表現集 2 (2021.2~2022.12)






 目  次


        批評    日付
「エレヴァス」問題、たぶん最後。 2021年02月01日
覚書2021.2.21―なぜ作者について知ろうとするのか 2021年02月21日
メモ2021.3.3 ― ヘーゲル『世界史の哲学講義』より 2021年03月03日
覚書2021.4.5 ― わたしとこの世界と生・死と 2021年04月05日
メモ2021.5.17 ― 吉野裕子のこと   (追記2021.5.24)  (追記2021.6.25) 2021年05月17日
時代劇と宮沢賢治の「猫の事務所」 2021年06月27日
メモ2021.7.9 ― 明治期の話に古代を読む 2021年07月09日
メモ2021.7.26 ― 家族の内の時代性 2021年07月26日
覚書2021.8.14 ―人間は 2021年08月14日
10 メモ2021.8.26― 歌一首より 2021年08月26日
11 メモ二つ 2021.9.9 2021年09月09日
12 メモ2021.9.11 ― 真理のこと 2021年09月12日
13 メモ2021.10.3―ひそかな対話、ひそかな言葉 2021年10月03日
14 メモ2021.11.7 ― 文学作品の言葉の追跡 ① ― 「引用」から 2021年11月07日
15 メモ2021.11.27 ― 文学作品の言葉の追跡 ② ―「円方体」から 2021年11月27日
16 メモ2021.12.4 ― 共感覚から  (追記2021.12.5) 2021年12月04日
17 メモ2022.1.17 ― コロナウイルスの振る舞いについて 2022年01月17日
18 最近のツイートや覚書など 2022年02月23日
19 最近のツイートや覚書など2022年1月 2022年03月06日
20 覚書2022.3.12 ― 経済的な範疇の概念から普遍的な概念へ 2022年03月12日
21 メモ2022.3.15 ― 〈存在倫理〉の自然な発動 2022年03月15日
22 メモ2022.3.25 ― 物語における街や通りの描写 2022年03月25日
23 メモ2022.4.06 ― つながりとしての思春期 2022年04月06日
24 最近のツイートや覚書など2022年2月 2022年04月06日
25 覚書2022.4.19 ― 異質性の同居する中から 2022年04月19日
26 最近のツイートや覚書など2022年3月 2022年04月25日
27 最近のツイートや覚書など2022年4月 ① 2022年05月12日
28 最近のツイートや覚書など2022年4月 ② 2022年05月17日
29 覚書2022.5.23 ― 残虐について 2022年05月23日
30 最近のツイートや覚書など2022年5月 ① 2022年06月04日
31 最近のツイートや覚書など2022年5月 ② 2022年06月10日
32 最近のツイートや覚書など2022年6月 ① 2022年07月01日
33 最近のツイートや覚書など2022年6月 ② 2022年07月16日
34 覚書2022.7.24 ― 戦争世代の経験が途切れるところから 2022年07月24日
35 覚書2022.7.31 ― 近目と遠目の統合ということ 2022年07月31日
36 覚書2022.8.18 ― 柳田国男が農における感動を記した意味 2022年08月18日
37 最近のツイートや覚書など2022年7月 ① 2022年08月20日
38 最近のツイートや覚書など2022年7月 ② 2022年09月13日
39 最近のツイートや覚書など2022年8月 ① 2022年09月29日
40 メモ ― 時代劇から 2022年10月05日
41 最近のツイートや覚書など2022年8月 ② 2022年10月15日
42 最近のツイートや覚書など2022年9月 ① 2022年10月24日
43 最近のツイートや覚書など2022年9月 ② 2022年10月31日
44 最近のツイートや覚書など2022年10月 ① 2022年11月15日
45 最近のツイートや覚書など2022年10月 ② 2022年11月20日
46 最近のツイートや覚書など2022年11月 ① 2022年12月09日
47 最近のツイートや覚書など2022年11月 ② 2022年12月20日
48 最近のツイートや覚書など2022年12月 ① 2022年12月31日






批評




 「エレヴァス」問題、たぶん最後。


 自己表出と指示表出の関わりで、吉本さんの「拡張論」(『ハイ・イメージ論Ⅱ』ちくま学芸文庫 この単行本は、1990年4月刊)を見ていたら、その次の「幾何論」の中、ヘーゲルに触れた吉本さんの言葉や引用されたヘーゲルの言葉の中に、「Etwas」が使われていた。せっかくだから、吉本さんが取り上げている話のひとまとまりの部分として抜き書きしてみたい。


 ヘーゲルの考え方では、ある物(体)(Etwas)がそこに(da)ある(sein)かぎり、他の物(Anderes)への関係をもっている。このばあいこのほかの物(Anderes)は、もとのある物(Etwas)からみれば非有(あらざるもの)としての一つの定有物(きまったもの)(ein Dasein endes)だということができる。したがってこのある物は限界や制限をもった有限のものだ。
 いまある物(Etwas)がそのものとしてどういう本性をもつかということが、そのある物(Etwas)の規定だとすれば、この規定が関係をもっているほかの物(Anderes)によってどうなっているかということが、そのある物(Etwas)の性状だということになる。
 このある物(Etwas)のなかで、それ自身からみられた規定と、関係するほかの物からみられた規定とが、どうなっているかがこのある物(Etwas)の質にあたっている。こうかんがえてくると、ある物(Etwas)が質であるかぎりは、かならずほかの物(Anderes)との関係によってみられた性状をふくんでいることになる。いいかえればじしんの存在する理由を他者にもっているから、かならず「変化」するということができる。「変化」によって性状は止揚されるし、「変化」そのものもまた止揚される。この止揚によって物(体)がどうなるか、ヘーゲルはつぎのようにいう。

 この変化において或る物(Etwas)は自分を止揚し、他物(das Andere)になるが、同様に他物もまた消滅するものである。しかし、他物の他物〔他者の他者〕(das Andere des Andern)または可変体の変化〔変化の変化〕(die Veranderung des Veranderlichen)(引用者註.「a」は2つとも「¨a」)は恒常的なものの生成(Werden des Bleibenden)であり、即且向自〔それ自身で〕に存在するものの生成であり、内的(インネンス)なものの生成である。
                          (ヘーゲル『哲学入門』第二課程 第一篇 第一段B)

 ここで「恒常的なものの生成」というのはすこし強勢で「不変のまま残留するものの生成」くらいにしておいた方がいいようにおもえる。ヘーゲルがいいたいことは、それほど難しくない。あるひとつの物(体)が存在していることのなかには、他者との関係によって存在している面がかならずある。いいかえれば他者があるからそのものとの関係で存立している部分をもつ。そうであればそのひとつの物(体)は、他者が変貌するにつれて外から変化するか、じぶんの変貌によって関係する他者を変化させることで、じぶんが内在的に「変化」することがおこりうる。この「変化」によってそのひとつの物はまたほかの物に変化し、ほかの物は消滅したり、ほかの物のほかの物に変化する。この後者の変化は、いわば止揚としての変化であり、生成したものは不変のままとどまったもの、つまりは内的なものだ、ということになる。もしこのある物(体)が、たくさんの特性によってほかの物と区別されているとすれば、この特性の「変化」によって解消したことになる。
 幾何学的な認識が(たとえばスピノザが)、「変化」という概念をうみだそうとしなかったし、うみだすことができなかった理由は、概念を定在の点のようにかんがえて、その存在、定立の理由を自律的なものとみなしたからだとおもえる。ひとつの概念が現実にむすびついて存立するためには、ほかの概念との関係が必要だという観点はスピノザにはなかったし、またはじめから必要としなかった。これに反しヘーゲルの概念のつくり方は、はじめから関係なしには、成立しなかった。
 まず対象との直接の関係を衝動とかんがえれば、衝動面にたいして任意の角度をもった志向性が、この面をつきぬけて直進して行為となるかわりに、行為とならずに衝動面で反射したとすれば、この反射を反省とみなすことができる。(引用者註.第2図は略)
 そして反省を数かぎりなく繰り返すことで、対象との関係がじぶんとの関係に転化したものが、ヘーゲルでは自我とよばれている。そして自我と対象との関係が哲学のいちばんはじめにあり、これはヘーゲルについて最初にいわれるべきことのようにおもえる。このいちばんはじめの関係から、はじめに意志とか決意とか企画とかいった自我の内的な規定であったものが、対象へむかう過程でしだいに外的な規定に移ってゆく。それが行為(Handeln)とみなされている。
 ヘーゲルの方法にとって「生命」の概念や「変化」の概念よりも、ある意味では自我と対象、有機的な自然と非有機的な自然、認識と行為といったような、事象を二項対立に分離したうえでそれを関係づけるほうが本来的なかんがえだといえばいえた。ここからヘーゲル哲学の流動的なもの(つまり概念を移行と消滅の相のもとでみること)がはじまったからだ。認識と行為のあいだで、あるいは自我とその対象とのあいだで、はじめに内的な規定であったものが、次第に外的な規定へとうつってゆき、そのうつり方の曲面は、曲率もちがえば、通過する過程もちがうが、内在から外在へとえがかれてゆく行為の曲面の変化こそが、ヘーゲル哲学の入口にひかえていたおおきな形象であった。(引用者註.第3図は略)
 (『ハイ・イメージ論Ⅱ』「幾何論」 P105-P110)



 関連ブログ記事
1.「エレヴァス」問題 2016年12月15日 | 吉本さんのこと
2.「エレヴァス」問題再び 2017年02月23日 | 吉本さんのこと








 覚書2021.2.21―なぜ作者について知ろうとするのか


 宮沢賢治の「心象スケッチ」について検索していて出会った植田敏郎の『宮沢賢治とドイツ文学』(講談社学術文庫 1994.5.10)を読み終えた。これは、宮沢賢治の文学や思想に与えた影響を実証的に論じている。日本では元良勇次郎(この人は、昔、吉本さんが若き岡井隆と論争していた時に名前が挙がったことのある人であり、わたしはその精神物理学の本に当たったみた記憶がある)の影響、ヨーロッパではホルツというドイツ文学者の影響を主要に取り上げている。そうして、二人の影響下に宮沢賢治の「心象スケッチ」はなされているという。また、宮沢賢治の擬音語の使用もホルツの影響があるのではないかと指摘されている。

 吉本さんの晩年だったと思うが、宮沢賢治はとてもすばやい速さで詩を書いていた、その修練をしたと思いますということを語っていた。書かれた作品自体からはわかりようがないと思われるから、吉本さんはどうやってそのことがわかったのかなとその時は疑問に思ったことがある。宮沢賢治の伝記的な事実に関わる本では、今までに『教師 宮沢賢治のしごと』(畑山 博 )、『兄のトランク』( 宮沢 清六 )、『宮沢賢治―素顔のわが友』(佐藤隆房)、『銀河鉄道の父』(門井慶喜)などを読んでいるが、そういう記述に出会ったことはなかった。ただし、それらの中に、宮沢賢治はよくひもをつけたペンを首からかけて手帳を持ち歩いていたということはあったように思う。

 しかし、本書の6 「スケッチ」によれば、宮沢賢治の早書きは研究者の間ではよく知られたことだったようだ。その背景には、宮沢賢治が戸外に出ると時、ひものついたシャープペンを首からさげて手帳などにすばやく書き付けていた様子が目撃されていて、その証言があったのだろう。それは、詩的な「スケッチ」とともに地質調査などの「スケッチ」でもあったのだろう。

 ホルツは、「徹底自然主義の作品としていちばんよく引用されるのは『パパ・ハムレット』であるが、場面を一秒ごとに描写するという「秒刻体」」(本書 P152)で表現している。宮沢賢治の蔵書や記述などからこのホルツをよく読み込んでいて影響も受けていたという。そこから以下のようにまとめられている。


 宮沢賢治はこれまで述べたように、自分の周囲に成起(せいき)することを、あらゆる生活の断片まで、秒刻体で描写することを志したのであるが、それを賢治は、日が輝き、あるいは月が照り、星が光り、花が咲き、草が萌え、風が吹くというふうに、エネルギーが交錯するところ、つまり山野を歩きまわりながら行った。その際賢治は紐のついたシャープペンシルを首から垂らして、ノートに電光石火の早わざでつぎからつぎへと書きとめた。野宿したときには焚火のあかりで、汽車の中では当時の暗い電灯の下で、憑かれたように刻々と描写した。主として外的世界の現象をいわば自然科学者が研究対象を観察して描写するように書き留めた。それが戸外でなくシャープペンシルも手帳もなくても、ほかの筆記用具で秒刻体で書き留めたであろうが、ただ人の目にとまらなかったのであろう。しかし戸外に出て賢治が生き返ったように筆記活動をしたのは、論者のいうように一つには稗貫郡一帯の地質調査でのフィールドワークの習性がそれをいっそううながしたのかもしれない。


 またくり返すことになるが、これまでの賢治の研究ではスケッチというのは、賢治が屋外に出て、山野を歩きまわりながら、外のもろもろのもの、つまり外象を、自然科学者が観察物の状態を細密に描写するように、何の修飾もなく、ノートに例のシャープペンシルで機関銃のような速さで書きつけたものを「スケッチ」と呼んでいた。しかしこれは秒刻みで、忠実に、細かく描写した密画のようなもので、スケッチではない。賢治もこれをスケッチとは呼ばなかったのではなかろうか。
 これに反して、心の中の現象、つまり、「心象」の方は内省によって直覚的に捉えて、これをスケッチした。しかしそのスケッチは、自分にはよく分かっても人には分からない場合があるので、元良心理学の方法、つまり比論、比喩によって描写する、ということになった。この場合は別に秒刻体を必要とはしなかった。これが賢治のいう「心象スケッチ」であると私は思う。もっとも、ここからここまでは外象の秒刻体描写、ここから先は「心象スケッチ」などとはっきり区別して詩を書くことなどはできないので、両方が混在しているのは当然のことであった。
 (『宮沢賢治とドイツ文学』P169-P170 植田敏郎)



 宮沢賢治の思想や「心象スケッチ」という形式の詩に、元良勇次郎とホルツというドイツ文学者が影響を与えたという本書の指摘は確からしく思われる。しかし、宮沢賢治という個の固有性が表現の世界に放ったものからすればそれらの影響は表層的だったような気がする。一方、法華経の場合の影響は宮沢賢治という個の固有性を宗教性として深く揺さぶっていたという意味では深層的なレベルまで影響を与えているように見える。

 このように人はこの世界を生きていく中で、誰もがこの世界に存在する他者や思想から様々な影響を受ける。また逆に、自分が知らない内にも他者に影響を与えてしまうことがある。そうして、それらの影響下でたとえ模倣がから入っていったとしても、それらは次第に自分の固有性と共振・共鳴して自分なりの色や匂いを放つようになる。したがって、作者によって表現された作品が全てだという見方もあるかもしれないが、固有の作者によって表現された作品を読み味わう上で、本書のように宮沢賢治をたどることは大きな助けとなるはずである。それがないと作品の読みを間違ったり読みが浅くなったりしがちだと思われる。

 作品は、時代性としての共通性を持ってはいるが、固有の作者がある固有のモチーフを込めて表現したものであるから、作品の固有性に出会うためにも作者についてよく知ることはその助けになるに違いない。そうして、他から受けた影響についても、それが作者にとって表層的か、中層的か、深層的かなどが吟味されなくてはならない。

 ところで、最後に付け加えておくと、早書きといえば、井原西鶴は若い頃俳句を1日に2万余句も詠んだということを読んだことがある。当時、そういう遊びのような部分もあったのだろう。ほんとうは、それぞれの作品に下って吟味してみるべきだが、一般的に言ってみると次のことが言えそうである。表現として見れば「秒刻体」のような宮沢賢治の早書きもこの井原西鶴の早詠みも、いくら修練を積んだとしても表現における落ち着いた集中という点から見て、表現的な時間が表出する心や精神にいい負荷を与えないような気がする。ただ、圧縮される表現的な時間のなかでよく考える余裕もない分、作者の無意識的な部分が込められるということはあるかもしれない。








 メモ2021.3.3 ― ヘーゲル『世界史の哲学講義』より


 人間の動物生との別れの段階

 植物や動物たちが自分を特別の存在であると自覚したりすることなく自然に溶け込んで生きているように、人間もまた何らかの理由から植物や動物たちとの別れに至ることがなかったなら、現在までのように自然やそこに生きる植物や動物たちの存在に〈気づき〉、自らをそのような存在たちや世界から〈分離〉された存在として〈自覚する〉には至らなかったろうと思われる。

 この何らかの理由から植物や動物たちや自然に気づいてしまった、すなわち、この世界内存在としての自分に気づいてしまったことが、植物や動物たちや自然との別れをもたらした。例えば、学校を卒業することによって仲の良かったグループがいったん壊れてしまいそれぞれが別の進路に進んでいく時、人はそのグループの世界を愛惜しつつこれは避けられないことで仕方のないことだと割り切っていくのだと思う。このような個の生涯において共通に訪れる大きな出来事、転機は、遙かな人間のはじまりの歴史の転機についても同様に類推できるのではないかと思う。人間の、人間としての気づきと植物や動物たちや自然との別れもまた、このようなものではなかったかと思う。そうして、このことが後のヘーゲルの言う〈精神〉にとっての大本の起源に当たるように思われる。

 わたしたちは、人類の歴史の遙かな起源辺りを探索する時は、想像力を駆使するほかない。ただし、近年遺伝子学が人類の足跡についてずいぶん貢献して不明の霧を払ったように、これからも人間の自然のさらなる深度での付き合いから出てくるものとして、そういうことはあり得るように思える。わたしたちの遙かな探索は手ぶらではなく、もうひとつありそうだ。起源は現在にまで保存されるのではないかということである。それを認めるならば、現在のわたしたちの有り様の探索が同時に起源の探索への一致とまでは言えなくても大きな手がかりにはなりそうである。

 現在は、今までになく主に犬や猫との付き合いが増えているように見える。そうした日頃の付き合いを重ねているとなんとなく犬や猫との心の交流のようなものが成り立っているように思える。もちろん、人間相互でもあるようにどういう考えからそんな行動をするのだろうかというこちらからの疑問やわからなさはある。しかし、長らく付き合いを重ねていると、なんとなく気持ちや考えのようなものが通じ合うということがあるように思われる。

 先日、映画『スター・ウォーズ』シリーズの完結編となる『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019)をテレビで観た。チューバッカも出ていた。ウーキー族の言葉を持っているらしいが、わたしたちには、吠え声や唸り声としか聞こえないが、他のメンバーとはそれでうまく通じ合っているように見えた。動物と人間の関係と言葉が違う人間同士の関係とは少し違うだろうが、似たようなところもあるような気がする。『奇跡のリンゴ』の木村さんが、自分はその外国語を知らないのに外国人と十分に意思疎通ができたとどこかに書き留めていた。当然相手の顔の表情を読んだり身ぶり手ぶりもあったのかもしれない。そのようなことをくり返しながら、動物とも少しわかり合えるということがありそうだ。うちの一方のネコは最初家の中で生活させて、時々は長目のひもにつないで外に出していた。二年くらいそうだった。しかし、三、四度だったか、ひもを引きちぎって逃げたものだから、家の中から外に自由に出入りさせるようになった。そういうこともあって、そのネコは「おそと」という言葉に敏感に反応しそれが何を指しているかわかっているようである。

 昔、『新編世界むかし話集』(山室静 編著 社会思想社)でだったろうか、「まだ動物が人間の言葉を話していた頃」というような話の出だしの定型に出会ったことがある。ずっと後から探してみたが見つからなかった。そのことをまたネットで検索していたら、次のような講演の文章に出会った。


 人類の歴史を二百万年としますと、もっとも、現在の研究では五百万年と考えられていますが、人が農耕あるいは牧畜という生産経済を始めたのが一万年前です。したがって、人類の歴史の99.5%は狩猟採集社会であったということになります。


 そこで、次に、狩猟採集社会というものを私たちが見る時にどのような視点を持ち、そこで何がわかるのだろうかという問題になります。これは人類あるいは人間を 知ろうとする時の理論と方法論ということです。そこで、 はじめに初原的同一性の概念についてお話しし ます。
 カナダのアサパスカンのところで私が生活した時に、 興味深い体験をしました。彼らはトナカイの狩猟民です。そして狩猟の前に夢を見ます。そこで彼らは動物と話をします。動物というのは、動物の霊です。動物と交渉し、動物から自らが狩猟されることに対して同意を得ます。
その夢はインコンゼといわれます。これは夢と訳してもいいし、あるいは呪術、魔法と考えてもいい。インコンゼは秘密です。各狩人と動物との間だけの関係です。狩人が動物の同意をとりつけ、実際の狩猟に出かけるわけです。狩人は動物の踏み跡をたどり、あるいは動物が枝を噛んだ噛み跡を見つける。それは動物が自分の居場所を教えているというように考えます。


 つまり、私たちが狩猟という時、それは狩人が動物を殺すという意味です。客観的にはその通りです。しかし、 狩人の頭の中では、狩猟というのは動物と狩人との間の霊的な交渉です。動物が狩られることを承諾する。動物の方から狩人のところにやってくる。狩猟そのものが霊的な活動であるということさえできます。これは、1900 年代の初めに、当時のカナダ・エスキモーの探検を行なった記録に、彼ら自身が狩猟を精神的なものであると考えているという記録があります。このように見ると、狩猟というものは生態的であると同時に、精神的で霊的な活動であると言っていいかもしれません。私はそのように考えました。
さらに、そこから、私は人間と動物との関係を対立するものとして二つに分けるという見方と同時に、同一のものであるという見方もあるということに気づきました。 つまり、狩人と動物が対峙し、一方が他方を殺すその瞬間、その場は動物の霊と人間の霊とが交渉する場であり、そこでは、動物と人間という区別はなく、一つの世界が形成されているのです。
 彼らが語る多くの神話は、「昔、動物は人間の言葉を話した」と始まります。例えば、リスは本当は熊になりたかった。だけど熊がそれを許さなかった。悲しんだリスは焚き火のそばで丸くなって寝てしまった。その間に、焚き火の火で背中が少し焦げて、リスは今のように茶色になった。そして、熊になることをあきらめたリスは木のこずえに登り、現在では子供たちと鳴きながら楽しく遊んでいると語られます。そういう神話を見てみると、彼らはどうも動物と人間とは昔から別々のものだとは考えていない。もともとは人間の言葉を話していたと語っています。
 なぜそのような思考になるのかと考えたら、どうも、狩猟生活というものを通して、彼らは動物と人間が本当には別々のものではないということを常に体験しているのではないかと考えたわけです。これが、同一性ということです。物事を分類しないということです。もっとも、同一性を体験するにもかかわらず、彼らは狩猟民として生活しなければなりません。動物を殺さなければならないわけです。そこでは、動物と人間とは違うという前提がなければならない。これは、論理の世界です。類別しなければいけない。前者が同一性であれば、後者は二元性ということになります。この二元性と同一性とは矛盾します。ものの見方として全く逆の見方です。
 しかし、矛盾する二つの見方が、アサパスカンの中に併存していると見たわけです。そして、彼らがその矛盾を論理的に解消しようとする努力が、あの神話だろうと 考えました。先ほどの神話にもう一度戻りますと、「最初は動物は人間の言葉を話した」と語られる。しかし、「現在は動物は人間の言葉を話さない」という無言の語りが その背後にある。しかしまた、この神話は、このように現在は動物と人間の違いがあるけれど、本来的には同じであったということを語っていると解釈することもできます。私は彼らのこの考え方を初原的同一性の概念と名づけました。つまり、人間と動物とは最初は一緒なんだ、だけど今は違う、あるいは、今は違うが最初は同じであった、という考えです。これが狩猟民における思考の基礎ではないかと私は考えたわけです。
 (「北方民族における狩猟の象徴的意味」 講師 北海道大学文学研究科教授 煎本孝)
 ※これはいつの講演かわからないが、記されている註の中の年号からすれば、1997年以降のものであろう。


 この講演者の理解の仕方は別にして、ここで語られている太古からの心性の描写からわたしが言えるのは次のようなことである。
 この動物を狩ることを神話的な理解として考えていたのは、例えばアイヌのイヨマンテ(熊送り)と同一のものである。そうして、それらが現在からは神話的な理解に見えてしまうこの神と動物と人間との物語は、いろんな矛盾は抱えてはいるが、わたしたちの現在の社会の民主主義や自由や平等の考え方と同様に自然なものとして当時の人々は感じ考えていただろうと思われる。こうした神話的な物語や「昔、動物は人間の言葉を話した」頃という説話の出だしなどは、適当に思いついた無根拠なものではなく、人間の心の深層に保存されてきたもので、遙かな動物と人間との別れの段階の名残ではないかとわたしには思われる。

 ところで、人間が、動物との別れを成し、動物生を抜け出た後の人間的な〈精神〉というものを生み出してしまった人間的段階からはじまるヘーゲルの思想は、動物について次のように述べている。


 さらに、動物崇拝について述べなければならない。エジプト人にとっての一般的な非有機的自然という一般的な基礎については、われわれはあれこれ論じてきた。その他に最も注目すべきなのは、エジプト人が非有機的自然の崇拝にとどまることなく、むしろ動物の生命を何か神的なものとして崇拝するところにまで移行している、ということである。 ・・・中略・・・ そして、ここにわれわれが見るのは、次のようなことである。すなわち、エジプト人には精神の自覚した存在という思想が自らには閉ざされたままであって、そうしたエジプト人は自由で精神的な魂と同調するには至っておらず、むしろ生命のうちに閉じ込められたままにとどまっている〔動物の〕魂と同調しているに過ぎない、ということである。というのも、エジプト人はまさに、単なる生命のうちに閉じ込められている魂を基にして、象徴的に空想しているにすぎないからである。こうして、われわれは動物の生命を崇拝するこうしたやり方について考察しなければならない。
 われわれがこうしたことを理解しようとする場合、われわれはそもそも、われわれ自身の次のような習慣を忘れなければならない。すなわち、その習慣とは、より高いものを考え、より高いものを考察する際、このより高いものを思想とか表象を基礎にして求めようとし、感覚的なものや現在的なものや現実的なものには目を閉ざしてしまう、ということである。感覚的な直観のもとにとどまっているエジプト人は、生命あるもの、動物の本能、その本能から行動するこの驚嘆すべきものを理解し、こうしたものに従ってきた。このような動物的な利口さは、生命あるものが自ら生きるためのものであるが、われわれにとっては
不可解なものと呼ぶこともできよう。というのも、人間は動物を観察して、その中に自分を入れ込んで想像することはできるかもしれないが、[それでも]動物の魂の中でそれがどのように見えているかなど、人間は思い浮かべることができないからである。犬や猫の本性の中に入り込んで空想することなど、人間にはうまくできない。動物は人間にとって何か疎遠なもの、不可解なものにとどまっているのである。
 ところで、われわれが神的なものを、より高いものにして不可解なものと把握しようとすると、不可解なものがわれわれにとって生じる
二通りの経路があることになる。その第一は、動物のうちにある生命性である。[確かに]われわれ自身も生命あるものではあるが、しかしわれわれの生命性は精神性によって規定づけられている。第二は、表象や反省や思想という基礎である。近代において不可解なものを神と名づけることが特に流行したが、そのような不可解なものにぶつかるのは、存在するあらゆるものについて、その存在するものの基礎を思想をもって探求するかぎりでのことである。まずは存在するものは自然的なものの生命性であり、それから反省の側面が生じて、そこに不可解なものがわれわれに現れることになる。そうして、われわれはこうした不可解なものを、われわれより以上の、より高いものとして規定するが、そこに生じる問いは、その不可解なものが、第一の場合か第二の場合かはともかく、より高い権利をもって、どこでわれわれに現れるのか、ということである。不可解なものが自然的なものの側面から、つまり自然の領域でわれわれに現れる権利をより以上にもっているのは、明らかに第一の[経路]である。精神は自分のことを理解し、自分のもとにあって自由なものだからである。ギリシア人は精神を解放して精神の本質を理解し、また神の本質がどのように規定されているのかを知る見地に立っており、そしてさらにキリスト教徒は神が何であるかを知っている。このようなキリスト教徒にとって、またギリシア人の慧眼にとって、不可解さといったものは精神の側では消え去って、精神のない[自然の]外面的なものの側に逃げ去っており、精神のない非精神的なものの側になおもとどまっているだけである。ところで、われわれが不可解さをより高いものとして規定するなら、エジプト人にとって抽象的なものは彼らにとっての彼岸であり、謎めいたものが動物生命のうちにあった場合には、われわれはエジプト人にその権利を認めなければならない。そして、そうであった場合には、われわれが不可解なものの側面を精神のうちに保持していると今[考えている]以上に、エジプト人は動物生命のうちに謎めいたものをすでに見出していたという、より大きな権利を有していることになる。
 エジプト人にとって真なるものは、いまだ課題であり、いまだ謎めいたものであった。そして、確かにエジプト人には謎めいたものがあったが、それは動物を直観するという形で規定されていた。真なるものをいずれに関しても不可解なものとしてしか認識しないエジプト人は、[精神ではなく]自然的なものの側面に向かわざるをえない。というのも、精神はおのずと明らかで自由であって、精神[自身]に自らを啓示するからである。このことは、自分のうちに疎遠なものを何ももたない、ということでもある。しかし、自然は[自分を]隠すものである。[そこで]エジプト人は、その思想の不自由さの中で不可解なものと格闘しなければならず、そして不可解なものを動物生命の自然性のうちに見出すことになる。動物にとらわれたままで、エジプト人はこうした不可解なものを自分たちの彼岸として、つまりより高いものとして規定したのであり、精神にとってのこうした彼岸が、単なる生命、すなわち精神なきものとしての動物的なものなのである。こうして、以上のことがエジプト人のもとに見出される際立った側面である。
 (『同上』P415-P419「本論 世界史の行程」第一部 東洋世界 第四章 エジプト)



 ここで、ヘーゲル自身は、「生命のうちに閉じ込められたままにとどまっている〔動物の〕魂と同調しているに過ぎない」エジプト人の精神の段階から隔絶した、「自由で精神的な魂と同調する」ギリシャ以降の人間的精神の段階に属していて、「感覚的な直観のもとにとどまっているエジプト人」を不可解なものと見なしている。ギリシャ以降の人間的精神の段階にもエジプト的な精神の段階は潜在していたのであろうが、もはや理解が実感としては及ばないような隔絶があったのだろう。その隔絶から「不可解なもの」という実感が表れている。

 なぜ動物のうちにある生命性が至高のものや神的なものとして受けとめられたか。それは動物もそこに含まれる大いなる自然は、ちっぽけな子どものような自分たち人間存在に比べて猛威と慈愛を併せ持った力としての母なるものであったからである。そうして、その大いなる自然は現在のわたしたちの抽象的な自然の把握と違って、川や熊や白鳥などなどの具体的なものの内に大いなるもの、神を感じ取ったのだと思われる。だから、太古の人々にとって、大いなる自然はいわば具象的抽象性として捉えられていた。例えば、川の「神性」は、人間に具体的に恵みや氾濫や洪水という力を見せる存在として感じ取られていたのである。そうして、その次の人間的精神の段階として、ヨーロッパ的な抽象性としての神が登場するのである。

 ヘーゲルが叙述している「われわれが神的なものを、より高いものにして不可解なものと把握しようとすると、不可解なものがわれわれにとって生じる二通りの経路があることになる」ということの背後にあるのは、上記のような大いなる自然と人間との本質的な関係把握から来ている。人間存在の卑小さの自覚が、神的なものや高いものを表出する根底にあるものである。その卑小さの自覚は、人間は、自分に、世界に、目覚めてみたらひとりぼっちだという感情も抱いたこととも関わっているのかもしれない。そこから、人間界が踏み固められ、高度化していく。

 動物生との別れを遂げた人間は、こうした世界内存在としての実感から、大いなる自然と人間との本質的な関係把握をなし、この世界に自分たち人間以上の存在としてあらゆるものの内に神々を見出していった。そこからさらに、ヨーロッパではギリシア以降の人間的精神は、人間界とその外の世界にまたがるものとしてのキリスト教的な神を生み出していった。前者に対して後者は、人間的精神が踏みならされ、この人間界が十分に発達した文明段階に対応している。しかし、両者ともに、この人間界とそれを取り巻く世界(大いなる自然)とのつながりの意識は保存されている。したがって、ここでヘーゲルの言う「二通りの経路」というのは、歴史の段階的なもの、時間的なものの違いを指していることになる。

 現在でもそうだが、世界の現在の中にいろんな歴史的な段階のものがいっしょに存在している。そうしてそれぞれが様々な問題を抱えていたとしても、それぞれがそれ自体で存在理由を持って現在にまで生きのびてきている。ここでのヘーゲルにも内心では、自らの人間的精神というものの有り様、発展過程観から、エジプト人に対して(きみたち遅れているなあ)という思いがあるかもしれない。しかし現在でも、例えばアメリカの政権や評論家が自分たちの世界の感じ考え思想で以てアフガニスタンやイラクのそれらを断罪できないのと同様に、それぞれの地域自体が自ら解きほぐしていくほかない問題であることは明らかである。

 ヘーゲルは、動物生に対する人間的〈精神〉の自立と推移から、・・・エジプト的段階やギリシア的段階というふうに人間的精神の段階を叙述している。たぶん、ここではそれ以前の人間的な段階を大ざっぱに考えてみたということになるだろうか。









 覚書2021.4.5 ―わたしとこの世界と生・死と


1.〈わたし〉が《この世界》からいなくなっても〈世界〉は続いていくように見える。現在までの〈知識〉からや何人かの〈他者〉の死の経験からもそう言えそうだ。

2.〈わたし〉が死んだら《この世界》は終わるように見える。《この世界》とは、わたしにとっての世界、わたしが存在する世界である。

3.代々受け継いでいく世代や祖先とかを導入しないで考えてみると、〈わたし〉にとって固有の色合いを持った《この世界》はわたしの死とともに消滅する。しかし、わたしの関わりのない〈世界〉は続いていくのだろう。

4.人の死は、この人間界から全宇宙(自然)の場への移行であり、心身を持つ生命の総体性から物質性への人の形態の変化であり、現在の見方では自然自体に帰ることになる。

5.一般に死を身近に意識する時期がある。青年期と老年期である。そのふたつの時期は、人間界における人の有り様として不安定期に属している。前者は慌ただしい人間の社会的活動に入り込む以前であり、後者はそこから抜け出す時期である。いずれも、慌ただしい社会的日常生活の重力場からは浮遊しているような不安定さや不安が、死や人間界を超えたものを意識に引き寄せさせてしまうからだろう。

6.人は死というものを内包した存在であるように見えるから、いつかは誰もが死を感じ考えざるを得ないのは必然であろう。しかし、わたしの死は、〈わたし〉の《この世界》からの切断であり、不可逆の越境であり、言葉を携える《この世界》の〈わたし〉は消失して、もはや触れることのできない絶対的に隔絶した世界のものである。ということは、死を突き詰めて考えたり、死後の世界を考えても仕方がないということになる。

7.以前、『子どもでもわかる世界論のための素描 ― 宇宙・大いなる自然・人間界論』の「4.世界内存在としての人間の有り様 1」で、次のように述べたことがある。


 この世界内存在としての人間の有り様は、言葉としての人間という面から眺めれば、人間も自然の一部ですから、いわば〈内省する自然〉とでも言うほかない存在です。もちろん、わたしたち人間が、自分を自然などの他から区別したり気づきというものを獲得することによって、例えば自然というものを〈自然〉と名付けましたが、〈自然〉というものは本来人間の善や悪も超えた、つまり人間界を超えたものです。そして〈自然〉というのは、黙する自体存在とでも呼ぶべきもののように存在しています。しかし、その渦中にあって、小さな人間という存在は、言葉というものを駆動する〈内省する自然〉とでも言うほかない存在という面から眺めれば、逸脱した〈自然〉の存在のように見えることも確かです。


 〈人間〉という存在は〈自然〉の一部でありつつ、〈内省する自然〉と呼ぶことができる性質を持っている。これをさらに突き進めると、〈人間〉という存在は、黙する〈宇宙〉(大いなる自然)の側から眺めたら、黙する〈宇宙〉の内省に相当するのではないか。このことは、現在の自然科学的な世界観からは、逸脱に見えるかもしれないが、どうしてもそう言ってみたい気がする。そうでないなら、現在の自然科学的な世界観からあえて言ってみれば〈人間〉という存在も大いなる無意味の存在、あるいは名づけようもないそのもの自体ということになるだろう。もちろん、それでも構わないのだけど、わたしたち人間が、人間に関わることだけではなく動植物などこの世界の総体に対して絶えず理想の有り様を追い求める存在である以上、そのような人間の有り様は黙する〈宇宙〉(大いなる自然)の内省や意志のようなものと見なすことも可能だと思う。しかし、これは微妙なところで、これ以外にも恣意的な様々な捉え方が可能に見える。

 例えば、宇宙への本格的な上陸を果たしていない現在のところでは太陽系や銀河系が消滅すればわたしたち人間の存在もあり得ないというように、黙する〈宇宙〉(大いなる自然)との関わりでは人間は絶対的な受動性の存在である。そうして、人間は他の動物たちとは違って営々と人間界を高度なものに築き上げてきた。この世界の成り立ちについても〈宇宙〉(大いなる自然)と人間との苛酷と慈愛の関わり合いの物語として初めの神話が生みだされた。遥か人間のはじまりから眺めてみると人間界の諸活動を底流してきているのは、〈意味〉と〈価値〉というイメージや概念のうねりのように感じられる。黙する〈宇宙〉(大いなる自然)自体は、〈意味〉や〈価値〉というものとは無縁なそのもの自体であろう。しかし、人間もまた、黙する〈宇宙〉(大いなる自然)の一部の存在である以上、人間界の諸活動は、〈内省する自然〉であり、黙する〈宇宙〉(大いなる自然)の内省や意志のようなものを代行していると見なしてもいいように思う。

 わたしにはよくはわからないが仏教や親鸞の唱えた〈阿弥陀如来(阿弥陀仏)〉は、人間界を超えた存在というイメージがする。先に述べた黙する〈宇宙〉の内省ということは、仏教や親鸞の語る〈阿弥陀如来(阿弥陀仏)〉という存在と対応しているように感じる。それもまた、人間の生みだした初めの神話を受け継ぐ神話ということができそうだと思う。









 メモ2021.5.17 ― 吉野裕子のこと


 松本孝幸さんのホームページ『読書倶楽部通信』の、〔たかちゃん、「インディアンの言葉」を読む。450・マタギと「世界遺産」〕で、『マタギ奇談』(工藤隆雄 ヤマケイ文庫 2020.7.26)に出会い、読んで見た。そこから二個所取りだしてみる。


① 狩猟する山の民であるマタギにとって「忌み数」としての十二。

 山の神の別名を十二様といい、それは子どもが十二人いたからだとか、一年に十二人子どもを産むからだとかいわれているが、詳しくはわからない。
 (『マタギ奇談』P163)




 吉川は耳を疑った。ブナ林にチェーンソーを持って入ったときだ。どこからともなく声が聞こえてきたのだ。最初は気のせいかと思ったが、しかし、今度ははっきりと聞こえた。「次は誰が伐られるのだろうか」とか、「今日は俺の番かな、嫌だな」などという声である。念のため、後ろから歩いてくる仕事仲間を見ると、彼らはチェーンソーなど重い伐採機材を担ぎながら一様に無言で歩いてくる。ラジオを鳴らしている者もいない。誰も喋っていなかったのである。それを見て吉川は、ますます、チェーンソーを担いで歩いている俺たちを見て、「怖がっているのだ、ほかでもないブナたちが」と思った。
  (『同上』P182)



 まず、この②の話は、現在では、童話的な世界では成り立つかもしれないが、空耳の類いとして了解されるのが主流だろう。ところが、フォレスト・カーターの『リトル・トリー』に出てくる主人公のインディアンの祖父母には、木の心がわかったり木と気持ちや言葉を交わすということができたのではないかと思われる。つまり、太古から現在までを通して、「こうだ」と断定するのは難しい。現在では、「気のせい」や空耳としか見なされないが、そのような感じ方が生きていた時代があったはずである。「気のせいか」と思う現代は、木の言葉がわかると思われた古代からは遙か遠く来てしまったのである。ただ、個々に書き留められているような形で意識に残存し続けてきたのだろう。また、死にかけた人が夢枕に立ったとかいうのもその類いだと思える。現在まで積み重ねられてきた人間の認識のフィルターを通すと、木も人間の原始感覚とも言うべきもののように感じ考えているような部分もあり得るのかもしれないが、木自体が人間と同じ水準での感覚や判断や言葉を持っているとは考えがたい。したがって、これは遙か昔に人間が長らく続いた濃密な自然との関係の世界で生みだした共感能力の表れ、そこからの把握と見なすほかない。

 次に、①は、山の神の別名を十二様という理由がはっきりしなくなっている現状が語られている。こういうことは、柳田国男を読んでいても何度か出会ったことがある。祭りでも年中行事でも最初のうちはあることの理由ははっきりしていただろうが、時とともにそれがなぜそうするのかが不明になっていく。
 このことから思い出したことがある。吉野裕子がなぜ山の神を十二様とも呼ぶのかについて触れていたことを思い出した。最近、縄文土器にも描かれているという蛇、その蛇神の考察や古代の人々の感じ考えへの捉え方にとても感心して以下のものを読んで見た。

1.『日本古代呪術 ― 陰陽五行と日本原始信仰』 (講談社学術文庫)
2.『山の神 ― 易・五行と日本の原始蛇信仰』 (講談社学術文庫)
3.『日本人の死生観 ― 蛇 転生する祖先神』 (河出文庫)
4.『蛇 』(講談社学術文庫)
5.『吉野裕子全集〈1〉』 (人文書院)
6.『天皇の祭り』 (講談社学術文庫)

 上記の『山の神 ― 易・五行と日本の原始蛇信仰』 の第二章の六「山の神の本質」において、山の神をなぜ十二様とも呼ぶかについて触れられている。


 山の神は「十二山の神」という別称があり、略して「十二様」ともいわれる。
 この呼称の背後には、
 (1) 山の神には蛇と猪(亥)があること
 (2) その区別をつけておかなければならない
という一種の先人たちの心の用意がうかがわれる。
 もし山の神が蛇でも猪でも一向にかまわないならば、ことさらこのように十二の数をつけて呼ぶ必要はなく、ただの山の神で結構なはずであるのに、「十二山の神」とか、「十二様」と限定するのは、先人たちの心中に蛇との違いを判然とさせておかねばならないという意識が強く働いていた証拠である。

 (P133)


 と述べて、資料等も挙げながら自らの予測したイメージへとていねいに考察を進めている。結論的に言えば、山の神は、わが国の古代からの女性神である「蛇神」であり、そこに中国の陰陽五行思想が輸入され十二支の十二番目の亥(猪)も山の神と見なされるようになった。つまり、山の神が「蛇神」と「猪」に二重化されたというのである。どちらを指すかを明確にするために、山の神を「猪」と見なすときには十二支の十二番に当たるから「十二様」と呼んだということである。この他にも、なぜ妻のことを「山の神」と呼ぶかや山の神がなぜオコゼを好むかなどよく知られていてはっきり理由がわからないことも解き明かしている。これと同様の考察は、上記の他の本でもなされている。それらは考察の軸の一貫性や統一性とともにわたしには新鮮な印象を与えた。

 しかし一方で、吉野裕子は、中国から輸入された陰陽五行思想のわが国への影響を割りと大きなものと見なしているように思われる。『天皇の祭り』を読むと、天皇の大嘗祭や伊勢神宮の祭りにはその中国由来の陰陽五行思想がいろいろと影響を与えていることが示されている。上記の読んだ本の中では、この本が一番退屈であった。そのせいもあり割りと流し読みのようにして読んだ。

 中国から輸入された陰陽五行思想は、わたしたち民衆の世界の祭りなどにも影響を与えているようだが、本質は、天皇や知識上層が天皇の祭りや伊勢神宮の祭りなどに模倣・応用したものがじわじわ民衆の世界の祭りの世界にも影響を与えたものだろうと推測される。それは決して民衆の世界が内発的なモチーフで学び応用してものではなかったはずである。この問題は、先の敗戦後の欧米化(民主化)の大波の政治上層や知識上層の受けとめ方や大衆世界への浸透の仕方や影響の受け方と同型であろうと思う。吉野裕子は、中国から輸入された陰陽五行思想によってわが国の不明なことをいろいろとていねいな考察によって明らかにしている一方で、この点で、陰陽五行思想の影響を重くみすぎているように思われる。

 わたしは、柳田国男全集(ちくま文庫)をほとんど読んできて、柳田国男が中国から輸入された陰陽五行思想の影響に触れた文章に出会った記憶がない。ということは、柳田もまたその模倣・応用的な影響を本質的なものではない、そんなに重要ではないと見なしていたのではなかろうか。

 ところで、わたしはその本は読んではいないが、政治学者の中島岳志の『自民党 価値とリスクのマトリクス』(2019年5月)は、自民党の主だった政治家を分析したものである。ネットで誰かについて論じたものをちらっと読んだ覚えがある。

 まず、わたしのもっとも深みからの視線では、例えば安藤昌益の根本思想のように、政治、特に自民党政治は、否定の対象以外ではない。すなわち、論じるに値しない対象としてある。しかし、わたしもこの社会の中の小社会では他者同様の相対性を生きる者であり、そこでの自分の日々の振る舞いではほめられたものではないなという部分もありいい加減さも含むものであり、そんな相対性を自覚するとき、わたしの表層の視線では、少しでも政治の有り様を白日の下に晒すという意味でも、自民党の主だった政治家の分析するのも大いに意味があることになる。わたしにはそんなことをする気はないが、特に、政治学者であれば、どんなにくだらない政治であったとしても、政治の具体性や力学がある程度実感としてわかるようなイメージを獲得することは大事なことだと思う。理想の未来性は、そんなくだらない政治を潜り抜ける、あるいは突き抜けるほかないからである。

 このことを、先の話につなげれば、中国から輸入された陰陽五行思想の思想としての民衆世界への影響の重要さは大したことはないとしても、吉野裕子が、その影響の具体性を白日の下に晒そうとしてきたことは神秘性などをはぎ取る意味でも貴重なことだと思う。



 
(追記2021.5.24)

 例えば、吉野裕子の問題点は、次のような言葉から読み取れると思う。
 それは、日本社会の構造、すなわち政治権力や知識上層と民衆世界との乖離を繰り込んでいないように見える。中国からの輸入思想の易や陰陽五行思想の日本社会への浸透を断層や屈折などがないリニアーなものと捉えているように見える。


1.
「易」は日本に招来されてから千五百年間にわたり、物心両面において日本人の生活の基準とされ、その理法は当然大嘗祭の中においてこそ、もっともよく生かされているに相違ないのである。
「易」の宇宙原理探求の方法は、象・数・理、つまり易においては一切の森羅万象を数に還元し、それによって理を究めてゆくというのである。
 したがって、大嘗祭におけるいくつかの「数」の背後に隠されているものは易の哲学で、その数の解明によって、この大祭の意図するところも改めて明確に浮かび出てくる。
 (『天皇の祭り ― 大嘗祭=天皇即位式の構造』P216-P217 吉野裕子 講談社学術文庫)



2.
 約千五百年にわたって日本人の生活の基準となってきたものは、古代中国の思想・哲学・倫理であるが、その根幹にあるものは、易、陰陽五行、および古代天文学と、それらに深く結びついている道教である。古代中国天文学は、北極星を宇宙の中心とする結果、宇宙の中枢は、方位では北、五行では水、時間では冬となる。易の真理探究法は万象を数に還元し、推理することにあるが、この場合、水の数は一と六である。この一と六が大嘗祭の最重要な供饌、の儀の中に執られていることは本文中に記述したとおりで、日本の神祭は唯物的な面が非常に多い。・・・中略・・・
 北とか冬とかが日本人の心情に強く訴えるのは、北極星を宇宙の中心とする中国哲学、思想の影響を多分に受けている唯物的な信仰心によるものであろう。
 (『同上』後記 P290)




 (追記2021.6.25)

 吉野裕子が「日本社会の構造、すなわち政治権力や知識上層と民衆世界との乖離を繰り込んでいないように見える」とわたしが述べた(追記2021.5.24)は、訂正を要しないが、吉野裕子が政治権力や知識上層と民衆世界との乖離を意味する表現をしている個所に出会った。次の部分である。


 もちろん、昔の町人や農村、山村の人々などが、中国から渡来した陰陽五行のこのような法則を知っていたとはとうてい思われません。
 おそらく、当時の知識層であった社家、寺僧、修験などから、理由などは説明されず、ただ「こういうときには、こうするものだ」と教え込まれていたのでしょう。
 (『カミナリ様は、なぜヘソをねらうのか? ― 暮らしに息づく「陰陽五行」の秘密』P50-P51 吉野裕子 サンマーク文庫)










  時代劇と宮沢賢治の「猫の事務所」


 しばらく前からテレビでやっている『暴れん坊将軍』や『長七郎天下ご免!』を観はじめて、だいぶんそれらの時代劇に慣れ親しんだ。もちろん、観ているわたしの深みには批評的な視線や感受を持っているのだが、それは置いても観る者を楽しませる作りになっているなと感心する。観ていると次第にドラマの世界や登場人物たちになじんでいく。

 ケーブルテレビを契約していて時代劇専門チャンネルを観ることができるので、最近では、そのチャンネルの時代劇もいくつか選んで観ている。そうではない作品もあるが、貴人や権力を持っている者が社会に横行する悪行を成敗するという物語の構成が目立つ。これは、わが国の大衆の政治意識や社会意識の有り様と対応する物語の構成や表現である。

 例えば、『水戸黄門』も『暴れん坊将軍』も、将軍や将軍に近い存在が、幕府の政治・行政機構とは直接関わりなく、私的に巷の悪行を裁くという物語になっている。はっきりと善と悪に分離された物語世界で、こういう貴人(ヒーロー)が悪をやっつけるということに民衆が声援を送ったり拍手喝采するのはわかるような気がする。また、藤田まことが演じる「必殺仕事人」シリーズも昔観たことがある。これは、この社会で悲劇に死んだ者の代わりにお金をもらって悪行を成した者を暗殺するという裏稼業の話であった。藤田まことが演じる中村主水の表稼業は少しいい加減な同心であり、家庭では婿養子で嫁や姑に軽くあしらわれている。この表と裏の二重性を生きていることは誰しもそんな面があるかなと思わせるものがある。

 わたしたちの生活世界では、家族や人間関係や仕事やあるいは上層から下りてくる政治などで問題がすっきりと解決するということはほとんどない。だからこそ、貴人や裏家業の者たちが問題をすっきりと解決するということはカタルシスになるのだろう。裏を返せば、物語はこの社会の生き難さを浮上させている。

 そんな善悪二元のドラマばかりではない。最近NHKBSのBS時代劇としてやっていた『小吉の女房2』はいい感じの作りだったと思う。勝海舟の父親小吉(古田新太)とその妻(沢口靖子)と小吉の知り合いたちが醸し出すドラマの世界のふんい気が何とも言えず良かった。これには、俳優たちの個性の影響も大きいなと思えた。

 ところで、宮沢賢治に「猫の事務所」という短い童話がある。その猫の第六事務所は猫の歴史と地理をしらべるところで、例えば旅をするため訪れてきた猫には案内をする。猫の事務所には、すべて猫ではあるが事務長と四人の書記がいる。物語の内容は、書記の一人の竈猫(かまねこ)が病気をして休んだ後に事務所に出たら他の書記たちから無視されたりいじめられたりするという話である。

 この童話の末尾は、次のようになっている。


 そしておひるになりました。かま猫は、持つて来た弁当も喰べず、じつと膝に手を置いてうつむいて居りました。
 たうとうひるすぎの一時から、かま猫はしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたりまた泣きだしたりしたのです。
 それでもみんなはそんなこと、一向知らないといふやうに面白さうに仕事をしてゐました。
 その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向ふにいかめしい獅子の金いろの頭が見えました。
 獅子は不審さうに、しばらく中を見てゐましたが、いきなり戸口を叩(たた)いてはひつて来ました。猫どもの愕(おど)ろきやうといつたらありません。うろうろうろうろそこらをあるきまはるだけです。かま猫だけが泣くのをやめて、まつすぐに立ちました。
 獅子が大きなしつかりした声で云ひました。
「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要(い)つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる」
 かうして事務所は廃止になりました。
 ぼくは半分獅子に同感です。
 (「猫の事務所……ある小さな官衙に関する幻想……」宮沢賢治 青空文庫)


 ここでは、唐突に獅子が登場して、おそらく事務所内のいじめ問題への対処として「猫の事務所」を解散させる。これ以前に獅子は登場していないし、獅子についての説明もない。しかし、この獅子は上の時代劇の話で言えば貴人に相当する。同じ動物といっても、獅子(ライオン)は「百獣の王」と呼ばれもする。そんな動物界で頂点に立つものとして獅子は見なされている。事務所の猫たちは獅子の登場を驚き恐れているように描写されていることからもそれは明らかだろう。だから、獅子は「猫の事務所」を解散させることができたのである。この獅子の取った行動は、上の時代劇の話の貴人たちによる社会の問題の解決に対応している。
 
 最後に、語り手が読者に語りかけるように感想を付け加えているが、これは作者の思いでもあると見なしてよいと思う。この部分は、「猫の事務所〔初期形〕」(『新修 宮沢賢治全集 第十三巻』筑摩書房)では次のようになっている。 まず、話の流れの中で、


みなさん私は釜猫に同情します。

みなさん。私は釜猫に同情します。

けれども釜猫は全く可哀さうです。



が三箇所に挿入されている。そして、話の末尾では、「猫の事務所」の「ぼくは半分獅子に同感です。」という一文とは違って、次のようになっている。


 釜猫はほんたうにかあいさうです。
 それから三毛猫もほんたうにかあいさうです。
 虎猫も実に気の毒です。
 白猫も大へんあはれです。
 事務長の黒猫もほんたうにかあいさうです。
 立派な頭を有(も)った獅子も実に気の毒です。
 みんなみんなあはれです。かあいさうです。
 かあいさう、かあいさう。



 語り手が聴衆(読者)に語りかけるのは、たぶんわが国の語りの伝統の流れからきていると思われる。そして、この場合の語り手の感想は、作者の感想と同じと見なせると思う。「猫の事務所」と「猫の事務所〔初期形〕」では、その点では同じである。しかし、前者は、このいじめ問題は猫の事務所内ではどうしようもなく解決しがたいから獅子の判断と行動はやむを得ないが、現場は猫の事務所であり、当事者は猫たちであるから、本来的には猫たち自身で解決すべきことである、という作者の思いから「半分」獅子に同感ですとなったのだろう。後者の「猫の事務所〔初期形〕」は、「かあいさう」や「あはれ」がくり返されていて冗長な印象を与える。そういうことから、推敲された「猫の事務所」では、最後にひと言「ぼくは半分獅子に同感です。」になったものと思う。

 しかし、「猫の事務所〔初期形〕」と「猫の事務所」の作者(語り手)の感想の違いは、それだけではなさそうだ。「猫の事務所〔初期形〕」の方は、センチメンタルな装いをはぎ取ればお経のようにも感じられる。いわば、人間界を超出した仏教的な世界から作者は物語世界を眺めているように見える。一方、「猫の事務所」の方では作者はいじめや争いが絶えないこの人間世界内から物語世界を眺めているように見える。ただ、物語世界内でなんとかいじめの問題の解を与えたいというモチーフだけは両者で同一だと思われる。









 メモ2021.7.9 ― 明治期の話に古代を読む


 ネットで偶然「青空文庫」の高村光雲『幕末維新懐古談』に出会った。高村光雲は、高村光太郎の父親である。全文載っているかどうかわからなかったので岩波文庫で出ている『幕末維新懐古談』を取り寄せた。小見出しで見る限り「青空文庫」に全文載っているようだ。当時の時代状況を少しは知ることができるかなと思って読み始めた。「初めて博覧会の開かれた当時のことなど」には次のように語られている。


