふるシリーズ  2015年09月28日 
41  短歌味体Ⅲ 109-111 つながりシリーズ・続  2015年09月29日 
42  短歌味体Ⅲ 112-113  2015年09月30日  
43  短歌味体Ⅲ 114-115  2015年10月01日 
44 短歌味体Ⅲ 116-118  2015年10月02日 
45 短歌味体Ⅲ 119-120  2015年10月03日 
46  短歌味体Ⅲ 121-122   2015年10月04日  
47  短歌味体Ⅲ 123-125 指令シリーズ  2015年10月05日 
48 短歌味体Ⅲ 126-127 指令シリーズ・続  2015年10月06日 
49  短歌味体Ⅲ 128-130 時の流れシリーズ 2015年10月07日 
50 短歌味体Ⅲ 131-133 時の流れシリーズ・続  2015年10月08日
51 短歌味体Ⅲ 134-136 言葉の迷路シリーズ  2015年10月09日 
52  短歌味体Ⅲ 137-139 言葉の街シリーズ  2015年10月10日 
53  短歌味体Ⅲ 140-141 言葉の迷路シリーズ・続 2015年10月11日  
54  短歌味体Ⅲ 番外  2015年10月11日 
55  短歌味体Ⅲ 142-144 風シリーズ  2015年10月12日 
56  短歌味体Ⅲ 145-147 ひとシリーズ  2015年10月13日  
57  短歌味体Ⅲ 148-150 2015年10月14日 
58  短歌味体Ⅲ 151-154 言葉の迷路シリーズ・続 2015年10月15日 
59  短歌味体Ⅲ 155-157 いろいろシリーズ  2015年10月16日 
60  短歌味体Ⅲ 158-161 いろいろシリーズ・続   2015年10月17日 
61  短歌味体Ⅲ 162-165  太宰治シリーズ・続 2015年10月18日  
62  短歌味体Ⅲ 166-168 畑からシリーズ 2015年10月19日 
63  短歌味体Ⅲ 169-171 人と人シリーズ  2015年10月20日  
64  短歌味体Ⅲ 172-174 人と人シリーズ・続 2015年10月21日 
65 短歌味体Ⅲ 175-177 ナノシリーズ  2015年10月22日 
65  短歌味体Ⅲ 178-180 ナノシリーズ・続  2015年10月23日  
66 短歌味体Ⅲ 181-185 置き字シリーズ  2015年10月24日 
67 短歌味体Ⅲ 186-189 音の根っこシリーズ  2015年10月25日  
68  短歌味体Ⅲ 190-191 音の根っこシリーズ・続   2015年10月26日  
69 短歌味体Ⅲ 192-194  2015年10月27日 
70  短歌味体Ⅲ 195-197 なんにもない一日シリーズ  2015年10月28日 
71  短歌味体Ⅲ 198-200 微シリーズ  2015年10月29日  
72  短歌味体Ⅲ 201-203 らっしゃいシリーズ 2015年10月30日 
73  短歌味体Ⅲ 204-206 らっしゃいシリーズ・続   2015年10月31日 


















回覧板他


28


 『チベットの先生』(中沢新一 角川ソフィア文庫)を読む


 中沢新一のチベット仏教の修行体験記だと思って注文し、取り寄せた本であるが、彼の師であるケツン先生の自伝だった。

 中沢新一の本はいろいろと読んでいるが、西欧のポストモダン的な哲学の概念や言葉を引きずっていて、ほんとかなという思いを抱きつつ読んできた。中沢新一が修業体験で触れた世界は、おそらくわたしたちが遙か昔に通り過ぎてきた世界、そしてまたわたしたちの心の奥底に今なお残留し続けているものと通じるものがあるという思いから、わたしはそのあまり語られていない修業体験の中身に関心を持っていた。しかし、本の中身が予想とちがっていたけれども、興味深く読んだ。

 ケツン先生の自伝は、主にニンマ派という密教修業の記録である。何人かのラマ(僧)との出会いがあり、瞑想修行などを通して、「自分の心の詳細な観察」を行いつつ、「心と存在の本当の姿をありありと見届けようとする」そのことが同時に、人がこの世界で生きる意味の追究に当たっている。いろんな修業の具体的な記述もあって興味深い。

 ケツン先生がチベットで生活し修業している間に、中国のチベット侵攻があり、家族と離ればなれになって、ケツン先生もインドに亡命している。日本にも十年滞在されている。

 この本に収められている中沢新一の序文やあとがきの文章は、西欧のポストモダン的な哲学の概念や言葉を行使することなく、ストレートに思いを語っているように感じられる。いわば、師との修業を通した関わり合いの具体性を伴うある深みから、言葉を表出しているように見える。


 かつてこの地球上には、人間が魂の成長ということだけを人生の重大事と考えて、自分の全生命をささげて探究をおこなっていた世界があったのです。」
 (「あとがき」中沢新一)


 現在、わたしも当然ながら働きお金稼ぎをやっているから、お金儲けするのは別に構わないけど、経済至上主義でそのためにあらゆることを巻きこんで突き進んでいる世界が一方にある。また一方で、芸術の世界(もちろんこの世界も経済との関わりを持つ)では、日々作品が作り出され、読者(観客)に読まれ(鑑賞され)ている。そこでは、悩み苦しみ、生きる意味の追究もあり、美や感動もあり、つまりわたしたちがこの世界に生きて在ることから来る心や精神の波立ちや躍動がある。

 あとがきの中沢新一の言葉は、このような芸術表現の中に、その規模のちがいはあっても形を変えていても現在でも継続されているのではないかと思う。そして、そのいずれの探究(かつてと今)の背後にも、わたしたち大多数の無名の者たちの主に沈黙の内に日々くり返される生活世界というものが古い岩盤のように存在しているのである。






29


 日々いろいろ―わたしたち、生活世界の住民ということ


(1/4) まるで自分には赤ちゃんの時代や老人の時代などあたかも存在しないかのごとく威勢良く、学者、評論家、エコノミスト、政治家、官僚などなど、国レベルに自分を同化・拡大して、いわゆる上から目線で自国の経済や政治や社会を論じる者たちがいる。また、他国民や他国のことをいろいろあげつらったり、腐したりする者もいる。これらは、自分の生活圏からの逸脱と逃走ではないか。そして、そこにイデオロギーが花を開く。

(2/4) 国と国とが、やらせよろしく領土問題など張り合っているときに、わたしたち生活者住民は、ただ自分の生活圏の問題を中心に考える。その生活圏に国が介入してくるときは、それを批判し、行動するだろう。

(3/4) 国と国という幻を取っ払えば、他国にも、風俗習慣がこちらとはいくらか違うわたしたちと同じような住民がいるだけであり、似たような日々の生活が繰り広げられているはずである。そして、いかにみすぼらしく見えたとしても、その生活の日常こそが帰って行く、あるいは基本にすべき貴重な重力の中心の場所である。

(4/4) そもそも、国というのは、起源としてその地域住民の福利をこそ第一とすべきものなのに、わたしたち生活者住民を無視して、他国へ媚びへつらったり、あるいは敵意を燃やしたりしている。偉くなったつもりの大いなる勘違いをしている人種が、政治を牛耳っている。逆立ちしている。
 
 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






30


  日々いろいろ―「この列島の住民」という言葉について


(1/4) わたしは、「この列島の住民」とか「この列島の生活者住民」とかいう言葉をよく使い、国民や市民という言葉をほとんど使いません。同じ対象を指しているはずなのに、なぜわたしが使いたがらないかということには、当然、理由があります。次のように考えています。

(2/4) 例えば、浩一という名前のある少年を、「こーちゃん」と呼ぶか「浩一君」と呼ぶか「浩一」と呼ぶか、それぞれの名前の呼び方には、対象(少年)との親愛の情などの関わり合いの意識が込められています。また、同じ人が、「浩一君」と呼んだり「浩一」と呼んだりした場合には、その場面の関わり合いの意識の変貌が関係しています。

(3/4) 国民や市民と呼ぶと、近代以降の市民社会や政治制度との関わり合いの意識を無意識的にも前提にしています。しかし、わたしたちこの列島に住み、生活している住民には、何万年にも及ぶ幾多の祖先がいますし、現在に到るまで連綿と繰り広げられてきた無名の人々の歴史があります。わたしたち現在の住民の背にはそういうものが確固として存在しています。

(4/4) 彼ら祖先の人々へのひそかな批判の意識もわたしにはありますが、わたしのかれらへの敬意と関わり合いの意識から、近代以降の「市民」や「国民」という少し馴染みの薄い狭い限定された言葉ではなく、つまり、よそ行き風の言葉ではなく、少しでも肌に馴染む言葉で言い表したいというわたしの欲求から、わたしは「この列島の住民」という言葉を使っています。
 
 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)





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 回覧板・「消費を控える活動」への参加をお願いします


                         2015年6月18日


(1/9) そろそろ「消費を控える活動」 (註.1) を再開します。集会代わりの「#消費を控える活動01」に書き込み、現実の日々の生活での「消費を控える活動」(GDPの過半を占める家計消費)を意志的に実行していくことを一住民のわたしからみなさんに訴えます。

 (註.1)
このブログ記事、「回覧板① わたしは、目下ひとりたたかっています―昼寝のすすめ」 (2014年08月14日)を参照。

(2/9) 民意を十分に汲み取れず、あるいは無視する者もいる野党の危うい状況で、黙っていたら最悪になりそうで、わたしは決めました。時代の贈り物であるSNSという仮想世界を仲立ちとして、現実に突き刺さっていく力を持つ「消費を控える活動」をみなさんに訴えます。

(3/9) わたしは目立たずにほんとはのんびり自分の生活圏でくつろぐのが最高だと思っています。しょうがないな、いやだな、という気分はありますが、余りにもデタラメな政治状況で、腰を上げざるを得ないなと心決めています。

(4/9) こういう状況も予感していたので、前回(12月)の中途半端に終わった活動停止から、完全撤退せずにツイッターに住まい、少しでも多くの人々と「顔なじみ」(実際の顔は見えませんが)になれるようフォローしたりされたりして、状況の推移を見つめてきました。

(5/9) 昨日午後テレビを付けたら国会中継でした。また、うんざりする顔が映っていました。もう、ほんとに、うんざりです。弥生勢力がこの列島に流入し、縄文勢力と入り交じったとき、少なくとも稲といういいものをもたらしました。しかし、この乗っ取り政権は害悪のみをもたらそうとしています。

(6/9) 今後、おそらくこんなひどい政権は登場しないだろう、と思います。したがって、今やっておかないと大切な機会を逃すことになります。また、後の世代に、何もせず無抵抗だったの?とは言われたくないということもあります。

(7/9) 同じ住民といっても、いろいろな考え方のちがいはあるでしょう。イデオロギーなどは鞘に収めて、この列島の同じ生活者住民として、この最悪の政権を追い落とすという目標のための「消費を控える活動」を訴えます。今こそ、わたしたち住民が強力に力を合わせるべき時だと思います。

(8/9) このわたしの提案に賛同される方々は、さらに自分のフォロアーの方々に訴えて欲しいです。また、これは選挙権あるなしに関係なく家族みんなで取り組める活動でもあります。わたしは、選択消費だけでなく食費などの必需消費も以前より引き締めています。しかし、その中身は「面々の計らい」(みなさんの考え方次第)で良いのではないでしょうか。

(9/9) 賛同される方は、ツイッター上の仮想集会としての、あるいは情報交換の場としての「#消費を控える活動01」にぜひ参加してメッセージを書き込んだりして欲しいと思います。今や、政府、行政にとって経済は大きな課題となっています。現実のデモや集会も大事だと思いますが、わたしたちの身を少し削るようなこの活動の威力は、それを上回るものだと確信します。しかも、日々のわたしたちの生活に立ち返り、そこでの消費を控える活動からわたしたちの意志と共に社会に突き上げてくるはずです。現在でも、おそらく住民のみなさんの生活防衛的な意識や、政治や社会の現状に対するやってられないよとかいう意識などから、消費が落ちこみ続けています。これをわたしたちが力を束ね合って、是非とも政権へのNOという意志表示という積極的なものにしていきたいと考えています。よろしくお願いします。

                          この列島の一住民より

 ※ これは初めての取り組みですし、活動の先が見えない部分も多々あるでしょうし、また、わたしの智恵もたいしたことないですから、お互いが智恵を出し合って良い活動の形のものにしていけたらいいなと思っています。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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 日々いろいろ―佐々木俊尚『21世紀の自由論』から考えたこと


 佐々木俊尚『21世紀の自由論』の「おわりに」に次のような本書の執筆の動機の言葉がある。


「この『最後に守りたいものは何なのか』を問いかけるというのは、まさにいま必要なことなのだろうと強く感じた。さまざまな議論やさまざまな避難の応酬、中傷、罵倒がマスコミでもネットでも、メディアの空間にはあふれている。しかし私たちはそういう感情的な応酬をしていく先に、いったい何を求めているというのだろうか。・・中略・・原点に立ち返ってこれからの社会を考えてみたい。」


 この言葉は、留保なしに受け入れることができる。佐々木俊尚の文体は、新聞記者の文体にIT世界の文体を重層したものから成っているように見える。そしてそのリアリティーを裏打ちしているのは、自身の苛酷な幼少年期の体験である。(「現代ビジネス」インタビュー  http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40227  ) そういう意味では、この著者の言葉は観念性のみからなる言葉ではなく、現実との対話や格闘を経てきたものということができる。

 ここでわたしが「新聞記者の文体」というのは、否定性として使っている。例証はここではしないが、わたしなら言葉と言葉の断層をぴょんぴょんと飛び越しつなげていくのは難しく、立ち止まって検証したり考え込んだりするところを、そのように表現している。そして、不足しているのは敗戦後70年のこの国の経験の意味であり、また、漱石に倣えば「生活者住民本位」という考え方だと思う。文章中には、上からの俯瞰的な視線(いわゆる上から目線)と生活者への視線とが未分化に混交した文体になっている。

 ところで、「わたしたち生活者住民が日々幸福な暮らしができること」という根本的なイメージに、生活者住民としてほとんど全ての者が同意できたとしても、そのための社会的・政治的な諸策が一致するとは限らない。ちょうど最近の「大阪都構想」に関わる住民投票のように、住民同士で相対立することがあり得る。なぜその根本のイメージに到る道筋が異なるのだろうか。わたしには確固として支持する政党もなく、また支援活動も経験したことはないが、こういう公的なものに関わる活動は太古から神社(宗教)の活動などを含めて存在してきたように思う。

 わたしたち住民間に引き起こされる対立は、このような政党やその支援組織などを仲立ちとしてイデオロギー(集団的な思想)が介入したり、また住民の意識的あるいは無意識的な利害の意識の介入などが呼び寄せるもので、根本的なイメージに到る道筋を枝分かれさせるのだと思われる。諫早湾干拓の潮受堤防の開放を巡る問題は、明らかに住民の利害対立によるものである。本来なら双方の利害がうまく折り合うような調整を当該行政はすべきなのにほったらかしにされているように見える。現在までのところ、根本のイメージは一致してもわたしたち住民の間の対立が避けられないのであれば、その解決には非暴力的で後々にできるだけ禍根を残さないような方法が模索されるべきである。

 戦国時代末期、日本にはるばるやって来て、キリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『フロイス日本史』の記述によると、当時日本の住民でキリシタンになった人々と彼らと対立する仏教徒たち及びその支持者たちは、互いに武器を持って戦闘したりしていた。あるいは、仏教徒たち及びその支持者たちは、キリシタンのいる教会を襲撃したりしていた。これは宗教が絡んだ場合であるが、このような武器や戦闘を伴う住民対立から、現在では、背後ではいろいろ暗闘があったとしても主に住民投票という形の非暴力的な形で住民対立に決着をつけることができるようになったのは望ましいことであると思う。

 ところで、わたしたちは過去や未来のことに囚われることはあっても、現在にそれが全てのように生きている。しかし、現在というものが時間(歴史)の積み重ねの上にあるということを振り返れば、現在に押し寄せたり沸騰したりする問題は、より大きな時間の流れの中で考えなくてはならない。
 
 現在の政治の流れに押し寄せているものは、敗戦後の70年に及ぶ時間が、その過去からめくり返されようとしている。動機は、現在にあり、政権の古ぼけた復古的なイデオロギーやアメリカの一部の要請、その中での政権・官僚層の利害損得判断にある。相変わらず遙か遠くの倭の五王時代の属国政府と同じなのには目まいがするくらいだ。政権やその取り巻きたちが、自分を巨人のように国レベルの自分に拡大・同化し、パワー・ポリティクス(力の政治)よろしく、もし攻めてきたら云々の仮想論議をする。幽霊に取り憑かれているようなものだ。国同士は、パワー・ポリティクスで力のかけひきを依然としてくり返している。そんなものは、わたしたち生活者住民にとっては、何の関係もない。ただわたしたちの目の前の生活世界に現れる問題を注視するばかりだ。

 積極的にあるいはしぶしぶ戦争に加わっていった大衆の黙々とした戦後の歩みを言葉にすれば、「公より私が大事」ということだっただろう。戦争―敗戦を潜り抜けてきて、生き残った人々の沈黙の思いは、戦争での死者たちへ向かう思いと同時に、戦争なんてもううんざりだという非戦の意志だったと思う。それを憲法前文や九条は体現していた。

 敗戦から70年経って戦争経験者も少なくなっている。と同時に、現状のような古ぼけた復古的なイデオロギーやその同調者たちが亡霊のように登場している。つまり、戦争世代もわたしたち戦後世代もともに、戦争、敗戦の体験からの核の部分の抽出とその論理化(戦争とは、わたしたちの生活は、それを守るとは、国と国との関係は、などなど)を十分になし得なかったことを証している。

 小さな生活世界に安息し、しかし、いったん公的なもの(国家、戦争)に取り込まれるととても残虐なことも平気で行う、このようなわたしたちの住民性は、西欧とも違う、あるいは住民が大規模に政治に登場して相対立したり軍が関与したりするタイやフィリピンなどとも違う、太古からのこの列島の住民たちの性格や行動(意識構造)という大きな歴史性とも関わりがあるように思う。それは良し悪しを含めて絶えず現在によって問われ続けてきているのだと思う。






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  表現の現在―ささいに見える問題から②


 又吉直樹の『火花』を読んだ。この作品は、「お笑い芸人」でもある作者の、自らが「火花」を散らしつつ直面してきた〈芸〉の内省的な表現の物語と見なすことができる。

 この作品には、読みながら「あれっ」と立ち止まってしまうような、お笑いの〈芸〉の内省的な表現の物語と同質の〈芸〉と見なせる自然描写がいくつか見受けられた。それはまた別の機会に考えてみたい。作品には、物語の主流もあれば、傍流もあるし、滞留もあるだろう。しかし、いずれにおいても、同質の流れが注ぎ込まれているはずである。例えて言えば、人が他人に重大な頼み事をする場合、他人の前でのその人の動作、表情などは、一般的にどうしてもその重大な頼み事をするという主流の流れに連動しているはずである。次に引用するのは、そんな目新しい描写ではなく、現在では月並みな表現に当たっている。


 空車のタクシーが何台も連なって走っていた。一台一台が僕の横に来ると様子を窺うように徐行する。それは僕を喰おうと物色する何か巨大な生き物のようにも見えた。神谷さんは、一体どこへ行ってしまったのだろう。(『火花』P136 又吉直樹)


 まず、「一台一台が僕の横に来ると様子を窺(うかが)うように徐行する。」という比喩表現で語られ、それに誘い出されるように「それは僕を喰おうと物色する何か巨大な生き物のようにも見えた。」の月並みな比喩が続く。しかし、この二つ目の比喩は、表現の必然性が感じられない。つまり、主人公「僕」の師と尊敬するお笑い芸人の「神谷」が失踪してしまったという不安感はあるはずだが、「僕」自身が世の中から追いつめられているようには描かれてきていないからである。この箇所は、「僕」=語り手と作者の連携の失敗と思われる。
 
