子どもでもわかる世界論 Q&A




 ※「子どもでもわかる世界論」の終わり近くになって、それを書き上げたら、以下のようなQ&Aをやろうと思いつきました。まだ終わっていませんが、Q&Aを始めて見ます。これはまったくの不定期になります。



  目 次

 項 目  掲載月 
Q30 わたしたちが昔のことを調べる時に注意すべきことは何ですか。(Q27再び) 2021.04.24
Q29 人間の生きる意味とは何ですか 2020.06.06
Q28 生涯現役の人はどんな生活をしているのでしょうか。 2019.08.18
Q27 遙か昔のことを想像したり考えたりする場合に、注意することがありますか。 2019.04.28
Q26 書き言葉の文字というものは、始まりにはどんなものだったのですか。 2019.04.13
Q25 人間の一生は100年程度なのに、なぜあくせく働いたり研究したりするんでしょう。 2019.04.04
Q24 勉強が出来ることは良いことですか? 2019.02.16
Q23 ずっと昔の人のものの考え方を知りたいな。 2019.02.04
Q22 何のために勉強するんですか? 2019.01.15
Q21 人はなぜ服を着ているのですか? 2019.01.11
Q20 人には他人に伝わらないなあというようなことが時々あります、これはどこから来るのですか。 2018.10.09
Q19 パソコンや電子辞書やスマホなどの新しいものが登場すると、人々の心に享受と反発との相反する反応が起こります。これは何でしょうか。 2018.09.07
Q18 人には目立ちたいという面と目立ちたくないという面との相反する二面性があると思いますが、どちらが人の本当の姿ですか。 2018.07.20
Q17 絵や詩の上手下手というのはどういうことなの? 2018.06.03
Q16 考えを巡らせていると時々自分が生きてることやこの世界がとてもふしぎだなと思います。 2018.05.24
Q15 人間の幸福とは何だと思いますか。 2018.05.02
Q14  スポーツや芸術のプロとアマチュア(玄人と素人)について、それらはどう違うのですか。 2018.04.03
Q13 わたしは食べないわけではないけど、肉を食べることに少し抵抗があります。それはどうしてだと思いますか。 2018.03.05
Q12 死は怖いものだと感じてしまいますが、どう考えたらいいのでしょうか 2018.03.01
Q11 当事者と部外者、文学や映画作品を作る内側と外から鑑賞する者、一般化すると内からと外からとの見える風景の違いの問題は大切だと思います。どう考えますか。 2018.02.25
Q10 人は年齢によって見える世界が違ってくるのではないかという気がします。本当はどうなんでしょうか。 2018.02.09
Q9 現在では至る所に「監視カメラ」(防犯カメラ)が設置されています。 それは悪事を心理的に抑制する効果があるとは思いますが、気にするといつもどこかから自分が見張られているようでちょっと気持ち悪い気がします。どう考えたらいいのでしょうか。 2018.01.14
Q8 お葬式や法事で、大人たちは読経しているお坊さんに合わせて自然に「なんまいだぶ」とか手を合わせてつぶやいているのに接すると、子どもであるわたしはどうしたらいいのかとまどいます。どう考え行動したらいいのでしょうか。 2018.01.08
Q7 自由とはなんですか。  2017.12.24
Q6 古代人の考え方は今とどう違いますか? 2017.12.23
Q5 深刻に悩んでいる人に対して、「大自然の雄大さに比べて人間はなんてちっぽけなんだ。だから、そんなことくらいでくよくよするな。」というような慰め方があります。理由ははっきりは言えないけどそれに少し異和感を持っています。どう考えますか? 2017.12.12
Q4  人はどうして遙か太古のことを想像できるの? 2017.12.03
Q3 人類はアフリカ起源で、アフリカを出て各地に拡散していったと言われていますが、その様子はどんなものだったの? 2017.12.01
Q2  大自然を見ると人はなぜ感動するの? 2017.11.15
Q1  太古の自然環境はどんなだったの? 2017.11.12











 項 目
Q30 わたしたちが昔のことを調べる時に注意すべきことは何ですか。(Q27再び)

子どもでもわかる世界論へ Q&A  Q30


Q30 わたしたちが昔のことを調べる時に注意すべきことは何ですか。(Q27再び)

A30

 これは、現在でも十分に自覚されているようには見えませんが、過去のことを調べようとする時にどうしても現在の自分のものの感じ方や考え方の自然さから過去のことを見てしまうということです。もちろん、例えば代々受け継がれてきている日本人の精神的な遺伝子のようにいくらか形を変えながらも過去と現在を通して共通する部分もあるでしょうが、社会の仕組みや産業の構造などが違う以上ものの感じ方や考え方が違っています。だから、現在の自分のものの感じ方や考え方が絶えずすべり込んでこようとしますが、それを脇に置いて、できるだけ過去の出来事や遺物や記録などを便りに、過去の世界の人々のものの感じ方や考え方そのものに近づくことが大事です。

 それは、現在と過去という時間的なものですが、空間的に隔たっている同じ現在を生きている者同士でも、わたしたちが他者の行動や考え方を理解しようとする場合にも、同様のことが起こります。すなわち、わたしたちは、知らず知らずの内に自分の境遇やものの感じ考え方で他人の行動や心の内を推しはかってしまいがちだということです。

 そんな中にも、過去の姿そのものをていねいに描き出そうという人々もいます。民俗学者に吉野裕子(ひろこ)という人もそんなひとりです。古代の日本人の心や意識の有り様を残された祭りや風習や遺物を通して類推し、いくつかの基軸を設けてそれをていねいに確認し考察していきました。以下に引用する『日本古代呪術―陰陽五行と日本原始信仰』の「序章 古代日本人における世界像と現世生活像」に次のように述べています。入口の部分のごく一部ですが、引用してみます。


 1 古代日本人の特質

 古代日本人は、ものごとを考えるとき、それを日常身の廻りにいつも見ることの出来る現象とか事物にあてはめて考えようとした人々であった。それはつまり「連想豊富な、擬(もど)き好き」な人々ということになろうか。
 彼らにとってもっとも身近なものは、彼ら自身、つまり人間そのものであり、人間以外では太陽、及び地上の動植物であった。そこでこの天象・地象・人象の類推から物事を考えていったのである。
 したがってその信仰も、その信仰から生み出された神話も、祭りも、大洋の運行と人の生死、植物の実りと枯死などからの連想類推にはじまり、その「擬き・なぞらえ」に終っていると私は思う。

 古代日本人における人間
 それではまずその人間とは彼らにとってどういうものだったのだろう。
 生命の始まりについては今日においても判らないことが余りにも多いが、古代の人にとっては更に大きな謎であった。
 しかし人間が生まれてくるまでのおおよそのことと、生まれて来た新しい生命体にしてやらなければならないことは少なくとも判っていた。
 人が生まれるまでの大体のこととは、男女両性の交合したある時点から生命は母の胎内に芽ばえ、定着し、二百七十五日間、狭く暗く、音も光りも届かない締めつけられるような暗処のこもりに耐えて、時が至れば嬰児の形をとり、水にのって誕生する、ということであった。
 そうして裸形で生まれ、しかも休みなく鼓動をつづけるこの生命体に対して、この世で迎え取ったものたちが、まずしてやらなければならないことは、食べさせること、着せることであった。こうして育くまれ、成育して成人するが、成人したその時はまた親と同じように働き、親と同様に子供を残して、いつかは死んでゆく。
 この世にやって来たものはその来た元の所に必ず帰る。来た所に去ってゆく。それが人間というものであり、この世の習いなのだ。彼らによってとらえられた人間像はこのように単純明快なものであったと思う。
 (『日本古代呪術―陰陽五行と日本原始信仰』P15-P16 吉野裕子 講談社学術文庫 2016年)
 ※この単行本は、1974年5月刊。



 また、本書の末尾には『日本古代呪術―陰陽五行と日本原始信仰』要旨として、以下のように述べています。


 一 私見日本原始信仰
 天象における太陽の運行、地象における植物の枯死再生、人象における人間の生死、等から類推して古代日本人は神の去来もまたそれらになぞらえて考えたと推測される。
 太陽は東から出て西に入る。そうして「太陽の洞窟」をくぐって翌日は再び東から上る。
 植物は秋、結実して枯死するが、その実は冬、穴倉に収蔵され、春、土中に播種(はしゅ)されれば再び発芽する。新生の前には暗黒、狭窄(きょうさく)の穴とか土中のこもりがある。
 人間も東方の種を象徴する男と、西の人間界、畑を象徴する女との交合により、暗黒、凶作の胎(はら)の中に定着した萌芽は、その穴の中に未生(みしょう)の時を過さねばならない。
 太陽にも植物にも人間にも、新生という現象の直前にあるものは、穴であり、この中にある期間、こもることなしに新生は不可能なのである。
 太陽の洞窟からの類推によって、古代日本人は、神にとっても、人にとっても、常世(とこよ)という他界からこの世へ、この世から常世への輪廻(りんね)に欠かせないものは狭く暗い穴と考えた。この穴にこもっては出、出てはこもる、その循環・輪廻が神の去来の本質であり、祭りの原理であろう。輪廻及びその輪廻の中枢にある穴、それが日本原始信仰の中核と私は考える。
 (『同上』P291-P292)



 最初に引用した文章は、『吉野裕子全集 第1巻』(人文書院 2007.1.25)の「祭りの原理」(1972年刊)の第十章「古代日本人における世界像と現世生活像」では以下のようになっています。刊行年からすると、こちらの方が古い文章です。


 1 古代日本人の特質

 古代日本人の特質は何か、と問われれば、私は「連想豊富の擬(もど)き好き」とこたえたい。彼らは抽象的な思惟を苦手とし、ものごとを考えるとき、それを日常身の廻りにいつもみることの出来る現象、事物にあてはめて考えることが好きな人々であった。彼らにとってもっとも身近なものは、彼ら自身、つまり人間そのものであり、人間以外では太陽、及び地上の動植物であった。そこでこの天象・地象・人象の類推から物事を考えていったのである。したがってその信仰も、その信仰から生み出された神話も、祭りも、大洋の運行と人の生死、植物の実りと枯死などからの連想類推にはじまり、その「擬き・なぞらえ」に終っていると私は思う。


 「彼らは抽象的な思惟を苦手とし」という部分が最初の引用文にはありません。これは日本人はものごとを抽象的に考えることが不得意ということで、抽象的な思考は中国やヨーロッパから輸入して活用してきたということを意味しています。著者の『日本古代呪術―陰陽五行と日本原始信仰』という本の題名も、古代日本のものの見方(呪術)は、古くから日本に形作られてきた「日本原始信仰」と古代中国から借りてきた「陰陽五行」が接合されてできているということを示しています。付け加えれば、この日本人は「抽象的な思惟を苦手」ということは、日本を中国や西欧などと比較した上で出て来る言葉だから、この時の著者は外からの眼差しで、わかりやすく言えば反省的な眼差しで日本や日本人を見ていることになります。

 最後に、引用文にわたしの註を付けておきます。

1.最初の引用文中の「生命は母の胎内に芽ばえ、定着し、二百七十五日間、狭く暗く、音も光りも届かない締めつけられるような暗処のこもりに耐えて」ということは、母胎の外から胎児の生活の有り様を窮屈なものとして想像したものでありますが、実際のところはそうだろうかと疑問に思いました。つまり、わたしたちと同じように自由さもあれば窮屈さもあるような生活ではないかと思われます。現在では、母胎の中の胎児の様子を超音波診断装置などで見ることができるようになりました。それで、胎児の生活の様子も次第に分かってくるものと思います。

2.最初の引用文中に、「しかし人間が生まれてくるまでのおおよそのこと・・・は少なくとも判っていた。」とありますが、日本の古代辺りではそのことは言えるかもしれません。しかし、それ以前は、海辺などで霊魂が女性に入り込んで妊娠するというような説話や神話の記述があります。すなわち、後世から見るとまだよくわかっていなかったということになります。説話や神話は、当時の考え方を反映していますから、それらを検討する中から人々の考え方の大まかな変化の足跡をつかめるでしょう。


 項 目
Q29 人間の生きる意味とは何ですか

子どもでもわかる世界論 Q&A Q29

Q29 人間の生きる意味とは何ですか

A29

 現在のわたしたちにつながる人間が登場する前には、最初の生命体から続く途方もない時間があります。現在までの知見によれば38億年くらい前に生命が発生したと言われています。現在の人間につながるホモ・サピエンスの出現からは約20万年が経っています。この年月の中で、自然に埋もれるようにして生きている植物や動物と違って、自然から抜け出し内省することができるようになった人間が、自分たちはなぜ生きているのかという問いを持たなかったとは考えられません。そうして、現在に伝わっていないと言うことは、その問いに対する答えが出せなかったということになります。

 わたしたちの現在でも、「人はなぜ生きるのか」という問いに対するはっきりした答えを依然として持っていません。文明が発達し始めた人類の歴史時代から数えても数千年が経っています。それなのに、「人はなぜ生きるのか」という問いに対する明確な答えがないということは、問いの立て方自体に問題があるのかもしれません。

 自分自身や周囲の世界に気づきはじめた人間の始まりにおいては、慈愛と猛威を併せ持つ大いなる自然に対して、人間界はほとんどなす術もなくちっぽけなものであったのは確かでしょう。そこから、自然を壊したり作り替えたりする人間社会の諸活動が、地球環境を左右するのではないかと思えるまでに人間界は大きなものとなってきています。現在の地球温暖化問題は、数百年規模の大きな時間スケールでの地球の周期的な振る舞いという面もありますが、一方では人間界が地球環境を左右するほどの力を持ってしまったのではないかという人類の新たな段階を示しています。こうして、そのことと対応するようにわたしたち人間は遙か太古の大いなる自然に対する劣等意識から現在では優位に立っているという意識に変貌してきています。これは大いなる自然に対する人類の謙虚さの喪失にと見ることができます。

 人間界、人間社会の内部では、時代によって異なる文化や価値観があり、それと対応して、人が人間社会で生きていく価値や意味のようなものも生み出されてきています。例えば、明治期の「立身出世」と現代の「多様性の個の実現」などのように時代の価値観の変貌と並行して変化していきます。この人間界だけに限定し、さらに現在に限定すれば、「人はなぜ生きるのか」という問いと答えは、それらの例のように一般的なものとして成り立つように思います。ただ、それは人類の歴史を通した人間の生きる意味ではありません。

 人間界を超え、大いなる自然を含めて、すなわちわたしたち人間を取り巻く全世界で「人はなぜ生きるのか」という問いを考えてみます。そうすると、先に述べた問いの立て方自体に問題があるのかもしれないということが浮上してきます。まず、わたしたち人間のこの全世界におけるあり方を振り返ってみます。

 例えば、ネコでも、今頃の季節の今時はこの辺りにねそべるのがとってもいい感じだなと判断し振る舞っているように見えることがありますが、植物も動物も、一般的にはこの世界(自然)に溶け込んだような、いわば自然性そのもののような生活をしているように見えます。ところが、人間はなぜかそういう自然性そのものの生活を、いくぶんかは保存しながらも抜け出してしまいました。植物や動物は、自然に包まれて無自覚に生きていますが、人間は自然に包まれて生きていたこと、生きていることに、気づいてしまいました。そうして、その気づきとは、人間存在の絶対的な受動性ということです。わかりやすく言えば、人はこの人間界に個として集団として人生の充実を目指して生きているように見えますが、大いなる自然を含めた全世界から見れば、人間はこの大きな世界から生かされている受け身的な存在に過ぎないということに気づかされるということです。この人間存在の絶対的な受動性ということが、「人はなぜ生きるのか」という問いの立て方を不可能にしている理由だと思われます。人は、なぜ生きるかの前に、この世界から偶然のように生かされているからです。現在までの諸学問の知見を踏まえると、わたしたちの生きるこの世界、この宇宙は、人間が作り出したものではなく、まさしく神が創造したとでも言うほかないようなもので、人間の登場以前からすでにあったものです。

 しかし、それでも、わたしたち人間は、その「人間存在の絶対的な受動性」や命の短さを沈黙の内で直観的に感じ取って、この人間界でできるだけハッピーにいい感じで毎日を過ごしたいなと思っているように感じられます。もちろん、わたしたちは、日常のこまごました生活から抜け出して、人生や社会や宇宙のことを考えることがあります。また、若い頃は特に精神的にも遠くを目指しがちです。しかし、わたしたちを取り巻く世界の重力の中心は、日々のこまごまとした具体的な生活を指しているように感じられます。そうして、その日常世界の喜怒哀楽に一喜一憂して日々を生きています。それでいいのではないかとわたしは思います。

 わたしたち人間は、日々「人間存在の絶対的な受動性」の光を微かに浴びながらできるだけハッピーにいい感じで毎日を過ごそうとしているように感じられます。そのことは、この憎しみや争いや裏切りなどの悪を依然として抱えている人間世界で、人の理想や人間社会の理想のあり方を心の奥底で追い求めながらわたしたちは日々生きているということです。それはまた、「人はなぜ生きるのか」の答え―とりあえず人間界での答え―にもなり得るような気がします。


