1.子どもでもわかる世界論のための素描

  
  ―宇宙・大いなる自然・人間界論



  目 次

   項 目  掲載日 
0.  ひとことで言えば  2016.03.24
1. なぜ今、世界論なのか 2016.03.27
2. 世界論の入口へ 2016.04.09
3.  世界論の言葉  2016.04.19
4.  世界内存在としての人間の有り様 1  2016.05.22
5.  世界内存在としての人間の有り様 2  2016.10.24
6.  層成す世界 1 2017.01.17
7.  層成す世界 2 2017.01.18
8.  層成す世界 3 (覚書)  2017.01.21
9.  世界論(世界観)は変貌する  2017.01.29
10.  日差し浴び・活動し・味わい・考え・生きる 2017.01.31
  あとがき (訂正版) 2017.03.01 

 ※ 文章にたどり着きやすいように一つおきにリンクを張りました。







2.子どもでもわかる世界論

    ―宇宙・大いなる自然・人間世界論



  目 次

   項 目  掲載日
0.  はじめに  2017.06.10
1. わたしたち「人間」は何者でしょうか 2017.06.10
2. 言葉としての人間  2017.06.19
3.  世界内存在としての人間の有り様  2017.06.22
4. 世界観(世界論)は変貌する ① 2017.07.03
5. 世界観(世界論)は変貌する ② 2018.05.11
6.  人の心も世界も層を成している 2017.09.10
7.  主流ということ ①  2018.10.22
8. 主流ということ ② 2018.12.17
9. 重力の中心、生活世界に普通に生きる 2019.01.13
10. あとがき 2019.01.13

※ 4.と、ナンバーを5.から6.に変えた文章との間に今回の5.を挿入しています。





3.小さい子のための世界論

        掲載日 2019.2.12


  ひとこと

 前回の『子どもでもわかる世界論』を終えて、ここまでやって来ました。
やっとこれで一区切り付いた感じがしています。いろいろ不十分さがある
のは実感していますが、とりあえずこれで終わりにします。
 『子どもでもわかる世界論 Q&A』は、まだ続きます。
               2019.2.12












1.子どもでもわかる世界論のための素描


 0.ひとことで言えば


 老いというものも境界や性格が不確かなものになり、そういうことは不可能に近い、難しい時代(段階)になってしまいましたが、太古の小さな集落の長老たちが青年や子どもたちに語るように、この世界の成り立ちと有り様とその下のわたしたち人間の生きることについて深みを持った言葉として語ってみたい誘惑に駆られることがあります。現在そういう文体で語るのは不可能だとしても、どこかでそれを意識しながら書き進めてみようと思います。もちろんまずは、「こうではないだろうか」「そうかもしれないね」というような自己対話として。そのことが同時に子どもでもわかってくれるような言葉であればいいなと考えています。

 現在から見渡せば、人間が、他の動物たちとの違いにめざめたり自然に対する意識のようなものが芽ばえたりして大いなる自然に自覚的に関わり合う中から、初源では吹けば飛ぶようなちっぽけなものであったとしても、人間は防壁のようにこの大地に人間界を築き、自然に神を見、次には人間界に神を引き入れ、神々や神話を生み出し、次第に高度で複雑な社会を構成するようになってきました。

 この人間界においては、動物たちとはずいぶん違って、自分の手足を動かしたり知恵を出したり、出し合ったりするというような、互いに関係を結び、人間力を働かせること、つまり、〈自力〉は不可避のものだと見なされてきましたし、不可避なものとして日々行使されています。この人間界では、大人になって社会に出て行けば、現在では特に〈自力〉中心の世界になってしまいます。けれど、生まれて間もない赤ちゃんは生きていく上で親に頼らざるを得ません。動物と違って、人間の場合は〈自力〉で生きていくまでは、親や家族という〈他力〉の下の生活をせざるを得ない時期も持っています。さらに、わたしたち人間は社会というものを生み出し、そこに関わり合いながら生きていくというようになりました。その社会というものの本質は、人間力の生み出したもので、相互扶助としてわたしたちを助ける〈他力〉に当たります。

 また〈自力〉中心の世界にも、一方に人間が動物生の段階にあった時の名残でしょうか、動物たちのように気ままそうにのんびり何も考えないように過ごしたい願望も潜在しているように見えます。付け加えれば、こういう願望や内省は、人間界の主流の流れへの軌道修正力として働くように思います。というのは、人類史は、人間がよりよい生き方の理想を追い求めてきた一方には、邪悪と呼ぶほかないような、人間性由来の社会や国家を貫いてきた権力や支配という負の共同性とも言うべきものの存在と歴史が今なおあるからです。はじまりにおいては、仕組みや組織を生み出したのはおそらく良いことをもたらすつもりが、人間性が集団の中で振る舞う中に誰にも湧き上がり得る邪悪さにねじ曲げられてきたということだと思われます。

 人間界の防壁を超えて見渡してみると、ちょうどわたしたちがなぜこの世界に生まれ落ちたのかについて、今では医学的な理由は明らかだとしても、なぜか何かふしぎな部分が残るように、この宇宙の下のわたしたち人間の存在というものもそれ以上にふしぎな思いに捕らわれます。この宇宙の下のわたしたち人間の存在というものを考えてみるとき、まず湧き上がってくる言葉は、先の赤ちゃんの時期と同様な〈他力〉という言葉です。人間がどんなに高度で複雑な社会を築いてきたとしても、太古よりは人間の科学力も高度化して、よりはっきりと、より深くこの世界や宇宙を探査できるようになったとしても、また人間は人間界では〈自力〉中心にしか見えないとしても、宇宙という側から人間を眺めたら、この宇宙の微少な点のような所に偶然のように生まれたということをイメージしただけでも、人間という存在は〈絶対他力〉の存在、別の言い方をすれば、この世界の根幹に対する〈根源的な受動性〉を刻印されていることになります。

 動植物もわたしたち人間も、限られた短い時間しかこの大いなる自然の中に生きて過ごすことはできません。現代の知見では、枯れたり死んだりしたら太古の輪廻転生の生まれ変わりとは違って、この宇宙内の物質として還元されます。それでも、動植物もわたしたち人間も、うんざりしてこの世界からすぐに立ち去ることなく、この世界の日差しを浴び大気を呼吸しながら、日々の慌ただしい生活に埋もれるようにして、その裏面では限られた生涯を味わいながらその意味をたどるような旅をします。現在の動植物もわたしたちも、ともにその旅の途上にあると言えるでしょう。宇宙の下人間界に生きるわたしたち人間は、〈絶対他力〉と〈自力〉の二重性を生きています。普通は人間社会での日々の生活に重力の中心がありますから、〈自力〉中心の世界に見えますが、ふと自分を振り返ったりするときなど、この世界の底の方に潜在している宇宙の下の人間という〈絶対他力〉と出会うことになります。そして、そのようなわたしたち人間の遙か太古からの歴史の主流は、まずは人間や人間社会のよりよいあり方をイメージし追い求めながら、この世界に日々生きて在ると言えると思います。そして、余力は、仏教の慈悲のように人間以外の動植物たちにもその力を贈与すればいいのだろうと思います。

 現在から、例えば輪廻転生や雨乞いや生け贄などの遙か太古の人々の考え方や振る舞いに、迷妄(「道理がわからず、事実でないことを事実だと思い込むこと。」)と見なすことがあります。しかし、それはあくまでも〈現在〉からの視線であり判断になります。これと同型のことは、遙か未来から現在を見た場合にも同じような迷妄ということがあり得るように思われます。意図的な作為や隠蔽ではなく、その当時の世界探索と世界理解の最高の水準としてあるならば仕方のないことでしょう。それと同じことは、〈現在〉においてもあり得ることです。ただ、遙か人間の始まりから現在に到るまで、いかに多くの血を流してきたとしても、人間がよりよい生き方を目指して歩んできているという点では同一の、大きな歴史の主流を流れてきているように見えます。

(※ 先のはっきりした当てや構想があるわけではありませんが、近年考えてきたことを少しずつ文章にしてみようと思っています。)






 1.なぜ今、世界論なのか


 わたしたち人間の言葉の獲得が一体いつ頃のことなのか、その頃の人間の生活の様子はどうだったのか、などを確定的に言うことは現在なお難しいから、わたしたちの想像力を働かせるよりほかにありません。その際、現在でも時折テレビで見かけたりする、遙か太古そのままのような生活をしている南米アマゾンの集落の住民たち(現在では、多くが文明社会の浸食を受けているようですが)から受け取るイメージやそういう集落の調査記録やあるいはわたしたちの感覚の古層に残存しているようなものが手がかりになります。

 ほんとうは、遙か太古の集落の長老たちが、若者や子どもたちにこの世界の成り立ちやそこでの人のあるべき姿をやさしい言葉で簡潔に語るように、わたしもこの世界論を語ってみたいのですが、人類はそういう段階はとうに通り過ぎて、現在のような科学・宗教・政治・経済・芸術……などの各専門分野に分かれ、さらにそれぞれがまた細分化されているというような世界論の状況にわたしたちは取り囲まれています。

 この世界の成り立ちは宇宙科学、生命については医学や遺伝子学、科学技術の社会的な利用については工学、社会の仕組みについては社会科学、……というように、太古と比べて普通の大多数の生活者住民の手を離れてしまい、わたしたち普通の生活者からは何をやっているのかうかがい知れない、細分化された、とても複雑な学問的な研究・開発の世界になってしまっています。それらを世界論と見なすならば、世界論も断片的であり、わたしたちの存在自体もそれに対応して断片的なものになっているように感じられます。この断片的な破片のような存在をかき集めても空虚さしか生まれないような気がします。普通の生活者が、それぞれの分野を知るためには途方もない年月がかかりますが、このこと一つとっても、それらはわたしたちの世界論としては失格であると言えます。

 わたしたち人間の遙か太古からの世界論(世界観)には、少しずつ姿形を変えてきてはいても、この世界に偶然のように存在している人というものは何であり、人はどう生きたらいいのか、など深い問いかけと答えとが含まれています。つまり、存在論が含まれています。そして、人としてよりよく生きたいというモチーフが潜在しているように見えます。

 そこから遙かに枝分かれして、複雑化してしまい、わたしたち普通の生活者には何の関係もなくなってしまったような世界論(世界観)ですが、偶然のようにこの世界に生まれ出て、遙かな太古からの大きな流れを背にして、この世界を旅していくわたしたち普通の生活者こそ、新たな世界論(世界観)を必要としているように見えます。しかも、大げさな固っ苦しいものではなく、やわらかでやさしい言葉の、わたしたちの日々のささやかな行動にシームレスに行き来できるようなものとしての新たな世界論(世界観)。このようなことは、他の様々な専門化して錯綜としている分野についても言えます。例えば経済では、根幹は、わたしたち生活者住民の幸(さち)に寄与することが本質であるという単純な原理であるはずの「経済」の世界も、素人が分け入ってみれば何が何やらの複雑な迷路の世界のようになっているように見えます。ここだけをつかめば、経済という複雑な運動体の世界の中枢をつかんだことになるというような経済論もわたしの世界論と同じく促されていると思われます。

 ところで、わたしたちの未来のよりよい生き方をイメージしたり構想したりするには、過去と人間の考え方や社会の有り様をきちんとつかもうとすることが大切であると、柳田国男も吉本さんも述べています。もちろん、遙か太古の姿形は遺伝子や観念などとして幾分かはわたしたちの現在にも内蔵されているはずですが、それを意識的に取り出すことは難しいことです。遠い過去の姿と出会うとき、わたしたちはどうしても現在のわたしたちのイメージや考え方を引きずっていて、そこから無意識的にも過去を捉えたりします。したがって、現在とは違った世界観のなかに生きた人々や社会である遙か太古と出会うときには、わたしたちの感覚や考え方に掛かっている現在の重力を意識的に振り切って遙か太古に出かけようとすることが大切です。そうでないと、当時の人々の実像や歴史の主流を駆動する人間の本性の有り様のようなものを読み間違い、ということはあり得ないような人間の未来像を描きかねないということにもなります。この時間的な現在―太古という関係を空間的に見れば、わたしたちが自分とはちがった生い立ちとものの感じ方や考え方を持った他人と接する場合にも同様のことが言えます。

 古代以前の太古においては、現在においては重層的に見える、宇宙・大いなる自然・人間界というものがひとつに溶け合った世界として人々に感じられ見なされていたように思います。しかし、古代以降は特に、この人間界の構造やその推移、その下での人間の振る舞いや有り様などについて言葉が費やされ、近世以降、主要には近代以降膨大な言葉が尽くされてきているように見えます。それで十分に尽くされていると思うわけではありませんが、わたしは、それらではなく、余り触れられていないように見えること、すなわち、わたしたちが生きて在るこの世界とそれに関わり合う世界、つまり、宇宙・大いなる自然・人間界の関わり合いの構造について述べてみたいと考えています。

 最後にひとこと。現在の世界は経済・政治・科学などあらゆる分野でグロバール化がこの地球上を波及しています。このグローバル化に貼り付いた先進諸国の人を蹴散らす「グローバル資本主義」や「グローバリズム」のみを前景化して論じる向きもありますが、グローバル化の動向そのものは避けられない歴史の必然のようなものと思います。現在は依然として地球上の地域間の富の偏在、つまり為替相場のように経済格差を前提として、金融経済や資本主義は成り立っています。長い目で見れば、その格差は現在のインドや中国のようにして徐々に縮まってくるでしょう。そして、当然ながらその段階ではグロバールな経済の有り様は現在とはまったく違った様相をしているはずです。

 現在では大規模な戦争はなくなりましたが、無関係な人々を死に至らしめる「空爆」や「テロ」として相変わらず戦争が続いています。日本とその周辺国などとの力の政治 (パワー・ポリティクス) やイデオロギーにイカレていないふつうの生活者なら、「空爆」も「テロ」も否定するでしょう。なぜなら、いずれの側もわたしたちのような普通の生活者に危害を加えているからです。さらに、両者のやり方はともに根本的な解決法とは思えないからです。また、さらに小さな戦争が社会の内部にも露出しています。マスコミに日々現れる事件は、この社会の様相とその中でのわたしたちの鏡であろうと思います。つまり、わたしたちに無縁のことではないということです。このような社会内での息苦しさは、過半の責任はわたしたち生活者の政治・経済代行であるべき政権・官僚層の、なんら諸問題の本質的な解決へ向かおうとせず社会を死に至らしめるばかりの体たらくぶりにあります。あとの残りは、そういういい加減さを許容してしまうこの列島の歴史的な心性の遺伝子を持つわたしたち生活者住民の側にあるのでしょう。

 わたしがある抽象度でここで考え述べることに、そのような現在の世界やこの国の社会などは関係なさそうに見えるかもしれませんが、そのモチーフの深層では両者はつながっています。






 2.世界論の入口へ


 まず、わたしはいろんなことを考え、わたしたち人間というものやその現在に到る歴史について思い巡らせようと思っていますが、そのようなことがわたしに可能なのは、どういういきさつでそうなったのかは未だ解明されていませんが、個の生涯の時間からすれば途方もない時間の流れの中で、人間が言葉というものを獲得し、それを強化・発達させてきてしまったからです。そして、重要なことには、そのことは表現の仲立ちとしての言語だけに限らず、人間が言葉という存在自体になってしまったということです。最後に付け加えれば、当然のことですが、そのような人間のひとりとしての〈わたし〉が、世界内存在としていま・ここに・いるということもわたしの可能性に関わっています。

 言葉というものは、昨日のことや現在のことや未来のことを呼び出して考えることができます。さらに、それらを関係づけて考えることもできます。あるいは、個人的なことに限らず、人類の存在する以前のことや人類の遙か太古の様子を想像したり、そこから人類の現在に到る道筋の諸問題を検討し、未来に向けて提出することもできます。言葉を持っているということは、あるものをわたしたちの意識が捉え(対象化)、意識の中に実際に存在するものとして、それらと対話し、そこからイメージを受け取ったり、そこにイメージを付加したりできるということです。そして、その場合の「あるもの」とは、今目の前に在るものでも不在のものでもあり得ます。わたしたちは、原子・分子から宇宙まで、あるいは石や空や雲や海などの自然物から植物や動物や人間まで、あらゆるものを捉え、感じ、考え、イメージします。こうしたことを指して、わたしたち人間は、言葉を持ち、日々言葉を使っている、あるいは言葉自体になりきって生き活動していると言うことができます。

 とは言っても、わたしたちが言葉という存在を駆使して内省しても、言葉が十分に届かなかったり、捉えきれなかったりという対象や世界もあります。その中には、この世界内存在としてのわたしたちにはこの世界(宇宙)自体を超えることはできないということから来る言葉の不可能性もあります。一方、人間の誕生にまつわる様々なことが現在は一昔前より言葉が届いてだいぶんわかってきたし、今後はさらに明らかなものとして言葉が届くだろうということがあります。つまり、過渡としての現在から見れば、未来においては言葉が届くかもしれないが、現在のところは言葉が十分に届いていないということがあります。

 ところで、振り返ってみると不思議なことですが、ものごとにはどんなものにも始まりがあり、展開があり、終わりがあるという風になっています。わたしたちのこの世界での誕生から成長しておそらく死に到るという道筋も、動植物のこの世界での一生も、あるいは現在までの科学の知見を踏まえれば星々や宇宙の一生も、そんな風になっています。ただ、それらを貫く生涯の曲線の描き方は共通でも、植物や動物や人間などそれぞれの本質としての違いはありそうに思います。

 わたしたちひとり一人の生まれ育ちという生涯に歴史という見方を導入すると、〈個人史〉という言葉が生まれてきます。現在の生物学や医学の知見によると人の細胞は絶えず死滅したり生まれたりということをくり返しているそうですが、かといってそのことによって個が別物に変身するということはありません。わたしたち人間も生涯の曲線上を同一性と差異性という二重性を帯びて旅する存在のように見えます。個人史と同様に、さらに大きな時間の尺度のなかで人間の移りゆきを考えようとすれば、人間の歴史や人類史という問題が浮上してきます。

 その人間の歴史には、段階のようなものがあり、縄文時代などの太古にはこの列島に限らず、人間の生まれ変わり(輪廻転生)が信じられていました。そして、このことは当時の集落や社会の仕組みの根幹になっていました。つまり、それを踏まえた集落の行事や儀式や集団社会の仕組みになっていました。このことは、太古からするととても高度で複雑になった現在のわたしたちの社会についても同様に言えることです。今ではわたしたちの考え方の主流としてはもう生まれ変わりということは信じられていません。この社会は様々な問題を抱えながら日々動いていますが、第二次大戦の敗戦によって主にアメリカからもたらされた民主主義的な法や制度や考え方に基づきつつ日本的な遺伝と折衷させながら、国や地方の行政や社会内での企業活動やいろんな話し合いがなされています。わたしたちは現在に生きていますから、どうしても現在に重力の中心を置く、あるいは現在を絶対的な基準とするように生き、考え、行動しますが、遠い未来ではまた違った段階を獲得し、違ったものの感じ方や考え方になるものと思われます。ちょうど、太古の輪廻転生という考え方に対する、それを否定する現在の科学的な見方のようにです。このことは人間というものが絶えず現実の中で考え行動し内省するということをくり返す存在だからということと同じことかもしれません。

 現在のわたしたちでも、時には昼間の太陽をまぶしげに見たり、夜空を見上げて月や星々眺めたりすることはあるでしょう。そして、わたしたちが日々慌ただしく生きる主要な舞台である人間界をいっとき離れて、その大きな自然や宇宙に思い巡らせるということがあるでしょう。現在のわたしたちは、生身の自然とも言うべき、月や星々や木々や山や海や大地などとの関わりがずいぶん薄れてきています。それまでは低くなだらかな文明の進展だったのに、明治近代になって文明は急激な上昇カーブを描いて、発展してきました。

 近代以前にあっては、近代の機械産業の成果はまだ登場していませんから、物を運ぶのも人力か荷車、交通も徒歩中心というようにまだ人間と生の自然との関わり合う世界でした。もちろん、「里山」と呼ばれるように、人の集落の近辺は人が手を加えた自然の形や風景でした。道路も今みたいに人工的に舗装されたものではなく、土という生の自然でした。(因みに、わたしは土や砂利道を見慣れてきましたが、全国の道路が舗装され始めたのは高度経済成長期の1960年代頃だろうと思います)当時の人の体の作りや体力などは、そのような自然との関わり合いの中から形作られたはずで、現在のわたしたちとは比べようもありません。現在のわたしたちは一般に、現在の社会の有り様や人工化した自然との関わり合いから体の作りや体力など作り上げているはずですから、比べようもなく違ってきているはずです。(註.『百年前の日本 モースコレクション』などの写真集があり、近代以前の名残を残した百年前の人々の風貌や生活のひとこまなどをうかがうことができます)

 また、近代以前から古代においては、現在とは逆に農業が中心でしたから、季節と月の新月から満月に到るくり返しの関わり、自然の様子から明日の天気を予想するなど、現在から言えば生(なま)の自然とも言うべきものと親しい付き合いを長らくして来たはずです。もちろん、現在でもあるように、自然は穏やかで恵みをもたらすばかりではなく、日照りや風水害や地震などの恐ろしい表情も見せてきたはずです。

 このように、世界は時代とともに変貌していきます。近代以降の変貌は先に述べたように急速になってきています。変貌の渦中ではわたしたちはあまりそのことに気づきませんが、ある時振り返ってみると大きく変貌していたというように感じられるものだと思います。人間の歴史の中では、例えば農耕社会の成立など大きく歴史の段階として画するような変貌もあります。しかし、人間としての本質は変わらず貫かれてきているはずです。






3.世界論の言葉


 わたしがこの世界論を「子どもでもわかる」と付したのは、言葉の表現として言葉そのものがそうありたいという願望の表れです。そして、「素描」としたのは、現在は対象とする表現の場に対して「願望」という距離や位置にあり、一気にそのような言葉を行使したいという気持ちはやまやまですが、中継地を経ながらそこに到達しようと試みるほかにないということです。

 こうした状況にわたしがあるのは、わたし個人の側からいえば単純で、わたしの力量の不足ということです。もう一つの困難な事情は、この列島の日本語という言葉の問題です。さらに、その列島の日本語を生み出してきた列島の人々の感性や意識の伝統、すなわち論理や世界論などの未熟な伝統しかないという負性があります。もちろん、これは裏返せば自然と関わり合う繊細でゆたかな感性や意識という美点と見なすこともできます。ただ、論理を駆使した世界把握には向いてない言葉ということです。

 大きな時間の尺度で見ておそらく単一な流れではなかった「旧日本語」は、文字というものをまだ持たない段階にありました。古代国家成立辺りに、中国から漢字文化が諸文化、諸思想、様々な文物とともに怒濤のように押し寄せてきます。「旧日本語」は、様々な労苦を経て和語と呼ばれる言葉を漢字を媒介にして可視化されていきます。つまり、書かれる言葉の世界に移し替えられていきます。「新日本語」を生み出していきます。そうして、現在わたしたちが恩恵を被っている漢字仮名交じりの書き言葉を生み出していきます。(註.1)

