消費を控える活動の記録・その後 4 (2016.4~)


 ※ 「短歌味体Ⅲ」と「短歌味体Ⅳ」は表紙の独立したページ(「11」と「12」)の方に移行して、ここには載せません。




 目  次 (臨時ブログ「回覧板」より)


        回覧板他    日付
81 日々いろいろ ―「イチゴを少しかじってポイ捨て」問題から 2016年04月03日
82 表現の現在―ささいに見える問題から⑫
  -補註3 (吉本隆明「カール・マルクス」に触れ)
2016年04月11日
83  覚書2016.4.29―芸術から  2016年04月29日 
84 表現の現在―ささいに見える問題から⑳ (よくわからないということ①)  2016年05月10日 
85  表現の現在―ささいに見える問題から⑳ (よくわからないということ②)  2016年05月15日
86 日々いろいろ―音楽についてのきれぎれの感想  2016年05月29日
87  表現の現在―ささいに見える問題から 21 (語音の問題から)  2016年06月12日
88  この列島の意識の接続法について  2016年06月14日 
89  日々いろいろ ―普段着で 国家と生活者について 2016年06月18日  
90  表現の現在―ささいに見える問題から 22 (人類の言葉以前の痕跡)  2016年06月23日
91  日々いろいろ―コマーシャルあふれる社会  2016年06月25日
92  きゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」の歌を観て、聴いて。  2016年06月29日
93  対象世界の構造とそれへの出入りについて  2016年07月01日
94  人と諸対象との関わり合いの構造的な変容  2016年07月09日
95  参考資料・「歴史の無意識」ということ 付.わたしの註   2016年07月11日 
96  相変わらず、生活者住民として  2016年07月18日
97  何度(たび)か、生活者住民として (1) 2016年07月30日
98 何度(たび)か、生活者住民として (2)  2016年07月31日 
99  何度(たび)か、生活者住民として (3)   2016年08月02日
100 現在というものの姿(像)について―退行としての復古イデオロギー批判  2016年08月08日
101 吉本さんの言葉から―社会の新たな帯域の水圧  2016年08月16日
102  何度(たび)か、生活者住民として (4) (終わり)  2016年08月17日
103  茶出しの問題―作者の生活世界の慣習に対する位置 2016年09月14日 
104 語りの文体―擬音語による表現の意味 2016年09月16日  
105  人、作者、物語世界(語り手、登場人物)、についての再考察 2016年09月19日 
106  新たな段階の徴候―システム化された農業工場  2016年09月20日
107  表現世界(作品)に対する読者(観客)の位置
  ―読者の作品内外における様々な行動  ※105の補遺
2016年09月25日
108  日々いろいろ―ベッキーさんの広告表現のこと  2016年09月30日
109 日々いろいろ―彼岸花はどのように赤いか  2016年10月01日
110  童話的表現の意味 ※一連 2016年10月07日
111  語り手について ※一連  2016年10月10日
112  作品から ― 『なお、この星の上に』片山恭一 ※110から112は一連 2016年10月10日
113  『石川くん』(枡野浩一)から考えたこと二つ  2016年10月20日 
114  覚書2016.10.22 2016年10月22日
115  覚書2016.11.21  2016年11月21日 
116  日々いろいろ―「侍」って、なあに?  2016年11月27日 
117  『現実宿り』(坂口恭平)を読む  2016年12月10日
118 『幻年時代』(坂口恭平)を読む―物語の核  2016年12月18日
119  『現実宿り』(坂口恭平)を読む・続 ―『現実宿り』の舞台裏から  2016年12月22日 
120 『現実宿り』(坂口恭平)を読む・続々―『現実宿り』を神話的に読む試み  2016年12月26日 
     









        ツイッター詩     日付
47 ツイッター詩47 ( 4月詩) 2016年04月09日  
48  ツイッター詩48 ( 5月詩)  2016年05月03日 
49  ツイッター詩49 ( 6月詩)  2016年06月04日 
50  ツイッター詩50 ( 7月詩) 2016年07月03日
51  ツイッター詩51 ( 7月下旬詩)  2016年07月23日
52  ツイッター詩52 ( 8月詩) 2016年08月06日
53  ツイッター詩53 ( 9月詩) 2016年09月01日
54  ツイッター詩54 ( 10月詩) 2016年10月06日
55  ツイッター詩55 ( 11月詩)  2016年11月01日
56  ツイッター詩56 ( 12月詩)  2016年12月02日 
     












回覧板他




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 日々いろいろ ―「イチゴを少しかじってポイ捨て」問題から



 羽鳥慎一モーニングショー(2016/03/30)を観ていたら、「食べ放題のイチゴ農園で、イチゴの先だけを食べてポイ捨てするマナー違反が増えているそうです。」とあり、俳優の藤岡弘が大事に育てられたものだから大切に食べなくてはというようなよく耳にするようなコメントをしていた。http://www.tv-asahi.co.jp/m-show/topics/showup/20160330/7255

 こんなことは社会がまだ余裕がなくて貧しい時代にはあり得なかったことだろうと思う。わたしもそのことにどこかいい気持ちはしないけど、社会内の格差問題は別にしても、二昔前と比べ余裕のある社会になった現在の自然な行動としての現れではあるだろう。このことは、いろんなことと連動している。

 コンビニが、まだ充分食べられる弁当を廃棄したり、イチゴなどの生産者が形良くないものや甘そうでないものを選り分けたりなどなどは、現在では割と自然なことと見なされている。問題は、個の倫理というよりも、例えばイチゴの場合であれば現在における果樹や野菜などの農産物の価値評価の水準と複雑に絡み合っているように思う。

 先に挙げたコンビニ弁当であれば、食品の価値評価の現在的水準ということになる。これらのことと「イチゴを少しかじってポイ捨て」問題とは別問題で、一見関係なさそうに見える。しかし、例えば現在のキュウリの一般的な市場基準では「曲がったきゅうり」は出回らない、劣った価値のものと見なされている。とするならば、生産者も消費者も「曲がったきゅうり」には一般的には興味を示さず、劣った産物と見なしがちだろう。イチゴであれば、青いところがあって甘みが少なければ「食べ放題」ということもあって、すこしかじってポイ捨てしやすいかもしれない。

 わたしは家族でバイキング料理店に数回出かけたことがある。ついついあれもこれもになったり、好きな物はたくさん食べたりする。たぶん、わたしに限らず普通の人々もそうではないかと想像する。それに加えて、自分によって食が少し粗末に扱われているようにも感じられて、少し不健康だなと思った。それからは出かけていない。この不健康だなという思いには、わたしから引き出される不健康さとバイキング料理という形式をとる店がわたしたちを誘い出す不健康さという二重性としてあると思う。

 したがって、この「イチゴを少しかじってポイ捨て」問題には、そのバイキング料理みたいな二重性があり、「食べ放題」という運営側の問題もあると思う。だから、簡単に個の倫理として「イチゴを少しかじってポイ捨て」を悪いこととして裁断することはできないと思われる。

 わたしたちの自然な行動は、個々として見ずに一般性として見るならば、この列島の住民が築き上げてきた歴史の現在的な姿から来ているはずである。遙か太古から近世辺りまでは人々は大規模な飢餓にたびたび襲われ続けてきた。サツマイモも飢饉対策の救荒作物であり、ヒガンバナの球根も救荒植物であった。現在に到って、先進諸国はほぼ飢餓を脱したと言える。わたしの小さい頃と比べて、イチゴやメロンやスイカなどなど欲するならばいつでも手に入るような物質的な段階に到っている。こういう今までにない未踏の段階で、今までの「食べ物を粗末にしてはいけない」などの飢餓段階での感受や考えや倫理で現在の人々の自然な行動を批判したり否定するのは無効ではないだろうか。(吉本さんもこのようなことを述べていた)つまり、この新たな段階に到った状態の渦中から新たな倫理のようなものを新しく生み出していくほかないと思われる。

 ところで、この「イチゴを少しかじってポイ捨て」問題に対してわたしは、まずは、個々の問題としてなら他人を身体的に傷つけたりするわけでもないしどうでもいいやと思う。イチゴ農園の人々がそのことに精神的な傷を感じたとするなら、これはさきほどの「食べ放題」という運営側の問題とも関わってくる問題でことはそんなに単純ではない。それらの先に、自分ならそうはしないかもしれないというわたしの感じる異和のようなものがあるように感じる。ここから今までの飢餓段階での感受や考えや倫理の残滓を取り除いても残るものがありそうに思う。これは何だろうか。

 例えば、自然(十分甘くないイチゴ)を粗末に扱うことは、先に述べた食品や農産物の価値評価の現在的な水準と無縁ではないけれど、一応独立した問題として考えることができそうに見える。自然(十分甘くないイチゴ)を無意識的な価値序列の視線で眺め、粗末に扱うことは、そのようなことをくり返していくならば、その反作用として人間(自分)を粗末に扱うことにつながる。例えば、企業の経営者が、個々の労働者ゆえに会社の経営があるとは見えずに、個々の労働者を粗末な待遇・処遇しかしないならば、その経営者の精神は、元々を含めてさらに粗末な人間認識を強化していくことになるだろう。わたしの微かな異和のようなものは、そのような未知の場を追い求めているように思う。

 たしかに、小さいリンゴより大きめのおいしいリンゴは値段もより高い。また、わたしの行き付けのスーパーで180から200円台するような大きさのリンゴを時々98円で安売りしている。しかし、よく見ると形が少し歪んでいたりなどしている。ああ、なるほどと納得する。現在のところ、こうしたことにわたしたちの自然な感覚や感受は異論を持たない。しかし、このようなわたしたちの現在の感覚や意識の自然性を含めて、このささいな「イチゴの先だけを食べてポイ捨て」問題は、未だおぼろげにも形成すことはできないとしても、現在から未来へ向かう人や社会の有り様として、じっくり考えなくてはいけないような大きな問題を含んでいるように思う。

   (2016/03/30のツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)

 






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 表現の現在―ささいに見える問題から⑫
  -補註3 (吉本隆明「カール・マルクス」に触れ)

 ※これで「補註」は終りです。


 ここで、わたしたちの現在に戻ってくれば、わたしたちの現在は次のような自然に対する関わり合いやその意識が大きく変貌している段階に突入しているのではないかという問題がある。当然のこととしてこのことが作者とその言葉を介して生み出される芸術作品の表現にも影響を与え浸透しているものと考えられる。

 この今までにない時代の変貌は、世代によっても感じ方や捉え方が違うように思う。若い世代はその変貌を割と自然なものと感じているかもしれないし、わたしのような老年に近づいた世代なら前段階と比べることによってその変貌の徴候を見つけ出しやすいということがあるかもしれない。わたしたちの世代なら小さい頃の見聞きした体験からすれば、まだ「百年前の日本」の風景にあんまり異和を感じなかっただろう。そして、成長するに従ってそれとの連続性をどんどん離脱していったという感じを持っている。それは「高度経済成長期」に当たっていたと思う。いずれにしても、現実の渦中にあっては人はいろんな異和があったとしても少しずつ変化に慣れていって、それらを自然なものと化していく存在であるから、変貌の進行になかなか気づきにくい。しかし、それらがある程度積み重なってきた段階で、後振り返ってみると社会が大きく変貌していたということわかって愕然とすることがある。



しかし、わたしのかんがえでは、人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの<自然>哲学は改訂を必要としている。つまり、農村が完全に絶滅したところでは。
 たとえば、現在、アメリカでは、もっともそれに近づいており、ソ連、日本、ドイツ、フランスではそれにおくればせている。中国ではやっと都市と農村との分離がもんだいになり、農本主義を修正する段階にせまられている。現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖とその自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい。
 (「カール・マルクス」P191 吉本隆明全著作集12 思想家論 勁草書房)




 この「カール・マルクス」は、巻末「解題」によると、今から、50年ほど前の昭和三十九年(1964年)に発表されている。わたしが学生時代にこの引用部分に出会ったとき、吉本さんはこの世界における人と世界との関わり合いとその行く末をそこまで見通しているのか、と深い衝撃と感動を味わったのを覚えている。

 さて、そこから50年ほど経っている。わたしたちの現在では、すでに「このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。」という段階に到っていると思う。わたしたちはその渦中に生きている。例えば、キュウリやトマトが年中あって従来のそれらのイメージとは違ってきているとか、銀行などの対面でのお金の出し入れや送金等だったのが、機械装置やネットワークを介して行うようになってきているとか、徴候はいろんなところから引き出すことができる。ここでは、前回利用した政府統計で、「産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年)」を利用して、 産業社会の変貌を確認しておきたい。

 ここには表として挙げないが、その政府の統計の、各産業の「就業者数及び割合の推移」(大正9年~平成22年)というのは、産業の従事者数であって産業の規模そのものではないだろうが、その時代的な推移は、各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の社会に占める割合に対応していると見なすことができる。

 各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の従事者の割合。
1.「都市と農村問題」が切実だった戦前(大正9年)では
  (54.9、20.9、24.2)

2.上記の吉本さんの「「カール・マルクス」」が書かれた頃(昭和40年)では
  (24.7、31.5、43.7)

3.現在に近い時期(平成22年)では
  (4.2、25.2、70.6)

資料
表8-1 男女,産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年) (www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/final/pdf/01-08.pdf)より


 この統計データによると、わが国では農村が縮小して均質化された都市の中に小さく収まってしまったイメージが得られる。もちろん、わが国でも農業は相変わらず存在するし、昔と余り変わらない農業の形態もあれば、機械化が十分進んでいる形態もあるだろう。また、それらの一方に例えばネットやパソコンによる農の制御や管理、あるいは「植物工場」など高度化してきている農業の形態もある。しかし、上の統計データでわかるように、社会内では農業は存在しても「農村が完全に絶滅したところ」に近いと見なすことができる。

 わたしたちは、一次的な自然との関係から一段高度化した自然との関係という新たな社会の段階に到っている。この社会のあらゆる問題群の現象が象徴するのは、この社会のあらゆる分野でこのような現在的な問題を検討することをわたしたちは促されているということだろう。

 吉本さんが、若い世代の現在の詩について、自然というものがない、それらは「無だ」というようなことを述べていたことがある。(『日本語のゆくえ』2008年) おそらく以上のような社会の大きな変貌の現在を生きる、わたしたちの感性や意識の現在的な自然性とそれらの内省とが表現の世界でも促されているということであると思う。






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 覚書2016.4.29―芸術から


 大きな時間の流れの中、芸術というものが、その始まりの太古からその本質をくり返しながら姿形を変えて複雑になって、現在の迷路のような芸術の姿があると見なして考えてみる。


 現在では芸術は、美術、音楽、舞踊、演劇、映画、文学など各分野に分かれ、さらにそれぞれの中でも、例えば文学の中に大別して詩と小説があり、その中でもさらに詩には短歌・俳句・自由詩などがあるというように、限りなく細分化の道を歩いてきている。(これは芸術以外の全ての分野にも当てはまる)したがって、わたしたちは深く関心を持っていない分野に関しては、入りこんで簡単に論評してみるというわけにはいかない。


 したがって、現在の芸術の渦中から見渡せば、世界はそれぞれに専門化された近寄りがたい迷路のような構築物に見える。しかし、始まりの芸術は、太古の壁画や太古から受け継がれたような音楽・舞踊などを見たりすると、おそらく各分野に分かれることなく融合的であったはずである。


 それに、人類の生み出し積み重ね来た本流の底流に流れているのは、割とシンプルな欲求や願望として取り出すことができそうに思う。それが時代時代によって神話に向かい神を呼び寄せたりする意識や世界に対する祈りや信や願望など様々に姿形を変えてきていたとしてもである。


 その底流に流れる、芸術の起源の太古から現在まで通して言える芸術の本質は、この短い生涯という時間としても限られた世界で、個や他人との関係的な世界でよりよく生きようという意志の表現だと思う。現在の言葉で言えば、それは少し概念的すぎるけど自由(美)と言えるかもしれない。このように、わたしたちは芸術なら芸術の本質としてはだれでも取り上げ、論じることができると思われる。


 現在は芸術でも迷路の果てまで来ているように見えるけれど、人間は大きな歴史の段階で考えれば、ある方向に突き進んでは内省し、また包括的に本質を捉え返すというようなことをくり返してきているのかもしれない。そうして、現在はその捉え返しの時期に当たっているように見える。このことは、芸術に限らず政治や経済でもそうであり、あらゆる分野について言えることだと思う。


 ところで、芸術に関して補足すれば、芸術の表現でこれでもかというほど登場人物の悪(業)が描かれるということがある。先に述べた「自由(美)」ということには当てはまらないように見えるが、作品の表現がその深みにおいて志向するのは、意識的あるいは無意識的な自由への欲求と見なせるだろう。つまり、人間の負性を徹底的に追究する過程には自由への欲求が潜在していると見なせるように思う。


 また、太古から現在の方へ、生活意識として個の意識が先鋭化してきている(一方に、公が大事という復古イデオロギーも存在するが、わかりやすく言えば、それは自分中心ということ)のと呼応するように、芸術は個の意識が中心を占めるように変貌してきた。芸術表現は現在では個の内面世界に終始するようになって、そこでの解放感の獲得ということが大きな動機に見える。しかし、作者たちもまたわたしたちが生きるこの社会と無縁であるわけではない。社会の方に引き寄せてみれば、芸術表現の作者たちは、生き呼吸するこの社会をその秩序意識のようなものとして感受し、意識的あるいは無意識的にそれらへの親和や異和を作品中に散りばめているはずである。おそらくは生き難さの孤独な表現を通して、ひそかな結合手をわたしたち読者(観客)の方に伸ばしていると言えるかもしれない。

  (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)

 






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 表現の現在―ささいに見える問題から⑳ (よくわからないということ①)


 芸術にも他の分野同様に、言葉、映像、ダンス、美術など様々な形式がある。それぞれの形式は、さらに細分化された形式を持っている。しかし、表現の形式は違ってもそれらを貫く表現のモチーフなぜ人は表現するかは、人間的な表現の持つ特質として共通しているように見える。普通、芸術表現をする人々はこのようなことを直接問うことなく表現の階梯を上り詰めていく。そのような問いは、簡単には答えにくい、よくわからない問題に属するものである。しかし、それは人間の始まりや芸術の始まりからの普遍的なものとして取り出すことはできそうに思われる。芸術に限らず、科学でも医学でも政治でも、このような表現する行為自体を内省するのは〈批評〉という行為であり、批評の言葉である。

 芸術的な表現の世界に入りこんでいる人の場合は、書き記す過程で現在までの積み重ねられてきた表現の歴史を踏まえつつ、現在を日々生きていることから寄せて来る新たな感動や美の表現を、ということはとてもしっくりくる深い感動や美を追い求めていくことになる。そこでは、現在に対する異和もあればしっくりくることもあり、誰もがおおそうだねと感じ思うような表現上の工夫をすることになる。例えば、明治の与謝野晶子の歌集『みだれ髪』や昭和の終わり頃の俵万智の歌集『サラダ記念日』は、ともにその表現の新しさで、こんな表現ができるんだという衝撃と感動を読者に与えた。もちろん、反発する人々もいただろう。ともに古びた硬直した短歌表現の世界に、前者は若い女性のエロスの開放を、後者は街角に普通に飛び交う言葉を、短歌表現として導き入れた。このように、時には表現の水準の転換や押し上げに大きく貢献する表現者もいる。しかし、注意しなくてはならないのは、そのような表現者の背後には、大多数の普通の人々が、それらの芸術表現と同質の感受や意識を割と無意識的に日々働かせている世界があり、表現者たちはそれを自覚的に汲み上げて文学的な表現によってかたち成しただけだと見なすこともできる。

 ところで、具体的な表現で、「桜の花が咲いていました。」と書き記されたとする。その書き記す以前に、作者の沈黙の内に言葉で感じ考えられるだけの状態がまず考えられる。わたしたちの日常ではそれで終わる場合も多々あるが、語ったり、書き記したりする場合がある。そうしたことは、普通の人々も表現者も一見無意識的なように成しているが、自分が感じたある感動のようなものに向き合い取り出し吟味したり、あるいはそれと同時にそのような感動のようなものを他者と分かち合いたいという動機も潜在しているように思われる。

 沈黙の内の言葉から「桜の花が咲いていました。」へとありふれて書き表されていたとしても、この表現には、実際目にした体験か想像かに関わらず、作者が、(桜)(の)(花)(が)(咲い)(て)(いまし)(た)(。)という時間に添って対象を認識・把握しながら言葉の選択と構成を成し遂げていくという複雑な過程を含んでいる。それは誰でも自然なものとして成し遂げているように見えるけれども、そういう言葉や表現は家族や学校などを通して獲得されてきたものの現在の姿としてあるのであり、また、沈黙の内の言葉のイメージとその有り様は、言葉への表現の過程を踏んでいくとき、いろんな変容や形を付与されていくことになる。

 つまり、作者が沈黙の内の言葉のイメージとその有り様からあるモチーフを抱いて言葉の表現の世界に出立していくとき、沈黙の内の言葉のイメージとその有り様は形を与えられていき、その過程で作者はある深い情感やイメージを絶えず生み出しつつ自らもそれを味わっていくのである。それは精神的な生産=消費という同時的な心から精神に渡る活動であると言い換えることもできる。そしてそういう精神的な生産=消費の活動は誰もが日々行っていることでもある。

 作者のこの言葉への表現の過程に何らかの形で参与しているのは、作者が生まれ育ってきた現在の世界(社会)、その中で育まれた作者固有の世界、そして言葉を形ある表現として生み出す仲立ちとなる積み重ねられてきた表現の世界である。作者は意識的あるいは無意識的にそれらを行き来しながら作品の言葉として織り上げていくのである。

 作者と作品を中心に持ってくると作品を生み出す主体は作者でありその作者の固有性が問題となるが、時代や社会が中心に来るようにして作品を見れば吉本さんの『マス・イメージ論』のような時代や社会のマス・イメージが作者に作品を書かせているというような像になる。批評の視線にもこのようないろんな位相があり得るが、いずれにしても表現された言葉に内省を加えているということでは同一である。

 作者によって生み出された作品を前にして、わたしたちがなぜ人は表現をするのかというようなよくわからない内省的な問いを発するとき、おそらくその作品という言葉の海に微かに浸透していたり、深みに沈んでいたりする、その問いに対応する破片のようなものが作品にはあるように思う。こういうよくわからない問いを携えて作品を読むのは、〈批評〉と言う行為であり、批評の言葉であると言うことができる。言い換えれば、内省としての言葉である。

 






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 表現の現在―ささいに見える問題から⑳ (よくわからないということ②)


 読者として言葉で表現される文学の具体的な作品の中に下りていくと、またいろんなわかりにくさも待ち構えている。短くはない言葉の表現である詩でも場面や情景が捉えにくい場合が多くあり得るけれども、短詩型文学と言われる川柳や俳句や短歌などの短い言葉による表現に焦点を当てると、読者から見たらその言葉の短さゆえに言葉の指示性が十分に尽くせないからどうしても場面や情景が捉えにくい場合に多く出くわすことになる。作者の側から見たら場面や情景の説明的なものが極度に削られたり、ある中枢的な場面が直接に指示されたりもする。


1.中国が東にあればと思う空
  (「万能川柳」2016年3月15日 毎日新聞)

2.春霞実はPM2・5
  (「同上」2016年5月10日)

3.上階に布団叩きの好きな人

4.他人(ひと)の孫まあかわいいと言いはする
  (「同上」2016年3月8日 )

5.妻の呼ぶ声の調子で解る事
  (「同上」2016年4月24日 )



 1.の作品を最初に読んだ時、何のことを指示しているのかまったく意味がわからなかった。しばらく考え考えしていたら、ふと思い付いてしまった。中国の大気汚染物質であるPM2・5と呼ばれているものが黄砂と共に中国大陸から気流に乗ってこの日本列島にも押し寄せてきているらしいということが近年わたしたちにもわかったが、そのことを指している。空を見ていたら、もし中国大陸が日本列島の東側にあればこの日本列島にPM2・5が押し寄せることもなくこんな嫌な目に遭わなくても良いのに。しかし、現実にはどうしようもないから困ったものだという作品である。「空を見ていたら」と作品をたどったけれども、作者としては何を指し示しているかを示すために、あるいは読者の理解の助けとして「空」という言葉を選択したのかもしれない。しかし、わかりにくかった。これに対して、2.の場合は、いい感じの春霞と思いきや、なんと迷惑な「PM2・5」だったとその理由が指示されているから理解に迷うことはない。

 柳田国男がまとめた『遠野物語』の世界にある、村に伝承され流行しているような共同幻想(集団的な共通のイメージや観念)は現在と比べたらそうたいして多くはない。現在の文化や趣味やあらゆることが細分化された社会では、膨大な情報の中から社会に目立ったって浮上してきたとしても、それは次から次に泡のように現れては消えていくから、それらのすべてについてわたしたちが知っているとは限らない。わたしたちの現在の共同幻想では、わたしたちは膨大な情報に囲まれており、その情報の海を日々泳ぎきらなくてはいけない、ということがありそうに思える。そして、そのような日々の泳法に愉楽を味わうこともあれば、疑念を感じ続けることもあるはずである。こういう状況で、例えば「PM2・5」の情報を知っていないと理解できない作品もあり得るということになる。そういうすぐに消えていく泡のような流行(情報)を作品に取り込んだ場合は、作品の寿命もそんなに長くないような気がする。

3.の作品は、言葉の意味は、「おそらくマンションの上階に布団叩きの好きな人が居る」という風に一読で誰でもたどれると思われる。そこから、それがどうしたのかという問題になる。まず、「上階に」とあるから、作中の「わたし」は、アパートかマンションに住んでいる。その上の階の人(女性であろうか)が、天気のよい日にはベランダに布団を干して布団叩きをする。「布団叩きの好きな人」というのは、どこにも非難がましい言葉があるわけではないが、「わたし」の感受を言葉に乗せたものである。つまり、「わたし」はその布団叩きから出る埃が上の階から降ってくるので、毎回嫌な思いをしているのである。したがって、その言葉は非難の気持ちからの皮肉である。どこにもそのようになことは明確に言葉に書かれてはいないけれど、作品の言葉全体からそのことははっきりと滲み出してくる。

 4.の作品は、自分の孫はとてもかわいくてたまらないけれども、他人の孫はそこまでかわいいとは思えないなあという意味。これを音数は無視して中性的な表現に直せば、「他人(ひと)の孫をかわいいと言う」となる。この作品の場合この中性的な表現に、「まあ」とか「は」という自己表出性の高い言葉が付加されることによって、作中の私の微妙な感情表現を表していることになる。これが、語られる場合で抑制的でないならば、言葉では「かわいいですね」と言ったとしても、顔の表情は「まあ」とか「は」という言葉が付加されたような表情を垣間見せることになる。このような作品の場合も、語られる場合も、たぶん誰でもその表現を理解できると思われる。

 5.は、何のこと言っているのと疑問に思う人はあまりいないと思われる。「妻」が「わたし」を呼んでいるのだが、その声の調子で「妻」の機嫌の良し悪しがわかるということを表現している。

 わたしには、作品の言葉の理解において普通一般より少し劣るのではないかという自己認識・自己評価があるけれども、この1.から5.の作品はわたしでもよくわかる作品になっている。どこにも対象に対する直接的な批判や嫌悪が表現されているわけではないのに、日常の生活で他人の表情の意味を大体において誰もが理解することができるのと同じように、これらの作品を読み味わい理解することができる。

 このことは何を意味しているのだろうか。わたしたちが、世間話程度であれ語られる他人の言葉を全重量において受けとめようとする時、わたしたちはその読解に生い立ちからの時間の年輪のすべてを無意識の内に総動員しているはずである。そして、そこには相手がはっきりと言葉にしなくても相手の心がわかる、察知できるという、全ての人の基層にある乳胎児期の母―子のコミュニケーション(註.吉本さんによれば、言葉に拠らない「内コミュニケーション」)体験の蓄積がある。話し言葉や書き言葉の表現で、単にある情報や知識を知らないという場合ではなく、表現を理解しようとする場合に、わたしたちの「内コミュニケーション」の経験の蓄積が大人になっても発動されていることによって、よくわからないという状態から言外の意味までも察知して理解することができる状態に入り込めることになる。したがって、乳胎児期にあまり良い母―子のコミュニケーション関係でなかった場合には、察知もうまく働かずによくわからないということが普通以上にあり得るかもしれない。

 






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 日々いろいろ―音楽についてのきれぎれの感想


 音楽について素人のわたしによくわからないこと


 学生の頃、体育祭のフォークダンスで踊ったことがあるが、そのフォークダンスの「マイム・マイム」の歌はどこか物悲しい旋律を感じた覚えがある。調べてみると、イスラエルの歌で喜びを歌ったものらしい。これはわたしの誤読(誤った鑑賞)なのか?それとも楽曲の旋律や演奏する楽器やらが派生させているのか?

 あるいはまた、一時期、ポリネシア人や私たち列島人は、虫の音を雑音として聴く欧米人と違って、虫の音も左脳の言語脳で聞くという角田忠信の右脳左脳問題が提示されたような、感じ取る地域性(イスラエル地域と日本)の差異がもたらす誤解なのか?素人の私には、それらのいずれかであるか、あるいはそれら以外のものなのか、よくわからない。

 NHKの番組「0655」や「2355」で最近放送されている「ご当地再発見ソング」という歌+映像がある。恋の破局を迎えた若い男女が、別れていく場面である。女性と別れた男が、この豊橋という町とももうお別れだからと少し歩いていると、「豊橋」(とよばし)という橋に出くわすという話。そんな名前の橋があったのかという発見と驚きをユーモラスに表現している。

 わたしはこの歌が気に入っているのだけれど、これを聴くと微妙な感じで悲しい感情が湧いてくる。先の「マイム・マイム」の歌と違って、この歌は前半は失恋の歌だからその様に歌われていて、悲しいという感情を喚起させる。しかし、後半は、「ご当地再発見ソング」でユーモラスである。

 小さい子どもには、泣き笑いということがある。悲しくて泣いていても、何かの拍子に笑い出すということがある。この『さらば、豊橋』の歌もそんな泣き笑いのような感情を生起させる歌のように感じる。わたしは言葉の批評でさえまだ十分な力ないが、音楽は批評したくてもちょっと圏外という位置にあり難しすぎる。吉本さんが『言語にとって美とはなにか』で表現された言葉を〈指示表出〉と〈自己表出〉という二つの基本ベクトルの合成として解明したように、できれば人の生み出すあらゆる表現を同一の地平で批評できるようになりたいという願望だけはあるのだけれど。

 ところで、『さらば、豊橋』という歌は、悲しみと笑いの二重化した歌である。これと似たものとして、テレビコマーシャルの世界を思い浮かべた。テレビコマーシャルも面白みや味わいの芸術性と共に、商品の宣伝ということ(これはゼロにはできない)の二重性を帯びている。

 2000年頃のテレビCMに、坂本龍一が横断歩道の上でピアノを演奏するという印象的な映像で話題のリゲインのCMがある。曲は、「energy flow 」。わたしは少しばかり車の運転が荒くて、たまたまその曲をかけたらいい感じだったで、車を運転するときはその曲をよく流している。するとなんとなく心落ち着く。そのテレビコマーシャルでは、この曲を疲れる現代人にというようなナレーションがある。リゲインについては薬効はよくわからないけれども、わたしが体験しているようにそのCM曲の「energy flow 」自体には心落ち着かせるものがある。したがって、「energy flow 」という曲自体が別に独立した作品としての意味や価値を持つのはもちろんであるが、そのテレビコマーシャルという場面では、曲が商品のCMに近づき、両者が現代人の疲れを取り心落ち着かせるという物語の中で、イメージ力を強化し合っていることになる。これは、音楽の作品が自立した作品としての意味や価値を持ちながら、テレビコマーシャルという場面では「癒やし」としての限定的なイメージ価値として表現されることがあるということであろう。しかし、テレビコマーシャルを観る人々の多くが、テレビコマーシャルということ自体を突き抜けてこの曲を音楽作品としても味わい、いいねえと評価したことになる。


註.
1.「マイム・マイム」
 https://www.youtube.com/watch?v=PqGvIMVvQB0
2.『さらば、豊橋』 うた:ロス・プリモス
 https://www.youtube.com/watch?v=ZObTRHq_PRA
3.『さらば、豊橋』のコピーできる歌詞を載せておられます。
(http://dante09.blog86.fc2.com/blog-entry-9108.html?sp より)
4.坂本龍一のリゲインのCM曲、「energy flow 」。
https://www.youtube.com/watch?v=i6qcNmJdFx4

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)

 






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  表現の現在―ささいに見える問題から 21 (語音の問題から)


 乳児が言葉を獲得していく初期の段階で発する言葉のようなもの、例えば「ばぶばぶ」などは「喃語」(なんご)と呼ばれている。それ以降でもまだ言葉を覚えたての小さい子どもがしゃべる言葉はよく聴き取れないことが多い。しかし、それがくり返されていくうちにわたしたちも小さい子の言葉に慣れていって、その言葉が何を指し示しているのかをわかるようになる。

 例えば、「いただきます」と普通表現される言葉を、小さい子どもが「いたーきまーす」と言ったとして、小さい子どもが食事する時の慣習という十分な認識の下にその言葉を発しているかどうかという問題はあり得るとしても、わたしたちは両者の言葉を同一だと見なしている。このようなことは小さい子どもの言葉に限らず、大人の世界でもある。文字で記されるとまったく同一に見える言葉の「はし」と「はし」でも、言葉として喋ってみるとアクセントやイントネーションの違いなどがある。わたしたちはそれらも同一だと見なしている。

 「あざーす」は、お笑い芸人が広め始めたらしいが、「ありがとうございます」の省略あるいは転訛の表現と言われている。日本語には省略表現が多いように感じるが、この場合は省略ではなく語音の縮退として転訛と見るべきだと思う。小さい子どもの言葉の「いたーきまーす」は、「いたーきまーす」=「いただきます」と同一と見なした。しかも、この「いたーきまーす」は小さい子どもの大人の模倣性を多分に含んだ自然な言葉の表現である。一方、「あざーす」も、「あざーす」=「ありがとうございます」で同一のことを指示しているが、小さい子どものように自然ではない、意識的な表現になっている。しかし、「あざーす」というこの意識的な語音の縮退には上記のような無意識的な幼児期の言葉の自然な経験が反芻されているのかもしれない。


 好きと言うかわりに月と言ってみる
         (「万能川柳」2016年01月21日 毎日新聞)



 この作品は、今まで触れてきたような語音の問題をモチーフとしている。この作品中の「わたし」が、好きな相手を今目の前にしているのか、いないのかは確定できないとしても、「好き」と言いたいところなのに「月」と言ってみたということである。相手には「好き」と伝わったか「月」と伝わったか、あるいは相手がよく区別できない「好き」と「月」の混合として伝わったか、はわからない。「わたし」の気持は、相手を「好き」という点で曖昧さはないのに「月」と言ったのは、「わたし」の恥じらいの消去までは行かないかもしれないが、恥じらいの感情の中和にはなっているのだろう。

 この作品の、スキ→ツキ→〈好き〉(月・好きの二重化)という表現は、「わたし」の恥じらいの感情の中和をもたらすだろうという作者のユーモラスな意識に支えられている。そして、この作品を形作る作者の表現の過程にも、作者の遙か幼児期の言葉の自然な経験が無意識的に反芻されているように思われる。

 最後にひと言付け加えれば、わたしたちは絶えず現在に当面して生きているけれど、このようにその現在には、〈起源〉からの積み重なりの経験がわたしたちのどこかに仕舞い込まれていて、現在の行動や表現に遙かなところからの色合いのように無意識的に付加されていると思われる。






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 この列島の意識の接続法について


 わたしたちが、この人間界で日々生きて活動しているということの中には、誰もが何らかのつながりの中に存在していて、関係の糸を伸ばしたり、つなげたり、切断したり、またあるときにはあいまいなつながりのままを許容したりなどというようにしている。この関係の接続法とも呼ぶべきものは、個々人によって固有性があり、違いがある。また、個々人のレベルを離れて、日本人の意識の接続法とでも呼ぶべきものも想定できそうだ。