 項 目
Q28 生涯現役の人はどんな生活をしているのでしょうか。

子どもでもわかる世界論 Q&A Q28

Q28 生涯現役の人はどんな生活をしているのでしょうか。

A28

 のんびり暮らしていても、生きていること自体が「生涯現役」と見ていいとわたしは思いますが、何かに専門的に打ち込んでいるという普通の意味で考えてみます。

 若いあなたでも途中で亡くならなければ、誰でもいつかは老人になります。現在はおじいちゃんやおばあさんとは別居して生活している核家族も多いようですが、あなたがおじいちゃんやおばあちやんと同居した生活をしているなら、その生活の様子もいくらかはわかるかもしれません。あなたと同世代でも老人世代でも、人それぞれ違った生活の様子があるでしょうが、人は世代によってある程度の共通性はあるように思われます。子どもであれば、学校の時間や勉強内容やクラブ活動などに大きく左右されている生活でしょう。子育て世代の若い夫婦の世代であれば、日々の生活は仕事と子育てで慌ただしく、幼稚園などの送り迎えなど子どもの世話が大きいでしょう。

 ところで、老人の福祉増進とその社会参加を促進することを目的として1963年に制定されたという「老人福祉法」は、65歳以上を「老人」としているそうです。それによればわたしも「老人」に入りますが、あんまりそんな意識がありません。現在では、「老人」の定義自体があいまいになっているような気がします。昔なら、仕事を引退した60歳位を「老人」と見なし始めていたような気がしますが、寿命も延びてきた現在では、退職しても仕事をする、あるいはせざるを得ない「老人」も多く、あるいは、趣味やボランティアに力を入れている人もいるでしょう。こういう人も普通の意味での「生涯現役」に入ると思います。体がいうことを聞かなくなったとか、病気になって寝たきりになると、普通の意味の「生涯現役」からはずれることになるのでしょう。

 65歳以上を「老人」と見なせば、ろうじんは昔より多様な生活のあり方を取るようになりましたが、その老人の生活の共通性として想像できることは、仕事を引退している人であれば特に、その生活を流れる時間はゆったりしたものであろうということです。仕事に就いている人なら、ゆったり流れる生活時間とは十分に言えないでしょう。だから、老人の生活としてひとくくりにすることはできません。

 ここで、前回も取り上げましたが、「老人」となった白川静さんの場合をその本から紹介して、学者としての生涯現役の姿を見てみます。


 白川でございます。今日は天気予報では天気のほどもどうかと案じておりましたが、しばらく持ちこたえてくれまして、幸いに非常にたくさんの方にお越しいただきまして、たいへんうれしく存じております。
 文字講話を始めてからちょうど六年半になります。私が八十八歳のときに、二十回五箇年の文字講話の構想を研究所でお話ししましたときに、皆さんから大丈夫かということでございましたけれども、幸いに二十回を無事に終えました。なお余力がありそうだというので、会員の方から動議を出されまして、もう一年継続せよということでございまして、私もちょっと年をとっておりましたから、神様にご相談をして、もう一年ということでお許しを得まして、今日がその最後でございます。
 この「続文字講話」一年四回のテーマとしまして、私は「甲骨文と金文」という主題を出しました。「甲骨文について」では、殷王朝のことをお話したい。「金文について」では、西周三百年の歴史をお話したいという予定をいたしました。第一回は「甲骨文について」、殷王朝、神聖王朝としての殷王朝のお話をいたしました。それからあと二回「金文について」、西周期に入りまして、草創期における初期の金文、中期の礼楽制度の備わった時代の金文。そして今日は後期の西周の社会が、大土地所有的にも非常に発展をし、非常な盛運を示すとともに、内部矛盾が増大してついに滅びるという、その最後の段階についてお話するつもりでいたのです。しかし本日は、随分たくさんの新たにおいでになりました方もございますので、この「続文字講話」前三回分の概括をお話しながら、本日の主題に入るというふうにいたしたいと思います。
 「甲骨文について」と題しましては、だいたい殷王朝のお話をしたのですが、古代王朝の条件として、まず天地創造以来の神話をもつこと、その神話の展開のなかに、自らの王統譜を位置づけること、これが二つの大きな条件です。これは古代の神聖王朝の要件であるといってよろしい。したがって、夏(か)の王朝はその神話体系を伝えておりませんし、周の王朝は単なる先祖の説話しか残っておりません。神話としての天地創造の時代から王朝の成立にいたる、そういう壮大な世界を神話化したものはもっていません。それをもっているのは殷王朝だけです。そしてアジアにおいては、おそらくそれに匹敵するほどの規模の神話と王統譜をもつものは、わが国だけです。つまりわが国の神話、古代王朝というものは、神聖王朝としての殷の国家とたいへんよく似ているのです。いろいろの点において共通するところが多い。ただ非常に違うところは、文字をもつか、もたないかということです。文字をもつということは、これは実は容易ならんことであって、世界の各地で文字がそんなにたくさん、いっぺんに出てくるものではありません。・・・中略・・・
 中国では甲骨文字というものがある。日本には文字はなかった。文字があるということと、ないこということの間には、非常に大きな落差がある。それは歴史的に確実に記録にとどめるというだけでなくて、文字が本来は神と交通する手段であったということから、そういう神聖王朝の内部構造が全然かわってくるわけです。絶対に神聖な、神権的な国家であるという自覚が、そういうことを通じて生まれてくる。わが国においては、だいたい殷王朝と同じような成立をもつにかかわらず、いわゆる王統譜というものがそれほど神聖化されていないのです。これは[古事記]をご覧になるとよくわかります。
 (『文字講話 甲骨文・金文篇』P144-P146 平凡社ライブラリー 2018年)
 ※第四話「金文について Ⅲ」 2005年7月10日 文字文化研究所主催


 白川静さんは、1910年4月9日生まれで2006年10月30日に、つまりこの最後の講話の翌年に96歳で亡くなられています。本人が亡くなられた後からのわたしたちが白川静さんに向ける視線では、亡くなる近くまで学問研究を続けられていたことになります。白川静さんの日常の生活についてはわかりませんが、年に4回程度の「文字講話」を続けられていて、その準備も考えると、白川静さんは生涯現役で学者として生きた人のように見えます。「もう一年継続せよということでございまして、私もちょっと年をとっておりましたから、神様にご相談をして、もう一年ということでお許しを得まして、今日がその最後でございます。」というあいさつの言葉には、自分の寿命もそう長くはないかもしれないという意識が表れています。とは言っても、どんなに歳取っていてもいつ死んじゃうかということは誰にもわかりません。

 わたしには、白川静さんの業績の良し悪しを十分に評価することはできないのですが、そのあくことなき漢字の具体的な研究の積み重ねから中国の王朝の構造や特色、文字の持つ意味などを考察し続けてこられたように感じられます。さらに、ずいぶん時間の開きのある殷の国家とわが国の古代国家(大和朝廷)とが、文字を持つか持たないかの違いがありつつも、「古代的な神聖国家として壮大な神話体系をもち、王統譜をその継続の上におくという点において、基本的に同じ」という共通性があったと述べています。また、文字(漢字)は、「本来は神と交通する手段であった」という文字の興味深い起源についても語られています。(このことは、Q26で引用したの『呪の思想―神と人との間』(2002年9月)でも語られています。)

 この白川静さんの生涯現役の姿は、Q25で触れた次のような吉本さんの次のような言葉に共鳴するものがあります。


で、ぼくは五十いくつだから、もう幾年生きるのかわかりませんけれど、しかしやっぱり死ぬまではやるでしょう。じぶんの考えを理解してくれる人が一人だっていなくても、やっぱりそうせざるをえないでしょう。人間とはそういう存在ですよ。ある意味じゃひじょうに悲しい存在であるし、逆説的な存在であるし、人間のなしうることといったら、無駄だと思ったら全部無駄なんだよ、でもそうせざるをえないからそうするんだよ、それが人間の存在なんだよ、というのはぼくなんかのいつでもある考え方ですね。


 人は、どう生きようと自由だと思います。年老いても、何か気分いいことを探し求めたり、時折は心の深みでこの世界で生きる意味を感じ取るようにして日々を生きていくのではないでしょうか。先に述べたように、わたしはこの世界に生きて在ること自体が、「生涯現役」だと言いたいような気がします。そうでないと、障害を持って寝たきりのような生活をしている人をそれは包み込むことができないような気がします。


 項 目
Q27 遙か昔のことを想像したり考えたりする場合に、注意することがありますか。
 
A27

 それはひと言で言えば、現在からできるだけ手ぶらで遙か昔に出かけていくことです。それは、実行することはとても難しいことですが、わたしたちの視線にくっついて来る無意識的に身につけて自然な感じになっているものの感じ方や考え方をできるだけ脱ぎ捨てることです。そうすれば、次のような現在とは違う状況に出会うことができます。


梅原 『詩経』というのは全部歌ったのですね、楽譜があった訳ですね。
白川 そうそう。
梅原 楽譜はあったんですけど、言葉だけ残ったということになりますね。


白川 孔子の時代にはね、『詩経』という形のものはないんです。楽師伝承の時代であった。
梅原 ああ、そうですか。歌を伴って伝わっていた。
白川 そういう風にして楽師が伝承しておる。前にも申しましたが、孔子も弟子に教える時にね、「詩に曰く」(引用者註.「詩に次のように書いてある」の意味)として教えることは絶対ないんです。孔子の弟子たちになるとね、「詩に曰く」というて『詩』を引用しとる。だからこれはもう文献時代に入る。
 (『呪の思想―神と人との間』梅原猛・白川静 P221ーP222)



 この後の部分で、孔子は『詩経』の詩を歌っていたということが、示されています。『詩経』は、古代中国の詩を集めたものですが、孔子以後のその弟子たちの頃やわたしたちの現在では、漢字ばっかりで書かれている詩になってしまっています。だから、わたしたちが日本語訳された『詩経』の詩を読むときには、それが孔子の頃にはまだ歌われていたということはなかなか想像できるものではありません。

 このようなことは、わが国の和歌(明治以降「短歌」と呼ばれます)についてもあります。現在では、短歌は、声に出さずに黙って作ったり、黙読したりということが主流になっています。しかし、平安時代にはよく「歌合(うたあわせ)」が催されています。『ウィキペディア(Wikipedia)』の「歌合」によると、「講師(こうじ)」として、「歌合の場で歌を読み上げる役。読み上げることを披講(ひこう)という。披講は左方を先に行う。平安時代は左右それぞれにいたが、のちに一人となった。現代では特に置かないことが多い。」という説明があります。当時は、少なくとも「歌合」では和歌は声に出して読まれていたようです。これはおそらく、古代になって文字が普及しても、それ以前の話し言葉だけの時代の名残として歌(和歌)を声に出して歌う(読む)ということから来ているように思われます。

 また、江戸時代(幕末)ですが、1811年、日本(松前藩)の役人に捕えられたロシア海軍のディアナ号艦長ゴロウニンの『日本俘虜実記』( 講談社学術文庫)に次のような描写があります。


* 日本人は殊の外読書を好む。平の兵卒さえも、見張りのときもほとんど休みなしに本を読んでいる。しかし彼らの読み方はいつも、歌うように声を伸ばして音読し、我が国で葬式のとき、聖書の中の詩編を唱えるのに似ているので、大変に耳障りで不愉快であった。慣れないうちは夜も眠れないことがあった。日本人が好んで読む物は、およそは日本の歴史物か、近隣の諸国との紛争や戦争を扱ったものである。これはみな日本で印刷したものである。日本ではまだ印刷に鉛活字を使うことを知らず、堅い木の板に著作を彫るのである。
 (『日本俘虜実記 下』P17)


* 日本人は文字を書くのに二種類の書法を使う。一つはシナの書法で、それはあらゆる言葉が個々別々の文字で表される。日本人の話ではこの文字は、およそ千年以前にシナから摂取したものである。したがって物の名称はシナと日本では、発音は全然違っても同じ文字を使って書く。この書法は、程度の高い著述や公文書や、その他一般に上流階級の書簡の中に使われる。も一つの書法は日本のアルファベットによるもので、日本には四十八文字あって、平民はこの文字を使って書く。日本ではどんな身分の低い者でも、この文字を使ってものが書けない者はいない。だから我が水兵四人のうち誰も文字が書ける者がいないと知ると大変に驚いたのであった。
 (『日本俘虜実記 上』P121)



 この兵卒の音読する読書ということは、藩校などの音読教育から来ているものと思われます。しかし、それはさらにどこから来たかと想像すれば、断定はできませんがおそらく古代以前の書き言葉のなかった時代の声に出すということにつながっているような気がします。また、古代以降漢字仮名交じり文が普及してもそれは知識層が中心であり、普通の民衆は、歌でも物語でも声に出すということを長らく続けていたように思います。また、ゴロウニンの証言によると、少なくとも幕末頃には民衆はひらがなの文字を使って文章を書いていたようです。わたしは次のような文章を見たことがありますが、幕末から明治にかけては、知識層は漢字カタカナ交じり文も書いていたようです。なお、上の「四十八文字」とあるのは、「いろは歌」にあるひらがなで、現在では「五十音」が使われています。

 この問題を、「現在の遙か遠くのことを想像したり考えたりする場合に、注意すること」と見ることもできます。現在において、遠く離れた風俗や習慣も違う外国の人のものの感じ方や考え方を理解しようとする場合や、あるいはこの同じ列島社会に住んでいても違った家族の中で育ってきた他者を理解しようとする場合にも同様のことが言えますね。良いことでも、あるいは事件や戦争などの悪いことでも、すぐに判断を下すのではなく、その前に相手を慎重に調べてみることが大切です。


 項 目
Q26 書き言葉の文字というものは、始まりにはどんなものだったのですか。

A26

 わが国では、話し言葉だけで書き言葉のない時代がありました。その段階では、今より記憶力が良かったろうと想像します。もちろん、歌うように、リズムを付けたりして覚えるのに工夫もされていたと思います。

 中国から漢字を借りてわが国の書き言葉は始まりました。たぶん相当の苦労をして漢字をわが国のそれまでの言葉(倭語)につなぎ合わせて、最終的には現在のような漢字仮名交じり文を生み出しました。これらに携わった人々は、もちろん、知識や文化に関わる上層部分の人々です。以下にも引用する『呪の思想―神と人との間』の中で、白川静さんはそのような一連のことに関わったのは渡来人の百済人ではないかと述べています。


白川 ところが、おそらく、百済の人が日本に来て、日本語と漢字との関係ということからでね、百済読み出来ん訳ですね。日本では、全部音読してしまうか、分解して読むか、という以外にないのです。百済的な手法が取れん訳ですね。
 日本へ来た人たちが、まだ日本の人では文字はもちろん使えませんから、彼らが皆、「史(ふひと)」としてね、かなり後まで、文章のことは全部彼らがやっておった。日本人は参加していませんからね。だから、彼らが漢語にも通じ、日本語にも通じ、それを折衷してね、日本語に適合する方法として、読むとすれば日本語読み、訓読ですね、これを入れる他にない訳です。だから、本当の訓読を発明したのは、僕は百済人だと思う。

梅原 そうでしょうね。

白川 それで、日本にやって来ても、帰化しているから、「史」ですね、この「史」が何代も、その職を継いでいますね。だから、例えば応仁朝にやって来た百済人の子孫が、雄略朝にあの稲荷山や江田船山の鉄剣銘を書いていますわね。あれなんか、日本式の漢文です。古い資料を見てみると、それで朝鮮式の語法も入っとるんです。
 朝鮮の漢文というのは、ちょっと癖がありましてね。例えば「八月に」という時に、「八月中」と書く。それから、「何々死せり」という場合に、それでもう終わりの言葉は要らんのですけどね、文末に「之」を付ける。そこに「之」を付けるような漢文はないのです。ところがそういうね、百済式漢文の癖があるのですね。この百済式漢文の癖が、推古朝のものであるとか、それから、初期の色んな文章に残っている。例えば近年、太安麻呂の墓碑が出ましたわね、あれにやはりそれが付いとる。「中」と「之」が付いとる。

梅原 そうですね。

白川 あれは百済人が書いているのに違いないんです。だからね、日本人が漢文に習熟したというのはよほど特殊な場合か、或いは律令制が近付いた時、これはまあ、全国的にね、木簡で色々、通達や記録をせんなりませんからね。だから、そういう書記官の養成が必要であっただろうと思う。その時に、日本人が学習を始める。それで近江朝の頃には、貴族階級の中でも、漢詩文もね、下手ながら作ることになった。もちろん立派なものは作っていませんよ。『懐風藻』なんか見ても、やっぱり天武以後にならなければね。
 (『呪の思想―神と人との間』梅原猛・白川静 P68ーP69)



 言葉には現在では話し言葉と書き言葉があり、それ以前には話し言葉しかありませんでした。さらにそれより遙か以前には例えば赤ちゃん言葉に例えられるような言葉のようなものがあったでしょう。現在から見れば、言葉(話し言葉も書き言葉も)は、何かを指し示す面とある気持ちを表に出したい面との二重性を持っているというように捉えられています。しかし、そこには書き言葉の始まり頃の言葉(文字)へのイメージは含まれてはいません。太古の文字、漢字がどんなものだったか、どんなイメージが込められていたかについて、漢字の成り立ちなどの研究の第一人者である白川静さんに聴いてみましょう。


白川 神聖王朝というと、そういう異民族の支配をも含めて、絶対的な権威を持たなければならんから、自分が神でなければならない。神さまと交通出来る者でなければならない。神と交通する手段が文字であった訳です。
 これは統治のために使うというような実務的なものではない。神との交通の手段としてある。甲骨文の場合、それは神に対して、「この問題についてどうか」という風に聞きますが、神は本当に返事をする訳じゃありませんから、自分が期待出来る答が出るまでやって、「神も承諾した」ということにして、やる訳です。


