短歌味体Ⅲ 入院詩シリーズ

 114首
(2018年02月12日~2月23日) 




  お知らせ
  ―読者のみなさんへ



 あまり風邪ひかないわたしですが、風邪かな?それにしては胸の芯が痛む、今年のインフルエンザかなと思っていたら、なかなか治りそうにもなく一週間後くらいの2月11日の早朝、目覚めたら立っていられないほど息苦しくなりました。近くのかかりつけのお医者さんが連休のため旅行に出ていて不在だったのが逆に良かったのかもしれません。直ちに救急車ー病院へとスムーズに搬送され、手術・処置してもらえました。「急性心筋梗塞」でした。振り返れば、今までに、ちょっとしたことで息切れがしたり、時にはわけもなく胸の芯がもたれるようなこともありました。つまり、心筋梗塞の兆候はあったようです。

 計器やカテーテルなどにつながれたベッド上から、つまりまだ立てない赤ちゃんのような狭い一次元の世界から、徐々に解除されて病室外に出歩くことができるようになりました。なんとかまた、人間界に生還・復帰できそうです。

 うまくいけば、あとしばらくで退院できるかもしれません。退院しても薬を飲み続けることやいろんな制限がありそうですが、今はそれを気にしても仕方ありません。

 退院したら、また表現を再開します。よろしく。
                       (病院の図書室より 2018.2.19)

 病院の案内パンフレットによると、病院内に図書室があり、そこにネットにつながるパソコンがあるということだったので行ってみたら、「医療検索」以外の個人的なメールをするなどはだめですということでした。そこで、そのとき発信しようとした上の文章を生かして、書き継ぎます。

 今日、2月23日に退院しました。自分の家に帰ってきました。ねこ二匹もいつものようにこの時間窓際のダーボール箱に隣同士に入って寝ています。わたしもいつもの生活に少し新しい形で着地していかなければな、と思っています。表現も再開します。また、よろしくお願いします。
                       (2018.2.23)


※ 以下は、入院中に書いた作品です。1日毎にまとめています。


 目次

入院詩シリーズ    掲載日付
入院詩シリーズ・2.12  No01~07 2018年02月23日
入院詩シリーズ・2.13  No08~22 2018年02月24日
入院詩シリーズ・2.14  No23~42 2018年02月25日
入院詩シリーズ・2.15  No43~52 2018年02月26日
入院詩シリーズ・2.16  No53~62 2018年02月27日
入院詩シリーズ・2.17  No63~73 2018年02月28日
入院詩シリーズ・2.18  No74~79 2018年03月01日
入院詩シリーズ・2.19  No80~82 2018年03月02日
入院詩シリーズ・2.20  No83~89 2018年03月03日
入院詩シリーズ・2.21  No90~100 2018年03月04日
入院詩シリーズ・2.22  No101~108 2018年03月05日
入院詩シリーズ・2.23  No109~114 2018年03月06日
『敗者復活の歌』(タテタカコ)のメモ 2018.2.20 2018年03月03日
[ツイッター詩71] (3月詩) 2018年03月04日











[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.12



救急車着いて搬送
病院着へ
強力に変えられていく



テキパキとおちんちんにも
カテーテル
入れられてズキンとモノになっていく気分



わかってはいるさそのリズムの中に
現在の
命の道が苦しげに続く



いくつかの計器につながれて
おだやかな
天気の砂地をゆったり歩む



深く静かな呼吸が
こんなにも
と夢うつつの森の中にいる



ひも付きのアリか我は
三日も
不自由なベッドに身じろぎする



触れてはいけない所に
触れられて
(うっ)してはならない反応の手前に





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.13



ああ、これは立ち上がる前の
赤ちゃんの
浸かっている世界では?