 堀田原から従前通り私は相更(あいかわ)らず師匠の家へ通っている。すると、明治十年の四月に、我邦(わがくに)で初めての内国勧業博覧会が開催されることになるという。ところが、その博覧会というものが、まだ一般その頃の社会に何んのことかサッパリ様子が分らない。実にそれはおかしいほど分らんのである。今日ではまたおかしい位に知れ渡っているのであるが、当時はさらに何んのことか意味が分らん。それで政府の方からは掛かりの人たちが勧誘に出て、諸商店、工人などの家々へ行って、博覧会というものの趣意などを説き、また出品の順序手続きといったようなものを詳しく世話をして、分らんことは面倒を厭(いと)わず、説明もすれば勧誘もするという風に、なかなか世話を焼いて廻ったものであった。
 当時、政府の当路の人たちは夙(つと)に海外の文明を視察して来ておって、博覧会などの智識も充分研究して来られたものであったが、それらは当局者のほんの少数の人たちだけで、一般人民の智識は、そういうことは一切知らない。その見聞智識の懸隔は官民の上では大層な差があって、今日ではちょっと想像のほかであるような次第のものであった。
 右の通りの訳故(ゆえ)、博覧会開催で、出品勧誘を受けても、どうも面倒臭いようで、困ったものだという有様でありました。ところが師匠東雲師も美術部の方へ何か出すようにという催促を受けました。師匠も博覧会がいかなるものであるか、一向分っておりません。それでどんなものを出して好いかというと、彫刻師の職掌のものなら、何んでもよろしい出してよい。従来製作しておるものと同じものでよろしいという。それではというので師匠は白衣(びゃくえ)観音を出品することにしたのでありますが、そこで師匠が私に向い、今度の博覧会で白衣観音を出すことにしたから、これは幸吉お前が引き受けてやってくれ、他の彫刻師たちもそれぞれ出品することであろうから、一生懸命にやってくれということでありました。
 私はこうした晴れの場所へ出すものだということだからなかなか気が張ります。師匠の言葉もあることで、腕限りやるつもりで引き受けて、いよいよその製作に取り掛かったのであった。
 (『幕末維新懐古談』P122-P124 高村光雲 岩波文庫)


 十年の博覧会も目出たく閉会になりましたが、最初博覧会というものが何んのことであるか一切分らなかった市民一般も、これで、まず博覧会のどんなものかを知りましたと同時に、また出品人の中でも、訳が分らなくなって、面倒がったり、困ったりしたものも、大きに了解を得、「なるほど、博覧会というものは、好い工合のものだ」など大いに讃辞を呈するというような結果を生じました。というのは、当時、政府もいろいろ意を用いたものと見えて、政府から出品者に対して補助があったのでした。七十円の売価のものに対しては約三分の一位の補助金が出た上、閉会後、入場料総計算の剰余金を出品人に割り戻したので、出品高に応じて十円か十五円位を各自(てんで)に下げ渡しました。
 こんなことで、まず博覧会の評判もよろしく、そういうことなら、もっと高価なものを出品すればよかった。自家(うち)のものは余り安過ぎたなど、私の師匠なども後で申された位でありました。万事こんな訳で、十年の博覧会も一段落ついたことでありました。
 (『同上』P127-P128 高村光雲 岩波文庫)



 この個所を読んでわたしが思ったのは、このことはわが国の一般性として捉えることができるのではないかということだった。

 海外の文明を視察して来て、博覧会などの知識も充分研究してきた政府のほんの少数の者とそれらについて何の知識も持たない一般民衆との間の懸隔はとても大きなものであった。この場合、「博覧会」を古代の「仏教」や「儒教」や中国を模倣した諸制度や諸慣習と置き換えることができる。そうして、ここに語られていることはわたしたち民衆の視点から見れば、そうした未知のものがわたしたちの社会に下りてきたときのわが国の民衆の演じるドラマの定型と見ることができる。博覧会開催の右往左往する民衆の状況 → 博覧会開催 → 博覧会閉会後の意識、というようにドラマは展開している。

 さらに、ここに知識を手にした政府の少数の者や知識層を加えると、わが国が外来性の文明的な大波を被ったときの、政府や知識上層と民衆という大きく乖離した世界からなる社会としての反応のドラマとして見ることができる。こうしたことは、古代に中国を通して仏教や仏像などがわが国に入ってきたときも同じような反応のドラマが繰り広げられたのだろうとわたしは想像する。

 わたしたちやわたしたちの社会の反応の型が精神の遺伝子とも言うべきレベルの強固なものであるとするならば、容易には変わらない時代を通した定型性を獲得しているはずである。








 メモ2021.7.26 ― 家族の内の時代性


 最近は、テレビの時代劇チャンネルで『吉宗評判記 暴れん坊将軍』を観ている。以前には『暴れん坊将軍』を観ていた。その吉宗(松平健)と比べて『吉宗評判記 暴れん坊将軍』の吉宗(松平健)はびっくりするほど若い。吉宗が市中にお忍びで出かけた折によく立ち寄るところに、江戸の町火消しのめ組組頭辰五郎(北島三郎)の家がある。その辰五郎には、さい(春川ますみ)という気が強い女房がいる。辰五郎と女房さいのやりとりを見ていて、さいは辰五郎にずけずけといろいろ言うけれど最後にはやっぱり辰五郎に折れるというか辰五郎を立てるような言動で終わっていた。こういう家族内でのふんいきは、わたしの世代でもなんとなくわかりそうな気がする。ということは、わたしの世代の子どもの頃もそれと同じような夫婦関係の一般性があったのだと思われる。それはひと言で言えば、男中心の家父長制の名残ということか。しかし、江戸期でも遙か母系制の名残は「三行半」などにも潜在していたと言われている。

 わたし自身も男中心の家父長制の微かな名残の中に育ったから、結婚してわたしが食事を作ることになった時のとまどいや抵抗感があったことを覚えている。もちろん、その状況には地域性による差異もあるだろう。九州では誰が言い出したものか「九州男児」などと昔からよく言われていた。これは家父長制や武家層の倫理から出てきた空威張りのような倫理ではないかと思う。柳田国男が明らかにしたが、内情は、家(族)を取り仕切る女性(主婦)の力が大きく、「九州男児」などは男の空威張りの表現に過ぎなかったのではないか。だから、「九州男児」等の言葉を信じて言葉にしたり行動したりする者はどこか滑稽に感じられたものであった。

 吉本さんがどこかで触れていたが、結婚し子どもを生むと女は変貌する。悪く言えば、繊細さを抜け出てずぶとくや横着にも見える時があると。それは、柳田流に言えば、家(族)を切り盛りする主婦としての必死さの経験故であろうと思われる。

 わたしは今では食事を作るのは自然になっているが、初めのうちのとまどいや抵抗感というのは、男はそんなことをするものではないというような男中心の家父長制の微かな名残からの規制する心理であったように思う。いつの間にかわたし自身も社会も変貌してしまった。

 現在の子どもたちはまたわたしたちの世代とは違った、フラットで均質化した家族内の関係(夫婦、親子)のイメージを持っているだろう。そのイメージは、次の時代の推力となるのは確かなことである。

 ところで、高村光太郎の『回想録』に次のような個所がある。


 子供の時分、私は病身で弱かったから、両親は私を育てるのに非常に難儀したらしい。私の兄弟は、一番上の姉がさく、次がうめ、それから私、その後にしずという妹がいて、その次が道利、それから豊周になる。その下に孟彦という弟があり、それは藤岡姓となった。その次は妹でよしと言う。
 これらの兄弟のうちで、上の二人の姉だけが子供の時に亡くなった。私が生れるまでは、上が二人女の子だったから、母は総領が生れなくては当時の習慣で何時帰されても仕方がないというような気持で心配した。「光ちゃんがお腹の中にいた時に、今度生れるのが女の子だったら申訳がない。それでどうかして男の子が生れるようにというので方々の神様や仏様にお願いして願をかけたものだよ。そうして光ちゃんが生れた時、お祖父さんが『おとよ、出かした。』と言われた。其の時はこんな嬉しいことはなくて、天に登るような気がして――光ちゃんは私にとっては本当にいいんだよ。」と話してくれたことがあった。そんな風で、どちらかというと私は大事にされた。祖父なども私たちを授りものというような心持で、非常に労(いたわ)ってくれた。
 (『回想録』高村光太郎 青空文庫 ※末尾に「談話筆記」とある。)



 この高村光太郎の母は、「総領」(家の跡取りとしての長男)を生んだことをとても喜んでいる。それは「総領が生れなくては当時の習慣で何時帰されても仕方がない」と女性に思わせるような時代性や社会状況があったからである。この家父長制に結びつく感じ方や考え方は、当時の社会(産業社会)の有り様と結びついていたはずである。現在の家族の内の夫婦・親子関係の有り様(対幻想)もまた、現在の社会(産業社会)の有り様と対応しながら変貌していくはずである。そうした流れの中で、様々な自然性としての振る舞いがあり得るだろうが、意識性としてはわたしたちはできるだけ〈平等〉ということを貫こうとしていけばいいのだと思う。








 覚書2021.8.14 ―人間は


1.まず人間世界を超えたところで言えば、アリさんも人間も全ゆる生きものは、この世界(宇宙、大いなる自然)に生かされている絶対的受動性の存在ということで同一である。この世界(太陽系や銀河系や宇宙)が滅べば人間も滅ぶ。超未来のことで妄想的にならざるを得ないが、太陽系や銀河系の滅亡の危機において人類が方舟で宇宙へ上陸できたとしても宇宙自体が滅ぶなら人類も滅ぶ。私たち人間は言葉を持ってしまったことによってそのことを感じ考えることが可能となった。

2.次にこの世界(大いなる自然)を受け入れたり対抗したりする中で築き上げてきた人間世界の内に、現在私たちは日々生きているわけだが、この現在は歴史的現在とも言うべきもので良くも悪くも人々が営々と築き上げてきた成果である。だから、現在の所有概念なら個人の持つものはその個人の所有と認めるだろうが、この社会の現在も私たちの今持っているものも、私たち一人一人のものでありながら同時にみんなのものでもあるということを潜在させている。(註.1)

3.私たちは誰もが、現在の社会の必要、競争、効率、生産性などに価値をおくイデオロギー(主に産業社会の上からの集団的な思想)を強いられており、それを内面化する人々もいる。しかし、そのような現在の社会のイデオロギーに憑かれて他者や世界を見ることは、局所的で頑迷な人間認識に陥るのではないかと思う。この現在の社会に蔓延する必要、競争、効率、生産性などに価値をおくイデオロギーは、例えて言えば人の壮年期のものであり、人の生涯を覆い尽くせるものではない。

4.以上をくだけた言い方にすれば、精神的・物質的に自分が獲得したものと思っているものは、今まで育ってきた過程で何ものかに支えられ、あるいは成長して手に入れたものもいろんな人々の関わりによって生まれたということ。生活思想としてこの内省は大切だと思う。もちろんこれは、メンタリストの件に触発された覚書である。

(註.1)
このことをやさしくわかりやすく歌ったものに河井醉茗(かわい すいめい)の詩「ゆずり葉」がある。







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 メモ2021.8.26 ― 歌一首より


 ツイッターで岡井隆の次の歌に出会った。きれぎれにツイートした内容に少し手を入れて以下に挙げる。

 つきの光に花梨(くわりん)が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて/岡井隆『ネフスキイ』


上の句の風景と下の句の何らかの人間的出来事は無縁そうでどことなくつながっている。調べてみたら、岡井隆はクリスチャンの洗礼を受けている。また、「時が満ちる」という詩句は聖書(マルコ伝)にある言葉だという。しかし、「ずるいなあ」という言葉はそれを身近な人間的な事象に引き寄せている。

この歌にしつこくこだわってみる。カリンは垂れているイメージはなかったが、2つ目の画像(註.1)のは垂れているように見える。下の句は、「ずるいなあ」という親しみに満ちた言葉もあって女性と共にいて何か性的なものを初めに想像した。今以てそう思う。ネット見てもこの歌の解釈には出会えなかった。

表記について
現在ではもう主流の表記ではないルビ「くわりん」や「ゐる」が現在的な口語表現の中に混ぜて使われている。この歌を含む歌集『ネフスキイ』の刊行は、2008年11月。
一度吉本さんの「旧仮名遣い」が混じった若い頃の詩や文章関連で調べたことがあるが、「旧仮名遣い」から「現代かなづかい」に正式に変わったのは戦後すぐのことのようだ。吉本さんは1924年(大正13年)生まれで、岡井隆は1928年(昭和3年)生まれだが、いずれも「旧仮名遣い」で学んできている。表記とそれに慣れ親しんだ感性の自然さによって本人たちには自然な表記となっていたに違いない。だから、「旧仮名遣い」から「現代かなづかい」への変更に自分を合わせていくのは、戦争期から敗戦という社会の変貌に自分を合わせる、自分の居場所を築くのと同質のものがあり、いろいろ苦労があったものと思う。わたしが若い頃読んだ柳田国男全集の「都市と農村」を収めている巻が旧漢字、旧仮名遣いだった。とても読みづらく難渋した覚えがある。読者にとっても慣れない表記は抵抗がある。表現する側にとってもそのことは同様だと思われる。
ところで、現在における古い表記の使用は、それがあまり意識的ではないとすれば、この場合作者すなわち歌の中の〈私〉の古い感性の自然が滲み出しているものと理解するほかない。「つき」のひらがな表記は、風景描写と見れば「月」を指しているがこれが下にかかる喩の表現として見れば、「時が満ちてて」に呼応する月日の「つき」も込めたからひらがな表記になっているのではないかと思う。

これでこの歌について一応の締めくくり。上の句と下の句は言葉の流れが切れている(ようだ)から、「。」が来たのだろう。しかし、上の句は単なる叙景を超えて、たぶん10月末頃の成熟した黄色いどっしりとしている花梨だと思われるが、暗がりに青く垂れているその生命感(エロス)のイメージの波が下の句を覆い包んでいるように感じられる。下の句の人間的事象の具体性ははっきりと像を結ばないけど、それゆえにか、その代わりにか、イメージ自体としての具体性(あるふんいきのようなもの)が感じ取れるように思われる。

この歌を音数律から見ると、
 つきの光に/花梨(くわりん)が/青く垂れてゐる。/ずるいなあ先に/時が満ちてて
7・8・5・8・7となっている。しかも、下の句の8・7は、意味の流れの上からは「ずるいなあ/先に時が満ちてて」の5・10とも取れる。つまり、この歌は5・7・5・7・7の短歌的な音数律からはズレていて、下の句は散文的な表現あるいは語りの表現になっている。上の句の叙景と下の句のあるふんいきとしての具体性の表現、すなわち主観的な表現とが、切断と共鳴によってこの作品を歌にしているように見える。

固い言い方で結びとする。わたしたちが言葉の表現をする時、話し言葉であれ書き言葉であれ、言葉の表現の歴史性を背にして、その言葉の現場では意識的、無意識的に言葉へ表出し、表現として構成する。そこには、表現する者に照明を当てれば、今まで生まれ育ってきた彼の歴史的現在性とも言うべき意識的、無意識的な固有性が加担している。もちろん、そこには時代の精神的・表現的大気とも言うべき共通性も織り込まれている。それらを後から他者が読みたどるのは、とてもむずかしい。わたしたちの読みの当たり外れもあるだろう。しかし、わたしたち読者は、言葉のイメージの現場に立ち会おうとするのである。この喜怒哀楽に満ちた同じ現実世界の渦中を生きる者として、作品の固有性の中にある自分との同質性と差異性とに小さく共鳴しようとするのである。


(註.1) 家の畑の際にある花梨の画像 2021.8.19













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 メモ二つ 2021.9.9


 メモ2021.9.7 ― 現在の説話

 種痘したり牛乳飲んだら牛になる。幕末や明治初期のように、このことをもう信じる人はいない。今までの日常感覚ではわけのわからないものに遭遇して、その不安からそんな日常域を超えたアブナイ連想・イメージの創出につながる。このイメージ連結の仕方は山に迷い込んだら天狗に出会ったという類いの民話や説話と同質のものだと思われる。そういう意味では、単なる名神を越えたものを持っている。

 昔の説話が、誰もが大体そう感じ思う共同の感覚や意識が生み出したものとすれば、現在の説話、いわゆる陰謀論・フェイクは、ある意図を持って説話を生みだした作者がいるはずだ。アメリカのトランプは確かにそういう作者の一人だった。現在の説話には大本の作者がおり、無数の素朴な読者がいる。

 さらに、その読者は、昔の旅する語りの者のように今度はSNS空間において小作者として創作を加え説話を流布させているのかもしれない。また、昔の説話が村人の不安や恐れが生みだした、世界はこうあるのだという理解の描写だとすれば、現在の陰謀論・フェイクは、それによって社会を改変(革命)しようという作為や意図を潜在させている。しかし、虚偽によってはほんとうのものが生まれるはずはないのである。



 メモ2021.9.9 - 物語世界と現実世界

 以前に『暴れん坊将軍』をシリーズの途中から観たことがある。最近は、ケーブルテレビの「時代劇専門チャンネル」で、『吉宗評判記』を初回から放送のない土日以外は観ている。今は60余話目で、まだ徳川吉宗の若い頃の話である。しかし、観客(読者)を楽しませるようにいろいろ工夫してよく作られているドラマだなあと感心する。この作品には、何人かの脚本家や監督がいる。物語の大筋やイメージと登場人物たちの性格などを共有した上で作られているのだろう。

 当然のことと思われるかもしれないが、最近ふしぎだなと思うことを一つ。物語世界の登場人物たちは、一話の中だけで見ても自分や自分たちの未来のことはわからない。主人公の吉宗でさえ同じである。しかし、作者(脚本家)は、現実の人間の未来についてはわからなくても、物語の未来については知っている。あるモチーフを持って彼らを含む幻想世界(ドラマ)を描き生みだしているからである。

 物語は、吉宗の性格や成したことや将軍の視線と町火消しのめ組の人々に象徴される庶民の視線を交差させながら描かれている。もちろん、作者(脚本家)にも無意識があり、意識的・無意識的にその切り出し方や描き方が、江戸期当時や現在から見てどうであるかというわたしたち観客の批評はあり得る。

 わたしたちの現在も、物語という世界の枠のなかの登場人物たちと同様に、そのことをあんまり意識しないとしても現在という世界に囲まれて日々生きている。そうして、物語のなかの登場人物たちと同じく自分や自分たちの未来のことは想像はしてもよくわからない。物語の作者に相当するのは、この日々イメージや何ものかを供給し生みだしている現在という世界そのものと言えるだろうか。そうして、作者のモチーフに相当するものは、抽象的な言い方になるが、現在という世界に底流して確実に未来を目指しているように見える。そのモチーフは、人間という本質から繰り出される無数の表現たちが絞り込まれて底流で現在という世界を無意識のように駆動しているものであろうと思う。







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 メモ2021.9.11 ― 真理のこと


 真理というものがある。この世界の地平で生起することについて人間の認識するものが普遍的なものとして当てはまる場合を〈真理〉というのだろう。しかし、真理には人類史の全時間を通して成り立つような絶対的な真理というものはなかなか存在しないように見える。人類の歴史の段階が推移することによって変化していく相対的な真理の方が多いような気がする。

 例えば、天動説から地動説への転換もそれぞれの世界の有り様や観測技術の段階や人間の世界認識の水準のようなものがあり、それぞれの時代においては天動説も地動説も正しいこと、真理のように見えたのだろうと思う。今後も、太陽系のみならず銀河系の挙動も少しずつ解明されて、現在の太陽系中心の地動説が修正なり、改変なりを加えられるかもしれない。また、現在の主要に原子レベルまでの人間の認識から、量子やさらなる深い自然認識の水準を獲得することによって、「水はH2Oという化学式で、水素と酸素とから成る。」という現在の真理も、遠い未来には水の構造や本質に関する新たな真理へと改変されるような気がする。人間の有り様も現在の有り様が正しい人間の概念や真理のように見えても、それが成り立つのは数千年か数万年あるいは数百万年という時間のスケールでのことである。進化論の知見によれば、人間は人間の遙か以前は小さな小動物であり、それよりもっと前は、海に住むものだったという。

 ところで、この世界には相対的な真理ばかりがあるように見えるが、絶対的な真理もあり得ると思う。人間に限らずだが、人がこの大いなる自然の世界(宇宙)に存在している仕方は、絶対的受動性ということである。わかりやすく言えば、人はこの世界に偶然のように生きさせられているということであり、太陽系、あるいは銀河系、またはこの宇宙が終われば人の存在も終わるということである。人間のそのようなこの世界での存在の仕方は、今までの人類史の時間やそれ以前の時間を遡ってもあるいは人類史の遠い未来を含めても成り立つもので、すなわち、あらゆる生命体について言えるもので、認識主体である人類が存在するかぎり、絶対的真理であると言えるように思われる。







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 メモ2021.10.3―ひそかな対話、ひそかな言葉


 吉本さんの講演、『戦後文学の発生』(吉本隆明の183講演 A057 ほぼ日)の「講演のテキスト」を読んでいたら、船橋聖一の作品の中でもすぐれた作品であるとして『悉皆屋(しっかいや)康吉』という作品に触れてあったので、読んで見た。


 そのころ、康吉はもう一度、失敗をやらかした。何でも繻珍(しゅちん)の丸帯の註文をうけて、問屋を探しているうちに、やっと註文どおりのが見つかった。伝通院の名の通った割烹店の若いお内儀(かみ)さんのしめる帯であった。その年ごろの女のしめる帯はたいてい幅八寸二分の仕立てでいい。ところが、このお内儀さんは、人より幅のせまい帯が好きで、八寸を一分出ても気に入らないのである。康吉もそういう点は、十分に念を入れ、粗相のないように、気を配るのだが、魔がさしたのか、うっかり、ふだんの寸法を忘れて、杉野屋から仕立て上って来たのをそのまま、たとうにつつんで、持参した。あけてみて、
「まあ、いいこと」
 と、お内儀はたいそう満足らしく、すぐ、閉じ糸を切って、かけを二つに折ろうとしたが、
「おや?」
 と、かすかな疑問の色が、美しいお内儀の眉間をくもらした。
 そのとたんに、康吉は、アッと気がついた。
「いけません――こいつは大しくじりだ」
 と、康吉は、向うにいわれぬ先きに、お内儀の手から、その帯を奪いとるようにした。
「へい間ちがえました。八寸二分になっております。とんだ粗相でございます」
「いやだねエ、康さんにも似合わないじゃないの。私が八寸でなきゃ、決してしめないことは、何も念を押さなくたって」
「そうなんです。そいつを、まったくうっかり」
「うっかりじゃア、康さん、すまされないじゃないの」
・・・中略・・・
「とにかく、八寸二分じゃア、私は、しめられませんからね、引取ってくれるでしょうね」
「へい」
 (『悉皆屋康吉』P23-P24文春文庫)


 康吉は、膝の上にひろげた派手な繻珍の織模様を見つめながら、しばらくは、ボンヤリしてしまった。たった二分ぐらい、我慢してくれないのかなアと、お内儀が恨めしい気もした。八寸と八寸二分で、どのくらい、しめにくいのであろう。失態は失態として、そのくらいのことは、許してやるという気にならないものであろうか。しかし、康吉には、明かにそれが自分の越度(おちど)である以上、
(いかがでしょう。ご辛抱願えませんでしょうか?)
 ということは、商売魂の手前にかけて、どうしてもいえない性質(たち)であった。
「よろしゅうございます。これはこのまま、お引取りいたしましょう。越度は重々、手前にあるんでござんすから」
 そういって、静かに帯を、たとうにしまった。
 婦人のお客は、こういう点になると、男以上に、はっきりしている。男だと、ずいぶん、ひどい叱言(こごと)をいう人はあっても、二分や三分の間ちがいは、まず許してくれる。第一、二分や三分には気がつかないのが普通だが、婦人はそういかない。一分一厘までに、気をつかっている。そうして、気に入らないと、何遍でもやり直す。すっかり染上って、裾廻しまで染まったあとで、もう少し、地味とか派手とかいい出すのは、中年の婦人に多い。だから女だといって、甘く見ることは絶対にできない。残忍性はむしろ女のほうに多いのである。この大きな割烹店のお内儀も、顔のわりには、心は薄情と見えて、いいだしたら絶対にあとには引かない。康吉がたとうに包んで、風呂敷にしまいこむのを、何の未練気もなく、見ている。康吉はなるべく、ゆっくり、包みながら、相手に未練の色のうかぶのを待ったが、徒労だった。お内儀は、平然たる面持で、思いかえすというふうは、どこにも見えないのである。
 (『同上』P25-P26)
 註.1寸=3.03cm。分は寸の十分の一より、1分=0.30cm(3㎜)。


 この場面で作品は、康吉が失敗をやらかした客とのやりとりを通して、主人公康吉の仕事のやり方や考え方や性格を描写している。さらに、たぶん作者の持つ女性観、女性というものの有り様を浮かび上がらせている。しかし作品は、作者の意図しないところで読者に考えさせたり影響を与えたりすることがある。わたしが「ひそかな対話、ひそかな言葉」をテーマとして取り上げるのもたぶん作者の意図を超えていると思う。

 「染物業の仲介をするもの」を悉皆屋(しっかいや)といい、康吉はその悉皆屋である。客の割烹店の若いお内儀(かみ)さんと康吉との、注文の品である繻珍(しゅちん)の丸帯を巡るやり取りの場面である。結論的に言えば、客のお内儀の注文とは違ったものを作ってしまった康吉の落ち度である。康吉は、そのことは自分の失敗として認めつつも、その帯は高価なものだから、お内儀がなんとかその帯を買ってくれないかなと思っている。

 康吉の「たった二分ぐらい、我慢してくれないのかなアと、お内儀が恨めしい気もした。八寸と八寸二分で、どのくらい、しめにくいのであろう。」の「たった二分ぐらい」は客観的に言えば、6㎜ぐらいに当たる。康吉の目や帯に無縁の読者のわたし(たち)の目からは、帯の幅の八寸(24.2㎝)と八寸二分(24.8㎝)の6㎜ぐらいの違いは、たいした違いには見えない。

 ところで、そのお内儀の感じる内側からの違いを考えるものとして、誰でもが感じているだろうと思われることがある。例えば、男物のズボンで言えば、今はサイズや裾の長さで選択する幅が増えたり、腰回りの伸縮性があるものがあったりと、昔より消費者の欲求や利便に応えるようになっている。しかし、それでもなお、ズボンをはいたときの微妙なフィット感のズレなどが存在する。これは下着やシャツなどにおいても存在する。そしてまた、わたしたちの体は日々変化するし、また何年もの間にも変化するものであるから、そういうことも着心地には影響を与える。たぶん、誰もがそれらの身に着けるものとのひそかな対話を続けているのではなかろうか。それは異和感や親和や妥協などを含んでいる。このようなひそかな対話は、自分だけの言葉としてそれぞれ存在しているように感じられる。しかし、服飾関係を専門の仕事としている人々は、そのようなひそかな対話やそこでの言葉にも触手を伸ばしているのでないだろうか。その対話や言葉は、他者にうまく説明したり伝えたりするのは難しい内蔵感覚的なものである。そうして、外からはそういう対話や言葉はうかがい知れないものとしてある。ただ、外からの視線であっても、自分のそのような対話や言葉を内省するならば、コミュニケーションの通路は開くはずである。

 このような「ひそかな対話、ひそかな言葉」は、上に挙げた例に限らず、自分自身との関係や対人関係でも、言葉に出されたり文字に書き留められたりすることはほとんどないように思う。しかし、沈黙の内に確かに言葉として存在している。人が小さい頃であれば、まず母子関係の中にある子の母からの分離の感覚として独り立ちしていくように見える。

 このようなすれちがう問題は、こちらが急を要するのに相手がテキパキ対応してくれないなど現代の企業内の顧客との対応でも存在しているだろう。また、介護の現場では、介護する者と介護を受ける者との間の齟齬(そご)や葛藤や隔靴掻痒の問題として、日々生起しているのではないかと思う。思うに、介護の現場であれば、あくせく仕事せざるを得ないではなくできるだけゆったり仕事できるような態勢や環境が大事であり、さらに介護する者と介護を受ける者とのそれぞれの内省が大切だと思われる。さまざまな困難があっても、相互のコミュニケーションの通路が開く可能性はあるはずである。

 要するに、人間の永続的な課題のひとつとして、人間認識の深まりの問題が問われ続けているのである。







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 メモ2021.11.7 ― 文学作品の言葉の追跡 ① ―「引用」から


 四方田犬彦の『詩の約束』(2018年10月)は優れた批評である。「朗誦する」「記憶する」「呪う」「外国語で書く」「剽窃する」「稚くして書く」「訣別する」「絶対に読めないもの」「註釈する」「発語する」「翻訳する」「書き直す」「引用する」・・・・・・などいくつかの項目について取り上げて、詩(作品)というものの姿を明らかにしようとしている。

 「引用について」を読んでいたら、鮎川信夫が何度が手を入れた詩「橋上の人」の中に引用したレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を追跡している。その言葉は、田村隆一の詩「枯葉」の中にも見つかる。また、菅谷規矩雄の詩にもあった。そうして、「引用」というものの姿を求めていく。


 ここで(引用者註.田村隆一の詩「枯葉」で)最後に、ドスの利いた科白が入る。「星の/きまっているものは/ふりむかない」
 本書の前章を読んでくださった読者なら、この言葉に聞き覚えがあるはずだ。そう、鮎川信夫の戦後版「橋上の人」にある、「星のきまっている者はふりむこうとしない。」という一行からの引用である。『戦中手記』を読むならば、鮎川は兵士としてスマトラで従軍中、「星のきまつてゐる者はふり向かぬ」という一行を(引用者註.詩「橋上の人」に)加筆することを思い立ったことが判明する。田村はこの一行を三行に書き直し、「枯葉」の結語に置くことで、鮎川と同じ側に立っていることを宣言した。それは友情の証であり、同じ元日本軍兵士としての、戦死した兵士たちへの決意表明でもあった。そしてこの鎮魂の宣言が「荒地」派の詩的根拠でもあるという点に、戦後詩を先導したこのグループの共同体意識が依拠していた。
 (『詩の約束』「引用について」P233-P234 四方田犬彦)


 だがこの星の一行については、もう少し書いておかなければならないことがある。というのも、鮎川信夫を霊感のように襲ったこの言葉は、実は彼の独創でも何でもなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの著作にあるものだからだ。原文は Non si volta chi a stella e fisso.(引用者註.eには上に点のようなものが付いている)ちなみに杉浦明平はそれを、「星の定まれるものは右顧左眄しない。」と訳している。
 鮎川はレオナルドについては、『戦中手記』でも、それ以降の自伝的文章でも、いっさい言及していない。彼がスマトラ従軍時代に直接、このルネッサンスの芸術家の著作に当たったとはまず考えられない。推測するに、学生時代に耽溺したヴァレリーのレオナルド論の記憶があって、それが南国の兵舎で突然に想起されたのではないだろうか。もっともこの言葉はいわゆる「天才の格言」として有名であり、イタリア語の語学教科書に採用されているくらいだから、知る機会はいくらでもあったかもしれない。鮎川本人がレオナルドの言葉であったという事実を失念していたとしても、けして不思議ではない。
 ここで興味深いのは、菅谷規矩雄がその名も Non si volta chi a stella e fisso という題名の詩を書いていることである。・・・中略・・・
 菅谷の詩は、「荒地」派の共同体意識とは何の関係もない。彼はこの作品を書き上げるにあたって、鮎川信夫や田村隆一のことなど、いっさい念頭になかったはずである。菅谷の念頭にあったのはただ、おのれの運命がいかに悲惨であったとしても、それを必然として受け入れ、それに対し、けして躊躇の姿勢を見せないという、レオナルドの教訓であった。
 (『同上』P234-P236)



 四方田犬彦の「引用」を巡る追跡行、考察や推測は、以上に限らないが、他者の作品(文章)からの「引用」が、作者や作品にとって大切な意味を持つことがあることを示している。また「引用」は、わが国の歌の歴史のなかの本歌取りの技法のように、作品と作品が交響したり影響したりする様を示している。四方田犬彦は、この「引用について」の末尾で、「引用とは何かを問うことは、作者とは何かを問うことである。それは作品なる観念を問い質すことにも通じている。」と締めくくっている。

 「引用」は、ある作品や作者が、別の作品や作者に与える「影響」と言いかえてもよさそうである。引用という形ある姿で作品に登場することもあれば、別の作品や作者が掘り出したものから影響を受けて自分の作品に潜在しているという形もある。もっと一般化すれば、同時代の表現世界や地域や時代を超えた表現世界を舞台にした、作品や作者の関係の有り様のひとつとして「引用」というものを捉えることができると思う。







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 メモ2021.11.27 ― 文学作品の言葉の追跡 ② ―「円方体」から


 以前、吉本さんの以下の部分の文章を読んでいて、最終行で、あれと思ったことがある。「エレヴァス」?ここはドイツ語の「エトバス」ではないかな、といろいろ当たっていたら、なんと『言語にとって美とはなにか』には索引があったのであり、そこに「エトワ゛ス」が4回ほど使われていた。ウィキペディアによると、「ワ゛」は、現在は「ヴァ」を用いるとある。とするとこれは先に予想したようにドイツ語の「エトヴァス」(etwas、「何か」の意味)の誤植ではないかということになる。ささいなことかもしれないが、これで、ちょっとすっきりした。(註.1)


 ところで、武田泰淳、野間宏、石川淳といった第一次戦後派と呼ばれた作家たちがいる。彼らは敗戦直後の混沌の中で、一瞬の煌(かがや)きにも似た佳作を生み出しているが、太宰や坂口が彼らとも異なるのは、私なりの言い方でいえば、大それたことを考えていたということになる。大それたこと、つまり政治なり社会なり、あるいは人間存在について深いところで認識しながら、ある種の大きな普遍性を意図的に作品に繰り込もうと考えていたふしがある。こうした姿勢を持った作家は太宰と坂口だけであり、その後出ることはなかった。
 太宰治、坂口安吾の他、織田作之助、石川淳、檀一雄といった、いわゆる無頼派と呼ばれた作家たちは、それぞれ良質な作品を残しているが、彼らは、女、薬、酒といった表層的なデカダンスと裏腹に極めて強い大きな倫理観を持っていたように思う。これが一見無頼派的にみえる彼らの作品の奥底に流れていた、生涯をかけた大それたエレヴァスであった。 平成十五年三月
(「檀一雄『太宰と安吾 』」の吉本さんの解説の末尾の部分、初見は『吉本隆明資料集159』P79 )
 ※檀一雄の『太宰と安吾』(角川ソフィア文庫)に当たってみた。ここからの誤植であった。


 学校の教科書にはほとんどないが、本には誤植はつきものだということはわかっている。最近またしても、よく分からない言葉に出くわしてしまった。


「わたしたちは短歌的な表現を交響する音形で比喩してみるとする。いま意味の機能をまったく抜いておくとすれば、細長い葉巻の形をした密雲の塊りのように見做すことができよう。すると岡井隆の『神の仕事場』の交響する密雲は、わたしたちが短歌的な声調にみているものの倍増した円方体(2×2×2)に比喩することができる作品に出遭う。いわば意味句が、下句または上句の全体でメロディを発信している例に出遭うからだ。」(『吉本隆明 詩歌の呼び声 岡井隆論集』P302 論創社 2021.7)


 「密雲」は辞書で調べたが、この「円方体(2×2×2)」というのが何かがわからない。たぶん立体図形だろうと推測するが、中学・高校までの初等の算数や基本数学では習った覚えがない。そこで、この二月ほど暇を見つけては以下のように追跡してみた。

 吉本さんの文章で「円方体」という言葉に出会って、
1.耳にしたことがないから誤植ではないかと思った。(10月上旬)

2.もしかして、数学の初等か高等の立体図形にあるかもしれない。初等数学の図形であれば、少なくとも戦後のには「円方体」というものはない。おそらく各辺が「倍増した円方体」だから、「円方体」(2×2×2)は、「円方体」(1×1×1)が「倍増」したものか?この「円方体」は、「直方体」あるいは「立方体」の間違いではないか?

3.「円方体」をネット検索したが、1つもヒットしなかった。

4.ネットの質問コーナーに質問した。(2021/10/23 )
そうしたら、回答者がふしぎなことにネット内の使用例を2つ見つけて紹介してくれた。(「ふしぎなことに」というのは、まず普通の検索ではヒットしなかったこと。次に、目当てのpdfファイルとそのファイル内の「円方体」という言葉を検索できていること。)
 ① 関東辺りの旅行記を書いている人が、訪れた店の写真を載せて、その中でインテリアのハーバリウムのガラスビンを「円方体」や「角方体」と呼ばれていた。
 ②曲面体印刷を研究・発明した箱木一郎氏の『発明と私』(pdfファイル)の文章の中に、「円方体、あるいは円錐体」という言葉がある。

5.4.の①関連で、日本ガラスびん協会に「円方体」という呼び名があるかどうかホームページの「お問い合わせフォーム」より問い合わせた。(2021/10/27)
 そうしたら、ガラスびん製造会社にも尋ねたがそういう呼称は使っていないという回答をもらった。

6.4.の①の人に旅行記のネットの掲示板で尋ねたら、「円方体や角方体」は自分でも知らない言葉だから、何か勘違いしてそう書いてしまったと思うという返信をもらった。

7.4.の②曲面体印刷に関わった箱木一郎氏(明治29年1月神戸に生れる。 曲面印刷法を研究・発明した。 日本曲面印刷機社長)関連で、「箱木一郎とその家族」というブログに偶然出会った。「円方体」について何かご存じではないかと尋ねるコメントをコメント欄に記入した。(2021年11月6日)
しばらくして、箱木一郎氏のおそらく孫に当たる方から、祖父箱木一郎氏から「円方体」については聞いたことがないという返信をもらった。

《復刻》・印刷史談会〈12〉
htt★ps://www.jfpi.or.jp/files/user/pdf/printpia/pdf_part3_01/part3_01_012.pdf
(URLに★印を加えています)
曲面体印刷の発明と グーテンベルグ博物館へ資料寄贈の想い
箱木一郎氏『発明と私』

 この『発明と私』の、「(2)同一陶器」の文章の19行目に「円方体、あるいは円錐体」という言葉がある。その一部を引用してみる。


 私の曲面印刷は、とかくよく間違われますが、私の言う曲面印刷は、
3次形面を有する物体に対する印刷のことに限りたいと強行に主張
してきたのですが、円方体、あるいは円錐体、これは解体してしま
えば結局、平面にある。ということは2次形面であって、曲面印刷
と同類にしては困るということをよく議論してきました。円錐体に
しても、円筒にしても切って開けば平になり、で、紙の輪転機と全
く同じになるので、ぜひ区別をしてくれと強く主張しました。



 箱木一郎氏のおそらく孫に当たる方が指摘されていましたが、「円方体、あるいは円錐体」と、次にあるその言い換えと思われる表現「円錐体にしても、円筒にしても」から、「円方体」は「円柱」(円筒)ではないかという指摘をもらった。ただ、それだと円方体(2×2×2)の2×2×2が、それぞれどこを指しているかわからない。
 また、「明治時代、大正時代、昭和初期には使っていた言葉なのかもしれません」という指摘から、当時の尋常小学校、高等小学校、旧制中学の算数や数学の教科書を調べようとしたら、ネットで以下の所でpdfファイルとして見ることができた。 
 「国立教育政策研究所教育図書館 近代教科書デジタルアーカイブ」です。
 htt★ps://www.nier.go.jp/library/textbooks/ (※ ★印を加えています)
 しかし、ここで、立体図形や多様体の項目をいくつかチェックしたが、円柱はあっても残念ながら「円方体」には出会えなかった。
 
8.以下のように「円方体」という言葉を使った二人に共通するのは印刷関係だから、ということで、東洋インキのホームページの問い合わせにコメントしようとしたが、書き込んだ内容の確認の画面でエラーが出て、かなわなかった。
① 吉本隆明さん(大正13年 1924年生まれ) 戦後の若い頃東洋インキで数年技術開発部門にいた。
② 箱木一郎氏(明治29年 1896年生まれ) 曲面印刷法を研究・発明、事業化した。


★まとめ
 ということで、「円方体」という言葉を使った二人がいるから、誤植とは考えられず、「円方体」という言葉はネットで検索してもヒットせず、昔の算数や数学の教科書にもおそらくなく、今のところ出所不明と見なすほかない。途中で、「円方体」は、「前方後円墳」の名付けのように上部が円筒形で下部が直方体、すなわち上から見たら(上)円(下)方体ではないかと想像した。しかし、これも2×2×2が不明になる。ただし、上部を省略すると、直方体で縦・横・高さの2×2×2にはなる。
 古墳の形からくる名前には、「上円下方墳」もある。「前方後円墳」みたいにその墳墓の立体的な形を余すことなく伝えようという呼び名のようだ。この墳墓の形を立体と見なして言いやすく省略すると、「円方体」になりそうだが。
 なお、箱木一郎氏には、『箱木一郎「曲面印刷」を語る』(日本曲面印刷機株式会社発行 141P 1983年)という本があるが、アマゾンの古書で高価すぎて見ていない。


★最後に
追跡の意味について

 それにしても。今のところ二人しか「円方体」という言葉を使っていないなんてふしぎな気がする。学校教育の知識で獲得した言葉や概念以外では、人が使う言葉にはその人の具体性の世界との接触の経験が含まれることがある。例えば、何かの製造会社で現場で勤めた経験のある人なら、一般にはほとんど使われていないような製造工程での言葉があるかもしれない。それはおそらくその小社会でのみ流通し、ほとんどその外に出ることはないだろう。こういうことは、現在の均質化された社会では「方言」がずいぶんと壊れてしまっているが、まだイントネーションにまで退化しても地域社会に残っているという事態と似ているような気がする。もし、吉本さんが使った「円方体」という言葉が、学校教育から学んだものではなく、ある具体性の世界との接触の経験から来るものなら、きちんとそのことをたどってみたいということからこのような追跡になってしまった。
 ささいなことのように見えて、ほんとうに他者の言葉をたどるということには、こういう〈触れる〉という言葉の行為が大切ではないかと思える。
 わたしは、自分がどうでもいいと思うことにはあんまりこだわらない、根はいいかげんな性格もあるけど、今回はこだわりすぎてしまった。だいたい意味は通るからいいとそろそろ終わりにしようかと思っている。


(註.1)
「エレヴァス」問題再び 2017年02月24日







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 メモ2021.12.4 ― 共感覚から  (追記2021.12.5)


 本書は、割りとていねいに「共感覚」研究の現状をたどっている。まず、「共感覚」は次のように現象する。


 共感覚者は、あたりまえの世界を、あたりまえでないかたちで経験している。言葉には味が、名前には色がそれぞれ伴い、数字の連なりは、空間内を進んでいく。共感覚の大半の定義では、通常の感覚に加えて別の感覚が存在するという点が強調されている。例えば、フルートの音は、パステル系のレモン色に感じられる。この音は、聴覚と視覚の両方によって感知されているわけだが、レモン色が、フルートの音に取って変わっているわけでもない。これらは同時に存在しているのである。このことから、共感覚は、もう一つの感覚とされている。もちろん、共感覚者にしてみれば、この感覚が通常とは別のものとは感じられない。というのも、彼らにとってこの体験が慣れ親しんできた、ごく普通のものだからだ。
 (『カエルの声はなぜ青いのか?―共感覚が教えてくれること』P17 ジェイミー・ウォード 青土社 2012年1月)



 「共感覚」と呼ばれているものも人間的な感覚の有り様のひとつには間違いない。しかし、「共感覚」をもたない多数の人々にとっては、そのことはふしぎなものに見える。例えば、次のような記述がある。


 二〇〇四年三月一四日のことだ。ダニエル・タメットは、円周率の二万二五一四桁の暗唱に見事成功し、ヨーロッパ新記録を達成した。所要時間は、五時間九分だった。・・・中略・・・ではダニエルは、どうやってπの桁を覚えたのだろう?ここは、ダニエルに詳しく語ってもらおう。


   数字の並びを見つめていると、私の頭は、色、かたち、それに質感で満たされるよう
  になります。そしてそれらが自然に一つになって、視覚イメージの風景が現れるのです。
  一つ一つの数字を思いだす場合には、頭の中で色々なかたちと質感をただ見直すだけで、
  お目当ての数字が浮かんできます。πのような、ただそれを読めばいいものの、しかし
  とてつもなく長い数字の場合には、数字の並びを幾つかに区分けすることにしています。
  区分けの長さは、数字に応じて変わります。例えば、頭の中で、ある数字が異常に明る
  く、その次の数字が逆に、ひどく暗い場合には、その二つの数字をバラバラに思い浮か
  べます。逆に、なめらかな数字が連続した場合には、まとめて覚えることになります。
  (以下略)


 ダニエル・タメットもリチャード・ファインマンと同じ共感覚者である。ダニエルは、共感覚を生かしつつ、数字にまつわる雑多な共感覚体験を一つにまとめ上げることで、空間内に「風景」を生み出すことができる。こうした一連の風景の流れを辿っていくと、そこに潜んでいる数字を探り当てるためのヒントが見つかる。ダニエルは、三ヶ月を費やして、一連の数字を構成している幾つもの多彩な部分を覚えていった。πの桁を一度に諳んじようなどとは過去に一回も思わなかったにもかかわらずである。図8
(※)は、ダニエルが思い描いたπの最初の一〇〇桁のイメージだ。
 ダニエルにはこのほかにも、際立った能力がある。英米のテレビ局で放映されたドキュメンタリー番組『ブレインマン』の制作に携わったさい、ダニエルは、たった一週間でアイスランド語が話せるようになったのだ。最終テストはテレビの生インタビューで、それはもちろんアイスランド語で行われた。過去にも、リトアニアの学校で教育プログラムに携わりながら、リトアニア語を独習した経験を持つダニエルは、現在一〇ヶ国語を操る。ダニエルが説明してくれたことによると、脳は、パターンをことのほか好むらしく、ある言語をマスターするというのは、こうしたパターンをつかむことなのだそうだ。共感覚は、一つの単語や単語同士の間に存在している音や文字のパターンに慣れるためのお手軽な方法を提供してくれる。事実、多くの共感覚者が、言語習得を得意なことの一つと報告しているのだ。その後ダニエルは、会社を立ち上げ、より直観的に言語を習得したいと考える人たちを支援している。
 ダニエルは、共感覚者であると同時に、自閉症者でもある。


多くの自閉症者が、数字のパターンや順序に引きつけられるが、その内の約一〇パーセントは、記憶、計算、デッサンについて驚異的な能力を持っている。ダニエルも同じく、驚くべき計算力を備えており、小数点一〇〇位近くまでの割り算をやってのけるのだ。ダニエルの場合、数字への偏愛や熱意を誘発しているのはたぶん、自閉症なのだろうが、共感覚も同じように、計算にまつわる諸々の経験と深くかかわっているのだろう。

   三七の五乗(37×37×37×37×37=69,343,957)は、天辺から時
  計回りに走っている小さめの円が集まってできた大きな円みたいに
  見えます。筆算は一度もしたことがありません。なぜなら、答えは
  いつだって、頭の中で出てしまいますし、「できあいの」やり方よ
  り、共感覚によって生み出されたかたちを頭に思い浮かべて答えを
  出す方が、私にはずっと楽だからなのです。
 (『同上』P190-P193)



 ダニエル・タメットという名前は、自閉症関係で耳にした覚えがあると思ったら、『ぼくには数字が風景に見える』という彼の本を読んでいた。たぶん松本孝幸さんのホームページで最初に出会ったのだと思う。自分のパソコンにファイル検索をかけてみたら、2007年10月の「読書ノート」があった。彼自身による「共感覚」は、


 数字を見ると色や形や感情が浮かんでくるぼくの体験を、研究者たちは「共感覚」と呼んでいる。共感覚とは複数の感覚が連動する珍しい現象で、たいていは文字や数字に色が伴って見える。
 (『ぼくには数字が風景に見える』P13 ダニエル・タメット 講談社 2007.6.11)


 思い返してみると、ぼくにははじめからいまのように数字が共感覚をともなって見えていた。数字がぼくにとっての第一言語だ。つまりぼくは数字を使って考えたり感じたりする。感情というのはぼくには理解しにくく、対応の仕方に困るものなのだが、数字を使うと理解しやすくなる。
 (『同上』P18)

 ある言葉からぼくがイメージする色と感情が、その言葉の意味とつながっているので、言葉に命を吹き込むことができるのだ。
 (『同上』P23)



 本書では、「共感覚はなぜ存在するのかという問題に決定的な答えを出すのは時期尚早だ。」(『同上』P236)と述べて「共感覚」というのは、現状はよくわかっていないとしている。
 ところで、その時の「読書ノート」に、「わたしたちは数字を単に概念として見、感じ、使っているが、ダニエル・タメットは数字に色や形や風景を見ることができている。これは人類が数というものを考え出したときの初源を考えると、はじまりの数は単なる概念ではなく、ダニエル・タメットの見るような世界として存在したのではなかろうか。」とメモしている。そのことは、なぜだか現在にまで残っている「共感覚」というものは、人類の初源的な感覚の有り様だったのかもしれないという捉え方につながる。

 「内側から見た自閉症」を追究されている松本孝幸さんは、『動物感覚』を書いたアメリカの自閉症者のテンプル・グランディンの「自閉症は、動物から人間へいたる道の途中にある駅のようなものだ。」という言葉をよく引用され、自閉症は、人類が感覚中心の世界把握の段階から世界を抽象化や概念化してきた段階の中の、感覚中心の世界把握の段階を保存しているのだと捉えられている。

 わたしも、松本孝幸さんの「自閉症」の捉え方の流れで、「共感覚」も人類の初源的なありかたとその名残というような感じを持っている。なぜ残存しているのかはわからないが、存在しているのは確かである。

 最後に、このメモで記しておかなくてはいけないことがある。松本孝幸さんが「内側から見た自閉症」で記していた記憶があるが、他人が自転車に乗っているのを見ているだけですぐに自転車に乗れたり、他人がピアノを弾いているのを見ていて自分がすぐにピアノが弾けるようになる人々が自閉症の人々の中にはいるそうである。普通の感覚では、きちんと練習を積み重ねていかないと不可能に見えることである。

 親鸞は、修道を重ねて、一段一段と段階を経て徐々に仏の境地に近づいていく「竪超」(じゅちょう)に対して、「横超」(おうちょう)を、すべての段階を横様に飛び越えて、一挙に目的に達する、すなわち、凡夫が凡夫のままで、直ちに仏に成るものだという見方をしている。前者は自力、後者は他力と対応している。わたしたちのこの人間界での普通の感覚である「竪超」からすると、「共感覚」は「横超」に対応しているように見える。

 わたしたちは、わたしたちの現在の有り様から自身を見てしまうが、生命の発生にかぎらず、まだまだ自身をよくわかっていないのだ。このことから類推すれば、植物や動物の「感覚(のようなもの)」の有り様もまた、わたしたち人類から見たら「横超」みたいなものかもしれないし、あるいは深い所で共有しているものがあるのかもしれない。


図8(※)
 



(追記2021.12.5)


「共感覚」に直接触れられているわけではないが、これに関連すると思われる吉本さんの言葉がある。わたしが『吉本さんのおくりもの(旧名 データベース 吉本隆明を読む)』( http://dbyoshimoto.web.fc2.com/ )で取りあげた項目からの引用である。
「言葉の吉本隆明②」項目505「発生期の状態の保存・発動」。



6 原始的な感覚の世界と臨死体験・超能力(引用者註.小見出し)

 それから、もう一つは目で見て人を識別するとか、自然を識別するということは目だけが働いていると考えないほうがよい。一番初めに手で触ったとか、母親と言葉にならない言葉でコミュニケーションを成り立たせていたとかという、手の触覚とか、音とか、「あわわ」言葉の音とか、そういうことも含めて、目で見る識別の仕方の中に全部総合的に含まれているのだというふうに考えたほうがよいという考え方になります。つまり、もっと言いますと、大脳皮質の奥のほうに、原始的な哺乳類の時代からあった脳の一番奥のほうにある部分を取ってくれば、そこでは目の感覚とそれから耳の感覚とか、におい、鼻の感覚とか、味わいの、口の感覚とかは全部どこかでつながっていた時代というのがあって、それが総合的につながっていて分化していない時代があった、そういう時期があったということが言えることになります。



 例えば、よく立花さんの本が出ていますけれども、臨死体験みたいのがあるでしょう。そうすると、臨死体験は何かと言ったら、要するに死に損なってと言いますか、死にそうになって意識が薄れてきてしまって、それでほかの内臓器官もあまり働かなくなって死にそうだと、そういうふうになっていくと自分の目の意識が体外に離れてしまって、ちょっと天井のほうに上がって、死にそうになっている自分とその周りの自分を手当てしているお医者さんとか、看護婦さんとか、泣いている近親の人とかというのを、自分が上のほうからちゃんと見えるというふうな体験があるわけです。それは臨死体験の一つなのです。なぜそういうのが可能かということがあるわけです。


 だけど、いずれにせよそういう臨死体験が難しいところは何かというと、どうして目はつぶってしまっているのに、もう死ぬ間際ですから、人間というのは目をつぶってしまったら見えるわけがないし、意識が薄れるばかりなのに、どうしてそういうふうに死にそうになっている自分を上のほうから自分が見ることができるのだということが不思議ではないか、おかしいではないかということが、いずれにせよ帰着するのはそこであるわけで、それを結論付けるのはなかなか難しいわけです。だから、宗教家は宗教家で、それはあの世にいく始まりなのであるというふうにちゃんと言ってしまって、あの世というのはそれからずっと飛んでいったあの世へ行くんだよと言って、それで行くのだけれど、普通はどこか死の向こうに人が立っていて、「おまえ、ここからもう来るな」と言われて、戻ってきたら意識が覚めたというふうなそういう話になるわけです。つまり、そういうことというのが一番難しいところは、死に損なって衰えた意識しかないのに、どうしてそれが上の天井のほうから自分で自分が見えるのか、あるいは自分の周辺が見えるのかということが不思議だということになるわけです。それはなぜかと言うと、人の考え方が、専門家で分かれてしまうのはそこのところだと思います。そういうことはないのだと、それは錯覚で後からくっ付けてそういうことを言っているだけなんだというふうに言いたいところですけど。
 僕も多少は臨死体験の報告集みたいなものを集めたり、読んだりしたことがありますけれど、自分の体を自分の上から見ていて、周囲の人が動いているのを見ていて、何を言ったか見えていると、どうしてもそう思わないとならないなと思える体験報告は多いのです。それを疑うことはできますけれども、それはないはずだと根拠もまたないのです。そうすると、僕が思うには、その一番よい説明の仕方は今申しましたとおり、目の感覚とか、耳の感覚とか、人間の五感というのは非常に発生の初めの頃、つまり母音だけしかなくて民族語に分かれていない、そういう言葉時代の時までさかのぼってしまうと、全部連結していると考えられるということができます。そうしますと、死にそうになっても一番後まで残っているのは耳です。耳の感覚です。声が一番残りますから、耳の感覚で声が聞こえるという体験ができる限りは、目も見えてしまうということが可能なのだというふうに考えるのが、僕の考え方では今のところ一番よろしいのではないかなと思っています。
 でも、そうなんだとあまり断定したくはないのです。世の中でも不明なことは断定したくはないわけです。断定はしませんけれど、考え方としては一番よいのではないかなと思う。宗教家みたいに「いや、来世というのがあるんだよ」と言ってしまうことも、なんとなくちょっとあれだし、「いや、そういうのは大でたらめだし、病気の一種で幻覚を見ているだけだよ」と言うのも何となくそうではないよと思えるところもあるわけです。だから、それもあまり言えないから、結局非常に意識が薄れていって、あらゆる内臓もそうだし、五感も死にそうになって衰えてきた。ある時点になると、あらゆる人間の感覚は全部連結してということが言えて、そうすると耳だけ聞こえさえすれば、必ず見えてしまうということはありえるのだよ、そういうふうな理解の仕方をするのがよいのではないかなと、今のところ僕は思います。つまり、断定はしませんから「そうではない」と言われても困ってしまうわけですけれど、そうだと思う。