白川 エジプトのヒエログリフでも、ピラミッドの中にしかありませんね。王さまの墳墓にしかない。だから文字というものは一般の現実的な業務には使ってない訳です。
 それは神であった者が地上に王として君臨して、また神に戻られた、その神に対する色々な連絡の方法として、文字が使われている訳ですから、エジプトでも本来は、文字そのものは神との交通の手段であった。
 中国では祖先を祀(まつ)る時にも、祀る器物に文字を入れて祖先に告げる。そういう風なことを、殷代にはやっています。

梅原 しかし現代人は文字というのは人と人との交流手段と考えますからね。神さまなしに、文字を使ってますから。そういう目で古代をみると全く間違う訳ですね。

白川 人と人との交通の手段はね、後の竹簡・木簡の時代になります。それはいわば伝票ですね。時代はずっと下ってしまいます。
 (『呪の思想―神と人との間』梅原猛・白川静 P29、P32-P33)



 「神と交通する手段が文字であった」と言われています。それが、次第に「人と人との交通の手段」として「現実的な業務」にも使われるようになりました。また、白川静さんの漢字の本を見ていると、漢字も最初の複雑なものからしだいにすっきりしたものに切り整えられていきます。今では想像できませんが、文字が神に関わるとても尊い大事なものとして扱われていたことが語られています。それはたぶん、普通の人々の生活世界から遊離した政治や知識世界でのできごとだったように思われます。だから、今では単なる文字にすぎなくなってしまいましたが、最初期の普通の人々は、文字を神々しいものとして受けとめていたと想像されます。(注.1)

 最後に、わたしのメモを記しておきます。話し言葉でも声の高低やリズムを付けて神(世界)への呼びかけや対話ができるはずですが、なぜ文字が生み出されてしまったのでしょうか。文字が生み出されたのは偶然としか言いようがないかもしれませんが、世界の各地でいろんな文字が生み出されていることを考慮すると、人間というものがそういうものを生み出してしまう必然のような性質を持っているからでしょう。文字というものを生み出すきっかけとしては、「壁画」や亀甲などに線を描いて焼いて占いをしていたことなど、つまり外に形ある物として生み出すということが、あったかもしれません。


 (注.1)
 わが国でも文字を神々しく意識した例が以下に語られています。

 吉本 僕はそういう問題で、最近、沖縄の学者さんが書いた方言札という表題の、要するに、その学者さんの文章を読むと、日本本土では、ただ言葉だけで言霊(ことだま)といっていたんだけれども、沖縄では、それまで文字なんてあまりなくて、筆記ができるようになる初めだろうと思いますが、中国の漢字が文字として入ってきたときに、文字どおり文字を書いた紙を祀って拝んだりしていたという。本当に神様扱いにして、文字を奉って拝んだりしていたんだという研究が書いてあって、へーっと。
 日本本土では言霊というぐらいで、折口(信夫)さんは、女の人に言霊をつけたくて手紙をやって、女の人もまたそれをつけ返したら恋愛が成立するんだみたいな考え方だと思います。そういう言霊が、手紙とか相聞の歌とか、文字としてできるものだと折口さんは考えているけれども、沖縄の人は漢字を書いた紙をまつって拝むということを本当にやった。
 (「超人間、超言語」P161 吉本隆明・中沢新一対談 「群像」2006年9月号)



   項 目
Q25 人間の一生は100年程度なのに、なぜあくせく働いたり研究したりするんでしょう。

A25 

 人は、ふだんは気にも留めなくても、時にはふとそういうむずかしい疑問の穴に落ち込むこともありますね。ものごとを感じ考え捉えることにおいてわたしがもっともすぐれている人と見なしている吉本隆明さんは、鎌倉仏教の浄土真宗を始めた人と言われている親鸞の現在的な捉え直しをされています。つまり、親鸞の考えたことが現在にも通用することを明らかにしました。以下は、『最後の親鸞』(吉本隆明 1976年10月)以後のことに触れた講演(講演日時:1977年8月5日)の「質疑応答」部分です。あなたの疑問に対するひとつの解答になっています。ちなみに、吉本さんは2012年に八十七歳で亡くなられましたが、「ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。」ということを実践したと思います。吉本さんには『生涯現役』(洋泉社 2006年11月)という本もあります。


――愚となって老いた親鸞を捉えたいとおっしゃいましたが、それじゃもう一方で、「唯信鈔文意」とか「一念多念文意」とかを書き写して田舎の同朋に送るといったことを、親鸞は、体力がつづくかぎりやられたとかんがえてもいいとおもいますが、そのことと、老いぼれた親鸞とをどのように理解すればよいのでしょうか。

 先ほどは、親鸞教団にとっての最大の危機に対して、親鸞は、どうしてもそうせざるをえなかったんだということを、強調しすぎたかもしれませんが、そういうことがたいへん重要なモチーフではないでしょうか。じぶんの考えを直かに述べてもいいんだけれども、それよりもじぶんの先達の文章を書き写して、これを読んでよくかんがえてくれという云い方をときどきしていますけれども、それが大きな要因じゃないかなとおもわれます。
 それからもうひとつは、教育という意味あいを、そうせざるをえなかったのだという不可避性の問題としてかんがえれば、それは教育なんでしょうけれども、しかし生きざまだから、願望だからわからないけれども、ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。それは説きたいとか、教育したいとかというのとはちょっとちがうんですよ。しかし死ぬまでは、できるならばちょっとでも先へ行きたいよ、先へ行ったからってどうするのと云われたって、どうするって何もないですよ。死ねば死に切りですよ。死ねば終わりということで、終わりというと怒られちゃうけれど、ぼくは終わりだ、死ねば死に切り、何にもないよ、ということになるわけです。それじゃ何のために、人間はそうしなくちゃならんのと云われたら、人間とは、そういうものなんだよ、そういういわば逆説的な存在なんだよ。つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。そういう存在じゃないんだろうかということが、親鸞に「唯信鈔文意」とか「自力他力事」とかを書き写しちゃ弟子たちに送るみたいなことをさせたモチーフじゃないでしょうか。それがぼくの理解です。いわゆる教育ではありません。誰ひとり、じぶんの考えを本当に理解してくれる人なんていなくたって、それはそうせざるをえないんですよ。つまりそうせざるをえないというのは、何の促しかわからないけれども、そうせざるをえない存在なんですよ。だから親鸞もそうしたんでしょうというのがぼくの理解の仕方ですね。あなたのおっしゃったことに対するぼくの答え方はそうですね。で、ぼくは五十いくつだから、もう幾年生きるのかわかりませんけれど、しかしやっぱり死ぬまではやるでしょう。じぶんの考えを理解してくれる人が一人だっていなくても、やっぱりそうせざるをえないでしょう。人間とはそういう存在ですよ。ある意味じゃひじょうに悲しい存在であるし、逆説的な存在であるし、人間のなしうることといったら、無駄だと思ったら全部無駄なんだよ、でもそうせざるをえないからそうするんだよ、それが人間の存在なんだよ、というのはぼくなんかのいつでもある考え方ですね。
 (吉本隆明 講演「『最後の親鸞』以後」の「質疑応答」部分より、『〈信〉の構造』所収 P323-P324)



 わたしたちは、毎日の生活で一生懸命ですが、時にはふとそのようなことや「なぜ勉強しなくてはならないのだろう」と思うことがあります。たぶん、毎日の生活で嫌なことがあったりして精神的に疲れている場合にそのような問いかけをしたりするようです。また、人の生涯の中では一般に、社会に全面的に出て行って人と関わり合う以前の青年期にはそのような問いかけをいろんなことについてしがちです。時々あなたのように日々の自分を振り返るような問いかけもしたりしますが、しかし人類は、自然の世界に対抗して人間世界を生み出し高度なものに積み上げてきましたが、一人一人にとっての世界は、毎日の小さな身の回りの世界に世界の中心がある、重力の中心がある、というふうにできているように思われます。まだ若いあなたには、そのことは一見、ささいなこと、つまらないことに見えるかもしれませんが、そこにこそ世界の中心があるということが、歳を重ねる毎に徐々にわかってくるだろうと思います。


 項 目
Q24 勉強が出来ることは良いことですか?

A24

 この「勉強」ということは、現在の学校教育の中のことですね。この「勉強」と違って「学び」ということは、赤ちゃんから老人まで人間に一生付きまとう大切なものです。

 結論から言えば、勉強ができることは、スポーツができる、音楽ができる、文学ができる、などなどと同じくあんまりたいしたことはないと思います。もちろん、学校の中や音楽仲間の内では、それぞれできる人を見れば「すごいなあ」とほとんどの人が思うでしょう。しかし、そのような「すごいなあ」の背景には、人がこの現在の世界の精神的な大気を呼吸して、人に染み込んでしまった社会的な価値観の存在があります。しかも、それは重たい自然なものとわたしたちに染み込んでいます。さらに言えば、遙かな太古の時代には、神の気持ちがわかり神と交信できると思われた巫女さんなどがカッコいいというかすごいというか、そういう風に見なされた時代があったろうと思います。それは現在の芸能人やスポーツ選手などに対する意識と同じものだと思います。

 「勉強が出来ることは良いこと」という言い方には、そこに価値を置いていることになります。そしてそこから言えることは、意識しているかどうかは別にして、学校の勉強が「できる」から「できない」に渡る序列のピラミッドを認めていることになります。さらに言えば、そういう人間観に基づいた視線をあらゆるものに向けていることにもなります。しかし、学校の「勉強が出来ること」を価値とする考え方は、人間世界内部のさらに小さな世界でしか通用しないものです。つまり、人に一生付きまとう学びということは別にして、勉強ができることは、人の生涯の中で赤ちゃんや幼児期、老年期などはほとんど関係ありません。また、人類の長い歴史の中で、現在のような過激な「勉強が出来ることは良いこと」という考え方や風潮は、近代以前なかったはずです。明治近代以前は、物わかりが良いことや学問ができることは良いことだろうという漠然とした考え方だったろうと思われます。

 明治時代からの近代的な学校教育制度の始まりと深まりによって、現在では「勉強が出来ることは良いこと」だということが、若者たちひとりひとりに鋭く植え付けられたり迫られたりするようになってしまいました。そのようなことを考慮してみると、学校の勉強が出来るできないということは、人間が持ってしまった自然な能力を十分に開花させるかさせないかにすぎないという風に捉えた方が実際に沿ったもので、ふさわしいと思います。勉強に力を入れる子は勉強ができるようになったり、勉強に重きを置けないで遊び中心の子は勉強の手を抜きがちになって勉強ができないようになりやすいと思います。「勉強」は子どもの生活の一部に過ぎませんから、誰もが勉強第一となるわけではないところに勉強ができる・できないの分かれ道があるように見えます。このように「勉強病」とも言うべきがんじがらめの「勉強」に対する考えを、人間全体の中に解き放ち解きほぐして気分を少し楽にしてみることは大切なことです。

 現代では、進学を中心とした教育制度や社会の要請などにより、「勉強が出来ること」は「良いことだ」ということが過剰に意識させられたり意識したりするようになってしまいました。二昔前までは、心臓中心の世界観でしたが、現在は頭や神経網中心の世界観になってしまいました。これ自体は避けられないことだと思いますが、病的なまでに頭中心の考え方が、現在の「勉強が出来ることは良いことだ」に出ていると思います。

 社会に出て仕事に就(つ)くと、学校の勉強ができたことや頭の良し悪しはたいした問題ではなくなります。それよりもいろんな考え方やふるまい方をする人々の中での人間関係で周囲とうまくやれることの方が大事なります。

 最後に、学校で勉強していることについてひと言。
 今までの勉強は、ものの考え方の訓練を含んでいたとしても、中心は「知識」を獲得することだったと思います。そして、その知識をいかにたくさん身に付けたかや要領よく知識を獲得することが「勉強が出来る」や「頭が良い」ということでした。
 わたしは持ちませんが、スマホなどの小型の情報機器がずいぶん普及していて、スマホ1つあれば地図や調べ物やメールのやり取りなどができるようです。つまり、まだまだそういう勉強になっていませんが、ただでさえ覚えることが時代とともに増えていくのだから、スマホやパソコンで調べれば判ることはわざわざ丸暗記しなくても良いというようになっていっても良いと思います。現在の教育の中には、忍耐の修行に過ぎないようなことがずいぶん残っていると思います。


 項 目
Q23 ずっと昔の人のものの考え方を知りたいな。

A23

 「ずっと昔の人のものの考え方」は、現在のわたしたちにも形を変えたりしながら受け継がれて残っているかもしれませんが、知るためにはずっと昔にさかのぼって調べてみるほか方法がありません。
 Q6に、「 古代人の考え方は今とどう違いますか?」と挙げたことがありますが、具体例を挙げてみましょう。 1943年頃書かれた、わが国の火の歴史をたどった柳田国男の「火の昔」という文章に、次のような言葉があります。


 以前の人たちには、自分があかりなしに夜道をあるくことがつらいので、眼に見えない神様でも霊でも、すべてが同様だろうという考え方があったとみえまして、干魃(かんばつ)の神や虫の神を送るのにも火を焚(た)いたように、盆に遠くから家の御先祖が帰って来られるのにも、松明をともして迎えなければならぬという心持が普通でした。それが盆の火というものの起りであり、そうしてまた家の外で焚く火の中の、いちばん大切なまた美しいものとせられていたのであります。
 東京の真中でもつい近い頃までは、麻幹(おがら)のわずかばかりを迎え火・送り火といって、盆のあとさきに一度ずつ、門口で燃やしていました。田舎ではこの火の美しさを喜ぶ心持も手伝って、大変数多くかつ熱心に焚き続けております。盆の迎え火を焚くときには、関東・東北の田舎でもまた山陰地方の村々でも、どこでも同じような言葉を子供たちがとなえていました。
   じいさんばあさん
   このあかりで
   おでやれおでやーれ
 盆が終って精霊(しょうりょう)の帰られる時にも、「このあかりでおいきやれおいきやれ」と言いました。コノアカリという文句がもうわからなくなって、今ではこの火を焚く儀式の名を、コナカリといっている所もあります。


家々の精霊送りはそれほど有名でもなく、むしろ淋しいものでありましたが、やはり必ず食物を包んでお土産とし、また松明の火をともして、「また来年もお出でなさい」と言って送っております。詳しいことはまだ判っておりませんが、我々日本人は御先祖の霊が、毎年日を定めて高い所から、来られるという信仰を持っていたようであります。それゆえに送る時はとにかく、迎える時はきまって高い所に道案内の火、つまりは航海の燈台のようなあかりを上げようとする習慣が古くからあったわけです。
 (「火の昔」盆の火 P215-P216、P218『柳田國男全集23』ちくま文庫)



 昔からの祭りは現在でもいろんな地域で行われています。社会状況の変化により、祭りの形が修正されたり一部削られたりということはあるかもしれませんが、遙か昔に人々が考えて生み出した祭りの形は受け継がれて来ています。上に書かれている「盆に遠くから家の御先祖が帰って来られるのにも、松明をともして迎えなければならぬ」ということはわたしも耳にしたことはあります。柳田国男は、祭りの形を調べる中からわたしたちの先祖は神や精霊も自分たち人間と同じく道をたどる灯りが必要であり、「食物」も必要だろうと思ったと書いています。現在の合理的な考え方にずいぶんなじんでいるわたしたちには、そんな馬鹿な、幼稚なと思われるかもしれません。しかし、そういう迷信や非合理に見えることは、過去の人類が確かに歩いてきた精神の足跡であり、現在でも残っています。
 
 例えば、わたしたちは、墓の前で手を合わせたり墓に花や水や飲み物を供えたりしています。太古には、人は死んでもまた生まれ変わるという「輪廻転生」(りんねてんせい)という考え方が普通だったようですが、人は死んだら終わり、物質に帰るというのが現在の一般的な理解でしょう。しかし、それだけでは割り切れないもやもやのようなものが誰にも残っていて、そういうところから昔の人々の考えたそのような形を現在でも守っているのでしょう。もし、人は死んだら完全に終わり、物質に帰る、ただ残された人々の心の中にだけ生きるということが、人々の全体的な主流の意識となってしまったら、墓の前で手を合わせたり、墓に花や水や食べものなどを供えることは終わるような気がします。それが終わったとしても、死んだ人を弔(とむら)うということがなくなるわけではないと思います。人類は、次の大きな意識の段階に移っていくのでしょう。


 項 目
Q22 何のために勉強するんですか?