まわりの音が溶けて
響き
時々近く遠く声もする

 註.外も見えないICUにて。


10
大空を飛ぶおばあさん
ホウキ短く
大丈夫かなと見入っている

 註.閉ざされた外も見えないICUから外が見える病室に移って。


11
しばらくすると三つ四つの
漂う雲、
日本列島へトランスフォーメーション


12
心臓くんよろしく頼むよ
ぼくはまだ
この世に未練がアルトリア


13
自分が二人になったり
一人に戻ったり
結婚するのもいいと思うな

 註.外から聞こえる看護師の若い女(こ)たちの明るい声につぶやく。


14
偶然にオメガ星に
一人残される
ことになっちまっても、まあ、仕方ないか


15
大空に雲が溶けだした
ような
晴れ日の夕方近く


16
治療・看護・食事。たくさんの手が
表に裏に
しっかりした仕事が内からわたしを支えている

 註.質素だがあったかくておいしい病院食を食べながら。


17
今時にしてはおいしい
みかん一つ
食べた、帰ったらデコポン食べたいな


18
濁り澄みはあっても内からの
そのせせらぎを
聴けとふと亡き詩人宮城賢が浮かぶ


19
他者を思いみる者は
その沈黙に
耐え湛(たた)えた水量を思へ


20
一人山に薪(たきぎ)取りに
入り込み
帰り道がわからない夕暮れの、おお迷子!


21
きみは全ゆることを
言葉に
白状させようとするヤクザに似てる


22
兄が死に母も父も死に
姉も死に
まだわたしと弟とがこの岸辺にいる





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.14


23
静けさの夜から朝へ
人も部屋も
衣替えしてにぎやかにはじまる

 註.歌人河野裕子を思いつつ。河野裕子は、病床でメモ紙以外のものにまで〈歌〉を書き続けたという。わたしはそこにどこかに述べていた作品を後世に残そうというモチーフではなく、言葉というものに長らく憑かれてきた者の、突き動かされるような熱情を感じるばかりである。




24
管などにつながれて
身動きの
狭い痛いくつろげない


25
明け方に電動ベッド
自分で立て
水一杯飲む、何という自由!


26
六階の病室の
ベットから
見る下界、よお晴れ上がっている


27
やりたいことやれないと
こんなにも
世界はザザザンざらついている


28
自主的なものや場を奪われ
てゆくゆくと
遥か太古の心意に近づくか


29
(おまえは何をしているのだ?)
別に
ただ大空に見入っているだけさ


30
(冷静に眺めれば)現在の医療や看護も
いくつかの
きつい峠を上ってきたのではあろう


31
トーフ屋さんみたいに声出してみる
(あーいうーえお)
ああ大丈夫とほっと息する


32
あそこに頭部分が
見える
遥か昔に通った中学校

 註.夕方近く、窓から外を見ていて。


33
この世界のてつがくを早く
仕上げて
しまわなくっちゃとしみじみ思う

 註.今継続中の『子どもでもわかる世界論』のこと。


34
廊下やどこかの部屋で
言葉たち
が飛んだり跳ねたりしている


35
なつかしい風のように
近くから
流れてきた「ひざぼんさん」

 註.一人住まいのおばあちゃんが向こうの病室で自分の説明で出てきた言葉。


36
人はみな〈物自体〉に
還るまでは
〈物〉になる居心地の悪さに耐えゆく


37
面倒な先々のこと
思いわずらっても
仕方がないその時はその時さ


38
押し寄せるこの重力下
その今・ここ
を歌え、未知も未来もそこに眠る


39
ふだんのネット過多もいいさ
ゆらゆらと
どっかへたどり着くさ、でも今はラジカセ聴いている


40
ベッドに髪の毛散り散り
いつの間にか
羅臼人(らうすびと)からケウス人になったか我は


41
一人住まいのおばあちゃん
病に
足もと掬(すく)われスッテンコロリン

 註.廊下を隔てた向こうの病室から声が聞こえる。


42
不穏不安と煙立つ
山梅村
明日は知らぬが今宵は静かに眠れ





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.15


43
見慣れた街の光景
雨に煙り
われと共に乗る列島の舟


44
偶然にいま・ここに・いる
と思うこともある
銀河系の舟の方から眺めれば


45
いま・ここの重力下
われらは
様々な自由度の視線の層を持つ


46
若い女(こ)らの笑い声が
聴こえてくる
どんな職場でも笑い声はいいね


47
ここから斜面の森を
下ってゆく
言葉の樹木が表情を変える


48
行き止まりは見えない
そこに立って
見渡せない、言葉の森は


49
小さい子カタカタを押しながら
揺ら揺ら
バブバブ言葉をなめ回している


50
「パリは燃えているか」聴くと
胸キュンと
涙が滲む、見知らぬ老女の不幸によろめくもまた

 註.「パリは燃えているか」(加古隆)


51
新聞もテレビも見ない
いいさ
それくらい、ロクなもんじゃねえ!

