消費を控える活動の記録・その後 5 (2017.1~)






 目  次 (臨時ブログ「回覧板」より)


        回覧板他    日付
121 日々いろいろ―覚書2016.12.28より 2017年01月02日
122 日々いろいろ―推測できそうなこととよくわかっていないこと 2017年01月09日
123  歌集『オレがマリオ』(俵万智)を読んで、いいなと思う作品について、ひと言。   2017年01月11日
124 表現の現在―ささいに見える問題から 23 (言葉の出自)  2017年01月19日
125  表現の現在―ささいに見える問題から 24 (位相化する言葉) 2017年01月20日
126  日々いろいろ―「聖地巡礼」について  2017年02月13日
127 日々いろいろ―表現の渦中の言葉の揺らぎ 2017年02月17日
128  吉本さんの言葉というものの捉え方 付「わたしの註」  2017年02月18日
129  「エレヴァス」問題再び  2017年02月24日
130  現在にまで残るこの列島の古い社会・国家観の遺伝子  2017年02月25日
131  知識の第一義的な課題 付、わたしの註
  ―「シモーヌ・ヴェイユの意味」(吉本隆明)より 
2017年03月11日
132  日々いろいろ ―よしもとばなな『すばらしい日々』から 2017年03月26日 
133  覚書2017.4.14 わたしの表現・思想のおおもとのモチーフは、ひと言で言える。 2017年04月14日
134  覚書2017.4.18 生活者住民としてのわたしの原則  2017年04月18日
135  上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)より  2017年04月22日 
136  「文体」についての覚書  2017年05月15日
137  知識の現状についての覚書  2017年05月19日
138  又吉直樹『劇場』を読む 2017年06月12日 
139  孤独な表現―坂口恭平の『しみ』(2017年4月)を読む 2017年06月27日
140 島尾敏雄『琉球文学論』メモ 2017.6.30  2017年06月30日
141  島尾敏雄『琉球文学論』メモ 2017.7.1 ―わたしが気に留まった箇所  2017年07月01日
142 主流論 2017年07月24日
143  宮沢賢治「花壇工作」から 2017年08月30日
144 表現の現在―ささいに見える問題から 25 (言葉の理解ということ)  2017年09月28日
145  過去の資料をどう読むか―江戸期の農書「郷鏡」より 2017年10月14日
146 表現の現在―ささいに見える問題から 26 (町田康『スピンクの笑顔』より) 2017年12月08日
147  (わたしがネット上で呼びかけを開始した「消費を控える活動」のしめくくり)  2017年12月14日
148 現在をイメージ化するための覚書 (1) ―経済生活の状況から ★★ 2017年12月26日
149 現在をイメージ化するための覚書 (2) ―経済社会構成の変位 ★★★ 2017年12月26日











  『1Q84』(村上春樹 2009年)読書日誌
日付
   BOOK 1  
①  2017.3.14 奇数章と偶数章が今のところ関わり合いがなく並行して物語は進行する。 2017年03月17日
2017.3.17 手書きかワープロ書きかという問題 2017年03月17日
2017.3.20 登場人物について 2017年03月20日
2017.3.20 出だしの音楽の再登場  2017年03月20日
⑤  2017.3.27 (作品)世界の変貌  2017年03月27日
⑥⑦  2017.3.30 作品からこまごまと , 作品の未来からの視線 2017年03月30日
   BOOK 2
2017.4.03 作品の大きな山場か  2017年04月03日
⑨  2017.4.04 作品の大きな山場か・続   2017年04月04日
2017.4.06 物語世界ということ  2017年04月06日
⑪  2017.4.09 物語世界の終わりということ  2017年04月09日
   BOOK 3  
2017.4.12 物語は続く  2017年04月12日  
2017.4.16 物語は終わり、読者は作品を出る  2017年04月16日
⑭  2017.4.17 作品を読み終えて (終わり) 2017年04月17日
     
     
  騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌 日付
物語の終盤まで来て 2017年05月03日
②  絵画論として読む  2017年05月05日
③  物語世界を潜り抜けて  2017年05月06日
④  イデア(観念)のかたち成した騎士団長  (終わり) 2017年05月08日
付記 2019年05月24日
付記への追加 2019年08月04日











        ツイッター詩     日付
57 ツイッター詩57 ( 1月詩) 2017年01月01日
58 ツイッター詩58 ( 2月詩) 2017年02月02日
59  ツイッター詩59 ( 3月詩) 2017年03月05日
60 ツイッター詩60 ( 4月詩) 2017年04月03日
61  ツイッター詩61 ( 5月詩) 2017年05月01日
62  ツイッター詩62 ( 6月詩) 2017年06月01日
63  ツイッター詩63 ( 7月詩) 2017年07月03日
64  ツイッター詩64 ( 8月詩) 2017年08月02日
65  ツイッター詩65 ( 9月詩) 2017年09月03日
66  戯れ詩2017.9.16  2017年09月16日
67 ツイッター詩66 (10月詩) 2017年10月01日
68 ツイッター詩67 (11月詩) 2017年11月01日
69 ツイッター詩68 (12月詩) 2017年12月09日













回覧板他




121


  日々いろいろ―覚書2016.12.28より


 わたしがよく訪れるブログの「『初期ノート』解説」 (2016-12-10)   ( http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20161210 )にシモーヌ・ヴェイユの「匿名の領域」に関わる言葉が引用されている。



人間だれでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ヴェルソンヌ・ニメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。(ヴェイユ「人格と聖なるもの」)



 これは『ロンドン論集とさいごの手紙』というヴェイユの本に収められている文章らしい。吉本さんのヴェイユに関する文章やネットの文章で何度かその言葉に出会ってきたけれど、ヴェイユの「それは、かれ、その人なのである。」という言葉や「匿名の領域」というこがよくわからなかった。しかし、「『初期ノート』解説」(2016-12-26)( http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20161226 )の文章の次の辺りを読んでいて、あ、なんかわかりそうだという気になってきた。



吉本はヴェイユの「匿名の領域」という考え方につながるものとして、「存在倫理」という概念を晩年に提出しています。充分な展開をしないまま吉本は亡くなってしまいましたが、「存在倫理」という考え方には吉本の生涯の思想の重量がこもっていると思います。
「そこに『いる』ということは、『いる』ということに影響を与えるといいましょうか、生まれてそこに『いる』こと自体が、『いる』ということに対して倫理性を喚起するものなんだ。そういう意味合いの倫理」というように吉本は「存在倫理」を説明しています。これは「その人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ヴェルソンヌ・ニメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである」というヴェイユの「匿名の領域」の考え方につながるものだと思います。   (『初期ノート』解説」2016-12-26)




 吉本さんの「存在倫理」という言葉とヴェイユの「匿名の領域」の考えの説明に当たる「それは、かれ、その人なのである」という言葉が、あるつながりあるものとして並び置かれていて、「それは、かれ、その人なのである」という言葉がなんかわかったような気がしてきた。

 人は人間界に生まれ落ちて最初の内は世話をしてもらわないと生きてはいけない受動的な存在だったが、次第に育っていって自力というものも身につけ、人格や固有性を身にまとってわたしたちの普通に活動する状態になっていく。その最初の無力な受け身の状態、すなわち人格や能力などと呼ばれる固有性を身に付ける以前の状態を「基底状態」とすると、人格や能力などと呼ばれる固有性を身にまとって普通に活動、生活する状態はそこから一次元くり上った状態で「励起状態」と見なすことができる。

 わたしたちは、成長し「基底状態」を通り過ぎてきて、もはやそれとは無縁のように「励起状態」を日々生きているが、「基底状態」はまさしくわたしという人間存在の初源的な「基底」として、あんまり気づかれにくい態様で「励起状態」を生きるわたしにも浸透しているはずである。つまり、「基底状態」そのものを通り過ぎてきてしまったけれど、わたしたちは、「基底状態」を内包しつつ「励起状態」を前景とするような、ある幅を生きているのではないだろうか。

 「植物人間のような状態になっている人」も「深い認知症の老人」(註.いずれも『初期ノート』解説」2016-12-26の中の言葉より)も、あるいはまた、重度の障害を抱えている人々も、吉本さんの「存在倫理」やヴェイユの「匿名の領域」という概念が関わり合う、人間の「基底状態」に近い「人」そのものを生きていることになるのではなかろうか。つまり、わたしたちの中から内発的に湧き上がったのではなく、いくぶんかは人類の活動する歴史性が踏まえられているのかもしれないが、いつの間にかどこからか舞い降りてきて現在の社会に流通して、わたしたちに無意識的な部分にまで及ぶ力(強制力を及ぼしている、能力や競争や成果などの現在のイデオロギーは、そのような人々には無縁である。無縁であるということは、先の障害者施設での殺傷犯のようにそのイデオロギーに憑かれてしまえば、無用ということになってしまうのだろうが、それはその現在のイデオロギーが偏狭なのであり、人類史の知恵をねじ曲げているのである。したがって、その様な人々は、現在的な社会の主流の活動性とは無縁かもしれないが、現在的な人間というものの存在の幅の中にしっかりと在り、その「基底状態」を日々生きているのである。

 わたしが、吉本さんの「存在倫理」やヴェイユの「匿名の領域」を語る言葉がなんとなくわかったような気になったということは、現在の私の理解によればあらゆる人間の存在をそのような幅として、その幅の中のスペクトラム(連続体・分布範囲)として見なすということである。

  (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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 日々いろいろ―推測できそうなこととよくわかっていないこと


 わたしたちは映像作品でも言葉の作品でも、それらを味わいながらその作品の主流からはずれて、佇みもの思うことがある。わたしも次の所で少し立ち止まった。


しかし、薪ストーブの真の意味・意義はそうした経済的な側面にあるのではない。ではなにか。ずばり言うと、心の安らぎである。そう、エアコンを何時間眺めていても、心が安らぐことはなく、なんでこんなものを何時間も眺めなければいかんのだ、と腹が立ってきたり、それでも我慢をして眺め続けると、頭がおかしくなったりするが、温かな色合いの揺らぐ炎を眺めていると、なんとも言えず心が安らぎ、ゆったりとした気分になってくる。俗にいう、いやし効果、というやつである。なぜそうなるかというと、遠い祖先が炎を囲んで夜を過ごした記憶が遺伝子レベルで伝わっているからだろう。遠い祖先が感じた安心感がいまに伝わる、という寸法で、そのとき私どもはストレスに満ちたグローバル経済社会を生きる現代人ではなく、ピースでナチュラルな縄文人になっているという訳だ。
  (『珍妙な峠』P259-P260 町田康 2016年)



 ここではおそらく作者の(感受や考え方の)方に同化した語り手の「わたし」が、町田康の読者には見慣れた語りを披露している。読者は、その語りを味わえばいいのであるが、わたしはさらりと流せなかった。そこで、感じ考えたことを書き記してみる。

 それを挙げてみると、二点になる。

1.「遠い祖先が炎を囲んで夜を過ごした記憶が遺伝子レベルで伝わっている」という認識が語られているが、ほんとうにそうなんだろうかという疑念がある。その疑念というのは、太古からの人々(人類)の経験したものは、どこに保存され、どのようにして現在のわたしたちにまで伝わっているのかというものがよくわからないところから来る。人間が歴史の中途で死に絶えたということはなさそうだから、次々に世代を継いで、受け渡されてきたのかもしれない。どこまでがそうした具体的なもの(この場合は火)を通しての環境的な受け渡しであり、どこからが遺伝的な受け渡しなのかは現在までのところはよくわかっていないと思う。

 まず、巨視的な時間の中の人類の経験について考える前に、その原型として、わたしたちの日常という小さな時空で考えてみる。わたしたちの日常の生活で、学校の勉強でも仕事でも一般に (註.1) くり返しによって慣れと習熟が形成されるということは誰もが経験することである。そして、そういう慣れと習熟は反作用としてわたしたちの手足や腕や眼差しなどの身体的なものや感覚や意識も変貌させる。そして、それらは心身の連関として保存され、現場に立つと自動的にそれが発動されるように見える。これらは遺伝子に刻まれるような変貌ではないように見える。

 わたしたちは、頭の良し悪しや運動能力や芸術表現などに関して半ば冗談にそれは親の遺伝だろうとか語り合ったりすることがある。しかし、たかだか一世代(親)で新たに形作られたものが遺伝子の中に形成され次の世代(子)に伝わるものだろうか。糖尿病になりやすい体質は遺伝するとか言われているが、どこまでが遺伝的なものの受け継ぎで、どこまでが本人の環境との関わり合いがもたらしたものか、などことはそんなに単純じゃないように見える。素人考えではあるが疑問がある。これは世代間の短い時間内の問題であるが、途方もない世代を継いで来た巨視的な時間の中の人類の経験というものもある。

 昔、吉本さんが、わたしたちが赤道直下のアフリカへ行ってどの位時間が経てば肌が黒くなるのかみたいなことを専門の学者に尋ねたら「肌は黒くならない」という答えだったとちょっと不服そうに語られているのを読んだことがある。しかし、住んでいた地域による肌の色の違いなどが現在にまで伝わっているから、同様の途方もない、巨視的な時間の中の経験を世代を継いでたどれば同様のことになるのではないか思われる。おそらく、この場合遺伝形質として刻まれるには、人と自然環境との関わり合いの途方もない時間がかかるのだろう。

 わが国の火の歴史については、『火の昔』という柳田国男のていねいにたどった研究がある。それを踏まえながら言えば、火の場合は、少しずつ利用したり対面する形が変化してきてはいても、生の火と対面し続けたのは太古から江戸期までは全社会的なものであった。つまり、とても長い時間の中で生の火を利用し対面し続けた来たのである。火に対する太古の長い経験のもたらしたものは、人間の意識の古層に保存されながら、火の経験のたび毎に引き出されたり滲み出したりして反復してきたのではないだろうか。

 一方、遙かそれ以前から太古までに経験されたものが、太古で終わったとしても、その経験がもたらす感受や感覚はわたしたちの意識の古層に残り続けるのではなかろうか。いずれの場合に関しても、量が質に転化していくほどのとても長い時間の反復の経験が必要だと思われる。ただ、以上述べたことに関して、遺伝としての保存や伝わりが、二世代間程度であり得るのかどうかとか、また、巨視的な時間の中の人類の経験が遺伝として刻まれ伝わっているのかどうかは、未だはっきりとはわかっていないように見える。したがって、作者が書き留めた「遠い祖先が炎を囲んで夜を過ごした記憶」や火に対する共同のイメージや感受が遺伝子レベルで伝わっているのか、あるいは、火に対するイメージや感受が意識の深層に保存されて、それが果てしない世代を継いで火と対面する中でくり返し反芻されているのか、いずれと断定することはできない。いずれにしても、どういう機構かはわからないとしても、とても古い人類の感覚が今に伝わっているのではないかということは、おそらく誰もが感じているように思う。

 現代では遺伝子というものが見出され、今までより深い自然との出会いが可能となり、ということは同時に今までより深い自然の記述や描写が可能になったことを意味しているが、まだまだ混迷の中にあって、クリアーなより深い自然の記述や描写とはほど遠いように見える。


2.作者が明確に人の心が層を成していると述べているわけではないが、「遠い祖先が感じた安心感がいまに伝わる」深層と「ストレスに満ちたグローバル経済社会を生きる現代人」という現在の層とが挙げられているから、層を成していると捉えていると見なせるだろう。確かにわたしたち人間のひとり一人には、いくつかの時間の層とでも言うべきものが累層しているように見える。そして、普通の日常の中の安定した基底状態では、太古からの古い層はそこに溶け込み遍在しているだけかもしれないが、ある人や社会の総体が危機的な状態に陥ったり、スポーツ観戦やコンサートでの熱狂状態など個が激しい興奮状態の時の高ぶった励起状態になると、とても古い層が発動してくるように思われる。そのような社会的かつ個的な発動の身近な例として、人々は戦前の近代的な社会や感覚を経てきたのにあっさりとそれらを投げ打って、全社会的に、全芸術や全思想にまで及んで、太古の感覚や感性への先祖返りを遂げてしまったという負の歴史をわたしたちは持っている。

 町田康の『珍妙な峠』を読みながら、立ち止まって思い巡らせてみたことを覚書風に書いてみた。現在のところ、わたしたち人間に関して推測されるところやよく分かっていないと感じられるところをそのまま書いてみた。


(註.1)
「一般に」と書いたのは、次のようなことがあるからである。自閉症の世界をその内側から捉えようと追究されてきている松本孝幸さんによれば、自閉症者の中には自転車の練習を繰り返したり、ピアノの練習を繰り返したりして上達するというのではなく、傍で見ていてすぐにできる人々がいる、そうである。






123


 歌集『オレがマリオ』(俵万智)を読んで、
      いいなと思う作品について、ひと言。



 言葉の表現も、他の仕事や技と同様に長らく手を動かし続けているとそれなりに年季が入ってくる。そして、言葉以外と同様に表現者にとっては、日常の平均的な普通を抜け出したその(言葉の)水準が普通になってくる。しかし、言葉の表現もまた、自らが何をしているのかを確認するかのように、自分の言葉の出生の地を、出生の心や感情を風通しのように反芻することがある。ちょうど、母が生まれ育つ子に眼差しや心を振り向けるように、言葉を差し向けることがある。


1.旅人の目のあるうちに見ておかん朝ごと変わる海の青あお

 人は、その地に生活を始めると、その地の風物に対する視線や感受も「旅人」から「生活者」に次第に移行していく。日々わくわくするような恋人同士の時間から、夫婦の日々の生活の時間に着地すると、最初の感動も薄れ、慣れや自然なものとなっていく。そのことは人間的な自然ではあるが、名残惜しむように最初の深い感動を味わいたいということ。ところで、「青あお」は、音数の促しとともに、「青」より青の広がりや動きが出ているような気がする。


2.落ち葉踏む音をおまえと比べあうしゃかしゃかはりりしゅかしゅかぱりり

 描写された足音の語感から前者が子で後者が母である「わたし」(作者)であろうか。こういう光景は、説明するまでもなく、小さい頃は誰にでもありそうな気がする。踏む音からは、互いが少し張り合ったり、楽しみ合ったりする情景が浮かぶ。子と向き合う母だからこそ、自らの遠い子ども時代を反芻するように踏む足音を立てているのだろう。


3.クレヨンの線どこまでも伸びておりこの放埒を忘れて久し

 「放埒」という語には、その行動をとがめるような少し否定的なニュアンスがあるが、ここでは肯定的な、子どもの気ままな自由さの表現や行動の意味で使われている。「忘れて久し」くても、あの遠い時間として「わたし」の心のどこかの層に仕舞い込まれているのだろう。


4.開花宣言聞いて桜が咲くものかシングルマザーらしくだなんて

 桜は、春の日差しを浴びつつ自らの内から突き上げるように花開く。同様に「わたし」もまた、外からのイメージや規定や指示によってではなく、内なる心の有り様によって生きているのだ。作者のめずらしくツッパッた歌。


5.ボタンはめようとする子を見守ればういあういあと動くわが口
 
例えば、テレビで相撲の取り組みを観たり、ドラマを観ていて、白熱した状況ではついつられて自分も身を乗り出したり、自分の手足に力が入っているということがある。この歌の場面もそういうことであろう。「ういあういあ」は、子どもの動作のこまかなひとつひとつに心配しながら付き従って自分もその動作を加勢しているような場所からの表現。


6.振り向かぬ子を見送れり振り向いたときに振る手を用意しながら

 人と人との関わり合いでは、例え密接なつながりにある母子の間でも、母の気持ち通りにその気持を察知して子も気持を返してくる(振り向いて手を振る)とは限らない。あるいは、成長するにしたがって、察知しても動作で表さないということもある。母と子の言葉にしなくても通じ合うような濃密だった世界も外の方に開かれて、引き止(とど)めようもなく互いにまた新たな時間を歩み出すのである。


7.ゼロひとつ含んだ長き掛け算を終えたるごとし人と別れて

 わたしたちは、日々いろんな人と出会う。そして、心通じ合わない、成り立たない会話の不毛さも経験する。ここでは、たくさん話をしたが、心通い合わせることもなくついに不毛な話であったということ。前半の算数計算の喩がおもしろい。数字の掛け合わせのような無味乾燥な会話であったという含意もあるのかもしれない。

(ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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 表現の現在―ささいに見える問題から 23 (言葉の出自)



 存在と言えばいいのにプレゼンス
           (「万能川柳」2015年12月8日)



 英語の「存在」の意味の言葉として「presence」と「existence」がありますが、前者は具体的にある場に居るという存在、後者は哲学的なものの存在というようなニュアンスの違いがあるようです。

 この作品の「存在」も「プレゼンス」も、何を指し示しているかという指示性は同じでも、例えて言えば、わたしは通ったことはありませんが京都の「哲学の道」を通って対象に到達するか、大都市のしゃれた町並みを通って対象に到達するかの違いです。当然のこととして、その道中の景色や印象はずいぶん違っています。しかも、いずれの言葉もわたしたちの日常の生活で使われる言葉からは遊離した言葉です。この遊離と言うことの意味は、この列島社会では知識や文化上層と生活世界とが、生活圏としてはそんなに離れていなくても、隔絶した距離を太古から持ち続けた来たという歴史性に拠っています。

 だから、この作品の表現している内容は誰でもぱっとわかるような気がします。(あいつ、カッコつけやがって。「存在」と言えばいいのに「プレゼンス」という横文字使ってやがる。鼻持ちならない奴だ。)というような内容です。付け加えれば、現在では「存在」という言葉は「プレゼンス」という言葉より日常生活世界に近づいてきてはいても、もともとは西欧の輸入言語に対する翻訳語で、明治期にできた哲学用語でした。つまり、この「プレゼンス」同様わたしたちの日常世界から遊離した言葉でした。

 現在の印象では、経済社会を中心として世界がグローバルに開かれてきていますから、主に経済社会の方から密輸というか湧き上がっているというか、「プレゼンス」の類いの言葉が盛んに流通し、社会に漏れ出てきているようなわたしの印象があります。ひとつの大きな会社にいろんな言語を携えたいろんな国出身の人々が入社して混じり合うような現状では、そういう日本語の状況もグローバル化の下、未だそれに形ある言葉を言えませんが、この作品の揶揄(やゆ)する意味とは別の意味を持ちはじめているのかもしれません。





125


 表現の現在―ささいに見える問題から 24 (位相化する言葉)



 言葉には、同じ対象を指し示しているのに、言い換える別の言葉というものがあります。例えば人名で言えば、賢治という名の人は、けんちゃんと呼ばれるかも知れません。この場合、「けんちゃん」と言う言葉は親しみを込めていうニックネーム(愛称)と呼ばれています。しかし、同一の対象を指すからといって、この「けんちゃん」と言う言葉が、「宮沢けんちゃんいらっしゃいますか」などと一般に公的な場で使われることはありませんし、逆に家族の中では「賢治」という言葉はほとんど使われないかもしれません。つまり、同じ対象を指す言葉であってもわたしたちの生きているこの世界が家族や友人関係や職場や行政に出向いた場合など位相(註.)の異なる関係的な世界として成り立っていることと対応するように、指し示す言葉も使い分けられています。これは別の言い方をすれば、「わたし」の内部から見たら、内部の心から精神に渡る層がそれぞれ位相化していると見ることができます。

 次に引用する作品は、上に述べたような違った場面の場合ではなく、「わたし」という個の同一位相の場面です。ただし、「わたし」の内面自体が位相化しています。


 アクセルを踏む俺ブレーキをかける僕
           (「万能川柳」2017年1月16日)



 「わたし」という個の位相(場面)で、気持が二つの層に位相化しています。二つに位相化した「わたし」が、「俺」と「僕」というように区別された言葉の表現になっています。この作品は、車の運転だけでなく、比喩表現として人の一般的な振る舞いの比喩と受け取ることもできそうです。

 わたしは若い頃高速道路で中型二輪のバイクに乗って時速100キロ以上出したことがあります。車もありますが、フルフェイスヘルメットを被っていてもバイクの場合はちょっと恐いです。この作品の場合、社会規範や規則にとらわれない「わたし」は「俺」、それらを遵守しようとする「わたし」は「僕」です。あるいは、少しの危険はものともせず気ままに快感に添ってアクセルを踏むなどの行動をするのが「俺」、危険などに気配りして慎重にブレーキ踏むなどの行動をするのが「僕」です。

 この作品では、「わたし」という個の車の運転というひとつながりの行動において、わたしの二面性、あるいは二つの位相が表現されています。「俺」と「僕」の語感と語の放つイメージの違いを効果的に表現した作品です。


(註.) 「位相」
 位相という言葉は、数学や物理の概念ですが、ここでは相互に何らかの関わり合いは持つとしても連続性や還元性を絶たれた異なる次元の世界と言うほどの意味で使っています。






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 日々いろいろ―「聖地巡礼」について


 巡礼という言葉は宗教的なものである。宗教的な意味としては、宗教的な聖地に触れることによって聖なるものや聖なるふんい気に触れ、信仰や宗教的な信を再確認したり、新たにしたりすることだろう。しかし、当事者たちにとっては、言葉に尽くせぬ内的な世界だと思われる。ガンジス川へ家族で巡礼に来ているのをテレビで観たことがある。未だ十分に宗教的な信に入っていない子どもや若者たちも加わっていた。そういう子どもや若者たちが聖なるものや聖なるふんい気と出会って、少しでも宗教的な信を深めることもこの巡礼の慣習的な自然として意図されているように見えた。

 巡礼は、文学の作品の題名にも用いられている。橋本治に『巡礼』、村上春樹に『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という作品がある。いずれも読んだことがある。この場合の「巡礼」は、いずれも登場する人物の傷ついた心の慰藉や魂の回復と再生の物語をめざす作者のモチーフから選択された言葉である。宗教性はないけれども上の宗教的な意味がずいぶんと希釈されたものとして使われている。

 ところで、「聖地巡礼」という言葉が近年新しい意味で使われていることを最近になって知った。この聖地巡礼も以下の説明によれば、宗教性はなくても上の宗教的な意味がずいぶんと希釈されたものとして使われている。現代的な「聖なるもの」との触れ合いとしての「巡礼」である。これに類することはずいぶん以前からあった。旧来からあった巨石や霊場などを「パワースポット」や「スピリチュアルスポット」などと新たに名付けてそこを訪れるというものだった。名前を付け替えるということは、宗教性が薄れたことの代替であり、それによって現代的な聖性として復活させようとしたものと思われる。



宗教において重要な意味を持つ聖地に赴く行為(巡礼)から転じてドラマや映画、漫画・アニメ・小説などの舞台となった場所や、スポーツなどの名勝負の舞台となった場所、登場人物の名前の由来地や同名地など、本人にとって思い入れのある場所を「聖地」と呼び、この「聖地」を実際に訪れ、憧れや興奮に思いを馳せることを、「巡礼」と呼ぶようになった。

一般には各フィクションの舞台になった場所を探訪することから、「舞台探訪」、あるいは映画などでは「ロケ地巡り」などと呼ばれる。実写の形で公開されるテレビドラマや映画のロケ地が名所となるような事例に比べ、漫画・アニメに端を発する聖地巡礼では、聖地とされている場所(地名)で、そこであると作中において明確に示されているわけではないにもかかわらず、ファンから神聖視されるという点が異なる。
 (「巡礼 (通俗)」ウィキペディア)




 ここで説明されていることは、芸術作品そのものを味わうことではなくそこから派生するものや舞台裏のことなどに属している。原則から言えば、芸術作品やその周辺のことをどのように味わい楽しもうが、人それぞれで他人が文句を言う筋合いではない。わたしが取り出したいのはそんなことではない。

 わたしには現在的な意味の「聖地巡礼」ということへの関心が皆無だから、なぜ人々はそういうことを楽しめるのだろうかという関心がある。次に、それと関わるけれど、近代以降の芸術表現の捉え方によれば、芸術の表現された世界である作品と具体的な現実とはほとんど関係がない、つまり、作品の本質にとって、映画やドラマならどこがロケ地だったかとか誰が主人公だったとか、小説に実在の地名があるとか、こういうことはほとんど関係ない。関係があるとすれば、作品と具体的な現実ではなく現実から抽出され批評的な対象となった現実的な地平とでも呼ぶべきものである。

 それなのにこうした「聖地巡礼があり」、あるいは、わたしはそのドラマを観ていないけど韓国ドラマ「冬のソナタ」のロケ地などを巡っている日本人がいた。 なぜこういうことが成り立つのだろうか。

 テレビ放送が開始された初期のエピソードとして、ドラマで一度死んだ人がまた別のドラマに出ていて、おばあちゃんがとても驚いたという話を聴いたことがある。真偽の程はわからないエピソードだが、このエピソードの背後にあるのはドラマという作品(虚構)と現実世界との混同である。現在では笑い話であるが、作品(虚構)と現実世界とを同一化しがちだった歴史的な段階の名残ではないかと思う。例えば、現在ではドキュメンタリーでもその作品と現実そのものとは区別されるが、実際の戦を題材とした平家物語などの語りの場面は、現実にあったことそのものとして当時の観衆に受け取られたのではないかと想像する。また、次のことは柳田国男が述べているのだが、列島中に分布する小野小町伝説も、語る者が一人称で語ったら特に、語る者と登場人物の小野小町とを観衆は同一化しがちだったのだろう。そういうわけで、小野小町本人が旅するのが不可能なほど列島中に小野小町伝説や塚が分布している。

 遙か太古に人間が猛威も恵みももたらす大いなる自然に神を見出すようになり、巫女やシャーマンという特別の能力を持っていると見なされた存在が大いなる自然(神)とやり取りする仲立ちを担っていく。一人称で神の言葉を代わって語る巫女やシャーマンが神々のふんい気を持つ者とか神々みたいな者というふうに神と同一化されていったのだと思う。ここから歴史は、人間界における王(神)の成立という神=王の同一化へと進んできた。人間の歴史の起源の所で起こったこのようなことは、そこから遙か現在に到っても現在的な形で反復されているように見える。

 作品と現実とは別とか、あるドラマに登場した役者と生活者としてのその人とは別とか、近代以降の芸術表現の考え方が現在では主流である。しかし、微妙なところでそれらの分離があいまいになるところもありそうだ。そういう地点から現在の「聖地巡礼」は湧き出してきているのだろう。わたしたちは、現在の「聖地巡礼」の圏外に居たとしてもそれをふうーんと言いながら別に奇妙なこととは見なさないだろう。しかし、これは近代的な芸術観や作品と現実の関係などとは異質なものであり、とても古い歴史の段階から引きずって来ているものだと思う。このようにわたしたちの心から精神に渡る層は、太古から次々に入れ替わっていくのではなく、何らかの形で層を成すように保存されながら来ているように見える。もちろん、近代以降の芸術観がわたしたちの中に主流として流れていても、そこに古い層から流れ込んでくるものがあるのだろう。

 最後に、わたしの場合の作品の味わい方に触れておく。例えば韓国ドラマ「鉄の王キム・スロ」(伽耶(カヤ)建国の初代王「キム・スロ」の一代記)をテレビで観たことがある。まず物語的な起伏に富むドラマ自体としての面白さを味わう。また、これは史実に関わる作品だから、派生する関心としては、当時の鉄の重要性そしてこの列島の鉄との関わり、また、部族長が亡くなったとき「殉葬」の風習として奴隷が殺されている場面などがあった。「殉葬」の風習については、今から見れば理不尽と言うほかないものだが、日本の特攻と同じで主宰する者と「殉葬」される当事者双方が、何らかの形でやむを得ないものだという意識があったから成り立っていた風習なのだろうと考えた。






127


 日々いろいろ―表現の渦中の言葉の揺らぎ


 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節(賢治の「手帳」の画像によると、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」というように確かに「ヒドリ」と書いてある)を巡って「ヒドリ(日取り)」か「ヒデリ(日照り)」か、あるいはまた「ヒトリ」かという論争があるのを初めて知った。

 わたしなら、「ヒドリ」が「ヒデリ(日照り)」ではないとしても、何らかのよくないことを指示している位で済ませる。つまり、「ヒドリ」が「ヒデリ」か「ヒドリ」か、あるいはまた「ヒトリ」かということの検討・考察を無意味とは思わないけれど、そこには深入りする気はない。作品にとって本質的なこととは思えないからだ。

 「雨ニモマケズ」のWikipediaの「略年譜」によると、1931年「9月28日 - 花巻に帰り、再び療養生活を送る。」とあり、亡くなる二年ほど前に当たるこの年の11月に「手帳に『雨ニモマケズ』を書く。」とある。『銀河鉄道の夜』などは何度も手を入れているが、療養生活に入っていたようだからそんな推敲の余裕はなかったのかもしれない。

 「雨ニモマケズ」のWikipediaに、「ヒデリ」か「ヒドリ」かという項目が設けられてまとめが載っている。この問題から少し足を伸ばしてみる。

 明治期からの標準語政策とその普及の過程には、沖縄の「方言札」に限らず様々な悲喜劇があったようだ。現在では、大都市に地方から流入してきたときに起こるその悲喜劇はほぼ解消していると思う。それは学校教育やテレビ等による共通語の普及とこの列島社会の高度化や均質化と対応していることだろう。わたしたちは、いわゆる具体的な地域性を喚起する地域語(方言)から、現代では主要に学校という場を通して均質な社会性に対応する共通語を学び身に付けていく。後振り返れば、そのことは自分の中でシームレスなものに見えるのかもしれない。しかし、いろいろな齟齬(そご)があったというようなうっすらとした記憶はあるが、自分の体験した切実さの現場はもうほとんど忘れてしまっている。わたしたちは、自分の家族やその周囲という小さな世界から学校という画一的で均質な世界へ入り込んでいくのと対応して、方言と共通語の接続、使い分けなどを行わざるを得なくなる。それはそんなにスムーズに進んできたわけではないような気がする。また、自分の中から方言が消えても共通語を喋る抑揚などに方言のそれが保存されているということがありそうに思う。

 人々は、明治期以来方言と共通語という二重性を言葉において生きてきた。現在では、両者の相互浸透により方言はもうずいぶん灰汁抜きになっている。つまり、共通語の方に近づいている。そうして、方言と共通語というよりも家族内の身内言葉と学校などの小社会での余所行き言葉の二重化のようになってしまっている。賢治の時代も同様の二重性だったと思うが、方言と共通語の間の断層は現在と比べてとても大きかったものと想像する。

 ところで、賢治の地では「ヒデリ」と「ヒドリ」は区別された言葉らしい。つまり、地域語として一般に互いの語が移行し合うような関係にはないということである。しかし、書き言葉としてではなく話し言葉としてなら、一般的に「ヒドリ」と「ヒデリ」は互いに移行し合うような関係に見える。言いかえると、ゆっくり明確に喋ると「ヒドオリ」や「ヒデエリ」と区別されて聞こえるが、その言葉を普通に早口で話す、あるいは英語を喋るように話すと、その過程で母音の[オ]や[エ]の部分は脱落して、その部分は飛び石を飛ぶ石と石との間の間隔のように飛び越されていって同一の飛び方として同一化できるような曖昧さがある。曖昧に聞こえる話し方をすると、山(やま)と邪魔(じゃま)でも同様で、無数にその可能性が考えられる。それを防いでいるのは、話題や話の流れである。

 わたしたちの日常話す言葉は、相手の言葉によくわからない部分があっても相槌を打つこともあるし、話の流れから曖昧に聞こえた言葉を察知することもある。また、相手が言葉を話すのに少し障害を抱えていてはっきりした言葉として話せない人であっても、長く付き合っていれば最初はまったくわからないとしても、次には例えば「ヒデリ」と「ヒドリ」の境目辺りのよくわからないあいまいさに聞こえ、次第に相手の話す言葉が「ヒデリ」か「ヒドリ」として分離されてわかってくるということがあるような気がする。

 もちろん、ここで問題になっているのは話し言葉ではなく書き言葉の世界である。しかし、ひとりの人間の中に言葉は総体としてあり、その言葉には話し言葉も書き言葉もあるし、地域語や共通語がある。そして、それらは互いに関わり合っているはずである。人は、育っていく過程で普遍の言葉から汲み上げるようにしてひとりひとり固有の色合いに言葉を染め上げていく。(註.1)によると、