 ところで、ここでの車が人の様子を窺うという比喩表現には、おそらくわたしたち読者の抵抗感はないと思われる。斎藤茂吉も短歌の中で似た表現をしている。

 ガレージへトラック一つ入らむとす少しためらひ入りて行きたり
                     (S10.『寒紅』)


 わたしたちが用いる道具や器具や乗り物などが、わたしたち人間の諸能力の延長や高度化であると見なせば、車の動きには運転している人の振る舞い方が反映、あるいは連動しているはずである。車を運転している人ならわかるはずであるが、他の車の振る舞い方には明らかに運転者の性格や振る舞い方が連動している。そして、様々な人々が存在するように、色々な動機も加わって様々な車が選択・購入され、様々に走り回っているから、自分に合わせた車の運転の注意の仕方だけでは足りない。ちょうど、人間認識において自分だけを基準にしては独善的になってしまうように。

 最後に、付け加えておきたいことは、今述べた人が車に乗り運転しているからということを超えて、別の考え方はできないかということである。人類は遙か太古には動物を人間と同類だと見なしていた段階がある。そして、現在でも動植物が言葉を話したりしても自然に受け入れることができる乳幼児期にはそのような意識が見られるのでなかろうか。つまり、この種の表現には、そうした人類の遙か太古の意識のなごりも密かに重畳していないだろうか。






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  覚書2015.6.28 ―イデオロギー、対立、回避


(1/7)人の考えは、多種多様であるように見える。そして、そのことは、人が互いにぶつかり合わない限りでは、なんら問題にはなり得ない。問題は、ぶつかり合う場合である。先日の大阪の都構想を巡る大阪住民の賛否もそのぶつかり合う場合であった。これは個対個ではなく、住民間の対立であった。

(2/7)この場合、行政主導とは言え住民投票という形で、現在でも世界に存在するような武力を伴なう衝突ではないということは、現在的な最良の達成には違いない。互いが共に、自分たちの生活や暮らす社会を良くしたいと思っていても、現在までの所、こんな対立的に現れるということがありふれてあり得る。

(3/7)対立するということは、いずれかあるいはいずれにも、どこかに考えの盲点があるはずだが、人は自ら気づく以外に考えを本気で修正することはない。人の考えの根本では、ある人が、ある家族の下、ある地域で、生まれ育つ過程で、相互に関係し合う中から生み出されたある人の固有性とでも言うべきもの、それがその人の考えを織り上げている。

(4/7)わたしたちは、日々様々なことを意識的にあるいは無意識的に選択しながら活動している。ところで、ある人が、他人の考えや集団の考え(宗教やイデオロギー)を選択し受け入れているという場合、その受け入れの偶然性を含めて、その人の固有性から来る選択の志向性ということができる。この集団の考え(宗教やイデオロギー)というものは、子どもがけんかで他の何かを拠り所として相手にぶつける武器とするように、個の弱体性を補完するものと見なされているように思われる。そして、問題や事態をやっかいなものにさせるのは、このイデオロギーが関わってくるからである。

(5/7)集団の考え(宗教やイデオロギー)は、個の弱体性を補完するという面がありつつも、現在までのところそれが何かのきっかけによって凝縮していく場合、特に外から大きな圧力を受けたり、外と対立したり、あるいは内部対立したりなどする場合には、個の考えや存在を軽く見たり、圧殺したりするようにして閉じていく性格を持っている。現在までのところこの磁場を免れることは誰もできない。そういう場面では、誰でもオロオロ立ち迷うほかない。

(6/7)したがって、集団の考え(宗教やイデオロギー)は無いに越したことはないけれども、それを必要とする現実的な条件が存在し続けている。だから、わたしたちが現在の段階で取り得る最良の「イデオロギー」(集団的な思想)、いわば自覚性の「集団思想」は、自分の基盤を、日々具体的な場面で、具体的に活動している、一人の生活者住民と見なし、先述のイデオロギーの悪を歯止めとして絶えず意識し続けることしかない。ちゃちな回避策と見えるかもしれないが、この問題は、いじめ問題と同じく人類史的な時間の大きな問題であり、永続的な規模の問題であるからである。

(7/7)近代以降の激しいイデオロギー対立―世界政治の変貌が資本主義や社会主義のイデオロギー対立を瓦解(がかい)させた―が崩れ落ちた後に現在はあるが、これは人類史的な時間の中で醸成されてきたものである。だから、気長にそういうわたしたちの生存の基盤を自覚し、自覚性の「集団思想」であり続けることによって、イデオロギーの抽象的な生活の時空に行っちまうのを防ぐほかない。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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参考資料―吉本さんの「ほんとうの考え・うその考え」のこと


 近年、すこし精神のたががゆるんできたせいか、眼のまえで、わたしの本の読者や、お喋言りの場所に出かけてきてくれた人や、たまたま署名の場に居合わせた人から色紙を差出されて、何か文句を書いて欲しいと言われると、素直に応ずるようになった。もとより「書」として、じぶんの字を成り立たせるつもりも力量もまったくないから、言葉の意味だけで書くより仕方がない。一冊の本、あるいは一編の文章でかすかに意味があるかなということを一つだけ言えていれば、じぶんを赦してきたというのが本音だ。
 困惑したわたしに浮んでくる言葉は、宮沢賢治の作品「銀河鉄道の夜」(初期形)の登場人物ブルカニロ博士が言う「ほんとうの考え」と「うその考え」を分けることができたら、その実験の方法さえきまれば、信仰も科学とおなじになるという意味の文句だった。わたしは宮沢賢治のその作中の言葉を、頼まれると色紙に書いてきた。短くて意味が填(引用者註.この文字は正しくは、つちへん+旧字の「眞」)っているとおもうからだ。

 ただこのばあいの「信仰」というのを宮沢賢治のように宗教の信心と解さずに、それも含めてすべての種類の〈信じ込むこと〉の意味に解して、この言葉を重要におもってきた。つまり〈信仰〉とは諸宗教や諸イデオロギーの現在までの姿としての〈宗教性〉というように解してきた。宗教やイデオロギーや政治的体制などを〈信じ込むこと〉の、陰惨な敵対の仕方がなければ、人間は相互殺戮(引用者ルビ さつりく)にいたるまでの憎悪や対立に踏み込むことはないだろう。それにもかかわらず、これを免れることは誰にもできない。人類はそんな場所にいまも位置している。こうかんがえてくるとわたしには宮沢賢治の言葉がいちばん切実に響いてくるのだった。
 このばあいわたし自身は、じぶんだけは別もので、そんな愚劣なことはしたこともないし、する気づかいもないなどとかんがえたことはない。それだからもしある実験法さえ見つかって「ほんとうの考え」と「うその考え」を、敵対も憎悪も、それがもたらす殺戮も含めた人間悪なしに(つまり科学的に)分けることができたら、というのはわたしの思想にとっても永続的な課題のひとつにほかならない。

 この本に集められた文章は、喋言り言葉で宮沢賢治本人はもとより、偉大な思想がどうかんがえたかを追いつめながら、追いつめることがわたし自身の追いつめ方の願望になっている文章を集め、それに註釈になっている文章をつけ加えたものだ。早急に、真剣な貌をしてじぶんを一点に凝縮しようとしたときのじぶんの表情がとてもよくあらわれているとおもっている。
(『ほんとうの考え・うその考え』「序」全文 P2-P4 春秋社)
  ※第二段落の後と最後の段落の前は、読みやすいように引用者がそれぞれ一行空けました。



吉本 日蓮とも賢治は達うんですね。法華経に『安楽行品』という章があって、その中で法華経信者は文学や芸術なんかやってはいけないと書かれています。賢治が引っ掛かったのはそこなんです。日蓮が引っ掛かったのは、法華経信者でない人間は刀で切って殺してしまってもいいという教えにいちばん引っ掛かったんです。賢治はその日蓮からもちょっと外れて、法華経との独特の対し方をしました。それが、この人の宗教性の怖いところでもある気がします。それが賢治の語った「普遍宗教」だと思います。
 僕は、戦後の政治の党派性にもみくちゃにされたやりきれない体験を持ってるから、何とかして党派性を政治から外して、普遍的にしたいんだという願望を持ちました。それは元をただせば、宗教の宗派性にあるわけです。それはいくら争っても解決しようがないもので、自分が中身から変わらない限り信仰は変わりませんから。イデオロギーも同じで、信じている限りは党派性はなくならない。そういうのが嫌だな、というところに、僕の関心と宮沢賢治が引っ掛かってくるんです。
(対談「世紀末を解く」見田宗介・吉本隆明 P33 『吉本隆明資料集141』猫々堂)

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 (わたしの註)


 吉本さんの新しい文章を読む時、今回はどんなこと(新たな概念把握・構成・舞台)が述べられているだろうか、というのが読者としてのわたしの関心をそそるものでした。わたしからは控えめに見える「一冊の本、あるいは一編の文章でかすかに意味があるかなということを一つだけ言えていれば、じぶんを赦してきたというのが本音だ。」という吉本さんの言葉は、わたしのそのことに対応しています。

 会社勤めしていれば、飲み会とかがあり、歌を請われて歌わなくてはならないということがあります。喜んで歌い、十分に楽しめればいいなと思いますが、わたしは歌は苦手の方だからそれは苦痛でした。拒絶することなくなんとか歌って切り抜けたという経験が何度かあります。ここで吉本さんは請われた「歌」に「素直に応ずるようになった」と述べています。そして、まじめに考え、応えています。宮沢賢治の作品の中の言葉を色紙などに書いています。例えば、何かを請われて人がどんな対応を取ろうとそのことに価値序列があるとは思えませんが、ここにも、吉本さんの生真面目な姿勢が現れています。

 吉本さんはなぜこんなに生真面目にも、かつ、がむしゃらにも「ほんとうの考え・うその考え」にこだわるのか、普通の批評家や思想家であれば、そんなことはこの現実の人間社会では相対的なもので、まじめにほんとうとかうそとか論じても仕方がない、と飛び越えていくところを、なぜ吉本さんはこだわってきたのでしょうか。

 それはまず、そのように根底的に問わないと、個と集団や集団間の死をも呼び込むことがある対立を解除することができないからです。そして、このような根底的な問いを繰り出すきっかけは、まるごと時代にかすめ取られた戦争の体験であり、「戦後の政治の党派性にもみくちゃにされたやりきれない体験」です。これらは、社会との関わりを持つものですが、もうひとつあります。これらの意識や心の深みには、吉本さんの不幸な生い立ち(註)から来る資質の固有性が控えています。こういう個の生い立ちにはじまる固有性とそういう個が社会に関わる中で生まれる関係の有り様と、わたしたちは誰でもこのような二重性を持っています。そして、その二重性において、例え事件などに到る非行を犯すという誤った道筋を踏むということもあり得るとしても、それらの本質としてはわたしたちはよりよく生きようという意志を貫き、表現していこうとしているのだと思います。このことは、芸術や思想の表現に限らずわたしたちの日々の現実的な生活の中の行動においても同様だと思います。

 ところで、わたしがなぜ長らく吉本さんの言葉に付き合い対面してきているかと言えば、この列島の思想で、「わたしが今ここに生きている」ということ、そこから湧き上がるあらゆる疑問に対して、外来の借り物でなく根本は自前で築き上げた深く頼ったり参考にしたりできる思想が、吉本さん以外に皆無だったからということにすぎません。わたしには吉本さんの足跡は最低でも百年は生きるものに見えます。

 吉本さんの言葉は、比喩的に言えば、例えば会議の席で発言されたものも沈黙も含めて、あらゆる人々の言葉をすくい取り、その論議を超えてその話し合う事柄の行く末を見渡せる(あるいは見渡そうとする)ような稀有な存在の言葉だからです。普通なら、いくつかの考え方のグループに別れたりして対立し合ったり、あるいは対立しなくてもそれぞれ自分の閉じられた場所というものがあります。なぜ吉本さんの言葉が稀有なのかの現実社会からの与件としては、吉本さんがもう生きては居られないとか、生きた心地がしないとか書き留められている敗戦体験(戦争体験)がとても大きなものとしてあり、これがものごとを根底的に考えていくきっかけになっています。そして、個の側からは生い立ちの不幸が、敗戦後の根底的な動揺と不安という生存の危機の中で、根底的に考えていく大きな動因になっています。つまり、敗戦体験と生い立ちの不幸とが不幸な(?)出会いをしたのが、後の吉本さんの思想の出発点になっているように思います。どこかで吉本さん本人も語っていたと思いますが、もしもそのような不幸な(?)出会いがなければ、吉本さんは技術屋さんを職業としながら普通の生活者として生き、文学は趣味程度だったかもしれません。

 付け加えれば、最初の引用の文章の後段にある「早急に、真剣な貌をしてじぶんを一点に凝縮しようとしたときのじぶんの表情がとてもよくあらわれているとおもっている。」という言葉は、党派対立に到る無用な悲劇的なものの解除をめざして、ほんとうのことを追い詰めつつ探索し続ける吉本さん本人の内省の表現になっています。これもまたどこかで吉本さん本人が書き留めていましたが、「真剣な貌をしてじぶんを一点に凝縮しよう」という時、人は一般には内閉してしまい、そして神やイデオロギーなどを呼び寄せてしまうことがあり得るからです。


(註) 
吉本さん本人も触れていますが、熊本の天草から夜逃げ同前で吉本さんの両親等が東京へ出てきたとき、吉本さんは母親のお腹の中に居たというとこと、つまり、母の生きていく上での強く大きな不安が、おそらく強い強度で吉本さんに転写されたということ。生まれ落ちた後は兄弟姉妹と同様に大事にされたと思いますが、吉本さんがどうして自分は他の兄弟たちと違うのだろうというような思いを抱いたことにもそのことは現れています。



 引用文の「短くて意味が填(引用者註.この文字は正しくは、つちへん+旧字の「眞」)っているとおもうからだ。」について


 これについて、わたしは初め「意味がつまっている」と読みました。何となく気になって調べてみたら、「意味がはまっている」と読むようです。わたしは今までにそういう表現には出会ったことがないので、吉本さんの言葉の癖のひとつなのかなとも思います。

 このついでで言えば、吉本さんの「対称」という言葉の癖についてです。

 1.〈遠隔対称性〉(「情況とはなにか」吉本隆明全著作集13政治思想評論集)
 2.〈巫女が共同幻想を<性>的な対称とみている〉(『共同幻想論』)
 3.〈鴎外が、母親は女手一つでしぶんを養育し一人前にした長い歴史をもっているので、昨日今日結婚したばかりの細君の嫌悪くらいで母親にたいする感情をかえてたまるものかといったような場所にあるのと対称的であるといえる。〉(『共同幻想論』)

 ここで、1.と2.の「対称」は、「対象」ではないかということ。そして、3.の「対称」は左右対称の対称でそれでいいと思います。最新のはわかりませんが、改訂されても直っていなかったようです。

 因みに、小浜逸郎は『吉本隆明―思想の普遍性とは何か』で「情況とはなにか」を引用して、「ここで使われている「対称」という表記はすべて「対象」の誤植であるか、少なくとも『遠隔』という言葉に直接結びついていない二か所の傍点つきの「対称」は「対象」と表記すべきであろう。」(P215)と述べています。

 夏目漱石の時代は、造語があったりして今から見ると読み方がいいかげんに見えるものに漱石の作品で時折出会いましたが、もしかするとそんな流れの名残で吉本さんの「対称」という言葉の癖もあるのではないかとも思ったりします。本を作り上げて出すというわたしの知らない世界ですが、何回かの大きな改訂でもおそらく校正者や吉本さん本人が関わってきているはずですから。辞書で調べた限りでは吉本さんのような「対象」とすべき所を「対称」というのはなかったようです。








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やっと探し出した吉本さんからのはがき


 わたしの若い頃、数冊目の詩集を自費出版し、吉本さんに寄贈したことがあります。確か、詩を書いている人では、わたしの敬愛する吉本さんと宮城賢さんに寄贈したと思います。後は知り合いに配り、ずいぶん余って、自費出版なんてするもんじゃないなと思いました。最近は、ネット空間での表現が本を出す代わりになり、この点では自費出版に関わるめんどうなことをしなくても済むいい時代になったなと思います。
 
 ところで、寄贈に対してお二人からはがきをもらいました。吉本さんからは、後に紹介するような言葉をもらい、『試行』64号に「連作抄」としてわたしの詩を何篇か掲載してもらいました。とてもうれしかったのを覚えています。
 
 宮城賢さんも吉本さんも亡くなってしまわれ、そのことはどうしようもないことですが、時折さびしい気持ちになることもあります。わたしには、古いギャグの「欧米か!」というような、積極的で恥というものを知らないかのようなグローバリストやエコノミストらと違って、この列島の古い遺伝子である控え目過ぎるところがあります。わたしの次の行動は、それに反するように見えるかもしれませんが、時には少し前に出てみたいと思います(笑い)。この場で吉本さんからもらったはがきを公開(見せびらかし)します。ご容赦を。
 
 この吉本さんからもらったはがきは、若い頃どこに仕舞ったか忘れて二回いろいろ探し回ったことを覚えています。見つかりませんでした。ま、いいかと諦めていました。その後引っ越しも数回しています。つい先日、わたしの奥さんから「あれはどうしたの」と言われ、この度三回目の大がかりな捜索を試みました。といっても、捜索範囲全体の五分の一くらいを終えたところで、ノート類に挟んでいたはがきをひょっこり発掘することができました。わたしは長らく雑誌『試行』を送ってもらった封筒にそのはがきを仕舞っていたと思っていましたが、記憶ちがいでした。記憶は当てにならないところがありますね。
 
 
 (吉本さんからのはがき)(1985年1月6日)
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 とうとうやったな、うらやましいなという感じで「言葉の青い影」を読みました。これは充分自己主張できる詩集ですので、それでいいとおもいますが、お希望でしたら、小生に自由に(抄出)と(行替え)をまかして下さるよう。次号に掲さいできると存じます。
 小生もリハビリテイションの末、小生なりにやったあ!ということにいつかしたいと存じております。
 はん有難う存じました。丁度欲しいときでした。吉本隆明拝
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※「はん」について。当時わたしは職場で、仕事が終わってから焼き物を習ってしていましたので、たぶん彫った陶印を詩集に同封したのかもしれません。下手な作りだったと思います。

※因みに、吉本さんはこの数年後、『記号の森の伝説歌』という詩集を出されています。

※わたしの『試行』に掲載してもらった詩は、わたしのホームページ ( http://www001.upp.so-net.ne.jp/kotoumi/kakonosi01.html ) からも読むことができます。


吉本さんからのはがき
 







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 人、作者、物語世界(語り手、登場人物)についての軽ーい考察

 作品(物語)は、ある人がよいしょっと腰を上げ、作者(表現する者、表現世界を生み出す者)になって、何かを生み出そうとして表現世界に足を踏み入れ、登場人物や語り手を手配し、構想を練り書き出し、ひとつの物語世界(作品)を創り上げていきます。もちろん、その過程では、行きつ戻りつのその世界の模様替えや手直しなどもあります。
 作品世界の文字を書き記しているのは作者となったある人ですが、その作品世界で言葉を繰り出すのは、語り手や登場人物にに変身してしまった作者です。したがって、それらは作者とはイクオールではありません。

 つまり、ここで、現実としてある人の活動や活動内容だからといって、「ある人」=「作者」=「語り手」=「登場人物」ということにはなりません。次元や位相の違いを考えると、むしろ、「ある人」≠「作者」≠「語り手」≠「登場人物」となります。この≠という数学記号は、ここではそっくりそのまま等しい分けではないという意味で使っています。

 そのことは、ちょうどある人が結婚式会場に勤めていて、司会の仕事をしているとすると、「ある人」≠「結婚式の司会者」≠「結婚式のいろんな催し」、であることは実感でわかると思います。そこでは、多様な性格の個である「ある人」は、絞り込まれて職業上の「結婚式の司会者」に変身しています。もちろん、それらが実際としてそのある人の行動であるという点では否定することはできません。