 ところで、人の生まれ育った固有の性格と社会生活の中での様々な影響ということと対応させると、その人の固有の性格は様々な枝葉を伸ばしたり、幹が少し変形したりということがあるとしても、つまり外から大きく揺さぶられても固有性の芯のような部分は割と不変のような感じがします。この列島は古代以降近世までのアジア・中国と明治近代以降の欧米と二度の大きな外からの波を被ってきました。しかし、人の固有性の芯の部分の不変性と同様に、この列島の共同性としての感性や意識の核の部分はいろんな変形や歪みを被ってきていてもそれらの二度の大波によっても割と不変であるように思います。つまり、感性や意識の表面層ではなく古層の部分に固有性として在り続けているということです。そのことには、この列島の生活世界と文化・政治世界との二層性、しかもその二層が遠く分離しているという性格が影響しているように見えます。

 こうして、この列島の言葉も、二度の大波を潜り抜ける中で、大きな影響や変貌を遂げてきています。固有の核のような部分(註.「ような」というあいまいな表現は、「旧日本語」と呼ばれるものが現在でも十分に明らかではないことからの言葉です)は保持しながら、論理や概念や思想性を接ぎ木したり再構成したりしてきています。固有の核のような部分とアジア・中国やヨーロッパなどの外来性との接続法が今なお問われているように思われます。人に例えれば、その人の乳胎児時期や幼少年期と大人になった現在とをしなやかに行き来したり、それらを総合的に結びつけた何らかの表現をするというような接続法の問題になります。

 その接続法で言えば、例えば柳田国男の場合は、欧米の論理性の影響を潜めてこの列島の言葉に深く棹さした言葉と言えますが、わかりやすい論理性が乏しく見えます。それでも、膨大な収集と吟味を通して言葉や精神の層を段階を追って追究していく姿勢には、この列島の言葉を最大限に駆使して筋道立てようとする強い意志を持った言葉の印象を持ちます。さらに、柳田国男は子どもの世界やその言葉にも深い関心と洞察を持っていて、そのことが逆に柳田国男の言葉の深さを象徴しています。

 また、中沢新一であれば、いろいろ啓蒙されることがありますが、ポストモダン的なカッコつけた文体がその言葉の在所を語っているようで、わたしはまだまともに取り上げたことはありません。しかし、こうした接続法は、専門の学者や思想家に限らず、言葉という表現の世界に参入する人々には問われていることです。いや、全ての芸術・文化・思想の表現の分野で問われていることです。

 例えば、「世界内存在としての私たち」という言葉は、ドイツの哲学者ハイデッガーの言葉ですが、これと「この世界にわたしたちが生きてある有り様」とは同様の言葉の表現に見えます。しかしこの列島の言葉では今なお、前者を突き進むと知識・文化上層へ、後者を突き進むと生活世界へというように、突き詰めていけばそれぞれ分離された層に収束して行きます。わたしたちは、各局所系(分離層)に収束することなく、すべてを柔らかく包み、その二つの分離層を自由に行き来できるような普遍の言葉を獲得することを促されています。

 ほんとうは、子どもでも十分にわかるようなやさしい言葉で書き表したいという欲求はわたしだけではないと思います。以上に述べたような複雑な事情が、そのことを今なお困難なものにしています。それでも、それは日々目指されるべき柔らかな未知だという思いがわたしにはあります。


(註.1)
旧日本語と新日本語のことに関しては、吉本さんの苦労されただろう考察があります。

(A081 「古い日本語のむずかしさ」(講演テキスト)、フリーアーカイブ『吉本隆明の183講演』「ほぼ日刊イトイ新聞 」)

 






 4.世界内存在としての人間の有り様 1


 わたしたち人間が、この世界の内に・今・このように・ある、その有り様を言葉となったわたしたちが照らし出しその像を捉えようとするということの中に、わたしたち人間の存在の特質があります。植物や動物は、この世界自体に溶け込んだ存在としてあるように見えます。しかし、わたしたち人間もまた、それらの植物生や動物生を内蔵し共有しているということは三木成夫の知見を踏まえれば確かなことだと思えます。

 この世界内存在としての人間の有り様は、言葉としての人間という面から眺めれば、人間も自然の一部ですから、いわば〈内省する自然〉とでも言うほかない存在です。もちろん、わたしたち人間が、自分を自然などの他から区別したり気づきというものを獲得することによって、例えば自然というものを〈自然〉と名付けましたが、〈自然〉というものは本来人間の善や悪も超えた、つまり人間界を超えたものです。そして〈自然〉というのは、黙する自体存在とでも呼ぶべきもののように存在しています。しかし、その渦中にあって、小さな人間という存在は、言葉というものを駆動する〈内省する自然〉とでも言うほかない存在という面から眺めれば、逸脱した〈自然〉の存在のように見えることも確かです。

 人間は、人間の遙か始まりの時から、自分を他から区別したり気づきというものを獲得することによって、つまり言葉を獲得することによって、一方で様々な混迷を深めつつ、他方でその混迷を打ち破ろうとしてきたのだと思います。もちろん、そのような自覚的な場所以外では、どんなに苛酷な時代でも、また文明の発達の度合いの違いがあったとしても、現在のわたしたち同様に日々の生活の穏やかでより良いくり返しを願い求めながらも植物や動物のように、日々自体を無意識的に生きてきたものだと思います。

 世界内存在としてのわたしたち人間の有り様の骨の部分を考えてみます。現在のわたしたちは、この人間界という場で、それを無意識的にも重力の中心の場と見なして日々の生活を繰り広げています。しかし、一方で、若い頃や知識世界に入り込んだ人々は、一般的にそのような日常のこまごまとした生活より、知の世界の方が優位にあるとか、より価値があるとか見なす傾向にあります。そこにはまた、生活圏にかかる重力とは違った抽象性の重力というものがあります。これを「抽象性」と呼ぶのは、この生活世界を離脱した知という世界が心身―頭脳に渡る人間という総合的な存在から見て頭脳中心の部分的な世界であるからです。しかし、この世界に入り込んだらなかなかその負の重力を振り切ることは難しいようです。人間や人間世界の起源から見てもその人間という総合性から見ても、わたしたちの本源的な固有の場所はこの生活世界にあるはずなのに、それを転倒して知という抽象性の重力下の世界をこそ本源的な世界と思い込んでしまいます。このことを指してわたしは負の重力と見なしています。

 この負の重力の起源について思い巡らせてみます。遙か太古の小さな集落レベルの割と平等な社会であっても、あなたの方が力がありそうだから神を宥(なだ)める歌を歌ってくれとか(後に呼ばれる)巫女やシャーマンになってくれというように集落の住民たちが考え、彼らを押し上げていった段階があると思います。一方、ひな壇に押し上げられた巫女やシャーマンと後に呼ばれる人々は、そのような事態を何か晴れがましい特別なこととして感じ始めたと思います。こうして、住民と代表として選ばれた人々との新たな段階の社会関係に入って行きます。彼らに対する日常のいろんな処遇も特別扱いになっていきます。こうして相互の関係や意識が生み出され固定化し積み重ねられ変動していきます。

 農耕が始まり人口が増加していくと社会も複雑化して膨れあがり、その両者の関係もいっそう分離・分化して独自の運動を強めていきます。例えば、現在の官僚や政治家の意識の中にも自分たちは優れた能力の持ち主でより価値ある存在なんだというような転倒された負の意識は保存されているように見えます。したがって、政治家の起こした事件として現れてくるものの根本には、自分たちは選ばれし者で価値ある偉い存在なんだ、だから少しの悪くらいは許されてあるんだというような、ほとんど口には出されることのない負の意識も横たわっているように見えます。

 この論でわたしが思い描くことは、この現在の世界に生きるわたしたちの大多数が無意識の内に認めるような実感に基づきながら、それにわたしの考察を付け加えていくものです。ここで、世界内存在としての人間の有り様をまとめてみたいと思います。

 例えばねこは、ドアが閉まっているとか障害物があって先へ進めないとかに直面して、少しはドアなどをガジガジしたりすることはあっても一般にその状況を仕方ないもの、動かしようもないものと見なして自然に受け入れているように見えます。もっと厳密に言えば、「仕方ない」とか「動かしようもない」とかすら思い浮かばないような存在に見えます。わたしたち人間もまた、今ここに偶然のように与えられた生存を動植物と同じように自然性の内に溶け込み受け入れているように見えます。しかし、人間の場合は、それだけに終わりません。自分の状態を外に取りだしてあれこれ感じたり考えたりする力を獲得してしまいました。何かを感じ、気づき、考え、何ものかとして生み出し続ける力を、言葉と言っていいでしょう。わたしたち人間は、動植物のように自然の内に充足しているような日々の生活を送り続けると同時に、言葉によってその中で様々な対象に出会い、自覚的に感じ考えることができるようになりました。

 ところで個々人にとって、まず、気づいたときには、人は生まれてしまっているということ。また、気づいた時にはこの世界はすでに存在してしまっているということがあります。そして、植物も動物も、いつかは枯れたり死んだりするだろうからといって、無意味だと先取りして自死することはありません。つまり、与えられたこの世界でのあり方を自然のように歩んでいきます。付け加えれば、わたしたち人間の場合、自分の身体だけでなく、人類の築き上げてきた様々な物質的・精神的なものを〈おくりもの〉として受け取りながら、この世界を旅していきます。そして、人がこの世界に生きて活動して在るということ自体によって、誰もが次の世代に形あるものや形のないものとしての小さな〈おくりもの〉を手渡していくことになります。このようなことは、植物や動物にも当てはまることです。

 わたしたち人間の場合は、世界から追い込まれこの世界での生きる意欲を喪失して自死するということがありますが、大多数の人々は与えられたこの世界でのあり方を自然のように歩んでいきます。自死する人々からこの大多数の人々の歩みを照らし出すと、その自然のような日々の歩みには生きようとする、あるいは生きていく意志のようなものが潜在していると見なすことができるように思われます。そうして、人々のそのようなものの果てしないくり返しという歴史の中から、現在にまで伝わり残る当然と見なされるような長い時間に耐えてきたものごとの感じ方や考え方が生まれてきたはずです。

 例えば、「なぜ人を殺してはいけないか」論争が一時問題になったことがありましたが、「人を殺してはいけない」とか「人は互いに助け合った方が良い」などの考えは、多くの殺戮や神々への生け贄や人柱などの負の経験を数多(あまた)経て形作られてきたもので、途方もない人間の共同の時間性を帯びています。つまり、個人としての考えでは人を殺すということを思ったりする自由度を持っていたとしても、簡単に崩すことのできない人類的な規模の考えとして現在に伝わってきて受け入れられている考えであるということになります。

 死というものは誰にも避けがたく訪れて来るものに見えます。また、死は私たちの存在の消滅というおそろしさを喚起させるものでもあります。しかし、その安らかなイメージ故に、死から引き返してきた臨死体験をした人々は、一様に死というものが恐くなくなったと述べています。(『証言・臨死体験』立花隆 文春文庫) 

 人は最期には臨死体験に見られるような閉じられた内なる物語自体をひっそりと歩んで行くのだとしても、おそらく自分の死を気づくことなく死んでいくのでしょう。そして、他人の死から想像すると、人が死んでも、なんらかの原因による人類の絶滅やこの太陽系や銀河系や宇宙が終わらない限り、この世界(人間界)は終わらないように見えます。ある人の死は、ある人のこの世界(人間界)での終わりですが、大いなる自然や宇宙に物質として還元されること、戻っていくということ。また、人の死は、肉体としては物質に還元されてしまうけれど、精神的には後に残された人々とのつながりにより残された人々の心や精神の内に生き残っていくということ。輪廻転生の考え方が支配的だった歴史の段階から遙か遠くまでやってきた現在の段階では、〈死〉というもののイメージは一般的にはそのようなものとして思い描くことができます。

 最後に、この世界でのわたしたち人間の有り様の根源的なイメージを取り出してみれば次のようになると思います。まず、人間は二重の根源的な受動性を帯びています。ひとつは、わたしたち人間が、人間存在を遙かに超越した宇宙という世界の下にあるという根源的な受動性=絶対他力の下に存在しているということです。もうひとつは、わたしたち人間は誰でも人間界での初期(乳胎児期)においては、他人(母)に世話してもらわなければ生きていけないという根源的な受動性の下に置かれているということです。

 わたしたちは、重力の中心が日々の生活世界の「現在」にあり、絶えず現在を生きていくという風に存在しています。過去に囚われて過去を生きているように見える場合も正しく喪失されたものとしての現在を生きているのです。つまり、人は現在の中でそれぞれの生きてきた年輪からの発露として現在に出合うのです。そうして、わたしたちの感受や考えの根っこには、それら「二重の根源的な受動性」の影響がしっかりと刻まれているように思われます。

 わたしたちは、身体の不随意運動(心臓などがわたしたちの意志に関わりなく動いているということ)のように、その根源的な受動性をふだんは意識することはほとんどありませんが、人間界の人と人との関わり合いで疲れた時や傷ついた時などにはそのようなこの世界の基層に心触れたり意識するということがあるように思われます。

 この「二重の根源的な受動性」の下の、世界内存在としてのわたしたち人間の有り様に関して、先に「人間や人間世界の起源から見てもその人間という総合性から見ても、わたしたちの本源的な固有の場所はこの生活世界にある」と述べましたが、この捉え方は、吉本さんの価値としての〈大衆の原像〉に対応するものと考えています。

 現在までのところそうした身近な生活世界の家族や知り合いとの関わり合いの中にこそ、個々人の根源的な〈自由〉や〈平等〉や〈友愛〉などが生きうる可能性があります。現在では、それらにバーチャルな次元でのSNSのつながりの世界も加えることができるかもしれません。いわば人工化した生活世界に当たるでしょう。そして、わたしたちの生活世界がたとえ現下の社会の下疲弊を極めているとしても、また、現在の事件として現象するような様々な修羅場を抱えているとしても、その本源的な場所こそが貴重だという思いは変わりません。






 5.世界内存在としての人間の有り様 2


 わたしたち人間のこの世界(宇宙を含む自然界や人間界)内でのあり方を前回考えてみましたが、もう少し別の角度から考えてみます。

 吉本さんの文章に、〈子供〉という概念に触れたものがあります。


 〈子供〉(児童)という概念は、厳密にいうと不可能にちかいものであろう。わたしたちは誰でも〈子供〉を体験してきたにはちがいないが、再現不可能なものとして体験してきた。あるひとつの概念が直接体験のほかに再現不可能だとすれば、概念として成り立たないものだとみなしてよい。〈じぶんの子供の頃は〉という語り方をするとき、わたしたちはいつも現在によって撰択された〈子供の頃〉をいうことで、じつは現在的な撰択そのものを指している。わたしたちがいつも眼の前にしているのは他者としての〈子供〉でしかない。観察をどれだけ密にしても他者としての〈子供〉から〈子供〉そのものを再現することは不可能である。ここからは〈子供〉という概念はとても成立しそうにない。もうひとつ〈子供〉を知る手段があるとすれば、いまも地上のどこかに存在しているかもしれないし、かつて記録や調査によって存在したことがわかる〈未開人〉の心性と行動から類推することである。そしてもうひとつは〈夢〉の結合の仕方と意味の流れに〈子供〉の心的な世界や、行動への衝動をみつけだすことである。〈未開人〉や〈夢〉のことが〈子供〉の世界に類比されるのは、その両方が幼稚な未発達の世界だからではない。言葉や行為の結びつきを支配する価値観の流れが独特なために、奇妙な膨らみ方をした独特な世界だからである。全体の均整がとれているかどうか、あまり問題にならないから執着する部分が不当に拡大されたかとおもうと、全体からみて重要なことが小さな手足のように、縮小されてしまうといったことが絶えず起こる。〈子供〉には当然の世界なのに、それ以外のものからは奇妙に変形した全体像にみえる。こういういい方は眼も鼻すじも整った理想の人間を架空の基準においたいい方で〈子供〉や〈夢〉や〈未開人〉の世界とおなじように〈子供〉以外のものの世界も、べつな具合に奇妙な歪み方をしている。ふつうわたしたちが狂気と呼んでいるものの言葉と行動の世界が、いわば〈子供〉以外のものの世界を極度に拡大したときの原型であるといってよい。
 (「付 童話的世界」P321-P322 、『悲劇の解読』吉本隆明 ちくま文庫)



 『悲劇の解読』は、1979年に単行本として刊行されています。その背景の流れを見てみると、『心的現象論序説』が1971年に刊行されていますから、その後にはその続きの「心的現象論」が『試行』に連載中です。つまり、上に引用した〈子供〉という概念 を巡る考察にはその背景として『心的現象論序説』と「心的現象論」の考察による研鑽があり、その成果が流れ込んで来ています。引用部は、まだ続いて、童話というもの、そして宮沢賢治の童話につなげられていきますが、切りが良いところで切りました。ここで、吉本さんの「あるひとつの概念が直接体験のほかに再現不可能だとすれば、概念として成り立たないものだとみなしてよい。」という言葉は、徹底して考え抜かれたうえの言葉と思いますが、ちょっと面食らいました。取りあえずわたしなりに捉え返せば、それ自体が抽象度を持つ概念というものにも、具体性の生命感が込められる自然な概念もあれば、そこから一段人工化した概念もあるのではないかと思われます。ここでは、その概念の成立ということには深入りしないで、わたしの話につなげていきます。

 吉本さんは、わたしたちがふだん何気なく使っている〈子供〉という概念に触れています。これと似たような概念に〈死〉という概念があります。ただし、〈子供〉は誰もが通過してきたのに、〈死〉は未体験という違いはあります。また、動植物や人間の生命活動の停止を持って一次的な〈死〉の概念とするならば、わたしたちはその〈死〉を向かい合う対象としては直接体験することはできます。(「一次的な」という意味は、例えば「文明の死」などの比喩的、派生的な二次的ともいうべき〈死〉の概念もあるから)しかし、〈わたし〉自身の〈死〉を直接体験することはできません。したがって、〈子供〉も〈死〉も現在からは直接経験できないという点では同一です。

 このような、わたしたちが現在からは直接経験できないというものは、わたし(たち)とこの世界(宇宙を含む自然界や人間界)との関わり合いの中にも存在しています。そういう意味で、吉本さんの〈子供〉という概念の考察は、この世界と人とが関わり合う関係の根源的なものとつながっていくものを内包しています。

 わたしたちが、現在その渦中に存在しているこの世界の成り立ちや人間の成り立ちはよくわかっていません。しかし、ふだんはそんなことを考えることもなく、日々の生活の流れに溶け込むようにしてわたしたちは生きています。

 この世界の成り立ちや人間の成り立ち、あるいは両者の死後の不明と同様に、人間の誕生と死はもやに包まれています。しかし、それでもそうしたことをほとんど気がけることもなく、またもっと身近なことでは、何十年後日に予想される大地震にもくよくよ思いわずらうこともなく、日々のこまごまとした生活がまるで重力場の中心のようにわたしたち一人一人は生活しています。ここには、この世界の成り立ちとそこにおける人間の有り様の基本型が潜んでいるように見えます。

 まず言っておかなくてはならないことは、わたし(たち)は、人類が途方もない時間の中で獲得し積み重ねてきた人間的な関わりの意識や了解の現在的な水準で、そんな水準の言葉で自動的に、あるいは無意識的に促されるように考えているということです。そこから眺め渡してみると、この世界は、この世界に生まれた〈わたし〉が存在するから〈世界〉はあり、したがって〈わたし〉の〈死〉は、〈世界〉の〈死〉を意味するように見えます。

 もちろん、他者の〈死〉とその他者の〈死〉後の世界の有り様という間接性から類推すると、〈わたし〉の〈死〉後も世界そのものは存在し続けるように見えますが、〈わたし〉の〈死〉とともに、わたしにとっての〈世界〉は死滅します。

 もうひとつあります。この〈世界〉は、〈わたし〉が存在する前にも〈別のわたし〉とともにわたし同様の関係にありました。それがあったからこそ現在の〈わたし〉が存在することに連なっていることになります。言い換えれば、この〈世界〉は、無数の〈わたし〉の連鎖した〈わたしたち〉とともに存在する面を持っています。

 ところで、わたしたち人間が、言葉を持たず植物や動物たちのように世界そのものの内に埋もれるようにして存在しているならば、わたしたち人間にとって〈世界〉はない、つまり対象として意識に上って来ません。これは大切なことです。しかし、わたしたち人間も今なお植物生や動物生を内包しているから、そのように世界内に埋もれている段階も通過してきたはずですが、言葉の獲得によってそこから半ば抜け出て、この世界内に浮上して来てしまいました。そして、この世界というものを対象として感じ考え、手を加えることができるようになりました。

 〈わたし〉が生まれる以前の世界や死後の世界は、〈わたし〉の直接は与(あずか)り知らぬ世界です。ただし、〈わたしたち〉と〈世界〉という〈わたし〉のつながり、つまり何世代にも及ぶつながりや人類史の中では、そのことは意味を持ち続けます。

 現在の自然科学は、人間や生命の誕生遙か以前にまで探査の視線や意識を向けています。しかし、人間の誕生からもっとさかのぼって生命が誕生してこの〈世界〉と関わり始める段階を突き抜けて、〈わたし〉と〈世界〉や〈わたしたち〉と〈世界〉ということは意味を成しません。同様に、未来のある時点で人類が滅亡(死)したとして、その死後の〈わたし〉と〈世界〉や〈わたしたち〉と〈世界〉ということも意味を成しません。つまり、それらは現実性の基盤のない空想に過ぎないことになります。

 それでは、現在の自然科学の人類以前やおそらく人類以後にも及ぶ世界の探査はどう捉えるべきでしょうか。つまり、それらの自然科学の探査を空想に過ぎないと見なさない、どんな見方があるでしょうか。先に述べた〈わたし〉の誕生前や死後が〈わたしたち〉の中では意味を持つように、〈わたしたち〉(人類)の誕生前や死後を探査することは、〈わたしたち〉(人類)、ということは〈わたし〉と言っても良いですが、そのこの〈世界〉での運命(有り様や不可避性)の現在的な姿を明らかにすることにつながるのではないかと見なすことです。このことは、大きな時間のスケールで科学が自然との出会いの深度を深めていくことによって、人間の運命の現在的な姿を次々に更新していくだろうと思われます。

 わたしたち人間は、前回述べた「二重の根源的な受動性」の負荷を受けながら、遙か太古から自然界と関わり合い、自然を引き寄せながら、人間界を築き上げてきました。その過程で、古代インドでは仏教、ヨーロッパ近代ではヘーゲルやマルクスなどの偉大な思想家や思想が生み出され、人間界の主流に対する内省が加えられることもありました。これらの思想や思想家たちは、そのような具体的な作者名や作品名があったとしても、たぶん、人間界の主流が積み重ねられ来た頂で、その主流が、内省する作者や作品として押し出したものだと捉えることもできると思います。つまり、人間の歴史は、例え血にまみれていたとしてもそのような内省を加えつつ流れる大河のような主流を形成しているということです。

 そして、一方でそういうことでありつつも、わたしたちは、重力の中心が日々の生活世界の「現在」にあり、絶えず現在を生きていくという風に存在しています。そうして、半ば以上が無意識的であるようにわたしたちの生存はあり、日々諸活動をしています。わたしたちのこの世界における生存の有り様は、絶えざる現在性を重力の中心として、他方では過去や少し先の未来などに思いを馳せたり内省を加えたりもする、という二重性としてあります。このことは、人間の形作る集団や組織にも同様に言えることです。