A22

 まず、そういう疑問が湧いてくるのは、たいてい現在の勉強に疲れていたり勉強が嫌になったりしている時ですから、あなたは勉強に疲れているんでしょうね。そういう時には、学校の勉強なんて将来社会に出てもほとんど使わないと聞いたことがあるし、勉強は社会に出ても役に立たないようだと思うなど、マイナスの札ばかりを集めてしまいます。そして、野良猫がのんびり日なたぼっこしているような姿を目にするといいなあとうらやましくなるかもしれません。しかし、野良猫さんにはきびしい外での生活をしているという面もあるんですよ。

 勉強というものを学校でするものに限らなければ、人はほとんど誰もが日々勉強しています。仕事したり、近所の人や知り合いや親戚の者と付き合いをしたり、あるいは、遊んだり、日々の様々な活動のなかで、誰でもいろんなことを学ものです。なぜ人は学ぶのかと尋ねられたら、それは人間はそのようにできているからとしか答えようがないような気がします。

 このことに対してもう少し親切な答え方をしてみます。
 江戸時代には、武士の子どもは「藩校」へ通い、庶民の子どもは「寺子屋」に通っていたと言われています。藩校では、武芸や当時の先進国である中国の書物「四書五経」の素読や書写などを学んでいたようです。寺子屋では、読み書きそろばんを学んでいたようです。子どもたちが学ぶそれらの内容は、当時の人間社会にとって必要だと見なされていた内容になっていたはずです。現在でも、社会の必要に応じてあなたたちの勉強する教科も少しずつ改変されることがあります。ただし、勉強したことが社会に出てからはほとんど役に立っていないじゃないかという声もあり、勉強する内容をよく吟味して今までの教科を取り去ったり、新しいのを加えたりということは、もっと大胆にやっても良いような気がします。

 ところで、明治近代以降では、子どもたちは学校という小社会に囲い込まれて勉強も人間関係の付き合い方も学ぶように変わってしまいました。それ以前はどうやっていたかというと、次のようなものでした。
 近世では15歳くらいからの青年男子によって組織された「青年組」や同じく15歳くらいからの女子による「娘組」などの組織が村の中にはあって、そこで語らいや遊びなど楽しみながら村で生活していくうえで必要ないろんなことを学んでいたようです。いずれも、結婚と同時に卒業することになります。これらの組織は、明治になると「青年団」として再組織化されていきます。しかし、学校の成立や農村社会の衰退とともにそれも衰えていきます。現在ではそれらに似たものとして、子供会などの組織もまだ残っていますが、ほとんど学校に置き換わってしまっているように見えます。つまり、学校で勉強や人付き合いなどを学ぶようになってきています。

 このように勉強含めて人が学ぶ形や組織は変化してきています。しかし、この人間世界に生まれてそこで生きて行くには、今までに人類が築き上げてきたものを、その文明や文化の基礎的な部分を学ばなくてはなりません。人間の生み出し積み重ねてきた知恵や知識を、家族や社会の前の世代から自分が学び受け継いでいくことになります。それは自分がこの人間世界で生きていくことと深く結びついています。

 こういうわけで、人はなぜ勉強(学ぶ)しなくてはならないのかという問いには、最初に述べた「人間はそのようにできているから」という答えになります。ここでは簡単にしか触れませんが、一般に頭がいいことが良いことすごいことのように見られています。しかし、このような観点からみれば、学校という小社会では頭がいいことが価値の基準になっていたとしても、そのことは人間にとってはあんまり大した問題ではないことになります。


 項 目
Q21 人はなぜ服を着ているのですか?

A21

 わたしたちが日頃当然のこと、自然なことのようにしていることでも、その理由を考えてみるとよくわからないということがたくさんあります。衣服を身につけていることに関してもそうです。

 衣服はなぜ生まれたのかについて、「衣服は体を保護するために生まれた」「暑さ寒さから身を守るために、人は衣服をまとうようになったという説」(以下の引用書 P153)がありますが、これは現在のわたしたちの感覚やイメージから推量した合理的な考えにすぎないと思います。太古のまた遙か太古の人々が、現在のわたしたちと同じ考えとは限りません。むしろ、共通性があったとしても大きく違っていただろうと考えた方が良いと思います。このようなことは、人類の二足歩行や言葉の獲得などについても同様に言えることです。

 わたしの場合は、ごく普通の人と同様の考えやイメージを衣服について持っているにすぎないので、つまりよくわからないので、専門の人に語ってもらいます。以下に引用した部分以外に、服飾の歴史などについてもう少していねいに語られていますが、その服飾の始まり辺りの部分を中心に引用します。ちなみに、鷲田清一氏は、衣服やファッションの本も何冊か出している、従来の哲学者のイメージからは抜け出た人で、「臨床哲学」を主張されています。山極寿一氏は、長年ゴリラの生態を実地に研究されている人です。


鷲田 本来動物は、基本的にオスがきらびやかなはずです。人類も近代革命が起こるまでは、男の装いのほうが華美だったのです。(註.1)
山極 おっしゃるとおりで、ファッションの起源をたどればやはり男性、要するにオスですね。ゴリラやライオンでも、オスだけが変更不可能な装飾品を身にまとっていますからね。ライオンのたてがみやゴリラの背中の白い毛などは、取り外しできません。それを人は変更可能なもので補った。それがボディペインティングだったり、羽飾りだったり、毛皮を着ることもそうですね。
鷲田 そういうものを身にまとうことで変身する。
山極 変身すると、それまでの自分とは違うものになったような気分になれます。これは大きな認知革命で、おそらくは言語の発達と軌を一にしていたのではないでしょうか。
 (『都市と野生の思考』P150-P151 鷲田清一・山極寿一 インターナショナル新書 2017年8月)


鷲田 僕は昔、化粧をどうして「コスメティック」というのかとても気になったことがあって・・・・・・。
山極 それはもしかするとコスモスですか。
鷲田 そう、コスモスつまり宇宙なんです。コスメティックは、宇宙へのあいさつなんです。現代のコスメティックは、他人に自分の姿をよくみせるための行為です。要するに見せる相手は他者ですね。けれども起源としての化粧や装飾とは、宇宙や大自然を相手にしていたはずです。変身して、人間にとっては恐ろしい他の種の生き物になったりして、とてもパワフルになった気分を味わうというか。変身することで、宇宙にあいさつするというか、あるいは挑発するというか。
山極 なるほどなあ。自分が装飾した姿を見せる相手として、誰を設定しているのかが重要なわけですね。
鷲田 衣服が本質的に持っていた意味としては、社会性よりも先に、宇宙や自然、あるいは他の生命との応答があったのではないでしょうか。その延長線上として、権威ある王様と同じ装いをしてはならないという社会的な意味を帯びてくるようになった。
山極 そう考えると、衣服は神との応答性から生まれた可能性がありますね。
 (『同上』P151-P153)



 このように、人間は、動物のオスと同じように、「変身」して「それまでの自分とは違うものになったような気分」を獲得する一方で、その動物生からさらに飛躍して、「宇宙や大自然を相手にして」「変身して、人間にとっては恐ろしい他の種の生き物になったりして、とてもパワフルになった気分を味わう」ということを考え出したのかもしれません。最初の合理的な説明よりもこの二人の話の方が実際そうだったのではないかとわたしには思えます。では、人はどうして「変身」しようとしたかは、慈愛ももたらすけど、荒々しい猛威も振るう大いなる自然に対して、拮抗しようとする感情や意識がそれを促したのではないかと思います。

 先に述べたように、太古のまた遙か太古の人々と現在のわたしたちとは、世界についてのイメージや考え方は大きく違っていたと思いますが、衣服などを身に付けることによって自分が変身したパワフルな感覚を手にするという点は、共通していると思います。

(註.1)
これはヨーロッパを基準に語られているように見えます。わが国の場合や、他の国々は、それと同じだったのか、どうだったのか、気になりました。つまり、鷲田清一氏は、全世界的に見渡し、それぞれの地域をたどって言っているのだろうかという疑問を持ちました。


 項 目
Q20 人には他人に伝わらないなあというようなことが時々あります、これはどこから来るのですか。
 
A20

 人生の経験を積んだ大人と子どもの間でも、あるいは子ども同士や大人同士、男と女の間でも、そういうすれ違いがありそうです。そのすれ違いは、ひと言で言えば割と無意識的に立っている場所や見える地平の違いからやって来るものと思われます。作家の太宰治に関して次のような話があります。


 『みみづく通信』にも太宰の特徴を示す場面があるという。
 「少し売れるようになり旧制新潟高校に初めて講演に呼ばれた時のことを書いた短編です。講演の後、文学の好きな学生たちと雑談していて、作家になった理由を『他に何をしても駄目だったから』と答えると、一人の学生が『じゃあ僕なんか有望だ。何をしても駄目だから』と調子に乗って話します。すると太宰は真顔になって『君はまだ何もしてないじゃないか』と言う。いかにも太宰だと思わせるところです。何か自分の琴線に触れることがあると、それを言わずにはおれないんです」
 (「太宰治の場所―生誕一〇〇年」吉本隆明 P89『吉本隆明資料集175』猫々堂、初出『毎日新聞』2009年6月1日 聞き手・大井浩一)



 ここに語られている太宰治の作品「みみずく通信」の場面は、次のようになっています。


 (引用者註.作者の太宰治と思える「私」が新潟の高校で講演を終えた後、生徒たちとの会食をする。)
 生徒が十五、六人、それに先生が二人、一緒に晩ごはんを食べました。生徒たちも、だんだんわがままな事を言うようになりました。
「太宰さんを、もっと変った人かと思っていました。案外、常識家ですね。」
「生活は、常識的にしようと心掛けているんだ。青白い憂鬱なんてのは、かえって通俗なものだからね。」
「自分ひとり作家づらをして生きている事は、悪い事だと思いませんか。作家になりたくっても、がまんして他の仕事に埋れて行く人もあると思いますが。」
「それは逆だ。他に何をしても駄目だったから、作家になったとも言える。」
「じゃ僕なんか有望なわけです。何をしても駄目です。」
「君は、今まで何も失敗してやしないじゃないか。駄目だかどうだか、自分で実際やってみて転倒して傷ついて、それからでなければ言えない言葉だ。何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それあ怠惰だ。」
 晩ごはんが済んで、私は生徒たちと、おわかれしました。
「大学へはいって、くるしい事が起ったら相談に来給え。作家は、無用の長物かも知れんが、そんな時には、ほんの少しだろうが有りがたいところもあるものだよ。勉強し給え。おわかれに当って言いたいのは、それだけだ。諸君、勉強し給え、だ。」
 (「みみずく通信」太宰治 青空文庫)


 「私」(太宰治)の「それは逆だ。他に何をしても駄目だったから、作家になったとも言える。」という真面目な述懐に対して、「生徒」の 「じゃ僕なんか有望なわけです。何をしても駄目です。」というのは、おそらく軽い気持ちや冗談でしょう。しかし、「私」はおそらく自分にとって、また人にとって大切なことだと思われたからでしょう、少しむきになって真面目に応対しています。おそらくこのような場面が実際にあったのでしょう。それを書き留めているのは作者である太宰治です。この場面は書き留めるに値すると思ったから作品中に出てきています。最後の「勉強」は、知識や学問としての勉強ではなく、人生経験としての勉強だろうと思われます。

 この作品の場面は、人生経験を積んだ大人と子どもの間のすれ違いです。たぶん、これに似たことは誰でもありそうな気がします。こういうすれ違いはすぐに解消されることなく、何十年も経ってから、その場面の意味が分かるということがよくあります。大きな重たい問題ほどそうです。人は、固有の母のもとから生まれ出て固有の家族に育ち地域社会の一部を生きます。だから、わたしたちは同時代を生きていているから共通の同時代の感覚やイメージを持っていますが、一方でひとりひとり固有の性格や感覚やイメージやものの考え方を持っています。また、人は人生経験を積み重ねていく年齢によっても見える地平が違ってくるように思われます。これらの違いから来るすれちがいは避けようがないものです。しかし、人は、そのすれ違いから何かをくみ取ることができるということは確かなことです。


 項 目 
Q19 パソコンや電子辞書やスマホなどの新しいものが登場すると、人々の心に享受と反発との相反する反応が起こります。これは何でしょうか。

A19

 これは、おそらくゆるやかな文明度(文明化する度合い)の上昇でしかなかった近世まではほとんどそういうことは問題にならなかったと思われますが、―しかし、稲作の導入や律令制の導入などの社会的な大変動においてはあったかもしれません―文明度ともいうべきものが急激な上昇を示した明治近代以降に問題化してきただろうと思います。ちなみに、大正期にラジオが普及しだしたときに、民俗学者の柳田国男自身は良いものだと受け入れたけれど、ラジオは害悪をもたらすという論調があったことを柳田国男が書き留めています。今では、ラジオを聴く人はおそらく少数でしょうが、そんなラジオ論争のようなことがあったとは想像できないでしょう。

 中国の古代思想家の老子の著したとされる書『老子』の中の「小国寡民」には、文明化への欲望を抑制したある一定規模の国や生活が人間の理想だと見なされています。それは、政治が上から強制的な力を使えば一時的、短期的には可能かもしれません。しかし、現在までの歴史でそうした理想が実現した例はありません。

 科学技術の発展、言いかえると文明度の上昇は、そのように押し止めようがありません。しかし、それらの登場の時期には、進んで使おうという人々や人が使うならやってみるかという人がいる一方で、それらに負のイメージを持っていろんなこじつけのような考えや理論みたいなものをこしらえて反発する人々もいたはずです。この反発する人々は、おそらく今までの自分の生活が揺さぶられ不安定になるのではないかと時代についていけない不安を持つのだろうと思います。

 新たな科学技術の成果が登場するとき、自分が無用の混乱に巻き込まれることがないように、こういう二種の相反する人々の反応が必ず登場するということは知っていた方がいいと思います。

 もちろん、パソコンやスマホなどの新たな科学技術の成果がはわたしたちの生活に便利さなどの長所だけではなく、たとえば少数の人々でしょうが、パソコンやスマホに長時間はまって「中毒」みたいな生活になるという問題ももたらします。しかし、それらの使用の過程で起こってくるいろんな問題は、それを使う人々が使いながら慣れ解決していくほかありません。わたしたちはそうやって新たなものにも慣れ親しみながら、起こってくるいろんなもつれた問題点を解きほぐしてきたし、これからもそうしていくのだろうと思います。


 項 目 
Q18 人には目立ちたいという面と目立ちたくないという面との相反する二面性があると思いますが、どちらが人の本当の姿ですか。

A18

 まず、その二面性は誰もが持っているもので、どちらが本当の姿とは言えないと思います。また、それらを打ち消そうという心の働きも存在します。

 わたしたちが日頃生活している中で自分を自覚したり他人を目にする体験から言えば、確かにその両面に出会いますね。人は誰でもその二重性を揺らぎながら生きているように見えます。そして、目立ちたいという面には、名誉欲などの人間的なものが関係もしていますが、その両面とも遠い動物性からの名残と言えるかもしれません。すなわち、目立ったら自分が衆目にさらされて精神的にも不安定や不利な立場になるかもしれないという恐れがあるかもしれません。他方の目立ちたいは、目立つことによってみんなの中で精神的にもより上の方に位置づけられ、高く評価されるのを求める欲望からくるのかもしれません。これらの両面が、動物性と関係あるとしても、人間界の文明や文化を築き上げていく中で、ずいぶん人間化した装いや表情を持ってきていると思います。

 しかし、この問題は、これからもずっと人間につきまとうく永続的な問題だと思います。ちなみに、今からおよそ八百年前の鎌倉期の親鸞でさえ次のような和讃(歌)を残しています。おそらく親鸞の晩年に作られた歌ですが、人が名声などを振り切ることがいかに難しいかを語っていることになります。


是非しらず邪正もわかぬ この身なり
小慈小悲もなけれども
名利に人師を好むなり
(『正像末和讃』親鸞)

ものごとの是非を知らないし、邪正も判断できないのがこのわたしである。小さい慈悲さえももつことができないけれど、自分の名誉や利益を求め、人の上に立ち師になることを好んでいる。まことにはずかしい私です。



 ところで、人間は、目立ちたい目立ちたくないばかりではありません。


 私は創造のための技術を磨くことにだけ集中すればいいと言いながら、じつは、穏やかな日々の日常を味わいたいと心底望んでいた。称賛などの外的な理由からではなく、わずかでもいいから自分がこの世界に存在してもいいのだという確信によって、生きる充実を感じたい。
 (『家族の哲学』P64 坂口恭平 2015年)



 これは文学作品の中の言葉ですが、「私」のようにこの世界に生きて在ることを味わいたいという欲求は誰にもありそうに思います。ここで「私」は、目立たないことや目立つことという次元とは別次元で生きることの充実感を欲求していると語っています。目立たないことや目立つことという次元は、人と人とが関係し合う場において起こってくる問題です。しかし、その次元でも目立たないことや目立つことなんてどうでもいいじゃないかとそれらを押しのけるように生の充実感ということが張り出して中心にくることもあり得ます。逆に、目立たないことや目立つことという次元とこの生の充実感が絡まり合う場合もありそうです。

 作者を思わせるこの「私」とてそんな単純な存在ではなく、躁鬱に悩まされ絶望で死にたくなることもあるというふうにグレーな日々を生きる存在として描かれ、複雑に揺れるグレーな心を抱えた者として描かれています。


 最後に、人間には目立たないことや目立つことという二面性を振り返って考えたり反省したりすることがあります。目立たないことや目立つことという人間的な次元に対する内省の心を持っています。この内省力が、人間(人類)の歩んでいく方向を左右するものだろうと思います。


 項 目 
Q17 絵や詩の上手下手というのはどういうことなの?
 