 その司会者としての振る舞いは、社会的な風習の現在をふまえ、その古い形や最新の形を検討して、おそらく自らも参加して決めた会社のメニューに沿いつつ、またお客たちの要望も受け入れつつ、自分なりの言葉のリズムを加えながら結婚式の構成を進めてていくはずです。

 このことは、物語などの芸術という場面での、作者についても言えます。つまり、ある情景やある場面の描写は、作者によってなされていますが、そういう情景やある場面の描写の歴史的な現在までの達成を無意識的にも踏まえながら、また作者が作り上げたものではない現在の社会の風俗や流行などを踏まえながら、作者の固有な選択や色合いが加わって描写されています。

 だから、作品は作者が描写したといってもいいけれど、現実の世界が作者に書かせているという言い方も成り立ちます。

 このようにわたしたちは、「ある人」≠「結婚式の司会者」≠「結婚式のいろんな催し」や「ある人」≠「作者」≠「語り手」≠「登場人物」というふうに、現実の社会では多層的な関わり合いの世界を無意識的な活動のように日々行き来しています。例えて言えば、わたしたちは日々分身の術を使って行動や生活をしています。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)

 






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 漱石に倣って、「生活者住民本位」ということ


 自分の小さな生活圏から飛び出して、「抑止力」「安全保障」など国家間の力のゲーム(宗教)に頭をやられ憑依する層が、敗戦後70年になり、戦争が遠離るとともに登場して来ています。おそらくこうした層がネット右翼や大阪維新などの支持層だと思われます。しかし、それらは空想の遊びです。傍目からは、頭の中で趣味のキャラ遊び(よく知らないけど)のように国家間の軍事力のバランス遊びをしているようにしか見えないが、本人たちは憑依しているから、つまり日々の生活実感と空想(イデオロギー)とが入れ替わってしまっている。ちょうど、新興宗教にのめり込んでしまっている人のように。

 私たちは、まずこの地の生活者住民であること、その生活の穏やかさと安心や幸福(感)を第一とすること。それ以外の上空の社会や国家が繰り出してくる「抑止力」「安全保障」とかいう幻想は、また別の世界の原理で動いており、取りあえず私たち生活者住民には関係がないということ、このことが大事だと思います。「抑止力」遊びの論理の世界に入り込んだら、例えば口喧嘩のように簡単には抜け出せません。

 現在では、ラッキーなことに経済も政治も私たち大多数の生活者を無視しては成り立たなくなってしまっています。そして、日々さかんに企業は私たち消費者にお誘いのコマーシャルをマスコミや街中を通して流しています。二昔前なら、企業も市役所など行政の窓口も今ほどていねいで親切ということはなかったように記憶しています。私たちは知らない間になんらかの力を手にしてきているのだと思います。
 現在の社会の抱える難題の前では、どんな政党や政治家もあまり区別が付かないようになってきています。政党や政治家は、まずは多数の民意を汲み取りさえすればいい。後は研鑽して未来社会に向けての根本的な構想を追究してくれればいいと思いますが、なんかそれ以前のいろんな体たらくのものしか見えてきません。
 私たちとしては、面倒だけど、私たちは、いつでも、どんな政権でも、私たちの多数の民意(現在ではマスコミの世論調査でその概要がわかるようになりました)を無視する場合は、この「生活者住民本位」という位置からの倒閣を開始することが必要だと思います。 ところで、戦後70年の穢れ(対アメリカとの関係で改定してきた様々なこと)を煮詰めた悪霊のように最後の復古的イデオロギー政権が居座っています。

 しかし、もう現在の中心や中心の課題はそんなところにはありません。複雑化した社会になりましたが、問題の根幹は単純だと思います。「生活者住民本位」で、みんながゆったりと幸せに暮らせる社会のイメージです。そちらへ向かうには、ウソ八百の幻想や思い込みなどを潜り抜けていかなくてはいけません。
 最後の復古的イデオロギー政権は、それらの難題を引き受けることなく、「戦争法案」に突き進んでいます。ほんとは、年金問題などの社会保障の抜本改革や原発大事故による今なお続く被害や放射能汚染問題など、現政権は自分たちがやってきたことの尻ぬぐいを中心的な課題としなければならなかったはずだと私は思っています。
 
 先般の「大阪都構想」問題のように、残念ながら住民間の対立も仕方がないと思います。ただ、わが国の戦国時代や現在でも他国のように武器を持って争わなくてもいいようになったのは大きな救いだと思います。もうほんとうは、新しい難題抱えた社会が、すぐそこ、幕間に控えています。「抑止力」「安全保障」などの生活者の世界から抜け出てしまったお遊びや死に損ないのイデオロギー対立は、不毛です。ちらちら見かける評論家やエコノミストで、意識的あるいは無意識的になんとか自分の利益になるようという局所的な利害からの煽りも無意味です。この列島の住民に長らく受け継がれてきた「相互扶助」(たがいの助け合い)の美風も、ささくれ立った欧米化の中で風前の灯火のようになってきているのでしょうか。
 社会の抱える難題の前で、同じ生活者住民として冷静に考え語り出すことが大事だなあと思っています。
 しかし、とりあえずはこの復古的イデオロギー政権を追い落とさなくてはなりません。 わたしは、この現在の社会の私たちへの貴重なおくりものである「消費を控える活動」を継続していますし、働きかけもしていきたいと考えています。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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 表現の現在―ささいに見える問題から ③


 次の川柳作品は、近年わたしがよく目を通している新聞連載のものである。考える素材としての作品は、新聞連載の短歌作品でも構わないが、より身近で毎日掲載されているから取り上げやすいという理由がひとつ。さらに、短歌は芸術としての洗練が加わりがちだが、言い換えるとわたしたちの普通の生活者の生活感覚から抜け出た表現になりがちであるが、川柳には日常の生活感覚が生の形で現れやすいということもここで取り上げる理由である。


①まかせると言っときながら覗くボス

②税収減なのに外国援助増

③耳アカはどうしてるのか野生たち

(「仲畑流・万能川柳」毎日新聞 2015年07月17日 柳名(作者名)は略)



 わたしたちが作品へと表現の過程を馳せ上っていくとき、最初は誰でも表現の初心者であって見様見真似をしながら初心者なりに表現上の様々な苦労をする。しかし、何度も何度もくり返し作品を生み出すことをくり返していれば、作品を生み出そうという態勢に入り込んだら、ふいと言葉が湧き出してくるということもある。あるいは、そういう態勢に入り込まなくても、日常の行動の中にふいと湧き上がってくるということもある。あるいはまた、修練を積み重ねていてもうまく言葉が出てこないということもある。ここでは、初心者の時の苦労とはまた違った段階の苦労が押し寄せてくる。

 ところで、どんな作者であっても、作品の言葉を生み出す最初に当面することは、まず何を表現の対象として選択するのかということである。わたしたちは、可能性としては生きて在るこの世界のあらゆることを対象として選択し、表現の世界に言葉によって取り上げることができる。さらに、この作者の最初の選択は、意識的であってもその中には無意識的なものも加味されている。わたしたち人間は、例えば、現実のある行動において、どんなに計画的、意識的にあることを成し遂げようとしても、押し寄せてくる現実の中で何事かを織り上げていく過程には、無意識的な選択や行動も含まれている。作品を生み出していく過程においても同様のことが言える。

 この作者の表現における最初の選択は、作者固有の選択ということができる。しかし、その選択の背景には、作者がこの世界の有り様と日々対話をくり返しているということや、あるいはこの世界に流通しているある考え方やイメージと出会い、葛藤したり、親和したり、異和を放ったりしながら、日々対話をくり返しているということがある。作者は、その最初の選択から、川柳なら川柳の歴史的に積み重ねられてきた言葉の表現の世界の現在に滑り込み、言葉によってあるまぼろしの世界を生み出していく過程を踏んでいくことになる。そして、作品②のように現実に対する批判や批評性を持っていても、それらは作品として表現する過程では、積み重ねられてきた川柳という5・7・5の形式の歴史的な現在の中で、まず「税収減」と「外国援助増」の対比は正しいだろうかと判断・検討され、それらを「なのに」で連結し、対比的に構成する、などという表現上の苦戦に置き換えられていく。

 ここで取り上げるのは、その表現の過程の入口の問題である。この最初の表現する対象の選択は、①では、おそらく会社の仕事上のこと。②は、国の政治・経済のこと。③は、自然界の動物界のこと。ところで、吉本さんは、戦争を潜り抜けてきたその反省を込めつつ、実験化学者の手付きで、人間界で人が生み出す〈幻想〉(観念、考え、イメージ)に自己幻想、対幻想、共同幻想、という三つの基軸を設けて曖昧さの靄(もや)を打ち払い、それらの相互関係によって人間社会で流通する〈幻想〉の有り様を押さえようとした。このことを念頭に置けば、この人と人とが関わり合う人間界で、個の世界、家族の世界、職場などの具体性を伴う共同的な世界、政治や宗教等の抽象的な共同的世界、という風にいくつかの中心的な場面を取り上げることができる。そして、もちろんそれぞれの世界での個(作中の私や登場人物など[分身となった作者])の関わり合いの有り様にスポットライトが当てられるはずである。

 このように人間界(作品①②)だけでなく、自然界(作品③)にも作者固有の選択は及んでいく。いずれの作品も、その対象選択のなかに作者のある気づきが込められている。ある一人の作者にとって、なぜこのように対象選択が多様なのだろうか。それは、わたしたちが複雑な人間界においても、自然界においても、多層的な関係(関わり合い)の構造の中に置かれ、日々生活しているからである。もう少し正確に言えば、「多層的」という言葉は、次元が異なるという意味で「位相的」と言った方が正確かもしれない。

 






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 現在とは何か―オリンピックの「エンブレム」盗用疑惑問題から



 今回のオリンピックの「エンブレム」盗用疑惑問題で、次々に新たな盗用ではないかという指摘が上がっていた。誰がどうやって調べるのだろうと疑問に思っていた。威力を発揮したのは、画像検索などではないかと朝日新聞の記事(2015.9.2)にあった。(また、本日4日の朝8時代のワイドショーみたいな番組が「五輪エンブレム騒動で話題 ネット民のパクリ発見法」というのをやっていた)わたしは以前何という名の樹木かを知りたくてネットで調べようとして、画像検索というのがあることを知った。なるほど、検索機能が言葉だけではなく、画像にも拡張されたのかと驚いたことがある。将来的には音楽の検索も音でできるようになるのだろうか。因みに、グーグルの「ウェブ検索ヘルプ」によると、画像検索についての次のような説明がある。わたしもある虫の画像で画像検索をやってみたが、うまく検索できなかった。


○画像を使用して検索する

写真を使用して、関連する画像をウェブ全体から検索できます。


○画像を使用して検索する仕組み

画像を使用して検索すると、検索結果には次のものが含まれます。
・類似画像
・画像を含むサイト
・検索に使用した画像の他のサイズの画像

画像を使用して検索する機能は、画像がウェブ上のさまざまな場所に表示される可能性が高い場合に最適に動作します。そのため、個人的な画像(たとえば最近の家族写真)よりも、有名なランドマークの画像の方が多くの結果を得ることができます。


 ネットでの言葉の検索もそうだが、この画像検索もネット全体から瞬時に探し出してくるのだろう。幅やゆとりを含ませて類似画像や異なる画像サイズも検索に引っかかるようになっている。また、個人的な画像より社会的によく知られた者の画像の方が良い検索結果をもたらすということだから、今回の場合はそれにぴったりだったことになる。
 
 ところで、表現の盗用ということは、おそらく太古においては無意味なものだった。歌や絵や踊りなど、普通の人々が感じとったり成したりしている表現を普通の人々より上手にできる者たちは有り難がられたと思うが、現在のような著作権問題はなかったはずである。しかし、得意な表現力を持つ人々は、そこから次第に経済的にか地位・待遇としてか何かいいことがあるという風になっていったと思われる。
 
 近世あたりを含む近代社会では、個が社会の基底に置かれるようになったから、表現されるあらゆる芸術分野の作品には、個の作者が想定され、個の作者がその持てる力によって生み出した作品という見方が自然なものとなってきている。そして、それによって経済社会で生活していくというように組み込まれてしまっている。ただし、太古から芸術の表現というものを考えてみると、その見方は自然なものではない。また、現在の作家たちからも作者がすべてを造型するというよりも登場人物たちがこうせいああせいと語りかけてくるというようなことが、『ゲド戦記』の作者として知られているアーシュラ・K. ル=グウィンや、吉本ばななや、もうすぐ完結する『居眠り磐音江戸双紙』の作者である佐伯泰英などの、証言がある。
 
 わたしの場合は、現在の慣習を半ば尊重しつつも、著作権問題云々を言い立てるという考えはあんまりない。最初のエンブレムといわれるものも類似のものと比較して造型はほとんど同じでも色使いが違い、形や色に込めたイメージ(意味)は違うだろうと思う。つまり、表現における作者の選択というものだけは込められていることになる。ただし、現在の慣習ではこのようなことは盗用と見なされるということはある。
 
 昔、批評家の内田樹が、自分の文章は勝手に使っていいし、あなたの名前を貼り付けて自由に発表してもいいですよ、とブログに書き付けていたことがある。芸術表現を職業としてしている人々のことは一応棚上げして考えると、わたしの思いからは、こんなあっけらかんとした考え方や対処が、自由でおもしろいと思っている。
 
 しかし、人間の歴史が、起源や太古がどうであれ、現在に到り、現在のような有り様を示していることには、それなりの重みがある。したがって、作品において、どこまでが作者個人の固有のものや力が生み出したものであり、またどこまでがこの社会全体がもたらした無意識の贈り物なのか、など表現とは何かを含めて、表現の盗用という問題が考察されることは意味があることだと思う。けれども、わたしがここで取り上げたいのはそのことではない。
 
 気付いたときにはものごとはずいぶん深く進行しているということが多い。わたしたちの気づきはいつも遅れてやって来るように見える。それは事態が進行してみないと明らかにならないことが多いからでもある。今回のオリンピックの「エンブレム」盗用疑惑問題が、明らかにしたことがある。
 
 ネットという仮想的な世界に張り巡らされた電子網に連結されたSNSの普及によって、この複雑で高度な社会が、あたかも太古の小さな集落レベルの規模の社会として仮想的に現出している。このことの帰結として、その太古の小さな集落においては成員の家庭の事情などが他の成員に対して筒抜けである(このことは、太古に限らず、つい二昔くらい前までは現存していたと思われる)のと同様に、この仮想のネット社会でも、現実社会から連結してそこに足跡を残している人々や物事は、容易にその成員に知れ渡るということになる。
 
 わたしはオリンピック騒ぎには中性的な感情しか持っていない、あるいはこんな日本列島の現況では止した方がいいのではと思っているから、「エンブレム」問題にも本質的な関心はない。したがって、盗用疑惑がネットで次々に指摘されるのをぼんやり見ていた。それでも、ネットにすばやく現れる探索結果や反応には驚かされた。おそらく、問題の当事者たちもこの社会の筒抜けの可能性を持つ現状をうまく理解していなかったのだろう。
 
 この絶えず変貌を遂げゆく現在は、いかに秘密の扉でガードしたり、うまく隠れたつもりになっていても、あらゆる秘密や隠蔽が暴き出される可能性を手にしているのではないだろうか。わたしが探索しなくても、誰かが探索すればその結果をわたしたちは共有できることになる。この社会のどんな部署にも、人間的な内省の存在がありうるだろう、そんな個人的な、自由な、人間的なものにそのことは支えられている。







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 表現の現在―ささいに見える問題から ④(表現の無意識に触れ)上



 外国映画、たぶんアメリカ映画と思うが、観ていて気になることがある。懐中電灯の持ち方がわたしたちと違っていることである。わたしたちと同様にアメリカの映画監督や俳優もおそらくそのことに無意識なんだろう。

 食事でも、欧米のナイフとフォーク、わたしたちの箸を使う、インドでは手を使う、などその摂り方の違いがある。さらに、わたしたちの箸を使うという以前は、おそらくインドのように手を使って食べていたという歴史的な推移の問題もある。しかし、食事の摂り方の違いがあっても、食事を摂るということでは人類、あるいは動物含めて、共通、普遍的である。

 こういう無意識の、つまり自然な行動となっているものは、世界のどの地域の人々にもそれぞれ存在しているはずである。そしてそれらはその地域での長い生活のくり返しの中から生み出されてきたものであろう。つまり、人のどんなささいな仕草や表情でさえ、それぞれの個性という固有性を超えて、ある地域の中で長い時間にわたって織り上げられてきた固有の結晶(固有の共同性、風俗、慣習)ということができる。したがって、外国人同士に限らず、異なる地域出身の人々が出会えば、互いにささいなことにも異和感を抱くことがあるはずである。そして、相互の付き合いの中からその異和感は次第に解消していくのだと思われる。

 文章においても割と無意識的な固有の慣習やその推移というものがある。現在では物語は、人間界の人と人とが関わり合う心や精神の物語が主流になってしまっているから、その自然描写の部分は、わたしたちは十分に味わうことなくおそらく無意識のように読み飛ばしているのではないか。おそらく遙か昔の人々が語りを聞くという段階では、そのような自然描写に相当するある地の描写などは聴衆はもっと切実なもの、感動を呼び起こすものとして味わっていたものと思われる。



いくさやぶれにければ、熊谷次郎直實、「平家の君達たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給らん。あはれ、よからう大將軍にくまばや」とて、磯の方へあゆまするところに、ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に、萌黄の匂の鎧きて、くはがたうたる甲の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、きりうの矢おひ、しげ藤の弓もて、連錢葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいてのたる武者一騎、沖なる舟にめをかけて、海へざとうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷「あれは大將軍とこそ見まいらせ候へ。・・・・・・」
 (『平家物語』巻九 敦盛の最期)



 この物語の語り手が、敦盛の戦衣装や武具や馬のおそらくすばらしさを次々に描写している思われる部分は、登場人物の熊谷次郎直實も「大将軍」の証として見つめているのだろう。おそらく当時の語りや物語においては〈貴人〉の証としてのこういう描写は必須のものだったし、観客や読者もまたその描写を必須のものと思ったに違いない。これから数百年後の、二葉亭四迷の『浮雲』(明治20年頃)の出だしでも、街中に出てくる勤め人たちの長ったらしい細かな描写から作品は始まっている。こちらは〈貴人〉の描写ではないが、無意識のうちに語りの描写の伝統を踏まえてるのかもしれない。しかし、現在のわたしたちはそのような両者の描写には深くは入り込めない。言いかえると、現在では余り感動を呼び起こせない、死語のような死表現になっているからだ。わたしたちの心から流れ出すある感性やイメージがすぐに言葉の表現に結びつくわけではない。その感性やイメージが時代の先端を走るものである場合はなおさらである。表現の定型との格闘を通じて新たな表現は実現される。二葉亭四迷の『浮雲』から約30年後の大正三年に書かれた夏目漱石の『こころ』では、人と人とが関わり合うこの世界の入口から、次のようにストレートに始まっている。現在のわたしたちが読んでも抵抗がないほどの練り上げられた漱石固有の表現の位相が獲得されている。



 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。
  (『こころ』夏目漱石 青空文庫)




 こういう場面への入り方や場面の描写法という表現の歴史的な推移というものは、避けがたいものとしてある。また、こういう違いが気になるということは、病的であると見なさないならば、現在が、グローバル化した人と人との関わり合いでも、文学表現の世界でも、新たな段階に到っているということの促す現象であるのかもしれない。







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 日々いろいろ―今の今に


①おそらくほとんど全ての人々が、幸せに日々生きることを理想とするはずだ。それなのになぜ様々な考えや相互の対立が生まれ出てくるのか。宮沢賢治もそのことに思い悩んだ。『銀河鉄道の夜』に書き留めた。〈ほんたうのこと〉、あらゆる考え方や見方の違いや対立を、包み込みつつ超える〈科学〉は可能かと。そして、その問題に手を付ける人々が少ないとしても、このことは依然として大きな問題としてある。


②戦争による死者たちや敗戦後の大衆の無意識(もう戦争なんてまっぴらだ、国に縛られるのもこりごりだなど)を体現した吉本さんが指摘(『共同幻想論』における個、家族、国家の三つの意識の分離とそれら相互の関わり合いの解明、その解明による個に迫ってくる無用な倫理の解除)したように、

③わたしたちは、個と家族と国家というように位相の違う世界を知らぬ間に行き来して日々生活している。敗戦の教訓は、この同じ列島の住民として正しく受け継いでいかなくてはと思う。戦争法案を支持し、国際政治などにイカレている人々は、観念的には住民を離脱してしまっていて、生活者という姿形や考えが希薄になってしまっている。例えて言えば、彼らとは、町内会の会合に出ていたとして、その場である紛争国へ自衛隊を派遣する問題を語り出すような者である。場違いな!