 6.層成す世界 1


 例えば、縄文期の土偶を見て、なぜこのような造型になるのだろうか、背後にどのような意識的・無意識的なイメージや考え方や思想があるのだろうか、と思ったことがあります。あるいはまた、鎌倉期の親鸞の〈他力本願〉や〈浄土〉という言葉に何かしっくりこないものを感じたことがあります。その後者について取り上げてみると、現在の社会を見渡せば、いくら〈他力本願〉と言われてもわたしたちは自力中心の世界に居るよなあという実感とのずれはどうしようもないように思われます。もちろん、他者との関係や家族関係や小社会での関係でどんなに〈自力〉を出してもどうにもならないということもあり、そういうことを考慮すると正確には世界の方から関与してくる〈他力〉との関わり合いとしての〈自力〉中心の世界というのがわたしたちの実感に近いと思われます。また、〈浄土〉という言葉についても亡くなった人が焼かれて白い骨になった姿を目にするともはや〈浄土〉というものは実体として存在するとは思えません。それでも、体と魂は別物として魂の実在や〈浄土〉の実在を信じる人が現在でも少数居るかもしれません。

 しかし、輪廻転生が信じられそれらが社会内の風習や行事や宗教や政治と絡み合ってひとつのシステムとして社会に組み込まれていた歴史の段階も太古にはありました。その当時の人々の日々の意識的な活動は、そういう歴史の段階にあるということが無意識的な前提となり、その前提に支えられていたはずです。輪廻転生が信じられていたこの太古の歴史段階では、〈浄土〉という別の世界が実体として存在することに疑いはなかったでしょう。中世期でもそんな実体としての〈浄土〉という考えが輪廻転生期の考え方の残骸のように存在していたようですが、親鸞には〈浄土〉はもはや実感できないものとなっていたはずです。

 このように、互いに歴史の異質な段階を画するようなことから言えることは、各時代はある大きな歴史の段階を無意識的にイメージや考え方や思想の前提としているということです。ここで「無意識的」というのは、その現在に生きている人々にとっては、その前提は生きていく上での空気のようなもので割と自然な前提になっているからです。また、それはわたしたちに気づかれにくい自然なものとしてずいぶん身に付いているから、無意識的な前提とするわたしたちの現在を自覚的なものとして取り出すのはとても難しいと思います。

 古い歴史段階の全体的なシステムから来るイメージや考え方や思想は、新たな大きな変貌の過程で人々の中にあるいは文化の中にそれぞれ下位の層としてひっそりと保存されていくのではないかと思います。これが中世期までも実体としての〈浄土〉というものが残留した理由でしょう。各時代の無意識的な前提とされる歴史の段階が大きく異なっている時、相互間の先端から視線や触手を伸ばした場合はおおきな実感のずれが起こることは確実です。そういうわけで、わたしたちの現在は、知識世界の人や僧である人以外の大多数の普通の人々にとって、〈他力本願〉や実体としての〈浄土〉はもはや実感できないはずです。

 わたしたちは無意識的な前提としている現在を無意識的に携えて、歴史を遡行して行きますが、これが遡行された歴史に感じる実感のずれを引き起こします。たぶん親鸞の生きた中世期は、飢饉や病や動乱に悩まされる人間界はまだ圧倒的にちっぽけで、自然は〈大いなる自然〉としてひとつに溶け合った大いなる威力を持つものとして感受されていたでしょう。親鸞の言う〈他力本願〉や〈他力〉はもちろんそれまでの仏教思想を踏まえた捉え方と言えるのかもしれません。しかし、ここのわたしの〈層成す世界〉という捉え方からすれば、飢饉や病や動乱に悩まされる人間界や〈大いなる自然〉の人々の手ではどう動かしようもない超越性と人々の自力の圧倒的な無力さという対比的な状況を踏まえれば、人間界を超えた、超越性としての〈他力〉という考え方が生み出されることは必然のように見えます。

 こうして、現在からの無意識的な色眼鏡(前提)で過去の世界を見て捉えるということをできるだけ排除して、人類は今までにどのような歩みをしてきていて、これからもどのように歩んでいくのかとも関わる〈層成す世界〉の実情を正しい姿として捉えるには、〈層成す世界〉の構造を自覚的に押さえ自分の視線や考えに繰り込むことが大切だと思います。






 7.層成す世界 2


 わたしたち人間が今この現在に存在しているということは、当然のこととして人間の始まりから途中で絶えてしまうことなく、命が受け継がれてきたということを意味しています。さらに生命の発生からの進化という現在までの知見に拠れば、人間の成立以前にも生命の始まりから幾多の大きな変貌(進化)の段階を遂げながら、同様の命の受け渡しの連続性があったということになります。因みに、三木成夫は、人間が生まれてくる前の胎児の段階で、なぜか胎児は魚類、両生類、爬虫類、哺乳類と次々に姿形を変えて生物の進化の歴史の過程をたどってくることを明らかにしました。(『胎児の世界―人類の生命記憶』)わたしたちにとっての貴重な再確認となる発見だと思います。

 このような受け継ぎの連続性は、命ということに限らず心から精神に渡る領域にも大きな段階を画するように変貌を重ねてきているように見えます。そして人間がこの世界に生まれるに当たって進化の歴史を短期に急激に反復するように通過してくることから類推すると、受け継ぎは、現在を生きるわたしたちの心身に層を成すようなものとして形成され、内在しているのではないかと思われます。その受け継ぎを具体的に可能とするのは、自分の親やそこから次々に遡行できる前世代を持っているからであり、現在までの歴史の積み重なりの結果としてのいろいろな共同の諸感覚や諸観念、それらと対応する物が存在しているからです。さらに、わたしにはよくわからないけれど、遺伝子による受け渡しというものもあるのでしょう。わたしにはその両者の関わり合いの構造については触れることはできませんが、少なくとも人がこの人間界に生まれ、育っていく過程でそれら両者の受け渡しが発動されるということは確かです。

 遺伝的なものではない受け継ぎに関しては、わたしたちひとり一人は、主に家族という場で、それ以外は地域の小社会や学校など場で、具体的なものや関係を通してそれらの共同の諸感覚や諸観念と出会い、それぞれ自分なりに吸収して自分の中に層を成していきます。そこでは、自分に漂い来る共同の諸感覚や諸観念に対する親和や異和や中性の感情や意識があり得ますから、それぞれの家族での生い立ちを背負ってひとり一人が共通の共同的な地平を養分とするようにして、その層成す地平の上に自分なりの固有の花を咲かせていくことになります。

 現在のわたしたちの意識の中では、人間界の外の世界は、宇宙、まだ割と人間の手が加わっていない地球の大地レベルの大自然、里山と呼ばれるものや田畑や都市の街路樹などの人間界に引き寄せられ人間化した自然、など三層ほどに類別されていると思います。

 未だ国家形成すらなされていない小さな集落レベルよりさらに以前の遙かな太古、動物生の段階にあり、自然に埋もれるように生活していて、自然を意識の上でまだ分離できなかった人間が、自分を自然とは違うものとして分離し始めたとき、自然は異様なものとして立ち現れ受けとめられたに違いありません。(註.)

 洞窟など自然のものを利用して生活していた未だちっぽけな人間世界の段階では、人間界の外の世界は、自分たちに恵みをもたらすこともあれば災いをもたらすこともある、気まぐれな母のような圧倒的な〈大いなる自然〉として受けとめられ、現在では三層に見える自然も意識の上で未分化だったように見えます。その〈大いなる自然〉は、大雑把な捉え方では、途方もない時間の中で、まずは混沌とした未明の時を経て、気まぐれであろうと機嫌取ったりすがりついたりするほかない、子どもにとっての母のようなものとして関係の形が築かれてきました。そして、その〈大いなる自然〉は、次第に慈愛と憤怒を併せ持つ〈神〉のような存在として擬人化して捉えられるようになり、風や木や山や海など自然のあらゆるものが〈神〉と名付けられました。その中で、アイヌが保存していたような〈神〉に働きかける言葉や儀式や神話や歌など、すなわち、人間と〈大いなる自然〉との交流の歴史がもたらしたものが生み出されました。

 その次の段階では、その威力を持った〈大いなる自然〉という〈神々〉が、膨張してきた人間界に引き入れられて神と人間とが二重化して捉えられるようになってきます。このことは、歴史の幼年期や子ども時代の段階から人間は根源的な受動性を刻印されそれになじんできていますから、必然的な二重化だったと言えるかもしれません。これはこの列島の中心部では古代辺りの国家の形成の時期と対応しています。

 ところで、〈大いなる自然〉は、大宇宙が星々や太陽や月などとしてこの地上に差し込んで来ていますが、宇宙の局所的な部分としての自然、初め人間がそこに動物生のように内在的に生きていて自然を分離して意識するということなく浸かっていた地球の大地レベルの自然でした。そこから、自然と自分とを区別し始めた人間が、その宇宙レベルの自然も地球の大地レベルの自然も溶け合ったイメージで意識し始めます。つまり、慈愛と憤怒を併せ持つ〈大いなる自然〉に目覚め始めるのです。次に、〈大いなる自然〉が人間による働きかけを受け、人間に引き寄せられ、人間界と接触する世界としての自然を分離させ、人間がコントロール可能な自然を生み出していきます。そして、次々に人間界を膨張させていきます。人口や社会構成としての大規模な膨張の始まりは、わが列島では古代国家の成立と並行した本格的な農耕の成立という第一次産業社会の成立と対応していると思われます。この下準備は、以下の縄文時代初期から晩期と呼ばれる時期にかけての長い時間の中、海進(海水面の上昇)と海退(海水面の下降)によってなされたものと推測されます。たぶん、人々は〈大いなる自然〉の大きな時間の中のそのような大変動に〈大いなる自然〉の憤怒を読み取り畏怖の意識を持ったかもしれませんが、堪え忍び適応しながらまた、水田農地の恵みなどとして慈愛をも受け取ってきたのかもしれません。



今からおよそ6,000年前の縄文時代前期、地球規模の気候温暖化により氷河がとけ、海水面が10m 近く上昇し、海岸線が陸地の奥深く入り込んでいました。縄文時代中期後半以降、気候が寒冷化し海岸線が徐々に後退し始めます。
海岸線の後退に伴って陸地化した場所には沖積平野が形成され、また海が取り残されたところは、干潟や湖となっていきました。縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて、こうした海退(海岸線の後退)はさらに進んだと考えられています。

海退によって出現した湿地や沖積平野は初期の水田稲作にとって絶好の耕地となりました。集落も台地上から平野部に進出するようになります。
  (「弥生ミュージアム」より、 第三章 弥生時代の自然と人 1.弥生時代の自然環境  http://www.yoshinogari.jp/ym/episode03/nature01.html )




 また、この自然意識の段階的な推移と並行して、それと対応する精神史や宗教・政治史や文化を包括した文明史として、あるいは精神史や宗教・政治史と呼ぶ以前のそれらの初源性をも包括する拡張された文明史として、歴史の主流が推移していきます。

 人間が自然から分離されると、人間に〈自然〉意識が芽生えます。くり返される季節の中で大いなる自然に猛威と慈愛と感受し、自然を様々な〈(自然)神〉のようなイメージや意識として疎外(産出)し、威力を持った「大いなる自然」から見たら根源的な受動性の位置にある人間は、ちょうど母と子の関係のように、自らは子としてその(自然)神〉との様々な宥めや取引などの儀式や歌を生み出すという宗教的な交通の段階に入ります。

 初源の洞窟住まいや吹きさらしの掘っ立て小屋のような集落の人間界が膨張するに従って、つまり人間が自力を増すに従って、自然理解も深まり、それと対応して〈(自然)神〉もまた変貌していったのではないかと想像します。その次の段階では、その〈(自然)神〉が人間界に写像されたような〈(人間的な)神〉が登場してきます。そこで、従来は、〈(自然)神〉―〈人間〉の関係意識だったものが、これを基層として、第二層に、〈(人間的な)神〉―〈人間〉の関係意識を生み出しました。近代以降の現在では、第三層に、〈人間社会〉―〈人間〉の関係意識を生み出しました。これらの重層化は、とても古い感覚が現在のわたしたちの感覚や意識にも残存しているということから内省してみれば、上の層に行くにしたがって、それより下の層はその過去の段階の人間の意識の「現在」層へ降りて行くものと見なせると思います。そして、ふだんはわたしたちの意識の深層にあっても、社会や個人の危機的な状況においてはその深層から噴き上げてきたり、あるいはその深層への退行が起こります。また、通常でも、その深層は表層の現在層の方まで微かに溶け込んできているのかもしれません。

 例えば、自分の経験でいえば、夕暮れ時暗くなった林の中に居ると身震いするような不安や恐れがどこからともなく湧き上がってくることがありました。イノシシくらいには出くわすことはあるかもしれませんが、理屈としては、そんな危険なことはないとわかっていても、そういう心的な状態になることが、わたしに限らず誰にもあり得るように思います。

 わたしたち人間の生存の重力場の中心は、欧米の近代的な科学や合理的な考え方が滲透した〈現在〉の層にあるのは確かですが、それでもわたしたちの心や意識の中にとても古い部分が残っているように感じられますし、また、思想としても古いものが生き残っています。このようにとても古い感覚や感受が今なおわたしたちの生き残っていること、その生き残り方の仕組みはよくわからないとしても、そのことを踏まえることは大切なことだと思われます。

 そして、このように層成す現在の中で、わたしたちはそれらがどのように層を成し、相互に関わり合ったり、古いものが発動したりするのか、それらの動的な構造を明らかにしていくということは、これからの大切な課題に属していると思われます。


(註.)
 この人間が動物生から抜け出して、自分と自然との違いに目覚め、途方もない時間の中で人間が自然を分離し始めたことから始まり祭式の創出にまで及ぶことについて、わたしの知る限り吉本さんが疎外(産出)論を駆使して詳細に触れています。そして、わたしはこの吉本さんの言葉によってそのことに気づかされたということを付け加えておきます。長いけど取り出してみます。


 まず原始的な社会では、人間の自然にたいする動物ににた関係のうちから、はじめに自然への異和の意識があらわれる。それはふくらんで自然が人間にはどうすることもできない不可解な全能物のようにあらわれる。原始人がはじめに、狩りや、糧食の採集を動物のようにではなく、すこしでも人為的にはじめ、また、住居のために、意図して穴をほったり、木を組んでゆわえたり、風よけをこしらえたりしはじめるようになると、自然はいままでとちがっておそろしい対立物として感ぜられるようになる。なぜならば、そのとき原始人は自然が悪天候や異変によって食とすべき動物その他をかれらから隠したり、食べるための植物の実を腐らせたり、住居を風によって吹きとばしたり、水浸しにしたりすることに気づくからだ。もちろん、動物的な生活をしていたときでも、自然はおなじような暴威をかれらにふるったのだが、意識的に狩りや植物の実の採取や、住居の組みたてをやらないかぎり、自然の暴威は、暴威ではあっても対立するとは感ぜられなかっただけだ。
 この自然からの最初の疎外感のうちに、自然を全能者のようにかんがえる宗教的な意識の混沌があらわれる。そして、自然はそのとき原始人にとっては、生活のすべてに侵入している何ものかである。狩や野生の植物の実の採取のような〈労働〉も、人間と人間のあいだのじかの自然関係である〈性〉行為も、〈眠り〉も、眠りのなかにあらわれる〈夢〉のような表象もふくめて、自然は全能のものであるかのようにあらわれる。
 そうして、自然がおそるべき対立物としてあらわれたちょうどそのときに、原始人たちのうえに、最初のじぶん自身にたいする不満や異和感がおおいはじめる。動物的な生活では、じぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。いまは、じぶんが自然に働きかけても、じぶんのおもいどおりにはならないから、かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感じるようになってゆく。狩や植物の採取にでかけても、住居にこもっても、かれはじぶんがそうであるとかんがえている像のように実現されずに、それ以外の状態で満足しなければならなくなる。
 ここで大切なことは、原始人たちが感じる自然やじぶんじしんにたいする最初の対立感は、自然や自然としてのしぶん自身(生理的・身体的)にたいする宗教的崇拝や、畏怖となってあらわれると同時に、じぶん以外のほかの原始人にたいする最初の対立感や異和感や畏怖としてあらわれることだ。こんなふうに原始人にとって、ある特定のほかの原始人は、自然のように崇拝すべき全能的なものでなければならず、ほかの原始人たち(集団)との関係は、じぶんじしんにたいする関係であり、同時にじぶんじしんにたいする対立や異和感や不満の身がわりでなければならなくなる。原始人にとって、あるきまった原始人は、自然の代償物としての宗教の表象であり、また、じぶんのじぶんじしんにたいする関係の代償物としての族長である。また、他の原始人たち(集団)は、じぶん自身にたいする関係をうつす鏡として、不満や異和や対立物の異心同体だといえる。


 祭式の行為と現実の行為とのはじめの相異は、原始人たちがその祭式の行為のなかに、自然と人間との関係と、人間のじぶんじしんとの関係を再現させながら、同時にそのなかに人間にたいする自然の、あるいはじぶんにたいするじぶんじしんの対立をうち消し、補償しようという意図をふくませたことにあらわれた。このいいかたが不正確だとすれば、祭式のときの対象にたいする行為は、自然にたいするじっさいに自然をかえてしまう行為ではなかった。だから自然にたいする人間の、あるいはじぶんにたいするじぶんじしんの対立や異和や不満は、現実的なものではなかった。そういいなおしてもいいはずだ。かれらは、自然やじぶんじしんにたいして(あるいはじぶんじしんのじっさいの同等物であるじぶんいがいの他人にたいして)現実ではこうはいかないが、かくあるべきはずだという関係を、祭式の行為によってだけ実現できたのだ。こういう行為を、呪術とよぼうが、収穫を豊饒にしようとする行為とよぼうが、戦いや狩のような<労働>の予行または再演とよぼうが、わたくたちの考えにとっては、自由だといっていい。たいせつなのは、祭式の行為のなかに、生活過程でぶつかる自然にたいする、あるいはじぶんじしんにたいする関係の再現と抽出(昇華)とがいっしょにとけあってふくまれていたということだ。 
  (『定本 言語にとって美とはなにか Ⅱ』 P31-P34 角川選書)

※ 上記の引用文中の傍点は省略しています。


(補註.)
 ついでだから、ここでわたしのこの考察について触れておきます。わたしがこの考察を始めようとしたとき、そのわたしのモチーフを強く促すものとして、次の吉本さんの言葉があったように思います。わたしのモチーフのベクトルをひと言で言えば、まずはわたしたちが生きているこの世界総体のイメージをはっきりさせたいということに尽きます。


 まだ熟した考えではありませんが、最近ぼくはこんなことを考えています。
 人類史というのは、人間がおサルさんと分かれたときから現代までずっと続いていて、ふつうはわれわれの身体の外にある環境(外界)、つまり政治現象や社会現象などの歴史も一応、「人類史」と考えられています。ところが、このあたりのことをもう少し細かくいうと、これまで考えられてきた古代史以降の環境の歴史というのは、いわば文明史あるいは文化史にすぎない。人類史全体ではないということになります。したがって人類史を探るにはやっぱり人間がおサルさんと分かれたところまでさかのぼる必要があるのではないか。
 それからもうひとつ、「人類史」にはそうした人類史のほかに、もう一種類あるのではないかということを考えています。別種の人類史とは何かといえば、個々の人間がそれぞれの身体性のなかにふくんでいる人類史です。個々の人間の身体性の範囲のなかで行われる精神活動や身体の運動性は人類史を内包していて、文明の移り変わりとか社会の変遷といった一般的な人類史とは別個のものとして考えられるように思います。
 そうしたふたつの人類史を媒介するものが、身体性の順序からいえば、種としての遺伝子の変化、風俗習慣の変遷、地域的差異に基づく言語の発展の仕方の違い、文明・文化の進展具合と、その根底にある自然へのはたらきかけ方……これをつづめていえば、種、住んでいる地域的環境、言語、この三つがふたつの人類史を媒介している。いまはそんなふうに考えています。

 (『「すべてを引き受ける」という思想』 P70-P71 対談・吉本隆明/茂木健一郎 2012年6月)


 歴史というと、前にもいいましたように、未開や野蛮な時代からどのように進展してきたか、すなわち文明・文化の進歩の度合がどうなっているかといった「外在史」を意味するのがふつうですが、個々の人間の身体性もそれぞれ現在までの人類史を内包しています。身体性の順序でいえば、種としての遺伝子の変化、風俗習慣の変遷、地域的差異に基づく言語の発展の仕方の違い、文明・文化の進展具合と、その根底にある自然へのはたらきかけ方……といったものが、身体性の「内在史」と、ふつう一般にいわれる「外在史」としての歴史を媒介する項目だと思いますが、この媒介項が「思想」だと、ぼくは考えたわけです。
 言い換えれば、思想は、種の問題や遺伝子の問題を別とするなら、かなりの程度において地域的差異に基づいている。ひとつは地域的な風俗習慣の違い、もうひとつは地域的な言語の違いで、主としてこのふたつの差異に基づく考え方の違いと言えます。
 ( 『同上』 P192-P193 )


 だからぼくはいま、おサルさんと分かれたときからの歴史をやる以外にないよと考えているわけです。そうすればはっきりと見通しがきくというか、これから未来のことについてもわりあい誤解・誤用が少なく観測できるはずです。それ以外のやり方では、世界がどう展開するか、ちょっとわからないのではないでしょうか。また、わかるようにいってはダメだともいえます。ましてマルクス主義のように情況論だけしかないのはもうダメだ。つまり精神の問題として、あるいは精神活動の問題として、人間の歴史をぶっ通しにわかっていなければ多分間違えるだろうと思います。これが、ぼくがフーコーと対談したときに思ったことであり、それを契機にして考えはじめたことです。
 ( 『同上』 P179 )

※ この対談は、茂木健一郎の「まえがき」によると、二〇〇六年七月~十月にかけて行われたものとある。






 8.層成す世界 3 (覚書)


 前回の註で取り上げた吉本さんの把握を借りれば、人間が自分と自然の違いに目覚め始めてから、人間の自然から分離されているという意識が始まり、どんなに靄のかかったようなあいまいなものとしてであれ、人間の自然認識が始まります。これは自然の内に埋もれるように生きていた人間の動物生そのものからの離脱を意味するから、同時に人間的な意識の始まりや言葉の端緒とも言えるもの、言いかえると現在的な人間的な次元の始まりを意味します。

 そして、長い時間の中、その自然認識は次々に積み重ねられ、大きな一つの水準と見なせるようなものを形成していきます。そうして、現在に到るまでいくつかの大きな段階を画するようになります。ここでそのような自然認識の大まかな段階を覚書程度に設定してみます。それらがどのようにわたしたちの中に取り入れられて層を成しているのかという詳細の機構は今のところよくわかりませんが、わたしたち人類はそれぞれの層をたどって現在に到っていることは確かなことです。


1.自然認識 0次元

人間が動物のように自然に埋もれるように存在していて、人間の薄明の意識のような状態の中自然が未だ人間から分離されていない段階。動物生の段階。



2.自然認識 1次元

人間が自然から分離されているという意識を獲得してしまいます。このことは言葉というものの創出にもつながっていきます。圧倒する自然力(自然のもたらす慈愛や猛威)に対して、気まぐれな母に付き合うほかない子どものように、自然のあらゆるものに〈大いなる自然〉として〈神性〉を見出していく段階。狩猟採集の段階に対応しています。



