短歌味体Ⅳ―吉本さんのおくりもの

 
 (2015年12月7日~   ) 継続中


 目次


※ 「短歌味体Ⅳ」は、不定期で、ゆっくりと表現していきます。歌と註から成ります。

       短歌味体 Ⅳ―吉本さんのおくりもの      日付
短歌味体Ⅳ ―吉本さんのおくりもの・はじまりは 1-4  2015年12月07日
短歌味体Ⅳ ―吉本さんのおくりもの・おくりものということ 5-8   2015年12月18日 
短歌味体Ⅳ ―吉本さんのおくりもの・誕生 9-12  2016年01月26日 
短歌味体Ⅳ ―吉本さんのおくりもの・少年期 13-18  2016年03月06日  
短歌味体Ⅳ ―吉本さんのおくりもの・戦争・敗戦期 19-24   2016年05月31日 
   







  [短歌味体 Ⅳ] ―吉本さんのおくりもの・はじまりは



はじまりはなんどかじょそう
くり返し
見知らぬドアを開け進みゆく



気負い立つ土煙払い
ゆっくりと
言葉の階段を下ってゆく



どこまで行けるかわからない
けれども
心の深いポケットにジョバンニの切符秘め

註.「ジョバンニ」は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の主人公。



ゆっくりと旅する時間に
湧き上がる
風景の深み肌合いを流る



 註.

 はじめに


 おそらくまだ吉本さんが元気だった、2008年頃に、まずは人の「順次生」(親鸞。その仏教的な解釈と違って、次から次へ順を追ってつながり生きると言う一般的な意味で)としての受け渡し(物質的かつ精神的に)ということから「おくりもの」というテーマで、そこから転じて「吉本さんのおくりもの」というテーマで文章を書こうと、資料から切り出したり、メモを取り始めたりしたことがある。批評の慣習に倣わずに「吉本さん」という呼び方で書くということまで決めていた。なかなか書き出せずに途切れてしまった。

 生活上でも、芸術表現上でも、何か物事には、いろんな蓄積の上で機がある程度熟して一気に取りかかることができるような場面がありそうに思える。もちろん、機が熟さなくても取りかからざるをえないとか、とりかかるということは、生活上でも、芸術表現上でもありうる。わたしの場合は、怠け癖もあって、また批評などは書くのがおっくうだからなかなか書き上げることができない。大まかな文章は早くに書き上げても、不明な箇所があったりしてなかなか書き上げてしまって公表するという所までいかない。そこで、機が熟するというよりももう書き上げるしかないといろいろと追い込まれた状態で、取りかかることが多い。

 「短歌味体Ⅳ」を「吉本さんのおくりもの」という副題で始めてみようと思う。このことを意識して、「短歌味体Ⅲ 31-33 太宰治シリーズ」で、歌と註(資料や文章)を試みたことがある。そんな形での表現を考えている。しずかに、深く「おくりもの」ということを受けとめてみたい。人(に限らずあらゆる生き物)は誰もが何らかの「おくりもの」を無意識の内に受け取り、自分のものにして意識化していく。そうして、また誰かに密かに「おくりもの」を手渡すことになる。

 この「短歌味体Ⅳ ―吉本さんのおくりもの」は、「短歌味体Ⅲ」と併行して進める。そして、不定期で、ほんとうにゆっくりとやっていくことになると思う。

                (2015年12月7日) 


 (付言)

 吉本さんの晩年は、原発大事故にも遭遇し、その大まかな収束の全過程の中途で逝かれてしまった。それは現在もまだ収束の過程にある。自然科学や科学技術の自然必然としての歩みも、また原発技術と同じ深さの自然との出会いから取り出された様々の科学技術の応用が現在の社会に普及しているのはわかる。

 原発大事故後、原発についてわたしも少し考察を巡らせたことがある。権力を持つ清濁含む支配的勢力が、依然として政策の大きな流線を左右してきているが、今までより一段高度化した、このような深みとしての自然との出会いから取り出される科学技術には、ある「器」というものが必須になってきているように思える。そうでないと大規模事故に相当することをいろんな分野でこれからも引き起こしてしまうような段階に現在はなっていると思う。

 マルクスは「イギリスのインド支配」で、インドの近代化という大きな歴史の主流の自然必然としての避けられない流れへの認識とそれがイギリスによって富の収奪やインドの伝統的な社会組織の解体、つまり住民の悲劇を伴いつつ成されたということを、外からある抽象度で把握しながら、その内にある人々の有り様にも想像を巡らせつつ、ある深い感慨を添えて述べている。このことは、現在でも問われるべき問題だと思われる。つまり、どこまでがこの世界を駆動する避けられない科学技術や文明史の大きな主流であり、どこまでをそのような世界の内側で今を生きる住民としてのわたしたちがそれにまつわる諸々を許容できるか、ということとして。水俣病などの公害問題やこの度の原発大事故問題を経て、そういう痛ましい負の問題を生み出さないような、ある「器」が、倫理のようなものが、未来に向けて、担当する組織に問われているのだと思う。例えば、新幹線が一度も事故を起こしていないのは、そのことに対する倫理のようなものからの対処やチェックが日々成されているからではないだろうか。