 例えば、以前一度触れたことがあるが、この列島の至る所に無数の小野小町伝説が存在する。そのことは現実的に考えてあり得ない。それはなぜなのかということについて、柳田国男は答えている。この列島各地を移動して、説話を持ち運んだ語りの者がいて、自分が見た聞いた、あるいは小野小町になりきって語るなど一人称形式で語った。そのことから素朴な村々の聴衆は、語り手と小野小町を同一化することになり、列島各地に同じような小野小町の塚や伝説が残されることになったと分析している。語りが白熱してくると「語りの者」と「語る者」(一人称形式の小野小町であるわたし)が、「語りの者」本人にとっても観客にとっても同一化されていくのは容易に想像でる。無数の小野小町伝説の存在にふしぎに思うわたしたちにとって、説得力のある捉え方だと思う。

 この小野小町伝説の存在を事実か否かとして受けとめようとすれば、小野小町本人が列島をそんなにも広範囲に歩き回ったということはあり得ないことだから、事実ではない、虚偽であるということになるが、それで終わればこの伝説について何にもすくい取れないことになる。柳田国男の上の解は、事実か否かの判断領域を超えて現に存在する小野小町伝説を発掘してその存在の意味に照明を与えたことになる。

 また、山々を渡り歩いたという木地師が、何々天皇とのつながりをしたためた由緒書を持っているということがある。また、この列島各地のおそらく大多数の神社が、古事記に出て来る神々のいずれかとのつながりの伝説を持ち、その神を祭っている。この両者とも事実か否かで見れば、事実とは見えない。しかし、事実か否かの領域を超えて、木地師たちが「尊い存在」とのつながりの中にあるという彼らの意識は真実だろう。同様に、列島各地の神社の由来も事実か否かの領域を超えて、統一国家が集約しているレベルの神々とのつながりを付けようとしたという神社側からの意識は真実だろう。これらは、わかりやすく言えば、価値あるものと見なされているものにつながりを付けることによって、自分たちの存在や神社に箔を付けるという人や組織の悲しい習性を意味している。、

 伝説の中には、自分たちにつなぎとめられる相手は尊い存在であるというつながりの意識としては同一であっても、上記の小野小町伝説や木地師や神社のつながりを付けるやり方とは違った形の接続法によるものがある。これも事実レベルでは現実にあり得ないようなつながりを持っている。柳田国男が触れている。



 伝説の上では、空也上人よりもなお弘く日本国中をあるき廻って、もっとたくさんの清い泉を、村々の住民のために見つけてやった御大師(おだいし)様という人がありました。たいていの土地ではその御大師様を、高野の弘法大師のことだと思っていましたが、歴史の弘法大師は三十三の歳に、支那で仏法の修業をして帰って来てから、三十年の間に高野山を開き、むつかしい多くの書物を残し、また京都の人のために大切ないろいろの為事(しごと)をしていて、そう遠方まで旅行することのできなかった人であります。……中略……とにかく伝説の弘法大師は、どんな田舎の村にでもよく出かけました。その記念として残っている不思議話は、どれもこれも皆似ていますが、中でも数の多いのは今まで水のなかった土地に、美しくまた豊かなる清水を与えて行ったという話でありました。
(「日本の伝説」P180 『柳田國男全集25』ちくま文庫)


とにかく十一月二十三日の晩に国中の村々を巡り、小豆の粥をもって祭られていたのは、ただの人間の偉い人ではなかったのであります。それをわれわれの口の言葉で、ただだいし(「だいし」に傍点)様と呼んでいたのを、文字を知る人たちが弘法大師かと思っただけであります。
 だいし(「だいし」に傍点)はもし漢字を宛てるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおご(「おおご」に傍点)といって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音で呼ぶようになってからは、だんだんに神と尊い方のお子様の他には使わぬことになり、それも後にはたいし(「たいし」に傍点)といって、ほとんと聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。そういう古い言葉がまだ田舎には残っていたために、いつとなく仏教の大師と紛れることになったのですが、もともと神様のお子ということですから、気をつけて見ると大師らしくない話ばかり多いのであります。 (「同上」P194-195)




 この柳田国男の言葉の背後にはたくさんの民俗的な蒐集と比較検討があり、言葉はそれらに支えられている。素人のわたしたちがここで確認できるのは、この列島内のいろんな遺物や伝説に弘法大師や聖徳太子が関係づけられているけれど、現実的に考えてそのことは疑わしいということである。では、なぜそのようなことが起こったのか。「だいし様」というのが「神様のお子」だとして、それが「弘法大師」や「聖徳太子」と同一化して見なされるようになったのは語音の類似からと見なされている。背景としては、「だいし」という存在が人々の意識の中で次第に薄れてきているということと仏教の流入・浸透・流行がそれを支えたのだろう。

 ここで、柳田国男は何をしようとしているのだろう。この「日本の伝説」では十分に尽くされていないが、柳田国男は日本語というあいまいな言葉やイメージの森を探索しながら、埋もれてしまってはっきりした像を結ばないこの列島の〈尊い存在〉の発生やそれに対する列島民の処遇などの移り変わりを発掘しようとしている。いわばこの列島の精神史の真の姿を発掘しようとしている。

 しかし、上記のような横滑りや同一化がなされても、人々の意識の中での〈尊い存在〉という点では同一性が保持されている。こういう事情は、おそらくこの列島の人々の意識の古い層に保存されてきたずいぶん強固な根のようなものだという気がする。したがって、そのような心性や意識は現在のわたしたちの世界にまで続いてきているはずである。


 このわたしたちの意識の中での同一化に関係するものとして、最後に引用するが、吉本さんが「日本語の迷路」として取り上げている。従来からある和語と呼ばれる日本語(これ自体の像もはっきりしないけれど)を、初めは「漢字の音でもって置き換えていった」。その後表音と表意を併せ持つ漢字の表意性も付加したり、あるいは表意のイメージも受け取ったりとなっていって、日本語がよくわからない迷路に入り込んでしまったということ。柳田国男の指摘した、「だいし」→「弘法大師」、「たいし」→「聖徳大師」などは、まさしくこの吉本さんが指摘して「日本語の迷路」に起因している。

 わたしは、詩や短歌で普通漢字にすべき所を意図的にひらがなで書いたことがある。そうすると「ひらがなのA」という言葉は、「漢字のA」なのか「漢字のB」なのか、文脈上からも曖昧で決めかねるというもので、あいまいさを湧き立てる表現として使ったことがある。これは「日本語の迷路」を逆手に取ったものと言えるだろう。ただし、それが普通の表の風景であれば、この「日本語の迷路」は現在のわたしたちに到るこの列島人に日本語や日本文化について様々な誤解や誤読を生み出してきていることになる。



 それから、もうひとつの問題は、非常に、今度は、言語学上の問題になってしまうわけですけど、たとえば、日本語と、日本語周辺にある、たとえば、地域との言語年代的な比較をやると、そうすると、だいたい、どこにも類似の言葉がないっていうようなことが、現在のところでてきているところなんですけど。

 つまり、日本語と、なんらかのかたちで共通性があるらしいとみられうるのは、まず、琉球沖縄では、3,4千年くらい以前には、同じ祖語から分かれたであろうということが、おおよそ言えるということ、それから、もうひとつは、7千年から1万年くらいさかのぼりますと、日本語と朝鮮語っていうのが、あるいは、同じ祖語に、つまり、元の言葉にぶち当たるのではないかってことが、なんとなく言えそうだってところが、現在の言語年代的な到達点であるわけですけど。

しかし、考えてみまして、周辺の領地と、まったく関係のない、類推がきかないような言語っていうのは、言葉の本来的な性質からしてありえないのであって、もし、それだけのことしかいえない、つまり、日本語っていうのが、どこにも周辺に類推する基盤がない、あるいは、類似の言葉が見つからないってことは、どういうことを意味しているかっていうと、大変な誤解がどこかにあるに違いないと。

 その誤解の主な部分は、たとえば、漢字の音でもって置き換えていったと、それで、置き換えていきますと、はじめは、表音的っていいますか、音を借りるために、漢字を借りてきたわけですけど、終いには、それが年代を経ていきますと、漢字自体の一語一語に意味がそれぞれありますから、だんだん意味があるものとして、変わってきてしまうってことがありうるわけです。

 だから、たとえば、二番目のあれでいいますと、美奈の瀬河っていうふうにあるでしょ、そうすると、あの美奈っていう字を、みなさんご覧になりますと、なんとなく、きれいでおっとりしたっていいますか、そういう感じがするでしょ、つまり、そういう意味合いがあるみたいな感じがするでしょ、しかし、そこが迷路のはじまりでして、そんなことは、ぜんぜん関係ないのです。

 だから、それとおんなじことなんですけど、たとえば、水無瀬川っていう、水無しの瀬の川って書く、水無瀬川っていうのが、たとえば、京都のほうにいきますとありますけど、そうすると、なんか水があんまり無くて、川の瀬がいっぱいでているっていうような、そういう印象を、自然に受けてしまうでしょう、しかし、そんなことは何の意味もないです。
そういうふう字をあてますと、ひとりでに、字が意味をあたえてしまうってことで、変わってきてしまうのです。つまり、その種の迷路ってものは、日本語の古典語から振り分けたうえでないと、言語年代学的な比較というのはきかないということがあるのです。
 つまり、そういうことを、言語学者っていうのは、より分ける方法っていうものをつかまないかぎりは、やはり、日本語っていうのは、わりあいに、孤立語であると、つまり、周辺の領域に共通の言語っていうのはみつからない、あるいは、共通の祖語にいきあたるだろう、つまり、共通の元の言葉にいきあたるだろうっていうような言葉にいきつかないってことがでてくるのです。

 それは、そういうことは、たいへんおかしいことであって、そういうことは、本来的にいえば、ありえないことなんですけども、おそらくは、そのもとは、その種の、美奈瀬河っていうふうに、ああいう字を書けば、なんとなく美しいような、やさしいような川みたいな感じになります。それから、水の無い瀬の川っていうふうに書けば、なんか浅くて、川の瀬がいっぱいでているっていうふうな、そういう川っていうふうに、だんだん年代をくううちに、そういうふうに考えていってしまうっていうような、性質が漢字にはありますから、そういうふうにして、ぜんぜん、まったく違うものに変わってしまうってことが、違う意味に変わってしまうってことがあるのです。

 そういうことを、方法的に選り分けられなければ、おそらくは、言語年代学っていうのは、比較をやっても意味がないというふうに、ぼくには思われます。それが、おそらく、日本語を、たとえば、非常に孤立語だっていうふうに思わせてくる、非常に重要なポイントだっていうふうに思われます。

(「(講演A023) 詩的喩の起源について」5.日本語の迷路 吉本隆明 1971年)
http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a023.html
 ※読みやすいように、段落間を一行空けました。

 






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 日々いろいろ―普段着で 国家と生活者について

 (この列島の遺伝子を持つ生活者から見て、わりと普段着で国家について。)


 西欧近代由来では、人間は自然状態は人々が互いの利益を露骨に主張し合う〈悪〉そのものだから、社会内の種々の利害の調停機関が必要であり、それが国家であると見なされている。それに加えて、現在的に見て国家は外に向いては、国々の個別利害を中心に携えながら世界中に通じる普遍的な利害にもいくらか貢献する〈外交〉というものを他の国家に対して行っている。

 この世界には、アイヌや琉球王朝以前までの南島など国家を生み出さないものもあったが、主流は国家形成に向かった。国家以前は、集落の宗教・行政組織があり、それは集落のよりよい生活のためだったのは疑いない。わが列島での統一的な国家の形成は、産業としては富の蓄積が可能となった農耕社会が本格的な段階になってきた古代に当たっている。

 しかし、わが列島の歴史を眺めてみれば、現実の組織としても、一般民衆から見た国家への距離感や意識としても、国家とはわたしたち生活者住民とはあまりにもかけ離れた遠い存在であった。ちょうど中国の「鼓腹撃壌」(こふくげきじょう)の老人の次の言葉(意識)のように。 

 「日が昇ったら仕事をし、日が沈んだら休む。井戸を掘っては水の飲み、畑を耕しては食事をする。帝の力なぞ、どうして私たちに関係があろうか、いやない。」(「鼓腹撃壌」) この言葉は、今なおアジア的な遺制の遺伝子を持つわたしにも親しい言葉に感じる。
 
 日々の小さなことに終始して生きるわたしたち多数の生活者住民に対して、政治意識を持った人々や政治や文化上層にいると自認している人々は、意識が低いとか政治意識がないとか批判的に言うのが今もある。おそらく官僚層や政治家たちの意識にもそれが今なお大きく残留しているだろう。しかし、それは支配上層の大いなる誤解による横着にすぎない。歴史の起源から照らし出せば、集落の行政も国家もその住民の代行に過ぎないのだから。だから、わたしには、この老人の言葉が理想的に見える。

 たぶん西欧諸国と比べて、あるいは東南アジア諸国と比べて、様々な社会的に不当なことがあってもわが列島の住民たちはめったに大暴れしない。無用な血が流されないのはいいことではある。しかし、このことにわたし自身も含めてそれではダメだなとも思うが、つまり自己主張は、あいまいさに流すことなくもっとはっきりきちんとすべきと思っている。

 しかし一方で、わが列島の住民たちの「帝の力なぞ、どうして私たちに関係があろうか、いやない。」という国家や政治や権力への歴史的な遠い距離感を背景とした有り様こそが、その存在の総体こそが、その全重量において、国家や政治や権力への無意識的な批判になっているはずだ。と言っても、歴史のある段階で生み出されたものに過ぎない〈天皇〉や〈(象徴)天皇制〉も、わが列島の住民たちの多数の尊重の意識によって支えられている。わたしは、真の〈平等〉という理想、それへの大きなきっかけとして天皇一族は気楽な普通の住民になるのが望ましいと思っている。つまり、現在のあいまいな象徴天皇制は廃止すべきだと思う。しかし、これは農村の死滅と対応するように今後もさらにゆっくりと薄れていくに違いない。親しい他人でもなく、いろんな意図を背後に秘めた行政や国家の役人などでもなく、大災害時におけるあの無私にも見える天皇の現地での振る舞いは人々に無上のものと思われているに違いないということはわかる。したがって、現在の〈象徴天皇制〉の行く末を決めるのは、大多数の住民たちの〈天皇〉に対する尊重の意識の消長にかかっている。これは流れに任せればいいと思う。

 明治期そして敗戦後の二度にわたる西欧化の大波を受けて、わが列島住民の表面的な意識ずいぶん変わってきている。しかし、意識の根っこにある部分は何千年にも及ぶ年輪を持つもので、根強くわたしたちの社会意識や政治意識を規制しているように見える。それは国家や政治や権力に背を向けて生きるわたしたち生活者という有り様である。もちろん、この根強い遺伝子が〈批評性〉を獲得しなければ、またわあっと戦争体制に組み込まれるようなこともあり得るわけである。また、現在の消費社会では私たち生活者はGNPの6割を占める家計消費という経済的な力を知らぬ間に持たされてしまい、その家計消費を控えることで政権や政治批判することができしかも政権を打ち倒す経済的な力を手にしてしまったが、この力を自覚的に行使し得るようになるのは、まだまだ未来のことに属しているのかもしれない。そして、わたしたち生活者住民が、〈批評性〉を獲得するということは、政治の世界で例えれば、外力のアメリカ頼みやアメリカすがりつきを止めて、自立した個人として自分の頭と力で判断し行動することという単純な原則に過ぎない。

 国家は、外交において二重のことをなしている。中国や北朝鮮のあれこれを指摘したり批判したりするとき、一方でそれらの国の方に国家の顔や意識として向けつつも、もう一方ではそのことを国内社会のコントロールや支配に利用しようとする、国内に向かう顔や意識も持っている。

 その尻馬に乗って嫌中嫌韓などのイデオロギーに憑かれている人々もいる。したがって、わたしたち生活者住民としては、国家の尻馬に乗らないためにも、無用な対立を避けるためにも、さらにもっと本質的には〈生活者住民〉という生活世界を離脱しないためにも、考えたりするのはいいけど、生活者としては国外のことは一切語らない論争しないという留保が必要だと思う。そうでないと、イデオロギーを交えた不毛な対立にしかならない。

 国内問題こそすべてだ、として町内会の話し合いのように論争はなされるべきだと思う。きみはこの列島住民全体の幸福を願ってそれを提案しているのか?ごく一部の人々の利害のために詭弁を弄しているのではないか?などなど。外力を頼むことも外力に逃げることもできない中で、一昔前の中流意識花盛りの頃から暗転した現下のこの荒れ果てた社会状況で、その再生のイメージが、この社会に属する住民たちの平等な権利として、語られなくてはならないと思う。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)

 






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 表現の現在―ささいに見える問題から 22 (人類の言葉以前の痕跡)


 現在の私たち大人に流通する言葉を、言葉以前の乳胎児期の母 ― 子のコミュニケーション(註.吉本さんによれば、言葉に拠らない「内コミュニケーション」)体験に対応させたり(「表現の現在―ささいに見える問題から 20」)、言葉の発祥期に関係づけたり(「表現の現在―ささいに見える問題から 21」(語音の問題から))、試みてみた。いずれに関しても、個の遠い遙かな発生期の時間が個の中に保存されていて、いまだその発動の機構は不明だとしても、表現において発動されてくるものと見なした。

 ここで考えてみたいのは、人が人類として言葉(言葉のようなもの)を獲得して登場する初期やそれ以前の人の遙かな時間についてである。


 言い方で載ったとわかるらしい妻
         (「万能川柳」2016年06月20日 毎日新聞)


 この作品は、夫である作者が妻と何か話していたら、「自分の作品が新聞に載ったよ」と言わないのに、その「言い方」で夫の作品が新聞に載ったんだなと察知できたという内容だろう。顔の表情や言葉のふんいきやあるいは以前にもそういうことがあって、察知できたのであろう。これをもっと突き詰めて純化していったのが恐らく「霊能者」という人々の感応・察知の世界だ。現在では、「霊能者」のような鋭い感能力や察知力は大多数の人々は持てなくなっていて、それらを非科学的と一蹴する「科学的」という見方もある。しかし、もう現在ではよくわからなくなってしまっているが、遙かな太古にはそのような自然の世界に鋭く感応したり、輪廻転生ということを信じたり、死後の世界の実在を信じるという人類の段階があったことは確かである。そして、その世界イメージは、当時にあってはわたしたちの現在と同様に自然なものだったはずである。

 現在でもそれに類する世界イメージや世界観の内にわたしたちは存在しているが、太古のそれとは断絶した異質な世界になってしまっている。このことは、太古の〈科学〉(知見)が迷妄に近いということを現在までの〈科学〉が明らかにして分かってきたせいでもあり、また産業社会の高度化と対応して脳が中心化してきた考え方のせいでもある。しかし、それでもなおわたしたちの心の深層には、太古の世界観の残骸が保存されているように見える。さらに、迷妄ではないかと見なす太古の科学を現在の科学から新たに捉え直す可能性もあるように思われる。

 ところで、この作品に見られる言葉以前の察知のようなものを、個の誕生からの時間で言えば前に追究した「乳胎児期の母―子のコミュニケーション」に対応付けられが、個の時間との対応付けをしないならば、人が人類として言葉(言葉のようなもの)を獲得して登場する初期やそれ以前の人の遙かな時間と対応付けるほかないだろう。

 つまり、人は途方もない時間をかけて言葉を獲得するようになる以前には、これまた途方もない時間を植物生や動物生として触手を働かせ合って感応し、察知し合う世界を生きていたのだろうと想像する。そうしてそれは、胎児が母親の胎内で成長していく過程で、最初は魚類、そして両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類へと人類の進化の過程を短時間で反復するように形を変えていくと三木成夫が明らかにしたことと対応して、私たちの心の深層には人類の初期やそこに到る言葉以前の遙かな道程も保存されていると言えそうに思われる。それらの道程は、時間の規模において近代社会の数百年の道程と比べて比較を超絶している。ということは、現在の人類や個の基層部分を形成していると言えると思う。しかも、それは現在的に発動され続けている。

 






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 日々いろいろ―コマーシャルあふれる社会


 現在というものは、わたしたちが絶えず当面し続ける現実である。そこには諸矛盾とともにわたしたちにとってある自然さを併せ持っている。わたしたちは、現在の中に立ち現れる風物に見慣れた光景だという自然さの感覚を持つと思われるが、ふと不可解な思いや異和感を持つこともあるかもしれない。

 わたしの小さい頃は、道路はほとんど土の道や砂利道で、車も少なく信号機もなく、家の照明は薄暗い裸電球で、夜になると外はほぼ真っ暗な世界だった。それらのわたしの過去の自然さの感覚と現在の風景を引き比べると、当然いろんな思いが湧いてくる。わたしの場合、過去への哀惜はあんまりなくて、ああこんな風に人の世界は推移していくのだなという思いで受けとめている。このような現在に対する感覚を大まかな傾向性として捉える場合、この世界で生きてきた経験の違い、つまり世代によってもその感覚は違うはずである。

 わたしがこの文章を書くきっかけとなったのは、最近はテレビでは以前にもましてコマーシャルが多くなり、うるさいなあとうんざりしていることがあるからだ。もちろん、現在のコマーシャルは単に商品の宣伝ではなく芸術性のようなものもあって気に入るコマーシャルというものもある。うんざりという面では、テレビドラマなどはしつこいコマーシャル避けのためにも録画して観ることが多い。

 現在では雑誌や新聞やテレビ、そして中・大都市の街中の電光掲示板など、コマーシャルが満ちあふれている。単純化すれば、コマーシャルの目的は明白である。企業がその商品(物やサービス)を消費者に買ってもらえるように働きかける宣伝活動である。したがって、それは誘惑の構造を必ず秘めている。わたしたちはいくら商品の宣伝をされても、それを購入しなければその特定の商品の「消費者」とはならない。つまり、ある特定のコマーシャルに対する拒否権を持っている。けれども、二昔前と違って、生活するための食や物や道具など自給性がほとんど絶たれた消費社会の現在では、わたしたちは消費者としてそれらの物やサービスを店や会社から購入することによって生活を維持している。これは、逆に言えば、わたしたち生活者住民が必需消費を除く消費の選択権や加減権を持ってしまったと言い換えることもできる。ここから、現在の消費資本主義の段階では家計消費がGNPの6割を占めるということの意味をよくよく考えた吉本さんの考察、すなわちわたしたち普通の生活者が大きな経済的な力(権力)を持ってしまったという考察が導き出されてくる。

 企業は商品(物やサービス)を提供する。その商品が需要を喚起して買ってもらえないと企業活動は継続できない。ラジオやテレビのない時代の広告・宣伝は、町のあちこちの家の壁に看板を設置することでなされていた。しかし、これが現在のように消費者の需要を喚起するためのものであったかどうかはわからない。看板は軽いお知らせ程度で実質は具体的な営業活動だったのかもしれない。もっと具体的な消費喚起は、わたしの住む地域ではヒコーキからの宣伝文句やビラまきによってなされていた。いずれにしても、現在と違って生活の時間はゆったりと流れていた。たぶん、コマーシャルもその時間に対応したものだったと思う。宣伝広告のそんな牧歌的な有り様は、近世辺りから1960年代の高度経済成長期以前までの時代に当たっている。

 現在の宣伝広告は産業の1分野を占めるまでの自立性を持ったものとなっている。もちろん、現在でも町中の宣伝の看板やチンドン屋さんなど依然として旧来的なものも存在するが、主流ではマスコミというものが本格的に登場する以前の静的な広告看板と比べ、動的であり、歌あり映像ありドラマありと次元を異にするコマーシャル段階になっている。しかし、コマーシャルの形態や表現が大きく変貌してしまっても、コマーシャルの本質は現在も不変である。つまり、企業の商品(物やサービス)を消費者に買ってもらうことを目的としている。このことからコマーシャルは誘惑的なものを本質としている。あるいは、よく言われる言い方をすれば、コマーシャルは、消費者の欲望を喚起し、誘い出し、企業の商品と連結させる働きをしている。

 コマーシャルの観客に過ぎない素人のわたしが想像するに、ひとつのコマーシャルには、依頼主(企業)と作者たち(広告会社やコピーライター)と登場人物(俳優などの「有名人」あるいは普通の人)と裏方(映像や音楽や照明などの技術スタッフ)がいて、それはまるでひとつの小演劇の舞台を作り上げるようなものに見える。(しかし、映像処理や動画サイトやネットなどを媒介すれば、現在では素人でも一人か数人のスタッフで割と気楽に音楽や映像制作同様にそんなコマーシャルも作り上げることが可能かもしれない。)

 ところで、コマーシャルの表現がわたしたち観客に芸術表現に近い味わいをもたらすことがあるとしても、芸術作品と比べて違うのは、コマーシャルが総体として依頼主の商品を裏切れないということである。つまり、コマーシャルは、商品の直接の宣伝の表現であれ、ひと言企業名や商品名に触れるだけの芸術的な表現であれ、特定の商品にイメージ価値を付加して消費者を誘惑するという点は保持せざるを得ないのである。

 そして、コマーシャルという架空の舞台に立つ俳優などの有名人は、ただその商品のイメージ価値を高める仕事をしていることになる。ちょうど太古に巫女さんやシャーマンたちが〈神〉を呼び寄せたり対話したり言葉を捧げたりして、普通の人々が対面する〈神〉のイメージ価値を高めたように。

 したがって、そのコマーシャルを作る舞台やコマーシャルが流される世界から見て外の世界であっても、その出演した俳優が自らのイメージを壊すようなプライベートなことが社会的に知られたら、依頼主などから損害賠償を求められることもあるようだ。(最近んでは、ベッキーの件)

 一方、それとは非対称的に見えるが、コマーシャルの依頼主の企業がその商品などで問題や事件を起こした場合は、出演した俳優個人が自分のイメージ毀損として依頼主に損害賠償を求めるということはないようだ。こうした点も考えて、時々思い出したように考えてきたことだが、誘惑して問題を起こした商品のイメージ価値を高めることに加担したとしても、出演俳優個人には責任を求めることはできないと思われる。

 ただし、一部のプロスポーツ選手の給与やコマーシャルの巨額の報酬、そして企業トップの巨額の報酬というものに対しては、わたしは不可解な思いを持っている。しかし、これらは、先のコマーシャルにおける俳優の責任なしと言っても残るもやもや感と同じく、また現在のコマーシャルの有り様を含めて、現在の消費資本主義社会の内省的な表現の方向に未来性としてイメージし続ける他に解消することはできないように思われる。






92


 きゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」の歌を観て、聴いて。


 つい先日、なぜか急に「つけまつげの歌」の一部が耳に浮かんできた。そこで、歌い手や歌詞を検索してみたら、きゃりーぱみゅぱみゅの「つけまつける」という歌だった。ずいぶん前にテレビだったか二三度その歌の一部を耳にしたことがあった。語感とリズムがマッチして心地よいからか、耳に残りやすい歌に見える。YouTubeでこの歌を観た、聴いた。

 この歌の言葉としての中心をひと言に煮詰めると、下に引用した歌詞(註.)の4行目の「かわいいの つけまつける」である。もう少し詳しく中心部分として取り出すと、5行目から13行目の部分がそれに当たる。歌詞の構成としてみると、1行目から13行目までの三連が、次の三連で少し言葉として変奏されつつくり返されている。終わりの二連は、締めくくりの表現として「つけまつける」少女の心の喜びや解放感の表現に当たっている。全体として見るとこの作品は、それらしいふんいきの衣装を身に着けた歌い手の歌と踊り手を交えていて、音楽とダンスと映像表現の融合したおとぎの国のふんいきで構成されている。

 ところで、略語はないかと当てをつけて検索してみたら、「つけま」とは「つけまつげ」の略はらしい。最初は、変な歌だなと思った。歌詞をそのままたどっても「つけまつげ」と聴こえないけどスピードを上げて歌えばそう聞こえるのかなと思って聴いてみた。なんとなく聴こえそうだった。また、3行目の意味は何だろうと調べてみても釈然としない。歌で聴いてみるとそのままは歌っていないように見える。つまり、「とぅ CAME UP とぅCAME UP」=「つけまつけま」として歌っていた。例えば、英語で「ウォーター」とはっきり日本語の母音調で喋っても現地の人には通じないらしい。日本語なら相手に伝わるかちょっと不安になりそうな、いい加減な発音に当たる「ワァラー」のように言わないと通じないらしい。この「ワァラー」のように発音させることによって、「つけまつけま」を表現しているのであろう。言葉遊びである。したがって、わたしが最初に「つけま」=「つけまつげ」と知らずに誤解した受け取り方したけれど、この遊びのような表現を見ると、作詞者は「つけま」→「つけまつげ」の言葉も聞き取れるように、くり返し表現をすることでそれを気がけているようにも見える。

 わたしの小さい頃、白黒テレビで「怪傑ハリマオ」というドラマがあった。調べてみると、主題歌は三橋美智也が歌っていて、YouTubeの歌の声は聞き覚えがあった。小さい頃は、遊び仲間といっしょになって、主人公ハリマオのターバンの代わりにふろしきを頭に巻いて棒切れ振り回したりして遊んでいた記憶がある。傍目には、それらが白けるものであっても、子どもの当人たちは高揚した感情や気分の世界の渦中にいる。この作品もそういう世界を表現している。大人となった作詞者中田ヤスタカは、そういう世界に観念的に入り込み、内からの視線と作者の現在の大人の視線が(無意識的にも行使され)交差し合いながら、歌を構成しているように見える。

 例えば、作者が若い男性の中田ヤスタカであるとわたしにわかったから気づき、言うのだが、この歌詞の一連から三連で言えば、明確には説明しがたいけれど、次の抽出部分は特に少女の内面を外から眺めるような視線の感じがする。また、理屈を加えがちの男性的な表現に見える。


8  気分も上を向く
11 自信を身につけて見える世界も変わるかな
12 同じ空がどう見えるかは
13 心の角度次第だから



 最後に、この作品は、作品の中心舞台では〈かわいい〉にあこがれる少女たちの内面描写であり、歌い手はそういう内面のエロスの開放・発散を見事にやり遂げているように見える。また、この作品を現在という時代の方につながりを付ければ、海外にも受け入れられたり売り出している〈かわいい〉風俗の現象に連なり、収束していくだろう。そして、時代の〈かわいい〉やゆるキャラの氾濫というような、一見幼児化現象とも見えるものの蔓延の意味は、別に考察されなくてはならない。



(註.) 歌詞の三連まで行番号を付けている。

 「つけまつける」の歌詞

          作詞・作曲:中田ヤスタカ
          歌手・きゃりーぱみゅぱみゅ


1  つけまつけま つけまつける
2  ぱちぱち つけまつけて
3  とぅ CAME UP とぅCAME UP つけまつける
4  かわいいの つけまつける

5  いーないーな それいいなー
6  ぱっちりぱっちり それいいな
7  いーないーな それいいなー
8  気分も上を向く
9  ちゅるちゅるちゅるちゅるちゅ
10 付けるタイプの魔法だよ
11 自信を身につけて見える世界も変わるかな

12 同じ空がどう見えるかは
13 心の角度次第だから

つけまつけまつけまつける
ぱちぱちつけまつけて
とぅ CAME UP とぅCAME UP つけまつける
かわいいのつけまつける

さみしい顔をした小さなおとこのこ
変身ベルトを身に着けて笑顔に変わるかな
おんなのこにもある 付けるタイプの魔法だよ
自信を身に着けて 見える世界も変わるかな

同じ空がどう見えるかは
心の角度次第だから

つけまつけま つけまつける
ぱちぱち つけまつけて
とぅ CAME UP とぅCAME UPつけまつける
ぱちぱち つけまつけるの
ぱっちりぱちぱ おめめのガール
ぱちぱち つけまつけて
つけまつけま つけまつける
かわいいの つけまつける

つけまつけま つけまつける
ぱちぱち つけまつけて
とぅ CAME UP とぅCAME UPつけまつける
ぱちぱち つけまつけるの
ぱっちりぱちぱ おめめのガール
ぱちぱち つけまつけて
つけまつけま つけまつける
かわいいの つけまつける







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 対象世界の構造とそれへの出入りについて


 この文章のモチーフは、人がある専門的な分野や専門的な言葉に対面したときのある言葉に言い表しがたい思いから来ている。そういうわけで、この文章はたとえ固い言葉でしか言い表せていないとしても、たぶん万人の思いに交差するものであると信じている。

 わたしたちは、この人間界(社会)に存在しながら、海、空、大地や石などの自然物や動植物や、人間(他者あるいは自分自身)や人間の作り出したものなどとの多様な関わり合いの渦中にいる。その渦中では、それらのものを対象として意識し、志向したり引き寄せたりして日々生きている。

 人の対象とするものには、自由や愛のような抽象度の高いものもあれば、また単一なものだけではなく植物界や宇宙など大規模な構造を持つ対象世界と呼ぶべきものもある。わたしたちは誰でもこうした無数の対象との関わり合いを日々生きている。さらに、そうした対象との関わり合い自体をこの現在のわたしのように内省することもある。

 例えば、株価や為替相場とかいう経済領域の要素の話がある。株価という経済領域の一要素は企業の生命力や活動の状況と連動しながら、為替相場などの金融経済とも連動しているらしい。現在に到る政府―日銀の意図的な株高・円安誘導政策がそのことを語っている。

 また、エコノミストや経済学者という人種の主流は、古い言葉で言えば「経世済民」ではなく、上から目線である。つまり一般的には、わたしたち生活者目線でなく為政者目線で語る者を指すようだ。その中にもリフレやらいろんな流派があるらしい。

 わたしは文学や思想の世界には積極的な関心があるが、経済や政治や法の世界には積極的な関心はないから、いろんな専門的な解説に出合っても、どうしても本気になれなくて生返事で聞いているような状態になる。つまり、どうでもいいやという感じでそれらの対象に向き合っていることになる。

 しかし、生活者として、あるいはこの世界に生存する者として、消極的な、防御的な関心は、経済や政治や法の世界に対して持っている。また、経済世界の専門的な言葉に出合って、それがよくわからないとしても、わたしたちは誰もが日々経済世界内存在であり、経済活動をしている当事者である。

 人はこの社会で家事や学生や職業など、誰でも一つは専門的な対象世界に関わっているように見える。教育という対象世界がある。わたしは少なくとも十年は高校の教員として学校や教育という世界に関わってきたから、その教育現場が抱えているだろう諸問題もわかるつもりでいる。

 教育学者が教育を論じる場合の当否やその言葉の空疎さや教育行政の空疎な言葉もわかる。もちろん、同じ教育現場にいたとしても、小中高校大学を貫く教育の普遍的な事柄もあるだろうが、すべての個別具体性を同一の地平で論じることはできないことも確かである。

 ところで、教育という世界も、誰もが学校を通過し、そして親になり、その子どもたちが学校へ行くようになると再度新たな形の学校との関わりを持つことになる。こういう誰もが学校や教育に関わるという点と、人は太古から教育ということを家族内や地域で行ってきたという点から、教育という対象世界に入ることができる。

 これを教育という対象世界の基底として第一層と見なすことにする。この層は、万人に無縁ではなく、万人に開かれて在り、この層では誰もが教育とは何か、どんな形が理想的かを考え論じることが可能である。この第一の層の上に、第二層として公教育の現場の先生や生徒の世界がある。

 さらにその上に第三層として、教育学者たちの教育論や教育工学や技術論などのにぎやかな、しかも空疎に見える世界がある。第二、三層の活動や表現の生命を支えるのは、それらの層が第一の万人に開かれた教育という層をどれほど組み入れていることができるかに掛かっている。さらに第四層として、国家の教育に対する関わりもある。

 このようなことは、教育以外のすべての対象世界についても同様だと思う。したがって、人は誰でも自分の関わっている対象世界の経験を基にしながら、別の対象世界に入り込み、その第一層から対象世界を捉えようとすればいいのだと思う。このことは容易なことではないけれど、これが普通の生活者であるわたしたちにはより本質的な関わり方であり、出入りの仕方であると思う。
 
