※今回は、だいぶん長めのものになっています。
2021/07/03
先日、ネットで南方熊楠に「人柱の話」という文章があるのを知った。「人柱」の話は、柳田国男も何度か触れていたが、それが説話なのか事実あったことなのか曖昧に感じられた。古川古松軒(ふるかわこしょうけん)の九州地方見聞記である「西遊雑記」にも一度「人柱」の話が出て来た。
南方熊楠の「人柱の話」は、旧字があったりで少々読みづらいが短文で「青空文庫」で読める。ヨーロッパやわが国の「人柱」の例を書物・資料から紹介している。なぜ橋や建物に「人柱」を立てるかというと、それによって橋や建物が守護され強固になると信じられていたかららしい。
マヤ文明やインカ帝国の「生け贄」もこの「人柱」と同様の考え方から来ているように見える。現在からは迷妄、無意味、残虐に見えるが、当時どうしてそういう思考法に至ったのかの解明は、わたしたちが人間というものを知る上で大切なことだと思う。
付け加えれば、近くは先の大戦の「特攻」もこの「人柱」と共通の心性から来ていると思う。
2021/07/12
吉本 うちの父はなんだかんだいってやっぱり、九州の人ですよね。
吉本 なんだかね、いままで父について「あれ? おかしいな」と思ったり
私から見て「ええっ!」と驚いたようなことが、「ここでは常識」って感じでした。
天草に行って「ああ、こういうことだったのか」と肌で感じることがありました。
吉本 だって、父なんて、一瞬も住んではいないはずなんですけどね。
吉本 だけどまあ、父がこっちに来て育った環境でも、周りは全員、天草の人でした。
(吉本ばなな 第4回 隆明さんと忠則さん。 2021-07-12 「ほぼ日」)
一般化すると、祖父母や父母が〈天草〉をものの感じ方や考え方や言葉や風習などとして身に着けていたとして、それは異郷(東京)で生まれた子ども(吉本さん)にも散布されるし浸透していく。しかし、吉本さんが東京で育ち妻との間に生まれた子らにはもはや〈天草〉は不明になるほど希釈されて浸透している
2021/08/25
レーニンの構想 公務員の給与
古い話では、レーニンは公務員の給料は労働者の平均でなければならないと構想したがうまくいかなかったらしい。そうしてソビエトロシアは、強制収容所やノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級を生みだした。この普通の時代になっても勘違いの特権性は中国やわが国でも蔓延しているようだ。
東浩紀「変異株と自粛疲れで感染拡大 医療体制を変えるほかない」
連載「eyes 東浩紀」
批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
* * *
緊急事態宣言の延長と拡大が決まった。東京など6都府県に出されている宣言の期限が9月12日まで延長され、対象地域に京都や兵庫など7府県が追加された。新規感染者は連日2万人を超え、重症者数は日々最多を更新している。
とはいえ市民の反応は驚くほど鈍い。人々は緊急事態に慣れきっている。ワクチンが普及し死者数が抑えられていることも大きい。街の空気は昨年4月の最初の宣言時とまったく異なっている。
ネットではその状況に苛(いら)立ち、強いロックダウンを求める声が高まっている。分科会でも個人の行動を制限する法整備の必要性が議論されたという。けれども実現は難しいだろう。現状で自粛の要請は限界まで行われている。これ以上の人流抑制を求めるなら、外出したら罰金、県境を越えたら逮捕といった強制力を導入するほかない。現憲法下ではそれは困難だし、そもそも国民が許容するかどうかも疑わしい。いずれにせよ慎重な議論が必要なはずで、喫緊の危機には間に合わない。
ではどうするか。結論からいえば、感染拡大をあるていど許容し、それに耐えるように医療体制を変えるほかないはずである。具体的にはコロナの感染症法上の分類を見直し、より多くの病院が入院患者を受け入れられるようにすべきだろう。医療関係者からは、そうすると命の選別が始まる、医療の質が落ちると反論があるが、これだけ大規模な流行のなか、従来と同じサービスを維持できると考えるほうに無理がある。平時で救えるべき命が救えなくなるのは痛ましい。しかしそれが災害というものだ。
日本はこの1年半、強権的な戒厳令を発することもなく、自粛の「お願い」だけで感染を抑え込み、通常医療を維持してきた。それは世界に誇るべき成果である。けれどもそんな「日本モデル」は、変異株の出現と人々の自粛疲れで急速に機能を失い始めている。
ワクチンも万能ではない。これから新たな変異株も現れるかもしれない。私たちはその現実を認めて再出発しなければならない。行動変容と感染防止が最大の正義だった段階は、もはや終わったのである。
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まず、こんな緊急時の医療体制の構築に直接の責任を負うのは国と地方自治体であり、現場では病院や医療従事者が活躍している。わたしは、そのいずれにも直接の責任が持てないから、普通の生活者の視線になる。だから、現在のような状況では一人でも多くの人がまともな医療が受けられるようにという視点
からの批評になる。この東浩紀は横目でチラくらいしか知らないし関心がないが、その上空からの「批評的視点」は、どうしてこういう現状になったかの認識もなく、口だけの政治家や言ってみるだけの評論家レベルでしかないなと思う。
2021/09/01
わたしは、他の疾病との死亡率の統計比較やこのような学者目線の言葉にはうんざりしている。そこには生身の自分は勘定に入ってない。いまあらゆる考えや言説に必要なのは自分を含めた生活者目線を必ず含んでいること。それ以外は、不毛と頽廃の知識のアクロバットに過ぎないと思う。
わたしは政治に多くのことを望んでいるわけではない。ただ、現在を生きているみんなが非正規待遇や経済格差など社会のもたらす大きな苦痛を受けることなく、それらが是正されできるだけ穏やかな生活が出来ることを望んでいるだけだ。また、対外的には、軍備に頼り過ぎるのではなく外国の人々を手厚く
待遇したりしてうまく付き合う本物の外交に注力することだ。この荒れた社会が今より良くなれば、家族関係も人間関係も少しはましになっていくと思う。後は、社会内のわたしたちひとりひとりの、少しでもより良い関係を織り上げていく日々の努力にかかっているはずだ。これは長い道のりでもある。
2021/09/03
まだまだ武力で相手をやっつけたり、政権を倒したりということが世界では起こっている。しかし、世論調査の政権支持率やバーチャル世界(SNS)での私たちの意思表示が、回りくどくてもある力を持ちうるようになっていると思う。そうして、これは武力と違って非暴力で血を流さない。
2021/09/04
メンタリスト DaiGoの件
彼の文章のチラ見から中身を想像できると確信するが、そんなまがいものの言葉でそんなべらぼうに稼いでいたなんてこの経済社会の仕組みはミラクルだ。あれだけたくさんの本を出してこの世界や人間の本質論を追究した吉本(隆明)さんは裕福どころかそんなに余裕のある生活ではなかったようなのに。
別に彼の所得をあまりうらやましいとも思わない。現在の経済社会の思想と人間観がそんな高額所得を受け入れている。プロスポーツ選手や有名人などが、多くの普通の人々を引きつけることによって、多額の経済的富を生みだしているからだろう。私はそれに異和感はあるが、現在の経済思想・人間観では解決不能だ。
唐突に見えるかもしれないが、毎月6~7万ぽっちではないBI(ベーシックインカム)が必要だと思うな。現在までの人間と社会が生みだした富の再分配、贈与による経済を回す(素人で可能どうかよくわからないけど)。そうした動きは、有名人の数億稼ぐという現在のいびつさも解消していくような気がする。