 わたしは、ただ生活者住民という場所から、この問題の有り様に関心を持ち続けている。しっかりした「器」もなく、右往左往してきたり、居直ったりしている国家や行政や学者たちや企業上層の下―もちろん、それらの世界にもまっとうな人々は数知れずいるはずだが―、被害住民の無念の言葉の場所をわたしの考えの中心に据えておきたいと考えている。それは現下の沖縄の基地問題においても同様である。なぜなら、いつ何時、わたし(たち)が、そんな状況を強いられるかわからないからだ。両者ともに、生活者住民といっても、行政や国家とつながったり、自らの特殊利害の主張もあり、それらが相対立しながら、ことはそんなに簡単ではないだろうが、あくまでも多数の普遍的な生活者住民の利害に眼差しを向けつつ、万人が落ち着くだろう場所を見つめ続けたい。

 最後に付け加えれば、40余年の言葉としての吉本さんとの付き合いからみて、この世界の有り様とそこでの人の有り様をラディカルに、あるいは全人的に柔らかに開示して見せてくれた、吉本さんはわたしにとってほとんど異和のない存在であることは確かなことである。







  [短歌味体 Ⅳ] ―吉本さんのおくりもの・おくりものということ



人はみな人知れず我知らず
受け継ぎ
渡すものあり無償のおくりもの



道端のふと拾い上げた
ひとつの石
溶けてみどりの滲み入ることあり



ことばに触れたどるとは
人の持つ
深さ広がり未知をも開く



死に急ぐ人は不幸のみか
半ば外
半ば自ら故の ああ日差し在り

(註は、ブログにて。)




註.


 おくりもの


 わたしたちは、ふだんおくりものをすることがある。中に立って何か口をきいてもらったなど利害の絡む場合もあれば、今ではもう薄れているのかもしれないが本家への中元や歳暮など慣習的な場合もある。現在、個人的な次元で考えれば、人類が築き上げてきた人と人とが関わり合う時の共同的な風習のひとつとして、今なお強力に、しかも靄のかかったようなあいまいさをともないつつ、― つまり、どうしてそういうことが始まり今に至っているかということはよくわからないとしても ―、おくりものは現在的な姿で生き残っている。

 おくりものということを少し拡張してみる。人がこの世界のあるところに生まれ落ち、育っていくという始まりとその後の過程は、人が他者(ひと)からなんらかの「おくりもの」を物質的や精神的に受け取っていると見なすことができる。そして、人が生きて「おくりもの」を享受しながらこの世界と関わり合う中で、今度は自らが他者(ひと)や世界に対する「おくりもの」を生み出していくことになる。その「おくりもの」には、この列島では割と均質なものと見なせるかもしれないが、世界各地、地域毎の長年の慣習が色合いのように織り込まれているはずである。

 このおくりものの現在の姿から、考えられるおくりものということの純粋な形態は、無償(見返りを求めない)のおくりものということである。そして、この無償ということの中には、この世界で人と人とが関わり合いながら生きていくあり方の理想形が込められている。ここで理想という意味は、その無償性は人に対して権力的や抑圧的に作用することなく、自由をもたらすからだ。それが可能な場は、現在のところ主には個と個とが関わり合う場と家族という場である。しかし、現実的には、その場には人を通して社会的な価値概念などその自由にヒビ入らせるような様々なものが混入してくる。

 もちろん、今でもおくりものということには、返礼という意識がつきまとっている。しかし、親鸞の「順次生」という考え方が人の世代を継ぐ関わり方やつながりと見なすならば、人は誰でも、誰かから物心両面で何ものかを受け取り、この世界に育ち、また何ものかを次に渡していくことになる。そのことは、誰もがたどらざるを得ない普遍的な道筋であり、「わたしを生んでくれてありがとう」とか「自分のために親はこんなことしてくれた」などと取り立てて返礼の倫理を喚起される必要はないと思われる。