 現在の経済という対象的な世界も、第二や第三層の人々があれやこれや机上で論じていても、特に政権寄りの彼らが、第一層のわたしたち普通の生活者の経済活動を繰り込めていないから、GDPの6割を占めるという家計消費の問題が今頃浮上してきているのだと思う。



その道の専門でなくても
出入りする
大道無門しずかに開いている

註.経済でも教育でも政治でも音楽でも美術でも、どんな専門的になってしまった領域も人間的なものに過ぎず、万人が出入りできる層が必ずあると思う。
 ([短歌味体 Ⅲ]966 入口シリーズ・続 自歌より)


  (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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 人と諸対象との関わり合いの構造的な変容

 (わかりやすく言えば、私たちの世界の変貌、旧世界と新世界)


 高度経済成長期以後に生まれ育った若い世代は、生活に結びつく経済状況がひどく悪化してきたということはあったとしても、第三次産業が主流となり消費中心の経済社会やネット環境によるネットを介したつながりという社会環境を割と当たり前の、自然なものとして受けとめているだろうと推測される。

 二昔前までは、この世界は割と小規模の閉じられた生活世界であった。食や必要な道具などまだ自給自足的な名残が生活世界には残っていた。わたしの小さい頃の話である。まだ60年代の高度経済成長直前の時期である。わたしの祖母の世代では、一生に二三度くらい大きな旅行ができるという認識だったと思う。その自覚はわたしの父母の世代にも受け継がれていたはずだが、60年代の高度経済成長以後の世界の変貌が、そのことをも解体して見せた。つまり、社会が経済的に豊かになったのである。しかし、それは同時にそれまでの割と牧歌的なのんびりした時間の中の生活という社会的な閉鎖系から消費の拡大を伴う活発な経済社会が人々に慌ただしい開放系に居続けることを強いるようになっていった。これと並行するように、第一次産業が急激に減少し、第三次産業が急激に増大していった。

 二昔前まではまだ、わたしたちにとって世界(対象)は小さく割と具体的な手触り中心の世界であった。道具や物のイメージも、柱時計がそうであったようにそれらの内部の機構は歯車のイメージだった。もちろん、真空管を装備したラジオや蓄音機などの電化製品もあったが、生活の主流ではなかった。60年代の高度経済成長の過程で、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビなどの電化製品や家庭の固定電話が普及し出した。これらの道具や物のイメージはもはや歯車のイメージではなかった。次第に内部はブラックボックス化していき複雑な電子部品の集積や構成のイメージとなっていった。

 ここで、私が触れたいのは、次のことである。60年代の高度経済成長の過程では、私の両親もそうだったが、人々はほとんどが慌ただしい労働や生活の日々を送っていたように思う。しかし、現在から振り返ってみれば、二昔前とその60年代の高度経済成長以後では、世界が一変してしまったように見える。このことの意味を人とその人が関わり合ういろんな対象との関係で見てみる。

 二昔前であれば、人と諸対象との関わり合いの主流は、まだ農業中心の社会の名残を持った、眼で見たり手で触ったりするというような〈直接性〉や〈具体性〉を持つものだった。ところが、60年代の高度経済成長以後では、人と諸対象との関わり合いの主流は、ちょうど中身はよくわからないブラックボックスだけど使いこなせればいいという関わり合いになった。そしてこのことはわたしたちの現在にまでさらに高度化しながら到達している。この人と諸対象との関わり合いは、〈間接性〉や〈抽象性〉を持つものになってきた。このことは社会のいろんな場面に敷衍できるだろう。例えば、テレビの日々大量に流す情報がある。テレビの番組や情報の扱い方にも作家が物語を作り上げていくように番組制作側の意図やあるいは局側の意向なども加わるということ、さらに悪く取れば人々の考えをある一定の方向へ導こうとする作為こめることができること(例えば、「地球温暖化」対策キャンペーンやわが国が膨大な借金を抱えているというキャンペーンなど)を、内省すればわたしたちは持つことができる。しかし、わたしたち普通の生活者は、実際には割と無自覚に自然な感情の状態でテレビを観ていることが多い。

 そのテレビの情報も銀行あるいはコンビニのATM(現金自動預払機)お金の出し入れも、ネットショッピングやネット上での代金の決済も、あるいはさらに、遙かな遠い観測された銀河の振る舞いについても、現在の社会のあらゆるものが気づいたら(つまり、わたしたちは知らない間に徐々に慣れてきたのである)、中や中間の仕組みは分からなくても、ある対象のことをわかったり(わかったつもりになり)、それに基づいてある判断や行動を取るようになっている。わたしたちがあるものやある人に慣れるということは、日々の出会いと時間のくり返しの中にある。その過程を経て、わたしたちは対象に対して徐々に自然な受け止めや感情を持つようになるのである。もちろん、過敏な人で、その移行に敏感に反応して自然に慣れてしまうことができずに異和を持ち続ける人々も少数はいるかもしれない。

 そして、それらの人と諸対象との関わり合いを支えているのは、〈信頼性というシステム〉である。現在のわたしたちの割とスムーズな日常生活はその〈信頼性というシステム〉に支えられていることは間違いない。時々食品偽装や手抜き建築、あるいは虚偽の情報が流されたなどが事件として浮上してくることもあるが、わたしたちの社会の主流はこの〈信頼性というシステム〉にあることは確かである。

 二昔前と高度経済成長期以後との間には、この人と諸対象との関わり合いの構造的な変容が起こっていると言えるだろう。ここで「構造的な変容」というのは、新旧が次元や段階を異にするほどの大きな変貌という捉え方から来ている。それを人と自然との関わり合いでいえば、人 ― 一次的な自然という関係から、人 ― 二次的な自然(人工的な自然)という関係に構造的に変容してきたということができる。もちろん、時代の主流としてであり、両者ともにもう一方を部分的には内包したり残存させたりしているはずである。さらに、両者の中間の過程は、その主流の動的な移りゆきの過程と見なすことができる。そうして、これらの人と諸対象との関わり合いの高度化は避けることのできない世界の変貌である。

 






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 参考資料・「歴史の無意識」ということ 付.わたしの註
       ―この現実世界の主流とその動きをつかむために


資料・吉本さんより

1.〈歴史の無意識〉①

 漠然とした感じ方をいいますと、歴史の無意識というもの、歴史が無意識のうちに最良のような感じで積み重ねてきた段階としての民族国家、つまり近代資本主義国家は、マルクスやエンゲルスがかんがえていたよりもはるかに、状況にたいする適応性が強く、かつ人間の無意識に柔軟性があるように、歴史の無意識構造として柔軟性がある強固なもので、現実に適応して変貌しながら延命し、延命しながら変改していくようにおもわれます。しかし、マルクスの予測は甘かったのかどうか、これからどういう形で次の歴史の段階に移るのか、いずれにしてもマルクスの思想の有効性を検証する段階のイメージは誰にも輪郭が明瞭になっていません。またその段階にはいたっていません。マルクスの思想は、まだほんとうの意味では一度も打撃を受けていないし、またほんとうの意味では、一度も実現していない。ぼくはそう理解しています。(P105)
 (「世界史のなかのアジア」『世界認識の方法』所収 1981年)



2.〈歴史の無意識〉②

 そのあたりのところで、天皇の制度的な起源とそれ以前とはどんなふうにつながっていたのか、という僕らの関心は、すぐに柳田国男の問題と接触していくことがわかります。戦争中に流行した考え方に、天皇を頭にいただいて、その下にじかに平等な農耕の共同体をつくるのが理想の社会なんだ、という考え方がありました。僕らもたいへんおおきな影響をうけたものです。それで、天皇制を相対化する方法をつくりあげるには農業をやっていた者以外の人たちはどうなったんだろうか、という問題を掘り起こせばいいんじゃないか。そうすれば、農民と天皇が上下につながっているという考え方はこわせるんじゃないか、とかんがえられたわけです。柳田国男の民俗学への関心は山の人たち、つまり農耕をやっている者でない人たちにたいする関心からはじまったものです。またある意味ではそれに終始したといえるものです。だから柳田国男の関心とすぐにつながっていく問題がでてくるとかんがえられました。
 旧憲法の絶対的な天皇から新憲法の相対的な天皇へ、いいかえれば神聖で侵すべからずの天皇から、人間天皇へ考えを転換させるには、いわば自然にまかせるというやり方があります。あるいは歴史の無意識にまかせるということです。つまり、日本の社会が高度な産業社会に転換していけば、天皇や天皇制にたいする親愛感も反発感も、特殊な日本的なあり方としてひとりでに薄らぎ、解消していってしまうんじゃないか。だからこの場合は文明の成り行き、歴史の成り行きにまかせれば、かならず、天皇の問題は相対化されていくとかんがえることができます。
 僕らがかんがえを構築してゆくよりは、自然にまかせ、歴史の無意識にまかせて、日本が高度な産業社会の仲間いりをしていくにつれて、天皇に対する特殊な考え方、特殊な親愛感とか、特殊な反発の仕方が解消していくのはたしかです。もしかすると、僕らがかんがえてやってることは全部無駄で、そういう歴史の自然にまかせておくことがいちばんいいやり方なんだというようにおもえるわけです。そうしますと、いま申し上げた三つの方法で、絶対的な天皇から相対的な天皇制、神聖天皇から人間天皇へという戦後の移り行きは意識のうえでもらくに成し遂げられにちがいありません。つまり、これらを内側から解明していけばじぶんなりに納得しながらいけるんじゃないか、とかんがえられたわけです。今日は柳田国男のやりました業績と関わりの深いところで、この問題の一部を申し上げてみたいとおもいます。(P246-P248)

 (「わが歴史論 ─ 柳田国男と日本人」 これは1987年7月5日の講演速記に全面的に筆を入れたとある。JICC出版局『柳田国男論集成』所収 1990年)
(別に「わが歴史論 ─ 柳田国男と日本人をめぐって 」吉本隆明の183講演 FreeArchive【A100】としてネットにこの講演のテキストもあり)



3.〈歴史の無意識〉③

 今の「第三次産業」と「第一次・第二次産業」、あるいは「都市」と「農村」、「人工」と「自然」を対立関係にあるとみなしたりする、歴史の無意識段階が生み出した概念は、高次な資本主義社会では通用しない。根底的に組み替えなければ既に無効だ。現に都市に起こっている「像化(イメージ)」と「異化」の類型は、このことの兆候をなしている。 「対立」に基づく社会の段階を、旧い資本主義と仮定した場合、〈超資本主義〉社会の顕著な特徴は、「包括性」あるいは「全体性」によって表されるに違いないと思う。
(P160)
 (「〈超資本主義〉段階の商環境デザイン」1994年 『吉本隆明資料集156』所収 猫々堂)



4.〈歴史という概念〉

 歴史という概念は、その時代のその瞬間ごとの人類のすべての人(ヒト)の精神と身体の行動の総和としてはじめて成立する。モルガンのやっているような、同心円的なつみ重ねの分類の原則は、ほんとは成り立たない。文明状態の人間にも野蛮の下層状態が風俗や習慣として曳きずられているし、どんな過去の瞬間の状態も歴史はかならず存続させているからだ。もうひとつヘーゲルの歴史の哲学が成り立つためにも、モルガンのいう時代の分類の原理が成り立つためにも、人類の文明の外在史と、内在的な精神史が均衡して過不足なく溶け合っている稀な状態を前提としなくてはならない。逆にこの外在と内在の稀な一致の時期を近代と定義してもいいくらいだ。すくなくとも歴史が哲学として成り立ったり、歴史の分類原理を成立させたりできる時期のことを、逆に近代と定義することはできる。歴史を抽象化してもよかった時期が近代であり、それ以前あるいは以後では歴史はある限られた地域と時期に起った出来ごとと、その周辺の状況とみなすか、あるいは無意味なまでに拡散してしまった出来ごとの総体とみなすよりほか成立しえない概念だといえる。現在のわたしたちにとっては、歴史という概念は、ヘーゲルのような世界史の哲学としても成り立たないし、モルガンのような文明の進歩を目安に分類できる原理としても存在しえない。人類の外在的な文明史と内在的な精神史とが過不足なく調和したところで歴史という概念をつくれるような条件は、もうないからだ。(P58L1-P59L3)
 (『アフリカ的段階について―史観の拡張―』吉本隆明 試行社 1998年)




5.「遊んでてください」

― いまの日本も、戦後と同じくら
いの大きな変化が必要な時期だと思
います。

(吉本) ある意味では、当時とそっくりですね。民
主党はもっとやると思っていたけど、自民党と何
も違わなかった。知恵なんか何もなくて、素人が
考えるようなことしか考えていない。
 戦後の農地改革に相当することがあるとしたら、
いまであれば失業者とか、家を取られてしまった
人に、お金をいちばんに与えることです。金持ち
の会社からふんだくって与えればいい。そういう
人たちがちゃんと働ける場所に直すということは、
黙ってたってせざるを得ない。もし僕が総理大臣
だったら、多少の抵抗があったって、それを強行
します。どんな人が総理大臣になっても、それは
やらなきゃお話にならない、それを真っ先にやっ
て、それからが本当の変革だということですね。

― こんどは日本人自身の手で社会を変えられる
でしょうか?

(吉本) できるか、できないかといえば、それぞれ
の境遇や運命があって、誰もなかなか大口は叩け
ない。でも、もし自分にその番が来たら、まずは
世の中を平らかにして、何か開かれたな、と思え
るようにする。隠れて背後で何かをやるみたいな
ことは絶対にしないで、開かれた場でちゃんとや
ってみせる。普通の人の誰もがそう思うようにな
ったらたいしたもので。そのときは本当に社会は
変わります。そうじゃなければ、決して変わらな
い。共産党を頼ってとか、社民党を頼ってとか、
そんなことで変わるわけがない。それは自明の理
だから、そんなことはあてにしないほうがいい。
心の中で、普通の人が「俺が総理大臣になったら
こうしようと思っている」ということをもてたな
ら、それでいいんですよ。あとは何もする必要な
いから、遊んでてください (笑)。
 (「吉本隆明インタビュー」 季刊誌『kotoba』2011年春号(第3号) 小学館)


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 (わたしの註)


 1.は、吉本さんが若い頃深く読み込んだマルクスの〈革命〉思想を「マルクス主義」と峻別して、マルクスに対する吉本さんの当時の評価を述べたものであり、2.は吉本さんの青年期を深く絡め取り追い詰めた天皇制、そしてそれが敗戦によって吉本さんの中でも二つの天皇制、天皇のイメージとして分断された。それをどう現在に着地させていくかという吉本さんの切実なモチーフによるものである。4.は、歴史という概念を巡って、近代ヨーロッパが生み出した、最高峰の歴史哲学を構成したヘーゲル、そしてマルクスなどを批判的に捉えつつそれらを包括的な歴史把握として捉え直そうとする試みである。ここでは、それぞれの文脈を離れて〈歴史〉や〈歴史の無意識〉ということを少し考えてみる。

 たぶんこの〈歴史の無意識〉という言葉は、吉本さんが思い付いた言葉ではないかと思う。はるか昔、この吉本さんの言葉に初めて出会った時、はっとすると同時になんかわかりにくいなあという印象を持った覚えがある。もうその初出がどれであったかは思い出せない。人は誰でも、話題や考え(概念)の良し悪しなどは日常生活でもこのような思想でも、その人と同じような舞台に立てないとわからないし、見えてこないものである。わたしもやっとこのようにして取り出して考えはじめるようになってきた。

 「歴史という概念は、その時代のその瞬間ごとの人類のすべての人(ヒト)の精神と身体の行動の総和としてはじめて成立する。」(4.〈歴史という概念〉) これを様々なレベルで取り出せば、例えば人類の地域性としての歴史であるこの列島の歴史や、ある会社の歴史、ある家族の歴史や特定の個の歴史ということも考えられる。あるいは、抽象された社会や会社や家族の歴史というものも考えられるだろう。

 今、個の歴史というものを考えてみる。
 わたしたちの日々の生が、わたしたちの意志や選択や行動によって成り立っていると言える一方で、それらを余り意識しないで自然に行動するような面もわたしたちにはある。また、じっと佇み続けるネコのようにぼんやりとした状態になることもある。さらにわたしたちは、活動停止ないし低活動状態のような眠りの世界にも毎日入り込んでいるし、また、心臓などのように意志して動かしていない不随意的な活動にも支えられている。

 この場合、個が家族関係でも学校や会社関係でも構わないが、それらとなんらかの関わり合いの中で、その個が、相手から不本意な要求をされて渋々あることを受け入れたとする。あるいは、その個が、無理やり自分の子どもに言い聞かせたとか、会社で無理してあることを合意したとか、様々な関係の有り様がある。それらのことが特に波風立つことなく終わる場合もあるが、日々積み重ねられて後々様々な矛盾として噴出して、最初の有り様が修正を迫られるということは、いろんな場面であり得ることだ。つまり、わたしたちの誰もが経験していることのように見える。この個のレベルの歴史を人類の歴史の方に返してみる。

 すると、人間の諸活動の総和である〈歴史〉も、この個の歴史の中の振る舞いや動向と同様のものと見える。歴史というものにも、人々が意識的に意志して築き上げようという行動とともに、潜在化した無意識の欲求や意志のようなものもあり、また、自然に振る舞っている部分があるように見える。

 ところで、資料の〈歴史の無意識〉①では、「(引用者註.ある制度、例えば近代資本主義国家は)歴史の無意識というもの、歴史が無意識のうちに最良のような感じで積み重ねてきた」ものであり、「人間の無意識に柔軟性があるように、歴史の無意識構造として柔軟性がある強固なもので、現実に適応して変貌しながら延命し、延命しながら変改していくようにおもわれます。」とある。〈歴史の無意識〉②では、「いわば自然にまかせるというやり方があります。あるいは歴史の無意識にまかせるということです。」とか「そういう歴史の自然にまかせておく」とある。〈歴史の無意識〉③では、その「(引用者註.過去の段階で)歴史の無意識段階が生み出した概念」が改変を迫られることがあると述べられている。

 以上のことから、吉本さんによると〈歴史の無意識〉は、「無意識のうちに最良のような感じで積み重ね」る最善のものを欲求するということがあり、また、わたしたちの日常の振る舞いのように普通に自然に行動するということがあり、さらに、現在からは都市と農村や人工と自然は対立的には見えないけれども、押し寄せる現実の動きの中でその矛盾を解消しようとする人々の総和としての欲求や意識からそれらを対立的な概念と見てしまう「歴史の無意識段階が生み出した概念」のことが述べられている。ここから集約すると、〈歴史の無意識〉には最良のものを求めようとする無意識的な欲求があるが、それが生み出した制度や概念も後の深化・進展した社会の段階からの〈歴史の無意識〉、あるいは内省によって修正されることがあるということになるだろう。また、それとは矛盾するようだが③のように都市と農村などの見かけの対立からその時代の考えをまとめ上げてしまう場合もある。要するに、先ほど取り上げた個の歴史における個の振る舞いと似たような所がある。

 ここで〈歴史〉や〈歴史の無意識〉にわたしが触れる意味は、かんたんなことである。ひとつは、わたしたちが、今ここに身体的・精神的に生きて活動していることの総和が〈歴史〉だとして、たぶん人類のこの人間界での無意識的な欲求や意志の流線を〈歴史の無意識〉と見なすなら、わたしたちは、自身の中にも遺伝として受け継がれていると思われる、その人類の無意識的な欲求や意志の流線に沿って、おそらく無意識的にも進んでいくだろうということである。

 もうひとつは、現在の政治や政権のように国民の幸福のためなどといわば偽の〈歴史の無意識〉をちらつかせた政治・経済などが無理やり歴史の主流から支流を延ばそうとしたり、流れを退行させようとしたりしてきた場合、どうせ後からこの悪〈歴史〉の改ざんの結果は〈歴史の無意識〉が修正するだろうと思っても、それは五十年後か百年後かもしれない。わたしたちは、遠い未来のためというよりも、今ここを生きているのである。わたしたちの生存の重心は現在にある。したがって、今ここをよりよく生きることができるように、押し寄せてくる問題が個人的か、社会的かに関わらず、わたしたちに押し寄せて来る問題には誰もが立ち向かわざるを得ない。もちろん、それらをやり過ごそうとすることもできるが、わたしたちが人間界の今ここに生きて在るということの意味は、個々でありつつどこかで互いにつながり合った存在としてあり、遠い歴史の果てからなんらかの遺伝を受け継いで生きている。その遺伝のようなものが、私たち一人一人が今ここを自由に生き生きと生きることができるように、わたしたちに発動させるのだろうと思う。吉本さんは、「もしかすると、僕らがかんがえてやってることは全部無駄で、そういう歴史の自然にまかせておくことがいちばんいいやり方なんだというようにおもえるわけです。」(2.〈歴史の無意識〉②)とおそろしいこと、あるいは普通の人々にとっては救いになることを語っているけれども、その探求の行動がいかに不毛に見えようとも、わたしたちが、今ここに存在するということがそのような行動や表現をわたしたちに促すのである。ただ残念ながら、わたしたちは、この列島の生活者住民として遙か太古から伝わっている心性や行動の負の遺伝から抜け出して、自らの生活世界を守るために政治経済の支配層をはねつけたり、自己主張したりするような自立性をまだまだ十分に獲得し得ていない。

 この二点において、わたしたちが不明のもやに包まれすぎて立ち往生しないためにも、この人間世界の移り行きやその流れを駆動するもの、つまり〈歴史〉や〈歴史の無意識〉についてわかっていた方が、個や集団において少しはその立ち往生や様々な悲喜劇が軽減されるかもしれないと思われる。


心の中で、普通の人が「俺が総理大臣になったら
こうしようと思っている」ということをもてたな
ら、それでいいんですよ。あとは何もする必要な
いから、遊んでてください (笑)。

 (5.「遊んでてください」)


 初めこの言葉に出合ったとき、吉本さんの立っている場面から言葉は語られているのだが、その場面というか地平というかがわたしにはよくわからなかった。そして、ほんとにそれだけでいいのだろうかと疑念を抱いた覚えがある。太古からおそらく現実社会のどうしようもなさから桃源郷や理想郷(ユートピア)が思い描かれ続け、近代になっていくつかの「革命」という人間集団の意志的な変革が試みられたが、余りにも大きな犠牲とともに無惨な結末しか残さなかった。現在は、それ以降の世界に属している。つまり、失敗に終わったような形態のあらゆる意志的な「革命」の不可能性の時代にいる。さらに、大規模な戦争の不可能性の時代でもある。それでも、組み直された新たな形の組織性や思想は未だ芽ばえも感じられず、旧時代の組織や思想の残骸は今でも存在し続けている。さらに、最期の悪あがきのように、戦前の負の遺伝子を受け継ぐ現政権が現在の諸課題にはまともに向き合うことをせずに時代錯誤の復古を目指している。わたしたちは、現実のこまごまとした具体的な動向に反応し続けていると疲弊してしまう。

 最晩年の吉本さんの語るその言葉を、今までたどってきた〈歴史〉や〈歴史の無意識〉という地平に置いてみると、おそらく吉本さんにはこの列島の人々の総和が無意識的にも駆動する現実や歴史というものの主流とその課題と可能性とが大体見通せていたのだろうと今は思える。それを可能にしたのは、太古の長老のような体験の積み重ねのもたらす知恵というよりも、ほんとうなら誰にも可能な、しかしこの国では稀有の、長年に及ぶ持続する自分との対話と思考実験のもたらしたものだろう。

 わたしたちは誰でも、日々の生活でおそらく無意識的にも実行しているように、日々のこまごまとしたことにかまけつつも、その動向を大きな時間や視野で見つめることがある。その二重性を誰もが生きている。もし、その二重性を分離して片方だけに収束するとおそらく病的にならざるを得ないと思われる。日々のこまごまとした生活を味わいながら、わたしたちの生活世界に押し寄せたり湧き上がったりする課題を第一としつつ、自由に考えを言い、よりゆったり呼吸できる社会を構想し目指したいものだ。

 






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 相変わらず、生活者住民として


 『北村想のネオ・ポピュリズム』2016年7月16日 (土)
   「涙、壊れているけれど・23」―宣戦布告の美奈子さん
  http://6659893.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-8d36.html

 劇作家の北村想が、斎藤美奈子に触れている。わたしは、以前、新聞に文芸時評を書いているのを何度か読んだくらいで、斎藤美奈子の本自体は読んだことがない。ただ、北村想の言葉から彼女の考え方の軸は伝わってくる。

 斎藤美奈子の『学校が教えないほんとうの政治の話』は読んでないけど、この文章から推測して、わたしとは判断が異なる。知識層はふだんのくり返す思考の習性から一般に対象を思想やイデオロギーで分割・連結・構成して捉えがちだ。現代の流行である民主主義(わたしも半分はそれを受け入れているけれど)から繰り出される諸概念も同様のものだ。ネトウヨ諸君もサヨクと自称する諸君も同様だろう。普通、生活者はそういうことはしない。

 私の中には、ウヨクもサヨクもリベラルもない。知の世界を考えたり巡ったりすることはあるが、その根本にあるモチーフは、誰もがある時ふと人やこの世界のふしぎさに思い巡らせる瞬間があるように、人間や人間世界の本源的な有り様と主流を理解したいという欲求に過ぎない。そして、基本はこの人間界の重力の中心である生活世界に属するひとりの生活者として考え、判定し、行動するということにある。

 生活者は、知識層と違って現状では自分の生活に日々押し寄せてくる影響として政治や経済を捉えるだろう。ふだんは、政治や経済のことなどを一般性として考えることはしない。そして、自分のあるいは家族の生活が第一であり、政治は二義的なものに過ぎない。ただ、現在の政治の状況は、私たちの生活世界を引っかき回すような今までにない、特異な危機的な状況で政治が私たちの生活世界に寄せて来ているのは確かだ。

 現在では「知識人と大衆」の間の垣根が崩れて、誰もが政治知識をかじり遠い外国のことを語りということができるようになり、それにつれてイデオロギーがかった人々が増加してきているように思う。おそらくネトウヨ諸君の登場もこの線上からの出現であろう。ネットやSNSが、そうした知の拡大や生活意識の拡散に貢献している。これらは不可避の動向だと思われるが、生活世界の住人として何が第一かという従来では親から子へと自然に沈黙の内に受け継がれていたような生活の倫理のようなものが拡散してしまっているように見える。

 ネットやSNSなど新たな場の創出により、数百年前のかつての隣村との対立のような仮想的な対立が花盛りである。そういう仮想的な場が不在の時代にはこういう対立は不可能であった。もちろん冷静な人々も見かける。私たちは生活者として、「私たちは何者なのか」という問いとともに、今まで以上に人と人との関わり合う倫理のようなものの再構築を誰もが促されているように思う。

 原発や基地問題など、異常なことにわが国だけで解決できないという大きな問題もあるが、基本としてはこの列島に生活する住民として、町内会で話すような生活具体性に即して話し合いを形成できたらいいなと思う。同じ住民として無用な対立を避けたいと思うからこそ、生活者という基本軸にこだわり続けている。生活世界を抜け出した、イデオロギストたちや政権周辺に意識的無意識的に取り入ろうとする人々は、この生活者という軸からの逸脱に当たる。生活者として町内会で話すような生活具体性に即して話し合いを形成するには、それらの鎧を脱いでもらって加わらなくてはならないと思う。

 そして、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(矢部宏治)に書いてある、私たち普通の生活者が知らない、敗戦後からのこの国の絶望的な状況、つまり、アメリカ帰りの官僚層や政治家や政治・経済の学者たちが、アメリカを忖度しながらそれをおくびにも出さずにスマートな振りしてこの国の政治を牛耳る恥ずかしい状況から、もうそろそろ抜け出して晴れ上がった空のような私たち大多数の普通の生活者のための政治を実現したいものだと思う。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)  






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 何度(たび)か、生活者住民として (1)



   1.のんびり寝っ転がるように生きていくのが理想だね


 若い頃は遠いところに何か価値あるものがありそうに思ったことがある、青年から中年にかけては日々の生活に追われるように慌ただしく日々が過ぎていく、老年に差しかかると普通の日々の生活に自足することがとても貴重に見えてくる。人の生涯の描く割と一般的な風景と言えるかもしれない。

 わたしが普通の生活者の世界に自足せずに、なぜ知(知識)の世界に入り込んでいるのかについては、ひと言で言うことができる。誰もがふと立ち止まって思い巡らせることがあると思われること、つまり、ふだんの生活する世界を抜け出るように、なぜ自分はこうであり、他人はそうであり、世界はああなっているのか、若い頃、そういうふしぎさや不可解さに引かれるように入り込んでいったように思う。こうして、その問いに対しては、自分や他人やこの世界の有り様を捉え尽くしたい欲求があるからという答えになりそうだ。そしてそのことが同時に、普通の生活者としてほんとうに自足すること、いい呼吸ができることに究極的にはつながるのではないかというイメージを今では抱いている。なぜならば、人間社会の始まりには確固とした宗教も政治も国家もない集落規模の自足した生活世界が想定できるとしても、わたしたち人間は、そこから生活世界だけでは完結しない宗教や政治や芸術や自然科学などの世界をその外部に生み出してきたし、しかも生活世界はそれらと何らかの関わり合いを持っていて、究極的には生活世界だけでは解消し得ない、解決し得ないものとこの世界はなってしまっているからである。

 もちろん、この知の世界や文学表現などへの入り込みは、始まりは意識的なものではなく偶然や自然なものであった。興味深いこともあり、感動もあり、理不尽さも不可解さもあった。また、言葉の森に踏み迷って自他共に何を表現しようとしているのかわけのわからないということもあった。ちょうどわたしたちが生活世界で出会うことと同型のものがそこにもあった。

 世の中には、たまには優れた少数の学者や思想家に書物を通して出合うこともあるけれども、知の世界に行きっぱなしになる人々も多い。つまり外側から感じ取る主流の一般的な像として言えば、生活世界から抜け出してなぜそういうことをしているのかというモチーフが不在で、パズルを仕上げていくような単なる知的な興味、といっても複雑で多岐にわたる世界だろうが、その興味に溺れたり、あるいはいろんな役職に就いて知や政治の派閥に埋もれることを価値あることだと見なしてしまう者もいるようだ。そういう人々は、知の現在まで築き上げられた来た慣習的な地層と生活者としての地層が内面で深く関わり合うことなくただ貼り合わせになっているのだろう。しかし、わたしは知の世界に入り込んでからのモチーフもその世界について抱くイメージもイメージの流線も、彼らとは違っている。

 わたしの場合は、吉本さんの〈大衆像〉というおくりものからひとつ、わたし自身の人間や人間世界の起源からの捉え返しということからもうひとつ、この二つから知の世界に行きっぱなしということにはなり得ない。知の世界からの還りがけのイメージを持っている。つまり、この世界に、生まれ、育ち、成人し、老いて死んでいくという人の生涯は、始まりと終わりの辺りを眺めただけでも、人は他のあらゆる生き物と同様にこの生活世界の土に立ちそこに還っていくということが、そこが大事な重力の中心だということが、わかると思う。人はいかなる考えやイメージをも持ちうる存在だとしても、そのことは今のわたしには自明のことに思われる。

 現在までのあらゆるものには、当然始まりというものがあり、その始まりということから照らせば現在までに築かれてきたあらゆるものは絶対性ではあり得ない。とは言っても、例えば男女の関係の破綻があったとして、その関係の始まり以前に簡単に戻ったり、初めからやり直すということもできない。降り積もらせた日々の関係を再び日々の時間の積み重なりの中で始まりに向かって少しずつ消してゆくほかない。同様に、この人間社会の遙か始まりから現在まで築かれた諸々(もろもろ)も、それを理想のイメージに向けて着地させて行くには未来に向けた気の遠くなるような道筋があるはずだ。

 しかし、わたしたちは、(遙かな)未来のために生きているのではない。現在に理想のあり方を追い求める一方で、日々の生活をできるだけ気ままに、ゆったりと過ごすというのが、わたしの思い描く生存の有り様である。両者は、生きるという深みで密接につながっているが、後者の日々の生活こそが重力の中心のかかっている世界である。このようなことは、家族や職場など生活世界の中でも割と無意識的に行われている人間的な行動だと思う。

 以上のことを、簡潔に集約すれば、わたしにとっては、いろいろ面倒な理屈の世界を潜り抜けてはいても、ほんとはのんびり寝っ転がるように生きていくのが生存の理想だねというイメージになる。そして、両者はわたしの中で密接につながっている。






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 何度(たび)か、生活者住民として (2)



   2.生活者住民の集団の原型として学校のクラスのことから考える


 生活世界の住民のひとりとして、この社会におけるわたしの位置や考えを示すために、わたしの体験的なことを取り出してみる。

 わたしは学校で、中学校でのことは記憶がはっきりしないが、小学校と高校ではそれぞれ一回ずつはクラスの委員長の仕事をやったことがある。これはわたしの内心から言えば、自発的なものではなく、したがって、晴れがましさというものも余りなく、他人の推薦などで仕方なくやった仕事というのが正しい。いやいやでも、その任に就いたら緊張してそれなりの仕事はしていたと思う。

 高校の時は、体育祭でクラスから出すマラソンの選手がいなかったか不足したかは忘れたが、誰もなり手がいなかった。速くはないけど短距離向きでしかないわたしが、クラスの委員長をしていたから仕方なくマラソンに出る羽目になった。上り下りのある嫌なコースで、ゴール近くまでなんとかたどりついて倒れ気を失ってしまった。保健室のベッドで、たぶん目をつぶっていて光が右上へ上って行った。ああ、上へ行っちゃいけないなと感じた覚えがある。臨死体験に類するようなものだったのだろうか、よくわからない。目覚めたら、足がつっていて痛かった。クラスの者を恨んだという覚えはない。

 大学時代、学生寮にいた時には寮長をやったことがある。むろん、これも自発的なものではない。どちらかと言えば、わたしは引っ込み思案の方で、それを意識して高校の時はクラスや生徒全体の集会などの話し合いの席では必ず一回は発言しようということを自分に課していたくらいである。わたしは、感情や気分や意識としては集団内から離反してひとりのんびりしたい願望を持ちつつも、現実としてはこのように集団内の多数が位置するところに身を置き、そこで割と自然に振る舞っていたと思う。

 ところで、ほとんど誰もが通過する学校での人間の関係の構造は、人間社会での原型のように見なせると思う。今、高校での文化祭への取り組みの場面で考えてみる。

 まず、町内会の場合は、班長をやっていれば日々の生活の合間にたまに話し合いに出向いたり、ある催し物の係りとして活動することになる。一方、高校のクラスの場合は、別に家族を場とする生活があり、本人たちが試験などを通して意志して選択し入学した結果として学校生活があるわけだが、学校は大人の職場での仕事のように一日の大半を過ごす場になっている。そうして、そのクラスや学校という場で、行事や問題が起これば、話し合いや諸活動を行うことになる。

 高校でのクラスは、学校の方から見れば、ある教育の理念の下カリキュラムに基づき日々時間割と規律によって構成されている世界である。仕事の職場の構造と似ている。一方、子どもたちの方から見れば、クラスには現実的にはひとり一人が存在するわけだが、同時に知り合いや友達関係など様々な小グループの関係も存在している。現状では、学校のクラスという場を中心に子どもたちの学校生活はある。ここで、クラスで文化祭に向けた取り組みを開始する時を考えてみる。このときクラスの者は、文化祭に向けて進んで参加する者、内心は少し嫌々でもしょうがないかと参加する者、最初自分の役割や仕事を受け入れたように見えても集まりや仕事を時々さぼる者、まったく参加しようとしない者、というふうに四層に大まかには分類できる。一般にはわが国では、第二層が大多数の普通と見なせるもので、第一層と第三層と第四層は少数である。

