詩の入口から





  目 次


 助走シリーズ

   項 目  掲載月 
1. 万人にある無量の思い 2016.11.12
2. 万人に開かれた言葉の条件 2016.11.28




 詩の入口から

   項 目  掲載月 
1. 詩の入口から ① ―文字表記の問題 2021.02.09
2. 詩の入口から ② ―〈自己慰安〉としての〈歌〉 2021.12.19
3. 詩の入口から ③ ―● 2023.05.●







助走シリーズ


 1.万人にある無量の思い


 詩の入口から―助走シリーズ① 万人にある無量の思い


 詩は、現在までのところ言葉で表現されます。そして、その言葉は作者の心から精神に渡る活動に関わっています。作者は、あるイメージやモチーフを携えて、表現の舞台に言葉に変身して現れます。その舞台上で誰にも共通する言葉という一般性を駆使して、それらの言葉の現在がまとい付かせている共同のイメージや意味や価値に親和したり、抗ったりしながら、作者の固有のイメージやモチーフが込められた世界を織り上げていきます。ここまでは物語も詩も同じです。物語と詩の違いをひと言で言えば、詩が作者の固有のイメージやモチーフを直接的に言葉の表現とするのに対して、物語は語り手に導かれて登場人物たちが関わり合う虚構の世界を創出し、詩と比べて間接的に、遠回りするようにして作者の固有のイメージやモチーフを表現します。作者の固有のイメージやモチーフは、その虚構の世界に埋め込まれています。

 ここでは、詩という言葉の世界を旅していきます。旅の一応の目的は、わたし自身が詩という言葉の世界を意識的に肌感覚レベルでつかみたいということにあります。そのことが同時に、ごく少数の読者にとっても詩という言葉の世界を味わったり捉えたり考えたりすることの手掛かりになれば良いなと考えています。

 ひとつの詩作品の言葉の世界に入ってみます。



 春のひらがな


さくらの
花びらには
ほんの少し

さ ような ら
が混じっていて

さようならの
ことばの端にも

さ く ら
の花が
ほんのり

咲いている

(「春のひらがな」 詩集『明日戦争がはじまる』 宮尾節子)




 「春のひらがな」とは、この場合「さくら」や「さようなら」を指しています。それらは無数の島嶼から成るこの列島の春を象徴する言葉です。春は、桜の季節であり、新たな出会いもあるけれど卒業や人事異動など別れの季節でもあります。わたしは最初そのような人と人との新たな出会いもあるけれど別れというものもある、そんな「さようなら」を意識していました。しかし、桜が花開き散っていくという過程での古来からの人の心の揺らぎのようなものの表現かもしれません。そうだとしても、前者のような受け止め方を許容する表現になっているように思います。
 
 「さ ような ら」や「さ く ら」という表記(註.1)は、わたしたちが日常である無量の思いから言葉に詰まって言いよどんだりする場合に当たる、あるいは逆に言えばそんな佇む言葉をすべてをすくい取ろうとして対象に柔らかに迫ろうとする、そんな表現に当たっています。

 この詩の卓抜さは、さくらの花に「さ ような ら」を見、さようならに「さ く ら」の花を見るところにあります。しかも、「ほんの少し」や「ほんのり」という言葉は、わたしたちがよく見つめたり、深く感じたりしないとわからないほどそれらが微かに含まれているという表現になっています。もちろん、この作者の捉え方や感じ方には歴史的な背景があります。現在にまで残された歌などによれば、中世の西行に限らず、平安朝辺りから人々(貴族以外の民衆のことはよく分かりませんが)が、桜の花が咲くのを待ち焦がれたり、散りゆくのを嘆いたりしていました。桜の木が身近に植えられて人間界に引き入れられた桜(自然)を眺めたり、あるいは都からはるばる桜の咲く吉野を訪れたりしていたようです。桜がいつの頃から人々の心に上るようになったのかわかりませんが、現在のわたしたちの花見の風習などを考えると、古代や中世でも貴族だけに限られたものではなかったように思われます。また、そのような自然物との深い付き合いは桜に限ったことではなかったと思われます。

 この列島では、おそらく太古より自然(桜)に人間界での人の心の有り様を投影し、あるいは人に桜のイメージを重ねたりするなど、自然と人間とが互いに浸透し合う相互的なつながりとして感じられてきました。この詩作品もまたそのようなこの列島に伝わる心から精神に渡る歴史的な遺伝子、その主流の流れに連なる作品だと言えると思います。