一つは、「毘沙門天の宝庫」(「口語詩稿」)という作品の下書稿において、「旱魃」という語にルビを振ろうとして、「ひど」まで書いて「ど」の字を消し、続けて「でり」と書いているのです。 


 ところが、現実に「ひどり」という形で残されてしまった例が、「〔雨ニモマケズ〕」以外にも存在するのです。
 下の画像は、童話「グスコーブドリの伝記」が、1932年(昭和7年)に最初に『児童文学』という雑誌に発表された際の誌面の一部で、『入沢書』p.54に掲載されています(傍線は引用者)。 赤い傍線を引いた部分に、「ひどり」と書いてあります。




 数少ない事例ではあるけれども、このことを踏まえれば、書き言葉だから地域語(方言)の転訛の問題ではなく、この問題は賢治の中の言葉の固有の癖のようなものから出て来ているように思われる。賢治の中の言葉の詳細な発動の機構はわからないけれども、書き言葉として表現していく過程で、たぶん音として賢治の言葉の耳とでも言うべきものが「ヒデリ」→「ヒドリ」と移行しやすい言葉の傾斜を持っていたように感じられる。フロイトの言い間違い(書き間違い)の研究を若い頃読んだことがある。その背景に人の心的な機制を想定していたように思う。賢治のこの書き間違い(だろうとわたしは見なしている)には、心的な機制というよりも話し言葉と書き言葉が共鳴し合うような言葉の習性が想定できそうだ。

 最後に、付け加えとして賢治の地域語(方言)の表現について触れておく。賢治は、地域語(方言)を詩に書き記している。たぶん、その方が作者賢治にとってより切実な具体性や実感を喚起するものだったからではないかと思う。妹トシを悼んだ詩「永訣の朝」にも死にゆく妹トシ(とし子)の話す言葉として表現されている。作者から分離した「わたし」は、語り慣れしてきた共通語の書き言葉の世界にいる。一方、死にゆく妹トシ(とし子)は、その地域性の言葉の中にいる。臨終の場面の妹という存在の強度を「わたし」がそっくりそのまま受けとめ引き受けようとすると言葉はその地の言葉でないといけないという作者賢治の判断が働いているのかもしれない。兄妹である二人は異質な言葉の位相にあったとしても心通わせ合うように描写されている。妹トシが亡くなった後から、その亡くなる現場を呼び寄せて、あるモチーフの下に詩の表現として書き留めているのはもちろん作者賢治であるから、作者はその両者を表現として作品の中に統一されたものとして構成していることになる。




けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨いんざんな雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜じゆんさいのもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀たうわんに
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
 (「永訣の朝」部分 青空文庫より)



註.「ヒデリ」か「ヒドリ」かに関するまとめ

1.2010年7月 1日 「ヒデリ」論の私的メモ
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2010/07/post_710.htm

2.2010年6月17日 入沢康夫『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2010/06/post_709.htm
 (ブログ「宮澤賢治の詩の世界」より)



 (補註)

 ひとりの人間の中には、この世界で育つ過程でその人によって汲み上げられて言葉は総体としてあり、その総体としての言葉には話し言葉も書き言葉もあるし、地域語や共通語があり、それらは互いに関わり合っている。それは個によって汲み上げられた言葉で、外側にある地域語や共通語自体ではない。その人の言葉との固有の関わり合い方や好みや選択性が強いなどがあるはずである。そして、その総体としての言葉の現在は、自覚性として絶えず深められ更新されていくものとしてある。本文で述べていることは、賢治のそうした言葉の総体の中の揺らぎが、作品を表現する過程で現れたのではないかとわたしは見なしている。そして、それ以上の微細な発動の機構については今は言うことはできない。

 ところで、わたしたちは言葉と同じように関係の意識としても、吉本さんが構造化して見せた個、対、共同性という位相の異なる三つの位相との関わり合いの意識を持っている。わたしたちは、日々その三つの位相を行きつ戻りつしたり、あるいは自分の精神に引き寄せたりして、考えたり、行動したりしている。したがって、わたしたちは、それらの三つの位相と対応した意識性とともに、対応した言葉も持っていることになる。しかし、時にその自動的、あるいは自然性にまでになった使い分けや推移の機構がふっと揺らぐことがある。次に、わたしの過去の体験を取り出してみる。

 わたしがまだ若く高校の教員に成り立ての頃、自宅に帰ってわたしの奥さんにまるで学校という職場でていねいに話すように「・・・・・・です。」のように話してしまった経験がある。あるいは、学校の授業中必死で机に向かっていた生徒から突然「お母さん」と呼びかけられたことがある。ともに、場違いな表現に当たっている。これらはおそらく極度の集中や緊張がもたらしたもので、日頃、関係の意識の異なる三つの位相の場を割と無意識のように使い分けて行動したり言葉を表現したりする機構が、ふっと揺らいだところから現象したものだと思う。生徒の場合で言えば、一瞬「生徒」からある家族の中の「子ども」に変身してしまっている。こういう場違いは、誰にでも一度はありそうに思える。






128


 吉本さんの言葉というものの捉え方 付「わたしの註」
   ―〈言葉という次元〉について


吉本 
 ぼくは言葉というのは、表現しかないと思ってるわけです。表現されなければ言葉はないと思うわけね。だから、ぼくが言葉って言うときの言葉は、表現された言葉になるんですよ。


 ぼくの論理で、言葉っていう場合には、表現された言葉っていうふうになるんです。表現された言葉っていうのは、何が違うかっていいますと、表現する途端に内部ができる
(註.1)ということだと思うんです。つまり、内部がここにあって、言葉が何か言われるっていうことは、ほんとは全く嘘だと思うんですけど、しかし、表現された言葉っていうのができたときに、同時に内部ができるっていう、そういう対応の仕方になると思うんです。


表現された言葉だけが問題なんで、表現された言葉というのがあると、言葉を表現した途端に、反作用で、自分は言葉から疎外され、疎外された分だけ内部がそこに生じる。なぜ内部が持続的に生ずるように見えるかっていうと、そういうことを人間は繰り返しているから、何となくいつでも同じ内部が子供のときからずーっと連続しているみたいな気にさせられるわけです。それは全く幻想なんだけども、どうしてその幻想が生ずるかっていったら、やっぱり表現する途端に内部ができるから。表現しなければ内部なんかないんだけど、途端に内部ができるみたいな、そういう対応関係があるところで、内部と言葉っていうものとの関係が出てくるというところで扱いたいわけなんですよね。


 ぼくは、内部っていうのが持続的、実体的に人間にあるっていうふうにちっとも考えてないんですけれども、言葉を表現した途端に内部は生ずるものだ、同じ言葉を何回も発してると、内部がいかにも形あるように見えちゃうもんだよっていう意味合いで、内部というのを問題にするわけなんです。

(「内なる風景、外なる風景」(後編) 鼎談 吉本隆明・村上龍・坂本龍一
 月刊講談社文庫『IN★POCKET』1984年4月号)



 (註.1) 「表現する途端に内部ができる」ということについて

 「表現する途端に内部ができる」ということは、わたしたちの現在的な状況としても、あるいは言葉のようなものを表現し始めた初源の人間の起源的な状況としても、二重に捉えることができる。後者から見ると次のようになる。
 人間が途方もない時間の中で内部になにか「しこり」のようなものを形成してしまって、ある時そこから促されるように「あ」とか「う」などの言葉のようなものを表現してしまったとすれば、その表現自体が反作用のように人間にその言葉に対する印象や感じのようなものを与えてしまう、つまり、「内部」が浮上する。

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  (わたしの註)


 吉本さんが、言葉について本質的なことを語っている。
 わたしは、解剖に立ち合ったことはないし映像で見たくらいだが、人を解剖しても内面的な内部と呼ばれる実体的な部位が見つかるわけはない。このことはおそらく誰もがなんとなく認めそうな気がする。しかし、人間の記憶ということになると、学者の中には「記憶細胞」というものが実体として存在すると考える者もいる。記憶には植物レベル、動物レベル、人間レベルというものがあると思う。人類は未だその記憶というものの機構がよくわかっていないが、少なくとも人間的な記憶は植物レベルや動物レベルの記憶と何らかの関わり(連続性と位相差)を持っているはずだ。そして、わたしの手持ちのものからは漠然とした推測程度でしか言えないのだが、人間的な記憶は上の吉本さんの言葉という次元の捉え方と同様のものではないかという気がする。もちろん、実体としての脳の各部位やその間の神経網の活動や化学物質などが記憶というものを支えているのは間違いないはずだが、それとは違った位相に言葉やイメージとして表現されるように見える。

 人間的な諸活動は、その機構がわたしたちにはっきりとわかっていなくても、わたしたちのその機構の捉え方がたとえ誤っていたとしても、人間的な諸活動自体は心臓が動いている不随意運動のように日々持続している。50歳代辺りから記憶を引き出すのが少し困難になる物忘れなどのわたしたちの日々の経験や、あるいは人が以前より長生きするようになったから問題化していると思われる「認知症」などの新たな経験が、わたしたちの記憶の機構の捉え方に以前にも増して深い洞察を促すかもしれない。それらのことは、わたしの素人の推測によれば、支えられる実体とは別次元の記憶や認知などのシステムが、支える実体的な次元の消耗や老化などによって、クリアーに機能しない事態のことを指しているのかもしれない。

 言葉は、実体的な次元(音や文字や身体など)を必ず伴うけれども、吉本さんが述べているようなそこから飛躍した幻想的な次元の時空に表現される。一方、読者や観客は実体的な次元(音や文字や身体など)を介して幻想的な次元に表現された言葉や映像などを味わうのである。しかも、言葉は幻想に過ぎないのに人の心を深く傷つけたり、あるいは深く感動させたりもする。言葉の表現に限らず、職人さんの技能でも、ともに先ほどの記憶ということも関与しているはずだが、体の中に実体として技能が存在するわけではない。未だその微細な機構はよくわからなくても、言葉の表現でも或る技能でも日々くり返していくと幻想的な次元に蓄積するように、幻想のつながりとして強化されていくのではなかろうか。そして、その表現の場に座ると、蓄積、強化された幻想的な言葉や技能の次元に接続されるのではないだろうか。

 ただし、技能の場合は、言葉と比べて身体性との関わりが強いように思われる。わたしの経験を持ってくると、福岡で高校の教員になりたての頃飛騨高山にスキー修学旅行に行ったことがある。スキー修学旅行はその高校では初めてだったので下見もあり、わたしも下見に行った。このとき初めて飛行機に乗った。スキーなんて一生縁がないと思っていたが、三日間のスキー教室は、十数人に一人コーチがついて生徒も教員も三日間でまずまずの滑りができるようになった。とても楽しかった記憶がある。ところで、それから二十数年後阿蘇の人工スキー場で偶然二度目のスキーをすることになった。滑ってみて二十数年前とは比べものにはならない滑りではあったが、自分の身体が、スキーで滑る感覚をうっすらと記憶しているように感じられたのは驚きであった。たぶん、自転車乗りも同様のことが言えるのではないかという気がする。技能の場合も言葉と同様のイメージや幻想性があると思われるが、それ以上に言葉を離れた身体感覚的なイメージや記憶が大きな部分を占めているように感じる。それは動物性の記憶に近いと言えるだろうか。

 現在の実体的なものを重視する自然科学の科学者は、言葉を考察したり言葉を考慮に入れたりということをほとんどしないだろうが、したとしてもこうした言葉の捉え方はしないのではないかと思う。しかし、例えば自閉症の理解やAI(人工知能)の研究では人間にとっての言葉とは何かということが大きく関わってくるはずである。実証や実体的なものを重視する(自然)科学は、次々に細分化され狭苦しい世界に迷い込んでいるように見える。

 ヨーロッパのルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチは、音楽・地理学から解剖学・物理学まで、あらゆる学問に通じていたと言われている。おそらくヨーロッパの中世期以降に本格的に学問が文系と理系というように分離し、細分化してきたのかもしれない。わが国では明治期にそれを輸入して現在に到っている。進学校の高校生ならほとんどその区分けを自然なものとして受け入れているような気がする。大学では、必要に迫られて理系内での科と科にまたがったり文系と理系の境界を横断する学問も学部新設などで試みられてきた。わたしは学問という世界とは無縁だが、学問というか知の世界というか、この未来的なイメージを描くとすれば、細分化の状況は今後も続くだろうが、総合性としての人間という観点からあらゆる人間的なものを対象とする〈科学〉というものが必然として生み出されていくのではないかというイメージをわたしは持っている。人類の歴史は、細分化されてきた近代に対して近代以前の総合性をまた新たな形で反復するというようなことをこれまでにやって来ているからである。

 ところで、この鼎談以前には、『言語にとって美とはなにか』(1965)、『共同幻想論』(1968)、『心的幻想論序説』(1971)と吉本さんの主要な著作がある。つまり、ここでの吉本さんの〈言葉という次元〉という考えの背景には、それらの大きな諸考察を経てきたという経験がある。また、長い詩作や思索を持続してきたその経験の実感が込められている。単なる思いつきではないのである。『言語にとって美とはなにか』や『心的幻想論序説』には、この〈言葉という次元〉という考えと同じような考え方が述べられてもいた。

 一般的には、吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、まだなじみがないような気がする。しかし、わたしには妥当な捉え方だと思われる。そして、それは今後大きな基本的な視座になっていくと思う。現在的な主流の捉え方にもなぜそう捉えるのかという人間的な自然慣性からの必然的な理由がありそうに思うが、このわたしたちの文明史が更なる自然を掘り起こしていく中から、その妥当性も徐々に普遍的なものとなっていくような気がする。なぜならば、人類史の本流は、支流にずれ込んでも必ず人間というものの本来性に従うように修正されていくと思うからだ。吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、その人間的な本質や人類史の本流に深く届いているとわたしは思っている。






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 「エレヴァス」問題再び 


 今日、「表出史の概念」を確認しようとして、吉本さんの『定本 言語にとって美とはなにか Ⅰ』(角川選書)をぺらぺらめくっていたら、なんと以前書いた「エレヴァス」問題に関する言葉に偶然出くわした。P235(同書「第Ⅱ部 近代表出史論 (Ⅱ) 3)に次のようにある。「この水準は、同時代の文学体をこえるエトワ゛スをもつものといってよい。」ほんとは、初版の『言語にとって美とはなにか Ⅰ』にも当たるべきなんだろうが、たぶん同じだろうと済ませておく。

 ウィキペディアによると、「ワ゛」は、現在は「ヴァ」を用いるとある。とするとこれは先に予想したようにドイツ語の「エトヴァス」(何かの意味)の誤植ではないかということになる。ささいなことかもしれないが、これで、ちょっとすっきりした。



(参考)「エレヴァス」問題 2016年12月15日 | 吉本さんのこと
※ここには掲載し忘れていたようなので以下に掲載します。


※2月24日にネットでの知り合いの方から以下のことを教えてもらいました。ネット社会の合力(ごうりき)はありがたい。『言語にとって美とはなにか』には索引が付いていたのに、忘れていました。『定本 言語にとって美とはなにか』の索引にもページは違っても同じくエトワ゛ス4箇所載っていました。

 ブログに、「言語にとって美とはなにか」のなかにエトワ゛スの語を見つけたとありました。そこで探してみると、勁草書房の単行本にもありましたし、全著作集の「言語美」では索引に、221226237289のページ数が示されていました。やはりいずれにもエトワ゛スの語がありました。結構気にいって使っていたみたいですね。



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 「エレヴァス」問題



檀一雄『太宰と安吾 』の解説を吉本さんが書いています。その解説の末尾に書かれている言葉「エレヴァス」の意味がわかりません。分かる方、教えていただけませんか。わたしは、「エトヴァス」の誤植ではないかと思っています。資料文章を挙げます。



資料 「エレヴァス」の件

1.檀一雄『太宰と安吾 』の吉本さんの解説(文庫の二ページ分)、その後半部分

  ※該当部分を●表示


 太宰と坂口の作品に通底するのは、戦後の状況に対する「否定」の雰囲気である。戦争の中に平和を、平和の中に戦争を透視することができない他の知識人と比較して、政治も社会も文学も、戦争も平和もすべて嘘っぱちじゃないかという二人の拠って立つところは、際立っていた。つまるところ、太宰と坂口「解って」いたのではないかと思う。
 ところで、武田泰淳、野間宏、石川淳といった第一次戦後派と呼ばれた作家たちがいる。彼らは敗戦直後の混沌の中で、一瞬の煌(かがや)きにも似た佳作を生み出しているが、太宰や坂口が彼らとも異なるのは、私なりの言い方でいえば、大それたことを考えていたということになる。大それたこと、つまり政治なり社会なり、あるいは人間存在について深いところで認識しながら、ある種の大きな普遍性を意図的に作品に繰り込もうと考えていたふしがある。こうした姿勢を持った作家は太宰と坂口だけであり、その後出ることはなかった。
 太宰治、坂口安吾の他、織田作之助、石川淳、檀一雄といった、いわゆる無頼派と呼ばれた作家たちは、それぞれ良質な作品を残しているが、彼らは、女、薬、酒といった表層的なデカダンスと裏腹に極めて強い大きな倫理観を持っていたように思う。これが一見無頼派的にみえる彼らの作品の奥底に流れていた、生涯をかけた大それた●エレヴァス●であった。 平成十五年三月
(「檀一雄『太宰と安吾 』」の解説の末尾の部分、初見は『吉本隆明資料集159』P79 )


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※わたしの感想
 若い頃からの文学体験や修練を経て、戦争-敗戦の「生きた心地もしない」という生存の危機に陥り、自然な時間の推移と苦闘の中から、内省を「内部の論理化」や「社会総体のイメージ」の獲得へと差し向けて、未だかつてこの列島の人々の未踏の場所で孤独な営為として持続してきた吉本さん。今は亡き太宰と坂口の深部に向かって差し出された、そして読者のわたしたちの深みに染み渡って来るような解説の言葉には、その持続の中で生み出された『共同幻想論』や『言語にとって美とはなにか』『心的現象論(序説)』などを経験した(論理の)言葉や、それらから反照する言葉の視線が込められています。途方もない修練を経た、こういう深みのある読みができる人が亡くなったのはほんとうに残念なことである。
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2.

今年の11月初めに、檀 一雄『太宰と安吾 』(角川ソフィア文庫)の解説(吉本隆明)の中の言葉「エレヴァス」について出版社にネットのホームページの問い合わせ窓口から尋ねましたが返事をもらっていません。以下は、その問い合わせの文章です。 

尚、その後のネット検索によると、『太宰と安吾 』初版の単行本は、バジリコ株式会社で2003年4月30日刊行とあります。出版社が違っているから初版の単行本を出した方に尋ねるべきだったかもしれません。(こうした場合の二番目の別会社の出版が、元原稿に当たるのかどうかなどどの程度のチェックで成されるのか知りませんが) 

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数日前、檀 一雄『太宰と安吾 』(角川ソフィア文庫) を購入した者です。

別の所で、本書の解説(吉本隆明)のみ目にする機会がありました。その解説の末尾にある言葉「エレヴァス」に引っかかりました。エレヴァス(エレバス)でネット検索しても、それらしい意味が見つかりませんでした。仏語かなとも思って、「何か」「あるもの」の意味でグーグル翻訳にかけてもヒットしませんでした。
読んで最初に思ったのは、わたしの耳の記憶にあった、「何か」や「あるもの」の意味の「エトヴァス」(ドイツ語 etwas エトワス,エトヴァス)の誤植ではないかというものでした。それで、本の内容への興味もあり本書を買ってみました。しかし、本書の解説の末尾(P413)も「エレヴァス」になっていました。

そこでお尋ねしたいのは、
1.「エレヴァス」は、「エトヴァス」の誤植ではないかということ。
2.1.でなければ、吉本さんの誤用(いろいろと独自の用字法をされているから)ではないかということ。
3.1.でも2.でもなく、「エレヴァス」にはちゃんとした意味があるのだとすれば教えていただきたいということ。

文脈として大体意味がつかめるから、それでいいかなとも思いましたが、もやもやが残りそうでメールでの問い合わせをした次第です。おそらく多忙中にお手数かけますが、よろしくお願いします。
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  現在にまで残るこの列島の古い社会・国家観の遺伝子



 詩人伊東静雄の若い頃、親友に宛てた書簡集がある。これを読むと、当時の流行の思想や文学に触れている様子が伝わってくる。阿部次郎の『三太郎の日記』や西田幾太郎などの哲学本や島崎藤村らの「文学界」グループの作品などに触れて、自由主義的で理想主義的な影響を受けている若き伊東静雄のふんい気が伝わってくる。

 この中で、気になっていた言葉があった。「個人の親たる社会」という言葉に見られる伊東静雄の社会や国家観である。次の社会主義などへの関心を述べた箇所で出て来る。



その後どうしてゐるか。

私は必死の勉強に没頭してゐる。私の前に突如ひらけた
個人の親たる社会に関する思想は私を熱情的にしてしまつた。この転換は私の思想をるい弱から救ふたのみならず、身体さへも健康にしてゐる。私がこの次君の前にあらはれる時、かなり変わつた姿であるに相違ないと、それをひそかな期侍〔待〕で喜んでゐる。この私の転換は、もつとも自然的にやつて来た。自然主ギ的個人主ギ的な人生とう検はしらしらとした諦視か、救はれ難きニヒリズムかのどちらかだ。私が落ち入らうとしてゐたのも全く前者であつた。そして、その弱々しい諦観を私は人間の到達する最高の境地と思つてゐた。なるほどそれは一つの最高峰ではある。然し、私達は、少なくとも今の私達今一つの世界を、今一つの方向を持つてゐる。それこそ、社会主ギ的世界観の方向だ。そして、その理想だ。私は今私の思想に転機をあたへたあの恋愛の失敗を感謝してゐる。いつか、面接の上で語ることもあらう。
 (『伊東静雄青春書簡』P171 大塚梓・田中俊廣編 1997年)




 これは伊東静雄の大村中学(長崎県大村市)時代からの親友、大塚格宛ての書簡である。ちょっと読みずらい曖昧な表現の部分もあるが文意は伝わるだろう。昭和4年6月25日消印の手紙とある。伊東静雄は、昭和4年(1929)3月に大学を卒業して、同年4月、大阪府立住吉中学(現住吉高校)に先生として就職したばかりの時期に当たっている。大正末から当時にかけては、ロシア革命の思想的な影響がこの列島にも押し寄せていた。そのように沸き立つ文学や思想から伊東静雄の内的なモチーフが「熱情的」に引き寄せたものだったろう。しかし、半年後の同年の12月書簡ではその「熱情」もずいぶん醒めたものになっている。今はそのことの詳細には触れないが、これは、「人一倍熱しやすい私の性質」(P175 同上)と自ら内省する伊東静雄の性格的なものから来るものというよりも、自己内省や自己格闘から来たものだと思う。

 この書簡の中の「個人の親たる社会に関する思想」は社会主義的な思想を指している。しかし、ヨーロッパ近代思想や社会主義思想には、個人と社会との関係を「個人の親たる社会」というような親子という家族関係のようなものとして捉える考え方はないはずである。そして、それは若い伊東静雄の独自の考え方と言うよりも当時の欧米の波を被った自由主義や理想主義の文学や哲学などの流行思想に底流していたこの列島の思想の古い部分というような気がする。つまり、そこからの影響のように思う。個人と社会との関係を家族関係のように捉える考え方は、アジア的な専制の政治社会制度の下の考え方なのか、もっとそれ以前の段階の名残もあるのか、わたしには確定的なことは言えないが、その辺りから来ている考え方だと思われる。

 ところで、首相の所信表明演説やら天皇の所感などが新聞に載っても、ほとんど目を通すことのないわたしが、偶然「皇太子さまの誕生日会見」(毎日新聞 2017.2.23掲載)を流し読みしてしまった。そこにわたしの目をひく言葉があった。



 陛下は、おことばの中で「天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べられました。・・・中略・・・このような考えは、都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。・・・中略・・・戦国時代の16世紀中ごろのことですが、洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経(しんかんはんにゃしんぎょう)のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。・・・中略・・・そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。・・・中略・・・私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がまさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います。



 この戦国時代の後奈良天皇が写経の奥書に書き記したとされる言葉「私は民の父母として、徳を行き渡らせること」という考え方は、中国の儒教思想の仁や徳という考え方の影響もあるのかもしれないが、天皇、国、社会、民というものが、伊東静雄が書き記した「個人の親たる社会」という考え方と同一の家族関係に擬せられたものとして捉えられていることは間違いない。そして、現在の天皇や皇太子の考え方は、一方で「国民の安寧と幸せを祈ること」としての親と子の縦の関係を保持しつつ、他方でその縦の親と子の関係を現在の割と平等な家族内の関係と対応するように、縦の関係から水平の関係へ変貌させている。このことは建前としては戦後の個を中心とする民主的な考え方や関係に基づく社会というものに対応した天皇の有り様だと思われる。そして、「象徴天皇」というあいまいな位置にあっても灰汁の強い政治家などとは違ってその無償性と純粋さのイメージから天皇がこの列島の多数の人々から敬愛されるのももっともだろうなという気がする。もちろん、わたしはこの社会が真の平等と自由へ突き進む重要なきっかけとして特異点である天皇や皇族は普通の住民になるのが理想だと思う。だから、わたしたちの大多数が天皇や皇族のことを余り気がけないように自然になっていく、つまり天皇や皇族が普通の住民になっていくのを待つほかないと思う。

 現在にまで亡霊のように生き延びている極端な「ウヨク」思想は、北朝鮮同様に個の好みや自由を圧殺するイデオロギー性を持っている。だから、そんな環境では人は本心と建前という二重化を強いられる。この極端な「ウヨク」思想は、一度先の敗戦で決定的な〈死〉を体験したはずだが、無反省であり、性懲りもなく亡霊として死に体であるのに今なお生きている。その異形の紋切り型の外皮をはぎ取ってみれば、縦の関係としての「個人の親たる社会」という考え方、今風に言えば公を優先する考え方がある。たぶん、彼らのイデオロギーは、大きな屋台骨を中国から来た、あるいは中国と共通するアジア的な専制制度やそこから下ってくるものに借りているはずだ。そして、それは近代以降の現在までの歴史の積み重なりからの退行に当たっている。もちろん、彼らも一方で現在の社会のもたらすものは十分に享受しているはずだ。

 そして、縦の関係としての「個人の親たる社会」という考え方であっても、縦の関係を水平の関係に変容させるような情愛や親和が存在すれば現在の天皇の位置に近づくことになる。こういう情愛や親和をまとった「個人の親たる社会」という考え方やイメージは、わたしの漠然とした印象に過ぎないが、アジア的な専制制度以前にまで、つまり古代以前にまでさかのぼれるような、正とも負ともなり得るような、根深い遺伝子かもしれない。わたしたちは近代以降欧米の波を十分に被って、情愛や親和をまとっていたとしても「個人の親たる社会」という考え方やイメージにはもはや帰れない。一方、十分に成熟した個という存在ということもあやしい。この両者がどのように折り合いを付けていくのかということは、大切な現在の渦中のことであり、かつ、今後のことに属している。






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 知識の第一義的な課題 付、わたしの註
   ―「シモーヌ・ヴェイユの意味」(吉本隆明)より




10 知識とは何か

しかし、しかしですよ、もし人間に知識という富というものが、もし備わっているとするならば、それが大事なもの、知識という富が大切なものだとするならば、労働者だってこんだけのことしか感じられないところで、これだけの全部のことを感ずるっていうふうになることができるわけなんです。また、インテリっていうようなものは、知識についてはいわば無際限に拡大する能力と、それから想像力っていうようなものを行使する。たとえば、部分的でありますけれど、行使する自由っていうのは、一時的でありますけれど、自由っていうのをもっているわけです。だから、その自由っていうようなものは、やっぱり問われなければならない。どういうふうに問われなければならないかっていうと、その自由っていうのは無限大にまで拡大しなければならないっていう、そういうことを絶えず問われているんですよ、インテリっていうのは。つまり、インテリゲンツィアあるいは知識っていうものが問われるっていうことは、これだけしか感じない人が世の中にはいるんだぞっていうことを、そういうことを知らなくちゃいけないっていうことはどうでもいいんです。つまり、悪いことじゃないんですけれど、それは第二義的なものなんです。知識にとっては第2番目のことなんですよ。知識にとって最大限に重要なことは、無限大に、知識っていうのは無限大に感じ、それから、無限大に想像力を働かせ、無限大に考えるっていう、そういう知識っていうのはいわば、議論をもってるぞっていう、それが知識にとっての課題なんですよ。知識のためにいろいろな、たとえば経済的な制約のために、労働者、大衆っていうようなものは、これだけしか感じられないんだよ、かわいそうなんだよっていうようなことを、なにも同情はするなんてことはどうでもいいわけなんですよ。つまり、どうでもいいっていうのは第2番目のことなんですよ。しかし、そうじゃなくて知識っていうのは、本当は無限大に感じなければならない。あるいは無限大に考えなければならないのに、たったこれだけのことしか考えることをしていないとすれば、それは知識が問われるわけなんです。知識の怠慢っていうようなものは、そこで問われるわけなんです。だから、知識っていうのは、その時代の人間が感じている自由っていうものを、自由の範囲っていうようなものを感じているとすれば、その範囲を同じ時代の人が感じているよりもはるかに多くの自由っていうようなものの範囲を感じ、考えなければならないっていうものが、知識にとって第一義的なことなわけなんです。


11 工場体験の意味

 つまり、その観点から言いますと、僕はヴェイユっていうのは、そこがダメなような気がするの。僕の考えでダメだっていうんですよ。ダメなような気がするんで、つまり僕とは違うなって思うの。考え方が違っているなって思うの。なぜかっていうと、ヴェイユはそこで、無際限の知識っていう富を自分が持っている。しかも、ヴェイユっていうのはソルボンヌの秀才ですから、当代の第一級の知識人ですから、なおさら罪を感ずるわけですよ。罪なんです。知識を持たない人に対して、あるいは、制約された場所でもって働いているそういう人たちに対して、無限大の罪を感じていたわけなんです。だから、そこに無限大に自分を同化していくことによって、なにかを獲得していこうっていうふうに考えていくわけなんです。
で、この考え方、決して僕は馬鹿だとかなんとか言いませんけれど、しかし、僕はそれは違うと思います。ヴェイユの考え方の中で、違うところがあるんです。違うと僕が思うところがあるんです。それは、ヴェイユだけじゃなくて、宮沢賢治なんかでもあるんですよ。似てるところがありまして、つまり、知識っていうものは罪悪だって、つまり、知識っていうものに罪を感じるっていう観点があるのですよ。宮沢賢治にもあるんですよ。自分を無限に超人的なところに追い込んでいくわけです。この追い込み方っていうのは、非常に宮沢賢治とよく似ているんです。
しかし、その考え方は違うと僕は考えます。こういうことを宮沢賢治でも言います。宮沢賢治の詩の中にも童話の中にもしきりに出てきますけれども。自分も農学校の先生をしてましたから、宮沢賢治は生徒たちに与える詩みたいのがありますけど、君たちがのっぱらに出て、畑や田んぼに出て、それで、ひとつひとつ耕しながら、そして、身につけていく、そういう学問の方が、学校行ってテニスをしながら教わるような、そういうものに比べたら、本当の学問っていうのはそういうのだっていうような言い方を、宮沢賢治もします。
しかし、僕はそうじゃないと思ってる。それは間違いだと思っています。つまり、知識っていうものは、いったん拡大した、獲得した、人類が獲得した、人類の誰でもいいんです。最大限に獲得した知識、あるいは感受性、そういうものは、それが一見退廃的であろうとなんだろうと、いったん獲得した精神の範囲っていうものは、逆に戻るっていうことはありえないのです。つまり、これを逆に戻すことはありえないのです。そういうことはないのです。知識っていうのは技術よりも、科学技術よりも、もっと確かなんです。科学技術っていうものは、やっぱり人間が統御すれば、わざとシンプルな機械を使ったりすることはできる。そういう社会を作ることもできるんです。しかし、知識だけは、いったん獲得された、人類の時代が長い間あれして獲得した知識の範囲っていうものは、これをせばめることはできないのです。だから、これを乗り越えるためには、それよりもより大きな自由っていうもの、より大きな感受性、想像力、それから思考力でもって、これを包括する以外に知識がそれを乗り越える道っていうのはないのですよ。ここのところが非常に重要なんです。
つまり、ここのところで、僕たちは、いつでも大衆っていうようなことを考えたり、あるいは貧困っていうことを考えたり、あるいは虐げられし人っていうものはどうなってるかとか、あるいは圧制されているものっていうようなものを考える場合に、いつでも突っかかってくることは、そこなんです。そこの問題です。そこでいつでも突っかかります。そこで、いつでも岐路に立たされます。知識っていうのはいつでもそこで岐路に立たされます。おまえはこういう人たちがいるっていうことを理解するところに、おまえは理解力を行使したり、また、その中に飛び込んでいかなければならないっていうような言い方が一方でなされます。しかし、一方でそのなされ方、言われ方の中に、一種のいつでも欺瞞が含まれます。いつでも一種の、どう言ったらいいんでしょうか、この息苦しさっていうのは名付けようがないけれど。しかし、それは間違いであろう。感覚が告げるところでは、それは間違いであろうっていうものが、いつでも付きまといます。それで、いつでも当面するものは、いつでもおんなじです。だからその気張っている中で、気張っているところで、ヴェイユがヴェイユなりに、知識の課題を無限の罪のところにもっていくわけです。
しかし、僕の考えではそうではありません。宮沢賢治もそういうふうにもってきます。だから、自らも超人的に自分も超人的なところに追い込んでいくわけです。しかし、それで潰れるわけです。潰れてしまうわけです。それは壮絶な潰れ方ですけども。しかし、僕はそうじゃないと思います。僕は、それは違うんだと思います。それはどこが違うんだって言うと、今言いましたように、知識っていうのは、いったん人類が獲得された知識、あるいは感覚とか思考力っていうようなものは、絶対にそれは逆戻りはしないっていうことなんです。だから、これに対して対立する知識を持ってきたってダメだっていうこと。これを克服するには、あるいはこれを総括してしまうには、これを無視して否定してしまうには、これ以上に知識を、あるいは感受性、想像力、思考力の範囲を拡大する以外に方法がないっていうことなんです。
だから、そこのところでたぶん、ヴェイユの考え方っていうのは、一種の凄まじい倫理観に追い込まれるっていいますか、そういう最初の兆しっていうようなものが、そこで現れてきます。これがたぶんヴェイユが当面した工場体験って言いますか、工場生活で体験したいちばん大きな問題なわけなんです。それでたぶんこういうところで、ヴェイユは何をしたかっていいますと。ひとつひとつたとえば、労働者っていうものに、知識や判断力や、それから教養とかゆとりとかっていうのを与えるには、どういうやり方をしたらいいんだろうかっていうのは、どうやったら日々の息苦しさっていうところから自分を一時的にであれ、自分を開放するみたいな、そういうことをどうやったら実現できるだろうかっていうことをしきりに考えていきます。

「シモーヌ・ヴェイユの意味」(吉本隆明の183講演 FreeArchive A050 講演のテキストより) ※これは『言葉という思想』に手を入れて整序された文章として収められているけど、生の語りの方を引用した。


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 わたしの註



 この引用部分では、二つのことが語られている。まず、人間的な活動の自然(必然)性から次々に増大していったり深まったりする「知識」というものの第一義の課題は、「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」ということだと言われている。二つ目は、「知識」の世界に入った者が知識を罪悪なものだと見なすことがあるということが語られ、その例としてシモーヌ・ヴェイユと宮沢賢治が挙げられている。