それから、子どもでも、子どもも本当に確かめたことがないからわからないのですけれど、テレビや何かで時々やるのです。子どもに内緒で紙に図形みたいなものを書いたものを子どもに「当ててごらん」と言うと、子どもがそのくしゃくしゃに丸めた紙を耳に当てたり、こういうところに当てたりするのです。しばらくやっていて、「何だ」と。「ここに書いてあるとおりのことを書いてみな」と言って紙に書かせて、それで開けるとちゃんとできているということが、まぐれではない数だけ、意味がある数だけちゃんとあるわけです。出てくるわけです。それで、大体三歳未満の子どもは当たりやすい。四歳から上になってしまうと駄目だ、大人になるとまして駄目だとなるわけです。そうすると、三歳未満ということに何か意味を付けるとすれば、要するに非常にまだ「あわわ」言葉をやっている時代に、いろいろ耳が聞こえない耳のコミュニケーションをやっているだけで、いろいろなことが、母親が何を考えているのか、見ているのか、何を言おうとしているのかというのをわかってしまうわかり方というのが、切れずにと言いますか、非常によく保存されているとすれば、そういうことはありうるなと考えることができます。
 (「顔の文学」 ほぼ日の『吉本隆明の183講演』 A165、講演テキストより 講演日時:1994年11月24日)
 ※①と②の前半は、連続した文章です。







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 メモ2022.1.17 ― コロナウイルスの振る舞いについて


 私は、今回のコロナ以前にも似たようなものがあったと知って少し調べたことがある。そこで、100年ほど前のスペイン風邪は2、3年で収束したと知った時、そしてこの間の第五波の急な収束の体験、それらによって、ウイルス側にもその活動に何か理由があるのではないかとふと思ったことがある。そんな時、村瀬学さんの以下の言葉に出会った。ヨーロッパ由来の近代医学、現代医療は、そういう発想は無く一蹴するかもしれないが、近-現代の自然科学の成果を踏まえながら、太古からの世界観や世界論に匹敵する新たな世界観や世界論を構想されている村瀬学さんからの言葉である。


 ところで今回、こういう「鳥ことば」の番組から、お便りを始めましたのは、いくつかの理由があってのことでした。一つは、こういう「生き物同士のことば」を考えることから、当然「コロナウイルス同士のことば」のことが気にならざるを得ないという私の「思い」を佐藤さんにお伝えするためでした。「二〇一九年から二〇二一年にかけて、まるで「津波」のように第一波から第五波まで(たぶん第六波もくるのでしょうが)周期的な波を描いて、大都市部に襲来してきた「ウイルスたち」は、人間の側の「対策」で終焉してきているだけではなく、自らの「群れ」の都合でも、「周期性」を拡げたり終焉させたりしてきている面もあるのではないかという気がしています。「ウイルス」は生き物ではないのだから、「ウイルス」同士の「あや-とり」など、滑稽すぎる設定といわれるかもしれませんが、変異株とか、集団で姿形を変えるとき、何かしら「方言」を作って分岐してきた「人のことば」を思い起こしたりしてしまいます。「方言株」のような・・・・・・。まあ「妄想」の域を出ませんのですが、この二年間、人間の都合ばかりで「コロナウイルス退治」を「説明」しすぎているので、もう少し違った視点からも考えておくのは大事かも知れないと思っています。」
 (村瀬学 往復メール1「義憤について、肯定について」『飢餓陣営54』2021冬号)
 ※これは、『飢餓陣営』の編集・発行者である佐藤幹夫氏との往復メールである。


 こういう視点からのコロナウィルスの振る舞いの解明をする人々は、とても少ないかもしれない。しかし、自然の解明も、わたしたち人間自身の解明も終わることはないと思われる。近代的な西欧医学や医療に発祥する現在の医学や医療を超えようとする少数の人々が存在するように、今までの医学や医療からの視線ではなく、この村瀬さんのような視線を持ってコロナウイルスを解明する人々も存在するかもしれない。



 村瀬学さんの最近の文章は、下のホームページで読むことができる。
「村瀬学の小径」
http://jidoubunka.com/index.html
 主なものは、
1.「生命詩文集 織姫 千手のあやとり」
2.「命のわ」から 児童文化 最終講義







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 最近のツイートや覚書など

 ※今回は、だいぶん長めのものになっています。

2021/07/03
先日、ネットで南方熊楠に「人柱の話」という文章があるのを知った。「人柱」の話は、柳田国男も何度か触れていたが、それが説話なのか事実あったことなのか曖昧に感じられた。古川古松軒(ふるかわこしょうけん)の九州地方見聞記である「西遊雑記」にも一度「人柱」の話が出て来た。

南方熊楠の「人柱の話」は、旧字があったりで少々読みづらいが短文で「青空文庫」で読める。ヨーロッパやわが国の「人柱」の例を書物・資料から紹介している。なぜ橋や建物に「人柱」を立てるかというと、それによって橋や建物が守護され強固になると信じられていたかららしい。

マヤ文明やインカ帝国の「生け贄」もこの「人柱」と同様の考え方から来ているように見える。現在からは迷妄、無意味、残虐に見えるが、当時どうしてそういう思考法に至ったのかの解明は、わたしたちが人間というものを知る上で大切なことだと思う。

付け加えれば、近くは先の大戦の「特攻」もこの「人柱」と共通の心性から来ていると思う。



2021/07/12
吉本 うちの父はなんだかんだいってやっぱり、九州の人ですよね。
吉本 なんだかね、いままで父について「あれ? おかしいな」と思ったり
私から見て「ええっ!」と驚いたようなことが、「ここでは常識」って感じでした。
天草に行って「ああ、こういうことだったのか」と肌で感じることがありました。
吉本 だって、父なんて、一瞬も住んではいないはずなんですけどね。
吉本 だけどまあ、父がこっちに来て育った環境でも、周りは全員、天草の人でした。
(吉本ばなな 第4回 隆明さんと忠則さん。 2021-07-12 「ほぼ日」)


一般化すると、祖父母や父母が〈天草〉をものの感じ方や考え方や言葉や風習などとして身に着けていたとして、それは異郷(東京)で生まれた子ども(吉本さん)にも散布されるし浸透していく。しかし、吉本さんが東京で育ち妻との間に生まれた子らにはもはや〈天草〉は不明になるほど希釈されて浸透している



2021/08/25
レーニンの構想  公務員の給与
古い話では、レーニンは公務員の給料は労働者の平均でなければならないと構想したがうまくいかなかったらしい。そうしてソビエトロシアは、強制収容所やノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級を生みだした。この普通の時代になっても勘違いの特権性は中国やわが国でも蔓延しているようだ。



東浩紀「変異株と自粛疲れで感染拡大 医療体制を変えるほかない」
連載「eyes 東浩紀」

 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

*  *  *
 緊急事態宣言の延長と拡大が決まった。東京など6都府県に出されている宣言の期限が9月12日まで延長され、対象地域に京都や兵庫など7府県が追加された。新規感染者は連日2万人を超え、重症者数は日々最多を更新している。

 とはいえ市民の反応は驚くほど鈍い。人々は緊急事態に慣れきっている。ワクチンが普及し死者数が抑えられていることも大きい。街の空気は昨年4月の最初の宣言時とまったく異なっている。

 ネットではその状況に苛(いら)立ち、強いロックダウンを求める声が高まっている。分科会でも個人の行動を制限する法整備の必要性が議論されたという。けれども実現は難しいだろう。現状で自粛の要請は限界まで行われている。これ以上の人流抑制を求めるなら、外出したら罰金、県境を越えたら逮捕といった強制力を導入するほかない。現憲法下ではそれは困難だし、そもそも国民が許容するかどうかも疑わしい。いずれにせよ慎重な議論が必要なはずで、喫緊の危機には間に合わない。

 ではどうするか。結論からいえば、感染拡大をあるていど許容し、それに耐えるように医療体制を変えるほかないはずである。具体的にはコロナの感染症法上の分類を見直し、より多くの病院が入院患者を受け入れられるようにすべきだろう。医療関係者からは、そうすると命の選別が始まる、医療の質が落ちると反論があるが、これだけ大規模な流行のなか、従来と同じサービスを維持できると考えるほうに無理がある。平時で救えるべき命が救えなくなるのは痛ましい。しかしそれが災害というものだ。

 日本はこの1年半、強権的な戒厳令を発することもなく、自粛の「お願い」だけで感染を抑え込み、通常医療を維持してきた。それは世界に誇るべき成果である。けれどもそんな「日本モデル」は、変異株の出現と人々の自粛疲れで急速に機能を失い始めている。

 ワクチンも万能ではない。これから新たな変異株も現れるかもしれない。私たちはその現実を認めて再出発しなければならない。行動変容と感染防止が最大の正義だった段階は、もはや終わったのである。

---------------------------------

まず、こんな緊急時の医療体制の構築に直接の責任を負うのは国と地方自治体であり、現場では病院や医療従事者が活躍している。わたしは、そのいずれにも直接の責任が持てないから、普通の生活者の視線になる。だから、現在のような状況では一人でも多くの人がまともな医療が受けられるようにという視点

からの批評になる。この東浩紀は横目でチラくらいしか知らないし関心がないが、その上空からの「批評的視点」は、どうしてこういう現状になったかの認識もなく、口だけの政治家や言ってみるだけの評論家レベルでしかないなと思う。


2021/09/01
わたしは、他の疾病との死亡率の統計比較やこのような学者目線の言葉にはうんざりしている。そこには生身の自分は勘定に入ってない。いまあらゆる考えや言説に必要なのは自分を含めた生活者目線を必ず含んでいること。それ以外は、不毛と頽廃の知識のアクロバットに過ぎないと思う。

わたしは政治に多くのことを望んでいるわけではない。ただ、現在を生きているみんなが非正規待遇や経済格差など社会のもたらす大きな苦痛を受けることなく、それらが是正されできるだけ穏やかな生活が出来ることを望んでいるだけだ。また、対外的には、軍備に頼り過ぎるのではなく外国の人々を手厚く

待遇したりしてうまく付き合う本物の外交に注力することだ。この荒れた社会が今より良くなれば、家族関係も人間関係も少しはましになっていくと思う。後は、社会内のわたしたちひとりひとりの、少しでもより良い関係を織り上げていく日々の努力にかかっているはずだ。これは長い道のりでもある。



2021/09/03
まだまだ武力で相手をやっつけたり、政権を倒したりということが世界では起こっている。しかし、世論調査の政権支持率やバーチャル世界(SNS)での私たちの意思表示が、回りくどくてもある力を持ちうるようになっていると思う。そうして、これは武力と違って非暴力で血を流さない。


2021/09/04
メンタリスト DaiGoの件
彼の文章のチラ見から中身を想像できると確信するが、そんなまがいものの言葉でそんなべらぼうに稼いでいたなんてこの経済社会の仕組みはミラクルだ。あれだけたくさんの本を出してこの世界や人間の本質論を追究した吉本(隆明)さんは裕福どころかそんなに余裕のある生活ではなかったようなのに。

別に彼の所得をあまりうらやましいとも思わない。現在の経済社会の思想と人間観がそんな高額所得を受け入れている。プロスポーツ選手や有名人などが、多くの普通の人々を引きつけることによって、多額の経済的富を生みだしているからだろう。私はそれに異和感はあるが、現在の経済思想・人間観では解決不能だ。

唐突に見えるかもしれないが、毎月6~7万ぽっちではないBI(ベーシックインカム)が必要だと思うな。現在までの人間と社会が生みだした富の再分配、贈与による経済を回す(素人で可能どうかよくわからないけど)。そうした動きは、有名人の数億稼ぐという現在のいびつさも解消していくような気がする。

(名前は忘れていたけどやっとたどりついた。)前のツイート関連でなぜか、江戸後期の歌人橘曙覧(たちばなのあけみ)の「たのしみは」で始まる日常詠を思い出した。「たのしみは小豆の飯の冷たる茶漬てふ物になしてくふ時」高いパンケーキでもいいけど、誰にもこんなものがあるような気がする。


2021/09/06
岡井隆bot @OkaiTakashi_bot
風のなかの羽根を唱(うた)へる軽薄な公爵のこゑに総てが あ、る、の/岡井隆『E/T』 #tanka
2021年9月6日



一瞬、ムイシュキン公爵(ドストエフスキーの『白痴』の主人公)を思い浮かべたが、「軽薄な」とあるから違うかな。いずれにしても、これは日常場面ではない。物語世界の話題か。誰かに語りかけるような歌になっている。たぶん、こういう短歌的な表現は今では見慣れていても、目新しいものではなかったか。


歌集『E/T』は、2001年の刊行。当時はこんな表現もアリなのと、し、ん、せん、ね、だったのかもしれない。この歌の生命は「あ、る、の」にありそうだ。
風のなかの/羽根を唱(うた)へる/軽薄な/公爵のこゑに/総てが あ、る、の
6・7・5・9・7となり、散文的な歌になっている。


ワクチンについていろんな悪情報が流れてくるが、トランピアン(日本の場合は米と違って政治オタク趣味者)の人が流しても信頼できないんだよな。安倍ほどでなくても日常でよく嘘をつく人は、そのような者と見なされてしまうのと同じで、たとえホントのことを言っても信用されない。

しかし、インフルエンザワクチンは受けたことなくあんまりワクチンの世話になったことないけど、今回のワクチン問題は今までになく問題含みだなと思う。みなさん、警戒しながら受けているような印象がある。うちでも、奥さんが済み子どもが1回目済み、その後にしようと思っていた私は少し迷っている。


政治に限らず現在でも組織や集団の縛り(党派性)はきついだろうけど、究極のあれかこれかという場面では、やっぱり根っこの生活者(大衆、市民、住民、国民)を取るという課題は、依然として本質的、状況的課題であると思う。不幸にも孤立した赤木さんだったが、その課題に存在を賭けて答えたのだと思う。


2021/09/07
この名前を見て、読み方もわからず、何の根拠もなく、アイヌ語との関わりがありそうに思った。調べてみたら、白老(しらおい)「地名は、アイヌ語のシラウヲイにより、「虻(あぶ)の多いところ」を意味する。」ともある。虻と言えば、汗に反応するのか、そのまとい付くしつこさはこのうえもない。


2021/09/09
現代短歌bot@gendai_tanka
婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカ強い強い  飯田有子 #短歌
2021年9月9日

この歌の本流は、「婦人用トイレ表示」や「ケンカ」への強い選択性やこだわりと、「きらいきらい」や「強い強い」というリズムに乗った強い感情表現にある。短歌表現として見れば、通俗的に見え感じられるが、57577の枠の拡張や破壊の欲求を秘めているか。いろんな歌人にも出会えるなあ。


2021/09/11
「ワクチン接種と因果関係が明らかな死亡はない」などと自信過剰で、断言調で言う医者などがいるが、単に現在の科学の水準ではその解明ができないということに過ぎない。むしろしょんぼり言うべきこと。接種後の副作用(副反応って何?)はもっとなんとかならないものか。ロシアンルーレットの気分。


2021/09/12
アニメを実写化というのは聞いたことも観たこともある。今初めて目にしたが、実写をアニメ風に変換してくれるソフトがあるんだ、ふうん、映像の自由度の拡大か。ところで、昔なら写真や映像に撮られたらそれは〈事実〉で逃れようもないことだったが、現在では処理や加工の問題も考慮しなくてはならなくなった。


2021/09/13
会話や仕事のために英語を学ばなくてはならない苦役(一部のものには快楽)から、こんならも早く解放されそうな勢いに、わたしは爽快な気分になる。他の教科についても、教育もそろそろ曲がり角で大きな変革が必要な気配を感じている。

細分化の袋小路から、何やら利益誘導を思わせるこの前の大学入試改革(失敗に終わったが)のようなさらなる細分化ではなく、子どもにとっても先生にとっても苦役としての教育からバッサリと、現在において何が最低必要か、そこから教育内容を大改革すべき時期に来ていると思う。


2021/09/13
百日草の名前から、数のことを少し考えてしまった。百日草がどのくらいの期間咲き続けるのか観察した人はいるのだろうか。いくら長く咲き続けるといっても千日草では大げさだから事実関係を考慮して長く咲く花という意味で「百日草」と名付けたのだろうか。

とても長いという意味で千日草と適当に書いたら、千日草(千日紅)という花も実際にあった。今では100といえばきっちり100という数や量を表すが、遙か昔に遡っていけばだんだん「たくさん」という意味の数である100などに近づくのだろう。八岐大蛇、八百万の神、十重二十重(とえはたえ)・・・。


2021/09/22
例えば「勝手踏切」にも歴史的な事情があり、小さな生活道路を断ち切る形で線路を通さざるを得なかったために、「勝手踏切」として鉄道法上と生活現実とのあいまいな形で今に至り、きっぱりと割り切れない現状がある。これは、超未来の銀河鉄道999みたいに上空を走る汽車や車が普通にならないと解決は無理かな。
あるいは、大きな自然災害対策や生活環境対策として、日本列島にいくつか形成される巨大なバベルの塔みたいな都市にみんなが住むようにならないと解決できないのではなかろうか。


2021/09/23
わたしは、人間の誰にも関わる経済(活動)には関心があるが、細分化された経済学のリフレやらインフレやタフレやフレフレなどには興味関心が入って行かない。要するに、現状と違って、わたしたち国民(生活者大衆)を中心に据えた、そのための経済政策を取ればいいだけと思っている。それが判定の基準。


2021/09/24
前回の民主党政権は、自民党の悪しき村政治からの脱却を図ろうとしたのだろうが、一度目でもたついたり党内部のトラブルで沈没した。今度の政権交代ではその負の経験が生かされ国民に開かれた政治を望む。安倍政権以降自民党は法律無視や裏工作やエア政治(やってる振りの政治)の限りを尽くしてきている。腐敗は進行中。


私たちの世界では、わいわいはしゃいだり、寝転んだり、ぼーとしたり、ひとりに思い沈んだり、は普通のことだが、主流にいると勘違いしている多くの政治家や経営者や評論家、学者はそのことを捨象してるのではないか。つまり、狭量な人間把握から合理性や生産性やキャリアアップ等々の諸概念が出て来る


2021/09/25
政権と官僚層とマスコミとの三位一体が構成する日本社会の権力構造を分析して見せた『日本/権力構造の謎』の労作で知られるカレル・バン・ウォルフレンが、陰謀論的な考え方に落ち込んでいるという毎日新聞の今朝の記事に出会った。驚いた。
https://mainichi.jp/articles/20210924/k00/00m/030/174000c

結局、何が問題かと言えば、自分の考え(思想)の拠り所をどこに置くかということの問題だと思われる。例えば、人はUFOの存在を信じUFO世界にのめり込むことが出来る。ちょうど、汽車や電車の趣味に熱中し没入するのと同じように。しかし、人は、具体的に活動し日々生きていくから、その日常世界に帰って行かなくてはならない。

つまり、私たちの日常世界での具体性を伴った感じ考え行動するを無視した抽象的な思考や思想は、部分的にしか成り立たない。陰謀論的な感じ考え方は、日常生活の中ではちょうど大工の息子にしか見えないイエスが故郷で受け入れられなかったと同じようにしか見なされない。

P.S.(付け加えれば、)人類の歴史のなかで生みだし構成してきた〈人間〉というものの有り様は、陰謀論的な感じ考え方と希望や勇気や向上心に満ちた考え方とを両極端として、善も悪もかき混ぜられているその中間のスペクトル帯に小さな善や悪に揺れながらもいい加減になったり真面目になったりして生きて在る、と見える。


2021/09/26
村瀬学さんのホームページに『生命詩文集 織姫 千手のあやとり』(PDFファイル 76P)がUPされていて、無料で読めます。冊子も頒布されるようです。読みたいと思っていた村瀬さんのベーシックインカムについての文(雑誌『飢餓陣営』に掲載されていたのは「ベーシックインカムから存在給付へ」かな?)も

収めてあります。
ホームページ「村瀬学の小径」
http://jidoubunka.com/ 



子供の絵
伊東静雄

赤いろにふちどられた
大きい青い十字花が
つぎつぎにいっぱい宙に咲く
きれいな花ね たくさんたくさん
ちがうよ おホシさんだよ おかあさん
まんなかをすっと線がよこぎって
遠く右のはしに棒が立つ
ああ野の電線
ひしゃげたようなあわれな家が
手まえの左のすみっこに
そして細長い窓ができ その下は草ぼうぼう
ぼうやのおうちね
うん これがお父さんの窓
性急に余白が一面くろく塗りたくられる
晩だ 晩だ
ウシドロボウだ ゴウトウだ
なるほど なるほど
目玉をむいたでくのぼうが
前のめりに両手をぶらさげ
電柱のかげからひとりフラフラやってくる
くらいくらい野の上を
星の花をくぐって

「伊東静雄詩集」所収 1953


伊東静雄の敗戦後の詩のひとつ。このような詩からは、それ以前の詩(詩集『わがひとに与ふる哀歌』『夏花』『春のいそぎ』)は想像できない。しかし、京都帝大在学中に書いて懸賞に応募し一等当選した童話「美しい朋輩達」―話の概略はわかるけど、今に残ってはいない―と通ずる感性の詩ではないかと思う。



劇場版の『「鬼滅の刃」無限列車編』の公開は2020年10月16日。そして、1年も経たないうちに、それが昨日テレビ放送された。一昔前は4年ほどしてから映画はテレビ放送されていたような印象がある。それが最近では2年くらいになっているなと感じていた。テレビで続篇を放送したり、グッズを販売して

いたり、読者・観客の興味関心をつなぎ止めたいという欲求の表現なのか。その道に詳しくないので、そんな印象で終わるしかない。しかし、この映画版→テレビ放送の時間の短縮は、この問題に限らず、この社会の表層を流れる時間の加速化と連動しているように感じている。

そのような時間の加速化は、学校の子どもの学習意識や会社の仕事においては切迫感をもたらすなどの負の性質もありうるが、ゲームを楽しむような快をもたらす面もある。ともかく、この時間の短縮はわたし(たち)にはありがたい。録画したので、たくさんのコマーシャルをかき分けて近々観たいと思う。


2021/10/01
今の与党政治(自公、維新含む)には否定的関心しかない。つまり、早く消えて欲しいだけである。そうして、悪行の数々が白日の下に晒されて責任を取らされるべきである。そうでないとわたしたちはいつまでたっても〈未来〉に入っていくことができない。

政治が〈未来〉に入るための最低条件は、裏で利害を回し合ったり政争したりする村政治の自民党的なもの(公明・維新含む)を一掃することである。しかも、「保守」なんて単なる退行の別名でしかないものを看板にしているが、安倍-菅によってそれはシン自民党として腐敗の領域にまで進化してしまっている。

この〈未来〉、〈未来〉に入るとは、もちろん、未だかつてなかったこと、すなわち、降り積もった解決すべき疲弊した社会的な諸課題を国民(生活者大衆)中心に解く態勢を築き実行に入ること。口先だけの「トリクルダウン」政治ではなく、国民主権の、国民(生活者大衆)中心の政治に入ることである。


2021/10/02
RT 朝日新聞の記事 HPVワクチンの問題

この問題は、現在進行中のコロナワクチンの「副反応」とも関連する。それをいろんな例示として見る以前には、HPVワクチンの問題は、「副反応」なんてないという医者や医者擬きもいて実感としてはよくわからなかった。ワクチンの有用性は認めるが、問題をオープンにしてていねいに対処する、これが基本


2021/10/05
最近では、テレQで『王になった男』、『王女の男』、『奇皇后』等の韓国時代劇を観てきたが、わが国の時代劇とは違ったものがあり、ハラハラドキドキいいもてなしの作品になっていた。しかも、宮中での激しい権力争いを通して、権力の不可避さと同時に権力というものの悲哀や虚しさも描いている。

『吉宗評判記 暴れん坊将軍』の、将軍が街中を出歩いたり、悪党との立ち回りをするなんてあり得ないことだったろうが、将軍職周辺の窮屈さはあり得たことでそれも作品として匂わせている。国家の最初期を想像すると、長は集落の民とも近く、『吉宗評判記』のような世界に収束していくのかもしれない。

将軍職周辺の窮屈さから連想して、現在でも窮屈さが残っていると思われるのは、天皇家だろう。たぶん、日常生活の中の話し方や考え方や振る舞いにも〈天皇家〉という型(窮屈さ)が浸透したものになっているのではなかろうか。今回の結婚に関してもづけづけ言いたいように言うことはかなわないのだろう。


2021/10/06
数百年規模の長周期の地球の振る舞いから来る寒冷化-温暖化の「温暖化」の問題も、人為が地球に与えうる影響も、今度の新しいワクチンも、自然や自然の一部(人の体)がまだよくわかっていない。自信過剰で大声で主張する者があるが、まだよくわかっていないことに対して謙虚であるべきだと思う。


岡井隆の『わが告白』を読み終えた。短歌・詩(表現)をイメージや幻想となった〈わたし〉の振る舞いとすれば、作者はこの『わが告白』をも詩(機会詩)と見なしたがっているが、これは地上につなぎ止められた地上的な〈わたし〉の有り様を自己対話によってできるだけ偽り少なく捉えようとする試みの書であろう。

この『わが告白』(2011年12月)に触れることによって、岡井隆の短歌・詩の表現がきわめて地上的なモチーフを持ったものとして、人間的な生ま身の姿でわたしたち読者の前に現れていることを、再確認させてくれるだろうと思う。

岡井隆は、若い頃にはキリスト教にも熱を入れ、政治運動にも関わった。歌会始への関わりは、それも古代からの歌の一部だから、そういう世界も見ておこうじゃないか、という考えからと思っていたら、違ったようだ。『わが告白』によると、岡井隆も柳田國男と同様に天皇や皇后に親愛の情を持っていた。


2021/10/11
日本テレビと言えば、最近気づいたこと。夕方の「news every.」で、ニュースなどを報じているときに、聞こえるか聞こえないか位の音量でバックミュージックを流していて、サブリミナル効果を連想してうんざりした。そこまで音響効果にこだわるか。ニュースの内容にこそこだわって欲しいよ。


2021/10/12
美術ファン@世界の名画@bijutsufan
黒田清輝『ポプラの黄葉』1891年 島根県立石見美術館

江戸時代までの様式の美(例えば松の木の描写)からは考えられない描写、表現だと思う。作者の中で時代の変位と対応した思考や美的感覚の葛藤、変位が起こっているのだろう。


2021/10/13

厚生労働省@MHLWitter
A.「ワクチンを接種した後に亡くなった」ということは、「ワクチンが原因で亡くなった」ということではありません。接種後の死亡事例は報告されていますが、現時点で、新型コロナワクチンの接種が原因で多くの方が亡くなったということはありません。


おっとう、自信過剰。現在の科学の水準では関係あるかないかを判断できない、と小声で言うべきではないか。ともかく、今回のワクチンでワクチンはちょっとアブナイものとイメージが悪化した、これはわたしだけではないと思う。みなおそるおそるワクチンを打ったのではなかろうか。


2021/10/22
マイナンバーカードは、私たちの前に現れた最初から、
1.何が便利なの?
2.面倒くさい書類を毎度添付しなくちゃならないの?
というふうに、私たち国民の利便のためとは思えなかった。また、信用できない自公政権が進めることやあまりに信用できない大臣のヘタな歌の宣伝にもうんざりした。



2021/10/23
NHK『ドキュメント72時間』「夏の終わりに 駅地下の駐輪場で」

NHK『ドキュメント72時間』を途中から少し観た。例えば『鶴瓶の家族に乾杯』と比べて、盛り上げようとか何か面白いものを掘り出そうとかいう意図が少ない。ありふれた、しかも言葉に言い尽くせないものを沈めた日常の一コマをインタビューを通してさり気なく浮かび上がらせる。いい番組だなと思う。


2021/10/26
現在でも、○×主義とか△□主義とかあって、互いに対立ししのぎを削っているが、政治(宗教・行政)が小さな集落レベルで始まった太古には当然そんな主義主義はなかった。もし、政治(行政)がほんとうに国民(住民、生活者大衆)のためであるならそういう対立はおかしいが、現在の段階ではそれを抜け出せないでいる。

100年後には、「無党派」が100パーセント近くなり、ということは党派が消滅して政治(行政)が真に国民(住民、生活者大衆)のためのものとなり、政治(行政)を当番のように担当するメンバーが互いに知恵を出し合うようになっているだろうか。しかし、私は100年後を待てない。


2021/10/31
勝海舟『氷川清話』(講談社学術文庫版)をすこしずつ読み、やっと読み終えた。併読だから読むのが遅い。西郷隆盛と勝海舟は、政治的実践家としてともに群を抜いて優れていたと思う。さらに、個人的な生き方としてもともに魅力的な人物である。ひとつ引用。(P341),「畢竟」(ひっきょう)。

「いつかおれは、紀州侯の御屋敷へ上つた帰り途に、裏棚(うらだな)社会へ立寄つて、不景気の実状を聞いたが、この先四、五日の生活が続かうかと心配して居るものが諸方にあつたよ。畢竟社会問題といふものは、おもにこの辺から起るのだから、為政家は、始終裏棚社会に注意して居なければいけないヨ。」



覚書2021.1102

近目には、口では国民(生活者住民)のための政治と言いながら、互いに対立する党派や集団が存在する現在があり、その現状を無視することはできない。たぶんどこへこぼれ落ちるかわからないトリクルダウン政治が相変わらず続いている。与野党の選挙支援活動に関わる人々を全否定はしないが、私はそこじゃないと思う。遠目には、太古の集落の行政の始まりと同様に、対立する党派は消滅し「いやいやでも」誰かが行政を担当しなくてはならないというイメージになる。現在の、優等生風の使命感を持った「好き好き」の議員ではなく、学校の生徒委員のように「いやいやでも」誰かが担当し知恵を出し合う、そういう行政のイメージになる。したがって、二つの目を現在の私において統合すれば、いわゆる「無党派」としていずれの党派にも加担しないという立ち位置になる。加担するとすれば、私たち生活者住民の無言の意志、日々の生活のきぼうのようなものであろうか。
この「近目」「遠目」は、吉本さんの「現在的な課題」と「永続的な課題」ということを意識している。


2021/11/06
現在は、映像の時代で、言葉だけではなんとなく物足りない気分になるような気がする。それを想像力が弱まるとか欠如すると考える向きもあるかもしれないが、この動向は避けられない必然の流れだと思う。いくら想像しても現場の具体性を構成するのは難しい気がする。


今まで韓国の主に宮廷ドラマをいくつか観てきた。今は「ホジュン―宮廷医官への道」を観ている。両班(ヤンバン)という民衆よりも上層の階級がしばしば出てくる。わが国の武家層や貴族層に相当するものか。ドラマで観る限り、階層間の断絶や対立は、わが国よりも韓国の方が厳しかったように見える。


2021/11/07
うーん、現在から見たらそういうことも無視できないと思えますが、例えばスマホ(私は持ちませんが)を通して話すのは直接的な自然の肉声ではありませんね。私たちはずいぶん人工的な自然ver2.0の世界に住みそのことになじんできています。コミュニケーションは貫きつつ形態が変位していると思います。

100年前の写真などで見ることができますが、昔の人はものすごい重い荷物を担ぐことができますね、あるいはそうせざるを得なかったからそうしたのでしょう。現在ではパワースーツなどが補助してくれますね。いろんなところで、旧来の自然性を更新しつつあるように感じています。

例えば「教育」を考える時、馬車馬のような現在の流れや考えを背景に、経験・学習・反復・競争・成果等々自分の考えを組み立てる人々が多いと思うが、自分のいい加減な学校時代や太古の人々のおそらくゆるい時間の中の学びということについて想起してみることは、現在のビョーキから免れる一つと思う。


2021/11/08
私は「マイナンバーカード」は作ってないし、書類はいつもパスしている。「マイナンバーカード」に不審・不信を感じる理由は、制度が出来て何年経つか知らないけど、最初から私たちが便利だなと感じるように作るべきだったと思う。それが逆に何々の書類添付が必要だのかえって面倒そうだった。

つまり、あちら(行政)の都合が中心で私たち国民(生活者)のことを中心に考えていないんだなというのが見え見えだった。今頃になって、健康保険証としても使えるし、ポイントがどうのと言われてもね。馬鹿にしてるじゃないか。


2021/11/09
今(11月3日)NHKが「SDGsをクイズで楽しく学ぶエンタメ番組」を放送している。「SDGs」という言葉を私は積極的に使うことはない。なんか異和感がある。現在の世界レベルの課題を解決しようで良いのではないか。ところで、例えば人間界の公害どころではない人間界を超えた自然界の威力や規模はものすごい。

年間の人間界の二酸化炭素総排出量と自然界のその総排出量(火山の噴火などなど)とはきちんと計算・計量された上で、現在では人間界の二酸化炭素総排出量が勝っていて影響力があると見なされているのだろうか。また、それと関わって自然界の長周期の寒冷化・温暖化という有無を言わさぬ振る舞いもある。

当然のことだろうが、自然界の二酸化炭素排出量も分析されているようだ。

Forbes Japan
「人類による二酸化炭素排出量は「火山の100倍」であると判明」
forbesjapan.com
人類による二酸化炭素排出量は「火山の100倍」であると判明 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)
大気中の二酸化炭素の最大の排出源は人類の活動であることが、学術誌「エレメンツ」に掲載された論文で明らかになった。この研究は各国の科学者500人以上が参加した国際共同研究機関「深部炭素観測(ディープ・カーボン・オブザーバトリー、DCO)」による
2021年11月8日


かと言って、宇宙に浸かっている地球の三百年位の長周期の寒冷化・温暖化という有無を言わさぬ振る舞いと人間界の産業活動(人間力)の影響力と比べものになるのかなという疑念は残る。よく「地球に優しい」とか耳にするが、地球という自然はそういうことに関わりなく生誕から死への道を自然に進んでいく。


2021/11/19
もし、アメリカなどの軍やNPOやNGOなどの世界での振る舞いとその意味・評価を知りたければ、ということは、安易な「力の政治」「軍事力の行使」の無意味さを知りたければ、アフガニスタンに生きて活動した中村哲の言葉、そのアフガン社会の内からの、民衆の内を潜ってきた視線や言葉に学ぶべきだと思う。

中村哲は、西欧的視線につながる、主に1割ほどの都市住民からの女性の権利の主張や教育問題など否定はしないが、それよりも8割の農民と1割の遊牧民の織り成すアフガン農業社会で、大きな干害に難民化していた人々がまずは〈食べて〉〈生きる〉ことに視線を注いでいた。


2021/11/20
「根も葉もルーマー」って何かいなと思ったら、秋元康の作詞した歌「根も葉もRumor」。この歌の中の「僕」は若者だろうから、63歳位の秋元康は、日頃若者世界に深く付き合っていたとしても、想像的に努力して若者になりきっていることになる。英語のフレーズを歌詞に混ぜるのはもう自然になってしま

ったのかな。平安朝なら中国のフレーズを混ぜていたろうか。その英語のフレーズや「根も葉も(ない)噂」でなくてじれったい「根も葉も(ない)Rumor」というのは、若者たちの生の心を飾り付けして舞台に上げる〈衣裳〉に当たっている。そして、「僕」自体になりきってしまうのは難しいことだが、

感触としてだが(「大人になるってそういうことだって思う」や「生々しいキスマークが/君の人生だ」など)、「僕」を抜け出した作者の上から目線も混じっていると思う。
まあ、それにしても若者世界を〈歌い〉続けるのもたいへんだろうな、と思う。


2021/11/25
「オスプレイは扉を開けて飛行することがあり」としても、どうやったら上空から水筒が落ちるのだろうか?ふざけていた?遊んでいた?みらこーみらこー?防衛省@ModJapan_jp などは、毅然として、アメリカ軍の弁明を獲得し私たちに公開すべし。弱腰やムニャムニャばかりではため息しか出ない。


2021/11/26
「地位協定は第1次裁判権が米国側にあると定める」って、「地位協定」も日本側担当者もクソッタレじゃないか。「普天間のオスプレイは13年2月にも」水筒を落下させていたとは、オスプレイは水筒を落下させやすい構造なのか?米軍はアフガニスタンにおけると同様に日本人に対しても上から目線を感じる。


それと、外から島に来た者たちに対する恥ずかしいまでの担当部署や官僚・政治家たち(よく知らないが、外務省や防衛省か)の屈従ぶり。まるで、太古の南洋の島々に見られたようなマレビト信仰。何が軍事だ、力の政治だ、世界戦略だ。外交や軍事や人間社会に対する見識の欠片もない。


2021/11/28
詩はお金にならないとよく言われる。これをしょんぼりではなくてアクティブに理解すると、詩はどこにも遠慮せずに自由に言葉を行使できるということを意味する。おうおう、やってやろうじゃないか。この世界を、そして自分自身をも、白日の下に晒すんだ。みちのイメージが点るまで。


文学では、純文学と大衆文学の無用な垣根が壊れて久しい。「無用な」ということは現在から眺めて言えることである。思想では、知識人・学者などと私たち素人の垣根。・・・たくさんの垣根があったのが、壊れ果てているが、これは産業社会(消費資本主義)がもたらした自然な過程であって、自覚的な捉え返しというわけではない。

人間はもたらされた新たな自然(人工的な自然)との出会いの中で、今までにない深い自然のレイヤと出会っている。コロナワクチンの開発もそのひとつだろう。その過程で、自然とは何か、人間とは何かが新たな表情で浮上し、私たちに問いかけてくる。文学や思想においてもまた。


2021/11/29
創価学会の「財務 」という言葉は「お布施」のことなのか。宗教団体が、政治集団や政党を作って社会も改革してやろうという野心・野望を持たなければ、メンバーの人々は心穏やかにお茶のみ友達みたいにハッピーになれるのかもしれない。生長の家は、前者みたいな日本会議系とそうでないのに分裂しているという。


 連合会長発言に
宗教が、経済団体が、労働団体が、社会改造しないとどうにもならないと政治にしゃしゃり出いる。しかし、それはろくなことはない。それぞれが圏内で自己解決できるよう団体としてメンバーを可能なかぎり支援するのが団体の本質だろう。それがとても難しいから、他力本願で政府に頼りすがり、大口を叩くってか?


2021/11/30
米軍側からは「水筒は本来固定すべきだったが固定されていなかった」と説明があり、・・・・・・って、意味わからんね。「固定」は人に?それとも機体に?図解入りで、素人にもわかるように説明してもらわないと。しかも、同様の事故が前回もあったというし。


2021/12/05
オリバーサックスの『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』(1997年3月)を読んでいたら、何十年も盲目の生活をしていた男が白内障手術でだいぶん目が見えるようになったという話があった。ドラマとかでは、目が見えるようになったら感動的な場面だが、そうでもないという。

今までの盲目の自分に合わせて世界を了解していた自分のシステムを、新たに作り替えなくてはならないから、とても大変なことだと記されている。目で見えるからちゃんと物の配置などがすぐに理解できるわけではないという。だから、目が見えるようになって不幸になる人も居たという。


覚書2021.12.08

例えば、現在の糸が絡まりすぎたような複雑な教育の問題や経済の問題を考える時、遙か太古の教育や経済が小さな集落レベルだった頃―それは近代以前まで尾を引いていた―をあれこれ想像してみることは、とても大切だと思われる。現状に凝り固まった頭を少しほぐしてくれると思う。



今、『内藤礼〈母型〉 (神戸芸術工科大学レクチャーブックス)』(内藤礼 、 中村鐵太郎(聞き手) )を読んでいる。作者が自分の作品を設けることで何を考え感じようとしているのか、内からのモチーフが語られていて興味深い。ただ、掲載されている作品の図が少々わかりづらい。現地を見る必要ありか。


2021/12/24
『「ことば」の課外授業』(西江雅之 洋泉社新書)を読んでいたら、ほとんど誰もが遭遇するようなことが2つ書いてあった。

1.たとえば、ロシア語を聞いても、多くの日本人はわからないわけです。ところが、ロシア人がことばで「ナントカナントカ!(どうしてわかんないのかーっ!)」と怒鳴ったら、少しはわかる。パラ・ランゲージの部分は、共通したところがありますから。「怒鳴ってるから、なんかイライラしてるんじゃないか」というように、これは通じますよね。
 でも、書かれた言語の場合はわかりません。言語だけでは理解不可能です。(P160 )


(辞書から)
パラ・ランゲージ:話し手から聞き手に伝達される情報のうち、言語以外の情報。話すときの声の強弱や高低、イントネーション、身振りなど。パラ言語。

2.言語とは違って、ことばにはパラ・ランゲージが必ず付きまとう。ですから、たとえばシャンソンを聴いていて、フランス語が一言もわからなくても、通じる部分はいっぱいあります。ヴォーカル音楽というのはそもそも、音色、スピード、声の特徴などといったパラ・ランゲージ中心ですから。
「あれはロシア語で歌っているのだ」とか「わー、英語のジャズは歌もいいなあ」というように、それが言語で歌われているものだということまではわかるものの、その言語的な意味はまったくわからないという場合でも、心に通じてくるものは多いんです。(P161-P162)





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 最近のツイートや覚書など 2022年1月


2022/01/01
YouTuberってよく知らないけど、バーチャルな芸人さん(表現者)と言えるのかな。動画を撮ってネットに公表したり、ネット世界に言葉で表現したり、いろんな表現が、表現-編集-製作・印刷-郵送・頒布などを含めた従来的な面倒な手続き(それが一定程度の水準の確保でもあるのだろうが)が不要になった。


あら、「五黄の寅」(ごおうのとら)は、初めて出会う言葉で、読み流していました。背景にありそうな「陰陽五行」については、吉野裕子(ひろこ)という民俗学者が割りとわかりやすく解いていますが、それでもなんだか面倒で読み流しました。

柳田国男が「陰陽五行」に触れていた記憶はないし、「陰陽五行」や「九星術」などは割りと知識上層や地主さんレベルまでの浸透だったのではないか(民衆レベルでは、はあそうなんですかという耳学問レベルで)と思っていますがどうなんでしょうか。

Tさんより
詳しくは無いのですが華・韓国の歴史物にも、天象師や星を占う人物が王朝に重要な位置を占めていたことも平安期に陰陽師がいたりと。王朝、貴族に縁が深かったかと。父のように不動産や土地の転売をした人にも、治療師にも結構知識ある人はいますが。庶民的にはどうなのかなぁ。

例えば、現在の流行で言えば、学者や国連や政府から下りてくる「地球温暖化」とその対策に関することとわたしたち生活者レベルがそれを「ふうん、そういう状況なのか。そうなのか」とうけとめる状況と似たような構図かなと思って居ります。


パンデミック時代 資本主義に代わる未来は 経済思想家・斎藤幸平さん×環境経済学者・宮本憲一さん対談
http★s://a.msn.com/01/ja-jp/AASkbmo?ocid=winp-st   
(※ ★印を加えています)
「気候変動問題はここ数十年間のうちに、何百年間も経済活動を支えてきた化石燃料を実質的に全撤廃しないといけないような状況に差し掛かっている。」


主に先進諸国が、その線上に動いているのはわかる。しかし、わたしには、その行動の大本の「地球温暖化」の主原因が、300年規模の地球の温暖化-寒冷化の周期的な振る舞いによるのか、人間界の化石燃料消費によるものなのかどうかがまだよく納得できない。


2022/01/07
宮澤賢治の詩にリアカーを詠み込んだものがある
1.『春と修羅』第三集 一〇四二 『〔同心町の夜あけがた〕』
2.「〔レアカーを引きナイフをもって〕」(『春と修羅 第3集』No1048)

和製英語のリアカー(後部・車)は、1921年頃、静岡県富士市青島の望月虎一が発明した、とwikiにある。リアカーは普通のものになっていて、引いたことも乗ったこともある。学生時代の引越にも使った。ブルマもそうだが、リアカーも登場時は、華々しいイメージでカッコ良く登場したのだろう。

「リヤカーを引く宮澤賢治」の写真(?)があった。
http★s://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/476df7de58b22b1f4c0622995829e319


われわれ月給をとったことのあるもの
それ全体への疑ひや
漠然とした反感ならば
容易にこれは抜き得ない
(宮澤賢治〔同心町の夜あけがた〕)

言葉は、時代性を持つ。ここには、都市と農村、知識層と大衆(農民)とが対立的に現象した時代の言葉がある。現在の、都市と農村の垣根が壊れ全国が都市化し、大学進学率が50%を超え、サービス産業が農業の割合と逆転してしまった消費資本主義社会では、純文学と大衆文学、知識層と大衆の垣根が壊れ混交している。

現在は、中流社会からの揺り戻しの格差拡大社会になってはいるが、その動向は、いろんな波乱を含みつつも、賢治の時代の都市と農村の対立的に見える社会構造からの高低、格差、対立、反感を少なくともフラット(平準化)にする方向を進んできたのは間違いない。ただし、現在では別の形のそれらが生み出されているのかもしれない。


2022/01/08
「日本に国際社会からオリンピックを7年前に招致したのは私たちです。そしてそれを喜んだし、ここ数年の状況をみんなは喜んだはず。だからあなたも私も問われる話。私はそういうふうに描く」(河瀬直美、日刊ゲンダイ)
この「私」はわかるとして、「私たち」や「あなた」というのは誰を指しているのか。

百人程度の村社会が想定されているのか、それともわが国の総人口を想定した架空の儀礼の言葉、物語なのか。はっきりと「5万人の私たち」とか述べてほしい。少なくとも、私はオリンピックに興味関心ゼロだったし、その映画に何の関心もないということを言っておきたい。

その上で、コロナ禍でのオリンピックに反対した。たぶん、諸問題にフタをした粉飾されたオリンピック物語になるんだろうな。


2022/01/22
浦野興治『諫早少年記』を読んでいたら、「あもよ」という言葉に出会った。主人公の少年祐次が「あもよ」を恐れていると語り手は言う。主人公も語り手も作者の体験した地域性の実感的な記憶像をもとに形作られているはずだ。「あもよ」は、幼児語で「おばけ。幽霊」のこと。「泣きよったら、あもよの来るよ」。

柳田国男の文章中で、以前「あもよ」という言葉に出会って、私の耳の記憶が感応したことがある。例えば、宮沢賢治の詩「永訣の朝」に(あめゆじゆとてちてけんじや)という地域性の言葉(方言)の詩句がある。これと同じく、日本列島の同じ日本語でも地域性の屈折が加わって、それぞれ実感の断層がある。



2022/01/24
覚書2022.1.24
最近のテレビCMを観ててひと言。
1.1円玉を作るのに3円かかる
2.オジサンという名の魚がいる
3.東急リバブル・・・
広告の言語は、例えば、1と2は別のものと自由に交換可能だが、3は必須だ。

1と2は、旧来的な広告の本質からは無くても構わないが、現在はその衣装も必須のものとなっている。広告の極限は、3を有るか無きかの微量にして芸術作品と化することだろうか。



2022/01/26
柱時計

ぼくが
死んでからでも
十二時がきたら 十二 
鳴るのかい

苦労するなあ
まあいいや
しっかり鳴って
おくれ

淵上毛錢
1950



「ぼく」が死んだらぼくの宇宙は終わる。しかし、私たちが他人の死について見聞きしてきたことや宇宙についての現在までの知見によれば、ぼくの宇宙が終わってしまっても彼や彼らの宇宙として当分は続きそうに見える。科学的には割とはっきりしてても、私たちの誕生も死もふしぎとしか言い様がない。



現在のところの定義によれば、電波は物質ではないという。電磁波(電波)は、「 電場と磁場の変化を伝搬する波( 波動 )である。電磁波は波と粒子の性質を併せ持」つ。映画「スタートレック」の物質や人をも転送できる転送装置とは違うが、電波は映像や音声を乗せて、私たちの前に届ける。

もうそれを自然なものとして受けとめ日々活用しているけど、原理がわかっても、ふしぎだ。


2022/01/27
Sさん
参加者一人につき2万5千円ですか?と聞き返されて、たまげたよ。世の研修ビジネスはおそろ(ママ「し」の脱落か)い。一回の研修の報酬ですよ、と言ったらそんなに安くていいんですか?と。そんなもんでしょ。


Sさんへ(参考までに)
吉本 ・・・だけど一般論として、慣用としては、ちゃんと確立しています。たとえば文学界でいえば、「講演の謝礼は一五万円から二〇万円ぐらい、送り迎えつきで、このテーマについて話してくれませんか?」などと頼まれて、引き受けたり断ったりします。これが普通です。・・・タダでも話すというのは、よほど気心が知れた仲間同士とか、そういう相手でなければそういう相手でなければやりませんね。区役所の図書館などでおしゃべりするときは、だいたい五万円ぐらいです。
 引き受けるほうの金額は人さまざまで、文学者でもタダから「一〇〇万円以下じゃやらない」といわれる人まであるわけです。だけど、だいたいは一五万円から二〇万円ぐらいの金額で謝礼が支払われています。
(2002年4月)


最近話題の人、河瀨直美の会社のホームページをそのツィッター記載から入って昨日偶然見たのですが、それによると、講演料は「基本料金 1000000円」とありました。


2022/01/30
「歴史戦」って一度調べたことがあるが、これは先の戦前の言葉から来ている。何にでも「戦」を付けて民心を鼓舞しようというもの。火事が起これば「消火戦」、風呂に入れば「入浴戦」等々。今でも北朝鮮や中国でも使っているようだ。古めかしいアジア的な集団主義。歴史把握に「戦」など関係あるものか!