A17

 たしかに、これは上手だね、これはまだまだ下手だ、とか言ったり言われたりしますね。
 絵や詩や映像作品や音楽やダンスなどをひとまとめにして芸術と言いますが、芸術の表現というのは、簡単に言えば人間の心の表現です。そこで、下手というのはその心の表現が、自分や読者(観客)にしっくりくるように十分に練られたり形作られたりしていないということだと思います。

 歌も音楽も絵画も詩もダンスも、遙か太古の時代には、樹木の幹のような人の心を放出したりそんな心が世界(自然や神)に向かって問いかけたりが主眼で、現在のように枝わかれることなく一つに溶け合っていたのでしょう。現在では芸術表現としていくつもに枝別れし、しかもその内部でさらに細分化しています。心を芸術の表現形式に盛るための様々な技法も次第に細かくなってきています。スポーツ界もおそらくコンマ何秒を争ったり人間技を更新するアクロバットな演技を繰り出したりと熾烈なトレーニングや競技の現状で、わたしにはこの現在までの足取りは必然のようにも思いますが、一方で少し病的(神経症的)な袋小路の光景にも見えます。

 しかし、この細分化とささいに見えることへのこだわりの現状は、芸術やスポーツに限らず全社会的なものです。樹木に例えれば、枝葉ばかりにこだわって、太い幹に注意が払われていないような社会の状況だと感じています。

 誰でも「十年やれば一人前」と吉本隆明さんが語っていましたが、上手下手は十年一生懸命にトレーニングすれば簡単に入れ替わるものだと思います。もしあなたがある芸術の分野に入り込んでいくとするならば、問題は、その下手上手の道筋をたどっていく中で、どんな心の有り様を花と咲かせるのかということがより大切なことだと思います。


   項 目 
Q16 考えを巡らせていると時々自分が生きてることやこの世界がとてもふしぎだなと思います。
 
A16

 そういう経験は誰もが持っているはずです。
 まず、人間はもう動物のような生活には戻れませんから想像するほかないですが、人間が自然の中に埋もれたままの動物生を生きているならそういう疑問自体は湧いては来ないと思われます。言葉というものを生みだし、自分や世界と対話することができるようになったから、あなたのようなふしぎさの感覚や疑問が湧いてくるのでしょう。

 そうなってしまった人間にとって、自分が、今ここにいるから、この世界がある、もし、自分が、今ここにいないなら、この世界も存在しない、と考えるのは、なぜか奇妙な感覚を伴いますが、それは人間として自然なことなのでしょう。

 わたしたちは誰もが、この人間世界の中の現在では国家で区切られた社会の中の、さらに小さな小社会に生きています。すなわち、自分の家族と学校や職場を行き来して日々生活しています。時には、用事や娯楽で街に出たり、遠くに旅行することもあるかもしれません。いずれにしても、そのような小さな世界に日々生きることが、あまり意識することのない重力の中心のように誰もが生きています。

 しかし、心や精神は、そのような重力を振り切って自由に制約もなく飛翔することができます。よく知らない外国のことやその政治について熱心に考えたり、さらには宇宙のことについても考える自由というか自在さを持っています。そして、人間は、それは間違っているとか他人から言われようともどんなことでも自在に考えを巡らせることができるように見えます。けれども、よく調べてみると、人類が現在までに考えてきたことや現在に生みだされた共通の感じ考え方やイメージ(マスイメージ、わかりやすく言えば、流行)に親和的か反発的かあるいは中性的かという形でその考えは生み出されてくるように見えます。なぜなら、わたしたちは誰もが、この自分を取り巻く世界の歴史的な現在を身体的かつ精神的な環境として日々生きているからです。したがって、自分が一人で考え出した考えだとか、作り出したイメージだとか思っても、人類の遺産や他人の功績のおくりものを受け取った上での自分の表現だから、あまりいい気にならない方がいいと思います。付け加えれば、知識世界に住む人々でその人の考える思想というものは、深く本質的であればあるほど、名もない人類全体の歩みと同調し人類の歴史の主流のようなものに深く棹さしているように見えます。

 わたしたちは、若い頃や老年の頃など生活の苦労が割と少ない時期であっても、そのような自在に自由に考える世界に住み続けることはできません。生きているかぎり必ずこの世界の重力が中心的に働く小さな日々の生活世界に引き戻されます。

 宮沢賢治は、人間界での生活感が希薄でした。彼の童話や詩を読むとこの地球上の大いなる自然や銀河系宇宙と直接に交歓する感覚や意識を身近なものとして持っていたことがわかります。それでも、彼の家族との関わりや日々の生活との関わりで、絶えずこの世界の重力が中心的に働く小さな日々の生活世界に引き戻されています。

 この現在の世界のわたしたちの足下には、一人一人が、すなわち人類が、遙か太古から積み重ねてきた日々の生活の足跡と感じ考えたことの積み重ねとが、横たわっています。そのような歴史の主流に沿ってわたしたちはこの世界を呼吸しそして反芻しながら一人一人歩んでいけばいいのではないでしょうか。そうして、また突然にこの世界に生まれ出たのと同じように、突然にこの世界を後にしてより大きな宇宙に帰っていくのだと思います。


 項 目
Q15 人間の幸福とは何だと思いますか。

A15

 人間の根幹に関わるむずかしい問題ですが、ひとことで言ってしまえば幸福は、遙か太古から「お猿さん」から人になってしまった人類がたくさんの苦難を経験しながら、その一人一人がこれでいいなと満たされた気持ちになったり、こうだったらいいなとという理想のイメージを抱いたりして、人の道を生き、歩むことだと思います。この幸福を感じ考えるのもその幸福を体験するのも、それを集団的に分かち合うということもあるとしても、現代では個人を主要な舞台として現れてきます。以下、もう少し細かに考えてみます。

 動植物には、あることを外に取り出して考えたりそれを吟味したりすることはないようですから、人間の「幸福」に相当するものはないでしょう。しかし、人間も植物生や動物生の段階を通過してきているようですから、人間の「幸福」というもの自体はなくてもそれにつながる萌芽のようなものはあり、あれこれ考えることもなくそれ自体を生きていると思われます。すなわち、人間のように「幸福」について考えたり、「幸福」を目指したりすることはなく、幸福自体を生きているのでしょう。

 人間の「幸福」は、遙か太古から人類が積み重ねてきたイメージや考え方で、それは具体性や現実的な形をともなっています。幸福は、何を幸福だと思うかひとりひとり違います。しかし、一方で、争いごとがなく経済的にも精神的にも豊かでのんびりした暮らしができたらいいな、など大多数の人々が共通に持つイメージや考え方としての幸福があります。これにはまた、遙か太古から共通するものと、現在という時代で共通するものと二重にあります。

 ここでは、太古から人々に共通するような「幸福」のイメージについて考えてみます。
 ところで、若い人は実感が湧かないかもしれませんが、現在と今から50年以上前の高度経済成長期以前とでは、社会やそこでの日常の生活に目もくらむほどの落差があります。つまり、大きく変貌してきました。

 50年以上前は、車もまだそんなに普及していなくて、砂利道があり土の道が通学路を含めてまだあちこち残っていました。電気や電灯は明治末期、夏目漱石の晩年頃普及し始めたらしいですが、都市と地方とではその普及の時期にずれがあったようです。おそらく裸電球で、わたしも経験していますが現在の蛍光灯からすると部屋は薄暗かったです。しかし、それまでのランプなどから手間いらずの電灯になったときの当時の人々の感動は大きかったでしょう。次に、「どこでも蛍光灯が販売され、一般家庭で使われるようになるのは1970年代の事です。」とネットに書かれていましたが、蛍光灯の普及はもう少し早かったような気もします。いずれにしても、普及の時期は高度経済成長期に重なっています。裸電球から蛍光灯になったときの、ぱあっと部屋全体が明るくなったときの印象を今でも覚えています。そのような最初の感動は、慣れ親しむとともに普通の自然な感覚になっていきますが、こうした生活環境の利便さの変化も人間の「幸福」感に大きく貢献していると思われます。

 もちろん、電灯がない頃は不幸かというとそういうことはなく、わたしたちの現在と同じく様々なことに幸福感を見いだしたり見いだそうとしていたと思います。それは砂糖が普及していなくてない時代の食べ物についても同様でしょう。ただし、電灯を持ってしまうともう以前のランプなどの世界には戻ることはなく、文明を推し進めていく中でたとえ紆余曲折(うよきょくせつ)があったとしても、人間はより豊かな生活を目ざしてきたし、そのこと自体が人の幸福感と結びついているはずです。歴史を振り返れば、飢餓の恐れにつきまとわれたり、戦に明け暮れていた時代もありますが、例えそのような社会状況下でも人の生活を不幸一色で塗りつぶすことはできないはずです。必ずや現在のわたしたちと同じような幸福感の場所があったと思います。

 いろいろありますが例を絞って取り上げると、50年以上前、行商(仕事)であれば、1日仕事で、汽車に乗って離れた一つの地区を回っていたとすれば、現在の行商(仕事)であれば、車を使って1日に3地区でも4地区でも回ることが可能になりました。個人商店であればその分収入も増加したかもしれませんが、1日の仕事の密度が以前の3倍にも4倍にもなってきました。会社に雇われている人ならば、仕事の密度が増大した割には給与はそれに比例するような増大しなかったかもしれません。

 おそらく、広告産業がふりまくイメージと呼応するようにして、人々は豊かな暮らしや自由さやのんびりさなどを幸福のイメージとして思い描き、今までになく一生懸命に働いたものと思います。それはわたしがまだ少年の時代に当たっていました。人々は、そのような幸福のイメージが実現できると信じていたから、それを目指してがむしゃらに働いたのでしょう。そうしたあわただしい日々の中にも幸福感が存在したかもしれません。しかし、そのようながむしゃらさ自体は幸福のイメージの否定に当たります。こういう矛盾は現実にしばしばあります。それでも、「一億総中流」とも言われ経済的には社会的な富は増大し、個々人の所得も増大してきました。しかし、近年の大きな格差問題は、そこからの紆余曲折に当たっています。

 50年以上前と現在とを比べてみて、物質的な生活は確かに豊かに、より便利になってきて幸福感の増大に貢献してきましたが、精神的な面ではおそらく大多数の人々が浮かない感じを持っていると思います。ゲームでのスピード感は快で抵抗感がないでしょうが、現実の生活の中で流れる時間の早まりはあくせく感やイライラ感をもたらします。このような物質的と精神的とに分裂した生活は、個々人で対処するのは当然としても、わたしたちの心身の環境として社会環境は大きなものがありますから、根本的には社会的に解決していくほかないと思います。例えば、あくせく感やイライラ感を少しでも解除するには、小手先の政策ではなく新たな社会ビジョンに沿ってベーシックインカム (最低限所得保障)や週休三日制を導入するなどの根本的な対策が必要だと思います。人々のあくせく感やイライラ感を少しでも解除できるということは、社会的な事件を減らし穏やかな社会に作り直すことにもつながります。そして、そのことは人々の全体的な幸福感の向上につながるはずです。このように社会の有り様が、そこに生きる人々の幸福感を左右するということがあります。

 こうして、わたしたち一人一人の幸福感のイメージやその追求は、言いかえれば理想の有り様を追い求める衝動は、無惨な出来事をたくさん含んでいる人間の歴史の裏側に張り付いている「歴史の無意識」のようなものであり、現実には紆余曲折があったとしてもそれが人間の歴史を駆動し続けているように思われます。


 項 目
Q14 スポーツや芸術のプロとアマチュア(玄人と素人)について、それらはどう違うのですか。
 
A14

 まず、それと似たような問題で、専門家と普通の人ということがあります。専門家は職人さんでも学者でもその道を長く歩いていて、その道に深く通じている人です。したがって、普通の人はその道については容易には口出しできません。10年もひたすらその道をやられていたら、からだも手も物の感じ考え方もその道になじんでいて、門外漢の普通の人はその道の内側には容易には入り込むことはできません。

 しかし、この社会の中で大人になると主に職業において誰もが何らかの専門的な世界に入り込んでいきます。その専門の世界の体験によって他の専門の世界の出来事をいくらか推し量ることができます。これは専門の世界とそこでの人の有り様ということがある共通性、普遍性を持っているからです。このような自分の体験から推し量ることをせず、例えば、保育園の保育士さんの仕事なんて子どもの面倒見るだけの簡単な仕事じゃないか、とか安易で薄っぺらな評価や考えを示す人もいます。そういう場合もありますが、一般にわたしたちは誰でも専門家の世界をいくらか推し量ることができます。

 もうひとつ、普通の人が専門家の世界に対して口を挟むことができる通路があります。それは、この人間的な世界の活動は専門的な知識であれ普通の人々の活動であれ何であれすべて人間的なものであるということ、つまり人間的ということは誰にも当てはまります。その誰にも当てはまる「人間的」という通路から、それは違うのではないかなど異議を差し挟むことができるということです。

 スポーツや芸術のプロとアマチュア(玄人と素人)については、普通の人(まったく無縁な人ではなく、アマチュアとして考えます)はその道のプロに対しては容易には口出しできないのは同様ですが、専門家と普通の人(アマチュア)とは事情が少し違ってきます。プロとアマチュアもその道にある程度通じているということでは同じです。しかし、プロの人は、スポーツでも芸術でも現在の経済社会のシステムにつなぎとめられていて、熾烈な競争にさらされています。スポーツでいえば、プロはアマチュアとちがってお金も入ってくるでしょうが、経済社会のシステムが強いる競争という苦を背負っています。その競争が、プロとしての技や力量を磨くのを助けてくれるのでしょうが、その苦から逃れきることはできません。したがって、アマチュアのスポーツそのものを楽しむということにかけては、プロは及ばないと思われます。しかし、プロの人は、わたしたち素人がうかがい知れないようなプロとしての修練の奥深い世界を体験しているということは確かなことだと想像されます。

 また、プロの場合は、プロとして競争にしのぎを削る緊張と負荷の一方で経済社会のもたらすお金や仕事や有名性などの恩恵があります。そしてこの経済社会のシステムが繰り出すものは、人をだめにする要素も持っています。スポーツ競技のプロに勝つためにドーピングなど歪んだ行為に走らせることもあります。また、ある分野のプロにすぎないのに何か人間総体として見て自分は優れているのだとか人間総体に対する見識も持っているのだなどという勘違いをもたらすこともあります。

 最後に、ほんとうのプロである条件について触れておきます。誰もがその道に入り始めた頃は、いろんな戸惑いや回り道や苦労があります。ほんとうのプロである条件は、その道に入り始めた頃の自分についての像を忘れずにプロとなった現在でも持ち続けている人であろうと思います。これがあれば、その道への入門者に対する指導者になる条件も十分に備えていることになりますし、その道以外の別の分野への入門者にも対処できる普遍的な条件を獲得していると言えると思います。

 例えば、高校の数学の先生は、十年一日のように数学ばかり教えています。しかし、彼(彼女)にも学生時代や先生になりたての若い頃があったはずですし、授業でよくわからずに苦労したこともあったはずです。もしそういう過去の体験を自分の内にしっかりと持っていたら、初めて学習する子どもたちに「こんなのもわからないのか」と怒り散らすこともないでしょう。自分にも初心者の過去があったことや数学だけ何年もやってきたから高校数学の問題に通じている現在があるということを忘れてしまったら、そういう子どもへの対応になります。そのような過去の自己体験に無自覚な彼(彼女)は、指導者としては十分な条件を持っているとは言えないと思います。

 こんなプロとアマや専門家と普通人などの隔てられた世界が本格的に登場してきたのは、おそらく分業が社会的に進み高度化してきた明治近代以降だと思われます。わたしはプロではありませんから、日頃見聞きしたことや今までのわたしの経験から考えてみました。ほんとうは、プロの内部からの声も聞いてみる必要があるかもしれませんね。


   項 目
Q13 わたしは食べないわけではないけど、肉を食べることに少し抵抗があります。それはどうしてだと思いますか。
 
A13

 宮沢賢治は、たぶん仏教的な倫理から来たのだと思いますが、ある時から肉食を止めたようです。そのことを語った親友への手紙が残っています。ところで、わたしは家(うち)の食事担当を長らくやっています。しかし初めの頃は、魚や肉を生のまま手で触ることに抵抗がありました。つまり、魚や肉の仕込みの切り分けなどがうまくできずに、両手をそれぞれビニール袋に突っ込んで調理していました。慣れてくるとそういうこともなくなりました。生きていた、生きものであった、ことへの抵抗感だったのかもしれません。

 わたしも生きている魚や動物をイメージして、肉を食べることには特にふと抵抗を感じる一瞬があります。この抵抗感を個人的な事情ではないと考えれば、次のように考えるほかないのではないかと思います。

 わたしたち人間も遥か太古には、他の動物たちと同じように動物を狩って食べていたことでしょう。そうやって命をつないできました。そこから、人間はなぜか動物たちと別れて独自の道を歩むことになります。自然の中に埋もれるように生きていた動物生の段階から、自然に目覚め、その暖かな恵みと恐ろしいほどの猛威とを併せ持つ自然に立ち向かっていきます。そこから様々な人間と大いなる自然との交渉の物語(神話)が生み出されてきました。動物自体は互いに狩って食べることに倫理も善悪もないはずです。つまり、自覚や内省のない自然そのものとなっているように見えます。しかし、人間の場合は、おそらく名残惜しくも動物生と分かれてしまったということ、しかも、人間は内省や倫理などを生み出してしまう存在になったこと、この二点がわたしたちが動物の肉を前にして覚えるためらいの源泉ではないかと思われます。現在のわたしたちでも、人間でも動物でも特に赤ちゃんや子供の頃はとても愛らしくかわいいものに見えます。こうした感情が現在まで残っているということは、太古の人々もまたそういう感情を抱いたのではないかと推測させます。だから、おそらくそのようなためらいを打ち消そうとするのが、人間の作り出した物語を通して、動物を神に捧げる生け贄としたり、アイヌの熊祭りのように神々からの贈り物として受け止めて肉を食べたりすることだったように思われます。現在では、そのような段階から、露骨な肉食そのものとペットとしての動物の愛玩という分裂になってきてしまっています。

 近代に欧米から肉を食べたり牛乳を飲んだりする欧米風の食習慣が入ってきて、以前にもましてたくさん肉を食べるようになってきています。わたしは無理して肉を食べなくてもいいよという気持ちがどこかにありますが、この現在の食の姿を一挙に変えることは不可能です。そういう食の姿について行くということでいいのではないでしょうか。一方で、愛玩する動物があり、もう一方に、食べられる動物がいるという矛盾する現状は、矛盾そのものとして遙か未来に向けて抱えていくほかないとても難しい問題だと考えています。