3.自然認識 2次元
 
人間が自然を本格的に制御し始める段階。見出された〈大いなる自然〉の〈神性〉が、人間界に引き入れられます。王が生まれる。この列島社会では、古代国家の成立辺りの時代に対応しています。産業としては、農業という第一次産業の本格的な稼働の段階と対応しています。



4.自然認識 3次元

自然を変形・利用する第一次産業の積み重なりの中に、この列島では近世が終焉を迎える頃から産業革命を経たヨーロッパの波が押し寄せ、自然を大規模に開発し、切り拓くという段階を迎えます。時期としては明治以降の近代に相当し、産業としては商工業の第二次産業中心の社会段階に対応しています。この段階は、人類が自然に対する人間力をずいぶん増強させてきた段階に当たります。それまでの謙虚さからこの時期に横着さが漂い出すのはそういう背景があります。



5.自然認識 4次元

近代的な開発経済が、総仕上げのように高度経済成長や列島改造などとして社会的に積み重ね滲透させてきたその水圧から花開くように、サービス産業や消費ということが中心に躍り出た消費資本主義の段階を迎えています。ここでは、従来的な人間と生の一次的な自然との付き合いから、それが1次元繰り上がってしまった人工的な自然と人間との関係の段階になってきています。それは社会のあらゆる分野、あらゆるシステム全体にわたっていくものであり、今後次々に高度化されていくはずです。それと並行してわたしたちの自然認識も従来のものを次々に更新して新たな次元の自然認識という水準を形作って行きます。もちろん、従来的な人間と生の一次的な自然との付き合いも残存していきますが、新たに構成されていく自然認識からの反照を受けたイメージがそこにも付加されるだろうと思われます。この段階は、サービス産業や消費が中心になった消費資本主義の現在に当たっています。付け加えれば、自然認識の1次元から3次元が人間と生の一次的な自然との関わりだったとすれば、この自然認識の4次元の現在はそこからの次元を異にするほどの大きな飛躍に当たるから、このことは、次の大きな段階への端緒となるような気がします。



 ところで、『チベットのモーツァルト』(中沢新一 講談社学術文庫)の「解説」を吉本さんが書いています。本書の中沢新一の「学術文庫版まえがき」によると、2003年近くに書かれた吉本さんの文章ということになります。



 ヘーゲルやルソーのような近代の哲学者が定めた野蛮や未開から近代までの歴史展開の「段階」は、たぶん小「段階」で、ほんとうは大「段階」の一つをまた小さな段階で区切ったものにすぎない。近代の哲学者は、近代までの一つの段階にすぎないものを人類の歴史のすべてと見なし、それを西欧近代の文明・文化を史観によって刻んで頂点として進歩の順に並べて見せた。しかし人類が種としての種から分岐し、独立したのは百万年単位の以前であり、地域によって種族語に分割され、共通の母音をもちながら種族語に分岐したのは十万年単位の過去だったとすれば、ヘーゲルのような小「段階」を区切る進歩主義の単純な展開では、この種としての分岐と種族語としての言語の地域分割との間の期間はすべて同一な動物性ということになってしまう。
 近代哲学者たちが言う野蛮、未開とは、ほんとうはそれ以前の大「段階」の終焉であり、同時に現「段階」の初期であると考えるべきで、現在の大「段階」の終焉の後には現在確定し難い次の大「段階」に移行する。そう見なすべきではなかろうか。
 わたしたちが現在、野蛮・未開の小「段階」の認識法を継承しているアフリカ大陸や南北アメリカの原住民や、東アジアやオセアニアの島々の知識人(呪術師)の認知法のなかに、神秘性・非科学性、不可解な妄想やこじつけとしてしか見なしえない認知法、としかかんがえられない部分があるとすれば、未発達な社会の迷蒙な認識とかんがえるべきではなく、野蛮集団から現在までの大「段階」以前の大「段階」から引き継がれたものであるのに、その思考の意味するもの、その核心が何なのかなどが判断できず、謎に満ちていると見なされているのではないか。わたしなどの段階論からすると、そんな仮説ができるように思える。
  (『チベットのモーツァルト』「解説」P329-P330 吉本隆明)




 わたしはこの吉本さんの「解説」を身震いするようなある感動とともに読んだ覚えがあります。それはこんな深みまで吉本さんの視線や言葉は届いていたのかという驚きでした。そして、そのことによって、人間という存在の始まりの不明の闇がいっそう深まり、ということは人間はこれからどのような道を踏んでいくのだろうかという不明さにも通じているという思いがしました。

 この吉本さんの「解説」を踏まえれば、ここでわたしが覚書程度に設定してみた自然認識の水準の2から5の途方もない時間も含む「小『段階』」をひとまとめにしてひとつの「大『段階』」と見なせば、1以前はまたそれ以前の「大『段階』」ということになります。この場合、現在的な人間的次元の始まりに当たる言葉を生み出す端緒の時期からをそれ以前とは画するものとしてひとつの大『段階』と見なしていることになります。人間も原始生命体から進化して現在の姿になったという現在までの知見によれば、さらにそれ以前にもいくつかの「大『段階』」が想定できそうです。その場合、「自然認識」ということはほどけてしまって「自然との関わり合いの水準」とでも言うべきものになります。






 9.世界論(世界観)は変貌する


 人間が想像したり考えたりすることは、無限の自由度を持っているように見えます。すなわち、人間は何でも想像できるし、何でも考えることができるというように見えます。一方で、例えば会社に入社して想像していたことや考えていたこととは違ったということなどは誰もが経験することです。つまり、人間は、自分がまだまったく経験していないことや経験していない世界については、想像や考えが及ばないということがあります。今までに自分や他者が経験してきたことを手がかりに未知のことや未知の世界に想像や考えを巡らせるわけですが、手がかりが一切存在しない場合の想像や考えは、恣意的なもの、現実性のない空想的なものになりがちです。例えば、極端な例で言えば、宇宙人の存在を想像したり考えたりすることがそれに該当します。

 人間が想像したり考えたりすることが、根拠のない恣意的な空想ではなく、現実性を持ったものであるためには、自分や他者が、あるいは人類が、今までに経験してきたことが踏み締める土台としてあることが必要です。

 もうひとつあります。太古に輪廻転生という考えや世界観が信じられていた歴史の段階がありましたが、産業の展開と高度化に対応するように人間の世界についての知も増大し、高度化して、その歴史段階を突き崩すようにまでなってしまったのだと思われます。太古の輪廻転生という考えや世界観は、近代以降のわたしたちの現在に到る考えや世界観とは異質なもので新たな歴史の段階を画してきたと言えます。現在でも輪廻転生の感覚や考えは世界のどこかで生き残ったり、わが国のように残骸のような状態でも存在しています。しかし、人類の歴史が、そのことが良い悪いは別にして、太古の輪廻転生という考えや世界観から現在のような自然科学的な考えや世界観中心の歴史段階に歩んできたというその現実、人類史のベクトルは、わたしたちがあることを想像したり考えたりする場合に前提として踏まえられなくてはならないと思います。その人類史のベクトルには偶然性とともに或る必然性もあるように思われます。そして、それは歴史的な現在としてわたしたちの現在に主流として流れてきています。

 人間が自分を自然とは異質なものと意識し始めることにより、自然に溶け込み埋もれていた動物生の段階を抜けだし、言葉のようなものを獲得した段階からを現在に直接つながる人間の歴史がはじまったと見なすことができます。もちろんそれ以前には現在までの知見によれば動物生や植物生の途方もない時間がありました。

 現在から見渡せば、太古の、人は生まれ変わるという世界観は迷妄がかって見えますが、現在のわたしたちの世界観と同様な当時の出来うる限りの把握や理解から生み出されたものであり、当時の「科学」と言うことができます。遠い未来からの視線で現在を見渡すときも同様だろうと思われます。このように、わたしたち人間の持つ世界観は、固定的、絶対的なものではなく、可変的なものです。そして、自然や世界との出会いの深まりによって、その世界の見え方や捉え方が徐々に変わっていくように見えます。このような世界観の大きな時間の区切りにおける段階的な変貌は、進化と呼べるかどうかはわかりませんが、固定的、絶対的なものではなく変貌していくものだということは言えます。したがって、現在の世界観を基準として太古を、あるいは遠い未来の世界観を基準として現在を見渡し、捉えてしまうことは、無意識的なレベルにまで及ぶ人間の感性や思考の自然な傾向だとしても、それぞれの人と世界の関わり合いから生み出された世界観からそれていくことになります。したがって、対象とする世界をありのままに近く捉えようとするとき、その自然な傾向に対する自覚と内省が大切なものとなってきます。この問題は、現在の問題に変換すると、ある対象世界の内側から見た視線や感受とその外側から見た視線や感受のずれの問題になります。

 このように世界論(世界観)は、どうしてそういう世界論(世界観)が太古に生まれたのか、現在では不明になってしまうように変貌して来ました。この世界論(世界観)の変貌は、世界自体の変貌に対応しています。これから未来に渡っても世界も世界論(世界観)も変貌の歩みを止めることはないでしょう。だから、絶対的な真理というものはある歴史の段階に関しては言えるかもしれませんが、現在から人類史総体の中の絶対的な真理として位置付けるのは無理があるような気がします。例えば「水」があります。そんな馬鹿なと思われるかもしれませんが、現在では「水」は水素と酸素から成るということが絶対的な真理に見えます、しかし、太古ではそれと違った「水」の捉え方があっただろうし、未来においてはもっと深いレベルの自然との出会い方が可能となってさらに深い「水」の捉え方が生まれないとも限りません。したがって、わたしたちに言えることは、絶対的な真理ではなく、歴史段階による更新の余地を残して普遍としての真理を目指すことができるということです。別の言い方をすれば、人間は人類史の生涯において紆余曲折を経ながら普遍としての真理を目指しているということになります。そして、その足跡は後から振り返れば不明な部分を残しつつも、わたしたちの現在の深みに層を成すように降り積もっているように見えます。

 迷妄のように見える太古と現在とは異質な世界観に見えますが、なんらかの因果関係として世界を捉えているという点では両者は共通性を持っています。わたしたち人類が、これからどういう未来へ歩んでいくのかよくわかりませんが、このなんらかの因果関係として世界を捉えるということは、その普遍としての真理を目指している姿と言うことができると思われます。






 10.日差し浴び・活動し・味わい・考え・生きる


 わたしたちは誰でも一度は自分はなぜ生きているのだろうかなど人の生きることの意味を問うたことがあるのではないかと思います。特に思春期と呼ばれる一般に不安定な時期にはそういう問いが湧き上がってくるのではないでしょうか。

 そのことは、人類の歴史においても問い続けられてきた大きな課題のように見えます。人間が現在に到るまで世界論(世界観)を生み出し続けてきたことは、その人間的な活動の無意識的な面から見れば、人の生きることの意味の追究に当たると思います。なぜなら、そこには人の理想的なあり方や人と人の関係の理想などが含まれており、そのことの追究は人の生きることの意味の追究に相当するはずです。このように、わたしたち人間がこの世界に生きる意味は何かということは、簡単に答えることができない難しいもので、人類史の現在までの歩みがその現在的な答えであると見なすほかないように思います。

 わたしたちはこの世界の或る場所に偶然のように生まれ、育ち、成長し、老いて、亡くなっていくように見えます。この点では、植物や動物と共通しています。さらに現在までの研究によれば、岩や山や星々などの無機的な自然もとても大きな時間のレベルでそうした誕生から死の過程を踏んでいくようです。ここで、「見えます」や「ようです」という断定を避けたあいまいな表現をしているのは、わたしたちが直接経験できない部分(自分の死)を含んでいたり、あるいはわたしたちの生涯の内に直接経験できないものに触れているからです。それを厳密に意識した表現をここではしてみました。

 わたしたちは誰でも、乳胎児期や幼年期や少年期、青年期を通過して大人の現在に到っています。そして、それぞれの時期には外からはうかがい知れないそれぞれの独特な世界了解や感受や反応があります。つまり、そこを過ぎ去ってしまってから振り返ってみても当時の生き生きとした世界そのものとは出会えないという、内在的な世界そのものという直接性の世界があります。

 こうして、それぞれの時期の〈現在〉を生きるわたしたちは、その〈現在〉を価値の中心とするような重力のかかった世界を生きています。こういう見方からすれば、わたしたちは絶えざる〈現在〉を生きているということになります。しかし、日々の生活を振り返ってみればわかるように、人には自分の過去を振り返ったり、将来のことを考えて現在的な準備をしたり等ということもあります。

 わたしたちが歩み過ぎてしまった〈現在〉は、すでにその内在的な世界から抜け出してしまった過去として、良いことであれ嫌なことであれもはや生命感の直接性が絶たれた過去として、例えば幼年期や少年期としてわたしたちの現在から呼び寄せられて現れてくることがあります。たぶん、この〈現在〉そのものが〈わたし〉にとって満たされた十全なものであれば、〈わたし〉の過去は呼び出されないのではないかという気がします。もちろん、研究対象として客観的に幼年期や少年期を取り上げたり、あるいはまたわたしたち人間の自然な性向として過去を想起することはあるでしょうが、無意識的であれ過去を呼び出す場合には、〈わたし〉の〈現在〉の方に不全感などのなんらかの必然的な動機があるように見えます。しかも、呼び出されてくる過去は、過去そのものの直接性ではありません。〈わたし〉の〈現在〉に記憶として残り、〈わたし〉の〈現在〉によるなんらかの選択というフィルターを通ってきたものです。

 そのことは、人の生涯の途上での振る舞いだけではなく、人類の歴史の途上においても見られることです。わが国の近代が上り詰めて昭和初期から戦争期にかけての「近代の超克」論議や奈良平安期という過去の文化や精神の呼び出し、これは退行的なものでしたが、社会の〈現在〉的な危機感が呼び寄せたものでした。ギリシア世界は、ヨーロッパという世界の根幹をなし、その発祥となる時期に当たっています。したがって、ヨーロッパでは何度かギリシャ世界が呼び出され反芻されています。これもまた、ヨーロッパ世界の〈現在〉の満たされなさや危機感が呼び寄せたものだと思われます。

 このように、人も歴史も〈現在〉そのものを活動し・味わい・考え・生きると同時に過去を呼び寄せて未来に向けて現在を補填するということも行います。つまり、人も歴史も〈現在〉そのものに重力の中心の場を持ちながらそうした二重性を生きています。

 人類の初期には人は洞窟やあるいはちっぽけな小屋のような建物に住まい、人間界はまだまだ自然の猛威のガードとしては簡単に吹き飛ばされるようなちゃちなものだったかもしれません。しかし、現在までの大きな時間の中で現在のように人間の力が自然を改変し人間界を増強させてきました。その当否は別にしても人間の生み出したものによる地球環境への影響力が云々されるようになったのは、人間界が増強した現在の段階を証しています。と同時に、それと対応するように人間力を増強させてきたことによって人間いうものが、人間の生涯とは別の大きな時間のスケールで推移する自然に対して一般に頭中心の世界となり、横着になってきているように見えます。まだそれ以降の世界がクリアーにイメージできませんが、これは終焉を迎えつつあるヨーロッパという文明の段階に対応したものだったと思います。この人間界や宇宙と呼ばれる世界における人間の「二重の根源的な受動性」(「4.世界内存在としての人間の有り様 1 」)という存在の有り様を内省すれば、人間の自然に対して芽ばえてきた横着さとは別の道もあり得るように思われます。

 わたしたちは、イメージや頭の上では〈現在〉を振り切ったり、無視したりすることはできますが、わたしたちの生活世界というちっぽけに見える〈現在〉の個別的な具体性を離れて生きることは誰もできません。現在は、経済社会が社会の大きな重力となり、しかも競争・効率・成果・市場主義などの外来の経済イデオロギーが幅をきかせ、それらがわたしたちの日々の感性や意識にまで滲透してわたしたちを左右し、余りにも干からびた社会、干からびた人間というイメージが蔓延しているように感じます。わたしたちは、そんなせせこましいイメージや考えから、人間界を超えたもっと大きな世界を含めた世界の中へわたしたちを解き放ち、風通しを良くして、また新しい柔軟な〈人間〉や〈社会〉のイメージや考えを発掘して新たに構想することが切実な〈現在〉の課題であると考えています。 


 ※ これでこの世界論ための素描の一通りの骨格は、終わりになります。しかし、まだ付け加えたり補ったりという「補遺」として書き加える余地は感じています。






 あとがき


 いろいろと難渋しながらやっと「子どもでもわかる世界論のための素描」を書き上げました。もっとなめらかな文章にしたいと思いながら書き進めましたが、如何せんいろいろとよくわからない岩石や岸壁が立ち現れたりして、とてもしんどい行路でした。「子どもでもわかる」としたのは、実際には「子どもでもわかる世界論」を書かないかもしれないけれど、そのようなやさしい言葉ややさしい文体を目ざしているんだよ、という信号のようなものでした。

 現在のわたしたちの生活も意識も表層から中層に渡ってはすでに十分に欧米化の波を被り浸食・滲透・改変をとげていますが、たんなる外来の思想や概念の模倣や改作ではない、このような割と自前の世界論を依然として見かけることはほとんどありません。すなわち、わたしたちの生活や意識の深層から汲み上げてきたような世界論のことです。わたしが試みざるを得なかった所以(ゆえん)です。

 2011年の年末に、三つの詩集(『沈黙の在所』、『ひらく童話詩』、『人のあわい』)をひとつのつながりを持つものとして編んで、ネットで公開しました。この辺りから、この「世界論」の構想が芽ばえたように思います。きっかけとなったもっと具体的な作品を取り出してみると、「ちいさな日差しから 深い日差しへ 流れ下り上る ―試みの宇宙論 あるいは今ここの」(詩集『沈黙の在所』)になると思います。つまり、わたしの中では、詩も思想も世界論も別物ではありません。

 わたしは、自分のことを詩人と思ったことはあんまりありません。普通の生活者であることを逸脱してしまった部分でいえば、むしろ詩をも含んだ人間の総体に渡ることに関心を持つ表現者としての意識はあります。そしてその部分では、詩はほとんどお金になることはないけれど、萩原朔太郎以来の詩こそが根底的で直接的な表現が可能な一番のものであるという思いがあります。
 (※ 以上、2017年2月26日公表の文章を本文と同じく「です」「ます」体に統一しました。)

 この「世界論」のモチーフで大事なことを忘れていたので付け加えます。表現者として吉本さんの為してきたことで、人間の心から精神に渡る本質とその構造の考察とそこから表現されたものの考察に絞っても、その主要な著作として『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『マス・イメージ論』、『ハイ・イメージ論』、『心的現象論(序説)』、『母型論』などを挙げることができます。人間界の難題についての考察は、極端に言ってほったらかしにしていても、吉本さんが述べていた「歴史の無意識」のようなものが追い追い促してきて考察なり受け止めなりを人間や人間社会に迫ってくるのかもしれません。だから、表現世界に入り込んだ者であっても、いつか人類が解決するだろうからわたしはパスするというのもありかもしれませんが、果敢に挑戦する者が出て来るのもまた人間の有り様のように思っています。

 吉本さんのこの人間界に生起するものへの本質的かつ構造的な考察は、これから100年か200年かそれ以上かわかりませんがとても長い時間の推移に耐え得るものだと思っています。そして、その難題に果敢に挑んだ吉本さんの膨大な考察は、わたしたちへの貴重な〈おくりもの〉です。〈おくりもの〉という意味は、わたしたちが表現者としてその考察を引き継いでその構造の詳細な詰めの課題に取り組んだり、その考察を使った更なる深い考察を行おうとするとき、吉本さんという先人からの大きな助けとなるだろうということです。あるいはまた、その〈おくりもの〉を受け取った表現者(普通の生活者でもいいですが)が、自らの生活世界の具体性に還流させていくことによって、生活世界の困難がいつのまにか解けていくということもあるように思われます。

 ところで、わたしが、宇宙・大いなる自然・人間界にまたがる「世界論」の骨組みを考えてみよう思ったのは、吉本さんはこの人間界を越境した分野にはあまり手を付けていないと見えていたからです。

 しかし、手を付けていないわけではありません。吉本さんの若い頃のアインシュタインの相対性理論への関心、敗戦後の数学者遠山啓との出会いがあり、遠山啓の講義「量子論の数学的基礎」に感銘を受けながらそれを自分の思考に組み入れていったものと思います。人間の自己意識や了解の問題と絡めて宇宙論に触れている「宇宙の島」という文章もあります。(『初源への言葉』1979年 所収)また、最晩年の親鸞の「最終の言葉」に触れたインタビュー(「逆説の親鸞」『親鸞の歩き方』ダイヤモンド社 2011年4月)では、『教行信証』の終わり近くの親鸞の述懐に触れて、「ぼくには人間という存在そのもの、人間性が天然自然、あるいは自然に向かって述懐している《ざんげ》であるように思えるのです。・・・中略・・・言い換えますと、ここでは親鸞は《人間代表》として自然に対して《ざんげ》しているかのように感ぜられるのです。」というような、人間界を超えたものものとの関わりに触れています。また、「インタビュー」(『kotoba』2011年春号)で、銀河系などに思考やイメージを巡らせた宮沢賢治に自覚させられたとして「僕のいまの考えを極端に単純化していえば、銀河系の中にある太陽系、その第三惑星である地球にいる人間の寿命は、いまに銀河系の消滅と同じくらいまでいくぞ、と思っています。」と語っています。このように人間界を超えた宇宙への言及もあり、吉本さんの思考の触手が伸びている領域や分野はとてもひろく深いです。因みに、わたしも遙か未来における人類の本格的な宇宙への上陸ということに思い巡らせたことがあります。

 振り返るとこうしたことがありますが、吉本さんが本格的にはあまり手を付けていない所という思いからわたしはこの「世界論」を書き出してみました。
 (2017年3月1日)

 








2.子どもでもわかる世界論

   ―宇宙・大いなる自然・人間世界



 0.はじめに


 わたしは、中学生の頃は世の中のこと、つまりこの社会の成り立ちや仕組みのことがほとんどわかっていませんでした。今から振り返ると、高度経済成長期以前の社会で、この列島の各地域社会がこじんまりした単調さの中に分立していたような印象があります。まだ、あの山の向こうはどんな世界があるのかわからないというような感覚が子ども心にはありました。テレビなどのマスコミやコマーシャルが社会内を連結したり、社会内に様々なイメージを振りまいたりするような現在の高度化した社会とその中を走る慌ただしい時間とはまるで異質な社会状況だったように感じます。高校生になって、人の世に関するいろいろなことを疑問に思って本の世界にその答えを捜そうとしましたが、なかなかわかりやすく答えてくれるものには出会えませんでした。

 人は誰でも自分で歩いて見て感じて経験を積み重ねていく以外にないということは確かなことだとしても、ただでさえ過剰な心を持て余す若い頃にはなかなかそのような余裕がありません。しかも、精神的にも独り立ちし始める青少年期には、あらゆる人生上の問題が凝縮された形で鋭く深く混迷とともに訪れてきます。また一般的には、老年期とともに死を意識する時期でもあります。