 そして、この詩作品のすぐれたところは、「さ ような ら」や「さ く ら」という表現によって、少なくともこの列島に生きる万人の言葉ではうまく言えない哀切や感動の表現をすくい取ったところにあります。


 (註.1)

 「さ ような ら」や「さ く ら」という表記から、伊東静雄の昭和二十一年に雑誌に発表された次の「夏の終わり」という詩を連想しました。具体的には、「・・・・・さよなら・・・・・さやうなら・・・・・/・・・・・さよなら・・・・・さやうなら・・・・・」という表記の部分です。これは、敗戦後まもなく書かれた作品と思われます。

 伊東静雄は、夏という季節がとても好きだとどこかに書き記していましたが、この作品は単なる季節として去りゆく夏を惜しむ作品ではないと思われます。伊東静雄は、京大時代に「美しい朋輩達」という童話を書いて懸賞に応募し一等当選しました。(註.)晩年の戦後の詩にはこの童話性が流れ込んでいる作品があります。この作品も少し童話的です。「いちいちさう頷く眼差しのやうに」や「ずつとこの会釈をつづけながら」にその童話性が感じられます。夏の終わりを象徴する「白い雲」、その地上に落とす影が擬人化されて、その影が「わたし」を含む地上のありとあらゆるものに別れを告げているように感じ取られています。「わたし」の視線は地上ありますが、「わたし」の内面のある無量の思い、ある空虚のようなものに内部的な視線が向けられているように見えます。それはよく指摘されるように「夏の終わり」は、戦争の時代と、そこを生きてきた自分(たち)との別れを象徴していると見ることができるでしょう。そのときの「わたし」のぼんやりとした空虚や無量の思いが表現されています。


     夏の終り

夜来の台風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落す静かな翳(かげ)は
・・・・・さよなら・・・・・さやうなら・・・・・
・・・・・さよなら・・・・・さやうなら・・・・・
いちいちさう頷く眼差しのやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田(みずた)の面(おもて)を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
・・・・・さよなら・・・・・さやうなら・・・・・
・・・・・さよなら・・・・・さやうなら・・・・・
ずつとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる
 (「夏の終わり」 伊東静雄 ※一部旧漢字を今のに直しています)



(註.)

 詩の言葉の表現自体の問題にとっては、どうでもいいことですが、後の第一詩集『わがひとに與ふる哀歌』に関しても、伊東静雄は片思いの恋人への手紙で、この詩集の詩にはぼくとあなたにしかわからないこともたくさん書いていますから、というようなことも書き送っています。伊東静雄の内面の動機で言えば、この童話も片思いの恋人に贈るもの、あるいは恋人の気を引こうとする動機があったものと思います。若き伊東静雄の痛い恋という体験は、人みな一様でもありますが、片思いという点で痛切なものとしてあったように見えます。しかも、そのことは同時に、地方の農村的なものを引きづった者が、都市的なもの、その象徴としての恋人と出会うという近代社会の普遍的な問題でもありました。






 2.万人に開かれた言葉の条件


 詩の入口から―助走シリーズ② 万人に開かれた言葉の条件


 わたしたちは、大人になると近親や親類以外の知り合いの葬式や火葬する斎場などに出かけることがあります。そして、そんな場で故人に思いを馳せたり、その場に居合わせた人と故人のことを語ったりすることがあります。そんな知り合いを亡くして斎場に出かけたことを表現した詩があります。



 寒桜


桜が
今年の桜が
見られなくて残念だねと
思っていたから――

ひので
というほほえんでしまう
名前の山奥の斎場から
出た帰り道の

車の窓から
花が見えたときは
「あ」と声が出るほど
驚いて「とめて」もらって
確かめると桜木にまちがいなく
二月はじめの沿道にぽつぽつとしかし
途切れることなく花を咲かせて
寒桜の若木の並木が
続くのだ

しのぶ
という名前にふさわしい
生きかたをしたひとの最後に

しあわせ
の花が咲いたようで
旅立つ日に間に合ってくれた
冬の桜がうれしかった

あたたかい
日だったからねと
それから皆で空を見あげて
天気をほめた

 (「寒桜」 詩集『明日戦争がはじまる』 宮尾節子)