 「知識」の第一義の課題は、人間というものの本性(それは未だ十分に明らかにされているわけではないが)に根差した捉え方だと思う。共通性として分離・抽出してみれば人間には、人を思いやるような性向(結(ゆい)などの様々な相互扶助組織の存在)もあれば、邪悪な性向(国家による経済・政治・文化の独占の歴史)もある。これらの人間の二つの性向が共同性として組織化された様々の形態をわたしたちは現在までの歴史の中に見出すことができる。

 しかし、柳田国男の貴重な「おくりもの」によって過去の人間の生活世界の推移や動向を捉えてみたら人間のその前者の性向が束ねられて歴史の無意識的な本流を駆動してきたのは間違いないと思われる。そして、吉本さんの「知識」の第一義の課題ということも、その歴史の無意識的な本流に添って「無際限の知識っていう富」として捉え返されたものである。その歴史の無意識的な本流に潜在する、大多数の普通の人々の、より良い生活、より良い人と人との関わり合い、より拡大された自由などの潜在的な欲求に、「知識」というものの第一義の課題は「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」ことによって答えることではないか。そのことは同時に「知識」を無限大に追究するその人自身のそれらに答えることでもある。

 ところで、語られている二つ目の「知識を罪悪なものだと見なす」ことはどこからやって来るのだろうか。思うにこのことには、「知識」の起源ということとそこからの歴史的な展開の事情ということ、そして人間的本質の性向などが関わってくる問題である。

 シモーヌ・ヴェイユも宮沢賢治も抱いてしまったという「知識っていうものは罪悪だ」ということは、知識というものが荘厳な台座の周辺のものとして長らく支配上層や文化上層によって独占されてきたという歴史的な自覚とそのことに対する自己倫理が促してきたのかもしれない。また、その自己倫理(罪悪感)を逆に組織化すれば、政治や社会を転倒しようとする革命によって、共同的に組織された負の出来事として中国の文化大革命など歴史は無数の血なまぐさい過ちを持っている。

 知識(宗教性)は起源においては科学であり宗教性であり世界観であったはずである。つまり、その当時の人々の感じ考え方の総体としてあったはずである。そしてそれは世界(自然や神々)と交通する力を持つなにかすばらしいものと人間には見なされていたと思う。しかし、大多数の普通の人々よりも世界とうまく深く通じることができる知識(宗教性)を持った人々が巫女やシャーマンとして登場し、次第に専門化していった。ここに、「知識(宗教性)」は分離の徴候を持ったことになる。さらに国家が成立し、政治や文化上層が高度化するにつれて、そのことによって「知識」の活動も格段に促進されと同時に専門家独占化されていった。つまり、大多数の普通の生活者と政治・経済・文化上層との二層分離である。

 こうしたことを背景として、大多数の無名の人々に眼差しを向けたシモーヌ・ヴェイユも宮沢賢治も、自らがその「知識」の世界にいることから負の自己倫理(罪悪感)を喚起されたのだろうと思う。言い換えると、その落差の歴史性を歴史性そのものと捉えることなく、重圧として自らに促す自己倫理として受けとめたからであろう。こういうことは、日常世界でもよくあることである。もし自分が多く持っていてそれが精神的な負担なら他人に分かち合えばいいことである。シモーヌ・ヴェイユや宮沢賢治の場合なら、「知識」の第一義の課題に黙々と邁進することがその分かち合いに当たっている。






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 日々いろいろ ―よしもとばなな『すばらしい日々』から



 よしもとばなな『すばらしい日々』を読んだ。全体が以下に引用するような言葉の場所、心の場所から表現されている。読めば万人が思い当たるところがあり、わかるような場所である。単行本の方は2013年に出されていて、潜り抜けた大震災の経験が言葉に滲透しているのが感じられる。



 子犬がおもちゃを持ってただただじっと階段の下で待っている。
 私は二階で必死で仕事をしていて、用事があって階段をおりていくと、じっとじっと子犬が私を見上げる。そこにはものすごい圧力を感じる。
 子どものときも同じだったなあ、と思う。
 ものすごく忙しいときにかぎって、単純なくりかえし遊びをしようと誘うのが彼らの特徴だ。
 気をひきたい、こっちを見てほしい、おもしろいことだからくりかえしていたい。
 小さきものたちのエゴであるのは確かだろう。他の人の時間を奪ってでも自分を見ていてほしい、おもしろいことにつきあってほしい。

 だからまあ負担にならない程度に、十回に一回くらい、無心で子犬と遊んであげる。
 ただ投げて、とってきて、引っ張りっこして、また投げて・・・。
 子犬はキラキラキラキラした目でそれをくりかえし、何回でも走っていく。
  (「ただ遊ぶ」P35-P36『すばらしい日々』所収 よしもとばなな)


 子どもが生まれたとき、命の他にはなにもいらないと思った。
 すこやかに育ってくれたら、なにもいらないと。
 そのことだけは変わらないようにしたいと思った。
 それでもいろんなことが毎日起こり気持は当然ぶれてくる。
  ・・・中略・・・
 (引用者註.「震災を体験して」)そう思うと、子どもがすこやかでいてくれたら、ほんとうになにもいらないと心から思えるようになった。生意気でもいい、あほでもいい、いろんな人に怒られたり忠告されたりモンスターペアレンツ呼ばわりされたり、親の七光でなんとか生きているとか言われたりしてもいい。そのままでいい、とにかく生きていてほしい。
 すこやかで、自分以外の命を大事にしてくれるようであれば、なんとかなる。
 そういうふうに本気で切り替えないと、これからの時代はだめだと肌身で感じるのだ。
  (「すこやかに」P69-P71『同上』所収)




 引用文をじっくりと読んでみれば、切り開かれた世界は誰にも思い当たるところがあるものだ。子犬との関係に限らず、触れられているように親と子の場合も同じである。あれもこれもしなくてはならないなど親はなかなか小さい子どもと本気で無心に遊べなくなってしまっている。わたしはそんなにうまく立ち回れたとは思わないけれど、しかし、それは小さい子どもだけでなく親にとってもたいせつなことだろうと思う。いわば無償の遊び、無償のこころの場所の耀きである。いろんな幼児虐待がマスコミを通して社会に浮上している現在だからこそ、それは人々があくせく日々仕事に追われているという社会制度上の問題の影響が大きいが、まずは人々の自覚の問題としてこのことはたいせつな問題だと思う。たぶん、幼児期と同じく、人類の幼年期には時間を持て余してそのような無償の遊びを人は多く経験してきたのではないだろうか。

 近代以降急速に高度な文明を築き上げてきてしまった現在は、生活環境は物質的にはずいぶん快適になっている。例えば、近世までの火起こしや火の管理、川での洗濯(註.実際は1960年代の高度経済成長期以前まではあった)などに煩わされることがなくなっている。しかし、近代以降の社会制度の複雑化の中、そこに生きるわたしたちは社会に適応しようとする心性からは子どもにもそういう眼差しを向けて勉強しなさい等言うことがあるだろう。このことは、前段の子犬との関わりにも通じているけれど、何が人にとってほんとうに大事なものなのかということが、この疲弊する文明社会で問われているのだと著者は感じ取っているように見える。つまり、わたしたちの現実的な対応はいろいろあったとしても、わたしたちの本心として静かに深く水を湛(たた)える場所の問題として。






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 覚書2017.4.14 わたしの表現・思想のおおもとのモチーフは、ひと言で言える。


 わたしの表現・思想のおおもとのモチーフは、ひと言で言える。

1.わたしの表現・思想のおおもとにあるのは、「なぜ、わたし(たち)は、いま・ここに・いるのか」という、自然や動植物からははぐれてしまった人間としてのふしぎさの感覚から湧き上がる問いである。そして、たぶん太古からくり返されてきた問いである。

 この問いは、人間世界とそれを超えた大いなる自然(宇宙)にまたがる問いである。わたしたち人間は、大いなる自然(宇宙)の内部に包み込まれた存在であるが、その渦中の人間界に、さらにその小さな生活環境世界に自然なものとして重心を置いている。一方、わたしたちのふしぎさの感覚から探査する言葉の触手は、そこを抜け出て、この世界の総体を見渡し捉えようとする欲求を持っている。これを極端化すると、自然内存在である人間にとって矛盾であるが、あたかも大いなる自然(宇宙)の外に出て、そこから世界を見渡そうとするような欲求すら持っているように見える。


2.次に、おおもとのモチーフから人間界の内に下ってくると、細分される領域や具体性の場面が立ち現れ、おおもとのモチーフは潜在しながら、それらの領域や具体性の風物に規定されたモチーフの流れとなる。これは、小さな生活世界の具体性を重心とする人間世界を内を流れるモチーフである。したがって、人間世界内である領域やある対象に言葉の視線や触手を向けるとき、モチーフは二重化している。






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覚書2017.4.18 生活者住民としてのわたしの原則

   (少しずつ、考えを深めていくつもりです)


 はじめに

 過去わたしは、わが国の政府がPKOや米軍への給油活動などずるずると自衛隊を海外に派遣しているアメリカ従属の行動を苦々しく思ってはいたが、それ以上考えを進めることなく、いいかげんに政治は動いているが、まあたいしたことは起こらないだろうとのんきに構えていた。選挙にも行ったことはなかった。選挙に行き始めたのは、3.11以降である。3.11の大震災と原発の大事故はこの列島社会の上に立って牛耳る者、牛耳る層がいるムラ社会やムラ政治を大衆的な規模で可視化した。つまり、大多数の者がこの国の政治や社会の仕組みがなんとなく変だなと感じ始めたということである。

 3.11の原発の大事故とともに、いくら現在の社会が大規模などん詰まりに見舞われているといっても、未だかつてなかったような異例ずくめのアブノーマルな(危のうおまんなあ)政権(イデオロギー化した排外主義者の「ネトウヨ」を親衛隊とし、少し分別のある亜「ネトウヨ」が取り巻きながらの、日本会議等-安倍政権)が誕生するとは想像だにできなかった。残念なことに、おちおちのんびりもしてられないなという心の状態に現在のわたしはある。

 しかし、この最悪の政権、最悪の政治は、わたし(たち)に考えるということを強いている。憲法九条の問題や外交の問題や生活者としてどう考え振る舞うかなど、わたしはそんなことは具体的に考える必要なんかないだろうと思っていたことが、あれよあれよと具体的に考えざるを得ない状況が生起してきている。

 ほんとうはわたし含めた国民(生活者)は、過去の選挙で「決められない政治」に持ち込むべきだったと今もわたしは強く考えている。つまり、わたし含めた国民(生活者)はこの最悪の政権を自分たちがなんとかコントロールできるさと過信したか、日本会議等-安倍政権の正体を見誤ったかのどちらかだと思う。「決められない政治」どころか、口先だけで、すべての立法や政策がわたしたち生活者住民の方を向いてはいない、最悪の政治を行っているからである。

 現状の最悪さが、わたしたちに深く考えることを強いている。もちろん、日常生活の圏内での、私的なのんびりさや心地よさやいいかげんさは大切だ。しかし、そこから生活者としてあるいは表現者として出立していく場面では、今までにない表現する言葉の緊張と重みということを感じている。


 1.自分の居住地域に関することがら

 地域の行政は本来は生活者住民の生活環境の利便性をはかったり諸サービスを提供するのが存在理由のはずであるが、現実にはそうでもない場合もあり得るから、生活者住民としての消極性としては、自分の居住地域に関することがらは、わたしたち住民に不便や害などをもたらさないかという地域住民本位として考える。

 また、居住地域に関わる問題はその地域の市や県の関わりで終わる場合と、大規模な公共事業などでは国-県-市がつながり合っている場合とがある。この後者の場合は、全国に渡る国の行政の方針などと関わってくる。しかし、一般には、自分の居住地域に関することがらはこの後者が関わってこない限り、そんなに異論を唱えようと思うような場面にはほとんど出会わない。

 しかし、もしその地域に関わる具体的な問題について論議したり何らかの行動せざるを得ない場合は、ひとりの生活者住民として考え行動する。他人がどんなイデオロギーや政治や宗教の信条をもっていようが、そこから下ってくるものがあろうが、イデオロギーや政治や宗教の信条は鞘に収めてあくまで生活に関わる具体的な問題として町内会的な話し合いと行動になるだろうし、なるべきだと考える。このことは、次の自分の居住地域に国の行政や方針が関わってくる場合においても原則としては同一である。

 なぜこういうことを言うかといえば、世界には依然として住民を巻きこんで背後に特殊利害を貼り付けた宗教対立やイデオロギー対立があり、武力によって血が流され続けているからである。生活世界の具体的な課題に対しては、原則、町内会的な話し合いと行動になるほかないからである。

 自分の居住地域に関することがら以外のこと、例えば、現在の東京が抱えている築地市場移転問題・豊洲問題は、わたしの関心の外にある。しかし、その件で直接の利害・影響を受ける住民、それから都民に対して、なんとかうまく行けばいいなと思うことはある。わたしたちは、この列島という社会の同じ住民であるからである。


 2.自分の居住地域に国の行政や方針が関わってくる場合

 自分の居住地域に国の行政や方針が関わってくる場合がやっかいである。現在的な問題で言えば、沖縄の基地移転等の問題や原発の再稼働や稼働の問題がある。この場合、従来的には国-県-市のつながりは同じような考えを持つもので占められていた。基地問題がもたらす様々な事件等に住民が長らく苦しめられてきたという事情もあってか、沖縄の場合は、現在は国-県-市のつながりは切断・対立している。こういう状況にあっても、市や県レベルでその地域住民の多数の意志が示されても国の行政のやり方をひっくり返せないという問題がある。この件でいえば、他国(アメリカ)との安保条約関連の外交関係も絡んでいる問題であり、しかも政権や官僚が積極的なアメリカ従属という方針と行動を取っているという問題がある。

 こうした高度の複雑さを内包した地域の問題の場合、現在のところの近道はない。今まで少しは地域住民の方に行政は開かれてきたということは役所との対応などで肌感覚で感じることはできる。しかし、沖縄の基地移転等の問題や原発の再稼働の問題に見られるように住民の意志に対して地域や国の行政は依然として開かれてはいない。これはもちろん、地域や国の行政が地域住民の意志に対して開かれていくべきなのだ。それとともに、それらへの根本的な解決は、国家や行政がわたしたち生活者住民に仕えるのが本来の仕事だ目覚めてアメリカ従属からの自立をはかっていくこと、わたしたち生活者住民においては、そうした他の地域の人々に降りかかった問題に対しこの国の良い慣習である「相互扶助」の考えのような配慮を磨くことと国家や行政のアメリカ従属というヘタレの国家から自立して自分たちの生活世界を考えていくことだと思う。この生活者住民としての独り立ちは、私たちの祖先が国家に囲い込まれてきたという数千年の悪しき遺伝子を振り払うことでもあるのだから長い道のりを要するのかもしれない。


 3.政権を直接的にリコールするを代替する「消費を控える活動」

 現在のところ、わたしたち生活者住民にはこの最悪の政権を直接的にリコールするリコール権がない。政治の言葉を決定的に空洞化してどんなことをやっても責任を取らない、この最悪の政権を目にしていると、その政権をリコールできるリコール権の必要性がひしひしと感じられる。しかし、悲観的になる必要はないと思う。

 未だ社会的に十分に気づかれていないように見えることがある。灯台もと暮らしのように特に学者さんたちは思いもしないことだろう。GNPの六割を占めるという家計消費の意味である。わたしたちは、知らない間に「六割」の経済的な力(権力)を手にしてしまった。この力をわたしたちが行使すれば、―それが多ければ多いほどダメージは増大する―いかなる政権をも倒せるという、経済的な力をわたしたち生活者住民が潜在的なものとして手にしてしまっている。このことは今は亡き吉本隆明さんがこの消費資本主義社会の現状をていねいに分析されたものであり、わたしたちへの無償の〈おくりもの〉であると思う。

 吉本さんは、食費などの必需消費は控えないでわたしたちの生活を落とすことなく、娯楽費や趣味関係などの選択消費を控えればいいと述べられていたけど、わたしは選択消費以外の食費などの必需消費もずいぶん抑えている。それほど最悪の政権、最悪の社会状況だと思うからだ。「森友問題」等々ようやくその政治・社会への汚染状況が表面化してきている。わたしたち生活者住民の意識や力が試されているのだと思う。

 安倍政権の親衛隊である「ネトウヨ」や政権支持者や現在の日銀政策で投資や株で潤っているだろう人々は、この「消費を控える」という活動に何ということをするのだと妄想的になって対立するのかもしれない。かれらは自分の経済生活が第一で―そのこと自体は誰もがそうだからいいが―また、自分の排外的なイデオロギーが第一で、現在の派遣社員の増大と所得の減少など我関せずなんだろう。この列島の伝統的な感性である他者を思うという相互扶助やもやいの考えは全くない。自己利害と経済全体が短絡的につながっているだけなのだろう。まあ、彼らは自転車2台とか1日牛乳2パックとかステーキ一日に3枚とかタバコ1日100本とか消費増大活動をやればいいさ。生活実感のない観念的な妄想を呼吸するイデオロギストの「ネトウヨ」は別にして(イデオロギーの羽衣を脱げばただの生活者になるはず)、こうした、生活者住民間の対立は、大小含めてこの社会には現在においてもたくさんあり得るだろう。あの「大阪都構想」問題の対立もそうである。ただ、この列島社会の現在では戦国時代のような武力対立にはならない。それが救いではある。

 この最悪政権は、わたしたち多数の生活者住民の方を向いてはいない。つまり、株価操作にも関わる円安誘導であれわたしたち多数の生活者住民の生活とはほとんど関係ないことである。つまり、わたしたちの利害を食いつぶしわたしたちの利害と対立しているのである。わたしが「消費を控える」活動を開始し、訴えている所以(ゆえん)である。もちろん、消費を控えることは少しは我が身を締めることではあるが、それ以前に現政権の諸政策によってわたしたちは首を絞め続けられているのである






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 上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)より


   1

 上村武男の『吉本隆明手稿』(1978年)は中身は忘れてしまったが若い頃読んだことがある。その関連で、名前はなんとなく覚えていたので、偶然目にした『ふかい森の奥の池の静謐 古代・祝詞・スサノオ』(2011年)を読んでみた。上村武男は、一方で文学の表現に関わりながら、他方で兵庫県の水堂須佐之男神社の宮司(現在は引退したとのこと)をやっていた。この本でそのことを初めて知った。

 また、上村武男の新しい本が出た。『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)である。著者によると、水堂須佐之男神社は、兵庫県にある小さな神社である。その神社にまつわる主に上村家三代(祖父、父親、上村武男)にわたる宮司に関わる文章から本書は成っている。

 上村武男は、「エピローグ 鎮守の森は栄えているか」で述べている。



 祖父母、父母、そして子供、孫たちが自然に集うことができる、そういう場所―それが氏神の境内であり、村やしろの鎮守の森にほかならないのであった。
 そうやって、少なくとも江戸期以来、氏子・地域住民は皆、地域の神社の祭礼の日につけ、初宮参りや七五三や成人式や結婚式などといった人生儀礼の日につけ、また、おついたちや十五日のお参りにつけ、誰言うこともなく鎮守に集ってきたのである。
 そこには、いわば「ゆるやかなコミュニティ」が、それと意識されないままにも成り立っていたといってよい。




 上村武男は、神社の神主として絶えず自らの存在理由を問うてきたという。そうして、上記のような場面に「原初的な『自然と人間との関係性』そのものが、そこに生き生きと息づいていた」とイメージしている。たぶん、神社というものが形作られ始めた遙か太古からその場を通してくり返されてきた時間を想起しているのだろうと思う。特に明治期以降結びつけられ開拓された国家神道や神道イデオロギーとの直通にではなく、著者のような地域住民と神社の関わりこそが主眼だという考えの神主さんは少数らしい。こういう考え方は、柳田国男の神社観に近いような気がする。

 現在、神社は全国に八万社はあり、尼崎には六十六社ほどあるという。しかし、その三分の二は、いつもは神職がいない、さみしい境内という。著者、上村武男は、神社の現状に危機意識を持っている。宮司だったことからはこういう危機意識は自然なのかもしれない。わたしはと言えば、近くに神主のいない神社があり小さい頃は時々その境内で遊んだものだが、その後は神社というものにほとんど関わりなく生きてきた。そんなわたしの目からすれば、太古の神社というものが形成される以前の長い時代があり、神社の時代があり、これから先の神社の終わりという時代もあり得ると思う。これはお寺も同様だと思う。現在では、葬式は急速に「家族葬」の段階に入りつつあるように見える。現在の年齢層の分布や家族のあり方などから必然的に変容している葬式の変貌だろう。このような動向は、いろんな形で社会での新たな表現として今後登場してくると思われる。それは寺社との関わり合いの形も変貌させていくに違いないし、あるいは寺社が消滅に向かうのかもしれない。しかし、それと同時に人々は新たな形の「ゆるやかなコミュニティ」を生み出していくだろうと思う。

 神道が神社を通して組織化されたのは古代辺りであろう。しかし、神道自体は古代国家以前の古い要素を持っていると思う。したがって、現在のような従来的な農業の死滅に近い現状ではそれと対応するようにして生き延びてきた神社が今後衰退の一途を辿るのは必然と言えるだろう。けれど、古代国家以前の古い要素を持っている神道のような宗教性、あるいは宗教的な感受性は、わたしたちの中に生き残り続けるものと思われる。



   2

 著者、上村武男は、父親のことに触れている。父親が学校の先生をしながら神職であった時期は、神職は公務員で「俸給」をもらっていたという。「国家神道」が生きていた時代でこれは敗戦まで続いた。

 この父親は責任感のあるしっかりした人だったという印象をわたしは受けた。ということは以下の日記の記述の文体と合わせると、この列島の住民としての平均値より少し上に位置した人だったと見なしてよいと思う。そういう人が、未だかつてなかった近代的な総力戦として普通の大衆が戦争にかり出される時代である。こうした近代戦に初めて直面したこの列島の住民の感じ方や考え方の平均的な像に近いものを、この父親が残した戦争中の日記によってわたしたちは知ることができる。



 昭和二十年一月九日(火)
三十四歳になった。まだ生きていた。あゝこんなに永くいきられるとは思ってゐなかった。十七、八歳の頃は、とても三十歳迄生きられるとは思はなかったではないか。
三十四歳の新春を迎へ、両親健かに堂に存し、妻あり、男児二人ともに健康にして五歳と三歳になった。何という幸福であらう。多くの若人が特攻隊として散ってゆくとき、自分はまだかうして生きて、幸福に浴してゐる。・・・中略・・・あれこれを思へば、唯ゝ(ママ)感謝の心でいっぱいである。

 一月二十一日(水)
去る十四日、米機は遂に神宮(外宮)爆撃の暴虐を敢てするに到った。あゝ、何たる事ぞ。われに対する最大の挑戦なり、許し難き侮辱なり。
君辱かしめらるれば臣死す……といふ。日本は今や、最高最貴のものを辱かしめられたではないか。
これでも憤激せざるは日本人に非ざるなり。
朝五時の必勝祈願、けさは六人だった。こんなことは始めてだ。厳寒の候となって、何人に減るかといふことは、自分のすくなからぬ興味を誘ったのであるが、今や真剣無雑なる人のみが残ったのである。
九時から防空訓練。神宮を爆撃せられた口惜しさを思へば、もっと訓練に精が出さうなものだ。一昨日、明石はさんざん爆撃された。これでも口惜しくないのか。

 二月十六日(金)
マニラ既に焦土と化す。戦局は正に危急である。心眼をひらいて事態を正視しなければならぬ。日本といふうまし国が、今や生きるか死ぬかのどたん場に追ひつめられてゐるのだ。楽観は禁物である。周囲を見渡すに、誰も彼も、生活の逼迫に気を奪はれ、食糧の獲得に、みんなうつつを抜かしてゐる。闇、闇、闇の世相である。何も彼も闇でなければ手に入らないのである。国民をして狡智へ狡智へと趨(おもむ)かしめるものは誰ぞ。
あゝ、今こそわれら日本人の至誠を天に問ふ秋なり。
心慰まざるときは、ひとり黙して境内を掃き、拝殿を拭き、書に対す。
忠男と武男は、だんだんやんちゃになり、だんだん可愛くなるばかりである。

 三月三十一日(土)
陽春といひたき暖かさである。杜には椿が咲き、鶯その他の小鳥が鳴いてゐる。この平和な氏神様の境内に暮らすことの出来る自分は何といふ幸福であらう。
戦局は、春とは反対に、いよいよきびしさと物凄さを加へつゝある。沖縄県慶良間列島には敵が上陸を開始したのである。この苛烈なる実相を見よ。
若し万一、帝国この戦さに敗れることありとせんか、あゝ、何を以てわれら生くるや。生きてその辱かしめを受けんよりはむしろ、死をねがふは日本人誰しも持つ心持であらう。今だ、今大いに働き抜き、戦ひ抜いて、どんなことがあっても、この戦さには勝たねばならぬ。自分は小さな神社に奉仕する名もなき神職なれど大いに修養、勉励して、真に神に仕ふるの道を全ふせねばならぬ。神に仕へる白衣の身であることを常に忘れてはならない。自分は、この職場で討死するのだ。
 (第11章 「父のこと〈6〉」P175-P178 上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』)




 本土にまで米軍機の爆撃が行われるようになり、敗戦の予感が脳裏をかすめるような状況での一人の神主(著者、上村武男の父)の内面の描写になっている。しかし、このような内面は、現在のわたしたちにもなじみのものではないかという気がする。たぶん、出征した島尾敏雄隊長もこのような生真面目な人物だったのではないかと想像する。そして、青年の吉本さんもまた。

 ここには、いいかげんさを退ける生真面目さと同時に少し上の方から「周囲を見渡す」視線が加わっている。この父は、学校の先生の経験もあるから先生の子供に対する一般的な視線と同様のものが混じっているように感じる。この年の七月四日に「いよいよ来たぞ。待ちに待った招集令状だ」という「臨時招集令状」が来て、著者の父親は出征していくことになる。

 このような現在にも残存しているようなこの列島人の心性が経験したのは、一般の大衆が初めて戦争に巻きこまれるという未だかつてなかった経験であり、その危機的な状況の中で、明治近代以降の欧米化・近代化という表層の影響は吹っ飛んで、まるで臨死体験のように未開の心性のようなものが人々の心の深層から、そして文明の深層から、発動して湧き上がって来たのだと思う。

 わたしたちは、戦時中のこの列島の人々の意識・感性を戦争というものを潜り抜けてきた現在からの視線で―ということは、敗戦後の戦争に関する様々な批評などを考慮して―見ているわけであるが、何か既視感のようなものを持ってしまう。つまり、現在にもなおそのような意識・感性が生き延びているように見える。つまり、その意識・感性は、相当根深い時間の中を生き延びてきている。それを一般性として抽出してみると、

1.敵に打ち負かされたら、観念する。そしてそれは死を免れないという意識が見られる。これは、潔さのように見えて実は恐怖心に基づいている。

2.1.を逆に言えば、戦争中のように敵に対しては残虐の限りを尽くすことがあり得ること。

3.1.と2.と穏やかな日常を味わう意識が同在していること。つまり、1.や2.は穏やかな日常の意識とけっして別々のものではなく、太古からの感性として日常の意識の深層に秘められてきたということ。

4.敗戦以後も含めると、外来のもの(アメリカ)に対するマレビト意識と屈従が、随所に見られたはずである。そしてそれは、依然として現在も政権・官僚層・取り巻き学者を中心とするアメリカ屈従路線として続いている。たちが悪いことに、当人たちは卑屈な屈従なのに自主的に振る舞っているという思い込み勘違いの中に居るように見える。

 最後に、以上のことを支える論拠として戦争期を潜り抜けてきた吉本さんの言葉を引用する。



 『ド・カモ』の著者はさらに興味ぶかい概念と習慣の例をあげている。死んだと噂されていた人が村に帰ってきてもとの村人の生活にもどったとき、その者が家の近くに姿をあらわすと、樹皮でできた布を巻きつける習慣がある。それは死んだかも知れないその者に生命の繊維である布を被せて生命を蘇えらせ、はじめて村に住めるようにするという習慣があり、制度化されているからだ。メラネシアの人たちが、「身近にいる存在の真正性に関して、概して確信をもっていないということを最も如実に示している。この不確実さのために、メラネシアでは人(外来者-注)に対して非常に控え目な態度をとる習慣があり、それが航海者たちをしばしば驚かせ、また呆れさせもしたのである。」と述べている。著者の解釈では、未知の地平線の向うから来た人間たちの信じ難い突然の訪問をうけて慎重に出方を待とうとする態度で、ほんとうの「生きた人間」なのか「神」なのかわからないという驚きと当惑と認識とを語っている。それに関連したことでいえば、ニューカレドニアのメラネシア人が町の雑貨店に入っていくとき、何を買いに行くのかと現地語でたずねると、「カラ・バオ」(神の皮)を買いにいくと答えるとする。そのばあい(神の皮)というのは西洋式の衣服のことをさしている、と著者は述べている。

 わたしたちの日本でもおなじ習慣と態度に出会う。日本人の気質であるかのようにみえる「ひと見知り」、そして外来者にたいする内気で卑屈ともみえる怖れの気分、またそうでなければ「まれびと」を外来神のように説話化する習俗などは『ド・カモ』に記されたメラネシア人の態度や思い込みとまったくそっくりだといっていい。

 たとえば、太平洋戦争の敗戦直後、大量のアメリカ人(西欧系、黒人系、日本人二世系)を占領軍として見たとき、わたしたち大部分の日本民衆の態度は、そうだった。ヒトか神かとはおもわないまでも何をするか何をされるかまったくわからないという恐怖心がつくりだす虚像を修正し、じぶんたちよりもずっと率直で、あけすけに振舞う解り易く、のびやかな者たちだと結論するまで、ある日数や月数を必要としたほどだ。
 (『心的現象論本論』「原了解以前(14)」P484-P485 吉本隆明)
 ※読みやすいように段落間を一行空けた。






136


 「文体」についての覚書


 例えば、わたしたちが初めて誰かと出会ったとする。わたしたちは、相手の表情や仕草や言葉の選択やしゃべり方などから人柄や性格のようなものを感じ取る。つまりひとりの人が様々な表現として外に放つ固有の存在感を感じ取る。この場合、自分がこの列島社会で生きてきて経験として蓄積した人に関する抽出された共通性(普遍性)のようなものが、他者を感じ取る場合の基準になっている。そこには人に関する抽出された共通性と共にその人固有の屈折や付加もある。このようなことは、生身の他人に限らず、テレビに登場する司会者などの人物に関しても言えるだろう。表現された言葉の「文体」というものもそれと同様のものではないだろうか。

 「文体」という言葉はよく使われるが、何のことを指しているのだろうと思ったことがある。学校では「である」体か「です・ます」体かくらいに形式的なものとして文体は扱われていた。たぶんその言葉は、ヨーロッパ由来の近代に始まる言葉や概念と思うが、文章のスタイルや修辞・技法などの表現の形式的なことを指しているようなイメージをわたしは持っていた。しかし、わが国で使われている「文体」の意味やイメージは、それに留まらず作者という個の存在の固有性と関わりあるような使われ方をしている印象がある。そこには、ヨーロッパ的な言葉とアジア的な言葉との対象を捉える時の捉え方の違いが出ているように思われる。(因みに、中国に「文体」という概念があるのかどうか、あるとすればどんな概念なのかについては知らない。)ここに、ひとつの「文体」の捉え方がある。



 ひとつの作品から、作家の個性をとりのけ、環境や性格や生活をとりのけ、作品がうみ出された  時代や社会をとりのけたうえで、作品の歴史を、その転移をかんがえることができるかという問題である。いままで言語について考察してきたところでは、この一見すると不可能なようにみえる課題は、ただ文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげるときだけ可能なことをおしえている。いわば、自己表出からみられた言語表現の全体を自己表出としての言語から時間的にあつかうのである。
    (『全著作集』6,勁草書房、163頁)

 わたしたちのいままでの考察では自己表出としての言語の表現史というところまで抽出することによって、(文学史の:著者註)必然史は可能とならなければならない。なぜならば、言語の表出の歴史は、自己表出としては連続的に転化しながら、指示表出としては時代や環境や個性や社会によっておびただしい変化をこうむるものだからである。
    (『全著作集』6,164頁)


 ここで言われている「文学作品を自己表出としての言語という面でとりあげ」た表現言語空間とは、前節の最後にまとめた、「表現作用素の一般性の部分のみが作用したものとみなし」て抽出したものである。そしてみてきたように、文字で書かれたためにここでいう自己表出は、選択・転換・喩という表現の定型によって、これと指し示すことができる実在性をもって表現のなかに存在し、三浦つとむのいう「主体的表現のための言語」に注目しつつ逐語的に追跡し、比較していくことによって、自己表出性の度合い、程度、水準は考量できる、と考えてきたのだった。つまりここで考察する対象は、文学作品をその「自己表出の実在的な担い手である定型、即ち、選択・転換・喩の実相としてみたもの」ということができる。そして、作品をこのようなものとしてみた時、これを本稿では「文体」と呼ぶことにする。
 吉本隆明は『言語・美』において文体とは何か、という議論を直接にあらわな形ではやっていないが、私は右のように考えて間違いないと思う。人は、「作品を選択・転換・喩の実相としてだけみたものを文体と呼ぶ」といわれたら、ひどく切り詰められたように感じるかもしれないが、そうではない。追跡行を振り返ればわかるように、言語表現における定型は、人間の存在本質である自己対象化の力が発揮された結果としての言語の自己表出性を、書くという世界で直かに担い示す、重要な意義をもつものとして定立されたのであって、文芸作法などによくある、個性的な切り口だの言い回しなどの「技法」と同列の概念ではないことに注意が必要であろう。
 (『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』「文体空間の基底」P94-P95 柴田弘美 2014年)



 引用の冒頭の「ここ」というのは、『言語にとって美とはなにか』Ⅳ章「表現転移論」の「1 表出史の概念」から引用された部分を指している。そして、「ここ」というのは、作品から作家の個性などの固有性を退けて、抽象化し抽出された構造を指している。この引用部分での「文体」の像をもう少しはっきりと浮かび上がらせるために柴田弘美の言葉をもっとたどってみる。引用の前の章の終わり辺りで次のように述べている。



・・・・・・即ちここで振り返ってみれば、吉本隆明が遠山啓の特別講義で出会い、獲得したと考えられる「構造」の世界では、「行為する人間」は「作用素」として、むろん高度に抽象化、形式化されてはいるが、その本質を保持し存在することができるのではないか。いいかえれば、いわゆる「構造主義」が捨ててきた「人間」あるいは「主体」という概念は、日常的で具体的な生身のそれとしてではなく、疎外-外化された「作用素」として、つまり「構造」という把握が成り立つレベルの抽象水準において、「構造」世界に生きぬくことができるのではないだろうか。

 そして、本稿のそもそもの発端が、『言語・美』と、量子力学に数学的基礎を与えた位相解析学とが大変よく似ている、という直感であったことを想起してみれば、私たちはここで、表現者=作家を構造的な言語空間のうえで働く「作用素」として抽出し、把握する途についたものと考えられる。

 もう少し正確にいえば、私たちは〈書く〉という行為のうち、誰が、どこで実践しようとも、必然的に実現してしまう、普遍的一般性の部分を、構造的把握の成り立つ水準において、把握したのである。その「作用」は、表出言語の一般性を、文字によって、固定的で実在的な、表現言語空間へと変成するとともに、表現言語空間のある部分をまた他の部分へと写像する。即ち「作品」を成す。そしてこの際、表現言語空間に積み重ねられた「定型」による自己表出性の実在的あり方を、程度の差はあれ、連結し、受け継ぎ、また推進する。