 遠い昔、学生の頃、二段組みか三段組みの文学全集で、太宰治集の巻頭に太宰治の写真とたぶんその下に「反物をもらったから春まで生きていようと思った」というような言葉があった。これに似た言葉は、「葉」という掌編の出だしに「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」と作品の言葉としてある。この言葉は、虚構性の言葉ではなく作者太宰治の思いと見てまちがいはないと思う。太宰治の日記を昔読んだことがあるが、いろんな人の世話になったり、おくりものをもらったことなどが記してあったと思う。先の巻頭の言葉にわたしは唐突な感じを持った覚えがある。普通そんな言葉を書かないだろうという感じである。しかし、太宰治にとっては真剣だったのかもしれない。人一倍落ちこみやすい心が、なにげない習慣のようなものの中に滲んでいるものに鋭敏に感応する。そしてそのおくりものに自分をこの世界につなぎとめるものを感じ取ったのかもしれない。これは言葉で言い表すのはむずかしい気がする。おそらく太宰治本人もよく意識していないような無意識的な部分が加わっているように見えるからである。大げさにいえば、生命という身体感覚レベルに近い言葉ではないか。傍目にはいい加減な人間に映るかもしれないが、さりげない言葉の中に、命を切り開こうと悪戦する太宰の一瞬が切り取られている。 


 でも、大人の私は自由がほしくて、パパが私のほうにぐっときてしまったらほんとうは困る。
 だから、まるで恋愛を隠している男女みたいに、ふたりで暮らして行けたらいいとお互いがちょっとずつ思っていることを、ふたりともじっと黙っている。
 こういう愛もあるんだな、と思う。
 心配しあって、抱き合って、いっしょにいたがるだけではなくて、じっと抑えているからこそ絶対的に伝わってくるもの。ハムやお金に交換されてやってくるほんとうの気持ち。
 読み取れる感受性だけが、宝なのだ。
  (『みずうみ』P149 よしもと ばなな)



 そして、もちろん小説というのは、作者の経験、幼年期からこれまでの人生、彼が考え、行ない、目撃し、読み、夢みてきたありとあらゆることから生れます。しかし、経験というのは、手に入れようとして入れられるものではありません-それは、贈り物です。そしてその贈り物をもらうための必要条件はただひとつ、それに対して心を開いていることです。
  (『夜の言葉』「書くということ」P286 ル・グウィン 岩波現代文庫)



 ここに物語の作者たちの言葉を二つ引用した。人が物語を作りそれを読者に提供するということは、現在ではもちろん経済社会のシステムを通してわたしたち読者の下に届くわけであるけれども、そのつながりの底流では作者と読者は純粋なおくりものを交わし合っているように見える。おくりものは無自覚的にも人を活かすけれども、おくりものということを十全に受け取り、渡すには、「読み取れる感受性」や「心を開いていること」が大切なことだ。

 







  [短歌味体 Ⅳ] ―吉本さんのおくりもの・誕生



人はみな祝い祝われ
誕生す
通路(みち)の後先、密かに陰る


10
いつの間にどうしてここに
いるのだろう
言葉にならぬ表情流る


11
偶然に生まれ育っては
ひとはふと
まなざし深こう胎内生活(なか)の顔する


12
華やいだ春の衣装が
まぶしくて
一歩二歩に目まい微かに

  (註は、ブログに掲載します。)




註.


 誕生


  ①何人かの人々により積み重ねられ来た吉本さんの年譜より


一九二四年(大正一三年) 一一月二五日
 吉本順太郎、エミ夫妻の三男、第四子として、東京市京橋区月島東仲通四丁目一番地で生まれる。


 吉本一家は、吉本がまだ母の胎内にいたこの年の春四月、熊本県の天草から月島に移住してきた。


 東京に移住してきたのは、第一次世界大戦後の不況による、炭鉱の閉山や石炭運搬船の需要の減少などがかさなり、それらによる危機を乗り切ることができず、借金をそのままに、順太郎の直系の一族といっていいほどの者たちで夜逃げ同然のようにして、天草と地形が似ている月島で再出発を果たそうとしたことによる。先に、順太郎が上京し舟に関係する雇われ大工のような仕事につき、そのあとで家族をよんだ。
 汽車による見知らぬ土地への長時間かけての移動は、幼い子どもたちにも、身重の母・エミにとってもたいへん負荷のかかることであった。

(「吉本隆明年譜[一九二四~一九五〇]より抽出 宿沢あぐり 『吉本隆明資料集139』 猫々堂)



 この世界を生きるわたしたちの誰もが、この世界のいつかどこかに生まれ落ちる。そのことに例外はなく、そして誰もが、男と女の、彼らの背景との関わりを含んだある関わり合いの事情を生理的(遺伝的)かつ精神的に引き連れて現れてくる。そこで、子どもを産むのは女性であるから、生まれ出る子は胎内から誕生にかけての〈母の物語〉を印されてこの世界に登場することになる。吉本さんの場合、上記の年譜にあるような不幸な〈母の物語〉を印されたことになる。


 ②生誕と固有の不幸な〈母の物語〉の刻印


 年譜に書かれた、この間の事情は、吉本さん本人の記述がいろいろとあり、『少年』(1999年)や『母型論』(1995年)などにも触れられていて、それらを引用しつつ、松崎之貞『吉本隆明はどうつくられたか』(徳間書店 2013年)に詳しくたどられている。