 この詩の情景は、説明されるまでもなく誰でも思い当たるところがあると思います。つまり、大人になったわたしたちは誰でもこの詩に描かれた情景と似たような情景の中に佇んだことがあるはずです。そういう点で、まずこの詩作品は誰もが生活世界で遭遇する場面を描いています。もちろん、万人が体験することを詩の素材としたからといってすぐれた作品になるわけではありません。

 わたしたちは自分の死は心的にあるいは意識的に体験できないわけですが、生きている間には他人の死に何度か出会います。そして、焼かれて骨になってしまったのを見ると、ああ死んだらなんにもなくなっちゃうんだねえという強烈な思いがやって来ます。わたしは初めて焼かれた骨を見たときそう思いました。もちろん、それでも太古のように死んでも魂(霊魂)は残ると考える人もいるかもしれません。けれど、現在では、いくらかのあいまいさを残しつつ、死んだら無になる、あるいは宇宙の元素に還元されるという見方が一般的な死の捉え方だと思われます。ただ、人が亡くなってしまっても生きている人々の心の内につなぎ止められて生き続けていくということは言えます。

 現在では、もはや生まれ変わりということは一般に信じられていませんから、ある人の死は固有の一回性の終わり・切断として、いっそう言葉に尽くせないほどのものを生きている者に残すことがあります。頭では人の死は骨になって何にも無くなるという唯物的な死をわかっていても、それで割り切ってしまうことはできません。この人間界を旅立っていく人への哀惜はもはや取り返しがつかないという点で痛切であり、前回のテーマとした「万人にある無量の思い」へと通じています。しかし、誰もがそうであるようにこの詩でも「わたし」を含む皆が穏やかなふんい気で、それらの無量の思いは心に沈めています。けれども、「わたし」が、(桜の)花をめざとく見つけたのは、その心に沈む無量の思いが気づかせたのだと思われます。

 詩(言葉)は、どんな特異なイメージや固有の感受や世界を表現することも可能であり、そのように様々に表現されているように見えます。そのような自由度を言葉は持っています。しかし、それは記号論的にあるいは確率的にあるいはまたAI(人工知能)のように、どのような言葉の組み合わせも可能であるということを意味しません。表現された言葉が、限界のない自由度を持っているように見えても、人類の精神史が生み出してきたものの頂きにある現在が、生み出すものを大気のようにわたしたちは呼吸していて、表現される言葉はそれらの意識的、無意識的な刻印を受けています。逆の言い方をすれば、現在の大気に親和したり、抗ったりして表現されてきます。したがって、詩の言葉も抽象的に無限の自由度を持っているわけではありません。このような詩の言葉には、多くの人々に分かりやすい言葉もあれば、多くの人々には分かりにくい孤独な営為ということもあり得ます。どちらが優れているということは言えませんが、多くの人々が感じていることで、しかも多くの人に受け入れられやすい言葉は、万人に開かれた言葉の可能性を持っています。 

 万人に開かれた言葉とは、万人に読まれるかどうかは別にして、おそらく詩のはじまりを想像させます。現在ではあらゆる芸術表現が細分化され専門化してしまっています。けれども、詩の始まりは、万人が共有できるような感覚や言葉に基づいていたはずです。この詩(芸術)の起源から見ても万人に開かれた言葉ということは重要なことだと思います。

 では、現在においてその「万人に開かれた言葉」となり得る条件は次の二つを満たすことだと思います。まず第一に、現在を生きる万人(文化や地域性の違いの壁は依然として大きいですから、取りあえずはこの列島の人々)が、感じ考えるであろうことや言葉に触れ、それを詩の言葉に繰り込んでいることです。

 次に、一つ目の対象(この場合は、「しのぶ」さんや彼女を見送る「わたし」たち)に触れる言葉の視線に批評性が含まれていることです。この場合の「批評性」とは、対象に触れて詩の言葉の世界へ赴くときの言葉の視線や感受に含まれる対象を少し離れて見つめるような内省と言い換えてもいいです。この詩の場合で言えば、「しのぶ」さんの死を見送るだけのモチーフなら詩にする必要はなく沈黙の重量で答えればいいわけです。つまり、作者の無意識的な部分も含めて、作者はこの詩を書くことで死者を見送る万人とのつながりの中にある自分というものを、どこかで自覚しているはずです。このようなことは一般的に表現の言葉には言えるわけですが、その批評性(内省)が弱かったり、なかったりする場合は、作品の言葉は月並みな通俗性に流れてしまいます。