(名前は忘れていたけどやっとたどりついた。)前のツイート関連でなぜか、江戸後期の歌人橘曙覧(たちばなのあけみ)の「たのしみは」で始まる日常詠を思い出した。「たのしみは小豆の飯の冷たる茶漬てふ物になしてくふ時」高いパンケーキでもいいけど、誰にもこんなものがあるような気がする。
2021/09/06
岡井隆bot @OkaiTakashi_bot
風のなかの羽根を唱(うた)へる軽薄な公爵のこゑに総てが あ、る、の/岡井隆『E/T』 #tanka
2021年9月6日
一瞬、ムイシュキン公爵(ドストエフスキーの『白痴』の主人公)を思い浮かべたが、「軽薄な」とあるから違うかな。いずれにしても、これは日常場面ではない。物語世界の話題か。誰かに語りかけるような歌になっている。たぶん、こういう短歌的な表現は今では見慣れていても、目新しいものではなかったか。
歌集『E/T』は、2001年の刊行。当時はこんな表現もアリなのと、し、ん、せん、ね、だったのかもしれない。この歌の生命は「あ、る、の」にありそうだ。
風のなかの/羽根を唱(うた)へる/軽薄な/公爵のこゑに/総てが あ、る、の
6・7・5・9・7となり、散文的な歌になっている。
ワクチンについていろんな悪情報が流れてくるが、トランピアン(日本の場合は米と違って政治オタク趣味者)の人が流しても信頼できないんだよな。安倍ほどでなくても日常でよく嘘をつく人は、そのような者と見なされてしまうのと同じで、たとえホントのことを言っても信用されない。
しかし、インフルエンザワクチンは受けたことなくあんまりワクチンの世話になったことないけど、今回のワクチン問題は今までになく問題含みだなと思う。みなさん、警戒しながら受けているような印象がある。うちでも、奥さんが済み子どもが1回目済み、その後にしようと思っていた私は少し迷っている。
政治に限らず現在でも組織や集団の縛り(党派性)はきついだろうけど、究極のあれかこれかという場面では、やっぱり根っこの生活者(大衆、市民、住民、国民)を取るという課題は、依然として本質的、状況的課題であると思う。不幸にも孤立した赤木さんだったが、その課題に存在を賭けて答えたのだと思う。
2021/09/07
この名前を見て、読み方もわからず、何の根拠もなく、アイヌ語との関わりがありそうに思った。調べてみたら、白老(しらおい)「地名は、アイヌ語のシラウヲイにより、「虻(あぶ)の多いところ」を意味する。」ともある。虻と言えば、汗に反応するのか、そのまとい付くしつこさはこのうえもない。
2021/09/09
現代短歌bot@gendai_tanka
婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカ強い強い 飯田有子 #短歌
2021年9月9日
この歌の本流は、「婦人用トイレ表示」や「ケンカ」への強い選択性やこだわりと、「きらいきらい」や「強い強い」というリズムに乗った強い感情表現にある。短歌表現として見れば、通俗的に見え感じられるが、57577の枠の拡張や破壊の欲求を秘めているか。いろんな歌人にも出会えるなあ。
2021/09/11
「ワクチン接種と因果関係が明らかな死亡はない」などと自信過剰で、断言調で言う医者などがいるが、単に現在の科学の水準ではその解明ができないということに過ぎない。むしろしょんぼり言うべきこと。接種後の副作用(副反応って何?)はもっとなんとかならないものか。ロシアンルーレットの気分。
2021/09/12
アニメを実写化というのは聞いたことも観たこともある。今初めて目にしたが、実写をアニメ風に変換してくれるソフトがあるんだ、ふうん、映像の自由度の拡大か。ところで、昔なら写真や映像に撮られたらそれは〈事実〉で逃れようもないことだったが、現在では処理や加工の問題も考慮しなくてはならなくなった。
2021/09/13
会話や仕事のために英語を学ばなくてはならない苦役(一部のものには快楽)から、こんならも早く解放されそうな勢いに、わたしは爽快な気分になる。他の教科についても、教育もそろそろ曲がり角で大きな変革が必要な気配を感じている。
細分化の袋小路から、何やら利益誘導を思わせるこの前の大学入試改革(失敗に終わったが)のようなさらなる細分化ではなく、子どもにとっても先生にとっても苦役としての教育からバッサリと、現在において何が最低必要か、そこから教育内容を大改革すべき時期に来ていると思う。
2021/09/13
百日草の名前から、数のことを少し考えてしまった。百日草がどのくらいの期間咲き続けるのか観察した人はいるのだろうか。いくら長く咲き続けるといっても千日草では大げさだから事実関係を考慮して長く咲く花という意味で「百日草」と名付けたのだろうか。
↓
とても長いという意味で千日草と適当に書いたら、千日草(千日紅)という花も実際にあった。今では100といえばきっちり100という数や量を表すが、遙か昔に遡っていけばだんだん「たくさん」という意味の数である100などに近づくのだろう。八岐大蛇、八百万の神、十重二十重(とえはたえ)・・・。
2021/09/22
例えば「勝手踏切」にも歴史的な事情があり、小さな生活道路を断ち切る形で線路を通さざるを得なかったために、「勝手踏切」として鉄道法上と生活現実とのあいまいな形で今に至り、きっぱりと割り切れない現状がある。これは、超未来の銀河鉄道999みたいに上空を走る汽車や車が普通にならないと解決は無理かな。
あるいは、大きな自然災害対策や生活環境対策として、日本列島にいくつか形成される巨大なバベルの塔みたいな都市にみんなが住むようにならないと解決できないのではなかろうか。
2021/09/23
わたしは、人間の誰にも関わる経済(活動)には関心があるが、細分化された経済学のリフレやらインフレやタフレやフレフレなどには興味関心が入って行かない。要するに、現状と違って、わたしたち国民(生活者大衆)を中心に据えた、そのための経済政策を取ればいいだけと思っている。それが判定の基準。
2021/09/24
前回の民主党政権は、自民党の悪しき村政治からの脱却を図ろうとしたのだろうが、一度目でもたついたり党内部のトラブルで沈没した。今度の政権交代ではその負の経験が生かされ国民に開かれた政治を望む。安倍政権以降自民党は法律無視や裏工作やエア政治(やってる振りの政治)の限りを尽くしてきている。腐敗は進行中。
私たちの世界では、わいわいはしゃいだり、寝転んだり、ぼーとしたり、ひとりに思い沈んだり、は普通のことだが、主流にいると勘違いしている多くの政治家や経営者や評論家、学者はそのことを捨象してるのではないか。つまり、狭量な人間把握から合理性や生産性やキャリアアップ等々の諸概念が出て来る
2021/09/25
政権と官僚層とマスコミとの三位一体が構成する日本社会の権力構造を分析して見せた『日本/権力構造の謎』の労作で知られるカレル・バン・ウォルフレンが、陰謀論的な考え方に落ち込んでいるという毎日新聞の今朝の記事に出会った。驚いた。
https://mainichi.jp/articles/20210924/k00/00m/030/174000c
結局、何が問題かと言えば、自分の考え(思想)の拠り所をどこに置くかということの問題だと思われる。例えば、人はUFOの存在を信じUFO世界にのめり込むことが出来る。ちょうど、汽車や電車の趣味に熱中し没入するのと同じように。しかし、人は、具体的に活動し日々生きていくから、その日常世界に帰って行かなくてはならない。
つまり、私たちの日常世界での具体性を伴った感じ考え行動するを無視した抽象的な思考や思想は、部分的にしか成り立たない。陰謀論的な感じ考え方は、日常生活の中ではちょうど大工の息子にしか見えないイエスが故郷で受け入れられなかったと同じようにしか見なされない。