2022/01/31
近代短歌bot@kindaitanka
金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に  与謝野晶子 #tanka
2022年1月31日

人間は自由に自在に〈自然〉(イチョウの葉)を切り取り染め上げ構成することができるように見える。しかし、そこにも自然のつかまえ方として人間的制約というものがありそうだ。また、そんな人間的な事象とは関わりなくイチョウの葉自体にもその自然の事情がありそうだ。







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 覚書2022.3.12 ― 経済的な範疇の概念から普遍的な概念へ


「趣味の農業」をしていてふと思うことがある。時間給って何だろう、わたしのこの作業は、仕事と呼ぶのも少し違うようだし、時間給ということとも関係なさそうだ。

「ノルマ」は悪しきソビエトロシア由来と聞いたことがある。では、「時間給」はどこの由来だろうか。素人考えを進めてみる。労働はなされなければ何かを生み出す(生産)ことも、それを享受(消費)することもできない。すなわち価値を生み出すことはない。

すると、その価値の源泉は労働の有り様にも左右されはするだろうが、シンプルに抽出すれば時間ということになる。このさらなる細分化から「時間給」も来ているのだろう。それがあいまいな拘束の労働時間からの解放の面もあれば労働の密度の強化などにもなっているのかもしれない。いわば、労働の牧歌性の解体・再編、そして心的には張り詰めた労働ヘの転位を意味していると思う。

ところで、労働の「価値」は、生産-流通-交換-消費の経済的な範疇に限れば、労働主体にとっては生活の再生産につながる「労賃」として現象するだろう。生活の再生産には、消費する主体として労働で得たお金(貨幣)を用いてこの社会に生み出される商品やサービスを享受する(消費)することも含まれる。

しかし、例えば趣味の農業においてはこれらの概念はうまく成り立たないように見える。ただ、「労働」「生産」「消費」は成り立っても、「労働時間」や「時間給」という概念は成り立たない。また、「価値」も経済的な範疇を越えた精神的な充実の度合として主要に量れるように思う。現在のところは、この社会の経済的な範疇の労働と趣味の労働(活動)は断絶している。

ところで、全社会や人間の存在や活動の総体性から見れば、部分に過ぎない「労働」「生産」「労働時間」「生産性」「賃金」「消費」「価値」などのその社会内の経済的な範疇の概念を絶対化すれば、よくあることだがそれらのものさしで人を計ったり、あるいは極端になると「相模原障害者施設殺傷事件」の植松聖のような考え方にもなり得る。

人間の生涯で活動的な壮年期という部分があたかも全体で中心と見なされやすいように、この社会では社会の表舞台を動かす経済的な範疇の現在的な主流の概念が主人公のように見なされやすい。しかし、全人間的な活動について思い巡らせ内省してみたらわかるように、それは誤解だ。

ほんとうは、労働-生産-価値、生産-流通-交換-消費などの経済的な範疇の部分的な諸概念は、一方で、部分的であることの自覚の下に現在のように行使されつつ、他方で、わたしたちの精神的な活動も含めて全社会と人間総体の視座からの普遍的な概念として再構成されなくてはならないと思われる。

最近知ったが、小林秀雄は、山下清には確固とした内面もなく美に対する感動もなく、山下清の絵は評価不能だと述べたことがある。(註.1)これは人間の歴史にとっては部分的な、近代的な個や個の内面や芸術という西欧的な思想から来ている。ここでもまた、個や個の内面や芸術などの概念が、人類史から見て普遍的な概念の方へ解体され、再編成されなくてはならないことを示している。


(註.1)
松本孝幸さんの「たかちゃんの豊浦彩時記四月号」の最後に、「小林秀雄と山下清」という見出しの下に、小林秀雄の山下清評の文章が引用されている。小林秀雄の生きた時代性と人間観の限界が出ている文章だ。
 http://matumoto-t.blue.coocan.jp/21saijiki04.html







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 メモ2022.3.15 ― 〈存在倫理〉の自然な発動


 「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン」も、最近は、当然のことだろうが、ロシアの侵略下にあるウクライナのことにも触れている。しかし、毎回触れても仕方がない。この「仕方がない」は、微妙な言葉だ。遠い遙かな戦火に襲われている地の生活の〈現場〉とこちらの生活の〈現場〉。人としての生活の〈現場〉の同質性はありつつも、目下、異様な違いがあり、そのことがわたし(たち)にもある言葉には言い表しようもないような思いを喚起している。

 それを固い言葉、概念でいえば、吉本さんが考え出した〈存在倫理〉という問題である。人は、この世界に存在するだけで他の誰かに影響を与えるし、誰かから影響を受け取る、それは見えない波動のようなものだろうか、そこで人に湧き上がってくるのが〈存在倫理〉とも呼ぶほかない感受や気づきなのだと思う。それは、言葉や論理にうまくなれない、言葉や論理の基底にあるもので、人がひとりとしてこの世界内に存在している時に、他者に向かって無意識のように発する、あるいは、他者から発せられたのを無意識のように受けとめる、存在の波動の位相を〈存在倫理〉ということができる。この〈存在倫理〉という位相は、わたしたちにはなじみのある感情や感じとして日々現れてくるものであるが、人間のはじまり以前から来ているもので、遙か人間のはじまりから、人間の基層的なところに保存されてきたものだと思われる。

 この〈存在倫理〉の位相からわたしたちに湧き上がってくるものは、他者の苦しいこと悲しいことばかりではない、楽しいこともうれしいことも、わたしたちの〈存在倫理〉の位相からの、(それはつらいね)や(それはいいね)などの感受や意識のようなものを発動させる。直接に相手に語りかけたり援助したりできる機会が訪れることもあるかもしれないが、それがなくても、我知らずわたしたちの〈存在倫理〉の位相から発動してしまうということが、人間的なというほかないものなのである。すなわち、そのことに人間社会の〈倫理〉はあまり関係しない。人間の基底から我知らず発動する自然性だからである。

 わたしたちは、それぞれの現場を日々生きている。そうして、自分の生活の現場こそが重力の中心となっている。しかし、身近な縁者が困っていたら自然と援助することもあるだろう。無惨な野良ネコの様子を知ったら心痛むかもしれない。また、手の届かない遠くに生きている人で戦火や貧困に苦しんでいる人々に悲しい思いをするかもしれない。これらの思いには、人間の〈存在倫理〉の位相からの自然な発動と人間界で身に着けた〈(生活)倫理〉からくるものとが織り合わさっているのかもしれない。

 わたしたちは、自分の生活の現場こそが重力の中心となっている。それでも、他者のことを思ってしまう存在である。しかし、わたしたちが、困っている他者を何とかしてやりたいと思ってもどうすることもできないのが普通である。最初に述べた「仕方がない」は、そのことを指している。その思いと共にその他者の状況を自分の(生活)思想の中に繰り込んでいけばいい。それが、人それぞれがひとりひとり生きながらつながっているという意味であろう。そうして、そのような人の波動の積み重ねが人間の歴史の無意識のようなものを駆動しているように感じられる。

 ところで、次の糸井重里の文章は、毎日ホームページに書かれている「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの 今日のダーリン」の昨日の全文である。

 目下進行中の戦火のウクライナやウクライナの人々やロシアの人々についてはどこにも書かれていない。しかし、そのことははっきりと書かれているし、吉本さんが発掘した人間の〈存在倫理〉の位相からの発動が行間に滲(にじ)んでいる。


糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの
今日のダーリン

・毎日、うっかりしてると同じことを書きそうになります。
 同じようなことを思ったり考えたりしているのだし、
 同じことをつい言いたくなるのは当然なのですが、
 書く方も読む方も、それはうれしいことじゃありません。
 いろいろ照明を変えて同じことを言ってますが、
 そこから逃げるわけにもいきません。
 逃げるのではなく、同じことを書かないようにしてみます。

 小さそうなことを書きます。
 知っている人の家族だった犬が亡くなりました。
 そのコには何度も何度も会ったことがあります。
 ほんとうに大事にしていたのを知っています。
 家族のようなというより、家族そのものでした。
 というか、家族の絆というものが目に見えるとしたら、
 きっとこの犬のかたちをしていると思うんです。
 しばらく前に病気のことがわかって、
 せいいっぱい付き合ってやりたいと言ってましたが、
 思ったより早くにお呼びがかかったようです。
 三月というと、ぼくにとっても犬と別れた月でした。
 今日くらいの日付だと、もう入院していた時期で、
 あと1週間くらいのところで息をひきとりました。
 小さそうなことです、10キログラム程度の重さですし。
 もっと大変な思いをしてる人はいっぱいいる。
 ずっと大きな悲しみもたくさん知っているのですが、
 それはそれとして、知ってる犬が亡くなりました。
 たぶん、あのご夫婦のこころには、穴が開いてるはずです。

 さらに小さそうなことを書きましょう。
 気仙沼ではじめて行った場所がありました。
 うちが「たまご」を買っている「ファーム」です。
 そこでいわば「放牧」されているニワトリを見ました。
 ヤギもいる草っ原があって、そこに小屋が建っています。
 その小屋の棚みたいなところで、たまごを生むんです。
 たまごを生まないけど何羽かのおんどりもいます。
 だから、ここのたまごはかなりの確率で有精卵らしいです。
 日産300個かな、かなり生産性の低い「ファーム」です。
 とても小さいはなしなんですが、ぼくは生まれてはじめて、
 「ニワトリかわいいな」と思ったんですよね。
 こんなことも、3月のある日に思ったことのひとつとして、
 ここに書いておこうかなと…。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やってること、考えてること、希望、止めないでいましょう。
 (『ほぼ日刊イトイ新聞』2022.3.14)








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 メモ2022.3.25 ― 物語における街や通りの描写


 物語には、必ずといっていいほど街(村)や通りの描写がある。それは、物語には必ずといっていいほど人が登場するし、人の生活、行動する場だからである。しかし、例えば読者がよく知らない、東京の街や通り、あるいは別の地域の街や通りのことを描写されても、よく知らないことがほとんどだから流し読みみたいに読み過ぎることが多い。しかし、作者はその辺りをよく見知っているかもしれない読者を意識してではないだろうが、特定の実在する街や通りの場合には、読者がああそうね、そうだそうだと納得するような描写をしているに違いない。つまり、あんまりデフォルメしたりせずに割りと実際に近い描写になっていそうな気がする。
 
 浦野興治『諫早思春記』は、作者の体験がもとになっている物語であり、舞台は、長崎県の諫早市である。作者は、1947年生まれで物語世界は作者が諫早高校の学生の頃のことだから、1960年代半ば頃であろうか。作者の体験が基になっていることを踏まえると、主人公の耕平は諫早高校生で、「湯江から汽車通学をしていました。」(「あとがき」)となっている。この作品を読むと、主人公耕平は、「湯江」(現在は合併して諫早市高来町だが、当時は北高来郡湯江町)から汽車(まだ蒸気機関車の時代)に乗って「諫早駅」で下りて、歩いて「諫早高校」に通っていたことになる。

 この物語に次のような描写がある。


 夏休みに入った。補習授業が始まる。補習授業はふだんどおりで七時限目まである。さらに週末には隔週ごとに私立系三教科と国立系五教科の実力試験があった。
 耕平は、いつものとおり三時限目に「はやべん」をやり、週二回は、購買部ではなくて、ここのところ市役所の食堂にうどんを食べに行っていた。
 夏休みに入ると、購買部も休みに入る。パンが買えなくなったと同時に、唯一、田代順子と会える機会がなくなって、耕平はかえってすっきりしていた。田代順子に会えなくなると、べつに会いたいともおもわなくなっていた。
 市役所の食堂には、校門からではなくて、こっそりと体育館の裏をぬけて通っていた。体育館の裏には城跡の堀がある。土手を下り、堀を飛び越えて向こう岸に渡る。雨が降ったら、堀の幅は広くなって渡れなくなるが、夏場の今は一メートルもないくらいで、誰でも簡単に渡れた。
 購買部の前を通って、音楽教室の脇から体育館のほうへと行こうとしたところで、耕平はばったりと里子に出会っていた。里子は音楽教室から出て来た。初めは知らんふりを決め込んでいたが、里子から「耕平!」と呼び止められた。
「どこに行くと?」
 耕平はスリッパではなくて、下履きの運動靴をはいていた。
「どこでんよかやっか。わいに言うことやなか!」
「うちは知っとっと」
 里子(引用者註.湯江地区の小学校のときの耕平の同級生)が近づいて来た。
「うどん食べに行くとやろ・・・・・・?」
「どぎゃんして知っとっとな?」
 耕平は不思議に思った。
 (浦野興治『諫早思春記』「第三話 恋する」P75-P76 右文書院 2007年7月)



 この「第三話 恋する」の物語世界の空間は、耕平が「湯江」から通う「諫早高校」を中心としたもので、小規模の生活圏、行動圏になっている。しかし、自分の高校時代を振り返ってみても、誰もがそんな小さなものだろうと思う。今ではほとんどが高校に通う時代になっているが、この物語世界の時代は、まだ中卒で社会に出る者も少しはいた時代だったと思う。いずれにしても、学校を出て仕事に就く、いわゆる社会に出ると、仕事を通した同僚などの具体的なつながりも生まれてくるし、結婚して新たに家族を形成すると、親戚関係や近所付き合いなど、小社会での関係の網の目が広がっていく。こういう大人の一般的な生活圏からすると、学生の頃はまだまだシンプルな生活圏、行動圏になっている。かといって、思春期に相当する中学生や高校生の内面が単純ということにはならない。かえって、異性への意識や人間関係や将来のことなどが、曖昧模糊として一気に押し寄せてくる時期でもあるから、不安や動揺を伴う不安定な時期でもある。耕平も「第三話 恋する」にふさわしくここでは女子生徒への思いを抱きあれこれ動き回る話になっている。

 ところで、作品は作者によって生みだされた架空の世界である。作者の名前から見て主人公の「耕平」は架空の名だということが分かる。しかし、この作品のように作者が体験した現実にもとづいて現実の地名や場所が物語世界として選択されることがある。そうだとしても、読者は作者の作品に込めたモチーフに沿って、架空の世界の人々のイメージやイメージの流れとして受けとめるのである。読者が、この物語の小世界の空間について見知っている者であったとしても、架空の世界の人々のイメージやイメージの流れとして受けとめるだろう。ただし、わたしたちがよく知らない東京のある地域の描写の場合のよそよそしさとはちがって、そこかしこを舞台に作者にはそういう体験に近いものがあったのだろうなとより身近に場面の場所と共に感じるのではないだろうか。

 現実の実際の有り様とこの物語の空間の有り様は、一方は現実の世界であり、もう一方はそれを模倣しているとはいえ作者のイメージで選択、造成された世界である。だから、同一とは言えないが相似形になっている。そして、その世界の地勢と配置は、作者の中では自然な無意識的な前提になっている。作者のイメージで選択、造成されたこの物語世界を把握するために、現実の世界を少し見にくいかもしれないが次のグーグルアースの画像で示してみる。ただし、これは物語の当時の時間の画像ではなく、現在に近い現実の画像である。(画像1、画像2)


 (画像1)


 (画像2)


 画像1
 佐賀と諫早にまたがる多良岳を中心とした多良山系が、河口や海(湾、現在では干拓地)の方へ下ってきて、その川べりや海辺に集落が広がっている。たぶん、諫早高校あたりは、太古は海で、縄文海退などから湿地へ、それから次第に土地が干上がって、水田や集落も形成されていったのだろう。だから、海退以前を思わせる、より高い所に縄文遺跡などが残っているように、その頃の住居や集落も現在の川べりや海辺ではなく、丘陵地や山間部などのもっと高い所にあったものと思われる。ということは、自然な生活環境と思われている現在の無意識の生活の地勢は、はるか海退以前とは違っていることになる。また、古代には現在とは違って諫早地区より湯江(高来)の方が開けた地域だったのかもしれない。

 物語の世界のイメージは、作者が住んでいた川べりや海辺の集落、「湯江」から川沿いに走る鉄道に沿って伸びて行き、「諫早駅」と連結され、川(本明川)べりを15分ほど歩いて「諫早高校」に伸びていく。これが、この「第三話 恋する」の作品の世界の地勢的な大枠になっている。住んでいる町や学校や会社などが違っても、また子どもや大人による築かれた関係網の複雑さや交通範囲の度合の違いがあったとしても、この地域の人々は、これに類するような小世界を生きていたものと考えて間違いないと思う。


 画像2
「耕平は、いつものとおり三時限目に『はやべん』をやり、週二回は、購買部ではなくて、ここのところ市役所の食堂にうどんを食べに行っていた。」とあるが、耕平は、どうして学校のすぐ隣にある市役所(註.現在は一つ上の方に新築移転している)の食堂に行けばうどんを食べることができると知っていたのだろうか。もちろん、他人からの見聞きによって知ったのである。同じ学校にいたからといって、あらゆることを共有しているとは言えないが、学校の隣にある市役所の食堂で食べることができるという話も、学校内で割りと多くの人々が共有しているものであったような気がする。諫早高校生でその食堂で昼食を食べている者がいるということは〈事実〉で、部外者のわたしでさえ知っていた。ここでは里子が知っていることを耕平は不思議に思っている。耕平の判断によると、そのことは一部の者しか知らない秘密と見なされているからだろう。しかし、里子は他人との関わり合いの中で自分の耳でそのことを共有したのである。いわば、学校という小社会で〈耳〉によってそのようなこと(慣習など)が代々受け継がれていく、そうしてその学校の現在の世代に波及していく。

 「市役所の食堂には、校門からではなくて、こっそりと体育館の裏をぬけて通っていた。体育館の裏には城跡の堀がある。土手を下り、堀を飛び越えて向こう岸に渡る。」これも〈事実〉にもとづいている。先生に見つからないように、校門からではなくて、こっそりと体育館の裏の堀を飛び越えて市役所の食堂に行くのである。


 物語世界は、作者が体験してきたことやこの世界で見聞きしたことが、さらにはそれらにもとづいて考えイメージすることが、その材料になっているということは確かだろう。物語世界は、いわゆるファンタジー作品のように架空でいいのになぜ現実の地名や場所が選ばれて物語が作られるのだろうか。それは作者(読者)が体験してきた、あるいは現に体験しているのは架空でなくて実際の場所だからということ、すなわちリアリティーの強度(現実味)に関係するのかもしれない。しかし、架空の地名や場所にしても、作者の実感を込めればファンタジー作品のようにリアリティーの強度(現実味)は出せそうにも思える。現実の地名や場所が選ばれるのは、ある具体的な場所でそこに結びついて作者がある体験をし実感してきたということ、そのことへの愛惜からくるのではないか。







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 メモ2022.4.06 ― つながりとしての思春期


 作者の「あとがき」によれば、『諫早思春記』(浦野興治 2007年7月)は、初めは連作短編小説で書き始めたが、途中から長編小説へと構想が変わってきたとある。作者が投影されていると思われる主人公の耕平の高校生活から卒業までの時間がこの作品の世界の時間となっている。そうして、そのような時間は、地域や姿形は違っても現在では誰もが通過する普遍的な時間でもある。

 今ではずいぶん学校化して、保育園や幼稚園に通うのは普通になっている。この作品の時間の頃はそうでもなかった。わたしの学校体験は小学校から始まっている。学校へ通う以前は、家族とその周辺の地域を行き来する、いわば自然な「つながり」の、遊び中心の生活世界であった。ここから、小学校の学校生活が始まると、一日の大半を学校空間に居らざるを得ないため、以前の世界のつながりは以前のままということはなく、切断されたり変貌したりしていくことになる。こうして、学校社会を中心とした「つながり」のなかに誰もが置かれ、それを強いられることになる。

 中学生から高校生の時期、すなわち思春期の頃になると、実際に付き合うかどうかは別にして異性意識や異性関係、一般化すれば他者意識や他者関係が、靄(もや)がかかったような様相で先鋭的な課題として押し寄せてくる。そうした中で、ひとりひとりがなんとか自分の場所を築いていこうとする。これは、成人して学校を出て仕事に就いていく、いわゆる社会に出る、そこでの「つながり」の形成に対しては、模擬的なとも見なせるような初めての意識的な「つながり」を迫られる体験である。

 小学校までは、通ってくる子どもの地域はその学校周辺の地域になっている。それでも、当人たちにすれば、小学校に入るまでの自分の生活圏とは違った見知らぬ者同士として学校生活を始めることになる。中学校になると、市内のいくつかの小学校からひとつの中学校に通ってくるようになり、小学校よりも地域性がより大きくなる。国立の付属小中学校や私立の小中学校など以外は、公立の小中学校は義務教育で原則としては学校選択の余地はない。しかし、高校になると学校の選択ができるようになり、通ってくる子どもたちの地域性もさらに大きくなる。

 主人公の耕平は、湯江(現在は諫早市高来町になっているが、当時は北高来郡湯江町)から汽車通学している。この作品は、耕平たち登場人物たちが生きたその地域性の匂いや感覚を表現するように、語り手の地の文は、今ではこの列島全体に十分に流通している書き言葉としての標準語が使われているが、会話部分は、諫早地域の言葉(方言)が使われている。ただし、読者の便宜のために使われた方言には註が付けてある。通学範囲が主に諫早地区で、そこから通ってくる子どもたちだから、諫早地域の言葉(方言)として言葉は共有している。しかし、諫早地域のさらに各小地域での互いに少し異なる固有の学校以前の生活や小中学校での生活を携えて、ひとつの高校に集まり、高校生活していくことになる。

 「第三話 恋する」で、主人公の耕平は同級生の田代順子と付き合いたいと思い近づくが失敗に終わる。そして、湯江地区の小学校のときの耕平の同級生だった里子と再会する。耕平の小学校以前の自分の生活圏での遊びには、近所の里子も加わったりしていた。しかし、里子は男勝り(「男女(おとこおんな)」)でいじめても泣かないから、耕平は可愛げがないなと思っていた。一方、里子は自分はすんなり遊び仲間に入れてもらえず邪険にされたことを耕平に対する不満として持っていた。しかし、小さな地域での子どもらとしての親和のふんいきは存在したものと思われる。そんな親和的な表現(愛情表現)しか取れなかったのだろう。

 卒業して、里子はデザイン系の東京の大学に通うため出発する日、大学に落ちて四月から長崎の予備校通いになる耕平は里子を見送りに行く。この行動の描写からも耕平が里子に親和感(愛情)を持っているのは確かだ。里子は夏休みには帰省するといい、耕平はそれを心待ちにする気持ちも持っている。しかし、この後、東京に行ってしばらくして里子は交通事故で死んでしまう。

 しかし、いずれにしても誰もがこうした小地域での遊びを通した親和的な表現(愛情表現)の生活、そして小中学校の学校生活、さらに地域性が拡大して一般には男と女としての異性への意識の物語が芽ばえる高校生活へ入って行く。これ以降は、大学や専門学校などの学校生活に入る者も多いが、愛や恋がテーマになりつつ、その後は小社会での職業生活に入って行くことになる。この作品は、つながりとしての思春期の時期をよく描いていると思う。







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 最近のツイートや覚書など2022年2月


2022/02/03
私は、リフレもMMTもワケワカメな上にそれらについて学ぼうという気持ちもない。「経済」も人間的な諸活動の大きなひとつであるのは確実だが、こうも細分化・錯綜としてしまった現在では何が何やらでしかもそれらの正否も容易にわかりにくい。この細分化(の病)は、文学から科学から芸術、教育、政治・・・

全ての人間的な分野に及んでいる。こうした現在においては、それぞれの起源から光を当ててみることが大切だと思う。人にとって始まりの「経済」とは、「教育」とは何だったのかというように。この細分化の時代に必要なのは、教育現場のようにさらなる細分化で過剰労働で先生生徒を苦しめることではなく、1.起源からの照明による現在の内省と2.細分化から不要なものはどんどん捨てて統合化することであると思う。

2.のおまけで言うと、「生産」も「消費」も経済学の冷たい概念から拡張して、文学芸術にも柔らかな精神的な概念として適用できるような気がする。


2022/02/04
Rさん
ちなみに。「なよし」は鯔のことで、節分の時に門口に鰯の頭と柊を飾る伝統風習の原型になったもの。もともとは鯔の頭やったんどす。せやけど魚の腐敗臭で邪鬼を追い返すて……えらい臭うて、かなわんかったやろなぁ当時はw


九州のわたしはこの風習を知らなかったのですが、吉本(隆明)さんの若い頃の詩にあったなと覚えていました。「目刺魚」ですが、これは鰯の干物だから、柊は書いてありませんが、同じような風習なのでしょう。二ヶ所見つけました。

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※以下は、調べたもの
■柊鰯とは?

柊鰯とは、節分に魔除けとして使われ、古くから日本にある風習の一つに、「門守り」というものがありますが、
家の門口につけて、病魔など邪悪なものの侵入を防ぐものです。柊鰯(ひいらぎいわし)は、一般的には柊の小枝と焼いた鰯の頭とを挿したものでこれを玄関先など門口に結びつけたり、刺したりして、飾ったものです。

また、このような柊鰯の風習は、青森、福島、群馬、栃木、東京、埼玉、千葉、愛知、静岡、京都、大阪、奈良、岐阜、広島、岡山などの地域にあるといいます。

柊鰯の由来は、935年の平安時代と言われており、約1000年以上も続く、日本の風習の一つになるんですね。最も古い記録では土佐日記に出てくるのが最初で正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「ボラの子」の頭を刺していたことがはじまりといわれています。鰯ではなく、ボラ(鯔)だったんですね。

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わたしはその時谷間をあるいてゐた
まるではじめて出遭つた幼年時の谷間をあるいていた
あばら屋の軒端には禁呪の目刺魚が
ぶらんぶらんさがつて
掛井戸のまはりではおかみさんたちが喋言りをしながら
背中の子供は
あふむいて寝てゐた 眠つてゐた
(吉本隆明 詩〈海辺の街の記憶〉1950年の作、『日時計篇Ⅰ』)


軒端には目刺魚がつるさげてあり禁呪は暗い世界にむかつてあり
かかる暮景のなかで
わたしの信号はその瞬間のあらゆるものに受感され
わたしの思想への反感と同意とが鋭敏に送信されるように
(吉本隆明 詩〈色彩のある暮景のなかに〉1951年の作、『日時計篇Ⅱ』)



2022/02/06
鬼のパンツ」という歌を最近知った。今日のテレビでブラジルの日本人学校でも歌っていた。「鬼のパンツは いいパンツ つよいぞ つよいぞ♪」の歌い出しで有名な童謡「鬼のパンツ」は、イタリア歌曲『フニクリ・フニクラ』を替え歌した子供向けの歌。 1975年に田中星児の歌で発表された、という。

ネコの「にゃーん」は対人間用の「言葉」であるという説明を目にしたことがある。しかし、なんとなくはわかりそうでも、いつも「にゃーん」としか言わないからよくはわからないんだよなあ。家の一方のほとんど鳴かないネコの方は、食事に削り節をかけて欲しい時は激しく付きまといすりすりする。


HPVワクチン(子宮頸がん予防ワクチン)を打って副作用(副反応)が出たと主張している人々がいるのに、行政は手厚く対処したりせず、また副作用なんて存在しないみたいな論調の医療関係者をネットで目にして不思議な気分だった。今回のコロナのワクチンにもそういう論調を感じてきた。

今までインフルエンザワクチンも打ったことがなく、またワクチンに対する危険だというイメージは全く持っていなかったが、今回でワクチンというもののイメージが反転した。これは私だけじゃないように思う。恐る恐るワクチンを打った人が多いという印象を受けている。


2022/02/07
RT
利他的であること 中島岳志 ミシマ社

ttps://www.mishimaga.com/books/ritateki/002612.html


何回かに分けてやっと読んでしまった。表紙の下のバックナンバーで全13回読むことができる。お薦めの文章です。自力と他力(与格)の関わり合いの構造を現在的な「利他」やボランティアの問題として、また近代以降の欧米化の主格中心の文明史の問題としてわかりやすく考察している。

ちなみに、わたしの毎日詩の『言葉の街から』(対話シリーズ)の2/5から2/8までは、自力と他力の問題を取りあげている。自分の中ではそれは偶然のことと感じているが、この中島岳志『利他的であること』を読んだせいかどうかはよくわからない。ふっとモチーフが湧いてきたとしかいいようがない。


2022/02/08
日本政府は、731部隊について「政府内部に資料が見当たらない」「調査しない」ではだめだろう。戦争悪は、現在のわたしたちが、そして未来の人々が、人間の鏡に映して恥ずかしくなるほど徹底してオープンにされるべきだ。ところで、そんな悪や暗部にフタして何が「歴史戦」だ、バカタレが。


2022/02/13
Sさん
『虔十公園林』の虔十は、モデルとなった少年がいる…と。昭和13年10月「イーハトーヴォ4号に佐藤勝治が「宮澤先生とある少年」に書いているそうだ。
知らなかった! 独居した羅須地人協会の近所に住んでいた少年、家の手伝いに追われて学校に行っても眠くて勉強ができない子だったらしい。「イーハトーヴォ4号」探して読む! 2022年2月13日



『イーハトーヴォ復刊No.4』を検索していたら、賢治の「下根子桜時代」は、「えっ違ってたんだ。「独居自炊」じゃなかったんだ!」という文章に出会いました。
「賢治が一緒に暮らした男 ―千葉恭を尋ねて―  鈴木 守」
ht★tps://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/f9b8c6be54498a29e33a6af90dbd3f62
(※ ★印を加えています)


2022/02/17
先だっては、J・ディラを取りあげた「星野源のおんがくこうろん」を観た。今日は、この番組を観た。みな初めて出会う人だ。清塚信也とReiのトークは、飾りっ気もよそ行きさもほとんどなく良いしゃべりだったと思う。清塚信也が、詩人が音楽をうらやむように、外から操作するようなピアノに対して

それとは違っているというギターをうらやんでいた。Reiは、ギターは弾いているとからだに響きゆさぶると語っていた。あたりまえのことだろうけど、こんなことを耳にしたのは初めてだ。


「行き過ぎた個人主義が蔓延して」っていうのは、日本会議系、安倍系、ネトウヨ系のきまり文句だけど、「同調圧力」に屈することなく、もっともっと個人が基本となり、個人を大切にする「個人主義」が蔓延すべきだと思う。個人主義が不徹底、不十分だと思っている。



2022/02/18
加藤治郎bot@katojiro_bot
いんいちがいちいんにがに陰惨な果実の箱はバスの座席に 加藤治郎『環状線のモンスター』 #tanka #jtanka

爆発の秒読みみたいなリズムに乗ってたぶん走行中のバスの中の張り詰めた事態がバスに乗っている〈わたし〉の幻視のように表現されている。梶井基次郎の短編小説「檸檬」を連想する。


北京オリンピックも見えてしまうことはあるけど、興味関心ゼロだから観ない。ただ、純文学と大衆文学の垣根が崩れてしまった現状で、オリンピック競技の困難技も中国雑技団のアクロバットも同様なすごさにしか見えない。そしてカーリング、楽しいなら良いけど、あれは何してんの?お掃除競技にしか見えない。

最近のテレビ番組で、ちゃんと計算して番組を作っているのだろうけど、出演者たちが楽しんでいるだけみたいなこちらが白ける番組があるように思う。視聴者に感動を与えるんだという作為以外では、オリンピック番組も少しそんな感じがする。テレビ関係者って、みんな何にでも関心があるのだろうか?

時には、わたし(オレ)は、オリンピックは興味関心ないんだけどさ、そこから敢えて言えば・・・・みたいなテレビ関係者っていないのかな?それとも、テレビ表現の世界ではそんなことは許されない?


野口整体の開祖、野口晴哉、名前位は知っていた。そのお孫さんの話。直ちに主流になる考え方ではないが、無視できない流れと思う。「野口 単純に言うと人はただ生きて死ぬ、それだけであるということです。死後の世界があるかどうかとか、生きる目的はなんなのかとか言ってみても、明確に分かっている事実は「人はみな生きて死ぬ」、それだけなのだ、と。1日生きるとは1日死ぬことと同義で、だから我々はその生をただ溌剌と全うすればいい、と。シンプルな考えではありますが、根源的な話だと思います。祖父はその後、治療家としての活動に入っていき、64歳で終えるその全生において健康とは何かということをずっと考え続けたんです。」



2022/02/20
広告やファッションでも言葉でも、分離・抽出してみると、ゆるやかな変化のため時代によらず不変に見える面(自己表出)もあるが、時代とともに大きく変わる面(指示表出)もある。だから一昔前のものを捉え直す時、わたしたちは現在の新しい風呂敷に包み直すのだろう。


RT
ミシェル・フーコー@M_Foucault_jp
いかなる技術も、いかなる職業的な技量も、習練なしには獲得されない。「生存の技法」もまた、自己自身による自己自身の鍛錬という意味に解すべき「修練」なしには、身に付けることはできない。-自己の書法-


松本孝幸さんのホームページで知ったのですが、自閉症の人の中には今までに経験がないのに見ていただけで、習練なしに、自転車に乗れたり、ピアノを弾けたりする人がいるそうです。(その先の詳細はわかりませんが)


2022/02/22
自宅の裏庭に生えてきてもう苗木並みの大きさになっている柚の木を畑の隅に移植しようと考えて調べたら、「桃栗3年柿8年柚の大馬鹿18年」と言いますが、ユズを種から育て、実をならすにはかなりの時間がかかります。早くて10年、条件が悪ければ20年ほどかかることがあります。とあって、びっくり。

カラタチの台木に接ぎ木した「接ぎ木苗」なら、4~5年で実をつけることができるという。なぜだろう。ふしぎだ。

2022/02/23
ゾノヒデ自転車しこく旅 NHK 2/23
中田英寿+前園真聖


途中から観てしまった。飾りを感じさせない等身大の普通のしゃべりが良かった。


2022/02/25
直接的なわが国、私たち住民のことでないから、のんきな上空からの観察で済ませられるのだろう。欧米、ロシア、ウクライナの国家間のあつれきや抗争、それと相似な上空やパワー・ポリティクスからの評論には私は何の関心もない。ただ、ウクライナやロシアの該当住民には心痛むばかりである。

それにしても、西欧の波を被った知識層を中心に後進地域のロシアに革命が起こり、レーニン等が主導したソビエトロシアも特権階級(ノーメンクラトゥーラ)と強制収容所と密告の恐怖政治に堕していった。中国も同じようなものだ。せっかくの革命の敗北解体から、プーチンなどの皇帝恐怖政治になってしまっている。



マイナンバー制度@MyNumber_PR
令和4年春以降マイナポータルから公金受取口座の登録が可能に。
令和3年分確定申告(マイナンバーカード方式)の際にも登録ができ、公金受取口座の登録をすることで年金や児童手当等の給付金等を迅速に受取ることが可能になります!
公金受取口座の登録をすれば、6月頃からマイナポイントがもらえる


このマイナンバー制度の決定的な問題点は二つある。だから私は持っていない。
1.最初から私たちの利便性を感じさせなかったこと。かえって、毎回新たな添付書類が必要などめんどうこての制度だったこと。
2.この制度を担う行政(政府など)がまったくもって信用ならなかったこと。







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 覚書2022.4.19 ― 異質性の同居する中から


 柳田国男が、「火の昔」という文章で、例えば現在(その当時の)の東京を調べてみると、ランプや油や薪を使った照明器具など火の歴史のいくつもの段階のものが同時代の同じ空間に同居していると述べていた。これは新しいものが発明されて普及しだしてもすぐに旧来のものに置き換わってしまうのではなく、新旧が同居しているという技術や文明の話であるが、集団的な観念(共同幻想)のあり方もこのような形で存在しているように見える。

 また、わたしたち自身も同時代の中に、赤ん坊、幼児、少年、青年、壮年、老年と異なる世代として同居している。同じ現在を生きて呼吸していて現在の世界を共有しているが、背負っている時間(時代性)が異なっている。細かく言えば、同じ世代でも浸かってきた地域性の微差や家族による微差もあり得る。これらの同質性や微差などは、現在の対象をどういうレベルで取り上げてどう考えるか(論じるか)という時に問題となることがあるような気がする。

 企業は以前にも増して自国から外に出ている。文化や習慣の違いなどによる企業運営のとまどいや難しさはずっと昔から耳にしたことがあるが、現在では他国で企業運営する数がものすごく増えているような気がする。いま流行の「グローバル」には、「地球的な規模であるさま。全世界にわたるさま。世界的」という辞書的な意味があるが、世界共通な世界的な規模として使えば、他国に進出している企業は、そのグローバルな波に自国での事情とは違った苦労や工夫をしているのではなかろうか。つまり、グローバルな経済、グローバル世界という同質性の仮象に訪れるさまざまな異質さに遭遇しているのではないだろうか。

 先進国の目からは、現在の世界の主流は、ヨーロッパ近代市民革命以降の、実質は別として形式としては市民、市民社会、自由、平等、と国民、近代国家という欧米流の考え方やイメージを無意識的な自然としている。また、国家間の関係としては軍事力に基づく力の均衡を自然な考えとしている。

 しかし現実には、ヘーゲルがその「世界史の哲学」で、自由の眠れる状態にあるアフリカから中国、インド、西アジア、そしてギリシア、ローマ世界、最後に当時のヨーロッパ世界(ゲルマン世界)へと民族精神と理性と自由の推移・発展として描いて見せたものと同様のものが、現在にも同時代として同居してひとつのスペクトル帯をなしている。

 ヘーゲルは、当時のヨーロッパ世界を理性と自由の発展した最高形態と見なしたが、それと対応するように、現在の世界の最高の視線や考え方は、依然として欧米などの先進国のものと見なされているふしがある。しかし、それぞれの地域の内に生活していればわかるように、欧米流の視線や考え方が全てではない。

 まだまだ抑圧や圧政が世界中に存在し続けているが、世界のそれぞれの精神の段階のものが共存しながら、次第にある地点へと推移していくのだろうと思う。それを推進するのは、「自由の国アメリカ」でもロシアのプーチン帝国でもなく、普通の人々のいい感じの生活がしたいという自由平等などを求める、小さいけれども多数の意志だと思われる。







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  最近のツイートや覚書など2022年3月


2022/03/01
例えば、政権も、大衆の意志の抽出された「支持率」(バーチャルな集約・表現と言っていいかもしれない)などを無視できない時代にある。旧来的な政治-旧来的なデモなどの意思表示は、すぐにはなくならないだろうけど、新たな事態が露岩している感じがする。

十分に機能していない国連とは別に、個人レベルでのグローバル化した世界の海で湧き上がるある無謀に対しては、SNSを通したグローバルレベルでの何らかのバーチャルな意思表示と意志の集約の表現形態が考えられるかもしれないとふと思う。


戦争に遠く割りと普通の生活しているわたしたちからすれば、クラスター爆弾や劣化ウラン弾などその道専門の者の生み出すものは、人を人とも思わない、邪悪としか言いようがない。しかし、戦争で禁じざるを得ないような兵器・爆弾を次々に開発することを止めない。しかも、それが経済にもなっている。



2022/03/03
なぜ、プーチン-ロシア、ロシア軍は、ウクライナの原発の占拠、制圧にこだわるのだろうか。アブナイ感じがする。


覚書2022.3.3
この世界には現在からは解決不可能に見えるような問題がある。例えば、生き物をかわいがる一方で食肉として食べるという矛盾。太古からの武器と争いを現在までなくせないでいること、小さくは集落レベルの利害が絡む対立、大きくは国家間の対立。

しかし、村レベルの対立は、均質な近代社会へ個人として解体され、個人として包括され、その法によって調停されたり裁かれるようになった。これは昔の村村間の争いの解消に当たっている。大戦争などの痛ましい経験の後などは特に内省し、歴史は少しずつ知恵を出して解決法を磨いてはいる。

ただ、今も流行の軍備力という力の均衡による平和という考え方は、人類史から見たらもっとも安易な理想もヘチマもないものであることは確かである。しかし、そこから見たら、わが国の無惨な多くの戦争下の死者たちの無言の意志を代弁する、戦争放棄の非戦の考え方は、子どもっぽく見えるのかもしれない

が、人類の前向きの理想のイメージであることは疑いようもない。こうした場所から見たら根本的には、NATOもロシアも関係ない、いずれも自国民をも巻き込む架空の対立であり、住民が戦火に侵されることをこそ否定するのである。誰もが求める穏やかな生活!



2022/03/04
なぜ、プーチン-ロシア、ロシア軍は、ウクライナの原発の占拠、制圧にこだわるのだろうか。アブナイ感じがする。

ロシア軍は、まだ原発を攻撃している。たんに電力源を削ぐだけじゃなくて、何か好からぬことを考えていなければいいが。

原発は、戦争を想定していない。戦争は、原発をも例外視しないのか。しかし、原発への攻撃-核汚染は、この上もない戦争犯罪に当たるのではないか。


「ゼレンスキー氏はビデオメッセージで『ロシア以外に原発を攻撃した国はない。人類史上初めてだ。テロ国家が今度は核テロを行った』と述べた。」この原発攻撃は、ロシアの軍レベルのものではなく、総責任者のプーチンレベルの意志決定と推測する。慎重に計画された威嚇なのか、後先考えない攻撃なのか。



2022/03/05
「大江戸八百八町」もたぶんそうかなと思ったら、そうだった。「これは江戸の実際の町数ではありません。江戸という都市空間に多数の町が存在していたことを示す、一種の慣用表現として使われています。」しかし実際は、「開府当初は三百余町であったものが、江戸中期には千町を超えていた。」



2022/03/07
覚書2022.3.7
1900年代初頭からのロシアの革命運動・革命思想は、世界的な影響を及ぼした。わが国にも大正の末頃大きな影響を与えた。詩人の伊東静雄もその友人も影響を受けた。しかし、ソ連は粛正や強制収容所を必要とした密室政治と官僚政治へ、そうしてソ連の崩壊。

と同時に、ソ連に影響された思想の世界的な衰退・解体。理想の状態や理想の社会は、中国の小国寡民や賢治にも影響を与えた西欧のトマスモアの『ユートピア』など思いつくが、ロシアの革命や中国革命はその大規模な現実化であった。

そうして、革命から約100年、資本主義社会にも劣る自由のない覇権主義の現在の体たらくがある。しかし、人間は、理想を追い求めるのを個人レベルでも社会レベルでも止めることはないだろう。わたしは、世代的にも個人的にもロシアの革命運動や革命思想のしぶきが少しかかったくらいであるが、

「革命」と呼ばれたその約100年の無惨な歴史の意味は、未来に向けてよくよく考えられなくてはならないものだと思う。歴史の無意識の流れのままに任せるのでなければ、他にどのようにすればいいのかと。



2022/03/08
国連の根本的な改革は、考えられてきてはいるのだろうが、第二次大戦後の戦勝国の思惑の組織化から、そろそろ離脱して、平等に世界各国の意志が集約できるように組み替えをすべき頃だと思う。五大国の特別扱いは国連の手足を縛っているのではないか。平等に世界各国の意志を集約し、問題時の強権発動。

それでも、問題を起こした該当が、利害関係国にいろいろ根回しするのはあり得るだろうが、世界の集約された意志は人類の意志でもあるから、全体としてはそんなにバカなことは許容しないだろうと思う。



2022/03/10
「自らが計画していることについて他人を非難するのはロシアの古典的な手口だ。」 びっくりだったけど、オーム真理教もそうだった。


録画していたNHKのサイエンスゼロの「“知られざる国民病”天気痛の正体に迫る!」(放送日: 2022年2月27日)を昨日やっと観た。新たな分野が解明されたと言える。番組最後に、雨乞いを主催したという卑弥呼も微気圧変化を敏感に感じ取れたのではないかと語っていた。これも「迷妄」からの解除になるかな。


ロシア国家の独裁政権が、自らのウクライナ侵略戦争についてどんな理屈をでっち上げようと、この市民の政治的自由への弾圧が全てを物語っている。まずは、ウクライナからの撤退・謝罪。国家間に問題があるとすれば、話し合いはそれからだと思う。


今回のコロナは感染者数の高い値の停滞で、どうしたことだろうと思う人が私以外にも多いと思う。1.今回の変異ウィルスの事情によるのか、2.検査-隔離の医療体制のせいか、3.まんぼう等が効果的ではないのか。4.3と関係して私たちの意識の変化(緊張感が解けている)のせいか、素人でよくわからない。



2022/03/14
安倍-トランプ-コロナ-ロシアのウクライナ侵略、TLで見かける限りでも、割と「有名人」みたいな人々が、またネトウヨが、情報の海に溺れるように次々に変異を遂げている、のが見える。私の立ち位置は、たとえわからないことが多くても、この等身大の身近な生活の世界とそこから見えるもの、で不変だ


先週のブラタモリを見ていたら、香川県の小豆島でとれるものとして、見覚えのありそうなごま油の容器が画面に出て来た。変だな?あれは江戸時代からやっているという東京のごま油屋だと思って自宅のを確認したら、製造地は小豆島と書いてあった。



2022/03/16
「加速主義とは、資本主義を徹底して拡大させることによって、その矛盾の臨界点により早く到達させ、資本主義から脱却させることができるという政治思想を指す。」という「加速主義」なるものに初対面した。これって、旧来のマルクス主義革命概念の「恐慌」を「矛盾の臨界点」に置き換えただけでは?

現実の動向は、強力な支配統制力を持つ国家に左右されはするが、人類の無意識的な意志ともいうべきものが、ゆるやかに人間社会の諸矛盾を縫い合わせていくのではないだろうか。旧来的な革命の概念が無効な場所を私たちは生きているように見える。その上で、かくめいは可能か?という課題はあり得ると思う。



2022/03/18
太宰治bot@osamu_dazai
死のうと思っていた。 今年の正月、よそから着物一反もらった。 お年玉としてである。着物の布地は麻であった。 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。 夏まで生きていようと思った。【葉】

この言葉は、若い私が、二段組みだったかある文学全集の巻頭で出会ったもの。芥川の素振りを真似た若い太宰の写真が残っている。それに似たキザな表現にも見えるかもしれないが、これはあたふたする作者が、知り合いからの普通の小さな善意にとても過剰に受けとめ反応する場所から言葉は来ていると思う


昔テレビで何度か見たことのあるお笑い芸人のジョイマン、高木晋哉が、詩集『ななな』(2013年)を出しているというのでどんなのだろうと思って、アマゾンに出向いたら、試し読みで3編読むことができた。お笑い芸人の裏側みたいな、ちょっと生真面目な詩だった。


RT牛が雪原の斜面を遊ぶように滑り降りている動画。

「笑い」というありふれて不可思議な人間的表現の研究では、近代以降ではヨーロッパにベルクソンの『笑い』があり、わが国では柳田国男の「笑の本願」(柳田國男全集 9 ちくま文庫)がある。「笑い」に劣らず「遊び」の研究も大切だと思う。人間だけでなく、どうも動物も「遊ぶ」ようだ。

読んだことはないが、遊びの研究にはフランスのロジェ・カイヨワ『遊びと人間』がある。柳田国男に「遊び」の論がなかったかなと全集の目次に検索をかけたが、なさそうだった。子どもらが地蔵に縄を付けて川の中とか引きづり回すという行事があるという。

これは仏教以前の縄文期に通じるような「神」のもてなし、神との遊びかもしれない。とすると、今の「遊び」とは違ったものも含んでいたのかもしれない。


2022/03/19
「全柔連が小学生の全国大会を廃止するという決定をしました。私は素晴らしい決断だと思います。」という爲末大の一連のツイートが今流れてきた。うさんくさく思うことが多かったが、これは自分の体験と現在のスポーツの練習や大会を見聞きしての実感に基づいた、多数がそう思うような収束点に着地していると思う。


RT
藤原直哉@naoyafujiwara
プーチンが開いた大会の動画。本当にトランプにそっくり。要は米露がトランプ・プーチンで世界を1%の既得権益から解放して99%のために作り替える革命を進め、それがほぼ成功の段階に入ってきたということ。


普通の生活を日々送っている私(たち)にとって、妄想のトランプーチンって何、意味わからん。


「ジュジュ」という佐野元春の歌があるらしい。ちょっと変わった歌詞だけど「ジュジュ」は女性の名前だろう。それで連想したのが、吉本さんが「マチウ書試論」の中でイエスキリストをフランス語の「ジェジュ」(Jesus Christ ジェジュ・クリ)を用いていたことだ。二つは関係ないか。

また、昔々、ジュジュ化粧品という会社とマダムジュジュという化粧品があった。マダムはフランス語で女性を指すからフランス人の女性の名をイメージしたものだろう。英語で調べると、jujuとは「(西アフリカで)護符、まじない、呪物、魔よけ、(呪物による)魔力」としか出ない。フランス語ではヒットしない。



2022/03/20
どんな場であれ当事者は、その現場の渦中にいるから主要に具体性を考えや行動の中心とする。誰もがそんな現場を持っているが、他人の切実な現場から離れている者は、その現場に対して自由自在に感じ考えることができる恣意的な〈現場〉感・〈現場〉意識を持つ。両者の隔絶についての内省は大事と思う。

他人は、他人事として政治や軍事のオタク趣味として他人の現場を荒らし消費することもできる。しかし、お互いにこの同じ時代の同じ大地のつながりの中に生活している人としての、(ひどいね、つらいね、しっかりね)などの存在の倫理のようなものからの発動に心を澄ますことこそ本質的と思う。

もちろんこれは、ロシアの政権(プーチン)-軍のウクライナへの侵略下のウクライナの人々やロシアの人々を念頭に置いた言葉でもある。



2022/03/21
シリア内戦にロシアが介入した後、サリンが撒かれたという話にネットで出会った覚えがある。最初は、アサド政権の方が撒いたという記事だったが、逆の記事も出てきて、何なんだこれは?と思ったことがある。戦争は何でもありになり、陰謀・工作・暗殺のソビエトロシアの負の遺産がまだ続いているのか。


〈革命〉は死んでいる。ほんとうに死んでいるんだ。大正末期以来わが国にも大きな思想的影響を与え続けてきた〈革命〉思想であったが、ソ連崩壊とともにそれも世界的に退潮していった。現在のロシアのプーチン政権、中共の姿を見れば、これが〈革命〉だなんてちゃんちゃらおかしい。

東西対立という仮象の下に、「安全保障」や「国防」を唱え続けることによって、国内的な私たち生活者と政権(支配上層)との対立が覆い尽くし続けられてきている。このことは世界共通と思われる。依然として、私たち生活者が主人公にはなっていない。そして、人間の理想の社会を求める永続的な〈かくめい〉は終わらない。


吉本さんの晩年だったと思うが、憲法九条に関する話題で、もし万一他国に攻め入られたとして不戦の憲法とは別に、個々人としては武器を取って戦うかもしれませんね、みたいなことを語られていた。国家のためというより自分や家族や見知った人々を救うためには、それはどこの国の住民でも同じような気がする。

しかし、今までの地域紛争を超えた国家間戦争やそんなことは空想として、考えないで済むのが普通でなくてはならないのだ。原発攻撃、生物化学兵器の使用や核兵器使用を匂わせる威嚇、プーチンは、世界に対して大罪を犯してしまった。



2022/03/23
クマの倫理論 #みんくま草
@greenminkuma
「戦中から戦後にかけてぼくが学んだことは、戦争になった場合、逃げようが戦おうが、その判断をするのは個人あるいは家族だということです。個人およびその家族がいちばんいいとおもったことをすればいいのです。」http://blog.livedoor.jp/greenminkuma-kumatamontan/archives/8970397.html


返信先: @greenminkumaさん
憲法第九条の非戦条項と侵略下での個人としての判断・行動の具体性について触れていたのは、『第二の敗戦期』(吉本隆明)でしたか。ここに書かれていることを先日思い出しましたが、どこで語られていたか思い出せませんでした。


二人の同じ元駐ウクライナ大使なのに、ウクライナやロシアの事実関係についてまったく異なる見解なのはどうしたことだろう。


人には、それぞれの固有の対象の選択・感受・判断・行動の道筋のようなものがある。集合的な国民性としても固有の精神の遺伝子の型のようなそんなものがあるだろう。私たちは誰でもその二重性を歩んでいる。ところで、ネットの仮想世界、SNSが、刻々と色んなものが流れてくる大河に私たちを連れ出している。(う)。


戦争関係の内部では、その外からは人間的なデカダンスにしか見えないような、クラスター爆弾や劣化ウラン弾などを武器設計者や軍事産業が次々に生み出していく。しかし、ふと空想するのだが、ドローンや無人の攻撃飛行機やロボットの軍隊や衛星送受信など、もうこれは戦争の不可能にたどり着くのでは?



2022/03/28
「政治家に近い人にだけ利益がいくような昭和型の政治はやめましょう」(吉村知事)って、そういうことがやっぱり続いてきているんだ。続けてるんだ。ロシアのオリガルヒほどではないかもしれないが、お金持ちってどこかで独り占めのズルや悪いことをしているというイメージをわたしは持っている。


「現地」から遠く離れた地で、押し寄せてくる「情報」をあれこれ叩いたり伸ばしたり組み合わせたりしても「現地」にはたどり着けないと思う。まず、ロシアの起こした戦争があり、殺害されている人々があり、他国へ避難している人々がいる。国家レベルではともに多くの兵士の血が流れ続けている。

もちろん、戦争は人倫の死だ。当事者ではない私たちの倫理(人としての有り様)は、この戦争(に限らず数々の地域紛争も)を軍備から見た軍事ゲームと見なさないことである。「現地」の実情を知るには、現地の普通の人々の言葉に触れることだと思う。戦時の国家なんて米であろうが露であろうが、不信のみ。



2022/03/29
わが国の時代劇を観ていても、諸藩のお世継ぎ問題などで緩慢な死をもたらす「毒を盛る」場面がある。韓国や中国の宮廷政治ドラマを観ていても、「毒を盛る」場面が出てくる。そうして、依然として現在のロシアにもこの負の政治は続いている。これは現在の主流の平等観に基づく民主主義ではなく、独裁主義。

マルクスなどの西欧の革命思想に影響を受けたロシアの革命以来、約100年。世界中にこの革命思想は影響を与えた。しかし、ロシアも中国もその負の民族的な遺伝子と結びついて、開放的になることなく暗く陰湿に閉じていった。密告、粛正、暗殺、強制収容所。そうして、敗戦後も日本と同じく戦犯によるプーチン政治。


ウクライナやロシアの大衆についてではなく、プーチンロシアを擁護するようなツイートが最近流れてくる。あの壮大で無惨な負の革命だったソビエトロシアにイカレタ人々もたくさんいたようだが、ソビエトの敗戦の反省もなくまだそれを信仰している人がいるのかな?それともロシア本国の利害関係者かな?

あるいは、新しいトランプーチン教の人々かな?



覚書2022.3.29
当たり前のことを振り返ってみる。例えばツィターで、他人のツイートの何をいいなとか大事だなとか選択しても、また他人を傷つけない限り何を言っても自由だと思う。宮沢賢治風に言えば、そのようなことも人間の〈表現〉活動である。

しかし、その表現には、ひとりひとりの選択や感じや考えの〈無意識的な自然な好み〉から〈倫理のようなもの〉に渡るものが介在している。〈倫理のようなもの〉は、〈無意識的な自然な好み〉にも自然性として潜在しているが、それよりも意識的なもので、対象を選択したり判断を下したり評価したりする場合の価値の基準になっている。

対象を選択したり判断を下したり評価したりする場合のその人の価値の基準になっている。そうして、それは自らがこの現在を呼吸しながら身に着けたものである。


現代短歌bot@gendai_tanka
かかはりもなく春は過ぐきみの瞳(め)にG#mがあるから  西田政史 #短歌


何のことかわからないから調べてみると、「G#m」は、「ギターコード G#m(Gシャープマイナー)です。」「マイナーコードなので、暗い響きのコードになっています。」とあった。また、作者の別の作品もあった。「この街のすべてがぼくのC#mの音にとざされている」これも暗い響き、とある。



2022/03/30
戦争は、あるいは戦争的な国家状況は、ネオナチもへちまもない、人倫の死だ。戦争は、過去の日本軍を含めて非人間的な残虐を数々引き出し、今も普通の生活をなぎ倒し、残虐もある。もちろん、例えば墜落死だったかの米軍兵士を手厚く埋葬し弔ったという島尾敏雄隊長のような例もあるのだろう。

わたしたち圏外にいるものとしての倫理。等身大の生身を越えた恣意的な記号的な解釈ではなく、等身大の沈思黙考をこそ。

それと同時に強い非戦の意志を。







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 最近のツイートや覚書など2022年4月 ①


2022/04/04
言葉も写真(画像)もただ自分自身のため、すなわち自己対話のためということがあり得るが、結果としては、それを目にする他者にも波及することがある。一方、さあさあ真実ですよ食べて食べてと言葉や写真が盛んに繰り出されることがある。この時言葉や写真は、個を超えて宗教(作為、宣伝、戦略)となる。


オーム真理教事件の時、テレビでの上祐氏の言葉にふしぎな目まいを感じたことがあるが、シリア内戦でのサリン散布に関するネットの言葉にも一体どうなってるのかと不審に思った。またしても、「嘘も百回言えば真実となる」が登場している。オソロシア。


RT
北村匡平「椎名林檎論 乱調の音楽」最終回『文學界』4月号
生きている間に読みきれないほどの小説が存在すること、すべての映画を観ることができないという事実に絶望したことが何度かある。こちらが読んで観ている間にそれを上回るペースで小説が書かれ、映画が作られていることをどう受け止めればいいだろう。40歳になったいま、改めてそのことを考えている。


わたしもこの問題を言葉の過剰として数日前詩で取り上げた。例えば、好きな人の1秒ごとの仕草や表情や言葉を追いかけるのは病的だろうし不可能だろう。ただその人のそれらを貫く中枢に触れる(読み味わう)ことができればいいのではないだろうか。太古と違って言葉も作品も過剰になってしまった。

さて、この問題は現在に普遍的な課題にも見えてくる。例えば、学校の先生たちは夏休みも削られトリビアルな成績評価も強いられ従来に増して細分化と仕事量の増大を強いられている。仕事を変更するなら今までの仕事を減らさなくてはならないのに、仕事を増やす労働強化。これは教育の内容や入試も同様。


「進撃の巨人」The Final Season、とあったから今年で終わるのかと思って観続けていたら、今週の月曜日が最終話で、その終わりに「 The Final Season完結編 NHK総合 2023年放送」と出て、ずっこけた。時間が離れると前回の記憶が薄れて困るなあ。


2022/04/06
ロシア民衆のジョークについては、内村剛介の本で知ったと思うが、今はロシアのフェイクの花盛りか。不健康なことだ。


覚書2022.4.6
人は無意識的に固有の話法(書法)を持っている。それをもっと詳しく見れば、共同的な固有のイメージ・感じ考え方の地平に乗っかって、それに同調したり異和を持ったりしながら、それでもそれを部分的にであれ無意識的に受け入れながら、表現として登場する。主流は「欧米話法(書法)」と「反欧米話法(書法)」。

架空の東西対立が消滅しても、新たな形を生み出すことなく依然としてその残骸を引きずっている。世界権力というものを想定すれば、それは、「欧米話法」と「反欧米話法」との対立・抗争・均衡に存するものではなく、

普通の人々(大衆)が、自由に表現し行動する力を持つ主体になることに存すると思う。この点から見て、香港やミャンマーなどが世界権力の危機として映るが、わが国も、お題目以外では思想でも政治でも私たち大衆がほんとうの主人公になっていないという意味では、世界権力は潜在している現状だと言うほかない。


2022/04/07
RT
Meta Quest Japan@MetaQuestJapan
VRで君もドラマーに。次々と現れるドラムを叩きながら、全身でビートを感じよう。
動けるほうが、オモシロイ。


この内側のVR空間を見ていて、幻覚や追跡妄想などの精神の病を連想した。病の場合は避けられない固有の型があるのだろうが、VR空間は精神の病とは違って主体の選択や離脱の自由がある。しかし、VR空間に入り込んでいる人を外から見たらちょっと白ける。


先ほど録画していた「暴れん坊将軍Ⅱ」の#3を観ていたら、うん?あの娘の顔と声、三原じゅん子じゃないか?と思って観ていたら最後に配役で出た。少し前の回にも出て来た。物語世界の登場人物だけど、配役のイメージから色が染み出すから、微妙な嫌な気分で観た。


コロナ問題の蔓延などの難しい局面になると、吉村知事も東京都知事も国も、「重症化や死亡リスクの高い『高齢者、高齢者施設を守る』ことが重要」などと言い出すんだよな。何度も聞いたセリフ。ま、何もやらないよりはましだけど。これはコロナに押しまくられた撤退戦の言い訳のようなものか。


これは意味が解らないとしか言いようがない。初めウクライナ軍が攻撃しにくいようにアブナイ原発を占拠したのかと思った。チェルノブイリ原発周辺の危険性は少しは頭に入っていたと思うが、わかっていてやったのか、それとも軍なのに知識がなかったのか。


2022/04/08
「お客様 いくつかのメールを送信しました,確認が取れていません。アカウントの一部の機能が制限されています。大変お手数ですが、24時間内にアカウントを登録内容を確認する必要があります。」今日はこれ。ほぼ毎日のようにフィッシングメールが来る。焦ったハシビロコウたちが背後にいるのだろうか。


今日の朝のテレビ。ウクライナ民間人の証言によると、ロシア軍の指揮官は「浄化」と呼んで民間人を殺害していたらしい。国家規模になったオーム真理教の「ポア」と同じ。そんな非道や残虐にイデオロギーをくっつけても、生還して穏やかな普通の生活が送れるとは思えない。


2022/04/09
RT
「ウクライナ政権は邪悪」プーチンが心酔するロシア正教会“75歳怪僧”の正体〈元KGB工作員との噂も…〉(文春オンライン) #Yahooニュース


ロシア正教会には、ドストエフスキーもトルストイもソルジェニツインも、割りと民衆的なレベルで、何らかの関わりの意識を持っていたような気がする。これを見ると、現在の日本会議系に残留している迷妄的な宗教性を伴った第二次大戦期の日本の戦争と同質で、目まいのような退行に思える。


2022/04/10
コロナウィルスに罹った場合も、コロナワクチンを打った場合も、それらがもたらす災厄(重症や副作用や死)の分かれ目は何なんだろうな、とふと思う。人の体の中ではそれ相当の事情がありそうなるのだろうが、まだ私たち人類はそれを解明できていない。人体探査用のナノロボットはまだないのかな。


レーニン辺りからのロシアの革命が、100年経っても自由や平等を深めることがなく、生活もあんまり豊かにならず、日本の戦争期のアジア主義みたいなロシアの古い精神の遺伝子を解きほぐせずに、一部の特権層と帝国気取りの独裁者しかもたらさなかったなんて、なんとういう壮大な喜劇だろうか。

これで思い出すのが、「古代世界がくずれおちる情景が、われわれの個人的感情にはどんなに悲痛であるとしても、歴史の立場からすれば」として述べたマルクス「イギリスのインド支配」(1853年6月)という文章である。

「なるほどイギリスがヒンドゥスタンに社会革命をひきおこした動機は、もっともいやしい利益だけであり、その利益を達成する仕方もばかげたものであった。しかし、それが問題なのではない。問題は、人類がその使命を果たすのに、アジアの社会状態の根本的な革命なしにそれができるのかということであ

る。できないとすれば、イギリスがおかした罪がどんなものであるにせよ、イギリスはこの革命をもたらすことによって、無意識に歴史の道具の役割を果たしたのである。」


大きな視野で内省するとき、人類の歩みと歴史というものについて、ほんとうにそうだろうかという疑念をわたしは持ち続けている。


2022/04/13
馬淵睦夫の動画について

この人、最近チラ見したが、どこでそんな道に入り込んでしまったのだろうか。世界各地で大使などを勤めて何を見、何を感じてきたのだろうか。トランプー安倍?なんじゃそりゃあ。「あわれというも中々おろかなり。」


2022/04/14
RT
J-CASTニュース@jcast_news
JR恵比寿駅から「ロシア語案内」撤去 「不快だ」客からの苦情など踏まえ判断
#ウクライナ #ロシア


そんなつまらないことするより、企業や組織は、悪しきソビエトロシア由来とかいう「ノルマ」(個人や団体に対して国家や組織が強制的に割り当てた労働の目標量)をかなぐり捨ててはどうかな。


覚書2022.4.14
お化けは神が落ちぶれたものだというのは柳田国男の言葉だったと思う。近代以前、隣同士の村では田んぼの水争いなどの直接利害からの争闘があった。それに対して調停や裁きなどのルールもあったらしい。そんな隣村同士の険悪な争いが落ちぶれて、綱引きや石投げや地区対抗の競技などの遊戯になった。

村々の関係が、近代市民社会に編制されることによって、さらに産業構造も変化して、隣村同士の険悪な争いは消滅した。そうして、個人間や個人と組織間の争いは法によって調停や裁きがなされるようになった。これって、〈戦争(状態)〉のひとつの解消法、解決法ではないか。

もちろん、現状は無力な国連が世界平等力によって再編成されなくてはならないと思う。現状が強力な存在感を持っているように見えるから、学者さえもが無意識的な自然状態として、「安全保障」と言い「軍備力」(果てしない軍備増強)を言う。本当にそうだろうか、と思う。(覚書2022.4.14)


ドストエフスキーもソルジェニツインもトルストイも読んだ。若い頃ロシア語を学ぼうとしたが、アルファベットから違うので断念した。わが国と同じく根深い精神の遺伝子(それはロシアの大地感情のような正性ともなれば、オソロシアのプーチン大帝みたいに陰謀・暗殺何でもありで

他をがむしゃらに圧伏させようとする負性も併せ持つ)が現在まで生きのびている。わが国の場合は、個-国家を同一化するアジア的な負性は誰にも潜在しているが、それをネトウヨがピエロとして演じている。


人は、目が回るほど忙しいなどの強いストレスの渦中では、どんなにゆったりした性格で優しい人でも、変貌する。先の戦争期、戦争というストレスにさらされて、庶民以外でも、ほとんどの芸術家・思想家たちは熱にうなされたように、相手国や自国のことを日々追いかけ思い口にし戦争に熱中してしまった。

何ということか、また、プーチン-ロシアが国家間の戦争を引き起こした。直接にその戦争に関わりのない私たちは、ロシアがどこを攻めたとかウクライナがロシアの軍艦をやっつけたとか熱中するのはデカダンスではないか。むしろ、沈黙の内で惨禍の渦中の人々を思い、戦争や平和の内省をすべきではないか。


2022/04/17
里見浩太朗主演の、舞台は江戸末期の「八百八町夢日記」を見ていたら、目がよく見えなくなった女の子を治す薬草だったかで「ロートー」というのが出てきた。で、うちの奥さんが「ロート製薬」はそれと関係あるのかなと言ったので調べてみた。目薬を作る処方を考え出したロートムント博士に由来とあった。


近現代短歌bot@tankanobot
にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華(あづまいちげ)の花も閉(と)ざしぬ  土屋文明


東一華は、初めて耳にする花の名前。人参は春と夏の種蒔きがあるが、東一華は春先に咲くというからこれは春。また、「花は日が当たると開き、曇りや雨天または夕方になると閉じ」るという。これは、もう夕方になったから、人参の種蒔きは明日にして帰るとするか、という歌だろう。


2022/04/20
RT
Kさん
吉本隆明が相撲のテレビ放送をみて「相撲を生で観るあのゆったりした時間が再現できていない」と指摘していた。相撲も野球も落語も生の現場に流れるあの独特の無意味な空気こそが芝に居る(芝居の語源)芸の本質なのでは。テレビ・スマホの画面サイズの問題ではなく実は空気の再現にこそ眼目があるのでは


当該個所をぱっと取り出し参照できないのは残念だけど、わたしの記憶からすれば、吉本さんの言葉は、「生で観るあのゆったりした時間」という肯定的な話ではなく、テレビの取り澄ました取り組み場面と違って、観客はしゃべったり弁当食べたりなんかあっけらかんとしている相撲見物だという印象でした。


宮沢賢治の「猫の事務所」内でいじめがあった時、獅子(百獣の王ライオン)が外から入って来て、「獅子が大きなしつかりした声で云ひました。『お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要(い)つたはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる』かうして事務所は廃止になりました。」

わたしたちの世界は、獅子のような存在が問題(いじめも戦争も)を解決してくれるようにはなっていないから、やっぱり現在の国連をもっと平等で力のあるものにしていくほかないと多数の者が思っているに違いない。先の大戦の不十分な反省がほんものとなるように個人レベルでも国家レベルでも歩む外ないと思う。







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 最近のツイートや覚書など2022年4月 ②


2022/04/21
中国もロシアも「共産主義」、共産党とは名ばかりで正体は古めかしい皇帝政治で、ほんとうは血塗られた事件や歴史とは無縁な、誰もが自由に生き生きと生きていくものとして構想された人類の理想のあり方を、そのような権力闘争と粛正との悪夢に変えてしまった。民衆は悲劇であり、その人類史的な罪は重い。

今でも使われる「西側、東側」という架空の対立概念をわたしは認めない。政治は民衆の迎合を組織化することもあるが、いずれの国においても、国家や有名人ではなく民衆自体にスポットライトが当てられるべきであり、民衆の物心両面の幸福をこそを第一の政治や改革・革命の問題と見なすべきであると思う。


2022/04/22
現代短歌bot@gendai_tanka
おしよせて来しかなしみはざくざくざんざくざくざんとキャベツを切りぬ  小島ゆかり


おしよせて/来しかなしみは/ざくざくざん/ざくざくざんと/キャベツを切りぬ
歌の意味は説明を要しないかもしれない。表現の場に降りてみる。かなしみ「に」なら滑らかに流れて「わたし」が主語で「キャベツを切りぬ」にかかる。

かなしみ「は」の場合は、二区切れでそこを断層と見なして、そのかなしみを背にして「わたし」は「キャベツを切りぬ」となる。あるいは、かなしみが擬音のように切りぬ(切らせた)という含みも考えられそうな気がする。するとちょっとコワイ感じが出る。助詞ひとつの重大さ。


noteに掲載されている坂口恭平「継続するコツ」を第7回の半分くらいまで読んできた。仏教で、心身を痛めつける修行をしながら少しずつ悟りへ上り詰めていくのが「堅超」(しゅちょう)、それが普通だと見なされていたことに対して、親鸞らの念仏して一挙に悟りに入ることを「横超」(おうちょう)。

「継続するコツ」は、表現世界や表現者の「横超」に当たるのではないかという気がしている。


2022/04/23
あがた森魚、あら懐かしい。歌の感じは覚えているけど題名は忘れている。今ネットで聴いてみたら、昔聞いて印象深かったのは、「赤色エレジー」だった。哀愁を含んだ「語り」調の歌のようだ。


2022/04/23
医学書院のHPで『驚きの介護民俗学』の「はじめに」の部分を読むと、ああそうだよなあという「おどろき」が湧いてきた。ひとりひとりの現在に、受け継いで歩んできた精神史やもっと大きく言えば人類史が内包されているから、やろうと思えば「発掘」できるということ。


2022/04/24
RT Sさん 戦略コンサル(防衛・安全保障)5年→ ジョージタウン国際関係論修士
NATO東方拡大は誤りに反対、という世論は、ロシアと領土問題を有する日本としては、当然の帰結なのかもしれませんね。


「NATO東方拡大は誤りに反対、という世論は、ロシアと領土問題を有する日本としては、当然の帰結なのかもしれませんね。」(戦略コンサル(防衛・安全保障)のツイート) 戦略コンサルには自然でも、わたし(たち)普通の生活者にとっては、NATOとかそういう文脈に自然に入ることはない。圏外を生きている。


今日の夕方、テレビでロシア正教会キリル総主教とプーチンとの関わりを取り上げていた。最近知ってはいたが、改めてプーチンは、ソビエトロシアを越えて帝政ロシアのツァーリ(皇帝)気取りのようだ。精神はいかようにも退行する、普通人なら別に問題ないが、大統領となると。なぜこんなのが評価できる?