 註.ラジカセを病室に持ってきてもらった。


52
『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』
一冊。
やっと よみはじめる

 註.この本は、吉本さんつながりでずいぶん昔に知ったが、とても高価な手の出ない古本だったと記憶する。昨年に手頃な価格の文庫版で復刊された。太古について知るには興味深い三巻本の一冊。






[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.16


53
ふと夜中に目覚めて
(人生はまぼろしのよう)
と耳に残る言葉を無言でつぶやいている


54
(銀河系の無限遠点からは
無数の明暗の
つぶつぶにしか見えない)が思い浮かぶ


55
そんなことを思っても、また
今日も
この足下から世界ははじまるさ


56
今日はくもり空でも
わたしの
心の空は静かな晴天


57
初期CD三巻を病室(へや)で
十数年ぶりに
聴く、やっぱりいいなタテタカコ


58
にぎやかな抽象の
すべすべでなく
心の肌合いにぴったり音が添う

 註.タテタカコの『そら』『イキモノタチ』『敗者復活の歌』の三巻。よしもとばななつながりで聴き出した。




59
いくつもの検査を乗り越え
今日もまた
ほっと一息つく夕暮れ


60
家々の明かり点々と
向こうの
薄闇に浮かぶ午後七時頃


61
内から見たわけじゃないけど
夕食や
テレビ観てるか金曜の夜


62
心はつながりの糸に
ふと足引かれつつも
ひとり病室(へや)を歩き回っている





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.17


63
朝日受け向こう川沿いに
茶色の
建物が静かに立っている


64
わが妻はその建物に
今日の昼
叔父の四十九日に一人向かう

 註.叔父は、わたしの母方の兄弟で、最後の一人。昨年末に亡くなった。


65
車が入ってくる
操る人の
表情が車の顔に出ている


66
ストッパーなく車たち
一つ一つ
デコボコおしりに並んでいる

 註.六階のわたしの病室から地上前方の駐車場を見て。


67
前、枯草の川から飛び立ち
右、小山の先へ
飛んでゆく白い鳥四羽、遅れて一羽


68
病室(へや)の外にはまだ出れない
ので中を
歩き回っている(リハビリ兼ねて?)