 ところで当然のことながら、現実の作者あるいは表現者は、「書くことの一般性」のみ担う《表現機械》として存在することはありえない。必ず、固有の肉体をもち、固有の感性と資質をもち、特定の歴史的、時代的な、また社会的環界のうちにあって固有の関係を取り結び、固有の意志を形成しまた変動させつつ存在してきたし、今も存在している。その固有性が表現に全く影響を及ぼさないわけはないし、実際及ぼしてきたのである。したがって、表現者個人を表現言語空間上の作用素へと抽出する、という本稿の意志と関心からは、この個体の固有な現存性が表現に関与するところのものを、構造的把握の成り立つ水準、「書くことの一般作用」と同等の水準にまで抽出し、「普遍的一般性」と「固有な現存性」との二重の構造をもつものとして、「表現作用素」の概念を組み立てようと考えるのは必然である。

 ( 『 同上 』 P90-P91 )


 人間のもつ類的な必然性と個体的な現存性とを、相容れないものとせず、互いに独立であるものとして同在させる、吉本の弁証法的な考え方を先に検討しておいたのだが、まずそれは、自己表出の連続的な転化と指示表出の時代的、個的現存性として現れた。今人間の〈書く〉という行為を抽出するにあたって、右のような「類的、普遍性一般性」と「個的、時代的な現存性」の、人間の避けられない本質的規定性を担う二面性を、表現作用素の二重性として表すことは、これまでの行論からは自然である。
 では表現者の個的現存性はどこにどのように現れるかといえば、みてきたように、それは言語の指示性に現れるのだった。


 ここで改めて『言語・美』の全体を見渡してみると、第Ⅳ章が表現転移論、第Ⅴ章が構成論となっている。これまでの追跡行を踏まえるなら、この二つの章は明白である。「表現転移論(表出史論)」とは、右にみた表現作用素の一般性の部分だけが作用するものとみなした時、表現言語空間はどのようにあらわれ、作品群はどのように史的にふるまうかを追跡したものといえる。つまり自己表出性の変容にのみ焦点をあてているのだ。そして「構成論」は、さらに表現作用素の個的現存性をも含めた全体が作用した時、どうなるか、という問題を、〈書く〉ということが出発した時代に焦点をあてて、「構成」ということの意味を明らかにしつつ考察したもの、といえよう。

 ( 『 同上 』 P92-P93 )



 これはわたしの納得のいく捉え方であるが、柴田弘美の「文体」という捉え方は、吉本さんの「話体」と「文学体」とを基軸とした「表現転移論」に近い捉え方をしているように見える。つまり、作品を抽出された抽象性として、作者の「個的現存性」は考慮に入れていないように見える。上の引用の二つ目の「表現言語空間のある部分をまた他の部分へと写像する。即ち「作品」を成す。そしてこの際、表現言語空間に積み重ねられた「定型」による自己表出性の実在的あり方を、程度の差はあれ、連結し、受け継ぎ、また推進する。」という抽象性の水準で、作品の表現を捉えたものを「文体」と呼んでいるように見える。つまり、「選択・転換・喩」という具体的、実在的な定型によって担われた自己表出の水準や有り様として。柴田弘美が、自分はこれを「文体」と呼ぶということには文句はない。しかし、慣用的な使い方とは違うような気がする。

 柴田弘美も触れているけれど、 「文体」という言葉は江藤淳の『作家は行動する』にも出てきた。しかし、文体の定義はなされていなかったように記憶している。吉本さん自身もよく使い、また一般にもよく使われているけれども、「文体」とは何だろうというという疑問から、わたしも吉本さんの『言語にとって美とはなにか』に「文体」の捉え方がないかと以前調べたことがある。言葉はあったけれども「文体」を定義したものはなかった。たぶん吉本さんの場合は、「文体」という言葉の慣用的なイメージや使い方で十分だという思いがあってのことだと思う。そこで、わたしなりに「文体」について考えてみたことがある。以前どこかに書いたことがあるが見つからないので、もう一度書き出してみる。これは、文学作品を想定して書いているが、思想でも身辺雑記でも事務的な文章でも当てはまるものとして書いている。


 〈現実〉世界を呼吸する人が、〈作者〉に変身して内心の何かに促されるようにしてある〈表出〉の欲求を携えて何ものかを文学的な表現の〈言葉〉に表現しようとする過程に入ったとき、現在まで蓄積されてきた〈表現世界〉の歴史的な現在性と関わり合いながら(助けられたり親和したり反発したりしながら)、言葉を表現していく。その表現の過程での作者固有の言葉の織り成しを「文体」と呼ぶべきではないかと考えたことがある。


 わたしはこんな風に「文体」を考えてみた。これに対して、柴田弘美の「文体」の捉え方は、作者の固有性を退けて「選択・転換・喩」という実在的な定型に担われた自己表出の有り様という或る抽象性を指していて、一般になんとなく使われている「文体」という捉え方とは違うように見える。しかし、ふだんわかるようでわからないというあいまいさのままで使われる「文体」というものに、遠山啓の吉本さんに与えた数学的な考え方の強い影響があるということとその論理的な駆使が『言語にとって美とはなにか』においてもなされているという場所から、『言語にとって美とはなにか』を読み解く道程につき、そこから放たれた「文体」の捉え方である。わたしはまだ本書を読み終えていないし、十分に理解できているとは言えないけれど、本書は悪しき「文系」的な印象や論理の言葉の世界にいい意味での「理系」的な風通しのいい論理の言葉を駆使して見せているように見える。本書を読む上で少しは現代数学の近辺の素養が必要と思われるが、複雑で多様な現実というものを抽象と抽出と基軸というものによって構造化する論理になじめば割とすっきりとした視野が開けてくるような気がする。吉本さんの『言語にとって美とはなにか』を読み解く上で大きな助けになると思う。

 わたしの「表現の過程での作者固有の言葉の織り成しを『文体』と呼ぶ」という大雑把であいまいな捉え方に対して、柴田弘美の方は、『言語にとって美とはなにか』に沿いつつ「表現言語空間」での構造的な関わりとして「文体」を明確に定義しようとしている。私から見て通常の「文体」の意味やイメージとは違うのではないかということは、とりあえずどうでもいい。このような「文体」を論理的に概念や位相として位置付けようとすることが貴重だと思う。少し「文体」に触れるつもりが、柴田弘美の「文体」を捉えようとしたら、次第にこの著作自体を読み解かなくてはならないように感じられてきた。この辺りで止めておきたい。

 ここで、柴田弘美の「文体」を潜り抜けた上で、改めてわたしの「文体」把握を述べてみると次のようになる。


1.吉本さんは以下に引用(註.1)するように、「言語表現のうちで抽出される共通の基盤は、表現としての韻律・撰択・転換・喩」としているが、柴田弘美のは「選択・転換・喩」となり、なぜか「韻律」が入っていない。ただし、本書に引用されている、吉本さんが三浦つとむに触れた『初源への言葉』の文章では、「作者が、意識せずにつかっているめまぐるしい認識の〈転換〉が、詩歌の美を保証している。わたしは、これを緒口に、〈場面〉、〈撰択〉、〈転換〉、〈喩〉の順序を確定し、この四つが、現在までのところ、言葉で表現された作品の美を、成り立たせているだろうという、理論の根幹を、形成することができた。」( 『 同上 』 P77 )とある。ここでは三浦つとむに倣って、「詩歌の作品の言葉」を一字一字たどり、それ毎に「背後にある作者の認識の動き」推量してみたということから、〈場面〉、〈撰択〉、〈転換〉、〈喩〉と表現されているものと思う。

2.わが国では「文体」は通俗的な概念としての使用から見ても、文学であればその「文学作品」の全体が作者の固有性に関わっている概念である。つまり、ある人の持っている、あるいは放っている人柄や性格のようなものである。したがって、以下に吉本さんの『言語にとって美とはなにか』から引用するように、「表現のうちがわにいくつかの共通の基盤が抽出できる」「韻律・撰択・転換・喩」のレベルでは「芸術としてではなく言語表出としてあつかうということ」になってしまう。つまり、吉本さんが述べているように芸術作品として対するには「構成」の問題を取り上げなければならないと思われる。

 言いかえると、作品の「韻律・撰択・転換・喩」だけでなく、「構成」も意識しながら作品を読み取ったとき、その作品全体から放たれてくるものをその作者固有の「文体」と呼ぶ。この場合、作品世界で「韻律・撰択・転換・喩」を具体的・現実的に表現するのは、作者または作者に派遣された語り手であり、それらを成すことによって作者の癖や好みや性格のようなものや無意識的なものも含む固有性も文体として刻印されることになる。



(註.1)
 言葉の表現を、ややつきつめてみてゆくと、表現のうちがわにいくつかの共通の基盤が抽出できることにすぐに気づく。この共通性は言語表現のながい歴史が体験としてつみかさねたものだ。結果としていえば歴代の個々の表現者がそれぞれ自由に表現したものが偶然につみかさねられて、全体としてあたかも必然なあるいは不可避なものとしてつくりあげた共通性だといえる。この共通性は、いったん共通性として意識されると、こんどは個々の表現者によって自覚的に使われたりする。こういう過程は、人間が対象にたいして行なうどんなことにもいつもつきまとうもので、言語の表現にだけ特有なものではない。
 この言語表現のうちで抽出される共通の基盤は、表現としての韻律・撰択・転換・喩に分類すれば現在までの言語の表現のすべての段階をつくすことができる。
 わたしたちはいままでに、意識の表出としての言語を、言語表現にまでひろげることで、文学の表現をあつかう前提をとりあげている。書くという行為で文字に固定すると、表出の概念は表出と表現とに分裂する。ここまでひろげることで、文学の表現論はすべての文学理論とちがった道に一歩ふみこんだことになる。・・・中略・・・げんみつにいえば芸術しての言語表現の半歩くらい手前のところで、表現としてもんだいになることをとりあつかおうとしているわけだ。この半歩くらい手前というのは言語を文学の表現とみなしながら、芸術としてではなく言語表出としてあつかうということだ。なぜこんな態度がいるのかといえば、言語表現を文学芸術とみなすにはまだ構成ということを、取扱っていないからだ。構成を扱わなければ反復、高揚、低下、表現のはじめとおわりが意味するものをしることができない。
 (『定本 言語にとって美とはなにか Ⅰ』P114-P115 吉本隆明) ※ 傍点は省略した。


※ 「文体についての覚書」としたのは、まだ『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』(柴田弘美)や『言語にとって美とはなにか』をわたしが読み込んで十分に理解しているとは言い難いから暫定性を込めた題名になっている。(前者は、まだ読み終えていない。)つまり、本格的に「文体」に触れようとするなら、少なくとも『言語にとって美とはなにか』は踏まえるべきだと思う。ここでの「自己表出」や「指示表出」という『言語にとって美とはなにか』の基軸概念も自然なものとして使っている。本格的な自分なりの捉え返しが必要だと思っているが、ここでは「理工系」的な便利な数式だから使っているという程度の意識で引用したり使ったりしている。






137


 知識の現状についての覚書


 戦後思想に「知識人ー大衆」という捉え方があった。これはその時期にその言葉を生み出さざるを得ない必然的な根拠があったはずである。都市と農村が対立的な状況から生み出された近代の「都市と農村」問題も同様だったろう。現実の諸矛盾がそれらのキーワードを疎外する(生み出す)のである。しかし、現在ではいずれも死語に近い。したがって、現在からの視線でそれらの問題をあげつらったり裁断しても意味はない。ちょうど、現在からの視線(感性や意識や考え方)で、太古の人々の輪廻転生のイメージや考え方をなんて迷妄なんだと裁断するのと同様に。さらにまた、遠い未来からの視線で現在を裁断するのと同様に。

 つまり、状況が変貌してしまった。現在では、その「大衆」が知的に上げ底化されてきていて「知識人ー大衆」という対比は、「純文学-大衆文学」でも同様でその境界が曖昧になり液状化している。誰もがファッションのように様々な知識に深く通じるようになってきた。また、素人でも興味関心があれば、文学に限らず音楽やダンスなどの芸術に詳しくなることができる。また、政治や経済問題について論じることもできるだろう。しかし、ほんとうにその分野や領域について何事かを論じ見通せるようになるには十年以上の研鑽が必要なのは言うまでもない。この本質的なことは不変である。ただ、知的な世界というものに気後れしたり構えたりすることなく、気楽に知的な世界に出入りできるようになったことは良いことに違いない。

 ここで、「知識人ー大衆」問題を遙かな太古からの時間の流れから眺めると、その対比・対立の起源は集落の住民と巫女やシャーマンとの関係に原型があると思う。巫女やシャーマンは、普通より優れた「力」を持つ者として選ばれ押し出され集落の人々に仕えるようになったことが始まりだったろう。

 そこから遙かに下って来て、わたしたちは誰でも、気楽に知的な世界に出入りできるようになった反面、知的な世界の恐ろしさをなめてしまったり、知識の形骸に荒んでしまう可能性も持ってしまった。これらの反面は、わたしたちの日々のこまごまとした具体の世界をつまらないものや無意味なものと見なしたり、人間を平板な抽象性で捉えてしまう可能性も秘めているように見える。この現実の世界の具体的な関係で疎外されたり追い込まれたりしているという無意識を抱えている者の場合は特にそうだ。2016年7月26日に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」を起こした青年は、ちょうどこのような知識の現状を背景にして負の使者として現れたのではないかと思う。

 現在のように普通の生活者の大半が総知識人になり得る、あるいはなってしまったような状況で、私たちの魂の場所とも言うべきほんとうに帰る場所、すなわち生活の日々の具体と具体的な人と人との関わりを価値の源泉のイメージとして把持するのはとっても大切なことだと思う。つまり、わたしたち普通の人々の「人間力」(内省力)が問われている。
 (ツイッターの「覚書 2017.4.26」のツイートに少し加筆訂正しています)






138


 又吉直樹『劇場』を読む


 前作『火花』の独特な自然描写が目に留まり、少し考察してみた。そのわたしの関心のモチーフの続きとしてこの『劇場』という作品ではどうなっているだろうと読んでみた。

 この作品の物語性は複雑ではない。定職には就かず脚本を書いたり演出したりする演劇の活動に熱中している「僕」(永田)という若者が、ある日沙希と言う名のひとりの女性に出会い互いに好きになり、「僕」は沙希のアパートに転がり込む。そして、「僕」との関係の有り様に疲れて病んだ沙希は、故郷に帰ってしまい、それが二人の別れとなるという物語性である。この物語の主流に「僕」の学生時代からの友達や他の劇団や沙希の仕事先の者がいくらか関係してくる。物語の繰り広げられる世界は、広くはない。しかし、現実のわたしたちもこの物語世界のような小さな世界を生きている。そういう意味では、ありふれた物語世界の規模だと言える。

 一度だったか、沙希が寝ている同じ布団かベッドに「僕」がもぐり込んで文字通りいっしょに寝たという描写があったくらいで、村上春樹の近作の濃厚な性描写と比べて性描写はまったくない。また、互いに心ときめき合うような描写もほとんどない。つまり、沙希と「僕」とがどの程度の関係の深さなのかがよくわからない。わたしがふと思い浮かべたのは、古代以前にこの列島社会に存在したといわれている宗教・政治を兄妹 (姉弟) で分担し合うヒメ・ヒコ制のことだった。沙希と「僕」は、血のつながりのない他人であるが、「僕」の内面には兄(または弟)として沙希に支えて欲しい、寄りかかりたいという心性があるように描写されている。ああそういう支え合いが、集落や小国家の社会統治レベルでも発動していたのだろうなということを連想させた。

 ところで、この作品がそのような小さな規模の世界をありそうな登場人物たちが関わり合い、主人公の「僕」が恋をして別れてしまうというふうに見れば、たくさんのありふれた物語世界や作品に埋もれてしまうだろう。さて、この作品の特異さはどこにあるのだろうか。 



 まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。もう少しで見えそうだと思ったりもするけれど、眼を閉じた状態で見えているのは、まぶたの裏側の皮膚にすぎない。あきらめて、まぶたをあげると、あたりまえのことだけれど風景が見える。
 (『劇場』P5)




 これは、この作品の出だしである。この続きは、一行空いて「八月の午後の太陽が街を朦朧とさせていた。半分残しておいた弁当からは嫌な臭いがしていて、こんなことなら全部食べてしまえばよかったと思った。」となっている。おそらく一般的な作品の出だしは、この続きの部分から始まるような気がする。つまり、読者からするとこの引用部分は無用のものに見える。特に子どもがある場に置かれてその場に興味関心が持てずに手持ち無沙汰であるとき手混ぜしたりよそ見したりしているような表現に当たっている。しかし、作者にとってはこの描写は欠かせないものとしてあるのかもしれない。屈折した表現だと思う。次は、前の引用の続きである。ここも屈折した表現、つまり普通は余りなされない表現になっている。



 僕は新宿から三鷹の家に早く帰りたかったのだけど、人込みのなかで真っ直ぐに立っていられる自信がなく、到底電車に乗れる状態ではなかった。どこでもないような場所で、渇ききった排水溝を見ていた。誰かの笑い声がいくつも通り過ぎ、蝉の声が無秩序に重なったり遠ざかったりしていた。ついにきっかけもなく歩き出してはみたけれど、それは家を目指して歩いていたわけではなく、ただ肉体に従い引きずられているような感覚に近かった。僕の肉体は明治通りを南へ歩いて行くようだったけれど、一向に止まる気配を見せなかった。
 自分の肉体よりも少し後ろを歩いているような感覚で、肉体に対して止まるよう要求することはできなかった。表参道とぶつかる原宿の交差点に近づくと、急に人が増えたように感じた。いや、少し前から人は増えていたのだと思う。人波にのまれ、あらゆる音が徐々に重なったが、自分の足音だけは鮮明に聴こえていた。暑さよりも人の匂いが鼻をついてむせた。一方で、何かに身をゆだねている心地良さもあった。
 人と眼が合わないように歩く。人の後ろの後ろにも人がいて、更にその後方に焦点を投げていると誰とも眼は合わない。人の顔の輪郭はぼやけていて、明瞭な線としてまとまりかけたら自分がうつむけばよかった。眼を下に向けると、いろんな靴があるものだなと思う。靴ははっきりと見える。みんな靴をはいている。こちらを睨むように見る人も、苦悩に充ちた表情の人も、誰もが靴を買いにいった瞬間があると思うとおかしかった。空の青さと何の形にも見立てることができない雲の比率がほとんど偽物のようだった。 
 (『同上』P5-P6)




 「暑さよりも人の匂いが鼻をついてむせた。」とあるように「僕」の心は、外界の人に対して過敏に反応している。その過敏さは「自分の足音だけは鮮明に聴こえていた。」のように表れている。ここには「僕」の外界に過敏に反応し、屈折していく心象風景がある。大多数の普通の人々の現実と見なされるものから少し落ち込んだ場所に作者は「僕」を設定している。そこからは「人と眼が合わないように歩く。人の後ろの後ろにも人がいて、更にその後方に焦点を投げていると誰とも眼は合わない。人の顔の輪郭はぼやけていて、明瞭な線としてまとまりかけたら自分がうつむけばよかった。」など「僕」の独特な生活上の技法が生まれてくる。そして「眼を下に向けると、いろんな靴があるものだなと思う。靴ははっきりと見える。みんな靴をはいている。」というふうに「僕」の存在する場所からの感覚的な表現が生まれてくる。

 わたしは、この作品の出だしから読むのが疲れた。読むのに疲れるということは、主人公の「僕」がこの世界に対する異和やその世界内での自分自身に対する異和が、文体として屈折した異和の表現をなしているからである。たとえば、日常で相手が屈折した感情を示したり、ごねたりしてきたら、応対するあるいは目撃するわたしたちは、おそらくいい気分や感情を持たないだろう。ちょうどそのような文体になっている。物語が進行して、「僕」が沙希と出会い、ふたりの生活が始まってからはそういう文体は消失していったような気がする。割とスムーズに作品を読み進めることができた。気がするというのは、読者であるわたしがその屈折した文体に慣れてしまったからではないかという疑念があるからであるが、初めの屈折した文体は、「僕」と沙希との関係の屈折の描写に転化していったように見える。

 前作『火花』の自然描写は、昭和初期頃の新感覚派の文体の模倣ではないかと思われる部分もあったが、この作品では「僕」や「僕」の関わり合う世界の表現として、作者の独特な屈折した文体を獲得しているように見える。






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 孤独な表現―坂口恭平の『しみ』(2017年4月)を読む



 坂口恭平の『しみ』(2017年)を読み終えた。前作の『現実宿り』(2016年)と似たような言葉の場所からの表出、作品の世界の構成のように見える。この作品の現実的な素材としては、この本の帯にあるような作者の若い頃の自由な生活や知り合いたちとの交流の日々があるのかもしれない。しかし、主人公と覚しき「ぼく」(マリオ)は別にして、「ぼく」の知り合いたちや「シミ」は変幻する存在で、この作品は、抽象画の世界になぞらえることができる。それはわかりやすくいえば、ちょうど縄文期の器物のようにある部分が異様に強調されたり膨らみを持ったりというような、現在のわたしたちの自然さの感覚からは不可解に見えるような世界感覚や世界の構成である。それは現在の作者が、主人公の「ぼく」を通して引き寄せた世界イメージと言うほかない。もちろん、人は誰でも共通の同時代的な感覚や感受とともに、外からはうかがい知れない固有の世界を持っている。そしてそれは、本人自身にもよく了解できないものであるかもしれない。

 吉本さんの言葉の捉え方を用いれば、この作品は、何を指し示し何を描こうとしているかという読者の理解に親切な指示表出を削りに削った自己表出が最大化した作品である。しかも、そのことは作者が後景にいて、語り手と登場人物たちがある物語世界を切り開いていくというような通常の作品世界の有り様とは違って、かといって私小説と呼ばれるものとも違い、ある深いレベルまで作者や語り手や登場人物たちが液状化してしまったような舞台での物語のように思われる。つまり、従来的な作者・語り手・登場人物という者たちが織り成す世界とは違っているようなのだ。作品の出だしは、次のようにはじまる。



 いまから書く話はきっと事実だ。ぼくはそう思っている。ぼくの中では事実だ。ところが目がさめていないだけなのかもしれない。その可能性もゼロではない。なぜなら、これが夢ならそのほうがいいと感じるときがいまでもあるからだ。シミは死んでいた。ぼくはシミが死んだことすら知らなかった。誰からも電話一つかかってこなかった。誰から教えてもらったのか、思い出すことすらできない。シミが死んだことを知ってからは、不思議なことに昔会っていた仲間や魔女みたいなおばちゃんたちと再会する機会が増えた。みんな隠していたのかもしれない。ぼくは線香もあげにいっていない。どうせ行ったって、そこにシミはいないし、死んだシミだっていないだろう。シミは亡霊にすらなっていない。シミはいまも八王子の浴室でシャワーを浴びながら笑っているんじゃないか。
 シミは長崎のいいところのボンボンだった。何でも先祖はシーボルトについた二番目の弟子だという。・・・中略・・・突然、電話がかかってきそうな予感はするが、シミは死んだ。シミが死んだことで、どこかが少しだけ軽くなったような気がする。・・・中略・・・
 シミは死んだ。いまどこにいるのか。ぼくはやっぱりそれでもシミのことを探しているような気がする。だから、まだ目がさめていないのかもしれないと思うのだ。夢であってほしいってことじゃない。これが夢だったら最悪だ。ぼくはまた時間を遡らないといけないし、もう二度と若くなんかなりたくない。シミは夢とは別のところで生きている。ぼくはただ睡眠をとっているだけで、恐ろしいことに年をとっていない。「そんなことが起こるんだ。ときどきな」とシミが言った。いま、ぼくは八王子から遠く離れている。そもそも八王子に住んだことはない。八王子の地理はいまだによくわからない。いつもシミの車に乗っていたから、シミの目でしか八王子を知らないのだ。シミ以外と八王子に行ったことがない。八王子には、実際に八人の王子が暮らしていた。あくまでもそれはぼくの推測だ。たしかに住んでた。彼らはきっと王子だ。
 タカ、ヨギン、シモン、ニーチ、コウ、ハッサン、クレナイ、そして、シミ。
 ぼくは何を言っているのだろうか。王子なんか出会ったことがないし、彼らはただのヤク中だったのかもしれない。ぼくはなぜかそこにいた。あの夜。弦楽器の音が鳴っていた。マンションの廊下にはありえないほど大きなスピーカーが置いてあり、ぼくは靴を履いたまま、土器の破片が散乱する玄関を飛び越えた。スピーカーからは音楽が鳴り響いていた。その音楽についていま思い出そうとしている。その音のことを書こうとしている。音について考えだすと、台所の汚さやミントティーやレモングラスの香りがどんどんぼくを連れていく。おれはここだ、ここにいる、死んでなんかいない。シミの声が聞こえてきた。シミの本名も知らないぼくの耳にだ。シミのことを友人と思っていいのかわからない。ぼくはシミと一日以上一緒にいたことはないし、シミがどんな人間なのか言葉にすることができない。ぼくが知っていたのはシミが聴いていた音楽のことだけだ。とはいっても、それが何の音楽なのか、名前はいまだにわからない。
・・・中略・・・
 こんなふうにシミの部屋はいつだって、広がったり縮んだりする。酒を飲んでなくても、頭の中ではいまでも植物みたいに静かに成長している。それでもぼくが知っていることはかぎられていて、かといって質問する気にもなれなかった。ただそこにあるものを、ぼくはそのまま見ただけだ。だからかもしれない。そこにあるものの意味なんか関心がなかったし、そいつらがいったいどんな人間なのかなんてことはどうでもよかった。楽しかったのだろうか。ぼくは正直、即答できない。ときどき緊張したりもしていたと思う。ぼくは二一歳だった。よくわからないことばかりだった。
  (『しみ』P6-P9)




 読者(聞き手)のわたしは、語り手(話し手)や作者は何を語ろうとしているのかを聞き取ろうと、長々と作品の言葉を引用したどってきた。言葉がつじつまがあうかどうかはどうでもいいのだろう。作品の言葉は、ひとつの舞台に次々に抽象画の素材のようなものとしてどこからか湧いてきて、その舞台で言葉が言葉にぶつかったり、あるいは連想するようにして別のことへ連鎖していくように語られているような感じがする。指示性がはっきりしない饒舌な語りの背後に或る語りがたい自己表出性が横たわっているのかもしれない。ほんとうはその貯水池から言葉は繰り出されているように感じるが、そこがどんな貯水池なのかよくわからない。読者のわたしは、意味不明なことをつぶやき続ける他者を前にしているような不毛感と徒労感に襲われる。ただ、少数のわかる読者には、わかる世界なのかもしれない。作者にとってはこの作品の表現は「自己慰安」に当たるのかもしれないが、読者のわたしは「物語」としては楽しめなかった。それは逆に言えば、作者は、おそらくこうでしかありえない自分の作品の世界の事情や作品の言葉の通路を半ばはわかっているのだろう。作者は一般的な多数の読者からは理解を絶した孤独な作品表現の場に立っているように見える。


 (気になる描写の箇所のメモ)
P24L7-P25L2
P29L11-P30L2
P120L1-L6
P144L7-P147L6
P154L
P161L1-L6
P168L13-P170L6






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 島尾敏雄『琉球文学論』メモ 2017.6.30



 島尾敏雄『琉球文学論』(2017年5月 幻戯書房)は、島尾敏雄が1976年に多摩美大で行なった集中講義の記録であるという。

 本書の表紙のカバー写真(註.1)は、二人の若い女性が大きめの籠(それはわたしの地域でなら竹籠になるのだろうが、何で編まれた籠かはよくわからない)を背負って、海辺の砂浜を歩いている。今から海藻か何かを採りに行くところであろうか。この写真は、説明によると1955年頃の奄美大島とある。わたしの小さい頃のリュックの背負い方と同じ背負い方に見える。

 いつ頃どういうきっかけがあったのか知らないが、最近の若者たちは私たちの頃と違って、リュックをものすごく下の方で背負う(?)ようになっている。どうしてそうなったのか少し検索してみたがよくわからない。ファッション雑誌かテレビドラマか、有名人がそういうリュックの背負い方をしていて、カッコイイなと瞬く間に若者に広まったのだろうか?気になる。当人たちが良ければ別に言うことはないけれど、傍目からはその背負い方は体に負担がかかってきつそうに見える。

 今から50年位前までは、農作業や商売で使われるものにオウコ(朸)と呼ばれるものがあった。荷物を運ぶてんびん棒と言えばわかりやすいだろうか。柳田国男の文章の中でもそのオウコという言葉に出会ったことがある。時代劇では金魚売りなどとして今なお登場するかもしれない。しかし、高度経済成長期を潜り抜けて諸産業の機械化や車の普及によってそれらは消滅し死語となってしまった。高度経済成長期以前の社会は、わたしの生きた地域の体験からいえば、川で洗濯するということもあり、土の道路もまだ多くあり、砂利道をときおり三輪自動車や原動機付自転車が走っていた。まだ信号機もなかった。まだまだ旧世界とつながっている社会であった。その後車が増加してからだろうが、信号機が設置されるのを目にしたことがある。

 また、これも柳田国男が書き留めていたが、この列島のある地域では頭上に荷物を載せて運んでいた時代もあったらしい。人が荷物を運ぶことひとつとっても、産業社会の変貌と歩調を合わせるように、その形態や様相は大きく変貌してきたのかもしれない。最近の若者のリュックの背負い方は、産業社会の変貌というよりは、ファッションから来ているように見える。

 

 (註.1)
表紙のカバー写真

(「版元ドットコム」の画像より)






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 島尾敏雄『琉球文学論』メモ 2017.7.1
     ―わたしの気に留まった箇所


1.
 日本語と琉球語とは、非常に近く、それの基になる日本祖語のようなものがあって、具体的にはどういう言葉であったかよくわからないわけですが、一方では日本語、つまり本州や四国・九州で使っていることばになってきており、また片方では南の島々で使っている方言になったと理解されています。 (P10-P11)


2.
 これまでの日本の歴史家の視野の中には、沖縄・奄美・先島(ひとまとめにして私は琉球弧という言葉を援用したいのですが)は、はいっていませんでした。しかしどうしても日本国の歴史の展開は、もっと広い目で見たほうがよい。琉球弧までの目配りがないと、日本列島の実態はうまくつかまえられない。 (P20)

註.
 北や南を十分に繰り込めていないこの列島の歴史というものは、奈良京都辺りの大和政権という局所系の歴史に過ぎないのではないか。そして、それは古代国家以降が中心になっている。つまり、それ以前の列島の歴史が繰り込まれていない。


3.
最近でこそ奄美という言葉で全体をあらわすことが一般的になってきましたが、しかし今から二十年前に私が奄美に行った当座は、徳之島や沖永良部島では、奄美と言っても、よそのことのような具合いでした。ここは奄美じゃない永良部だ、という気分でした。・・・中略・・・
 奄美大島という呼び方も対外的であって、島の中では奄美をはずして大島とだけ言います。総体的な名前として最近やっと奄美という呼称が定着してきました。そういう状態です。島の名前というものは、個別でも総体でも案外不明瞭なところがあるわけです。おもしろいことに、はっきりした名前がついていても、その島に住む人自体それを知らない場合もあります。戦争中、私は大島のすぐ南がわにある加計呂麻(カケロマ)島の海軍基地に九箇月ばかり居たことがありますが、年寄りに聞いても若い人に聞いても、加計呂麻という島の名前を知らなかった。じゃ、ここは何ていうんだ、と問うと、実久村(サネクソン)だとか鎮西(チンゼイ)村という返事が返ってきました。当時その島の行政区画がその二つだったからです。いくら島の名をたずねても、ちょっと信じられないことですが、知らなかったのです。ではこの加計呂麻というのは最近の命名かというと、そうではなくて、滝沢馬琴の『椿説弓張月』にも「佳奇呂麻」というのが出てきます。加計呂麻島出身の私の妻も自分の島の名を知らなかったので、かえって私が教えた次第でした。 (P28-P29)


註.
 例えば、「奄美大島」という言葉は、外からや上からの行政区画的な視線でなければ、その区域内に住んでいた人が他の地域に移り住んだ場合に意識される言葉ではないだろうか。例えば、家族内では日頃自分たちの姓を意識することはほとんどないけれど、家族外の他人や学校や職場などの関係世界に移るとその自分の姓というものを意識させられるように。現在のわたしたちの社会状況とは違って、各集落間が余り交通がなくそれぞれが自足しているような状況ではそういう意識だったのだろう。このように現在から過去へ遡る視線には、現在からの旅装はあまり要らないかもしれないが、いくつもの段階を飛び越えていかなくてはならないからたくさんの気をつけなくてはならないことが多い。


4.
 南島のほうも、稲作が入ってきて定着するのは、本土にくらべて遅い。紀元前二〇〇年ぐらいから弥生時代だといわれて、弥生は稲作を背負っているわけですが、六世紀頃からぼつぼつ稲作が南島に入っていくのです。東北のほうはもっとそれが遅れた。しかし、根っこのところでは日本列島全体にしょっちゅう往き来があったと思うんですけれども、稲作というものが入ってきたことによって、日本列島のまん中だけがものすごく沸騰してしまったんじゃないか。そういうふうにしか、ぼくには考えられないんですがね。そういう目で、日本の歴史書なんか見ると、まん中だけで展開しているという気がしてしかたがない。 (P92-P93)


5.
 とにかくそういう東北に対して、昔の歴史の言葉でいえば蝦夷征伐、東北経営をやったわけです。それと同時に、南島経営を律令体制のときにやった。南島経営の実態は蝦夷征伐ほど大規模なものではありませんけれども、『日本書紀』とか『続日本紀』というところに、南島人が大和朝廷に服属したというか、貢物をもってきたので、それぞれ御馳走して位をやったという記事が三十何か所か出てきます。そのときの南島人というのは、タネ人とかヤク人とかアマミ人、クメ人、イシガキ人とか、かなり南島の島々の名前があがっていますね。これが南島経営です。 (P94-P95)


6.
 北はどうかというと、藤原三代を亡ぼした。平泉の藤原氏です。ミイラが中尊寺に現在でも残っています。頼朝の弟の義経が逃げこんだりしましたが、それは口実であって、実際は東北が気になってしかたがなかった。それで平泉の藤原三代あるいは四代を亡ぼすことによって、東北を頼朝は手中に収めたわけです。藤原というのは、京都の公家さんの苗字を名のって、その子孫だとは言っていますけれども、この藤原氏は蝦夷ですね。やっぱり奧六郡から出てきたんですよ。 (P96)

註.
 義経討伐のことは知っていたが、この頼朝の東北に対する捉え方は初めて聴いた。なるほどと思う。島尾敏雄、鋭い。


7.
 非常に大きなところでつかまえてみても、真中のほうでは北と南に目くばりをしているということが感じられます。ですから、歴史の上でまるきりちがった経過をたどったという気がすると同時に、そうでない、日本列島がひとつの運命共同体みたいなことになっていて、なんとかまとめようとする場合には、北と南とに或るゼスチュアをうっておかないとうまくまとまらないんじゃないかという気がします。 (P99)


8.
 その尚巴志(引用者註.中山王の「しょうはし」1372-1439)のころ、沖縄の人口は十万ぐらいだということです。 (P110)

註.
 当時の沖縄や太古は、集落や社会の規模が当然ながら現在の規模とは異なるということ。


9.
 で、「きこゑおおぎみ」というのが、ノロのいちばん最高の人ですね。これは王さまの妹がなるのが、もとのかたちです。やがて王さまによっては、自分の女房を聞得大君にしたり、自分の母親をしたりするようになったこともありますが、もともとは兄が行政をつかさどり、妹が宗教をつかさどるというかたちで、これは本土のほうでも、昔はそういうかたちがあったのだという学者がおります。 (P120)

註.
 わたしはこのことは吉本さんを通して知った。たぶん、それが政治の世界で制度化される遙か以前には、小さな集落世界の(宗教的・行政的)運営方法として慣習化していたという背景があるのだと思う。そして、なぜそういうシステムになったかは、その社会のあり方と兄-妹関係の有り様として一考を要するだろう。