たぶん、プーチンには近代発祥の人権も自由も平等も国家も国境も交渉もあり得ないのだろう。まるで無敵のカイドウ(『ワンピース』)だ。これは規模は違うが、退行思想の日本会議系と変態した自民党(ついこの間の安倍晋三を嚆矢(こうし)とする)とのタッグと同型である。


2022/04/25
録画していたNHKBS「数学者は宇宙をつなげるか?abc予想証明をめぐる数奇な物語」完全版を観た。加藤文元『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』を読んでいたから、少しは落ち着いて観ることができた。同じ数学的構造だが同質性と異質性を持つ宇宙Aと宇宙Bの間の関係の構造化か。

縄目の3巻きとりんご3個は、数学世界では同じ3として扱うが、縄目とりんごの違いがある。日常世界では、対象として前者後者が分離されたり、その両者が一体として捉えられたりする。数学は長らく対象を同じ3として抽出された数学世界の構造をのみ扱ってきたのか


RT James F. ガメ・オベール
1959年だと、ところどころ日本語がいまと違っている。
全体にていねいで、いちばん異なっているのは若い人同士の会話だが、
中古車が「ちゅうぶる」なのがおもしろい。

使いたいなあ、ちゅうぶる。

ルビがないとダメだね??
2022年4月24日


「ちゅうこ」も「ちゅうぶる」も意味としては同じものを指しているが、いわば心の肌感覚にそれぞれは滲みていて、語感が自然とイメージを羽ばたかせる。だから、「ちゅうこ」世代には「ちゅうぶる」は生命感を感じにくい。わたしの耳も「ちゅうぶる」に親しい。


2022/04/27
最近朝方のテレビコマーシャルで、「月々490円~で100万円の備え - SBIいきいき少短の死亡保険」がよく流れて来る。他人事で、素人計算で、そんなことで仕事になるのだろうかと思っていた。調べてみると、年齢などにより掛け金が違っていた。当然利益の確保はシビアーに考えているはず。


最近しばしば見かける「スナップエンドウ」は、最初「スナックエンドウ」と勘違いした。その初印象のため、「スナップエンドウ」には少し異和感があるようになってしまった。「スナックエンドウ」と「スナップエンドウ」は同じもので、正式名称としては「スナップエンドウ」らしい。

調べてみたら、wikiなどによると、「スナップエンドウ」は英語ではsnap beanと表記される。スナップとは、パキンと折れるという意味だ。「スナックエンドウ」は豆類の改良品種として、1970年代にアメリカから輸入されました。甘味があって食感がよく、スナック(軽食)感覚で食べられる。とのこと。


太宰治bot@osamu_dazai
人間なんて、そんなにたくさん、 あれもこれも、できるもんじゃないのだ。 しのんで、しのんで、 つつましくやってさえゆけば、 渡る世間に鬼はない。 それは信じなければいけないよ(太宰治「火の鳥」)


これは、少し安定した明るさの差している時期の太宰治の言葉のように見える。昔、新潮文庫だったかの太宰の日記を読んだことがあるが、反物に限らず知り合いからいろんな援助も受けていた。それも太宰が生のバランスを保つのにいくらか貢献していたろうと思う。

 「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」(太宰治「葉」青空文庫)


RT
木村拓哉という人は自己肯定力が低い、と糸井重里。ふたりが出会ったころの話から、ずっと変わらないと言われる「魂の年齢」の話まで。
https://www.1101.com/kimuratakuya2022/2022-04-24.html


ドラマ『HERO』で検事役で出た「キムタク」には、私は割りといい印象の俳優さんというイメージを持っているが、若い頃吉本さんと会っていたんだ。(若いから、かしこまって聞き役だったかもしれないが、何話したんだろう。)


最近、時代劇チャンネルで観ている『暴れん坊将軍 Ⅱ』や『八百八町夢日記』を観ながらふと思ったことがある。ドラマも物語も人が生み出した、現実とは違ったバーチャルな世界である。そんなドラマや物語の世界で、全ての登場人物は平等であるという見方も可能ではないかと思った。

確かに、作者やプロデューサーは、あるモチーフを携えて仮想世界に主人公周辺にアクセントを置いて起伏のある線を引き世界を構成し展開させることは確かだろうし、端役の俳優さんも主人公みたいな役をいつかやりたいなと価値序列化することもあるかもしれない。

現実世界にも人々の内面や行動を制御しようとする社会の主流のような価値観(マス・イメージ)がある。しかし、社会内の誰もがその価値観(モチーフ)に縛られているわけではない。同様に、ドラマや物語の仮想世界でも、読者は、作者のモチーフに沿いながら、あるいは作者のモチーフを退けて、

平等な人間たち(登場人物たち)に出会うことが可能ではないだろうか。それに何の意味があるのかと言われても思いつきで即答しがたいが、ひとつ言えることがある。物語もドラマも太古においては、大いなる自然(神)が主人公であり、人間と神との対話が主要なモチーフであった。

歴史の大きな推移と共に、主人公は、大いなる自然(自然界の神)→人間界の神→人間界の貴人と変位していった。物語やドラマの世界で主人公を特別視するのはそうした歴史性に拠っているはずである。

まだまだ実質は伴っていないが観念やイメージの上では、平等が主流の現在において、私がふと思いついた、ドラマや物語の世界で、全ての登場人物は平等であるという見方も可能であり、そこから物語世界への還流もあり得るように思った。


2022/04/29
「どうして、捜索を尽くしたのに、なんで三年経って靴が見つかるんだろ?」とか、素人の思い描く現地の時空は、現実にはでこぼこやいろんな出入りや動きがあって、その山や捜索の専門家の言葉を仲立ちとしないととんでもない飛躍や思い込みなどになりそうに思う。ロシアのウクライナ侵略戦争状況に関してもまた。


2022/04/30
最近、テレビを観ていると「ウマ娘」という言葉(CM)が時々出てくる。競馬の宣伝かなくらいに思っていたが、やっと調べてみた。

『ウマ娘 プリティーダービー』(略称は『ウマ娘』)は、スマートフォン向けゲームアプリとPCゲーム。競走馬を擬人化したキャラクターである「ウマ娘」を育成し、レースでの勝利を目指すという内容、らしい。

なんか、馬が若い女の子で操作(育成)するというのが、別に作品評価を別にすればそれはいいんだけど、『月曜日のたわわ』(今無料版を少し見た限り)と同類の、人の欲情そのものを描ききるのではなく、人の欲情に媚びたり誘導したりしているような感じがする。


RT Jさん
ウクライナのことを「ウク」と略す人、大抵が陰謀論者なんですよね・・・彼らワクチンのことも「ワク」と略すから、そのノリなんでしょうけれど。
2022年4月30日


「ウクライナ」も、それを略した「ウク」も、何を指し示しているかという言葉の指示性は同一である。しかし、何かが違うという思いは誰もが持つだろうと思う。コロナのワクチンに関しても「枠珍」や「ワクチソ」などの表記に出会って何となく異和感を持った覚えがある。

対象指示は同一でもそういう変わった表記をすることでコロナのワクチンへの違和の思い(自己表出性)を込めているものと思われる。例えれば、「ウクライナ」という同一の部屋を指していても、「ウク」の場合は奇妙な飾り付けが施された仲間内の部屋みたいなものであろうか。







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 覚書2022.5.23 ― 残虐について


 動物が狩りをして他の動物を食べるのは、人間には残酷に見えるかもしれないが、自らが生きていくために避けられないことであり、自然である。ヘーゲルの近代的な自由の人間的な概念の視線から眺めれば盲目の閉ざされた自然性と見えるかもしれない。しかし、動物たちはそんな人間的な視線とは関わりなく自然に溶け込むように生きている。

 一方、人間は、狩猟採集の生活から農業生産を生み出した時から、動物みたいに生きるために他の動物を殺す必要は次第になくなってきている。しかし、まだ食肉として特定の動物や魚を食べているし、それを手放しそうにない。そうして、戦争や事件として社会に浮上してくるような殺人などの残虐を行ってしまう存在でもある。殺人事件などは、人が追い込まれて生きのびるために必要から行ってしまったと善悪を問わずに見れば、動物の狩りと同様の、精神的な意味の殺人(狩り)と見ることもできるかもしれない。

 人柱などは残虐と言うより現在から見たら迷妄から来ているように見える。人柱を立てることで自然の猛威を慰撫できると見なしていた。人間世界の力で自然を動かすことができると信じられていたようだ。アステカ文明での捕虜の心臓を取り出して神に捧げるという儀式もそれと同様のものだろう。そこでは、自然もそれの修辞化された神も人間のような他者、意志疎通の可能な存在と見なされている。

 ところで、人柱や心臓を神に捧げるということは、現在では無益な、迷妄としか感じられないと思う。しかし、人間が自然を動かす、自然に手を加える、改変するというその太古の感性は、高度な文明化した現在にまで受け継がれていて、この人間世界の活動性を支えている。

 「快楽殺人」と呼ばれるものがある。これは、フロイト的な精神分析の対象という個的なレベルの問題でありつつ、もうひとつのレベルの問題でもありそうだ。そのような事件の殺人も戦争下の残虐な殺人もその人柱の迷妄と同質のものから来ているような気がする。残虐に見えるのは、そうした晴れ上がった太古の迷妄の精神的な遺伝子が、今や現実的な基盤をなくしてしまって陰湿にねじけてしまっている表現から来ているような気がする。







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 最近のツイートや覚書など2022年5月 ①


2022/05/01
Mさん RT
ツイート折口信夫 @shakuchoku
音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである

(続)「祭りの夜に神の來て、ほと/\と叩くおとなひに、豐かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬とに縮みあがつた邑落幾代の生活が、産んだ語であつた。だから、訪問する義の語自體が、神を外にして出來なかつたことが知れるのである。」(國文學の發生(第三稿)青空文庫)


もう少しはっきりさせるために検索(検索って、本当にすごい)して当たってみました。その続きの部分です。言葉も、神が来訪する音も忘れられ起源が薄れていきます。酒も、神との関わりから人間界での集い酔うになってきました。薄れても起源は内包されているのでしょう。



2022/05/02
青空文庫の夏目漱石「こころ」を「秀丸エディター」にコピーして、「電燈」という語句で「検索」をかけると、その語句がある3ヶ所がヒットする。その一つ。「私が偶然その樹の前に立って、再びこの宅の玄関を跨ぐべき次の秋に思いを馳せた時、今まで格子の間から射していた玄関の電燈がふっと消えた。

先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。」「電燈」がない時代には考えられない表現で、効果的に使われている。一太郎でもエクセルやワードでも検索できる。現在は、「検索」の時代だと思う。検索は、「電燈」以前と「電燈」の時代のような大きな違いを画している。



(ウクライナ問題についての勇ましい発言に)
小は職場などでの大は国家の状況での張り詰めた状況で、他人に一つの道を行くかどうかを迫るような言葉や論理は、それ自体で欠陥品である。まあ落ち着きなさい。私たちは圏外なのだ。わが国の非戦の憲法の下、もどかしい圏外でひとりひとり自由に思い考えることを強いられているのだ。



日銀の現在の円安誘導政策は、国債などの利率を抑えるためだと誰かが述べていたが、真偽の程はわからない。円安も円高も一長一短があるのはわかる。しかし、意図的な円安誘導政策によって、経済活動におけるGDPの過半を占める家計消費の存在と力を正当に評価していない、その力を削いでいるということはわかる。

BSフジのプライムニュース5/4を観ていたら、早川英男や永濱利廣だったと思うが、金利上昇と国債は関係ないといっていた。調べてみると、「実質的に日本政府は日銀が買った国債530兆円(日本国債発行額は932兆円)に金利を払わずに済み、国債のほとんどを日銀が買っている。」



2022/05/04
農事メモ2022.5.3
畑や林の際に父がお茶の木を少し植えていた。10年ほど前に一度少しばかりお茶摘みをしてフライパンを使って、小さい頃の見よう見まねでお茶を作ってみたことがある。繊細ではない万葉的な感じのお茶が出来た。久しぶりに今年もお茶摘みをしてみた。



2022/05/08
イーロン・マスク
「当たり前の事を敢えて言うならば出生率が死亡率を上回るような変化を起こさない限り日本はやがて消滅してしまうだろう。これは世界にとって巨大な損失となろう」
Elon Musk@elonmusk
At risk of stating the obvious, unless something changes to cause the birth rate to exceed the death rate, Japan will eventually cease to exist. This would be a great loss for the world.


結婚してもアクセク・トゲトゲではなく(割とゆったりと)家族の生活や子育てができるように政治や社会(企業)が本気で支えるならば、少しは現状を変えることができるのかもしれない。もうひとつ、当事者たちが一人の自由より二人の少し面倒ではあるがいい感じの自由を選べるかにもかかっている。



2022/05/09
当然のことだけど、日本人やアメリカ人やヨーロッパ人だからといって、今回のロシアのウクライナ侵略問題を正当に評価できるとは限らない。ロシアの政権や軍を擁護するような言説も流れてくる。それは新たな世界政治ゲームの徴候か。しかし、ロシアーソ連のウソ八百と残虐性は大いに自覚された方がいい。



落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し

TLに流れてきたこの歌。若い頃の歌と思うが、いつ頃の歌かなと確認で調べてみたら、歌集「サラダ記念日」(昭和62年・1987)所収。俵万智25歳頃の作。

この歌のイメージの出所は、小さい子どもでもなく、少年少女でもなく、おばちゃんおじさんでもなく、老年でもなく、やっぱり作者の年齢みたいな若い女性というほかない。一般性として、大多数の感じではそう受け取られるだろうと思う。



2022/05/10
吉本隆明bot@T_Yoshimoto
ひとりはいった <そこに思想はあるのかい?> いいやそこでは長ねぎのかわりに玉ねぎをかったり 鶏肉のかわりにもつをたべたりするのが思想だ 誰とも区別がつかないように生活するのか思想だ たばこ屋でそこの娘にちょっと笑うのが結合だ 『信頼』 


Mさんへ
『信頼』とあるから、単行本かと思いましたが、そんな題名の本は記憶にないし、中身からは詩に見えます。詩の文体(言葉の編み方)から見れば『日時計篇上・下』より後で、詩集『記号の森の伝説歌』の基になった『遠い自註(連作詩篇)』(『吉本隆明資料集57』)より前の作品に見えます。

やっと探し出しました。詩〈信頼〉(『吉本隆明全詩集』P236-P238 思潮社)です。その巻末の「解題」によると、勁草書房版の『吉本隆明全著作集1 定本詩集』のⅤ(1959-1968)の部分に載っていて、1964年12月に書かれた作品と推定してあります。

昔の、勁草書房の『吉本隆明全著作集1』の「定本詩集」を探し出しました。確かに詩〈信頼〉が載っています。線もちょっと引いているから昔読んだのだと思います。



覚書2022.5.10
おそらく多くの人々が、現在続いているプーチン・ロシアのウクライナ侵略戦争とウクライナ政府・軍などの防戦のことをすっかり忘れて日常生活のこまごまにハマりきりにはなれないような気がする。どこかで現地の人々の苛酷な現状を案ずる気がかりを抱えているような思いがする。
 
プーチン・ロシアのウクライナ侵略戦争は、内戦や地域紛争―それら自体もむごたらしい戦争に変わりはないが―はあっても、もはや国家間の戦争はあり得ないだろうという「普通」の感覚を世界的にくつがえしてしまった。そういう退行の点からも人類史的な犯罪であると思う。



二つの大戦後ということからは意外この上ない国家間の侵略と防戦の戦争ということとSNS世界の成熟のもたらすものが、この戦争を世界的にクローズアップさせているのではないかと思う。
 
もやもやはありつつも考えたわたしの原則としては、

、まず戦争の渦中にあるウクライナの住民のことを、次にロシアの住民(特に、戦争に反対し弾圧される人々)のことを思い案ずる。その上で、戦争の現場のウクライナの住民の生存に大きく関わるウクライナ政府・軍などの防戦を案ずることになる。気持ちとしてはそれを応援する気持ちがわたしの中にはある。



2022/05/12
松尾芭蕉bot@basho_bt
月やその鉢木の日のした面


うわあ、何のことかさっぱりわからなかった。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/senpo.htm
( 元禄6年10月9日、沾圃・其角との三吟連句の発句。在りし日の沾圃の父古将監(貞亨2年8月没)の謡曲『鉢の木』の舞台を回顧して詠んだ。「老の名のありとも知らで四十雀」も同じ日の句。



2022/05/13
ある場所や行為へ誘導する意図を持ったプロパガンダは、人間を動物のように見てなめている。しかし、世はソフトなプロパガンダ(広告宣伝)の時代になってしまっている。それは、内発性を持つ人を操作可能な存在と上から目線で見なしている。人をもてなし楽しませてくれる「プロパンダ」ならいいけど。



RT
坂口恭平@zhtsss
今日のパステル画。
大観峰。


自分が行ったことがない絵の中の場所も物語の中の街や通りも、この列島のある固有の地域で自分が見聞きしてきたことからの類推から一般的具象性として〈見る〉(〈読む〉)ことはできるし、そうしている。自分に縁のある場所の場合は、具象的固有性として〈見る〉。妻の実家が遙か下の方に見える。



2022/05/14
細田衆院議長の「議長になっても毎月もらう歳費は100万円しかない。上場会社の社長は1億円は必ずもらう」という、自分たちは何か特別のことをしている偉い位にあるという無意識が現れている発言と、「政府は13日の閣議で、先月14日に死去した尾身幸次元財務相を正三位に叙することを決めた。尾身氏は生前、

旭日大綬章を受けている。」(JIJI.COM)という叙勲制度は同類のものだ。本物の国民主権にはそぐわない無意識や慣習であると思う。もちろん、お金に困っている者や不遇な人にチャンスを与える文学賞などの賞は問題ない。



わたしたちの大多数は、自分の体なのに体のことや心身の関わり合いをよく知らない。それに、人の体の医療的な経験を積んだ医者や医療システムという、こちらからはよく見えない立ちはだかるような感じの存在がある。だから、医者の前ではどうしても受け身的な姿勢になりやすい。

しかし、文学の世界と同様に医療の世界でも変な人も配慮深い人もいろいろいて、時代の水準ということもあるが、その全体を深く見通せている人はごくわずかであるのは確実であるように思っている。特にコロナ禍の下の医療者の発言や振る舞いを見てその思いは強まった。



2022/05/15
現代短歌bot@gendai_tanka
美しく齢を取りたいと言ふ人をアホかと思ひ寝るまへも思ふ  河野裕


はっはっは。(「婚活」やら「終活」やらあるみたいだけど、人がどんなに意志してもいわゆる「なるようにしかならない」ということがある。この世界の有り様と人の有り様と。)

現在は、フェミニズムやアンチ・フェミニズムのやりとりなどネットを見ている限りずいぶん窮屈になっていますが、杉浦日向子さんは人の幅と深さがあるのびやかな方でしたね。



現在は、ロシアのウクライナ侵略戦争が進行中のため、マスコミなどに軍事研究の専門家がよく登場している。しかし、軍事研究に限らず医療でも教育でも、軍事の終わり(死)、医療の終わり(死)、教育の終わり(死)という帰りがけを持たないならば、この人間世界(人)を本当に生かすことにはつながらないと思う。

例えば、人には一生教育は付きまとうものだという教育観(生涯教育)もあるが、もし、(普通の意味で)何かを生産・消費することなく、人が自由に、気ままに、生きることを包み込み支えることができないならば、つまり、教育の死を内包していないならば、それは局所的で偏狭な教育観というほかない。








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 最近のツイートや覚書など2022年5月 ②


2022/05/17
現代短歌bot@gendai_tanka
らりるれろ言ってごらんとその母を真似て娘は電話のむこう   永田和宏


「携帯電話の歴史」を見てみると、ケイタイの普及は2000年代頃からのようだ。歌人でもある娘の永田紅は1975年5月生まれだから、この歌のなかの「電話」は、消えかかりつつも現在でもまだ残っている家庭の固定電話だろう。たったこの31文字で或る場面をはっきりイメージさせる。(もちろんわたしは、この歌は作者の体験的な事実にもとづいているとして読んだ。)



RT
Kさん
「田毎の月」。棚田に月が映っている様を云うらしい。良く考えれば判るが、そんな事は有り得ない。それぞれの棚田の水面が水平で無く、凹面上に傾いて並んでいなければ、「田毎の月」にはならない。見て来た様な?とはこの事。

Kさん
蕪村句集に出て来るらしい。
「帰る雁 田毎の月の くもる夜に」



「信州千曲観光局」のHPによると、「田毎の月」は実際には見ることはできません…、とあります。しかし、『六十余州名所図会』「信濃 更科田毎月 鏡臺山(しなの さらしなたごとつき きょうだいさん)」(歌川広重 画)には、描かれていますね。誰が思いついた「しゃれ」でしょうか。
https://edo-g.com/blog/2016/02/ukiyoe.html/ukiyoe27_l



2022/05/18
「現場猫案件」、また意味を調べてしまった。最近出会った言葉。ネットスラングらしいけど自分では使わない言葉だからすぐに忘れる。そこで例文一つ、地味な役場の仕事でも、いつ何時4930万円にも及ぶ「現場猫案件」が発生しないともかぎらない。



2022/05/19
RT現代ビジネス@gendai_biz
「プーチンの側近」プリゴジンが関わった「ヤバすぎる仕事」の数々 : https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95253 #現代ビジネス


素朴で熱狂的な(?)ロシア民衆と違って、プーチン-ロシア国家は、スターリン-ソビエトを受け継いで、秘密警察的なものを暗躍させ駆使している。個の人権や自由や平等を踏みにじり一部に権力と富が集中するそんな陰湿な負の遺伝子を相変わらず温存しているのなら、むしろ徹底的に西欧化した方がいい。

それは状況の中でロシアの民衆や社会が決めることである。わが国も先の大戦からの敗戦で、明治期の西欧化とは少し違って、占領軍による少し強制力を伴った西欧化(欧米化)を推進してきた。現在を見ればわかるように、日本会議系の亡霊も生きのびている。その地域(国)の精神の遺伝子の改革は容易ではない。



宗教が、単なる(といっても、実はそこが主戦場)地域に住む人々の親睦や交流をはかることのみを考えるなら、どんな荒唐無稽の教義やあんぽんたんの行動をしても問題とはならない。しかし、「イエスの方舟」は別として一般に宗教は遅い走りのくせにこの社会を超えようとする危なっかしい政治性を帯びる。



先の大戦では、西欧の精神文化の大波をかぶって驚き、個として内的格闘や認識の拡張をはかった人々(例えば、高村光太郎や三好達治)も、自発的に容易に戦争(戦争詩)に飲み込まれていった。そうして、古代的なイメージと認識の「鬼畜・米英」を叫ぶほどに退行していった。そこでは、知識は石ころだった。

今また、石ころの知識から途方もない短絡思考や陰謀論じみた言葉の世界に退行している人々がいる。自分自身を含めて人は自発的にどこまでも退行できる存在である。言葉や知識を石ころにせず命を吹き込めるのは、依然として人としての平凡な生活のくり返しのイメージを手放さないことだと思っている。



2022/05/21
Iさん
欧米の世界に認められたいっていう気持ちが文芸やスポーツでもあるみたいだ。認められたいって気持ち自体、あんまりいいもんじゃない気がする。自分のやったことに自分で自信が持てるなら、誰に認められようが認められまいが構わない。でもたぶん…自分には認められたいんだな。


明治・大正・昭和初期までのわが国の近代では、先進中国から先進の西欧へ乗り換えても、依然として後進の意識が芸術から思想や経済や教育など全ての分野でありました。敗戦後の第二の欧米化でもその後進の劣等意識はありました。しかし、現在では、―依然として欧米の学問などを有り難がる人もいるようですが―主流は欧米も世界の一部に過ぎず、どこの誰もがこの世界そのものを相手にしているのだという意識になってきているように感じています。もちろん、音楽芸術のある分野では西洋には無視できない積み重ねの層があるというようなことはあるとは思います。



RT
坂口恭平@zhtsss
出版社で本を一冊出すと、僕の場合は売れて2万部近く行けば300万円、売れない時で初版5000部で100万円いかないくらい。僕が自分で本を作った時はネットで読んでもらって1000万円、さらに本が5000冊売れて500万円になった。本といっても経済は全く違うから興味深い。


読者には一般には無縁のことだけど、毎月大量の本が出ている中であんまり売れないでもうかっていない人も多そう。それでも本が出る。



「幸福は掴むものではなく、只中にいること。つまり継続すること、なのであるよ。目指さすものは成功ではなく、楽しく継続できる時間との出会い?」(坂口恭平 ツイート 午後10:23 2022年5月20日) この社会の表層では、目的地や結果、成果ばかりが中心に据えられがちで、「楽しく継続できる時間」ということが大事にされていないような気がする。



服部和美「松岡祥男さんのこと」に引用されている。
(米軍でも各地で残虐を働いた者はいるだろうが、またアフガンなどでの振る舞いは知らないが、吉本さんがGHQの東京での対応を見て、)
「これはロシアと違うんで、ロシアがソ満国境で略奪・暴行をたくさんやるわけですが、これだったらどんないいこといったってだめだよということになっちゃいますね。これはどうしようもないですね。アメリカっていうのはそこはみごとなものでしたね。あんなことがあれだけできたらたいしたものだっていうことです。それから決定打はやはりいわゆる農地改革でしたね。」(吉本隆明『世界認識の臨界へ』の「生活と思想をめぐって」より)



2022/05/22
覚書2022.5.22
記憶が不確かだけど、埴谷雄高の優れた観念小説『死霊』には、登場人物が語るものとしてだったか、〈過誤としての人類史〉という考え方があったように思う。しかし、これまでの人類史を全くの〈過誤〉と見なすならば、陰謀論でもUFOでも光の世界とDSとの二項対立でもなんでもあり得る

ように見える。しかし、人類史には、例えばごく一部の者が悪行を重ねても、いい加減なおおぼら吹きがいても、大多数の普通の人々はまじめに現在や先々を考えているように見える。自分の属する会社などの小社会を振り返ってみたらわかるはずだ。

国家に大きく左右されるからそれらは依然として潜在的ではあるが、それが人類史の主流を形成していると思う。石ころとしての知識の遊びでもなく、おおぼら吹きの論理でもなく、等身大の生活世界の実感に根差し少しでも良いものをと理想を求める人類史の歩みに沿うこと、これが私の立ち位置。



2022/05/24
農事メモ2022.5.24
・うちの奥さんがショウガと間違って畑(たんぼ)にいけたウコンが花咲いている。初めてウコンの花を見た時、なんか異国のふんいきを感じた。調べてみると、ウコンは「インドが原産であり、紀元前からインドで栽培されている。」そういえば、仏教関係の色彩で見るインドらしい感じがする。ある地域の色彩やその組合せの表現は、自然の花々などを模倣しながらもそれぞれの地域性を、地域的一般性を背景としているように思う。もちろん、文化の交錯もあるし、特異点もある(例えば、岡本太郎や草間彌生など)。



現代短歌bot@gendai_tanka
いちまいのガーゼのごとき風たちてつつまれやすし傷待つ胸は  小池光


精神的な傷を持つ身としてはちょっとしたことにも癒しを感じてしまうという歌か。しかし、昔の歌でいえば、ガーゼ-つつまれー傷-胸が縁語になっていて、技巧的な歌になっている。現在的に見れば比喩表現ということになる。



2022/05/25
農事メモ2022.5.24・続
キュウリやスイカやメロンやかぼちゃなどのウリ科の植物に寄って来て葉などを食いちぎるテントウ虫サイズの黄褐色の「ウリハムシ」。何が害虫の発生に関与しているのかよくはわからないが、今年は気温が低めの日が続いているせいかその発生数は例年に比べて少ない。

せめて大きく成長してから葉を少し食べるのは構わないけど。苗の段階から食い荒らされる。ホットキャップが少しはそれを防げそう。
今読書中の上橋菜穂子『香君 上巻』のアイシャという女性は、物や人の放つ香りによって木々の叫びや人の状況を察知する植物性の世界性を持っていて興味深い。

しかし、「奇跡のりんご」の木村さんによる微生物の活動の理解など自然認識の深化はあるにしても、自然界はまだまだよくわかっていないことが多すぎる。



現代短歌bot@gendai_tanka
追憶のもつとも明るきひとつにてま夏弟のドルフィンキック  今野寿美


「ドルフィンキック」は、イルカが尾ひれでバシッと水を打つのだろうと推測できたが、弟がキックボクシングみたいな遊びをしてたのかなと思ってしまった。調べてみると、「『ドルフィンキック』とは、バタフライのダイナミックな足の動き伴う泳ぎ方」とあった。なるほどこちらが収まりがいい。



2022/05/28
今日の新聞広告にあった。「理論物理学の最前線では、私たちの宇宙を超えた、その外側や生まれる以前などについても議論できるようになってきています。」というキャッチコピーにひかれた。アマゾンのレビューによると読むのが難しいそうだ。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000362613
(『なぜ宇宙は存在するのか はじめての現代宇宙論』野村 泰紀)

ずいぶん前のNHKBSでの村山斉の「最後の講義」でも現在の宇宙以前についてちらっと触れていた記憶がある。

現在の宇宙(その微小な一画)は、〈わたし〉とは無縁そうに存在しているとしても〈わたし〉とは切り離せない存在に見える。わたしが死ねば現在の宇宙(その微小な一画)は終わる。しかし、別の者の《わたし》の宇宙は続いていくのは、わたしの今までの小さな見聞からは確からしく思える。

ただし、わたしの死後のこと(宇宙)を考えるのは世界や宇宙の断絶だから無意味に思われる。空想的に考えると、現在のような宇宙が過去の方に果てしなく繰り返されてきたし、未来の方にも繰り返されるのではないかという、私たちの微小な生活時間を超えた超時間のようなものを考えることがある。

この宇宙の「始まる前から寿命について」ということは、それ自体の問題でありつつも、私たち人間のこの世界への誕生以前と誕生と死の問題とに対応しているように見える。そうして、そういうことを対象化して考え得る人間という存在、すなわち言葉の問題でもあるような気がする。

この宇宙の起源の問題に以下のように吉本さんが触れているのは頭にあったが、少しわかりにくそうだったから引用しなかった。現在の宇宙に属する頭でそれ以前の宇宙を考えるような、頭が混乱しそうな問題ではある。また、現在は当時の物理学界の考え方からも変貌しているようだ。 (2022/05/29)

言葉の吉本隆明① 項目138 <物質>系の宇宙の起源 「項目抜粋2」
http://dbyoshimoto.web.fc2.com/DBYOSIMO/AGYO.HTM#138
吉本隆明「宇宙の島」(初出1978.8「新劇」、『初源への言葉』所収)より (2022/05/29)




2022/05/30
太宰治bot@osamu_dazai
人間は嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。【斜陽】


(もし、これに何かコメントせよと言われたら)人が、ひとつの実感を伴う言葉を自分のものにするには、いくつもの経験の積み重ねを潜り抜けてきている。別の言い方をすれば、ひとつの実感を伴う言葉にはその人のいくつものドラマの時間が内蔵されている。



2022/05/31
わたしは『詩の原理』は2,3度読みました。明治維新から半世紀くらい経って西洋の書物の訳書もいろいろ出回っていたのでしょうが、西欧的な文学や美の概念を十分に消化吸収しつつ(そのように感じられました)自分なりの文学(詩)の概念を構築し、そこからわが国の古典も捉え返していたと記憶しています。

ちなみに、年譜としては、
・1917(大正6)32歳
2月 『月に吠える』出版。
・1920(大正9)35歳
初旬 『詩の原理』素稿を書き上げ、改稿にとりかかる。
・1928(昭和3)年12月15日
「詩の原理」刊。第一書房


Mさん
吉本さんが36歳のときに書いた「萩原朔太郎ーその世界」(『際限のない詩魂』2005年 詩の森文庫所収)を、今日再読したところです。再読と言ってもまったく憶えていなかったので、吉本さんらしい過激な批評文に新鮮な驚きを感じた次第です。この批評文の最後の行で「朔太郎の芸術論は、



とても高く評価評価されていたような記憶があります。


Mさん
大著『詩の原理』において文学原論として集大成される。すでに触れるべき余裕がないが、『詩の原理』は漱石の『文学論』とともに、日本の近代文学史がうんだもっとも優れた文学原論の書であり、いまなおこえることは容易なわざではないのである。」と絶賛しています。『詩の原理』も再読してみますね。




宮沢賢治の「ネコの事務所」内のいじめ問題に、業を煮やした獅子(ライオン)は事務所の解散を命じる。そして、語り手(作者)も半ばそれに賛成だと付け加えられている。わたしたちは、世界の各地で内戦や戦争が起きて人々が死んでも、そんな上の審級の獅子を招喚して問題解決できない。

相変わらず現在の主流みたいな顔をした、国家間や同盟諸国と他国間の軍事バランスの均衡・軍備拡張の論が、自然な顔をしており、学者や評論家もその上に当然みたいに寝転んで何か言っている。それで、未来性も何もあったもんじゃない。永遠の現状維持。永遠の電気・照明以前の松明・ランプ生活。

戦争を死滅させるために、現状を絶対化することなく、個々人で、集団で、ただ右往左往、知恵を働かせ積み重ね、実験をくり返すしかない。







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 最近のツイートや覚書など2022年6月 ①


2022/06/02
先ほどTLで鴨志田ひよという人を知った。何の話かなと思ったら、西原理恵子の娘さんで、「毎日かあさん」で個人情報をばらされてとても精神的な衝撃と圧迫感を受けてきたらしい。作者の現実体験を素材にした「私小説」というのがあったが、それでもそれは文学的な虚構性を持っている。

西原理恵子の「毎日かあさん」は、新聞で二三度なんかごちゃごちゃして読みにくいなとチラ見した程度でよく知らないが、wiki「毎日かあさん」によると、「物語は西原家を舞台に、主婦の日常生活や子育て等を描く。」とある。実体験をもとにしても、せめて虚構性を持った作品にすれば良かったのにと思う。

物書きは、本人の知らないところで家族や知り合いなどを傷つけることがあるようだ。「とある父の著書――正確に言うと対談本の内容が、母を激怒させていたのだ。」(娘ハルノ宵子の「ヘールボップ彗星の日々」、『吉本隆明全集12』の月報9) それで「我家は最大の家庭崩壊の危機に陥っていた」と。

その吉本さんの対談本については詮索したことはないけど、これは、わたしの『吉本さんのおくりもの』言葉の吉本隆明② 項目723「吉本さんのこと 44 ― 老いの姿」の「備考」に引用している。



2022/06/04
RT
「大人は灯油缶、背負うんですか?」ランドセルを軽くするアイデア商品に批判殺到→小学生の反論がキレキレ https://buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/sanposeru-comment?utm_
大人達の批判がことごとく論破されてて笑った??
あれだ「自分達が苦労してきたんだから今の子供達が楽をするのはけしからん!」という考えが根底にあるんだろうな。


現状が根本的に解決されない限りこのような改良改革はあり得るのだろう。松明やランプから電気の電灯が明治期に普及しだしたように、わたしはまだ電子本を利用していないが、それにみんなが慣れて普及しだしたら、いろいろ根本から変わりそう。重たいランドルも消えていくのかもしれない。



RT Mさん
吉本隆明の『初期歌謡論』を思い起こす …  #吉本隆明
白川静bot@sizukashirakawa
東アジアにおける古代歌謡の時代は、古代的氏族制の中核をなすものが外圧によって破壊され、新しい階級的関係に入るときに生まれた。[詩]や[万葉集]は、そのような意味をもつものとして、その比較的な分析の対象とすべきものであろう。


歌謡のことは遠目からでよく知りませんが、察するに現在の歌(新旧存在しているそのスペクトル)も、大雑把には、現在の高度化した人工的自然性の消費社会がもたらし貫いている感性に対する、受容から否認のスペクトルとして存在しているのだろうと察せられます。

上り坂、下り坂、水平坂とか冗談に言う位で、私は歌謡に興味がないのですが、当事者たちは必死で舞台に立っているし、観客も必死で支えているように思えます。そうして、例えば坂シリーズのプロモーターたちは、現在の無意識に促されてそれの要請するもの(ウケるもの)を次々に繰り出しているのでしょう。



RT
ランドセルを体感で約90%軽くする「さんぽセル」 1000件超の批判に対抗するクラファンを開始
ITmedia ビジネスオンライン2022年06月03日


「ランドセルは、日本の多くの小学生が通学時に教科書、ノートなどを入れて背中に背負う鞄である。」(wiki)、「ランドセル」=「背中に背負う」が最初から想定されていたのだろうし、現在もそう見なされているのだろう。しかし、そういう等号をはずすところから思いもしない事態や技術が生まれてくるようだ。



2022/06/05
時々思うのですが、太古には、今と同じく日々の生活に自然と中心がありつつも宇宙的次元も人間界の次元も混融していたとは思います。現在では、宇宙と人間世界とははっきり分離して人間界の内の小さな日々の生活に重力の中心があるように思います。そして、時々ふと人間界を超えて宇宙に触れる、と。

だから現在では、人間界の次元と宇宙的次元は直通させたらマズいんじゃないか、なんかウソが混じることがありうるように思っています。親鸞の時代までは先に述べた二つの次元の混融は続いていたのではないかと思います。疫病や戦乱の続くどうしようもない人間界と宇宙的次元の「阿弥陀仏」、

現在とちがって、当時はまだ「阿弥陀仏」の人間世界への照り返し(救い)が人々に信じられていたような気がします。



先ほどETV特集「迷える女性たちの家」(NHK 6/4)の後半を観た。『ドキュメント72時間』と同様の良い作りの番組だと思った。1日に1秒でも本人たちが「生きていて良かった」と思ってもらえることが支援の目的という支援者の言葉は深くシンプルで言いようもなく良かった。
https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/2KJ99V1GM6/



2022/06/05
経済素人のわたしにもわかる簡単なことだと思うけど、
1.働く人が宝だと思っていない経営層がいる。
2.GDPの過半を占める家計消費が現在の経済の大きな場所を占める。
わかっていたら、変なトリクルダウンの経済政策なんか取らないだろうに。いつまで経っても経済は良くならないし、風通しが良くない。



覚書2022.6.5
今夕のNHK映像の世紀「スターリンとプーチン」(再放送)を観た。レーニンの遺書にはスターリンだけは指導者にしてはならないとあったらしいが、それに違わずスターリンは妻にも娘にも背かれながら、指導部内や途方もない規模の民衆に対して残虐の限りを尽くしている。

資本主義の権力上層にも権力悪は巣くっているはずであるが、こちらは恐怖やフェイクを組織化する人間の暗黒面から権力行使。それは現在までの「革命中国」もプーチン-ロシアも同じ。資本主義社会よりもっと良い社会を作ろうという意識的な政治集団による「革命」にソ連も中国も失敗した。

それらの「革命」は資本主義社会以上に開かれたものどころではなく、カンボジアであれ、資本主義社会以下の閉ざされた権力の暗黒面と膨大な人間の死を組織的にもたらした。

ソ連崩壊以後、そうした形での「革命」の不可能性を、(ではどうしたらいいのか)ということを含みながら、人類の理想を追い求める本性を内に持つ私たちに静かに告げ続けている。



2022/06/06
↓RT関連で言えば、「私のおぼろげな記憶では、庭先養鶏で、大いな器に一升瓶を逆さに立てて、鶏の水やりに、」(ヤフー知恵袋の回答より) わたしも小学校へ通う途中の家でその光景を見かけて、その知恵に感動したことがある。



RT
昨日、スーパーで買ったリンゴが
こんな状態でした。(画像略。引用者註.黒ずんでいるところがある)
我慢しますか?
クレームを言いますか?


私もりんごや梨で同様の経験がある。外見は問題を感じさせないのに切ってがっかりする。「りんごの旬(収穫時期)は8月~11月頃」とのこと。それなのに年中スーパーで見かけるのは、「「CA貯蔵法」という技術でりんごを仮死状態にして長期保存しているから」と。そんなすごい技術力でもこんなこともある。



RT
伊勢崎賢治@isezakikenji
武力による現状変更、そして一般市民の犠牲。アフガニスタン、イラク、シリア、パレスチナに何が起こったか、起きているか。これらを引き起こす悪魔”たち”を相対化せず、ウクライナで起きていることだけを言い募るのは、人種差別だと言っているのです。


うーん、知識人にとってはどうか知らないが、生活者としては、まずわが国のふざけた政権・政治が直接性であり、他国のことは間接的であること。その上で、アフガニスタンは(FBIのフェイクが絡んでいたかな)、中村哲さんの目や言葉によって考えさせられた。今回は宇のSNSの意識的利用のせいが大きいと思う。



2022/06/07
RTして
黒田日銀総裁は、家計(生活の経済)について無知蒙昧すぎる。家庭を何十件か無作為に訪問してこの件について聞いてみる必要がある。また、スーパーなどの小売店をいくつかたずねて、店側が消費者との間でものの値段を巡ってどのような攻防を繰り広げているか聞いてみる必要がある。



2022/06/08
ファイザーCEOの「2023年までに、我々の薬を買えない人を50%に減らす」という発言が、作為を持った動画編集により、バイデン大統領と並んだ同氏のダボス会議2022.05の「我々の目標のひとつは、人口を2023年までに50%削減すること。そして今、その夢がかないつつあります。」のコメントに捏造さ

れてツイートされている、という解説のツイートに出会った。

闇の世界政府DSやらこんな一企業家や一大統領を超巨大怪獣視してるなんて、どんな宗教の信者なんだ。オーム真理教と同じゃないか。いつになったら、自分の足下を、人間界の眠れる「超巨大怪獣」である生活者大衆に気づくのだろうか。



2022/06/13
TikTokやYouTubeなどは、お金もうけにつながるらしい。もちろん、それができるのはごく一部の人々であろう。わたしは、ツイッターのTLに流れてくるのを時々見るくらいだが、その観客やパフォーマー(表現者)は、いずれもその世界に熱く入れ込んでいるのだろう。

広告表現と同じく、単に客寄せできればいいということではなく当然表現の質も観客と表現者の双方から問われるだろう。そこでは、作為(わざとらしさ、みえみえの客寄せ意識)と自然ということが、人間的な本質(観客)を前にして大きなテーマであるような気がする。







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 最近のツイートや覚書など2022年6月 ②


2022/06/16
TLに宣伝で「ワンピ」という言葉が出て来た。以前聞いたことがある。女性用の服のワンピースの略称とある。略称に違いないだろうけど、ゆるキャラみたいなカワイイを表出する語感の方が主のような感じがする。ちなみに、なかなか先へ進まないTVの倭の国編の『ONE PIECE』も略称は「ワンピ」らしい。



農事メモ2022.6.15
・例年なら6月の終わりまで竹の子が出てくる。もういいやと思っても出ていたらつい収穫してしまう。湯がいて干して保存。上の林から下の畑にも根が伸びてきたのか、道端の土手にも出て来るようになった。これは細いので収穫しないで切り倒した。



私は、自分の身近な者に関わっていない限り、人を殺めてしまった者でも大きな失敗をしてしまった者でも、罵声を浴びせたり石を投げたりしようとは思わない。ただし思うことはある。性懲りもなく猪みたいにまた政治に突き進むんじゃなくて、経験を生かすように静かに評論の世界に戻れば良いのにとか。

そのことは実感的な自分の性分でもあるが、吉本さんに習った理屈から言えば、「悪人なおもて往生す」の宗教でなくても文学も人間的な〈悪〉を包括しようとしてきたし、包括しようとするからである。



2022/06/20
RT
伊藤比呂美@itoseisakusho
ロダン美術館で、鴎外の「花子」に出合った。すごかった。


2022/06/20 ツイート
森鴎外に「花子」(青空文庫にあり)という短編があるのを初めて知った。高村光太郎がロダンに大きな影響を受けたのは知っていた。そこに鴎外も「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹つて見える内の焔が面白いのです。」とロダンの核心を書き留めている。



農事メモ2022.6.20
うちにもグラジオラスがある。調べてみると、「グラジオラスは風で倒れやすいため、つぼみが出たタイミングで支柱を立てましょう。もしくは、根元に土を寄せ、しっかり固定します。」とある。グラジオラスは南アフリカ原産で、故郷では倒れるほどの風が吹かなかったのだろうか。

木立ダリアもそうだが、大風で倒れたりして、自分で立てないくせに4m近くにも成長する。グラジオラスも南米原産の木立ダリアも、故郷の環境が良くて倒れることがなかったのか、それとも倒れたら倒れてもいいやと育ってきたのだろうか。よくわからない。気になる。



2022/06/21
わたしもカボチャやスイカやキュウリなど育てている(大部分は、作物が勝手に成長しているように見える)が、あの小さな種がこんなになるなんて驚きだなと時々思う。もちろん、人や動物についても同じ驚き。生物学的にはある程度納得のいく説明があるのだろうけど、それを超えて不思議に思う。



2022/06/25
最近「全裸中年男性」とかの言葉に出会って、古いけど椎名誠風に(何を言うて居るのだ?)と思っていたら、先ほどTLで「全裸待機」という言葉に出会った。調べてみると、「「全裸待機」とは、熱狂的な期待感を抱きながら、全力で楽しむための準備をした状態で待つことです」。いずれも裸の比喩みたい。



2022/06/27
政治や行政が、生活者住民の全ての幸福追求をほんとうに直接的にサポートしようとするなら、色んな政党があって対立するのはおかしいし、安倍政権のように嘘八百が許されるのもおかしい。現在は、各政党の主張が似通って来ているが、まだまだ過渡だ。国民主権が政治と私たち双方で主語になっていない。

現在の政治屋や政治利権構造が解体された、わたしの未来イメージでは、わたしは仕方なくなら議員になってもいいけど、できればやりたくない。しかし、誰もが気軽に議員になれるという方がいい。現在でもいるが変な人が混じっても全体の生活者の英知でたぶんなんとか穏やかに淘汰されると思う。



ほんとうは、太鼓持ちは除いても経済学者や経済評論家は、この正規-非正規に象徴される活力のない荒んだ社会をどうすれば良いのか根本的な処方箋を知っているような気がする。しかし、戦後の農地改革を自前でやれなかったようにこのクニはいつも及び腰でトリビアでお茶を濁してきた。



RT
Sanshiro Hosaka@HosakaSanshiro
ソ連民族問題で知られるグリゴリー・サニーは筋金入り(ネオ)マルキシスト。あるシニア研究者は、ロシア人が左翼思想捨てたのに、不思議なことに欧米の一部ソ連研究者は「米国帝国主義」を「覇権主義」に替えただけでなにも変わっとらん、と笑っていた。


欧米の政治、思想の批判は別として、わが国に翻訳すると敗戦後の生長の家-日本会議系みたいな負批判のゾンビが、プーチン-ロシアを含めてソビエト崩壊(革命の死)後にも依然としてこの世界に存在しているのか。SNSを見ているとどうもそんな気がしてくる。世界は新たな胎動をしているのに。



RT
Archaeology & Art @archaeologyart
Mould Plaque for a Heron. Period: Greco-Roman Egypt, 2nd-1st Century BC. This mold depicts a heron, a bird associated with the sun, the annual flooding of the Nile, and the afterlife. Collection: The Walters Art Museum.
英語からの翻訳
サギの型プラーク。期間:ギリシャローマ時代のエジプト、紀元前2世紀から1世紀。このカビは、サギ、太陽に関連する鳥、ナイル川の毎年の洪水、そして来世を描いています。コレクション:ウォルターズ美術館。


現在の視線からは、写実的な鳥の像に見える。しかし、おそらく他のいろんな当時の表現のインテグレートから類推して、この解説のようなイメージが込められた当時の視線の理解になるのだろう。

現在では風習や信仰に代わっているのは広告表現だろう。単なる商品(車や薬品や食品など)にイメージ価値を吹きこんで人々の生活圏に、その個々人に結び付ける。



2022/06/30
農事メモ2022.6.30
めったにしないけど、今日は早起きして朝6時前に畑に出た。日が出ていて少し暑かった。
・さつまいもの植えたばかりの苗に水やり。
・もらった四角マメ(うりずん)の苗にも水やり。







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 覚書2022.7.24 ― 戦争世代の経験が途切れるところから


 今から70余年前の敗戦の精神的な深手と彷徨から立ち上がって、なぜ普通の穏やかな日常生活の全てが〈戦争〉に取り込まれて奪われていったのか、あるいは自ら進んで戦争を応援したのか、ということを深く鋭く内省した者はいた。吉本隆明さんもその一人だった。
 
 そのような戦争の内省から、この社会や人間の関わり合う総体の構造をつかむこと(社会総体のイメージの獲得)、これが吉本さんが戦争から学んだこと、足りなかったことだった。しかし、70余年前の精神の遺産は、戦争世代がほとんどいなくなっている今どこでどのように生きているのだろうか。
 
 アジア的な専制下の国家幻想に取り込まれた、個と国家を直通させる思考、相も変わらずの短絡思考や現状追認の心性のネトウヨの跋扈やプーチン-ロシアのウクライナ侵略戦争に対する生活感覚を喪失したゲーム感覚の関心などをSNS世界で見ていると、戦争世代の負の遺産からの教訓はどのようにわたしたちに受け継がれているのかということに疑念を持たざるを得ない。しかし、振り返ってみると、表層的にはこうして時代は途切れたり新たに更新したりしていくように見えるのかもしれない。そうして一方、時代の深層では自己表出としての受け継がれた人間の歴史が積み重ねられているのかもしれない。
 
 そこで、わたしが思うのは、自分が、今ここに生きることの根を持つこと。現在の大気に染め上げられつなぎとめられている、消費資本主義社会の浮遊するようなものの感じ方や考え方(思想)を解除あるいは切断して、少なくとも数十万年にも及ぶ人の歩みの根に触れつながることである。それは言いかえれば、吉本さんが主張してきた、歴史の初発から連綿として重力の中心となっているこの生活世界、その生活実感、そこから、現在の自分や人々の歩みを照らし出すことである。
 
 それは、現在の経済社会の無意識的な要請による合理性や成果や競争などの窮屈な価値観、あるいは価値序列とは違った、等身大の人の理想のあり方や生き方が、現在がもたらしているとがった病群をなだめるように、ちっぽけなイメージに見えるかもしれないがおのずと照らし出されて来るような気がする。

 わたしたちは、主要に自分が成育してきた数十年、そこには吉本さんが述べたように受け渡された人類史を含み潜在してはいるが、その自己成育史と〈現在〉を主要な無意識の中心としている。もちろん、そこには受け取った潜在的な人類史が織り込まれてはいるが、ひとつの大きな時代的な流れ(例えば、消費資本主義)に沿って目まぐるしく更新されるイメージや思考(指示表出)の現在がわたしたちのものの考え方や意識の中心に来るようになっている。そこで、現在の窮屈さを深く解き放つには、また錯綜する現在の問題を深く考えるためには、今まで人間が歩み築きあげてきた、潜在的な人類史に自覚的に自分を開くことが大切になってきているとわたしは感じている。







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  覚書2022.7.31 ― 近目と遠目の統合ということ

 ※この覚書は、寝せていた「覚書2021.11.3 ― 近目と遠目という立ち位置」に少し手を入れたものである。


 近目には、口では国民(生活者住民)のための政治と言いながら、互いに対立する党派や集団が存在する現在があり、その現状を無視することはできない。たぶんどこへこぼれ落ちるかわからないトリクルダウン政治が相変わらず続いている。与野党の選挙支援活動などに関わる人々を全否定はしないが、私はそこじゃないと思う。
 また、何度でも言うけど、「左翼」や「右翼」や「保守」や「リベラル」なんてものはない。あるとすれば十分に実体化できずにもはや死んでいる。しかし残念ながら、死に絶えてはいない。そういう死んだ旧概念にすがるから、明確なほんとうの対立事項が隠蔽される。問題はひとつ、主人公は国民(生活者大衆)かそうでない一部の者かということ。このことは、政治(思想)に限らず思想や学問なども同様で、全社会的なものである。

 遠目には、太古の集落の行政の始まりと同様に、対立する党派は消滅し「いやいやでも」誰かが行政を担当しなくてはならないというイメージになる。もちろん、その内面は実際とは異なっていたかもしれない。動物生のように、実際はじぶんたち普通の集落の民とは違って優れた霊的な力を持つ巫女として敬われ(押し出され)、それが優れたものとして価値化されることもあったかもしれない。巫女さんもそれに支えられて価値化されたプライドを持って宗教的な行事を担当した場合もあったかもしれない。12年に一度行われた沖縄の久高島のイザイホーの祭りなどを見ると、受け継いできた集落のしきたりとして、あるいは宗教・行政として、たんたんとこなしつつ、内面的にはそんなノロのような意識に満たされていたのだろう。この太古の集落の行政の始まりのイメージの有り様は、それが現在にもいくらか残存しているとして現在の政治や行政の様子とを考えに入れれば、上に述べた二つの要素が合わさったものかもしれないが、ほんとうはもう少し厳密に詰めてみなくてはならないと思っている。

 この太古の集落の行政の始まりについては、断定的には言えないが、そんな動物生から引き継いだ人間の能力の序列意識が大きな位置を占めていたようにも思う。現在もそのような過去とは無縁ではないが、本日(2021.11.3)ツイッターでひろった秘書などとして政治に関わっている者の言葉に次のようなものがあった。連綿と受け継がれた変なプライドであろうか。


1.立候補してくれただけあなた方よりはるかに民主主義に貢献した方々です。

2.リスクとコストが全く違うのに、立候補した人とただ投票する人の民主主義への貢献度が同じなんてことがあるかいな。

3.投票することは無料でできますが、立候補するには何百万、何千万とコストをかけ、仕事をやめ、まさに人生を懸けなければなりません。それでも「投票する人」と「立候補する人」は同価値だと思いますか?