 〈母の物語〉が大きな失敗であればどうなるのか。子の「無意識が荒れ」、また、外界から押し寄せる負荷に対する耐性が弱く、外界に対する過剰な引き寄せや過剰反応となり易い。吉本さんが度々述べていた言葉で言えば、閾値(いきち、「特定の作用因子が、生物体に対しある反応を引き起こすのに必要な最小あるいは最大の値。限界値または臨界値ともいう。」)が普通人より低くなる。ということは、普通の人々が、あまり思い詰めたり、考え込んだり、し過ぎないようなことをし過ぎてしまうということになる。性格的には、たぶん外界に対する防御的な姿勢として「引っ込み思案」や「内向的な性格」となる。「人と人との関係が『なんだかぎこちなくてうまくやれない』という感受性」になる。もちろん、これは吉本さんの場合の〈母の物語〉がもたらした一態様に過ぎない。現象としてそうでないばあいもあり得るだろうが、外界に対する反応の基本的な性格は普遍的なものとして捉えることができるかもしれない。

 吉本さん本人が、当然ながらさまざまな生き難さとして物心ついた頃から意識し続けてきただろうし、そのことにいろいろなささいに見えることにも無数の格闘をしてきただろうと想像される。このようなことは、誰もが通る普遍的なものであるが、普通以上に苛酷な〈母の物語〉を印された人々は、普通以上に感受し、普通以上の風景を目にし、普通以上の魂の劇を強いられる。このことは、価値の問題では全くなく、不可避な生存の有り様というほかない。吉本さんが批評として取り上げた三島由紀夫も太宰治もまたそのような苛酷な〈母の物語〉を印された人々であった。

 吉本さんは、この国で類例のないほどの思想のオープンさを持っていた。表現者として恥ずかしさやプライド?などから秘匿するのが一般的なこともさらけ出してきている。晩年では自らの老年の有り様を開示し、論じている。また、50歳頃にはたぶん編集者や出版社からの働きかけだろうが、心理分析を受け、分析者との対話がある。(『特別企画 吉本隆明の心理を分析する』青土社 吉本隆明・馬場礼子 1974年) この吉本さんは、自分が分析されることに興味を持ち、少し前に乗り出しながらも、どこか無意識に引いている姿勢のような印象も持った。もちろん、自分をオープンにして公開的に触れるまでには、ためらいの消失などそれなりの時間の経過や年齢的なものがあっただろうとは思う。別の対談では、次のような「対人恐怖」や「赤面症」のことが触れられている。


 そこで『言語にとって美とは何か』でとったぼくの考え方は、文字を媒介にした言語表出というところからはじまっていますが、それをもっと非言語、非文字という領域まで拡大してみたいという考え方が、言語の問題としても、心的な問題としてもあります。それは『言語にとって美とは何か』と『心的現象論』を拡張するといいますか、原型のところまで遡ってそのふたつをいっしょに解いてみたいという考えがあるんです。だから田原さんのやられている方法にはとても関心があります。できるだけ具体的に聞けたらいいなというふうにおもっているわけです。
 それからぼくは、いまでも「対人恐怖」ですが、思春期前後のころは、ひとを正視して話をする、とくに女のひとと話をするということができなかったんです。それから「赤面症」も、思春期に入る前後のころは極端にそうだったんです。いまは摩耗しているというか、それほどじゃないですが、そのころは意識すればするほどそうなっちゃう。べつにひとからみて顔が赤くなっているかどうか、それこそ田原さんのいわれるとおりわからないですが、カッーと耳までも熱くなっちゃう。一時期それにずいぶん悩まされました。悩まされたというのはだれでもそうなのかもしれませんが、それを悩みとしたということなんだとおもいます。これなんかはいまでもあるわけですが、なんか階段を昇り降りするとき、右足から第一段目を上がらないと今日は縁起が悪いとか、そういうのって思春期前後には極端にありました。それでじぶんのことをいうと、『言語にとって美とは何か』と『心的現象論』をもっと無意識の核のところまで遡って自己カウンセリングしてやろうみたいな問題意識があるんです。
    (対談集『時代の病理』P47-P50 吉本隆明・ 田原克拓 1993年)



 この引用に象徴されるように、人がこの人間界に生まれ育ち老いていく過程は、誰もが固有の〈母の物語〉を背負いつつ、この現実の人と人との関係の中で、それを修正したり、それに沿って生きたりなどしながら、この世界を旅していくのだと言えそうである。そして、苛酷な〈母の物語〉を強いられてしまった人々は、それが普通の人々以上に苛酷な旅になるだろうと想像することができる。

 しかし、いずれの場合も、人がこの人間界に生まれ育ち老いていく過程は、個人的には、固有の〈母の物語〉の受容や修正やかくめいの劇であり、外の世界に対しては、この世界の成り立ちの根源からの受容や修正やかくめいの劇である。誰もがその生存においてこの二重性を帯びていると思われる。吉本さんの〈母の物語〉に根底的に触れた『母型論』に到る論理を築く歩みにもそのような二重性が秘められている。