10.
 八九二番に入っている、『おもろさうし』の中で一番最後に作られた「おもろ」だといわれているものがあります。一六〇九年に薩摩が琉球入りをして、琉球の王さまの尚寧王を鹿児島に連れていってしまうわけです。尚寧王の王妃が、主人が帰ってこない、そのときの、さっきのことばを使えば、「うらきれて」(引用者註.「待ちわびる、なんともいえないきもち」のこと)読んだ歌です。

 一まにしが まねまね ふけば
  あんじおそいてだの
  おうねど まちよる
 又おゑちへが おゑちへど ふけば

 これは尚寧が鹿児島に連れていかれたので、それを待っていた「をなぢやらの美御前(ミオマエ)」という王妃がおつくりになった、と「御つくりめされ候おもろ」という詞書がついています。「まにし」は北のことを「にし」という。西は「いり」といいます。奄美でも「にし」が北のことです。北のことですが同時に風のことをいう。「北風がまにまに吹くと」、沖縄で北風が吹いてくると、これは鹿児島ですからね、ヤマトのほうから風が吹いてくる。北風が吹くと「あんじおそいてだの」、「あんじ」は按司(アジ)で沖縄の大名、かならずしも本土の大名とは重なりませんが、その按司を襲う、治めるところの「てだ」は太陽。沖縄の人たちは最初「てだ」とか「てだこ」で太陽のことをいっていたのが、だんだん王さまのことをまで、「てだ」というようになった。だから「按司おそいてだ」というのは王さまのことで、自分のだんなさんのことです。「おうね」は船。「北風が吹いてくると、自分の夫の王さまが乗ってくる船が来はしないかと、待っている」それだけの歌です。「おゑちへがおゑちへどふけば」は、追い風が吹けば、を反復して「まにしがまねまね」と同様にいうわけです。
 (P151-P152)


註.「てだ」(太陽)→「てだ」(王さま)への移行あるいは二重化について。白川静も同様のことを記している。自然神から人間神への移行と二重化。ある程度推測できるけど具体的にどういう経緯でそうなったのか興味がある。

 そうすると、始めは自然神の特に重要なものだけが帝であったのが、後には河も岳もですね、星もというふうにみな帝として呼ばれるようになる。最後には自分の先祖も帝として呼ぶようになる。絶対神として特別に扱われておった帝の中に、自分の先祖たちが入ってくるのであります。 
 このようにして、神話と帝王の譜、王統譜とが結合する形になる。神話と歴史とがそこで合体するのです。日本の神話は始めからそれが合体した形で出てきている。ところが、甲骨文字などの資料によってこれを検証していきますと、まずそういう祖先の系譜とは別に神話があって、神話が次第に組織されていって、そうしてそれがついに、自分の王統譜につながる形で、絶対王朝が生まれてくるのです。こうして、中国においては、殷の王統譜において、神話が王統譜の中に組み込まれるようになりました。
 (『文字講話Ⅰ』P244 白川静 平凡社ライブラリ848)






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 主流論


 自然界は別にしても、この人間世界では人と人との関係やそれらの総和としての社会の動きや歴史は、まだその本性が十分に解明されていないとしても人間の本性から個的、対的、共同的に表出されるものに規定されているはずである。見かけは個々人ばらばらの考えであったり、二昔前の社会とはまったく違った現在の社会のように見えて、そこには「主流」とも呼ぶべきものが流れている。それを主流の動向と呼ぶことができる。

 それはまた、吉本さんが使った概念で言えば、「歴史の無意識」と言ってもよい。人間の社会の動向や歴史には、そのような主流が流れているとしても、支流もある。一時的には支流に過ぎないのに政治力(強力)によって無理にゆがめたりしてそれを主流であるかのように修正し振る舞うことはできる。

 ちょうど現在の、歴史の主流に逆行する復古的なイデオロギー政権のように。その考えはわかりやすい例えで言えば、自分たちはちゃっかり便利な全自動洗濯機を使って現在の文明のもたらしたものを享受しているくせに、わたしたちには洗濯板で洗濯しろと要求しているようなものである。洗濯板は味わいがあって良いわあという個人的な好みは別にしても、もはや社会的には全自動洗濯機から洗濯板に戻ることは不可能である。それが文明の主流の必然的な動向である。

 現在の社会の段階は、やっとわたしち普通の生活者が社会の主人公になれる可能性を前面の方へ押し出している。しかし、まだまだ主人公としての物語を具体的に描けるには至っていない。今までの負の遺伝子が政治でも社会組織内でもまだまだのさばっている。

 この主流と支流の問題は、例えばケイタイの使用・不使用、手書きかワープロ書きかなど文明の過渡に浮上してくる様々な具体的な問題への人々の三つの反応類型(親和、反発、中性)としても表現されている。文明の主流の動向への退行的な反発は不安の表出から来るものだとしてもそれが主流に押し流されていくのは必然だ。

 人と人との関係や社会や歴史の動向が「主流」を避けようもなく必然とした道行きとしているというのなら、人は何も他者や社会に働きかけることなく寝転んでいればいいではないかという考えもあり得る。しかし、先に述べたように一時的にも強力によって支流をねじ曲げて主流とすることができる。

 私たちの生涯は目下100年前後で、そうした場合死後にしか訪れないかもしれない「主流」に反転するのを待ってはいられないのである。わたしたちがこの現在において足掻き、行動する所以(ゆえん)である。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






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 宮沢賢治「花壇工作」から


 宮沢賢治に「花壇工作」という小品がある。ずいぶん前に、宮沢賢治が花壇の設計や工作をしていたということをわたしが知ったとき、この小品をあわせて読んだ覚えがある。

 この小品の作者である宮沢賢治自身が、花壇の設計や工作をやっており、全集にはその設計図が残されている。この小品は、宮沢賢治の体験的なものを素材にしていると言えるだろう。ちなみに、(「宮沢賢治---Kenji-Review」第413号--2007.01.20 http://why.kenji.ne.jp/review/review413.html )によれば、以下のように宮沢賢治が実際に体験したことをもとにこの小品が書かれているという説明もある。


今回掲載の「花壇工作」は1924年におこなった花巻共立病院の花壇作りのことを書いています。この年賢治は花巻農学校の教師をしていて、詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を出版しています。

 花巻共立病院は賢治の主治医だった佐藤隆房が創立した病院です。現在は総合花巻病院という名になっています。ご子息の佐藤進氏が理事長になっておられ、数年前に宮沢賢治学会のセミナーでお話をうかがいました。



 以下、小品「花壇工作」の全文である。



おれは設計図なぞ持って行かなかった。
それは書くのが面倒なのと、もひとつは現場ですぐ工作をする誰かの式を気取ったのと、さう二っつがおれを仕事着のまゝ支那の将軍のやうにその病院の二つの棟にはさまれた緑いろした中庭にテープを持って立たせたのだ。草取りに来てゐた人も院長の車夫もレントゲンの助手もみな面白がって手伝ひに来た。そこでたちまち箱を割って拵えた小さな白い杭もでき ほうたいをとった残りの晒しの縁のまっ白な毬も出て来た。そこでおれは美しい正方形のつめくさの絨氈の上で夕方までいろいろ踊るといふのはどうだ 
(註.1)あんな単調で暑苦しい蔬菜畑の仕事にくらべていくら楽しいかしれないと考へた。それにこゝには観る人がゐた。北の二階建の方では見知りの町の人たちや富沢先生だ富沢先生だとか云って囁き合ってゐる村の人たち、南の診察室や手術室のある棟には十三才の聖女テレジアといった風の見習ひの看護婦たちが行ったり来たりしてゐたし、(註.2)それにおれはおれの創造力に充分な自信があった。けだし音楽を図形に直すことは自由であるし、おれはそこへ花で Beethoven の Fantasy を描くこともできる。さう考へた。
そこでおれはすっかり舞台に居るやうなすっきりした気持ちで四月の初めに南の建物の影が落ちて呉れ〔る〕限界を屋根を見上げて考へたり朝日や夕日で窓から花が逆光線に見えるかどうか目測したりやってから例の白いほうたいのはじで庭に二本の対角線を引かせてその方庭の中心を求めそこに一本杭を立てた。

そのとき窓に院長が立ってゐた。云った。
(どんな花を植えるのですか。)
(来春はムスカリとチュウリップです。)
(夏は)
(さうですな。まんなかをカンナとコキア、観葉種です、それから花甘藍と、あとはキャンデタフトのライラックと白で模様をとったりいろいろします。)
院長はたうたうこらえ兼ねて靴をはいて下りて来た。
(どういふ形にするのです?)
(いま考へてゐますので。)
(正方形にやりますか。)
どういふ訳か大へんにわかにその博士を三人も使ってゐる偉い医学士が興奮して早口に云った。
(A)おれはびっくりしてその顔を見た。それからまわりの窓を見た。そこの窓にはたくさんの顔がみな一様な表情を浮べてゐた。愚かな愚かな表情を、院長さんとその園芸家とどっちが頭がうごくだらうといった風の――えい糞考へても胸が悪くなる。
(えゝもう どうせまはりがかういふぐあいですから対称形より仕方ありますまい。)
おれも感応した帯電体のやうにごく早口に返事した。院長がすぐ出て行って農夫に云った。
(その中心にきれを結びつけてこゝのとこまで持って来て、さうさう それから円を描きたまへ。関口、そこへ杭をぐるっとまはすんだ。)
院長は白いきれを杭の外へまはした。
(註.3)
あゝだめだ正方形のなかの退屈な円かとおれは思った。
(向ふの建物から丁度三間距離を置いて正方形をつくりたまへ。)
(註.4)
だめだだめだ。これではどこにも音楽がない。おれの考へてゐるのは対称はとりながらごく不規則なモザイクにしてその境を一尺のみちに練瓦をジグザグに埋めてそこへまっ白な石灰をつめこむ。日がまはるたびに練瓦のジグザグな影も青く移る。あとは石炭からと鋸屑で花がなくてもひとつの模様をこさえこむ。それなのだ。もう今日はだめだ。設計図を拵えて来て院長室で二人きりで相談しなければだめだと考へた。
(A)おれはこの愉快な創造の数時間をめちゃめちゃに壊した窓のたくさんの顔をできるだけ強い表情でにらみまはした。ところが誰もおれを見てゐなかった。次におれはその憐れむべき弱い精神の学士を見た。それからあんまり過鋭な感応体おれを撲ってやりたいと思った。
 (「花壇工作」 宮沢賢治 青空文庫)




 まず、花壇を工作する園芸家も、たんなる仕事と割り切っていたとしても、その時代の流行の感じ方や考え方、つまりマス・イメージの影響下にあるだろう。さらに、この小品の「おれ」、すなわち作者宮沢賢治のように芸術的な理念を持っている場合もあるだろう。

 (註.1)によると、この小品の主人公の「おれ」は、花壇工作をしている者であるが、「単調で暑苦しい」野菜畑の仕事もしている。そして、花壇工作を楽しく晴れがましいものと見ている。

 (註.2) (註.3)(註.4)によると、「おれ」は自分の創造力に十分な自信を持っていて、花壇工作に音楽性を表現したり、自然時間の推移とともに変化する花壇の表現を考えている。つまり、「退屈」でない動的な生命感の表現を目指しているように見える。

 この「花壇工作」という小品は、上に引用した「宮沢賢治---Kenji-Review」第413号の引用文によると、1924年頃に書かれていることになり、宮沢賢治が花巻農学校を退職して「羅須地人協会」を設立した1926年の少し前に当たっている。「農民芸術概論綱要」は、本文末尾の「結論」によると1926年にに書かれていることになる。その本文中にも、「農民芸術の分野」の項目に「光象生産準志に合し 園芸営林土地設計を産む」とある。つまり、1926年に「羅須地人協会」を設立して「農民芸術概論綱要」などに表現されたようなイメージや構想を実践しようとした流れの中に、この「花壇工作」という小品は位置づけられるのではないかと思う。

 このころ宮沢賢治は、普通の大多数の人々(農民)が日々生きていく中での生命的な表現、すなわち芸術表現として、それらはひとつの総合性を持った実践的なものとしてイメージし構想していたことが窺える。花壇工作もそのようなものの一環として位置づけられていたはずである。

 (A)に見られるのは、「あんまり過鋭な感応体」である「おれ」の対人関係における鬱屈の表現であるである。こうしたことは、作者宮沢賢治が後の短かった「羅須地人協会」での実践活動や農業肥料指導などの活動でも他者との関わり合いの中で当面したことだと思われる。詩作品にも時々そうした鬱屈が表出されていたように記憶する。これらの鬱屈や怒りやあるいは沈黙は、宮沢賢治が「農民芸術概論綱要」などに表現したイメージや構想が、現実の方から試された、試練を受けたということを意味している。そうして、こういうことは、関係的な世界を本質とするこの人間界で、わたしたちの日常において、あるいは日常を超えて思い描く観念や思想において、誰もが当面する問題でもある。


※ 最初の(A)の部分の、「院長さんとその園芸家とどっちが頭がうごくだらう」の「頭が動く」という言葉にわたしは出会ったことがなかったが、これは身体的・物理的なものではなく、頭が良く働くくらいの意味であろう。






144


 表現の現在―ささいに見える問題から 25 (言葉の理解ということ)


 同時代に表現された言葉を聴いて理解したり、読み進め理解していくということは、たやすい場合もあれば難しい場合もあります。話し言葉でも書き言葉でも、例えば展覧会の案内(文)などの事務的な場合は、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の概念を借りれば「指示表出」中心だから、日時、場所、期間などが中心で理解が困難ということはありません。もちろん事務的と言っても、お役所への提出書類などでは記入例が書いてあっても一般に煩雑で、何のためにこんな面倒なことをさせるのだろうかと記入を求める書類に理解しがたい思いを抱くことはあります。また、数学や生物学や経済学など専門性を要求する学問の各領域の文章では、「指示表出」中心と言ってもその専門性に通じていない素人には理解が難しいということがあります。

 それ以外で、一般に理解が難しい場合は、「自己表出」中心の個や作者の固有の考え方が込められた表現を理解する場合です。次に挙げる作品は、作者の固有のものの感じ方や考え方といっても、今を生きる人々の大多数がそう感じ考えるようなこと(「マス・イメージ」)が基になっています。もちろん、それらのマス・イメージを意識的にか無意識的にか借りてきているとしても、作品の言葉として選択し構成するのは、固有の作者です。


1.輝いてますねと言ってムッとされ (2017.9.24)

2.読まぬまま同意に慣れて怖いなあ (2017.9.25)

3.レジの娘(こ)が知り合いなので買えぬ本 (2017.9.25)
         (万能川柳 毎日新聞)



 1.は、相手がスポーツか何かの仕事かはわからないけれど、活躍したのをあなたは「輝いてますね」と「私」がほめたけれど、相手は自分の頭がハゲていることにも触れられたような気がしてムッとしたということだろう。ちょっととってつけたようで笑いをねらったようなところがある作品です。
 背景に、ハゲていることを気にしない人もいるだろうが、頭がハゲているのを気にしている人々には、それを思い起こさせるような言葉をかけた時の反応というマス・イメージがあります。

 2.は、各種保険などの契約時に示される文書やネットでの同意を求める文書のことで、それは読む気も失せるほど長ったらしく固い言葉だから、めんどくさくて「読まぬまま同意」することがほとんどでしょう。私の場合もそうです。この作者は、そんなおそらく多数がそのようにしている行動をマス・イメージとして想像しています。そして、その行動を「怖いなあ」と感じています。わたしの場合は、同意を求める相手が信用を損なうはずがないだろうという思いからそんな「怖い」を抱いたことはありません。しかし、本当にそうだろうかと考えを詰めていけば、そういう「怖い」可能性も完全には否定できません。世の中には「オレオレ詐欺」などというものもありますから、思ってもみないようなことが起こることがあり得ます。だから、わたしたちの日常での他の似たような何気ない承認行動をはっと内省させるようなものを持っています。

 3.は、「わたし」は若い男でしょうか、知り合いの若い女性がコンビニで働いていて、しかもレジにいるから、恥ずかしくて「本」が買えないなという作品です。この「本」は当然エロ本のことを指しているでしょう。

 これらの作品を表現した作者もそうですが、わたしたち読者が作品の指し示すもの(「指示表出」)を理解するのは、同時代に生きてきてそれらのマス・イメージやその具体的な体験に何度か出会っているからです。そういう「指示表出」の下で、マス・イメージと分離しにくいですが作者固有の感じや考え、言いかえると「自己表出」が言葉の選択や構成によって作品に織り込まれています。

 したがって、逆に言えば、ちがったマス・イメージの世界である外国に長らく生活していて帰って来たばかりの青年は、書き言葉の日本語がわかったとしても、それらの作品の背景にあるマス・イメージを知らないから作品の意味をつかむのは難しいでしょう。また、この日本で生まれ育ったとしても、2.の作品ような経験の無い少年ならその作品は何を言っているかわからないでしょう。

 このように、わたしたちは、自分の考えとか自分の個性とか自分独自のファッションとか言ったりしますが、どこかにそれらの出処がマス・イメージとしてあることがほとんどでしょう。それらをそのまま借りてきても月並みで感動に乏しいですから、マス・イメージを自分(作者)でよくよく咀嚼し自分なりの感じや判断を自分独自の色合いのように塗り上げていくのでしょう。






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 過去の資料をどう読むか―江戸期の農書「郷鏡」より


 この「郷鏡」にはもうずいぶん前に出会っていた。十年以上前にはなると思う。ただ、それをどのように理解すべきかよくわからなかった。この農書「郷鏡」の著者は誰であるかわかっていないらしいが、文面からすれば農業の経験もあって農業の技術指導ができる佐賀鍋島藩の役人であろうと推測される。詩人の伊東静雄の故郷でもあり、近くは有明海の干拓事業で知られている長崎県諫早市が舞台となっている。江戸期には、諫早は佐賀鍋島藩の支配の下「佐賀藩諫早領」として存在したらしい。「郷鏡」から現代語訳された方を引用してみる。


1.
 また、わらで縄をなうには、すぼ(みご)を抜いてなえばよろしいが、すぼの抜き方も知らないのか、わらの上に搗き臼 (つきうす)を置いて、穂頭をもって抜いているという。すぼを抜くには、慣れた者は、わら一把を地上に置いて足で踏まえ、穂先を手にとって拍子をつけて抜けば、だいたい七、八割は抜けるのである。あとに残ったものは再び前の方法で抜けば、すぼは残らず抜き取れるのである。

 このようなことを教えても、慣れていないためか聞き入れず、やってみようともしない。すべて諫早の風習として、世間の動きに敏感でなく、物にこだわり、保守的な気風が強いため、農業においても工夫や研究を重ねて便利よくするということは決してしないものである。

 たといよい方法をいい聞かせて「なるほどよいやり方だ」と思っても、帰ってからそれを実行してみることはしない。一般に田畑の仕事をおろそかにして手入れをまめにしないので、それだけ作物の収量も少なくなっているのに、なぜ田畑の作物の出来がよくないかということに気づかない者ばかりである。そのうち、まれに農業に精出す者があって、多くの収量をあげるのをみても、これをうらやむということもない。

 稲を刈っても田の中に積み重ねて、水はけをよくするための溝を作ることもせず、雨が降って稲が水に浸って腐りかけてもいっこうに気にしない。また、低いところに刈り置いたものなどが雨水に浸って浮いていたりしても、三又の稲架など立てて掛けるということもしない。長く水に浸ったままだと発芽してしまうのに放っておいて、精米して米にした後で気づいて「雨のために発芽して品質が悪くなってしまった」などとぼやくのが関の山である。愚かなものとはいいながらもまことに情けないことではないか。前もって充分な手だてを講じておかないで後で嘆いてもはじまらない。これは稲作りについてばかりではない。なにごとにも当てはまることである。
 (「郷鏡」(肥前)現代語訳 P98-P99 『日本農書全集 11』 農山漁村文化協会)


2.
 諫早は米が少なく、収穫した米は、畑の年貢まで米で納めるから不足しがちなので、百姓の一年間の主食の大部分は甘藷(引用者註.「かんしょ」は、サツマイモのこと)で済ませている。そのため、これが不作であればみんなが大いに困ることになる。およそ、一年のうち八月ころから翌年四、五月ころまでは甘藷を主食にし、五月から七、八月までは麦を主食としている。そのうち、粟、そばなどを利用することもあるが、麦、甘藷が主な食糧である。
 (「同上」現代語訳 P111)


3.
 一、夏大豆および小豆は、八十八夜(引用者註.立春から数えて88日目の、5月2日頃)に播種する。一反当たりの播種量は、大豆四升、小豆は一升くらいである。畦畔の大豆は、五月中ごろまでに播種し、秋大豆は夏の土用の二十日ばかり前に播種する。また、そら豆(諫早ではこれを夏豆という)は、八月の彼岸すぎてから播きつける。

 これらの作物のなかでは夏大豆を主として作付けしているが、これは年貢の不足する分を大豆で補い、また、いろいろな出費をまかなうものなので、栽培しないと困るものである。しかし、どの豆を作った場合でも、播種したままで除草も施肥も行なわないので、収量は少ない。

 これは諫早の古くからの悪い習慣であって、草を取り、畦間をけずって手入れをするようにいい聞かせても、そのとおりにしようとする者はいない。このため、長い期間降雨がなくて日照りになれば、豆の葉は豆の葉はしおれていたみ、はなはだしいときは枯れることもある。このようなとき、他領では水かけ用の桶などを使ってときどき水をかけているが、このあたりでは、このようなことを思いつく者もいない。・・・中略・・・

 総じて、このあたりでは豆の葉をとり、これを乾燥して家畜の飼料にするため、豆の実が入って葉が黄色になりかかったころ葉を刈り取っている。葉をとったものは、葉をとらずにそのままおいた豆と比較すれば、実入りが悪いという。しかし、馬を飼うために飼料が不足するので、仕方なく葉をとって貯蔵するのである。また、ところによっては、豆の葉が繁茂することをきらい、上部を鎌で刈って摘心すれば枝が出て収量が多くなる、といって刈ることがある。しかし、葉を刈るころになれば、子実になる花はすでに内側にできているので、刈ったとしても特に花が増加するわけではない。自然の生長に応じて、よく管理して収穫するほうがよいだろう。
 (「同上」現代語訳 P113-P115)



 この「郷鏡」の著者は農民に対して農業の指導やアドバイスをしていたようだが、一方の農民の言葉はここには全く出てこない。ただし、引用文3.の「豆の葉をとり、これを乾燥して家畜の飼料にするため」というところに、なぜ農民たちがそうするのかということが触れられているのみである。

 わたしは、この文章から連想したことがある。この著者と農民の関係は、現在に置き換えてみると、学校の先生と生徒、知識人や国の官僚とわたしたち普通の生活者や中小企業の経営者、など現在に置き換えて見ることができそうだ。そういう関係の中では、生徒や普通の生活者の内心のほんとうの言葉がそういう公的なよそ行きの場ではほとんど発せられることはないから、先生や官僚などの言葉がのさばることになる。そうすると、その「郷鏡」という表現の位置もはっきりしてくるように見える。

 そういう視点でこの農書「郷鏡」を読むと、なるほど農民たちはそんな農の工夫もせずに怠惰な生活を送っているのかという視線とは別のものが浮上してくるかもしれない。ただ、当時の農民たちはここでは何も語っていないから、現在のわたしたちは現在の関係の実感から想像力を働かせるほかない。しかし、この「郷鏡」をそのまま読んでいくと、割と最新の農の技術に通じている著者に対して、この地の農民たちはなんと遅れているのだ、非効率的で怠惰な生活をしているのだという感想が大勢を占めそうな気がする。わたしも説得されそうになった。そのことは現在の知識人や官僚たちの言葉についても同様であろう。

 まず、引用文の2.が諫早のある地域の多数の普通の人々である「百姓」の食生活に触れている。この著者は、武士であろうから農民から年貢として収奪した米をほとんど毎日食べていたのだろうか。武士でなくても、江戸の庶民の食事にはごはんが出ていたそうである。したがって、その食事内容にも地域差があったようだ。しかし、この地では祭りの時は別だろうが米はほとんど食べていないように見える。

 わたしたちは現在の生活(食生活)を無意識にでも携えて江戸期のこの地域の場面に下りて行こうとする。そして、たいへんな食生活だなと思ったりするかもしれない。また、米の食事が出来る武士階層でも現在の生活(食生活)の視線からすればずいぶん質素な食事であることがわかっている。しかし、武士階層に年貢として収奪されるということの内側の、その当時の生活世界の内部では、飢饉の時とかは別としても、現在のわたしたちの食生活と似て、それなりの食事の工夫や満足感を持っていたろうと思われる。かれらには遠い未来のわたしたちの現在は不明であるからである。どうしてこういうことに触れるかといえば、できるだけ当時のこの地域の実相に迫りたいからである。と同時に、わたしたちの現在の世界に対しても、同様な視線で迫ってみたいと思うからである。

 わたしの家はわたしが小さい頃兼業農家であり、また高度経済成長以前で現在のような消費社会ではなかったから、まだ自給自足的な要素が残っていて、例えば、農作業に活用する縄は稲を収穫したワラを材料にして編んでいた。わたしも小さい頃、遊び程度だったか手伝いだったかは忘れてしまったけれど、「わらで縄をなう」ということを何度かした覚えがある。わらをそのままなうのではなく、1.にあるようになんらかの下処理をしたワラを使って縄をなっていたと思う。この著者が刈り取った稲の乾かし方で述べるように、確かに水に濡れたような粗悪なワラは縄の良い材料にもならない。この著者の言うことは、確かにわかる。

 しかし、引用部の1.3.からは、この著者の視線の特色が現れている。この地域の農民は、元来頑迷なまでに保守的で、他の地域の農民と比べても農においての工夫をして生活を良くしようとする姿勢が感じられない、という「遅れた啓蒙すべき農民」というイメージである。この「郷鏡」全体から著者の姿は浮かび上がってくる。たしかにこの著者は農民たちの「幸」を願っているが、そのことは同時に良い品質の米や作物を作り、もっと収量を上げるように工夫し勤勉に働くべしという治者の視線と二重化している。

 ちなみに、当時の絶えず飢饉の恐怖がある時代と現在をそのまま比較はできないとしても、この「郷鏡」の作者が当時の農民に向けた眼差しは、例えばわたしが趣味のようなものとして農作物を少しばかり育てているのに向けられるであろう眼差しと同一のように思う。著者によると当時の農民は「農の感動」など無縁なような、工夫しない怠惰な存在として描写されている。当時の農民たちも農に出て、あるいは秋の収穫で、しみじみと「農の感動」を味わったに違いない。ちょうど、現在の子どもたちが知識を詰め込んで成績向上のためだけに存在しているわけではなく、また、わたしたち生活者がたんに仕事のためだけに存在しているのではないのと同様に。農政学者でもあった柳田国男は「農の感動」にどこかで触れていた。わたしはその言葉に出会ってびっくりした。あまりにもそういうことに触れ得ない知の世界ばかりだからである。こういう言葉を内に秘めていない、農業学や経済学や思想などの学問や学者は信じるに足りないとわたしは思っている。

 上にこの「郷鏡」の著者と農民という関係を、学校での先生と生徒、市民社会での知識人や官僚と普通の生活者という関係の構造と類比して考えてみたが、そこにおいて現在でも「遅れた啓蒙すべき」というイメージは、主流に底流しているように見える。学校の先生なら、自分が他所の学校にいた時のその進学校の生徒の積極的で勤勉な姿勢と比べてこの学校の生徒は何なんだと言う場合がありそうに思う。官僚が地域の説明会などで一見ていねいな役人言葉で語り、内心人々の無知を批判しているかもしれない。

 まず、この「郷鏡」が書かれた江戸期の、佐賀藩から諫早に渡る当時の著者(武家層、役人)と農民たちの関係の風景があり、そしてそれに眼差しを向ける現在のわたしたちがいる。当時の風景を具体性のイメージとともに思い浮かべることはとても困難である。しかし、ここで述べてきたように、現在にもそのような関係の構造は連続しているから、現在の関係の構造から逆に当時の「郷鏡」を現在的に読むことが可能だと思う。

 現在の主流に居座っているように見える欧米的なグローバリスト・新自由主義者たちの知識層や官僚は、効率・工夫・収量などにおいてこの著者と類比的に同一であり、かれらの視線から見て効率・工夫・収量などへの意識で劣っていて啓蒙されるべき生徒や普通の生活者は当時の農民に類比的に同一であると言える。このように理解するならば、「郷鏡」を現在的に読んだと言えるのではないかと思う。






146


 表現の現在―ささいに見える問題から 26 (町田康『スピンクの笑顔』より)


 町田康は、猫を飼っていて猫に関する本を出していた。あるときから犬も自宅に飼うようになり、犬が登場する本も書き始めた。本書はその犬のスピンクシリーズの4冊目で最終巻だという。次のような箇所がある。



 1.

 (引用者註.自宅にポチと呼ばれている人間の主人とその妻の美徴さん、そして犬たちがいる。自宅の天窓からの朝の光が差していて、しだいに暑くなってきてまずいのではないかと語り手でもある犬のスピンクが考えて) 
 そうなると面倒なので、私はポチに念波を送りました。ポチが、「おっ、なんか暑いのお。日除けのテントを張り出そう」とまるで自分が思ったように思わせるためです。こういうことをポチは雑誌の談話取材などで、「犬とは心が通じるからおもしろい」などと言っています。
 ところがどうしたことでしょう。ポチはまったくそれに気がつかず、まるでフグのような顔をして夢中で本を読み耽っています。
 そんなにおもしろい本なのか。ならば仕方がない。言葉で言うしかない。と、立ち上がって太い声で、「湾」と言いました。それでもポチは本を読むのをよしません。そこで、もう一度、「椀」と言ってやると、ようやっと、「なんやねん、スピンク、うるさいのお」と言って本を置き、私のところにやってくると、私の頭と背を撫でるので、さらにもう一度、「王」と言うと、ようやっと、美徴さんに向かって、「これなにを言ってるかわかんないんだけど、なんかさあ、暑くない」と言い、日除けのテントを張り出しに行きました。
 ( 『スピンクの笑顔』P30-P31 町田康 講談社 2017.10月)


 2.

 ポチは見るからに頼りない足取りで遠ざかっていき、やがて石浜の先の、岩の連なりに取り付くと、ますます危なっかしい足取りで突端に向かい、やがて見えなくなりました。
 ポチはなかなか戻ってきませんでした。私はポチが足を滑らせて海中に没してしまったのではないか。そして、岩場に取り付くことができず、海中でアップアップしているのではないか。そんなことを思って心配になり、座り直して、美徴さんの目を凝(じっ)と見て、ワン、と太い声で吠えました。
 ちょっと様子を見にいってやったらどうだ。と言ったのです。
 しかし、美徴さんは、その意味するところを了知せず、スマートホンを弄(いじ)くっています。そこで、もう一度、ワン、と言い、少し間を置いて、立ち上がり、後ろ足をジタジタしながら、ワン、ワン、ワン、ワン、と立て続けに吠えました。
 そうしてようやっと美徴さんは目を離し、そして言いました。
「う-るさい」
 ショボボボホン。尻尾が一気に下がって、口がアクアクしました。
 そのときキューティーが海の方に向かって吠えました。
 振り返ると、ポチが石浜をよろよろ歩いていました。私はうれしくなって、また、ワン、と吠えました。キューティーもポチを呼ぶように、ワンワン、と吠えました。それを見た美徴さんは、今度は怒らずに、「よかったねぇ、スピンク。ポチ、帰ってきたねぇ」と言いました。
 私は美徴さんを見あげ、「よかったね、帰ってきたね」と言いました。キューティーの尻尾が左右にパタパタ揺れていました。
 ( 『同上』P118-P119)




 この作品は、作者を彷彿とさせるポチと呼ばれている作家の主人とその妻の美徴さん、そこに飼われている三匹の犬、スピンク、キューティー、シード(作品の終わり辺りでもう一匹やってくる)や猫たちの物語である。ここでは猫たちはほとんど登場しない。そして、夏目漱石の『吾輩は猫である』と同様に動物が語り手になっている。犬のスピンクが語り手の作品である。

 この作品も夏目漱石の『吾輩は猫である』という作品を無意識的な前提や参照として作られているのかもしれない。そして近代からさかのぼってそれ以上のつながりはよく見えないけれども、たとえばアイヌの神話には動物が語り手になる一人称の物語がある。(知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』には、「梟の神の自ら歌った謡」がある)また、柳田国男の『雪国の春』の「語り部の零落」の章には遙か昔の神話やその語りを常民の視点から捉えた文章もある。現代や近代からはそのような遙か昔の世界は一般にもやがかかった不明の世界に見えるはずであるが、そのような世界につながりをつけることは可能だと思うし、つながりはつけられるべきだと思う。メモ程度に記しておくだけにしてここでは触れない。

 ところで、この作品では、作者を彷彿とさせるポチと呼ばれている作家の主人は少し犬のような性格を持っているとされ、語り手の犬のスピンクと主人のポチは気持ちや意思や考えていることを念のような形で交わし合うことができるとされている。そして、この作品自体が語り手のスピンクが語ることを主人のポチに「念波を送り」、主人のポチが書いているとされている。また、犬同士は、気持ちや意思や考えていることを交わし合うことができるとされている。

 しかし、人間と犬の関係の有り様は、普通は引用部「2.」にポチと美徴さんとのやりとりとして描写されているようなものが、わたしたちには自然なものと見えるだろうと思う。したがって、上に記したような作品の設定は、夏目漱石の『吾輩は猫である』の語り手である猫の設定と同様に、設定とその展開する作品世界に読者が面白みを感じることはあっても、設定自体をあり得る現実性と見ることはないはずだ。

 しかし、この作品は、たぶん作者にとっては、この作品の設定自体が現実味を十分に持つと感じられるような、犬たちとの交流の日々の物語であり、また普通の作品ではやりにくい、語り手の犬のスピンクを通した視線による作者の批評、つまり作者の自己批評の物語にもなっている。犬や猫を飼い、いっしょに日々を過ごしている人々とそうじゃない人々との間には、感じたり見えたりする世界の違いがあるように思われる。犬や猫などの動物と無縁に日々生活している読者なら、この作品の設定に対して、そんな馬鹿なことはないよなと思いながら、作者町田康の独特の語りの世界に入り込んで行き、いつしかその設定にも慣れていくという風になるのだろうと思われる。

 引用部「2.」のポチと美徴さんとのやりとりは、「ちょっと様子を見にいってやったらどうだ。と言ったのです。」という部分があるとしても、だいたい普通のレベルの人と犬との関わり合いの描写になっている。犬を飼っている人なら、この引用部「2.」の場面のように犬の発する「ワン」にはいろんな犬の気持ちや考えが込められているとわかるはずである。

 ところで、引用部「1.」の描写は、引用部「2.」の描写とは少し違っている。
 語り手のスピンクが、主人のポチに「念波を送」るのは気持ちや考えを交わし合うことができると見ているからだ。そのような描写がなされるのは当然のこととして、この作品に対して現実的に言えば、作者も作者の分身である主人のポチ同様「犬とは心が通じるからおもしろい」と思っており、人間は犬や猫と気持ちや考えを交わし合うことができると考えているからだ。しかし、「これなにを言ってるかわかんないんだけど」とあるように、人と犬との気持ちや考えを交わし合うのもいつもうまくいくとは限らない。

 ここで、興味深いのはスピンクが、「ワン」とは言わずに、「湾」、「椀」、「王」と言っていることである。これを作者が作中で時折見せる言葉遊びのようなものと見なさないとすれば、どう理解できるだろうか。

 犬の同じ「ワン」でも込められた気持ちや指し示す意味において、異なることがあるということはなんとなくわかる。しかし、その違いを読み取ることは難しいと思う。我が家には野良猫出身の雌の猫が二匹いる。一方の猫はほとんど鳴かない猫だけどもう一方の年上の白猫の方はよく「みゃあ」と鳴く。この猫とは七年くらいつきあっているけど、そのいろんな区別がありそうな「みゃあ」を読み解くことはできない。つまり猫の気持ちや指示しているものがよくわからない。