 そこで、他に対しては少しでも心落ち着け静かに考え巡らせるきっかけになればいいなという思いからこの文章を書いています。また、自分に対してはどこかにそのような自分の若い頃の体験を込めながら、現在のわたし自身に向かって書いています。わたし自身と他の老いも若きもが、人生上の経験の差があったとしても、沈黙の中でであれ、同じ言葉の地平で言葉を交わし合えたらなという思いがあります。

 なお、「子どもでもわかる」というこの文章の対象は、具体的に言えば中学生以上を想定しています。ひとつの小さな助けにでもなればいいなと思います。
        (2017年6月10日)






 1.わたしたち「人間」は何者でしょうか


 1.わたしたち「人間」は何者でしょうか


 「人間」とは何者かという問いに真正面から答えることはむずかしいので、側面から答えてみます。「人間」というものの本質をひと言で言うと、「世界」に埋もれるように生きる植物や動物 ―現在までの学問的な研究のもたらした知見を踏まえれば、このこと自体は人間も遙かな時の彼方で分かち持ってきた経験があるはずですから、その経験はわたしたちの心や身体感覚の深層に植物生や動物生として仕舞い込まれているはずです。そしてわたしたちの日常の行動や感受においてそこからの発動も加わっていると思われます。― からなぜだかわからないけれど抜け出てしまって、「人間」と「世界」とが分離された意識を持ってしまった存在を人間と呼ぶと。

 こうして、「わたしたち人間は……」と思い巡らせたり、言葉を語りはじめたり、書き始めたりできるのが、植物や動物とは大きく違う「人間」というものの有り様です。もちろん、すべての人間が声に出して語ったり、文字を書いて表現することができるとは限りません。しかし、そういうことができない障害を抱えている人々でも、沈黙や心の中では言葉で考えたりしているようですから「人間」として同じ「人間」的な活動をしています。



 けれども、この緑が好きという感じは、みんなの感覚とは、ずれています。
 みんなが緑を見て思うことは、緑色の木や草花を見て、その美しさに感動するということだと思います。しかし、僕たちの緑は、自分の命と同じくらい大切なものなのです。
 なぜなら、緑を見ていると障害者の自分も、この地球に生きていて良いのだという気にさせてくれます。緑と一緒にいるだけで、体中から元気がわいて来るのです。
 人にどれだけ否定されても、緑はぎゅっと僕たちの心を抱きしめてくれます。
 目で見る緑は、草や木の命です。命の色が緑なのです。
 だから僕らは、緑の見える散歩が大好きなのです。


 自然は、僕がすごく怒っている時は、僕の心を落ちつかせてくれるし、僕が嬉しい時には、僕と一緒に笑ってくれます。
 自然は友達にはなれない、とみんなは思うかも知れません。しかし、人間だって動物なのです。僕らの心の奥底で、原始の時代の感覚が残っているのかも知れません。
 (『自閉症の僕が跳びはねる理由』P106-P107,P110-P111 東田直樹 2016年)




 なぜかはわからないですが、自閉症と呼ばれる人々の感覚やものの感じ方にはこのような人間が動植物と分かれ始める前のような、人類のとっても古い感覚や意識が保存されているように見えます。わたしたちの自然に対する感覚は、その様な感覚や感受とちがって摩耗してしまっているように感じますが、わたしたちの割と無意識的な感覚や意識の古層には、同様なものが保存されているはずです。そして、わたしたちには気づきにくい通路を通ってそれらはわたしたちの深いところから湧き上がって発動しているように感じられます。

 付け加えると、世界の民話の出だしには、(人間がまだ動物や植物の言葉をわかっていた頃)という語り出しの定型がありますが、これが定型として存在していることは、遙か太古の人々の共通の感じ方から来ているはずです。これはおそらく人間が動植物の世界から抜け出した後に後振り返ってみた時の言葉の表現で、動植物と自分を区別していなかった段階の名残ではないかと思われます。

 途方もない時間の中で、自然に埋もれるように生きてきた何者でもなかった者が「人間」となり、動植物たちに別れを告げ、大いなる自然の中、自分を自然から引きはがしつつ自然と関わり合いをくり返していきます。そうして、大いなる自然に神々を見出し、その神々と対話をくり返しながら人間世界を築いていきます。たぶん集落の始まりでは人はみな平等であったはずですが、人間世界が大きくなり複雑化していくと神々は人間世界に引き入れられ、一般的には巫女やシャーマンや王を生み出し、かれらは神々と二重化(同一化)していきます。そして普通の人々から離れていきます。

 近代世界になって、遠い回り道をしてきたかのように、たぶん遙か太古の人間のはじまり辺りにあった平等や自由という考え方や制度が欧米を中心として新たな形で生み出されてきました。しかし、神々と人間界の権力を持つ者たちとの二重化(同一化)は、現在でも残っています。また、それと同じような意識は、わかりやすい例で言えば、スポーツ選手や歌手や芸能人などの「有名人」に対する普通の人々のまなざしや意識の中にとっても古い起源を持つものとして保存されていて、現在的に発動し続けています。

 わたしたちは、二度の大きな世界戦争を経験した以降の世界に生きています。その後大規模な戦争は起こっていませんが、小規模な地域紛争や「テロ」と呼ばれるような新たな戦争という形で戦争は生き延びています。このことの背景には、特に抑圧を感じている人々や集団や国家というものが、そのような戦争あるいは「テロ」という形でしか問題の根本的な解決は不可能だと考えていることになります。それを人間観でいえば、絶望の人間観だと思います。互いに相手を悪とののしり、力でしか解決できないと見なしています。幸いにもこの列島社会は、今のところそのような泥沼の地域紛争や「テロ」を免れていますが、それに至るような集団間の対立の問題などはありけっして無縁なわけではありません。同じ人間として、人間的な課題として、これらの問題を考えることはとても大切なことだと思います。そのためには、この世界内におけるわたしたち「人間」という存在の意味や有り様を奥深いところから照らし出して考えてみるという内省が大切なことだと思います。

 世界は穏やかな日々の中にもこういう絶望的な状況を抱え込んでいますが、そのような絶望的な状況を生み出したのも人間(集団)ですが、その絶望的な状況をなんとか少しでも良い方向につなげていこうと模索をするのもまた、人間(集団)です。現在までの血塗られた途方もない人間の歩みを振り返って、このことを信じる以外に希望というものを思い描くことはできないと思っています。






 2.言葉としての人間


 2.言葉としての人間


 わたしたちが植物や動物と同じようにこの世界に埋もれるように生きていて、この世界についてやそこに生きる自分について考えるということができなければ、今から述べるこの世界の成り立ちとそこに生きるわたしたち人間ということは、想像すらできないことです。

 ここで人間というもののはじまりの段階を想像してみます。なぜかわたしたち人間は、「人間」と「世界」とが分離された意識を持ってしまい、「言葉」(註.1))というものを手に入れてしまいました。言いかえると、自分自身や自分の生きている世界を頭の中に思い浮かべて、あれこれ「考える」ということができるようになりました。あるいは、目の前にないものでも思い浮かべて感じ考えることができるようになりました。そして、それは外に表されることによって、人と人とがあることを伝え合ったり、ある気持ちを共有することができるようになりました。また、歌や踊りや絵などの芸術を生み出しました。あるいは、宗教のようなものや取り決め(後には「宗教」や「法」となります)や集落社会の仕組み(後には「制度」となります)を生み出してきました。また、考えたことを外に出し実行することによって、わたしたち人間が生きていく上で必要な道具や建物などを作り上げてきました。これらを別の言葉で言えば、文化やもっと大規模には人類史の一つの段階を表す文明と呼ばれるものを築き上げてきました。

 動物も言葉のようなものは持っているように見えますが、人間はそこから突き抜けて言葉というものを獲得してしまいました。このことが人間と動物との決定的な別れになりました。以上のことをひと言で言い表すならば、人間は言葉としての人間になってしまいました。

 現在のところ言葉には、話される言葉と文字によって書かれる言葉があります。わが国では、紀元後辺りから先進中国より漢字が流入してきたようです。そこからたぶん悪戦苦闘を経て中国の文字である漢字をわが国の従来からの言葉に苦労して当てはめて、万葉仮名と呼ばれる表記法を生み出します。平安時代になると、漢字から仮名を生み出し、現在の漢字仮名交じり文が形作られていきます。

 もちろんこの段階では、一部の貴族などの知識層を除く大多数の普通の人々は、それらの文字とは無縁な生活だと思われます。したがって、書かれた文字を偶然にでも目にしたら、何かとてもありがたいものでも目にするような宗教的な感情を持ったのではないかと想像します。(註.2)近世になって寺子屋で庶民の子どもに読み書きが教えられるようになったということは、近世辺りには普通の人々にも文字が普及し始めていたのだろうと推測されます。

 文字の成立は、時代的にはわが国では古代国家の時代に相当します。この文字の成立とその活用によって、文明はその土台を強化し、複雑化することが可能になったと思います。つまり、文字が文明の駆動力のひとつになったと思われます。

 ここでひとつ付け加えておけば、例えば「言葉」の獲得一つを取っても人類はとてつもない時間の中でそれを行って来たということです。近代以降は、文明の度合いというものが急上昇してきますが、それ以前はとてもゆるやかな上昇の時間だったと思われます。現在の科学技術含む様々な分野での急激な変貌の中のわたしたちのせわしない時間の感覚や意識で太古の時間を計るのはズレが出てきます。人の時間の感覚や意識も歴史の時間の中で変貌してきています。また、人間にとっての時間にはわたしたち人間ひとり一人の生涯という目下百年足らずの時間と人類の歴史としての何十万年、何百万年というとてつもなく大きな時間という二種の時間があります。さらにそれらの人間世界を超えた時間というものもあります。宇宙時間とも呼ぶべきものです。しかし、いずれの時間も人間が世界を捉えるスケール(ものさし)として人間の意識や言葉が考え生み出したものです。



(註.1)
 言葉と心の関わり合いを踏まえて、表現された言葉というものを深く考察した人に吉本隆明という人がいます。次は、彼の言葉の考察(『言語にとって美とはなにか』)の基軸を本人がわかりやすく説明したものです。若い頃実験化学者でもあった著者は、科学や数学の方法を駆使して、言葉というものを自己表出と指示表出で織られた織物と見なしています。この自己表出と指示表出を言葉の基軸に置いた捉えかたは、言葉を表現しているわたしたちの日頃の実感にもかなったもので、わたしたちが言葉とは何かを考える場合のあいまいさを整序して見通しの良い視野を与えてくれるはずです。少なくとも今後100年や200年は生き残るすぐれた考え方だと思います。この言葉の捉え方の本格的な展開は、『言語にとって美とはなにか』(1965年)でなされています。



 暗記しなくてもいい国文法であり、国際的にもどこの言葉にも使える文法は作れないかといつも考えさせられた。わたしが考えた暗記不要の国文法の入口のところだけをやさしく述べてみよう。もちろん国文法だけでなく、どこの種族語、民族語にも使えるし、中学生にも専門の文法学者にも使えるはずだとおもっている。
 まず、すべての言葉は、「自己表出」と「指示表出」をタテ糸とヨコ糸として織られた織物だとみなすことにする。少し説明する。ここで「自己表出」というのをやさしく解説する。
 例えば、きれいな花が咲いているのを見て「きれいな花だ」とか「ああ、きれいだ」と思わずつぶやいたり、心のなかだけで言葉にならず感嘆したとする。もちろん大声で叫んで傍にいる人々が視線の方向を見た場合でもいい。この場合、他人に伝達するために「きれいな花だ」といったのではなく、思わずその言葉を発したり、内心にいいきかせたり、つぶやいたりしたことだけは共通で確かなことだ。言葉のもつこの側面を「自己表出」と名づける。
 「指示表出」というのはこの場合、自分だけにしかわからない場合も、傍にいる人々に花の方に視線を集めさせた場合も、自分または他人に花を指示させたことは確かである。言葉のもつこの側面を「指示表出」と呼ぶ。するとすべての言葉は「自己表出」と「指示表出」の度合いに違いがあるが、「指示」の目的が多くて「自己表出」の度合いはそれほど大きくないとか、その反対だとかということができる。
 極端に考えると、数字は「指示表出」だけ。胃が痛いのを「痛い」とおもっただけで他人には全くわからなかった場合には「自己表出」だけと考えられるかもしれない。けれどこまかく見れば「3プラス5は8」を暗算するのと、声に出すのと、ノートに記すのとは「自己表出」の度合いが違っている。胃が痛いと内心でつぶやくのと、沈黙のままでいるのとは「指示表出」の度合いが違う。だから言語はすべてこの両者の織物で、その度合いが違うだけだとみなすのが妥当だといえよう。するとすべての言葉は「自己表出」をタテ軸に「指示表出」をヨコ軸にとると次のように表すことができる。



※ この図は、『言語にとって美とはなにか』に第4図として載せられている図とは少し違って、修正されています。


 助詞(てにをは)の場合はどう考えるべきだろうか。例えば、

      私は掃除した。
      私が掃除した。

 この二つの文を比較してみよう。「私は」「私が」の助詞「は」と「が」はどう考えたらよいか。二つの助詞の相違はよくわかるとおもう。「私は」の場合やさしい言い方では他の人も掃除したかもしれないが、何はともあれ自分は掃除したという意味にとれる。「私が」の場合は、掃除をやったのは自分だということを特に強調した意味にとれよう。助詞「は」と「が」は品詞としてはおなじ「自己表出」の位置にありながら「指示表出」としてははっきり違う意味を与えている。
 これは助動詞の場合もおなじようなことがある。

      私は先生です。
      私は先生である。
                  
 「です」とは身分とか職業とかを明かしているだけにとれるが、「「(で)ある」の方は何となく強調の意味を含み、威張っているようにも感じられる。
  (『中学生のための社会科』第一章「言葉と情感」P51-P56 市井文学 2005年)



(註.2))
 平安時代の『古今和歌集』のひらがなを用いて書かれた序文の方の「仮名序」に、次のように書かれています。


やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり


 前半は、人の心は、日々いろんなものを見聞きすることである感情を呼び起こされて、それを言葉に表現しようとします。歌はそうやって生まれてきました。後半は、その歌の言葉は、天地(自然)を動かしたり、鬼神を感動されたり、男女の仲を取り持ったり、勇ましい武士の心をも慰める力を持っているということです。

 現代では、言葉の歌(和歌)よりも音楽の歌の方がわたしたちの心を強く揺さぶる時代になっているのかもしれません。現代ではその言葉の威力は薄れてきているとしても、歌(言葉)をそのような威力を持っているものと当時の知識層が捉えていたことは大切なことで、おそらく当時の雨乞いなどで唱えられる言葉とも地続きの意識だと考えられます。つまり、普通の人々は、知識層以上に言葉(文字)に対する宗教的なイメージや近寄りがたさを抱いたものと想像できます。






 3.世界内存在としての人間の有り様


 わたしたち人間は、誰もがこの世界の内にあります。固い言葉で言うと世界内存在です。この世界に生まれて間もない頃はこの世界の規模と中身がよくわからないでしょうが、育っていく過程で、家族や回りの地域や学校などの小社会に関係していきます。さらに青年期に入ると、もう少し抽象的な社会というものや国家というものの存在にも気づいていきますし、同時に愛や自由や平等などの抽象的な概念にも親しむようになります。つまり、この人間世界に自分の触手を伸ばしそれらの有り様について考えるようになってきます。そうして、自分から見える世界は、その人間界がすべてではないということもわかってきます。

 大震災などに対しては人類は今のところなす術もないというように、災害に対する防備はまだまだ難しく十分ではないでしょうが、それでも現在ではずいぶん人間力も増強されて、人間界に住むわたしたちは自然の猛威からのガード力をつけてきています。つまり、人間世界がわたしたちの大自然から受ける猛威から保護する力を増大させてきました。それは、大いなる自然の下、まだ洞窟住まいや吹きさらしのようなちっぽけな小屋のような建物に住んでいて、大いなる自然の猛威にさらされ続けたであろう人類の初期の頃と比較すれば雲泥の差ということになるでしょう。
 
 そういう人類のはじまり辺りを想像すると、そこから遙か現在までつながる人間の本質というものが抽出できます。人間は、まず猛威と恵みとを併せ持つ大いなる自然に生かされてきたということ、またひとりひとりの人間はこの世界に誕生して独り立ちするまで母や家族などの世話にならないでは生きていけないということがあります。人間は、成長して独り立ちするようになる頃には自分の持っている力を発揮して生きていくのが当たり前というように社会的に考えられていて、「自力」や「自己責任」が社会的には流通している考え方になってきます。しかし、ひとりの人間のはじまりも人類のはじまりも、ともに絶対的な他力(母の世話や人間に先立つ宇宙の存在や大いなる自然の恵み)によって支えられ生かされています。つまり、本質的には人間は受け身の存在です。例えば、人類が遠い未来に本格的に宇宙に上陸してもこの太陽系を抜け出すことができなければ、太陽系の終末とともに人類は終わります。あるいは、太陽系を抜け出し銀河系を旅してもこの銀河系が終末を迎えたら人類は終わります。これはわたしたち人間が、二重の根源的な「他力」によって生かされている受動的な存在だということを示しています。

 しかし、現実的なわたしたちのこの世界での有り様は、この人間界の社会の中、家族や学校や職場などに関わり合いながらその世界がすべての中心であるかのように見なして日々あくせくと生きています。つまり、わたしたちのこの世界におけるあり方の自然さや無意識的なものから考えると、人は誰でもそれらの小さな生活圏での日々の生活に重力の中心があるように生きているように見えます。だから逆に見ると、人がそういう生活圏で弾かれたりイジメを受けたり大きな失敗をしたりすると、もう生きてはいられないというような心性になるのは避けがたいことなのでしょう。

 それでも、その人間界の日々の小さな生活に重力の中心があるとしても、それがわたしたち人間の生存の全てではないということは大切なことです。わたしたち人間が、二重の根源的な「他力」によって生かされている受動的な存在だということは、人間界の日々の小さな生活に直接的に関わってくる問題ではありませんが、日々の生活を内省させるものであったり、あるいは日々の生活の息苦しさにいくらかの風穴を開けるものとなり得るかもしれません。いずれにしても、この根源的な「他力」によって人は生かされている人間存在の有り様は、わたしたちの心の深いところに潜在していて、時に発動されることがあるように思います。

 初期には洞窟やあるいはちっぽけな小屋のような住居で、人間界はまだまだ自然の猛威に対するガードとしては貧弱でした。そこから長い文明の停滞のような時期をたどり、明治近代以降、文明は急激な上昇曲線を描いてきました。工業を中心にした近代の産業の高度化を経て、人間の力が自然を急激に大規模に改変し、現在では地球環境への影響力が云々されるような人間界の力が増強した段階になってきました。

 それと対応するように人間というものが横着になってきているように見えます。ということは、人間の太古の洞窟生活時代の自然に対する感覚や考え方と現在のそれらとは大きな違いがあり得るということになります。

 人間が一般に無意識的であれ横着になってきているということは、これは力を得た者としての自然な感覚かもしれませんが、人間という存在はまた、じぶん自身を振り返り内省することができる存在でもあります。そこで、その横着さを内省し解消することにつながる二重の根源的な他力によってわたしたち人間は生かされている、あるいは生きているというある謙虚さのような自覚は大切なものと思います。この自然に対する人間力を身に付け増強し現代の横着さに到る段階は、文明的な段階としてはギリシアに始まるヨーロッパという文明の起こりと衰退に対応しています。

 現在は、先の第二次大戦以降のいわば内省された世界に当たります。しかし、大戦こそありませんが、世界には依然として地域的な戦争や「テロ」というものが存在しています。つまり「力」で問題の解決を図ろうという考え方が存在します。また、核兵器などの軍事力によって国と国との外交をうまく進めようという考え方も依然として存在します。これらの現状は、人間がまだちいさな集落レベルの社会にあって隣の集落とけんかや交渉をしていた段階から、現在においてもなお人類がそれをうまく解決できていないということを意味しています。さらに現在では、けんかの道具が銃火器や爆発物や戦闘機など文明力と悪意が総動員されていますから、人間社会にいっそう悲惨な状況を引き起こすことになります。

 実践的な思想としてこの世界と人間の有り様について未だかつてないほど根本から深く考察した吉本(隆明)さんは、人間が内省して理想を考え思い描く力を「人間力」と捉えられました。その「人間力」を発揮して矛盾と問題を抱えた現在の有り様をそのまま受け入れることなく人間や人間社会の理想のあり方を思い描くことは、いつの時代になっても大切なことだと思います。さまざまな行き詰まりの問題を抱えている現在は、おそらく今までとは違った新たな段階の社会に入り込んでいるように感じますが、それは依然としてはっきりと描くことのできない未知の段階の渦中にあります。






 4.世界観(世界論)は変貌する ①


 人間が想像したり考えたりすることは、無限の自由度を持っているように見えます。すなわち、人間は何でも想像できるし、何でも考えることができるように見えます。一方で、例えば学校に入学したり会社に入社して想像していたことや考えていたこととは違ったということなどは誰もが経験することです。そして、それらの世界に入り込んでしまったら、学校や会社などのそれぞれの小社会の体験を基にしてわたしたちは考えを組み立てていきます。

 つまり、人間は、自分がまだまったく経験していないことや経験していない世界については、想像や考えが及ばないということがあります。今までに自分や他者が経験してきたことを手がかりに未知のことや未知の世界に想像や考えを巡らせるわけですが、手がかりが一切存在しない場合の想像や考えは、勝手気ままなもの(恣意的なもの)、現実性のない空想的なものになりがちです。例えば、極端な例で言えば、宇宙人の存在を想像したりその振る舞いを考えたりすることはそれにあてはまります。

 人間が想像したり考えたりすることが、根拠のない恣意的な空想ではなく、現実性を持ったものであるためには、自分の学校や会社の体験のように、自分や他者が、あるいは人類が、今までに経験してきたことが踏み締める土台としてあることが必要です。

 もうひとつあります。遙か太古に人間は死んでもまた生まれ変わるという輪廻転生(りんねてんせい)という考えや世界観が信じられていた歴史の段階がありましたが、産業の展開と高度化に対応するように人間の世界についての知識も増大し、高度化して、その歴史段階を突き崩すようにまでなってしまったのだと思われます。太古の輪廻転生という考えや世界観は、近代以降のわたしたちの現在に到る考えや世界観とは異質なもので古い歴史の段階を画してきたと言えます。現在でも輪廻転生の感覚や考えは世界のどこかで生き残ったり、わが国のように残骸のような状態でも存在しています。しかし、人類の歴史が、そのことが良い悪いは別にして、太古の輪廻転生という考えや世界観から現在のような自然科学的な考えや世界観中心の歴史段階に歩んできたというその現実、人類史の歩みは、わたしたちがあることを想像したり考えたりする場合に前提として踏まえられなくてはならないと思います。その人類史の歩みには偶然性とともに或る必然性もあるように思われます。そして、それは人間や人類の根本的な本質や有り様から織り上げられて、歴史的な現在としてわたしたちの現在に〈主流〉として流れてきています。

 人間が自分を自然とは異質なものと意識し始めることにより、自然に溶け込み埋もれていた動物生の段階を抜けだし、言葉のようなものを獲得した段階から現在までを、現在に直接つながる人間の歴史がはじまり展開してきた大きなひとまとまりの段階と見なすことができます。もちろんそれ以前には現在までの知見によれば動物生や植物生の途方もない時間がありました。