P.S.(付け加えれば、)人類の歴史のなかで生みだし構成してきた〈人間〉というものの有り様は、陰謀論的な感じ考え方と希望や勇気や向上心に満ちた考え方とを両極端として、善も悪もかき混ぜられているその中間のスペクトル帯に小さな善や悪に揺れながらもいい加減になったり真面目になったりして生きて在る、と見える。
2021/09/26
村瀬学さんのホームページに『生命詩文集 織姫 千手のあやとり』(PDFファイル 76P)がUPされていて、無料で読めます。冊子も頒布されるようです。読みたいと思っていた村瀬さんのベーシックインカムについての文(雑誌『飢餓陣営』に掲載されていたのは「ベーシックインカムから存在給付へ」かな?)も
収めてあります。
ホームページ「村瀬学の小径」
http://jidoubunka.com/
子供の絵
伊東静雄
赤いろにふちどられた
大きい青い十字花が
つぎつぎにいっぱい宙に咲く
きれいな花ね たくさんたくさん
ちがうよ おホシさんだよ おかあさん
まんなかをすっと線がよこぎって
遠く右のはしに棒が立つ
ああ野の電線
ひしゃげたようなあわれな家が
手まえの左のすみっこに
そして細長い窓ができ その下は草ぼうぼう
ぼうやのおうちね
うん これがお父さんの窓
性急に余白が一面くろく塗りたくられる
晩だ 晩だ
ウシドロボウだ ゴウトウだ
なるほど なるほど
目玉をむいたでくのぼうが
前のめりに両手をぶらさげ
電柱のかげからひとりフラフラやってくる
くらいくらい野の上を
星の花をくぐって
「伊東静雄詩集」所収 1953
伊東静雄の敗戦後の詩のひとつ。このような詩からは、それ以前の詩(詩集『わがひとに与ふる哀歌』『夏花』『春のいそぎ』)は想像できない。しかし、京都帝大在学中に書いて懸賞に応募し一等当選した童話「美しい朋輩達」―話の概略はわかるけど、今に残ってはいない―と通ずる感性の詩ではないかと思う。
劇場版の『「鬼滅の刃」無限列車編』の公開は2020年10月16日。そして、1年も経たないうちに、それが昨日テレビ放送された。一昔前は4年ほどしてから映画はテレビ放送されていたような印象がある。それが最近では2年くらいになっているなと感じていた。テレビで続篇を放送したり、グッズを販売して
いたり、読者・観客の興味関心をつなぎ止めたいという欲求の表現なのか。その道に詳しくないので、そんな印象で終わるしかない。しかし、この映画版→テレビ放送の時間の短縮は、この問題に限らず、この社会の表層を流れる時間の加速化と連動しているように感じている。
そのような時間の加速化は、学校の子どもの学習意識や会社の仕事においては切迫感をもたらすなどの負の性質もありうるが、ゲームを楽しむような快をもたらす面もある。ともかく、この時間の短縮はわたし(たち)にはありがたい。録画したので、たくさんのコマーシャルをかき分けて近々観たいと思う。
2021/10/01
今の与党政治(自公、維新含む)には否定的関心しかない。つまり、早く消えて欲しいだけである。そうして、悪行の数々が白日の下に晒されて責任を取らされるべきである。そうでないとわたしたちはいつまでたっても〈未来〉に入っていくことができない。
政治が〈未来〉に入るための最低条件は、裏で利害を回し合ったり政争したりする村政治の自民党的なもの(公明・維新含む)を一掃することである。しかも、「保守」なんて単なる退行の別名でしかないものを看板にしているが、安倍-菅によってそれはシン自民党として腐敗の領域にまで進化してしまっている。
この〈未来〉、〈未来〉に入るとは、もちろん、未だかつてなかったこと、すなわち、降り積もった解決すべき疲弊した社会的な諸課題を国民(生活者大衆)中心に解く態勢を築き実行に入ること。口先だけの「トリクルダウン」政治ではなく、国民主権の、国民(生活者大衆)中心の政治に入ることである。
2021/10/02
RT 朝日新聞の記事 HPVワクチンの問題
この問題は、現在進行中のコロナワクチンの「副反応」とも関連する。それをいろんな例示として見る以前には、HPVワクチンの問題は、「副反応」なんてないという医者や医者擬きもいて実感としてはよくわからなかった。ワクチンの有用性は認めるが、問題をオープンにしてていねいに対処する、これが基本
2021/10/05
最近では、テレQで『王になった男』、『王女の男』、『奇皇后』等の韓国時代劇を観てきたが、わが国の時代劇とは違ったものがあり、ハラハラドキドキいいもてなしの作品になっていた。しかも、宮中での激しい権力争いを通して、権力の不可避さと同時に権力というものの悲哀や虚しさも描いている。
『吉宗評判記 暴れん坊将軍』の、将軍が街中を出歩いたり、悪党との立ち回りをするなんてあり得ないことだったろうが、将軍職周辺の窮屈さはあり得たことでそれも作品として匂わせている。国家の最初期を想像すると、長は集落の民とも近く、『吉宗評判記』のような世界に収束していくのかもしれない。
将軍職周辺の窮屈さから連想して、現在でも窮屈さが残っていると思われるのは、天皇家だろう。たぶん、日常生活の中の話し方や考え方や振る舞いにも〈天皇家〉という型(窮屈さ)が浸透したものになっているのではなかろうか。今回の結婚に関してもづけづけ言いたいように言うことはかなわないのだろう。
2021/10/06
数百年規模の長周期の地球の振る舞いから来る寒冷化-温暖化の「温暖化」の問題も、人為が地球に与えうる影響も、今度の新しいワクチンも、自然や自然の一部(人の体)がまだよくわかっていない。自信過剰で大声で主張する者があるが、まだよくわかっていないことに対して謙虚であるべきだと思う。
岡井隆の『わが告白』を読み終えた。短歌・詩(表現)をイメージや幻想となった〈わたし〉の振る舞いとすれば、作者はこの『わが告白』をも詩(機会詩)と見なしたがっているが、これは地上につなぎ止められた地上的な〈わたし〉の有り様を自己対話によってできるだけ偽り少なく捉えようとする試みの書であろう。
この『わが告白』(2011年12月)に触れることによって、岡井隆の短歌・詩の表現がきわめて地上的なモチーフを持ったものとして、人間的な生ま身の姿でわたしたち読者の前に現れていることを、再確認させてくれるだろうと思う。
岡井隆は、若い頃にはキリスト教にも熱を入れ、政治運動にも関わった。歌会始への関わりは、それも古代からの歌の一部だから、そういう世界も見ておこうじゃないか、という考えからと思っていたら、違ったようだ。『わが告白』によると、岡井隆も柳田國男と同様に天皇や皇后に親愛の情を持っていた。
2021/10/11
日本テレビと言えば、最近気づいたこと。夕方の「news every.」で、ニュースなどを報じているときに、聞こえるか聞こえないか位の音量でバックミュージックを流していて、サブリミナル効果を連想してうんざりした。そこまで音響効果にこだわるか。ニュースの内容にこそこだわって欲しいよ。
2021/10/12
美術ファン@世界の名画@bijutsufan
黒田清輝『ポプラの黄葉』1891年 島根県立石見美術館
江戸時代までの様式の美(例えば松の木の描写)からは考えられない描写、表現だと思う。作者の中で時代の変位と対応した思考や美的感覚の葛藤、変位が起こっているのだろう。
2021/10/13
厚生労働省@MHLWitter
A.「ワクチンを接種した後に亡くなった」ということは、「ワクチンが原因で亡くなった」ということではありません。接種後の死亡事例は報告されていますが、現時点で、新型コロナワクチンの接種が原因で多くの方が亡くなったということはありません。
おっとう、自信過剰。現在の科学の水準では関係あるかないかを判断できない、と小声で言うべきではないか。ともかく、今回のワクチンでワクチンはちょっとアブナイものとイメージが悪化した、これはわたしだけではないと思う。みなおそるおそるワクチンを打ったのではなかろうか。
2021/10/22
マイナンバーカードは、私たちの前に現れた最初から、
1.何が便利なの?