④もちろん、国と国との付き合い方やいろんな大きな問題がこの世界にあるのは認めるし、その中には長い時間をかけて取り組まなくてはならないものもあるだろう。が、そんな世界に巨人(観念)に変身して入って行ってまるで我が事のように語ろうとは思わない。私たちは戦争の教訓としても、まず、自分を、身近なひとり一人を大事にすべきと思う。そんな日々のささいな日常の生活をこそ第一義と考える。(それに、なんで、この国の社会の足もとの疲弊する同じ住民たちの抱える問題ではなくて、戦争法案なんだ?)

⑤したがって、私たち住民のそんな穏やかでありたい日々の生活を破壊しようとする国家や組織やソフトイデオロギー住民に対しては、わたしは徹底してたたかうだろう。(中世の住民たちのように、武器を持って血みどろの戦いでないのは大きな救いではあるが、匂い立つ不毛の思いには耐えなくてはならないのだろう。) 
  (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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 日々いろいろ―ひとつの川柳から


 人間が、何かに触れて、あるつながりの糸を張ろうと心の触手を伸ばしたり、情動をふるわしたりすることを〈表出〉、それらが語られる言葉や書かれる言葉として音声や文字を媒介にして外に形(かたち)成すものとしてあらわされることを〈表現〉という概念で捉えると、沈黙においては、例えば話し言葉では内語という表現(の一種)になることはあっても発語という外化された表現へ到ることはない。わたしたちは誰もが、語ることにおいても書くことにおいても、沈黙の内の、外からは容易には窺い知れない言葉の行動と、それらが音声や文字によって外化される言葉の行動という、二重の言葉の行動を日々している。

 わたしたちが日々語る言葉を近代あたりから注目してみれば、明治以降の統一的な標準語化政策があり、その後のラジオ、新聞、テレビなどのマスコミによる標準語の普及、また大都市への流入やそこからの流出などの交通の拡大、こうした流れによって標準語がこの列島に浸透し、地域語(方言)を相対化してきたと思われる。現在では、世代によっていくらかの違いがあるとしても、一般に標準語(統一的な日本語)が中心になり、地域語(方言)がそれを補うように使われている。もう少し厳密に言えば、学校や職場などの社会的な場面の公的な面では標準語が使われ、それらの同じ場面でも仲間内の語らいなど個人的な面では地域語(方言)が使われていると思われる。そして家庭では、標準語と混じり合ってきた地域語(方言)が勢力を張っている。それに、この列島の異なる地域出身の者が、同じ標準語(統一的な日本語)を語っているように見えても、長らく親しんできたそれぞれの地域語(方言)の抑揚やアクセントが浸透しているはずである。いわば、同じ標準語(統一的な日本語)をしゃべっていても少しずつ色合いが違っている。

 この同じ列島の住民であり、日々標準語(統一的な日本語)を使っているように見えても、そこにはこのような微妙なニュアンスの違いがある。したがって、例えば大阪出身でない者が大阪弁を使ってみるということは、大阪出身の者が大阪弁を使う場合と微妙に違うものがある。ちょうど歌詞にお決まりの英語のフレーズを差し挟むように、前者にとっては後者の自然さを超えたものがあり、少し感覚をずらしたり、閉塞する現状を打ち破ろうとしたり、あるいは何か新鮮さを付け加えようとしたりなどのモチーフが込められている。

 ところで、次のような川柳がある。最初、この作品を前者の場合と思って読んでいたら、作者は大阪とある。もちろん、他所から大阪に移り住んでいるということも考えられる。いずれにしても大阪弁になじんでいる作者であることは確かである。


  つらいとき大阪弁で考える
       (「万能川柳」毎日新聞 2015年09月12日)



 わたしたちはふだんもの思いしたり、考えたりする時、言葉というものを行使しているのはまちがいないけれど、その沈黙の中の言葉が標準語か地域語かなんて意識することはほとんどない。しかし、この作品の作者は、内省としてそこに気づいたものと思われる。つらい重たい問題を抱えたとき、この作品の〈わたし〉は、「そやな」「あほやったな」などの大阪弁で自分の行為を捉え返したり、つぶやいたりすることによって、つらい〈わたし〉の内藏感覚的な重たさや意識の囚われがいくらかでも軽くなるということであろう。

 つらいとき意識的に大阪弁で考えたり、つぶやいたりというようなことに類することは、日常の生活で誰にも思い当たる所があるように思われる。そうやって人は、この人と人とが関わり合う人間界でつらさをやり過ごしたり、忘れようとしたりする。この場合は、おそらく自分がその地で生まれ育ち、その地の言葉になれ親しんだという言葉(大阪弁)に詰まっている時間の深さが、つらい〈わたし〉の緊張や重たさを解除したりなぐさめたりするように作用するのであろう。ちょうど、若者が実家に戻ってきたときのくつろいだ状態のように。

 わたしたちは、自覚的かどうかに関わらず、目や耳が捉えることができる言葉が表現された世界だけではなく、外からは窺い知ることが難しい沈黙の世界でも、日々言葉の行動を成している。それらのことが、わたしたちが生きて在るということであり、わたしたちは何ものかを生み出したり消費したり修正したりしながら絶えずこの世界の現在を呼吸し続けている。 






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 「わたしの苦手な経済の話から」


 わたしたちは誰でも、日々経済活動の中に在り、経済活動に具体的に参加している。仕事してお金を稼いだり商品を購入したりするような自分の具体的な「経済活動」を行っている。しかしわたしは、それ以外の一国の経済や、あるいは企業や国家が世界レベルで相互に関わり合う経済など、大規模な動態的な構造としての経済というものに興味や関心を持ったことがないし、今でもそのことはあまり変わりはない。また、株や投資にも関心はない。
 
 バブルやその後の後始末期、そして現在のどんより重たい曇り続きの経済、しかも一部には光さしている所もある奇妙な空模様の経済が続いている。しかもこの世にはたくさんのエコノミストやら経済学者やらが居るようなのに、現在の天気予報ほどは期待しないが、あんまりぱっとした予測もできないようなのだ。
 
 吉本さんは、第三次産業がウエイトを増し、天然水などの水が商品となり得るようになった70年代初頭辺りからのこの社会の変わり目の時期をたどり、現在が家計消費がGDPの6割ほどを占める新たな「消費資本主義」の段階に到っていることを明らかにした。 
 そんな段階の社会に到って、わたしたち普通の生活者住民が、経済的にはもはや本物の主人公になっているということ、そして、不況をほんとうに離脱したかったら、土木工事などの公共事業ではなくこの社会の中心のウェートを持つ第三次産業にこそお金を使えばいいのだとか、家計消費を促すような政策を実行すればいいと分析していた。
 
 いまでこそ公共事業はたいして意味無しと見なされるようになったが、当時はそんなこと誰も言ってなかったと思う。エコノミストやら経済学者やらが、ぶつぶつ蟹さんのようにわけのわからない複雑な事情をつぶやくなかで、吉本さんのこの分析はわたしには衝撃であった。経済に限らないが、太古と比べたら複雑系にはまり込んでしまった経済というものを、どこでつかんだらいいか、何を主要な構成要素とする動態的な構造であるか、これらが十分に問われ煮詰められて出て来た吉本さんの現在の経済社会分析であると思う。 そうして、この吉本さんの分析に沿った経済政策は未だ本格的には取られていない。それは、この現在の最後の退行的な復古政権の先にある課題であるはずである。
 
 経済は、人間的な諸活動の一領域であり、その活動の計量は近代以降現在までのところ〈お金〉の動きやその多寡として計量されている。経済は、商品、生産、流通、宣伝、交換、消費などの概念で捉えられるものが相互に関わり合う、生命活動のような複雑で動的なひとつの構造を成している。そして、経済活動にはお金だけではない精神的な要素も関わっている。おそらく歴史を遙か彼方まで下っていけば行くほど、経済という領域は現在のように〈お金〉の動きやその多寡として計量されるだけの世界ではなかったはずである。
 
 もちろん現在でも、商品、生産、流通、宣伝、交換、消費などの諸概念で捉えられる商品の動態は、旧来的な物質的なものに限らず、現代ではサービスなどの精神的な様相をまとっているものも商品となっている。さらに、現在の経済社会では、二昔前とは違い、広告・宣伝が重要な位置を占めていて、有名人などがテレビコマーシャルなどに出ているのを目にしても誰も変だとは思わなくなっている。このマスコミを通して立ち現れる膨大な厚味を持ってしまった広告産業は、二昔前の、街の所々におたふく綿や飲料などの小さな看板が取り付けてあった牧歌的な時代からは考えられない風景である。
 
 経済についてはわたしの任ではないけど、ほんとは新しい経済の記述が深いところから促され、迫られているのかもしれない。さらに、経済に限らず、教育、スポーツ、芸術、科学などのあらゆる分野で、現在までの人類の達成を踏まえ、捉え返した新たな記述と行動が促されているように見える。しかも、複雑系を誰にもわかるような易しい記述で描くこと。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)  






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 表現の現在―ささいに見える問題から ④(表現の無意識に触れ)下


 物語作品は、現在でも登場人物たちの振る舞いや内面の描写だけでなく、必ず舞台となる土地や風景が登場し、描写される。太古において物語を聴衆に語る場合は、狭い集落を想定すれば、現実界であれ異界であれ、同じ集落あるいは近隣の集落に住む話者が、ある土地や場所を語ると、ははあ、あそこだな、そういうことだな、という風に聴衆はすぐに了解できたのではなかろうか。そういう舞台を背景として、聴衆に受けるような不思議な語りがなされていたのかもしれない。

 そこから世界や交通が発達したこの次の段階として、同じ集落出身ではない、遠い他所からやってきた話者の場合、聴衆は自分たちの知らない遠い地方の物珍しい土地や風物を背景とした物語を聞くということが想定される。この場合、聴衆の集落との同一性もあれば異質な面もあるだろう。物語の舞台が都などの大きな都市の場合は、聴衆に物珍しさを与える面が強かったかもしれない。柳田国男はこうした各地を漂泊していく語り部の存在を何度か追究していた。そして、そういう語りは、語り手の脚色もいくらか付け加えられていったとしても、語り手の独創というより、ある物語の定型が主要には聴衆の興味関心に沿って語られていったと記している。つまり、民衆に受けるような語り物であったということである。

 明治になると、個の内面描写を獲得した西欧近代の波をかぶり、わが国にも近代小説の形式や表現が浸透してくる。現在から見渡すと、二葉亭四迷の『浮雲』辺りは当時としては斬新だったとしても表現としてまだ十分こなれていないし読みづらいが、夏目漱石の『こころ』辺りでは、現在の読者にとっても割と自然な表現になっている。そして、そうした物語の世界は、わたしたちが現実の様々な場所で活動し、生活しているのと同じように、物語世界の登場人物たちに関しても単に内面の描写に終始することなく、彼らの活動する物語世界の舞台背景や風物の描写を必要とし、伴っている。そして、そのことは地方と都市の落差から来る、聴衆(読者)のもの珍しさという興味・関心に答えるという面も併せ持っていた。

 現在に近づくにつれて、このもの珍しさは薄れてきている。つまり、大都市や地方都市という都市の規模の違いはありつつも、この列島全体が都市化されて均質化されてきているからである。もちろん、現在でも大都市を中心にして新たなもの珍しさは絶えず生み出され、更新されてはいる。

 遠い遙か太古から近代以前は、物語の舞台となる土地や風景の描写は聴衆(読者)に対してある強度を持っていたとすれば、それ以降現在に近づけば、物語の舞台となる土地や風景の描写は、無意味だと消失してしまうことはなく作品の中に相変わらず存在しているが、その強度はずいぶん薄れてきている。言い換えれば、わたしたちが作品を読むとき、そういう土地や風景の描写は流し読みのように読まれているのではないだろうか。

 例えば、わたしの読書経験から言えば、よく知らない街の描写などは読み飛ばすことが多い。おそらく作者たちが東京などの大都市に居住していることが多いせいか、詩や物語の中でよく東京の街々などが描写される。わたしはそれらの街をほとんど知らない場合が多いから、熱心に読みたどるという気分になれない。また、文学にも村上春樹や吉本ばなななど極わずかながらグローバル化の波に乗って世界中に読者を持っている作者たちもいる。この場合、作者たちは、読者のわたしが作品の中の東京などの知らない街の描写を読み飛ばしたというようなことを表現の問題として繰り込み、今度は世界中のファンに対する配慮として描写の有り様を考えていくことを強いられているのではなかろうか。これ以外にも先端を行く作者たちは、様々な具体的な自己配慮と表現の工夫を促されているのではないだろうか。

 ここで、現在の二つの作品から土地や風景の描写に当たるところを取り出して考えてみる。



① (引用者註.名古屋から東京の大学へ出て来て)
しかしつくるのまわりには、個人的に興味を惹かれる人物が一人も見当たらなかった。高校時代に彼が巡り合ったカラフルで刺激的な四人の男女に比べれば、誰も彼も活気を欠き、平板で無個性に見えた。深くつきあいたい、もっと話をしたいと思う相手には一度も出会えなかった。だから東京では大方の時間を一人で過ごした。そのおかげで前より多く本を読むようになった。
「淋しいとは思わなかったの?」と沙羅は尋ねた。
「孤独だとは思ったよ。でもとくに淋しくはなかったな。というか、そのときの僕にはむしろそういうのが当たり前の状態に思えたんだ」
 彼はまだ若く、世の中の成り立ちについて多くを知らなかった。また東京という新しい場所は、それまで彼が生活していた環境とは、いろんなことがあまりに違っていた。その違いは彼が前もって予測した以上のものだった。規模が大きすぎたし、その内容も桁違いに多様だった。何をするにも選択肢が多すぎたし、人々は奇妙な話し方をしたし、時間の進み方が速すぎた。だから自分とまわりの世界とのバランスがうまくつかめなかった。そして何より、そのときの彼にはまだ戻れる場所があった。東京駅から新幹線に乗って一時間半ほどすれば、「乱れなく調和する親密な場所」に帰り着くことができた。そこは穏やかに時間が流れ、心を許せる友人たちが彼を待っていてくれた。
 (『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』P27-P28 村上春樹 文藝春秋 2013年) 




 この簡潔な描写から、外国の読者が読んでも地方の名古屋から大都会の東京に出て来た「つくる」という主人公の境遇や内面に引き起こされる戸惑いなどの波紋はすっと理解できるだろう。むしろ、作品の重力の中心は、夏目漱石の『こころ』と同様に、主人公つくるを巡る人と人とが関わり合う世界の物語に置かれていて、その地平では色合いや感触の違いがあっても、現在を共有する世界共通性として外国の読者にも受け入れられるのかもしれない。普遍的に語れば、この作品のモチーフは、利害関係を意識する以前の無償性の少年期、その関係の有り様から大人の世界に入り込んでいく時期の、誰にも訪れるある喪失と移行に置かれているものと思われる。



 (引用者註.主人公多崎つくるは、東京の大学を出て、東京の鉄道会社(設計の仕事)に勤めて十四年ほどになる。この日沙羅と出会って用件を済ました後)
 さて、どこに行けばいいのだろう?
 結局、行くべき場所はひとつしかなかった。
 彼は大通りを東京駅まで歩いた。八重洲口の改札から構内に入り、山手線のホームのベンチに座った。そしてほとんど一分おきに次々にやってきて無数の人々を吐きだし、また無数の人々を慌ただしく呑み込んで去っていく緑色の車両の列を眺めて、一時間あまりを過ごした。彼はそのあいだ何も考えず、ただその光景を無心に目で追っていた。その眺めは彼の心の痛みを和らげてはくれなかった。しかしそこにある反復性はいつものように彼を魅了し、少なくとも時間に対する意識を麻痺させてくれた。
 人々はどこからともなく引きもきらずやってきて、自主的に整った列を作り、順序よく列車に乗り込み、どこかに運ばれて行った。かくも多くの数の人々が実際に(「実際に」に傍点)この世界に存在していることに、つくるはまず心を打たれた。そしてまたこの世界にかくも多くの数の緑色の鉄道車両が存在することにも、同じように心を打たれた。それはまさに奇跡のように思えた。それほど多くの人々が、それほど多くの車両で、なんでもないことのようにシステマティックに運搬されていること。それほど多くの人々が、それぞれに行き場所と帰り場所を持っていること。
 ラッシュアワーの波がようやく引いた頃、多崎つくるはゆっくり腰を上げ、やってきた列車の一台に乗り、うちに帰った。心の痛みはまだそこにあった。しかしそれと同時に、彼にはやらなくてはならないことがあった。
 (『同上』 P149-P150)




 引用した部分の「彼は大通りを東京駅まで歩いた。八重洲口の改札から構内に入り、山手線のホームのベンチに座った。」は、途中の道筋や風景を細々と描写することなく、とても簡潔な描写になっている。そして、描写の中心は、その後の「心の痛み」を抱えた主人公つくるが、駅のベンチに座りながら眺める光景や、そこからこの世界の有り様に思いめぐらすということに置かれている。この描写は、東京駅でなくて外国のどこかの駅でもいいし、そういう場面で人がある思いを抱えていて、もの思いするということは、世界普遍性を持っているのではないか。つまり、外国の読者でも自分の生活する地域に変換して十分に読み味わえると思われる。ただし、この作品の場合、時間を持てあました主人公つくるがなぜ東京駅にやってきたのかは、この日沙羅と出会って用件済ました場所が東京駅に近かったということや、余り遊び歩くこともなく割と内向的なつくるの性格や電車や鉄道に愛着を持ちつつその種の仕事していることから、必然的に東京駅に吸い寄せられたということであろう。



② (引用者註.教育実習生で熊本にやってきたあや子先生に、構って欲しくて仲良し三人の二人が悪戯したり無礼を働いたりしたので、中一の春休みに謝りがてら大牟田に住む先生に会いに行く話。本心としては、友達三人で遠出する心躍りのある、久しぶりに先生に会うのを楽しみとした旅行であった。)

 銀水行きの普通電車は、午前一〇時半すぎに熊本駅を発車した。日帰りとはいえ中学生だけで県外に出るのは初めてだった。気持ち弾んで、浮かれるのがあたりまえだのに、どうしたことか三人とも言葉少なだった。たまらずぼくは車窓を引っ張りあげて、外の風を迎えいれた。ここは無人駅だろうか。ひとけのないホームに〈田原坂〉の駅名を掲げた看板がぽつねんと立っている。西南の役の古戦場。各停が大牟田に到着するまであと三十分はゆうにかかるだろう。