 この作品は、六連から成っていますが、意味の流れからは一連にした方が分かりやすくなります。けれども、六連の構成にすることによって、スムーズな意味の流れを切断するように、あるいは「わたし」が言い澱むように表現されているのは、この詩の表現の価値を高めています。これは、作品中の「わたし」の沈黙の有り様から来る構成や表現であり、このような場面で万人が感じるであろう「無量の思い」の表出・表現につながっています。

 この作品を映像の場面にするとひとつながりの一場面になると思います。しかし、詩作品の言葉たちは、寒桜が花咲かせている現在の方に収束して、知り合いや近親の死に際して誰もが経験のある言葉に尽くし難い無量の思いという普遍の場に触れています。良い作品です。

 この詩集で、わたしが特に印象深くていいなと思う詩は、「春のひらがな」「きれいに食べている」「桜前線」「寒桜」です。この人間界に埋もれるようにして日々旅をくり返しているわたしたち普通の生活者の〈沈黙〉の重量に応える言葉になっています。別の言い方をすると、わたしたちが日々経験する言葉に尽くせぬ世界がうまく歌い上げられています。付け加えれば、作者、宮尾節子は、先に挙げた詩のようにわかりやすい直喩の詩人のように見えて、自在な思考する暗喩も内に秘めているように見えます。


※ 前回と同時にほぼこの文章を書き上げていましたが、「万人に開かれた言葉」となり得る条件の二つ目がよくわからなくて少し考えていました。








 1.詩の入口から ① ―文字表記の問題


 詩の入口から ① ―文字表記の問題


 吉本さんの『ハイ・イメージ論Ⅱ』の「拡張論」辺りを調べていたら、次のような言葉に出会った。


 わたしたちは「犬」という概念を文字にあらわすために〈犬〉と書くか〈いぬ〉と書くかで、ソシュールのいう意義(signification)になんの変化もおこらないが、価値に微変化を生むとかんがえるべきなのだ。この微変化はたぶん発生的なものであり、わたしたちの口承時代に漢文字を表音的に移植して語音を表記したときの異和とずれのかくされた対応の無意識にかかわっている。この無意識は意識化されたことも、解放されたこともなかった。「けさ眼がさめると雨が降っていた」と「今朝眼がさめると雨が降っていた」とは意味の同一性と微差異をもっていることを、漢文字の表記記号としての借用の時期に、わたしたちは背負った。
 (『ハイ・イメージ論Ⅱ』「拡張論」 P90 吉本隆明 ちくま学芸文庫)