 







  [短歌味体 Ⅳ] ―吉本さんのおくりもの・少年期


13
朝日の背にずんと押されて
駆け出して
ひみつの基地を紡ぎ歩く


14
入り日差し火照り香残し
ひかれゆく
明暗の敷居ゆっくりまたぐ


15
風景は目線の年輪
振り向けば
時間の風貌を浮上させる


16
生まれ落ち時折優しくも
氷解(とけ)ない
日々くり返し浮上する氷壁(かべ)


17
まぼろしの母のたましい
の在所
訪ねに訪ね不明の戸叩く


18
いつの間にか不明の深み
より湧く
ずきんと深い別つ渓谷(たに)はなぜ?




 註.

 少年期


 ①少年期は自体を生きる


 少年期というのは、例えば生まれて間もないひな鳥が巣の周りで出入りしながらもまだ巣立つ前の状態に対応させることができそうだ。すると、青年期は、家族から巣立っていく時期に対応する。次の吉本さんは、少年期を前期・中期・後期と三つに細分しているけれども、大雑把な感じで言えば、少年期はそれ以降の時期に比して内省的になることが少なく、また論理の言葉も未成熟で、それ自体を生きる時期のように見える。少年の当面する世界も具体的な環境も含めてとても狭い限られた世界になっている。このことは、逆にに言えば、少年にとっては世界はより濃密で、世界の濃度が高いと言えそうに思う。そして、誰もが生誕からひきづったものを、その世界の渦中で半ば以上に無自覚的に反復したり修正したり固執したりしていることになる。
 したがって、自体を生きるという性格の少年期だから、次の吉本さんの『少年』のように、自身に記憶やイメージとして残留しているものをたよりに、そこを通り過ぎた後から振り返って少年期は内省的に捉えるしかないものとしてある。



 ②吉本隆明『少年』より


 少年に難しさがあるとすれば、少年期から思春期に入る前に「性」が介在してくるところからやってくる。もっと本質的な難しさをいえるとしたら、人間は少年期に入るまでに、自分の責任ではないのに何かがつくられてしまっていることだ。そのことを経なければならないことが難しさだとおもえる。
 これはどんな人間にとっても重要なことなのに、どこに根拠や責任をもっていけばよいのか、誰にも半ばしかわからないのだ。
 自分ではべつに生まれてくるつもりもなかった、もしかすると、親の方も生むつもりはなかった。それにもかかわらず生まれたという既成事実を運命のように見做すしかないということだ。すくなくとも資質や性格についてはそうだ。
 そこではすでに親と子、とくに母親と子の関係は先験的にできてしまう。厳密にいえば胎内から生じているのだろうが、そのことが決める親と子の関係、とくに母親と子どもとの幼いときの関係について、子には責任の持ちようがないし、また責任がない。
 もっぱら責任のことをいうなら、母親あるいは間接的には父親が負ういがいにない。ただ親に根拠をもってゆくほかにないという意味で、それは責任であるかどうかはわからない。責任という言葉を使っているだけだ。
 自分には責任がないことを経なければ生存にならないことは、ものすごく重要な人間の特質のようにおもえる。ここには、自分には責任がないんだ、というままに残ってしまうものが存在する。



 少年の前期に重みをかければ、フロイトのいうようになってしまう。少年はおよそケダモノが持っている粗暴さや異常さや残虐さ、そういう無倫理の世界を全部持っている。露出していなければ潜在的になっている。もちろん植物的な繊細さも、静かさも、魂の芽ばえも、弱さも併せ持っている。
 この矛盾した特性は、少年の複雑さと単純さの根にあるものだ。少年は純真で善良でマユのように内向的であるとともに、関係意識が欠けた粗暴な動物的な存在でもある。
 少年の後期へ行く道、つまり、性の意識が芽ばえ、性の問題が介在してくる中期から後期に重みをかけてみれば、少年とは全部内向的な存在だといったらいいだろうか。それは自分以外の他の人には通じないし、親にも通じない。内向的なものを徐々にはぐくんでいる。
 少年は自分のなかの内向性を肉親や近親や家族との親和や風習に変え、動物的な運動性や衝動性を仲間との遊びの共和性に変える。少年の人間生芽ばえは、この親和力と外向的な群れの共和性とのあいだに、固有の境界地帯としての秘密の場所を設けるところにあらわれる。家族のなかの共和性の世界では、少年はまだ半ば少女なのだ。ここでは性の芽ばえが一種内向的に抑制されるとすれば、少年はまだ母親にたいして女性(引用者註.この「女性」性とは、「男性」性と見なしうる母親に全面的に依存してしか生きられない受動的存在の乳児を指している)だった乳児期の名残をひきついでいるからだ。
 (『少年』P125-P128 吉本隆明 1999年)