 第四層の者として表面に登場して来るのはごくわずかであり、彼らは係りや共同作業を避けたりサボったりして協力の意志を示さない。昔の村落共同体であれば、そういう人々は制裁の対象になったのかもしれない。町内会であれば、地区清掃などの共同作業への欠席の場合は代わりにお金をいくらか徴収することになっている所もある。しかし、若いわたしの当時の内心でつぶやく口癖は「くだらない」という言葉だったこともあり、かれらに幾分心ひかれる面もあり、非難する気にはなれなかった。一方で、わたしは大多数の第二層の位置を取り続けてきたから、係りなどになって彼らに関わる時は、準備作業などへの彼らの非協力には、困った者だなという思いも抱いた。それでも、わたしの経験ではこのような集団の構成の中で、険悪な状況になったという経験はない。つまり、なんとか人はやりくりして動き、物事は進んで行く。

 こういう風に、クラスや町内会や職場などの小社会でなんとか険悪さや全面対立に陥ることなくやっていけたら集団としてはいい運営、良い関係と言えるだろう。そして学校のクラス内での人と人との関わり合う有り様の考察は、生活世界の集団の関わり合いの原型とみなすことができると思う。ただし、社会の総体としての集団性を考える時は、地方や国家の行政的な関わりの結合手が伸びてきたり、社会内や地方や国家の行政の方に結合手が伸びていく宗教や政治や経済や労働など無数の団体があって、これらの錯綜が社会内の生活者住民と地方や国家の行政という単純な関わりを複雑化させている。また、学校の場合も、管理職や教員や事務などの経営や運営主体の側から見れば、子どもの世界もまたちがったものと映る。わたしが原型として考えようとしているのは、社会であればわたしたち大多数の普通の生活者を、学校であればそこで生活する子どもたちを、中心に置いてその自主的な有り様を考えようとしている。

 わたしたち大多数の生活者がこの社会の真の主人公のはずであるが、普通は主に沈黙の状態にあり、社会的に登場するのは、民意や家計消費の実情などマスコミの世論調査や政府・行政の統計調査を通して、抽象化されて登場する。わたしたち生活者住民は、地方や国家の行政の方から眺めると社会内存在として括られるのかもしれないが、個別的に、具体的に、その捉え方とは無縁なように家族(単身者も含めて)として存在し、日々生活している。

 わたしたち普通の生活者の中には、ある宗教や政治の組織に関わっている者もいるだろうし、あるイデオロギー(集団思想)を信奉している人々もいるだろう。もちろん、現在の主流の考え方である「民主主義」もひとつの現代的なイデオロギーであり、わたしたちは無意識的にもそれを前提としているようなところがある。わたしも半分はそれを受け入れているのだろうと思う。半分はというのは、次のような事情による。普通の大多数の生活者は、日々の生活に埋没するように生きていて、「民主主義」は・・・・・、と振りかざすようなことはなく、遙か太古から現在までにこの列島の住民たちが主流として積み重ねてきた、お互いを尊重したり、お互いを気掛けるというような概念化以前のような生活感性や人と人との関係に対する判断力のようなものを無意識的にも受け継いで来ていて、そこから日々自然な形で表現しているからであり、わたしもまた半分はそこに自分の身を浸しているからである。

  






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 何度(たび)か、生活者住民として  (3)



   3.生活世界はなぜ政治的な話題を避けるか


 明治以降の近代において、都市と農村は対立的なものと感じられ意識され、地方から多数の人々が都市に押し寄せた。経済的に余裕のある層からは知識層や芸術家が登場した。彼らの根底に共通しているのは、学校で出会った輸入された欧米の考え方、その影響下のわが国の文学や哲学などを通して、農村の因習や関係を個の自由を縛るもの、古くさい否定すべきものと見なした点である。わたしは、かつて詩人伊東静雄の大正末から昭和にかけての歩みをいくらか調べたどったことがある。わたしは、そのことを想起しながらこれらの言葉を記している。一方、普通の人々が地方の農村から町や都市に押し寄せたのは、柳田国男に拠れば次男三男などは一般に農村に十分な居場所がなく、より良い生活を求めてのことであった。ここにも都市の優位性が射していた。

 社会総体として未だ農村社会のウェートが大きい時代で、農政学を学んだ柳田国男は、一人、そのような農村の因習や年中行事や信仰に批評的な眼差しを加えつつ、農村の現在的に当面する社会的な問題と精神史の古層とを深く追究した人だった。それは、新たに胎動する工業資本主義とも言える近代社会の裏面史の、それ以前は主流の産業だった世界の追究に当たっている。このように、近代社会は、特に都市においてはそうだが、今までの農村中心社会に蓄積されてきた精神史を裏面として沈めながら、一回目の大規模な欧米化の波を受けた時代であった。

 現在のこの列島社会は、敗戦後の第二の欧米化の波をかぶり、どこも似たような風景を持つ、割と均質な社会になってしまった。それでも今なお、近代に都市と農村とを対立する関係と見なした残滓のようなものとして、大都市の方が文化や娯楽ひとつとっても地方都市より優位性を持ち、特に若者をひきつけるものと見なされているのはまちがいない。 
 ところで、敗戦後の第二の欧米化の波をかぶることによって、内発的なものとしてではなく、外来性として列島社会に民主主義の諸制度や諸概念が入ってきた。戦中世代ならそのことに複雑な思いがあったはずであるが、敗戦以後の世代は特に、それらに慣れ、自由や平等という考え方にも馴染んできた。一方、敗戦後70年の現在では、若い層にさえ「ネトウヨ」と呼ばれるような、敗戦で死んだはずの亡霊の復古的な紋切り型の政治概念を唱える者が出て来た。

 一体どうなっているのだろうか。何が問題なのであろうか。(註.)わたしは、今なお右や左、リベラルなどで呼ばれるもの認めないが、それらは社会の、あるいは人間の表層部分に今なお観念として残っていることは確かである。ほんとうは、太古よりこの列島の住民たちが受け継いで来た良性の精神の遺伝子とも言うべき生活感性や意識が、割と無意識的なものとして、その表層下にある。わたしたちは、そこにこそ注目すべきだと思う。

 今から四五十年前には、若者がエレキギターを弾いたりするのは周りから不良として白い目で見られがちだった。また、マルクスとか革命などの言葉も仲間内以外では口に出すのがはばかられるような時代であった。そこから見渡せば、ずいぶんと個の自由度が増大した社会になってきた。ところで、欧米や他のアジア諸国のことは知らないが、この列島の生活世界では、例えば家族や職場や仲間の集まりなどで、宗教的な話題や政治的な話題が避けられがちである。これはどこから来るのか。おそらく、それらは自分たちの世界をかく乱させる異物と感じられているからだろう。生活世界で宗教的な話題や政治的な話題を受け入れたなら、互いに対立的になったりする可能性を導き入れることになるし、お互いの関係が壊れることにもつながるかもしれない。したがって、そうした話題を避けるのは、トラブルとなる要素を避けようとする生活世界の知恵なのかもしれない。つまり、生活世界からの防衛反応ではなかろうか。付け加えれば、聖書にも、イエスは故郷では容れられなかった、つまり人々は、生活世界とは異質なものをイエスの言葉やふんいきに嗅ぎ取って、よそ者としてのイエスは受け入れられなかったとある。当時でさえ、宗教や政治はもはや生活世界から外部に抜け出ていて、そことは異質な外部的なものになっていたのだ。

 同じ政治的な考えやイデオロギーを持つ仲間内なら、「中国が攻めてくるかもしれない」とか「日中関係が緊迫化している」などと発言しても、ウケるだろう。しかし、生活世界でのフツーの仲間内や会議などでは、そのようなものは排除去るべき異物に当たるだろう。しかし、確固とした宗教や国家などがなかった太古には、それらの要素的なものを含めてすべてが集落の中に、つまり中世の自治的村落の惣村のようなものとして、集落内で話題にし話し合い吟味し処理したはずである。人間界はそこから、集落の外に宗教や国家等を生み出しそびえさせてしまった。そういうわけで、生活世界では宗教的な話題や政治的な話題を避けるという現状のような関係になった。これは、生活世界とその外の宗教や国家との関わり合いに対する、生活世界の独立性を確保しようとする人々の無意識的な意志と言うことができる。なぜならば、頭の中で価値を逆立ちさせてしまった大半の学者や官僚や政治家と違って、普通の生活者は、生活世界にこそ人間界の重力の中心はあり、日々のささいに見えることの連鎖の中に貴重なものがあると遙か太古からの精神的な遺伝のようなものとして受け継いで来ているからである。

(註.)「敗戦で死んだはずの亡霊の復古的な紋切り型の政治概念」が、なぜ今登場しているかについては、近々の別稿「現在というものの姿(像)について」で触れる予定。






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 現在というものの姿(像)について
  ―退行としての復古イデオロギー批判


 現在というものは、おそらくいつでもそこを生きる者にはぼんやりした姿としてしか捉えることができないのではないだろうか。現在のものを素材として現在というものの正体を捉えようといろんな諸要素を駆使してその像を結ぼうとしても、どうしてもぼやけてしまうのではないか。これは、この社会や世界全体の現在という場合でも、ある家族やひとつの会社の現在についても変わらない。これはなぜだろうか。できるだけ内省しようとしたり、客観視しようとしても、現在に生きるわたしたちはその渦中にいて、頭がのぼせていたり、あるいは大半は現在に対して無意識的に振る舞っているからだと思われる。そこでもうひとつ、現在の正体に迫る方法として、少し頭を冷やして過去の方からたどってくるということがある。これは思想に限らず、わたしたちが日常的に採っているやり方でもある。

 そのように現在を捉えることが困難を極めても、それでもわたしたちは現在というものの姿を捉えようとすることを止めることはないだろう。現在を生きるわたしたちの息苦しさとそれを解除しようとする欲求がそれを促すからである。わたしたちひとりひとりの固有性を超えてその息苦しさの正体を一般的に分離してみれば、上限は政治を含む共同的なものとしてやってくるものであり、下限としては家族を含む人と人との関わり合うところからやって来るものである。それらはいずれも遙か太古からの歴史的な積み重なりの現在としてある。

 ところで、対象を捉え、吟味しようとして視線を向ける場合、その人間的な視線には、吉本さんの指摘した地面と平行な人の目の高さの視線(普遍視線)と上空から垂直に俯瞰する視線(世界視線)がある。後者は、現在では人類は人工衛星の高度からの視線を獲得している。わたしたちは特に現在に対して無意識的ではなく醒めた場面では誰でもこの二つの視線の交わるところで対象を見ている。その場合、世界視線は低高度であり客観的な視線と呼ぶべきかもしれない。これは自分含めた対象の現場性を抜け出して見渡す、考えるという外からの視線であり、現在を振り切って時間の流れで見渡すという時間性も含んでいる。そういう意味では、この世界視線は内省的な視線と見なすこともできる。あるいは、その客観的な視線を主要に行使すれば現場性を離れた外からの他人事の視線と見なすことができる場合もある。

 ここで、この現在というものの姿、にぎやかすぎるけど、どん詰まりの荒れ果てた風景たちの惨状はどこから来たか。過去の方からの俯瞰的な眼差しを向けてみる。

 現在の方へ下ってくると、第一次産業の農業人口が急速に減少し、それと同時に旧来的な農村社会の残滓や生(なま)の自然感や自然イメージが枯渇して来ている。一方で、第三次産業のサービス業が主流になり、経済構成も消費が中心となる経済社会になり、したがって消費を促す広告産業が産業の一部門になるほど栄えてきた。人工的な自然感性や自然イメージが振りまかれる消費資本主義の時代になってきた。この主流の産業の交替が、わたしたちの生活の感性や意識の変貌に与えた影響は大きい。この新旧の時代は、事件や出来事としての激しさは見られなくても、江戸期から明治近代への激動の時代のように大きく社会の段階を画するものになっている。人々は無意識的な部分でその流れを受け入れたり退けたり耐えたりしながら、少しずつ慣れて割と自然なものとして受け入れ見なすようになってきたのである。もし、わたしたちの現在の内面の感受や意識を腑分けしてみたら、それらの産業構成の大規模な入れ替わり・変動と対応するような自然感や自然イメージの入れ替わり変貌した分布が得られると思う。

 したがって、現在を、敗戦後からの70年の歩みとして捉えると、老年期に当たると言えるかもしれない。その例えで言えば、今までの歩みのいろんなツケが積み重なって来ていて、そのツケの支払いを迫られているような状況になっている。もうひとつの見方もできる。現在をそんなどん詰まりの死に瀕した社会だとすれば、死後の社会、つまり、次の新たな時代の始まりの兆しが蕗(ふき)のとうのようにどこかに存在するのかもしれない。それが本格的に大衆的に気づかれるのはずいぶん遅れてやって来るのだとしても。

 第一次産業の農業が主流から退いていくにしたがって、それに対応する生の自然意識が底をさらわれるように旧来的な世界や情緒や思想が消えていく現在、その危機感からその旧来的な世界を過激に回復しようとする退行が、現在のグローバリズムや消費資本主義的な衣装を身にまといながら、現れている。退行というのは、政治権力による一時的な見かけ上の回復は可能だとしても、その流れは避けられない歴史の必然だというわたしの認識から来ている。

 したがって、現状のSNSにおける「ネトウヨ」の花盛りに見られる惨状や現政権の復古イデオロギーへの純化は、かつて戦争期という大きな危機に際して、全てが雪崩を打つように太古の感性に先祖返りしてしまった、そうして米英を太古の感性さながらに「鬼畜米英」と呼んで退化した〈鬼〉のイメージで捉えることに何にもふしぎに思わなかった、こうした危機からの退行と同質のものである。そして、現在の危機感をもたらすのは、戦争ではなく社会の大きな段階を画するような変動である。彼らは右往左往してその変動する現在の難しい諸問題にまともに対処し得ないが故に、安易な退行に逃げ込んでいるのである。しかも、外敵を作って煽ったり、社会に様々なくさびを打ち、マスコミを統制したり、と憲法改悪と復古イデオロギーへの退行に突き進んでいる。つまり、この社会の未来的な兆しを捜したり、検討したするのではなく、このわたしたちの生存する現在の社会をひちゃかちゃに荒らしまくっている。

 わたしたち普通の生活者は、この社会内に存在していると見なせるとしても、そのことをふだんほとんど意識することなく、個々具体的に存在し、日々生活している。わたしたち普通の生活者が、社会的に登場するのは一般にマスコミの世論調査や行政の家計消費の統計の値として、抽象化された意識の集約として登場する。ネットやSNSの表現がビッグデータとして集約されるなら、これもまたわたしたちの抽象化された意識の集約と見なせるだろう。こうしてわたしたち普通の生活者の大多数の民意も割と簡単に把握できるような社会になった。
 
 したがって、わたしたち普通の生活者の代行としての政治家や政府は、知ろうと思えば簡単にわたしたち多数の民意を知り得るのである。しかし、与野党含めて馬鹿な外交理念(軍事的な安全保障)などは耳にしても、わたしたち多数の民意をほんとうに受けとめる姿勢は今のところ見えてこない。派遣社員の増大や低所得層の増加、マスコミを通して知る日々の嫌なあるいは奇妙な事件として社会に浮上してくるこの荒れ果てた現在の風景を見ていると誰もが良い気分にはなれないだろう。この風景の過半の責任は、政治にある。つまり、官僚政治と自民党政権にある。

 誰もが、この現在に押し寄せている諸問題に答えるのは難しいと思う。しかし、それを具体例で示せば、派遣社員問題や年金問題、あるいはそれらへの抜本的な対策としての、諸外国でも検討され始めている「ベーシックインカム」(最低所得保障制度)などの検討など、実際に考え検討するのと、社会的な制度を改悪し社会の風景を荒らし続けたり、株価虚飾経済や「一億総活躍社会」などの中身のない空無を唱え続けるのとは違う。日本の経済学者で大蔵官僚であった下村治の『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』を以前読んだことがある。彼は高度経済成長期の経済的なブレーンであった。そして、(上から目線の古い言葉で言えば)「經世濟民」ということ、つまり普通の人々の幸福ということが、彼の考え方の中心に位置していた。当時の日本の貿易黒字に対するアメリカの考えや対策に対してもはっきりと問題点を指摘して意見を述べていた。もはや現在は、このようなすぐれた官僚や学者も存在し得ない、ちまちました意識的無意識的な己の利権を守る世界になってしまったのか?。

 もう一度くり返せば、アホな民主党政権の転んだ後の現政権は、本当は代々の自民党政権が積み上げてきた原発問題や他のさまざまな問題の尻ぬぐいが仕事だったはずである。それを居直り強盗よろしく、わたしたち大多数の普通の生活者とは無縁な、虚飾経済対策を併せ持つ空無な復古イデオロギー政権になってしまった。このどん詰まりの現在の社会の向こうから見れば、つまり未来性の萌芽の方から見れば、SNSにおける「ネトウヨ」の花盛りも復古イデオロギー現政権も、退行する病の、悪の徒花以外ではない。つまり、人々のまじめな知恵の結集として見なせるこの社会の本流とはなり得ない。






101


 吉本さんの言葉から―社会の新たな帯域の水圧 


 たぶん、吉本さんの晩年のインタビューか対談だったと思う。わたしによくあることだけど、今ではどこだったか思い出せない。ネットでキーワード検索して該当する本が分かる場合もあるけど、これはだめだった。[現在では、人は、無意識的な部分(潜在意識)が表面に露出し、ふだんの意識している部分(顕在意識)がそれと入れ替わってしまった。]このようなことを語られていたように思う。

 その言葉に出会った時は、一体社会のどのような現象を基にした判断で、どういう意味なのだろうかとよく分からなかった覚えがある。あまり詳しい前後の説明はなかったように思う。吉本さんに関してこういう不明なことをわたしはずいぶんと抱え持っている。社会に浮上してくる今までにないような事件を素材とされていたのだろうか。

 この前の「津久井やまゆり園」での元職員・植松容疑者の兇行も、ふだんは表面化しないような個の内面が、たぶん生い立ちとままならぬ生活とイデオロギー染みた病的なものとが互いに接合して、旧来では考えられなかったような強力な非行として社会に噴出して来たもののように感じる。

 ネットのツイッターなどのSNSの表現を見ていると、あるいは表現しようとする私自身の内面の動きを内省してみると、その吉本さんの言葉が分かったような気になる。旧来なら、あることに出会って或る感情を誘発しても沈黙の内面で完結していたが、新たな仮想空間の登場によって、ネットのSNSを介してそれらを言葉として放出できるようになった。そして、これにはあらゆるものごと同様に、良い点と悪い点とがある。

 もちろん、SNSで仮想的に互いに近接しても、旧来のよく知らない他人に対するような配慮や対応は誰でも働かせようとするはずである。しかし、SNSによる仮想的な近接
感と匿名性とに駆動されて、怒りや憎悪や罵倒などの内面の毒が放出されやすくなった。つまり、旧来なら一般的な外への通路を持たない内面と抑制された意識的な表面とが入れ替わりやすくなっている。

 これらのことは、現在の社会にとってもはや十分な使い物にはならない古いものの掃き寄せられているような帯域を、未だ十分にかたち成すことのない或る未知の帯域がある水圧で押し上げようとしていることの、個の内面におけるそれと対応する、二つの帯域間の軋みや摩擦などのもたらす現象と見なすことができるように思われる。

 もちろん、SNSにおける内面の毒の放出も、社会に事件として現れるものも、この社会に未だ十分にかたち成すことのない或る未知の帯域の水圧に対する、退行や病として表現されているように見える。したがって、ありふれたことだけど、まずは新たな舞台に立つ自覚と内省とを心掛けるしかないと言うほかない。SNSに限らず日々の生活経験の中、わたしたちの人間観が問われているのだ。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)

 






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 何度(たび)か、生活者住民として  (4) (終わり)



   4.わたしたちが生活世界の生活者住民として共存するための条件
 (ひと言で言えば、頭を冷やし、内省し、自覚し、身の丈の具体的な言葉を語ること。)


 学校のクラスの中の関係と違って、人と人とがお互いに関わり合う社会では、さらに外部から国や行政機関や各種団体などの触手も伸びてきて、諸要素が絡み合って錯綜としている。また、ネットのSNSという仮想の拡張ツールによって、わたしたちは従来では考えられなかったような仮想的な近距離感の出会いと話し合いが可能となった。遠く離れたもの同士が仮想の空間によって結びつけられ、互いに知恵を出し合い考えを磨いていくことも可能になった。SNSを含むネット世界には、知識や生活の知恵や芸術などが次々に付け加えられたり更新されたりして絶えず動態化している仮想的な知の集積庫ができていて、誰もがその世界に参入して何かを付加することができる。また、〈検索〉によってその世界からなにものかを引き出すことができる。必要とする情報も意外な情報も同時に引き出されてくる。しかし一方で、ネットのSNSという仮想の拡張ツールは病的とも見なせるような惨状をも引き起こすことができる。SNSを含むネット世界は、人々の人間的な表現に拡張をもたらす良い自由度とともに、悪の自由度ととも言うべき憎悪や悪罵の組織化の自由度も拡張したのである。しかし、それでもわたしたち生活者の日々見渡す社会は、具体的でこまごました小さな身の回りの世界というイメージが中心になっている。

 現在の最悪の荒れ果てる状況へと黄昏れていく政治・経済の表舞台では、オタク文化的な感性とネトウヨの排外的な紋切り型の政治言語とが融合していて、当人たちはカビの生えた亡霊の復古イデオロギーという自覚はなく、新しい積もりでいるようだ。(もちろん、この層は単一ではなくいくつかに類別できると思う)そして、まるで卑小な個という存在がモビルスーツに身を包むかのように、ノー天気にも個から一直線に政治や国家に直通して紋切り型の政治・イデオロギー言葉を力強く語る。もしかして、この層は自分たちは新しい存在と勘違いしているのではないか。もちろん、一方で、敗戦後71年がもたらした個の先鋭化の共有は無自覚にもどこかに隠し持っているはずである。しかし、過去へのあっけらかんとした退行やイメージと化したようなイデオロギーという意味では新しい。つまり、この層の基盤とする実体が、消失していく旧世界という空無にあるから、あっけらかんとした退行やイメージと化したようなイデオロギーにならざるを得ないのである。そして、オタク文化に象徴される現在の空気を受け入れている分だけ、現在に心地よく漂流していることになる。ここに類別される方は新しい。しかし、吉本さんが敗戦後の大衆の無意識やそこから導き出される教訓を論理化した、個や家族や国家は本質的には異次元のものだということ(『共同幻想論』)はスルーされている。敗戦後71年の空無化である。そんな特異な彼らがこの特異な政権を外野から支えてもいる。

 特に、こういうオタク・ネトウヨ的な、紋切り型のイデオロギーの登場によって、ネットのSNSというツールは、その近距離感の創出と匿名性ゆえに人間の負性をも増幅させることが分かってきた。ネットのSNSという仮想の空間での仮想の罵り合いや殴り合いである。仮想といっても、互いに心的な傷を負ったり、心的な悪の領域の促進ともなり得る。そしてこのことを一般化すれば、その世界に入りこむ者は誰もがそのような負性を引き寄せてしまう可能性を持っていることになる。

 わたしたち人間という存在の英知という観点から眺めて、誰もがほんとはそういう惨状を願ってはいないだろうと思う。とするならば、どうしたらそのような惨状を回避できるかということが問題になってくる。しかし、これは例えばケイタイのマナー問題がマスコミで取り上げられたりしたことがあるが、ひとつは使用者の自覚、もうひとつはケイタイというものに関する人々の経験の積み重ねを通して、ケイタイを使用する上でのある倫理のようなものを時間をかけて徐々に形作っていくほかないということがある。両者は関わり合って進行するはずだが、どちらかと言えば、後者の長い時間のスケールの方が主流かもしれない。ネットのSNSの問題も、これと同様の流れをたどるのかもしれないが、SNSにおける個の自覚の問題として考えてみる。さらに、これはSNSに限らずいろんな小社会の現場での人と人との関わり合いも想定して記している。なるようになっていくという面もあるが、それでも日々ジタバタするのが日々を生きる人というものだろうから、まずは不十分ながら、わたしが現在のところ思い付く回避策のための自覚事項を上げてみる。


1.人は、意識的にも無意識的にも日々生活している。そして、人と人とが関わり合いながら生活しているこの人間社会では、まず自分の生活や自分の家族の生活が第一であり、同時に、他人と関わり合う中にそれと同様の柔らかな照り返しが放てるのが望ましいことだと思われる。(もちろん、身近な知り合い、同じ列島に住む知らない人々、遠く離れた外国に生きる人々、と距離感を経るにしたがって困っていてもわたしたちの力ではどうしようもない場合が多い)そして、人がこの社会内でいかに様々の職業や社会的位置にあろうとも、誰にも共通する基底として、ひとりひとりが日々の具体を生きる生活者であるということがある。したがって、ここが同じ生活者としての出発点になる。

2.わたしたち自身の生まれ、育ちに関しても、家族の中で育てられ・育ち・今度は育てるという世代を継ぐ相互扶助が働いているが、この列島に生活する住民として、たくさんの現実的な要請と苦難や喜びの中から育まれてきた相互扶助の精神(互いに、見守り、助け合う、気持)を自覚し、受け継ぎ、大切にすること。

3.知識の世界(政治・経済・宗教・思想・科学など)に入り込んで、考えたり、宗教やイデオロギー(集団的な思想)を信じるのは個の自由だが、生活世界の諸問題を考え論じる時や場では、それらを鞘(さや)に収めて持ち出さないこと。つまり、イデオロギーというモビルスーツを脱ぐこと。さらにやっかいなことには、効率重視や成果中心などのような、この現在の精神的な空気のように存在してわたしたちに浸透しわたしたちの考えや判断をあたかも自然なことであるかのように左右する現代のイデオロギーもある。したがって、生活者住民の利益や幸福を中心の基底として、できるだけ具体に即して考え、具体的な判断を心掛けるようにする。こと。

註.例示
 地方議会などでは、例えば教育問題に関して、各政党に属している議員などがイデオロギーに浸食された考えや判断を示すということは十分にあり得ることだが、町内会での話し合いではまずそういうことはあり得ない。ある人が、イデオロギーに浸食された考えや判断を示せば、誰もが場違いな感じを持つはずである。

4.話し合いは、いかに稚拙であろうと、個として、その具体的な熟考としてなすべきであり、ある集団や組織やそれらの考え方を背景にして語らないこと。

5.人は、職場など属している小社会での待遇がどうであろうと、同じ生活世界の住民として平等であり、生活者として他の生活者に出会ったり向き合ったりするとき、各人の年齢や社会的な位置や肩書きなどは当然ながら意味をなさないこと。そして、同じ生活世界の住民として互いに現在まで人々が積み重ねてきた常識的な振る舞いを尊重すること。


 以上は、ありふれたイメージに見えるかもしれないが、現在のわたしが描くことのできるイメージである。なにか修正や新たな提案があれば、お互いに知恵を出し合い自由に考えを述べ合えば良いかと思う。

 現状は、憲法問題や安保法制問題や中韓との外交問題など町内会レベルの話を超越するような難しい大きな問題が社会に漂い、わたしたちに迫っているが、一応の基本原則としては今のところ上記の条件(自覚事項)でカバーできるのではないかと思う。夏目漱石に倣っていえば、生活者本位ということ。これはまた、何百万人もの死者を生み出した戦争の敗戦体験と明治近代と敗戦後の二度に渡る西欧の大きな波を潜ってきた体験とが、この列島の人々にもたらした唯一未来性のある思想だと思う。

 それらの大きな問題に対しては、アメリカの意向に左右されて来た敗戦後の歴史から自衛隊ひとつとっても、現状はねじれるような矛盾を抱えてしまっている。しかし、この現状からいろんなイデオロギーを排して、あくまで生活者として、生活者住民の常識のような感覚から少しでもいい方向性を見出していくほかないだろう。国家運営層や国家に群がる周辺知識層やイデオロギストたちの各国家としての対外的な威信や国内支配としての作為とは関係なく、わたしたちの生活世界からすれば、また中韓の人々の生活世界からすれば、安保法制問題や日中韓の外交問題は単純なことに過ぎない。つまり、隣同士仲良くやればいいのである。

 






103


  「茶だし」の問題―作者の生活世界の慣習に対する位置



 町田康の『リフォームの爆発』という作品を読みながら、わたしがふと立ち止まったところを引用して、考えてみる。


 そしてそう、四日目くらいからリフォームをする際、その本質とはまったく関係がないのにもかかわらず、私を深刻に悩ませる事態が起きた。なにか。茶出し、の問題である。 職人だちは十時と三時に短い休息をとる。そして、十二時から一時までは長い休息をとる。この間に茶菓を出すのは依頼者の義務ではない、義務ではないが、出さないと、「なんだ。ここの家は」みたいな、まるで非常識で頭おかしい、男なのに平日はブラジャーをつけ休日はキャミソールを着ている変態、みたいに思われる可能性が大なのである。
 もちろん、そんなものは都市伝説であり気にする必要はない、と断言する人もある。けれどもそう断言するためには、心付けの習慣のある国に行って心付けを渡さないで恬としている程度の胆力が必要であり、私にはそんな胆力はないので、茶菓はこれをお出しする、と工事前から決めていた。
 そこで朝、うぇっす、と不分明な挨拶をして職人だちが現れるや、素早くその人数を確認、素早く茶菓を用意し、十時になるやいなや、これを盆に載せ、玄関脇の元アトリエ・現駐車場のところで胡座をかいて喫煙したり、混凝土の上に寝そべっている職人のところへ行き、「あのう、よかったらこれを召し上がってください」と言挙げし、そっと置く、ということをした。
 (『リフォームの爆発』P172-P173 町田康 2016年)



 まず、作品世界は、作者が語り手や登場人物たちを物語の世界に派遣して、織り上げていく。この場合、作品世界の全てが作者のものではない。もちろん、登場人物を選んだりその語る言葉を書き留めるのは作者に間違いないけれども、よく作家たちが語るように登場人物たちが作者にこうしろああしろと要求する。つまり、これは物語の場面が現実性(真実味)を持つように作者の意図を超えて要請してくる、作者にそのように書き留めるように強いてくるものであるようだ。言いかえれば、作品世界は、作者の方に照明を当てれば作者が主体となって人物やその言動や場面を選択したり構成したりしているように見えるかもしれないが、実情としては、作者によって幻想の物語世界に派遣された語り手や登場人物たちが、流行や風俗や人間同士の関わり合い方など現在のあらゆる「マスイメージ」を呼吸しながら自立的に登場し、行動する。作者はその舞台の後景にいて、しかし一応の主体として物語世界を物質的に織り上げていく、すなわち、物語世界を書き記していく。一方で、作者は、語り手や登場人物たちに対する異和や親和や中性の意識や感情を通して、つまり、作品世界そのものを表現として差し出すことによって、現実社会の織り上げるイメージや秩序意識への批評性を込める。さらに、それがどんなに見つけにくいものだとしても、作品には作者の無意識も刻まれているはずである。作品世界そのものに対しては後景にいる作者であるが、作者の作品世界への意識的な関与と無意識的な関与とが織り成されることによって、作者によって作られたものという作品の固有性というものが表現されるのだと思う。

 こうした事情によって、作品とは、作者(たち)とわたしたちが生きている現在との合作と見た方が正確で実情に即していると言えるかもしれない。これは、物語作品に限らず、あらゆる芸術作品について言えることである。

 ところで、この引用の場面では、語り手である「私」は「茶出し」という生活世界での慣習の問題に触れている。これは作者の自宅のリフォーム体験という素材を実際に物語の場面として構成していく過程が、作者に要請したものである。もちろん、職人さんと依頼主との間の関わり方として生き残ってきている「茶出し」という慣習に、作者として絶対に触れなくてはならないということはない。語り手の「私」を通して語られているが、これは作者がその慣習を選択し、それを受け入れようとしたと見てまちがいないと思う。つまり、ここには作者の日常の生活世界に対する関わり方の意識の有り様が込められていることになる。

 「茶出し」の話題が、町田康作品の読者にはおそらく親しく馴染みのある文体で織り上げられている。今では表現世界での社会的な破壊力は余りないかもしれないが、パンクロック調の文体で語られている。これは、人と人とが関わり合う日常の生活圏への作者の近づき方や入り方の文体である。ただ、パンクロック調の文体と言っても、「私」すなわち作者もそうであるが、生活世界から一歩退いた場所にいる。したがって、少し低姿勢で恥じらいがちなのを紛らわすような文体になっていて、そのことが文章の無意識的な柔らかな流れにつながっているように思われる。

 ここでは、深入りする余裕はないけれども、この「茶出し」の問題は、おそらくわが国で貨幣経済に組み込まれる以前の労働の有り様から来ている慣習と思う。しかもそれは、農村の外からある技術を携えて訪れて来る人々との関わり合いから生まれた慣習ではなく、農村の集落内での共同労働(協同労働)から来たものだと想像する。私が小さい頃だった今から半世紀くらい前は、ワラ屋根がまだ多く、私の家もワラ屋根だった。そのワラの吹き替えの現場を目撃したことがある。わたしは小さいから下から何人もの人々が吹き替え仕事をするのを見ているだけだったと思う。この仕事に関わっている人々が、どういう人の構成だったかはよくわからないが、こういう場面では家の当事者(女性)はこれもまた他からの協力を得て、親戚から手伝いに来た人々や加わっている職人的な人や近隣の人々に食事などの「もてなし」をしなくてはならなかったろう。したがって、家には何セットかの各人用のお膳や食器類があった。都会は分からないが、たぶんどこの家庭にも一般的にはあったのだろう。

 今から半世紀くらい前は、まだ結婚式も葬式も法事も家から外に出てしまっていなかった。今ではそれぞれの業者の手に移ってしまっていて、例えば、葬式は町内の班などが担当したりする大忙しの共同行事ではなくなっている。地域社会のそうしたつながりは、そうした行事の受け皿となる冠婚葬祭の産業が生まれて結びをほどかれていき、次第に関わり合いの少ない近隣関係や親戚関係になってきた。この変貌は、一方では、一日や二日かかったりするきつい共同の仕事からの解放であり、核家族中心の生活時間の獲得であるが、もう一方では、割とのんびりした生活時間の流れから、経済社会のあくせくした生活時間への変貌でもあった。たぶん、高度経済成長の時期がそんな変貌を促した。

 しかし、この引用した場面で「私」が少し戸惑っているように、現在でも「茶出し」の慣習が曖昧な形で残っている。わたしも家を建てる時の「茶出し」を経験したことがある。この「茶出し」の慣習が曖昧な形で残っているということは、この経済社会が合理性や効率中心の欧米化を完全に遂げていないことの象徴だと思われる。そして、この日常の生活世界で誰でも、この列島に生まれ受け継がれ消えかけているが残っている「茶出し」の慣習のようなものに、どう受けとめどう関わるかということをしているはずである。先に挙げたように、冠婚葬祭業の登場などの産業の構成の変貌がわたしたちの生活世界を大きく変貌させるということがあるが、他方で、消えかけているが残っている「茶出し」などをどう扱っていくのかという、わたしたち生活者の大多数の意志のようなものが、今後の社会の変貌のもう一つの要因ともなれるような気がする。

 このようなおそらく実体験に基づいたエッセイとも物語ともとれるような作品でも、町田康の作品の愛読者なら、そんな形式に構うことなくその独特の語りの流れに乗り心地よい体験をするだろう。つまり、この独特の語りの中にすでに虚構性が込められていると見ることができる。現実の具体性から素材を得ているとしても、作者は語り手や登場人物たちを物語の世界に派遣して、物語という虚構の世界を造型していく。そしてその際、この引用部分のように作者独特の対象選択や物の見方や感受や生活世界への関わり合いの意識などという作者の固有性もまた作品にパンクロック調の文体としてではあるが織り込まれている。