 現在から見渡せば、太古の、人は生まれ変わるという世界観は非科学的で迷妄(めいもう)がかって見えますが、しかし現在のわたしたちの世界観と同様な当時の出来うる限りの把握や理解から生み出されたものであり、当時の「科学」と言うことができます。遠い未来からの視線で現在を見渡すときも同じように見えるだろうと思われます。このように、わたしたち人間の持つ世界観は、固定的、絶対的なものではなく、可変的なものです。そして、自然や世界との出会いの深まりによって、その世界の見え方や捉え方が徐々に変わっていくように見えます。このような世界観の大きな時間の区切りにおける段階的な変貌は、進化と呼べるかどうかはわかりませんが、固定的、絶対的なものではなく変貌していくものだということは言えます。したがって、現在の世界観を基準として太古を、あるいは遠い未来の世界観を基準として現在を見渡し、捉えてしまうことは、無意識的なレベルにまで及ぶ人間の感性や思考の自然な傾向だとしても、それぞれの人と世界の関わり合いから生み出された世界観からそれていくことになります。したがって、対象とする世界をありのままに近く捉えようとするとき、その自然な傾向に対する自覚と内省が大切なものとなってきます。

 この問題は、現在の問題に変換すると、ある対象世界の内側から見た視線や感受とその外側から見た視線や感受のずれの問題ということになります。例えば、学校内での自分たち子どものグループ内の感じ方とそのグループを外から眺める先生たちの感じ方は、互いに違っているとかずれている、溝があるということは経験があると思います。あるいはまた、自分が自分に対して持つイメージや判断と他者が自分に対して持つイメージや判断のずれやくいちがいの問題でもあります。

 人間が、自分が生きている世界についてどう考えるか、その世界自体の成り立ちとその世界に関わり合う人間の有り様とをどう捉えるか、ということを大多数の人々が持ったとき、それをひとつの世界観(世界論)と言うことができます。そして、その世界観は太古からあります。

 このように世界観(世界論)は、どうしてそういう世界観(世界論)が太古に生まれたのか、現在では不明になってしまうように変貌して来ました。この世界観(世界論)の変貌は、当然のこととして世界自体の変貌に対応しています。これから未来に渡っても世界も世界観(世界論)も変貌の歩みを止めることはないでしょう。だから、絶対的な真理(しんり、ほんとうのこと)というものはある歴史の段階に関しては言えるかもしれませんが、現在から人類史総体の中の絶対的な真理として位置付けるのは無理があるような気がします。

 例えば「水」があります。そんな馬鹿なと思われるかもしれませんが、現在では「水」は水素と酸素から成るということが絶対的な真理に見えます、しかし、太古ではそれと違った「水」の捉え方があっただろうし、未来においてはもっと深いレベルの自然との出会い方が可能となってさらに深い「水」の捉え方が生まれないとも限りません。したがって、わたしたちに言えることは、絶対的な真理ではなく、歴史段階の推移による更新の余地を残して普遍(ふへん、広く一般的に当てはまること)としての真理を目指すことができるということです。別の言い方をすれば、人間は人類史の生涯において紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながら普遍としての真理を目指しているということになります。そして、その足跡は後から振り返れば不明な部分を残しつつも、わたしたちの現在の深みに層を成すように降り積もっているように見えます。例えば、「自然」という言葉にも異なった歴史の段階の地層を背負った二つくらいの意味があります。(註.1)

 迷妄のように見える太古と現在とは異質な世界観に見えますが、なんらかの因果関係として世界を捉えているという点では両者は共通性を持っています。わたしたち人類が、これからどういう未来へ歩んでいくのかよくわかりませんが、このなんらかの因果関係として世界を捉えるということは、この世界をもっと深く知りたいという、その普遍としての真理を目指している人類の姿と思われます。


(註.1)
 関連事項をいくつか紹介します。


 自然という言葉は、ちょいと固い言葉で、自然観であるとか、あるいは自然科学であるとか、かなり学術用語としての使い方をされている語でございますので、ちょっとした印象では、翻訳語のようにみえるのであります。しかしこれは、歴とした漢語でありますので、老荘の思想という場合の[老子][荘子]、その[老子]八一章の中に5回出て参ります。また[荘子]三十三篇の中にも同じく5回出て参ります。ただそこに出てきます自然は、我々が今使っておる自然と、いくらかその意味内容が違うように思うんでありますが、これは実はなかなか難しいんであります
 今我々が自然というのは、人工を加えない、そのままの姿の物というふうに思うわけでありますけれども、例えば[老子]などに出てきます「自然」という言葉の使い方をみますと、ちょっとそういうものと意味が違いますんですね。……中略……東洋におきましては、この自然と人間とが分離するということはほとんどなかった。人間も自然の一部として、つまり一元的な世界として、自然の中にあったというようなことから、この自然というのは、物の存在の本質のままであるというような意味あいを、持っておったんではないかというように、思うんであります。
 勿論西欧に起きましても、この自然という言葉は、大変古くからございます。ギリシアにもラテンにもそういう言葉があって、それは本来そのものが持っておるところの性質というような意味を持っておったようです。しかし後にキリスト教などがでて参りますと、、完全な神に対して、不完全な物が自然であるというような考え方になる。あるいは人間の道徳性というものが、最も高いものであるというようなことになりますと、これに対する物質の世界が自然であるというようになる。つまり西洋における自然の使い方は、そういう人間的な世界観のもとに使われておったのではないか。東洋における自然というものは、人間をも含めて一元的な世界として、そういう自然というものを考えておったのではないかと、こういうように思うのであります。
 (『文字講話Ⅰ』P197-P198 白川静 平凡社ライブラリ848)




 「自然」(じねん、しぜん)という言葉。

 「自然」には、二つの読み方があります。そして、その二つの違う読み方は違った歴史の段階を保存したものになっています。「自然」(しぜん)は、明治近代以降入ってきた西欧の自然科学的な意味合いのもので、人間を取り巻く環境世界や手を加えて加工するものを指しています。一方、「自然」(じねん)は、読み方自体にはなじみはないと思いますが、例えば鎌倉時代の親鸞の有名な言葉に「 自然法爾( じねんほうじ )」という言葉があります。「自然」(じねん)は、ものの本来的なありのままの姿くらいの意味として使われています。これは明治近代以前の言葉です。これらの二つとも辞書の意味として現在に残されています。




 親鸞は繰り返し、
「念仏を称えて浄土へ往きたいと、自分のほうから心の中でちょっとでも思ったらダメだ」
 と言っています。念仏を称えて立派なところへ往きたいと、少しでも思ったらダメなのだというのです。
 無為、無想にして、ただ何も思わずにひたすら念仏を称えると、向こうのほう、つまり、阿弥陀仏のほうでひとりでに往生させてくれるものだ。向こうにまかせろということなのです。これを親鸞は「 自然法爾( じねんほうじ(に) )」と言っています。
 親鸞は、文字を解き明かしながら、教えを説くということを繰り返しやりました。普通なら、「自然というのは、おのずからということだ」と、言ってしまえば、それで済んでしまいます。が、親鸞は、知識のない人に書簡の中で一生懸命、説いています。その中に親鸞の独特の考え方が全部入っているのですが、それはとても見事なものです。
 (『今に生きる親鸞』P145-P146 吉本隆明)

こちらから計らったらダメなんだということを、繰り返し言っているわけです。
 親鸞が晩年、弟子に語り、弟子が聞き書きした『 自然法爾章』という短い文章があります。これは親鸞の思想的な到達点にあたる文章です。
 浄土の宿主のほうからくる光明の志向力を信じて、一ぺんでも、なんら計らうことなしに念仏を称えるという状態に自然になっていったときに、その両方の光というか、志向性がうまく行き合う。そして、行き合ったときには必ず浄土へ往けるんだ。その行き合ったときの自然の状態を、親鸞は「 自然法爾」と言っているのです。
 (『同上』P149)


 ※ 現代のわたしたちは、その中でも特に若い世代は、一般に仏教や浄土という言葉にはほとんどなじみがないと思います。めったにないでしょうが親戚のお葬式で少し対面することはあるかもしれません。そして、「浄土」(あの世)という世界が存在すると思う人はほとんどいないでしょう。しかし、「輪廻転生」の歴史の段階に生きた人々には「浄土」(あの世)ということが割と自然なものとして信じられていたはずです。ちょうど現在のわたしたちが現在のものの考え方を割と自然なものとして受け入れているのと同じように。
 したがって、現在のわたしたちは、親鸞の「自然法爾」という言葉を次のように受けとめればいいのではないかと思います。つまり、わたしたちがこの世界のほんとうのあり方と出会うにはわたしたちはどうしたらいいのか、そのほんとうの出会い方を説いた言葉であると受けとめればいいのではないかと思います。






 5.世界観(世界論)は変貌する ②


子どもでもわかる世界論
  ―宇宙・大いなる自然・人間世界論

 世界観(世界論)は変貌する②


  目 次

   項 目  掲載月 
0.  はじめに  2017.06.10
1. わたしたち「人間」は何者でしょうか 2017.06.10
2. 言葉としての人間  2017.06.19
3.  世界内存在としての人間の有り様  2017.06.22
4. 世界観(世界論)は変貌する ① 2017.07.03
5. 世界観(世界論)は変貌する ② 2018.05.11
6.  人の心も世界も層を成している 2017.09.10
     
※ 4.と、ナンバーを5.から6.に変えた文章との間に今回の5.を挿入しています。



 人間は、ものを見たり聞いたりして何かを感じ考えるなどということは太古からほとんど変わらないという面もある一方で、この人間世界は時とともに変化し、人の感じ考える内容も変化してきた、ということは、誰もがわかっていることです。しかし、わたしたちが昔や大昔を振り返って想像する場合には、どうしても現在のものの感じ方や考え方がそこに侵入してきます。つまり、昔や大昔そのものではなくて、現在のものの感じ方や考え方というフィルターを通して捉えたものになりがちです。こうしたことについて、宮沢賢治が文学作品の中で取り上げています。

 宮沢賢治は近代の文学者の中では異質な存在に見えます。つまり、宮沢賢治のように、たとえ骨組み程度であったとしても、壮大な規模の思想性を執拗な表現のモチーフとして持ち続けた者はほとんどいなかったように見えます。宮沢賢治の場合、その壮大な規模の思想性を支えたものとして、個としての固有な生い立ちの促すものの感じ方や捉え方や動機などがあったはずですが、具体的には土壌学や化学などの自然科学の体験と仏教体験があります。

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』という作品の出だしは、主人公ジョバンニ、その親友のカンパネルラ、そしてさまざまな登場人物たちが今からくり広げる旅は、現在(正確には賢治の生きた当時の現在)的な銀河像にもとづく銀河のイメージや幻想的な銀河鉄道を主な舞台とする物語であるという語り手の宣言、すなわち作者の思いの表明であろうと思われます。物語は「一 午後の授業」から次のように始まります。


「ではみなさんは、そういうふうに川だと言いわれたり、乳の流れたあとだと言われたりしていた、このぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」先生は、黒板につるした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問いをかけました。
 カムパネルラが手をあげました。それから四、五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。


 この少し後には先生の次のような言葉があります。そこには、当然のこととして作者宮沢賢治が学んだ当時の最新の銀河や宇宙像があります。「天の川」は「Milky Way」と呼ばれ、これはギリシア神話から来ているらしいです。天体を動物に見立てたり天の川と捉えたりするのは、古代あるいは古代以前の人類の世界観です。そのような太古の天体や銀河の像をダブらせながら、現在の像を説明しています。


 先生はまた言いました。
「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと言いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集まって見え、したがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい」
  先生は中にたくさん光る砂のつぶのはいった大きな両面の凸レンズを指しました。
 (『銀河鉄道の夜』 「一 午後の授業」 宮沢賢治 青空文庫 角川文庫版)


 銀河系の模型を使いながら先生が生徒たちに説明している場面です。この作品の「五 天気輪の柱」辺りから現実の場面から幻想的な場面に移行していくように見えます。そこに次のような描写があります。


 (この間原稿五枚分なし)
 ところがいくら見ていても、そのそらは、ひる先生の言いったような、がらんとした冷つめたいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられてしかたなかったのです。
 ( 『同上』 「五 天気輪の柱」 )



 この場面は主人公のジョバンニが夜の野外から空を眺めているまだ現実的な情景と思われます。これは次の場面の銀河鉄道の列車に乗った世界への接続場面と思いますが、大空や銀河世界がおそらく当時の最新の科学的知見をもとにした先生の自信に満ちた説明とは違ったイメージで捉えられています。もちろん、これは主人公のジョバンニの目と感受を語り手が描写しているわけですが、学校の先生の説明とは違うということは、何かを指示しているように思われます。この作品の出だしの「ジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。」という語り手の説明は、このことに関して暗示的に思われます。思うに、ジョバンニが今から銀河の内を銀河鉄道の列車に乗って旅する世界が、ちょっと(当時の)現在の常識とは違うイメージや違う出会いをすることを暗示しているようです。

 主人公のジョバンニは、「六 銀河ステーション」で夢の世界に入って行きます。そして銀河鉄道列車に乗って銀河を旅します。この作品の終わり辺りに、「ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。」とあり、銀河の旅がジョバンニの夢だったことが語られます。ということは、現在の銀河のイメージに基づく夢の中で見たり語られたりした銀河のイメージだということになります。そして、もちろんそこには作者宮沢賢治の独特なイメージが織り込まれているはずです。

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、何度か大きく推敲されています。その〈後期形〉ではブルカニロ博士の話が削除されています。これはそれ以前の形のブルカニロ博士の話が登場する版です。そして登場人物の「大学士」の話やブルカニロ博士が主人公のジョバンニに語りかける場面があります。それは、人間の歴史の大きな移り変わりとその中ではものごとの捉え方が違ってきているということやほんとうの考えとうその考えを見分ける方法などが語られています。少年の読者にとってはそれらが何のことかわからなくてすばやく読み飛ばしていくものだとしても、この場面には作者宮沢賢治がきまじめに考えてきたことや追い求めている重要なことが表現されているとみてまちがいありません。わたしもまた、そこに関心が引かれていきます。若い頃、宮沢賢治は父親とは宗派の違う法華教を信じて父親と対立したり、知り合いにも入信を勧めたり、また国柱会という宗教組織の布教活動もいくらかしていたようです。また、死に瀕した遺言では法華経を印刷して知り合いなどに配ってほしいと伝え、遺族によってその通りに実行されたと言われています。これほど宗教というものに深入りした宮沢賢治ですから、人がひとつの信にまとまることなく、なぜ異なる宗教を信じたり、互いに対立したりするのだろうかという疑問は切実なものとしてあったはずです。

 この宗派間(集団)の考えの違いや対立の問題は、小は小社会の中のいじめも含む人間関係から大は国家間の戦争に至るまで、現在でも解決されていない重要な問題です。わたしたちは誰もが例外なく、学校や職場などでその集団の中での個の孤立の問題や集団間の対立の問題に出くわすことがあるはずです。宮沢賢治は、作品の中でその内容には具体的にほとんど踏み込んでいませんが、現在のわたしたちにとっても相変わらず切実で現在的な問題の解決として、科学の実験のようにほんとうの考えとうその考えを見分ける方法を追究していることを作品のなかに記しています。残念ながらこの作品中や他の作品でもその具体的な追究まではなされていません。しかし、このことを作品の中に記した意味はわたしたちにとって大きいものであったと思います。
 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』から二箇所取り出してみます。


1.
 だんだん近づいて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、長靴をはいた学者らしい人が、手帳に何かせわしそうに書きつけながら、つるはしをふりあげたり、スコップをつかったりしている、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしていました。・・・中略・・・
「君たちは参観かね」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
「くるみがたくさんあったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄よせたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこ、つるはしはよしたまえ。ていねいに鑿でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさんいたのさ」
「標本にするんですか」
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水や、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい、そこもスコップではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてるはずじゃないか」
  ( 『同上』 )



 「放射性炭素年代測定」など現在までに科学技術が成し遂げてきたことを踏まえて現在からの視線を向けてみると、地層の年代はだいたいわかるようになっています。調べてみると放射性炭素年代測定に関しては、「1947年、ウイラード・リビー博士が放射性炭素年代測定法を発見しました」とありましたから、宮沢賢治の生きた時代には、これはまだ存在していませんでした。しかし、宮沢賢治は土壌学は専門であり、「18世紀中頃にイタリアの地質学者ジョヴァンニ・アルドゥイノが、イタリアの南アルプスの地層やそこに含まれる化石の分類から、地質時代を3つの時代区分に定義した。」(「第三紀」wikipediaより)ということを踏まえて、例えば宮沢賢治があだ名をつけた、とても古い地層であるという岩手県花巻市にある「イギリス海岸」に触れた「イギリス海岸」という文章や「イギリス海岸の歌」にも、地質時代の区分である「第三紀」(Tertiary、ターシャリー)などの言葉が出て来ます。現在よりは大まかでしょうが、そういう地質時代の設定ができるようになった成果の上に宮沢賢治もだいたいの地層の年代に対するイメージを組み立てることができたのです。つまり、人類の考えることと追究の積み重ねとして太古の地層への理解が深まってきたと言えます。

 ところで、作品のなかで語られていることは、そのような地層の年代の正確さということではなく、「ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがる」という「地層」が、「ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水や、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。」ということです。この「ぼくらとちがったやつ」というのは、同時代人のことなのか、それとも太古の人々や遙か未来の人々のことなのか、はっきりしないところがあります。先にジョバンニが「ひる先生の言ったような、がらんとした冷たいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられてしかたなかったのです。」と感じたことと引用部分の文脈や「証明する」という言葉を踏まえれば、作者はどうも同時代人を意識していたのではないかと思われます。

 もちろん、太古と現在というように大きな歴史段階が違ってくると、そこに生きている人々のある対象に抱くイメージや対象の捉え方がちがってくるのは確かなことです。現在のわたしたちからすれば、「地層」が「風か水」や「がらんとした空」に見えるなんてありえないと思うのは自然です。しかし、人は死んでも生まれ変わるという太古の輪廻転生(りんねてんせい、りんねてんしょう)の考え方の段階に生きた人々から見たら、「あの世」はたしかな手触りとして存在することになりますが、現在のわたしたちからすれば、「あの世」というものはほとんど存在感がなくなっていると思われます。「地層」の見え方と同じように、そのように「あの世」の見え方も太古と現在ではちがってきています。もちろん、太古の「あの世」というイメージや考え方は、完全になくなってしまったのではなく、部分的にごく一部の人に信じられたり、死んだら人は骨になるというけどどうなるのかななどなんかもやもやしたあいまいさとして、現在のわたしたちの心のなかに残留し続けています。

 もし、「ぼくらとちがったやつ」が、同時代人とするならば、同時代人は、ある程度のものの感じ方や考え方は共通の同時代的なマス・イメージとして割と無意識的に日常生活において共有しながらも、いくつかの違ったイデオロギー(集団的な思想)を持ったり違った宗教を信じているということがあります。つまり、ものの捉え方が違ってくるということになります。そして、そこから対立や争いになることもあります。

 このように時代が違っても、同時代でも、いずれの場合も、ものの見え方や感じ方が違ってくることがあり得ます。


2.
「おまえはいったい何を泣いているの。ちょっとこっちをごらん」いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
 ジョバンニは、はっと思って涙をはらってそっちをふり向きました、さっきまでカムパネルラのすわっていた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせた大人が、やさしくわらって大きな一冊の本をもっていました。
「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言いったんです」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果(りんご)をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう、水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑やしない。実験してみるとほんとうにそうなんだから。
けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。
 だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。
 紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう。このときにはこうなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」
 そのひとは指ゆびを一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広ひろい世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消きえると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
「さあいいか。だからおまえの実験は、このきれぎれの考えのはじめから終りすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖を解とかなければならない」
 そのときまっくらな地平線の向こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕ぼくは僕ぼくのために、僕ぼくのお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ」
 ジョバンニは唇を噛んで、そのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしにほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない」
 (『同上』「九 ジョバンニの切符」)



 昔は水が水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論・対立したが、現在では水は酸素と水素からできていると誰もが知っているし、実験してみるとそうなっているとわかる。このように自然科学は解明されていく。その科学の例とと同じように、同時代の違う神様を信仰し対立している現状もほんとうの考えとうその考えとを分けてしまう実験を編み出すことで解決されるのではないかと語られています。

 ここでも、時代によって水の捉え方が違うということと、同時代の信じる神様の対立ということが混じり合っていると見ることもできますが、作者の本意は科学と宗教を同列に置きたいということにあったのかもしれません。そして、ほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまう実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる、つまり無用の対立は解消されるだろうと語られています。そのような勉強や実験は、あらゆる人々の「いちばんの幸福」を求めるためという大きな目標のためのものであること。このブルカニロ博士の話は作者宮沢賢治の思想でもあったと思います。

 ②の引用部の、おそらく「ほんとうの考えと、うその考えとを分けて」しまう実験の具体的なイメージは、「そのひとは指ゆびを一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広ひろい世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消きえると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。」と描写されています。

 宮沢賢治は詩集『春と修羅』で自分の詩を「心象スケッチ」と位置づけていますが、この部分は、その「心象」実験のような印象が感じられます。そして、そのむずかしい「おまえの実験は、このきれぎれの考えのはじめから終りすべてにわたるようでなければいけない。」と語られています。また作者によって、ひとりの人間の心象(イメージ)や思考実験によって「ほんとうの考えと、うその考えとを分けて」しまう実験が可能だと見なされています。この実験のイメージは、呪術的なものではなく近代的で、西欧近代に触れいろんなものを吸収してきた宮沢賢治にふさわしく、近代的な実験というイメージが読者にも喚起されます。

 ところで、「地理と歴史の辞典」の話に入るところに「けれども(、ね)」という言葉があります。この言葉は作者の表現の癖のようにこの前後で多用されています。上の三つは、逆接の意味でしょうが、この「けれども」は単なる話題の転換のように使われています。これ以前の主眼が同時代的な信仰の対立とそれに対する勉強や実験だったとすれば、「地理と歴史の辞典」の話は、時間的、歴史的な考え方の違いとそれに対する勉強や実験になっているように思われます。

 この作品中での作者宮沢賢治の人間のものの感じ方や考え方の歴史的な推移についての捉え方は、当時においては無理もないとは思われますが、現在から見るとどこから対象を見て捉えているかがあいまいなように感じられます。

 「地理と歴史の辞典」というのは、当然ジョバンニや作者とほぼ同時代に書き記されたものでしょう。そして、そこに書かれている「紀元前二千二百年の地理と歴史」や「紀元前一千年」の地理や歴史も、作者の同時代辺りに捉えられ過去の地理や歴史でしょう。「そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。」ということや「紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう。このときにはこうなのだ。」というのも、作者の同時代からの判断です。さがした「証拠」というのは、引用した1.の大学士らしい人の話も合わせてると考古学的な遺物のことでしょう。