2.面倒くさい書類を毎度添付しなくちゃならないの?
というふうに、私たち国民の利便のためとは思えなかった。また、信用できない自公政権が進めることやあまりに信用できない大臣のヘタな歌の宣伝にもうんざりした。
2021/10/23
NHK『ドキュメント72時間』「夏の終わりに 駅地下の駐輪場で」
* * *
緊急事態宣言の延長と拡大が決まった。東京など6都府県に出されている宣言の期限が9月12日まで延長され、対象地域に京都や兵庫など7府県が追加された。新規感染者は連日2万人を超え、重症者数は日々最多を更新している。
とはいえ市民の反応は驚くほど鈍い。人々は緊急事態に慣れきっている。ワクチンが普及し死者数が抑えられていることも大きい。街の空気は昨年4月の最初の宣言時とまったく異なっている。
ネットではその状況に苛(いら)立ち、強いロックダウンを求める声が高まっている。分科会でも個人の行動を制限する法整備の必要性が議論されたという。けれども実現は難しいだろう。現状で自粛の要請は限界まで行われている。これ以上の人流抑制を求めるなら、外出したら罰金、県境を越えたら逮捕といった強制力を導入するほかない。現憲法下ではそれは困難だし、そもそも国民が許容するかどうかも疑わしい。いずれにせよ慎重な議論が必要なはずで、喫緊の危機には間に合わない。
ではどうするか。結論からいえば、感染拡大をあるていど許容し、それに耐えるように医療体制を変えるほかないはずである。具体的にはコロナの感染症法上の分類を見直し、より多くの病院が入院患者を受け入れられるようにすべきだろう。医療関係者からは、そうすると命の選別が始まる、医療の質が落ちると反論があるが、これだけ大規模な流行のなか、従来と同じサービスを維持できると考えるほうに無理がある。平時で救えるべき命が救えなくなるのは痛ましい。しかしそれが災害というものだ。
日本はこの1年半、強権的な戒厳令を発することもなく、自粛の「お願い」だけで感染を抑え込み、通常医療を維持してきた。それは世界に誇るべき成果である。けれどもそんな「日本モデル」は、変異株の出現と人々の自粛疲れで急速に機能を失い始めている。
ワクチンも万能ではない。これから新たな変異株も現れるかもしれない。私たちはその現実を認めて再出発しなければならない。行動変容と感染防止が最大の正義だった段階は、もはや終わったのである。
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まず、こんな緊急時の医療体制の構築に直接の責任を負うのは国と地方自治体であり、現場では病院や医療従事者が活躍している。わたしは、そのいずれにも直接の責任が持てないから、普通の生活者の視線になる。だから、現在のような状況では一人でも多くの人がまともな医療が受けられるようにという視点
からの批評になる。この東浩紀は横目でチラくらいしか知らないし関心がないが、その上空からの「批評的視点」は、どうしてこういう現状になったかの認識もなく、口だけの政治家や言ってみるだけの評論家レベルでしかないなと思う。
2021/09/01
わたしは、他の疾病との死亡率の統計比較やこのような学者目線の言葉にはうんざりしている。そこには生身の自分は勘定に入ってない。いまあらゆる考えや言説に必要なのは自分を含めた生活者目線を必ず含んでいること。それ以外は、不毛と頽廃の知識のアクロバットに過ぎないと思う。
わたしは政治に多くのことを望んでいるわけではない。ただ、現在を生きているみんなが非正規待遇や経済格差など社会のもたらす大きな苦痛を受けることなく、それらが是正されできるだけ穏やかな生活が出来ることを望んでいるだけだ。また、対外的には、軍備に頼り過ぎるのではなく外国の人々を手厚く
待遇したりしてうまく付き合う本物の外交に注力することだ。この荒れた社会が今より良くなれば、家族関係も人間関係も少しはましになっていくと思う。後は、社会内のわたしたちひとりひとりの、少しでもより良い関係を織り上げていく日々の努力にかかっているはずだ。これは長い道のりでもある。
2021/09/03
まだまだ武力で相手をやっつけたり、政権を倒したりということが世界では起こっている。しかし、世論調査の政権支持率やバーチャル世界(SNS)での私たちの意思表示が、回りくどくてもある力を持ちうるようになっていると思う。そうして、これは武力と違って非暴力で血を流さない。
2021/09/04
メンタリスト DaiGoの件
彼の文章のチラ見から中身を想像できると確信するが、そんなまがいものの言葉でそんなべらぼうに稼いでいたなんてこの経済社会の仕組みはミラクルだ。あれだけたくさんの本を出してこの世界や人間の本質論を追究した吉本(隆明)さんは裕福どころかそんなに余裕のある生活ではなかったようなのに。
別に彼の所得をあまりうらやましいとも思わない。現在の経済社会の思想と人間観がそんな高額所得を受け入れている。プロスポーツ選手や有名人などが、多くの普通の人々を引きつけることによって、多額の経済的富を生みだしているからだろう。私はそれに異和感はあるが、現在の経済思想・人間観では解決不能だ。
唐突に見えるかもしれないが、毎月6~7万ぽっちではないBI(ベーシックインカム)が必要だと思うな。現在までの人間と社会が生みだした富の再分配、贈与による経済を回す(素人で可能どうかよくわからないけど)。そうした動きは、有名人の数億稼ぐという現在のいびつさも解消していくような気がする。
(名前は忘れていたけどやっとたどりついた。)前のツイート関連でなぜか、江戸後期の歌人橘曙覧(たちばなのあけみ)の「たのしみは」で始まる日常詠を思い出した。「たのしみは小豆の飯の冷たる茶漬てふ物になしてくふ時」高いパンケーキでもいいけど、誰にもこんなものがあるような気がする。
2021/09/06
岡井隆bot @OkaiTakashi_bot
風のなかの羽根を唱(うた)へる軽薄な公爵のこゑに総てが あ、る、の/岡井隆『E/T』 #tanka
2021年9月6日
一瞬、ムイシュキン公爵(ドストエフスキーの『白痴』の主人公)を思い浮かべたが、「軽薄な」とあるから違うかな。いずれにしても、これは日常場面ではない。物語世界の話題か。誰かに語りかけるような歌になっている。たぶん、こういう短歌的な表現は今では見慣れていても、目新しいものではなかったか。
歌集『E/T』は、2001年の刊行。当時はこんな表現もアリなのと、し、ん、せん、ね、だったのかもしれない。この歌の生命は「あ、る、の」にありそうだ。
風のなかの/羽根を唱(うた)へる/軽薄な/公爵のこゑに/総てが あ、る、の
6・7・5・9・7となり、散文的な歌になっている。
ワクチンについていろんな悪情報が流れてくるが、トランピアン(日本の場合は米と違って政治オタク趣味者)の人が流しても信頼できないんだよな。安倍ほどでなくても日常でよく嘘をつく人は、そのような者と見なされてしまうのと同じで、たとえホントのことを言っても信用されない。