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 語りの文体―擬音語による表現の意味


 あるとき階下で、「ああああ、ぎゃああああ」という叫び聲がして、次に私を呼ばう聲が響いた。急ぎ下りてみると大工さんが元・茶室の水屋のあった辺りにいて、ガス管、切っちゃった、と言ってへらへらしていた。私は慌ててU羅君に連絡取って、ガス屋さんに来て貰った。
 その様はちょっと見には有志連合軍の空爆を受けた家のようであったが、よく見ると、廃材とは別に釘や板材といった資材が整然と積んであり、また、道具や機械類が壁際に並んで、建設・創造の気配、息吹がかすかに感じられた。
 そして四日目あたりから、そのかすかな息吹がたしかなものになっていった。大工さんが、木材を切削し、壁や天井を貼るその下地を作り始めたのである。二階にいて聞こえる音も、それまでは、ギャーン、ドンガラガシャッン、ドガドガドガドカ、アギャギャギャギャッバーン、と濁点の多いものであったが、この頃より、トントントントン、パシャ、キリキリキリキリキリ、ポソン、キュー、コツコツ。と比較的穏やかなものとなっていた。
 (『リフォームの爆発』P171-P173 町田康 2016年)


 町田康の作品には、作者としては意欲作のつもりかもしれないが、ちょっと読むのに疲れた長編、『宿屋めぐり』のような作品もあるが、作品の主流はどこかこの国の語りの歴史を受け継ぎつつ、語り手がハチャメチャに踊り出すようなパンクロック調の文体にあると思う。これがわたしを含む町田康の作品の読者にウケているところではないかと思う。したがって、作品が虚構性を持つ物語的であるか事実に基づくエッセイ的であるかどうかとか、さらには表現される言葉が言語の規範に忠実であるかひどく規範を逸脱してるかなどは余り関係がなく、その語りの文体自体がある虚構性を帯びていて、読者に快をもたらすように見える。この作品もエッセイと物語の中間の作品である。しかし、わたし(たち)はそんなことにはあまり気にも留めずにその語りの文体を読み味わっている。わたし(たち)町田康の読者は、この文体のうねりや息遣いに出会うために作品に向かっているのだと思う。

 引用部の大工さんの叫び声や「ガス管、切っちゃった、と言ってへらへらしていた。」は、作者による誇張表現と思われる。現実には常識的に見てその大工さんは「私」にガスの元栓の場所を尋ねて元栓を閉めるなりの漏れるガスの応急処置に奔走するはずであるが、作者はそのことは描写しない。その場面の出来事は、作者の独特な語りの文体の方へ簡潔に切り整えられたり、「へらへらして」のようにその場面から一部が選択され変成されたりしている。こうした流れに沿って作者の派遣した語り手は語っていく。わたしたち読者は、場面の出来事というよりも、そんな場面を眺め語る作者の世界に対する〈歌〉とも言うべきパンクロック調の文体のうねりや肌感覚に出会うために作品に向かうのである。

 ここで引用部の表現の特色について少し触れてみる。
 二段目の「ちょっと見」から「よく見ると」への移行には、わたしたちの対象とする場面への一般的な視線の向け方、イメージ把握の仕方が出ている。つまり、最初は場面の全体を大雑把に捉え、次に細部にまで視線を届かせることによって、最初獲得したイメージや印象を修正したり、強化したりする。ここでは、いつもは二階で仕事している「私」は大工さんに呼ばれて階下に下り現場を見ているから、リフォームの現場の破壊と建設・創造の気配が視覚的な把握で捉えられている。

 三段目では、そのリフォームの現場の様子が聴覚的な表現で的確に、しかもパンクロック調の文体という作者の固有の表現で成されている。リフォームの現場の日々の進行具合を擬音語の対比的な表現によって示したうまい表現であると思う。この擬音語を用いた表現にはたぶん誰もが納得するだろう。この場面での聴覚的な表現の必然性は、「私」の仕事場が二階にあってそこから階下のリフォームの現場の様子を聞こえてくる音から感じ取っているからである。擬音語を用いた表現はリフォーム工事の何日かにわたる推移の表現だから、大工さんたちが仕事を終えて帰った後、もちろん、「私」が階下に下りてリフォームの現場の様子を見渡したこともあるだろし、そのことがリフォーム工事の現場の様子把握として「私」のどこかに仕舞い込まれているとしても、ここでは二階に聞こえてくるリフォームの現場の工事の音から工事の推移を把握した表現になっている。

 ところで、この擬音語の対比的な表現は、たぶん誰もが納得するだろうという普遍性において、ある種の普遍の表現になっている。それをうまく指し示すことは難しいが、おそらく言葉以前の領域における表現やコミュニケーションに棹さしているように思う。つまり、人類の歴史で言えば、遙かな太古の、言葉がまだ指示性を十分に獲得できなかった段階の名残であり、言い換えれば、人間の内臓感覚中心の表現の段階に対応する言葉のようなものである。

 このことを作者の方に返してみる。町田康の優れた長編作品『告白』の主人公は、わたしの薄らいだ記憶に拠れば、ある村の出自であったが、解消しがたい他人への異和を抱え、農作業を試みたりもしたけれど、その村に自分の居場所を築くことはできなかった。ヤクザのような生活をして、最後は破滅する。作者町田康の場合は、その主人公のようなヤクザなところや破滅的なところは前面に出ていないとしても、普通の生活者の世界から少し落ち込んだ場所に生存の位相があるのは共通している。

 作者の場合、その普通の生活者の世界から少し落ち込んだ場所に生存の位相があり、普通の生活者の世界と作者の世界の間には溝があることが意識されている。その溝という位相差(断層)からの、あるいは、その断層を埋めようとする欲求からの表現として、パンクロック調の語りの文体が行使されているように見える。特に擬音語の表現は、そういう自分の断層の起源の方に向けて、あるいは、起源の方からの無意識的な欲求として、駆動されているように思う。

 






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 人、作者、物語世界(語り手、登場人物)、についての再考察



 柳田国男の〈語り物〉の世界の追究や吉本さんの対談(「対談 作家への視点」『国文学 解釈と鑑賞』至文堂 1981年6月号)をきっかけに、物語の作品をより良く読むことに関連して、作者・語り手・登場人物についてその歴史性や現在的な有り様について少し考えたことがあります。現在的な有り様として、ある人が、あるモチーフに突き動かされるようにして、作者に変身し、ある幻想の舞台に向けて語り手や登場人物を派遣します。語り手や登場人物も作者の観念的な分裂(疎外)であり作者が生み出したものであるのは当然であるとしても、他方、登場人物たちとしても自立的にこういうキャラクターとして設定されたのならこんな風に振る舞うだろうなというような、選択し書き留めるのは作者だとしても、現実社会での人間関係や人間の振る舞い方の影響を受けています。こうして、作者に派遣された登場人物たちが行動し互いに関わり合い、それを語り手が語り進めていきます、さらに作者がそれらの言葉を書き記すことによって、物語の作品世界が造型されていきます。その造型されていく物語の作品世界には、語り手や登場人物の有り様に影響を与えている現実とその様々な有り様と作者との間の異和や親和などをも織り込まれています。

 わたしにはこれらのことをもっとしっくり来るような比喩で捉えてみたいという欲求があり、一年程前に一度書いたことがあります。(この文章の後に付します) 結婚式での例えを使ってみました。まだまだ十分ではないという思いからもう一度、試みてみることにしました。特に近代以降頃から次第に個が、一人の人間という存在がクローズアップされてきます。現在では、個という存在がいっそう先鋭化されてきていて、男女の関係を含む人と人との関係でも企業の振る舞いや行政や国家の対応もそれを無視しては成り立たないような状況になってきています。つまり、個と個の関わり合いにとっても個に向かう側にとっても、難しい時代になっています。

 例えば、今結婚式場で司会進行の仕事を職業としているAという人がいるとします。常識的な職業としての作家(作者)という言葉の使い方は脇に置いて、あるひとりの個が作者と見なされるのは彼が表現の世界に赴こうとしている時です。この例で言えば、Aが自宅を出て職場に向かう時点で仕事モードになりつつあるから、まだら模様のように個としてのAと司会進行の係りとしての職業人のAに二重化しています。職場に到着して仕事についてもその二重化は消失してしまうことはありません。個としてのAはずいぶん後景に退きつつ職業人の層が前面に出て来て仕事をしていることになります。

 職業人のAの仕事である結婚式は、何人もの会社の同僚スタッフの協働によって構成され、進行します。結婚式はわたしの小さい頃はまだ自宅で行われていましたが、今では業者の手に移ってしまっています。この結婚式の主体は当然結婚する二人ですが、結婚式を造型し展開していく業者の方から見てみることにします。すると業者のスタッフは結婚式の作者たちと見なすことができます。この作者たちは、結婚式という全体に対して言えることで、具体的な場面では、Aのように司会進行や音楽担当や配膳担当など具体的な仕事を担当することになります。また、関連するいろんなものの仕入れや調達、経理の仕事なども含みます。この作者たちは、事前に、結婚式の構成や進行について打ち合わせをするはずです。この場合の打ち合わせは、会社としてもう何度も経験されているから割とスムーズに進むでしょうが、ここで作者たちが意識するのは、結婚する当事者たちやその家族の意向、社会的な流行の取り入れや会社としての独創性の発揮、社会的な結婚や式に対する人々の感覚や意識、会社の意向、などで、それらを意識的あるいは無意識的に選択し取り入れていきます。物語作品に対応させれば、この打ち合わせは作品の大きなモチーフを考え、それを貫徹するためにどのような人物たちがどういう舞台でどんな物語を繰り広げていくかということを大まかに考えることに相当します。

 そこで、「結婚式」を「作品」、仕事に着いたAの「司会進行」を「語り手」、「結婚する二人やその家族や友人たちや仲人など」を「登場人物」と対応させて考えるとわかりやすくなると思います。

 作者たちは、事前に登場人物たち(主に結婚する二人)と打ち合わせをして彼らの意向や要望をくみ取ります。また、現在の社会の慣習や流行を吟味しつつそれらから結婚式の構成や進行に取り入れてこういうのはどうでしょうかと提案することもあるかもしれません。こうして結婚式の当日には、作者たちは具体的な仕事担当に変身して、登場人物たち(結婚する二人や他の参列者)により印象的で心に残るような結婚式を成し遂げようというモチーフを現実化していきます。と同時に、この結婚式はクールな営利の仕事としても実現されていきます。つまり、経済的な利益を生み出す仕事としてということです。このことは、現在の作家たちが作品を書いて売るという経済社会組み込まれて仕事をしている場合の事情と対応しています。

 結婚式の司会進行を担当するAは、結婚する二人から事前に聞き取った二人の生い立ちやエピソードなどを元にして、結婚式で登場人物たち(結婚する二人)の内面に入り込んだり、二人の関係の有り様について語る(描写する)ことができます。このことは言葉の作品では、語り手が登場人物たちの内面に自在に入り込んで描写したり、外から様子や行動を描写したりするのと対応しています。結婚式での語り手も物語作品の語り手も、すべてを知ることができる神のような全能性はありません。このことは次のような事情になっています。

 結婚式での語り手の場合は、人間における他者理解というものの限界性から来ています。もう一方の物語作品の語り手の場合には二つの事情があります。一つは、語りの遙か起源の制約、つまり人間にとって猛威と慈愛をもたらす神に近いと見なされ、しかもその恐ろしい正体がよくわからないという〈大いなる自然〉という感受がもたらしたもの、つまり〈大いなる自然〉について語るとしてもそれがあまりにも巨大で強力な対象だから、わたしたち人間にはそれを知り尽くしようがないということから来ていると思います。語る対象が、〈大いなる自然〉から貴人の武士、そして普通の人間へ、と遙か太古から現在へと移り変わって来てもその起源の制約を引きずって来ているのだと思います。

 二つ目は、作品の舞台は幻の世界であるとはいえ現在では主要には人と人とが関わり合う人間界であり、その舞台に登場するのは人間たちであり、語り手もまた同様の人間であるから、現在の一般的な人間力を超えすぎると読者にとっても現実味(リアリティ)を失い荒唐無稽で空疎なもの感じられるからです。こういうわけで、一人称の主人公=語り手の場合であっても、語り手は、主人公の内面を知り尽くしたり、全ての登場人物の行動や内面に触れたりすることができないことになります。つまり、語り手であれ、現在の人間的な性格が付与されているわけです。言い換えれば、他者(自己)理解の限界性です。わたしたちが作品を読むとき、そうした語り手の一般的な有り様は自然なものとして受けとめられているはずです。

 今はどうなっているかわかりませんが、わたしが小学生だった頃の体験では、国語の授業で詩や物語を読み味わう場合、この表現から作者の感じていることや作者の考えを捉えてみましょうというように、作者と作品とが位相差のない割と直線的な関係で捉えられていた印象があります。今のわたしにとっては、作品を読み味わう場合にそれでは満足できなくて、人、作者、物語世界(語り手、登場人物)についてもう少し微細に捉えてみようとしました。さらに、そういう機構は、個、家族、職場、宗教や国家などの様々な位相差を持つ、すなわち次元の異なる世界とわたしたちが日々関わり合って生きている、その関わり合いの機構とも割と相似なような気がします。しかし、この列島の根深い伝統としては、位相差を飛び越えてつながるという割とのっぺらぼうのつながり方がまだまだ負の遺伝子のように残っているように思われます。



 付.

 以上、職場での仕事と物語作品の表現の二つのことを対応させながら述べたことを取り出して大まかに図式化してみます。


1.個A(自宅など) →→変身→→ 職業人A(職場) →→変身→→ 個A(自宅など)
                       ↓司会進行担当A(職場)
                       ↓職場の打ち合わせ
                       ↓結婚式の司会進行・語り(職場)


2.個A(自宅など) →→変身→→ 作者A(自宅など) →→変身→→ 個A(自宅など)
                     ↓(作品のモチーフを考え、
                     ↓具体化するイメージを練る)
                     ↓
                     ↓(派遣する)
                    語り手
                     ↓(登場人物の行動や内面などを語る)
                   登場人物

※ ここで、「個A」というのは、具体的にはわたしたちひとり一人の存在のことであり、総体としての一人の人間を指しています。わたしたちは、大きく分ければ私的な存在と公的な存在を現実の様々な場面で誰でも強いられています。両者の間を変身しながら行き来しています。もっと、細分化すると一人の人間には、自分そのものとつながる、家族とつながる、職場とつながる、宗教や国家などとつながる、などいろんなつながる可能性の「結合手」を内に持っています。そして、わたしたちはそのような様々な世界とつながったりほどいたりしながら日々生活しています。つまり、わたしたちひとり一人の中に、様々なレベルの世界とつながる層があり、それぞれの層がそれぞれの世界への「結合手」を持っており、その接続の微細な機構は未だ把握が難しいとしても、日々接続したり解除したりしながらわたしたちは生きているのです。

 例えば、学校に通っているA君は、自分の性格に悩んだり趣味を楽しんだり、家族の中での担当の風呂洗いの仕事をしたり、学校に行って勉強したり保健委員会の会議の議長の役を務めたり、と一日をいろんな世界とつながりの手を結んだり、ほどいたりしながら生活しています。わたしたちの誰もが、特に何か問題が起こらない限り、割とシームレスにこのように様々な世界を日々行き来しながら生活しています。

 そのことは、ある人が、職場に出かけて仕事をする場合も、物語作品を生み出す場合も似たような行動を取っています。その点に注目して比喩的に考えてみました。


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  2015年07月11日
 人、作者、物語世界(語り手、登場人物)についての軽ーい考察



 作品(物語)は、ある人がよいしょっと腰を上げ、作者(表現する者、表現世界を生み出す者)になって、何かを生み出そうとして表現世界に足を踏み入れ、登場人物や語り手を手配し、構想を練り書き出し、ひとつの物語世界(作品)を創り上げていきます。もちろん、その過程では、行きつ戻りつのその世界の模様替えや手直しなどもあります。
 作品世界の文字を書き記しているのは作者となったある人ですが、その作品世界で言葉を繰り出すのは、語り手や登場人物に変身してしまった作者です。したがって、それらは作者とはイクオールではありません。

 つまり、ここで、現実としてある人の活動や活動内容だからといって、「ある人」=「作者」=「語り手」=「登場人物」ということにはなりません。次元や位相の違いを考えると、むしろ、「ある人」≠「作者」≠「語り手」≠「登場人物」となります。この≠という数学記号は、ここではそっくりそのまま等しい分けではないという意味で使っています。

 そのことは、ちょうどある人が結婚式会場に勤めていて、司会の仕事をしているとすると、「ある人」≠「結婚式の司会者」≠「結婚式のいろんな催し」、であることは実感でわかると思います。そこでは、多様な性格の個である「ある人」は、絞り込まれて職業上の「結婚式の司会者」に変身しています。もちろん、それらが実際としてそのある人の行動であるという点では否定することはできません。

 その司会者としての振る舞いは、社会的な風習の現在をふまえ、その古い形や最新の形を検討して、おそらく自らも参加して決めた会社のメニューに沿いつつ、またお客たちの要望も受け入れつつ、自分なりの言葉のリズムを加えながら結婚式の構成を進めてていくはずです。

 このことは、物語などの芸術という場面での、作者についても言えます。つまり、ある情景やある場面の描写は、作者によってなされていますが、そういう情景やある場面の描写の歴史的な現在までの達成を無意識的にも踏まえながら、また作者が作り上げたものではない現在の社会の風俗や流行などを踏まえながら、作者の固有な選択や色合いが加わって描写されています。

 だから、作品は作者が描写したといってもいいけれど、現実の世界が作者に書かせているという言い方も成り立ちます。

 このようにわたしたちは、「ある人」≠「結婚式の司会者」≠「結婚式のいろんな催し」や「ある人」≠「作者」≠「語り手」≠「登場人物」というふうに、現実の社会では多層的な関わり合いの世界を無意識的な活動のように日々行き来しています。例えて言えば、わたしたちは日々分身の術を使って行動や生活をしています。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






106


 新たな段階の徴候―システム化された農業工場


 2016年9月15日のNHK Eテレ、スーパープレゼンテーション「次世代のデジタル農業」(ケイレブ・ハーパー)という番組を観た。これはアメリカのMITメディアラボ内での農業プロジェクトだった。また、先日は、ある番組内で、大分のパプリカ栽培工場の紹介の場面も観た。それは壮大な規模のハウス内でのパプリカ栽培だった。いずれもセンサーを様々な個所に取り付け、作物にとって最良の環境になるようにコンピュータによる探知・制御・管理をして育てるものである。おそらく経験を積み重ねて作物の成育にとって光や水や肥料などの最適な環境を整えるのだと思う。

 天候になどに大きく左右される、つまり不安定要因を持つ従来の農業にとって、ハウス栽培農業は、例えばスーパーに年中キュウリがあるようになった状況と対応した新たな飛躍した農業として今では定着しているのではないかと思う。もちろん、ハウス栽培農業はキュウリが一年に何度か収穫できるとしても従来の農業よりも経営規模は大きくなり、諸経費も大きくかかるのかもしれない。

 ネットで熊本県菊陽町のにんじん栽培の様子を動画で見た。にんじんは年に二回、冬ニンジンと春ニンジンが栽培されていた。動画に写っていたが、たぶん寒い時期はトンネル式のハウス栽培のようだ。苗の間引きは手作業で大変そうだったが、収穫は機械で行われていた。年中にんじんやキュウリなどがスーパーに出ているのは、わたしの推測に過ぎないがハウス栽培や冷蔵保存技術の進化などのおかげかもしれない。たぶん、いろんな技術がリンクし合ったり、メロンやキャベツなど列島の東西での収穫時期の少しのずれと流通が結びついたりして、年中見かけたり、以前よりも長くスーパーで見かけるようになっているのかもしれない。少しずついろんなことが変貌してきていて、わたしたちは日々の生活の中でその恩恵を受けている。

 しかし、植物工場のようなシステム化された農業は、ハウス栽培の農業がその小さなきっかけを与えたのだとしても、ハウス栽培農業をも従来の農業と括れるほどの、その従来の農業を超えたさらに大きな次元の繰り上がった飛躍に見える。植物工場のようなシステム化された農業においてくり返される経験の蓄積によって、人間は自然の更なる深層と出会うことになると思う。つまり、より一層すぐれた作物を安定的に栽培し供給できるようになるだろう。

 その場合、西欧近代のように人間は自然を思い通りに制御・加工するんだという横着な自然観(それは、わたしたちの現在が、大自然の引き起こす災害に成す術なしという面を相変わらず持っているとしても、人間はある程度の自然に対する独立性を手にしているという反映でもあるが)の延長ではどこまで行けるか頼りない気がする。たぶん、今はまだはっきりとは見えてこないだろうが、新たな自然哲学(人間と自然との関わり合いに対する考え方)が必要とされるようになるだろうと思う。つまり、わたしたちは現在新たな社会の段階のいろんな徴候と出会っていることになる。これもそのひとつである。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)

 






107


 表現世界(作品)に対する読者(観客)の位置
    ―読者の作品内外における様々な行動

 ※(「人、作者、物語世界(語り手、登場人物)、についての再考察」の補遺)


 例えば、わたしは観ていないけど一時期韓流ドラマが人気になったことがあり、そのドラマの登場人物を演じた役者を追っかけたり、あるいはドラマのロケ地を訪ねたりという記事やニュースを目にしたことがあります。わたしの場合は、流行にずいぶん遅れて近年になって偶然のきっかけでわが国の時代劇に当たる韓国のドラマを6、7作観たことがあります。どの作品もとても長い続き物でした。わが国の時代劇とは違ったおもしろさがありました。そして、あの登場人物はおもしろいなとか、当然ながら殺陣や映像がエンターテインメント的だななどと作品の印象をつぶやくことはあります。けれど、俳優やロケ地などを追っかける気持はわたしには全くありません。作品は作り物の虚構の世界であり、登場する人物を演じる俳優たちはその虚構の世界だけを生きていると思うからです。

 しかし、そのような追っかける気持はなんとなくわかるような気もします。おそらく、気に入った歌手や俳優やスポーツ選手や芸術家などの個人的なことも含めて興味を持ち追っかける心理と同一なのでしょう。さらに、それは遙か太古から続く根深い精神の遺伝子のようなものだと思われます。

 まず、現在的に見て、人は誰でも、この人間界では個人、家族の一員、職業人、など多重の関係網の中を、私的~公的に渡って日々行き来しながらわりとシームレスに行動しています。様々な役柄を演じているように見えても、それはひとりの人だという受け止め方は、自然であろうと思われます。特に西欧社会と違って我が列島では、一人の人の中の私的な面と公的な面をはっきりと区別することがなく、あいまいな同一性と見なしがちです。つまり、誰でも実感としては違いを感じることはあっても、ひとりの人間の中に私的~公的に渡って現れるいろんな層が未分離だということです。

 テレビの草創期の笑い話として本で読んだことがあります。ある役者があるドラマの中で一回死んだのにまた別のドラマに出ていて、テレビを観ていたおばあちゃんが役者が死んだのに生き返っているととてもビックリしたという話です。今では、そういう風に思うことはなくなっていると思いますが、もしそのようなあいまいな同一性でひとりの人を見るならば、そういう驚きは成り立ち得ます。また、有名人を追っかける意識もそのあいまいな同一性に基づいているように思います。これをまとめると次のようになります。西欧の実情は知らないから、西欧的な言葉や論理や書物から得た西欧人の考え方に基づいた大雑把なイメージ把握になります。テレビなどで西欧人を観ていると、スポーツや芸能人に対して、パパラッチもいて、ということは普通の人々のそんな興味や関心の需要の存在もうかがえて、わが国の人々と似たような面もありそうに思います。したがって、わが列島と西欧との意識の大まかな主流の区別として取り出してみます。


 あいまいな同一性(わが列島の場合)
 「ひとりの人」≒「表現者」≒「表現の舞台」≒「表現」


 それぞれの差異性(西欧の場合)
 「ひとりの人」≠「表現者」≠「表現の舞台」≠「表現」

  註. (≒ : 大体等しい) (≠ : 等しくない)


 歌手や俳優やスポーツ選手や芸術家などが、〈表現者〉に変身して〈表現の舞台〉に上り〈表現〉し終わったなら、また元の〈個人〉に戻ります。しかし、〈表現者〉が〈表現の舞台〉を降りても、社会も人々もそのように〈個人〉と見なすのではなく、〈表現者〉という色の付いたフィルター越しに見ます。有名人として見ると言い換えることができます。傾向性としては、わが列島と西欧とにおいて、上記の区別のようなものがあるとしても、この「有名人」に対する眼差しや意識の有り様は、度合いの差を含みつつの人類普遍と言えるかもしれません。また、わが国で見ても、今から半世紀前と現在とでは、有名人に対するまなざしや意識はずいぶん変貌してきているように感じられます。つまり、有名人もわたしたちと同じ普通の人々ではないかと捉える部分が増大してきて、そのマレビト性が薄らいできています。つまり、「有名人」に対する眼差しや意識の有り様の度合いが薄まっています。

 では、次にそのような人類普遍とも言えるような「有名人」に対する眼差しや意識の有り様はどこから来ているのでしょう。たぶん、簡単に言えば、遙か太古の巫女やシャーマンの登場(発生)の仕方や彼らへの普通の住民たちの眼差しや処遇から来ている根深い精神の遺伝子だと思います。わが列島は、近代以降大きな西欧化の波を二度もかぶり、その影響も少しずつ浸透し、徐々にひとりの人間の中に私的~公的に渡って現れるいろんな層の区別が付けられる方向に向かうと思います。しかし、政治を含めてその「有名人」へのまなざしや意識が、マレビト性として当人たちも周りの人々も負性として依然として根強く現在に生き残っています。

 ところで、読者(観客)は、スポーツや芸術のどんな表現(作品)でもそれを観(読み)終われば、ちょうど上映が終わって映画館を出て行く時のように現実の世界に帰還して行きます。もちろんどんな作品でも観(読み)終わっても余韻を引きずったり、さらにもっと後まで印象に残るということはあります。「有名人」や「聖地」への追っかけの人々を別にけなすつもりはさらさらないけれど、それでいいのだとわたしは思っています。表現された作品こそが全てだという方向に向かえばいいなと思っています。


註.「あいまいな同一性」について

 柳田国男がこの列島に数多く残っていた小町伝説について取り上げたことに以前触れたことがあります。諸国を巡り歩いた語りの女性たちが、村々で一人称で小野小町になりきって語ったから、その語りを聞いた村々の人々は語り手と小野小町を同一化して小野小町伝説を生み出したり小町塚などを築いたりした、と捉えています。これも「あいまいな同一性」に当たります。
(因みに一人称の語りについては、『アイヌ神謡集』・知里幸惠にも、「梟の神の自ら歌った謡」など一人称の語りの作品が収められています。)





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 日々いろいろ―ベッキーさんの広告表現のこと


 芸能人のベッキーさんをわたしは「世界の果てまでイッテQ!」というテレビ番組で知った。わりと好感を持ってベッキーさんが登場する場面を観ていた。

 芸能人のベッキーさんが、本日29日の新聞広告に登場しているらしい。「背中ヌード」姿のベッキーさんで、「あたらしい服を、さがそう。」というキャッチコピーが付いている宝島社の企業広告ということである。宝島社とくれば、わたしには雑誌や書籍の出版社というイメージしかなかった。宝島社のホームページを見てもなおさら要領を得ない。別ので検索するとやはり雑誌や書籍の出版社のようである。だから、宝島社がこのような広告を掲載する意味がよく分からない。もちろん、その広告が宝島社の企業イメージを高めることは言えるだろう。そういう余裕のある企業なのだろうか。あるいは、後々のベッキーさんの体験本とかとの関わりもあるのだろうか。わからない。

 まず、広告代理店(註.今年1月に女優の樹木希林を起用したこれと同様の企業広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」は、宝島社のホームページによると電通のスタッフが中心的に関わっている)(広告主)は、なぜベッキーさんを広告の登場人物に選択したのだろうか。

 広告という表現の舞台に立つ登場者は、必ずしも人間が必須というわけではない。動物たちだけでも、自然の風景だけでも、あるいは自然の風景と車だけでもいいわけである。ただ、いずれであっても広告表現としてのイメージ価値を高めるものでなくてはならない。そして、それが広告主の企業や商品のイメージ価値と連動して高めるかどうかはわからなくても、なんらかの相関があるのは確かだろう。ちょうど、ある人のあるいい感じの行動を目にして、その人に好意を持ったり、話しかけてみようという気持になったりする人がその現場の中の何人かいるように、なんらかの相関がある。そして、関心を持たない人々もいるわけである。

 ベッキーさんの「不倫騒動」は、この社会の一般的なマスイメージとしては負のイメージ価値である。どうして負のイメージ価値を付与されたベッキーさんがコマーシャルに採用されたのだろうか。一つには、「不倫」報道が今年の1月に始まって、様々な当事者たちの関係のドラマがあっただろうが、半年以上も時間が経って当事者たちは別としてもわたしたち観客にとっては生々しさが薄らいで来ているということがある。二つ目は、一つ目の状況を踏まえて、負のイメージを負わされ苦しみ悩み傷ついた芸能人のベッキーさんが、現実に具体的にそれを乗り越えて新たな生活を始めようとしていることが、「この世界で傷ついた者が立ち直ってい行こうとする物語」にもっともふさわしいと見なされたからだと思う。はだか(背中ヌード)になって、髪も切ってということは、そのような物語の始まりの喩としての表現になっている。こうしてこの物語の中では、負のイメージから正のイメージへと変成される。

 長々と書き記したけれど、ベッキーさんに関わるこの間の「不倫騒動」などを多少とも知っている人々なら、おそらくほとんどの人々が、その広告を目にして直ちに、あるいはしばらくして、そのようなことを感じ取るのではないだろうか。






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 日々いろいろ―彼岸花はどのように赤いか


 稲穂が色付いていて、田んぼのあぜ道や土手に彼岸花が今が盛りと咲いている。
彼岸花の赤を眺めていたら、ゲーテ―吉本さんの言葉を思い浮かべてしまった。再び、ゲーテ―吉本さんの問いを少し違った角度から反芻してみる。(註.1)

 飢餓ということが社会の中心的な課題ではなくなった先進諸国、その日本の現状では、わたしたちは彼岸花を見ても、ああ、きれいな〈赤〉(赤以外もある)だなあと感じたり、もう秋だねと思ったりするくらいで、彼岸花の赤にその程度の感じを超えた特別の視線のイメージを一般的なものとしては持っていない。つまり、彼岸花の〈赤〉を見るときの視線に付加されるイメージは、季節感がずいぶんあいまいになってはいるけど、共同の季節感や個人的な色に対するイメージなどである。

 例えば、近世辺りまでの飢饉による飢餓の危機を秘めた社会の段階では、稲穂が色付く頃田んぼのあぜ道や土手に(植えられた?)彼岸花が、赤く咲くのを見て、人々はどんなイメージに染め上げられた視線を向けただろうか。おそらく、ふいとよぎる不吉さの記憶の匂いとともに安堵の思いに浸ったのかもしれない。彼岸花の球根は、飢饉の時の救荒植物だったと言われている。したがって、この段階での人々の彼岸花の〈赤〉を見る視線には、飢饉の時の体験や言い伝えの記憶が促す不吉さのイメージと共に、すがるような救いのイメージが込められていたはずである。すなわち、飢饉や飢餓があり得る社会段階の人々の視線が感じる彼岸花の〈赤〉にはそのようなイメージとして付加されていたはずだ。

 さらに太古よりも遙かに下って、人がまだ言葉というものを十全に獲得していない段階では、彼岸花(とは限らない、これがその頃からあったのかは分からない)の〈赤〉を見て、「ああ」とか「うう」とか言葉のようなものを伴いつつ、視線のイメージとしては心波立たせるものをその〈赤〉に感じたのかもしれない。その頃彼岸花があったとして、まだ救荒植物と見なされる以前の段階に当たるだろう。

 わたしたちは、誰もが子ども時代を経てきていて、その遠い体験は現在でもどこかに仕舞い込まれているということはおそらく多くの人々が認めるだろう。同様に、以上たどってきたような人類の起源的な段階や近世辺りまでの飢饉による飢餓の危機を秘めた社会の段階などの大きな区切りができるような人類の体験は、それぞれが層を成すようにして現在のわたしたちの心や意識の層に仕舞い込まれているのではないかと思われる。そして、わたしたちの現在の視線イメージの日常的な発動に何らかの形で無意識的にも付加されて現れてきているように見える。また、個人の瀕死の危機的な状況がおそらく太古以来の臨死体験を呼び起こすように、戦争などの社会総体の危機的な状況では、先の戦争期の「鬼畜米英」という言葉が生命力を持ち得たように、雪崩を打つような感性や意識や思想の先祖返りすること、そこから退行としてその層が抽出され前景化することもあり得るということを示した。まだまだ、わたしたちの心~精神に渡る層は、解明の手が十分に届いていない。


(註.1)

「ゲーテ―吉本さんの問い」については、下の詩集の「あとがき」で触れている。
詩集 『みどりの』 2013年






110


 童話的表現の意味


 裁判に一郎の出席を要請する、山猫からの「おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。」その翌朝の描写。



 けれども、一郎が眼をさましたときは、もうすっかり明るくなっていました。おもてにでてみると、まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのようにうるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。一郎はいそいでごはんをたべて、ひとり谷川に沿ったこみちを、かみの方へのぼって行きました。
 すきとおった風がざあっと吹ふくと、栗の木はばらばらと実をおとしました。一郎は栗の木をみあげて、
「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかったかい。」とききました。栗の木はちょっとしずかになって、
「やまねこなら、けさはやく、馬車でひがしの方へ飛んで行きましたよ。」と答えました。
「東ならぼくのいく方だねえ、おかしいな、とにかくもっといってみよう。栗の木ありがとう。」
 栗の木はだまってまた実をばらばらとおとしました。
 一郎がすこし行きますと、そこはもう笛ふきの滝でした。笛ふきの滝というのは、まっ白な岩の崖がけのなかほどに、小さな穴があいていて、そこから水が笛のように鳴って飛び出し、すぐ滝になって、ごうごう谷におちているのをいうのでした。
 一郎は滝に向いて叫さけびました。
「おいおい、笛ふき、やまねこがここを通らなかったかい。」
 滝がぴーぴー答えました。
「やまねこは、さっき、馬車で西の方へ飛んで行きましたよ。」
「おかしいな、西ならぼくのうちの方だ。けれども、まあも少し行ってみよう。ふえふき、ありがとう。」
 滝はまたもとのように笛を吹きつづけました。
 一郎がまたすこし行きますと、一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。
 一郎はからだをかがめて、
「おい、きのこ、やまねこが、ここを通らなかったかい。」
とききました。するときのこは
「やまねこなら、けさはやく、馬車で南の方へ飛んで行きましたよ。」とこたえました。一郎は首をひねりました。
「みなみならあっちの山のなかだ。おかしいな。まあもすこし行ってみよう。きのこ、ありがとう。」
 きのこはみんないそがしそうに、どってこどってこと、あのへんな楽隊をつづけました。
 (『どんぐりと山猫』 宮沢賢治 青空文庫より)




 一郎が、山猫に呼ばれて裁判の場所に出かける途中の描写である。一郎は、「栗の木」や「滝」「きのこ」と言葉を交わしている。さらにこれ以降の描写で、一郎はリスや山猫とも言葉を交わし、また、裁判の当事者であるどんぐり達も言葉を語っている。言わば、動植物を含むあらゆる自然物が一郎と言葉が交わせるのが当然のように自然に描写されている。

 わたしが小学校の低学年だった頃のことだと思う。学校の図書館の授業で幻灯機(とまだ呼ばれていたような記憶がある。映写機のこと。)から鍋に大根や人参などの野菜が入っている場面がスクリーンに映し出されていた。そして、その野菜たちが言葉で何か語り合っていた。わたしは別に不自然な気持にはならなかったような記憶がある。つまり、自然物が言葉を交わし合うのを割と自然なものとして受け入れていたような記憶がある。