 またこれとの関わりで、つい最近読んだ吉本さんの良寛についての講演テキストに、次のような言葉があった。


12 文字に対する考え方――万葉仮名と平仮名

 ところで、良寛の草書というものには、漢字の草書と平仮名の草書があります。漢字の草書と平仮名の草書のかかわり方というものは、良寛にとってどういうものになっていったのかと考えてみると、日本の最初の音で言う言葉というものは、最初は日本では七世紀とか八世紀頃に、いわゆる万葉仮名というもので、中国の漢字を音読みにしてもらってきて、それでもって日本語の言葉というものを表現したわけです。万葉仮名というものと平仮名というものが、だいたい平安朝時代からでき上がって決まってきて、使われるようになるわけです。主として女流の作家とか歌人とかという人は、平仮名の日記をつけたりというようなことを始めて、平仮名が流布されていくわけです。
 平仮名と万葉仮名の間には違いがあるわけですけれども、その違いというものは何かというと、万葉仮名は少なくとも日本の音声というものを写していると考えることができます。つまり万葉仮名で写したものは何かといえば日本語の音声なのだと。音声には地方地方によってなまりもありますし、少しの違いもあります。それから人によって個性が違いますから、個性的な違いもある。声の違いもある。そういうものをとにかく万葉仮名で写したということだと思います。それで字に書き留めたということだと思います。
 平仮名というものは何かというと、音声とかなまりとかそういうことは全部抜きにして、言葉、言語学で言えば、言葉の音韻だけをとったと理解しますと、万葉仮名と平仮名の違いというものが一番わかりやすいのではないかと思います。
 良寛の草書には、万葉仮名あるいは漢字の草書と崩した草書と、それから平仮名で書いた草書があります。それがどういう鑑定になっているかという考え方をすると、たぶん良寛の中では、いつでも万葉仮名というものが良寛の仮名文字の表になっておりまして、万葉仮名が崩されていって平仮名になったのだという、文字に対する良寛の考え方が書の中にとてもよく表れているのではないかと僕には思われます。
 良寛が漢字の草書と平仮名の草書というものをどこで区別しているかというと、万葉仮名は日本語の音声を写したものだ。平仮名というものは音韻を写したものだ。それだけの違いがある。音声を写した万葉仮名から音韻を写した平仮名にというように考えると、それは良寛の中では、一種連続した一つのつながりがあって、万葉仮名から平仮名へという移り行きというものが、その間に音声は音韻に変わり、音声から個性が全部はぎ取られて、抽象されて、音韻だけが残ったものが平仮名だと。その万葉仮名と平仮名、あるいは漢字と平仮名というものの間の移り行きというようなものが、良寛の頭の中にたえずあって、草書を書いているのだと僕には思われます。
 それは良寛の文字に対するとても大きな考え方だと思います。良寛という人はいろいろなことをやっている人なのです。平仮名の五十音というものがありますけれども、五十音と何か文法的な変化について、良寛はいろいろ考えたりしています。それくらい平仮名の五十音というものにものすごく関心があるし、日本語というものに関心が深い人だったし、自分なりの研究を成し遂げてきた人なのです。
 ですから万葉仮名といわゆる平仮名というものとどこが違うのだということは、良寛の心の中では非常にはっきりしていて、その移り行きがずっとはっきりしていて、それは良寛の草書というものを形作っていると、根本にまで良寛の文字に対する考え方のように僕には思われます。
 ( A116 良寛について 「講演のテキスト」より 講演日時:1988年11月19日)
 『吉本隆明183講演』フリーアーカイブ ほぼ日刊イトイ新聞


 最初の吉本さんの言葉「わたしたちの口承時代に漢文字を表音的に移植して語音を表記したとき」に付け加えれば、たぶんそんな道に入り込むのは人間的な必然かもしれないが、漢文字を表音的に移植して語音を表記するだけでなく、漢字の持つイメージも借りて語音を表記することも試みられている。例えば「水無川」(みなしがわ)が季節によって水がない川というイメージからつけられた語音だとして、他方にただ漢字の音を借りただけの地名もあり、前者の視線で後者の地名も見ることも起こるようになり、混乱が起こる。「千曲川」の名前の由来や表記について諸説あったりするのはそのような混乱からのものであろうと思われる。

 わたしたちははるかな起源のことは知らなくても、話し言葉や書き言葉を割りと自然に使いこなしている。しかし、書き言葉の言葉や漢字仮名交じりの文章になるまでには紆余曲折があったようなのである。そんなはじまりの困難は、当然のこととして現在のわたしたちの言葉の無意識のようなものとして潜在したり、奥深い表情を見せたりしているはずである。

 例えば一般性として、学校の校長が「今朝」と語った場合と生徒が「今朝」と言った場合、文字で表記するばあいには意味としては同一でも、それぞれ「今朝」と「けさ」と書き分けざるを得ないという事態はありうる。校長と生徒がともに「今朝、登校時間に校門辺りにゴミが落ちていました。」という言葉を語ったとして、その語り口の中に両者の言葉に込めたイメージや視線の違いがあることは誰でも感じ取れる。では、その言葉を文字で書き記した場合、その部分だけの表現からは言葉に込められたイメージや視線についてはよくわからない。そこで、それらを少しでも表現にくり込もうとして、「今朝」や「けさ」のような表記が区別されたりする。

 文字表記として、漢字、ひらがな、カタカナがあることは、便利さもあれば不便さもある。それは面倒な手間とも見える一方で、表現の自由度の少しばかりの拡大とも見える。ここは漢字がいいかな、それとも漢字続きでもあるからひらがなにしようかなど、このことは、おそらく誰もがふと立ち止まってみたことがあるような気がする。わたしも詩を書いている中でも経験したことがある。
 最近の自作から取り出してみる。


(かんじてる)ことと「感じてる」という言葉
の間には
飛び越えたオランダの水路の物語がある
 (詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1412)