  [短歌味体 Ⅳ] ―吉本さんのおくりもの・戦争・敗戦期


19
人と人との関わり合う
背後には
いつも控える 影の 眼差し深く

20
硝煙漂う日差し
浴び もう
それではと一つ道に絞らるる


21
ふたたびの追い詰めらるる
首元に
ひんやり流れる死のイメージ


22
熱は氷にすぱんと
断ち切られ
真昼間に星の瞬く


23
自然のみ昨日と同じ
人はただ
取り払われた重力に浮遊す


24
あの暗雲の反復に
戦(おのの)きは
「生きた心地がしない」とさまよい歩く




註.

 戦争・敗戦期


①戦争・敗戦期の表情―柳田国男と大多数の普通の人々から


 戦争や戦争期のことをいろいろと書き留められた言葉から判断すると、大多数の普通の人々は、敗戦をまず世界の崩壊感と虚脱感で受けとめたように見える。もちろん、その後にはもう戦争に関わらなくていいというような解放感が訪れたかもしれない。しかし、一方に主に知識層で、敗戦すなわち解放と捉えた人々もいた。彼らは戦後民主主義者に変身していった。これについてはここでは触れない。


 柳田国男は、ほとんど全部と言っていいほどの戦争へののめり込みの状況下で、醒めて、ほんとうに大事なことは何かと黙々と思いを致し考えていたように見える。つまり、現実そのものの渦中への視線と深い歴史の大きな流れからの視線と二重化した視線を携えていたように見える。もちろん、戦時下において戦争による戦死という大多数の無名の人々の状況的な課題があれば、「先祖の話」などそれに答える文章も書いている。柳田国男の日記によると、



 早朝長岡氏を訪う、不在。後向うから来て時局の迫れる話をきかせらる。夕方又電話あり、いよいよ働かねばならぬ世になりぬ。
    (「炭焼日記」八月十一日『柳田國男全集32』ちくま文庫)



 十二時大詔いづ、感激不止。
 午後感冒、八度二分。
    (「同上」八月十五日)




 少し前から知り合いを通して、敗戦が近いことがわかっていたようだ。「いよいよ働かねばならぬ」というのは、当然民俗学的な研究のことだろう。敗戦を知っての思いは、簡潔に「感激不止」としかないが、辞書的な意味の「強く心に感じて、気持ちがたかぶること」と受け取るほかない。後の占領軍がもたらした民主主義を解放と捉え、それを謳歌するのとは違う。先に、柳田の視線を現実そのものの渦中への視線と深い歴史の大きな流れからの視線と二重化した視線と捉えた。戦時下でいろんな配慮や窮屈さを感じつつ研究し公表して来た柳田であるけれども、自身もまた敗戦によりその現実という片肺が崩壊した衝撃を茫然としたものとして感じたのだろうと思われる。しかし、二重の視線によって醒めていた分を考慮すると、以下のような大多数の普通の人々の感慨とは少し違っていただろうと思われる。



 三月十日東京の本格的空襲初まつてから約五ヶ月の間に大中の都市殆ど灰燼に帰す。


 数日前から心臓ひどく圧迫を感じて痛み、脈搏時々乱れるので、十五日は休養していた。高岡の西のおばあさんが来て、今日正午天皇陛下御自らの放送があるといふニュースがあつたと云った。門屋の廂のラヂオで拝聴する。ポツダム条約受諾のお言葉のやうに拝された。やうにといふのはラヂオ雑音多く、又お言葉が難解であつた。しかし「降伏」であることを知つた瞬間茫然自失、やがて後頭部から胸部にかけてしびれるやうな硬直、そして涙があふれた。近所の人々は充分意味汲取れぬながら、恐ろしい事実をきいたことを感知して黙つてつき立つてゐた。国民誰もが先日の露国参戦に対する御激励の御言葉をいただくものと信じてゐたのであつた。


 十五日陛下の御放送を拝した直後。
 太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない。

(「日記」昭和二十年八月 註.旧漢字は少し直した)
 (『定本 伊東静雄全集』P327-P328人文書院)




 柳田国男のように政府関連の知り合いもいない普通の庶民感覚としては、情報統制された大本営発表しかなく、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦などの情報もうっすらとしか伝わってこなかっただろう、しかし、自らの都市の無差別爆撃を目の当たりにしていれば、なんかおかしいぞと思っていたかもしれない。敗戦という事実と目の前の自然との大きな乖離感が記されている。こうした感覚は、アジア的な社会に共通する感覚ではないだろうか。つまり、人々の感性や意識の中で人間社会も自然界も同一視するような歴史段階の感性や意識の水準のことである。若き吉本さんの場合もまた、そのようなものであった。