 サンタクロースの存在を信じるというか、自然なものとして受け入れることができるという、子どもの年齢がどの位までかはわたしにはよくわからない。けれど、ある年齢になってある帯域を踏み越えると、今までの風景の感じや匂いや対象への感覚などが知らぬ間に変貌しているのだろう。そして、新たな帯域の風景に対する感受や対象への感覚などへと割とシームレスに推移していくのだろう。おそらくわたしたちは誰でもこのシームレスな帯域間の変位を経験しているはずだ。そして新たな帯域への変位を遂げてしまったら、「幼児期健忘」―これは一般に3歳以前の記憶に関して言われることだが―のように以前の世界の感受を忘れてしまうのだろう。

 ここで、フロイト―吉本さんの、人の生涯の歴史と人類の歴史とを対応していると見なす考え方(註.『母型論』の「序」P7)によれば、宮沢賢治の童話が描写するような人が自然物と言葉を交わし合うことができるのは、新たな帯域への変位を遂げる以前の世界の人(子ども)の表現に対応している。また、人類史の方に対応させれば、まだ自然にまみれて生きていたであろう〈アフリカ的〉な未開の段階の人間的な表現に対応していると言えるだろう。童話は近代になっていろいろな民話や説話から分離されて子どもを対象に生み出されたもので、編集者や作者がいて、主な読者を子どもとしている。しかし、そのような意図を超えたところで童話という形式を考えてみれば、そのように見なすほかないだろうと思う。

 したがって、この宮沢賢治の童話作品を新たな帯域への変位を遂げる以前の世界の人(子ども)が読んだ、あるいは親から語り聞かせてもらったとして、彼と変位以後の帯域に生きる者が読んだ場合とでは、なかなかその世界の異質さを具体的に抽出することは難しいだろうが、感受の一般性において世界は異質なものとして感じられているだろう。したがって、わたしたち大人が、宮沢賢治の童話作品に限らず童話の作品世界に入り込んでいく時、前者の子どもの入り込む自然さとは違って、童話はどこか特別なもてなしや表現を施されたものだというような構え(自覚)が無意識的にもあるような気がする。わたしたちは誰でも、前者の子どものような時代を生き、独特の風景や対象把握をしていたに違いないけれど、遙かに通り過ぎてしまった今では、それがどのような世界だったかを具体的な手触り感と共にもはや再現することはできない。

 しかし、童話の世界は、作者が作品に込めたモチーフや意図とは別に、童話という形式の根源のような場所で、旧帯域の子どもの世界や〈アフリカ的〉な未開の段階の人間的な世界に接地しているのだろうと思われる。

 したがって、人間界における人と人との関わり合う世界が主な舞台になってしまった現在の物語作品が、作品の主舞台を童話という形式に取ってしまうことなく、童話的な表現を部分的に選択し取り入れる場合はどう理解したら良いのだろうか。モチーフの積極性として考えられることは、いわばサンタクロースの不在がすでに無意識になっている読者が白けるかもしれないということを覚悟の上でそれをやるということは、人と自然や人と人とが関わり合う物語の舞台に今までにない何らかの深みある世界を浮上させたいという作者の欲求の表現ということになるだろうか。





111


 語り手について


 遙か太古、と言ってももう専門に語る者を想定できるようになった段階では、柳田国男の語りの考察を踏まえれば、語りはそれを面白がって聞く普通の人々の持つ世界観や世界イメージに添って語られるものだった。そうして、その語りには〈語り手〉が独自に生み出した脚色も付け加えられていった。

 時代が大きく下って、名の知られた武士などの貴人が〈登場人物〉として三人称で語られる場合には、〈語り手〉はその実在した武士の現実の有り様とは直接には関わりない説話に基づき、エンターテインメントとして、普通の人々が貴人として思い描くようなイメージに応えるように衣装や乗る馬の飾りやその武士の振る舞いなどを伝えられた説話的なイメージから選択したり、自分で想像したりして、まるで自分が現実に見てきたかのように語っていたに違いない。したがって、近世までの語りは、まず説話があり専門の〈語り手〉がいてその〈語り手〉が語りの中心だったとしても、〈語り手〉と〈聴衆〉という場では現在以上に〈語り手〉と〈聴衆〉との合作と呼べるような性格が強かったように見える。付け加えれば、現在のマスコミの語り手たちの語りも普通の大多数の人々がああそうかもねと思うようなイメージの流れや組み立てでできている。つまり、俗受けするような通俗的な表現になっていて、語りの対象とされる芸能人や「有名人」たちの現実そのものとは何の関係もない説話だと思った方がいい。

 現在の物語は、作品として主にひとりの作者によって創造される。そして、その物語の作品世界には、作者・(その作者の派遣する、あるいは作者に変身した者によってある舞台へ向けて観念的に外化された)語り手・登場人物というものたちがいて物語世界の創造に携わっている。また付け加えれば、その作品は著作権として作者(個人)は地上的に法で保護されている。もちろん、ここでも近世までの語りの〈語り手〉のように、物語の作者もまたその世界の一人である現在のこの世界、そこに日々生きて活動している大多数の普通の人々の抱く世界観や世界イメージ、つまりマスイメージの渦中に在っての喜びや葛藤などをくみ取ってくる。作者が作品を創造するといっても、その作品世界を組み立てる素材や用具をわたしたちが生活するこの現実界という貯水池に負っているのである。もちろん、作品の創造の過程では、作品は作者の選択・行動によって織り成され、作者のこの世界で生い育ってきた固有性もそこに付加されていく。

 ところで、現在の物語の〈語り手〉は、近世までの聴衆の意向を強く背負った〈語り手〉とは違って、一人の作者という存在に近い、個的存在と見なせるように思われる。しかし、〈語り手〉は、普通の人とは違い、登場人物たちを外から描写したり、(近代以降は)内面に入って描写したりという超人性(自由度)を持たされている。とはいっても、近世までの〈語り手〉と同様に、大多数の普通の人々の現在浸かっているマスイメージと大きくずれるということはないように見える。

 ところで、〈語り手〉が、動物や植物の内語のようなものとしてそれらに同化した意識の状態でそれらの思いや考えを言葉として語ったとする。もし、物語作品が〈童話〉という形式を選択していたら、そのことはあまり不自然とは見なされないように見える。また、遙かな古い時代では、海外の古い民話や説話の出だしとして、まだ人間が動物の言葉をわかっていた時代というような定型がある。わたしはこのような表現に出会って、それはどういうことなんだろうとふしぎに思い、疑問に思ったことがある。その定型表現になんらかの根拠があるとすれば、おそらく文字も成立していなかった遙かな太古、自然にまみれて生きる人間の世界理解や世界観から来ている、その名残であろう。つまり、人々があらゆる自然物と言葉を交わしたり交感したりすることができると信じられ、そのようなものとして自然に振る舞っていた人類の段階の名残ということだろう。

 現在では、〈語り手〉も〈登場人物〉も一人の〈作者〉によって生み出されるようになってしまった。人類の初源から眺めれば遙か遠くまで来て、分化や高度化を遂げてきたのかもしれないけれども、〈語り〉や〈物語〉の本質は形を変えても同一性として反復されているように見える。






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 作品から ― 片山恭一『なお、この星の上に』


 では、人間界における人と人との関わり合う世界が、物語の主要な舞台になってしまった現在の物語作品で、作品の主舞台を童話という形式として選択することなく、童話的な表現を部分的にであれ選択し作品世界に引き入れるということは可能だろうか。可能だろうかということは、(なんで鳥や獣が言葉を語るのだろうか)という読者の疑念を解消しうるような生きた言葉のイメージや理念を放出しうるだろうかと言い換えてもよい。ここに童話的な表現を部分的にであれ選択し作品世界に引き入た作品がある。まだ継続中の作品だから当然のこととして今まで表現されている作品の世界から見える、感じられることから考えてみる。

 作品の舞台は、今から半世紀くらい前の、高度経済成長によってこの列島の旧来的な社会が、景観としても産業構成としても文化や精神的なものとしても切り拓かれていく以前の時代や社会である。そんなとある村が取り上げられる。ただ、高度経済成長期へ流れていく徴候はある。「エラン」である。あるいは、電気洗濯機の話題である。(『なお、この星の上に』(8) 片山恭一)



 ほどなく大人たちの会話のなかに、「エラン」という聞き慣れない言葉があらわれるようになった。それは金やダイヤモンドにも相当する貴重なものであるらしかった。地質調査の男たちも、また健太郎たちが出会った老人も、この高価で貴重な鉱物を探していたらしい。やがて「エラン露頭発見」という記事が、地元の新聞に掲載された。さらに「有望なエラン鉱床発見」というニュースが、全国的にも大きく報道されるに至って、健太郎たちの村を含む一帯は、エラン鉱石生産の中心地として一躍有名になった。村中がエランの話題で持ちきりになった。新聞の見出しなどに使われた「石炭にかわる夢のエネルギー源」という謳い文句を、大人も子どもも門前の小僧のように口にした。エランとは何か? 石炭にかわる夢のエネルギー源である。それで充分だった。
 小学校の冬の暖房は主に石炭ストーブだった。当番は倉庫から石炭をバケツに入れて運んできたり、ストーブの底に溜まった燃えカスを捨てに行ったりしなくてはならない。雪の降る寒い日などは、なかなか辛い作業だった。あるとき朝礼で校長先生が話したことを、健太郎はいまでもよくおぼえている。将来は石炭などを使わなくても、エランによって簡単に暖房ができるようになる。エランを使って発電した電気によって、日本中の街が夜でも明るくなる……そんな話を校長先生は得意げにしたものだった。日本にとっても、健太郎たちの村にとっても、エランは明るい未来の象徴だった。
 (『なお、この星の上に』(5) 片山恭一)




 主人公と思われるのは、卒業後の進路を控えた中学生の少年、健太郎である。その健太郎は、次のような一般的な時期に差しかかっている。



 ここには自分が知らない世界がある、と健太郎は思った。山参りのなかで見聞きすることの多くが目新しく、どこか怪しい魅力を湛えている。日ごろ慣れ親しんでいる世界の奥に、もう一つ別の世界があり、そこへは神や信仰を足がかりにしなければ赴くことができないらしい。子どものあいだは、学校などで習う表向きの世界がすべてだ。大人になることは、さらに奥にある世界の存在を知ることなのだろう。自分はいま、子どもから大人への境界を越えようとしている。そのことを、身を切るような水の冷たさとともに健太郎は感じた。
 同時に、一つの疑問にもとらわれた。村の人たちは、エランによる発電という最新の科学技術を受け入れてようとしている。供給される電力によって、暮らしが豊かになることを期待している。その同じ者たちが、山参りのような昔からのしきたりを絶やさずに守りつづけている。奇妙なことではないだろうか? そう感じるのは自分だけだろうか。少なくとも父親をはじめ大人たちは、奇妙とも不合理とも思っていないらしい。そんな大人たちに、健太郎は軽い不信感をおぼえるようだった。
 (『なお、この星の上に』(13) )



 少年期を抜け出して少しずつ大人の世界に近づく時期にある少年の内面とそこから健太郎少年の目を通して、村の大人達の内面が矛盾した世界として見られている。現在から振り返れば、この村も「山参りのような昔からのしきたり」はどんどん切り崩されて「エラン」に象徴される「より豊かな」経済社会の方へ解体され組み込まれていくことになる。現在ではおそらく地方の小都市になっていると思われるこの時代の村は、日々の生活に必要なものは現在のように店でほとんど購入するというわけではなかった。まだいくらか自給自足的なものが名残のように残っていた。浦島太郎の時代は、遠い過去ではなかったのである。わたしが小さかったその頃は、まだ家庭用洗濯機が普及する前で、近くの川の堰き止められた所で洗濯していた。そこは近隣の女性達の語らいの場でもあった。

 この作品の舞台は、わたしの小さい頃のなじみの風景に近い。そして、作者が学んだこととともに小さい頃体験してきたこともいろいろとこの作品に散りばめられているように見える。例えば、次のような描写がある。



 鶏が苦手になったのには理由がある。小学四年生のときだった。健太郎は祖父に誘われるまま、何気ない気持ちで鶏の解体に立ち会った。祖父としては、孫に鶏のつぶし方を教えようと思ったのだろう。切り開かれた腹のなかには、これから産まれる卵が順番に並んでいた。殻が薄く付きかかっているものから、だんだん黄身だけになっていく。これが明日産むぶんの卵、これが明後日のぶん、というふうに祖父は説明してくれた。そのときは別段気持ち悪いとも思わなかったが、以来、目の前に鶏の肉が出てくるたびに、健太郎は腹のなかに並んだ卵を思い浮かべるようになった。
 (『なお、この星の上に』(7) )




 わたしの家でも、時たま父が「鶏の解体」をしていた。それをちらっと見たことがある。わたしも似たような感じで解体された鶏の料理を進んで食べなくなった覚えがある。この描写は、明確な根拠があるわけではない、わたしの直感的なものに過ぎないが、体験した者ではないと書けないのではないかという気がする。おそらくこの描写も作者の体験から散りばめられたものだろうと思われる。

  ところで、この作品には動物たちが人間と同じ言葉を語り合うように描写される童話的な表現が取られている個所がある。しかし、以下に引用する、遠足で眠気に襲われた健太郎の描写によれば、太古のようにあるいは宮沢賢治の童話のように人と動物などが言葉で交感し合うわけではないようだ。現在のわたしたちの世界のように人(健太郎)は動物(鳥)と言葉を交わすことはできない。人(健太郎)が動物(鳥)のさえずりのようなものを聞き取っている様が描写されているだけである。



しかし、やけにうるさく鳥が鳴いている。人間の知らない言葉で、何事か言い交わしているらしい。
「ツァラン、ツァリルリン」
「ツァリル、ツァリル」
「チチツン、ツーン、チ、チ」
 何を言っているのだろう。
 (『なお、この星の上に』(16) )




 動物たちが人間と同じ言葉を語り合うように描写される童話的な表現が取られている場面は、現在までのところ『なお、この星の上に』の(1)(10)(14)に表現されている。それぞれから取り出して、少し考察を加えてみる。



 イヌワシは切り立った崖の巣を飛び立った。昇ったばかりの朝日のなか、風をつかまえ、ゆっくりと旋回をはじめる。上昇気流に乗って、徐々に高度を上げていく。餌を探さなければならない。イヌワシは腹を空かせている。獲物はノウサギやヤマドリ、大型のヘビなどだ。ときにはカモシカの子どもを襲うこともある。獲物を見つけると、羽をたたんで急降下し、両足を突き出して襲いかかる。強力な爪で獲物を絞め殺してしまう。
 美しい朝だった。いい天気になりそうだ。イヌワシは気流に乗り滑空していった。羽ばたきをする必要はなかった。二メートルほどにもなる羽を広げれば、風が行きたいところへ運んでくれる。鋭い目と嘴が、太陽の光に反射して輝いている。たてがみのような後頭部の毛も金色だ。かすかに潮の匂いがした。風は海のほうから吹いてきているらしい。その風に乗って、今日はどこまで行ってみようか。
 (『なお、この星の上に』(1) )




 一段目は、〈語り手〉が登場人物の〈イヌワシ〉に関する様々な知見を基にした〈イヌワシ〉の説明的な語りになっている。「イヌワシは腹を空かせている」という内面を推し量るような描写があるけれども、この部分の描写の主流は割と外面的な描写になっている。それに対して二段目では、説明的な語りも含みつつも、〈語り手〉が登場人物の〈イヌワシ〉の内側に入り込み同化してしまった描写になっている。



 蜘蛛が巣をかけている近くでは、ホオノキに日光を遮られたユキノシタが、どちらに枝を伸ばそうかと思案していた。まったく予想外のことだった。いつのまにこんなに大きくなっていたのだろう。冬のあいだは葉を落としていたので気づかなかった。光は植物にとって食糧そのものだ。早く明るい場所に出なければならない。日差しを完全に遮られてしまえば、枝を伸ばすことは難しくなる。そうなれば他の植物に侵入され、悪くすれば枯れてしまう。まさに死活問題だった。だが間違った方向へ枝を伸ばしても光は得られない。右へ向かうか左へ向かうか。ユキノシタは芽と葉と茎を総動員して正しい答えを導き出そうとしていた。
 ようやく岩にたどり着いたイワガラミは、このときとばかりに成長をはじめていた。こいつに巻きついてしまえば一安心だ。アケビやツルアジサイも急いでいた。運良く、からみつく木に行き当たったのだ。この幸運を最大限に生かさなければならない。逆に、サルに喰い荒されたヤマヨモギは、根から吸収した水分を残った葉に送りながら、しばらく様子を見ることにした。食べられた部分は致命傷にはならないだろう。いずれ身体は回復するはずだ。しかし苦労して茎を伸ばし、葉を茂らせても、また食べられてしまってはどうしようもない。周囲のヤマヨモギたちも、被害にあった仲間の惨状に顔をしかめながら、当分は生長を見合わせることにした。気まぐれなサルたちは、そのうちに別の餌を見つけて場所を移動するだろう。
 (『なお、この星の上に』(10) )




 今度は植物たちの描写である。最初の引用は一段目と二段目で割と分離的だったが、ここでは〈語り手〉は、「光は植物にとって食糧そのものだ」に象徴されるような外部的な植物に関する知見からのまなざしと、〈語り手〉が登場人物の〈ユキノシタ〉、〈イワガラミ〉、〈ヤマヨモギ〉などに同化して語るのが混合された形の表現になっている。



 やがて母親のイノシシが霧のなかから姿を現した。後ろには三匹の子どものイノシシがくっついている。みんな身体にウリのような白い縞模様がある。この春に生まれた四匹の子どものイノシシだ。母親のイノシシは、子どもたちには目もくれず、地面の土に鼻をつけるようにして匂いを追っている。動物や虫の死骸が混じった腐葉土からは、発酵したような饐えた匂いがした。ふと何かを察知したかのように、母親のイノシシは顔を上げ、頭を左右に小刻みに震わせた。違う。この匂いではない。
「いいこと、坊やたち。世界にはたくさんの匂いがあるの。いい匂いもあれば悪い匂いもある。いい匂いのするものは、わたしたちのお腹を満たしてくれる。でも悪い匂いには絶対に近づいちゃだめ。それはわたしたちの命を奪う危険な匂いだから」
「ぼく、お腹が空いちゃったよ」
 一匹の子イノシシが言った。その子に向かって母親は言った。
「よく聞きなさい。いい匂いのなかにも、ときどき危険が潜んでいる。そのことを学ばないと、坊やの可愛いお耳もお鼻も尻尾も切り取られて、熱いお鍋のなかでグツグツと煮られてしまうのよ」
「そんな怖い話、ぼく嫌いだよ」
「さあ、付いてきなさい。おかあさんと一緒なら何も怖いことはないから」
 (『なお、この星の上に』(14) )




 まず、〈語り手〉は、姿を現す母親のイノシシと三匹の子どものイノシシとを外側から語り描写する。次に、「違う。この匂いではない。」と〈語り手〉は、母親のイノシシの内側に入り同化する、そこから語り描写する。次には、母親のイノシシと子どものイノシシたちが人間の言葉でやり取りする。ここで、「坊やの可愛いお耳もお鼻も尻尾も切り取られて、熱いお鍋のなかでグツグツと煮られてしまうのよ」という言葉は、イノシシが言葉を語るものだと見なしたとしてもイノシシの言葉ではない。つまり、イノシシが人間に狩られて解体処理され、人間に食べられるということは、イノシシが知りようがない世界である。そういう意味で、この部分の表現は、人間世界で子どもに対して言い聞かせるような方便が、ただ動物の世界にもスライドされただけだという通俗的な表現になっている。

 さて、この作品は現在のところ、人は動植物の言葉はわからないけれど、動植物たちは人間の言葉のようなものを語っている。そんな童話的な表現をこの作品の世界に引き入れる必然性はどこにあるのだろう。『なお、この星の上に』(18)まで読みたどってきた限りでは、そのような童話的な表現の必然性は感じられない。健太郎は鳥の言葉を理解しないのだから太古の名残のような人と自然物との交感ということでもなさそうだ。だから、その童話的な表現は、作品を空想性や通俗性の方に引き寄せてしまうのではないかと思われる。

 もし、そのように見なさないとすれば、どのような捉え方が可能であろうか。それは作者がこの作品に込めたモチーフに関わることである。つまり、作者が無自覚に童話的な表現を作品に引き入れたとは思えない。それに触れる前に、この作品には、作者の抱く独特の思想やイメージが込められているように見える。その部分を取り出してみる。



 歩き疲れた四人は、日の当たる暖かい草原に仰向けに横たわった。空にはやわらかな光が溢れている。風が顔の上を吹き渡っていく。目を閉じていると眠気に誘われそうになる。ここは穏やかさと安らぎに満ちた光の王国だ。生命を脅かすものは何一つない。健太郎はゆっくりと息を吸い、息を吐いた。呼吸に合わせて、太陽の熱に温められた身体が少しずつ膨らんでいく気がする。そして草原のいっぱいに広がっていく。
 自分が大人になったときのことを想像してみた。まだ何十年も先のことだ。そのころには、今日が遠い昔になって、多くのことが忘れ去られているだろう。ある一日、彼はこの草原にやって来る。そして同じ場所に寝転ぶ。すると何もかもが同じ姿で甦ってくる。この草の上に寝転んで目を閉じれば、いまの自分たちの姿を目に見ることができるだろう。太陽の日差しの暖かさや、鼻先をかすめていく風の匂いを感じることができるだろう。何も失われない。すべてはこの場所、この土地とともにありつづける。
 (『なお、この星の上に』(6) )



 父と山へ登る日が楽しみだった。まだ頂上へは行ったことがない。山の神の祠から先へは、子どもたちは立ち入ることを禁じられていた。その聖域に、はじめて足を踏み入れる。何が待っているだろう。どんなものに出会うだろう。頂上にある権現滝は、どんな姿をしているだろう。思いを巡らせているうちに、健太郎は不思議な感覚にとらわれた。自分のなかにたくさんのものがいるような気がした。どれが本当の自分かわからない。どれもが本当の自分だった。やがて一つが、彼の身体を抜け出していく。一つ、さらに一つ、また一つと……。
 そうして彼は大空を舞うイヌワシだった。日差しを求めて、競い合うように枝を伸ばす森の植物だった。梢のあいだを飛びまわる小鳥だった。大地を駆け抜ける犬だった。すべての生命が彼のなかにあった。すべてのものたちが深いところで結びつき、つながり合っていた。

 (『なお、この星の上に』(9) )


 「おばあちゃんは死んだらどこへ行くんけ」遠い記憶のなかで幼い子がたずねていた。 「ずうっと見守っておるよ」やはり遠い声が答える。「なんの心配もいらんよ」
 いま自分のいる場所が定かではなくなっている。あたりには人の気配がなく、先ほどまで聞こえていた同級生たちの声も遠くなっている。ここはどこだろう。現実の世界のなかに忍び込んだ、もう一つ空間にとらわれている気がした。やけにうるさく鳥が鳴いている。人間の知らない言葉で、何事か言い交わしているらしい。


 たしかに今日の自分はおかしい、と彼は思った。いつからおかしくなったのか、その境目がはっきりしなかった。ここに来て草の上に横たわったときからか、小鳥たちの奇妙な言葉が耳について離れなくなったときからか、それとも匂いに感覚が研ぎ澄まされていったときからか……。無力感をおぼえるようにして、健太郎は傍らに横たわる清美
(註.)を見た。顔に当たっている光は、彼女の内部より現れ、宇宙へ解き放たれているように見えた。これはいったいなんだろう。このキラキラと輝くものは。清美の顔や身体全体から放たれ出ているもの。それは彼のなかにもあった。清美から放たれ出たものが身体を通過し、自分のなかにある同じものとぶつかり、混ざり合い、共振し、落ち着かない気分にするのだった。これまで気がつかなかった。こんな輝かしいものが自分のなかにあることに。それは彼のなかにありながら、彼のものではなかった。
 健太郎は喘ぐようにして考えつづけた。先ほど口いっぱいに詰め込みたいと思ったものが、いまは彼の身体のなかにあった。胃袋の粘膜にこびりつき、悶々として光彩を放っていた。暗い臓腑の奥深くで、鈍く光っている。胃の腑にあり、五臓すべてにある。この卑俗な欲望は、卑俗であるがままに清浄だった。暗く窮屈なところに押し込められていながら、縹渺として自在だった。これは本当に自分だろうか。この身に起こっていることなのだろうか。極彩色に輝きながら、彼のなかに潮のように満ちてきたもの。それは生物であること、一個の欲望する生命であること、そのものだった。彼は自分がここに在ることに、目の眩むような慄きをおぼえた。
 (『なお、この星の上に』(16) )


註.
清美は同じ中学に通う少女で、仲間の豊が思いを寄せているらしいが、健太郎は小さい頃から清美を見知っているけど異性という意識は持ったことがなかったとある。(「(3)」) しかし、「これまでは見向きもしなかったものを、誰かが欲しがっていると知った途端に自分も欲しくなる。たしかにそういうことはある。つまり(引用者註.転校生の)内藤は、期せずして清美に新しい光を当てたのだ。この狭い共同体の外から、別の視線を持ち込んだ。異質な光や視線に触発されて、幼いころから清美という少女を見てきた者たちが動揺している。いまの自分はそういう状態なのだ、と健太郎は思った。」(「(18)」)というように、健太郎の心も動揺し変貌していく。


 遠足の日のことを、健太郎は思い出した。草の上に寝転んで目を閉じていたとき、ふと何か気配を感じて目をあけた。自分を見つめている眼差しと出会った。その眼差しは、彼がよく知っているものでありながら、まったく知らない少女のものだった。いった何が起こったのだろう。何が起ころうとしていたのだろう。あたかも外国の珍しい音楽と出会ったようなものだった。まるで耳にしたこともない未知の音楽。出会いは驚きであるとともに、どこか懐かしくもあった。長いあいだ忘れていた友だちと、ひさかたぶりに顔を合わせたような、そんな驚きでもあった。
 とても小さな音で、静かに流れていたのかもしれない。ずっと絶えることなく、流れつづけていたのかもしれない。いつも聞こえていたはずなのに、気がつかなかった。それが何かのきっかけで、突然聞こえはじめる。あのときがそうだった。いまも聞こえている。たとえ耳を塞いでも閉め出すことはできない。その美しい音楽は、遥か彼方の宇宙の果てを流れているようであり、また彼自身のなかを流れているようでもあった。 
 (『なお、この星の上に』(18) )




 たくさん引用したけど、作者の抱いている独特な、思想的なもの、概念のようなもの、あるイメージのようなもの、そこから下って来たと思われる言葉が、それらの描写の中には表現されている。特に、わたしがゴチックにした部分がその中枢的な言葉に当たっている。すべてに共通しているのは、わたしたちの普通の対象把握や対象理解とは違っているのではないかということである。
例えば、引用1つ目の健太郎の内面の思いは、おそらく作者の思いが重ねられているように見える。わたしたちが過去を振り返る時、、「何もかもが同じ姿で甦ってくる」ことはないと思う。わたしたちの現在の選択や脚色を知らぬ間に受けて過去は浮かび上がるのではないだろうか。同様に、作者がおそらく自伝的なものも織り込んだ遠い過去を舞台とするこの作品を書くモチーフも作者の現在に属している。そうして、モチーフの現在から出立し、作品世界を造型し、また現在に戻ってくる。

 清美に対する健太郎の心の描写に関しても、通俗的には、つまり普通大多数の人々が感じ捉える場合という意味では、清美に対する健太郎の内面は他者(一般的には異性)に向かい、受け取る、思春期特有の心の揺動である。しかし、作者は、そのようには見なしたがっていないように見える。あるいは、わたしたち読者には未だ明確の像としては浮上してきていないように見えるけれど、作者は一般理解を受け入れたとしてもそこからさらに違った地平での把握がより〈真〉に近いのだと言いたがっているように見える。

 これらの引用前の、作者がこの作品に込めたモチーフに関わることに戻る。動植物が人間の言葉を語り合うという表現は、普通の読者には通俗的な表現に見えて少し真実味を減殺するように感じられるが、作者の意識的な表現であると見なせば、今までにないような、作者の抱いている独特な、思想的なもの、概念のようなもの、あるイメージのようなものから下ってくる言葉の表現ということと対応しているように思われる。つまり、表現の型として志向する喩ということにおいて同一ではないかと見なすほかないように思う。



 ※ 『なお、この星の上に』という作品は、「片山恭一公式サイト」に無料公開されている継続中の作品で、2016年10月8日で18回目。読ませてもらっている返礼も兼ねて論じてみました。

 ※ 以下の小論は、一つながりになっています。
・「童話的表現の意味」
・「語り手について」
・「作品から ― 片山恭一『なお、この星の上に』」






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  『石川くん』(枡野浩一)から考えたこと二つ


 この本、面白く読めた。一つの対象も一人の人間も、それを内外から(内と言っても自分の体験や想像を巡らせて)捉え尽くそうとするのは難しいことだが、人がそういう欲求を持つのもまた自然なように見える。本書は、文学化した石川啄木像をわたしたちの普通の生活世界に引きずり下ろして、身近な隣人のように取り上げ遇している。多面的な像を放つ対象に対する大切な一面ではある。本書を読んで、考えたことを二つ述べてみる。


    1


こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なんと思ふ
 石川啄木 (枡野浩一『石川くん』より引用)



 人生の目標とか、大成するとか、これは石川啄木の生きた明治という時代、それを象徴する言葉の一つ「立身出世」という時代性の影響下にある考え方であろう。現在のわたしたちの感受や視線からすれば、それは大袈裟なものに映る。しかし、人は誰でもある時代のある場所を占めるように生きていて、その時代性の影響を異和であれ親和であれ空気のようなものとしてであれ振り切ることはできない。また、現在では古臭く見えるその考え方も、局所的にであれ依然として現在でも生き延びているように見える。一般的には、学校の校長の言葉や会社の経営者の言葉や政治家の言葉などに残留しているように見える。例えて言えば、社会的にはもはやある者の銅像を建てようという意識はなくなりつつあるけど、局所的にはまだ銅像志向が残っている。

 しかし、人の存在の重力の中心は日々の細々とした諸活動自体にあり、それと共に在るというように人は生きている。ちょうど話し言葉のように、語られた言葉は中空に消えていくけれど、人と人、互いに染み渡るものがあるというように、人は日々生きて、活動している。もちろん、その中にはこの逆の互いに憎み合う場合もある。ともあれ、人は日々習慣のように生きながら、出会うささいなことの中に無意識的に何か貴重なものを感じ取っているようなのだ。ちょうど話したら消えていく話し言葉のように、その具体性の場にこそ人の生存の価値の源泉があるのであって、消えゆく話し言葉の銅像を建てることはたいして意味あることではない。


   2


しかし、石川くんて、ほんとに立派だねえ。
こんな不思議な言葉をしゃべる地方に生まれたのに、
東京の言葉をあやつって短歌をつくれるんだもの。
今の言葉でいうと、
まさに「バイリンガル」だよ。
しかも昔の言葉(文語)まであやつるんだから、
三ヵ国語ペラペラって漢字仮名。かっこいー。
―(中 略)―
それから石川くんの歌は、
かざらない言葉でつくられているところがすごいと、
昔から文学者にも高く評価されてきたわけだけど、
そのじつ東京の言葉をつかっている時点で、
かざったり気どったり、してるんじゃない?
またもや君への理解が揺らいでしまう私です。 
 (第15回 ありがたい石川くん 『石川くん』 枡野浩一)



 わたしが大学の学生だった頃、大学の寮の仲間の誰かの提案で、夏休みにアルバイトしながら東京に遊びに行こうということになった。5人ほどで出かけた。たぶん神奈川の平塚辺りだったと思う。夜の土木工事の肉体労働だった。工事中誤って水道管が破裂して水しぶきが上がったことがあった。しかし、水道工事ではなかったと思う。その現場に、青森から来て働いているというおじさんがいた。その人の話す言葉は、まるで外国語のように九州から来たわたしたちにはまったくわからなかった。もちろん、それはお互いにそうだったのかもしれない。ただ、そのおじさんが標準語化した話し言葉をある程度理解していたのなら、一方向的だったのかもしれない。

 現在から内省を加えて振り返ると、その当時よりもっと以前の、地方から都会に出て来ての言葉(方言)による悲喜劇を書物などで知識として目にしたことがある。しかし、マスコミ、特にラジオやテレビや学校教育によって、これまた沖縄の方言札のような悲喜劇も伴いつつこの列島の言葉を標準化・均質化してきた。それでもまだそういうことがあり得るのだということに驚いた。わたしのその時の体験を現在から眺めれば、この同じ列島の住民同士でもまったく言葉がわからないということがあるんだということ、さらに遡(さかのぼ)れば、互いの地域間で言葉がうまく通じない時代があったんだろうなと想像できる。もちろん、古代以前はわからないとしても古代以後は、列島を旅する人々は商人や語りの者や僧など限られた人々で、大多数の人々はたぶん生涯をその地域からほとんど離れることなく生活していただろう。

 江戸期になり幕藩体制としてこの列島が政治的に統一されてからは、参勤交代や江戸詰など政治法制度に促されて、主に地域の異なる武家層が種々の異なる話し言葉の場面に直面することになっただろう。そのような状況があらゆる階層、万人に訪れたのは明治期である。そうして、政治・文化の上層から、近代国家にふさわしい必要なものとして、均質な言葉が構想され、標準の言葉として具体化されていった。

 昭和初期から京都の大学へ、その後学校の先生をしながら大阪に住んでいた伊東静雄は、故郷諫早の方言をよく話していたようだが(家庭では特に。職場の学校でのことはよくわからない。)、彼の詩作品や文章は方言ではなく書き言葉(口語や文語)で書かれている。この書き言葉は、どこで習得し始めるかと言えば、明治以前は、文化上層にある貴族や武士は学校のようなものや家庭教師のようなものを通して習得してきたのだろう。明治近代以降は、すべての子どもが公教育を受ける制度が設けられて、その学校教育を通して書き言葉を習得した。

 この書き言葉というものは、当然ながら文字の使用と共に始まった。白川静が明らかにしてくれたように中国の漢字は、初源的には神話的、呪術的なものだった。つまり、文字の使用と書き言葉の発生は、少なくともこのアジアでは起源的にも生活世界や大多数の生活者とは遊離した、今風に言えばいわば「かざったりきどったり」している政治・文化上層の世界であった。わが列島においてもまた。だから、大多数の民衆にとっては、それらの文字や書き言葉の世界は無縁なものであった。むしろ、その断絶の深さから、人々は文字を神々しいものと見なしたという証言もある。(註.1)

 一方、話し言葉は、家族やその地域の場で生まれ育っていく過程で習得されていくものである。それは多分にその地域性の言葉(方言)や生活世界に根差している。多分にという意味は、この列島を縦断する日本語の骨組みとしての同一性を持ちながら、互いに地域性としての様々な偏差(方言)を持っているということである。わたしたちは、現在でもそれら異質な二つの言葉を二重性として使い分けている。

 したがって、話し言葉と書き言葉は、互いに異質な出自を持つものであるから同列に扱うことはできない。別物と考えた方がいいと思われる。

 明治期以前であれば、話し言葉としてそれぞれ異なる地域性の言葉(註.2 方言)を話していても、主に知識層が書き言葉として文章を書いたり読んだりしている時は、この列島で同一の漢文(調)の文章や古文であったはずである。この事情は、明治期以降でも同様のこととして言えるはずである。

 話し言葉の世界でも歴史的に積み重ねられてきた書き言葉の世界でも、誰でも場面によっては普段着の言葉や着飾った余所行きの言葉を行使することは現在でもあり得ることである。そして、どんな着こなしでもいいけれども、そのことは表現されたものの鋭さや深さに関わるものだと言えるだけである。

 というわけで、『石川くん』の作者の言葉は、わかりやすい言葉で語られているけれども、生真面目に応答すれば、書き言葉と話し言葉のそれぞれの事情と区別があいまいなものとして語られているように思う。