 (かんじてる)は、心の中の状態の描写であり、「感じてる」は、(かんじてる)心を言葉としてすくい上げた状態の描写になっていて、位相が違うことを示すために、(  )や「  」の記号、そしてひらがなや漢字の表記というように区別されている。そうして、両者の間には、とまどいや言葉足らずの不安などのひとつの小さな物語の破片とも言うべきものがある。したがって、外からはうかがい知れにくいが、心から言葉へと織り成されていく過程には自己対話の物語もあり、作品の中に潜在している。

 このような表記上の書き分け、使い分けは、微妙な違いやズレなどを表現することができるから、表現する者にとっては自由度の小さな拡大のように感じられる。しかし、起源としては「口承時代に漢文字を表音的に移植して語音を表記したときの異和とずれのかくされた対応の無意識にかかわっている」はずだと思われる。わたしたちが生きること自体もこれと同じようなことではないか。わたしたちは、様々な〈母の物語〉を抱えて、それに深い所で規制されつつ〈自由〉を味わったり、少しでもそこからもっと広いところへ抜け出ようとする〈自由〉を追い求めようとする。







 2.詩の入口から ② ―〈自己慰安〉としての〈歌〉


 詩の入口から ② ―〈自己慰安〉としての〈歌〉

                  1

 昔、NHKのテレビで観た。中国の辺境の地に住むひとりの心優しそうな青年が、父親の時と同じようにずいぶん遠く離れた所まで出かけて、たくさんの男女が集まる場で嫁探しをすることになった。知り合いに助けられたりしてその青年はひとりの女性と出会えた。その女性をはるばる自分の家まで連れて帰る道中で、ひと休みの時だったかその女性が道端で相手の青年を思う歌を披露していた。現在では文学という視線で見られる専門歌人が普通になっているが、そのような専門歌人が生まれる以前は、もちろん以後でも、大衆の世界では〈歌〉は、一定の受け継がれた形式があったろうが、こういうものとして歌われていたんだなと思った。そのような〈歌〉は、お祭りや結婚式などこういう特別の時に歌われていたものだろう。

 わたしたちは、もはや好きな相手のために〈歌〉を歌うということは一般にしない時代に生きている。しかし、歌自体は、次々に作られ歌われ聴かれている。聴く者にとって〈歌〉は深くこころ揺さぶるという点は、おそらく太古も今もそんなに変わっていないと思われる。そうして歌を聴く者にある内省をもたらすだろう。吉本さんは、若い頃の詩『日時計篇』あたりからすくなくとも壮年の、詩集『記号の森の伝説歌』を出した頃までは、〈自己慰安〉としての〈歌〉ということをとても意識していた詩人である。そんなにも長く持続しているから〈自己慰安〉としての〈歌〉は、磨き上げられ深められてきた吉本さんの生涯のモチーフと見て間違いないと思う。〈自己慰安〉ということは、以下の引用でも吉本さんが誤解されやすいと語っているが、新たな概念の言葉をいくつも作ってきた吉本さんでも苦労して、ぴったりとしたいい言葉を思いつけなかった。残念なことではあるが、これはこの列島の文化や日本人の意識や日本語の有り様のせいと言うほかないという気がする。

 吉本さんは〈歌〉を、ということは文学を、どのように捉えていたか。


 フーコーというフランスの哲学者がいます。彼は、ぼくの言う「自己慰安」に似た意味合いのことを、「自己への配慮」という言葉で表現しています。
 自分を尊重すると言っても利己主義ではなく、社会的な意味合いを含んだ自分とのつき合い方とでもいうのでしょうか。自覚とか責任とか、そういうものを含めて、一個人としての自分に向き合い、大切にすることを「自己への配慮」と呼んでいるのです。
 これは日本語ではなかなか説明しにくい概念です。ぼくは「自己慰安」という表現を使いますが、そうすると、自分をなぐさめるだけでいいのかということになって、誤解されてしまいます。もっと、内省とか、社会との関わりとか、そういうものを含んだ概念です。
 皆さんの中に、自分は心が傷ついている人間だという自覚がある人もいるかもしれません。そういう人は、この「自己慰安」、あるいは「自己への配慮」ということを頭の片隅においておくといいと思います。
 ぼくは、文学や芸術というものの起源は、この「自己慰安」なのではないかと考えています。
 つまり、赤ん坊のときに母親から十分に可愛がってもらえず、そのためにいつも心が不安定だったりする人が、自分をなぐさめるために行うのが文学や芸術ではないかということです。
 なぜそう思うかというと、ぼく自身がもともと、自分をなぐさめるために文章を書き始めたからです。最初は日記とか、詩のようなものでした。
 ぼくもまた、育てられ方に問題のある、心が傷ついた子どもだったと思います。
 (『13歳は二度あるか』P134-P135 吉本隆明 大和書房 2005.9.30)