 猫や犬同士は、「みゃあ」とか「ワン」とかしか鳴かないのに、どうやって気持ちや考えを伝え合っているのだろうかとわたしはふしぎに思うことがある。ここでの「湾」、「椀」、「王」という区別は、語り手のスピンクが、主人のポチに「日除けのテントを張り出し」てほしいということを訴えている表現の言葉になっており、その過程での言葉の強弱を示しているように見える。だから、「ワンワンワン」と「ワンワン」と「ワン」の区別の表現と同じものと見なすことができると思う。

 ところで、「ワン」とは言わずに、「湾」、「椀」、「王」と言っていることで思い出したことがある。これを人間世界の人間的な表現と見なせば同様のことがある。たとえばおなじ「馬鹿」という言葉でも、親愛の情がこもった場合もあれば、相手を軽く責める場合、あるいは相手をきつく批判する場合もある。そして、そのいずれの表現であるかは、その場の状況や前後の話の流れ(書き言葉であれば文脈)によって判断することができる。書き言葉では、「馬鹿」は「バカ」や「ばか」というちがう表記はあっても、上の「ワン」のようにかき分けることはしない。話し言葉の場合には、語調の強弱などで区別がなされている。

 また、以下の文章によれば、現在では「母」や「叔母」などと区別されているけれど、遙か昔、あるいは近代に残存していた未開的な社会では、それらを同じ「母」という言葉で表現していたということがあったらしい。この作品で同じ「ワン」でも、「湾」、「椀」、「王」と区別した表現をしたように、同じ「母」でも、たとえば「ハハ」「ハーハ」「ハハー」のように区別していたのだろう。おそらく、言葉ははじまりの単純さから、しだいに分化して複雑化してきたのであろうということは一般に想像できることである。その過程には、死語と流行語など、いわば言葉の死や誕生や再生の物語も含まれていたはずである。



では子どもにとって実の「母」や実の「父」と親族組織がひろがっていったために 「母」とは(引用者註.ママ 「とか」か)「父」とか呼ばれることになる母方の兄弟(伯叔父)や姉妹(伯叔母)はおなじ呼称なのにどう区別されるのだろうか。マリノウスキーによれば、おなじ「父」 や「母」と呼ばれても、実の「父」「母」と氏族の「父」たちや「母」たちとでは感情的な抑揚や前後の関係の言いまわしによって呼び方のニュアンスがちがい、原住民はそれが実の「父」や「母」を呼んでいるのか、氏族の「父」たちや「母」たちのことか手易く知り分けることができると述べている。またこの地域の原住民の言葉(マラヨ・ポリネシアン系)には同音異義語がおおいのだが、それは民族語として語彙が貧弱なためでも、未発達で粗雑なためでもない。おおくの同音異義語は比喩の関係にあって、直喩とか暗喩とかはつまりは言語の呪術的な機能を語るものだと述べている。 わたしたちがマリノウスキーの考察に卓抜さを感じるのはこういう個所だ。たとえば「母」という言葉は、はじめはほんとの「母」にだけ使われる言葉だった。それがやがて「母」の姉妹にまで使われることになった。これは子どもの「母」の姉妹にたいする社会的な関係がほんとの「母」にたいする関係と同一になりうることを暗喩することにもなっている。そこでこのふたつの「母」を区別するために「母」という呼び方の感情的な抑揚を微妙に変えることにする。これによってほんとの「母」と、「母」の姉妹との社会的同一性とじっさいの差異を微妙にあらわし区別することになる。子どもの世代がこの同一性と差異に耐えられないほどの社会的な関係の変化やずれを体験したとき別称がはじめて実際の場面で登場しなくてはならない。
 (「ハイ・イメージ論9」の「贈与論」P7-P8 『吉本隆明資料集115』 猫々堂 2012年5月)



 この最後の部分の「別称」の登場については、たぶん関連すると思われる個人的な体験がある。わたしたちは、今はもう忘れてしまっているとしてもとても小さい頃の母親の呼び方を持っていたはずである。そして、その呼び方が生涯続いていくとは考えられない。どこかで「別称」を誰もが体験するのではないだろうか。私の場合は、思春期と言われる時期に「別称」に変更した覚えがある。家族の外の世界に出たこともあり、思春期という時期でもあり、気恥ずかしくなって今までの母の呼び方を変えたのだったと思う。






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 (わたしがネット上で呼びかけを開始した「消費を控える活動」のしめくくり)


 吉本さんのこの現在の社会の段階と現状の分析から提案された「おくりもの」を、わたし(たち)が生かさなくってなんの思想ぞ、なんの行動ぞ、とふと湧き上がった思いから、わたしが今までにない危機感を感じていたこの復古カビカビ政権に対するリコール運動としての「消費を控える活動」を主にネットという舞台で開始しました。

 実際の活動に入り込んだのは、「普通の人」がものを書き始めるとき「作家」に変身して作品世界を築いていくように、私の場合は、「余計なことを考える人」としてのわたしから「普通の生活者」としてのわたしに変身して具体的な提案の行動に入っていきました。もちろん、少し前に公人ー私人問題がありましたが、同一人物なのに「公人」や「私人」の名札をその都度付け替えるとかいうことはありませんから、なかなか明確に区別しにくい場面もあるように思われます。わたしの場合も、その区別が揺らいだ場面もあったかもしれません。しかし、心づもりや原則としては、ふだんのゆったりやのんびりやいい加減なところもあるわたしの生活からちょっとはみ出た、少し意識的な「普通の生活者」に変身しようとしたつもりです。つまり、少し生真面目に他の生活者に手を差し出したということになります。

 「消費を控える活動」の開始は、2014年8月でした。途中少し休止もしました。また、考え続けるということは持続していましたが、ここ一年くらいは何ら目に見える活動はしていませんでした。その最初あたりから薄々は感じ取っていました。つまり、我が国が先進中国や先進欧米の大波を被ってきてはいても、この列島の数千年に及ぶわたしたち住民の心性や行動の遺伝的なものは、アフリカや西アジアの「民主化運動」を促した心性とは異なっていて、良くも悪くも温暖気候型だということ、この根強い遺伝的なものがそうやすやすと変わることはないだろうということ。それに、わたしは経験していないけど、一度安保闘争や大学闘争などのラジカルな社会運動の正と負とを経験した以後の、高度消費社会へと変質した社会に現在はあるということ。そんな思いはありました。

 しかし、このSNSを通した「消費を控える活動」の呼びかけは、ある指揮系統を持ってデモや署名活動や集会などの形式をとる旧来的な社会運動に比べて、より自由度を持つ未来性のある興味深い運動だという思いは、今でも変わりません。これは太古の小さな集落で「その件はどうしようかね?」というような集落の寄り合いや集会の状況をネットやSNSが仮想的に用意してくれています。つまり、わたしたち住民が、仮想的な世界を仲立ちとして社会や政治に意識的な眼差しを向けある意思を集約することができるのではないかということが可能性として浮上してきていますが、わたしたち生活者はまだそのことを十分に自覚できていないように見えます。したがって、その具体的な道筋も未知だと思います。もちろん、ネットやSNSを利用する人々も多くなってきているだろうとは思いますが、どれくらいの人々がこの仮想世界に出入りしているかも押さえる必要があります。

 たぶん、この社会のいろんな小社会や集団の中で、いろんな分野で未来性を持った新たな芽が出ているのかもしれません。現在は、大きな声でかつ空疎な言葉が依然としてこの社会に瀰漫(びまん)してはいても、大きな声の言葉ではなく、個の身の丈に合った小さな言葉こそが、つまり吉本さんの言う「三人以上いれば」(註1)の世界の言葉が、未来性につながっていく芽を持ちうるのだと思います。そしてそのような身の丈のものはまた、わたしたち大多数の生活者が無意識のうちに願っている心や意識のベクトルでもあると思われます。

 この現在の政権がずるずる居座り続けているから、個人的には継続しているわたしの「消費を控える活動」のしめくくりも、自然とのびのびになってしまいました。何ら歯が立たなかったようなわたしの活動からこの「三人以上いれば」の世界へのわたしの撤収は、たいしたことはできなかった「消費を控える活動」のしめくくりです。

 大多数の生活者が、自分や自分の家族のための生活防衛として取っている消費の引き締めの行動は、悪政や将来の不安から来る無意識的な防衛反応と見なせると思います。わたしは、ただその無意識的な行動を意識的なものに転位させたかっただけです。そしてその気持ちの中には、わたしたちの現在まで数千年に及ぶこの列島民の負の遺伝子(思っていることをきちんと筋道立てて言わないとか他に対して余計な遠慮をするとか政治がいい加減でもなかなか声を上げないなど)を当然ながら意識していました。つまり、そうとう大変なものであるということは自覚していました。

 ほんとうに素人のわたしが主にネット上で始めた「消費を控える活動」は、なんかよく見えないような打ち上げ花火に終わりましたが、わたしにとってはいろいろと考えさせられるものがありました。SNSなどを通じた仮想的なものであったとしても割と抽象的な〈社会〉の場に出て自分の存在をその大気や風圧にさらしている感じがありました。それは今も続いていますが、それまで特に文学以外のことはいろいろいいかげんにスルーしてきたことどもを今までになくまじめに考えることを強いられてきたと思います。そして、そのような「余計なことを考える人」としてのわたしがいろいろ考えたことを、少し意識的な「普通の生活者」としてのわたしにつなげて、もっと具体的な行動をいろいろと練る必要があったと思いますが、そのことはあまりできなかったように思います。ひとつ考えたのは、もっと簡潔なわかりやすい言葉にして「消費を控える活動」の提案の文章を書き換えようと考えましたが、難しいなと感じてそこまではいけませんでした。(我が国の知識も言葉も、遙か太古から知識層や政治世界の知識や言葉と生活世界の知識や言葉との間に大きな断層を持っていますから、わたしたちはこういう配慮を強いられています。)

 という次第で、個人的には意識的な「消費を控える活動」はこれからも継続していきますが、他の人々に呼びかける「消費を控える活動」は、休止します。そして、「三人以上いれば」の世界へ帰って行きたいと思います。

 依然として、根の浅い「右や左」「リベラルや保守」などの不毛な概念が社会に飛び交っていますが、それらはわたしたちの生活世界の諸課題を隠蔽するものでしかない、不毛な死んだ概念だと思います。この列島社会では、その生活世界自体から出立し、そこをよりどころに思想を構成し、また生活世界に帰って行くというような、漱石に習えば〈生活者本位〉の生活思想や政治が生み出されたことは未だかつてほとんどありません。わたしたちは、依然として外来のイデオロギーや思想、あるいは敗戦で一度死んだ復古思想やイデオロギーを接ぎ木して政治や思想や教育などを得意げに語る者たちが大きな声を出しているという不毛の風景に立ち会わされています。また元「民進党の右派」のような「安全保障」や「軍事」ばかりを語る者は、政治経済の構想もなく国内政治の諸課題からの逃げや隠蔽でしかないように見えます。大体、現政権の北朝鮮への煽り行動や自治体のミサイル避難訓練(?)という茶番は、国内向けのものでわたしたちの意識を一つの方向に統合しようとするもの以外ではありません。こんな風にして政治や行政は、普通の人々が抗い難い形で社会にくさびを打っていくんだということをわたしたちは目の当たりにしています。政治がどのように作為や成果の誇大宣伝をしようとも、わたしたち大多数の生活者の意識や生活こそが主流なのだという認識と対応を持たないならば、家計消費がGNPの過半を占める現状では特に、そのような政治は必ずしっぺ返しを食らうはずです。

 「消費を控える活動」は、それらを蹴散らすことをも意味しましたが、今度は、それらに私の内心で密かに対峙し続けることになると思います。

 少数の賛同していただいた方々、ありがとうございました。

(最近、パソコンが急に壊れてしまって、わたしが一部記憶している以外は、誰がツイッターでRTや賛同をしてくださったかなどがよくわかりません。したがって、一般的な挨拶とします。)
    西村 2017.12.14



(註1) 「三人以上いれば」については、

http://dbyoshimoto.web.fc2.com/DBYOSIMO/INDEX02.htm

(「データベース・吉本隆明を読む」の項目469と473)参照。






148


 現在をイメージ化するための覚書 (1) ―経済生活の状況から


 1970年代の「一億総中流」と言われた時代から、確かにわたしたちの経済状況が悪化してきています。(註.1)大多数が実感としてあると思います。それは失政や意図的な悪政というほかないものによって引き起こされているはずですが、わたしたちは社会の具体的な場では個々に具体的に生活防衛するほかありません。

 ほんとうはわたしたち生活者が政権を蹴り落とすくらいの政治性を発揮すべきだと思いますが、政党や政治の液状化現象でわたしたちの〈代理〉がよく見えないという政治の状況もあるように思います。

 わたしも「吉本さんが生活者の経済的な力を指摘した頃とはずいぶんと状況が違ってきているという気が」しました。だからあんまり「選択消費」を前面に出すことはしなかったと思います。しかし、いずれにしても二昔前の身近なもので間に合わせという自給的な生活は払底されてしまって、現在は、お金を出して消費して物やサービスを購入するしかない高度消費社会になってしまいました。逆に言えば、広告あふれる社会になってしまっているように、企業は商品やサービスを買ってもらえないと存立できないことになります。知らぬ間にこういう社会になってしまいました。わたしたちはまだ一昔前の自給性の名残を持った、高度経済成長以前の社会を見知っていますから、こういう社会は少し驚きがあります。しかし、現在の子どもたちはもはやそれが自然、当然となっているはずです。

 こういう相互関係では、家計の状況が悪化して現在は自らの身を切るように家計消費の必需消費が抑えられていると思いますが、消費を控えることは有意味だと思っています。その消費を控えることを意識的なものに転位させることができれば、政権や政治はさらに恐れおののくと思います。安倍晋三が選挙前だったか「ていねいに・・説明していきます」とか口先だけを言っていましたが、これは公衆にさらされていることからの恐れからきているはずです。

 わたしたち生活者がまとまって何か表現するということ、つまり生活者の政治性の表現は、選挙以外には思い当たるものがほとんどありません。わたしたちの経済状況が逼迫してきている状況で、政治がその悪影響を読み取り内省した行動を取らない限り、わたしたちの日々の具体的な行動による政治的な表現は、必要だと思っています。(しかし、その行動の現実化はむずかしそうです。) 「消費を控える」ということは、現在の高度消費社会の生活者と企業等との相互関係が押し出してきた表現や行動のイメージを本質とするものであって、家計状況の良し悪しとはとりあえず直接は関わらないと考えています。ただ、具体的に表現する場合の威力の差はあると思います。

 こうしたこととは別に、わたしたち生活者の経済状況や現在に至る推移をたどることは必要だと思っています。何回か訪れたことがありますが、政府の資料は、ていねいなんだけど、煩雑でわかりにくく見にくいです。以下、主なところを取り出してみました。(註.1)



(註.1)

★年次推移別の所得の状況(平成5年から14年)
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa03/2-1.html ・・・・①
 ※所得の分布状況のグラフもあり。


★平成28年 国民生活基礎調査の概況・・・・・目次のページです
www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa16/index.html

●その目次の「II 各種世帯の所得等の状況 [211KB] 」のpdfファイルに、「表6 各種世帯の1世帯当たり平均所得金額の年次推移 」(平成18年から27年)があります。 ・・・・・・②
 ※所得の分布状況のグラフもあり。

その目次の「Ⅰ」に以下のpdfファイルがあります。
●表1 世帯構造別、世帯類型別世帯数及び平均世帯人員の年次推移 ・・・・・・・・③
(昭和61年から平成28年)
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa16/dl/02.pdf
があります。



 上の①と②から抜き書きしてみました。

●各種世帯の1世帯当たり平均所得金額の年次推移
全世帯の1世帯当たり 平均所得金額(万円)

平成
5年    6    7    8    9   10   11    12   13   14
657.5  664.2  659.6 661.2 657.7 655.2 626.0  616.9  602.0  589.3

18年   19   20    21    22    23   24    25   26    27
566.8  556.2  547.5  549.6  538.0  548.2  537.2  528.9  541.9  545.8

 物価とか経済状況や母子(父子)家庭や老人単独世帯の増加など家族構成の変貌の問題もありますから、直接の所得比較は問題点もあるでしょうが、おおざっぱに見ても平均所得が平成5年から27年にかけてずいぶん減少していることは確かです。わたしたちの実感に沿っていると言えます。
 また、③を取り上げてみたのは、我が国では世帯、つまり家族全体で家計を支え合ってきたように見えます。一人では生活できない所得でもそれでまかなってきたように思います。しかし、実際は資料でチェックしなくてはならないですが、離婚して母子家庭(父子家庭)というのが増えてきているように思います。また、単独や夫婦二人の老年世代が増大してきているのも確かでしょう。それら家族構造の変貌が「貧困化」に荷担している気がします。つまり、所得金額だけではなく、社会や家族構造の変化も織り込んで、「貧困化」を取り上げ、その社会的な方策(理想のイメージ)を考えなくてはならないと思われます。(わたしは、この問題に関してはそれくらいを指し示すくらいしかできません。)

 ※ 以上は、おおざっぱな把握ですが、所得比較やその推移は、細かに見ていこうとする場合は、年代や層として個別に取り出して貯蓄高や負債高なども織り込んで見ていく必要があると思います。











149


 現在をイメージ化するための覚書 (2) ―経済社会構成の変位


 先にわたしは、「『消費を控える』ということは、現在の高度消費社会の生活者と企業等との相互関係が押し出してきた表現や行動のイメージを本質とするものであって、家計状況の良し悪しとはとりあえず直接は関わらないと考えています。ただ、具体的に表現する場合の威力の差はあると思います。」と書いています。この「イメージ」という言葉を使った箇所で、これは別の言葉がいいかなと思い迷ったことがあります。その「イメージ」は、(関係や構成の像)あるいは(有り様)という意味で使っています。もう一度、たどり直してみます。

1.おそらく江戸期までは、この列島社会は農業が中心の社会で、どうしても必要な鉄材の農具やお盆や正月に必要な品々は行商や町に出かけて買っていたものと思います。つまり、太古の話ではなく、江戸期そしてその名残として近代の高度経済成長期以前までは、自分の小さい頃の見聞きした実感を交えてその自給的生活が主流だったと考えています。こういう農業中心の産業社会、経済社会では、柳田国男の言葉(註.1)のように消費する者は現在以上に買い控えることができます。町人や武士がいたとしても主流は多数を占める農民であり、その「家計消費」の中心が自給性にあるからです。しかし、自給できないものを買い控えたとしても、現在のように社会的な威力としては発現しません。

2.高度経済成長期以後の大きく変質してしまった産業社会、経済社会については、天然水が販売され始めた1970年代だったと思いますが、それを潮目として高度消費社会に突入してきたと吉本さんがていねいに分析されていたと思います。上の1.の文脈でその社会内のイメージ(関係や構成の像)で言うと、高度経済成長期の生み出したものや波及させたことの促しによって産業社会がサービス産業の方にシフトしてしまい、自給性の生活が払底されてきたということだと思います。このことは、一面では、わたしたち生活者は誰でもお金を稼いでそのお金を使って生活に必要とするものを〈消費〉せざるを得ない状況に置かれてしまったということになります。こういう家計消費がGNPの過半を占めるような先進国の社会では、わたしたち生活者の側から見れば、「消費」しないと生活できません。そして、所得の低下や物価上昇など経済社会や政治から波及してくるものに対しては、生活者は当然のこととして消費を抑えるなど少し身構えて対処するはずです。この生活者の自然な行動が総和として表現されるとき、社会の経済の現状を大きく揺さぶりますから、政治担当者などはうろたえるほかありません。政府は個人消費を喚起するために、しょぼかった「プレミアムフライデー」などいろんな消費喚起政策をひねりだしているようですが、ほんとうに生活者のための政治経済政策を取らないかぎり現状のような「デフレ」主流は変わらないと思います。

 つまり、現在は、1.の世界ではなく2.のような社会になってしまったということで、生活者の悪政などに対する無意識的な防御という自然な行動自体が、無意識的な政権や政治批判になり得るし、その力として表現されてしまう社会段階になっているというふうに考えています。二昔前とは違って、企業やお店は、売ってやるよという上から目線ではなく、確かにわたしたち消費する主体の方を向いていますし、向かざるを得ない状況になってしまっています。そして、わたしたち生活者に対する配慮を持たざるを得なくなっています。これは以前述べたことがありますが、わたしたち生活者は、知らない間に大きな力(経済的な権力)を持たされてしまった社会段階に生きているということになると思います。わたしの行動提起は、生活者のその自然な行動を意識的なものに転位させたいなという試みでした。


 付記

 上に述べたのは、現在の生活者と店や企業との関係、つまり社会内の関係が変貌してしまったということです。もちろん、半世紀前から、サラリーマンの家に育って現在みたいな消費中心の生活になじんできた人は、昔も今も消費は変わらないじゃないかという実感を持つかもしれませんが、社会の重心や構成として見たら大きく変わってしまったということ。そして、1970年代の中流意識が9割という状況から現在のような「不況」意識に落ち込んできたわけですが、その社会内の関係の本質が変わるわけではありません。選択消費も落ちているでしょうが必需消費も抑えられているのが現状でしょう。つまり、わたしたちは自然に(のように)家計消費を変動させてきています。消費を控えてもきています。しかし、わたしたちは日々消費をせざるを得ません。この両者の関係にはある臨界点があるような気がします。つまり、わたしたち生活者は唯々諾々と堪え忍ぶばかりではないと思います。また家計消費が過半の経済力を持ってしまっているのだから、放っていても、この政治経済担当層とわたしたち生活者との見えないところでの押したり引いたりのせめぎ合いが、政権は倒せないとしても現在の流れを変動させていくのは確かだと思っています。


 (註.1)


 これに反して町が村に対抗しようとする気風は、かえって
それ以前に始まっている。いわゆる都鄙問題の根本の原因は、
何か必ず別にあったはずである。
 私の想像では、衣食住の材料を自分の手で作らぬというこ
と、すなわち土の生産から離れたという心細さが、人をにわ
かに不安にもまた鋭敏にもしたのではないかと思う。今でこ
そ交易はお互いの便利で、そちらがくれぬならこちらもやら
ぬと強いことが言えるが、品物によっては入用の程度にえら
い差があった。なくても辛抱できる、代わりがある、また待
ってもよいという商品を抱えて、一日も欠くべからざる食料
に換えようという者などが、悠長に相手を待っておられぬの
は知れている。ましてや彼等が農民の子であったとすれば、
小さな米櫃に白米を入れて、小買いの生活に安堵してはおり
にくい。
  (『都市と農村』 P350 柳田国男 ちくま文庫)


 柳田国男のこのシンプルな生活者と商との関係の構造の把握は、現在のように広告産業が華やかなイメージを振りまき誘惑し続ける複雑化して見える経済社会においても、不変だと思います。気に入った捉え方です。


※ この二つの覚書は、ここから遙か東の地に住む知り合い(ネット世界での知り合い)との対話の文章に少し手を入れたものです。つい最近のものです。わたしの「消費を控える活動」に対する賛意や疑義や問題点などの指摘ももらいました。考え続けていこうと思います。



























  『1Q84』( BOOK 1 村上春樹 2009年)読書日誌 ①②


  [1章から13章まで]

  2017.3.14 奇数章と偶数章が今のところ関わり合いがなく並行して物語は進行する。


 村上春樹の小説は、だいたい読んできている方だ。本書『1Q84』は、発行当時から積ん読状態だったが、やっと読んでみようかという気になった。何か意味があるのかよくわからないが、読み進めながらこの読書メモのような読書日誌を試みてみようと思う。

 作者は、文字という物理的な素材を通して作品という幻想の時空間を現出させる。これは紙に描かれる絵の場合も音によって形作られる音楽でもそうだが、わたしはふとそのことに驚くことがある。物理的には単なる文字、単なる線や形、単なる音なのに、わたしたちの胸を打つ生命感を放つものとして読者(観客)はそれらに対面することがある。しかし、これは遙か太古からの人類史的な達成というほかないものである。つまり、表現されたものには遙か起源からの途方もない時間が詰まっていてそれらの表現を生動させていると言うべきである。

 言葉(文字)という遙か太古から現在まで積み重ねられ強化されてきたものを作者なりに活用して、わたしたち読者が見知ったような人物や風景や物語の起伏であっても、作者は固有の物語を形作ることになる。わたしたち読者は、いつも作品より遅れて作品世界に対面することになる。ネットで公開されている作者の少しずつ回を重ねて公表される場合もこの事情は変わらない。できればわたし(たち)は、作者の秘密の工房、秘密のイメージの流れや言葉の流線に出会いたいのだ。そのことは、読者がその作品にとても感動したという場合は、その感動に対応するものに当たっている。さらに、読者は、たぶん誰もが、作品の中の様々な言葉に触発されて様々なことを思い巡らせ考えることもあると思う。わたしもここでそのように振る舞ってみたい。

 『1Q84』という本書の題名の意味はわからない。おいおいわかってくるだろう。作品の出だしは、「タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナ-チェックの『シンフォニエッタ』。」とある。わたしの知らない曲だが読み飛ばしていく。村上春樹の作品にはよく音楽が出て来る。この曲が作品とどう関係づけられているのかは今のところわからない。

 第一章には、タクシーに乗った青豆という変わった苗字の女性が登場する。青豆は、「肩までの髪はきれいにカットされ、よく手入れされている。装身具に類するものは一切つけていない。身長は一六八センチ、贅肉はほとんどひとかけらもなく、すべての筋肉は念入りに鍛え上げられているが、それはコートの上からはわからない。」(P25)とコートの下までわかる語り手の言葉は、この女性が一風変わっていることを想像させる。後に青豆は体育大学出でスポーツ・クラブにインストラクターとして就職したことがわかる。(P234)一方、妻にDVを振るう男を密かに殺める裏の仕事もやっていることが明らかになる。このきっかけは、青豆の親友大塚環が結婚したばかりの夫からDVを振るわれ自殺したこと、そこから青豆は「必殺仕事人」のような周到な準備をしてその夫を死に至らしめる、ここからきている。(P301-P302)。

 また、「青豆はタクシーの運転手の言葉やかかっているヤナ-チェックの『シンフォニエッタ』などに微かな異和感を持っている。この伏線としての異和感は、青豆がおかしいのではなく、「パラレルワールド」(並行世界)として世界そのものが変更されたのだと語られる。(P194-P195)そして、「かつての世界」に対して変容した「この新しい世界」を青豆は次のように捉える。と同時に本書の題名に関することが明らかにされる。


 1Q84年―私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう、青豆はそう決めた。
 Qはquestion markのQだ。疑問を背負ったもの。
 彼女は歩きながら一人で肯いた。
 好もうが好むまいが、私はこの「1Q84年」に身を置いている。私の知っていた1984年はもうどこにも存在しない。今は1Q84年だ。空気が変わり、風景が変わった。私はその疑問符つきの世界のあり方に、できるだけ迅速に適応しなくてはならない。
   (P202)



 ところで、第2章の出だしは、「天吾の最初の記憶は一歳半のときのものだ。彼の母親はブラウスを脱ぎ、白いスリップの肩紐をはずし、父親ではない男に乳首を吸わせていた。ベビーベッドには一人の赤ん坊がいて、それはおそらく天吾だった。彼は自分を第三者として眺めている。」とある。これは小さい頃何らかの関係の傷を負っていることの象徴だろう。そんな天吾は、この鮮明な映像に前触れもなくさいなまれることがある。今のところこの川奈天吾(P213)が登場する偶数章と青豆が登場する奇数章とはそれぞれ無縁な世界として展開している。

 天吾は、代々木予備校の数学の講師の仕事をしていて、一方で小説を書いている。知り合いの編集者の小松から賞に応募された原稿の、稚拙だけど魅力のある「空気さなぎ」作品をリライトしてくれないかと依頼される。そこで、天吾はリライトの了承を得るためにその作者の「ふかえり」という十七歳の少女を訪ねていくことになる。

 以前は一つだったコミューンが二つに分裂して、一方は『さきがけ』、もう一方のコミューンは『あけぼの』となった。『あけぼの』は銃撃事件で三年前に壊滅した。「ふかえり」は家族とともに『さきがけ』という農業コミューンで生活していた。これは後に「恐ろしく閉鎖的な宗教団体になった」。その中にいた「ふかえり」の両親である深田夫妻はどうなったのかわからなくなる。「ふかえり」はひとり父親の友達の所に逃げてくる。その友達は「先生」と呼ばれていて先生の娘アザミが「ふかえり」の物語ったことをメモを取ったりして文章にしたことによって、小説「空気さなぎ」が成立したことがわかる。(P263)そして『空気さなぎ』という作品は、「ふかえり」が『さきがけ』で体験したことと何らかの関係がありそうだと天吾と「先生」との会話から示唆される。(P266)

 「ふかえり」の所から戻った天吾が「ふかえりちゃんを取り巻く事情」を編集者の小松に語る。「ふかえり」の細かな説明になっている。


 「かなりややこしいどころじゃありません。僕らは文字通り爆弾を抱え込んでいるみたいなものですよ。ふかえりはあらゆる意味合いにおいて普通じゃない。ただのきれいな十七歳の女の子というだけじゃありません。ディスレクシア(註.失読症)で、本をまともに読むこともできません。文章もろくに書けない。何らかのトラウマみたいなものを抱え込んで、それに関連して記憶の一部を失ってもいるようです。コミューンみたいなところで育ち、学校にもほとんど行っていない。父親は左翼の革命組織のリーダーで、『あけぼの』がらみの例の銃撃戦にも間接的ながらつながっているようです。引き取られた先はかつて高名だった文化人類学者のうちです。もし小説が話題になったら、マスコミが集まってきて、いろんなおいしい事実を暴き立てるでしょう。大変なことになりますよ」(P305)



 ② 2017.3.17 手書きかワープロ書きかという問題


 ワードプロセッサーの画面と、用紙に印刷されたものとでは、まったく同じ文章でも見た目の印象が微妙に違ってくる。鉛筆で紙に書くのと、ワードプロセッサーのキーボードに打ち込むのとでは、取り上げる言葉の感触が変化する。両方の角度からチェックしてみることが必要だ。機械の電源を入れ、プリントアウトに鉛筆で書き込んだ訂正箇所を、ひとつひとつ画面にフィードバックしていく。そして新しくなった原稿を今度は画面で読み直す。悪くない、と天吾は思う。それぞれの文章がしかるべき重さを持ち、そこに自然なリズムが生まれている。
 ( 『1Q84』 BOOK 1 P130-P131 村上春樹 2008年)

※ 天吾が、文学賞に応募された「ふかえり」という十七歳の少女の小説『空気さなぎ』を、知り合いの編集者小松に頼まれてリライトしている場面。


 この「手書きかワープロ書きかという問題」は以下の文章で、昔考えたことがある。確かに「言葉の感触が変化する」ということはあるかもしれない。しかもこの場面では、他人の作品のリライトということで、言葉の手直しや違う作者間の言葉同士の接合など表現の微妙さが表現されている。しかし、一般的には「手書きかワープロ書きかという問題」は以下に述べているように、言葉の幻想的な表出-表現という過程では同一で、たいした違いはないと思う。そしてワープロ書きが主流になるにつれてワープロで書くという表現の蓄積が、かつての手書きのように自然な意識や観念の表出を可能にしていくのだと思う。

 「書くということ」(2008年)
   ② 手書きかワープロ書きかという問題
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/kotoumi/kotoba003.html 







  『1Q84』( BOOK 1 村上春樹 2009年)読書日誌 ③④


  [1章から15章まで]

  2017.3.20 登場人物について


  その幻影に出てくる、母の乳首を吸っている若い男が、自分の生物学的な父親ではないのか、天吾はよくそう考えた。なぜなら自分の父親ということになっている人物―NHKの優秀な集金人―は、あらゆる点で天吾に似ていなかったからだ。・・・中略・・・多くの人が二人を見比べて、親子には見えないというようなことを口にした。
 しかし天吾が父親に対して違和感を感じたのは、顔立ちよりはむしろ精神的な資質や傾向についてだった。父親には知的好奇心と呼べそうなものがまるで見受けられなかったのだ。たしかに父親は満足な教育を受けていなかった。貧しい家に生まれ、系統立った知的システムを自分の中に確立する余裕もなかった。そのような境遇については天吾もある程度気の毒だとは思う。しかしそれにしても、普遍的なレベルでの知識を得たいという基本的な願望―それは人にとって多かれ少なかれ自然な欲求ではないかと天吾は考える―が、その男にはあまりにも希薄だった。生きていく上での実際的な知識はそれなりに働いたが、努力して自らを高め、深化させ、より広くより大きな世界を眺めたいという姿勢は、まったく見いだせなかった。
 彼は窮屈な世界で、狭量なルールに従って、汲々と生きていながら、その狭さや空気の悪さをとくに苦痛として感じることもないようだった。家の中で本を取るところを目にしたこともない。新聞さえとらなかった。(P313-P314)

 それに比べれば、天吾は小さい時から数学の神童と見なされていた。算数の成績は抜群だった。小学校三年生のときに高校の数学の問題を解くこともできた。・・・中略・・・ 自分の本当の父親はどこかべつのところにいるはずだ、というのが少年時代の天吾の導き出した結論だった。(P314)




 天吾の父親の話によると、「母親は天吾を生んで数ヶ月後に、病を得てあっさり亡くなってしまう。」父親は「NHKの集金人として勤勉に働きながら、男手ひとつで天吾を育ててきた。」しかし、天吾は先に挙げた時折襲い来る母にまつわる奇妙なイメージも加わって、その父親の話を信じていない。

 ここに引用したような登場人物・天吾の目を通した語り手の描写する世界は、家庭の中で両親との関係がうまくいかず嫌なことが続けば誰でも小さな子ども時代に思い当たることがあるようなものかもしれない。自分は本当はどこかよその子かもしれないというように。また、天吾は、日曜日は必ず父親が集金しやすくなるように父親の集金の仕事に付いていかなければならなかった。こうしたことは長く続いたので、天吾の日曜日に対するイメージは普通の人々の休息や遊びのイメージとは違った独特のものになっている。



 青豆はつつましい生活を送っていた。彼女がいちばん意識してお金をかけるのは食事だった。食材には出費を惜しまなかったし、ワインも上質なものしか口にしなかった。たまに外食をするときには注意深くていねいに調理をする店を選んだ。しかしそれ以外のものごとにはほとんど関心を持たなかった。
 衣服や化粧品やアクセサリーにもあまり関心はない。(P326)

 彼女は子供のころから、装飾のない簡素な生活に慣れていた。禁欲と節制、物心ついたときにそれがまず彼女の頭に叩き込まれたことだった。家庭には余分なものはいっさいなかった。「もったいない」というのが、彼女の家庭でもっとも頻繁に口にされた言葉だった。テレビもなく、新聞もとらなかった。(P327)

 だから彼女は両親こを憎み、両親が属している世界とその思想(引用者註.新興宗教に入っているようだ)を深く憎んだ。彼女が求めているのはほかのみんなと同じ普通の生活だった。贅沢は望まない。ごく普通のささやかな生活があればいい。それさえあればほかには何もいらない、と彼女は思った。・・・中略・・・
 しかし大人になった青豆が発見したのは、自分がもっとも落ち着けるのは、禁欲的な節制した生活を送っているときだという事実だった。(P328)




 この青豆も天吾同様に小さい頃家庭で精神的な傷を負った存在として描かれている。ふと思い浮かんだイメージで言えば、NHK「LIFE!~人生に捧げるコント」、ここの出演者として知った女優の吉田羊、もしこの村上春樹の作品をドラマ化するならば「青豆」の役は吉田羊がぴったりだと思う。

 たとえば、このBOOK1では主人公たちと思える天吾や青豆を造型した作者のイメージの出所はどこなんだろうか?
 初め作者がどこからか借りてきたイメージがあったとしても、造型の過程で作者の固有の言葉の筆さばきが加わっていることは間違いない。それはとても分離しがたいもの、見分けにくいものだとしてもここに引用した登場人物の天吾や青豆の描写に作者の物の感じ方や考え方も流れ込んでいるように思う。このことは、作者のすべての作品を読み味わえば割とはっきりとあるイメージの場所やイメージの共通性として浮き上がってくるのかもしれない。