 (註.1)
 吉本 僕はそういう問題で、最近、沖縄の学者さんが書いた方言札という表題の、要するに、その学者さんの文章を読むと、日本本土では、ただ言葉だけで言霊といっていたんだけれども、沖縄では、それまで文字なんてあまりなくて、筆記ができるようになる初めだろうと思いますが、中国の漢字が文字として入ってきたときに、文字どおり文字を書いた紙を祀って拝んだりしていたという。本当に神様扱いにして、文字を奉って拝んだりしていたんだという研究が書いてあって、へーっと。
 日本本土では言霊というぐらいで、折口さんは、女の人に言霊をつけたくて手紙をやって、女の人もまたそれをつけ返したら恋愛が成立するんだみたいな考え方だと思います。そういう言霊が、手紙とか相聞の歌とか、文字としてできるものだと折口さんは考えているけれども、沖縄の人は漢字を書いた紙をまつって拝むということを本当にやった。
 (「超人間、超言語」P161 吉本隆明・中沢新一対談 「群像」2006年9月号)



 (註.2)
 地域性の言葉といっても、例えば「九州方言」は、京大阪辺りの方言や東北辺りの方言と比べると大いに異なるかもしれないが、九州内の各地域では微差を伴いつつ割と似ているということがある。こうした事情は、大きく括られる地域性の言葉(方言)とその地域内の言葉同士の関係として言える。しかし、柳田国男がこの列島の各地の言葉の地層を発掘して関係づけて見せたように、その大きく括られる地域性の言葉(方言)同士も見た目や表面的な印象とは違った深い共通性も見通せるのかもしれない。






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 覚書2016.10.22


1.人は、主に家族という場でこの世界に生まれ、家族や地域の小社会を通して育っていく。生物的な遺伝子は生まれてくる過程で受け継ぐとして、この列島全体に共通する、あるいは小地域にのみ共通する、精神的な遺伝子は、その育つ過程で受け継がれていく。

2.この精神的な遺伝子というものは、私たちの心臓などの臓器が私たちの意志とは関わりなく不随意的に活動しているような、そんなレベルの無意識的な反応や活動の型を指している。したがって、それは欧米の文明圏に育ったルース・ベネディクト『菊と刀』のように外からは気づきやすいが、内からは気づきにくいものである。

3.なぜ私たちが無意識的なのかといえば、それらの精神的な遺伝子は、途方もなく長い歴史の時間にさらされ耐え来たもので、身体や家の支柱のようなものとなっていて、もはや私たちの自然な感じ方や考え方や振る舞い方になってしまっているからである。例えば、一般に温和さや内気さがそれに当たる。

4.人が家族や地域や社会で生きていく過程で、このような精神的な遺伝子の受け継ぎの上に、その精神的な遺伝子が、遙か太古から幾多の物語を経て主流として流れ来た現在的な姿、現在の社会の有り様との関わり合いの中で、人はなにものかを受け継ぎつつ自己形成を遂げていく。

5.このように人がこの社会で生きていく過程で受け継ぐものには、遙か太古からの根深い歴史的なものと現在的なもの(両者は関わり合っている)との二重性がある。もちろん、それは対話しながらの受け継ぎである。

6.その現在的なものの受け継ぎの過程には、人によっての短期的な親和・異和・中性があり、さらに長期的な親和・異和・中性がある。つまり、生涯の中、若い頃には反発したり、何とも思わなかった慣習でも、成人して年を経るにしたがって親和や受容に変貌することがありうるということである。

7.ここから、想定できることがある。一人の人間には、外からの二重の受け継ぎを遂げながら、内面に独立して思い描かれるイメージや言葉(のようなもの)の世界があり、それはその人の固有性に彩られている。それとは別に、個の受け継ぎの源として、遙か太古からの歴史的な本流として、外の社会に流通するイメージや言葉がある。

8.なぜこういうことを考えるかといえば、こういう人と社会との関わり合う姿の基本構造を社会学であれ何であれ、現在のところ十分に明らかにし得ていないと思うからである。不明なことが少しでも明らかになることは、無用な倫理や混乱を減殺する。つまり、わたしたちがよりよく生きようとすることを助けてくれる。

9.また、こうしたことを考えたのは、『「すべてを引き受ける」という思想』(吉本隆明/茂木健一郎)のP70-P71、「吉本―人間の身体も一個の人類史である」(註.1)を時々反芻していることによる。外在的な文明史や人類史と、個の内面的な人類史。吉本さんの考えを大きな参考として考え中。


(註.1)
『「すべてを引き受ける」という思想』(P70-P71 吉本隆明/茂木健一郎 光文社 2012年)






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 覚書2016.11.21


 たぶん動物と同じように人も自分が動かそうと意志しないのに心臓などが動いている(不随意性)ように、人の日頃の活動にも意志とは別の不随性が伴っているように見える。それは容易にはうかがい知れない、人の考えや行動の無意識的な部分と対応しているように思う。このことは、心では違うように思っているのに、実際は逆の言葉を表現してしまったということとは違うことである。

 ところで、ある人が意志的、意識的にある主張をしたとする。あるいは、ある言葉(概念)を使ったとする。もし、現実の関係の有り様や動向という「不随的」な面にも十分届いてそれを汲み取れているものなら、それらの主張や言葉(概念)は生きていると言えるだろう。

 言葉は、現実を離陸していく自由度を持っているから、現実を少し離れたところから冷静になって内省的に見渡すことができると同時に、現実の有り様とは無縁に空想的な世界を構築することもできる。そして、逆にその空想を熱く現実化しようとすることもあり得る。

 評論家の大塚英志は、現在を「感情化する社会」と捉えているらしい。わたしなら現在をネットの創設と普及に象徴される、わたしたちにとっての世界の収縮、距離感の収縮、逆に言えば世界の拡大と見なすところである。わたしたち誰もがそういう新たな場と新たな「わたし」の錯綜する現在を生きている。

 大塚英志は、わたしとは比べものにならない位の現在の様々な現象を渉猟して感じ考えているだろう。しかし、誰もが平等に現実の渦流の中にいることも確かなことである。そして、限られた局所にも社会全体は浸透している。私たちの現在は、評論家頼みではなく誰もが社会像を持てる段階になっていると思う。

 私たちは、具体的な思考と判断の後、それぞれが違った現在の社会像を抱くとしても、それらの当否は、後になって分かるという時間が決めるのではなく、現実の容易には意識化しにくい附随的な主流が決めるものと思われる。時間が決めるというのは単なる結果に過ぎない。

 英雄や有名人中心の歴史観や歴史叙述が花盛りの時代に、柳田国男は「常民」という普通の生活者の精神の歴史を中心に据えた。現実の流れを規定する「附随的な主流」がそこにあると考えたからであろう。しかし、今なお、社会や政治は、わたしたち生活者が主人公の位置には据えられていない。わたしたちの生活世界を無視し得ないといういろんな現在的な変貌はあるとしても、連綿と続くそういう政治層、経済層に乗っ取られ続けている。

 評論家で相変わらず「左派」や「右派」、「サヨク」や「ウヨク」を持ち出すものたちがいる。しかし、現在の「附随的な主流」はそんなことはどうでもいい段階に現在はなっている。一周遅れているのだきみたちは。私たち生活者こそが主体であり、中心となる社会や政治こそが未来性への一歩である。入口はいれば、様々な困難な課題が山積みだとしても、入口が先ず違うのだ。

  (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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 日々いろいろ―侍って、なあに?


 スポーツを観る好みはないけれど、「侍JAPAN」や「なでしこJAPAN」などの言葉には、異和感がある。別に目くじら立てる程もないのだろうが、そのイメージの出所が気になる。民俗学を追究したと見られている柳田国男はまた、農政学も追究していた。農村や農民の歴史にも詳しい。柳田によると、武士はほとんど農村、農民の出身である。そして刀狩り以前は、農民も武装していた。理屈からして、外国から大量に侵入したのでない限りそれしか考えられない。商人も同様に多くは農村、農民出身である。農村で仕事に十分ありつけないあぶれた者たちが都市に出て行ったのである。

 したがって、武士や商人は農村や農民の感性や風習や組織性をまず受け継いだことになる。そこから長い年月をかけて練り上げ、武家層も商人層もそれぞれ独自の倫理や世界を築いていった。武家層が本格的に取り澄ました威厳のようなものを作り上げていったのは、おそらく戦もなくなり以前にも増して安定した社会になった江戸期だと思われる。いわば、安定した社会という余裕が、農民層の年貢に乗っかって徒食しているとも見なせる自分たちの存在理由という内省を強いたのかもしれない。それに比べて戦国期から信長、秀吉の時代の武士たちは、裏切りや残虐の限りを尽くしていると見ることもできる。

 つまり、現在において「侍」という言葉は、中身のない空無なイメージに過ぎない。もしつながりを付けるなら、江戸期の武家層が生み出した虚飾の倫理のイメージということになる。さらにつながりを付けていくと、武士、農民、すなわちこの列島の住民の太古からの心性や倫理ということになる。例えば、「侍」の「いさぎよさ」などというイメージは、武士に限らないこの列島人の心性である。外来の者に何をされるか分からないと恐れるから、マレビトのようにもてなしたり、あるいは、戦争で捕虜にならずに潔く死ぬなどという行動を取るのである。このようなことは、日本列島から南方の島々にもつながる心性として吉本さんが『心的現象論』で取り上げていたと思う。『試行』連載で読んだ記憶がある。

 つまり、「いさぎよさ」は、恐怖の心性からの表出であって「いさぎよさ」でも何でもないのである。誤読のイメージと言えると思う。誤読と言えば、アララギ派の万葉理解も近代主義的なイメージで捉えてしまったと言われている。過去をできるだけありのままに捉えようとすることは大切だ。それは、同時にわたしたちの現在をありのままに捉えようとすることと同義である。その斎藤茂吉らの万葉誤読の教訓を生かすべきではないかと思う。

 現在から付与されたいいとこ取りの「侍」などのイメージは、歴史的な流れを踏まえれば、なんら根拠のない空無のイメージというほかない。なぜこのようなことに触れたかと言えば、以下のような公人のツイートを目にしたからである。


長崎県平戸市長、黒田成彦 11月22日ツイート
オランダのお客様を長崎市で接待することになり老舗の料亭に同席のお招きを受けた。卓袱料理に鯨が出たのだが、主催者の老紳士は「貴方の国は反捕鯨国であろうが、ここは日本だ。日本人は鯨を余すことなく愛してきた。食べれなければ残しても良いが我々はありがたく頂く」と言ってのけた。侍を見た。



 この「オランダのお客様」のもてなしの良し悪しには触れないが、最後の「侍」に引っかかった。






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 『現実宿り』(坂口恭平)を読む


   1

 わたしたちは一般には、日頃映画を観たり音楽聴いたり本を読んだりしてもそれらの感想を書き記すことはない。芸術やスポーツなどを娯楽のようなものとして受けとめていて、一時の憂さを晴らしたりその現場の現在そのものを楽しみ味わうものと見なしているように思う。そういう作品やスポーツを味わう場合、わたしたちの中に印象や感動に伴ってなにか残余のものが漂うが、一般にはそれらを心に沈めてまた日常の生活世界に帰っていく。

 わたしはそれとは違ったことをここでしようとしている。また、ネットやブログなどの普及により普通の人々が鑑賞した作品について書き記すということも増えてきているような気がする。しかしそうだとしても、この一般に「批評」と呼ばれる専門化した世界は、学校の感想文を別にすれば、普通の生活者にはほとんど関わり合いのない世界ということになる。現在の「批評」は、おそらく近代の小林秀雄をその本格的な発祥としているが、なぜ「批評」と呼ばれる世界が成り立つのか?作品は、読者(観客)の数だけ違った表情を見せる。普通の読者(観客)は、そこで終わる。ということは味わった印象や感動を心の底に沈めてまたふだんの生活に戻っていく。

 そのように終わることなく、専門的な「批評」という世界が成り立つのは、次のような事情によるのではないか。作品を味わう人それぞれの固有の生い立ちや感受が、作品を通過する。作品は、人それぞれの様々な屈折率によって人それぞれの内に屈折したイメージを花開かせる。人それぞれといっても、作品の全体的な印象として、明るいと暗いのように対立することはなく大まかな点では共通するだろう。しかし、「批評」は、そのような印象やイメージの個別性で終わりたくないのである。この点から見て批評という世界は、人それぞれの個別的なイメージをかき分けて、固有の作者の固有の作品というひとつの普遍的なイメージの場所にたどり着こうとする言葉の表現の世界ではないか。では、なぜそういう批評の行為が成り立つのだろうか。作者は、単に職業だからではなく、わたしたちの日常の人と人との関わり合いのように、心のどこかで読者の存在を意識して言葉の世界を作り上げ、差し出している部分があるだろう。したがって、読者としてその部分に対話するように言葉を返すという批評の行為が成り立ち得ると思われる。


   2

 坂口恭平の『現実宿り』を少しずつ読み重ねて、やっと読み終えた。読みながらこれは何だろうというふしぎな感じで、気分は不明の靄に包まれていた。そんなに退屈ではなかった。それはこの作品が、三層から成っているからだと思われる。特に終わりの方ではその三層が交差したり、溶け合ったりしてくる(それに似た変容は『家族の哲学』という作品の終わりの方でもあったように記憶している)が、この三層が交互に現れることが場面の転換になっており、一般的の物語の持つ、現実に近い現実的な物語の枠組みや起伏の希薄さを埋めたり、それを代替するものになっている。こうして、一般の物語性というものが希薄なこの作品は、単調さを免れているように見える。

 その三層とは、砂である「わたしたち(わたし)」の層、最初はクモだったのが鳥に食べられて鳥の目の一部と化した「おれ」の層、「わたし」や「モルン」の登場する割と現実世界の風景に近い層、である。

 欧米の波を被った近代以降の物語は、ある家族や地域で育った固有の年輪を持つ、現在を物質的かつ精神的に呼吸する個が、自己を対象化して作者に変身して、物語という幻想の舞台に語り手や登場人物を派遣して、作者の抱くあるモチーフやイメージを貫徹しようとする。主に物語世界の外に居て、物語を言葉(文字)として書き記していくのは作者であるが、作者に派遣された作者の分身たちである語り手や登場人物たちは、物語世界の渦中で作者の抱くあるモチーフやイメージを貫徹しようとしたりそれに修正を加えようとしたりしながら物語世界を造型していくのに貢献する。作者は分身となったり背後に居たとしても、語り手や登場人物たちが言葉を繰り出すとき、背後の黒子のような位置に居てそれらの言葉の選択や構成にも加わり、また言葉(文字)を書き記しているから、実際には見分け難いとしても物語世界には作者の癖や好みのような無意識的な部分も足跡として残されている。また、時代のファッションや風物やイメージや考え方も物語世界の要請であると同時に作者の選択として物語世界に現れて来る。村上春樹の作品で何度か出会った、主人公の「チノパンツ」もそうしたものとしてある。なぜこのような回りくどいことを枕詞として持ってくるかといえば、他の芸術作品も同様だが、今もって作者・語り手・登場人物が織り成す物語世界の構造についての共通認識が依然としてなく、それぞれが勝手な切り取りや基準で作品を印象批評レベルで捉えがちだからである。

 しかし、この『現実宿り』という作品は、それら近代以降の一般的な物語概念から少し外れているように見える。例えば、「砂」を語り手にしたり、砂が語ったりするなど、このような作品世界の表現は、外国は知らないけど、わが国ではほとんど類例がないように見える。

 宮沢賢治は詩集『春と修羅』の「序」で次のように記している。


わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです
 (「序」の一、二連)



 まず、「わたし」をある抽象度で位置付け、そして、自らの言葉や詩を「心象スケツチ」と位置付けている。こういう論理性や詩的な表現は、当時では目新しく異質な言葉や詩だったように思われるが、このような言葉の出所は、宮沢賢治の生い立ち以外では化学や科学の経験と仏教の経験が大きく関与しているように思われる。坂口恭平の『現実宿り』という物語性が希薄な作品も、作者である「わたし」の「心象スケッチ」と捉えた方が分かりやすいと思う。

 ところで、わたしたちは現在では、職業的な物語の作者についてもネットを通していろんな情報を目にすることができる時代になってしまった。読者としては、作者の言葉やインタビューなどが、作者の作品に込めたイメージやモチーフを、それらのひとつの大きな主流にできるだけ沿ったものとして味わう手掛かりになるということもある。ここに、『現実宿り』に関する坂口恭平のツイッターの言葉がある。



(2016.5.15)
現実宿り推敲は第30章まで完了。全部で85章まであるので、まだまだだが、推敲が面白い。いい作品になるんじゃないかと思うが、不思議な作品である。自分の思いがまったく入っていない作品。今年は変な年だ。でも悪くない。わからないけど、不安じゃない。あの子供の頃の感じに似てる。


(2016.5.15)
震災前に砂が語り手の800枚の小説書いたので、つい、震災後に感情入れて書こうとしてしまいそうだったが、そんなときは避難に必死になり今少し落ち着いて、いざ書こうとすると感情がない。おかげてただの客観的な「推敲さん」が登場してくれている。もうすでにテキストは31万字ある。ただ直すだけ


(2016.6.10)
独立国家のつくりかた、から、現実宿り、までの過程をうまく説明できない。なんでこうなっているのか自分でもよくわからない。いま、何に興味があるの、と聞かれても、わかりませんとしか言えない。興味関心で書くことをやめてから、大変になった。なぜか書くことは捗っているけど。


(2016.8.05)
とにかくぼくはプロットも構成もそもそも着想自体なく鬱のまま書き始めているので何がなんだかわからないまま書いている。書かないと死にそうだから書いているだけなので、今日の文章教室ではそのことだけを伝えます。きっとただみんなほっとするだけの会になると思います。才能の問題ではありません


(2016.10.14)
新作「現実宿り」は10月27日に発売されます。今年の1月に鬱で死にそうになっていたときに頭の中が砂漠になって布団の中でもがきながら書いた本です。自分でも何を書いたのかわかっていないので買って読んで電話で感想ください。予約開始中 


(2016.10.24)
雨宿りという言葉は雨がただの避けるものではないということを示していて、気になっていた。雨音聞きながら寝ると気持ちいいし、雨の日に部屋にいると安心する。軒先を宿だと思う感覚も面白いし、軒先から見る雨は自分を守る生きた壁みたいに見えて何かが宿っているようにも見える。


(2016.10.24)
という「雨宿り」という言葉に対しての興味から、僕の仕事もただ現実からの避難所を作りたいわけじゃなく、一つそういった軒先のような空間があれば、現実に対する目も変化するのではないか、なんてことを考えながら、雨宿りから着想して「現実宿り」という造語をつくりましたー。


(2016.12.03)
「現実宿り」昨日久しぶりに数ページ読み返してみたが僕が書いたと思われる箇所がほとんどなくびっくりした。ほんと何度、ページ開いても不思議な感覚です。よく本になったなあと。そして、よくぞ他の人が読んでくれてそれぞれにいろいろ僕にくれたもんだなあと。僕に主題がないどころか僕が書いてない


(2016.12.08)
僕の場合、資料などは一切、入手しないでただ書く。目をつむらないで、目を開かないで、ぼんやりとしたあたりに、窓があって、そこからすかしてみるみたいな感じだろうか。嘘は書いちゃいけないと思っているので、創作した部分は結局最後には消すことになる。でも、そのまま書くと、ほんとむちゃくちゃ



 できるだけ「作者」と「作品」の実像に迫りたくてたくさんツイートを引用した。坂口恭平のツイートを読むと、彼が「作者」に変身し、出来上がる前の作品の舞台を眺めたり、出来上がった後の作品世界を見回したときの表情や位置が表現されている。

 中でも、「プロットも構成もそもそも着想自体なく鬱のまま書き始めている」「鬱で死にそうになっていたときに頭の中が砂漠になって布団の中でもがきながら書いた本です。自分でも何を書いたのかわかっていないので買って読んで電話で感想ください。」「『現実宿り』昨日久しぶりに数ページ読み返してみたが僕が書いたと思われる箇所がほとんどなくびっくりした。」、これらを坂口恭平の嘘偽りのない(とわたしには思われるが)ツイートと見なせば、この作品は一般的な作者の一般的な物語作品とは違っている。僕が書いたとは思えないというような発言を真面目に言われたら、わたしたち読者としてはびっくりするほかないだろう。この作品は、やはり先に述べたように虚構という物語性の希薄な、作者である「わたし」の切実な「心象スケッチ」と見なすべきだと思う。といっても、 「全部で85章まである」とツイートにはあるが、作品としては70章で終わっている。推敲の過程でずいぶん切り整えられて作品となっているのかもしれない。

 そして、推測するに、作者は、押し寄せてくるイメージの波や洪水に放心したように浸かってただ記述しているのかもしれない。あるいは別の言い方をすれば、作者は一般に誰でも言葉に憑かれるように表現しているのだろうが、この作者の場合は巫女やシャーマンのように強度にイメージや言葉に憑かれるよう表現しているのかもしれない。だから表現から離れて振り返ると、これは誰が書いたのかという言葉になるのだろう。

 わたしは、作者(坂口恭平)が抱えている、一般には病気と見なされている「躁鬱病」がどのようなものかよくわからない。前作の『家族の哲学』でそれに触れた描写に出会ったと思う。ただ、作者は、作品の中、作品の言葉としては、それを病としては見なしていなかったように思う。『家族の哲学』もこの『現実宿り』も、絶えず間欠的に襲ってきては反復する「躁鬱病」を抱えた「わたし」の、おそらく襲うように寄せてくるイメージ群の渦中で、前者は主に家族という現実世界を舞台として、後者は主に内面世界を舞台として、「心象スケッチ」されたものだと思う。

 その「心象スケッチ」された寄せるイメージ群の一つ一つや相互のつながりは、作者でも分からないのが多いのかもしれないが、それらの反復されてきたイメージの感触や色合いや強度などはよくわかっているのではなかろうか。そして、「心象スケッチ」を書き続ける、描写し続けることが、「病」を乗り超えようという意志となっているように見える。

 もちろん、わたしたち読者にはいずれもわかりようがない。ただ、物語の三層が進みゆく中で、砂や鳥の目やわたしが変幻し、三層が交差したり溶け合ったりして物語の終局を迎える。それでも、作品の中には、イメージの現れ方や作者よって固執された「時間」や「記憶」や「森の夢」などの言葉がある。たぶん、書き終えて醒めた状態の作者でもその作品世界に踏み込むのが難しいような、うまく対話できないようなイメージ群を記述してわたしたち読者の前に差し出しているのだろう。わたしたち読者は、難しい読みと対話を促されているのかもしれない。






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 『幻年時代』(坂口恭平)を読む―物語の核


 この作品は一般に「幼年時代」を対象とし描写された物語作品のふんい気とはどこか違うなと思いつつ読み終えた。解説を読んでやっと気づいたことがある。この作品の題名が「幼年時代」ではなくて、「幻年時代」ということに。作者の造語であり、字が似ているとしてもなんたる不覚と思った。もちろん、この作品名は「幼年時代」でもかまわないと思うが、作者の意識的なモチーフを凝縮させたものとすれば「幻年時代」なのだろう。



 僕の幼年時代。それは幻の時間である。なぜ生きているのか?その意味はもう考えなくていい。あの幻の時間のおかげで今の自分が存在している。
 親友とともに軽さを感じながら。目の前の現実を化石と感じながら。起きて見る夢として毎日を生きながら。そのような行為として、記憶の軌跡として、ただ幻の実像を書いてみたい。
 幻に背中を押されながら―、いや、笑ったまま橋の上から突き落とされるような不慮の落下によって、この物語は始まる。
   (「はじめに」『幻年時代』)



 「目の前の現実を化石と感じながら。起きて見る夢として毎日を生きながら。」この作者の言葉は、比喩ではなく作者によって想起された記憶として実感ではないかという気がする。因みに、本文中に「坂口恭平」という本名も登場する(P23,P137,P161-P163など)。ともあれ、この文章はわかりにくい。ここにはこの作品を書く(書いた)現在の作者が眺める「今の自分」と「僕の幼年時代」という二つの時間があるが、初めの二行は、言葉と言葉の間がいくつか抜かれているようなわかりにくさがある。逆に言えば、読者が追えないほど転換が目まぐるしすぎる。あるいは、転換の間の溝が深い。この作品も、虚構性の強い作品ではなく、『現実宿り』と同様に作者である「わたし」の「心象スケッチ」と捉えることができると思う。

 わたしはこの作者の良い読者ではない。今までに読んだ本を順に挙げると、『独立国家のつくりかた 』『現実脱出論』、小説の『家族の哲学』『現実宿り』『幻年時代』である。『ズームイン、服! 』は、買ったけどまだ読み始めていない。この引用文のわかりにくさは、小説以外も含む作者のすべての作品をていねいに読みたどるか、あるいはこの作品を「百回読む」(吉本隆明)ことによって、いくらか言葉の生み出す像やその感触のようなものとして伝わってくるのかもしれない。今のわたしはいずれの方法も不可能で、よくわからないから別の道をたどるほかない。

 物語には、核というものがあると思われる。それは作者の意識的、あるいは無意識的なモチーフと呼んでもいい。読者がたとえ腑分けしてみることが難しいとしても、読者がなんとなく感じるようなものとして、物語のあらゆる場面、あらゆる風景や、登場人物の眼差しの中に、その核つながりのイメージや言葉が生成して現れているはずである。

 作者の意識的なこの作品のモチーフは、現在を生きていく上での自分の不可解な思いの根っこを尋ねるということではないだろうか。すでに幼年を遙かに通り過ぎてきた作者自身にも幼年時の当時そのものはほんとうはわからない。ただ作者の現在のモチーフが想起するだけである。その現在の切実なモチーフによれば、「幼年時代」はいくぶん偽物じみた宙づりの現実感のような「幻年時代」と了解されている。

 この作品は、大人になった現在から現在の切実なモチーフの線上に想起や回想に引き出された記憶像によって作者と覚しき幼年の「わたし」が描写される。この作品のあらゆる枝葉の描写を取り払って、屋台骨だけにしてしまうと何が残るだろうか。たぶんどこの家族にもいくぶんかありそうにも思えるが、少し寒々とした家族の関係世界に収束する。すなわち家族の中で成員すべてに全権を振るう母の監視と制圧下で、「わたし」も二重化せざるを得ない。幼年時代という牧歌性の描写を払いのけて残るのは、このような現在の作者と覚しき「わたし」が反芻する自身の血肉と化している遙かな「母の物語」である。

 女性は母になるとなぜか強くなる、もう少し正確に言えば、開けっぴろげで奔放な恣意性を発揮するように見える。このことはわたしも思い当たるところがあるし、たぶん吉本さんもどこかで触れていたように記憶する。他の地域はよく分からないが、たぶん九州地域では、見かけは男が威張っているように見えても、この作品に描かれたような強い母と気弱な父という構図は一般的であるように思う。そしてそのことは、太古からの母系制の名残ではないかとわたしは考えている。
 
 作者は、おそらく現在の自分に強力な記憶の道として残り浮上するこの「幻年時代」という過去を、あるいはその浮遊し偽物化する現実感を、現在の「わたし」の水源と見なしたがっているのかもしれない。



 〇歳から九歳までを新宮町で過ごした。小学三年生の夏休みに僕は親父の転勤で熊本市へ引っ越した。熊本市へ移動してからの記憶には背骨が通っており、今の自分にまで直結する。しかしこの新宮町での記憶は、それだけで独立しており、僕の人生とは繋がりの薄いものとして残っている。にもかかわらず鮮明なのだ。断片的というよりは、一つの塊としてある。
 その塊を形容する言葉を僕は持っておらず、近似した感覚を集めたりすることで、言葉ではなく空間として再現しようと試みたりもした。しかしいつでもその試みは失敗に終わった。何度試みても塊は、すべての部位がそれぞれの機能を理解している機械のごとき九歳以降の記憶に吸収されてしまうのだ。
   ( 『幻年時代』 P25 )



 その秘密(引用者註.母と僕が交わした秘密)とは、僕たち五人家族が知覚できている幸福はじつは自然な感情ではなく、完全なつくり物であるというものだ。なぜか僕とかあちゃんだけはそのことに気づいている。親父はまったく理解していないようだった。親父に気づかれないように、僕はそれを母ちゃんに知らされた。しかし、言葉として伝達されてはいない。言葉にはならないコードとして、暗号は母ちゃんから発信され、感情とからだの連動によって、僕はそれを受信した。僕はじつは幸福ではない。秘密は僕と親父と母ちゃんの三人だけで坂口家を稼働していた時期に、僕に侵入してきた。
    ( 『同』 P101-P102 )



 四歳の私は言葉を詳細に語ることができない。しかし、映像は、空間の感触は、記憶することができる。そこで私は、四歳の坂口恭平という現象が持っている技術と通信、録画、録画システム、空間把握コントロール器を操りながら、詳細にその人間という動物の持つ暗号を解読する鍵を捜すための諜報活動を続けている。坂口家という王家の男と女はどうやら愛し合ってはいないというふりをしている。坂口恭平という人間のからだに私という諜報員が入っているにもかかわらず、坂口恭平は時折壊れた。しかしそのことも、私を管理し、指令を出す、得体の知れない者からの一つの伝言である可能性が高い。私は、自分が搭載されているこの坂口恭平という複雑な人間の「病」と呼ばれる電子機器の故障の原因を解明することができない。
   ( 『同』P161-162 )




 「胎乳児の無意識の核を形成する」(吉本隆明)「母の物語」の刻印を受けた「わたし」の胎乳児期を大過去、それ以降の物心ついて九歳までの福岡、新宮町時代を中過去、九歳以降の熊本時代を過去とみなせば、「わたし」には、過去と現在ははっきりとつながって意識されているが、中過去は現在とは繋がり薄いものと感じられている。そしてもちろん、その背後には「わたし」の誕生前後にまつわる大過去が控えていて、それは中過去にも過去にも現在にも無意識の核として浸透し潜在しているはずである。

 二つ目の引用部に表れている「秘密」は、「秘密は僕と親父と母ちゃんの三人だけで坂口家を稼働していた時期に、僕に侵入してきた。」ということから、まだ幼い頃の母と僕との言葉によらないコミュニケーション(「内コミュニケーション」)から来ており、僕が言葉ではなく肌感覚でそれを了解したということである。親になれば、自分も子ども時代を通り過ぎてきたという体験と現在の親としての位置という二重性の中にいるから、「親父はまったく理解していないようだった。」という認識はあり得ないと思うだろう。したがって、この認識は現在の作者のものではなく、当然ながら幼年の「僕」のものであるだろう。
 
 三つ目の引用部は、「僕」から「私」になっているが(時々、他の作品だが意識的な場合もあるけどそうではなく「である体」に突如「ですます体」が現れたり、こうした言葉の揺れなどに出会う)、ここではアニメやエンターテインメントの映像のような文体をとっている。しかし、その言葉の背景には、記述する「わたし」(作者)の不明の靄に苦しむ心の表出が張り付いているはずである。

 人には誰にも「幼年時代」以前がある。そして、現在の自分につながっているであろう遙かな水源を目指して記憶の流れをたどろうとすることがある。作者の「わたし」にとっても自分の「幻年時代」という中過去がなぜそういう様相をしていたのかという疑念から、中過去につながるさらなる大過去への無意識的な触手はあるだろう。しかし、それは誰にとってもわからない不明の闇に包まれている。

 「幼児期健忘」という言葉がある。三島由紀夫が書き留めたように生まれ出る瞬間のようなイメージの記憶があり、あるいは胎内でのことを記憶している子どもたちも稀にいるらしいが、一般に3歳以前の記憶であれば、記憶として残りにくいと言われている。こうして、どういうわけかは知らないが、わたしたちは大過去に当たる胎乳児の時代のことは一般に言葉に直せるような記憶として想起できない。

 吉本さんの晩年の著作に『母型論』(1995年)がある。わたしはまだ十分に読み込めてないし、理解していないけれど、その中に「母と胎乳児のあいだの物語」(P16)(胎乳児は絶対的な受動性の存在であるから「母の物語」と言い換えてもよい)という言葉がある。



 母の形式は子どもの運命を決めてしまう。この概念は存在するときは不在というもの(引用者註1)、たぶん死にとても似たものだ。母親の形式は種族、民族、文明の形式にまでひろげることができる。また子どもの運命は、生と死、生活の様式、地位、性格にまでひろげられ、また形式的な偶然、運命的な偶然の連関とも不関と見なせる(引用者註2)。この決めにくい主題が成り立つ場所があるとすれば、ただひとつ、出生に前後する時期の母親と胎乳児とのかかわる場だとみなされる。
 
 引用者註1 「この概念は存在するときは不在というもの」
 人が「母の形式」に気づいた時にはそこから遙か遠くまで離陸してしまってもうその発祥の現場には戻れないし立ち合えないから。

 引用者註2 「形式的な偶然、運命的な偶然の連関とも不関」
 母の形式も子どもの運命も、様々な偶然性とは関わらない、固有の地域性のもたらす必然的で決定的なものであること。

 (『母型論』P10 )



 母の形式(「母の物語」)が、絶対的な受動性の存在である胎乳児の無意識の核を形成する。このことが、『母型論』では、母親と子という関係でありつつ、地域や種族や歴史という二重の視野で追究されている。わたしたちは、列島という共通性を帯びつつも、誰もが固有の「母の物語」をもっている。それはわたしたちの現在にも深く浸透している。そして、誰もが遙か太古に思い馳せるように、その「母の物語」を遙かな不明の靄の中に追い求めようとするが、はっきりした像を結ばない。たぶん、この作品の現在の「わたし」の水源は、「幻年時代」という中過去を遙かに越えた大過去の「母の物語」にあり、そこに発祥しているものだと思われる。

 ところで、吉本さんの『母型論』の存在は、これによって物語の作者や作品は、そういう深みまで自覚してモチーフを走らせたり、描写したりすることが可能になったということ、わたしたち読者としては、そういう深みまで作品や作者を捉えることができるようになったということを意味している。一方で、子どもの誕生にまつわる太古からのイメージや理解の歴史的な変遷を経て、現在では母胎の子宮の中の様子を観察できる超音波(エコー)検査が開発され可能となることによって、わたしたちが未知の靄に閉ざされていた胎児やその挙動が一種のフィルターを通してよく分かるようになり、現実的な色々な判断や思考も可能となってきた。このことは、吉本さんの『母型論』がもたらした読みや理解の深化と対応しているはずである。






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  『現実宿り』(坂口恭平)を読む・続 ―『現実宿り』の舞台裏から


   


 『現実宿り』という作品が推敲の過程に入っているとき、幻冬舎から期間限定でネットに公開された『かくとき』という短編作品がある。作者である「わたし」の何かに絶えず追跡され続けているような切迫した堂々巡りのような内面を描写したモノローグの作品(のようなもの)である。公開の案内文は次のようになっている。


躁鬱病を抱える坂口恭平さんより、「鬱の気配が怖くて書いた」という原稿が届きました。詩なのか小説なのか手記なのか判然としません。本になるのでしょうか??ならないかもしれません。しかし、言葉に込められた切実さから目をそらすことができませんでした。自分はだれなのか??自分の退屈さ。その苦しみ――。表現者の切実な衝動だけが詰まった未完成な文章を公開することに躊躇いがあります。しかし、どうしてもいま、読んでもらいたく1週間の期間限定で公開します。2016年6月10日


 この『かくとき』という作品は、『現実宿り』という作品の第一稿が書かれた時期より少し後に生まれたのかもしれない(註.)が、この作品を積極的な意味として見ると、この『かくとき』という「おれ」のモノローグ的な内面の様相は、『現実宿り』という作品の舞台裏事情に当たるのではないか思う。『かくとき』という作品から何カ所か抽出してみる。



どうすればいいのかな。自分でも迷う。こうやって書きながら、コレ読者へのもてなしの意識?本当に面白いのかどうか、迷っている。ぼく自身のことを考えることしかできない。でもそうやって時間を過ごすことができるのであれば、もうやってみるしかない。異質であることを恐れない。確かにこれはそうだ。すぐ怖がってしまうからだ。恐怖心をとっぱらってみるにはどうしたらいいのか。もしくは怖くてもいいと思うか、だ。怖い怖い怖い怖い。それでもつくるつくるつくる。それでもつくればいい。