 〈自己慰安〉は、吉本さん自身も別の所で語っているが、吉本さんの若い頃はまだ文字通りの意味が中心で、不安を抱えたり傷ついたりした心を慰めるということが中心だったように見える。詩『日時計篇』以前がその時期に当てはまる。毎日のように持続的、自覚的に詩が書かれた『日時計篇』、そこから詩集『固有時との対話』や『転位のための十篇』へと引き絞られていく表現の過程では、「自分をなぐさめる」ということを含みつつもより「内省とか、社会との関わりとか、そういうものを含んだ概念」へシフトしてきている。これは、上で語られているような自己慰安の場所であり、〈自己慰安〉としての〈歌〉である。ただ、歌と言っても、歌謡曲は別にして、書き言葉の世界が話し言葉の世界と両立し、黙読が主流になってしまったのと対応するように、高度に複雑化した世界の渦中の詩の世界も黙する歌、自分の内なる心の川や海を流れる歌になってしまった。


 吉本さんの説明を受けて考えれば、〈自己慰安〉とは、この社会や世界の中で日々生きていく自分が、社会や世界との関係の中で傷ついた心を慰めたり、そういう自分の位置を推し量ったり内省したりすることであり、文学の世界に拘わらず、この世界を生きている誰にとっても当てはまる言葉ではないか。意識的であれ無意識的であれ、人は十全に生きたいと願う存在だと思われるからである。

 文学の世界で、こういうふうに〈自己慰安〉としての〈歌〉と捉えるならば、吉本さんの詩≡〈歌〉は、現在的なものとしてわたしたちが共有できるような気がする。もちろん、詩が心や内面の表現というより知のアクロバットの表現を楽しむでもいいけど、それでさえもこの〈自己慰安〉に含まれる。人は、なぜ文学や芸術の表現世界に入り込むのか。最初は、偶然のきっかけからとしても、次第に〈自己慰安〉としての〈歌〉を歌うようになる。例えば、詩も具体的な手仕事から成るものではあるが、その過程にはこの社会や世界で十全に生きたいという願望が絶えず潜在しているはずだ。その欲求の詩的(文学的)表現を、〈自己慰安〉としての〈歌〉と呼ぶことができる。それはまた、大いなる自然(宇宙)である人間世界を超えたところを含めて言えば、この不可思議な世界で、人が生きている意味に触れようとする欲求の表現であるとも言えそうな気がする。


                  2

 次のような詩がある。


 仕事

丸太足場の上から
見下ろすと
高さは足下にあった
 (詩集『ある手記』 松岡祥男、『意識としてのアジア』所収 1985年)



 このような短い詩ということで、わたしがすぐに思いつくのは、吉本さんが取りあげた吉田一穂の「母」、伊東静雄の初期作品「空の浴槽」である。


あゝ麗はしい距離(デスタンス)
常に遠のいてゆく風景……

悲しみの彼方、母への
捜(さぐ)り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)。
 (吉田一穂「母」)
 ※「枕詞の話」より引用、吉本隆明『言葉という思想』所収


午前一時の深海のとりとめない水底に坐つて、私は、後頭部に酷薄に白鹽(えん、引用者註.「白塩」か)の溶けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない。胸奥に例へば驚叫する食肉禽が喉を破りつゞけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら。
  (伊東静雄「空の浴槽」)



 いずれも短い詩だが、それなりに完結している。もちろん、さらに展開していくことも可能である。松岡祥男さんの詩「仕事」の場合はどうだろうか。完結しているとみることも、さらに展開していくことも可能だと思う。

 この三行を今から続いていく詩の出だしと見るならば、〈わたし〉は、建設現場あるいは工事現場の高いところにいる、ということになる。たぶん、そのように軽く読み流して、次の詩句へ読み進んでいくと思う。しかし、これは三行の詩として独立させてある。つまり、この三行で自立的な表現として主張し得ると作者は判断していることになる。