 最後に、遥か超未来のことだからほら話と見なすほかないですが、数億年後かの未来において、人類がまだ生き残っていて、今度は本格的な宇宙上陸を果たすようになれば、ノアの箱舟のように動植物も連れていく、繁殖させるということも考えられますが、一方で、ずいぶんと進化発展した技術力によって、ということは反作用としてずいぶんと人間の心身も変貌しているはずですが、人工食に慣れてそれをおいしいと思いもはや肉を必要としないということがあり得るかもしれません。仏教の肉食否定の教えが人類全体として実行可能となるのは、そのような宇宙上陸の時期ではないかとわたしはイメージしています。

註.人間は、動物を一方では愛玩しながら、一方では肉として食べているということの矛盾について追究しているものに、以下の本があります。

 『「食べる」思想―人が食うもの・神が喰うもの』( 村瀬学 2010年)


   項 目
Q12 死は怖いものだと感じてしまいますが、どう考えたらいいのでしょうか

A12

 一般に死が大きな存在として迫ってくる時期は二つあります。ひとつは、家族から独り立ちしかかりながらまだつながり薄い社会の方へ出ていく手前の思春期という不安定な時期です。もうひとつは、仕事も引退したりして社会から撤退していく老年期です。もちろん撤退と言っても、老年になっても仕事をしているとか、生活上せざるを得ないということもあります。また、思春期の場合は、一般に学校という小社会に属してはいますが、ここは社会へ出て行く準備段階で、いわば抽象的な社会と言えます。この両者に共通しているのは、具体的な社会(職場などの小社会)と関わる生活の希薄さということです。そして、そのつながりの稀薄さが心身に強いストレスをもたらすように思われます。

 思春期の若者は、具体的な社会とのつながりの希薄さから自分の生存や生きるということが漠然としていて抽象的なものとして捉えられる傾向にあります。そこに、自分はなぜ今ここに存在しているのかという問いが浮上してくるきっかけがあります。そして、死という存在が呼び込まれてきます。老年になった人々は、身体の不調を感じたりすることが多く、人の生涯の平均的な時間から自分がいつまで生きられるかなと時折考えるようになります。つまり、つながり続けてきているこの人間界(社会)から去ること、すなわち死ということを意識するようになります。

 この二つ以外の時期は、特に大きな悩みなどがなければ人は死などは意識に上せることなくほとんど無意識のように日々を慌ただしく、あるいはのんびりと過ごしているのではないかと思われます。それは結構なことだと思いますが、人は誰でも上に述べたような思春期や老年期をたどります。

 人が事故や病気で死にそうになって、不思議な光や花々などを見て生還してきた人々がいます。そういう人々の見たものを臨死体験と言います。臨死体験をして生き返った人は、そういう光り輝くような穏やかな光景を「体験」して、ほとんどの人が死が怖くなくなったと言うそうです。わたしも死は怖いものだと思いますが、わたしの場合は「いつものように眠ってしまって、絶対に目が覚めないことが死だろうな」と思いなしています。

 それでも、今・ここに生きている自分が、この世界からいなくなることを想像すらできませんから、つまり、自分はいなくなって、そのことを自分ではどうすることもできないから、不安や恐れが起こってくるのかもしれません。しかし、この死というものは誕生と似ているところがあります。わたしたちは、この世に生まれ落ちて、成長し物心ついてからやっとこの世に今・ここに自分がいるということに気づきます。つまり、わたしたちは知らない間にこの世界に生まれ落ちていました。死の場合は、誕生の逆の過程で、気づくことができる自分がしだいに(事故の場合は、急激に)消えていって、自然(物質、宇宙)に帰ることだと思われます。

 わたしの死に対する現在のイメージや捉え方を述べてみましたが、これはひとりひとり自分で考え詰めていくほかないところがあります。つまり、自分で自然に納得できるようなイメージや捉え方を追究してほしいなと思います。


 項 目
Q11 当事者と部外者、文学や映画作品を作る内側と外から鑑賞する者、一般化すると内からと外からとの見える風景の違いの問題は大切だと思います。どう考えますか。
 
A11


 例えば、マスコミによって知る事故や事件でも、ほんとうに記事の通りなのかは疑わしいところがあります。一番わかりやすいのは、自分が新聞などのインタビューを受けそれが記事になったものを読んだときでしょう。インタビューの場面の出来事とずいぶん違ってすっきりまとめられているなと思うでしょう。新聞などの編集スタッフの目を通して「インタビュー」という出来事や事実が再構成されていますから、「インタビュー」そのものではなくなっています。事故や事件の報道でもテレビの番組でも編集者の目を通して切り取られまとめられたものになっていますから、「事故」や「事件」そのものではないと思われます。こういう内と外とのずれや食い違いを自覚することは大切なことだと思います。
 次に挙げるのは、映画作品を作る映画監督の内側からの視線や感じ方です。なかなかこういう内からの生の言葉に出会うことはありません。


押井(守) 伝統というか歴史的な蓄積って文化だからさ。ある種の歴史的な遺産を背負わずに成立する芸能なんてほとんどないから。わずか百年にせよ映画にもそういうのはあるわけで、現場にしか通用しない言い方、セリフとかね。ニュアンスの伝え方とかあるわけじゃん。違う人間が入ってくるとまったくわかんないんだけどさ。それが一番じつはそこで支えてるというかさ。実写の連中がやたらデカい声を出すというのはさ、あれも台湾へ日本のスタッフを連れてってやったときに向こうの人間はものすごく嫌がるんだよね。「デカい声を出すと怒られてる気がする」ってものすごい反発された。「ちゃんと聞こえてるよ。なぜ喧嘩売るんだ」とか言ってさ。「いや、そうじゃないんだよ。それが日本のやり方で、誰か『本番!』って言ったらみんな『本番!』『本番!』って」「なにが起こったかわからない」ってさ。もちろん外国もそういうのあるんだけどさ。あれは結構危険もあったりするから。場を緊張させる効果もあるんだけど、私も入った瞬間最初は違和感あったんだよ。アニメやってたから「なんでみんな同じことをデカい声で言うんだろう」ってさ。途中でわかったのは、たぶんこうだというのはね。やっぱり恥ずかしいんだよ。ごっこ遊びだから。いい歳こいた大人が白昼堂々ごっこ遊びをやって、それを撮影してるだけなんだよ。あれがないとね、ちょっと耐えがたい部分がある。まして甲冑着たり、バトルスーツ着たりとかさ、ようするに仮面ライダーの世界だからね(笑)。『紅い眼鏡』って作品で最初やったとき本当に恥ずかしかったから。黒い甲冑着せて、機関銃持ってさ。現場にあれが来たときギョッとしたもん。「あ、私ってこっちの世界に行っちゃうんだ」ってさ。とうとうオレもキワモノ監督になったという。ゴダールで頭がいっぱいだった男がさ。馴染んじゃったら楽しくてしょうがないんだけど、最初はあせったの。オレってキワモノ監督になっちゃうんだというさ。だけどそれをみんな喜々としてやっててさ、やっぱり一定の様式にはめちゃうんだよ。それをやらないと耐えられない。必要以上に厳しくする。私語なんかしてるやつに蹴りを入れるとかさ、そういうのはやっぱり「ごっこ遊びじゃないんだ。仕事なんだ。神聖な時間なんだ」というさ。
 (『身体のリアル』P256-P257 押井守 最上和子 2017年10月)



 映画でもダンスでも芸術は、日常のわたしたちの振る舞いとは別の次元にあります。芸術表現に練り上げていくには、上の引用のように日常性を携えた観客がシラケるようなこともやらなくてはなりません。テレビでコマーシャル制作の舞台裏の現場をちらっと観たことがありますが、ライトを当てたり送風機で風を送って髪や服をなびかせたり、その舞台裏とカッコいいコマーシャルとの落差には驚くものがあります。鎌倉期の代表的な歌人の藤原俊成は、寒い冬に桐の火桶(暖房器具)を抱きかかえながら苦吟したそうです。歌人の藤原俊成が、一種の純粋詩ともい言えるきらびやかな表現に上り詰めた背景には、そういう現実の具体的な姿があることをちゃんと勘定に入れておくことは誤解しないためには大切です。また、平安宮中の貴族の十二単なども、きらびやかなイメージで捉える人もいますが、風呂に入らないからその臭い消しのためにたくさん重ね着していたのだという見方もあります。いずれにしても、わたしたちは外からの見え方だけによって内のことや全体や捉えようとすることが大切だと思います。そのためには、上の引用のような内からの言葉に耳を傾けて、できるだけ内そのものを調べて知ったり、想像することが大事です。

 このことは、同じ家族内の人間関係も含めて、自分(内)と他者(外)という人間関係において、他者理解においても同様に言うことができることだと考えます。

 付け加えれば、小さい子供の頃は、大人の視線とは違ってテレビ番組の「仮面ライダー」とか、白けることなくその物語世界に没入してわくわくしながら観ているのだと思います。小さい子供には、内も外もなく上のような舞台裏を知るよしもありませんでした。わたしの場合は、テレビで『怪傑ハリマオ』というのをやっていた頃で、主人公ハリマオのターバンの代わりに風呂敷を頭に巻き、サングラスをかけてハリマオになりきって遊んだことがあります。小さい子供の世界では、棒きれも輝く剣になるのだと思います。つまり、上の引用のような大人の照れは、小さい子供の世界ではあんまりないように思います。


 項 目
Q10 人は年齢によって見える世界が違ってくるのではないかという気がします。本当はどうなんでしょうか。
 
A10

 確かに人は歳を取るにしたがって世界が違って見えてきますね。わたしの実感です。青年から大人になるにしたがって、仕事など職場のつながりも生まれてきます。結婚して家族を持つと新たな生活の形を築いていくことになります。このような道筋はたとえ結婚しなくても誰もが通って行くものです。家族や親戚との関わり方も大人になると小さい頃や青年の頃とは違ったものになります。自分に昔見えていた地平や世界を忘れ去ったり切り捨てたりすることなく、新たに立った地平にそれらを反芻していけばいいのではないかと思います。人間も動物や植物と同じように成長していくにしたがって姿形や佇まいを変えていきます。
 次に、ひとつの述懐を紹介します。


押井(守) たぶんさ、年齢ということもあるんだよね。わりとそういうのって歳取ると解決されちゃったりするんだよ。自分がそうだからさ。自分はオヤジになったと思った瞬間めちゃくちゃ楽になったから。結構昔は俗っぽいことも嫌いで「自分はそういう人間じゃないんだ」という頭でっかちで、巨大な頭だったから。でもいまはべつに普通にカラオケも行けば、バカもやるから。相当バカやってるからさ(笑)。「オヤジでいいじゃんべつに」というさ。で、それと自分が映画を作ってることと全然矛盾しないから。それは年齢ということもあると思う。若いときにはね、たぶんそういうのは無理だと思う。
 (『身体のリアル』P118 押井守 最上和子 2017年10月)



 項 目
Q9 現在では至る所に「監視カメラ」(防犯カメラ)が設置されています。 それは悪事を心理的に抑制する効果があるとは思いますが、気にするといつもどこかから自分が見張られているようでちょっと気持ち悪い気がします。どう考えたらいいのでしょうか。 

A9

 難しい問題です。
 まず、この「監視カメラ」を畑に設置すると農作物の育ち具合や動物被害などがないかなどを、現場に行かなくても直ちに知ることができます。これが工場に設置されたら、作業の工程や生産の状況を集中管理できます。これは人間が新たな視線を獲得したということになります。

 一方で、この「監視カメラ」は、通りを歩く人々や工場内で働く人々を監視することもできます。そして、そういう使われ方もされています。今は知りませんが、昔、大手の予備校が、授業風景を「監視カメラ」で監視して、先生の仕事の評価をしたり勉強に身の入っていない学生を後で呼びつけて注意するとかやっているのを、たぶんテレビで観たことがあります。

 このように「監視カメラ」は、現在の科学技術力の成果がもたらした人間の〈新たな視線〉の獲得を意味していますが、長所と短所を併せ持っています。長所は、わたしたちの生活をより便利により楽にすることであり、短所は、人間をもっと細かに管理・評価することが可能になる点です。

 現在では融通が利かないなど問題も抱えているようですが、「個人情報保護法」というのがあります。これは「監視カメラ」の短所を法的に抑制するようなものと考えることもできます。しかし、本質としては、社会の内部の各所でそこに関わる人々が、短所の意味を内省し、具体的に抑制していくことだと思います。

 一昨年までだったか観たアメリカのテレビドラマシリーズに、『パーソン・オブ・インタレスト 犯罪予知ユニット』( 原題: Person of Interest ※この意味は「容疑者」)という作品がありました。その話の要約を引用で済ませますと、次のようなものです。


テロの危険性を事前に察知するため、政府によって極秘開発された犯罪予知システム、通称“マシン”。街中に張り巡らされた監視カメラや携帯電話、GPSなどから情報を得るそのシステムは、テロだけでなく、日常的に起こる凶悪犯罪も予知したが、政府はそれらを“無用の情報”として排除していた。マシンの開発者ハロルド・フィンチは、政府が無用と判断した情報を密かに入手。驚異的な戦闘技能を誇る元CIAのジョン・リースをパートナーに迎え、一般市民が巻き込まれる凶悪犯罪を未然に防ぐため、人知れず活動することを決める。ところが、マシンがはじき出すのは事件に関わる人物の社会保障番号のみ。そのターゲットが被害者か、加害者か、いつどんな事件が起こるのかも分からない中、二人は命をかけて数々の事件に挑んでいく!
( https://www.axn.co.jp/programs/person_of_interest )

この第三シーズンから、悪意を持った者たちに支えられた第二のマシン・サマリタンが登場して、社会を制圧・管理していく。フィンチらはサマリタンに追い込まれながらもそれと対決していくことになる。


 これは、「監視カメラ」がずいぶん張り巡らされてきた現在にふさわしい、近未来的な物語です。娯楽作品としてみても良い出来の作品だと思います。

 「監視カメラ」のほかに、現在を象徴するものに現在施行されている「 マイナンバー(個人番号)制度」というものがあります。内閣府のホームページによると、次のようなマイナンバーのメリットが挙げてあります。


マイナンバーのメリットは、大きく3つあります。
・1つめは、行政事務を効率化し、人や財源を行政サービスの向上のために振り向けられることです。・2つめは、社会保障・税に関する行政の手続で添付書類が削減されることやマイナポータルを通じて一人ひとりにあったお知らせを受け取ることができることや、各種行政手続がオンラインでできるようになることなど、国民の利便性が向上することです。
・3つめは、所得をこれまでより正確に把握するとともに、きめ細やかな社会保障制度を設計し、公平・公正な社会を実現することです。



 わたしは、送られてきたマイナンバーの封筒を開けてもいませんし、マイナンバーをすり抜けてきていますが、目下のところここにあるような「利便性」を感じることはできません。むしろ、余計な手続きが増えたことになっています。親切に良い意味で理解すると、たぶんこの制度は、未来社会に向けた行政のシステム構築の簡素化の一環だろうと思います。しかし、この日本社会は、行政も政治も(例えば原発行政など)ナアナアでいい加減に運営されてきているところがあります。つまり、独立した第三者機関(専門家だけでなく普通の素人も交えたもの)がほとんどなく、あっても十分に機能していません。今後は、このような独立した第三者機関が、システムの暴走という短所を抑制するものとして大切なものになると思います。そういうものがしっかりしていたら、わたしも監視カメラやマイナンバーを快く受け入れるかもしれません。

 最後に、「監視カメラ」は「悪事を心理的に抑制する効果があるとは思いますが」と、あなたは述べられています。少しはそういう抑制する心理的な要素もあるかもしれませんが、それは本質的ではないと思います。ちょっと違うような気がします。

 人が店や銀行を計画的に襲うような場合は、監視カメラがあってもそれを計算に入れてそれを迂回して実行するでしょう。また、人が人を傷つけたり殺したりするのは、それが計画的になされたとしても、現場のとっさの成り行きや精神が追い込まれてきた結果によって引き起こされるもので、「監視カメラ」ではそのことを抑制したり防いだりすることは不可能だと思います。それらの根本的な解決は、一つは、当事者の難しい生い立ちの問題があります。これは凝り固まった心身を当人がこの社会で生きていく中で少しずつ解きほぐしてゆくしかありません。もう一つは、この加速度のかかったような慌ただしい社会をゆったりした住みやすいものにしていくことです。そのための方策は、たとえば週休三日制やベーシックインカム制度(最低所得保障制度 )の実現などです。ずいぶん遠回りに見えるかもしれませんが、本質的な解決はその二点にあるはずです。


   項 目
Q8 お葬式や法事で、大人たちは読経しているお坊さんに合わせて自然に「なんまいだぶ」とか手を合わせてつぶやいているのに接すると、子どもであるわたしはどうしたらいいのかとまどいます。どう考え行動したらいいのでしょうか。

A8

 日常世界で現在まで残っている習わし (慣習)は、百年先はもう消えてしまうかもしれませんが、少なくとも現在の所は生き残ってそれが実行されることによって習わしに命が吹き込まれていることになります。遙か太古から死者を悼んだり弔ったりすることはあったようですが、そのことは変わらなくても、その弔いの形は変わってきています。同じお墓に死者を葬るにしても、半世紀くらい前までは土葬が残っていました。現在は死者は火葬してお墓に納骨する形になっています。また、現在の墓以前には、墓などを設けずに葬るという墓以前の形もありました。このように「死者を弔う」という習わしを貫く芯の部分は太古から不変でも、その形はいろいろと変わってきています。