 ところで、上橋菜穂子の「守り人」シリーズが、『精霊の守り人』として割と原作に忠実にドラマ化され、今NHKで放送されている。この作品は、精霊や魔物も登場する、架空の時代、架空の世界を表現した「ファンタジー」と呼ばれる作品である。王国があり、王や皇太子や政治を司る聖導師(星読博士の最高位)、軍事に携わる者もいれば密偵もいる。大領主もいれば海賊もいる。ロタ王国で特別に抑圧されるタルの民もいる。つまり、わたしたちの社会がどこかで経験してきた、あるいは今なお経験しつつある要素がこの作品には取り入れられている。また、現在に類比すればガードマンに相当する、主人公バルサのような用心棒が登場する。バルサの幼馴染の薬草師タンダも登場すれば、衣装店を営む商人マーサ(渡辺えり役)も登場する。つまり、登場人物や描かれる世界は、あらゆる階層にわたっている。

 例えば、衣装店を営む商人マーサは、包容力のあるおばちゃんのイメージを出せる渡辺えりが演じている。これは、都会的で洗練された女性ではなく、どこにでもいるような面倒見がよくて気立ての良い普通のおばさんである。たぶん、原作者の上橋菜穂子は、大いなる自然と接しながら人々の精神にはまだ精霊や呪術や魔物が生きており、国内の対立や国同士の戦争などの残虐を伴ういくつもの大きな困難を乗り越えていく人間世界とその中で生きざるを得ない人々の運命的な有り様とそれを乗り越えて生きようとする姿を描こうとしたのだろうと思う。そういう作者のモチーフから、主人公バルサにスポットライトが当たっているとしても、必然的に登場人物はあらゆる階層に渡ることになる。

 ところで、村上春樹の『1Q84』( BOOK 1)に登場する主要な登場人物の天吾や青豆は、「衣装店を営む商人マーサ」のような日常世界でよく見かける普通のおばさんやおじさんや若者ではない。わたしは上橋菜穂子の作品も村上春樹の作品もどちらもほとんど読んできているが、上橋菜穂子の場合は他の作品でも普通の人々を登場させているし、誰もが思い当たるような温かい良い匂いのする食事の場面も現れる。一方、村上春樹の作品の場合は、天吾や青豆のように登場人物の性格は違っていても、生い立ちが少し不幸であったとしても、都会的に洗練された中性的な感覚の持ち主ともいうべき登場人物が出てくる。また、衣装もパスタをゆでるなども、都会的なファッションやイメージに包まれている。

 両者の登場人物の選択に関して言えることは、作者、上橋菜穂子が、人間や社会について全人的な表現のモチーフを持っているとすれば、作者、村上春樹の場合は、都市や時代の最先端つまりこの世界の尖端を生きる人々の有り様や悩み苦しみや慰藉などを表現のモチーフとしているからそういう相違になるのだろう。

 上橋菜穂子があるインタビューで、食事の場面はその匂いや温かさや味わいが物語世界の現実感を出す上で大切なものだと語っていた。このように物語世界の要請から作者、上橋菜穂子の食事の場面や作者、村上春樹のパスタをゆでる場面などが選択される。しかし、それらはまた、作者の好みも加担しているように感じられる。物語世界の要請と作者の好みとははりあわされていて、容易に分離できないとしてもである。

 作家は、「作者」に変身して、物語世界を築き上げていくために物語空間に「語り手」と「登場人物」を派遣する。芥川龍之介の「羅生門」のように物語の世界に「作者」を登場させることもあるが、一般には、言葉を書き付けていくのは「作者」であったとしても「作者」は後景に退き、「語り手」と「登場人物」が前面に立って物語世界を築き上げていく。物語の世界に「作者」を登場させると作品の虚構性が薄まり白けた感じとして意識させられるように思う。
 
 こうした物語世界には、時代のおくりものである流行のファッションや娯楽、都市の風物やその時代の主流のイメージやものの感じ方や考え方も作者や語り手によって選択されて入り込んでくる。と同時に、作品を具体的に書き上げていくのは作者であるから、物語世界やその人物像が語り手に要請するものばかりではなく、作者固有の好みや感じ方や考え方も織り込まれているはずである。



  2017.3.20 出だしの音楽の再登場


 この作品の出だしの青豆が登場する章の始まりには、ヤナ-チェックの『シンフォニエッタ』と言う曲がタクシーのラジオでかかっていた。高校生の天吾は柔道部に属していたが、ブラスバンドの臨時の打楽器奏者として駆り出された。そのとき天吾らが演奏する曲に吹奏楽用に編曲されたヤナ-チェックの『シンフォニエッタ』があった(P322)、という風にまったく関わりのない別の世界として青豆の章と天吾の章が並行してきた物語世界になんらかの関わり合いの徴候のようなものがここから感じられる。







  『1Q84』( BOOK 1 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑤


  [1章から19章まで]

  2017.3.27  (作品)世界の変貌


 青豆は、この世界の奇妙な変貌を感知するように空に二つの月を見る。しかし、ふしぎなことに青豆以外の他の人々にはこの二つの月は見えないらしいのだ。


 空には月が二つ浮かんでいた。小さな月と、大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣にもうひとつ、別の月があった。見慣れないかたちの月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。それが彼女の視野の捉えたものだった。
 (十五章 P351)



 二つの月が青豆に見えるということは、「世界がどうかしてしまったか、あるいは私がどうかしてしまったか、そのどちらかだ」が、まだこの章ではそれは明らかではない。


 青豆はすでに、親友の大塚環が夫の執拗なDVによって自殺した後、その夫を「必殺仕事人」のように鋭く研いだアイスピックのようなもので他殺とわからないような殺しをしている。そして今、同じく結婚して夫からの激しいDVによって自殺した娘の母であった「老婦人」が、「必殺仕事人」の元締めのような位置について、そのような「歪んだ魂を抱え」(P389)た者たちを消す、ということを青豆は手伝うことになる。


 老婦人は言った。「私たちはそれぞれに大切な人を理不尽なかたちで失い、深く傷ついています。その心の傷が癒えることはおそらくないでしょう。しかしいつまでも座して傷口を眺めているわけにはいきません。立ち上がって次の行動に移る必要があります。それも個別の復讐のためではなく、より広汎な正義のためです。どうでしょう、よかったら私の仕事を手伝ってくれませんか。私は信頼の置ける有能な協力者を必要としています。秘密を分かち合い、使命を共にすることができる人を」
 (十七章 P393)



 この老婦人の論理は、「この人は間違いなくある種の狂気の中にいる、と青豆は思った。」(P394)と青豆は捉えるが、そのある種の狂気とは老婦人の「より広汎な正義のため」という言葉を指していと思われる。テレビドラマの「必殺仕事人」であれば、同じく歪んだ魂の持ち主たちによって殺された者の「個別の復讐」を代わって遂げるというものでこれは狂気とは呼べないだろう。しかし、青豆はその老婦人の誘いを受け入れて「歪んだ魂」の持ち主をこの世界から消す手伝いをしていくことになる。


 そして、次のターゲットが老婦人から青豆に知らされる。それは「さきがけ」というコミューンの教祖である。今老婦人の下に保護されている「つばさ」という十歳の少女はその「さきがけ」の教祖から「霊的な覚醒を賦与するという口実」(P437)でレイプされているらしい。教団の他の少女たちにも同様のことをおこなっているらしい。「リトル・ピープル」という天吾の章の小説「空気さなぎ」で出て来たものが、つばさという少女によってこの青豆の章に割り込んでくる。(第十七 P404)この辺りで、今まで天吾の章と青豆の章とは並行してまったく無関係な世界に見えたものが、この「さきがけ」というコミューンを介して二つの世界がつながっていくことが予感されるようになってきた。しかも、「リトル・ピープル」は荒唐無稽で現実にはあり得ないような姿で物語の世界に登場する。


 つばさも老婦人も同じ部屋で眠りについていた。・・・中略・・・
 やがて彼女(引用者註 「つばさ」)の口がゆっくり開き、そこから、リトル・ピープルが次々に出てくる。彼らはあたりの様子うかがいながら、用心深く一人、また一人と姿を現す。老婦人が目を覚ませば、彼らの姿を見ることはできたはずだが、彼女は深く眠り込んでいた。当分のあいだ目を覚ますことはない。リトル・ピープルはそのことを知っていた。リトル・ピープルの数は全部で五人だった。彼らはつばさの口から出てきたときは、つばさの小指くらいの大きさだったが、すっかり外に出てしまうと、折りたたみ式の道具を広げるときのように身をもぞもぞとひねり、三十センチほどの大きさになった。みんな特徴のない同じような衣服を身にまとっていた。顔立ちにも特徴はなく、一人ひとりを見分けることはできない。 (第十九章 P446-P447)



 ところで、わたしたち読者としては、青豆が見る「二つの月」もこのような荒唐無稽な描写の「リトル・ピープル」も現実にはあり得ないわけだから、またこの作品は荒唐無稽なエンターテインメントの作品ではないはずだから、それらはなんらかの喩と見なすほかないように思われる。

 今のところ、「さきがけ」というコミューンは、天吾の章で「ふかえり」の保護者になっている先生と呼ばれる「ふかえり」の父親の友達を通してか、青豆の章で老婦人がお金を払って仕入れた情報を通してか、しか描かれていない。それらは外からの視線であり、あるいは俗受けする邪悪な集団という像で把握しているのが描かれている。作者が素材として物語世界に呼び込んだこの、「さきがけ」というコミューンは、おそらくオーム真理教やそれが引き起こした事件が素材になっているように見える。さて、作者村上春樹は、「さきがけ」というコミューンをきちんと内部からの視線で描いていくことになるのだろうか。







  『1Q84』( BOOK 1 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑥⑦


  [1章から終章・24章まで]

  2017.3.30 作品からこまごまと


 1.数学の描写について

 天吾は、週三日予備校に勤務する若い数学の教師である。小説も書いている。その天吾の描写。


 数学教師としての彼は教壇の上から、数学というものがどれくらい貪欲に論理性を求めているかということを、生徒たちの頭に叩き込んだ。数学の領域においては、証明できないことには何の意味もないし、いったん証明さえできれば、世界の謎は柔らかな牡蠣のように人の手の中に収まってしまうのだ。講義はいつになく熱を帯びて、生徒たちはその雄弁に思わず聞き入った。彼は数学の問題の解き方を実際的に有効に教授するのと同時に、その設問の中に秘められているロマンスを華やかに開示した。
 (第22章 P498-P499)



 『平均律クラヴィーア曲集』は数学者にとって、まさに天上の音楽である。十二音階すべてを均等に使って、長調と短調でそれぞれに前奏曲とフーガが作られている。全部で二十四曲。第一巻と第二巻をあわせて四十八曲。完全なサイクルがそこに形成される。
 (第16章 P368)



 この数学の描写は、読者としては流し読みして良いのかもしれない。天吾は予備校で受験数学を教えているわけであるが、作者村上春樹が大学で理工系に学んでいたならこのような甘い数学の描写にはならなかったろうと思う。なぜわたしがこの数学の描写にひっかかったかというと、二つ目の引用のような音楽談義(ここでは、天吾とふかえり)が何度か出てきたのである。わたしは、このような音楽に関してはまったくわからないから、数学の描写で音楽の描写を類推できないかと思ったわけである。しかし、それは無理がありそうだ。若い頃の喫茶店を経営していた頃から音楽の造詣を深めてきたのかもしれない。ともかく、作品はわかる読者にわかればいいのだろうという面も持っていると思う。わたしはそんな音楽の描写は流し読みなりとばすなりするほかにない。しかし、作品世界での数学や音楽談義も、これらは作者の知見や造詣の程度と対応した描写になっているのはまちがいない。ただ、やっかいなのはこれらの音楽談義やチェーホフの『サハリン島』からの引用された言葉などが、作品の流れを強化したり、なんらかの喩として機能するように位置付けられている場合である。



 2.「文体」ということへのわたしの関心から

 わたしは「文体」ということに関心を持っているから、次の部分に目が留まった。もちろん、電話をかけてきた相手をそのベルの音からわかるというのは、あり得ないだろうという思いも立ち止まらせた。「ベルの鳴り方」とあるからたぶん家庭の固定電話と思うが、それがかけた相手によってベルの音が変わるということはあり得ないはずだ。編集者の小松は、夜遅くでもお構いなしに天吾に電話をかけてくることがあるのは今までに何度か描写されている。そのせいかと思った。しかし、語り手は「うまく説明できないのだが」と天吾がなんらかの微細な差異を見分けることができると言いたがっているように見える。付け加えれば、自閉症と呼ばれている人の中には、スイッチが入っていないラジオから放送されているものをなんとか聴き取れる人がいるらしい。これもまた、大多数の普通の人々の感度を超えている。


 小松が電話をかけてきたのは、『空気さなぎ』が二週続けて文芸書ベストセラーの一位になった数日後だった。夜中の十一時過ぎに電話のベルが鳴った。天吾は既にパジャマに着替え、ベッドに入っていた。うつぶせになってしばらく本を読み、そろそろ枕もとの明かりを消して眠ろうとしたところだった。ベルの鳴り方から、相手が小松であることは想像がついた。うまく説明できないのだが、小松のかけてくる電話はいつだってそれとわかる。ベルの鳴り方が特殊なのだ。文章に文体があるように、彼がかけてくる電話は独特なベルの鳴り方をする。
 (第22章 P500)



 「文章に文体があるように、彼がかけてくる電話は独特なベルの鳴り方をする。」ここでは、「文体」というものは作者固有のものを指している。そして、一般的にではなく小松がかけてくる電話は、彼固有の独特なベルの鳴り方をすると言われている。しかし、人間の通常の感覚や能力ではあり得ないことである。この描写は、何らかの伏線を持つのかここで完結しているのかはわからない。



 3.男女の交わり・性描写について

 並行して推移してきた物語世界の「天吾の章」も「青豆の章」も男女の交わり・性描写が、これまでの村上作品に対するわたしの大まかな印象からは今までになく多いような気がする。しかし、人間的な世界の描写だから別にそのこと自体は問題ではないが、この作品世界ではその男女の交わり・性描写は、天吾や青豆という登場人物の生存の欠損の象徴として、その喩としての位置を担っているように見える。また、このことを作者村上春樹の無意識的なものと見なすならば、その男女の交わり・性描写は作品発表時作者は60歳ぐらいで、作者に訪れているだろう老いの徴候を賦活して言葉を励起する作用をもたらしたのかもしれない。



 4.ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に触れた箇所

  この作品と関わりありそうなジョージ・オーウェルの『一九八四年』に触れた箇所がある。ふかえりの保護者をしている先生が語る。


 先生はしばらく自分の両手を眺めていたが、やがて顔を上げて言った。
 「ジョージ・オーウェルは『一九八四年』の中に、君もご存じのとおり、ビッグ・ブラザーという独裁者を登場させた。もちろんスターリニズムを寓話化したものだ。そしてビッグ・ブラザーという言葉(ターム)は、以来ひとつの社会的アイコンとして機能するようになった。それはオーウェルの功績だ。しかしこの現実の一九八四年にあっては、ビッグ・ブラザーはあまりにも有名になり、あまりにも見え透いた存在になってしまった。もしここにビッグ・ブラザーが現れたなら、我々はその人物を指さしてこう言うだろう、「気をつけろ。あいつはビッグ・ブラザーだ!」と。言い換えるなら、この現実の世界にもうビッグ・ブラザーの出てくる幕はないんだよ。そのかわりに、このリトル・ピープルなるものが登場してきた。なかなか興味深い言葉の対比だと思わないか?」
 先生は天吾の顔をじっと見たまま、笑みのようなものを浮かべた。
 (第18章 P421-P422)



 わたしは、高校の頃英語の授業でジョージ・オーウェルの『動物農場』を読んだことがある。これも寓話的な作品だった。オーウェルの『一九八四年』は読んでいないけど、ビッグ・ブラザーという独裁者と対比してコミューン「さきがけ」にまつわるリトル・ピープルが取り上げられていることは、読者に何か不吉な未来を予想させる。



 ⑦ 作品の未来からの視線


 わたしはこの文章を書く前に、『1Q84』のBOOK 1は読み終えて、BOOK 2の第6章まで読み終えている。ということは、読者として作品の未来からの視線で作品を見ることができるということになる。もちろん、作者はある程度の大まかな構想を持ってこの作品を書き出しているはずだから、作者の場合はBOOK 1を書きながら物語の起伏やわくわく感や心ひくためなどからBOOK 2に書かれることを意識的に伏せておく等の作品の未来にずいぶん通じていることは確かである。

 BOOK 2も青豆の章と天吾の章が交互に並行して進んでいく。また、BOOK 1では意図的にふせられていたと思われる、青豆と天吾は十歳頃互いに心ひかれ合ったということが明かされている。また、青豆の章で今のところ青豆だけが実在感を持って空に二つの月が出ているのを目にするが、天吾の章の天吾も自分の書いている小説には二つの月がでていると語られる。(註.1)こうして、交互に並行して進んで行く青豆の章と天吾の章という作品世界が、メビウスの輪のようにねじれつつ何らかのつながりをつけていくということが予感される。

(註.1)
 月が空に二個浮かんでいる世界という設定は『空気さなぎ』から運び入れたものだ。天吾はその世界についてもっと長い複雑な物語を―そして彼自身の物語を―書こうとしていた。設定が同じであることは、後日あるいは問題になるかもしれない。しかし天吾は今、月が二個ある世界の物語をどうしても書いてみたかった。あとのことはあとで考えればいい。
 彼女(引用者註.週一で天吾に会いに来る人妻)は言った。「つまり夜になって空を見上げて、そこに月が二個浮かんでいたら、『ああ、ここはここではない世界だな』ってわかるわけね?」
「それがしるしだから」
「その二つは月は重なり合ったりしない」と彼女は尋ねた。
 天吾は首を振った。「何故かはわからないけれど、二つの月のあいだの距離はいつも一定に保たれている」
 (第24章 P550-P551)



 このあと、その「ガールフレンド」から「ねえ、英語のlunaticとinsaneはどう違うか知っている?」と天吾は尋ねられ、この物語作品の流れに「二つの月」とともに「精神に異常」を抱えているということが付加される。

 登場人物の天吾は「何故かはわからないけれど」と言うほかないが、たぶん作者はそのことを知っているはずだ。わたしが読んできた流れから一つ二つ予想をしてみる。当たるかどうかはわからない。BOOK 2では老婦人の依頼によって青豆は、内閉的な宗教組織に変質したコミューン「さきがけ」の「歪んだ魂」の持ち主でありからだに故障を抱えている指導者を、からだのマッサージ等を施術するという名目で近づいて殺すことになる。まだ、その行動以前である。この指導者は、コミューン「さきがけ」の中で行方不明になっているというふかえりの父親ではないかと思う。もうひとつは、この交わることのない病める「二つの月」は、天吾と青豆とその関係を暗喩しているのではないかと思う。

 







  『1Q84』( BOOK 2 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑧


  [1章から15章まで]

  2017.4.3 作品の大きな山場か


 1.山場の章・青豆

 さて、ここまで(BOOK 2の15章)読んできて、物語は大きなうねりをなしてきた。この作品は三分冊だから、作品世界の中ほどになる。これが最後の大きな山場かどうかはわからないが、一つ目の大きな山場であることは確かである。残りの分量からして、まだまだ波乱がありそうだ。

 青豆と青豆がホテル・オークラ本館に出かけて「筋肉ストレッチング」を施し殺す相手である持病を持った教団の指導者との対話がなされる9・11・13章がその山場を構成している。

 今までこの作品を読んできた中で圧巻は、青豆と「さきがけ」の指導者との対話の特に11章と13章だろう。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(P244)という言葉が出たり、「殺され王」(P241)の話が出たりする、しかし、『カラマーゾフの兄弟』の中の白熱した対話(遙か昔の高校生の頃読んだ印象の記憶だが)には物語の流れの機制からしても及ばないと思われる。つまり、青豆は、この指導者に対して対等に本心から対話できる位置にないからである。作者村上春樹は、『カラマーゾフの兄弟』の中の大審問官の章などの白熱した、ドストエフスキーが熱情を込めた対話を意識してこの二人の対話を構成しているのかもしれない。

 しかし、疑問に思うのは、今のところ指導者の下の教団の内部事情やその思想性などの具体性や規模がはっきりしないため、太古からいて強大な力を持っていると見えるリトル・ピープルとその声を聞き取る教団の指導者という像がはっきりと受け取れない。もちろん、作品の流れのここでも作者は明確な像とそれを描写するという意志はしっかりと持っているはずである。

 指導者自身は、身体的な苦痛を含めて指導者としての苦痛に耐えかねていて、自分は「世界のバランスを保つために抹消されるべき人間」(P243)と思っている。指導者は、リトル・ピープルからも解放される自らの死を望んでおり、「特殊な力を与えられた」り青豆の心や意志を察知する力を備えていて、青豆の意図を察知して自分を殺してくれるように頼む。そして、この指導者はアイスピックを用いたあの殺人とはわからないようなやり方で青豆に殺されることになる。ともかく、今はこの二人の対話は流し読み程度にして保留しておく。



 2.開示される世界

 ここで、たぶん重要な登場人物である教団の指導者(前回予想したように、この指導者はふかえりの父親だった P276-P277)によって、物語世界の秘密が明らかにされ始める。
 BOOK 1では、老婦人や青豆の抱くのは外から見た邪悪な教団とその行為というイメージだったのが、案の定そういう通俗的な理解に終わることなく(それで終われば通俗的な駄作にすぎない)、BOOK 2の青豆と教団の指導者の対話の章でこうして内からの視線が作者によってもたらされている。青豆と教団の指導者との対話の9・11・13章で、老婦人が述べていた指導者が少女たちをレイプしていたという外から見た像が、宗教的な行為であるとして指導者から内側の言葉として語られる。

 「1984年」と「1Q84年」とが、空想的なエンターテインメント物語とは違って、たんなるパラレル・ワールド(並行世界)ではないことがリーダーと呼ばれる男によって明らかにされる。(13章)しかし、それにしてもその二つの世界の関わり合いは、読者のわたしにはわかりづらい。天吾も青豆も「君たちは入るべくしてこの世界(引用者註.1Q84年」)に足を踏み入れた」「特別の存在」で「それぞれの役割を与えられることになる」と指導者は語る。(11章)

 依然として、「1Q84年」や「リトル・ピープル」の像ははっきりと伝わってこないけれど、P274からP275、P276(13章)にかけて語る指導者の言葉によれば、それらは太古から連綿と続き推移してきたこの世界というものの構成や歴史というものの有り様を語っているように見える。そして、この指導者は、最初にリトル・ピープルを感知した娘(ふかえり)が「パシヴァ=知覚するものであり、わたしがレシヴァ=受け入れるものとなった」と教団の宗教システムについて青豆に語る。これがおそらく農業コミューン「さきがけ」が宗教の教団化したきっかけであろうと思われる。

 ところで、次回に触れる予定の天吾と失踪から天吾のもとに戻ったふかえりの関わり合う章は、青豆と指導者の対話の章と同時的だということがわかる。「雷鳴が轟いた。さっきよりその音はずっと大きくなっている。しかし雷光はなかった。音が聞こえるだけだ。奇妙だと青豆は思った。」という二つの章の雷鳴の描写がその同時性をつないでいる。

 最後に、青豆が指導者を殺してホテル・オークラ本館から出て行く(脱出する)場面の描写は緊迫していてその緊張感が十二分に伝わってくる描写になっている。指導者の側近警備の二人者に少しの疑念も起こさせず少しの心の動揺も感知されずに青豆はなんとかその場から立ち去ることができた。読者は、青豆は天吾と共に主人公の位置にあるだろうから死にはしないだろうとわかっていても、緊迫する描写の場面になっている。また、わたしのようにBOOK 2の目次全体を見てしまっていてもそうだった。







  『1Q84』( BOOK 2 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑨



  [1章から15章まで]

  2017.4.4 作品の大きな山場か・続


 1.山場の章・天吾


 天吾は、ふらりと電車に乗って療養所にいる父親を2年ぶりに訪れる。途中、持参した『猫の町』という短編小説を読む。「失われた場所」という言葉とつながるその『猫の町』は、訪れた父の前でも頼まれて朗読することになるし、後々も「失われた場所」の喩として天吾とふかえりとの会話で登場する。ここで、本当の父が誰か母どんな人だったかという自分の生まれ出てきたことの不明という「空白」の意味に苛(さいな)まれてきた天吾は、父親との要領の得ないような会話の中から目の前の「父親」が「本当の父親ではないだろうというおおよその確信を得ることがてきた。」(P253)そうして、家に帰り着いて「翌朝、八時過ぎに目を覚ましたとき、自分が新しい人間になっていることに天吾は気づいた。」「これでおれはやっと出発点に立てたのだ、と天吾は思った。」(P206-P207)(8章)

 その後二週間ばかり平穏な日々を過ごしていた天吾のもとに、失踪していたいたふかえりがやって来る。(10章)

 ふかえりによると外で「リトルピープルがさわいでいて」(P263)遠くで微かに雷鳴が聞こえる中、早く寝た方がいいと言う。天吾とふかえりと一つのベッドで身を寄せ合っていて、ふかえりの方からの働きかけによる性行為・その描写は、『古事記』の中のイザナギとイザナミの二神による国産み行為の描写をわたしは連想してしまった。(14章)

 そこへ到ると思われる流れの描写。



「だからこそわたしたちはちからをあわせなくてはならない」とふかえりは言った。(P212)
「リトル・ピープルがさわいでいるから」とふかえりは真剣な顔つきで言った。(P263)

「リトル・ピープルは何かに腹を立てているんだろうか?」
「なにかがおころうとしている」と少女は言った。
「どんなことが?」
 ふかえりは首を振った。「いまにわかる」(P263)

「かれらはわたしたちをみている」とふかえりは言った。
「リトル・ピープルのこと?」と天吾は言った。
 ふかえりはそれには返事をしなかった。
「彼らは僕らがここにいることを知っているんだ」と天吾は言った。
「もちろんしっている」とふかえりは言った。(P265)


「あなたはネコのまちにいった」と彼女は天吾を咎めるように言った。
「僕が?」
「あなたはあなたのネコのまちにいった。そしてデンシャにのってもどってきた」
「君はそう感じる?」
・・・中略・・・
「そのオハライはした」と彼女は尋ねた。
「オハライ?」と天吾は言った。お祓い?「いや、まだしていないと思う」
「それをしなくてはいけない」
「たとえばどんなお祓いを?」
 ふかえりはそれには答えなかった。「ネコのまちにいってそのままにしておくとよいことはない」
 天をまっぷたつに裂くように雷鳴が激しく轟いた。その音はますます激しさを増していた。ふかえりがベッドの中で身をすくめた。
「こちらに来てわたしをだいて」とふかえりは言った。「わたしたちふたりでいっしょにネコのまちにいかなくてはならない」
「どうして?」
「リトル・ピープルがいりぐちをみつけるかもしれない」
「お祓いをしていないから?」
「わたしたちはふたりでひとつだから」と少女は言った。(P269-P270 12章)




 このふかえりの言動の描写は、「作者」に誘導された「語り手」によって慎重になされている。例えば、引用文中の「咎めるように言った」や「ふかえりはそれには答えなかった」もその慎重さの表れあるいは伏線である。先にわたしは『古事記』の中のイザナギとイザナミの二神による国産み行為を連想したと述べたが、このようにたどってみると普通の男女の性行為の描写ではないある宗教性や儀式性をおびているということは両者に共通している。この場合は、天吾が「ネコのまち」に行ったというのは、おそらく天吾が療養所の父を訪ねて天吾の出生にまつわる空白の時空に触れたことを指しているように思う。「オハライ」が必要ということは、母と不明の父による天吾の出生の空白が何か邪悪なものか穢れとかと関係しているということを暗示する。ふかえりの方から誘われた天吾とふかえりの性行為・その描写は、天吾にとっては意識されていないように見えるが、ふかえりと語り手にとっては「お祓い」という宗教的な儀式行為だった。

 もうひとつ付け加えておかなくてはならない。上の「オハライ」の過程で天吾に訪れたイメージ(?)がある。



 天吾は言われたとおり両目を閉じた。目を閉じると、そこには奥行きのある、薄暗いスペースがあった。とても深い奥行きだ。地球の中心まで延びているみたいに見える。その空間には薄暮を思わせる暗示的な光が差し込んでいた。・・・中略・・・
 気がつくと彼は十歳で、小学校の教室にいた。それは本物の時間で、本物の場所だった。本物の光で、本物の十歳の彼自身だった。彼はそこにある空気を実際に吸い込み、ニスの塗られた木材の匂いや、黒板消しについたチョークの匂いを嗅ぐことができた。教室にいるのは彼とその少女の二人きりだ。(P305-P307)




 ここの「少女」とは十歳の青豆のことである。読者にとっては未だ不明であるが、たぶん作者と語り手はこの場面に必然として青豆と天吾の十歳の時の場面を引き寄せたように思われる。しかも、しつこいほど「本物」や匂いなどの如実感にこだわっているのは少し不思議な気がするが、普通の過去のイメージが想起されただけのものではないということを言いたがっているように見える。しかし、今の段階でわたしにはそのことの意味はわかりようがない。そして、「オハライ」の後ふいと「青豆、と天吾は思った。/青豆に会わなくてはならない、と天吾は思った。彼女を捜し出さなくてはならない。そんなわかりきったことに、どうしてたった今まで思い当たらなかったのだろう?」(P309 14章)と描写されるが、登場人物天吾や語り手の切迫感とは違って、わたしたち読者はうーんと立ち止まらざるを得ない。

 天吾のこのことと呼応するように青豆の内心が描写されている。「これは安物芝居なんかじゃない」という言葉は、おそらく読者の反応を想定して作品の背後に居た作者が作品に乗り出してきたものだと思う。青豆のモノローグにしては変だ。今まで作品の登場人物として青豆に付き合ってきたわたしのイメージでは、次の引用の二つ目の描写は今までの青豆には少しそぐわないような気がする。



 青豆は自分が死んでいくことをとくに怖いとは思わなかった。私は死に、天吾くんは生き残る。彼はこの先1Q84年を、月が二つあるこの世界を生きていくことになる。しかしそこには私はふくまれていない。この世界で私が彼と出会うことはない。どれだけ世界を重ねても、私が彼に出会うことはない。少なくともそれがリーダーの言ったことだ。(引用者註.教団のリーダーが自分を殺してくれれば天吾は助かるが青豆は死ぬことになると予言したこと)(P336 15章)


 でも私は天吾くんを愛している、と青豆は思った。小さくそう口にも出した。私は天吾くんを愛している。これは安物芝居なんかじゃない。1Q84年は切れば血の出る現実の世界なのだ。痛みはどこまでも痛みであり、恐怖はどこまでも恐怖である。空にかかった月ははりぼての月ではない。本物の月だ。本物の一対の月だ。そしてこの世界で、私は天吾くんのために進んで死を受け入れたのだ。それがフェイクだとは誰にも言わせない。(P337 15章)




 これは青豆が教団のリーダーを殺害して、ホテル・オークラ本館を抜け出て、殺害の依頼主である老婦人のスタッフによって用意されていたホテルにたどり着いて少しほっとしている場面である。それなのにこの宝塚歌劇のセリフのような場面はなんだろう。たぶん、作者はその様なイメージとして読者が捉えるかもしれないことを意識して作品世界に身を乗り出してきたのかもしれない。

 ここでも「切れば血が出る現実」や「本物」が強調されている。これは「オハライ」の過程で天吾が入り込んだ実際の青豆のいる小学校の教室の場面の「本物」感と同質のものである。もちろん、その意味するところは今はよくわからない。







  『1Q84』( BOOK 2 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑩



  [1章から19章まで]

  2017.4.6 物語世界ということ


 1.登場人物・語り手・作者の違いについて


 老婦人に「セーフハウス」で保護されていた「つばさ」という教団を抜け出た少女は、「セーフハウス」からいなくなっていた。その「つばさ」について教団のリーダーがホテル・オークラ本館の部屋で青豆に殺される前に語ったことがある。



 あのセーフハウスにいたつばさは実体ではなかったとリーダーは言った。彼女は観念のひとつのかたちに過ぎなかったし、それは回収されたのだと。しかしそんなことをここで老婦人に告げるわけにはいかなかった。それが何を意味するのか、青豆にだって本当のところはよくわからない。しかし彼女は宙に持ち上げられた大理石の置き時計のことを覚えていた。それは目の前で本当に起こったことだった。(17章 P365)



 物語の世界の登場人物たちは、当然のことのように他の登場人物の行動や発言の意味するものや真意を十分にわかっているわけではない。ここでは、青豆に自分のことをいくらかわかってもらうために念力のようなもので大理石の置き時計を宙に持ち上げて見せた教団の指導者の「奇跡」とそれを生み出す力について、青豆はよくわかっていない。また、この場面のつばさが「実体」ではなく「観念」のかたちと言われても青豆はよくわからないし、わたしたち読者もわからない。一方、教団の指導者はおそらくリトル・ピープルと関係するその異能の力の源泉のことはわかっているのだろう。作品世界の登場人物たちは、一般には現実世界のわたしたちの人間関係と同様な他者理解の中に置かれている。ここで「一般に」と書いたのは、この教団の指導者やふかえりは、霊能者のように普通人以上の察知力を持っている者として描かれているからである。それに対して物語世界を読み味わっているわたしたち読者は、語り手によって物語世界に対するある程度の俯瞰的な視線を持ち得ている。つまり、わたしたち読者は、個々の登場人物以上のことがわかっていることになっている。

 わたしたちは物語作品をシームレスな虚構の世界として自然なものとして読み味わっている。しかし、物語の世界がわたしたちの現実の世界と異なるのは、語り手や作者がいるということである。作者は普通は物語世界の背後に控え、作者によって物語世界に派遣された語り手が、登場人物たちの内面に入り込んだり外面から描写したりして物語世界の動きを伝える。つまり、物語世界は、個々の登場人物たちの方から見渡せば、作者や語り手の遠くまで見渡す力や物語の未来を見通す力をまるで超能力のように秘めている世界と見えている、感じられている、と見なすこともできる。

 青豆は今や、この物語世界の始まりの時点から「大小ふたつの月が空に浮かぶこの世界に、この謎に満ちた『1Q84年』に私は引きずり込まれてしまった」と気づいている。この物語世界の登場人物としての青豆は、現実世界でわたしたちが日々生きるように、様々な問題に対処していく。不明なことはこのように探索していく。ただ現実世界でわたしたが日々の生活することと登場人物である青豆の行動が少し違う点は、登場人物である青豆が知らない間に語り手や作者によって自分の行動をそそのかされたり、制御されたりしているということである。もちろん、それは登場人物にとっては、物語世界の外の天から降りてくることであり、自覚しようのないことである。

 ここで、さらに内省を加えてみると、先に「少し違う点」と述べたけれど、もしかするとわたしたちの日々の生活も個の自由意志による個の固有の選択の連鎖と見なせる面もあるが、登場人物である青豆の場合と同様に現在の社会や社会システムの繰り出してくる「マス・イメージ」などによってわたしたちは行動をそそのかされたり、制御されていると見なせる面もあるように感じる。そのもっともわかりやすい例は、広告産業による「マス・イメージ」が日々私たちの身近に押し寄せていることである。

 ところで、そのようにして青豆は探索する。



 『空気さなぎ』は世間の人々が考えているように、十七歳の少女が頭の中でこしらえた奔放なファンタジーじゃない。いろんな名称こそ変えられているいるものの、そこに描写されているものごとの大半は、その少女が身をもってくぐり抜けてきた紛れもない現実なのだ ― 青豆はそう確信した。(19章 P418)