69
こんなにも晴天なのに
ベランダに
出て日差しのシャワーを浴びれない


70
人はみな不可逆性の
時間道(みち)を
折れ曲がりしながら前進する


71
病室(へや)に居て晴天の日浴び
風に触れ
人気(ひとけ)ない川原道を心は歩む


72
人つながりの小社会
の磁場に
ぐいぐいぐいと人は病に倒る


73
123 323 546 332
人知れず
心足踏む謎のリズムがある





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.18


74
病気を忘れてしまえば
すっかり
休暇に見える一週間後


75(連作1)
鳥、川原。大気を蹴って
飛び立つ
視界がぐーんと上がり広がる


76(連作2)
旅、言葉。言葉の内側へ
降下する
鳥の目・肌となって目印付けていく


77(連作3)
水、時間。いくつかの水の
層を成し
染み出してくる年輪の異なる言葉たち


78(連作4)
分析、味読。自らを試薬
と変じて
染み出すものに触れ味わう


79(連作5)
鳥川原旅言葉水時間分析味読の旅

 註.太古の天皇の称号を真似して。





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.19


80
ライトつけた車たちが
アリさんみたいに
行き交っているくもり日の七時前


81
わたしもまたアリさんみたいな
渦中にいた
今は一時(いっとき)のアリさん休暇


82
小型の心電図計も
はずれて
やっと身一つ自由になった





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.20


83
意味もない言葉に反応
してるって?
ただね、言葉の滑り台をすべってんの


84
みんなわけわからんでも
赤ちゃんとは
ことばのしりとりやりとりえーる


85
どんな言葉にも据えてある
お尻席
そこを一番に占めたらラッキーさ


86
うまくいけば退院真近
と告げられて
春の新芽の大気に触れる


87
現在(いま)でも春の日差しは
肌に触れ
心かき立て新芽ふくらむ


88
リハビリの自転車こぎ
10分間
足ダルいに始まり慣れ終える

 註.昨日のリハビリのこと。


89
今日は5分伸びて
15分間
不整脈なく足も胸も耐えきる





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.21


90
窓ガラス隔て静かな
朝の景色
動いているのは車だけでなく


91
雲が所々明るい
今日も
晴れ上がるか朝七時過ぎ


92
普通がとっても新鮮に
匂うなあ
と思いつつ朝ごはん食べる


93
見慣れた部屋に何か
置くだけで
ちいさな新鮮が漂い出すよ


94
そうだねえの道を下ると
見知らぬ人
どこかなつかしい顔で現れる


95
少年のはにかみの雲は
次第に
晴れ間と共に散り散りゆく


96
心のかかとを気にしながら
慣れない
靴で入ってゆく未知の部屋


97
小さい頃やったきりの
天気占い
はずしちゃったな 今日は曇り晴れ


98
二筋のヒコーキ雲が
大空に
消え残っている夕暮れ近く


99
しばらくして大空は
平然と
いつもの顔に戻ってしまった


100
人はいつも遅れて出会うか
まったく
すれ違ってしまうことがある





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.22


101
今日もまたリハビリ・ジムの
コナミの
バイクこいでどこに行こうか


102
眠った家々の下を行き交う
ライト付けた
車たち冬の早朝

 註.少し開く窓から手を差し出して早朝の寒さ感じて。


103
今日は晴れそうだ
その大空に
二羽の鳥たち午前七時


104
この世のこまごまは誰もが
内側から
ジタバタモクモク潜り抜けていく


105
人の静かな深い湖
靄(もや)に包まれ
言葉はそこに通じている


106
言葉には口に出しても
わからない
ことがあり、ただ表情の立つ


107
音楽は表情
みたいに
心のうねり引き連れてくる


108
病室暮らしにも慣れ
慣れて
もうすぐ〈新人〉として立ちゆく





[短歌味体 Ⅲ] 入院詩シリーズ・2.23


109
家の内動き出していても
遠目には
まだ眠っている家々朝七時


110
忘れ去るだろうとしても
この朝の
(ごはんおいしいなあ)と一人つぶやく


111
忘れ去っても良いも悪いも
深層流
のようにどこか巡り巡るか


112
幼時より積み重なりの
深層流
人知れずわが内を流るるか


113
病院の内をゆらゆら
少しばかり
泳いではぱんと飛び出る魚のよう


114
晴れの日に気恥ずかしさを
携えて
玄関を出て退院を踏みしめる












 『敗者復活の歌』(タテタカコ)のメモ 2018.2.20



 十年ほど前、よしもとばななつながりでタテタカコの「ワスレナグサ」だったかを聴いたのがはじまりだった。それから、『イキモノタチ』『そら』『敗者復活の歌』三巻を手にしていた。いい歌だと思った。それがどこから来るのか、音楽素人のわたしにはよくわからなかった。ただ今思うのは、タテタカコ自身が作詞作曲していることもあり、また、どこか中原中也風のふんい気もあるその詩の内容も関わるが、その〈言葉〉を〈音〉に乗せる〈声〉の質の固有さではないかと思うようになった。今度入院して、手持ち無沙汰にタテタカコのCDなどを持ってきてもらった。十数年ぶりに繰り返し何度か聴いた。静かなふんい気が欲しいときには、わたしが買ったのではないが、大江光の『新しい大江光』を聴いた。

 忌野清志郎の歌を初めて聴いた時も、ツッパリ学生同様の外国風のカッコつけたロックの歌い方が多かった中で、その〈声〉が彼の固有なものをびんびんと感じさせて驚いた覚えがある。

 例えば、『敗者復活の歌』の6曲目に「冒涜」という作品がある。作詞作曲は作者タテタカコである。その作品の歌詞の一部を取り出してみる。


いっそのこときっぱり
それらを断って 見開いて目を

高い空を見てた
高い空は見ていた



 この作品のモチーフは病める心の問題であろうが、この歌のモチーフは問わないとして、詩などの言葉の芸術と音楽との違いについて少し考えてみたい。

 引用の末尾2行で、作品中の「わたし」は、「高い空を見てた」のだろう。そして、そういう状態の「わたし」、あるいは「わたし」を含めた下界全体を神の視線を思わせる「高い空」が見ていることが明かされる。もし、この歌を言葉の作品、詩と見なすならばそういうことになる。読者は、作品の言葉を読み進めていくことによってそのような概念やイメージを受け取り、自らの内にある感動と共に思い描いていく。もちろん、作品の言葉の読み取りに失敗して何も生き生きとイメージできない時もある。

 ところで、音楽的な表現者としての作者タテタカコは、この2行を次のように歌っている。(生で聴いてもらったがいいけど、引用の仕方がわからない。)

 (たかーーいそーーらをーーみーーてーーたーー)
 (たかーーいそーーらはーーみーーてーーいたーー)