 このような習わしの変化は、社会環境の変化の中で人々が知恵を絞って選択したものだと思われます。例えば、最近では、従来のように親戚やその他の人々をたくさん招くのではなく、身内の少人数で死者を弔うという「家族葬」の形式が葬儀社のメニューにもなっています。これは家族形態の変化や生や死に対する意識の変化から人々が選択し始めたもので、葬儀社もそれを受け入れ対応するようになってきたのでしょう。

 というわけで、社会の中の習わしは、同じ日本列島でも地域によって少しずついろんな違いがありそうですが、生活世界で人々の知恵が生み出してきたものという点では同じでしょう。ですから、子どものうちは大人たちに引き継がれている習わしを尊重して「見よう見まね」で、大人のまねで良いと思います。大人になるまでに何度かお葬式に出る機会があるはずです。そして、大人になったら、今度は自分でよく考えて、判断・行動すれば良いでしょう。例えば、鎌倉時代の浄土真宗の親鸞は名前くらいはご存じだろうと思いますが、その親鸞の考えなどをつかんで現在の習わしはどうなのか、など自分で考えてみることです。

 習わしも社会の変貌とともに少しずつ変化していきます。例えば、今から半世紀くらい前までは人が亡くなるとお葬式は町内の班総出で執り行っていました。だから、それぞれの家が2,3日は炊き出しやらなにやらその葬儀の支援にかかりっきりでした。これは当時の社会の有り様から生み出された住民の相互扶助(助け合い)でした。こうした習わしが大きく変貌したのは、高度経済成長期だったように思います。そこから、死や結婚や病気は、冠婚葬祭業者や病院の手へと移っていきました。それ以前は、葬式も結婚式も自宅で行っていました。また、めったなことでは病院にかかることもありませんでした。

 若いときは、世間に残る習わしを軽く見たり馬鹿にしたりしがちです。わたしもそうでした。習わしにも現在では悪習としか見えないものもあるかもしれませんが、現在にまで残って生きているということは過半は評価に値するものと思います。

 ちなみに、わたしの場合は、現在のお葬式の習わし自体をこの社会に生きる同時代の大多数の人々と同じく受け入れています。ただ、あなたのとまどいや疑問については、わたしはそんな場面で手は合わせますが、「なんまいだぶ」とつぶやくことはしません。その代わり、無言の内に「お疲れさん」「さようなら」などをつぶやいています。

 また、神社に参るときの手のたたき方や礼の仕方は、近代に考え出された割と新しい形であるとどこかで読んだ覚えがあります。以前からそれがなんか堅苦しいなと思っていたこともあって、それを知ってから、なーんだ、あまりそんなことに気を取られずに自由にやったらいいじやないかと思うようになりました。


   項 目
Q7 自由とはなんですか。
 
A7

 それは大きな問題を引き連れてくる難しい言葉ですね。
 この自由という言葉は、近代ヨーロッパのフランス革命(1789年-1799年)あたりから出てきた概念(考え方)だと思います。調べてみると、フランス革命以降、自由・平等・友愛(博愛)という理念(まとまった根本的な考え方)としてまとめられ、フランス憲法に規定されているそうです。

 自由という概念が社会状況に迫られて近代ヨーロッパに生み出されたものだとしても、それに連なる考え方はヨーロッパの中世やギリシャ・ローマ世界にもあったはずです。また、考え方や人間の捉え方がずいぶん違うとしても、自由に関わる考え方はわが国においてすら存在していたはずです。これらは人類の歩みの中の共通のものとして捉えることができそうです。すなわち、自由という概念は、いろんな困難な問題を抱えながら人と人とが関わり合って生きているこの人間界において、人間の理想のあり方を追い求めるものだと言えます。「追い求める」という言い方には、その自由というものは一挙に現在に実現できるものではないということが意味されています。

 自由という概念は、個人という存在が社会の中で重要な存在として浮上してきた近代ヨーロッパに起源を持っています。それ以前の人類は、共同社会の中に個人は埋もれた存在としてありました。つまり、それはそれでそういう社会で人は現在のわたしたちと同様にある程度自足しながら生きていたものと思われますが、現在のようにはっきりと個人としての考えを述べたり立場を主張しようとすれば大きな困難が立ちはだかってきたものと思われます。

 この自由という概念を人類社会というさらに大きな視点から眺めてみると、人がこの人間界(社会)でどのように他人と関わりながらその好ましい生き方を貫くことができるかという問題になります。そうして、現在のところでは自由の有り様を強いて分離してみると、自由には(心地よい風のような自由)と(濁った水のような自由)があり得るように思われます。前者は何かの制約が襲ってきたりすることなくまた他人を傷つけたりすることもなく自分が気ままに行動(表現)できるもの、後者は何かの制約にぶつかったり他人に迷惑をかけたり傷つけたりしないと実現できないもの。この二つの自由を誰も免れることはできません。現在のところは前者のような自由がきわめて部分的にしか成り立たないとしても、すなわち、現在までのところでは、自由には明と暗とがあり、人間の有り様や社会のあり方が長い時間の中でよりよくなるにつれて前者のような自由の実現も拡大していくのではないかとわたしは思っています。

 自由という概念には、よりよいものを追い求めるという理想性が含まれているとしても、現実の場での具体的な自由自体の有り様には、個人の病的な部分も立ち現れてきます。マスコミを通して現れてくる日々の事件の数々は、たとえそれが当事者の性急な願望や欲求を実現したいという自由だとしても、現在の所、わたしたちがそれを否定的に捉えざるを得ないような(濁った水のような自由)の実現だろうと思います。

 このように自由は、近代ヨーロッパ起源ということに狭く閉じ込めることなく、人類の歩み、すなわち歴史とともに姿形を変えても、大いなる自然(宇宙)の下偶然のように人が生きている、それがたとえはかない時間だとしても、わたしたちが人間界に生み出し続ける人の理想のあり方やその実現への欲求として、大きなひとすじの流れ、そしてその中の各段階として描くことができるように思われます。


   項 目
Q6 古代人の考え方は今とどう違いますか?
 
A6

 まず、「古代」や「古代人」といっても、どこで区切るかなかなか難しいところがあります。日本史では、古代国家の成立から平安時代辺りまでを「古代」と見なしているようです。現在とは違って、人は死んでもまた生まれ変わるという輪廻転生(りんねてんせい、りんねてんしょう )の考え方が社会の主流として存在した社会の段階やそこにそれを自然なものとして生きた人々を、日本史の区分とは違って「古代」や「古代人」と呼ぶとすれば、江戸初期あたりまではあてはまるように思われます。ちなみに、吉本(隆明)さんは、江戸中期の蕪村という詩人の詩の分析を通してその頃には近代社会の萌芽(ほうが)のようなものが見て取れると述べています。また、その古代人の考え方や世界観は、現在でも砕けた破片としてわたしたちの中にいくらか残っています。

 質問の古代人の考え方や世界観は、現在のわたしたちが割と自然なものとして受け入れている考え方や世界観とは大きく異なるものであり、それは次のような言葉に見て取れます。


ただしかし古代人の基本的な考え方から申しますと、病気というものは、自分の中にそういう疾患が何らかの関係で生まれたというふうには考えないのです。必ずやこれは外から、何らかの禍いが入りこんで、こういう業(わざ)をしていると考える。昔の人は淳樸でありました(註.1)ので、悪いことをするということはない。だからもし犯罪を犯しましても、彼が悪事を意識してやったとは考えないのです。そのときだけ悪い霊が入ってきて、この者を借りて、こういう行為をさせた。だからお祓いをすれば、それで清められる。罰は加えないのです。罰という観念がないのです。病気も同様です。これは悪いものが入ってきて、一時的にこういう現象を起こしているのであるから、何らかの方法でその禍をのぞくならば、病気は治るのである、という考え方をもっておった。だからおそらくこの時代には、あまり医療(引用者註.この医療は、現代的な意味の「医療」ということ)という方法はなかったであろうと思う。やはりシャーマニズム的な世界であるから、お祈りをして治すということをしたのではないか。・・・中略・・・
 医者の医という字は、一番古い形は矢を使う。これは呪矢であって、お祓いをする矢です。矢には悪霊をはらう力がある。だから、病人を密室へ閉じこめておいて、その呪矢で祓うのです。
(白川静『文字講話Ⅲ』P117-P119)



(註.1)
「昔の人は淳樸(引用者註.じゅんぼく。「かざりけがなく素直なこと。人情が厚くて素朴なこと。」)でありました」という捉え方は、すぐれた民俗学者の柳田国男もしています。近代以前の社会は、現在の目まぐるしく移り変わる慌ただしい時間とは違い、また社会の規模も複雑さも今ほどではありませんから、人々の内を流れる時間ももっとゆったりしていたはずです。ちょうど川辺の鳥がえさの魚が来るのをじっと待つように、ゆったりしていたものと想像されます。


   項 目
Q5 深刻に悩んでいる人に対して、「大自然の雄大さに比べて人間はなんてちっぽけなんだ。だから、そんなことくらいでくよくよするな。」というような慰め方があります。理由ははっきりは言えないけどそれに少し異和感を持っています。どう考えますか?
 
A5

 確かに深刻に悩んでいる人にその内側から理解の目を届かせ、言葉をかけるのは難しいことです。誰もが深刻に悩むという経験の一つや二つはあると思えますが、かといってその自分の経験をたよりにしてもできるだけ内側から相手を理解しようとすることは難しいことです。わたしたちは同じ地域や同じ国にいたり同じ言葉を使っていても、一人一人違った固有の育ち方をしてきているからです。同じ家族の中の兄弟姉妹間でもそうです。だからどうしても、あなたが見かけられたような外側からの中途半端な慰めの言葉をかけるということになりがちです。

 ところで、あなたの求められているような解答をずばり言うことはわたしにはできませんが、その解答のためには何が大切かという、少し遠回りになことは言えるかもしれません。

 まず、根本的に大事なこととして、他人が相談に乗ったり少し手助けしたりして相手の悩みを軽減することはできても、人は子どもであれ大人であれ、最終的には自分自身で押し寄せる問題を解決しなくてはならないということがあります。

 その場合、深刻な悩みの渦中にいる人は、心が問題に囚われてしまっていてある方向に硬直してしまっていますから、自分の姿を冷静に落ち着いて考えることが難しい状態にあります。そういうわけで相談できる他人がいてその言葉に触れるということは、その硬直を解きほぐすためにも貴重なことだと思います。

 それに加えて、当事者自身が深刻に悩んでいる問題の本当の姿をつかむこと、言い換えれば正しく悩むことが大切なことです。そこで、あなたの言われる慰め方は正しいのかどうかに触れておきます。
 人の世界との関わり方には、現在のところ三つの層があります。したがって、人と世界の関わり方を考える場合の考え方にも三つの層があり、一般的にはそれらの三つの層は混じり合って登場することが多いです。遙か太古にはその三つは、一つに溶け合った世界として人々に受けとめられていたはずです。しかし、現在ではその三つに分化してきました。その三つとは、

1.大いなる自然(宇宙)-人間(わたし)の関係
2.人間世界-人間(わたし)の関係
3.人間世界の中の自分の日々の小さな生活世界-わたしの関係

 1.は、例えばわたしたちが大自然を前にしたときとか、大自然のことを考えるときとか、人間がこの世界に存在することのふしぎさについて思うときなどの関係(意識)です。

 2.は、人間が生み出し築き上げてきた社会というもの、それに対する人の関係(意識)や、その中での人と人との関係(意識)です。これは、一人一人の具体性をはずれて少し抽象的、一般的な捉え方になります。これを3.の具体的な問題に対して直接持ち出すと「上から目線」として場違いで嫌がられることになります。

 3.は、この人間世界のごく一部、わたしたの誰もが日々生きている日常世界でのことです。その小社会に対する関係やその中での人と人との関係の問題になります。わたしたち誰もが重力の中心の場としてここに生きています。他人から見ればちっぽけな問題でも当事者にはとても深刻で解きにくい問題ということがあり得ます。そして、動植物たちと同じように、この小さな日々の世界をわたしたちは悩みあるいは喜びながら半ば意識的に半ば無意識的に生きています。

 ここで、あなたが耳にした慰め方への異和感に触れてみます。その慰め方は、3.とは違った1.の世界の関係や考え方だから、1.の世界の人と人との関係の悩みとは直接は無関係なものです。もちろん、どんな言葉にもその人の心や情感が張り付いてきますから、ちょっと場違いでも当事者が少し心が軽くなるということはあるかもしれません。しかし、ほんとうはアドバイスする人も当時者も3.のこの小社会における人と人との関わり合い方として考え、問題にまともにぶつかったりそらしたり妥協したりなどとして具体的に考えるべきだと思います。世の中には自殺する人々もいます。そのようにどうしようもない、抜け道がないと当事者には思われる難題が降りかかることもあるかもしれませんが、できるだけ心の窓を開放しながらぶつかっていくしかありません。

 以上、いろいろと述べてみましたが、わたし自身が深刻な悩みに落ち着いて十分に対処できているわけではありません。自分への自戒を込めて考えてみました。


   項 目
Q4  人はどうして遙か太古のことを想像できるの? 
 
A4

 また、前回と同じ人類学者に登場してもらいます。彼女が当時の様子を想像する場面が記されています。その「氷河期の風景」の想像には、現在までに蓄積されてきている地形学や気候学などの研究成果が背景としてあります。


 イメージがどんな場所に描かれているかは、解釈においてたしかに重要だ。記号は陽も当たらず、インスピレーションのもとも一切ない、真っ暗な洞室に隠され、世界や日常生活から切り離されているように思われる。でも私たちは記号がつくられた目的を解釈する際、洞窟という空間に影響されすぎているのかもしれない。洞窟は私たちにとってはふだん訪れない、暗くてやや危険な、日常生活とかけ離れた場所だが、遠い祖先たちが洞窟をどう感じていたかはわからない。洞窟は彼らにとっても神秘的な場所だったのか、それとも彼らは洞窟を私たちとまったく違う方法でとらえていたのだろうか?氷河期の人々は洞窟のなかには暮らさず、入口部分やその周りに住むことが多かった。つまり彼らにとって、洞窟は裏庭のようなものだった。彼らは身近な洞窟を、風景の一部のように感じていたのだろうか、それとも実世界から切り離された地下世界への入口ととらえていたのだろうか?
 この問いは大きな手がかりになりそうだ。そこで彼らになったつもりで、芸術制作の動機(複数あるかもしれない)を考えてみよう。氷河期には洞窟以外の場所にもイメージが描かれた。岩陰が装飾されていた例ももあれば、希少な野外の岸壁画もある。とすると、これまで洞窟壁画が多く残っているのは、洞窟が芸術制作のための特別な場所だったからではなく、単に保存状態がよかったからなのだろうか?
 この疑問を解くべく、私は研究に着手した最初のシーズンに、ポルトガル北東部のコア渓谷にある野外遺跡群を訪れた。資料の写真ではすべての線刻画が動物をモチーフにしているように見えたため、まず遺跡の主任考古学者にEメールを送って、幾何学記号もあるかどうかを問い合わせた。そこで記号があるという返事が得られたので、自分の目で確かめることにしたのだ。でもこの決定が私にとってこれほど大きな意味をもつことになるとは、その時は想像もしていなかった。思いつきのようにして決めたこの小旅行を機に、岩壁画に対する私の考え方はすっかり変わってしまったのだ。
 ・・・中略・・・
 地中海沿岸らしい、カラッとした陽気だ。大気中に視界を曇らせる湿気がほとんどないため、スペインとの国境沿いにあるコロア山まで見わたせる。遠い祖先がどんなルートで周辺を移動していたかを、ポルトガル人の研究仲間が教えてくれた。
 ここに人間の手が加わる前の氷河期の風景を想像してみた。当時も今と同じ乾燥した気候だったが、気温は数度低かった。岩がちな丘の頂は、蛇行する何本もの川によって分断され、今と変わらぬ木や苔が生態系をなしていたのだろう。岸壁画を描いた初期の人類が日々眺めていたのも、この光景だ。ヨーロッパのほかの地域では氷河期以降、環境が激変したが、ここポルトガル北東部の隅っこでは、そのときから時間が止まっているかのようだ。
 ・・・中略・・・
 雨風をしのぐ岩陰もないこの地域に、氷河期の岸壁画が残っているのは、珍しい条件がそろっていたからだ。要因は二つあり、一つには数万年前からほとんど変わらない乾燥した気候のおかげで、岸壁画が風雨の浸食を受けにくかったことがある。二つめが、太古のしるしの刻まれた岩の種類だ。これまで発見されたヨーロッパ初期の岸壁画は、石灰岩に描かれたものがほとんどだが、この地域には石灰岩がなく、代わりに使われたのは耐久性が高く、石灰岩のように崩壊、崩落することのない、結晶片岩(シスト、変成岩の一種)だった。
  (『最古の文字なのか?―氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』P234-P237  ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー 文藝春秋 2016.11.10)