しかし、インフルエンザワクチンは受けたことなくあんまりワクチンの世話になったことないけど、今回のワクチン問題は今までになく問題含みだなと思う。みなさん、警戒しながら受けているような印象がある。うちでも、奥さんが済み子どもが1回目済み、その後にしようと思っていた私は少し迷っている。
政治に限らず現在でも組織や集団の縛り(党派性)はきついだろうけど、究極のあれかこれかという場面では、やっぱり根っこの生活者(大衆、市民、住民、国民)を取るという課題は、依然として本質的、状況的課題であると思う。不幸にも孤立した赤木さんだったが、その課題に存在を賭けて答えたのだと思う。
2021/09/07
この名前を見て、読み方もわからず、何の根拠もなく、アイヌ語との関わりがありそうに思った。調べてみたら、白老(しらおい)「地名は、アイヌ語のシラウヲイにより、「虻(あぶ)の多いところ」を意味する。」ともある。虻と言えば、汗に反応するのか、そのまとい付くしつこさはこのうえもない。
2021/09/09
現代短歌bot@gendai_tanka
婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカ強い強い 飯田有子 #短歌
2021年9月9日
この歌の本流は、「婦人用トイレ表示」や「ケンカ」への強い選択性やこだわりと、「きらいきらい」や「強い強い」というリズムに乗った強い感情表現にある。短歌表現として見れば、通俗的に見え感じられるが、57577の枠の拡張や破壊の欲求を秘めているか。いろんな歌人にも出会えるなあ。
2021/09/11
「ワクチン接種と因果関係が明らかな死亡はない」などと自信過剰で、断言調で言う医者などがいるが、単に現在の科学の水準ではその解明ができないということに過ぎない。むしろしょんぼり言うべきこと。接種後の副作用(副反応って何?)はもっとなんとかならないものか。ロシアンルーレットの気分。
2021/09/12
アニメを実写化というのは聞いたことも観たこともある。今初めて目にしたが、実写をアニメ風に変換してくれるソフトがあるんだ、ふうん、映像の自由度の拡大か。ところで、昔なら写真や映像に撮られたらそれは〈事実〉で逃れようもないことだったが、現在では処理や加工の問題も考慮しなくてはならなくなった。
2021/09/13
会話や仕事のために英語を学ばなくてはならない苦役(一部のものには快楽)から、こんならも早く解放されそうな勢いに、わたしは爽快な気分になる。他の教科についても、教育もそろそろ曲がり角で大きな変革が必要な気配を感じている。
細分化の袋小路から、何やら利益誘導を思わせるこの前の大学入試改革(失敗に終わったが)のようなさらなる細分化ではなく、子どもにとっても先生にとっても苦役としての教育からバッサリと、現在において何が最低必要か、そこから教育内容を大改革すべき時期に来ていると思う。
2021/09/13
百日草の名前から、数のことを少し考えてしまった。百日草がどのくらいの期間咲き続けるのか観察した人はいるのだろうか。いくら長く咲き続けるといっても千日草では大げさだから事実関係を考慮して長く咲く花という意味で「百日草」と名付けたのだろうか。
↓
とても長いという意味で千日草と適当に書いたら、千日草(千日紅)という花も実際にあった。今では100といえばきっちり100という数や量を表すが、遙か昔に遡っていけばだんだん「たくさん」という意味の数である100などに近づくのだろう。八岐大蛇、八百万の神、十重二十重(とえはたえ)・・・。
2021/09/22
例えば「勝手踏切」にも歴史的な事情があり、小さな生活道路を断ち切る形で線路を通さざるを得なかったために、「勝手踏切」として鉄道法上と生活現実とのあいまいな形で今に至り、きっぱりと割り切れない現状がある。これは、超未来の銀河鉄道999みたいに上空を走る汽車や車が普通にならないと解決は無理かな。
あるいは、大きな自然災害対策や生活環境対策として、日本列島にいくつか形成される巨大なバベルの塔みたいな都市にみんなが住むようにならないと解決できないのではなかろうか。
2021/09/23
わたしは、人間の誰にも関わる経済(活動)には関心があるが、細分化された経済学のリフレやらインフレやタフレやフレフレなどには興味関心が入って行かない。要するに、現状と違って、わたしたち国民(生活者大衆)を中心に据えた、そのための経済政策を取ればいいだけと思っている。それが判定の基準。
2021/09/24
前回の民主党政権は、自民党の悪しき村政治からの脱却を図ろうとしたのだろうが、一度目でもたついたり党内部のトラブルで沈没した。今度の政権交代ではその負の経験が生かされ国民に開かれた政治を望む。安倍政権以降自民党は法律無視や裏工作やエア政治(やってる振りの政治)の限りを尽くしてきている。腐敗は進行中。
私たちの世界では、わいわいはしゃいだり、寝転んだり、ぼーとしたり、ひとりに思い沈んだり、は普通のことだが、主流にいると勘違いしている多くの政治家や経営者や評論家、学者はそのことを捨象してるのではないか。つまり、狭量な人間把握から合理性や生産性やキャリアアップ等々の諸概念が出て来る
2021/09/25
政権と官僚層とマスコミとの三位一体が構成する日本社会の権力構造を分析して見せた『日本/権力構造の謎』の労作で知られるカレル・バン・ウォルフレンが、陰謀論的な考え方に落ち込んでいるという毎日新聞の今朝の記事に出会った。驚いた。
https://mainichi.jp/articles/20210924/k00/00m/030/174000c
結局、何が問題かと言えば、自分の考え(思想)の拠り所をどこに置くかということの問題だと思われる。例えば、人はUFOの存在を信じUFO世界にのめり込むことが出来る。ちょうど、汽車や電車の趣味に熱中し没入するのと同じように。しかし、人は、具体的に活動し日々生きていくから、その日常世界に帰って行かなくてはならない。
つまり、私たちの日常世界での具体性を伴った感じ考え行動するを無視した抽象的な思考や思想は、部分的にしか成り立たない。陰謀論的な感じ考え方は、日常生活の中ではちょうど大工の息子にしか見えないイエスが故郷で受け入れられなかったと同じようにしか見なされない。
P.S.(付け加えれば、)人類の歴史のなかで生みだし構成してきた〈人間〉というものの有り様は、陰謀論的な感じ考え方と希望や勇気や向上心に満ちた考え方とを両極端として、善も悪もかき混ぜられているその中間のスペクトル帯に小さな善や悪に揺れながらもいい加減になったり真面目になったりして生きて在る、と見える。
2021/09/26
村瀬学さんのホームページに『生命詩文集 織姫 千手のあやとり』(PDFファイル 76P)がUPされていて、無料で読めます。冊子も頒布されるようです。読みたいと思っていた村瀬さんのベーシックインカムについての文(雑誌『飢餓陣営』に掲載されていたのは「ベーシックインカムから存在給付へ」かな?)も
収めてあります。
ホームページ「村瀬学の小径」
http://jidoubunka.com/
子供の絵
伊東静雄
赤いろにふちどられた
大きい青い十字花が