 まずその前に、地理は、人間の環境として人間が手を加えて加工するという面では人間の精神や文化が溶け込んでいますが、割と自然なものに属しています。一方、歴史は人間の歴史ということで、人間の生みだす文化や文明という精神的なものが関わってきますから、地理と歴史は同列には論じることはできません。宮沢賢治は地理には詳しかったと思いますが、地球の自然史という大きな時間の中では、日本列島のユーラシア大陸からの分離・形成や縄文海進や縄文海退など、現在の割と安定期のように見える自然(地理)の状況からは想像しにくいような大規模な環境の変動もありました。今後もそういうことはあり得るでしょう。人間の歴史同様に地理も現在と太古とでは大いに異なるということはありますが、いまそれは問わないとして、人間の歴史に限ってそのあいまいさについて考えてみます。

 そのあいまいさをはっきり分離してみると次の例のようになります。また、以下のことは、世界の地域によって文明の発達の時期や仕方が違いますから、この日本列島の場合で考えてみます。

 まず、作者が取り上げた例について。


・紀元前二千二百年の現実(A)→その歴史(A')
・・・(A)は紀元前二千二百年前の現実そのもの。(A')は、現在の人間の捉え方。

・紀元前一千年(B)→その歴史(B')
・・・(B)は紀元前一千年前の現実そのもの。(B')は、現在の人間の捉え方。

 ※いずれも、文字の発明以前で、残された考古学的な遺物などをたよりにして太古の時代を捉え、描写するのは現在の人間である。


 これをもう少し細かに見てみると、


・まだ文字もなく壁画や陶器や装飾品もなく埋葬された人骨のみが残された時代
 (C)→ (C')
・・・上と同じく、(C)は当時の現実。→(C')は、現在の人間の捉え方。

・まだ文字もなく壁画や陶器や装飾品などが残された時代
 (D)→ (D')→ (D'')
・・・上と同じく、(D)は当時の現実。(D')は、当時の人間の表現。(D'')は、現在の人間の捉え方。

・文字という言葉によって記録が残され始めた時代
 (E)→ (E')→ (E'')
・・・上と同じく、(E)は当時の現実。(E')は当時の人間の感じ考えた表現。(E'')は現在の人間の捉え方。


 上に記したいずれの場合も、当時のもので遺された物や言葉などを手がかりにしてそれぞれの当時の歴史やものの感じ方や考え方を、現在から、最先端を行く自然科学の成果や他のいろんな分野の助けを借りてわたしたちが追究していくことになります。

 例えば、現在の機能や用途やイメージで「壁画」とか「陶器」とか「装飾品」という言葉を使い、そういう捉え方をしていますが、当時の人々がそれらをどういうものと見なし、どういうイメージを抱いていたかは現在とは大きくちがっているはずです。例えばそのことは、縄文時代の縄文土器とか土偶と呼ばれているものの現在とは異なる造型の仕方を見れば明らかですし、それらは現在のような鍋釜や装飾品とは少しちがっていたと考えた方が当時の実情に近いと思われます。いずれにしても、大きな歴史段階によって例えば「陶器」に対するイメージや捉え方の違いがあっても、「陶器」のような器を現在まで作り続けてきたという点では共通しています。

 以上述べてきた「現在」と「過去」との関係は、規模や緻密さの違いはあっても、「紀元前一千年」の人々が、「紀元前二千二百年」の世界や人々に対して持った関係、そのイメージや捉え方とも同一のはずです。わたしたちの現在では、太古であれ古代であれ江戸時代であれ、ある対象をイメージしたり捉える場合にはどうしても無意識的なレベルでもわたしたちの「現在」がそのイメージや捉え方に入り込んでくるという問題を考慮しなくてはならないようになってきています。もちろん、対象をより正確に捉えるためです。このような配慮をしないならば、現在のわたしたちの生活感覚や意識を太古の人々の生活や意識に当てはめてしまうという誤りをしてしまうことにもなります。


 『銀河鉄道の夜』の作者宮沢賢治は、大きな歴史段階の違いによるとある対象に対するイメージや捉え方が異なっているということを述べていますが、ある対象に対する太古の人々のイメージや捉え方を現在のわたしたちが捉えようとする場合、上に述べたような問題点については触れていません。しかし、誰もがそのことを何となくわかっていたとしても、宮沢賢治がこのような歴史の段階によって人間の感じ考え方、つまり認識のあり方が違っているという問題を提起したのは、未来性を持つものであり、わたしたちへのおくりものと言うことができます。

 作者宮沢賢治は、水が何からできているかも大きな時代の移り変わりの中で違った捉え方をされてきたと述べています。遠い未来では、水は水素と酸素からできているという現在の捉え方は、また違った形で捉えられるようになるような気がします。わたしたち人間の自然認識も深化していくからです。

 現在では、人類が始まる以前にもこの宇宙や地球上の歴史があったということがわかっています。そして、自然科学の研究によれば、この現在の宇宙の誕生から時間の経過とともに宇宙が変化する細かな動向がわかっていると言われています。生命の発生や人類の誕生以前がわかるということは、ある人が自分の生まれる前がわかるということと同様にふしぎな気分になります。

 現在のわたしたちは、相互に関係し合っていても、宇宙、地球上、人間世界、というようにわけて考えることができます。しかし、地球上の太古の人類は、それらが重なってひとつに混ぜ合わさったような世界として、感じ考え捉えていたように思われます。太古から現在に至る人間世界の動向、つまり歴史を考えてみると、人間的な本質(人間のこの世界の中での有り様、性格のようなもの)は、変わることなく貫かれていると思いますが、人が赤ちゃんから少年になり大人になって老人になっていくように、人間の歴史もその人間的な本質は保ちながら顔形を変えていきます。ということは、世界観も変わって行きます。






 6.人の心も世界も層を成してい


 人間がこの世界(自然界、人間界)に存在しているということ、つまり生きて活動しているということは、人間とこの世界との相互の関わり合いの中にあるということになります。自然自身も四季の変化のような小さな変貌やくり返しをしながら、何百年毎の大地震や寒冷化と温暖化のくり返しなどもっと大きな時間の中での変貌やくり返しもしています。このような大自然とは違って、自然の一部でもある人間はこの世界(自然界)との相互の関わり合いの中から、人間界を生みだし、文明や文化とよばれるものを築き上げてきました。つまり、自然の世界とは異なる人間的な世界を築いてきました。そして、生みだされたそれらは人に残留して人から人へ受け渡され、引き継がれ、人類と呼ばれる歴史の流れを形作ってきました。その人類の歴史というものは、その中に人類としての歩みが層を成すように記されていると考えることができます。

 前節で、「世界観(世界論)は変貌する」と述べましたが、これは例えば江戸時代から明治時代へなどという時代の変貌ということではなく、もっと大きな段階の変貌を指しています。例えば、太古の輪廻転生という人の生まれ変わりということが信じられていた段階から、わが国では古代国家の成立前後の頃、外から仏教が入ってきて社会に少しずつ浸透していくことによって、生まれ変わり(輪廻転生)という古くからの考え方が断ちきられていく段階へというようにです。この変貌は、ある日急激に転換するということではなく、社会にじわじわと滲透していくようにとても長い時間の中で推移していきます。これが徹底的な段階としての変位を遂げていくのは、明治近代以降の自然科学思想や合理思想などの欧米思想の流入と滲透が大きなきっかけとなっています。そのことによって、社会内や人の意識に残っていた輪廻転生の思想の残骸をさらに粉々に砕いていったのは確かです。

 しかしそれでも、人々のものの感じ方や考え方、風習などは根強いものがあり、簡単に壊滅してしまうことはなく、尾を引くように細々と社会の片隅や人の意識の深層に生き延びていきます。例えば、太古の、人は死んでも生まれ変わるという輪廻転生の世界観は、特に近代以降の合理的な科学的世界観によって社会の表舞台では息の根を止められましたが、その残骸のようなものがわたしたちの意識の深層には仕舞い込まれています。また例えば、風習で言えばわが国の火葬の風習は、仏教との関わりから伝わり、「8世紀ごろには普及し、天皇に倣って上級の役人、公家、武士も火葬が広まった」「日本では平安時代以降、皇族、貴族、僧侶、浄土宗門徒などに火葬が広まった後も、土葬が広く用いられていた。仏教徒も含めて、近世までの主流は火葬よりも死体を棺桶に収めて土中に埋める土葬であった。」(「火葬」ウィキペディア)と言われています。わたしの立ち合った体験でも、今から50年くらい前は土葬だったのを覚えています。たぶん、1960年代の高度経済成長期以降の社会のもたらしたものによって、つまり、社会に流れ漂う合理性や効率や便利さなどが人々の意識の変貌に拍車をかけて、土葬から火葬へと移り変わってきたものと思われます。この風習は、長い間社会の表面に残ってきた例に当たります。

 ところで、わたしたちは現在を生きています。そして、現在の社会の精神的な空気になじんでいます。だから、若者なら特に、一昔前や二昔前の歌謡曲や映画やコマーシャルを聴いたり見たりしたら、ダサいとか古臭いという感じが湧いてくると思います。その過去の時代を生きてきた大人なら、今では古びてしまったなという部分はあっても、若者の「ダサいとか古臭い」という感じとは違っていて、懐かしさのようなものもあるでしょう。このように、現在に生きているわたしたちといっても、子どもから大人まで違った社会や文化を経験してきた世代が混じり合っています。したがって、ものの感じ方や考え方はひとりひとり違うという問題はありますが、それとは別に特定の社会状況を生きてきたという世代的な一般性として考えると、ものの感じ方や考え方の一般的な層が想定できて、わたしたちが生きている現在という同時代の中に、それらの世代によって異なる精神的な地層が三つくらい存在しているのではないかと思われます。一般的に言えば、このことが親子間や大人と若者間のものの感じ方や考え方のくい違いや対立の根拠になっています。
 
 このように違ったものの感じ方や考え方が現在に存在していますから、例えば、大人たちが誰々さんが亡くなる前に自分の夢枕に立ったなどと語るふしぎな話も耳にすることがあるかもしれません。また、子どもか大人かに関わらず洞窟などの暗い場所に立ったら何か身震いするような感覚に襲われるかもしれません。このように、わたしたちはいろんな世代とともに現在を生きていて、感じ考え方の微差を持ちながら互いに反発したり、影響を与えたり、しています。いずれにしても、自分の親を含めた前世代からなんらかの影響や引き継ぎをしているように見えます。人類が太古から絶えることなく現在まで存続してきた以上、このことは太古から果てしなくくり返されてきていることだと思われます。

 以上のことを、まとめてみると、〈現在〉という同時代には、子どもや大人など違う世代がいっしょに生きていて、ということは、互いに少しずつ異なる人間の一般的なものの感じ方や考え方が、〈現在〉のなかに層を成すようにして存在している、ということが言えます。さらに、世代間のものの感じ方や考え方の微差を超えて、太古から受け継がれてきた人間のものの感じ方や考え方というものもあるように思われます。これは例えば上に挙げた人は暗い場所には恐れのようなものを感じるなどで、どういうふうに受け渡され続けてきているのかはわかりませんが、わたしたちの心の深いところに引き継がれてきているように思います。遺伝子レベルの受け渡しはよくわからないから判断は留保するとしても、少なくとも言えることがありそうです。家族や小社会の場を介して、世代間を通した一般的なものの感じ方や考え方の人から人への受け渡しでは、二重のことが受け渡されています。ひとつは時代的な具体的な環境下で育まれたもの、もうひとつは遙か太古から受け継がれてきた人間の深層的なものの感じ方や考え方、です。また、過去の文明や文化やその下での思想などは、文字という言葉の成立以降では、その文字(言葉)を通して、知識として現在に伝えられます。

 したがって、わたしたちひとりひとりの心から意識にわたる層は、いくつかの層を成していることになります。このことにふだんあまり自覚的ではありませんが、近代以降の自由という考え方や暗いところでの恐れのような感覚など、それぞれの層にあるものがどれくらいの人類の歴史的な時間に対応するものなのか、大まかには取り出して分離することができそうに思われます。また、これらの心から意識にわたる層への受容は、〈わたし〉という固有の来歴を持つ存在を介して行われますから、普遍性を持ちつつもひとりひとり固有の彩りを持っていることになります。






 7.主流ということ ①


 人間の歴史を川の流れに例えてみると、人間という存在の持つ本質的な性格によってもたらされるものが歴史の主流をなしていると見ることができるように思います。もちろん、一時的に支流が主流のように振る舞ってしまうこともあり、人間社会に良くない出来事が続いてその主流が茶色く濁ってしまうこともあります。

 この主流ということは、歴史の推移に関することだけではなく、現在のわたしたちの日々の生活の中でぶつかるいろいろな問題の推移に関しても言えることです。ここでは、歴史の主流を中心に考えてみます。

 どちらかと言えば、人間の歴史の主流は潜在的な姿で歴史の流れの底流を流れているように思います。それはどうしてかと言えば、人間という存在の持つ本質的な性格によってもたらされるものが歴史の主流と言いましたが、これは一部の権力者や官僚層や文化人などが決めるものではなく、大多数の普通の生活者が決めるものだからです。そして、その大多数の普通の生活者が、まだまだ主人公として政治や経済や文化などあらゆる分野で歴史の表舞台に十分に登場できていないからです。

 吉本隆明さんは、歴史の大きな動因として「歴史の無意識」という言葉を使いました。人間という存在の持つ本質的な性格によって、途中で紆余曲折があったり支流が表舞台に居座ったりして時間がかかったとしても、最終的には大多数の人間がそうした方が良いだろうと思われる方に歴史は流れていくということです。このような「歴史の無意識」は、わたしの言葉で言えば、今までのところ潜在的な姿で歴史の流れの底流を流れ続けている人間の歴史の主流と同じものだと思われます。

 わたしたちは、日々生活している現場に寄せてくる諸問題に関しては、それらになんとか対処しようとあれこれ考えたり行動したりします。しかし、「なるようになるさ」という格言のような言葉もあるように、人間関係でも取り組む課題でもわたしたちがジタバタしてもどうにもならないことがあります。わたしたちが、無用なジタバタや悩み苦しみに陥(おちい)らないためには、この社会や歴史のほんとうの主流を見定めることは大切なことだと思います。それは上に述べたような理由で、現在の社会の中に普通に漂っているものの感じ方や考え方とは違うことが多いです。したがって、この世界のほんとうの主流を捉えることは難しいですが、むろん手がかりはあります。わたしたちがこんな人間関係が理想的だなとかこんな生活できたらいいななど、わたしたちが理想とはほど遠い現実の日々の生活の中でもがき苦しみながら理想のイメージを思い描くとき、わたしたちはその歴史の主流に浸かっているのです。

 わたしの好きなギリシアの哲学者エピクロスは、今から二千数百年前に、この世界で快く生きることとこの世界での無用な苦しみから逃れるために、この世界をよく知ることともに魂の平静ということを大事なこととして語っています。このつながりで言えば、この社会や歴史のほんとうの主流をつかむことはわたしたちができるだけ無用な苦しみから開放されることにつながっています。そして、このエピクロスの思想は、現在にも通用するものだと思います。つまり、わたしたちの誰でも思いつきそうな単純なことに見えますが、それは人間の本性をよく知り抜いた上の言葉で、二千数百年経った今でも生きている言葉や考え方です。

 次に述べることは、柳田国男や吉本隆明さんがすでに述べていることですが、わたしなりにそれを捉え返してわたしの言葉で言えば次のようになります。

 なぜわたしたちは、わたしたち人類の遙か太古や過去の足跡やそこでの思い悩み喜び考えなどをたどろうとするのでしょう。単なる知的な好奇心からということを除けば、それはわたしたちが未来に向けてよりよく生きようとすることと同じだと思います。同じつまづきやまちがいをくり返さないためには、わたしたち人類の過去をよく知ることが大切だからです。

 この未来に向けて遙かな過去を探ることも、潜在的な姿で歴史の流れの底流を流れ続けている人間の歴史の主流を探ることと同じことです。

 こうしたことは、ある人の生涯の内に解決が付くこともあれば、いじめ問題や戦争の問題などのように生涯の内にはなかなか解決できなくて人類の永続的な課題であり続けることもあります。しかし、人間は課題を解きながら次々にバトンタッチをしていく存在です。なぜならそれが人間の真の主流だからです。






 8.主流ということ ②


 まず、大雑把にこの列島の歴史を振り返ってみます。
 まだ国家というものが生み出されていない段階の村の宗教や政治の始まりについては文字に書かれた直接の資料はありませんが、その村の住民と密接なつながりの中にあったと思われます。

 例えば、沖縄の久高島には、近年までイザイホーという祭りがありました。その「イザイホーは、沖縄県南城市にある久高島で12年に一度行われる、久高島で生まれ育った三十歳以上の既婚女性が神女(神職者)となるための就任儀礼。基本的にその要件を満たす全ての女性がこの儀礼を通過する。」(ウィキペディア「イザイホー」より)というものでした。この神女による宗教組織を中心として集落の宗教・行政は回っていたのだろうと思われます。そしておそらくこれは太古からの集落の組織性を受け継いでいるものと思われます。まだ、宗教・行政と村の住民とは密接なつながりの中にありました。

 その段階から、人口も増え他の村とのつながりも発生し、その村の規模が大きくなって国家の組織性のようなものが生み出されてくると、その宗教や行政の組織は村の住民との直接的なつながりが次第に薄れ国家自体が独立して振る舞うようになります。ちょうど、沖縄では15世紀に琉球王国が成立すると、村々の神女(巫女、ノロ)は村々からはがされて琉球王国の神女の最高の地位にある
聞得大君(きこえおおぎみ)を中心としてその管轄下に組み込まれていきます。そして、そういう権力や力を持った者が村 (社会)を規制したり動かしたりするようになると、現在の町内会のような、本来は村の中の集団的な合意形成に近かったものから、そこから離脱して上位に立つようになります。例えば、武士でも商人でも元々はその大部分が村から、農民から出てきています。初めは自分の出身の村の農民の気風を受け継ぎながら、次第に独自の精神世界を形作っていきました。このような状況になった段階、つまり小規模であれ国家ができた段階のこの列島の様子については、まだ文字がなかったのでこの列島自身の記述はなく、魏志倭人伝など中国の歴史書や資料に書かれています。

 その後、飛鳥時代から奈良時代、平安時代までの、古代国家が成立し発展した時代を「古代」と呼び、鎌倉時代から室町時代辺りまでをまとめて「中世」、江戸時代を「近世」、明治時代から昭和20年の敗戦辺りまでを「近代」と呼んだりしています。そして、わたしたちは「現代」に生きています。

 奈良時代、平安時代、鎌倉時代、というように歴史を王朝や政権によって記述していくのは、たぶん当時の先進国である中国に倣(なら)ったものと思われます。わが国の歴史書と言ってもいい書物の中で、例えば古代の『古事記』『日本書紀』や中世の『愚管抄』『神皇正統記』などの歴史書の歴史記述は歴代天皇について述べていて、その無意識的な背景として権力者が世界を変える、歴史を動かすという考えがあるように思われます。このような考えは、おそらく日本の敗戦後(第二次大戦後)の明治時代に継ぐ第二の欧米化の影響の後には、薄れてきました。現在では、見た目には官僚や政治家が実質的な政治を動かして社会に影響を与えています。また官僚や政治家は国民の代行であるということになっています。けれども、現実には国民の代行ではないように感じられる面がまだ多々あります。しかし、わたしたちの考え方としては、歴史の主人公はわたしたち普通の人々であるということは割と受け入れやすい考え方になってきました。見た目にははっきりと感じられにくいでしょうが、実際の歴史を動かしているのもその大多数の普通の人々です。ちょうど、ある家族を動かしているのは、見た目では成長した大人でもあり経済力もある父親や母親と見えるかもしれませんが、経済的な面だけでなく精神的な面も関わり合ってその家族の全員が家族を動かしているのと同様です。

 しかし、権力者が世界を変える、歴史を動かすという古代からの見た目中心の考えは、依然として形式的なものを含めて残っています。学校で習う歴史の教科書は今でも王朝や政権の順に記述されていますし、NHKの「大河ドラマ」は娯楽番組とは言ってもそうした歴史記述に沿った歴史の中の偉人(有名人)を取り上げてドラマに仕立て上げています。しかし、国家が村の集落から抜け出ていくつも村の上にそびえ立つようになっても、つまり、古代辺りから現在までずっと国家は村の集落のことを完全に無視した政治はしてこなかったはずだと思われます。なぜなら、国家はなぜ生まれざるを得なかったかという遙か太古からの最初の動機を背負い続けているはずですし、それによると、実際はそうでない面があったとしても建前としては特にそうですが、現在でも地方の行政や国の政治は、わたしたち市民、国民のためということになっているからです。

 ところで、明治、大正、昭和と活躍した、わが国の優れた思想家であった柳田国男は、そのように権力者や政権を重視して王朝や政権の順に歴史を記述するというようなことはしませんでした。また、自分がそのような歴史の記述をしないということについては、柳田国男は積極的な主張はしていないように思われます。その代わり、ただ黙々とこの列島の村々を旅をし、無名の普通の人々の生活世界に入り込んでいき、村の風習や言葉や祭りなどあらゆることにまなざしを向け、人々(常民)の精神史を発掘しようとしてきました。それは民俗学と呼ばれています。柳田国男の沈黙の中の言葉をわたしが代わって言えば、わたしやあなたでもある大多数の無名の普通の人々とその生活世界こそがこの世界の歴史の主流ですから、それを自分は追究するのですと。柳田国男は、この列島の遙か昔からのずっと続いてきた歴史観の慣習や精神の秩序を静かにぐらりと覆(くつがえ)した稀有(けう)の人だと思います。






 9.重力の中心、生活世界に普通に生きる


 わたしたちは誰でも無意識のように、自分のこの現在を中心にものを感じ考えます。太古のさらに遙か太古に人間も魚類のような水中生活をしていて、そこから上陸し哺乳動物のような生活を長らくしていたという現在までに知られている科学によれば、人間が人間となる以前には動物と同じように自然に埋もれた生活をしていたはずです。そこでは、現在の動物たちのようにある判断力を持ち感じ考えたりして、時にはいい日差しに和んだり、遊びのようなものをしたりしていたものと思います。そして、前にあそこに食べものを隠しておいたから、掘り起こしに行ってみよう程度の過去との関わりの意識はあったでしょうが、あくまでも現在だけがすべてのように自然に埋もれるようにして生きていたものと思われます。

 そのような動物生の段階からどういうわけで、目に見える現在以外のここにないものや過去のことなどを思い浮かべることができるようになったのか、すなわち言葉というものを生み出すことになったのかは依然としてよくわかっていません。このことは動物生の段階から言葉というものを身に付けた人間という段階への大きな飛躍になります。その飛躍には何らかの理由があるはずですが、現在までのところわからないというほかありません。しかし、人類はそのことを追求することをやめることはないでしょう。

 こうして、わたしたちは誰でも無意識のように自分のこの現在を中心にものを感じ考えますが、動物たちのようにその現在に埋もれてしまうことなく、自分以外の人々のことを考えたり、あるいは遠くに住む人々のことを想像したりすることがあります。あるいは、現在の自分や外の世界の有り様についての理想の姿をイメージしたり考えたりすることができます。また、自分や人類の過去や未来についても想像することができます。振り返ってみると、わたしたちの現在は、、遙か太古の人々や世界と姿形はずいぶん変わってきたのかもしれませんが、そこから連続するものを持っています。このことをまとめとして言えば、わたしたち人間の存在のあり方は、現在性と歴史性の二重存在として今ここの現在にあるということになります。