 大牟田の景色は熊本とはずいぶんようすが違った。

 白っぽい色あいの町並みを縫うように国鉄の引込み線が何本も走っている。鋳物かなにかの工場だろうか、煉瓦造りの古い建物が目立つ。とくに赤白だんだらに塗られた集合煙突は熊本ではお目にかかれないものだった。
 (『春休みの友』【Ⅱ】イワシ タケ イスケ 
http://kp4323w3255b5t267.hatenablog.com/entry/2015/03/24
/%E3%80%8E%E6%98%A5%E4%BC%91%E3%81%BF%E3%81%AE%E5%8F%8B%E3%80%8F
 ) 特急の通過待ちで停車中の窓を開いて、ぼくは水気をたっぷりと含んだ風に顔をさらした。福岡の雨が熊本まで追いついた。ただしいまは霧雨だ。ホームの看板に〈木葉〉と記されている。駅のすぐ裏手に小高い山が迫り、石灰質の山肌をあらわにしている。午後五時過ぎの空には夜の帳が降りて、稜線との境目は判然としない。
 (『同上』【Ⅴ】 )




 この二つ目の作品は、村上春樹の対象とした少年期から青年期への移行の時期より前の、誰も通り過ぎてきた、また時折その時期を思い起こし反芻したりする、少年期を対象としている。

 わたしは熊本に数年居たせいでこの路線の電車には何度か乗ったことがある。降りて歩き回ったわけではないけど、〈上熊本〉や〈田原坂〉などの駅名もわたしの耳には親しい。しかし、鈍行の普通列車じゃないから、あれと思う駅名があった。〈木葉〉(このはえき)もその一つで、調べてみると「熊本県玉名郡玉東町大字木葉にある」らしい。またわたしの奥さんの実家が熊本であるから、この玉名の町並みは車でも何度も通り過ぎていて、玉名という名前には少しなじみがある。しかし、〈木葉〉からの眺める風景はわからない。

 このように読者に親しい街や駅や地名の描写があれば、作品はいっそうその読者に身近になるような気がする。肌合いの感覚として描写が具体性を帯びて感受されるはずである。作品というものは、作者が紡ぎ出す幻の物語世界であるけれども、それを肌合いの感覚として現実化するのは、作者の表現力であり、また他方では読者の感受する力である。わたしが読み飛ばすことの多い、作品の中の東京の街の描写に感じることと同じことを、この熊本からその県境にある福岡県の大牟田に渡る地域を物語の舞台にしたこの作品に対して、これらの地を知らない読者たちは感じるのではないだろうか。もちろん、このような街や風景の描写は、現在にあっては特にささいなことかもしれない。つまり、作品世界の本質にはそれほど深く関わっているわけではない。しかし、そういう街や風景などの場(舞台)がないと、物語世界は十分に駆動したり、展開したりできないことも確かである。

 この作品は、少年たちの、「気持ち弾んで、浮かれ」たり、気持ちが沈んだり、また立ち直ったりと、それぞれの性格の違いはあっても、少年たちの関わり合う世界とその固有の曲線を描いていく。大人より、低い視線の見つめる世界。通り過ぎてしまったら、その現場の鮮度が色あせてしまってもはや生き生きとは出会えないような世界。こんな少年期には、汲み尽くせない何かがあるから、作者たちはくり返し発掘を試みるのだろう。

 この作品では、残念なのは、おそらく作者は読者へのもてなしとしてそこに力こぶを入れたのだと思われるが、芥川龍之介の「羅生門」などのように作者たちが作品世界に登場したりして、作品の舞台裏が明かされながら物語が進行することである。わたしにとっては、物語の進行と起伏をはぎ取るような、ちょっと邪魔くさい感じで受けとめられた。むしろ、虚構の作品として、物語の舞台の中枢に降り立って、少年たち固有の曲線を描いていき、そこから浮かび上がるものに作品世界を絞り込んでほしいと思われた。

 もう今では「車窓を引っ張りあげて、外の風を迎えいれた」りできる電車ではないかもしれない。時代は変貌し風物も変化していく。しかし、人が生まれ育ち成人となり老いてゆくという固有の曲線は、時代や風物が変貌してもある不変な相であり続けている。

 






46


 表現の現在―ささいに見える問題から ⑤


 「万能川柳」(毎日新聞)から次のような作品を拾い上げてみた。


 1.一報で信じぬことにする科学  (2015.2.16)
 2.二百回成功したのにありません (2015.3.7)
 3.牛肉を買うぞ下仁田ネギが来た (2015.3.12)
 4.コピペってデザイン分野もあるんだね (2015.9.8)


 これらの作品は、歌われている対象がマスコミを通して社会的に広く流通したことだから今ならまだ説明する必要もないかもしれないが、いずれも社会的な事件を背景としたものである。1.と2.は、「スタップ細胞」問題。3.は、約1年前に問題になった、国会議員が支持者などと催した観劇ツアーのお金を負担したり、支持者などに下仁田ネギを贈っていたという、不明朗な政治資金問題として報道された事件を指している。そして、4.は、オリンピックのエンブレムのデザイン盗作問題を指している。

 時間が経ってそれらの事件や出来事が風化し忘れ去られてしまったら、これらの作品はその現在性としての生命を枯らしてしまうことになる。別の言い方をすれば、時代のある場面と対応して両者とも時間の海に埋もれてしまうことになる。〈背景の消失〉である。したがって、それらの作品は、ちょうどツイッターで話のつながりが埋もれたツイートを単独のものとして目にしたときのように、どういう背景があってどういう場面を歌っているのかが不明になってくる。特に、2.の作品は、指示性が絶たれてしまって何のことかわからないものになってしまうと思われる。

 わたしたちの日々の人間的な諸活動も芸術的な表現も、絶えざる現在の生産=消費の活動(わかりやすく言えば、何ものかを生み出しつつ、同時にそれを精神的に味わう活動)であるが、一方で、わたしたちの現在に対して、わたしたち自身の過去や未来、あるいは歴史が関与して来るように、わたしたちの活動や表現の現在性を超えて行く部分がある。こうしてわたしたちは思想や芸術の古典というものと出会っている。

 以上の問題は、古語から口語に言葉が変化したという問題とは別に、例えば万葉集や古今集などの作品にわたしたちが向かう場合の問題に似ている。斎藤茂吉は、当時の近代的な視線でもって古典としての万葉集を捉え、自らの短歌を生命感を込めた〈写生〉として実践したけれども、残された万葉集の作品にも以上述べてきたような〈背景の消失〉や埋もれてしまった(時代)意識の水準があったはずである。したがって、古典に向かう時、作品の全体性に出会うためには、まず自らの時代の自然な感覚や意識をいったん脱ぎ去って、〈背景の消失〉や埋もれてしまった(時代)意識の水準を掘り起こさなくてはならない。もちろん、これはたくさんの人々の研究成果の上に成されるとても難しいことである。

 このことは、同じ地域の時間軸を下っていく場合に浮上する問題であるが、現在の世界の各地域に起こっている問題を考える場合にも似たような問題が浮上してくる。現在では、二昔前のこの列島のある集落で、あの山の向こうのことはよくわからないとか大きな旅行は一生に一、二回ほどというような牧歌的な状況から、世界は収縮して、マスコミやネットを通して世界中の事件や出来事がわたしたちに入り込んでくるようになった。わたしは諸外国のことに関心がないわけではないが、ストレートな意識としての反応や対応にはためらいがある。歴史的な背景があって現状があるのだろうが、あまりにもその背景が分かりづらく錯綜としていて重たく感じられるからである。

 ただ、わたしたち人類の一人一人は、吉本さんが人類の無意識の層から発掘した〈存在倫理〉として、つまりこの同じ世界に同時期に人として生を受けている者に自然に湧き上がってくる他者に対するまなざしや感受として、だれもがまなざしと感受とを世界に対して開いているのだということは言えると思う。






47


 書物から知ること、ひとつふたつ


(1/8)「フランスの人口学・歴史学・家族人類学者である」エマニュエル・トッド『帝国以後』をずいぶん前に買ったまま読んでいない。気楽に読めそうなインタビュー集の『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』 (文春新書) を読んでみた。少しわかったことがある。

(2/8)ひとつはヨーロッパの現状。民族国家を超える試みのユーロ圏が抱える問題。ユーロ圏内で、主要にドイツがユーロ以外の周辺の労働を取り込むことで強力になった経済的な権力を行使し、政治性にまで及んでいること。わたしにとっては遙かな地のよく分からない世界である。

(3/8)しかし、ユーロ圏に日々生きる人々の肌合いの感覚、つまり具体的な現実感の現状については、本書からはよくわからない。トッドには私のような、生活者住民という考え方はなく、こちらからすると少し乾いた個人や家族がその社会の基底になっているという考えのようだ。

(4/8)もうひとつ、「乳児死亡率」の増減からその社会や国家の現状を把握できるということ。(P81-P84)その把握の支えとして、「経済や会計のデータは易々と捏造」できるけど、年々つながっていくデータゆえに「人口学的なデータはきわめて捏造しにくい」ということ。

(5/8)「1976年に、私はソ連で乳児死亡率が再上昇しつつあることを発見しました。・・・中略・・・というのも、乳児死亡率の再上昇は社会システムの一般的な劣化の証拠なのです。私はそこから、ソビエト体制の崩壊が間近だという結論を引き出したのです。」(エマニュエル・トッド)

(6/8)「プーチン支配下のロシアでかつてとは逆に、乳児死亡率が目覚ましく低下しつつあるという現象」「これは、ロシア社会が、ソビエトシステムの崩壊による激しい動揺と、一九九〇年代のエリツィン統治を経て、今、再生の真っ最中だということを示しています。」(トッド)

(7/8)現在では、人工衛星も他国の観察や偵察に利用されていて、外からでも中の様子をある程度把握できるようになったようだ。以前シリア地域の夜の灯りが年度の相違によってはっきり違っているという衛星画像を見たことがある。http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/111b8f1e9d8efd698b16ebe99b7eb48e

(8/8)トッドは、「乳児死亡率」からソ連やロシアの内部を把握したが、どんな要素からでもその中の様子をある程度把握することができるはずである。その衛星画像もそのひとつ。わたしたちのこの社会の現状もいろんな要素を通してクリアーに把握しなくてはならないのだと思う。

 (ツイッターのツイートより)








































ツイッター詩




[ツイッター詩37]


おそらく同じ町内のよく知らない人に出会う
天気のことなど余り気に懸かっていないのに
〈こんちわー よか天気ですね〉
と言葉の街角を曲がってしまう

それは苦ではない
流れ続ける小川のよう
そのほとりに当たり前のように
わたしも立っている

わたしもまた汲み上げ
のど潤し 散布する
この列島を流れる
古い古い情感の奏でる
音階が日差しを浴びている





[ツイッター詩38]


ほんとうは
言葉ありき ではなかった
風はずっと向こうまで流れ下って行く

風の流れ
風の匂う
いろんな時間の駅の手すりに
触れ歩む
言葉以前を
言葉のように
〈あー〉〈うー〉と巡る

〈かぜのながれている〉
〈かぜのにおう〉
〈かぜのながれくだってゆく〉
言葉では言えない

ほんとうは
言葉ありき ではなかった
遠いわたしの 遙かなみち
もっと彼方に別の光が見える

そうして 今ここに
透き通る地層のように 
層成すわたしの





[ツイッター詩39]


人と人とのいさかいも
議論でも
口角泡を飛ばして
身近な現場でやり合っている
みたいでも
ほんとの舞台は
もやに霞んだ本流にある
誰もが座ることができるのに
棹さすことも 座り手もない
さびしい椅子

とってもリアルに見えても
そこは寄せ集めの幻の破片で敷き詰められ
自分専用の椅子になっている
視野と視野とが多重化し
やり合ってもやり合っても
原初の遠吠えみたいに
血は重たく濁り
不毛な造花の狂い咲く

誰もが
目が醒めてみたら
知らない所に
気づかれることのない椅子
があったような・・・・・
不確かな手触りの
(もやに包まれた本流が
静かに流れている)





[ツイッター詩40]


農のはじまりから
長らく降り積もった
いいこともあったろう
心の手足は自然に動いたろう
けれど共同の縛りは
深夜キュウキュウと夢に出る
今ではずいぶん解き放たれて
もう血を見ることはないから
我田引水!
我田引水していいんだよ

相変わらずこのクニのかなしい遺伝子よ
自分や家族以外のことを
そんなに感知するな
子どもがひどい熱を出しているのに
会社に行くんじゃない
ほんとうに人を大事に思うなら
波風立とうとも
我田引水!
日々通る小道に
いつものように日が差している

わかっていても
波風立つ小道はつらい
異風堂々と雪崩込んでくる
ものたちがあるから
数千年踏み固められ来た
威力!
威力業務妨害の峠を越え
我田引水!
我田が水にうなされているから
我田引水!

このクニのかなしい遺伝子よ
自分を殺して和解する
こじんまりと風景に溶ける
日々通る小道に
いつものように日が差している
そうして
〈かくめい〉(註)
ほんとうはありふれたもので
そんなところにひっそりところがっている

 註.「じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。」(太宰治「かくめい」青空文庫より)






[ツイッター詩41]


生きてるものは みな
渦中の流れに乗り
振り向いたり
よそ見したりする
余裕のないドライバー
ただ内向きに
ブロックを組み上げる子どものよう

ものごとは いつも
遅れてやって来る
避けられない朝
行くしかない小道のように

失恋して
楽しかった日々のフラッシュバック
言葉は
broken heart
痛みの過去に着色されて
ある朝ふいと湧いてくる

大きな時の渦の
飛沫をひんやり浴びて
人が言葉を持たなかった時を
人が魚だった時を
人が不在だった時を
かたち成す言葉を身に帯びて
遡行する 遡行する
か細い流れを
遅れ たどりゆく
しずかな夜 夢現のよう


































短歌味体な Ⅱ


   [短歌味体な Ⅱ] 速度論シリーズ・続


273
走り走れば走れるか
一筋の
白白白走り抜けゆく


274
走らず走る走れるか
走走走
一筋の白走り抜けゆく


275
ビルビル 小 アンテナビル
山雲 雲
流 青 空川 小 岩

 註.電車の車窓から。


276
ゆっくりと弁当開いて
食べ始める
つむじ風舞いすれ違いゆく

 註.電車の車窓から。双方向性のかなわぬ、見ると見られる。




  [短歌味体な Ⅱ]  速度論シリーズ・続


277
るんるるんるるるるるんる
るんらるんろ
るんるんるんらるるるるるんろ

 註.例えば、ラーメンを食べる。


278
い~ち~に~つ~い~て~
よお~い
ど~おお~んとスローモーション


279
にい~~しぃ平敦盛
・・・・・
ひぃが~~しぃ熊谷直実




  [短歌味体な Ⅱ]  □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


280 □
なぜ思い浮かび漂い
流れ出す
朝もやもやと人の気配なくとも


281 ●
生きものの現れる前も
死滅後も
光差しては闇下りる(だろう)


282 ●
わたしの生まれる前も
死後さえも
朝が明け夜が下りる(のだろう)


283 ▲
にぎやかな音と光の
ダンスする
表通りをひっそり抜けゆく


284 ★
言葉のどんな表情(しぐさ)にも
遙かな
生まれ育ちの傷跡の微(かす)か




  [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


285
微風(かぜ)に触れさおかのさらさら
泡立ちて
明日の出立風にふくらむ

 註.「さおかのさらさら」は、意識的には無意味な表出として。


286
ころころと己(おの)がこころ
ころびゆく
ぼおっと見つめる心ありあり


287
いちにーさんと数えれば
やさしいか
ぜの吹き下りまた踏み出す一歩




  [短歌味体な Ⅱ]  □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


288 □
ああここかと石を反(かえ)す
うずくまる
まぼろしの魚(いを)眼窩に跳ねる


289 ●
雨に濡れ艶々(つやつや)みどり
何ゆえに
感応するやこの宇宙原理


290 ▲
知らぬ間にみどり流れて
ひとり負い
ふたりさんにん背負いゆく日々


291 ★
振り返る記憶たちの通路(みち)に
バックミュージック
反り跳ね屈(くぐ)むみどり流るる




  [短歌味体な Ⅱ]  □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


292 □
さっと引く朝のはじまり
今日もまた
日差し差し込み模様替えする


293 ●
何気ない一言の揺らぎ
ずり落ちる
砂防ダム越え真っ暗闇


294 ▲
荒れ狂い飛沫浴びる
時もある
まぼろし寄せる堤防の道


295 ★
人により色や形が
違っても
まぼろしの防波堤(せき)止めるは同じ




 [短歌味体な Ⅱ] 数学シリーズ・続


296
始まりの1以前にも
以後にでも
眼差しに応じ世界は響く


297
数と数の間には
まぼろしの
きらめく星々銀河群群


298
iという架空のものも
じわじわと
新たな世界に住人となりゆく

 註.i : imaginary number 虚数




  [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


299
過ぎ去った とんとんとん と
しるしゅわ
今流れゆく とってんととと


300
たんとんたん 古い時間に
埋もれてる
遠い日々の匂い立つ今




  [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ


301
た・い・せ・つ・な・ことは今ここ
この辺り
開けては閉める日々の歩みよ


302
ほんとうは誰にとっても
やさしい
イメージあふれるには七十年の夜は深い




  [短歌味体な Ⅱ]  政治論シリーズ・続


303
遙かはるか巫女(みこ)晴れ着着て
つんりらんと
今と同じく蠢(うごめ)き回る


 註.政治やそこに日々活動する政治家たちの内部の世界を想像するには、わたしたちが町内の班長や役員、あるいは、職場で、人の上に立つ仕事を任されたなどの公的な仕事の体験を思い起こせばいい。その公的な場所では、普通の人々→公的な場所にいる人、という意識の向かうベクトルの向きも逆になりその質も異なってくる。つまり、公的な場所についた人々は、普通の人々(生活者)とは逆立ちした世界の住人になる。それは実感としても湧き上がるものである。したがって、公的な場所に就いた人々(政治家など)が変なことをしでかさないために必要なことは、意識的に、自分もまた普通の人(生活者)であると意識することや生活世界に対する内省を持ち続けることの他にない。 




304
神官と何が違うって
日々の言葉
内に向かいわずかにこぼれ出るのみ




  [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ・続


305
大切なことは議論の外に
ちっぽけで
ひっそり閑と片隅に居る


306
大切なことは肌触り
流れ来て
泣き笑む人の匂い立ち込む




  [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ・続


307
大切なことは同じでも
違う道筋(みち)
靄(もや)を進めば七色に分岐す

  註.「まずは、この列島の住民みんなが幸せであること」を否定する者は、おそらくほとんどいないと思われる。しかし、それではそれへと到る道筋はとなると、現在までのところなぜか混迷を極めてくる。その靄の中の見えない道筋の秘密よ。



308
政治(政治家)を叩いて伸ばして
まとめると
遠い集落の取り決めの今


309
知らぬ間に豪華なソファに
吸い込まれ
目も心も遠離りゆく




  [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ・続


310
そうだよね 多数の海に
密やかに
黙黙黙と流れる底流あり


311
上辺(うわべ)では今が全てと
思うけど
中身の底に映る古き祖父母(ひと)




  [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


312
はいはい えっ そうだった
んですか・・・
ええええ ちっとも 知りませんでした


313
物語に遠い言葉
ぽつぽつと
林(リン) 人知れず小雨の降る


314
同じ火を眺めていても
dandandan
流れ出る流量(もの)、勢いのちがう




  [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ・続


315
憎悪にて新約書(せいしょ)のように
裁断す
から何度も引き返す たとえ パリサイ人(てき)であっても


 註.国家(政府、行政組織)がなければ、学者やエコノミストの類いが擦り寄ったりよいしょすることもなく、わたしたち生活者住民に直接相対するほかないのであるが、国家というものが存在している以上、自らの経済的・思想的な支柱として国家を代弁する者がいる。

そのようなイデオロギー性を持つ者も出てくる。いかに学問ぶっていても本質は、わたしたち生活者住民とは異質な世界の住人であり、得意げな表情の巫女やシャーマンであるほかない。

しかし、歴史の起源からの光を当てれば、国という組織も巫女やシャーマンも、わたしたち住民世界の安寧に奉仕する存在に過ぎない。今でも得意げになり得ると言うことは、無自覚にも起源からその悪要素がずっと内在しつづけているということになる。