 もう政治世界中心の逆転した価値観、感じ考えに染まりきっているところから、このような発言がでてくるのだろう。現在の、なんらかの団体の利害を求めてとか優等生風の使命感を持った政治「好き好き」の議員ではなく、学校の生徒委員のように「いやいやでも」誰かが担当し知恵を出し合う、そういう行政のイメージが理想の未来的な(太古的な)ものとして考えられる。

 したがって、二つの目を現在の私において統合すれば、いわゆる「無党派」としていずれの党派にも直接的には加担しないという立ち位置になる。加担するとすれば、私たち生活者住民の無言の意志、日々の生活のきぼうのようなものに対してであろうか。
 
 
 註.
この「近目」「遠目」は、吉本さんの「現在的な課題」と「永続的な課題」ということを意識している。これに関しては、わたしの『吉本さんのおくりもの』(旧名 データベース 吉本隆明を読む)で、
項目471 〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉 ①
項目663 〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉 ②
として取り上げたことがある。


変わるものと永遠のもの、
このふたつを綿密にとらえないと、
実相というものは
なかなか浮かんでこないです。

いまの問題と持続的な問題がまとまる
頂点というか、集合点があるんです。
そこだけ捕まえていれば、
どういうことに適応させても、
たいていそんなに大きな間違いはしないよ、と
ぼくは思います。
 (項目663〈緊急の課題〉と〈永遠の課題〉 ②)



上の糸井重里との対話で吉本さんが語っている「いまの問題と持続的な問題がまとまる頂点というか、集合点があるんです。」ということのもう少し詳しい説明は、わたしの読んだ範囲や記憶では他では述べられていないような気がする。







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 覚書2022.8.18 ― 柳田国男が農における感動を記した意味


 昨年、「農事メモ」で、柳田国男の文章中にある〈農の感動〉というような言葉に触れた。もう一度違った面から取りあげてみる。


 農村の動揺にはもちろん遠い素因がある。近代はただこれを促した事情が、急にかつ露骨に現れたというまででもあろう。しかしこういう世の中に入って行く際に、もしあらかじめ農に衣食する者をして、少しでも自分の持つ力覚(さと)らしめる道があったら、事態は必ずしもこの形をもって発展しなかったかと私は思う。これが革新のなお希望多き理由である。
 三つの貴重なる経験をもって、少なくとも田舎人は、かえって都市住民に教うべき資格を持っていた。その一つは勤労を快楽に化する術、すなわち豊熟の歓喜とも名づくべきもので、都市ではただわずかの芸能の士、学問文章に携わる者などが、個人的にこれを味わい得るのみであるが、村では常人の一生にも、何度となくその幸福を感じ得たのであった。ただ税と闘った百姓は努めてこれを包もうとし、一方無責任なる田園文学が、幾分かこれを誇張したために、今まは改めて考えてみようとする人が村の内にもなくなっただけである。第二には智慮ある消費の改善をもって、なお生存を安定にする道がいくらもあるということ。その反対の側面から言うならば、保守固陋(ころう)をもって目せられる田舎風の生活にも永い歳月の間には種々なる取捨選択が行われ、また往々にしてその失敗に悩まされていたということである。・・・中略・・・
 第三の特に大切なる一点は、土地とその他の天然の恩沢を、人間の幸福と結び付ける方法、これも社会がすこしばかり複雑になると、はや濫用が始まり妨碍(ぼうがい)が起って、恥かしいほど我々の制度は拙劣であったが、狭い島国ではなくとも、人はこれよりほかに進んで物を豊かにする途を持たず、また田舎者以外には専門にこれを掌(つかさど)る者はないのであった。いかに巧妙なる交易をもってしても、結局は生産した以上の物を消費し得ないことは、家も村も国も世界も同じである。
 (『柳田國男全集29』「都市と農村」P418-P419 ちくま文庫)



 産業の割合として、農業に中心があったから農村や農民が取りあげられている。現在に置き直せば、消費資本主義下のサービス業とそこで働く人々ということになるだろう。

 近代の急激な社会の変貌の中、都市と農村が対立的なものとして受け止められ、都市と農村の問題として浮上していた。そんな表層から下って農村や農民の中に底流しているもの、その推移に柳田の視線は向けられている。その中で、農民の「三つの貴重なる経験」を指摘している。

1.その一つは勤労を快楽に化する術、すなわち豊熟の歓喜とも名づくべきもの
2.第二には智慮ある消費の改善をもって、なお生存を安定にする道がいくらもあるということ。
3.第三の特に大切なる一点は、土地とその他の天然の恩沢を、人間の幸福と結び付ける方法

 しかし、上記の第一はよくわかるとしても、第二と第三は具体性としてどういうことを指しているのか、現在との時代性の隔たりのためかわかりにくい。ただし、都市と農村という当時の状況的な問題を論じるに当たって、その中心的な担い手であり続けてきた〈農民〉に、その内面まで含めて生存の有り様を論じていることは確かである。柳田国男の他に、農政論や農業論において、単なる社会分析のための論理の駆使を超えて、社会の主人公というか、社会の主体である〈農民〉の内面にこのように触れた者はいるのだろうか。

 これを産業の中心が農業からサービス業に移ってしまった現在に置き直せば、社会の産業経済的な担い手は〈農民〉ではなく、〈サービス業の従事者〉ということになり、かれらが現在の消費資本主義経済(註.1)の一方の生産の側に位置して活動している。もう一方は、わたしたちが〈消費者〉として登場し、他に企業や盛んな広告業界の活動を交えて、主に社会の経済という地平で現在的な〈劇〉が日々演じられている。そうして、そこには政府や行政や経済団体の意思も介入している。

 そういう劇の渦中の中心的な主体である〈サービス業の従事者〉、そして消費者の内面まで含めた生存の有り様にふれた批評家には現在でもなかなか出会えない。しかし、現在の消費資本主義経済を分析し、家計消費の中の必需系消費に対する選択消費の問題の意味を取り上げて見せたて見せた吉本さんは、一方で、その産業社会の渦中での〈サービス業の従事者〉(に限らずわたしたちすべてに当てはまると述べられている)の内面に及ぼす切迫感や加速度感(註.2)がどこから来ているかを述べていた、これは正しく柳田国男の〈農民〉の内面への視線と同じものに当たっている。そして、どちらもあるイメージや抽象度で語られている。学問や批評の世界で論理の積み木細工は多いけど、このような生命感のあるイメージや抽象度が籠もっている言葉や批評はなぜか少ない。

 この問題は、社会的な批評のあり方としてもう少し普遍化できそうな気がする。現在の社会の人間的な諸活動において、経済が中心と見なされているきらいがあるが、他にも教育、医療、家族などなど様々な領域の問題がある。その場合、全ての領域において批評に沈められた中心は柳田国男や吉本さんがとったように国民(生活者)にあるということである。これさえ押さえられていれば、問題への入口を大きく間違えることはないような気がする。しかし、なかなかそのことが社会的な諸活動や社会的な批評の基準として普通のことにはなっていない。


(註.1) 消費資本主義について
 日本の一次産業、農業みたいなものは、だいたい全産業の九%ぐらいだとおもうんです。専業の農家は九%のそのまた一四%ぐらいです。日本の農業は兼業農家になってるということです。もうひとつは産業の重点は第三次産業に移っています。流通とかサービス業とか、そういうところに重点が移ってしまっている。六〇%ぐらいだとおもいます。こういう産業段階にあるっていうのは、世界でいえば日本とアメリカとそれからフランスなどECで、それが先進資本主義っていわれているなかにはいっているとおもいます。この段階の特徴は何かっていったら、ぼくは消費資本主義っていってるんですね。消費資本主義っていうのは定義しますと、個人所得でも法人所得でもどっちをとってもいいんですけど、その所得の半分以上が消費に使われている社会っていうこと、それからもうひとつ、消費支出のうち五〇%以上が選択消費っていいましょうか、つまり必需消費ではなくて、選んで使える消費ってのが五〇%以上になっていることです。このふたつの条件があれば、消費資本主義って呼べるとおもいます。要は第三次産業が主なる産業になってる段階だとおもうんです。ぼくの理解の仕方では、それはマルクスなんかが分析しなかった未知の段階です。だからこれは分析しなおさなくちゃならない。
 (吉本隆明『マルクス―読みかえの方法』深夜叢書社 1995.2.20)



(註.2) 内面に及ぼす切迫感や加速度感について

―・・・・・社会の変化にどう対応したらいいのか、何かメッセージはございますか。

吉本 科学技術に依存する産業で、僕なんかが十年二十年前に考えた予想や想像を超えて遙かに先にいっていると感じます。人間はそれにひたすら付いて行くしかないという今の事態は驚きですね。コミュニケーションの手段が飛躍的に進展するのは便利でもあるし、利益にもなるでしょうから、社会的にも抵抗しがたい。僕らは多少は自己体験に引き寄せて息を継ごうとしているけれど、若い人たちがそのスピードが当たり前だと感ずれば、ひたすら後を追いかける以外のゆとりはなくなっている。そのスピードは産業や科学技術だけでなく、文化や学問や文芸までも被っている。僕は文芸という狭い領域から眺めているだけですが、政治や社会、学問や科学、芸術や文芸の差がなくなるまで抽象化して考える以外にないと、思っています。社会や科学のことを考えることが同時に文芸の問題にも応用できるところまで収縮や抽象化を進める以外に方法はないというのが僕の実感です。若い人は細分化されたそれぞれの分野を追いかけてそこから派生する問題を考えるのが役にもたつし楽しいかもしれません。でも、僕は相当な分野にまで共通の問題としてそれが理解できるところまで、もう少し考えを詰めて、現在起こっている問題を捉えようと思っています。多分科学技術のようなものが先頭きった主役になるかもしれませんが、そうすれば少しゆとりが生じるだろうと思います。一瞬にして地球の裏側の人と顔を見ながら対話できるということが、あらゆる文化や文明の問題に繋がっているルートを見つけることが、自分なりの切実な課題だと思っています。逆に言えば詩も小説も他の分野に当てはめても応用が利き、そこでの考え方が分かるというところまで行けばいいと思います。でもそれが分かっているのでなく、むしろ困っている、急きたてられているというのが今の実感です。
(「鶴見俊輔―何をどう言っても安心な人」P48-P49『道の手帖 鶴見俊輔』2008年12月30日発行 『吉本隆明資料集173』猫々堂)








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 最近のツイートや覚書など2022年7月 ①


2022/07/01
「サハリン2」関わりでいえば、ぼんやりの記憶から調べてみると、1970年代から1980年代にかけてイランと日本企業の合弁で設立された「イラン・ジャパン石油化学」も、政治情勢で日本は撤退した。非戦の経済はグローバル(地球規模)になっているのに、まだまだ国家や政治がグローバルに不戦になれていない。



https://www.nhk.jp/p/docland/ts/KZGVPVRXZN/episode/te/JR9KWJR1M6/
(NHKEテレの「権力と闘う あるロシアTV局の軌跡」(「ドキュランドへようこそ」)7月1日)

中国の「革命」の有り様(と現在)のひどさは、毛沢東の付き添い医師を22年勤めた、しかも普通人の感覚を持っていた李志綏の『毛沢東の私生活』(上・下)を読めば一目瞭然だった。

中共と同じくプーチン-ロシアも個人や人権を認めず容易に弾圧や逮捕や殺害したりするろくなものではないということは、うすうす気づいていたが、先ほど偶然NHKEテレの「権力と闘う あるロシアTV局の軌跡」(「ドキュランドへようこそ」)を観た。文字通り命がけでプーチン-ロシアと戦う放送局の人々の話だった。個人の自由や人権を認めない時点で中国もロシアも欧米に決定的に及ばないのだ。これはロシアの良心とも言えよう。



2022/07/05
今日はじめて出会った言葉は、「パンピー」。 「「パンピー」とは、 「一般」と「人」を意味する英語の'people'(ピープル)を合わせた「一般ピープル(一般ピーポー)」を省略した言葉 です。」とある。たぶん「一般人」という言葉では不満で、「スイーツ」みたいに新鮮な意味を込めたものか。

こんな造語、言語学者はあきれるかもしれないが、言葉も人間と同じくいい加減なところも多い。学問的にいえば、「パンピー」にはピジン言語やクレオール言語の匂いがある。



2022/07/06
RT
Masayuki Tsuda@MasayukiTsuda2
風が吹いて髪がなびく姿を表現したイギリスの彫刻家ペニー・ハーディの作品。廃棄された機械の部品でできていて、人間と同じくらいの大きさのよう


まず作者のモチーフの大まかなイメージがあり、その長い時間の制作過程での作品との対話によってそのモチーフのイメージは深化なり屈折なり遂げてこのイメージの像になっているのだろう。そういう言い方をするなら、人もまたこの世界の「部品」でできており、世界の風に日々なびいて生きている。

わたしはフェイスブックはやっていないけど、Penny Hardyのフェイスブックがあり、少し見ることができた。このシリーズの作品が他にも色々あった。



現代短歌bot@gendai_tanka
おおいなる梅干し知り合いがみんな入っているとおもって舐める   雪舟えま

こういう発想、なんか子どもの時代に出会ったことがある気がする。ちらっと調べてみた。作者の「変人と思われながら生きてゆく自転車ギヤは一番軽く」という歌はいいなと思う。



2022/07/07
近現代短歌bot@tankanobot
毛沢東よトレーズよわれをひきまはせ日本のをんならはかなしみふかし  山田あき


トレーズは初めて出会う名前だが、フランス共産党の書記長を務めたモーリス・トレーズのことだろうか。いずれにしても、「プロレタリア短歌」の作者は、毛沢東やトレーズに「ひきまはせ」(「あれこれ人を指導し,世話をする。」の意味か)とリスペクトしている。

たぶん、現在のわが国のフェミニストたちもそうだろうと思うが、相変わらず自前ではなくこのように外来(欧米)思想頼み・輸入思想で引き回している(「あれこれ人を指導し,世話をする。」)のではなかろうか。「日本のをんならはかなしみふかし」なら当然に男もまた悲しみは深いのである。そこが現在の舞台。



2022/07/09
銃撃を起こしてしまって「山上徹也容疑者」となった彼に意識のスポットライトを当てると、壊れてしまった家族・母の物語、そんな状況でもうこれしかないと破滅道へ突き進んでしまったのだろう。これは一面、しかも強力な一面として、家族の物語であり、家族精算の物語だと思われる。

わたしは両方の当事者性とは無縁であるから、両方に対して人間界での不幸の有り様に対して黙とうするほかない。そうして、もっと具体性を持った詳しい探査は、ルポライターや精神分析関係の人々の今後の仕事だろうと思う。

2022/07/12
この「黙とう」は、親鸞を借りつつ語れば、悪人(一方は、政治世界での公人としての悪人。もう一方は、個人として人を殺めた悪人)であれ人間世界を平等に去って行く、自然に帰る、そのことに対して言葉の意味を超えたような、なぜか心の波面が波立つというほかないということを指している。

2022/07/12
付け加えれば、現在までのところ特に国家の代表は、間接的であれ人を殺してしまうことがあるという意味でも親鸞の言う「悪人」と言えるだろう。例えば、安倍政権下の問題で赤木さんは自死へ追い込まれた。また、トランプが2018年5月米大使館のエルサレム移転をした。案の定抗議行動で死者が出た。

2022/07/12
チラ見だけど、テレビのやり方はわかっている。人間界にいた頃の「悪人」としての安倍晋三を、死んだからといって「善人」に偽装したような番組をやっている。信者のネトウヨどもは別にして、きちんと良し悪し含めて評価すべきだろう。しかし、それは今できそうにない。



2022/07/10
先の戦争中は、文学者や知識人も地図を広げて目で追いながら日本軍が各地を陥落させた「知らせ」に狂喜乱舞したという。今、直接にはわが国には無縁なのに軍事オタク趣味や架空の「(NATOと中露の)世界権力」遊びで、同様の視線をウクライナに向けている人々もいるようだ。

しかし、ほんとうの世界権力というものを想定するなら、国家内でも国家を超えたグローバル世界でも、わたしたちみたいな普通の生活人が、波風に会いながらも日々この世界を味わいながら普通に生きるということにあり、それは現在みたいな架空の抑圧政治がなければ、本来は非「権力」としての権力である



宗教団体は、「イエスの方舟」みたいに悩み抱えるあるいは生活に張りのない人々の心を開放する場でありさえすれば良いのに、この社会を変えようという野心を持ち、政治団体を組織し、・・・悪しきソビエト・ロシア由来の「ノルマ」を悪用し、普通の信者は自転車操業の「地獄みたい」な状況?



2022/07/11
まだまだ現実性がないから、小さな声でつぶやくほかないけど、政治が吉本(隆明)さんが言ったように当番制になるなら、だれが議員になってもいい。そうして、その時にはわたしたち主権者(国民)を第一とする政治のはずだから、根本的な対立はなく知恵を出し合って政治運営すれば良い。



統一教会(国際勝共連合)は、昔から、先の戦争の指導層にいた連中が生きのびて作った自民党の背骨になっているのだろう。だから、家族観にしろ現状を無視した退行的な考えしか出て来ない。古い考えの上から目線で国民を指導対象としか見ない自民党的なものを拒絶し滅ぼさない限り未来は始まらない。

公明党か創価学会で、選挙活動は功徳だと言われているいうことを知って、びっくりポンだった。自分の魂の平安や救いを求めて宗教団体に入ったのが、次には宗教団体の維持や太らせのためにあらゆる理屈が自在に作り出され個人が蹂躙される。内部にいたら「免罪符」にも変だなと思わなくなる。



2022/07/13
現代短歌bot@gendai_tanka
ふところに月を盗んできたようにひとり笑いがこみあげてくる  永田和宏


ひと(女性)の心を手に入れてきたものか、しかし、なんとでも読めそうだ。ただ、人はこのようにひとりうきうきした心を持つことがあるという普遍性に触れていることは確かだ。



RT
米紙の報道「安倍晋三が望んだ国家像をようやく日本人が理解し始めた」
7/13(水) 17:00配信
安倍晋三の伝記を書いた政治評論家のトバイアス・ハリスが米紙「ニューヨーク・タイムズ」に寄稿し、安倍の「国家ビジョン」について触れている。安倍は21世紀の「荒波に耐える」ために、必要な政策を実行しうる国家を日本に残した。しかし、彼が望んだ「強い国家」というビジョンを、ようやく国民が理解しはじめた矢先に急逝してしまったのだ──。


最近特に思うのだが、「あばたもえくぼ」ということである。外(国)からの視線ではあるが、この安倍晋三の伝記を書いたというトバイアス・ハリスに関してもそうだ。安倍晋三の幼少期をきちんと調べたわけではないが、私にはどうも甘やかされて自分が悪いことをしても嘘をついたり責任転嫁や言い逃れで

自己形成を遂げてきた最悪のイメージしかない。そうして、それを大人になっても持ち越してきた。個人ならいい。あばたもえくぼで奥さんにも出会えたし。しかし、今までに例がないほどそれを公人としても貫いてしまった。逆に、それが自分に身近で人間的でカワイイと思うネトウヨをも引き寄せたのだろうか。



2022/07/14
RT
ミシガン州で有機農業(1200ha規模)を営む農家の大豆圃場の除草作業がすごい??電気の力で雑草を根まで枯らすみたい


私は趣味で小規模にやっているから、農業機械はなく、柄長のクワとスコップ、草刈り鎌と草取り鎌くらいを常用しているけど、これはこれでアリなんだろう。ただし、特にアブナイ兵器であるクラスター爆弾や劣化ウラン弾を開発してしまうのとどこか似た感性を感じてしまう。また自然観が違うみたい。



覚書2022.7.14
小さな種ひとつから、卵子と精子から、そんな姿形に、そんなにでっかくなるなんて・・・生物学者や医学者にとってのように当たり前のことだろうか。しまいには枯れてこの大地から消えてしまうなんて。ふしぎだ。としか言いようがない。人類は太古からたくさんのふしぎを普通にしてきたのか。



もうね、敗戦後70余年の垢や腐れ縁などをテーブルの上のものをすべてざっーと払うようにして打ち捨てて、敗戦後の気持ちを新たにして次の世界に行きたいなと幻想するけど、たぶん現実はそんなに簡単なものではなさそうだ。今回の壺の人達に追い詰められた銃撃犯もそういう幻想を見たのだろう。


RT Aさん
人面装飾(顔面把手)付土器(北杜市竹宇1遺跡)の文様構成について考えてみました。ヘビ(擬人化)とカエルの対峙がテーマであると捉えました。


ご存じかもしれませんが、民俗学者の吉野裕子が(『蛇』か『山の神』でだったか)縄文土器の縄目模様は「蛇」だと記していて、びっくりした覚えがあります。柳田国男がほとんど触れていない陰陽五行のわが国への影響については、あまり啓蒙されませんでしたが、蛇神についてはそうかと思いました。



TLで何度か出会ったけど、ええっと自民党議員の誰だったか、ああ稲田朋美だったかな、他にもいたような。国民のための政治なんてあり得ないとか。国民に人権なんて要らないとか言っていた。弁護士だったくせにこの考えの出所がふしぎだったが、なるほど、

統一教会の金を生み出し組織拡大のためにひたすら働く働きアリたちのイメージと同じだ。ネトウヨ的な高揚感を与えつつ、ひたすらそのために働く働きアリたち。そういう統一教会や日本会議の幹部(指導者)の視線と同一ではないか。弁護士になっても何にも人間(人権)について学び取っていない。

現在から眺めると特に、人類の理想を追求したというロシア革命も中国革命も壮大なクソッタレだったが、それと対抗するように真似て形成され活動してきた統一教会の諸グループも人類の理想とは無縁のクソッタレに過ぎない。自らが「サタン」ではないか。早く滅亡せよ。



2022/07/15
覚書2022.7.15
人も誰かと誰かが結びついて生まれた「人」だから、ひとり生きていくとしても世界と結びついて生きることになる。それは動物(ネコ)も同じだろう。現代は、個人(ひとりということ)が、その他者や世界との関係の問題として内省的には重要なテーマとしてせり出してきているように思う。

また個の理想としてはできるだけ他者と衝突することなくいい感じの日々が送れるということになるだろう。一方、そういう個人が主流になってしまった現在の歴史段階の主流に対して、遙かアジア的な専制時代の残骸の私=国家という古ぼけたカビカビの考え方やイデオロギーに感染しているネトウヨや

政治家や評論家などがいる。これが政治権力を握っているせいもあり私たちの未来への道を錯綜とさせている。








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 最近のツイートや覚書など2022年7月 ②


2022/07/16
RT
長門裕之と長門勇について


二人とも時代劇でも見かけます。最近観たのでは、長門裕之は西郷輝彦主演の『源九郎旅日記 葵の暴れん坊』に出ています。役としては神経質そうな苦虫顔です。一方、長門勇は中村吉右衛門主演の『斬り捨て御免! 』に出ていました。役としてはひょうきんでおっとりさんです。



2022/07/17
現実対応に関してはだいたいどの党も似たようなことを言うようになってきたが、まだひとつ違うのは自民党が宗教汚染され続けていること。内閣のメンバーのほとんどが宗教団体所属という異様さがそれを象徴している。日本会議系≒統一教会系で、政権はあっち向いた政治をし続けている。



農事メモ2022.7.17
・昨日は大雨で、今日は曇り日の予報なのに朝から二度も雨が降った。畑に出ようと思っていたのに、どうしよう。
・ところで、カボチャやスイカが急になっているとか大きくなっているとかの驚きのツイートに出会ったが、私もそう思ったことがある。これは人間でも同じじゃないかな。毎日ずっとそれらを見ていたらまた違うかも。確かにカボチャやスイカの青々とした成長期には日毎に大きくなるようだ。



生前の安部晋三が個人的には「良い人」や「気配りのある人」とか言って擁護するお近づき者や取り巻きがいるけど、それって当たり前じゃん。どんなに性格悪そうでも特定の人にはとてもやさしいとかあり得る。だから、「あばたもえくぼ」という言葉がある。

で、わたしは個人としての安部晋三にはほとんど関心がない。ほとんどというのは、残りは、個人としてのどういう生い立ちがあんなスネ夫みたいなねじけた嘘つきのずる賢い性格を形成したのかという関心である。公人としての安部晋三は、トッチャン坊やのチンパンジーみたいな口による
「ニッキョーソ!ニッキョーソ!」に尽きていると思う。ほんとうに、安倍政権からは今までになくマスコミも検察も抱き込み社会を引っかき回し悪夢みたいに異常だった。さて、畑に行くか。



2022/07/18
RT
早見雄二郎(株式評論家)@hayamiy
全世界から弔意が殺到して、国内では献花の大行列が1週間経っても途切れず、総理大臣が国葬にすると発表した人物の死を、このように喜ぶ新聞社に広告を出す企業は大丈夫なのかね。と余計な心配をしたくなる。

■還らない命・幸せ無限大 (わたしの註.選評、東電旧経営陣に13兆円賠償命令。)
■銃弾が全て闇へと葬るか
■死してなお税金使う野辺送り
■忖度はどこまで続くあの世まで


あらあら。公人としてはクソッタレの首相だった者の「国葬」ということは置いといても、個人の表現とそれを選者が選択し、掲載した新聞社というレベルの違う問題を全て同一化するってどういう判断力しているのかな。例えてみれば、ひとつの株価=全企業価値=国家の経済的価値?

文学作品を作品としてきちんと批評できない者たちが政治的な恫喝を加えている。もし批評したいなら、文学作品としてちゃんと批評してみせれば良いではないか。これってアブナイ徴候。



RT
佐々木俊尚@sasakitoshinao
選評が誰であろうと誌面に掲載する責任は最終的に朝日新聞編集局にあります。こんなあからさまに故人を冒涜する川柳を掲載するのは、まともな言論機関とは到底思えません。
引用ツイート
Nさん
朝日ぐらいとってますよねえ。ジャーナリストなんだから。選評ぐらい確認してから言え。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15356739.html

RT↓ もううんざりだから書かなかったけど、ネトウヨのみならずここにも文学作品を作品自体として読めない人がいる。作品を倫理や政治として読んではならぬ。(遠い昔、戦後文学論争があった。本も出てる。)つまらない作品でも、無視しないならつまらないと文学的に批評しなくてはならない。



RT
仲本工事のツイートが話題「亡くなった人を悪く書く記事を見ると悲しい」に「心が癒されました」の声


そういう気持ちはわかるが、人間界に生きていた時と死あるいは死後を私たちの意識の中で分離させればいろいろな問題がすっきりするような気がする。前者に関してはわたしは否定の感じ考えしかない。しかし、後者に関しては、どんな悪人であっても親鸞のように人として黙祷するだろう。



2022/07/20
RT
現代短歌bot@gendai_tanka
昔(むがす)むがす、埒(らづ)もねえごどあつたづも 昔(むがす)話(こ)となるときよ早(はよ)来よ   佐藤通雅


歌の背景と意味がよくわからないので調べたら、歌人の花山周子の鑑賞 https://sunagoya.com/tanka/?p=20737 があった。東日本大震災直後あたりの歌。ところで、「むかし」と「むがす」はおなじ「昔」を指示している。しかし、微妙に何かが違う気がする。それは同じ日本列島で現在では均質化された社会ではあるが、依然として微妙に何かが違う気がする。それぞれの精神の地域性の匂いみたいなものであろうか。



この間の統一教会を巡る話題を目にしながら、そう言えば吉本さんに幸福の科学や統一教会に触れた文章があったな― それらを一面ではおおぼら吹きと言いながらも割りとていねいに批評されていた印象がある― と思い、一度軽く調べたがわからず、数日そのままにしていた。

今日調べたら、A156「新新宗教は明日を生き延びられるか」(講演日時:1993年6月17日)という講演が見つかった。その講演テキスト化は未だが、春秋社『親鸞復興』(1995年)に掲載されている。

今読み直してみた。1970年代以降の消費資本主義という新たな産業社会の渦中では、従来の欠乏を主体とした論理や倫理は通用しなくなっている、そんな状況で「現在の新新宗教が一時的な倫理の代用品をしている」が、「それは短絡的な間に合わせにとどま」っているという評価になっている。



宗教が、政党を作ったりあるいはオーム真理教のように過激なやり方でこの社会を変革しようという野心を持たない限り、建物や勢力拡大のために会員を酷使したり献金として収奪したりする必要はないだろう。ギリシアのエピクロスみたいにただ会員の心の平安だけを追求すれば良い。

聖書の読書会を開いているというイエスの方舟は現在にあって傍流だろうけど、それこそが本流であるべきと思う。さらに、寺院も仏壇も要らない、弟子も持たない、といった親鸞は、超現代的だと思う。



 絵画作品について
RT↓下の絵『アップルドア島の岩棚』も人の顔は見えないが、明るく静かな風景の全体的な表現からするとその人の心も、曇り空ではなく風景に溶けた少し華やいだものということになるだろうか。この絵『ピンクのドレス』も同様に、この顔の見えない人の心も曇り空ではないだろう。「ピンク」でもあるし。



2022/07/21
坂口恭平@zhtsss
2時間で13000字も文字書くのって、出鱈目に書いても難しいぜー

井原西鶴は、他人に負けじと延宝8年(1680年)5月7日、生國魂神社内で4,000句の独吟興行を行い、貞享元年(1684年)には摂津住吉の社前で23,500句の独吟興行を達成しました、そうです。坂口さんの2時間で13000字を575の俳句に直すと、約764句。これを1日に直すと、4584句です。

井原西鶴はわずか1日で2万を超える句を詠んだということですから、西鶴恐るべしでしょうが、作品の中身は確認していませんがたぶん中身もヘチマもないお遊び的なものだったのでしょう。 しかし、お遊びとしても執念を感じます。参考までに。



現代短歌bot@gendai_tanka
日本はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが平山郁夫  黒瀬珂瀾

それにならって詠めば、
日本とは普通はほとんど意識しないけど好奇心と曖昧と無批判と



2022/07/23
この社会を変えようと欲求した宗教組織は、政治組織(政党など)を自らから分離して生み出す。オーム真理教も最初は宗教から始まったのかもしれないが、社会変革の欲求により真理党で選挙にも出ている。その失敗以後か、教団は宗教-政治(軍事)と二重化した。銃器やサリンの超過激道へ突き進む。

統一教会は、たぶん宗教から始まったのだろうが、その宗教理念の現実化の欲求は、その理念ゆえに社会を変える政治と結びつかざるを得ない。また、対抗する国際共産主義運動の組織を模倣して、世界的な変革運動へと伸びていった。統一教会はグループとして宗教-政治(新聞などの広報も含む)と二重化した。オーム真理教と同様なものだが、そのソフト版に当たっている。

「この社会を変えようと欲求した宗教組織」と述べたが、宗教組織の社会認識や人間認識は、おおぼら吹きや短絡的、退行的なものがほとんどで使い物にならない。また、現在はもはや宗教国家の時代ではない。



中島岳志氏が自民党の主だった政治家の研究・分析をしていて、ネットで一部チラ見したことがある。安倍晋三の伝記本みたいなのはヨイショ本を含めてあるらしい。ずっと疑問に思っていることがある。安倍晋三の政治的力量はどのくらいなんだろうということである。

首相は支える周りがいるから誰でもやれる、飾りでも務まるのではないかと私は思っているが、どうなんだろうか。彼が「読みあげていた文章」は、誰が書いていて、彼は経済や政治をほんとはどれくらい理解しているのか、よくわからない。長く議員をしていたから、はしばしの知識があるのは当然として、

アベノミクスなどは何人かのブレーンがいて作り上げたものではないのかな。そういうことの具体性について、晩年は、荒唐無稽な「陰謀論」になぜかはまってしまったがオランダ人のカレル・ヴァン・ウォルフレン『日本/権力構造の謎』のような白日の下に晒す分析はないのだろうか。



2022/07/24
RT
怒りの矛先なぜ母親ではなく安倍元総理に?容疑者の心理を分析
テレ朝news 2022/07/23
なぜ犯行に至ったのか、本人のものとみられるツイッターの投稿などから犯罪心理に詳しい碓井真史教授と分析します。


内面を勝手に想像するに、自分や家族に襲いかかる積もり積もったどうにも抜け出せない悪縁(悪縁の根源は、統一教会そのシンパ)をもう一挙に解決しようとしたのだろう。それはうらみつらみながらも母を取り戻したい欲求に裏打ちされた、もうどこにも戻れない悲しい自殺でもあったと思う。



2022/07/25
現代短歌bot@gendai_tanka
撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ  斉藤斎藤


短歌時評
断絶と連続と Ⅱ 『人の道、死ぬと町』の現場について / 花山 周子
2017年3月号
https://toutankakai.com/magazine/post/7081/
一部抜粋「だから彼の出来ることは、当事者の現場に自分を置いて、津波を体験することではなかったか。そして、では、この歌で、斉藤斎藤は本当に死者の現場に立てたかと言うとそうではなかった。寧ろその不可能さがこの歌を異様なものにしている。「死ぬかと思って」までは、体験者と語り手が一致している。だが、「ほんとうに死ぬ」は違う。これは、死の外側からの叙述であり、「死ぬかと思って」までの体験者の語りは断絶しているのだ。「死ぬ」という事実はどんなに想像を働かせてもそこで終わる。」

これによると、一一年の震災後に「証言、わたし」という十首の連作があるり、その中の一首という。これがないと、題名のない絵と同じでなんのことかわからない。初め、〈わたし〉は熊にでも出会ったかと思った。



現代短歌bot@gendai_tanka
アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました  斉藤斎藤 #短歌


なぜ遠い世界のこと、わが国が直接には関与しないことにこんな風に触れるのか、ただの軽い言葉にしか見えない。アメリカ人で家族の者が軍人としてイラクに派遣されたとかなら切実さとしてわからないでもない。それに成り代わってということなのか?これも題名のない絵と同じで作者の視線のありかが不明。

(参)検索して見つけた本人のツイート
斉藤斎藤@saitohsaitoh
【吉川さんへ・1】吉川宏志はNHK短歌6月号で、「アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました/斉藤斎藤」について、「『この歌は、作者は内心では反対しているのだ』と弁護する意見がかなり多かったのである。もちろん私もそう読みたい。
2015年9月22日

斉藤斎藤@saitohsaitoh
②「アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました/斉藤斎藤(2003頃)」について、吉川は「たとえば当時の自民党の政治家がこの歌を見たとしたら、素直にそのまま受け取ってしまうのではないか。最も批判すべき対象に、批判の矢は届かないのだ」と言う。とても、驚いた。
2015年9月19日




2022/07/27
RT
単語はかせBot@BotHakase
パレイドリア【pareidolia】意味のない対象に、特定の意味を認識してしまう幻視(錯覚)の一種。雲の形や壁のしみが人の顔に見えてしまうなど。対象が雲やしみであることは理解しており、顔ではないという批判力も保っているが、一度そう感じるとなかなかその知覚から逃れられない。変像。


これが自然による偶然の造形なら、一方、人(作家)によるこのような造形もあり得る。両者がまったく同一な造形だとしても、前者にはAI作品と同じく人間的な表現の意味や価値はない。で、自然の偶然の造形に私たちが感動するとすれば、後者の表現の地平(に引き寄せて)で見ているのだろうと思う。



2022/07/28
RT
Nさん
秋葉原事件犯人の死刑について、加害者に同情的な人が少なからずいる事に驚くわ。最初のトラック暴走で跳ねられた被害者を救助してた芸大生が刺殺され、当時未成年だった大学生2人も轢き殺されてる。7人死亡10人重軽傷。どこに同情の余地があるというの?微塵もないわ。
午後6:19 2022年7月26日


例えば、ある極悪非道の者に対して、生活人としての日常感覚と法的な判断と仏教徒の考えとは、もちろんそれぞれにの内でも多様だろうが、違っている。また、文学はなぜ何が彼をそんな存在にしたのかとどんな極悪非道の者をもその存在や内面を描ききろうとする。

たんに法的な裁断をする文学作品を人は読みたいとは思わないだろう。このように、ある極悪非道の者(一般化すればある対象)に対しても、いろんな捉え方のレイヤー(層)があると思う。また、被害者の親族はまた違った捉え方になるかもしれない。悪の政治家でも死ねば黙祷くらいはするかもしれない。



2022/07/29
現代短歌bot@gendai_tanka
おれをみろおれをわらえすっきりしろおれはレスラーだ技はあまり知らない  フラワーしげる

何でも歌になるということか。幕末期の歌人、国学者だった橘曙覧の日常詠の気ままな歌を思い出した。
1.たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時
2.たのしみはまれに魚煮て児ら皆がうましうましといひて食ふ時
           (橘曙覧「独楽吟」52首より)




現代短歌bot@gendai_tanka
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が  河野裕子

短歌は、文字通り短かくても、歌の場面や背景がだいたいわかることもあるけど、この歌はだいたいわかる方に属しているだろうか。わたしはこれが死に瀕した病床にあった河野裕子の歌ということを知っているけど。



聖書には、イエスが故郷に戻ってその地の人々に話しかける(アジテーションする)場面がある。昔のイエスを知っているその地の人々には奇妙な「アジテーション」に映った。故郷の内の言葉と故郷の外からの言葉。信仰の外の言葉と信仰の内の言葉にある大きな断絶。

統一教会に限らず、その断絶を踏み越え行き来することは難しい。思うに、故郷(家族)の自分の救いのための入信から、とうとう故郷(家族)を捨ててしまった母親。教会には迷惑掛けたと思っているだけなのだろうか。もはや、故郷(家族、子)の言葉は響いてこないのだろうか。わからない。







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 最近のツイートや覚書など2022年8月 ①


2022/08/01
現代短歌bot@gendai_tanka
戦争に行ってあげるわ熱い雨やさしくさける君のかわりに  江戸雪


まず作者は敗戦後の世代である。それゆえに、〈戦争〉は、戦争世代の歌とは違って具体的なイメージを伴わないし重くない。女性が恋人か知り合いの男性にかわりに「戦争に行ってあげるわ」と気楽に言えるくらいに軽さや抽象性を帯びている。「熱い雨」が不明。シャワーじゃないよね。



852話@8co28
生成後一切手を入れてないAI自動描画のみの画像群 本当に 最高の絵ができあがるので もう私絵描かなくていいんじゃないか?
●画像略


しかし、例えばAI短歌であれば、生産された歌は人間的な表出(いい感じだなとか美などへ欲求)そのものではなく、偽人間的表出だから、本物の花ではなく造花と同じ。この映像がカメラを操作するようにして自動的に生成されるのなら、作品として差し出すとき、操作と選択・組合せに人間的美があることになりそう。


RT
(砂の色と同じ保護色の魚が砂地に潜んで、近づいて来た小魚をパクリと食べてしまう画像)


この魚は、上空からの視線を持たないはずなのに近づく相手は自分のことを見えていないと感じているのだろう。「保護色」といわれるもの、生き物がそういう姿をまとうことがふしぎ。しかし、人間の詐欺師も同様に相手は自分の正体が見えていないだろうと思っているはず。



2022/08/02
宮沢賢治の場合は、知り合いや農学校時代の教え子などたくさんの人々の賢治の言動についての証言や文章が残されている。親鸞の場合は、後に記された伝記や『親鸞伝絵』はあるけど、同時代では妻の手紙「恵信尼消息」くらいであろうか。親鸞の宗教活動の様子はよくわからない。

しかし、晩年に京都に移った親鸞は教団を組織するでもなく、東国の信徒からの疑問の手紙に応答しているから、東国では宗教的な集会は催していたのだろう。弟子も持たず仏壇も要らないと語っていた親鸞ゆえ、現在に直せば聖書を読む会を主催していた千石さんの「イエスの方舟」に似たイメージになろうか。

なぜ宗教は、献金を募り巨大な建物を建て派手な儀式を行うのか。もうその入口で、宗教は人類が宗教を生み出さざるを得なかった宗教的な動機から堕落してしまっている。この荒れた社会で悩める人の小規模の穏やかな集会であってはなぜいけないのだろうか。なぜこの社会を超えようと政治に手を染めるのか。



2022/08/03
RT
TBS NEWS「公明党の山口代表は2日、政治と宗教の関係について、宗教団体が価値観を政治過程に反映していくのは『民主主義の望ましい姿』だと訴えました。」


いやいや、宗教団体が政党を生み出して政治過程に関与していくことが諸悪の根源。献金、選挙、組織拡大、・・・とすべてがそのために宗教的な意味がつけられ(例えば、選挙活動は功徳だとか、端からは免罪符みたいなバカバカしいものに映る)、初発の宗教活動の意味が変質していく。



現代短歌bot@gendai_tanka
フランスパンほほばりながら愛猫と憲法第九条論じあふ   荻原裕幸


そのままには受け取れない少し童話的な場面。『おそ松くん』でおフランス帰りを自称するイヤミ、外国のものを有り難がる心性と外国かぶれを皮肉る心性が込められたキャラか。で、フランスパンにもそんなイメージ価値がある時代があった。ここでは、「あんパン」でもほぼ等価か。

ただ少し疑念が残る。作者は、1962年(昭和37年)生まれ、『おそ松くん』は、1962年から1969年にかけて雑誌に連載。そのアニメ版は、1966年からテレビ放送。作者もそんな外国(フランス)を有り難がるマス・イメージの洗礼を受けているだろう。とすれば、「フランス」パンは、憲法第九条の不戦と関わる自由

・平等のイメージ価値も含んでいるのかもしれない。わが国の外国に対する劣等(マレビト)意識が、弱まったりどこの国も割りと等価なものという視線を獲得したのは、高度経済成長期以後、消費資本主義やサブカルチャーの興隆した時期、1970年代であろうか。



2022/08/04
RT
統一教会、元女性信者
「献金しなければ息子は20歳まで生きられないと言われ、全財産を献金したが、献金できなくなると、盗みまで命じられ、親の金を騙して献金しろと言われた」
#news23


下の方の一般信者は、信じている(巧妙なシステムで信じらされている)から、奴隷と自覚できない宗教奴隷に見える。そうして、宗教組織は信者の信仰の血=お金を巻き上げて組織の維持と拡大に邁進する。その統一教会諸組織は、途方もないおおぼら吹きの古ぼけた宗教的世界革命を妄想している。



統一教会の教理をちゃんと読んではいないが、その言葉の端々から大ざっぱなイメージで言えば、現在の私たちの普通の自然な感覚・感性から見ると途方もないおおぼらで古臭いこと。全自動洗濯機の現在に洗濯板で洗濯せよと主張しているようなもの。この退行において日本会議系と同一。

自分たちも、一方では現在までの文明の成果=消費資本主義のもたらしたサービスや商品などをちゃっかり享受しながら、たぶん自分たちは特権的例外として精神の構えとしては現在の個の自由や平等や人権を「人間」をだめにするものとして否定なり抑制なりする考え方に見える。



2022/08/06
現代短歌bot@gendai_tanka
だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし  宇都宮敦


二昔前の短歌では、こういうありふれた心の場所に短歌的な視線はあまり向けられなかっただろう。なにげないことになにげない視線が向けられている。そこが現在か。一方、同じ作者の「目をふせてあらゆる比喩を拒絶して電車を待ってる君をみかけた」は、旧来的な文学的な視線によるもの。



RT
戦前~戦後のレトロ写真@oldpicture1900
大正のパンクな詩人2人で、高橋新吉と萩原恭次郎を再掲。まずは高橋新吉(1901-1987)。ダダの新吉ですね。「何もないのだわかったか わかるといふこともないのだ」


第一次大戦頃ヨーロッパで生まれたダダイスムの影響下に、それを実践して見せた高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』、それに衝撃をうけた「トタンがセンベイ食べて/春の日の夕暮は穏かです」(詩「春の日の夕暮」)の中原中也。中也の性格にもフィットする新しい言葉の服、言葉の道だったか。



RT
走る人参(気象予報士)@Runninzin
【かつてない大雨 計算では22万年に1度】
計算上、山形県川西などでは22.2万年に1度レベルの大雨となっています。つまり、使えるデータではありません。
また、新潟の村上では5.2万年に1度、山形の米沢では2.8万年に1度という計算となっています。意味が分かりません。


以前、温暖化問題を少し調べていて、この地球は「10万年単位で繰り返される地球温暖化と寒冷化」という長周期の振る舞いがあるという説明に出会ったことがあります。まだよくわかっていないのかもしれませんが、1年の四季という短周期の振る舞いにそれが影響を与えているのかもしれないと思っています。



2022/08/07
現代短歌bot@gendai_tanka
思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ  俵万智


思い出の一つと断定せずに「のようで」と婉曲する。小さな過去の出来事を額縁に入れてしまうのではなく、自分の心の部屋にそっと置いておく。全体が喩の表現と見ることができる、しかもこちらの言葉が追いつかないほどの絶妙に包み込んだ表現になっていると思う。



現代短歌bot@gendai_tanka
アンパンマンを怖がりし息子みづからを食はせてしまふ技を見てより  川野里子

と、歌は、作者自身にそして読者にいろいろ感じたり考えたりする部屋(場)を与えてくれる。



人間の考えをスペクトル帯で示せば、何十万年も積み上げられてきた日常の生活の感性や考えの一般性を「普通」と見なせば70パーセント前後はそれが占め、残りは知識世界、そしてわずかに悪心や陰謀論が占めるだろうか。このことは戦争などの状況に左右されるが一人の人間の中の平均的な割合でもある。

明治期のワクチンを打ったら牛になるも、日常の生活の感性や考えの迷妄の部分と陰謀論が融合していたものだろう。今も同様のものがあり、私たちはまだ笑えない。製薬業界や行政が、もっとオープンにすればもう少し状況はよくなるのかもしれない。



2022/08/08
現代短歌bot@gendai_tanka
忘れ物しても取りには戻らない言い残した言葉も言いに行かない  松村正直


詩や短歌的表現は、物語と同じく言葉という普遍の姿で表現されるけど、物語と違って作者の固有性が色濃くある。「・・・ない」という不在と意志が入り交じったような表現、この普通の生活世界と距離を置いたような表現の必然性は、作者のそのころ置かれた状況に大きく拠っているようだ。



RT
This is how a carrot harvester works
(三列文の人参を機械で一気に次々と収穫していく動画)


農業も合理化や効率化など現在の産業の有り様や経営を取るという意味で、ある種人力を超えたすごさを感じるとともに別にこれはこれでいいと思う。しかし、割とのびのび放し飼いの養鶏もある一方で、狭いブースの並ぶ養鶏場を見ると経営合理的かもしれないが同じ生き物として何とも言えない気持ちになる



2022/08/09
RT
さつまいもに目鼻口の人の顔がある粘土?による作品。


何歳くらいの妹の作品か気になるけど、作品の造形からはもう十分分別がありそうな年頃に見える。ところで、昔は小学校低学年くらいまではこんな擬人化した表現の紙芝居とかあった。それくらいの年代までは太古の人みたいにすっと了解できるのだろう。以後は擬人法と見てしまう。



宗教が、大きいことは良いことだ、と思い始めて堕落は始まった。そうして、組織維持・拡大に熱中し、お金を崇拝するようになった。また幼稚な理想のイメージのために現世を否定しながら、お布施や献金の「ノルマ」等々現世のものと密通した。初発の宗教の動機はどこへ行ってしまったか。

現世(現実社会)と宗教による二重の桎梏。



生活者の素人判断に過ぎないが、まず、日銀の政策は明らかな円安誘導。そうして何を目的としているのか不明。輸出企業を守る?観光立国を考えて観光産業を守る?ともかく、経済のGDPの過半を占める家計消費、その家計や輸入に頼る企業の保護は考えていない?どーゆーこと?!



RT
Mさんへ


この問題をわたしなりに大ざっぱに捉えてみますと、
人と自然との関係がまだ一次的な直接性にあった江戸期までの農業中心の段階から、近代の商工業中心になってくる段階では、徐々に汽車や車や機械やシステムを介した労働や生活という人と自然との間接的な関係という二次的な関係の段階になってくる。

現在は、サービス業中心の「消費資本主義」という人と自然との関係がVRやネットに象徴されるような、主要に人と人工的な自然との関係という三次的な関係の段階に到っている。
特に近代以降の急激な文明の高度化をのぼりつめることによって産業の稼働する時間が短縮され、ということは人の時間意識が

加速されてきている。また、昼間に限らず夜も産業が稼働し人が活動している。それが、ゲームにおいては快でも、生活ではいろんな心身の不調やうつ病などを生み出している。これは押し止めて昔に戻るのは不可能なので、週休3日などの労働時間の短縮などでやわらかいゆったりできる社会を作り出すなど

前方に向けて解決していくしかない。
人と自然との関係がまだ一次的な直接性、あるいは二次的な段階にあった状況下での荒んだ心を抱えた者を、中上健次の『枯木灘』の主人公、竹原秋幸の父浜村龍造の数限りない悪行や反倫理、それでもその土地に根付いていたことに象徴させると、

現在の荒んだ心の者は、根を断たれて人工的な自然の平面の上に踏ん張ることもできない中空の不安と振り切られるような速度感を抱えた人物のように見えます。



2022/08/10
RT 喜んでいるような犬の動画
月曜日なのに飼い主達が家にいるので、ルンルンが止まらなくなる栗太郎 かわええな(笑)
(ふたりとも夏休みに入りました)


ツイッターの動物の動画を見ている限りでも、デカルトさんは否定したらしいけど、動物たちにもわたしたち人間と同様の喜怒哀楽があるようだ。また遊び心も持っている。



RT
アベノミクスを完成させる 日本企業に足りないアニマル・スピリッツ
甘利明 | 毎日新聞「政治プレミア」2022年8月10日


私の経済は、生活者の視線から具体的に感じ考え行動するのがほとんどである。この甘利明の人となりは別にして、この文章を読む限り割と本気で考えやってきたことがわかりやすく述べられている。わたしの任ではないが、これをていねいに批判できれば、それは未来的な経済政策の指針になるような気がする

経済活動自体は、人間の諸活動の一つであり、国のいろんな政策の影響下で行われている個々人の消費者、サービス含めた生産者(企業、労働者)の関係し合う総和と言える。国の経済政策は、その(社会内の)経済活動をよりスムーズにさせ、人々が経済的な安心感や幸福感を持てるように支援することである。

経済という抽象領域の素人の私からからもいくつかの取っかかりが言えそうだ。そんなアベノミクスの視線・施策になぜ企業活動は乗れずにアベノミクスをことごとく裏切ってしまったのかということ。また、輸出依存度はGDPの18%程度(2018年 小川製作所「日本の経済統計と転換点」より)で、

「日本はこのように輸出依存度の低い内需型経済と言え」るのに、一方の「個人消費はGDPの大黒柱」(「ニッポンの数字 ー 数字が描く景気のカタチ」)で、「日本のGDPの約60%を占め」るのに、なぜそれに触れず、消費を喚起するような政策を取らないのかということ。単に頭が古臭く固いだけなのか?