②吉本さんにとっての戦争・敗戦



 「アンドレイ(引用者註.トルストイ『戦争と平和』の登場人物)は仰向いて青く澄んだ空を、少し薄れた意識で見上げながら戦争も平和も人間の生死も自然に比べれば空しいと感じる。自然の変わらなさを、この場面で兵士たちの生死や将軍の野心や名誉欲とかかわりない救済として描いているトルストイ……中略……わたしもこの場面だけは『戦争と平和』のなかで鮮やかに覚えている唯一の個所だ。わたしは敗戦の日、動員先で、生きているのはおかしい、明日からどうしようと思い悩みはじめて、魚津港の海へ出て浮びながら、青い空を眺め、じぶんが生きた心地もなく悩み苦しんでいるのに今日も昨日とおなじように空が晴れているのが、不思議でならなかったのを記憶している。わたしにとってはその場面の自然の変らなさは、救済ではなく不都合に思えた。あれから半世紀ほどの年月を、このとき感じた自然への思いを解こうとして遠く戦後を旅してきたように思える。」
 (「本多秋五さんの死」2001年、『吉本隆明資料集154』猫々堂)




 ロシアの作家トルストイの中にもこの列島と共通するアジア的な心性があるから上のような作品世界の言葉として滲み出してきたのだろう。吉本さんの「あれから半世紀ほどの年月を、このとき感じた自然への思いを解こうとして遠く戦後を旅してきたように思える」という言葉は、軽いものではない。これは一般化・抽象化すれば、戦争―敗戦が露わにした、わたしたちと共通するこの列島の住民の心性という大きな問題のことを指している。それは、自然を貪欲に開発・活用・制圧するというようなヨーロッパ的な感性や意識に対して、ヨーロッパ的なもの以前の段階の感性や意識である。それは、自然にまみれるような自然との交流という美点もあるだろうが、現実の危機的な状況に追いまくられ追い込まれたこの列島の人々の感性や意識の中で、人間社会も自然界も同一視される意識や感性がその古い層からまるで瀕死者の視線や感受のように湧き上がってくるということは、人間社会の諸課題をそのものとして直視し未来の方へ放つのではなく、その諸矛盾を自然の方に溶かし込むという時間的な退行と見なすほかないものであった。戦争期には、まるで近代そのものの総決算であるかのように、人々にそれらが湧き上がり、統合されていった。そして、このような心性の遺制は、社会関係や人間関係や思想の場面などで、今なお継続する負性を含めた課題であり続けている。

 いろんな文章に吉本さん自身が書き記しているが、戦争体制に「軍国少年」として同化し死をも念頭に置いていた吉本さんにとって、この戦争・敗戦は自己の全存在を根底から揺さぶるものであった。「生きた心地もなく悩み苦しんでいる」ということは、そのことを指している。吉本さんの敗戦後の状況について、よくたどられている松崎之貞『吉本隆明はどうつくられたか』から借りてみる。



 もし日本の敗戦がなかったとしたら、その後の「吉本隆明」はなかったといっていいだろう。吉本にとって敗戦の意味はそれほど重かった。


  もしも、戦争、敗戦とつづく外的世界からくる強制が、わたしの「個」に断層をみち びかなかつたとしたら、わたしは、きわめて平均的な生活人のなかに全てを充たして間 然するところがなかつたであろう。(「過去についての自註)


 弱年のころからきわめて精力的な読書家であり、すでに中学(府立化工)時代から詩や短文を書いていた吉本であるから、たとえ戦争・敗戦がなくとも、詩人ないし批評家として世に立ったであろうことは十分に考えられる。しかし戦争および敗戦を通過していない吉本の風貌・姿勢は、その後の実際の姿とは大きく異なったはずだ。みずから築いた思想を鋼のような文体で現実にびしびしと打ち込んでいくような立ち姿はやはり、「死ぬか生きるか」という心情をまるごと賭けて〈敗戦〉と格闘したあとでなければ出てこなかったであろう。吉本にとって昭和二十年八月十五日という日づけはそれほどの重みをもっていた。
 敗戦は当時の日本人全員が体験したものではないかという、吉本固有の体験ではなかったはずだ―という論は当たらない。同じ体験をしても、それをどう受容したか、いかに超克したか、といった真の意味での〈経験〉は個々の人間によってまるで異なるからだ。
  (『吉本隆明はどうつくられたか』「〈敗戦〉という落雷」松崎之貞 徳間書店 2013年)




 人間の生涯において、あの時こうしていればという仮定自体は無意味のように思われるが、その仮定する行動によって人の置かれたある状況を照らし出してくれることは確かだ。吉本さん本人も仮定的に述べているが、〈敗戦〉という体験が吉本さんの生存をどれほどの衝撃で訪れ根底的に揺さぶったかということを照らし出していると見ることができる。