316
対立と憎悪 新約書(せいしょ)以前から
続いてる
パレスチナ越え血の流るる河よ




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


317 □
石ころがころがっても
笑い出す
音楽みたいに飛び石を踏みゆく


318 ●
暗黒の光一滴もない
緘黙(かんもく)は
静かな宇宙の孤独の表情(かお)


319 ▲
小説(まぼろし)の中だけでなら
光内秘め
暗黒宇宙(うちゅう)に入る緘黙症 

 註.埴谷雄高『死霊』の登場人物を思い浮かべて


320 ★
今も続く 光る暗む
流れる
ぐぐっと引き合いばんと反発する





  [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


321
なんじゃろけかんじゃろけ
すううっと
過ぎゆく風はどんじゃろけ


322
すうまいる歩いてみても
ならだかな
丘陵地えむこともなし

 註.念のため「ならだかな」は誤記ではありません


323
ふたしかな言葉を降りゆく
夜の深み
じんぎかんと銅鐸の音する




  [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続 


324
虫媒花 運んで行く
いくつもの
峠を越えて言葉の荷を付す


325
じゃんぐらん 暮れ泥(なず)む空
からがらん
音の響き色深まりゆく


326
今朝もまた日々の廊下に
滑り出て
しっきしっかりん歩み始める




  [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ・続


327
日々のきらめく肌合いの世界(よ)
世界を語る
者は抜け出て圏外に消失す


328
敗戦の七十年の靄(もや)晴れ無(む)
白い出自(くうはく)から
「優しいリアリズム」語る者あり

 註.『21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ』 佐々木俊尚




  [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ・続


329
ジブンエライなぜ思い湧く?
愚かにも(すなおにも)
太古の表情(かお)を汲み上げている

  註.安倍晋三総理大臣を顔も見たくもない他人と思いつつも、がまんしてテレビ画像を察し、思う。太古からごまんと存在し続けている顔。




330
南米のシャーマンにも
記述では
邪悪ありと言う 太古も今もまた

  註.集落の邪悪なシャーマンの存在の記述は、『鳥のように、川のように―哲人アユトンとの旅』(長倉洋海)の中にあったと思う。





  [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続 


331
くり返す日々街歩き
知らない
街はいつから既知に変わりゆくか


332
数えたのに空白があり
数えた気がしない
何か別の時間流れていたか


333
誘われてふと入り込む
音に溶け
「空と大地の間には」青のひと筋

 註.調べてみたら、「空と君のあいだには」(中島みゆき)。





  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


334 □
火花散る見知らぬ街を
通りゆく
心に映る十重二十重(とえはたえ)の火


335 ●
月から地球を見渡す
暗い海
から擬人の船が浮上する


336 ▲
フェリーから遠い岸辺の
灯り見ゆ
夜のしじまに肌を流るるあり


337 ★
ふいと肌流るるものは
深ああい
時間の海から起動し来たる




 [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ・続


338
アイドルと同じ匂いの
枝葉付き
ずんずんずんと表彰台(だい)の高まる


339
同じ木でも優劣分かれ
運ばれる
かたい岩盤のこの世の主流(ながれ)


340
ふいと流れに情感の川
個を越えて
数万年の峠下り来る

  338-339註.わたしたちが何かを有り難がる宗教心の根っこにある古い古い部分をイメージして。





  [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ・続


341
ぐーんとぐんぐんぐん
近づいて
内には入れぬただ外に匂う


342
ぐーんと近づきつつ
つつーと反転
内に自らの体験、像結び流る


343
政治家A いつものように
歩いてく
明るい廊下いつものように


344
政治家B 楽屋を通り
身繕(づくろ)い
スポットライトに声の裏返り微(かす)か


345
政治家C 踏み慣れた道
横切るは
無縁の顔の蚊声(モスキートトーン)




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


346 □
片付け捨てる ビミョウな
分岐点では
年輪の手立ち迷う


347 ●
星々や銀河系にも
生死あり
生花のように輪廻転生す


348 ▲
人知れず泣き微笑むも
ありらんらん
歌うリズムは雑草のごとく


349 ★
人界(ひとのよ)の街歩きする
視線(め)走らす
こころ揺れ揺られ 同一性と差異性(ひとそれぞれに)




  [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


350
裏返し眺めてみても
わからない
手肌流しても ちゃんちゃんこ


351
いつものように廊下を渡る
ふいと傾(かし)ぐ
折れ曲がる年齢(とし)の おっとどっこい


352
ほんとうはそのことではなく
この空も
意味は不明で 日が燦々(さんさん)

註.「意味が不明」以前の言葉の歴史的な段階をイメージして。




 [短歌味体な Ⅱ] ちょっと試みシリーズ・続


353
下りてくるいつものように
下りてくる
わたしの 空は空 海は海


354
下りてくるいつもと違って
下りてくる
二人がシェアするする空海(そらみ)


355
下りてくる固いリズムで
下りてくる
国国(こくこく)カーカーちと息苦しい




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


356 □
稲光る自然の現象
耳目(じもく)に入り
言葉を超えて肌の丘陵(おか)を流るる


357 ●
人超えた巨きな時間(とき)の巡りから
地震津波
人知を破り押し寄せてくる


358 ▲
人の世の悪行は
自然似でも
心ころころ鈍く転び出る


359 ★
突き詰めて無とか悟りとか
上り詰め
下を見返せば心ゆらぎ居り




  [短歌味体な Ⅱ] 政治論シリーズ・続


360
農から武士が出たように
赤絨毯(じゅうたん)
きりっと敷かれどこどこ渡りゆく?


361
皆の前誰もが覚えあり
ふぁんふぉんふぁん
揺れ魅(ひ)き膨らみfan吹き寄せる


362
政治好きと言うほかない
人人居て
分かれ道ではてきぱき巫女(みこ)してる




  [短歌味体な Ⅱ] 普通はシリーズ


363
引きこもる理由(わけ)も事情(あれこれ)も
透き通り
吹き来る風にのりのり遅る


364
変化無しとノート閉じ続け
ふいと風
吹き下り染む三十年後に


365
わかります?はいなんとか……
の場面が
何年もの後クリアーに身に染む




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


366 □
知る知らず区別もなく
触手(て)を伸ばし
走査する言葉は疲れを知らず


367 ●
可能のみ言葉は発掘し
少しずつ
時の地平を超えダークマターと引き寄せる


368 ▲
わからないとつぶやく時も
その球面(せかい)
に肌触れつつ上り下りしてる


369 ★
そうですかと言いながら
言葉は
経験(とき)の始まりから反芻(はんすう)している




  [短歌味体な Ⅱ] 舟のイメージシリーズ


370
風吹いても吹かなくても
ゆっくりと
風に足掛けるまぼろしの舟


371
漕ぎ出せば漕ぎ行く日々の
積み重なり
木々の葉脈進む舟あり


372
進んでく平均台の
波間から
身を(微妙に)ずらしつつバランス取りゆく
 
 註.(微妙に)は、漢文の置き字のつもりです。つまり、読みません。




  [短歌味体な Ⅱ] 戯れ詩シリーズ


373
ニッキョーソ(ニッキョーソ)くり返す声
オウムより
もっとうまいぞと悦に入り

 註.(ニッキョーソ)は、置き字、つまり読みません。


374
耳あっても聴こえてこない
目あっても
おぼろ月夜で独り「ウォークマン」


375
人なのに尻尾見え見え
歩いてる
キリッと身だしなみしててもねえ




  [短歌味体な Ⅱ] 普通はシリーズ・続


376

 (ここから二区画進んで右折し、五メートル先にファミレスがあり、その隣の五階建てビルの201号室に彼は住んでいる)

住所入れ検索
すればする
するぐーんとグーグル(アース)到達

 註.(   )と(アース)は、置き字です。読みません。見るだけです。


377
普通は、と言ってもじゅ
わあと広
がり静まる間もなくころがり進む




  [短歌味体な Ⅱ] 独りのシリーズ


378
独り椅子腰を下ろせば
水面には
波立ち泡立つ静まることがない


379
生きて在るかぎり波立つ
泡立つ
流るる風にふいと静止点


380
発射し着地した
言葉には
万人(の影)とともに癖ある表情(しぐさ)

 註.(の影)は置き字です。




  [短歌味体な Ⅱ]  独りのシリーズ・続


381
短距離のここを上れば
見渡せる
ということなし靄に煙る日々


382
生涯はなだらかに続く
おそらくは
グレーな日々の長距離走


383
ゆったりん流れていても
ノックする
前触れもなく深夜の電話





  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


384 □
密やかにちろちろ水の
流れ照る
いつか誰かが気付きはじめる


385 ●
わたしたちの眼力(がんりき)超えて
てんきりん
遙か果てまで星々の瞬(またた)く


386 ▲
生涯は匂い味わい
絞り出し
ぐるぐるぐるん 静かな失地


387 ★
人はみな百花繚乱
奥処(おくが)には
古い古い一花(いっか)小花(しょうか)の咲く




  [短歌味体な Ⅱ] 掛け合いシリーズ


388
なんとまああんな所まで
上るとは
驚く言葉目まい舞い舞い


389
内側(うち)からは驚くことなく
日々一歩
まいまい足跡積み重なりゆく(のみ)

 註.(のみ)は、置き字です。見るだけで読みません。




  [短歌味体な Ⅱ]  掛け合いシリーズ・続


390
二十歳(はたち)の道もや霞立ち
アンバランス
の情景をぐいぐい歩む


391
六十の坂の途中の
空き缶は
カラカラカンところがりゆく




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


392 □
ああ蟻だこんなところに
動き回り
キギありありと(我が心に)足跡残す

 註.(我が心に)は、置き字です。読みません。


393 ●
そんなことあんなことあろうと
モクモクと
日差し風流れ微変位し行く


394 ▲
細々(こまごま)と日々切り分ける
流しにも
柔らかな日差しサンサ差し込む


395 ★
(ユラユラ)夢現のように思っても
時の重力(おもり)
生涯を七色に均(ならす)

 註.(ユラユラ)は、置き字です。読みません。




  [短歌味体な Ⅱ] 掛け合いシリーズ・続


396
どうですか舌触りや
のどごしは・・・
穏やかな海の静かな航行?


397
訪れた見知らぬ街の
えとらんぜ
えきぞちっくに匂い立ち・・・


398
よかよかよ何んかよかよ
そおね・・・
あったかい朝ごはんの・・・




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


399 □●▲★
今日もまた日上り沈む
タンバリン
昨日と今日(微妙に色合い違って)棚引いている

 註.(微妙に色合い違って)は、置き字です。


400 □●▲★
階段を上り下りする
静夕暮(せいゆうぼ)
靄もやから親しい顔の





  2月2日に始めた作品「短歌味体な」がほぼ毎日書き続けて五ヶ月ほど経ち、「短歌味体なⅠ」から数えて合計500首になりました。途中、意識し出しましたが半年は続けてみたい、そして表現の引き寄せる表現上の大きな岩盤にはきちんとぶつかってみたいと思っています。もうすぐ「短歌味体Ⅲ」へ。



  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


401 □●▲★
夕味林(ゆうみりん)独りさまよい
微かに
肌を流るるは遙かな(少年の)日々

 註.(少年の)は、置き字。


402 □●▲★
口癖は古い年輪の
一木(いちぼく)の
芯の方からモスキート香

  註.「モスキート香」は、「モスキート音」からの言葉のずらしです。




  [短歌味体な Ⅱ] 引用シリーズ


403
「ゆあーん」とびら開いて
少年の
「ゆやゆよん」はやる心は

 註.引用句は、中原中也「サーカス」より。


404
「びゅわーん」煙り湧きつつ
疾駆する
時代の病い振り切ることなく

 註.「びゅわーん」は、遠い昔、わが子の小さい頃耳にした新幹線の歌(「はしれ超特急」)から。




  [短歌味体な Ⅱ] 引用シリーズ・続


405
パクリとか目くじら立てて
泡飛ばす
言葉は誰もが無断引用さ


406
遙かな時間の向こうから
don don don don don
光速に 舞い 流れ 来たる 現在(いま)
(しゅぱあーーーあ)


407
言葉という同じ舟に乗る
誰もみどり
舟べりから異色の棚引く




  [短歌味体な Ⅱ] 引用シリーズ・続


408
わが母はと滑り出せば
母その母
時の深みより浮上する今


409
ある人の言った言葉を
新しい
よそゆき風に着こなしてみる


410
借り衣はちらちら気になり
滲み出す
肌の無意識につっかえひっかえ




  [短歌味体な Ⅱ] ふと眺めるシリーズ


411
みどり揺れる日かげびわの葉
実り終え
びわの居住まいみどりゆるりゆれり



412
ぼんやりと空見たことか
もくもくも
形ずれゆくも大空の人

 


413
農道の入口左に
畑あり
なぜか荒れ出し今日は(いちめんの)刈り跡

 註.(いちめんの)は置き字、読みません。その畑の主は、時々見かけたことがある。おそらくわたしより年上の人。花々や野菜を植え、きちんと手入れされていた。今年の春にはその畑が草が生い茂り荒れてきて、病気でもされたかなと通る度に思っていた。





  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


414 □●▲★
立ち上がり歩み始める
ここそこと
上り下りして終点を踏む


415 □●▲★
ジャンプして無常と見ても
重心を
流れ逆巻く血は現在(いま)を指す


416 □●▲★
(手前にてあることを)
知ってても知らなくても
引かれた
カーテンの後ろダークマター

 註.(手前にてあることを)は、置き字です。




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


417 □●▲★
見ていても見えないことが
ありありと
動き回るのが小さく見える


418 □●▲★
外国に行ってみたいと
思わない
AKBも知らない この岐(わか)れ道は何?


419 □●▲★
外国に浮かれ旅をし
歌い手に
イカレルも良し 深まりきた自由だから




  [短歌味体な Ⅱ] ふと眺めるシリーズ・続


420
わがネコがじっと眺めてる?
光景を
眺めながらイイネと下る

 



421
おそらくはネコそのものに
なれないが
そんなネコ場の近傍にいる?

 





  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


422 □●▲★
星々は見えなくても
古びた
フライパンは焦げやすくなった


423 □●▲★
数値計算しなくても
ふとつまづく
人と人との距離測り難し


424 □●▲
見た画像(こころ)深く沈め
小さな
煙り出し朝食(しょくじ)を作る

 註.「見た画像」とは、ハッブル宇宙望遠鏡からの画像。(こころ)は、置き字。




  [短歌味体な Ⅱ] この地では誰もがあるあるシリーズ


425
ねえねえこれ見てよねえ
はいはい
ねえほらこーんな見てってばてば


426
先ほどの猫語の名残り
ふとながむ
木々の小枝の葉裏に揺れる


427
知りませんと答えた後に
もやもやと
立ち込め下り完結しない




  [短歌味体な Ⅱ] 何んかよくわからないシリーズ


428
ゆうりんはいのぼってみれば
えんろらんろ
なみのうちよせひまつのかかる


429
いちにいとふみゆくこころ
ふきよせる
かぜのあしかかりさんとふみだす




  [短歌味体な Ⅱ] 何んかよくわからないシリーズ・続


430
おわったの?(ええっ!なんで?)
ほんとに?
(あ、風、吹いてる)(時は、私の、時が)


431
歩けばるんば歩けば
るんび
歩けるんばぶるんばぶんぶん




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


432 □●▲★
ぽったりんしゅわしゅわわ
内側で
波立ち広がり色混じり合う


433 □●▲★
関係は物と物でも
自身でも
ぶつかり合って色変わりしゆく


434 □●▲★
色あせても深みに息づく
色合いは
真っ赤な血の脈波打つ




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


435 □●▲★
静かな雲 目をつぶらなくとも
引っ張られ
上横ふくらみ時間の海へ


436 □●▲★
静かな雲 に・から・へ・を
駆動する
もうもくもくと静かな起動音


437 □●▲★
いつから知り始めたのか
雲という
姿形や唇震う音


438 □●▲★
知ってから・・・何度目の
ver up か
何度目かの雲今大空に




  [短歌味体な Ⅱ] 朝シリーズ


439
朝セミがwan鳴いている
ふりしぼる
血の巡りらが地鳴り響かす


440
蝉時雨言葉あてがい
描(か)き変えた
朝の来客に応対す


441
吹き払う夜の名残りの
空(うつ)ろさを
朝を震わす交響曲




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


[短歌味体な Ⅱ] 漱石シリーズ


442
「坊ちゃん」という言葉の
当時の
滲み入るイメージの総量を思う


443
「覚悟」という言葉に出くわし
いくつかの
己の覚悟を呼び起こす

 註.「覚悟」は、漱石の『こころ』に出てくる




  [短歌味体な Ⅱ] 漱石シリーズ・続


444
行き違う二人の在り処(か)
傍目(はため)越え
ざっくり峠日々分かれゆく

 註.漱石門下の妻鏡子、悪妻評価があり、夏目鏡子の『漱石の思ひ出』、夏目家に近い半藤末利子の『漱石の長襦袢』などなどが残されているが、人は他人の数だけのイメージを許す。また、自身でさえ、自分を掴(つか)みかねるところがある。





  [短歌味体な Ⅱ] 小さい子のための歌シリーズ


445
草の葉のにぎわう時は
風るんる
るんる吹いており押し押され歌う


446
草の葉もしずかな夜は
すーさんすー
すーさんすーす夢見て眠る


447
ちっちゃいふとんに眠り
かすかに
夢に漂い匂うおっぱいの




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


448 □●▲★
灯り落ちびゅうびゅーん
荒れの記憶
この台風に溶け混じり居る


449 □●▲★
らむらむらむらむらむらむ
音揺らぎ
不定場から遙かな遠吠えの




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


450 □●▲★
ものが頭に落ちてくる
そんな日は
いろんなつながりの糸たぐり寄せている


451 □●▲★
「ふと」という言葉につまずいて
すっからかん
底の底まで突き抜けている




  [短歌味体な Ⅱ] 57577シリーズ


452
57577ああ窮屈だと
脱ぎ捨てて
「街歩き」をゆったり流れゆく

  註.「街歩き」は、NHKの海外の街歩き番組。カメラは人の歩く速さで流れゆく。




453
心放ち器に盛る
57577
しっくりこなけりゃ「くたくた加工」

 註.「くたくた加工」は、「ビンテージ加工」とも言う。




  [短歌味体な Ⅱ] 小さい子のための歌シリーズ・続


454
「ひらけ、ごま!」 出来たての舟
に乗り込んで
藪(やぶ)打ち払い伐り払い進む

  註.「言霊(ことだま)」は、古代(大人)にあっては古今集仮名序のように言葉に残留するイメージとなってしまっているが、アフリカ的な段階(小さい子)にとっては、熱い言葉そのもの。