 詩作品の中の〈わたし〉は、言葉を書き記している作者そのものではなく、三浦つとむの把握を借りれば作者の観念的に対象化された存在である。言いかえれば、作者によって派遣された物語世界の語り手や登場人物たちのように表現世界という舞台に立って感じ考え行動する存在である。その場合、〈わたし〉の感じ考えることは、作者や時代の大気のようなもの影響下にあることは確かである。だから、詩作品の中の〈わたし〉をよく知るには、作者について知る必要がある。

〈わたし〉のいろんなことがわからないなら、読者にとってすれちがいも起こり得る。〈わたし〉は、この仕事にすでに十分慣れているのか、まだその仕事に就いたばかりであるのか、それぞれによって「高さ」の感覚も違ってくるように思われる。この詩が収められている詩集『ある手記』の「あとがき」は、1981年12月とあるから、詩作品は三十歳位かそれ以前に書かれ、表現された言葉のきっかけになる作者の体験もその頃かそれ以前ということになる。

 この一つの作品からはむずかしいが、この詩集『ある手記』全体の流れを踏まえると、日々思い、悩み、振る舞う〈わたし〉には不可解に感じられるこの世界、しかしそれでもそんな日常のささいに見える場面に〈わたし〉の生の場所はあると感じ取られている。誰でも気ままに心穏やかに日々生きていきたいのに、人は家族を出ていろいろと張り巡らされたクモの糸のようなこの世界に出て行かなくてはならない。そうして、生きつづけるならば何らかの自分の場所というものを獲得していかなくてはならない。

 作者が、日々の仕事で丸太足場の上から見下ろすことは何度もあったに違いない。そうして、ある時ふとそのことの意味に突き当たったのである。この作品で〈わたし〉は、日々の自分の場所に内省的に出会っているのだと思う。

 わたしは1,2度位は鉄パイプで組まれた足場の上に上ったことはある。しかし、その上で仕事することのない人々は、下から足場を見上げ、その高さを感じることになる。その高さは何メートルということに言い直せる客観性を持ったものと思われるかもしれない。また、その高さに届きがたい感受があって、うわあ高くて恐そうだななどの印象も伴うかもしれない。それはひとつの「客観性」とそれに伴うものであることは確かだが、それが高さにまつわる客観性の全てではない。この詩で〈わたし〉が高さを感じ取って足場を踏みしめている、これもまた、足場の外からではなく内からの「客観性」とその感受であると言うことができる。

 この短い詩もまた、〈わたし〉はそんな場所で日々仕事をして生きているんだという、先に述べた、この社会や世界で十全に生きたいという願望を潜在させた〈自己慰安〉としての〈歌〉と見なすことができるように思われる。

 言葉は、長ければ良いということはない。もちろん、長ければいろいろと複雑なイメージも展開も盛り込めるということがあるが、校長の長い中身のない話のようにうんざりすることもある。したがって、表現された言葉の長短に表現の価値の大小はない。短くて鋭く刺さる言葉もあれば、長くていろいろとイメージの旅でもてなしてくれる言葉もある。

 最後に、松岡さんの詩でわたしが気に入っているものをひとつ挙げておきたい。初めて読んだ時には、「ランボーの「銘酊船」(「酔いどれ船」)に触発されている?」とメモしていたが、ランボーのその詩がきっかけだとしてもひとつの自立した独自の表現になっている。これは、自分を慰めるという意味の強い〈自己慰安〉としての〈歌〉ではあるが、たぶん誰にも思い当たることがあるような普遍的な心の場所からの表現になっていると思う。


 破れ船

ひとりの深みから
未明の空見あげると
ながれる白い雲
胸ひらき
からだを解いて
すこしなら唄ってもいいか?

雨の日の噴水が好きだ
誰もいない公園も悪くない
水浸しはいい
おもいっきりぬれるんだ
酒精が踊る
よっぱらいはすてきなんだ
ゆらぐ歩道と街がたまらない
ふらつく足が偉大なのさ

唄ってもいいんだよ
いのるすべもしらず
すがるものもないのなら

 (詩集『作業の内景』より、『意識としてのアジア』所収1985年)



                                                         






3.詩の入口から ③ ―●


 詩の入口から ③ ―●

                  1































inserted by FC2 system