つぎつぎにいっぱい宙に咲く
きれいな花ね たくさんたくさん
ちがうよ おホシさんだよ おかあさん
まんなかをすっと線がよこぎって
遠く右のはしに棒が立つ
ああ野の電線
ひしゃげたようなあわれな家が
手まえの左のすみっこに
そして細長い窓ができ その下は草ぼうぼう
ぼうやのおうちね
うん これがお父さんの窓
性急に余白が一面くろく塗りたくられる
晩だ 晩だ
ウシドロボウだ ゴウトウだ
なるほど なるほど
目玉をむいたでくのぼうが
前のめりに両手をぶらさげ
電柱のかげからひとりフラフラやってくる
くらいくらい野の上を
星の花をくぐって
「伊東静雄詩集」所収 1953
伊東静雄の敗戦後の詩のひとつ。このような詩からは、それ以前の詩(詩集『わがひとに与ふる哀歌』『夏花』『春のいそぎ』)は想像できない。しかし、京都帝大在学中に書いて懸賞に応募し一等当選した童話「美しい朋輩達」―話の概略はわかるけど、今に残ってはいない―と通ずる感性の詩ではないかと思う。
劇場版の『「鬼滅の刃」無限列車編』の公開は2020年10月16日。そして、1年も経たないうちに、それが昨日テレビ放送された。一昔前は4年ほどしてから映画はテレビ放送されていたような印象がある。それが最近では2年くらいになっているなと感じていた。テレビで続篇を放送したり、グッズを販売して
いたり、読者・観客の興味関心をつなぎ止めたいという欲求の表現なのか。その道に詳しくないので、そんな印象で終わるしかない。しかし、この映画版→テレビ放送の時間の短縮は、この問題に限らず、この社会の表層を流れる時間の加速化と連動しているように感じている。
そのような時間の加速化は、学校の子どもの学習意識や会社の仕事においては切迫感をもたらすなどの負の性質もありうるが、ゲームを楽しむような快をもたらす面もある。ともかく、この時間の短縮はわたし(たち)にはありがたい。録画したので、たくさんのコマーシャルをかき分けて近々観たいと思う。
2021/10/01
今の与党政治(自公、維新含む)には否定的関心しかない。つまり、早く消えて欲しいだけである。そうして、悪行の数々が白日の下に晒されて責任を取らされるべきである。そうでないとわたしたちはいつまでたっても〈未来〉に入っていくことができない。
政治が〈未来〉に入るための最低条件は、裏で利害を回し合ったり政争したりする村政治の自民党的なもの(公明・維新含む)を一掃することである。しかも、「保守」なんて単なる退行の別名でしかないものを看板にしているが、安倍-菅によってそれはシン自民党として腐敗の領域にまで進化してしまっている。
この〈未来〉、〈未来〉に入るとは、もちろん、未だかつてなかったこと、すなわち、降り積もった解決すべき疲弊した社会的な諸課題を国民(生活者大衆)中心に解く態勢を築き実行に入ること。口先だけの「トリクルダウン」政治ではなく、国民主権の、国民(生活者大衆)中心の政治に入ることである。
2021/10/02
RT 朝日新聞の記事 HPVワクチンの問題
この問題は、現在進行中のコロナワクチンの「副反応」とも関連する。それをいろんな例示として見る以前には、HPVワクチンの問題は、「副反応」なんてないという医者や医者擬きもいて実感としてはよくわからなかった。ワクチンの有用性は認めるが、問題をオープンにしてていねいに対処する、これが基本
2021/10/05
最近では、テレQで『王になった男』、『王女の男』、『奇皇后』等の韓国時代劇を観てきたが、わが国の時代劇とは違ったものがあり、ハラハラドキドキいいもてなしの作品になっていた。しかも、宮中での激しい権力争いを通して、権力の不可避さと同時に権力というものの悲哀や虚しさも描いている。
『吉宗評判記 暴れん坊将軍』の、将軍が街中を出歩いたり、悪党との立ち回りをするなんてあり得ないことだったろうが、将軍職周辺の窮屈さはあり得たことでそれも作品として匂わせている。国家の最初期を想像すると、長は集落の民とも近く、『吉宗評判記』のような世界に収束していくのかもしれない。
将軍職周辺の窮屈さから連想して、現在でも窮屈さが残っていると思われるのは、天皇家だろう。たぶん、日常生活の中の話し方や考え方や振る舞いにも〈天皇家〉という型(窮屈さ)が浸透したものになっているのではなかろうか。今回の結婚に関してもづけづけ言いたいように言うことはかなわないのだろう。
2021/10/06
数百年規模の長周期の地球の振る舞いから来る寒冷化-温暖化の「温暖化」の問題も、人為が地球に与えうる影響も、今度の新しいワクチンも、自然や自然の一部(人の体)がまだよくわかっていない。自信過剰で大声で主張する者があるが、まだよくわかっていないことに対して謙虚であるべきだと思う。
岡井隆の『わが告白』を読み終えた。短歌・詩(表現)をイメージや幻想となった〈わたし〉の振る舞いとすれば、作者はこの『わが告白』をも詩(機会詩)と見なしたがっているが、これは地上につなぎ止められた地上的な〈わたし〉の有り様を自己対話によってできるだけ偽り少なく捉えようとする試みの書であろう。
この『わが告白』(2011年12月)に触れることによって、岡井隆の短歌・詩の表現がきわめて地上的なモチーフを持ったものとして、人間的な生ま身の姿でわたしたち読者の前に現れていることを、再確認させてくれるだろうと思う。
岡井隆は、若い頃にはキリスト教にも熱を入れ、政治運動にも関わった。歌会始への関わりは、それも古代からの歌の一部だから、そういう世界も見ておこうじゃないか、という考えからと思っていたら、違ったようだ。『わが告白』によると、岡井隆も柳田國男と同様に天皇や皇后に親愛の情を持っていた。
2021/10/11
日本テレビと言えば、最近気づいたこと。夕方の「news every.」で、ニュースなどを報じているときに、聞こえるか聞こえないか位の音量でバックミュージックを流していて、サブリミナル効果を連想してうんざりした。そこまで音響効果にこだわるか。ニュースの内容にこそこだわって欲しいよ。
2021/10/12
美術ファン@世界の名画@bijutsufan
黒田清輝『ポプラの黄葉』1891年 島根県立石見美術館
江戸時代までの様式の美(例えば松の木の描写)からは考えられない描写、表現だと思う。作者の中で時代の変位と対応した思考や美的感覚の葛藤、変位が起こっているのだろう。
2021/10/13
厚生労働省@MHLWitter
A.「ワクチンを接種した後に亡くなった」ということは、「ワクチンが原因で亡くなった」ということではありません。接種後の死亡事例は報告されていますが、現時点で、新型コロナワクチンの接種が原因で多くの方が亡くなったということはありません。
おっとう、自信過剰。現在の科学の水準では関係あるかないかを判断できない、と小声で言うべきではないか。ともかく、今回のワクチンでワクチンはちょっとアブナイものとイメージが悪化した、これはわたしだけではないと思う。みなおそるおそるワクチンを打ったのではなかろうか。
2021/10/22
マイナンバーカードは、私たちの前に現れた最初から、
1.何が便利なの?