 これら野外の岸壁画は、当時の人々にとって神聖な場所だったと考えられている洞窟のなかの壁画に、テーマといい技法といい、驚くほどよく似ている。そうした壁画が、人々の生活拠点だった場所、住居からほんの数十メートルの場所に描かれているのだ。岸壁画は公開され、谷に暮らす人たちや訪問者は誰でも見ることができたにちがいない。彫刻されたばかりの絵は目を引いたことだろう。いまでこそ風化して色褪せているが、当初は濃い色の岩に真っ白な線が映えていたはずだ。
 私の頭のなかでは疑問が渦巻いていた。自然風景を装飾するのは、氷河期にはあたりまえのことだったのだろうか?旧石器時代には、集落を装飾する集団はほかにいたのだろうか?野外の岸壁画は、選ばれた少数の人たちだけの私的で特別なものだったのか、それとも日常生活に組み込まれた、万人が愛でる公のものだったのだろうか。当時は両方のタイプの芸術が共存していたのだろうか、そもそも公私の絵の区別はあったのだろうか?
 ( 『同上』P238 )



 今までの研究では、洞窟内は当時の人々にとって宗教的なふんい気に満ちた特別の空間と見なされ、宗教的な意味としてその岸壁画が論じられてきましたが、ここでは、洞窟内とは違って残りにくいけど屋外の遺跡、そこに描かれた岸壁画も洞窟内の岸壁画と同じ性質のものではないかと思いながら、「ポルトガル北東部のコア渓谷にある野外遺跡群を訪れ」ていく場面です。これは、従来の岸壁画の捉え方からの修正に当たると思われます。この若い人類学者自身は、引用部分にあるように太古の世界に表現されたものをまだ断定的に捉えることができていませんが、訪れた地の岸壁画(ポルトガル、「ビスコス川とコア川の合流地点を見下ろす丘の上の野外石版に描かれている」)に描かれた「曲刻模様の線刻画」は、その川の様子を捉えた「具象的なイメージ」であって抽象的な「幾何学記号」ではないのではないかという現地で気づいた知見も書き留めています。

 わたしたちが太古のことを考える場合、たとえば個人の姿形や考えなどの表面は変わっても性格の根っこの部分はずっと生涯続くように、人間の本質的な根っこの部分は太古も現在もたいして変わらないのではないかということ、つまり、人間的な同一性ということに支えられています。といっても、自然環境も人間界の環境(文明の水準)も現在とは大きく異なっていますから、ものを感じたり考えたり作り出したりという本質では現在と同じでも、そのものの感じ方や考え方や作り出し方は大きく違っているように思われます。したがって、研究者たちは、現在までの様々な分野の研究成果を踏まえながらも現在のものの感じ方や考え方などをできるだけ振り切って、当時の残されたもの(遺跡や遺物)にたくさん当たって比較検討しながら、太古の世界を捉えようとします。どうして、現在のものの感じ方や考え方などをできるだけ振り切るかと言えば、現在に生きているわたしたちは、どうしても現在的な視線であらゆるものを見がちだからです。

 以上述べたことは、現在と太古という時間的な中のことですが、このことはたとえば現在を生きているわたしが、親しい友人あるいは無関係の他者の心の有り様を捉えようとするという空間的な場合にも同様の困難が起こってきます。

 このように、わたしたちの現在もまた、この世界の理解においてまだまだその途上にあります。


   項 目
Q3 人類はアフリカ起源で、アフリカを出て各地に拡散していったと言われていますが、その様子はどんなものだったの?
 
 
A3
 わたしは素人ですから、学者の最近の本からそのあらましを紹介します。

 人類がいつどのようにしてアフリカを出たかについては、年代測定技術の向上と遺伝子解析のおかげで、ここ数年間でかなり多くのことがわかっている。簡単に説明すると、出アフリカの第一波が始まったのは約六万年前で、このルートが開かれたのは主に近東の環境条件が変化したためだった。祖先たちの一部(私の祖先もだ)が東地中海のレヴァント地方に住むネアンデルタール人と交配したのがこの頃だということが、ゲノム研究からわかっている。最近になって約七万五〇〇〇年前のインドの遺跡で石器が発見されたことにより、それより早くアフリカを出た、度胸のある冒険者たちがいたことが判明したが、考古学とDNA解析により、大規模な出アフリカが始まったのはその一万五〇〇〇年あとのことと考えられている。
 アフリカを出た集団は、どこか特定の場所を目指していたわけでなく、旧世界に徐々に進出していった。狩猟採集を行いながら二〇人から五〇人ほどの集団で暮らし、各集団は生活を維持するために二六〇平方キロほどの土地を必要とした。人数が増えすぎて生活を維持できなくなると、集団は分割され、占有されていない新しい土地に進出するものも出てきた。単によい食料源を求めて移動し、それが枯渇すればまた移動をくり返す集団もあった。こうした行き当たりばったりの方法で、人類はヨーロッパ、アジア、オーストラレーシア(オーストラリア大陸とその周辺の島々)に拡散していった。
 近東に到達し、そこに定住した集団もあれば、そこから東に向きを変えてインドやアジアの海岸沿いを進んだ集団、少数だがオーストラリアに舟で向かった集団もあった。多くの場合、彼らは大変な速さで各地に散らばっていった。オーストラリアの南東部の乾燥地帯にあるマンゴ湖の先史時代の遺跡周辺で、四万年以上前に象徴的埋葬が行われていたことから、アフリカからの最初の出発はかなり早かったと考えられる。また最近ではインドネシアのスラウェシ島で、約四万年前の壁画が発見された。つまりこの壁画は、ヨーロッパ最古の壁画と同じ頃に描かれたことになる!またこのことは、現生人類がこれほど早い時期にオーストラレーシア全体に広く拡散していたことを裏づけている。
 考古学と遺伝学を組み合わせた手法により、黒海の北を回って中央アジアに入るいくつかのルートがマッピングされ、シベリアと北アジアへの定住が、初期人類が西へ向かいヨーロッパ全体に拡散するより前に始まった可能性が明らかになった。シベリアで発見された四万五〇〇〇年前の男性の骨のゲノム分析により、祖先たちがこの頃すでにシベリア東部に定住していたことがわかっている。その後ほどなくして、小集団が大陸の西方へ徐々に移動し始めた。初期の人類は、これまで考えられてきたようにアフリカから直接ヨーロッパにわたったのではなく、より眺めのいい道をたどったように思われる。
 (『最古の文字なのか?―氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』P85-P87  ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー 文藝春秋 2016年11月)



 この人類学者は、人類の出アフリカの歩みを具体像をまじえて描写しています。そのよりどころは、現在までの年代測定技術や遺伝子解析や考古学などの研究の積み重ねとこの学者の探求の成果です。この人類の出アフリカと各地への拡散は、昔よりずいぶん細かに詳しく描くことができるようになってきています。それでもまだまだ不明な部分もたくさんあると思われます。本書では、太古に洞窟に描かれた動物や記号について、その意味をどう理解したらいいのかということについての様々な過去の捉え方の変遷を紹介しながら、自分の考えを形成しようとしていますが、まだまだその途上のようです。したがって、まだまだ発掘されていない遺跡もあるでしょうし、この著者を含めて絶えることなく研究は続いていくはずです。わたしたちもものを考える上でその研究成果の恩恵を受けることになります。しかし、未来においてまた人類の出アフリカと各地への拡散のイメージが大きく書き換えられるということもあり得うるかもしれません。わたしたち人間の歴史は、さまざまな分野でそういう紆余曲折を経て、しだいにクリアなイメージを獲得してきています。


   項 目
Q2  大自然を見ると人はなぜ感動するの?
 
A2

 大自然の雄大な光景を目にすると、ああすごいな、すばらしいなと人は一般に感動します。しかし、わたしたちの身近なところにある、何万年も経っているかもしれない小石や川などの自然に対しては普通はたいして感動することはありません。

 これと同じような構造として、わたしたちの知り合いがスポーツや芸術で表現してもそんなに熱烈に感動することはありませんが、自分がその分野に興味関心がある場合は特に、芸能人やプロのミュージシャンやプロのスポーツ選手を熱狂的に応援し、熱狂的に感動することがあるように思います。わたしの場合は、いいなという俳優さんはいても、その人の芸としての表現以外の個人的なことには熱中するということはありません。もちろん、それって何だろうとふしぎな気持ちは持ちますが熱中する人を非難する気持ちもありません。個々それぞれの有り様でいいんではないでしょうか。

 しかし、現在のそのような特別の人への感動や熱中にはとても深い背景があります。この特別な自然や特別な力を持ったプロのミュージシャンなどへの感動の根っこにあるのはは、人類の初期からのものだと思われます。繰り返された大いなる自然の猛威と慈愛、そのことの圧倒性に人が感じ考えたことは、代々受け継がれながらまた大いなる自然の猛威と慈愛に出会ってきました。そういうことを繰り返した中で、大いなる自然は、わたしたち人間がとてもちっぽけに見えるほどの圧倒性を持った特別の存在となっていったと思われます。育ててくれる母の前では全くの無力な存在である赤ちゃんが、母とのやりとりの中で、ひとつの物語をそれぞれ刻んでいくように、人間もまた、大いなる自然との関わり合いの中でひとつの物語(神話)を作り出していきました。その物語(神話)の中身は世界の各地の地域的な諸条件でいろんなバリエーションがあったとしても、人間に猛威をもたらすと同時に慈愛を持った大いなる自然という絶対的な特別の存在との交渉という根幹のモチーフは同一だと思われます。この列島のアイヌにも遺っていましたが、岩や木や川などありとあらゆる自然物が、神と見なされていました。

 このような人間と大いなる自然との交渉の物語(神話)を生み出した人間の感じ考えることは、人間世界が発展して膨張して行くに従って、今度は人間界で特別な力を持っていると見なされた人々への意識に横滑りしていきます。まずは、神と交信して神の言葉を伝えたり神に願い事を伝えたりできるというシャーマンや巫女と呼ばれている人々、次に、集落の規模が大きくなり、小さくても国家と呼べるようなものが成立すると、首長や武将なども特別の存在と見なされるようになってきます。

 こうして、とても長い時間の中で、人間と大いなる自然との交渉の物語(神話)は、人間界の拡大にしたがってその物語(神話)は後景に退き、次第に人間界内での人と人との交渉の物語(神話)に変貌していきます。『古事記』などに描かれた神々は、実在の誰々家の祖先であるとかいう説明が書き記している場合があります。ということはその神々はウルトラマンみたいな人間を超えた存在ではなく人間的な規模の存在ということでしょう。古事記を読むと、今でいう超能力を発揮しますが、人間的なイメージも込めてあるように見えます。それらはアイヌの神々を含めて、その神々たちは後の時代から振り返り捉えられたような人間を超越した巨大な抽象化された神々ではなく割と人間くさい規模の神々だったように見えます。

 それが、次の段階になると、もはや神ではなく、特別の勝れた武将などを従来の神に対するようなイメージで捉えていくということになります。ここから、現在の芸能人やミュージシャンやプロスポーツなどをやっている特別の存在へのわたしたちの眼差しやイメージへとつながってきています。

 ひと言で言えば、怒れると同時に慈愛に満ちた母と同じような大いなる自然は、わたしたち人間を生み出した故郷であり、と同時にちっぽけな人間を超えた大いなる存在だから、目の前に大きく立ち現れたら圧倒され感動するのでしょう。


   項 目
Q1 太古の自然環境はどんなだったの? 

A1

 まず、太古といっても、数億年前から数千年前まであり、人類の誕生以前を含む時間の尺度なのか、あるいは人類の誕生からの時間の尺度なのか、ということがあります。人類の誕生より遙か以前を考えるなんて、少し不思議な感覚になりますが、これは人間が考え出した、この世界を測ろうとする「時間」というものさしの性格から来ています。

 ネットで調べてみるとわかりますが、太古の地球や日本列島の姿は現在とは大きく違います。また、後で述べますが、現在に近い日本列島が形成された後にも、大きな変動が起こっていたということがわかっています。

 わたしたちのものの考え方は、わたしたちの生活が、この列島のそれぞれの地域の現在、つまり、「今」「ここ」にありますから、どうしてもその重力の影響下にあります。いわば無意識的にも現在のものの感じ方や考え方で太古や過去の世界をイメージしがちです。だから、太古や過去の世界に出かけていくときにはそのようなことに自覚的であることが大切です。

 現在までの研究によれば、数億年前や数百万年前の地球は、現在の世界地理(地図)とはずいぶん違っています。それは人間の生涯とは比べものにもならないほどの大きな時間の中で、とても大きな変貌を遂げてきています。また、日本列島のユーラシア大陸からの分離と誕生もそういう大きな時間の中で起こっています。(2017年の7月23日と30日の二回にわたって、NHKスペシャルで「列島誕生 ジオ・ジャパン」という番組を放送していました。)ネットで調べてみると、これらの地図や変貌の動画などの資料がありますから、興味がある人は調べてみたらいいと思います。このような大きな時間のスケールでの大きな変貌は、未来においても当然あり得るものと思われます。

 ところで、今わたしが読んでいる本に次のような人類学者の言葉があります。このような判断は、当然現在に残された化石や地形の特徴や現在的な探査技術の水準を踏まえて判断しているのだと思われます。

 氷河期末期のヨーロッパの地形や環境は、今とは大きく違っていた。当時のイギリスはヨーロッパ大陸と陸続きで、現在は英仏海峡の底に沈んでいる広大な平野でつながっていた。北欧諸国とシベリア平原の大部分は、四キロメートルの高さにそびえる巨大な氷床に覆われていた。大量の水が地上の氷に閉じ込められていたため海面が低下し、地中海と大西洋岸沿いに新しい海岸平野が現れた。


 遠い祖先が暮らしていたヨーロッパは、私たちの今知る大陸とはいろいろな意味で別物だった。生息する動物も、地形や気候もまったく違っていた。先史時代の祖先を深く理解するには、彼らがどんな世界に暮らしていたかを知らなくてはならない。なぜなら彼らは見つけた土地を変えるだけでなく、土地によって変えられてもいたからだ。
 (『最古の文字なのか?―氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』(P84-P85 ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー 2016年)


 本書は、洞窟に残された図形や記号の研究から、「現代的精神の芽生えは五万年前から四万年前の、『創造の爆発』と呼ばれる急激な変化のなかで起こったというのが、二〇世紀を通じての古人類学の定説だった」(P50-P51)が、これはもっと早くから人類は認知や知性の力を獲得していたのではないかという研究です。このように、定説も次々と塗り替えられていくことがあります。しかし、現在までの知見を踏まえてわたしたちは判断するほかないですから、誤りを犯すこともあります。例えば、この定説を踏まえて、人類学者でもある中沢新一という学者が、その頃に人間の脳の急激な進化が起こり、「流動的知性」を獲得したのだと盛んに論じていました。その定説がもし誤りとするならば、時期は別にして人類の「流動的知性」の獲得ということは言えるだろうから、中沢新一の考えの一部は修正されなくてはならないということになります。

 次に、もう少し私たちの現在に近づいた時代のことを取り上げてみます。縄文時代や弥生時代と呼ばれている頃のことです。


 たとえば、樋口清之さんという考古学者の論文によりますと、神武天皇は実在だというふうに言いませんが、しかし橿原というのは、縄文時代晩期の遺跡があるところだったといっています。ですから縄文晩期に、大陸で発達した弥生文化が― 言ってみれば、稲作を基にした文化が― 九州から南九州までを占めてそれが近畿地方に進出してきた。つまり弥生文化が進出してきたということを、神話の「神武東征」は象徴することができているといっています。つまり「神武東征」という神話は、弥生文化(稲作文化)が近畿地方の大和盆地に入ってきたひとつの象徴であり得るのだというふうに言っております。
 そういうことで、縄文遺跡のある所と、あったかどうか分からない幻の初期の王朝の宮殿があったとされる所とは、対応しているということが、この地図(引用者註.「ランドサットの地図」)上のイメージでなんとなくわかります。
 
 樋口さんの考え方は、弥生時代には奈良盆地あるいは大和平野は海抜四五メートルから五〇メートル以上の所が陸地であって、それより低い所は、全部湿地帯あるいは湖であったと論文で書かれています。そうすると弥生時代の遺跡は少なくとも海抜四五メートルか五〇メートル以上の所にしかない。樋口さんの論文では、「奈良朝以前では、海抜四五メートル以下の大和盆地には、いかなる住居跡も見つからない」というふうに述べられています。つまり、そこは湖だったということを意味するわけです。
 縄文時代にはどうだったかと言うと、大体海抜七〇メートルから七五メートルという線が、湖岸線であって、それより海抜の低いところは、全部湖だったというふうに言っています。湖の中だったのだから、縄文遺跡が中にあったらおかしいわけです。やはり外のほうの、この周辺部にあるというのは当然だということになります。大体海抜七〇メートル線というのが、縄文遺跡の分布している所だというふうに樋口さんは言っています。
 (『幻の王朝から現代都市へ―ハイ・イメージの横断』P13-P15 吉本隆明 河合文化研究所 1987年12月) ※1987年7月の講演



 この話では、『古事記』に載っている「神武東征」の話が、きちんと当時の地理的状況に合っているということが言われています。神話というと現在から見ると荒唐無稽な現実にありえない話に見えがちですが、そういう点から見てこの「神武東征」は荒唐無稽な話ではなく神武天皇が存在したかどうかは別にして、似たような勢力の移動があったのではないかということを推測させる根拠になっています。

 今から約6000年前の縄文時代前期に、ピーク時の海面は現在より約5m高い(約10mという記述もあります)海水面の上昇が起こったと言われています。これを「縄文海進」と言います。縄文時代の晩期頃から弥生時代の初め頃にかけては、今度は海退(海岸線の後退)が起こったといわれています。これらの大自然の大変動が、当時の人々の自然に対する意識や生活に与えた影響は大きかったと思われます。上の話は、こうした自然環境の大変動がその背景としてあります。












inserted by FC2 system