国民(生活者)の視線を持って、古い言葉で言えば「経世済民」が経済政策と経済学の中心柱と思っている経済の評論家や学者なら、長く経験を積んでいるはずだから、複雑多様な経済現象の中で、どこをどうすればいいというのは大まかには言えそうな気がしますけどね。



2022/08/11
太宰治bot@osamu_dazai
何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それあ怠惰だ。【みみずく通信】


外見(そとみ)には、近づきたくないいい加減な人間と見える太宰治であるが、内にはきまじめすぎるほどの〈負の倫理〉があった。 人一倍苦悩してきたという自負があった。講演後の話だったか、何をしても駄目だったから小説家になったという太宰の言葉を受けた若者の応答の言葉に対しての言葉。



これまた私の任ではないが、安倍晋三(グループ)が、政権につき日本会議系や統一教会系を強く引き寄せ(引き寄せられ)、社会の隅にいた私=国家という古臭いアジア的な専制下の意識を引きずった者たちに光を当てた。そしてネトウヨの大将に祭り上げられたことの意味は、解明されなくてはならないと思う。



あたらしい短歌bot@tankabot_1980
誰ひとりきみの代わりはいないけど上位互換が出回っている   宇野なずき


批評性として使ったのかもしれないが、「上位互換」という技術やシステムの概念の言葉がこの歌の性格を決定している。例えば、「勝ち組、負け組」という捉え方などしない者、それに意味を見出せない者は、その言葉を使わないし、その論争の輪の中に入らない。



あたらしい短歌bot@tankabot_1980
そんなわけないけどあたし自分だけはずっと16だと思ってた   加藤千恵


「そんなわけ/ないけどあたし/自分だけは/ずっと16/だと思ってた」
歌の形式に乗りながら歌っているから、〈みんな〉のつぶやきにも通じる、なんてことない〈わたし〉のつぶやきも歌として主張されている。



2022/08/12
RT Tさん
 経団連人口問題委員会
「今後の少子化対策は、「収入が不安定な男性をどのように結婚までもっていくか、そのような男性と結婚しても大丈夫という女性をどう増やすか」にかかっている。」
何度読み上げても妻の爆笑が止まらない。


経済的な焼け野が原の状況を花は花は花は咲く状況に意識させ結婚へ導くって。いっつもズレたことや小規模対策しかしないからいつまでも少子化。別にわたしは少子化でも構わないけど。少なくとも、少子化は人々の止むに止まれぬ選択であり、荒れた社会への無意識的な批判。



今日の朝のテレビで、コロナに罹ったら治ったみたいでも減衰状態でウイルスが体内に長く残っていること、インフルエンザの局所的なダメージと違ってコロナはあらゆる臓器にダメージを与えること、おまけに後遺症の一つとして一桁の足し算もスムーズに行えなくなったりするとのこと。こわい。



今日誰かが、姫とうがんが知らない間にこんなに大きくなって、とツイートしていた。作物を育てていると「知らない間に(いつの間にか)」ということをしばしば体験する。大きくなった姿で急に現れる感じがする。人間も育ち盛りというように急成長の時期があるのかな。

数年前、秋キュウリを少し時期遅れで種を蒔いたら、気温などの条件が合わないせいか、いつもの10倍、20倍も成長の時間がかかるように感じた。結局、とても小さなキュウリ数本しか収穫できなかった。



現代短歌bot@gendai_tanka
鬯鬯鬯鬯と不思議なものを街路にて感じつづけてゐる春である  荻原裕幸


鬯鬯鬯鬯と/不思議なものを/街路にて/感じつづけて/ゐる春である
知らなかったが、鬯は、漢字の部首で「ちょう」と読むという。(音読み チョウ 訓読み においざけ・のびる)。初め、憂鬱の鬱のイメージを思い浮かべた。確かに鬱はこの部首を含んでいる。初句は、音数ではなく視覚的な文字数5と

見なされている。春の萌え出したり花咲く街路を鬱を思わせる「鬯」の視覚的イメージ(意味)で受け止め表現したものか。一方、宮沢賢治の詩「疾中」の中の〔丁丁丁丁丁〕という詩は、「丁」(ちょう、てい)などを普通の意味ではなく音として用いて効果的に表現している。



何にでも始まりがあるはずだが、ネトウヨが、自分と同じ考えではない者や反対者をすぐ「左翼」とか言うのはどこから始まったのだろうか。もしかして自分たちは絶対的に正しいという妄想を持っているここからかもしれないとふと思った。故ネトウヨの大将もここと深いつながりみたいだし。



2022/08/14
現代短歌bot@gendai_tanka
カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした  早坂類


カーテン-手紙ということから考えると、場面は、慣れている〈わたし〉の部屋でありカーテンだろう。郵便受けは別にあるはずだから、この歌が思い付きの主に頭(概念)で作られたものでないとすれば、〈わたし〉の不安定で不安な存在感の表出になっている歌ということになる。



ネット右派はいかにして生まれたか【前編】【後編】 伊藤 昌亮
https://www.toibito.com/interview/social-science/sociology/2956
https://www.toibito.com/interview/social-science/sociology/2961

※現在のSNS界の、新たな混沌とした状況を「考える」参考になると思います。


【後編】の文章の中の、小見出し「戦略としての反知性」、妙に説得されてしまった。しかし、邪なことが人間の主流を占め続けることはあり得ないから、いつかは流れが反転するだろう。

――真実かどうかではなく、使えるかどうかが情報の価値を決めているのであれば、SNSに陰謀論があふれるのもうなずけますね。
 かれらはそれが本当だと思っているのではなく、本当だと思っているふりをしているきらいがあり、それがフェイクの増殖する大きな要因にもなっています。本当かどうかを確かめるのはめんどくさいし、そういうのはそもそも――攻撃対象である――知識階級の仕事なので、そこで勝負をしても勝てない。だから実証なんかしないんだと。知識階級に対抗するためにあえて反知性的な態度をとっているところがあって、恐ろしいことに、それがかれらの「知」なんですよ。

――だとすると、たとえばトランプ元大統領の発言に対して左派系のメディアがいくらファクトチェックをしたところで、支持者にとっては痛くもかゆくもないわけですね。

 そう。次から次へと新しいものが投入される。それは別に陰謀だろうと虚偽だろうと構わない。それが自分たちの作戦なんだと思っている以上、もう勝ちようがない。メディアや知識階級は負けるべく宿命付けられているところがあって、それはやはり恐ろしいことですよね。

――議論自体が成り立たないというか、そもそも議論の土俵に立つ気がない。

 議論をしたら負けるから議論はしない。事実かどうか検証するということも含め、実証的に考えるという行為自体を否定してしまっている。議論や検証をするのは知識階級であり、その存在を否定したいから、知を創出する手続き自体を無視するんです。




2022/08/15
現代短歌bot@gendai_tanka
青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき  高野公彦


「みづき」は樹木か。青春期は誰もが通る。その渦中では制御しがたい鬱屈もある。この歌にはその鬱屈はなく、さわやかさと遙かな希望のイメージの青春か。青春期の渦中から内からはなかなか表現し難いから、青春期を後に振り返った歌だろう。



現代短歌bot@gendai_tanka
電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、って言って言って言ってよ  東直子


日常のこんなささいなこと(ささいなこと?)も歌にできるなんて、歌にするなんて、という作品。







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 メモ ― 時代劇から


 ここ数年は、ケーブルテレビに加入していて時代劇専門チャンネルがあるせいか、時代劇をよく観ている。朝はテレQ(TVQ九州放送)で韓国の時代劇も観ている。見慣れてくるとおもしろい。どの作品もそれなりに観る人々をもてなしてくれるような作りになっている。

 時代劇を作り上げていく過程では、主人公役も悪人役も物語世界とは違って平等である。合間には、冗談を言い合ったりするかもしれないし、終われば、お疲れさんと帰って行くかもしれない。つまり、わたしたち観客が作り上げられた劇的世界としか対面しないのに対して、演技者たちは、物語世界の登場人物を演じるために、セリフや演技の練習もするのである。これらのことは、現在ではあえて論じるまでもなく誰もが自明の前提としてわかっていることだろう。

 物語世界での登場人物としての相互の関係とその劇的世界に上がってくる過程では練習などが必要であること、このような二重性を持つこの演技者たちの有り様は、劇を構成する表現が強いるものである。舞台に上る過程では割と平等な演技者同士の現実的な関係であっても、劇の舞台に上ったら劇的世界の関係に変容し規制される。

 劇的世界の登場人物たちは、作者や監督や演出家のモチーフの線上を歩いていく。
 『暴れん坊将軍』は、当時の将軍吉宗などの行状の記録を参照しながら、物語的に脚色されているようだ。テレビの紹介によれば、脚本家や監督は、それぞれ三、四人はいるようだ。それぞれ一人ずつでは番組制作の負担がハードすぎるからこのような態勢になっているのだろう。

 違う脚本家や監督でも、わたしたちが『暴れん坊将軍』に異和感をあんまり感じないのは、『暴れん坊将軍』という物語世界の定型と登場人物たちの性格を同一なものとして感じ取っているからである。逆にいえば、違う脚本家や監督でも物語世界の定型と登場人物たちの性格に助けられて、そのようなものとして表現・構成しているからであろう。

 この『暴れん坊将軍』の劇的な世界では、ドラマを観る人々をもてなす娯楽性を持ちつつ、吉宗を中心とした登場人物たちが作り上げる世界性には、作者たちの政治の有り様や政治の総責任者の有り様に対する願望も塗り込められているような気がする。その願望というモチーフの線上には、吉宗に関わる歴史的な事実性はいろいろ加工も変形もなされているのかもしれない。その願望、理想のイメージは、通俗的ないくつかの言葉で言い表せそうに思うが、ドラマを観る人々に遙か太古の政治(行政)の有り様を想起させ、考えを強いるようなものを持っているような気がする。あるいは、一般的に、組織や政治の有り様の原型と行っても良さそうだ。このことが、わたしだけの誘い出される思いなのかどうかについては断言はしない。しかし、ここら辺りまでドラマを観る人々を誘い出せるなら、通俗的な時代劇でも娯楽以上のものを秘めていると言えそうだ。そこでは、時代劇というジャンルを超えて、ドラマ一般として現在性を持つと言えるだろう。







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 最近のツイートや覚書など2022年8月 ②


2022/08/16
現代短歌bot@gendai_tanka
「ドラえもんがどこかにいる!」と子供らのさざめく車内に大山のぶ代  笹公人

創作か実体験かは断定できないが、ドラえもんはいるはずがないことはわかっているのにその声がしたことへの驚きとさざめき。子どもにはありそうな風景の描写。



現代短歌bot@gendai_tanka
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ  穂村弘


知らなかったけど、「体温計」では(1)脇に挟んで測る(2)口にくわえて測る――という2つの測り方があり、一般的に、口で体温を測るのは女性が基礎体温を測るときという。なぜ体温を測っているのかはわからないが、女(恋人か、妻か)と〈わたし〉の自宅の場面か。女が今年初めての雪なのか「ゆきだ、ゆきだ」と感動して騒いでいる。体温計くわえているため「ゆひら」って聞こえる、〈わたし〉は一瞬何?と思って了解する。こんな場面は誰にも経験ありそうに思える。



二日前、時代劇専門チャンネルで、「暴れん坊将軍Ⅱ スペシャル」(1985年)があり、尾張大納言の娘(雪姫)が父の悪巧みをを諫めるのであるが、初めに雪姫が吉宗の前に登場したとき、あっと思った。顔といいちょっと強めの声といい、あれあれ、あの政治家の三原じゅん子!と思ったらやっぱりそうだった。

今から40年前くらいの作品。物語の世界に「生身の人間」は関係ないはずなのに、イヤな感じがするのはこれはどうしたことだろう。「生身の人間」が「俳優」として変身して物語世界を歩き回ったり行動するけど、やっぱり演者として生身の味を引きずっているからか。



2022/08/17
現代短歌bot@gendai_tanka
撮影の少女は胸をきつく締め布(ぬの)から乳の一部はみ出る  奥村晃作


〈わたし〉は、撮影の現場に居合わせたのか、身近な視線が「乳の一部はみ出る」のを捉えている。モチーフは、思わぬ所でエロスを感じ取ったことであろう。無意識的な表現としては、女が布で胸をきつく締めているという時代性の表現がある。人は無意識的に流行の舟に乗って来る。

昭和初期には「乳房バンド」「乳押さえ」などと呼ばれる下着が販売されました。しかし「乳押さえ」は胸を大きく見せるものではなく、すっきり見せるためのもの。戦前、まだまだ洋装は一般的ではなかったのです。戦後に一気に洋装化が進み、ブラジャーも広く普及したという。(和樂webより)

とすると、奥村晃作は、1936年生まれ、この歌を収めた第三歌集『鴇色(ときいろ)の足』は1988年(昭和63年)の刊行。「少女」の「はみでる」からすると着物ではなさそうだが、この歌はいつ詠まれたのかとまどう。作者の若い頃の回想だろうか。それともドラマの世界では特別だったのか。



Mさんより
返信先: @kotobano2さん
ちょうど吉本さんの『母型論』が手元にあったので「母型論」の章をパラパラとめくって見たのですが、母親から乳幼児への無意識の刷り込みの分析や幼児が言葉をしゃべり始める頃の分析はされているのですが、幼児が「自分の足で立って歩き始めること(自立)の意味」はまったく言及されていませんね。

そうですね。『母型論』の章立て、構成によると、人の生涯に向かう発達の段階ではなく、吉本さんは主要に人の起源の辺りと人類の起源(といっても言葉の起源)の辺りを対応させて論じたかったからではないかなと思います。



2022/08/18
『ドラえもん』の主な登場人物である、のび太、スネ夫、ジャイアンは、よくいそうな少年たちの典型的なキャラクター造形になっている。その性格形成は単純ではなさそうだが、吉本さんの『母型論』によれば、決定因は乳胎児期の母子関係によるのだろう。中上健次の場合は、さみしがり屋のジャイアンか。



2022/08/19
現代短歌bot@gendai_tanka
それ以上言わない人とそれ以上聞かない僕に静かに雪は  松村正直


絶え間なく喋りすぎるテレビのような時代であるが、その底で饒舌な言葉たちの破片に囲まれて生きる私たちには言葉より沈黙の方が重く深いということがある。双方が出向いた小さな心の場所に沈黙同士が静かに雪が降るように立ち続けている。



2022/08/20
現代短歌bot@gendai_tanka
生理中のFUCKは熱し血の海をふたりつくづく眺めてしまう  林あまり


生きていくうちにはいろんな社会的な制約が存在する中で、文学表現は、その制約から来る配慮や遠慮にとらわれずにオープンでいい。つまり、人間的なものの本質をどこまでも追究する。この歌、女性らしく開けっぴろげだなあと感心する。

吉本さんがどこかで、実感を込めて女性は子どもを産むと大胆になるというようなことを述べていた。わたしもまたその実感がある。この歌は、そんな女性だろうか。なんとなくだが、この歌の言葉全体からはまだ子どもをなす以前の女性のような感じがする。

昨日、「きんたまけるな」というアカウント名に出会って笑ってしまった。この列島では、〈性〉の問題には深刻できまじめな面もあれば、笑いにする面もある。古事記の、天の岩戸の前で引きこもったアマテラスを誘い出そうとアメノウズメが神がかり状態で前をはだけて踊り出し神々がどっと笑った、もある (2022/08/21)



近現代短歌bot@tankanobot
裸灯(はだかび)の店狭く焼酎を飲む吾ら傷つける過去を互に持ちて  大野誠夫


裸灯、すなわち裸電球だから今からずいぶん昔の場面だろう。少なくとも高度経済成長期以前、あるいは敗戦後近くか。すると、私だけではなく「吾ら傷つける過去」とあるから、これは戦争による精神的な傷か。流行や風物にも時代性があり、一般に作者はそのことには割と無意識的である。

ちなみに、大野誠夫は、大正3年3月25日生まれ。(1914-1984 )。



2022/08/21
近現代短歌bot@tankanobot
独立を報じてラヂオ鳴り渡れ主都東京に起る声なし  窪田空穂


「ラヂオ」と言う言葉や媒体からとても古い時代の場面とはわかるが、何のことかわからないので調べてみた。「1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。」とある。また、この歌は、「講和発効の日に」という詞書きが付されている歌の中の1つ。

他に、講和条約に以下のような複雑な心境を示す歌がある
・我らみな俘虜と思ふに現れてさむざむとかこむ鉄の壁見し
・独立の時きたれりと告ぐる聞きおのづと出づる重き息はや
・よろこびを云はむに遠し恥忍び口とづる日の過ごすに永く



現代短歌bot@gendai_tanka
a pen が the pen になる瞬間に愛がうまれる さういふことさ  大松達知


大松達知(1970年生まれ)のwikiに、高校の英語の教員とあるから、英語の喩の出所はなるほどと思う。ところで、「さういふこと」は、他に「そういうこと」「そーゆーこと」などの表記・表現があり、意味は同一でも微妙な表出の違いがある。この旧表記は、単なる短歌的な習慣か。

・ひとりゐて飯(いひ)くふわれは漬茄子を?むおとさへややさしくきこゆ
・「この国」と言ふときふつとさみしくて何かまとまらず春の宵
(「一首鑑賞 日々のクオリア」、大松 達知 より)


私たちは、口語短歌に十分慣れているが、まだ文語的な匂い(旧表記)が短歌的な自然として存在している。

・あ、ではなくああ、であろうか学校に踏み入るときの人の言葉は 大松 達知

これは、朝学校に向かう先生(〈わたし〉)だけでなく生徒も含むか。いつもの自然な普通さとして学校に踏み入り一日を過ごせれば良いが、先生も生徒もうんざりするものも抱えているだろう。〈ああ〉は嘆息だが〈あ〉は新鮮な気持(驚き)か。このことは、学校に限らず、どんな職場にも共通するものを持っている。



2022/08/22
近現代短歌bot@tankanobot
秋草の匂ひをかぎて愁ひあり敗れし後はただに生くべし  前田夕暮


「敗れし」は、敗戦のことだろうと思って確認してみたら、そうだった。「昭和20年4月、夕暮は奥秩父入川谷(埼玉県秩父郡大滝村入川)に妻と疎開し焼畑の断崖斜面を開墾する。63歳のことである。『耕土』はそこでの1年8カ月の生活を記録した歌集で生前最後の歌集となった。」

・戦ひに敗れてここに日をへたりはじめて大き欠伸をなしぬ (『耕土』1946年)
前田夕暮は、昭和26年に69歳で夕暮は亡くなっている。



現代短歌bot@gendai_tanka
さんざんに踏まれて平たき吸殻が路上に在りてわれも踏みたり  奥村晃作



路上に捨てられた吸殻を見て、人はいろんな感情を持ち反応するだろう。大まかには三つの反応の型に集約できそう。批難の感情、なんにも感じない中性の感情、別にいいよという感情。反応としては、そのまま通りすぎる、拾ってゴミ箱に入れる、がある。作者の視線は、中性的な感情に入りそう。

単なる事実の描写に見えるが、「さんざんに」という言葉に込められたニュアンスは微妙と思う。程度の著しさに加えて良くない状態だもいくらか含意しているかもしれない。しかし、たくさんのみんなと同じように自分も踏んでしまったと。この歌のどこかに人間の倫理的な視線が潜在していそうだ。

若い頃少し考えたことがあるが、人間は学校の先生が一般に話すような倫理的な存在100%ではない。例えば、ゴミを拾う奇特な者がいる一方で、ゴミをポイと捨てるものが必ずいる。この構図は、簡単にはなくならない永続的な問題だと思う。だから、倫理100%に支えられた実践は必ずつまずく。



2022/08/23
コピー取っていたのをやっと読み出した。すっごくおもしろくわかりやすい。縦に一歩ずつ懸命に上り詰める現在の社会のフツー意識から来る失敗と落ち込みと病。それに対して、二項対立ではなく、一種脱力して横に超える「広く浅く生きる」「適当という技術」。
https://note.com/kyoheisakaguchi/n/n6e78f225d290

前者が竪超(じゅちょう)とすれば、後者は横超(おうちょう)。竪超が一歩一歩苦しい修行をして悟りに到る考え方とすれば、横超は一気に横様に悟りに到る考え方。竪超が苦しく長い道のりの旧仏教の修行とすれば、横超は念仏を一度でも唱えればよいという法然や親鸞の考え方。

親鸞の橫超の考えが現代の坂口恭平に生かされているのを驚きを持って感じる。これは自己カウンセリングの言葉(文章)であるとともに、カウンセリングのための言葉でもある。窮乏の社会の文体を竪超とすれば、窮乏を脱した社会の文体はこの横超であると思う。


「深みがあるのも知ってます。でも自分は潜らなくてもいい。潜っていく素潜りの名人たちへの敬意は忘れることなく、でも、僕は浅い海をずっと楽しく歩くことに集中していくって感じです。これが僕のいうところの適当って感じ。」(広く浅く生きる効能 その1 適当に生きるには)


「好きなことを適当にやる、なんて人生ではない、と思い込んでいるようにすら思えてしまいます。好きなことをやる、だなんて贅沢だ、みたいな感じで。好きなことをやり続けることは不可能であるとあたかも最初から思い込んで、生きているように見えます。そういう人がその後によく言う言葉があります。それは、生きるって何か意味あるんですか?という言葉です。」 好きなことが一つもない時間が延々と襲ってくる人生、そりゃ辛いですよ、死にたくもなりますよ。わかります。」(広く浅く生きる効能 その2 好きなことがわからない人へ)

「僕は生きる意味なんかいまだに一切わかってませんが、なんか結構楽しいかも生きることって、くらいの状態にいます。まあ、ずいぶん適当ですが、それでいいんです。それが中途半端な能力しか持ち合わせのない人間による幸福論でもあります。結構楽になれますよ、と僕は意外と強く思ってます。」(同上)



2022/08/25
北朝鮮のミサイル発射には、そんなことより国内の貧困などに力入れたら良いのにと思うくらいで、別に脅威はまったく感じなかった。ミサイルを撃つ時期から見てこちらの政権が頼んでいるのではと言うツイートにふうんと冗談と構えていたが、安倍-統一教会-北朝鮮つながりを知ってからはあるかもねと思った。



2022/08/26
(ウクライナ、ザポロジエ原発周辺の状況について)
公開される衛星画像の分析を通して、戦争-軍事当事者以外の人々が、戦争の状況を秘匿させることなく私たちの前に公開することができるような状況になっている。例えてみれば、ケンカしている状況で、両者がどんな振る舞いをしているかが周りの者によって逐一中継されるようなもの。



2022/08/27
Oさん
寅さん視聴中。娘はすごく昔に見えるみたいだけど、私はあまり違和感感じません。あの風景の中で生きて来たから。


同時代に並んでいても、世代によって時代の経験値が違いますね。家族内の親子関係みたいに小対立もありながら相互に浸透しつつなんとか回っていくのでしょうね。一般に、若い部分が時代の尖端に、老年が時代の尻尾の方の古びた部分に位置しているのでしょうか。

Oさん
でも、うちの子にかぎってなのか時代の空気なのか、うちの子たちは表現でも生活でもすごく臆病であまりラジカルな事は好みませんね。


一般に若者と言っても、その主要な生い立ちの環境としての家族によって具体的には様々なんでしょうね。しかし、時代の生み出す新しい物や感受性に対して、若者の方が時代の尖端の方に位置しているということは言えるだろうと思います。(また、昔と比べてラジカル≒ソフトに見えます。)



2022/08/28
現代短歌bot@gendai_tanka
子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え  俵万智

今ならまだ、この歌を十分に受けとめることができる。なぜ「西へ」か、なぜ母は「逃げてゆく」のか、私たちはわかる。けれど、時が経ちすぎた未来ではその「なぜ」が不明になっていくのは避けられない。このことは、こうしたことに限らず些細なことでも言える。



農事メモ2022.8.28
・ツイートで知って、昨日さつまいも(安納芋)の葉と葉柄を料理して食べてみた。葉は、30秒ゆでて魚肉ソーセージ炒め・味塩コショウ味、微かに粘り気があってあんまり好みではなかった。葉柄は3分ほどゆでてゴマ醤油をかけた、これは良かった。

ただし、葉柄はゆでる前にフキみたいに1本1本皮をむいた。これがちょっとめんどうだった。



「I’m an atheist(私は無神論者です)」と言ったら「同世代である20、30代の英国人、米国人の若者も、下宿先のおばさんも、一様に反応がおかしい」というのは、atheistが生活語ではなくてドキッとするのかな?(内田樹によると、わが国と違って西欧では生活語と思想語の距離が近いと言っていたけど。)

あるいは、信仰心を持っている自分たちにイチャモンをつけているように感じるのかな?「神は死んだ」ということは、西欧の現代の思想の当然の前提になっていると思っていたが、生活域ではまた別様なのかな。うーん、よくわからない。



2022/08/29
統一教会関係の以下の本の中身がここで読めるようです。
1.六マリアの悲劇・真のサタンは、文鮮明だ!!
統一教会創始者 朴 正華(パク チョン ファ)
2.わが父文鮮明の正体 洪蘭淑(統一協会・文鮮明の後継者と目される長男の妻だった人)
https://xn--u9j9e9gvb768yqnbn90c.com/%e3%82%8f%e3%81%8c%e7%88%b6%e6%96%87%e9%ae
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近現代短歌bot@tankanobot
十二月八日禍の傷痕(きず)癒えきらず喘ぐをつげむ百日紅よ  館山一子


「十二月八日」は何かなと調べたら、昭和十六年の十二月八日は「日米開戦」の日だった。それに触れて、太宰治が短編「十二月八日」(昭和17年公表、青空文庫)を書いている。戦争下の家族を作家の妻の視点から描写しているが、トリビアルな描写への固執に批評性を込めた良い作品である。



父・渡辺謙と言えば、今観ている時代劇『御家人斬九郎』で出会ったくらいだが、これがとてもおもしろい。主人公松平斬九郎(渡辺謙)は、貧乏な御家人で割といい加減な性格だけど、母親の麻佐女(岸田今日子)には頭が上がらない。二人ともいい感じの役柄を演じている。



(統一教会の二世だった者の内からの言葉。)

「それは二人とも舌足らずであるということだ。 文鮮明はそのような弱点を持ち前の性欲と山師的はったりによってカバーしたとも考えられる」

「このときに文鮮明が吹きこんだ物語の肝は、 この世界には父なる神がいてその神は深い悲しみのような恨みの念を抱えていらっしゃる、 ということだった。 当時の日本にはそんな神の 「呼びかけ」 に応える若者たちの魂があり、 天一国建設の尖兵である神の子へと次々と転身していった。」

「統一教会がしてきたことは結局のところ、 信者の半殺しだったのではないか。 殺すのではなく 「献金」 と 「献身」 をさせる。 搾取をする。 一世はそういう半殺しの目にあうのをみずから望んだのだとしても、 さらに非力な子供の二世までもがなぜ同じ目にあわなければならないのか。
 非物語的な不正。 二世は物語としての豊かささえ奪われている。 ただ端的に 「貧しい」。」

 非物語的な不正。 二世は物語としての豊かささえ奪われている。 ただ端的に 「貧しい」。」

「僕は教団に対して明確な憎しみを懐きつづけてきたし、 いまもまだ殺意に近いものを抱いている。 」
 (以上「僕たちもまた山上徹也のひとりにすぎないということ ― 社会物語学から安倍元首相銃撃事件を読む」より)



2022/08/31
「斎藤茂吉作『白き山』抄・そのⅡ」(鳥羽散歩選)
  斎藤茂吉の第16歌集。1949年(昭和24)8月岩波書店刊。

(396)短歌ほろべ短歌ほろべといふ聲す明治末期のごとくひびきて


占領下に短歌そのものを批判する「短歌滅亡論」の嵐に見舞われ、「短歌ほろべ短歌ほろべといふ声す明治末期のごとくひびきて」とうたった晩年の茂吉の悲しみが、「自身が老いてやっと身にしみて感じられる」という。
(「いま、茂吉と向き合う」岡井隆(84)・2012年 新聞記事より)


この「短歌滅亡論」は、仏文学者の桑原武夫が「第二芸術論」(1946年「第二芸術 ―現代俳句について―」など)で、西欧的な視線から、第一芸術はあくまで小説や戯曲。短歌や俳句は第二芸術で、二次的な大したことのない芸術と論じたもの。吉本さんは、晩年の『芸術言語論』でもそれに触れている。







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 最近のツイートや覚書など2022年9月 ①



2022/09/01
現代短歌bot@gendai_tanka
恋人はいてもいなくてもいいけれどあなたはここにいたほうがいい  伊勢谷小枝子


うーん、その他人事のような屈折の意識(の表現)、わかるようで、わからないようで、よくわからない。他者への屈折した通路(の表現)。しかし、考えてみれば、言葉の表現とそれに接続する心の有り様は屈折接続ということはよくあることか。



2022/09/02
『吉本隆明全集29』(2022年8月25日刊)に挿(はさ)まれている「月報30」の娘ハルノ宵子の「悪いとこしか似ていない」を読んだ。父の発言に驚く娘たちがいる。近接関係の家族でも互いに見えないとこやすれ違いもある。まして、思想においてをや。

吉本さんの言動が3つ4つ挙げてある。長女ハルノ宵子が京都の学生時代にアルバイトをしたいと言ったら、吉本さんは「イヤ・・・キミ飲食店で働くということは、次に酒を出す店で働くということになる。そして次にはホステスなどの水商売になる。そこから体を売る商売までに、段階は無いのだ。」と

言われたという。このことは吉本さんの対談で読んだ覚えがあるが、残念ながらすぐにその対談と取り出すことはできない。当時私も「あまりの飛躍」と思った覚えがある。しかし、話はもう少し微妙だったように思う。

例えば、原発の近くに自分は住めるかと同様の、ホステスとか体を売る商売をどう考えるかという思想の具体性の自問も含んでいたように思う。わたしは吉本さんに関しても、よくわからないことは、ふうんとやり過ごして寝かせておく。そして、いつかはっきりしたイメージを結ぶことがある。

(2022/09/12)
うちの奥さんが探してくれた。『対幻想 n個の性をめぐって』(吉本隆明 聞き手 芹沢俊介 春秋社 1985年1月)の「5 性になれるということ、なれないということ」で、ハルノ宵子のエピソードが触れられている。娘にとっては親父って極端で変なの位の受けとめだが、吉本さんは思想者と父親の二重性から娘に語られているようだ。すなわち、「男性と女性の性的無意識の問題」の歴史的な現在のありようとして受けとめた場所からの発言のようだ。そういう受けとめ、認識が日常の生活思想にも当然現れてきたのである。こういう人と人との行き違いは避けようがない。



2022/09/04
宗教は人類の感性や知の古い部分をその大切な背骨にしている。だから、例えば現在の男女の新しい意識の有り様から来る選択的夫婦別姓は認めたがらないとか、また現在の気ままに生きる若者たちの感性やその恣意的な自由は学校の校則みたいな枠ではめたがる。

また宗教はこの社会の有り様を否定して退行させるベクトルの政治性を持つ傾向がある。人間のひとりひとりの魂の救済をこそ柔軟に本気で目指す宗教集団はまれであるように見える。遙か親鸞の集団やイエスの方舟などと違ってスケベの野心を持って古臭い宗教的な政治革命を目指す教団ばかりだ。

その点、アニメ的な荒唐無稽な世界観の割に無惨な結果を引き起こしたオーム真理教も世界の権力へのシロアリ政策を取っている統一教会も同一である。信者には悪いが、クソッタレが、と思う。



2022/09/05
RT
「もはや日常さえも撮影ベースで動く人が増えました。『映える』かどうかが大きな基準となった今、日常を切り取る行為は、後々振り返るためというより、『いいね』を獲得するため」

「それはきっと、不安の裏返し。自分の人生が幸せだと実感したい。みんなに幸せだと言われたい。そんなことは周囲が決めることではないのに。彼女たちは、インスタ映えする棺桶を選ぶのでしょうか」
(ふかわりょう「いいねなんて、いらない。」、「風向計」2017年8月19日付の東京新聞)

流行は、「流行」という大きな生き物がいるみたいな感じもする。もちろん仕掛け人がいたとしても、ひとりひとりが幻の結合手を出し合い「流行」という原子雲みたいなものを生み出(疎外)してしまう。その原子雲は一人歩きをする。そして、流行の渦中や深みではこのような内省も泡立ってくるのだろう。



論点移動(論点のすり替え)は、どういう表現か。自分が直面している課題の危機からの防御・逃走の表現。問題を筋道立てて検討・批判することはなく、課題を引き起こした対象に無批判に没入している。だから、することといえばウヨウヨこじつけを探すばかり。目下、この論点移動の花盛り。



RT
美術ファン@世界の名画@bijutsufan
クロード・モネ『散歩』1875年 ポーラ美術館


「旅」はあっても「散歩」は新しい。「散歩」が始まったのは、明治時代の国木田独歩あたりからということを吉本さんの文章で読んだことがある。これも西洋由来だろうか。西洋でも「散歩」は近代に始まったのだろうか。ちなみに、昭和期の詩人伊東静雄の若き日の日記には散歩の記述があった。

(訂正)
伊東静雄の若き日の「日記」ではなく、「書簡」でした。以下の2冊を持っていますが、2.はまだ積読でした。

1.『伊東静雄青春書簡―詩人への序奏』(1997/12/1)
大塚梓,田中俊廣
2.『伊東静雄日記―詩へのかどで』 ( 2010/3/1)
柊 和典 (編集), 上野 武彦 (編集), 吉田 仙太郎 (編集)



現代短歌bot@gendai_tanka
窓辺にはくちづけのとき外したる眼鏡がありて透ける夏空  吉川宏志


結婚前の若い頃の歌だろうとは思ったが、「くちづけ」という少し古臭い言葉に引っかかったから、念のためいつ頃の作品かと検索してみたら、作品評があった。語の選択にも時代性による幅がありそう。今の若者は「くちづけ」は選ばないだろう。作者の吉川宏志1969年1月生まれ。

「恋人と一夜を共にした翌日、太陽の光が刺す窓辺に、昨夜自分が外したメガネを見つけた。レンズの向こうには晴れわたる夏の空があった。性を描いているのに、さわやかな歌です。」
「セーラー服歌人・鳥居が語る、短歌の“孤独”な魅力」(2016年04月26日)

「映画の1シーンのような鮮烈な作品。
心情ではなく、はずした眼鏡に映る風景を描写することで、恋の行方を暗示しています。」(有朋さやか)

さらに確認のために「くちづけ」を検索したら、いきものがかりの「くちづけ」の歌詞があった。藤あや子「くちづけ」もあった。まだ、古臭くはなく「くちづけ」は生きているようである。キスとくちづけとが時代の心や言葉の幅としてありそう。西欧的な匂いの「キス」と和語的、近生活的な「くちづけ」か。



2022/09/07
コロナが長く続いているせいもあるが、わが国の行政は、状況に左右される対策しか取れてないように思う。だから、感染者数が増大するとはぐらかしみたいに「重症者を中心にみる」などと何回もアナウンスしている。医療現場のがんばりは別として、行政はもうなるようになる政策のようだ。



2022/09/08
死の短歌bot@shi_no_tanka
入浴剤ひとつのことで笑いあう しあわせだから今死にましょう/稲谷りえこ


上の句と下の句が解離している、あるいは死への欲動によって、しあわせそうな場面を反転している。作者のことは知らないが、女性にあり得るような、リストカットやよく死を口にするような心性の発露の表現か。ここでは、生き生きした生活の場面が空無と感じられている。



「中上健次先生をそうカテゴライズしていいかどうかわからないけれど、中上先生も生前、にこにこしたまま急に人を殴ったりグラスを投げたりするので、境目を見てなくちゃいけなかった。でもまあ境目を見ていようが見ていまいが、その瞬間は絶対に来るので、実はあまり意味はない。ただ、来るとわかっているのと何も知らずにその場にいるのでは、絶対違う。その程度だ。中上先生は女性を殴ることはなかったから私は見物していただけだけれど、男性はみなさん大変そうだった。」(『私と街たち(ほぼ自伝)』P33 吉本ばなな 2022.6)

 中上健次は、さみしがり屋のジャイアンみたいな人だったと思う。現実には、1987年9月12日から9月13日まで、東京・品川のウォーター・フロントにある寺田倉庫で行われた『いま、吉本隆明25時―24時間連続講演と討論』(吉本隆明・中上 健次・三上 治 主催)でちらっと見かけた位だ。

たぶんそんな人だったろうなというように中上健次が描写されている。中上は年齢の離れている吉本さんには親のように尊敬していて手を上げることはなかったろうが、酒が入ると特に暴れていたという印象がある。同様に、太宰治も癖が強くて付き合いにくい人だったかもしれない。

ところで、学校や職場などでは私たちは必ずといっていいように、自分とは馬の合わない者といっしょになるようだ。したがって、このことは、一般化するとそんな癖の強い人々とどう付き合うかという難しいテーマになりそうだ。

吉本ばななさんの場合は、
1.「でも、もう過ちは繰り返さない。人生も折り返し、いろんな大人を看取って、もう自分にも時間がないのはよくわかっているから。毎日が蜜だ。生きているだけで丸儲けだ。今日が来るのが嬉しい、目を覚ませるのが嬉しい。だいたいの人がみな愛おしい。愛おしくない人とは許しながらそっと離れる。そういう年齢だ。」(P72)
2.「すぐそばに知っている人が大勢いて、あまり好きじゃない感じの人とは自然にあいさつだけになるし、気が合えばこうして小さなリビングに集える。」(P81)



2022/09/09
現代短歌bot@gendai_tanka
牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に  中澤系


これはいつ頃の歌だろうか。若者の心性にあり得る傾向性に見える。死を引き寄せ想起する時期は、一般に生活者の入口に立つ思春期と出口に佇む老年期。前者の死は軽く抽象的。そんな歌に見える。ところで、作者は難病に襲われて夭折しているが、この歌は難病が発症する以前だろうか。



2022/09/11
私がそう呼ぶだけだけど、「テレビ学者」って新しい現在的な傾向かな。普通の学者が良いというわけではないが、三浦や古市などの「テレビ学者」ってお金はもうかるかもしれないけど微妙だと思う。テレビ局の意向を無視する形ではやっていけないし、ラディカルな政権批判もできないだろうし。



2022/09/12
身近に桜の下などで出会って良い人光線に当てられると、人情としては相手の傷も見えない目をつぶるとかあるんだろう。つまり、的確な批評性が持てないということ。そのようにしていた「テレビ学者」の古市や三浦も同様だと思う。安倍評価はそんな偏光板を通した視線によるものが大半。



2022/09/13
いつ頃からか、お笑い芸人がテレビに多く登場するようになった。しまいには、今では「普通」になっているような生真面目な学習番組やワイドショーにも登場するようになった。おそらく、これには吉本興業などの養成校などのせいもあるのだろう。また、時代性もありそうだ。

これは日本のみの現象なのかどうかは知らない。以前は、現在でもさんまさんのように、お笑い芸人が生真面目な顔で登場することはほとんどなかったように思う。純文学と大衆文学の垣根が壊れて久しいが、知識層と大衆の垣根も壊れて久しく、大衆の知識水準が底上げされてきた。

こんな背景ゆえか、お笑い芸人も大学出が多く、十分「知的」である。しかし、〈芸〉は人間や社会への批評性を持てないと生きないし人に深く響かない。たいこもちの悲しい芸の歴史もあったかもしれないが、中途半端な見識や通俗的な感情からの政権や時代への迎合は見苦しく、〈芸〉を殺すと思うが・・・。

もちろん、例えば洗濯で洗濯板から全自動洗濯機への転換のようにいろんなものが新たになっているように、古臭い〈芸〉のイメージも変貌しているだろう。しかし、洗濯ということで同一なように、批評性を持って人の心を掬い取るという表現としての〈芸〉という不変性はありそうに思う。



2022/09/14
文鮮明、韓鶴子、普通の平凡人が、そんなにこんなにあんなになっちゃって。
ところで、結婚していたのに、どうして文鶴子ではないのだろう。夫婦別姓。調べてみたら、「韓国は伝統的に絶対的夫婦別姓で、結婚しても改姓はできない。」とのこと。

それなのに、日本の(選択的)夫婦別姓に統一教会(日本会議も)は反対している。何かヘン。



RT
この人ネットで以前見かけたことがある。九州国際大学長って、日本会議系なのかと思ったことがある。wikiによると、「落選・引退により全て脱退。」とあるが、「日本会議国会議員懇談会(副幹事長)」の経験がある。そして、このツイートでは統一教会関連での講演。

2018年5月3日には、日本会議系団体の「美しい日本の憲法をつくる福岡県民の会」の集会での発言があり、やっぱり、日本会議≡安倍晋三≡統一教会と同じ。日本会議≡自民党≡統一教会という関係で、大同団結、共闘関係にあるのは確かのようである。

自民党が、もっと明確にいえば安倍系が、(以前の自民党とははっきり違うなあ)という人々の実感に答えるように、自民党を日本会議系や統一教会系との共闘や融合という、より過激な変質へと実行してきたのかもしれない。



今日、スーパーで、少し小さめだが12個ほど入っている箱入り梨が1900円台であった。1個250円位もするから、安いかなと買おうとした。積んである下の箱を見てみたら、大きめで9個入っていた。それにした。今日、1個食べてみたら、しゃきしゃきではなくもう終わりがけに近い歯触りだった。

うーん、わけありということかな。外見や触った感じではわからないんだよな。例年、似た経験があるから、梨がスーパーに出ていても、おそくなったら買わないけど、まだ大丈夫と安心しきっていた。



2022/09/15
農事メモ2022.9.15
・カボチャのこぼれ種が発芽して成長していた。(9/10)
・その葉がウリハムシにかじられていた。(9/14)
今の時期に発芽したのは条件が合ったからだろうか。しかし、ハウスなら育つかもしれないが、寒さでやられる。種のどういう機構なんだろう。ふしぎだ。



小さい頃見聞きした言葉にも、それなりの歴史性や地域性がある。早く寝ないと「あもや」が出るよとおどされたことがある。後に、柳田国男の文章でそれはお化けの別称のひとつと記してあるのに出会った。以下は、畑にしている田んぼの際に生えているのは知っていたが、実がなっていた。(画像略)

わたしの小さい頃はその木(蔓)を「ぶっく」と呼んでいた。以前調べたことがあり、イヌビワの別名のひとつに「ぶっく」とあったが、ネットの写真からはどうも「オオイタビ」のようである。大きな木に巻きついてイチジクみたいな実を付けているのを子ども仲間で取って食べたことがある。







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 最近のツイートや覚書など2022年9月 ②


2022/09/16
今「2022年版 Youtuber年収・収入ランキング(162111人)」を見てきた。一般に、チャンネル登録数が100万人を越えると収入が1億円になりそうだ。うーん、消費資本主義と広告産業中心社会のもたらすふしぎな光景。

ユーチューバーって、個人経営の芸人みたいな者か。自分の割と好きなことを気楽そうにやりつつ、稼ぐためには熾烈に芸を生み出さなくてはならないハードさがありそう。だから、好きなことを気楽に無心にやっているわけではない。



三木成夫-吉本隆明によれば、顔には、考えや思想ではなく主要に内臓感覚からくる情動が結びついている。その情動の型が刻まれているのだろう。しかし、その顔を見る者は、その者の考えやイデオロギーなどがイメージに抽出され、その顔に付加され、好き嫌い中性として見るようだ。

顔といえば、北大路欣也(もちろん、演者、俳優としてであるが)はいいなあと思っている。最近のでは、『隠密奉行朝比奈』、『三屋清左衛門残日録』。物語世界ではあるけど、当然演者の個性も顔に付加されているのだろう。『三屋清左衛門残日録』は今年もあるようだ。



あたらしい短歌bot@tankabot_1980
煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか   千種創一

煙草いりますか、/先輩、まだ/カロリーメイト食って/生きてるんすか (『砂丘律』2015年)
字余り等あるが、音数律はまだ意識されているようだ。「普通の会話」が歌になるようになった。タバコと書かずに煙草と書いたのは何かあるのかな。



2022/09/17
死の短歌bot@shi_no_tanka
将来の死体三十七体をしずかに納める教室である/佐藤羽美


文学(歌)は、倫理を超える。つまり、差し障りの多い人と人とが関わり合うこの人間社会では、私たちは表出や表現を抑制することがあるけど、文学はストレートに言おうとする。作品を倫理的に裁断しても仕方がない。ただ、誰にもあり得るが、こんな冷たい空想の視線は現実から浮遊している。

上の歌は、作中の〈私〉も教室内の37人の生徒たちに含まれているのだろう。これと似た視線のものがある。

もしわたくしが怪獣ならばどの子から食おうかチビッコ相撲を観つつ/佐藤羽美



2022/09/18
「九州の皆様、台風に本気で備えてください。」とかのアドバスや心配はありがたいけど、ある程度の対策を取ったらもう後は台風さん任せで、なんとか弱気になってねとか、逸れてくれていいよとか、こちらは願うほかありません。残念ながら、台風を弱めるとかの制御力を人間はまだ手にしていません。



成田悠輔って、最近テレビで見かけた。以前、ツイッターで出会って名前は知っていた。著書はまだ読んでいない。先日ツイッターの宣伝で紹介されていた「半熟仮想」というのは冗談言っているのかと思ったら彼の会社名だった。彼も「テレビ学者」の仲間入りをしているのかな。

「テレビ学者」もいいけど、テレビという媒体は問題をとことん掘り下げることは難しい気がする。例えば、今まで少し期待してEテレの「100分de名著」をいくつも観たことがあるけど、まあそんなものかと思ったことがほとんどだった。「テレビ学者」たちは、テレビの温沼から抜け出せるのだろうか。



このTLでも時々アメリカインディアンの言葉に出会う。昔々は、この世界の成り立ちやこの世界での人の振る舞い方・生き方についての知恵の言葉は、10にも満たないようなわずかでシンプルなものではなかったかと思う。それが、現在ではあらゆる分野が細分化してチマチマした細分化言葉になってしまっている。

もう直接に昔々の芯があり、深みのある、わずかなシンプルな言葉自体には戻れそうにないが、それを汲み現在の言葉の芯に生かすことは大切だと思う。それは、例えば医療でも教育でも、あらゆる分野で言えそうだ。



2022/09/19
現代短歌bot@gendai_tanka
受話器まだてのひらに重かりしころその漆黒は声に曇りき  大辻隆弘


作者は、あの黒電話の重たい受話器の世代のようだ。しかし、この作品の時間では受話器は軽く変わっている。なぜかわからないが、ふと目をやったら受話器が声に曇っているのに気づいた過去の場面が想起されている。これは作者がある時代性を生きてきたことの象徴表現と言えるかもしれない。



2022/09/20
国葬は、反対でいいんだけど、もっとはっきり言えば、今どき「銅像」を建てたり、前方後円墳を造るみたいに「国葬」したり、時代を読み間違っているんだよな。そして、コロナや正規非正規・貧困問題などの時代の最優先課題を避けてばかりのわき見政治。クソッタレ。国葬なんてどうでもいいや。



2022/09/23
統一教会の勅使河原秀行の言ったという「左翼弁護士」って、ネトウヨ的な罵り方というツイートが流れてきた。安倍晋三やネトウヨが自分に反対する者や自分がつまづいた小石にまで「左翼」と言ってののしることの始まりは、統一教会だろうか。その神-サタンの強固な二項対立から来た?

いつでもどこでも何についても、内部からの視線、言葉というのは大切だ。何が問題で、何に困っているのか。その文章の文体をたどっていけば、その人の心の有り様の前に立てるように思う。無料でアップされている洪蘭淑の『わが父文鮮明の正体 』を読み終えた。



あたらしい短歌bot@tankabot_1980
果てしない夜をきれいに閉じてゆく銀のファスナーとして終電   toron*


カッコ良くできたなという作者の思いがあるかどうかは別にして、この作者の視線は、斜め上空だろう。果てしなく広がる夜を「銀のファスナー」である明かりの付いた終電が閉じていくよという歌か。地上の人の高さの視線では思いつかない歌の位相。しかし、大都市では街の明かりが多そうに思うけど・・・。

河野裕子の歌に滋賀県の琵琶湖を歌った歌があるのを思いだした。

たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

これも、作者の視線は斜め上空だろう。

電車つながりで、電車の中の人の高さの視線から表現したtoron* の作品がある。

花びらがひとつ車内に落ちていて誰を乗せたの始発のメトロ



2022/09/25
現代短歌bot@gendai_tanka
泣くという音楽がある みどりごをギターのように今日も抱えて   俵万智

うーん、幼子はよだれを垂れもするし泣きもする、神のような位置にある母親はそんな無力なわが子にやさしく対応する(?)、そんなありふれた生活感が、少し昇華されすぎているような感じがする。わかりやすく言えば、飾られすぎた歌になっている。



現代短歌bot@gendai_tanka
おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること  今橋愛


わたしも覚えがあるから言うのだが、この歌は、概念的な思想(考え)を述べるのが主で、歌を理屈っぽくしている。わたしなら、例えば、
日焼け止めをしっかり塗って
素顔から
お面を付けた気分へ ドアを押す



2022/09/26
長らく、老年層が多い、あまり活動性がない日本会議系-変質自民党政権と見ていたが、安倍晋三政権を中心とする統一教会との強力なつながりは想像できなかった。「国際政治学者」は想像できていたのだろうか。実質は、大同団結の統一教会-日本会議系-変質自民党政権だった。

ネトウヨは、わかっているのだろうか。日本は韓国に奉仕せよという統一教会(の考え方)を受け入れるということは、自らがわが国の過去の戦争への謝罪を「自虐史観」と批判してきたが、自分たちネトウヨこそ「自虐史観」(奉仕=謝罪)を受け入れているということを。



生きながら水族館の薄闇でおでこをさすりあうのはいいね 谷川電話

「おでこをさすりあう」相手は、恋人ではなく水族館の生き物だろうか、よくわからないが、これを通常的な表現と見なせば、「生きながら」は全体にある重力を加えているように感じられる。言いかえると、少しだけ濃い意味の視線を加えているように見える。



人は、木や岩や画布などのただの物に形作られた人や世界にその生動を感じるように、言葉の幻には純粋さや邪悪さも含めて、人の心の感じ考え感動することの表れを感じる。このことにわたしはいつも驚くが、それは人間の誰もが持つ視線や感じ取る・表出する人間的な器ゆえである。

例えば、古今集の仮名序は、言の葉は人の魂を揺さぶる「言霊」を秘めているという認識である。もっとさかのぼれば、フォレスト・カーターの描いた『リトル・トリー』の世界のように、木々も語り人も木の言葉を聞くというような世界になると思う。そんな背景で描かれた物は生命力に満ちていたのだろう。



2022/09/27
死の短歌bot@shi_no_tanka
燃えながら人は死ぬのだ握ろうとしていた指のもろくこぼれる/福島泰樹


この「こぼれる」は、こわれる、破れるの意味の「毀れる」だろう。藤原新也の『メメント・モリ』(1983年)で、インドのガンジス川辺で死者を焼いている写真を見た記憶があるが、そうでなければこれは想像の場面を歌ったものとなる。詮無いことにも想像は駆けていく。



2022/09/28
ただバカバカしい思いだけで、ほんとにまったく関心がなかったけど、こくそう後のひと思い。やっぱり、ひとは平等に生まれ、途中煩悩の苦しい慌ただしいクソッタレだけどどこかいい感じもある人間界生活があり、やがて平等に死んでいくようなんだよなあ。



2022/09/29
RT
マコモの収穫


マコモから、万葉集の巻頭の雄略天皇の歌、「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ・・・」を思い出しました。調べてみると、籠(こ)は、「竹や植物の蔓(つる)、針金などで編んだ器物の総称。かご。」とあり、こも(薦、菰)は、「 マコモを粗く編んだむしろ。現在は多く、わらを用いる。」

とあります。前者は当てられた漢字は違いますが、「こ」や「こも」は真菰(まこも)と関係あるかもしれないなと思いました。



最近は、クソッタレプーチンのごり押しの侵略やそのための国内への強権発動で、ロシアの民衆が抗議行動に出たり国外へ逃げ惑ったりしている。プーチンも一応民衆に選ばれたことになっているから民衆の支持は無視できないが、世界では依然として主人公の民衆力は潜在的を強いられている。

たぶん吉本さんが言っていたと思うが、世界権力は人類史の始まりにおいても現在でもその中心は平凡な普通の人々にしかない。それ以外の国観間のしのぎ合いなんて本質的にはなんの意味もない。ところで、わが国では私を含めてほとんどの者が、現在のロシア→ウクライナの状況は、

わが国に関しては現実性のないよそ事や空想としか思えないだろう。しかし、原発の大事故に限らず、わたしたちが劣化した政治屋どもの不始末によって、似たような災厄に見舞われるのではないかということが、より現実性の感覚を増加させているように感じている。



この議員さんは、「戦後自虐史観からの脱却。」とおっしゃってますが、統一教会はその自虐史観を逆手にとって日本人信者に献金とそのことによる不幸を強いてきています。ということは、統一教会と強いタッグを組んできた(安倍)自民党は、その「戦後自虐史観」の実践者そのものです。どうゆうことやねん!?