2.面倒くさい書類を毎度添付しなくちゃならないの?
というふうに、私たち国民の利便のためとは思えなかった。また、信用できない自公政権が進めることやあまりに信用できない大臣のヘタな歌の宣伝にもうんざりした。
2021/10/23
NHK『ドキュメント72時間』「夏の終わりに 駅地下の駐輪場で」
NHK『ドキュメント72時間』を途中から少し観た。例えば『鶴瓶の家族に乾杯』と比べて、盛り上げようとか何か面白いものを掘り出そうとかいう意図が少ない。ありふれた、しかも言葉に言い尽くせないものを沈めた日常の一コマをインタビューを通してさり気なく浮かび上がらせる。いい番組だなと思う。
2021/10/26
現在でも、○×主義とか△□主義とかあって、互いに対立ししのぎを削っているが、政治(宗教・行政)が小さな集落レベルで始まった太古には当然そんな主義主義はなかった。もし、政治(行政)がほんとうに国民(住民、生活者大衆)のためであるならそういう対立はおかしいが、現在の段階ではそれを抜け出せないでいる。
100年後には、「無党派」が100パーセント近くなり、ということは党派が消滅して政治(行政)が真に国民(住民、生活者大衆)のためのものとなり、政治(行政)を当番のように担当するメンバーが互いに知恵を出し合うようになっているだろうか。しかし、私は100年後を待てない。
2021/10/31
勝海舟『氷川清話』(講談社学術文庫版)をすこしずつ読み、やっと読み終えた。併読だから読むのが遅い。西郷隆盛と勝海舟は、政治的実践家としてともに群を抜いて優れていたと思う。さらに、個人的な生き方としてもともに魅力的な人物である。ひとつ引用。(P341),「畢竟」(ひっきょう)。
「いつかおれは、紀州侯の御屋敷へ上つた帰り途に、裏棚(うらだな)社会へ立寄つて、不景気の実状を聞いたが、この先四、五日の生活が続かうかと心配して居るものが諸方にあつたよ。畢竟社会問題といふものは、おもにこの辺から起るのだから、為政家は、始終裏棚社会に注意して居なければいけないヨ。」
覚書2021.1102
近目には、口では国民(生活者住民)のための政治と言いながら、互いに対立する党派や集団が存在する現在があり、その現状を無視することはできない。たぶんどこへこぼれ落ちるかわからないトリクルダウン政治が相変わらず続いている。与野党の選挙支援活動に関わる人々を全否定はしないが、私はそこじゃないと思う。遠目には、太古の集落の行政の始まりと同様に、対立する党派は消滅し「いやいやでも」誰かが行政を担当しなくてはならないというイメージになる。現在の、優等生風の使命感を持った「好き好き」の議員ではなく、学校の生徒委員のように「いやいやでも」誰かが担当し知恵を出し合う、そういう行政のイメージになる。したがって、二つの目を現在の私において統合すれば、いわゆる「無党派」としていずれの党派にも加担しないという立ち位置になる。加担するとすれば、私たち生活者住民の無言の意志、日々の生活のきぼうのようなものであろうか。
この「近目」「遠目」は、吉本さんの「現在的な課題」と「永続的な課題」ということを意識している。
2021/11/06
現在は、映像の時代で、言葉だけではなんとなく物足りない気分になるような気がする。それを想像力が弱まるとか欠如すると考える向きもあるかもしれないが、この動向は避けられない必然の流れだと思う。いくら想像しても現場の具体性を構成するのは難しい気がする。
今まで韓国の主に宮廷ドラマをいくつか観てきた。今は「ホジュン―宮廷医官への道」を観ている。両班(ヤンバン)という民衆よりも上層の階級がしばしば出てくる。わが国の武家層や貴族層に相当するものか。ドラマで観る限り、階層間の断絶や対立は、わが国よりも韓国の方が厳しかったように見える。
2021/11/07
うーん、現在から見たらそういうことも無視できないと思えますが、例えばスマホ(私は持ちませんが)を通して話すのは直接的な自然の肉声ではありませんね。私たちはずいぶん人工的な自然ver2.0の世界に住みそのことになじんできています。コミュニケーションは貫きつつ形態が変位していると思います。
100年前の写真などで見ることができますが、昔の人はものすごい重い荷物を担ぐことができますね、あるいはそうせざるを得なかったからそうしたのでしょう。現在ではパワースーツなどが補助してくれますね。いろんなところで、旧来の自然性を更新しつつあるように感じています。
例えば「教育」を考える時、馬車馬のような現在の流れや考えを背景に、経験・学習・反復・競争・成果等々自分の考えを組み立てる人々が多いと思うが、自分のいい加減な学校時代や太古の人々のおそらくゆるい時間の中の学びということについて想起してみることは、現在のビョーキから免れる一つと思う。
2021/11/08
私は「マイナンバーカード」は作ってないし、書類はいつもパスしている。「マイナンバーカード」に不審・不信を感じる理由は、制度が出来て何年経つか知らないけど、最初から私たちが便利だなと感じるように作るべきだったと思う。それが逆に何々の書類添付が必要だのかえって面倒そうだった。
つまり、あちら(行政)の都合が中心で私たち国民(生活者)のことを中心に考えていないんだなというのが見え見えだった。今頃になって、健康保険証としても使えるし、ポイントがどうのと言われてもね。馬鹿にしてるじゃないか。
2021/11/09
今(11月3日)NHKが「SDGsをクイズで楽しく学ぶエンタメ番組」を放送している。「SDGs」という言葉を私は積極的に使うことはない。なんか異和感がある。現在の世界レベルの課題を解決しようで良いのではないか。ところで、例えば人間界の公害どころではない人間界を超えた自然界の威力や規模はものすごい。
年間の人間界の二酸化炭素総排出量と自然界のその総排出量(火山の噴火などなど)とはきちんと計算・計量された上で、現在では人間界の二酸化炭素総排出量が勝っていて影響力があると見なされているのだろうか。また、それと関わって自然界の長周期の寒冷化・温暖化という有無を言わさぬ振る舞いもある。
当然のことだろうが、自然界の二酸化炭素排出量も分析されているようだ。
Forbes Japan
「人類による二酸化炭素排出量は「火山の100倍」であると判明」
forbesjapan.com
人類による二酸化炭素排出量は「火山の100倍」であると判明 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)
大気中の二酸化炭素の最大の排出源は人類の活動であることが、学術誌「エレメンツ」に掲載された論文で明らかになった。この研究は各国の科学者500人以上が参加した国際共同研究機関「深部炭素観測(ディープ・カーボン・オブザーバトリー、DCO)」による
2021年11月8日
かと言って、宇宙に浸かっている地球の三百年位の長周期の寒冷化・温暖化という有無を言わさぬ振る舞いと人間界の産業活動(人間力)の影響力と比べものになるのかなという疑念は残る。よく「地球に優しい」とか耳にするが、地球という自然はそういうことに関わりなく生誕から死への道を自然に進んでいく。
2021/11/19