455
店頭に転び泣き喚(わめ)く
飛翔の
夢ひび割れてがんじがらまる




  [短歌味体な Ⅱ] 大人のための歌シリーズ


456
呪(まじな)いの生命線は
晴雨超え
二つに一つ験(げん)の雨降る

  註.「呪い」に対する眼差しと了解は、太古と現在と、天と地ほどの違いをもたらすようになってしまった。おそらく、現在と遙か未来においてもまた。



457
不随意にからだは動き
糸出し張る
「みぎむけ、みぎ!」に泡立ち揺れる


458
「もうみんな席に着かれてる」
響く言葉
カジュアルな心に拍車をかける




  [短歌味体な Ⅱ] 少年のための歌シリーズ


459
見上げれば星の瞬(またた)く
ゆっくりん
りんさざ波立ち空の滴染む


460
切り取られ小さな時の
流るるは
言い様もなく独りにぎわう


461
流れ星流れ来たらずも
少年の
あつくふくらむ幻に流る




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


462 □●▲★
すべり出す言葉の舟は
かたち成し
チョーかわゆいと時の帆を張る


463 □●▲★
あれいいねのびる言葉の
触手
時間の空洞(ときのふかみ)から浮上する


464 □●▲★
時代(とき)の大気に触れ湧き上がる
いい感じ
からだの芯から肌のふるえる




  [短歌味体な Ⅱ] 黒シリーズ


465
まぼろしも狂気もまた
この世事(よごと)
時の淵から打ち上がる黒花火

 註.「黒花火」の「黒」は、置き字で読みません。


466
黒々と深まる時は
黒張り付いて
目まいするまで追い詰め来たる

 註.「黒張り付いて」の「黒」は、置き字。


467
選ぶ時避けているのに
黒々と
人待ち顔に蛇行し来たる




  [短歌味体な Ⅱ] 定住と旅シリーズ


468
小さい頃何度か耳にしたことがある
小字(こあざ)か
この地では〈ヤンバラ〉と言う


469
幻の鳥になり
風に乗り
どこ巡り来たか 〈ヤンバルクイナ〉


470
航跡は消え失せるけど
列島の
衛星画像に沈めている




  [短歌味体な Ⅱ] 舌足らずシリーズ


471
濃度が余りに高い
靄(もや)の中
するするするん言葉は抜け来ない


472
小さい子が息せき切って
言うことに
我もまた同じ軌道か


473
固まる前の溶けてる言葉
互いに
解離して靄に包まれて在る




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


474 □●▲★
(((waowao))こんなに大きゅう
なんしゃって)
息せき切って駆けてくる言葉


475 □●▲★
(どれがいい?これあれそれ?)
どの道も
選び採らないただ本流の深味




  [短歌味体な Ⅱ] 観察シリーズ


476
ネコも遊ぶみたいに見えるけど
大方は
根負けするほど時に溶けている


477
ぼおっとしたネコが理想に
見えるとき
人の遙かな果てを反芻してる


478
手すりに手や棒きれ
触れながら
なぜか歩みゆく少年の時




  [短歌味体な Ⅱ] 少年の日々シリーズ


479
いろいろと日々沈んでも
朝食(あさげ)の
匂い立ち上り日々漂い来る


480
傘の下球面レンズ
駆動する
世界はただ肌合いに流る


481
日々通うなじみの木々が
揺れている
風ではなくみどりの流るる




  [短歌味体な Ⅱ] 何気なく音を感じるシリーズ


482
音がなく病気でもなく
ある丘陵地(おか)を
微かに流れる流れている音


483
ある丘陵地(おか)を流れ下りゆく
風の音
風の匂い舞い上がる来る


484
音という通路の他は
知らない
ただ んぱんぽんぱぱん 通りゆく気配の




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


485 □●▲★
雲見てる しずかな大空
もくもくと
変貌しゆく姿形の


486 □●▲★
雲に見る 何かの形
捜している
遙か太古のイメージの匂いする


487 □●▲★
雲を出る 時間の旅路は
今もなお
残虐と豊穣と結ぶ







  [短歌味体な Ⅱ] 夢うつつシリーズ


488
夢うつつかはたれどきに
寄せる波
どこからどこへ引きゆく潮か


489
夢うつつ見慣れた景色
揺れ揺られ
なぎ倒されゆく木々の細道


490
お盆にはつながりの糸
ほの浮かび
群(グン)!夢うつつの内に火照る

  註.「群」は、当然ながら「むれ」という意味つながりも持つけれど、主要には「グン」という音として。





  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


491 □●▲★
降り積もる時間の言葉よ
歌うこと
何にもないと思っていても


492 □●▲★
誰も背を押していないのに
微風に
すっと入り込み言葉の滲む


493 □●▲★
なぜかしら持ってしまった
普段着の
言葉の自由度(かるさ)、変幻自在か




  [短歌味体な Ⅱ] 本流のイメージシリーズ


494
ひとり一人足足(そくそく)!どんなにあがいても
その足乗せ
本流は無言で流る


495
支流を押し広げて
本流
みたいな顔させられてもまた戻り来て流る


496
多言無言費やし果てた
疲労野を
影のようによぎる沈黙のある




  [短歌味体な Ⅱ] 赤ちゃんのための歌シリーズ


497
ぶーはぶーは あぶううううう
ぶぶはぶぶ
ぶーぶぶぶぶーぶ あぶううううう


498
とおおいやままっくらくらに
ほしひかり
どんどんどんとなりひびいてるよ




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


499 □●▲★
はじまりとおわりの間に
(そこが全てと)
踊り出したりはにかんだり




  [短歌味体な Ⅱ] □:入口論、●:宇宙論、▲:世界論(人界論)、★:起源論


500 □●▲★
この世には残余があって
喜びも
また悲しみも沈黙の二十五時(とき)を持つ




 短歌味体なⅡ、500篇にて終了



 [短歌味体なⅡ]500篇になり、これでお終い。

[短歌味体なⅡ]が、書き積もり積もって500篇になりました。カタツムリのようにゆっくりとひとつ道を進もうとしても、難渋し、苦しくて、角出したり、槍出したりしてしまいます。集中と拡散の500篇になりました。

次からは、[短歌味体Ⅲ]。











短歌味体 Ⅲ


   [短歌味体Ⅲ] 始まりシリーズ



夢現 生まれ落ちては
参道の
手すり温もり戻り旅立つ



始まりの言葉以前を
たどろうと
不明に煙るのどのふるえる



どこどこへ?不明を滑る
参道は
びよーんとのびる冷気が上る




   [短歌味体Ⅲ] 始まりシリーズ・続



はじまりはどこか照れくさい
儀式染みて
不明の過去を塗り飾り立てる



なんにも言わなくても
双方向
に流れ流るるを支流の流る



ずずっと動き出したら
まてえまてぇ
声を限りに叫び寄せても




   [短歌味体Ⅲ] 今がすべてだシリーズ



時は日々波立ち泡立ち
くり返す
それでも今がすべての顔して



われ知らず生産=消費す
今の今
誰もが今を味わい尽くす?



にぎわいの残土のように
降り積もり
時の地層に人待ち顔に眠る




   [短歌味体Ⅲ] 残土シリーズ



10
押してみても押し返される
足跡も
日々ダンスする余韻降り積もる


11
どこからか「もういいかい?」
に促され
一歩踏み出し切り開きゆく世界


12
食べものはからだに降り積もり
残土は
知らないところを巡る巡りゆく




   [短歌味体Ⅲ] 対話シリーズ



13
「どうしたの」「なんでもないよ」
山と谷
深い落差にひゅうと風の鳴る


14
「どうしたの」「なんでもないよ」
くり返す
人みな湛(たた)える沈黙の水圧


15
「どうしたの」「なんでもないよ」
染み渡る
言葉の誘う言葉の流れがある

 

 註.「言葉の流れ」は、例えば、〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉(吉本隆明、詩「佃渡しで」)。





   [短歌味体Ⅲ] 対話シリーズ・続



16
「あばばばば」「うーんそおーね」
まぼろしの
小さな虹がふたりに架かる


17
たずねられなんにも答え
なくっても
それで対話ということがある


18
たずねられなんにも答えず
三十年後
取り出し開く 対話がある




   [短歌味体Ⅲ] 対話シリーズ・続



19
「どうしたの」「ううん ちょっとね」
引き裂かる
遠い匂い 今(コォーン) まぼろしのよぎる


20
「どうしたの」「ううん ちょっとね」
断裂の
遠い硝煙 微(ビィー) まぼろしに煙る


21
「どうしたの」「ううん ちょっとね」
人はみな
ふいと時間の波に足すくわるる




   [短歌味体Ⅲ] 対話シリーズ・続



22
まぼろし深こう咲く花は
人みな知る
どこにでも咲くその花この花


23
不明の雪異色(こといろ)に舞う
ユーとわたし
の谷間に〈冬〉が揺らぐ


24
「あ それそれ」「えーと どれですか」
すれちがう
風の時間が異色に染まる




   [短歌味体Ⅲ] ひとりシリーズ



25
生まれ出てくもの糸糸
糸つながり
ぴいんと張ってゆるゆるみ消ゆ


26
ひとりとて色色つながり
一色(ひといろ)に
無数の色粒溶け込んでいる


27
しずかな時間に溶けて
鼻歌を
歌っているよ「ひとり上手」




   [短歌味体Ⅲ] 回想シリーズ



[短歌味体 Ⅲ] 回想シリーズ


28
気付いたらテーブルに着き
頬杖の
しずかにこちら眺めている


29
振り返る知らぬ間に
肌触れる
ひんやりして現在(いま)に匂い立つ


30
そういえばそんなことあった
と時間の
沼に沈み入りしゅわしゅわわ




   [短歌味体Ⅲ] 太宰治シリーズ



31
言葉には歩む歩幅の
匂い立つ
歩み去り行く固有の癖は


32
気になると歩みは揺れる
ハイハイの
遠い記憶が染み流れ居る


33
断崖に追い詰められた
ような匂い
きりきりきりとどこへ墜ちゆく



 短歌味体Ⅲ 太宰治シリーズ・註



 親が無くても子は育つ、という。私の場合、親が有るから子は育たぬのだ。親が、子供の貯金をさえ使い果している始末なのだ。
 炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだろう。とても、いたたまらない気がするのである。炉辺が、こわくてならぬのである。


 ついさっき私は、「義のために」遊ぶ、と書いた。義? たわけた事を言ってはいけない。お前は、生きている資格も無い放埒病の重患者に過ぎないではないか。それをまあ、義、だなんて。ぬすびとたけだけしいとは、この事だ。
 それは、たしかに、盗人の
三分の理にも似ているが、しかし、私の胸の奥の白絹に、何やらこまかい文字が一ぱいに書かれている。その文字は、何であるか、私にもはっきり読めない。たとえば、十匹のが、墨汁の海からい上って、そうして白絹の上をかさかさと小さい音をたてて歩き廻り、何やらこまかく、ほそく、墨の足跡をえがき印し散らしたみたいな、そんな工合いの、かな、くすぐったい文字。その文字が、全部判読できたならば、私の立場の「義」の意味も、明白に皆に説明できるような気がするのだけれども、それがなかなか、ややこしく、むずかしいのである。
 こんな
譬喩を用いて、私はごまかそうとしているのでは決してない。その文字を具体的に説明して聞かせるのは、むずかしいのみならず、危険なのだ。まかり間違うと、鼻持ちならぬキザな虚栄の詠歎に似るおそれもあり、または、れるばかりに図々しいの皮千枚張りの詭弁、または、淫祠邪教のお筆先、または、ほら吹き山師の救国政治談にさえ堕する危険無しとしない。
 それらの不潔な
と、私の胸の奥の白絹に書かれてある蟻の足跡のような文字とは、本質に於いて全く異るものであるという事には、私も確信を持っているつもりであるが、しかし、その説明は出来ない。また、げんざい、しようとも思わぬ。キザな言い方であるが、花ひらく時節が来なければ、それは、はっきり解明できないもののようにも思われる。
  (「父」 太宰治 青空文庫 ※ルビははずしている。)


 大原富枝に『アブラハムの幕舎』という作品がある。いわゆる「弱者」と呼ばれる、この社会から一段落ちこんだひっそりした場所を内面とする主人公の物語だったと思う。それはまた、この社会に湧き上がってくる、一見凶悪に見える事件の主人公たちの内面にも通じる世界である。そのような内面を穏やかな色調で明るみの下に開示して見せたという意味でこの作品は画期的であった。

 この太宰治が造型した「私」は、作者に似ている。この「私」は、家族の者たちから見て、どうしようもない父親に見えるだろう。さらに家族以外の外からの視線でも、どうしようもない性格破綻者や生活破綻者と映るのかもしれない。作者はそうした外からの視線を内省として語り手でもある「私」に加えている。そうして、「私」の内からの視線と外からの視線とがぶつかり合う対立の場を超えて、「私」には弁明したい何かや執着せざるを得ない何かがある。それがこの作品の中心の舞台である。

 作者が「私」に語らせる判読できない文字(言葉)は、その外面から自分はどのように見なされているかという像を「私」は受けとめつつも、どうしても生活世界で普通に振る舞えない心の在所を無言の叫びのように語っている。このはっきり判読できない文字という比喩は、卓抜な比喩の表現であるとともに、断定調では言い尽くせない作者太宰治の倫理の有り様を語っていることになる。そして、未だかつてないこういう表現、こういう心の在所をわたしたち読者の前に開いて見せたということは画期的なことであったと思う。そのことがこの作品を優れたものにしている。

 そして、「私」が比喩的に語ったような心の有り様は、同じような形で、あるいはいくぶん薄められた形で、現在、事件として現象する若者たちの非行の内面や、あるいは十分に理屈立てて自分を語ることのできないすべての少年少女たちの内面に通ずる、響き合うものを持っている。大原富枝の『アブラハムの幕舎』は、こういう内面の開示の系譜の上に位置づけられるのではないか。

 付け加えれば、「私」の言葉では言い様もない心の在所は、作者太宰治がなんどもなんども訪れた場所であった。そしてその言い様もない心の有り様がどこから来るのかは、作者太宰治には自覚的にはついには明らかに触れ得なかったのだと思われる。吉本さんが『母型論』などで明らかにしようとした人間の生誕の不幸の物語、言いかえれば「私」にとっての「母の物語」の不幸が、それを突き抜けようとする太宰治の抗いを含みつつ、くり返す波のように太宰治を生涯にわたって追跡し、追い詰めていったものと思われる。「花ひらく時節」は、何人もの作者たちによって切り開かれる他ないようなとても大きな、しかも現在的な課題であるように見える。





   [短歌味体Ⅲ] ひとりシリーズ・続



34
ふだんは日差しに溶けて
安(アン)ひとり
次元の裂け目押し開く音する


35
話し合いにそっぽ向く者
静(セイ)必ずあり
今流れ来る少年の日々


36
内なる火燃え続ける
自足(ジソク)5m
カタツムリの石橋渡る




   [短歌味体Ⅲ]



37
秋の午後うとうとふいと
半世紀
少年の川にきらり跳ねる魚(うお)


38
ふねがあり時間の海に
航行する
太古の舟か未知のshipか




   [短歌味体Ⅲ]



39
ずいぶんと近づいても
造花の葉
生命(いのち)流れずしいんとしてる


40
フィギュアに生命(いのち)吹き込む
イメージは
数万年の幻想力(ファンタジー)


41
慣れ慣れて出会いの初めの
造り花
いまここに流る艶(つや)やかなみどりの

 註.対自然でも、対人でも、相手が生命あるなしに関わらず、人はイメージとしての生命を創出し、付与することができる。





   [短歌味体Ⅲ] イメージシリーズ



42
ちろちろと水の流れる
薄い膜
隔てて流るうねる匂う水音


43
引き込まれイメージの川
を流れる
干からびた川底を潤す


44
作り物なのに生臭い
はぜの木に
手触れなくとも赤く発火す




   [短歌味体Ⅲ] 内と外シリーズ



45
渦 下る 外も内でも
下降の同一性(くだること)
しかしけれども逆接の色々


46
ぼんやりと座り続ける
光景の
流れに入れば丘陵(おか)を上り下り




   [短歌味体Ⅲ] 内と外シリーズ・続


47
言葉の村を踏み越えて
耳慣れた
同じ言葉も着慣れぬ新服(ふく)


48
言葉の古い国境(くにざかい)
いくつ越え
たらまぼろしの集落に立つ?

   註.「国境」の国は、もう今では死語になっている、あなたのお国はどこですかなどの出身の地域ということ。国というと、私たちの外にそびえる国家ばかりになってしまっているが、クニという言葉の歴史は、どういう道筋をたどったろうか。





   [短歌味体Ⅲ] 少年の日々シリーズ


49
耳当てる線路のレール
しいん深
ひんやり未知に触れる少年


50
数人で木によじ登り
我ひとり
木の実(註)つかみかねて飛翔すイカロス

 註.長いのでブログに掲載。


51
地に墜ちて落ちぶれ帰る
イカロスは
階段でころびと母に答える


  50註.
 この「木の実」は、検索していたらどうやらイヌビワというものではないかと思われた。しかし、樹木ではなく木に絡みついた蔓科の植物だった印象がある。家の近くの道沿いに一本の割と大きな木があった。それに絡みついた蔓にはイチジクの小さいようなものが実を付けていて、わたしはまだ小学校の低学年だったと思うが、近所の少年たち三四人で木に登ってその実を採って食べていた。

 ところで、その実か植物のことをわたしたちは「ぶっく」と呼んでいた。イヌビワの別名で検索しても見つからなかった。わたしの耳に残る音では確かに「ぶっく」だから、おかしいなと思いながら調べていたら、(イヌビワ 別名 ぶっく 長崎)で検索してみると、ヒットした。ああ、やっぱりという気分だった。

 ブック(長崎)    イヌビワの方言
 ブックノキ(長崎)  オオイタビの方言

 木に巻き付いている画像がネットにあったから、いずれもイチジク属であり実も似ているが、イヌビワではなくオオイタビだったのだと思う。

 では次にそれをなぜ「ぶっく」と呼ぶのかということだが、少年の頃はそんなこと気に掛けたことはなかった。今では気に掛かるようになってしまった。辞書を調べていて、仏供(ぶく、ぶっく)という言葉に出会った。仏前に供える物のことらしい。白い樹液を出すイヌビワに相当すると思われるもの(「ちちの実」)が万葉集に2例あるらしい。このイヌビワを仏前に供えるという例には出会えなかった。素人の思いつき程度の直感に過ぎないが、「ぶっく」とおそらく音読みで呼ぶことから、イヌビワは仏、あるいはそれ以前は神に、供えるものではなかったろうか。





   [短歌味体Ⅲ] 少年の日々シリーズ・続


52
何にも波風立たない
多くの日々
少年の肌柔らかに下る


53
兄弟と親戚の子等と
川泳ぎ
深みにはまり独りもがき抜ける


54
死に瀕し時間の流れ
ゆっくりと
スローモーションの、渦を離脱す




   [短歌味体Ⅲ] 


[短歌味体 Ⅲ] 


55
強いて絆言わずとも曇(ドン)
あぶり出す
つなぎつながれこの世の縁は
 
 
56
たいせつなことは裏通り
柔らかな
微風の内に立ち、消えゆく


57
沈黙の内に語り
走りゆく
押し広がるコミュニケーション

 註。人の日々言葉にならぬ言葉、声にならぬ声、着飾ることのないすっぴんの、沈黙の内に流れゆくもの、政治や文化上層の得意げなおしゃべりの雑音を超えて、ほんとうはそれがこの世の主流を形成してきたし、形成する。そして、わたしの言葉もまた、そこに。





   [短歌味体Ⅲ] どんどんシリーズ


58
どんどん と どどどんどんぱ
(花火上がり)
どどんどんどん(仰ぎ見る顔)


59
ころがって どん 川に入り
どんどんと
小さ舟下りどんドン・グリコ


60
どろーんど・ん どんどん
    どん
どどん
       どん
探知・追跡、上下左右




   [短歌味体Ⅲ] 


61
いつどこでどんな出会いの
あったっけ
我知らず湧き出すメロディー

 註.この場合のメロディーは、検索してみると次の歌。明治の唱歌。「夕空晴れて秋風吹き……」(「故郷の空」)



62
左足から踏み出した
のかどうか
階段の中途に不明の秋風




   [短歌味体Ⅲ] 「国東半島祈りの心―神と仏と人が暮らす里」(NHK 2015.9.12)を観て


63
見えねども信じるこころ
ありありと
ほら今ここに イメージの生動(うねる)


64
うみやま静かにひかえ
丘越えて
ふるうイメージの隆々(りゅうりゅう)


65
神仏に新米を供う
くり返し
引き継がれ来てどこへ去りゆくか

 註.大分は、若い頃バイクで臼杵の石仏群や近くの馬頭観音や磨崖仏などの写真を撮りに行ったことがある。臼杵の石仏群の大日如来だったか、まだ修復されずに頭が下に置いたままになっていたような。