 大きくは星々や銀河にも始まりと終わりがあると観測され捉えられていますが、わたしたち人間にも誕生と死と呼ばれる始まりと終わりがあります。そして、わたしたちは絶えず現在というものを生き続けているように見えます。このことから、赤ちゃん、子ども、少年、青年、大人、老人はわたしたちの同時代の現在にいっしょに存在しているわけですが、それぞれが自分の現在を中心に感じ考え行動する存在のように思われます。したがって、自分の外に向かって、他の年代の人々に対して、自分を開こうとしないならば、偏った考えになりやすいと言えるでしょう。あるいは、別の言い方をすれば、人の考えは歳とともに修正されながら深まっていくものかもしれません。

 人の生涯は、一つながりのものであり、赤ちゃん、子ども、少年、青年、大人、老人などのどの時期がより価値があるとは言えません。しかし、社会の中では仕事ができる大人が無意識的にも(経済)社会的な価値観を置かれているように感じます。このことを歴史の問題に置き換えてみると、太古や古代の世界やそこに生きた人々を現在より遅れたもの、価値が少ないものなとどと見なすことと同じことです。あるいは、ひとつの作物(植物)の生涯で言えば、収穫するその作物の実や果実など―それはその植物の生涯の一部にすぎないわけですが―がもっとも価値あるものと考えると同じです。

 人は若い頃は、派手なことや目立つことに特に心ひかれがちです。目立たないことやひっそりと生きるなどと言う言葉には一般に関心がない時期だと思われます。しかし、人の生涯は若い頃ばかりではありません。それと同じように、会社勤めなどして社会の中で働いている時期やそこでの考え方ばかりが人の生涯の考え方ではありません。例えば、ハラハラドキドキなどに心引かれやすい青春期にはなじめない考え方かもしれませんが、子どもも独り立ちし会社勤めから引退してまた新たな生活を始める老年の頃になると、押し寄せてくる現実の中で極端な喜びや極端な悲しみに片寄ることなく、その中間地帯で大過なく日々を過ごしていくことができるのが人の生き方として理想的に見えるかもしれません。同じ人間でも、歳とともに食べものの味や好みも少しずつ変わることがあるように、そのようにものの感じ方考え方も変わっていきます。

 若い頃は特に、あるいはテレビなどの大人のマスコミ世界でも、頭が良いとか勉強ができるとかスポーツが上手であるとかいうことが何かとてもすごいことであると見なされているように見えます。言いかえると、そういうものに無意識的にも精神的な価値が置かれているようなのです。しかし、その価値の視線から見ればそれらの圏外にいるように見える人々も世の中にはいます。赤ちゃんや老人や何らかの障害を抱えた人々がそれに当たるでしょう。だから、すべての人間に当てはまる柔らかな考えを作り出すことが大事だと思います。若者や成人の世界を潜り抜け老年になってしまったわたしの生きることの捉え方を言ってみると、そこに生まれ育ち身近な人々と関わり合い生きていく、重力の中心のような生活世界に普通に生きることが、平凡に見えるかもしれないですが、とっても大事なことだろうと思います。付け加えると、このような考えを若い頃に理解し納得することは難しいだろうと思います。

 人が他者を理解することは難しいことです。この他者は、同時代の同じ社会に住む人の場合もあれば、遠く離れた外国に住む人の場合もあり、また遠い過去の人という場合もあります。さらに自分の過去や未来という場合もあります。自分がまだ青年とすれば、通り過ぎてきた赤ちゃん時代や未来の成人や老年の時代も他者と見なすことができます。人は、自分の今ここを、現在を中心的に生きる存在ですから、そんな自分にとっての自分の過去や未来の姿は他人のようによく見えない、よくわからないものと映るのが一般的です。しかし、そうであっても、人間や人間世界について頑固な考えに凝り固まることなく柔軟な考え方を形作っていくためには、自分を他者に対して心開いておくことが大事だと思います。つまり、自分が今青年ならば、少年や成年期には一般に親とは対立したりする時期ではありますが、成人や老人の人々の言葉をそのまま受けいれる必要はありませんが、その言葉に対して心の窓を開けておいた方が良いと思います。

 そうはいっても、人はなかなかそういうふうに心の窓を開いておくということは、現実には難しいことです。それができなかったとしても、人には必ず世界は訪れてきます。例えば、若い頃に親と対立していたとしても、十年後二十年後に親をなんとか受けいれることができるという風になるのが一般的なことかもしれません。このように避けようもなく、何十年も経ってようやく見えてくる世界やわかることがあります。






 10.あとがき


 まず、「子どもでもわかる世界論のための素描」を書いて、この「子どもでもわかる世界論」は書かないだろうなと自分では思っていましたが、言い出したからにはやっぱり自分でやって見せなければならないという思いから、取り組むことにしました。中学生なら辞書を引かないとわからないような言葉も少しはあります。また、取り上げた問題自体の難しさもありますが、この世界論のイメージが伝わるでしょうか。書き上げてしまった作者としては、なんとかこの世界のイメージが伝わればいいなと思うばかりです。

 現在では、宇宙・大いなる自然(大地、地球)・人間世界と分けて考えるようになってきましたが、おそらく太古にはそれらは溶け合ったひとつのものとして感じ考えられていました。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にも触れられていますが、現在では水は酸素と水素から成るということになっています。人間の自然認識のさらなる深まりによって遠い未来においてはまた違った水の捉え方になるような気がします。

 長らく近世まで続いてきた心臓という植物生中心の世界観から、近代以降の現在では神経網が張り巡らされた脳中心の世界観をまっしぐらに進んでいます。このように、人間の世界の捉え方はどんどん細かに深くなってきました。未来への動きも同様だと推測されます。この動きには人間力からの内省は加えることができるとしても、その動向を押し止めることはできません。

 現在の主流のように見えている考え方が、正解に近い、真理ではないかという考え方もあるかもしれません。しかし、輪廻転生が信じられていた太古の段階ではその世界観が真理と見なされていたはずです。したがって、人類の歴史の大きなひとまとまりとしての段階での真理というものは考えられたとしても、この世界には人類の全歴史を通した絶対的な真理(正しいこと)というものはないように思われます。ただ、わたしたち人間は、より深く広くこの世界を理解しようという意志と行動は続けていくだろうと思います。

 わたしたちは、偶然のようにこの大きな世界(宇宙・大いなる自然・人間世界)に存在しています。学者に限らず、わたしたちの誰もが、この大きな世界の成り立ちやそこでの日々の生活の意味を考えながら、生涯を旅するものとして日々歩いているのだろうと考えています。
   (2019年 1月 13日)






 小さい子のための世界論


 小さい子のための世界論


 ★はじめに

 人は経験してみないとほんとうは実感としてわからないということがあります。一方で、まだ経験できないけど、そのことを人の話や書物、現在ではより現実に近いVR(バーチャル・リアリティ)などを通して疑似体験したり学んだりすることができます。心に深く残る言葉であれば、将来自分が実際に経験したときその言葉やイメージを新鮮なものとして思い出すかもしれません。この世界論は、小学校高学年以降を読者として想定しています。



 ★人間は、生まれてずいぶん経ってから自分ということに気づきます。

 植物も動物も人間のような「自分」というものを持っていないように見えます。ここで、「人間のような自分」とは、過去にあった出来事を振り返って考えたり、今目の前にいない人のことを考えたり、まだやって来ていない未来について想像したりする、一人一人の自分が持っている人間的な力のことを指しています。この人間的な力は、過去にあったつらいことを思い出させることもありますし、また、楽しかったことや楽しい未来のことを想像させることもあります。



 ★過去に起こったことを思い出したり、今目の前にないことやいない人のことを思い浮かべたり、未来のことを想像したりすることは、物心ついた子どもから老人まで共通しています。

 まず、人間は好みやものの考え方などひとりひとり違う、あるいはその人が生活している地域や国によってもそれは違うということがありますが、そこからすべての人間に共通するものや世代に共通するものなどを選び出すことができます。わたしたち人間には、子どもでも老人でも過去に起こったことを思い出したり未来のことを想像したりするという共通性があります。しかし一方、それぞれの世代でその心の内側は違うということもあります。

 物心ついてから思春期以前の子どもであれば、学校や家族のなかで特にいやなことがなければ、毎日の生活を割と自然に埋もれるように生活しています。つまり、毎日毎日自分が生きていることに特に疑問とか持つことなく遊びやスポーツなどに熱中したりして割と自然に過ごしています。
 次に、思春期の青少年になると、特に他人を意識するようになったり、人間関係や勉強に悩んだりして、どうして自分はこの世界に生きているのだろうなどと、抽象的で漠然としてはいますが生や死についてふと考えることもあります。
 次の大人の成人から壮年期には、特に人間関係のいろんなトラブルや悩みも起こってきますが、毎日の仕事や生活に追われて、あわただしくはありますがちょうど子ども時代のように毎日の中に埋もれるように生活していきます。
 そして子どもも独り立ちして自分の仕事も退職した老年期に入ると、身体の衰えや寿命を意識したりして再び死が今度は具象的なイメージで身近なものとして日々の思いなどに入り込んできます。

 このように、人の性格と呼ばれているものはそんなに変わっていきませんが、人は生涯の各時期によってその心の中は姿形を変えていきます。決して一定した姿形ではありません。



 ★人はいやなことや悩みがあっても、こうあったら良いなどと理想の状態を想像したりイメージしたりします。

 人はいやなことや悩みなどがなくても、毎日の生活のなかで何かを見たり心が何かの方を向いたりすれば、あるイメージを描いたり何かを思ったり考えたりします。特に、いやなことや悩みがある場合は、よりまじめに深刻に考えてしまいます。そして、人と人との関係で、自分はそうしたいのになあとか、他人はこうあったらいいなとか理想の状態について思い巡らせたりします。

 こうしたとき、なかなかそんな気持の余裕はないかもしれませんが、現在のよその地域に住む人々はどう考えているのだろうとか、過去の人々はどう考えていたのだろうとか、疑問を持ってそれらの人々の語ることや書いたものに出会ってみることも役立つと思います。



 ★人は自分の身近な家族や友人でなくても、人が苦しんでいる姿を見て平気でいることはむずかしいものです。その一方でそれとは矛盾するようですが、自分の嫌いな人や自分の利益にならない人に対しては、その不幸を願ったりすることもありえます。

 わたしたちの毎日の生活は、子どもであれば自分の家と学校や友達の家、大人であれば自分の家と職場などの小さな世界の行き来が中心です。わたしたちが、ものを考えたり感じたりする場合、人間関係に悩み近場をぐるぐる行ったり来たりということもありますが、遠くまで、あるいは遠い過去や遙か未来まで行き来することもあります。そうして、遠くで人が苦しんでいたり、過去で人が苦しんでいたりしたことを知って心痛まない人はあんまりいないでしょう。また、このことは、人ばかりでなく犬やネコに対してもそうです。実際に目にしたり、テレビや新聞などで人や動物の不幸を知って心揺さぶられない人はあんまりいないのではないでしょうか。中国の古代には、人間の根っこ(人が生まれながらにもっているもの、人の本性)は善であるという考え方の性善説と人間の根っこは悪であるという考え方の性悪説がありました。この対立する人間の本性の捉え方は、その人が考えるそれぞれの望ましい社会や人間関係のあり方への考えに関係していきます。

 ちなみに、わたしは、人間は性善説と性悪説が捉えた見方の両方を人間は誰でも併せ持っていて、ある場面での行動についてある程度はその人自身のコントロールが可能でも、周りとの人間関係や生活環境に大きく左右されて悪い芽が出てしまうということがあるように思います。

 そのように、人間をどう捉えるかがその後の社会についての考え方につながっていきますから、わたしたち人間の本当の姿をできるだけ正しく捉えることは大事なことです。
 わたしたちは、まだまだ自分自身のことをよくわかっていません。もし、十分にみんなが自分自身こと、すなわち人間というものをわかったら、それを基にした知恵によって太古以来絶えることのない戦争やいじめというものは次第になくなっていくだろうと思います。それは長い長い道のりでしょうが、人間が自分自身を知ることが、人間社会内で起こる諸問題や他の地域や国との間で起こる諸問題の解決に役立つだろうと思います。
 だから、いろんな分野で人間の研究は続いています。例えば、人間が個人としてや社会性として遙か太古から持ち続けている性格や習慣などがどこから来たかを探るために長年ゴリラの研究をしている山極寿一という人もいます。



 ★人は困難が起これば解決したり、乗り越えようとしたりします。その一方で、嫌なことやつらいことから逃れようとする心もあります。

 人は困難に直面するとがんばって乗り越えようとする性質も持っていますが、一方で嫌なことが重なるとそこから逃れたり気晴らしを求めようとすることもあります。また、自力では解決できずどうしても逃れられずに心や体の病気になってしまうこともあります。この一見+と-に見える人間の性質は、誰の中にあるものだと思います。「人間とは、困難に直面するとがんばって乗り越えようとするものだ」とか片方だけで人間を捉える見方は、どこか間違ったものになるように思います。わたしたち人間の持つ二つの性質をきちんと頭の隅に入れておくことは大切なことです。
 社会の中の小社会で、イジメに遭ったりとてもつらいことがあったら、自分よりもっときつい人がいるんだからとか死ぬことに比べたらかすり傷だからとか言って慰めたりがんばれと励ましたりしてくれる人がいますが、それで自分が納得して自分を立て直すことができるならいいですが、ちょっとそれは違うような気がします。もし、その小社会でどうしてももうムリとなったら、逃げ出して別の小社会に入り直せば良いと思います。しかし、悪い意味の似たような人や場面はどこにでもありますから、人はどん詰まりに至るどこかで自分を相手に主張して困難に立ち向かわなくてはならない場面があるように思います。



 ★人も社会もあんまり変化しない部分と少しずつ変化して形や顔を変えていく部分とがあります。

 人も生涯の中で身体的にも精神的にも少しずつ変化していきます。また、現在のわたしたちとずっと昔の人々では、自然の花や木々に対する感じ方は同じようなものかもしれませんが、ものの考え方などは変化しています。そうして、社会や文明も時代とともに変化してきています。

 明治時代以前は、文明の発展は平らな川の流れのようなゆるやかな変化でしたが、――それでも人類太古の少しの道具しかない洞窟生活のようなものから見れば、大発展に見えるでしょう――明治時代以降の近代社会では滝を上るような急激な文明の発展をしてきました。今後は、そうしたものを土台としてさらに急速な発展をしていくと思われます。

 ところで、明治・大正・昭和という時代を生きた柳田国男という民俗学者が、現在のような電気やガスのなかった時代の人々の生活のなかで煮炊きや照明のための火がどのように工夫されていたかを研究した「火の昔」という優れた本があります。電灯は、明治時代にはじまり広まっていきましたが、それ以前は火の管理が大変だったようです。したがって、スイッチを入れるだけで灯り(火)の番をしなくてもいい電灯は、当時の人々にとってどれほど感動的なことだったことだろうと思われます。しかし、現在の蛍光灯のような明るい照明とは違って、室内の電灯は裸電球と呼ばれるもので、その周囲は少し薄暗かったはずです。その裸電球は、時間が経つと触れないくらい熱くなっています。

 以下に、柳田国男が「火の昔」で火の「時代の変化、世の中の移り替り」を述べているところを紹介します。この具体例によって社会の変化の仕方を考えてみたいと思います。


 そこで皆さんとともに考えてみたいのは時代の変化、世の中の移り替りというものにも二通り、ある一つの時を限りにはっと改まってしまうもの(注.1)と、いつを境ということもなしに、誰も気づかぬうちにそろそろと、古いものが新しくなるのとがあって、どちらかと言えば第二の方が多いということであります。少なくとも我々のあかりなどはこの方でありました。たとえば都会には電燈より他のものは知らず、元は行燈(あんどん)でありまたは蝋燭(ろうそく)であったことくらいを、やっと知っている人が多いのに、今でも東北地方の振わない田舎に行くと、まだ石油ランプの恩恵すらも知らずに、あぶら松の割裂きを焚いている家も少しはあるのです。そうかと思うと一方には、昼間でも電気をつけてその下で働く人もあり、さらにその中間の石油燈や種油の行燈をもって、ただ一つの夜のあかりとしている家々が、捜せばまだ少しは国の内にあるのであります。しかもだんだんと昔へ遡(さかのぼ)って行けば、今日は電燈の明るい光の下に夜を送る家でも、もとは一度はランプに石油をともし、行燈の燈芯のくらい火をたよりにしていた時代があり、なお今一段と昔の世になると、どんな身分の高い方々でも、松のあかりで辛抱なされた時代があるのであります。
 (「火の昔」P247-P248『柳田國男全集23』ちくま文庫)



 そこで改めて日本人の火の利用、冬のうちいかなる方式で身を温めているかという問題を、地図によって答えることになると、近頃(注.「火の昔」の「自序」の末尾に「昭和18年初冬」とありますから、その頃を指しているでしょう)はよほどまた色分けがちがって来ているのであります。瓦斯(ガス)や電気や蒸気のパイプ、または石炭・石油を西洋炉に焚(た)くことは人がよく知っていますが、地図の上に書き込むとほんの小さな点々であります。火鉢しか使わぬものが全面積の約半分、炬燵(こたつ)も炭火しか用いませんからこの仲間に加えるとしましても、まだおそらく日本の三分の二にはなりますまい。残りの三分の一以上は、今でもまだ開いた囲炉裏(いろり)で、どっさりか少しか、必ず木を燃やしているのであります。その真中に鉄輪またはカナオ・カナゴという鉄器を置いて、自在鉤(じざいかぎ)をやめてしまったものが現在はもうよほど多く、また年々多くなって行くのではないかと思います。その残りの炉の鈎というものが今言ったように、いろいろの種類の自在とまだ自在でないものとに分かれており、または上と下との二つの鈎を綱で繋(つな)いで、上げ下げ取りはずしのできるものと、ただ一本の長い木の端の鈎に、鍋鉉(なべづる)を引っ掛けているものとがあるのであります。これを並べてみるとわが国の火焚き場の、だんだん変化して来た順序はざっとわかります。そうして東京都の中のように、わずか一日であるけるほどの区域内でも、このすべての段階のすべての標本を、集めてみることも今日はまだできるのであります。
 (「火の昔」P314-P315『柳田國男全集23』ちくま文庫)


 最初の引用では、地方と都会など地域によって火の利用の形が違うこと、また時代をさかのぼるとどんどん火の形が違ってくることが述べられています。
 ふたつ目の引用は、東京という都会の中の一部の地域を調べてみたら囲炉裏の火の利用の形のいろんな小さな変化の段階のものを収集できると述べています。つまり、ものごとは一気に新しく変化してしまうものではないことがわかります。新旧混じり合いながら、だんだんと新しく入れ替わっていくのでしょう。このような事情は、現在の例えば旧来のケイタイと新しく普及したスマホとの関係や分布でも同様でしょう。

 以下に、部屋の照明として電灯が普及し始めた明治時代頃を背景とした電灯の描写を夏目漱石の小説から少し抜き出してみます。わたしたち読者は、そのような描写はふだんはさらりと読み飛ばすかもしれませんが、その時代に書かれたものには物語作品に限らず作者が呼吸しているその時代が無意識的にも文章の端々に反映しています。

 外は「暴風雨(あらし)」の場面です。電灯が登場するだけではなく、当時は家の中で食事の煮炊きなどのために火を使っていましたからその煙で「煤(すす)けた天井」があったり、嵐で停電になったり、下女がいたりと、現在とは事情がちがうことがいろいろ読み取れそうです。ちなみにわたしの記憶では、今から50年くらい前は、台風シーズンになると毎年1回は停電していました。また、雨漏りもあったと記憶しています。


 下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中(うちじゅう)の電灯がぱたりと消えた。黒い柱と煤(すす)けた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗になった。自分は鼻の先に坐っている嫂(あによめ)を嗅(か)げば嗅がれるような気がした。
 (『行人』「兄 三十五」夏目漱石 青空文庫)


 飯の出る前に、何の拍子か、先に暗くなった電灯がまた一時に明るくなった。その時台所の方でわあと喜びの鬨(とき)の声を挙げたものがあった。暴風雨(しけ)で魚がないと下女が言訳を云ったにかかわらず、われわれの膳(ぜん)の上は明かであった。
「まるで生返ったようね」と嫂が云った。
 すると電灯がまたぱっと消えた。自分は急に箸(はし)を消えたところに留めたぎり、しばらく動かさなかった。 「おやおや」
 下女は大きな声をして朋輩(ほうばい)の名を呼びながら灯火(あかり)を求めた。自分は電気灯がぱっと明るくなった瞬間に嫂が、いつの間にか薄く化粧を施したという艶(なまめ)かしい事実を見て取った。電灯の消えた今、その顔だけが真闇(まっくら)なうちにもとの通り残っているような気がしてならなかった。
「姉さんいつ御粧(おつくり)したんです」
「あら厭(いや)だ真闇になってから、そんな事を云いだして。あなたいつ見たの」
 下女は暗闇で笑い出した。そうして自分の眼ざとい事を賞(ほ)めた。
 (『行人』「兄 三十六」 夏目漱石 青空文庫)


「僕もあの風の音が耳についてどうする事もできない。電灯の消えたのは、何でもここいら近所にある柱が一本とか二本とか倒れたためだってね」
「そうよ、そんな事を先刻(さっき)下女が云ったわね」
 (『行人』「兄 三十七」 夏目漱石 青空文庫)



 (注.1)
 明治時代、福岡の遠賀川では筑豊地域から採れる石炭を川舟に積んで北九州へ運んでいました。その川舟は帆船で上り下りに苦労したようです。東北でも内陸と海岸地方の物資などの交通は主に川舟でした。しかし、明治二十年前後に鉄道が開通すると、いずれの場合も川舟はぱたりと終わってしまいました。これが、そのような「世の中の移り替り」の例に当たります。次のように描写されています。

 鉄道が遠賀川流域にひろがったとき、川筋の舟子たちは急速に姿を消した。それは「宵越しの金をもたぬ」ことを誇りにしていたものにいかにもふさわしい迅速な没落で、近代産業にまきこまれてうめき苦しむ暇さえなかった。彼らは何かにふり落とされたように、いつか畑へ上り、炭坑へおりていった。そして気ままに水流にのさばっていた時代のことを、ぽっかりと思いだすのであった。
 (『日本残酷物語 4 ―保障なき社会』P151-P152 平凡社ライブラリー)




 ★自分の心のもっとも深い所に、自分や他人の幸福のイメージを据(す)えることが大切だと思います。

 このように、人も社会も時とともに少しずつ姿形を変えながら移り変わっていきます。わたしたちは、気づいた時には偶然のようにこの人間世界に生きていました。人間関係に疲れたり、嫌なことが重なると、なぜ人はいきているのだろうなど疑問が湧いてくることがあります。しかし、人はなぜ生きているのか、は太古以来の難しい問いです。つらい時も悲しい時もあるでしょうが、他人に出会ったらやさしいあいさつを交わし合い、この世界の日々をできるだけ楽しみながら生きて旅することが、その難しい問いへの答えなのかもしれません。つまり、旅を重ねていけば少しはわかってくるのかもしれません。



 ★終わりに

 わたしの世界論を書いてみました。あなたたちひとりひとりが、この世界を呼吸し味わいながら歩いて、自分なりの世界論を行動自体や言葉で築いていって欲しいと願っています。














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