ネトウヨ、ネトウヨ評論家たちは、今新たな局所系の「敗戦」の状況に直面しているという自覚があるのだろうか。つまり、大多数の普通の人々には関わりのない「敗戦」。何が「美しい国」だ。「普通の日本人」だ。ダーティーばかりじゃないか。   #ネトウヨの敗戦



2022/09/30
現代短歌bot@gendai_tanka
あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず  光森裕樹


現在のGoogle Earthでは、現在の刻々と変化していく地球上の動的把捉・表現にはなっていないから、「夜」の表現はない。Google Earthに出会った頃私もまた「世界を巡りて飽かず」だった。「あかねさす」という枕詞は、光りが差して輝くという意味の他にここまで来たという人類の時間を意識させているか。



二昔前の高度経済成長期以前の社会には、まだ柳田国男の描いた『遠野物語』の世界に近く、あの山越えると異世界という感じが残っていたと思う。人は自分に身近なことが中心で、仕事は苛酷でも割とゆったりした時間が流れ、社会に非道もあったろうが、物静かな感受や考え。

慌ただしい現在とは対照的で、しかももはや戻れない世界。人間の自由度は、二昔前よりは現在の方が増してきていると思う。しかし、生き難さも増している。ただ内省としてなら、慌ただしい流れるような現在の時間感覚の中に、自分なりの安息の場所や安息法を生み出せるのかもしれない。








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 最近のツイートや覚書など2022年10月 ①


2022/10/01
RT
Hさん
原民喜は「心願の国」が好きだった。


原民喜「心願の国」(青空文庫)を初めて知った。ところで、本文は、「死が僕を攫★つて行く瞬間まで、僕は小鳥の★やうに素直に生きて★ゐたいのだが……。」など★印の個所は、旧仮名づかいになっている。全体は、現在の口語文と同じと言えるが、まだ旧仮名づかいが混じっているといった印象がする。

この「心願の国」の初出は、1951(昭和26)とある。「現代かなづかい」(新仮名づかい)の実施は1946年に告示されている。それでももう学校を出て使い慣れている表記を変えるのは時間がかかったのだろう。吉本隆明の1951年頃書き継がれた『日時計篇』も同様の表記が混じっていた。



現代短歌bot@gendai_tanka
たんぽぽがたんぽるぽるになったよう姓が変わったあとの世界は  雪舟えま


言葉転がし遊びのような歌は万葉時代からある。人間の言葉のはじまりには言葉を表出することに対する驚きや快感があったからだろう。言葉を身につけていく赤ちゃんを見ているとそんな感じがする。

姓が変わる方にとっては、確かにふしぎな感覚かもしれない。しかし、わたしの場合は会社や行政に文書などを出すときくらいしか特に姓は意識はしない。それは、「日本」を意識することについても同様だ。ネトウヨは古代アジア専制下の感性で、私≡国家のようだが、日常下に国家は非在だ。



RT
「ひらがな「ぬ」の廃止へ(虚報タイムズ)


先の敗戦後、日本語の漢字の面倒さから、日本語は、漢字を全廃し平易なローマ字に変えようとか、志賀直哉なんかはフランス語を公用語に使用しようなどと公的に提案しているから、これも一瞬マジかよと思ったら、一番下にドッキリが書いてあった。志賀直哉の言葉があった。昭和21年の「國語問題」より。

私は此際(このさい)、日本は思ひ切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘(まま)、國語に採用してはどうかと考えてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。



陰謀論的なものも含めてコロナやロシアに行ったっきりの人々は、先々の個々人を訪れる「敗戦処理」が大変だろうなと思う。それとも今までと同様に何事もなかったようにやり過ごすのだろうか。わたしにとって、コロナもロシアも強いて言えば、わたしたち普通の人々の有り様がキーワードである。



2022/10/02
スーパーなどの店頭で売っている野菜のタネの袋を見たら、生産地が外国なのがほとんどで、なぜなんだろうと思っていた。やっと調べてみたら、

https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0906/01.html
(「種(たね)には、なぜ外国産(がいこくさん)のものが多いのですか。
こたえ
国内で売られている多くの野菜(やさい)の種は、日本の種の会社が開発(かいはつ)した種です。
種を生産(せいさん)するための条件(じょうけん)が良い場所が少ないので、日本の種の会社は外国に親種(お父さんとお母さん)を持っていって、交配(こうはい(おしべの花粉(かふん)をめしべにくっつける))して種をとり、日本へ持って帰ってきています。・・・以下略・・・」農林水産省)


スナップエンドウのタネを買った。このタネの生産地はアメリカ。少し日当たりが不十分みたいだけど、自宅の裏庭に蒔(ま)いてみようと思う。



2022/10/03
現代短歌bot@gendai_tanka
生徒の名あまた呼びたるいちにちを終りて闇に妻の名を呼ぶ  大松達知


前者は、学校の先生として生徒の名を呼んでいる。おそらく新学期の始め頃だろうか、名前と顔を確認するために私もこうした名前を呼んだことがある。後者は仕事を終えて夜、親しい妻を呼んでいる。同じ名前を呼ぶでも多様だ。深さも違う。人は日々いろんな位相を生きている、行き来している。



ポポー(ポーポー)の木は、ずっと昔、わたしが子どもの頃、庭の片隅に1本植えてあった。繁っている葉や果実の記憶はあるがそれを食べての味の記憶はないみたい(食べてみたら違うのかもしれない)。また、わが家では「ぽーぽ」(これは、ポーポーに近いかな)の木と呼んでいた。



「室井佑月 vs 郡司真子」が流れてきたけど、近寄らないことにしよう。女性の問題は、男性の問題でもあり、長い歴史性の問題でもある。さらに拡張すれば、現在における人間(女や男を超えた)の自由や平等の問題になる。大きな声で糾弾する程度で問題は解けはしない。まずはオープンに、具体的に、が入口と思う。



2022/10/05
現代短歌bot@gendai_tanka
ひとりでに落ちてくる水 れん びん れん びん たぶんひとりでほろんでゆくの  蒼井杏

水道の蛇口かどうかは断定できないが、水が滴っている。そういう景物を眺める〈わたし〉の視線が、内面化され(れん びん れん びん・・・)人の心の表現と化していく。自然→心の表現という意味で、これは歌(文学)の定型。



2022/10/06
さきほど、子ねこが保護されたというツイートが流れてきたけど、単に子ねこが母ネコからはぐれてしまったではなくて、野良の母ネコには育児放棄することがあるのかな?。あるいはちょっと人間的な理屈づけだけど人の慈悲のようなものにすがっているのかな?よくわからない。

野良ネコにはきびしい人間社会内の生活とは思う。ちなみにわが家に二匹いるネコはどちらも野良ネコ出身だけど、一方のごまちゃんは線路脇にひとり鳴いていたのを助けられうちで引き取ることになったもの。

うちのネコたちが出入りするために少し開けていたサッシ戸から忍び込んでネコのごはんを盗み食いしていた泥棒猫たち。一匹と思っていたら三匹もいた。なぜかやせこけた雄ネコの親がが引き連れていた。こちらは二年ほどして亡くなって今は畑の柿の木の近くの下。オスメスの兄弟。今は托鉢ネコ。

でも、三度三度わが家にばかり托鉢しに来るみたい。うちのネコとは仲は良くないから、気をつかいます。左が「もどき」右が「三番目」という変わった名が付いています。うちの奥さんが付けました。



2022/10/07
現代短歌bot@gendai_tanka
とても私。きましたここへ。とてもここへ。白い帽子を胸にふせ立つ  雪舟えま


この歌の収束地点は、「白い帽子を胸にふせ立つ」だろう。しかし、その行為の心意がわからなくて調べてみたら、「一般人が軍人に敬礼された場合に答礼する時の最敬礼で、右手を左胸に当てるか帽子を取り左胸に当てる。」とあり、そんな光景見たことあるなと思った。

幼児の「きのうどうぶつえんに行くよ」とかの言葉の誤用でないとすれば、「とても私。」は切断された表現と見るほかない。「とても」が後を切断されてトライブがかかっている。そういう上三句の心で、下の句の・・・立つ、ということか。この世界への敬意とでもいうものかな。



2022/10/08
「時代劇専門チャンネル」で、古式で参勤交代の行列に出かける、浅田次郎原作の『一路』(初回放送は、BSプレミアム2015年7月31日から、全9話。)の第4話を観た。ゲスト出演で「ほんこん」が出るとあって、うわっと思った。しかし、出てこない。次回の予告編でちらっと出た。第5話のようだ。

役者は、ドラマの世界に上り詰めて劇的な物語世界を動き回ってまぼろしの世界形成の一役を買う。ドラマの世界を下りれば、ただの役者である。であるが、演じてきた数々のドラマ世界のイメージもその役者に染み込んでいるように思える。歌手でも役者でも、そのファンは、彼らの固有の素地と

その上に染み込んだ表現世界のイメージとをひとまとまりとして感じ愛でているのだろうか。
また、逆に、表現世界(ドラマの世界)に上り詰め、その世界のモチーフや取り決めに左右される役者ではあるが、観客から見れば、その地上世界の素地・素行も観客の視線や感受にイメージとして付加される

のを避けようもない。わたしが、ゲスト出演で「ほんこん」が出ると知って、うわっと思ったのは、そんな事情によるのだろうか。



2022/10/09
あたらしい短歌bot@tankabot_1980
体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る   小島なお


「体内に三十二個の夏があり」って、そんなことさらりと言われても。初め陰陽五行かなと調べたがない。まあ、外面的な夏にも初夏や盛夏や晩夏くらいの区分はあるけど(もう少し他の言い方の夏もある)、これは作者独自の内面的な夏の感受の推移する区分かな。考えてみれば夏も少しずつ変位していく。



2022/10/10
以前、「反出生主義」という言葉があるのを知った。先ほども流れてきた。「反出生主義」というのは、人間や人類に対する絶望のことなんだと思う。「ヴィーガン」と言う言葉も最近知った。植物も生き物だし、いずれも人間や人類を一方の極に極端に追い詰めた考え方のように見える。

人間には、残虐もあればやさしさや配慮もある。生き物の肉も食べるけど、生き物と友達のようにも付き合う。人間は両価的であり、絶望と希望にまたがる両極の矛盾を生きていると思う。
(理由は知らないが埴谷雄高も子供は持たないと語って実践していたようだ。「反出生主義」の考えと関わりありかな。)



現代短歌bot@gendai_tanka
一日が過ぎれば一日減つてゆくきみとの時間 もうすぐ夏至だ  永田和宏

現在は、互いにいろいろ見知っている狭い平安朝文化圏みたいな状況ではないから、この歌の背景に何があるのだろうと知ろうとしないと、この一首をうまく抱き留めることはできない。「きみ」はおそらく死に瀕したベッドに横たわる妻であり、そういう状況から来る無量の思いが歌われている。



2022/10/11
要は、現在が人類の歩みが降り積もり高度化し細分化した社会や思想だから、ある判断や政策が、誤りであるか間違っているかを判定するのは難しい。さらにその判断の基準が、未だに大多数の普通の人々の利益や幸福が誰もが認める基準になっていないようなのである。

(口先だけでそれを言ったり認めたりはある。)
政治を人間の頭に、経済は人間の体に例えてみる。政治的政策の良し悪しはわかりやすい。安倍政権が制定した集団的自衛権の行使を可能とする安保法制等々は理屈では国民の生命と財産を守るとこじつけても、

頭で考えてみれば、わたしたち普通の人々とは無縁のものであるとわかる(私=国家の者にはわからない)。一方、経済政策の場合はわかりにくい。ある薬を処方すれば、本質的な対策でないとしても、体が少しはよくなった気にもなるかもしれない。



2022/10/12
「躁鬱病は鬱の時は貧困妄想がすごくなります。もう貧乏になる以外に考えられないんですね。ですが、躁状態になると、・・・略・・・困っている人とかがいるとすぐにお金をあげてしまいます。気前が突然、とんでもなく良くなってしまうんですね。でも借金までするってことはなかったのですが、躁鬱病の人の中には借金までしてお金を使いまくる、みたいな人もいるようです。僕の感触としては、とにかく気前がよくなる、って感じです。」
 (坂口恭平『幸福人フー』第6回 躁状態の僕に対する工夫、フーちゃんの挑戦 2022年7月29日)

統一教会の信者の押し止めようもないくらいの「献金」への衝動は、先祖が苦しんでいるとか救われないぞと言う「脅迫」的宗教性に支えられた信による行動かもしれないが、その宗教性から一般化すると、この躁状態のとる行動に似ているような気がする。

いずれにしても、普通の(定常状態の)生活感覚や考え方から解離している、躁的な状態の流れの渦中にいるため、一般的な生活者の感覚からは、ちょっとヘン、あるいは、とってもヘンということになりそうである。



2022/10/13
現代短歌bot@gendai_tanka
電車のなかでもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから  穂村弘


野呂邦暢『落城記』の中の描写を思い出した。戦国時代、「伊佐早領主である西郷氏が、佐賀の龍造寺氏に攻められた際の籠城戦」という史実に基づく物語である。負け戦の前日に伊佐早家の館の庭でだったか、夜中に男女が交わり合う描写があった。この描写は作者の思い付きかどうか知らない。

この歌には異和感を感じる。ロシアの侵略戦争のせいで、今は少し状況が違っていつ何時という不安感をかき立てているが、わが国の現在が戦争に遠い状況にあることは確かだろう。そんな状況で、この過激で空想的な言葉は、コマーシャル言葉よりも空虚に感じられる。

村上龍の小説『半島を出よ』(2005年)も話の筋は現在の状況とは切り結んでいない、つまり、北朝鮮特殊部隊が福岡に上陸し占拠するという設定は荒唐無稽に思われた。作者のモチーフは、話の筋よりも、登場人物たちの、すなわち言葉の、筋肉の動きや汗の出る行動性にあったのかもしれないが。



現代短歌bot@gendai_tanka
たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう  今橋愛

なんかそれ、感じとしてわからないわけではないが、この〈わたし〉の女性意識は、受け身的、シンデレラ的な感じがする。人と人(男と女)との付き合いは、始まりのきっかけはどうであれ、相互的な関係だから、相互関係の物語を紡いでいくことになる。これは関係の始まりの結婚式の思いみたいなものか。



現代短歌bot@gendai_tanka
はなこさんがみかんを三つ買いましたおつりはぜんぶ砂にうめます  東直子


「はなこさんがみかんを三つ買いましたおつりは・・・」という算数的な問いや表現に対して、文学的な表現ならはなこさんの気分次第で「おつりはぜんぶ砂にうめます」ってなこともありだよということかな。ところで、みかんを三つというのは、小みかんじゃないな。どんなみかんだろう。








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 最近のツイートや覚書など2022年10月 ②


2022/10/16
日本より、物価も高いが給与も高いオーストラリアのワーキングホリデーを利用して海外に出稼ぎしている日本人を、少し前のテレビで紹介していた。給与が日本より2~3倍高いという。物価が高くても、日本での2倍以上の貯蓄が出来る。日本ってどうなってるの?

必死になる必要のない人々が政治・行政をやっているから、肌感覚で気づかないんだろうな。すぐに対策打たなくっちゃみたいにならないんだろうな。(この日本人の出稼ぎは、ちょっとショックだった。わが国が貧しい国だった時代には、出稼ぎや移民が推奨されたこともあった。)



獄中での文鮮明の言葉という。

 「今までのサタンの世の中では、すべての物やお金をサタンが使っていたので、その使い方が間違っていた。真の父母と一緒にいる食口たちは、この世の中のすべての物を自由に使えるのがあたりまえだ。サタンの世の中にあるすべての物やお金は、真の父母と一緒にいる食口たちが、たとえそれを盗んで使ったとしても、それが世の中の法律にひっかかったとしても、実際には何でもないことになる。これは本来、神のものであった物やお金をサタンが奪い取り、使っていたからである。そうなれば経済的にたいした苦痛もなくなり、すべての交通手段が自由に使えるようになり、世界のどこにでも行けるようになる。」(『六マリアの悲劇・真のサタンは、文鮮明だ!!』統一教会創始者 朴 正華) ※この本はネットで無料で読める。

統一教会の信者(食口)のこのようなことに対する信仰が、家族や親戚をだましてでもがむしゃらに「献金」に走る動機だと思える。



露地栽培では今の時期になると、季節ものの一部を除いて、野菜の成長が急激に落ちていく。もう終わりかと思ったが残している裏庭のニガウリ1株、2つ3つ小さいのがなっているけど、なかなか大きくならない。四角豆(うりずん)は、そうでもなさそう。



2022/10/17
現代短歌bot@gendai_tanka・
おもひみよネットのかなたしんしんと一万人のスタヴローギン  坂井修一


スタヴローギンはドストエフスキーの作品の中の人物くらいの記憶しかなかった。わが国の明治維新期にも似たロシアの変革期に到る混乱や道程、そんな状況を背景としたドストエフスキーの作品『悪霊』。スタヴローギンはその作品世界の主人公。こういう背景と人物を知らないとこの歌は何のことかわからない。



RT
キャベツはなぜ巻くのか


うーん、これは難しい問題だ。しかし、キャベツ自体にとってはそれが自然なんだろう。人間が今のようになぜ手足が2本ずつあるのかも同様に難しい。とても大きな時間のスケールで、キャベツも人間もなんらかのワケありの積み重なりによってそうなったのかもしれない。



今まで、インフルエンザワクチンはほとんど打ったことがない。江戸末期の種痘を打てば牛になるとかと同様の考えからではない。今回のコロナのワクチンは、画期的との発言もあるが、今まで牧歌的なワクチンとは違っているように感じる。理論的な医療関係者は、その問題性を明らかにする必要があると思う。



2022/10/18
近現代短歌bot@tankanobot
敗戦のこの悲しみをわかつべき人さへあらず路ゆきにけり  前田夕暮


wikiによると、「太平洋戦争中は日本文学報国会短歌部会の幹事長を務めるなど、戦争協力的な活動があった。」とある。全ての人々に一様に敗戦とそれがもたらす状況が訪れたとしても、その内面はひとりひとり違っていた。このようなこの列島規模の敗北感は古代辺りを除けば初めてのことであった。



仏壇つながりで言うと、仏壇を処分するために仏壇の「魂抜き」ということがあるのを知った。人形を捨てるのにも少し抵抗がある。仏壇の場合は、あっけらかんの唯物論者でも何かしら感じるものがあるのではないか。宗教も芸術も起源においては物や言葉への「魂込め」みたいなことをやってきただろうから



2022/10/20
先日、テレビでもやっていたが、最近では相次ぐ値上げで、スーパーで買い物して合計金額に驚くという。今までの勘と違ってだいたいいくら位買ったかつかみにくいという。うちの奥さんも言っていた。これは、給与も上がらないし、今までになく熾烈な消費行動(スーパーやお店との間でしのぎを削る)になりそうだ。



2022/10/24
RT
太郎丸@taromar_u
男。モロッコ、イラン、トルコに続き、再びモロッコをロバと歩いています(9/4)。現在のロバ「スーコ」(2歳メス)は通算5頭目


宇宙のことで、この今届いた光は2万年前の光です、というのもなんかふしぎな感覚になるけど、遠く離れたあなたのツイートでぐうぜん何秒前とか何分前とかのものに出会うのも、お互い様でしょうが、なんか不思議な感覚になります。これは、まさしく現在的な時間の有り様の一つなんだろうなと思います。



現代短歌bot@gendai_tanka
空爆の映像はててひつそりと〈戦争鑑賞人〉は立ちたり  米川千嘉子


特定する必要はないが、この歌は、『滝と流星』(2004年)に収められているから、この空爆は、「大量破壊兵器保持」の名の下に2003年3月アメリカがイラクへ軍事侵攻した時のものか。現在では、戦争にどんな思いや考えを持っていても、当事者以外は〈戦争鑑賞人〉の位置を免れられない。

この歌の「ひつそりと」に作者は万感の批評性を込めているように感じられる。その著書によると、アフガンの地に現地の人々とともに生きた中村哲さんも、空爆を見聞きし体験している。この場合は、空爆は当事者性に近いものだったと思われる。



2022/10/25
近現代短歌bot@tankanobot
シベリアの土はいくたり兄弟を呑みてひそけし氷の下に  森川平八


こういう歌は、自分が体験していないと実感としては詠めないだろうなと思って調べてみたら、森川平八(1915年-1988年)は、

ナホトカ港視界に消えて立ち古りし友の墓標が波間に残る

「昭和18年に召集され満州に従軍した作者は、戦後はシベリヤに抑留され、森林伐採などの労役に服する。昭和23年に捕虜生活から開放されて、ナホトカ港から無事に帰還する時の歌です。」(『名歌鑑賞』2313)
とある。



2022/10/27
何だろうと思い、テレビアニメの『チェンソー マン』を第1話から3話まで見た。アニメ『鬼滅の刃』と似ているなと思った。どちらも、激しく血が流れ飛ぶ。対するは、悪魔や鬼などの人間の圏外の存在である。その圏外性は、悪魔だから許せるかなど描写の過激さを緩和する役割も担っているように感じる。

しかし、娯楽性を盛り込んだものだとしても、作品のモチーフはこの人間界のものであり、人間と人間が関わり合う人間社会の有り様に対するものであるはずだ。『チェンソー マン』の主人公の青年は今風に草食系で受け身的存在である。また、作品は、このクソッタレの時代の空気を無意識的にも写像している。



「この世の中はサタンが仕切っているが、この世の中のすべての財産は本来神様のものだから、サタンが使っているもの(夫のお金や家にある財産)は全部、盗んででも私に献金しなければならない。そうすることによって、この世の中が理想的な世界になり、神様は何千倍もの幸せを与えてくださる」

(『六マリアの悲劇・真のサタンは、文鮮明だ!!』第五章 色と欲と金と 「夫の金を盗んでこい」)
この文鮮明の言葉は、現在の「献金」の論理と同じものだろう。文鮮明は15歳でイエスを継ぐ者という夢告を受け取ったらしいが、そういう宗教性の資質はあっても、生長の家と同じく過去の大宗教を切り張

りして自らを荘厳化しているに過ぎない。この統一教会の創始者の一人だった朴 正華の醒めた視線からも文鮮明の放埒ぶりや女性信者に不幸の限りをもたらしていることがわかる。統一教会は、文鮮明の与太話に始まり、その始まりから、上層以外には不幸の宗教だった。



2022/10/28
現代短歌bot@gendai_tanka
今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海  俵万智


こんなこと、誰にもふとありそうな場面。人間界も人為も自然の一部ではあるが、その大いなる自然は人間界や人為を包摂し超越している。そんな大いなる自然の方からの視線無き視線のようなものが差している。そんな場はまた、人間界に引き返していく人間の倫理の湧き上がる場でもある。



2022/10/29
吉本(隆明)さんの晩年の対談かインタビューだったと思う。どんな文脈かは忘れたが、少子化は自衛隊の存続にも大きな(だったか)影響を与えると語っていて、私はそんなことを思いもしなかったので、(ふうん)と思った。今日の朝日新聞には、少子化によるなり手不足に苦慮している自衛隊の記事があった。



2022/10/30
現代短歌bot@gendai_tanka
白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる  俵万智


白菜がくずれないよう赤いテープで巻かれて店頭に並べてある。それを見ても、人によってその感受は十人十色。(このことは、社会の事象についても同じ)調べてみると、「うふ→うっふん」らしい。いずれにしても来客に媚びるような少しセクシーで童話的な感受の世界。



2022/10/31
先日、5個入りでいつもは380円位(480円位で売っている店もある)でほとんど安売りしないサッポロ一番みそラーメンが300円程度になっていたので、どんなものかと買ってみた。驚くほどおいしいというわけではなかった。おんなじ5個入りの別の品で198円でいつも売っているものもある。値段のふしぎ。








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 最近のツイートや覚書など2022年11月 ①


2022/11/01
現代短歌bot@gendai_tanka
君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る  河野裕子


いつ頃歌われたのかわからなくてもわかる歌はある。一方、いつ頃歌われたのか知っていないとよくわからない歌もある。この歌は、両者の中間か。1980年刊行の 歌集『桜森』所収歌。作者34歳頃の作品。二児の若き母だったという。人(女)は母になっていく過程で、しぶとくも強くもなっていくという。

家を任され切り盛りする主婦像を柳田国男は描いていたが、核家族になってもそんな主婦としての有り様は変化しつつも続いている。日々の生活での張り詰めた心をいっとき解(ほど)いて眠りにつく。



現代短歌bot@gendai_tanka
メリーゴーランドを止めるスイッチはどこですかそれともありませんか  中澤系


これを文字通り取ると、遊園地のアルバイトか関係者の言葉となる。そうして、現実的には止めるスイッチはあるのが当然だろう。さらにそれは歌にはなりにくい。とすると、〈メリーゴーランド〉も〈スイッチ〉も何かの喩と見なすほかない。〈わたし〉は楽しいこととは無縁な不幸の渦中にあるのか。



2022/11/02
現在までの政治(親)のやり方が不満でまずく見えても、対抗する政治勢力(トランプ及びトランプ崇拝者)が、目的のためには嘘でも何でも許されると小さな子どものように熱狂してごねるのは、退行以外の何ものでもない。つまり、そんな政治勢力が権力を握ったらろくでもないことをしでかすだろう。

統一教会の文鮮明も、神の国建設のためなら現在の法を破っても嘘ついてもかまわないと述べていた。科学技術など人間の物質的な文明は進歩しても、精神的なものは現在の私たちの中に太古からのものが層をなして保存されていて、いつでも新たな衣装とともに退行していくことが可能なように思われる。



RT NHK
“公用車に高級車は違法” 山口県知事に全額請求命じる判決 | NHK
山口県が2000万円あまりをかけて公用車として高級車「センチュリー」を購入したのは違法な支出だとして、住民が県に対し村岡知事に費用を請求するよう求めた裁判で、山口地方裁判所は「購入の必要性などの検討は不十分だと言わざるを得ず、知事は契約を阻止する指揮監督上の義務に違反した」として、県に対し知事に全額を請求するよう命じる判決を言い渡しました。
県は「貴賓車として使用するもので合理的な判断だった」などと主張していました。

公用車として2000万円あまりの高級車を購入したということは、どこまでの裁量によって決定されたのかはわからない。しかし、「貴賓車」とかの感覚で購入したということには、行政の骨董品的思考が反映されていると思う。誰が主人で誰のお金なの?武家時代の上から目線が依然としてあるようだ。

車関わりで言えば、晩年の吉本さんが、ロシア革命のレーニンに触れて語っていた。レーニンは、公用車かどうかわからないが、乗り続けている車はオンボロだったという。回りが指導者なのに(だったか)それではあんまりでしょうと言っても耳を貸さなかったという。つまり、そんなことは第一義の問題ではないということだろう。



RT
CG画像を見て


遙かはじまりの単純な言葉、単純な写真の時代から、ここまで来てしまった。言葉も映像も人工の度合を増して何でもできるように見える。ほんとうにそうだろうか。言葉も映像も、例えAIが編集・構成したとしても、人間の手を、その心身を心身の倫理を超越することはできないだろう。



近現代短歌bot@tankanobot
つねに虚の側より希へばわがことばいつか大虚につきぬけゆかむ 山中智恵子


この歌の生み出す世界の入口は、〈虚〉と〈大虚〉である。これは、アジア的な古代哲学へ収束するのか。この二つを別のものに交換すれば、また別の世界への入口が開く。ところで、大原富枝が『アブラハムの幕舎』で描いたのは、希いではなく、この関係世界で負(〈虚〉)の存在と苦悩を強いられた者の世界であった。



2022/11/04
RT Mさん

知りませんでした。「「酉の日」は、毎日に十干十二支を当てて定める日付け法で、「酉」に当たる日のこと。これは、12日おきに巡ってくる。ひと月は30日なので、日の巡り合わせにより、11月の酉の日は2回の年と3回の年がある」(wiki「酉の市」より)。

昔の人々は、中国大陸から借りてきた十二支や陰陽五行などを駆使して、月日にもいろんな色合いやイメージや意味を込めていたんでしょうね。今は、語呂合わせで「29」の日とかあるくらいになってしまいましたが、昔は面倒でもあったでしょうが年中行事を楽しみにもしたんでしょうね。



2022/11/05
最近ネットで知った。ゆだぽんという「少年革命家」が何をめざしているのかよく知らない。だから、印象程度で言えば、どこまでが興行でどこからが革命(まじめな主張、その実践)なのかよくわからない。ただ、まだ13歳の少年なのにネット上の匿名の揚げ足取りや批判などを浴び続けるのは痛々しい。良いことないと思う。

YouTuberとか出現して、たぶん広告収入ともリンクして自己表現ができる時代になっている。これは芸や表現でお金を稼いでいる芸人の新たな現在版であり、今までの芸人の拡張に当たっているように見える。しかし、これのみではほとんどの者が生活できないという。



2022/11/07
RT
(回転する四角い舞台上で )すれ違いと出会い。フランスのダンサー、振付家、アーティスト、ヨアン・ブルジョワの作品。


この動くテーブルは、わたしたちに日々訪れてくる〈現実〉の舞台と言えそう。わたしたち中心に考えれば、訪れてくる現実とわたしたちひとりひとりの意志・選択・内省による振る舞いとの合作として、わたしたちの生活は成り立っているように見える。人と人との関係の有り様もまた。



2022/11/08
現代短歌bot@gendai_tanka
おしよせて来しかなしみはざくざくざんざくざくざんとキャベツを切りぬ  小島ゆかり


上の句「・・・かなしみは」は、下の句へ直接かかっているようだが、語法的にはかかっていない。ただ表現の意識としては(あまりに深く)などを補ってつながるのを、直接に結び付けたとも取れる。その直接性の激しさが、刻むキャベツの擬音にも込められているようだ。



現代短歌bot@gendai_tanka
焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き
 俵万智『チョコレート革命』


はははと笑うしかないけど。子どもたち(大人でもいいけど)が、例えば食べ物の好きを言い合う場面とは違った危うさがある。だから、「私」は「あなたのお父さんが好き」と沈黙の内につぶやくのである。「好き」にもいろんな通路があり、交差があり、すれ違いがあり、ドアがある。



ずいぶん昔に村上龍の有料のサイトに出会ったことがある。今検索したが見つからない。吉本ばななさんもだが、表現者が有料のサイトを設けて割と自由に表現している人々もいる。まだまだ紙が中心みたいだが、これが電子本にシフトしていくようになったら、YouTubeなどと連動して、新たなものとして流れ出すのかな。



2022/11/09
韓国時代劇というか宮廷劇というかをずいぶん観てきた。今は、テレQ(TVQ九州放送)で 韓国時代劇『イ・サン』を観ている。韓国の時代劇では建前かもしれないが上層が気がけるべき課題としての「民」ということがよく口にされる。 今観ている吉宗の『暴れん坊将軍』でもそれはある。

しかし、わが国の時代劇では配慮し繰り込むべき課題としての「民」というモチーフはあんまりなさそうな気がする。(NHKの大河ドラマは、昔の西田敏行が演じた秀吉くらいしか観た印象がない) これはドラマの作者が無意識的にその国の政治意識(大衆の意識や為政者の意識)を反映しているような気がする。

それは、現在の政治の有り様にもつながっているのだろう。支持率低下で政権運営があやしくなると、「民」のことを気がける風はしても、「民」の課題に本気で取り組もうというモチーフは口だけ以外ではなさそうに見える。あるとしてもトリクルダウン政治でしかない。



2022/11/11
現代短歌bot@gendai_tanka
セックスをするたび水に沈む町があるんだ君はわからなくても
雪舟えま『たんぽるぽる』

 
まず「水に沈む町」とは〈私〉の心身のある感受を指すものでその喩的な表現だろう。町が水に沈むのは一般に負のイメージだから〈私〉は自分の何かが壊れるような感覚を抱いているのだろう。男女に限らず対の関係(対幻想)は、この歌のように二人のものでありつつ一人のものであるという矛盾も抱える。

わたしの場合は、本来は二人に閉じられる世界であるセックス(性)を開けっぴろげに表現に開放することは苦手である。この歌では〈私〉は〈君〉に語りかけているのではなくモノローグと思える。しかし、なにごとも自由にオープンに表現するのはいいことだろう。



2022/11/12
白川静bot@sizukashirakawa
[万葉]の歌に「見れど飽かぬ」「見る」「見ゆ」というように視覚に訴えていうものが多いが、それらは視覚を通して存在の内奥の生命にふれようとする、呪的な魂振りの行為であり、それは山川草木をはじめ、およそ存在するもの、生命感情の移入しうる一切のものに及んでいる。


若い頃から、万葉集の歌の解釈で、「呪的な魂振り」みたいな把握に何度か出会ってきたが、実感が湧かずもやもやすっきりしないところがあった。当時は、まだ自然物などの対象+□(大いなる自然という感受)であったが、現在では、付随する+□(大いなる自然という感受)がゼロではないけどとても希薄になってしまっていて、くっきりした自然物などの対象ということが主流になっていると見なすと少しわかりやすい気がする。当時も今も、こうしたことは無意識的な次元、あるいは内省的な次元に属している。



2022/11/13
近現代短歌bot@tankanobot
何かしておらねばならぬ気持ちにて飯炊き飯は黒く焦げたり  小暮政次『第六歌集私稿』

 
「飯は黒く焦げたり」から、これは電気炊飯器以前の時代とわかる。調べてみると、小暮政次は1908年-2001年。 「そして二度ご結婚されて、二度奥さまに先立たれています。」とあるから、独り身生活の頃のことか。〈わたし〉は何か気がかりがあるのだろう。ごはん焚きは少しは気も紛れるが、・・・。



2022/11/14
 自分の感受性くらい  茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 「自分の感受性くらい」所収 1977


この詩を一般化すると、これは自己批評としての自己対話としての詩だが、校長や先生や父親などが子どもに説教する場合のパターンにもなっている。このことを逆に言えば、ある人の心や振る舞いは、程度の違いはあっても他人のせいや時代のせいにできる面を持っているということになる。

というのは、人はこの関係的な世界でこの社会を呼吸し、人と人とが相互に関わり合う世界を生きているからである。ただし、この世界を生きる主体はまさしく自分自身なのだから、この詩にあるように他のせいにばかりして自己批評を欠いては自分をダメにするということだろう。



RT 舞踏家Mさん
ある若い舞踏家と話していて、内発の踊りは人に見せるという段階で内部が失われていくので、人に見せる意味がわからない。見せようとした途端に内発でなくなってしまう。と悩んでいた。私もその時期が長くあり、この壁は越えられないと悩んだ。


いろいろとこちらが考えさせられる言葉に出会っています。
たぶん遙か太古においては、現在のような個中心の世界把握や表現世界とは違って、個は集団にずいぶん埋もれるようにして世界を把握し表現していた気がします。したがって、現在では個の固有のモチーフを持った内発性が主流になっていますが、

太古では人が生かされている世界の方からの促しによる内発性だったように思います。世界はこうあるんだ人はそう生きるべきなんだというように世界の方からの促しに呼応しみんなで共有する(人に見せるもの)のが言葉でも舞踊でも太古の主流だったと想像します。

言葉でも舞踊でも全て芸術は、表現が個中心の現代的な形になったとしても、個のものであって同時にみんなのもの(人に見せるもの)という起源の母斑のようなものを内に秘めているような気がします。



2022/11/15
近現代短歌bot@tankanobot
水曜 万葉植物園にあわだちて処女ら寒流のごと流れ入る  塚本邦雄

 
喩かなと思ったら、「万葉植物園」(萬葉集に詠まれた植物を植栽する植物園)というのが実際にあるようだ。
しかも、千葉県市川市(万葉植物園)や奈良県(萬葉植物園)や国分寺市や宮崎県都城市にもある。「寒流」とあるから冬場だろうか、人の動きを自然物の流れのように感じ見るなじみの視線がある。



今夕の中条きよし議員の、政治の仕事の場での歌の仕事の宣伝という場違いなニュースを見てまた思い出してしまった。俳優やドラマの世界と現実の混交ということ。俳優やドラマは、ひとつの仮想世界での表現であって、現実の俳優やロケ地とは別のものなのに、

ドラマのイメージ付で生身の俳優に視線が向けられたり、「聖地巡礼」などとして訪問される。それは少しはわからないことはないが、現代では表現世界と現実とは分離していて直接的には関わりがない。しかし、混融して意識されている。

これは江戸期くらいまで地方に遊行して小野小町の物語を語り歩いていた語り人たちが小野小町と同一化され、日本各地に小町塚が立てられていると柳田国男語った事態と同じ事であろう。つまり、昔にさかのぼるほど、人はいろんなものが混交した存在として捉えられていたのではないだろうか。

しかし、現在では同一の人間であっても政治家の仕事と歌の仕事はきちんと分離するのは当たり前になっている。



現代短歌bot@gendai_tanka
さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園  俵万智『サラダ記念日』

くりかえしということ。吉本さんによればくりかえしの表現は古い日本語の表現に属するという。ちなみに人間の初期である小さい子どもの満たされたい願望の強調の表現としてくり返しを使うことがある。山村暮鳥の詩「風景」の中に「いちめんのなのはな」のくり返しがある。

これも俵万智のも空間的な広がりの強調か。指示性の強調という点ではいずれも共通するように見える。この歌の場合、読者はまず「さくらさくらさくら」と空間的に展開し、次に歌の音数律から引き戻されて「さくらさくら/さくら咲き初め/咲き終り/・・・」と二重化されているような気がする。



     






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 最近のツイートや覚書など2022年11月 ②


2022/11/16
昨日床屋に行った。髪の毛が薄くなる話になって、その床屋さんは今もよくテレビで宣伝しているひよこの毛ふさふさイメージの育毛剤を使われているとのこと。少しは効き目がありそうに感じるけど、しかし、使うのを止めると元に戻るとのこと。ああ、それって農作物の肥料みたいなもんだなと私は思った。



2022/11/17
現代短歌bot@gendai_tanka
落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し 俵万智『サラダ記念日』


たぶんこれは作者の体験から来ている。作者が雨を見上げて感じた体験を、表現世界に入り込んだ〈私〉がたどっていく、そして〈私〉はふいに、唇が欲しと感じる。若い女性の〈私〉の積極性のようで、シンデレラのように誰かを待ち受ける受動性のエロスでもあるように感じられる。



産経ニュース@Sankei_news
投資家が大谷選手らを提訴
暗号資産(仮想通貨)の大手交換所FTXトレーディングの経営破綻で損害を受けた投資家らが、同社の宣伝に関わった有名人にも賠償責任があるとして、大谷翔平選手や大坂なおみ選手らを米南部フロリダ州の裁判所に提訴した。


このコマーシャル時代。宣伝して、効果があるようで無い、無いようである。しかし、例えばツイッター社やフェイスブックの会社は広告で巨大な利益を上げてきたのかな。コマーシャルに関わった有名人は、客引きなんだろうけど、会社の経営破綻の責任は無い。広告責任はあるようで無い、無いようである?

この問題は、以前にも考えたことがある。ある企業の活動の宣伝に関わった者にも責任があるのだろうか。宣伝する有名人は、ある企業の活動のイメージ価値を高めている。それによって、ある企業の活動と結びつく客が増える可能性が高まる。そうでないと、宣伝はしないだろう。この本質は、チンドン屋さんなどの古典的な宣伝についても同じだ。

わたしの現在の考えでは、企業活動の失敗の責任は、企業自体にしか問えないと思う。原発大事故の責任も原発のコマーシャルに出ていた宣伝者にまでは問えないだろう。ただ、いずれの場合にも、宣伝者には倫理的な責任という内省の問題がありうるように思う。



2022/11/19
上阪欣史/日経ビジネス@yoshifumiuesaka
11月18日
非常に興味深い筑波大学の研究です。
オミクロン株が自然な変異ではない可能性もあるとのこと。以下、文面より。
オミクロン株のスパイクタンパク質の変異が、人工的な遺伝子組換えなどの、自然界にない何らかのプロセスを経ている可能性を強く示唆しています。


掛谷英紀というヘンな人(思考・判断に偏りがある人)は、以前からこうした主張をしている。まず私は素人だから実験などを否定はしない(できない)が、ヘンな人を信用できないから、ふうんと思いやり過ごすしかない。ただ、うっかり実験室から漏れた可能性はあるが、意図的に流出させたとは考えにくい。

コロナウイルスによる人の被災状況は2022年11月19日現在では、以下のようになっている。
感染者: 636,982,165人 死者: 6,617,705人(NHK「特設サイト 新型コロナウイルス」)
もしこれが、人為のコロナウイルスの意図的な流出なら、核兵器の使用に相当する。人間は、そこまでするだろうか。



RT Mさん
分散型波動発電装置 ...
柔軟な構造の分散型波力発電装置が特許を取得――


現在では、電気の起源の電磁誘導による起電力の発生ではなく、様々な電気の発生が考えられる段階になっているようですね。例えば、太陽光発電であれば、大陽光パネルに使われている「半導体」が太陽の光エネルギーを電気のエネルギーに変換する仕組みのようです。



昔、加藤剛演じる『大岡越前』をいくらか観た覚えがある。実際はどうかわからないがなんか生真面目なイメージだったということがわたしの中には残っている。また、二、三回観たことがあるが東山紀之演じる『大岡越前』もある。今私のお気に入りの北大路欣也演じる『名奉行!大岡越前』を

時代劇専門チャンネルで観ている。同じ大岡越前でも違っている。主人公だけに限れば、演出のせいもあるだろうが役者の固有性のせいも大きいのではないだろうか。だから、こんなにもいろんな『大岡越前』がああるのだろう。

北大路欣也といえば、この『名奉行!大岡越前』でもほかでもそうだったと思うが、酒などを「うまいっ」と言いながらおいしそうに飲む場面がときどきある。それが、たぶん本当に飲んでないからというせいもあるのだろうが、なんか本当は飲んでないよねという感じをわたしは受ける。難しいのだろうか。 (2022年11月21日)



現代短歌bot@gendai_tanka
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり  永井陽子『モーツァルトの電話帳』

スペイン南部のアンダルシア地方、その一面のひまわり畑を写真で見たのだろう。そこを訪ねてひまわりを見てみたいという強い願望が歌われている。それが、語のくり返しを呼び寄せている。また、音数律は、
ひまはりの/アンダルシアは/とほけれど/とほけれどアンダ/ルシアのひまはり

(5・7・5・8・8)となって、いわゆる「句またがり」になっている。語のくり返しや音数律を破る「句またがり」によって願望の激しさを表しているか。

一方、万葉集にある狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)の歌、
君が行く道の長手(ながて)を繰り畳(たた)ね焼き滅ぼさむ天(あめ)の火もがも

【現代語訳】あなたが(流刑へ)行く長い道のりを、くるくると手繰り寄せるようにして、焼き尽くしてくれる天の火がほしい。そうすれば、あなたは都に留まるしかないだろうから。


この場合は、5・7・5・7・7でその音数律のリズムに言葉は収まっている。しかし、そのリズムに乗って別離へのはげしい思いが即物的な思いもよらないような言葉を選択している。



2022/11/20
「スーパードラマTV」でやっているアメリカの海外ドラマ『ブラックリスト』のシーズン9がしばらく前に終わった。もう9年も観続けてきたことになる。今回もそうだったが、これで最終話、おしまい、としても良さそうなのが今までに何回かあった。

しかし、視聴者の声やお仕事ということに促されて、物語も人の人生のように続いていく。振り返れば、ずいぶんなじんでしまった物語世界(ドラマ)も、人の人生の足跡みたいにいろんな紆余曲折があった。



2022/11/21
現代短歌bot@gendai_tanka
ねむいねむい廊下がねむい風がねむい ねむいねむいと肺がつぶやく  永田和宏『饗庭』


当然に「ねむい」のは〈私〉の心身の感覚と意識とが感じている。そんな状態の〈わたし〉には、対象の輪郭は解(ほど)けて外在の廊下や風も内在の肺も一様にねむいと言っているように感じている。春先にはよくある。これが喩ではなくて、普通に信じられてしまうようになった世界は、病の領域である。



現代短歌bot@gendai_tanka
プリクラのシールになつて落ちてゐる娘を見たり風吹く畳に  花山多佳子『空合』


「プリクラのシールになつて」ということは、いつものわが家の娘が変身した「娘」になっているように感じられている。子どももある家族内の存在でありつつ家族の外の表情や匂いを持ってくる。そうして、例えばこのプリクラのシールになって意外な印象を親に与えることにもなる。



現代短歌bot@gendai_tanka
「おはよう」に応えて「おう」と言うようになった生徒を「おう君」と呼ぶ  千葉聡『そこにある光と傷と忘れもの』


調べると、作者は高校の先生。表現には必ず〈私〉の視線や言動や振る舞いを通して作者の視線の位置と有り様が込められる。以前は「おはようございます」とか応えていたものが、「「おう」と言うようになった生徒」とその変貌を感じつつもユーモラスに「おう君」と返す。説教じみてなくていいねと思う。



2022/11/26
RT 太郎丸@taromar_u
二頭のロバに鋤を引かせて畑を耕す、馬耕ならぬ「ロバ耕」。息がぴったり合わないと、なかなか前に進まない。小さい方のロバは、柔らかくなった土に足をとられ、時々尻もちをつきそうになりながらも、一生懸命仕事をしている。サボろうとしたら、後ろから棒で容赦なく叩かれるからだ。


これと同様に、高度経済成長期以前のわが国の農家では、牛(馬)による耕運がまだ普通でした。耕運機の発明・普及が、人と牛(馬)との関係を解放しましたが、牛(馬)にとってそれは幸だったかについては複雑な思いです。



2022/11/29
RT GIGAZINE(ギガジン)@gigazine
「Google製スマホを実際に使わず感想を放送しまくった」としてGoogleとラジオ局が13億円超えの罰金を科される


広告は、そんなものだろうと思っていたからこれに驚いた。消費者の利益と保護の観点からか、アメリカの連邦取引委員会(FTC)によると「デバイスの使用経験に関する虚偽報告の禁止」としているらしい。この問題は、わが国ではどうなっているのかな。



2022/11/30
現代短歌bot@gendai_tanka
黄あやめの高さちがいて咲く真昼少女は夏の昏さを知りぬ  前田康子『黄あやめの頃』


この歌は、吉本さん風にいえば、上の句の客観的な表現と下の句の主観的な表現から成っている。そして、一見無縁に見える上の句と下の句とが何らかの関係があるものとして表現されている。また、私は使ったことがないから「昏さ」の意味がよくわからない。しかし、これはこの歌のキーワードになっている。

調べてみると、「昏いの意味は、目が見えなくなるほどの暗さが転じて、気分が塞いでしまった場合や、雰囲気が陰気であるという意味も持ちます。目に見える暗さと、精神的に感じる暗さの両方を表します」とある。後者の意味で使われているようだ。



近現代短歌bot@tankanobot
ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし  寺山修司『空には本』


この歌は、石川啄木の次の歌が意識され呼応しているだろう。石川啄木は岩手出身で寺山修司は青森出身、それぞれ地域性による言葉の違いはありそうだが、ふるさとの意識(東北の言葉)としてひとつにくくれそうに思う。一方は、自分の肌身に滲みている「訛り」へのなつかしさ、もう一方は、その訛りを必死に削り落としたような友への複雑な苦い思い。その昔は都会に出て来て方言のために自殺した者もあったという。

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聞きにゆく
(石川啄木『一握の砂』)










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 最近のツイートや覚書など2022年12月 ①


2022/12/02
現代短歌bot@gendai_tanka
うずく、まるわたしはあらゆるまるになる月のひかりの信号機前  中家菜津子『うずく、まる』


うずく、まる/わたしはあらゆる/まるになる/月のひかりの/信号機前
音数律を少し乱してわざわざ打たれているこの読点「、」は、疼く「まる」と「うずくまる」を一種の掛詞にしているか。何か巫女的な印象さえ与える全円的な感覚の表現。月に帰るかぐや姫も連想させる。



2022/12/03
現代短歌bot@gendai_tanka
まいちゃんのたてぶえなめたかさいくん
谷町線でぐうぐうねてた 今橋愛『O脚の膝』


情景がよくわからなくて調べてみたら、別のものでは以下のようになっている。些細な異同に当たるが、「かさいくん」が「さかいくん」になっている。平安期などの書き写しでもこんなことがあったろう。
短歌あつめました@tanka_atsume
まいちゃんの/たてぶえなめた/さかいくん/谷町線で/ぐうぐうねてた


調べてみると、「まいちゃんの日常」というヘンな漫画や女子の縦笛を舐めるゲームまであるようだ。作者のイメージの出所はわからない。つまり、現実の具体性かイメージ上のことかもわからないが、たぶんひとりの青年を見つめる〈わたし〉の視線は確かに存在している。



2022/12/04
現代短歌bot@gendai_tanka
忘れ物しても取りには戻らない言い残した言葉も言いに行かない  松村正直『駅へ』


作者は、プロフィールに「石川啄木の歌集を読んで短歌を始める」と書いているそうだ。そして、石川啄木の次の歌との関連を取り上げている人がいた。

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸に残れど


誰でもこの世界での身の処し方を意識的、無意識的にしている。「・・・ない」の繰り返しは、この生活世界の通り過ぎ方、生き方として〈わたし〉の強めの意志を表している。しかし、啄木の歌は人間の織り成す複雑社会での複雑な心の場所をそのまま歌っていて、わたしには啄木の歌の方がすぐれているように感じられる。



2022/12/05
現代短歌bot@gendai_tanka
動こうとしないおまえのずぶ濡れの髪ずぶ濡れの肩 いじっぱり!  永田和宏『メビウスの地平』


昔、NHKの番組で中国の辺境に住む人々を取り上げていた。父と同じように純朴な青年が遠くお嫁さん探しの出会いの場に出かけて行って、やっと見つけて女性を連れ帰る。途中で、その女性が青年に向けた歌を歌っている場面があった。芸術化する以前の歌はこんな相聞の歌が多かったのだろう。

この歌の表現から、〈わたし〉の心的な動きをたどってみる。おまえが心解いて「動こう」とするかと期待するが「しない」。気づけばずぶ濡れの髪、ずぶ濡れの肩じゃないか。そんなにまで、ずぶ濡れで、ほんとにもういじっぱり。(12/06)

若い男と女のちょっとした行き違い。(12/06)



2022/12/06
わたしたちは、現在の有り様が全てあるいは中心と見なしている。それはある意味当然のことで、もう赤ちゃん時代ではなく大人になった現在を生きているからである。二昔前までは川などで洗濯していたとしても、現在は、全自動洗濯機で洗濯しているからである。

しかし、その現在の時間の層には過去が埋もれているあるいは浸透しているようだ。例えば、赤ちゃん時代の感覚や意識は現在の年輪のどこかに保存されなんらかの発動をしている。また、現在の詩も小説も黙読中心になってしまっているが、たぶんどこかに声に出して読む(暗唱)時代の母斑が今なお影響しているかもしれない。

江戸期に日本に捕らえられたロシアのゴロウニンの『日本俘虜実記』が、見張りの兵卒が声に出して読む読書の様を書き留めている。この風習は、遙か無文字時代の風習にまで遡れるのじゃないかと思う。
メモ2019.3.22 ―ゴロウニン『日本俘虜実記』より
https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/e6b3dd4892cc3ca342c1f644d8e811d9



2022/12/08
現代短歌bot@gendai_tanka
今日こそは言わねばならぬ一行のような電車が駅を出てゆく  奥田亡羊『亡羊』


「言わねばならぬ」は話し言葉だが、まず歌の形式自体が今では書き言葉である。さらに電車のイメージに引かれて書き言葉の「一行」という言葉が選択されている。あるいはその逆か。いずれにしても、これらのことは作者の無意識的なさざ波に属している。

静から動へ駆動しはじめる電車の自然さも人によりさまざまな固有色として感じ取られる。ここでは、何か重たい決意を持った〈わたし〉の視線がクローズアップされている。



いつの頃からか「有名人」なる者たちがいる。遡れば、村や各お国の有力者→貴人→大いなる自然(神々)と人間界から自然界へ収束していく。現在でも人々の有名人に魅(ひ)かれる心性は、「ひとり」を超えたものをすごいなと価値化する〈自然な感性〉である。しかし、そこには〈内省〉は参加していない。

だから例えば、黒柳徹子の自伝的物語である『窓ぎわのトットちゃん』が、「日本国内での累計発行部数は800万部を突破し、日本国内において「戦後最大のベストセラー」と称される」という風に有名なものとして受け取られ読まれても、そのこと自体が作品が優れていることを意味しはしない。

わたしの場合は、有名人はこちらに突っかかってこない限り「ふうん」とやり過ごしている。



2022/12/09
石川啄木BOT@VNAROD_SERIES
なつかしき冬の朝かな。
湯をのめば、
湯気がやはらかに、顔にかかれり。


あれ、と思った。啄木の三行詩(歌)には句読点がなかったような気がしたからだ。青空文庫で確認してみたら、第一歌集の『一握の砂』にはない。この歌が収められている『悲しき玩具』には句読点や「!」がある。ここでは問わないが、ささいなことに見えてなんらかの詩意識の変位があったものと思われる。
歌集『一握の砂』1910年(明治43年)
歌集『悲しき玩具』1912年(明治45年)
この歌は、表現の世界でのよろいを脱いでほっと一息ついたような歌に見える。
ところで、この歌は〈わたし〉が想像しているのか、〈わたし〉が今湯を飲んでいるのか不分明である。


というのは「なつかしき」にも「自然」と同じように意味の新旧の層が二つほどあるからである。
なつか・し 【懐かし】
①心が引かれる。親しみが持てる。好ましい。なじみやすい。
②思い出に心引かれる。昔が思い出されて慕わしい。
(ネットの『学研全訳古語辞典』より)

②の意味とすれば、少しねじれを感じるが「顔にかかれり」の完了または存続の「り」は今現在感での想像ということになる。当時の「なつかし」の主な使われ方はわからないけど、わたしとしては、①の「このましい」の意味の方がすっきりとくるような気がする。

ちなみに、わたしが文章を書いたりコピーしたりして愛用している「秀丸エディター」に青空文庫の歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』をコピーして「なつかし」という語で検索をかけたら、『一握の砂』で12例、『悲しき玩具』で4例ヒットした。

「なつかし」の②の現在的な意味のが多い中、『一握の砂』の次のものは①の意味(に近い)だろう。

旅七日
かへり来ぬれば
わが窓の赤きインクの染みもなつかし


汽車の旅
とある野中の停車場の
夏草の香のなつかしかりき



2022/12/10
RT
「TANTANの雑学と哲学の小部屋」
宇宙が「等方的」であるとは具体的にどういう意味か?ビッグバン理論に基づく宇宙の等方性の説明
2018年11月11日 [宇宙論, 物理学] より


物理学においては、一般的に、「等方性」という概念は、物体や空間における性質が方向によって異ならないことを意味する概念として捉えられていくことになります。
したがって、
宇宙における「等方性」という概念についても、それは、宇宙空間の性質や宇宙全体の大局的な構造が観測する地点や方向の違いによって異なることがなく、
観測可能な宇宙のうちのどの地点からどの方向を見ても互いにほぼ同じような性質と関係を保った宇宙の姿を観測することができるということを意味する概念として捉えることができると考えられることになります。
そして、さらに言うならば、
こうした宇宙が「等方的」であるという考え方からは、観測可能な宇宙の内部においては、特別な位置や方向といったものはどこにも存在しない、
すなわち、宇宙そのものには中心とか端とか区別はなく、どの地点においても互いに同じような位置関係にある宇宙空間が広がっているという主張が導かれていくことになると考えられることになるのです。



宇宙の「等方性」という性格(の想定)から、小さな局所系からでも宇宙の構造を探査できるように、人間や人間社会の振る舞いについて、どんな局所的なもの(家族の制度的な性格類型)からでも人間や人間社会の構造を突き止めることができるのだろう。しかし、これは上空からの視線(抽象性や論理)に属している。

わたしが、E.トッドに感じる疑念は、吉本さんの概念を借りれば、この上空からの視線に加えて人の高さの水平な視線(生活者の感覚や大衆という概念)が希薄か不在であるということから来るような気がしている。人間や人間社会の振る舞いの考察にはその二つの視線は必須のものと思う。



2022/12/11
いつ頃から正月があんまり特別でもなく、それほどうれしくもないものになってしまったか。青年期近くだったか。これは昔も今もそうなのか、つまり、個の精神年代によるものなのか、それとも時代的なものなのか、よくわからない。なんでもフツー化する現在的なものの影響が大きいような気はしている。



2022/12/12
現代短歌bot@gendai_tanka
カップ麺の蓋押さへつつ思ひをりこの部屋に火と水のあること  栗木京子『水仙の章』
午前3:23 2022年12月12日


「カップ麺」は現在的なものであり、「火と水」のあり方も現在的である。しかしそれらの形が変わっても、人には火と水と食べ物と住処が要る。また、社会も生み出し、人と人とのネットワークも築いてきた。さらに、幻想の食べ物である物語やドラマなども生み出した。人間は欲張りなのかな。



単行本も買ってはいるが、note連載の坂口恭平「お金の学校」1~11をひと月くらいかけて読み終えた。お金は流れるものであり、楽しいもの、ひとりひとりの生きる魂と関わるもの、合い言葉は「大丈夫、きっとうまくいくよ。」お金に関わってめずらしくも肯定のにんげんがくであり肯定のてつがくである。



2022/12/13
覚書2022.12.13
信じるということがある。その内側では、少しは疑念が湧くことがあってもそれが自然なものとなっていく。この信じることの起源は、吉本さんの『母型論』によれば胎内生活での母子関係(根源的な関係)にある。大きな波風の立たない良い育ち方をした者は信じやすいということがありそうだ。

しかし、どんな育ち方をしても寄せて来る現実との関わりでは紆余曲折があり、人について一概には言えない。信じるという信仰の内側から見たら宝石の言葉に見えることが、信仰の外側から見たらイワシの頭にしか見えないということがある。両者は、向かい合えば対立的な様相を呈することになる。

ここで、両者の真を判定するものはあるか。それは、大多数の普通の人々の経験からくる普通の言葉の内包する喜びや苦難に対して開かれているかどうかということ。それに対して、上から人々を啓蒙したり引き上げようとするのではなく、普通の人々のあり方を丸ごと掬い取ろうとしているかどうかにあると思える。

そして、そのような宗教組織は稀少な気がする。親族や家族の関係も希薄になっている現在の社会で、人々がお互いに気楽に話ができる穏やかな関係の場を目指す(提供する)のが中心の宗教組織なら申し分ない気がする。そこでは、組織拡大と社会革命を目指すための「献金」は不要である。

ところで、わたしたちは、頭の隅ではこれは作りものだという意識があっても、物語やドラマの世界にのめり込んでいく。このことは、作者や役者が、ひとつの作りものの世界に入り込み、そこでの描写や振る舞いを迫真のものとしていくことと対応している。端から見たら作りものの世界ではある。

これを一般化すると、わたしたちは、〈幻想〉の舞台に上り、その世界を信じて自然なものと感じ行動するということ。これは宗教(信仰)でも物語やドラマでも仕事でも共通する人間的な特質のように思われる。



2022/12/15
現代短歌bot@gendai_tanka
白き傘細く巻き締めたたむとき少年たりしわが前世恋ふ  栗木京子『綺羅』


自宅で座って日傘を畳んでいるのか。上の句と下の句の接続・関連がわからない。「前世」などというものを信じられもせず何とも思わないせいだろう。しかし、人の視線と湧き上がる想念は、外からはうかがい知れない、また本人自身でさえよくわからない所がある。「巻き締め」がこんな想念の扉を開いたか。






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