川が流れている。その川を見た。見たのは誰だ。おれか。おれは誰か。一体、どこまでがおれか。そのことを考えていると、おれは自分がどんどん離れていくのを感じた。おれは一体、なにをどうしようとしているのか。そんなこと考えたことはなかった。おれは書いている。おれはなぜ書いている。書くこと以外におれのやることはあるのか。おれは自分らしくいれればいいだけだ。おれは自分らしくなくてもいいつもりだ。結局、なんでもいいのだ。おれはおれが考えていることをそのまま表に出せればいいのだ。それでいい。それでいいのだが、そのことを考えていると川が見えてきた。物語みたいなものがあるわけではない。おれはここに広がっているものをそのまま表してみたいのだ。それが好きなのだ。おれは自分の仕事に集中したいのだ。しかし、それができていないから落ち込んでいるのだ。おれは自分がこれが好きでやっているわけではないのだ。おれはこれしかできないからやっているのだ。それでいい。それでしかない。おれは自分が毎日、自分が集中できることはなにかを考えている。誰よりも、いや、その誰よりも、ということを考えることなく、ただ適当にやり続けることができるものはないのか。そんなことを考えている。おれはそれでしかないし、それでいい。それだけでいい。それでおれはとにかくやることをやっている。おれは考えていることをやっている。おれは思いつくままにやっている。おれは自分が考えていることをやっている。おれは自動的にやっている。おれはずっとやっている。おれはとにかく集中している。おれは自分が考えていないことをやろうとしている。おれは自分ではないことをやっている。おれは自分ではない。おれと書けばそれはおれではない。ではおれはどこにいるのか。それがわからないから書いている。とにかく書けばいい。とにかく書いていることを書けばいい。書いているということをそのまま実況中継すればいい。そうすればいい。


おれは名前をつける。おれは名前をつくるわけではない。おれは楽しむために書いているはずだ。おれはただ書いている。おれはただ書いている。おれは人の目を気にしない。おれは人の目を気にしない。おれは自分が集中できないことに落ち着いていない。おれは自分のやりかたを見つける。おれは自分のやり方で生きる。おれは自分のやりかたがわからない。おれは自分を超えたい。自分が考えていることを超えたい。自分が考えていることだけを飛び越えて。自分が考えていないところまで行こうとしている。おれは自分があやふやだ。それが恐ろしい。しかし、その恐ろしさはつくるという行為で、乗り越える。乗り越えることができる。なんでもできる。とにかく書き続けること。それしかない。書くこと以外に何かあるのだろうか。おれはただ書いている。おれはどこか知らない世界について書く。しかも、それはおれの中にある世界だ。おれは誰かを描こうとしている。しかし、それはおれだ。おれの中の誰かだ。こうやって自動筆記して意味があるのか。意味もないし、これで読むものが楽しめるわけでもない。しかし、それでいいのかどうかを繰り返して考えている暇もない。とにかくやる。とにかく書く。書くことだけやる。しかし、それではどうもつまらない。どうもつまらないのに、書く。


おれはこの現実がおかしいと思っているわけではない。どちらかというと、おれはおれがおかしいと思っている。おれはおかしい。おれはおかしいと思っていることをとにかくいまから書いていく。そして、それを一つ一つ検証していく。おれは惜しい。おれはなにかできると思っている。おれはなにか考えている。おれはつくっている。おれはつくっているだけでなく、おれは自分が崩壊することを恐ろしく思っている。おれはもう崩れている。おれは崩れていた。崩れた。崩れおちて、どこかにいった。どこかに消えた。おれはもうだめだ。だめだと思っていた。


おれは孤独だ。実際には孤独ではない。しかし、おれは書かないと孤独を感じてしまう。おれは書くだけ書いて、それでどこかへいけばいいと思っている。おれはまた書きたくなっている。おれは書きたい。おれは書いて書いて書いて孤独を癒している。おれは孤独を癒している。おれは書くことで孤独を癒している。


おれはつくっていれば幸せだ。おれはこういう状態ならずっと書き続けることができる。おれは書き続けることができるんだ。おれは書けばいいし、おれはやり続ける。おれはそうやって書き続けることだけやればいい。それでいい。おれは毎日、書けばいいし、そうやって、生きる。おれは生きる。おれは好きなことだけを書く。おれは書く。気分さえよければいい。おれは気分がいい。いま、気分がいい。


いま、なにか説明しようとした。説明しようとすると、速度が鈍る。速度が鈍ると思考が入ってくる。こうなると、嫌だ。嫌になる。もっと速度をあげよう。馬鹿みたいに速度をあげよう。おれは適当なことを書いている。それでいい。おれは意味のわからないことを書きたいわけではない。おれはただ書いている。書いている。その行動だけがおれの視界をはっきりさせる。


また襲ってくる。あれが襲ってくる。襲ってくるのは困る。おれは逃げたいから書いている。毎日毎日同じことを繰り返すのは恐ろしい。だから、毎日、違うことを書きたい。書きたいが苦しい。苦しいが書いている。書いているが面白くない。面白くないが書いている。


わたしには発狂寸前の何かがある。しかし、わたしはそこから逃げようとしている。逃げてはだめだとわかっている。しかし、わたしはいつまでたってもそこからうまく離れることができない。そして、恐れている。そして、誰かに自分の状態を大丈夫だよと認めてもらおうとしている。わたしは体を横にしたまま、ただ呆然と日々を過ごすだけである。しかし、それでいままでどうにか生き延びてきた。それでももう限界だ。もう何もない。もうわたしには何もない。ここでこんなことを書いても、なんの救いもない。しかし、わたしは書く。ただ書くのだ。わたしはどのような人間になりたいのだろうか。わたしは一人で、時間と過ごせるようになりたい。わたしは日常の退屈な時間と上手に付き合っていきたい。まわりの人間たちと喜びを分かち合いたい。そして、いろんな知らないことに興味を抱きたい。しかし、わたしにはどうもそれができない。


しかし、わたしは自分のことを本当にだめな人間だと思いすぎなのだ。なんでここまで思ってしまうのだろうか。しかし、これはぼくの病気によるところも多い。それだけなのかもしれない。



 たとえば、人間関係の容易には解決し難い何か重たい問題を抱えていたら、それは動かしようのない壁のように意識されるから、誰でも内面のつぶやきではくり返し同じような所を曲がったりする堂々巡りになるだろう。解決がとても困難であるからそうならざるを得ないのである。この作品の「おれ」も、それよりもっと強度のある堂々巡りをしている。ということは「おれ」は、この人間界での人間関係上の重大な解決し難い問題を抱えていることになる。しかし、「おれ」はくり返し襲ってくるものたちから逃げだしたり、追及の手をかわしたいのだ。そして、言葉を書き付けることがそのための行為となっていると「おれ」は思っている。

 しかし、「おれ」は自分が抱えている問題がどこから来るのかはわかっていないように見える。堂々巡りのような反復をしながら、それでもただ書くことに救いを追い求める切迫した文体になっている。ほんとうは、「おれ」は、自分の起源の靄(もや)を打ち払って、クリアーな自己像を獲得したいのだ。しかし、誰もが気づいたときにはすでに自らの誕生を遙かに通り過ぎてきており、起源は現在から、現在に残る記憶や現在の破片を寄せ集めて、遙かに追憶するおぼろなイメージとしてしかあり得ない。

 ところで、『かくとき』は、一人称で書かれているが、以下のように「おれ」「ぼく」「わたし」が混在している。

出だし・・・「おれ」
次の段落・・・「ぼく」
次の段落・・・「ぼく」
次の段落・・・「おれ」
以下の段落・・・ずっと「おれ」
  ・
  ・
  ・
最終の段落の前の2段落目・・・「わたし」
最終の段落の前の1段落目・・・「わたし」「ぼく」
最終の段落・・・「おれ」

 一般に同一人物が同一場面でこのような使い分けをするということは何を意味するだろうか。相手の受ける印象としても自分の印象としても、「おれ」「ぼく」「わたし」の使い分けは、直前までとは違う自分を出すときに使われていると見なされるだろう。この場合、使い分ける者はそのことに十分自覚的である。

 この作品の作者の場合は、どうだろうか。この場合は、割と無自覚に使われているように見える。つまり、読者としては例えば「おれ」から「ぼく」への転換には必然性が感じられない。変える必要が感じられないのである。このような「おれ」と「わたし」の無自覚な混在が『現実宿り』の中にも一二箇所あったと記憶している。しかし、「わたし」や変成した「わたし」を表すために意識的に使われていると見なせる表現が大部分だったようにように思う。この作品の「おれ」「ぼく」「わたし」の使い分けは、一般の場合の、直前までとは違う自分を出すということと同じだろう。作品の終わり辺りの言葉「自動筆記」ということを踏まえれば、そのことが意識的ではなく、無意識的に成されているような気がする。

 『現実宿り』という物語性が希薄なこの作品は、作者である「わたし」の「心象スケッチ」と捉えた方が分かりやすいのではないかと前回書いた。『現実宿り』の舞台裏事情に相当するこの『かくとき』という作品を踏まえれば、もう少し厳密に言えそうである。

 「わたし」の中になぜかどこからともなく湧き訪れて来る「神話の断片」を、作者である「わたし」は割と無意識的に、―ということは、「わたし」にとって、くり返されるイメージの湧出の感触や感じはわかっていてもなぜそうでしかないのかはよくわからないということ―「自動筆記」、あるいは選択組み合わせなど「編集」しているということではないだろうか。ちょうど、いくつかの地域に残された、おそらく古代国家の成立以前にも遡(さかのぼ)るような、古い無数の説話や神話の断片を記紀の編集者たちが編集してひとつの作品、古事記や日本書紀を作り上げたように。この場合、作者の「わたし」にとって「神話の断片」とは、「母の物語」という現在の「わたし」にとっては遙か彼方にありおぼろげにも像を結びそうにもないもので、たとえそうであったとしても、その神話起源であるということだけははっきりしている。



(註.)
『かくとき』の初めの方に「現実宿りだって、そうやって生まれた。」とあった。したがって、『かくとき』は、『現実宿り』の後に書かれていることになる。






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  『現実宿り』(坂口恭平)を読む・続々 ―『現実宿り』を神話的に読む試み

 ※ これで『現実宿り』を読む、はひとまず終わりです。

   


 古事記や日本書紀へと編集された神話というものがある。
 まず、前提としてわたしも含めた戦後世代は、戦前の世代が古代にまとめられた神話に慣れ親しんだ(あるいは学校教育を通してそのように強制された)のとは違って、一般に神話というものには疎いということがある。そのせいもあり、それら神々やその振る舞いには荒唐無稽さをまず感じてしまうということがあると思う。もちろん、わたしたちの現在の視線、そのイメージや感受も遙かな未来から眺めたら、同様のものに写るだろう。何が問題なのだろうか。

 古事記、日本書紀という書物(神話)は、古代国家が成立した後に国家事業としてそれらの書物(神話)へ編集されたもので、現在の書物とは違っている。編集される以前の説話や神話の断片から編集された神話にかたち成す間の時間には、どれほどの幅があるのかはわからないとしても、古代国家の成立以前から以後に渡る時間であるということは確かだろう。

 もうそれ以前は何のことかよく分からないようなものになってしまうように大きな歴史の段階が画されるとき、遙かな靄(もや)の中に浮上する言葉(神話)を肌合いの感覚として十全に理解するのはとても困難なことである。けれど、わたしたち(人間)はそれを志向する存在である。

 このような古事記、日本書紀という神話に記述されたものを批評的な検討無しに事実として読み、受け取るという方法があるが、これは当時の物事と言葉の対応の水準が現在のそれとは違っていることに無自覚な方法、神話への入り方に見える。したがって、現在のわたしたちが、身にまとい肌の感覚として滲みているような、現在の視線やそのイメージや感受を無意識的にも太古の方に潜り込ませることなく、太古を理解しようとすれば、自然とそこに生み出された言葉(神話)もその本来の姿やイメージとして立ち現れてくるのかもしれない。もちろんそれは、とても困難なことではある。

 現在のところ、現在の視線によって切り取られ染め上げられた神話理解を排除した上で、そうした言葉(神話)への入り方として三つの方法が考えられる。


(方法1)
 神話と呼ばれている古事記を、当時の言葉の水準(「喩」)を踏まえて読む方法
  村瀬学『徹底検証 古事記―すり替えの物語を読み解く』(2013年)


 古事記は鉄の物語であり、鉄の神々の物語である。百余国に分かれた国々を統一させたのは鉄の武器であり、鉄の力である。倭国が「日本」という国家統一の呼称を使い始めた頃、この鉄に寄せる思いには絶大なものがあった。それなしには「統一国家=日本」はあり得なかったからである。そしてこの「統一国家=日本」を構想し得たときに、その「日本」への思いと、その成立の支えになった「鉄」への深い思いを、「国の創成の物語」に折り込んで作り上げようとした。それが古事記の物語である。もう少し言えば古事記の神話篇である。


 そのたくさんの鉄の「姿」について、古事記はそれを「喩」でもってしか捉えられないと考えていた。その「喩」となる言葉は、「山―石―穴―砂―水―湯―火―風―炉―床―泥―壊―鎚―音」のような言葉群である。
 その「喩」の総体を理解できるのは「詩学」である。古事記の神話篇は、まさに「喩」を折り込んでつくられた一大詩篇なのである。しかし、いつの時からか、古事記の上巻は「神話」であり「口承伝承」のようにみなされ、ときには天皇の系譜を示した「神典」のように扱われてきた。しかし、繰り返して言えば、古事記は特異な「喩」の体系を組み込んだ、一大詩篇、一大叙事詩である。その喩の物語を、神話学や古代学のような発想だけでとらえるのには無理がある。そういう意味では、古事記は、「詩学」の発想を自覚してしか解き明かせないところがあるのだ。


 私はこうして、従来の「稲作神話」の解釈とははっきりと分かれて、古事記をひたすら「鉄の神々を喩を通して描かれた物語」として読み続けていったのであるが、そうすると、従来では見えなかった鉄の存在が、それこそ山のように見えてきた。鉄の神々の物語とは、鉄を作り、鉄の武器で武装した神々のことを語るだけのものではない。神々の国作りや婚姻や出産や、あらゆる場面にわたって神々の関わる一切の事柄が、鉄に関わる物語、もっといえば「鉄を生む」物語、つまり「鍛冶」に関わる物語として物語られているのが見えてきたのである。
  (『徹底検証 古事記―すり替えの物語を読み解く』「はじめに」より P3-P10 )



 わたしが本書を手にして先ず思ったのは、村瀬学の批評や思想がこういう世界にまで伸びてきたんだなという少し意外な思いだった。しかし、この世界のありとあらゆるものをその根源から捉え尽くそうという欲求が、著者の初期からの志向性としてあったからこのような世界への触手も不思議とするのは当たらないのかもしれない。

 吉本さんに「喩」の歴史的な段階の推移の考察があるが、いまはそれには触れない。古事記を「喩」として読むということは、私の理解に引き寄せれば、古代国家が成立した時期の古事記編集者たちの言葉の水準ということになる。そしてそれは、知識上層としての独自性はありつつも当時の大多数の文字を知らない普通の人々の言葉の水準とも連動していたはずである。つまり、当時は、現在のわたしたちのような物事と言葉が対応する水準が異なっているということである。現在の言葉を携えて古代国家当時の古事記編集者の言葉の世界に赴いても、当時の言葉と現在の言葉ではおおきなズレがあるから、何を語っているのか不明な部分に頻繁に出会い、現在の言葉の感受や視線で切り取り、合理化しがちになる。すなわち、そのことはとてもむずかしいことであるけれども、当時を肌感覚でわかったというようには再現することができないことになる。

 この村瀬学の方法は、古代国家が成立当時の言葉の森に入り込んで、「鉄」や「鍛冶」を指示しつつ、それに込められた自己表出性を、「喩」という一連の系列として開示して見せたものである。そして、当時の知識上層や権力上層が、「鉄」というものに軍事力や農業生産などに貢献するものすごい力を生み出す威力を感じ、「鉄」を掌握することに社会や国の輝かしい未来性を感じたのかもしれない。それは現代に類比すれば、やや小規模ではあるが、ちょうど原発における原子力の利用に輝かしい未来を見た人々が居たことに対応している。わたしはいろいろ疑念を持ちつつ、言いかえると、ほんとにそうだろうかと思いながら本書を読んだが、いままでにない方法を主軸にして追究された労作だということは確かである。


(方法2)
 説話や神話自体の、書き留められた言葉やイメージの背後の無意識的な視線を読み取る。


 もうどこに書いてあったか忘れてしまったが、吉本さんがイザナギとイザナミの二神がこの列島の島々を次々に生み出していったという古事記の国生み神話の記述に触れて、これは海洋民の種族の視線ではないかと書き留めていた。吉本さんのその言葉に出会って、立ち止まり、ああ、なるほどと感心した覚えがある。人間の活動や行動には、自己の意志が関与する随意運動と自己の意志が関わらない不随意運動があるように、イメージや言葉の表現もまた、同様に意識的な部分と無意識的な部分とがある。(方法1)のように神話が生み出された当時の言葉やイメージの水準を肌感覚レベルまで十全に感じ取り読み取ることが可能ならこの方法は余り必要ないのかもしれない。ただ、(方法1)というとても困難な方法が可能でない場合は、この方法は神話の作者たちの意識的な意図や作為などがもたらす混乱を排除して、神話の言葉やイメージの主流を幾分か照らし出す方法となるように見える。


(方法3)
 (方法2)に関わるけれど、この列島の人々の(あるいは人類の)言葉(神話)やイメージの大きな段階を踏まえた捉え方をする。その段階の推移の中からの視線を行使してその推移の中に位置付ける。


 言葉やイメージが新たな段階に到るということは次のような比喩になる。例えば、時間は連続してきたはずなのに、ふと気づくと若い青年だった自分がもう老年の自分になってしまっている。そうして、愕然とする。言葉やイメージが新たな段階(老年の自分)に到ると、それ以前の段階の言葉やイメージ(青年の自分)は消失したように見え、深く潜在化してしまう。しかし、一人の人間の中の言葉やイメージの推移の自己史も、様々な探索と内省の旅を経て段階的なものの流れとして、その流れの現在として捉えることができるのではないだろうか。この列島や人類の言葉やイメージの段階的な推移に関してもまた。

 関係する著作 『全南島論』、『母型論』(吉本隆明)



 ところで、この『現実宿り』というこの作品を湧き上がり襲来するイメージ群や言葉を書き留め編集された神話のようなものと見なして、この場合は作者=編集者であるが、(方法2)の書き留められたり編集されたりした言葉(神話)やイメージの背後の無意識的な視線を読みとるという方法を行使できないだろうか。

 古事記の創世神話に倣って、この作品を生み出した作者の「わたし」という存在の創生神話というものを考えてみると、その中心を成すのは子である「わたし」の生誕に関わる「母の物語」という創生神話である。それは古事記の創世神話が、この列島の国土を成す島々がどうやってどの順で生み出されたかを明確に語ることができるのとは対照的に、「わたし」はもはや「母の物語」という創生神話から遙か遠くまで来てしまっていて、遙か彼方の不明の地で「わたし」に刻印されてしまった「母の物語」という創生神話の現在的な実体を生きているだけだ。だから、遙かな「母の物語」が穏やかで慈愛に満ちたものだったのか、それとも生活上の労苦や夫婦の関係の齟齬があったりして大きな波風立ったものだったのかは、誰にもわからない。わからないけれども、例えば少年の吉本さんがなぜ自分だけ同じ兄弟なのに彼らと性格が違いすぎるのかと疑問に思ったように、「わたし」の現在の生存の有り様が、遙かな「母の物語」による創生神話の有り様を漠然と証しているはずである。

 『現実宿り』の出だしの第一段目は、次のように生起している。



 砂漠には時折、気まぐれな風が吹いた。その風がどこからきたのか誰も知らなかった。そもそも誰もそこにはいなかった。人間がいなくなってかなり月日が経っていた。風がまた吹いた。砂は退屈そうにまたがると、地表の上すれすれを回転しながら流れていく。移動した先でまた出会いがあればいい。いつも砂は移動した先で家族とは言えないまでも、集団を形成していた。水分もなにもない。しかし、砂は何一つ困ることがなかった。人間たちは水を求めて争っていた。そのときの気配がまだ残っている。残骸が地中に眠っている。もやの向こうから光が差し込んでいるのが見えたが、地表にはまったく届いていない。時間が停滞していた。まるで忘れられたような場所だった。砂はときどき移動しては、街を渡り歩いていた。集団は山をつくることもあった。山の周囲を濃い灰色のベルトのような空気が囲んでいる。わたしたちは贅肉なのかもしれない。獣の内臓にいるような感じだった。風が吹いていたのに。わたしたちは外にいたはずだ。光のせいなのかもしれない。わたし、とつい口にしそうになった。風がそれを横目で見ている。お前はどこから来たのか。一言も発しない風は、ただ吹くだけだった。何もない。それが砂漠だ。
  (『現実宿り』P3)



 ここでは、砂である「わたしたち」が(登場人物)として現れ、語り手ともなっている。「砂」が風に「退屈そうにまたがる」ことがあり、また生命ある存在のように、外界に眼差しを向けたり、「困る」ということがあったり、あるいはこの引用の次の段落では、「砂」が「夕食を食べ」たり、「それぞれ勝手に、思うままの音を鳴らすだけだ」が「音楽を鳴ら」すこともある。これは、いったいどういう世界であろうか。近代以来の作者があるイメージやモチーフを持って、語り手、登場人物からなるある幻の虚構の世界を造型する、そうした作品とは違うような気がする。また、この「砂」や「砂」が語る表現は、童話的な世界とも擬人法とも違うような気がする。

 読んでいて気になったことに関する描写を作品からいくつか抜き出してみる。



 そのときのおれはどうかしていたんだ、きっと。おれはまだ内臓にいた。そして、おれは自分が蜘蛛だったことを思い出した。まあ、そこまではいい。しかし、そのとき、おれは自分のことをまた思い出した。蜘蛛じゃないおれを。何を言ってる?蜘蛛がしゃべれるわけがない。つまり、いま、しゃべっているこのおれは蜘蛛じゃない。それくらい、おれにもわかる。それでもおれは蜘蛛だった。しかも、蜘蛛ってだけじゃない。おれは食べられたまま、おれを見ていた。それがおれだとなんでわかったのかわかるか?自分の姿はたとえ蜘蛛だとしてもわかるんだ。なんのことかわからんだろうが、お前もお前を見たらわかるだろう。
  (『同上』「32」P132-P133)



 引用文中から取り出してみると、

1.「内臓にいた」「蜘蛛だった」おれ・・・「しゃべれるわけがない」
2.「蜘蛛じゃない」おれ・・・「しゃべっている」
3.「蜘蛛だった」おれ・・・「おれは食べられたまま、おれを見ていた。」

 「蜘蛛だった」おれと言葉を喋る「蜘蛛じゃない」おれというように、「おれ」が二重化されている。さらに、(鳥に食べられて鳥の)内臓に居た「蜘蛛だった」おれ自身も二重化されている。この1.の「おれはまだ内臓にいた」という「おれ」の視線は、胎内の視線であり、3.は臨死体験時に自分が斜め上方から自分自身の姿を見ることがあるという視線ではないだろうか。



 おれは戻っていた。太鼓の音が聞こえたからだ。太鼓は人間が鳴らしていた。おれは人間と人間のあいだにいた。おれとおれとのあいだにもいた。鳥と蜘蛛のあいだ。目と内臓のあいだ。どこにでもいたわけじゃない。突然現れたわけでもない。この日って決まっていたわけでもなかった。それは突然やってきたんだ。でも、それはおれにとっての突然であって、森はもとから知っていたんだ。おれは自分から迷い込んでいったんだ。なんとなく足を踏み入れたわけじゃないことは確かだ。足は知っていた。太鼓の音はどこかで聞いたことがあった。おれはずっとこの景色を見ていた。内臓ではまだ分解されていて、おれはいろんな形になっていた。そして、あらゆることを思い出した。おれが知らないことも思いだした。人間たちが集まっていた。おれはそこに向かった。おれの巣の真下で人間たちは輪になっていた。
  (『同上』「36」P149)



 「おれは人間と人間のあいだにいた。おれとおれとのあいだにもいた。鳥と蜘蛛のあいだ。目と内臓のあいだ。どこにでもいたわけじゃない。」とあるが、「おれ」は食べられて鳥の目になっているのと鳥の内臓の境界のような所に居る。もっとはっきり指定すれば、「おれ」は両者が二重化した視線となっている。それは前の引用部の臨死体験時の瀕死者の斜め上方からの視線が継続しているのではないか。そして、胎内の視線という前の読みつながりで捉えれば、この「おれ」に聞こえているという「太鼓の音」は、あり得るのかどうかわからないわたしの直感に過ぎないが、おそらく二重化した「おれ」の幻の視線が捉えたような、おそらく遙か時間の彼方の「母の物語」という神話的な時間の創生期に胎内で響いていた母の心音を胎児の「おれ」が聞き感じていたものの、現在的な残骸、あるいは現在的に変成されたものではないかと思う。

 ところで、ここの引用部の「どこにでもいたわけじゃない。突然現れたわけでもない。この日って決まっていたわけでもなかった。それは突然やってきたんだ。」もそうだが、一つ前の引用文の「なんのことかわからんだろうが、お前もお前を見たらわかるだろう。」というような、普通の物語作品なら、読者の理解の助けのための説明ととれるような表現がある。しかし、この表現は、読者の理解のための説明表現ではない。「お前」という言葉は読者のことではなく「おれ」の分身みたいなものだから、このような表現は「おれ」の自己確認の表現ではないかと思う。作者の「わたし」の分身とみなせる「おれ」も、この世界を十全にわかっているわけではないからだ。

 読者は、作者によって差し出された物語作品を読み味わう。どんな読み味わい方も自由である。どんな印象やイメージを受け取ってもかまわない。ただ、この作品論の最初の方で触れたけど、作者の「わたし」がわたしたち読者の方へ物語作品として差し出したことに対して、わたしは、それを作者の無意識的な部分も含めてできるだけ十全に受けとめ読み込むことを作者に対して差し出すひとつの挨拶のようなものとして批評の行為を考えた。

 作者の「わたし」に生起してくるイメージは、「わたし」には避けようもなくあちら側から襲来してくるものに見え感じられているのかもしれないが、ほんとうは「わたし」の無意識的な部分が選択し、連結しているイメージ群であるのかもしれない。たぶん、作者の「わたし」も、自動書記みたいに寄せてくるイメージ群を記録していたとしても、ひそやかな心の場所では、読者にも近くに一緒に座ってそれらのイメージの星々を眺めて欲しいとどこか願っているところがあるのかもしれない。

 以上、最初に触れた神話への入り方、(方法1)(方法2)(方法3)を意識しながら、(方法2)でこの作品の作者という「わたし」の言葉の無意識的な部分の読みを少しばかり試みてみた。当たっているかどうかはわからない。神話というものを(方法1)の村瀬学の方法でその当時の言葉の水準に沿って読んでいくように、この作品も作者の固有の言葉の水準に沿ってもっと微細に読んでいくことが可能なのかもしれない。けれど、そのことは自分自身の理解や他者理解というものがある深みまで下ってゆくととても難しいのと同じく、どこまでも続く砂漠を歩いて行くような困難さがあるように思われる。
    (終わり)


補足の註.

 『現実宿り』の作中に出て来る鳥や鳥の目の視線というもののイメージの出所として、以下のことが何らかの関係があると思い、註として挙げておく。


 まず、三木成夫は、人間が生まれてくる前の胎児の段階で、なぜか胎児は魚類、両生類、爬虫類、哺乳類と次々に姿形を変えて生物の進化の歴史の過程をたどってくることを明らかにした。(『胎児の世界―人類の生命記憶』)このことを踏まえて、吉本さんの言葉を持ってくる。


 人間が鳥であった時は、どういう時であったかというと、一つは胎内にあった時であったに違いありません。それから、もう一つは死に瀕した時に、そこを通るに違いないということです。


 僕は、宗教家ではないし、あまり信仰はないですから、僕なりに解析しました。なぜそういう状態が起こりうるのか、僕の解釈の仕方は、死んでしまう直前の、意識の薄れたモウロウとした状態といいましょうか、その寸前の状態のある範囲の時に人間的意識でなくなって、多分鳥と同じように― 昔鳥だった時というのが蘇るのかどうかは分かりませんが― 上からの視線というのを獲得する、ある瞬間があるのではないかということです。つまりそれは意識のモウロウ状態と言いますか、完全に崩壊しない、その寸前の時の意識体験のところで、多分鳥瞰的な鳥の目というのを、自分自身に対して持ったり、下の風景に対して持ったりする瞬間というのがあるのではないかというのが、僕の解釈です。
  (『幻の王朝から現代都市へ―ハイ・イメージの横断』P28 , P31-32
       吉本隆明 河合ブックレット12 1987年)
































































ツイッター詩



 [ツイッター詩47]
( 4月詩)


言葉より速く
春は到達し
漂いあふれている

(いやいや
もしかすると
春は
草や木のように
出番以外は
楽屋裏でしずかに時間を紡いでいる)

ある時
からだの葉脈は
春の気配
流れ漂い触るる
気づくのだ
そうして身を立て直す

最後に
ゆっくりと
春の言葉が立ち上がる





 [ツイッター詩48] (5月詩)


同じ人であっても
同じ街に住んでいても
間近に近づくと
微妙に
色合い違い
形も違い
匂いも違う
視線を退くと
大体は
似たもの同士
同じ花開く

海を越え 山々を越えても
同じように人は花開く

硝煙の黒雲が漂い出すと
何かが次々に傾いでいく
蜘蛛の子を散らすように
散り散り
転がり落ちていく
ものたちもいる
それでも花開く

それぞれの地に 人に
虹が懸かり
何気ない風に
屈折し始める
スペクトル帯に分散する
それぞれの歩みも心も
花を孕んでいる
(それは不変)





 [ツイッター詩49] (6月詩)


階段を上り詰め
もうそこからは
階段が消えている
とすれば さてきみはどうするか

有り合わせの食材かき集めて
食事を作るように
鼻歌歌いながら
おぼつかない足取りで
いつものように
足踏み出すか
幻の階段へ

未踏の匂い
未知の味だとしても
無数の他人(ひと)の……
ためらいの韻
言うに言われぬこと
言っても仕方ないと思う
数々の小さな願い
肯定と否定の谷間には
無数の留保された
沈黙のつぶやきがあり
それはなかったことのように
二者択一のドアが閉じられていく

けれど
閉じられたドアの向こうには
時の流れの主流があり
沈黙の無数の泡立ちが確かにある
まぼろしの階段は必ずそこと交差し
そうして無数の小さな影たちが
階段に差してくる
おお このやわらかな
日ざしを潜り抜けてきた匂いの





 [ツイッター詩50] (7月詩)


雨が降っている
雨が降り続いている
(気がかりが
ないわけじゃない)
(例えば植えたスイカ
だめにならないかどうか)

雨が降っている
雨が降り続いている
(思いが
飛ばないわけではない)
(例えば遙か太古にも
雨がこんなに降っていたのかどうか)

雨が降っている
雨が降り続いている
底に流れる
思いとは別に
ただぼんやりと眺めている
雨・が・降・っ・て・い・る





 [ツイッター詩51] (7月下旬詩)


ポケモンGOの現在に
つっぱりも反発もなく
ただ自然に
別にケイタイも持たず
ぼくは生きている
あ スイカ食べたいな

荒れた現在の風景に
モンスターをふいと見出したら
普通は病気だけど
たぶん製作者の意図を超えて
正気で本気で熱気を帯びて
街路を駆けていく
命知らずもいる
(どんな潜在夢を灯し
光っているのか)

ポケモンGOの現在に
同じ現在を分かち合っている
ぼくは ぼんやりと
梁塵秘抄の文句をつぶやきながら
現在の向こうへ
イメージ走らせている






 [ツイッター詩52] (8月詩)


とっても小さい頃は
カタカタの
くり返す上下動や
立てる木の音木の響きにも
大いに感じ
こころ踊ったものだ

おそらくは見守りの
今は亡き姉や兄等も居て
履き物の立てる
ぐっぱんぐっぱんにも
気が魅入る
歩き回れる世界
見えるものの多寡に関わりなく
世界は豊穣に満ちあふれていた

けれど今や
その世界はまるで
遙か太古のように遠く
不明の靄(もや)に沈んでいて
時折ひとつふたつ
気泡が打ち寄せてくるばかり
(戻りたいわけではない
ただこの世界のシン・意味に触れたいだけ)


註1.「カタカタ」は、小さい子用の手押し車
註2.「シン・意味」は、『シン・ゴジラ』を模倣した。掛詞。






 [ツイッター詩53] (9月詩)


(ああ)そりゃあ良いね
みどり成す丘陵に
やわらかな風も吹いている

(おお)そうだったのか
多言の海
左右に分かれ
開かれるおぼろな一筋の道

(ううっ)急に倒れゆく日のからだ
雲にさえぎられて
暗転する舞台

(ああ あ)日の落ちた
夕暮れ道
当てもなくとぼとぼ歩く

(ううん あ)まぶしい
新しい日差しが
また差して来ている

ああ

おお

ううっ

ああ あ

ううん あ





 [ツイッター詩54] (10月詩)


木々の中の一本の木
木肌に触れる
木(もく)する木
風が枝葉を揺らしても
木(もく)する
幹や枝葉や その内を
木々(もくもく)と流れている
と思うが
木の声は聞こえない

通りすがりの
見知らぬ人の
流れる風に
心開いていれば
肌はやさしく呼吸している
かもしれない
思い詰めた事情に
固く閉じているなら
空も風も日差しも
あまり浸透できないだろう

外と内では
風景が変貌する
このすれ違う見え方は
饒舌と沈黙
普段着と余所行き
いろんな対比に染まる
避けられない別れのようなものだろうか
見るだけではなく
言葉を開き
深く芯の方で感じるならば
境界からいくらか出入りできるか

内にいても外にいても
時に たいせつなのは
うさぎのような鋭敏な耳
千里眼のように感応する目
通りすがりの
見知らぬ女(ひと)の
うっすらと化粧の匂い
流れる風に漂っている



 [ツイッター詩55] (11月詩)


(どん どん どん)
秋祭りの練習か
風に乗って来る
音の物語
((たぶん 深みはある))

(ぴーひゃら ぴー)
笛の音に乗り
下ってゆく
小さい頃
やったことはない
余り心高鳴ったこともない
ただ 毎秋
わたしの耳は聴き
この土地の匂いのように
いくらかなじんでいる

(どん どう どん どお)
太鼓や笛が
音の物語の音階をうねり
稜線へ
祭り衣装の影たちは
秋の盛りから遠望している

ところで
現在の音の物語は
騒々しい街を
抽象された
コマーシャル顔の臭みを漂わせる
アカルイ少女たちが
秋の遠望もなく
周回している
ソレモイイダロウガ
余り心高鳴ったこともない
((タダ ニンゲンノエンボウハ アル))





 [ツイッター詩56] (12月詩)


ささいなことだけど
若い頃は見向きもしなかった
ミョウガ
好きなみょうがになってしまった

ささいなことだけど
畑に出る
道際に小竹
花を付けることがある
みょうがも白い花咲く
でも しょうがに花
があるとは知らなかった

ささいなことだけど
心にかかる重さが
ずしりということがある
着物もらった
太宰治のように (註.)
無量の峠に佇む

ささいなことに
つまづくことがあり
ささいなことが
賞味期限切れみたいに
捨てられることがある
でも 人の世は
小春日和に
ぽつぽつ咲くさつきのように
ささいなことがひかり輝くことがある


  註.「着物もらった/太宰治のように」

「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
 (短編「葉」 太宰治 青空文庫) たぶん、作者の実体験から来ている。















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