 松崎之貞の『吉本隆明はどうつくられたか』から上に引用した部分の続きには、敗戦後の吉本さんにとっての大事な文章が引用されている。



 わたしは、敗戦のとき、動員先からかえってくる列車のなかで、毛布や食糧を山のように背負いこんで復員してくる兵士たちと一緒になったときの気持を、いまでも忘れない。いったい、この兵士たちは何だろう?どういう心事でいるのだろう?この兵士たちは、天皇の命令一下、米軍にたいする抵抗もやめて武装を解除し、また、みずからの支配者にたいして銃をむけることもせず、嬉々として(?)食糧や衣料を山分けして故郷にかえってゆくのは何故だろう?そういうわたしにしても、動員先から虚脱して東京にかえってゆくのは何故だろう?日本人というのはいったい何という人種なんだろう。
 兵士たちをさげすむことは、自分をさげすむことであった。知識人・文学者の豹変ぶりを嗤(わら)うことは、みずからが模倣した思想を嗤うことであった。どのように考えてもこの関係は循環して抜け道がなかった。このつきおとされた汚辱感のなかで、戦後が始まった。(「思想的不毛の子」『背景の記憶』所収)




 「本多秋五さんの死」からの引用部分が、吉本さんの個としての内面を訪れた敗戦の衝撃の心的な情景だったすれば、ここの部分は、復員兵士や日本人という他者との関係が語られている。吉本さんは復員兵士という他者との関わり合いの中で、両者ともに逃れようもない絶対的な関係の前に立たされたように「関係は循環して抜け道がな」い、どうしようもない部分を共有する日本人だという「汚辱感」にまみれたやりきれなさが語られている。それは吉本さんの存在を根底から揺さぶるものであった。したがって、敗戦後の吉本さんの混迷する歩みはそのような場所から始まった。そうして、その後の「関係の絶対性」や「大衆の原像」、人間の生み出す幻想の三基軸(『共同幻想論』)や言葉の表現(『言語にとって美とはなにか』)、そしてそれらの後景にある心的現象(『心的現象論序説』など)というものの構造的な解明など、ものごとを根底から考え直し捉え論理化していくという吉本さんの戦後の歩みの動機は、くり返し本人によって語られてきているこれらの無惨な戦争・敗戦の体験にある。そして、その動機を支えるものとして、新たに生き直そうという強い意志と若い頃の文学の体験や実験化学者としての修練があった。

 ここで、戦争・敗戦期の吉本さんにその誕生の方からの視線を加えてみると、「軍国少年」として入れ込み同化した自己の破局は、第一の不幸な誕生以後にそれを奥深く沈め周囲との関係に少しずつ馴れ馴染ませてきた表層的な意識や自己を、再び奈落に突き落とすように襲ってきた第二の根底的な不幸の体験であった。そのことに若い吉本さんがどれほど自覚的であったかはわからないとしても、若い吉本さんはその〈二重の根底的な不幸〉に「生きた心地もなく」見舞われたのである。

 現在からの視線で見るならば、戦後の吉本さんの歩みは「今世紀最大の思想家」(註.1)と呼ばれるほどの、この世界のあらゆるものを根底的に問い捉えようとした人であった。しかも、論理を頭で追いかける学者と違って、自分の体験の核を何度も反芻しながら、手を動かすことによって考えながら、それにはっきりした像を与えるための論理や概念を呼び寄せるものであった。だから、『初期ノート』などに記された若い頃の考えが反芻され形を変えて何度も登場して来ることになる。

 この吉本さんのような存在は、全てを情緒や印象批評に流して済ますようなこの列島社会の思想・芸術・文化などの伝統の中では、類のない存在であり貴重な存在である。そして、そのような吉本さんのその歩みと存在自体が、わたしたちへの貴重な〈おくりもの〉であるとわたしは思い感じている。そして、もうひとつ大切なことは、吉本さんの個としての内面の方に返してみれば、戦後の吉本さんの歩みは〈二重の根底的な不幸〉からの新たな〈生き直し〉の苦闘の過程に入り込んでいくことを意味していた。しかも、受けた衝撃が生存を根底から揺さぶるものであったから、吉本さんの問い・考え・捉えるという思想領域での新たな〈生き直し〉の苦闘の過程も根底的であるほかなかったのだと思われる。。


 (註.1)吉本さんが、「今世紀最大の思想家」だという他者からの評価の言葉を聞いたらまず照れられたろう。そして、興味の無い勲章や叙勲のように見なし、終わられたのではないかと思う。なぜならば、吉本さんの思想は日々の細々した具体性にまで十分に及んでいるからであり、また、『カール・マルクス』の中のよく知られた言葉、つまりマルクスを偉大な思想家として引き合いに出して述べられたわたしたち人間存在についての認識の言葉がそれに対する答えになっているからである。

 







  [短歌味体 Ⅳ] ―吉本さんのおくりもの・






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