 音楽の観客は、言葉の読者と違って、自然音ではなく、作者の固有性が付加された心的な音の選択・転換・構成によって導かれる音の道を、自身は音の耳や音の身体に変身してそれらを共鳴箱のようにふるわせながらたどっていくのだろうと思う。ともかく、この盛り上がる部分を歌うタテタカコの大きくふくらむような〈声〉は、特にいいなと思った。

 昔、NHKテレビで、中国の辺境の地だったと思うが、若者が結婚相手を見つけるためにはるばる歌垣のような場に出かけて、そこでなんとか自分がいいと思う女性と出会って自分の村にその女性を連れて帰る場面があった。途中道端に腰掛けて、その若い女性が若者に対する思いをたぶん即興の歌にして歌っていた。おそらく、今の歌や詩の始まり辺りは、このように言葉の詩と音楽としての歌が分離されていなかったろうと想像する。我が国の平安朝でも、歌合せというものがあり、歌は盛んに歌われていたようなのだ。

 現在では、音楽の歌に比べて詩は格段に廃れたもの、マイナーなものになってしまっている。また、音楽的な表現と詩(言葉)の表現とは、まったく別物のようになってしまった。もちろん、両者に橋を架けようとする試みはいろいろとなされているだろうが、本質的なものではないような気がする。音楽の方からはよく知らないが、詩の方から音楽の方へは、詩の朗読とかあるようだ。

 いずれにしても、詩は、心的な言葉を励起する音楽の力強さに憧れ、音楽は詩の表現の高度さに憧れているのかもしれない。そして、現状では両者は平行する世界を歩んでいる。







  [ツイッター詩71] (3月詩)   ※入院中にほぼ書き上げた詩


太古に
迷妄という名の出店が出ている
店からの視線には
空は青々
水は清流を成し
山々は深く
人々の心は自然の内にまどろんで見えるらしい

また別の出店もあり
縄文海進や海退のデータより
照準を絞っている
植生や自然環境のデータも加え
当時の人々や集落に
像を絞ってゆく
ただ人々の心模様は見えていない

遅れて
別の旅人も現れる
(この太古の人々が
迷妄ならわれわれも同じだ)
というお札を握りしめ
いくつもの
集落を訪ね歩く
空模様と心模様の
きつく関わり合う地平を
ひそかに追ってゆく

(何ものかを切り捨てた)
(現在の科学では)
(太古の科学も)
(太古の人々の心ー身も)
(現在の人々の心ー身も)
(十全にはわからない)
(依然として(いや、いつの時代もかもしれない))
(わからないことが入口だ)

旅人は
わからないという旅装を背負い
わからなさの時間の地層へ入っていく
霧が出ている

時間の流れを下ってゆく
「日本には天皇がいっぱいいた。
あちらにもこちらにもいた。
大和の天皇も、諏訪神社の
大祝(おおほり)天皇も同格だった。」(註.1)
(そうだろう だが今はそのことではない)
むろん現在から忍び込む固定イメージ
は遮断して
旅人は影の集落を歩き回る

近代以来の
サド・マゾのデカダンス遊びでもなく
自然との必死の関係から
生み出された
祭りの日の植物霊(人)殺し
それは特攻死とも同じ呪(まじな)いなのだ
それはまた柳田国男が書き留めた
柿の木に実を付けぬなら切ってしまうぞ
と言ってちょっと傷つけるのと同じことかもしれない
それを迷妄と呼ぶなら仕方がない
けれどそれは
現在の
人と人 家族 国家の残虐と同様の迷妄なのだ

太古の人々の
厳しい母なる大自然の残虐に
駆け引きするほかなかった
哀しい知恵
そこから集落で
俺が俺がと上り詰める者
神々が切り貼りされる詐術
現在と同じような
精神風景が広がる

時間を瞬時に超えて
帰還する
旅人は
現在をも旅する者だ
テレビから流出する
歌も芸能もスポーツもにぎやかだ
(別にどうでもいいけど
人々が受け入れているのなら
そりゃあそれでいいさ)
(わからない 太古のマス・イメージ、そのつながる実感が)
(わからない 現在のマス・イメージ、そのつながる実感が)
(肌感覚の)
(無意識的な)
(歌い 踊り はしゃぎ 悲嘆にくれる
マス・イメージの根っここそが)
(そこには人類の)
(起源からの)
(母型の闇がどんよりと漂っている)
(ような気がする)


(註.1)
『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』(P17)











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