もし、アメリカなどの軍やNPOやNGOなどの世界での振る舞いとその意味・評価を知りたければ、ということは、安易な「力の政治」「軍事力の行使」の無意味さを知りたければ、アフガニスタンに生きて活動した中村哲の言葉、そのアフガン社会の内からの、民衆の内を潜ってきた視線や言葉に学ぶべきだと思う。
中村哲は、西欧的視線につながる、主に1割ほどの都市住民からの女性の権利の主張や教育問題など否定はしないが、それよりも8割の農民と1割の遊牧民の織り成すアフガン農業社会で、大きな干害に難民化していた人々がまずは〈食べて〉〈生きる〉ことに視線を注いでいた。
2021/11/20
「根も葉もルーマー」って何かいなと思ったら、秋元康の作詞した歌「根も葉もRumor」。この歌の中の「僕」は若者だろうから、63歳位の秋元康は、日頃若者世界に深く付き合っていたとしても、想像的に努力して若者になりきっていることになる。英語のフレーズを歌詞に混ぜるのはもう自然になってしま
ったのかな。平安朝なら中国のフレーズを混ぜていたろうか。その英語のフレーズや「根も葉も(ない)噂」でなくてじれったい「根も葉も(ない)Rumor」というのは、若者たちの生の心を飾り付けして舞台に上げる〈衣裳〉に当たっている。そして、「僕」自体になりきってしまうのは難しいことだが、
感触としてだが(「大人になるってそういうことだって思う」や「生々しいキスマークが/君の人生だ」など)、「僕」を抜け出した作者の上から目線も混じっていると思う。
まあ、それにしても若者世界を〈歌い〉続けるのもたいへんだろうな、と思う。
2021/11/25
「オスプレイは扉を開けて飛行することがあり」としても、どうやったら上空から水筒が落ちるのだろうか?ふざけていた?遊んでいた?みらこーみらこー?防衛省@ModJapan_jp などは、毅然として、アメリカ軍の弁明を獲得し私たちに公開すべし。弱腰やムニャムニャばかりではため息しか出ない。
2021/11/26
「地位協定は第1次裁判権が米国側にあると定める」って、「地位協定」も日本側担当者もクソッタレじゃないか。「普天間のオスプレイは13年2月にも」水筒を落下させていたとは、オスプレイは水筒を落下させやすい構造なのか?米軍はアフガニスタンにおけると同様に日本人に対しても上から目線を感じる。
それと、外から島に来た者たちに対する恥ずかしいまでの担当部署や官僚・政治家たち(よく知らないが、外務省や防衛省か)の屈従ぶり。まるで、太古の南洋の島々に見られたようなマレビト信仰。何が軍事だ、力の政治だ、世界戦略だ。外交や軍事や人間社会に対する見識の欠片もない。
2021/11/28
詩はお金にならないとよく言われる。これをしょんぼりではなくてアクティブに理解すると、詩はどこにも遠慮せずに自由に言葉を行使できるということを意味する。おうおう、やってやろうじゃないか。この世界を、そして自分自身をも、白日の下に晒すんだ。みちのイメージが点るまで。
文学では、純文学と大衆文学の無用な垣根が壊れて久しい。「無用な」ということは現在から眺めて言えることである。思想では、知識人・学者などと私たち素人の垣根。・・・たくさんの垣根があったのが、壊れ果てているが、これは産業社会(消費資本主義)がもたらした自然な過程であって、自覚的な捉え返しというわけではない。
人間はもたらされた新たな自然(人工的な自然)との出会いの中で、今までにない深い自然のレイヤと出会っている。コロナワクチンの開発もそのひとつだろう。その過程で、自然とは何か、人間とは何かが新たな表情で浮上し、私たちに問いかけてくる。文学や思想においてもまた。
2021/11/29
創価学会の「財務 」という言葉は「お布施」のことなのか。宗教団体が、政治集団や政党を作って社会も改革してやろうという野心・野望を持たなければ、メンバーの人々は心穏やかにお茶のみ友達みたいにハッピーになれるのかもしれない。生長の家は、前者みたいな日本会議系とそうでないのに分裂しているという。
連合会長発言に
宗教が、経済団体が、労働団体が、社会改造しないとどうにもならないと政治にしゃしゃり出いる。しかし、それはろくなことはない。それぞれが圏内で自己解決できるよう団体としてメンバーを可能なかぎり支援するのが団体の本質だろう。それがとても難しいから、他力本願で政府に頼りすがり、大口を叩くってか?
2021/11/30
米軍側からは「水筒は本来固定すべきだったが固定されていなかった」と説明があり、・・・・・・って、意味わからんね。「固定」は人に?それとも機体に?図解入りで、素人にもわかるように説明してもらわないと。しかも、同様の事故が前回もあったというし。
2021/12/05
オリバーサックスの『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』(1997年3月)を読んでいたら、何十年も盲目の生活をしていた男が白内障手術でだいぶん目が見えるようになったという話があった。ドラマとかでは、目が見えるようになったら感動的な場面だが、そうでもないという。
今までの盲目の自分に合わせて世界を了解していた自分のシステムを、新たに作り替えなくてはならないから、とても大変なことだと記されている。目で見えるからちゃんと物の配置などがすぐに理解できるわけではないという。だから、目が見えるようになって不幸になる人も居たという。
覚書2021.12.08
例えば、現在の糸が絡まりすぎたような複雑な教育の問題や経済の問題を考える時、遙か太古の教育や経済が小さな集落レベルだった頃―それは近代以前まで尾を引いていた―をあれこれ想像してみることは、とても大切だと思われる。現状に凝り固まった頭を少しほぐしてくれると思う。
今、『内藤礼〈母型〉 (神戸芸術工科大学レクチャーブックス)』(内藤礼 、 中村鐵太郎(聞き手) )を読んでいる。作者が自分の作品を設けることで何を考え感じようとしているのか、内からのモチーフが語られていて興味深い。ただ、掲載されている作品の図が少々わかりづらい。現地を見る必要ありか。
2021/12/24
『「ことば」の課外授業』(西江雅之 洋泉社新書)を読んでいたら、ほとんど誰もが遭遇するようなことが2つ書いてあった。
1.たとえば、ロシア語を聞いても、多くの日本人はわからないわけです。ところが、ロシア人がことばで「ナントカナントカ!(どうしてわかんないのかーっ!)」と怒鳴ったら、少しはわかる。パラ・ランゲージの部分は、共通したところがありますから。「怒鳴ってるから、なんかイライラしてるんじゃないか」というように、これは通じますよね。
でも、書かれた言語の場合はわかりません。言語だけでは理解不可能です。(P160 )
(辞書から)
パラ・ランゲージ:話し手から聞き手に伝達される情報のうち、言語以外の情報。話すときの声の強弱や高低、イントネーション、身振りなど。パラ言語。
2.言語とは違って、ことばにはパラ・ランゲージが必ず付きまとう。ですから、たとえばシャンソンを聴いていて、フランス語が一言もわからなくても、通じる部分はいっぱいあります。ヴォーカル音楽というのはそもそも、音色、スピード、声の特徴などといったパラ・ランゲージ中心ですから。
「あれはロシア語で歌っているのだ」とか「わー、英語のジャズは歌もいいなあ」というように、それが言語で歌われているものだということまではわかるものの、その言語的な意味はまったくわからないという場合でも、心に通じてくるものは多いんです。(P161-P162)