   [短歌味体Ⅲ] 音のふしぎシリーズ


66
イヤホンも付けてないのに
しいん深
外は夕凪内は夕波


67
I don't know.(アイドーノー)と言ってるのに
愛殿が
目を見開いて遠くから駆けてくる


68
古来からの露の音色を
計測す
今も内に響き合う滴




   [短歌味体Ⅲ] 秋空シリーズ


69
ふしぎにもまたもやこんな
秋だなあ
秋の居住まい肌を触れゆく


70
秋空の非情にも
分かれゆく
大水の後内と外とに


71
思えきみひとりの部屋から
中空で
みんなシェアする滲み入る秋空




   [短歌味体Ⅲ] 番外 少し縁ある阿蘇の地を思い


人並みに和らぐ大地も
荒れ狂う
巨人のような時もあったか


地に降り立ち日々くり返す
日差し浴び
人の匂いを放ち放たれ


大観峰から見渡せば
遙かに
緑の布地に織り込み来た人模様

註.「大観峰(だいかんぼう)。阿蘇北外輪山の最高峰に位置する天然の展望台。」




   [短歌味体Ⅲ] 秋空シリーズ・続


72
秋空が迅(ジン)染みてくる
あ・き・み・は
バターのように溶けて秋風の中


73
秋空が腎(ジン)染みてくる
あ・き・み・は
バターになって溶秋風(ヨウシュウフウ)




   [短歌味体Ⅲ] イメージみどりシリーズ


74
数えても一葉二葉と
流れ出し
溶けて流れるみどりの奔馬(ほんば)


75
じっと見る 緑あふれる
部屋となり
ふるえ擦れ合うみどり流るる


76
じっと見る暗転の後
みるみると
大河となってみどり流るる




   [短歌味体Ⅲ] 政治論シリーズ


77
戦争も死者も遠く
霧の果て
はて?上も下もソフトイデオロギー(公的住民)が狂い咲く

 註.(公的住民)は、置き字で、読まない。例示してもいいが、余りに多すぎて挙げない。論理的に国家間関係(力の政治)など語っているようで、生活世界を離脱した空想的なソフトイデオロギーに過ぎないということ。生身の生活者住民力が試されている。



78
政治論むつかしくはないさ
太古より
受け継いで来た起源(はじまり)の事情


79
太古にも惨(ザン)今もなお
(高みの)勘違い
ひとの生きるは土の匂いの

  註.(高みの)は、置き字で、読まない。




   [短歌味体Ⅲ] ダメージファッションシリーズ


80
ああすばやい季節の暮れていく
オウジュポン
飛び石踏みゆく秋の夕暮


81
静けさと夕闇溶け合い
モンモンモン
心に波紋秋の夕暮


82
ああそれは追いすがっても
するりさらするり
秋雨に泣く秋の夕暮




   [短歌味体Ⅲ] ダメージファッションシリーズ・続


83
薄曇る画布を流るる
冷え冷えの
ひゅうひゅわわん秋の夕暮


84
石投げて時間の海から
匂い立つ
しゅっしゅしゅわあ(層成す)秋の夕暮

 註.(層成す)は、置き字で、読まない。




   [短歌味体Ⅲ] つながりシリーズ


85
ちっぽけなひとりの中に
宇宙さえ
ぐーんと縮み星の瞬く


86
はじまりはありふれた朝
ぶんぶんぶん
幼児サイズで動き回り出す


87
つながりの糸は見えない
クモのように
自然に行きつ戻りつしてる




   [短歌味体Ⅲ] つながりシリーズ・続


88
ほんとうはひとりぼっちも
あるんだよ
生まれ出る前死にゆく時でなくても


89
つながりの糸絶たれても
独りもよし
また糸は芽生えつながりもする


90
人の世はつなぎつながれ
いとからまり
でこぼこどんどん 静(セイ) いつかはふうっ




   [短歌味体Ⅲ] つながりシリーズ・続


91
つながりはつなつなつなの
暗がりに
ぴいんと張られ仕舞い込まれる


92
説明の流れているよ
水面下
響く音糸音のゆらゆら




   [短歌味体Ⅲ] つながりシリーズ・続


93
作者は私(法ホウホウ)と言い張っても
色々の
時の糸絡み合い意図を染め上げる

註.(法ホウホウ)は置き字。


94
ごろんごろん ぱあー ぱああ(^^)
ごろんごろん
ぱああー(^^) ごろんぱあああ

註.(^^)は置き字、見るだけ。




   [短歌味体Ⅲ] つながりシリーズ・続


95
(グローバルナジンザイヲ
メザシテ・・・)
・・・ち、ちがうんだよな 軽ーい言葉の(分断線)

註.(分断線)は置き字。


96
威勢よい風になびく
種々(くさぐさ)を
薙ぎ倒し倒しいとを切りゆく




   [短歌味体Ⅲ] つながりシリーズ・続


97
ケイタイも後振り返っても
帰れない
いくつもの糸につなぎつながれ


98
つながれるそんなにライン
と腐(くさ)しても
渦は巻巻また流れ出す


99
渦の中ちいさな言葉たち
厭離穢土(オンリーエード)
深く沈めて軽やかに舞い踊る


100
言葉には場と椅子があり
視線の
つながる高度・濃淡がある

 註.生活世界を超えたあらゆる言葉は、言葉の視線の占める場の高度とそこから見渡したものの濃淡の分布によって分類できそうに見える。そして、その高度が固定的かスペクトルのように可変的か、という取り得る高度の自由度が、その言葉の開かれた度合いや柔らかさに対応している。また、この高度は、空間的なものだけではなく、時間的なあるいは歴史的な深さにも対応している。これらのことは、吉本さんの普遍視線や世界視線を念頭に述べている。





   [短歌味体Ⅲ] つながりシリーズ・続


101
押し分けてつんつんつんと
迫っても
相撲のように受けたりよけたり払ったり


102
この世では誰もが「当事者」
虔十(けんじゅう)
は馬鹿にされても黙々杉を植える


 註.虔十は、宮沢賢治「虔十公園林」の主人公。
経済も教育もスポーツも、つまり現在の社会では一般に、効率や成果や機能などの本来は附随的なものが中心の座を占め、あたかもそこにのみ人間が棲息するかのような考え方が主流としてある。人間という概念が、遊びやいい加減さがそぎ落とされて、無意識的に、すなわち現在を呼吸する自然な意識として、Aか非Aかという風に二分法的に捉えられると言い換えてもよい。日常の生活や人間関係では、事はそんなに単純じゃない複雑系と分かっていても、言葉として論理化すると当事者と非当事者という風に、次のような文章のようにもなる。「当事者になるつもりがない人」(為末 大 http://tamesue.jp/20150921/)もちろん、これは著者の体験の積み重ねから来る、少し苛立ちを含む言葉であり、人間関係論ではあろう。スポーツ指導者とか何々委員とか公的にではなく、個人として振る舞う考えとしては自由でありわたしが言うべき言葉はない。しかし、著者はより多く公的立場にも立っている。そして公的な場面では、個と個という関係では捉え尽くせない集団の問題も浮上する。この著者のような考え方は、現在では割と自然なのかもしれないが、この「当事者」という言葉に少し異和を感じて。





   [短歌味体Ⅲ] ぱくりんちょシリーズ



103
生きてたらその気なくても
ぱくりんちょ
生命(いのち)から宇宙までくり返してる


104
少年の必死に描く
キャラの絵は
ぱくりんちょ彼の森を歩み出す


105
双子でもどこかちがうよ
ぱくりんちょ
顔立ち違い道別れゆく




  [短歌味体Ⅲ] ふるふるシリーズ



106
ふるふるふるふるまわってる
日差し受け
ゆっくりふるふる影差しまわる


107
ふるふる雨も降る降る
ふるふる
風も震る震る身もふるふるる


108
ふるふるふるふる時間を下り
ふるふるる
羽ふる広げ ふるふるり帰還

 註「ふるふる」のイメージの出所として。
「銀の滴降る降るまわりに,金の滴降る降るまわりに」という歌を私は歌いながら流に沿って下り,人間の村の上を通りながら下を眺めると
 (梟の神の自ら歌った謡  「銀の滴しずく降る降るまわりに」アイヌ神謡集 知里幸惠編訳 青空文庫)





  [短歌味体Ⅲ] つながりシリーズ・続



109
人はみな万万万(バンバンバン)
溶けて一つに
かたち成しても秋風は吹く


110
人ひとり迅迅神(ジンジンジン)
顔立ち
のっぺり熱く溶け入り行く


111
していても何もしていなくても
つながりの
張り巡らされ独りの光る




  [短歌味体Ⅲ] 


112
滲み入る秋 金木犀の
さんさらあ
しゅうしゅらあ匂い降る朝


113
ああ木の葉ああコノハノ
(流れ入る)
アアコノハコノ葉脈フルウ




  [短歌味体Ⅲ] 


114
秋深く黙々歩む
底の方
モノクロに色燃え立つモノローグ


115
秋深く言うこともなく
佇めり
波立つ泡立つ時間の海辺




  [短歌味体Ⅲ] 


116
秋雨の色々ぶつかり
音のする
ぱつ ぽつ ぱつ 音する夕べ


117
雨音に色は見えない
しかしかし
微小の色粒音階を上り下る


118
木々たちは日差し途切れる
夜眠る
千年の夢深々として




  [短歌味体Ⅲ] 


119
ケイタイの鮮(セン!)買った時
使い始め
手垢をかぶり芯に潜(セン!)潜みゆく


120
打ちふるう瞬(シュン!)感動は
春霞
夏から秋へ旧(キュウ!)冬と畳まる




  [短歌味体Ⅲ] 


121
とっても(うんこ)効果的なの
ほらほら(うんこ)
肌のノリがよくいい感じでしょ(ウンコ)


122
山あーの向こうかーらあ(ハアア)
下りてくる(ソレソレ)
ふーしぎーな(ハアア)風ーのー吹ーく(ソレソレ)




  [短歌味体Ⅲ] 追跡シリーズ


123
るるるんばるんばるんばば
(指令に
深く根ざして)るんばるるんば

 註.わたしはテレビで観たばかりで持ってもいないけど、そのロボット掃除機「ルンバ」のことを思い。



124
手と足がそろって歩む
(どんな指令?)
時代(とき)もあったとか目撃した少年の時


125
手で食べる箸で食べるの
境目で 
どんな物語湧き消え去ったか

註.明治期の丁髷から西欧風の髪形への変貌については、いろんなエピソードとともに記録が残されている。





  [短歌味体Ⅲ] 追跡シリーズ・続


126
外見には何にもなくても
鈍(ドン)追跡され
鋭(エイ)指令を受ける 日々の哀し味


127
がんばれと自ら指令
出す日には
軒先の朝少し重たく




  [短歌味体Ⅲ] 時の流れシリーズ


128
めいじんも言葉を帯びて
歩き回る
遙か明治を迷人のよう


129
ゆるりゆるりと言い出し始め
江戸ははる
かに暮れていき今は何の世か


 130
万葉に入りもしない
木々の葉が
色づき散って土に重なる




  [短歌味体Ⅲ] 時の流れシリーズ・続


131
砂粒のひとつひとつは
日差し受け
有為転変光り輝く


132
砂粒を差し置くように
大河は
止まることなく滔々と流る


133
砂粒と大河とは無煙?
奥底に
ひそかにつながる圏外の道




  [短歌味体Ⅲ] 言葉の迷路シリーズ


134
はなうたの 聞き返せない
戻れない
文脈の裏街道(うらみち)を追う


135
あいづちの 軽い槌音(つちおと)
響かせて
門扉(もんぴ)の側(そば)にぼんやりとして


136
けんがいの 危うい道を
過ぎて行く
つながり途絶えた夕暮道




  [短歌味体Ⅲ] 言葉の街シリーズ


137
ひたすらに子どものように
積み上げる
風に刃向かう砂の町並み


138
夕暮れにひとり佇む
秋大気
しいんしんしん身に染み渡る


139
寄せてくる時間の波は
ざわざわと
選んだ覚えなく鳴り響く曲




  [短歌味体Ⅲ] 言葉の迷路シリーズ・続


140
明るさや部屋のふんい気
わかっても
選択・配置する不明の触手(て)


141
発射され煙り立つ弾道
見えずとも
ズン貫かれ心よろめく



  [短歌味体Ⅲ] 番外


気付くとは 人も組織も
秋深く
枯れ果てて葉のゆらゆら舞い落ちる


秋深く 人も組織も
染まりゆく
その翻る線上のみち


一歩でも 未知が行ければよい
深まる秋
数万年の遺伝子を抜け




  [短歌味体Ⅲ] 風シリーズ



142
風を押すぐんぐんぐん
がむしゃら
ではなくからだの下からぐんぐん


143
風を切る知らなかったなあ
すっぱあん
風を切りつつ峠を越える


144
風に乗るこんなにも楽に
なるなんて
「風にのる智恵子」も また人の姿か

註.「風にのる智恵子」(『智恵子抄』高村光太郎)




  [短歌味体Ⅲ] ひとシリーズ


145
おそらくは何万年も
振り返り
考えてきた人の生きる意味


146
言葉には言われなくとも
手足動き
価値線上を踊っている


147
邪悪さはどこの生まれか
ひねくれた
花や木々の不幸の物語か




  [短歌味体Ⅲ] 


148
木・花・月・作物・雑草
名前には
人の歩いた時間の詰まる


149
じゅっくい濡れた言葉でも
風のように
素知らぬ足取り抜け行くある


150
「そうですか」と「そぎゃんね」
指示する場
は同じでも彩りや匂いのちがう




  [短歌味体Ⅲ] 言葉の迷路シリーズ・続


151
目覚めたら朝かと思えば
夕暮れの
つかの間の峠迷路の中に


152
くがたちの火傷なくても
罪匂う
濁る水底澱(おり)の潜む


153
人の世の迷路に佇(たたず)み
虔十は
青空の下杉苗を植える

註.宮沢賢治『虔十公園林』の主人公、虔十。


154
人の世の迷路絡まり
虔十は
すぱぱああん青空の下




  [短歌味体Ⅲ] いろいろシリーズ


155
いろいろの色も音色も
揺れ揺られ
幼稚園舎に日差し柔らか


156
いろいろの色溶け混じり
暗転し
ダークグレーの朝が始まる


157
晴天も不吉な風吹き
舞い上がる
邪悪芽生え匂い立ち始む




  [短歌味体Ⅲ] いろいろシリーズ・続


158
どうしたの って・・・・・
いろいろの
色混じり合い絡み合い・・


159
もうもうもうもう連打する
幻の
牛のように絶望の峡谷(たに)へ


160
言うに言えぬ峠からの眺め
どうしても
その場にいないと消える匂いの


161
色々の峠を下り
静かな
言葉以前の沼地に憩(いこ)う




  [短歌味体Ⅲ] 太宰治シリーズ・続(前回は、短歌味体Ⅲ31-33です)


162
ひとびとのマイナスの札
ばかり背負い
微笑みつつも街路独り歩む


163
いっしょならうんざりざりと
砂を噛む
独り佇む魂のスペクトル


164
人みな飛び石踏みゆくか
石と石
の間を踏む 演技ではない


165
乗り慣れた自転車の
染み付いた
哀しみ時折きいと音立てる




  [短歌味体Ⅲ] 畑からシリーズ


166
ただここに今在るから
触れている
澄み渡り日々移る秋空


167
秋空にからだ動かし
帰り来て
火燃やしした煙の匂い微か


168
しみじみと見ることもなく
別れ来て
今ここに湧く秋空模様




  [短歌味体Ⅲ] 人と人シリーズ


169
癒やされる・元気もらった
なんかいや
ナンカ変だなベタベタするう


170
この世がハエ取り紙の
地平なら
そこは自然なべたべた感か


171
長らくもこの世の人の
習いならい
半歩遅れて清濁奏(かな)づ




  [短歌味体Ⅲ] 人と人シリーズ・続


172
そこまではと白線がある
滲み入って
越境したらちゃぶ台返すよ


173
(人と人)そこをスルーしてしまったら
峡谷に
向かい隔てる 関所がある

註.(人と人)は、置き字。

174
わかり合うわかり合えない
いずれでも
波打ち渦巻く人界の内




  [短歌味体Ⅲ] ナノシリーズ


175
人ひとり カラスの鳴いてる
聴こえてる
耳の内に響き下るナノ


176
ナノなので空耳かと
見上げれば
空渡る鳥 大空に耳


177
ナノなので空耳かと
ドア開ける
他人(ひと)の事務する顔の見える




  [短歌味体Ⅲ] ナノシリーズ・続


178
ナノなので言葉の葉揺れ
瞬時に
揺れ伝わり新たな地に咲く


179
おぼろげな夢現の
境には
固まりゆく手前の言葉ナノ


180
どうナノ?こうナノ?そうナノ?
知らぬ間に
吹き寄せ絡む言葉の糸くず

 註.ナノ(nano, 記号: n)は国際単位系 (SI) における接頭辞の一つで、以下のように、基礎となる単位の10-9倍(=十億分の一、0.000 000 001倍)の量であることを示す。
1ナノメートル = 0.000 000 001メートル
1ナノ秒 = 0.000 000 001秒(ウィキペディア「ナノ」より)





  [短歌味体Ⅲ] 置き字シリーズ


181
各々の歳経る言葉の
年輪から( )
いろんな歩み方ふいと流れ出る


182
知りません(ね) 言葉の総量は
音に出ない
深い峡谷にまで及ぶ


183
(いいですよ)風に流れる
言葉ひとつ
ひとつ拾いながらまた風に流す
 
 
184
ええ。
(ああこれは 何度か通った
やわらかな
新茶を揉むみどり匂い立つ)


185
(私はやっていない
何と言い
何を掘り返そうとわたしはやっていない)

註.( )は、置き字。見るだけで読みません。




  [短歌味体Ⅲ] 音の根っこシリーズ


186
りんりりん 燃える燐々
輪りん輪
鈴々走り風になびき凛


187
さわさわさわ 静かな沢に
揺れる渦
木々多々(さわさわ)沢ざわわん


189
暗やみの無色無音の
峠から
かすかな音色の下る?洞窟




  [短歌味体Ⅲ] 音の根っこシリーズ・続


190
くる、くる止めようもなく
くるくるく
どこからともなくカムケイムカム


191
ダルだるまダルエスサラーム
ダルセーニョ
だるダルシマーどんダルベッコ

 註.ぼんやりと電子辞書を引き眺めつつ。




  [短歌味体Ⅲ] 


192
どうせいは見極めにくい
動と静
芯の方から表情変わる


193
左足から進み出たのか
わからない
ささいなことのイメージ消失


194
何だっけあの名前は?
無数のない
の河原には砂の線ばかり




  [短歌味体Ⅲ] なんにもない一日シリーズ


195
なんにも無い一日でも
何か有り
初めと終わりその道筋あり


196
ありありとイメージできない
場面でも
遠い静止も砂は流動する


197
なんにもない一日でも
時は流れ
みどり泡立ち消え積もりゆく




  [短歌味体Ⅲ] 微シリーズ


198
雨の中また小さな雨
降り始め
なじみの丘陵しっとり濡らす


199
朝早く〈アイムカミング!〉
と言いつつも
からだは秋の静かな日溜まりに


200
いつもならスルーする白線(せん)も
平均台
の上ならばゆらゆらゆらりん




  [短歌味体Ⅲ] らっしゃいシリーズ


201
抜けいくも言葉は生きる
時と場の
約束に守られ伸びゆく生命線(いのち)


202
ウォーターはワラァーでないと
圏外で
What do you meam ?返球来るらし


203
母ならば向かう子の言葉
受けとめて
あぶあぶ球に返球する

 全体の註.「魚屋のらっしゃいの声好きで買う」(毎日新聞「万能川柳」2015.10.28)を読み、きっかけとして。





  [短歌味体Ⅲ] らっしゃいシリーズ・続


204
ほんとうは作り元気かも
しれないが
飛び跳ねる魚の「らっしゃい」


205
無意味でも肌になじんで
ほのかにも
意味線上の「ラッスンゴレライ」


206
秋晴れの大気震わす
どんどん
どどんどんどん芯の言葉匂い立つ




 

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