 いずれにせよ、 『空気さなぎ』という物語が、大きなキーになっている。
 すべてはこの物語から始まっているのだ。
 しかし私はいったいこの物語のどこにあてはまるのだろう?
 ・・・中略・・・
 彼女は目を閉じ、考えを巡らせる。
 私はたぶん、ふかえりと天吾がこしらえた「反リトル・ピープル的モーメント」の通路に引き込まれてしまったのだ。そのモーメントが私をこちら側に運んできた。青豆はそう思う。ほかに考えようがないではないか。そして私はこの物語の中で決して小さくはない役割を担うことになった。いや、主要人物の一人と言っていいかもしれない。
 青豆はまわりを見回した。つまり、私は天吾の立ち上げた物語の中にいることになる、と青豆は思う。ある意味では私は彼の体内にいる。彼女はそのことに気づく。いわば私はその寝殿の中にいるのだ。
(19章 P421-422)



 登場人物の青豆は、自分が考えを巡らせ、自分の考えや意志で自分が行動していると思っているだろう。しかし、上の引用部分で、会話あるいは独白としてのかぎ括弧が無いせいもあるが、「私」、「彼女」、「青豆」など、入り乱れた文章になっている。青豆の独白や行動を描写するのは語り手なのであるが、それらが入り乱れた状況は、青豆が語り手や背後の作者の意向と深いつながりにあることを示唆していると思う。しかも、青豆が自認しているように、物語の「主要人物」ならなおさらその傾向が強いだろう。裏を返せば、上の青豆の考え巡らせたことは、語り手や作者の考えやイメージが貫徹されたものでたぶんこの物語世界では正しい把握に違いない。

 青豆が読む『空気さなぎ』の内容によってリトル・ピープルのことや教団のことが明らかにされていく。わたしたち読者の前にも、いろんな事情が明らかにされていく。しかし、まだまだ「1Q84年」の世界は靄に包まれている。



 2.「文体」について再び


 青豆の一時的な身を隠すホテルに老婦人のスタッフが新刊書もいくらか用意してくれていて、そこにあのふかえりという著者名の『空気さなぎ』という本もあった。読書日誌 ⑥で、一度「文体」ということに触れた。次の文章も「文体」についての描写と言えるだろう。



 そして本の匂いを嗅いだ。新刊書特有の匂いがした。その本には名前こそ印刷されてはいないけれど、天吾の存在が含まれている。そこに印刷されている文章は天吾の身体を通り抜けてきた文章なのだ。彼女は気持ちを落ち着けてから、最初のページを開いた。(17章 P378)



 青豆には、ふかえりのような研ぎ澄まされた宗教的な直感力というか霊能者のような見通す目は持たないようだから、『空気さなぎ』を天吾が書いたということは同じくそのような力を持つ教団の指導者が殺される前の対話で教えてくれたのだったか、わたしの記憶ではよくわからない。ともかく、「天吾の身体を通り抜けてきた文章」という青豆の認識には、文章の特色というものはそれを書いた人(作者)の固有性が織り込まれたものである、というような捉え方がある。人の仕草や表情にその人の固有の「性格」というものが表れるように、文章にも書いた人(作者)の固有性が表れているということになるだろう。そうして、このような「文体」観はアジア特有のもののような気がする、あるいは、少なくともこの列島特有なものである。これに対して、推測的にしか言えないが、欧米の「文体」観は、修辞や表現の形式などの形式的な面を指しているように思われる。



 最初の十ページばかりを読んで、青豆はまずその文体に強い印象を受けた。もし天吾がこの文章を作りだしたのだとしたら、彼にはたしかに文章を書く才能が具わっている。・・・中略・・・
 あるいは天吾は彼女の語り口をただそのまま文章に移し替えただけなのかもしれない。彼自身のオリジナリティーは文体にそれほど関与していないのかもしれない。しかしそれだけではあるまいという気がした。その文章は一見したところシンプルで無防備でありながら、細かく読んでいくと、かなり周到に計算され、整えられていることがわかった。書きすぎている部分はひとつもなかったが、それと同時に、必要なことはすべて書かれていた。形容的な表現は切り詰められているものの、描写は的確で色合いが豊かだった。そしてなによりもその文章には優れた音調のようなものが感じられた。声に出して読まなくても、読者はそこに深い響きを聞き取ることができた。十七歳の少女がすらすらと自然に書けるような文章ではない。(19章 P396-P397)



 前の引用よりも「文体」というものの周辺がもっとこまかにたどられている。青豆は十七歳のふかえりがディスレクシア(読み書き障害)であることはわかっていない。「あるいは天吾は彼女の語り口をただそのまま文章に移し替えただけなのかもしれない。」というように『空気さなぎ』という作品を読むことによって書かれた様子を想像するほかない。しかし、もちろんそこには語り手という存在によって語られることにより作者や語り手の意向も無意識のように働いたり付加されたりして青豆が描写されていると思う。

 ここでわたしのふと思い付いたことがある。このふかえりが語り、天吾がそれをもとに文章化して『空気さなぎ』という小説ができあがったということから、『古事記』というものの成り立ちを連想した。作者はどこかでそのような神話性を意識していたのではないだろうかと思う。







  『1Q84』( BOOK 2 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑪


  [1章から24章まで]

  2017.4.09 物語世界の終わりということ


 1.物語世界の終わりということ


 やっとこの作品の3分の2を読み終えた。もうこの2巻目でこの物語世界が終わっても別にいいよという気分にもなった。

 青豆は、この物語世界の出だしの場面で、渋滞する首都高速道路で予定の時間に間に合うようにタクシーから降りて高速の非常用階段から下の道路へ下りていく。そこから青豆は「1Q84」の世界に入り込んでいった。今また青豆は、首都高の前と同じ場所に戻ってきた。



 あたりの風景は前に来たときと変わりはなかった。鉄の柵があり、その隣に非常用電話の入った黄色いボックスがあった。
 ここが1Q84年の出発点だった、と青豆は思った。
 この非常階段を使って、下にある二四六号線に降りたときから、私にとっての世界が入れ替わってしまった。だから私はもう一度この階段を下りてみようと思う。


 もう一度同じことをやってみる。それはあくまで純粋な好奇心からなされることだ。あのときと同じ場所に、同じ服装で行き、同じことをして、どんなことが持ち上がるのか、私はただそれが知りたい。
(引用者註.しかしそこには「非常用階段」はなく出口はふさがれてしまっていた。)


 当然のことだ、と青豆は思った。
 そう、そんなことは最初からわかっていた。ホテル・オークラのスイートルームで、彼女の手にかかって死んでいく前に、リーダーもはっきりとそう言った。1Q84年から1984年に戻るための道はない。その世界に入るドアは一方にしか開かないのだ、と。
 それでもやはり青豆は、自分のふたつの目でその事実を確かめないわけにはいかなかった。それが彼女のネイチャーなのだ。そして彼女はその事実を確かめた。おしまい。証明は終わり。Q.E.D.
 (註.1)  (引用者註.そうして、しばらくして青豆は、リーダーを殺害に出かけるとき、もし万一バレて警護の者に取り押さえられることになったら自害するためとして用意してもらっていた銃を取り出した。そして「銃口を口の中に突っ込んだ。」)


 「天吾くん」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。
  (23章 P468-P474)




 読者としては、ああこれで主人公クラスの存在である青豆は自殺して死ぬのだなと思うだろう。一方、たぶん青豆のその行動と同時刻と思われる天吾は、療養所にいる昏睡状態の(育ての)父を訪れていて、その父が検査のためベッドから運ばれて行った後、そのベッドに白い物体の「空気さなぎ」を目にする。その「空気さなぎ」の中には、「美しい十歳の少女」である青豆が「深い眠りに就いていた。」天吾は「青豆」と何度か呼びかける。天吾は、その青豆の手に「生命の温もり」を感じ、二十年前と同じく「青豆はその温もりをここまで伝えに来てくれたのだ。」と思った。そして空気さなぎもその中の少女も消えていく。 (24章)



 これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。それがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうとしているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はない。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしなければ、この心を失いさえしなければ。
 彼は長いあいだそのまま目をつぶっていた。やがて目を開き、窓の外にある初秋の夜の暗闇を見つめた。海はもう見えなくなっていた。
 青豆をみつけよう、と天吾はあらためて心を定めた。何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと。 (24章 P500-P501)




 死んでいく青豆に対して天吾の未来を暗示させることで、物語世界はBOOK 2のこの最終描写で終わってもいいように感じる。もちろん、作者は別としても登場人物の主人公クラスの天吾も青豆もそして読者のわたしも、「1Q84」や「「リトル・ピープル」や「空気さなぎ」の意味がよく分かってはいない。しかし、ここで物語世界が終わるとすれば、天吾も青豆も幼少期に家族や学校などで深い心の傷を負った存在として描かれている。そして、少し純愛ものの読者として気恥ずかしくなるような通俗性を振りまきつつ、それらの心の深い傷が引き寄せる世界の象徴として「1Q84」や「「リトル・ピープル」や「空気さなぎ」があるのではないかと読者としてのわたしは考える。彼らはそのような寄せてくる「1Q84」のもたらす運命を乗り越えていこうとする。一方、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)の場合は、多崎つくるという若者がこの人間界で被った精神の受難がテーマになっていた。二つとも似たようなテーマで、この作品はは少年期、後者は青年期が対象となっている。

 わたしたちの人間世界を振り返ってみても、、スポーツ競技でも演劇でも催し物でも、つまり、すべてのことには始まりがあり、そこからの展開があり、終わりがあるというようになっている。同様に、人や生き物の命にも始まりがあり、終わりがあるように見える。物語はどこで終わってもかまわないけれど、この物語世界もそのような流れを形作っているはずである。つまり、作者としてはあるモチーフに沿ってできるだけはっきりとそのイメージや意味を、初めから終わりまで物語世界で貫きたいという意志を持ってこの作品を造型してきているはずである。

 (註.1) 「おしまい。証明は終わり。Q.E.D.」、この3つは同じ意味である。青豆の本当に終わったなという気持ちを、くり返し畳みかけるようにして語り手が語っている部分である。「Q.E.D」は数学用語で証明終わり(に近似する)という意味だ。ほんとは天吾の所で「Q.E.D」は語るのがしっくりくる。



 2.続いていく物語世界、作品の未来からの視線


 再び、この文章を書く時点でわたしはすでにBOOK 3を少し読んでいる。BOOK 2で物語世界は終わることなく続いている。目次に目をやると、いままでは、青豆-天吾と交互に章は構成されていたのに、牛河-青豆-天吾をくり返している。この牛河という登場人物は、今までに登場して天吾を二三度尋ねてきたことのある者で奇妙な人物として描写されている。今や教団に依頼されてリーダーを殺した者を調査する仕事をしている。青豆と老婦人のつながりを感じ取り調べ回っている。

 また、青豆の章がBOOK 3でも続いているということから、青豆が死ななかったのだということがわかる。上に引用した、BOOK 2の最終場面の天吾のモノローグは、「1Q84」の世界を登場人物の天吾が生き抜こうとする意志の表明であると同時に、作者のモチーフを貫徹していくという意志の表明にもなっている。そして、そこでの天吾が空気さなぎの中の青豆に何度か呼びかけたことが、遠く離れた青豆の耳というか心というかに届いて自殺を思いとどまらせたというような作品の描写になっている。ともかく、いくつかの不明な謎を抱えて物語世界はBOOK 3へと流れ込んでいく。



 3.物語の世界に投射される作者の感じや考え。


 天吾は台所で夕食の準備をした。ふかえりはレコード棚から熱心にレコードを選んでいた。それほど多くのレコードがあるわけでもないのだが、選ぶのに時間がかかった。熟考の末にローリングストーンズの古いアルバムを取りだし、ターンテーブルの上に載せ、針を下ろした。高校生のときに誰かに借りて、なぜかそのまま借りっぱなしになっているレコードだ。ずいぶん長いあいだ聴いていない。
 天吾は『マザーズ・リトル・ヘルパー』や『レディ・ジェーン』を聴きながら、ハムときのことブラウン・ライスを使ってピラフを作り、豆腐とわかめの味噌汁を作った。カリフラワーを茹で、作り置きのカレー・ソースをかけた。いんげんとタマネギのサラダも作った。料理を作ることは天吾には苦痛ではない。彼は料理を作りながら考えることを習慣にしていた。日常的な問題について、数学の問題について、小説について、あるいは形而上的な命題について。台所に立って手を動かしていると、何もしていないときよりうまく順序立ててものを考えることができた。しかしいくら考えても、ふかえりの言う「特別な場所」がどんなところなのか見当がつかなかった。
 (18章 P381-P382)



 物語世界には、物語の主流に関係ないことも含まれる。しかし、一見なくてもいいような場面にもそれなりの意味を負っていることが多い。「守り人」シリーズの作者、上橋菜穂子の作品にはよく食事の場面が出てくるが、それは人の生活や日常の肌感覚を表現し、そのことによって作品世界を生動させるためであるというようなことを本人が語っていた。上の引用部分で、「夕食の準備」は物語世界の日常の生活として意味がある。ふかえりの「ローリングストーンズの古いアルバム」選びとできた夕食を食べる時と、そして夕食後もその曲がかかっているということが、ふかえりの察知した、青豆が居るという「特別な場所」について天吾がそれはどこだろうかと思い巡らせることの妨げになる。そこで、「少し外に出てくる」という天吾の次の行動につながっていく。 
 しかし、それらの描写は、(天吾は台所で夕食の準備をした。そしてふかえりが棚から選んだローリングストーンズの曲をかけながら二人で向かい合って食事した。)というような骨格部分の描写だけではなく、きちんと現実味を表出するように枝葉やレコードにまつわるエピソードも付け加えられている。

 ここで、「料理を作ることは天吾には苦痛ではない。」や「彼は料理を作りながら考えることを習慣にしていた。」は、その枝葉の部分で、しかも付け加えられたエピソードの類いに属している。村上春樹の初期の頃の作品だったか、パスタの茹で方についての描写があったと記憶している。これら料理に関する描写は、作者の感じや考えが投射されたものではないかとわたしは感じているのである。作者の感じや考えに関わりなく、一般には登場人物の造型にはその物語世界での有り様から規定されて、現在のマス・イメージを借りてその登場人物の好みや考えが造型される。しかしその一方で、特に力点が置かれる主人公(あるいは主人公レベル)の人物には、作者の愛着も置かれやすいだろうし、それゆえに作者の感じや考えが投射されやすいこともまた確かなことである。ともかく、同一作者の他の作品も読んでくり返し出てくる描写は作者の感じや考えが投射されたものと見てまちがいない。







  『1Q84』( BOOK 3 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑫


  [1章から16章まで]

  2017.4.12 物語は続く


 1.物語の展開 1


 「牛河」という奇妙な、人に不気味な印象を与えできれば避けたいと感じさせる存在として描かれている登場人物は、以前に天吾に二三度近づいて来た。たぶん、「空気さなぎ」関係で教団の依頼による調査活動だったと思う。この最終巻では「牛河」という章にまでなっている。牛河は、教団のリーダーが死んだ後その殺害に関わっていると見なされている青豆のことを調査している。そして、青豆と老婦人のことを根ほり葉ほり調べた末に、これらがなんらかのつながりを持っているのではないかと推量する。



 しかしそれらの推測を裏付ける具体的な証拠はひとつとしてない。牛河が手にしているのはどこまでも仮説に基づいた状況証拠に過ぎない。オッカムの剃刀で簡単に切り落とされてしまいそうな代物だ。「さきがけ」にもこの段階ではまだ報告できない。ただ牛河にはわかる。そこには匂いがあり、手応えがある。全ての要素がひとつの方向を示している。老婦人は家庭内暴力を要因とするなんらかの理由で、青豆に指示を与えてリーダーを死に至らしめ、そのあと彼女をどこか安全な場所に逃亡させたのだ。コウモリの集めた資料は彼のそのような「仮説」をすべて間接的に裏付けていた。 (第7章 P143)



 この後、牛河は、小学校を訪ねて青豆と天吾も何らかの関係にあるのではないかと突き止めていく。ところで、牛河のこのような調査は、読者であるわたしたちにはお馴染みのものであり、むしろ牛河以上に相互のつながりを知っている。それでは、この牛河という物事に対する鋭い嗅覚と勘を持った登場人物は不要ではないかと思ってみる。

 しかし、この牛河のじわじわと主人公たちを追い詰めていく執念深さは物語の流れと展開に緊張感や緊迫感をもたらし、主人公たちの運命になんらかの影響を与えるような予感がする。そういうことで、牛河という存在はこの物語世界を張り詰めた切迫感を伴うものとして動態化するという重要な役割を担っているように見える。それが「牛河」という章を設けることにつながっていると思う。



 2.物語の展開 2


 牛河の推測とは違って、青豆は「どこか安全な場所に逃亡」する前、短期間で準備するためのホテルに逗留し続けている。そのホテルから見える公園で二つの月を眺めている天吾を偶然目にしたからだ。青豆は追いかけていったが天吾を見失った。また、天吾がその公園に来るかもしれないと、そのホテルに滞在し続けている。一方、天吾はその後少し長い休暇を取って父のいる療養所を訪れ、二人の出会いはまだない。その後、青豆は自分の体に妊娠したのではないかと異変を感じる。妊娠テストによると、妊娠していることを示していた。ふしぎなことに「処女懐胎」(P218)である。



 彼女は卵子のことを思う。私のために準備された四百個の卵子のひとつが(ちょうど真ん中くらいの番号のついたやつだ)、しっかりと受精したのだ。おそらくはあの九月、激しい雷雨のあった夜に、そのとき私は暗い部屋で一人の男を殺害した。首筋から脳の下部に向けて鋭い針を突き立てた。しかしその男は、彼女が以前に殺害した何人かの男たちとはまるで違っていた。自分がこれから殺されようとしていることを彼は承知し、またそれを求めてもいた。私は結局、彼の求めているものを与えた。懲罰としてではなく、むしろ慈悲として。それと引き替えに、青豆が求めているものを彼は与えた。深いくらい場所でのやりとりだった。その夜に受胎はひそやかにおこなわれたのだ。私にはそれがわかる。 私はこの手で一人の男の命を奪い、ほぼ時を同じくしてひとつの命を身ごもった。それも取り引きの一部だったのだろうか? (第11章 P216-P217)


それから出し抜けにひとつの考えが青豆の頭に浮かぶ。暗闇の中に突然一条の光が差し込むように。
 胎内にいるのはあるいは天吾の子供かもしれない。
 青豆は顔を軽くしかめ、その可能性についてひとしきり考えを巡らせる。どうして私が天吾の子供を受胎しなくてはならないのか?
 こう考えたらどうだろう。何もかもが立て続けに起こったあの混乱の夜、この世界に何らかの作用が働き、天吾は私の子宮の中に彼の精液を送り込むことができた。雷や大雨や、暗闇や殺人の隙間を縫うようにして、理屈はわからないが、特別な通路がそこに生じた。おそらくは一時的に。そして私たちはその通路を有効に利用した。私の身体はその機会を捉えて、貪るように天吾を受け入れ、そして受胎した。・・・中略・・・
 おそろしく突飛な考えだ。まったく理屈が通っていない。どれだけ言葉を尽くして説明しても、たぶん世界中の誰ひとり納得させられないだろう。しかし私が妊娠すること自体、理屈の通らない話なのだ。そしてここは1Q84年だ。何が起こってもおかしくない世界だ。  (第11章 P218-P219)




 この青豆の想像する受胎の場面は、青豆がリーダーを殺害するのと同時刻のふかえりが主導するふかえりと天吾の儀式めいた交わりと天吾の射精の場面の描写と対応しているのだろうとわたしたち読者は推量する。「1984」ではあり得ない「処女懐胎」だけど、「1Q84」ではあり得るのだろうと一応は納得する。

 しかし、 「それと引き替えに、青豆が求めているものを彼は与えた。深いくらい場所でのやりとりだった。その夜に受胎はひそやかにおこなわれたのだ。私にはそれがわかる。 私はこの手で一人の男の命を奪い、ほぼ時を同じくしてひとつの命を身ごもった。それも取り引きの一部だったのだろうか?」という、青豆と語り手が溶け合ったようなこの描写は、青豆の外(語り手や作者)からの判断が関与しているように見える。そして、ふしぎなことにその次には、突然それは天吾の子供かもしれないと来る。作者は、この「処女懐胎」を1Q84年という異次元世界を通した青豆と天吾との心的な深い交流と見なしたがっているのかもしれない。

 「1Q84」、「リトル・ピープル」、「空気さなぎ」、レシヴァとパシヴァ、ドウタとマザ、これらの謎への手がかりを今までに作者や語り手が物語世界のあちこちで散布してきていたような気もするが、しかし、わたしたち読者は相変わらず様々な謎の結節点がうまくイメージできないままである。この物語世界が単なるエンターテインメントの荒唐無稽な作品世界ではないとすればである。







  『1Q84』( BOOK 3 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑬


  [1章から31章まで]

  2017.4.16 物語は終わり、読者は作品を出る


 1.物語は終わる


 天吾と青豆に追及の手を伸ばしていた牛河は、老婦人の強力なスタッフであるタマルによって殺されて、天吾と青豆はとうとう出会うことできた。(第27章)

 青豆はこの物語世界の始まりで首都高から下の道路に下りて「1Q84」の世界に入り込んでしまった。青豆は、その下りた地点からから今度は逆にたどることによって「1Q84」の世界から抜け出せるのではないかと考えて、知り合いのタマルに別れを告げ、天吾といっしょにそれを実行する。出口から出た世界には月は二つは出ていないがそこが「1984」の世界かどうかはわからない。青豆には少し疑念がある。



 ここがどんな世界か、まだ判明してはいない。しかしそれがどのような成り立ちを持った世界であれ、私はここに留まるだろう。青豆はそう思う。私たちはここに留まるだろう。この世界にはおそらくこの世界なりの脅威があり、危険が潜んでいるのだろう。そしてこの世界なりの多くの謎と矛盾に満ちているのだろう。行く先のわからない多くの暗い道を、私たちはこの先いくつも辿らなくてはならないかもしれない。しかしそれでもいい。かまわない。進んでそれを受け入れよう。私はここからもうどこにも行かない。どんなことがあろうと私たちは、このひとつきりの月を持った世界に踏み留まるのだ。天吾と私とこの小さなものの三人で。(第31章 P601-P602)



 この引用部分はこの物語世界のほぼ終末部分である。こうして、物語は終わる。アメリカのテレビドラマのようなエンターテインメントの作品として眺めるならば、読者をずいぶんもてなし楽しませてくれた作品であると言えるだろう。



 2.作者の物語世界に込めたモチーフ


 しかし、作者のあるモチーフを込めた物語世界として見るならば、わたしには不十分な造形の作品と感じられた。

 大学紛争の時からの流れを持つコミューン「さきがけ」とその宗教的な教団への変質。しかし、コミューン「さきがけ」や教団やそこに生きる人々が、内部から徹底して生き生きと描写されるわけではない。また、太古から存在してきたと描写された「リトル・ピープル」だが、何か深い歴史性が明らかにされるのかなと思いきや、最後までそれはなかった。ただ、おそらく主人公の天吾と青豆に関わってくる範囲で、それらは外面描写や教団の主立った登場人物であるふかえりやリーダーを通して語られるにすぎない。そうして、「1Q84」の世界は、雷を起こしたり人の心を察知したりできる「リトル・ピープル」や同じく常人を超えた察知力をもつふかえりやその父親のリーダーが登場する異様な世界であった。

 そこで、この作品をいろんな仕掛けのある少々手の込んだ単なるエンターテインメントの作品と見なさないとすれば、家族の中でともに深い心の傷を負った少年と少女(天吾と青豆)の二十年に及ぶ「超純愛」ということになるだろう。それは、「1Q84」という世界に呼び込まれて一種異様な「1Q84」という世界の通路を通して天吾と青豆が結ばれる。ふたりは強いられる世界で自由意志を発揮して生きていこうとする。(ここで、素朴な疑問がある。青豆が作品の冒頭で「1Q84」という世界に入り込んだのはわかったが、どうして天吾も「1Q84」という世界にいたのだろう。)

 上の最終場面の描写にしても、若い作者が書くのならわからないでもないけれど、この深く魂を病んだ二人が異世界に入り込んで「超純愛」を遂げるというというのが老年に近づいた作者村上春樹のモチーフとすれば、余りにも白々しい通俗性と言うほかない。

 かつて大原富枝は『アブラハムの幕舎』というすぐれた作品を書いた。現実に事件としてあった祖母を殺して自身は飛び降り自殺をした荒れ果てた少年の心の在所をモチーフとしていたように思う。この現実世界には、普通に行動し人と関係し生活している人々を〈強者〉と見なすほかないような、そういう普通の場所から一段落ち込んだ負の世界に生きている人々がいる。その少年も実はそうした魂の在所を持っていたのではないかと作者は見なしている。この物語世界を通した作者のモチーフは、現実世界で日々魂の受難を被っている人々にスポットライトを当てることであった。そして、そういう人々が生きていく細い道筋をイメージすることにあったと思う。

 ところで、天吾と青豆も小さい頃深い魂の傷を負っている。十歳の時青豆は学校で急に黙って天吾の手を握った。そこから二人とも互いを思い始める。小さな病める魂同士が深い場所で一瞬にして出会い感応し合ったということなのだろう。しかし、それも含めて二十年間も一度も会うことなく「超純愛」が持続したというのは異様な印象を与える。

 これは何の喩なんだろうか。この物語世界が天吾と青豆が主流にあるのは間違いないと思う。しかし、素直にその「超純愛」というモチーフを受け入れることはできない。とりあえず「超純愛」という通俗なモチーフを認めないとすれば、作品世界の無意識的なものとしては、神話世界を思わせる過剰な性描写によってその「超純愛」という通俗性を賦活していると見ることができる。一方、作者の無意識のほうに返せば、老年に近づいた作者の老いの徴候を賦活するというモチーフが込められているのではなかろうか。いつまでも昔と同じままで若者を取りあげて物語世界を走らせることはできないだろうから。

 喩として考えてみると、深い魂の傷を負った者は同様な傷を負った者としかほんとうは通じ合うことができないという喩として受け取るほかないように見える。

 ひとつ気になることがある。作者は、この作品にパズルのような仕掛けを施しているのではないかということである。(第23章 P474-P479)この物語世界に、ふかえりが語り天吾が書いた『空気さなぎ』や天吾自身が書いている物語作品が内蔵され、しかもそれらが物語世界自体や青豆などの登場人物にも見えないところから関与して動態化させていると語り手は語っている。つまり、物語世界に別の小さな物語世界が作られて全体の物語世界に関与したり影響を与えるというのである。いずれにしても、それは作者の魂のモチーフには深く関わっていないと思われる。
 
 作品に依然として謎のように靄が立ち込めて見えるのはしょうがない。とりあえず、わたしが一回目の読みでたどれたのはここまでである。







  『1Q84』( BOOK 3 村上春樹 2009年)読書日誌 ⑭ (終わり)


  ⑭ 2017.4.17 作品を読み終えて


 1.物語ということ


 大雑把に捉えてみて、人間が遙か太古に意識の上で〈自然〉と分離された〈人間〉という意識を形作った後、太古の人間によって生み出された、現在から見たら宗教性を帯びた〈物語〉はその猛威と慈愛を併せ持つ正体不明の母(大いなる自然)に対する語りかけ(願いや取引や尊崇など)の言葉であったろう。語り手も聞き手も大いなる自然にとってはちっぽけな幼児のような人間であり、もちろん、物語の世界や構成はそのような人間の意識が生み出したものであった。太古に長い長い時間をかけて紡ぎ上げられた大いなる自然(神)と人間とが関わる世界の物語、つまり太古の万民が共有する世界観、初源の物語は、そのような万民に共有される物語だったと思われる。

 そこから人類史が段階を次々に画していくように、物語も推移していく。〈大いなる自然(神)〉と〈人間〉の関係する物語から、人間界の成長と複雑化と共に物語も人間界に引き入れられて、〈貴人(神)〉と〈人間〉の関係する物語へと変貌していく。柳田国男の述べるところによれば、そのような物語を専門に語り歩く人々は、大筋は万民に共有される物語の主流 ― 例えば「貴種流離譚」など ― を語るのであるが、そこには聴衆が興味をひくような小さなことがらがその語り手個人によって付け加えられることがあったという。

 近代になって、欧米の文学や思想の大波をかぶって後この列島の物語も本格的に現在の物語とつながるような変貌を遂げていく。従来の語りや物語が、だれでもそういう物語の流れや起伏に悲しさや喜びを感じるという共同のイメージ(「マスイ・メージ」)の表現に主流があったとすれば、近代以降はそれらの共同のイメージに応える(同調的であれ、批評的であれ)ということは持ちながらも、個の物語が主流となっていく。ちょうど上に述べた物語を専門に語り歩く人々が、聴衆が興味深いと思うだろうことをこまごまと付け加えるという当時では支流に当たるようなことが、近代以降はそれ以前と逆転した形になって、主流になっていく。

 ひとりの人間が、さあ表現するぞという〈作者〉に変身し、〈作者〉のある表現のモチーフを貫くために物語の世界や登場人物や物語の流れや起伏を大まかに構想しながら、架空の〈表現世界〉に〈語り手〉〈登場人物〉を派遣する。これは作者の精神的な対象化、外化に当たっている。現在の精神的な大気を呼吸する〈作者〉は、現在までに蓄積されてきた表現の歴史の頂から、〈物語世界〉の背後に控えながら、〈語り手〉が〈作者〉の意志を念頭に置きつつ物語の世界を開いていく。これはちょうど〈作者〉を会社、〈語り手〉をその社員と考えるとわかりやすいと思う。〈作者〉は、見分けにくいとしても作者の独特な好みや考えの投影としてとして〈物語世界〉に入り込んだり、あるいは作者の作品に対するモチーフとして〈物語世界〉の底流を流れている。

 物語は、この村上春樹の作品『1Q84』のように現在では主要に個に属し個によって開かれるという段階に到っている。物語はここまで来てしまった。太古から物語は何かに役立つという功利性ではなく、止むに止まれぬ人間的な表出、表現ということを本質としていた。このことは、現在においても不変である。また物語は、読者(聴衆)を心から楽しませる要素とじっくり考えさせるような要素との二重性を太古から持っていただろうと思う。現在では、エンターテインメントの作品や純文学作品やファンタジーの作品などと依然としていろいろ区分けされているが、その太古以来の物語の持つ二重性が、どちらに大きなウエートをかけて物語が作られているかの違いに過ぎない。そうして、いかなる物語作品であれ、わたしたち読者の内面を流れ、楽しませたり、慰藉したりして始まりから終わりまでを全うし消えていく。


 註.
 以上述べたような、〈作者〉、〈表現世界〉、〈語り手〉、〈登場人物〉などの人間活動の外化や観念的な対象化については、うまくできているかどうかは別にして、わかりやすく述べていた三浦つとむに大きく負っている。

 三浦つとむは、この我が列島の印象批評に象徴される世界、言葉や文学や思想といってもはっきりとそれらが分離されたり関係づけたりされることのないあいまいな溶け合ったような世界(それは正負を併せ持つこの列島の「アフリカ的な段階」の名残だと思う)に、マルクスの思想やマルクス主義という外来のものを介していたとしても、それらを自力で考え咀嚼し、考えを推し進め構成してわたしたちの前にわかりやすい形で披露してくれた。わたしは、三浦つとむの人間の認識や表現を通した言葉や日本語の研究、『日本語はどういう言語か』や『弁証法とはどういう科学か』など、ずいぶんお世話になってきた。わたしたちが現在、対象を論理的に捉えようとするとき、この三浦つとむの業績が深い影を指して支援してくれているのを感じる。












 『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌①


 1.物語の終盤まで来て


 読みは、第2部(遷ろうメタファー編)の終盤に差しかかっている。読者であるわたしはこの物語の世界に引き込まれるように読み進んできたが、さすが年季の入った作者だけのことはある。用意周到、いろんなしかけや物語の起伏があった。さて、物語世界も終盤に近づいていろんなものが明らかにされていく。



 トーストを二枚焼いて、卵二つの目玉焼きをつくり、それを食べながらラジオのニュースと天気予報を聴いた。株価が乱高下し、国会議員のスキャンダルが発覚し、中東の都市では大がかりな爆破テロ事件があって多くの人が死んだり傷ついたりしていた。例によって、心が明るくなるようなニュースはひとつも聞けなかった。しかし私の生活に今すぐ悪い影響を及ぼしそうな事件は起こっていなかった。それらは今のところどこか遠くの世界の出来事であり、見知らぬ他人の身に起こっている出来事だった。気の毒だとは思うが、それに対して私に今すぐ何かができるわけではなかった。天気予報もまずまずの気候を示唆していた。素晴らしい日和とも言えないが、それほどひどくもない。一日中うっすら曇ってはいるものの、雨が降るようなことはないだろう。たぶん。
 (『騎士団長殺し』第2部 遷ろうメタファー編 P186)




 主人公の「私」は、雨田政彦と美大時代からの友達であり、その父の雨田具彦はヨーロッパに留学したことのある画家であったが、今では「現在九十二歳になり」(第一部 P82)療養所に入っている。「私」は、一方的に妻から別れようと言われて、一二ヶ月の放浪の後、山中にある雨田具彦の自宅を借りて住むことになる。そこで屋根裏に隠すようにしてしまわれていた雨田具彦の絵「騎士団長殺し」を「私」は見つける。そしてその家の裏手には祠と穴があった。この二つが作品を異界に引きずり込み作品世界を動態化していくことになる。しかし、今は「私」の穏やかな時間である。

 そんな「私」のある日の情景である。ネットやマスコミなどを介して以前よりわたしたちにとっての世界は収縮してしまっている。わたしたちの中心は当然日々の小さな暮らしの中にあるわけだが、そこには収縮した世界画像がもたらすものが、つまり国内外の様々な悪いニュースに象徴されるような物が、どんよりした空のようにかぶさっている。わたしたちはそれらのどんよりした世界画像の空を天気と同じようにほとんど左右することはできない。これが「私」の心情であり倫理的な有り様である。しかし、それは現在を生きるわたしたちの有り様と同じものである。

 そして、わたしたちは誰でも小さな「私の生活」という日常で「遠くの世界の出来事」というように見なせないことに遭遇する。わたしたちは社会という関わり合う世界に生きているから、それは人間関係の問題であったり、結婚問題であったりなど、「世界」はわたしたちに押し寄せてきて、「世界」と関わることなく小さな「私の生活」に自足することは不可能に近い。

 主人公の「私」も、「世界」に引き寄せられるように不可思議な世界に入り込んでいく。『1Q84』(2009年)でも荒唐無稽な物や出来事が登場したが、この物語世界でも同様に登場する。ちょうど主人公の魂の再生を求めての異界巡りのように。『1Q84』で天吾がふかえりの巫女役のような仲介で遠く離れた青豆を受胎させたのと似た場面も登場する。妻のユズに別れようと言われて「私」は放浪の旅に出た。その旅先で濃厚な性夢を見て射精した。元妻のユズは恋人の下に居たがそのことによってユズは妊娠したのではないかと語り手は言いたがっているように見える。

 わたしたちは手品を現実にはあり得ないと思いながら、空中浮揚や人体切断など真に迫った出し物の世界に引き込まれることがある。この物語世界の登場人物達も作品世界では「現実的には」現実世界のわたとたちと同じようなありふれた人物だ。もちろん、『スター・トレック』に出てくる異星人、物や人の「転送装置」や飲食物や機械部品などを複製する「レプリケーター」など現実にはあり得ないようなもので荒唐無稽に見えたとしても、それらが物語世界の物語的な真に仕えている限りは、読者(観客)は手品と同様に受け入れているはずだ。こうして、ありふれた日常を生きている画家である「私」にも手品の世界のような、イデア、それが「形体化」(現実化)して、雨田具彦の絵「騎士団長殺し」の中の「騎士団長」として身長は60㎝大になって「私」の前に登場したりするのである。ここまで読者として、エンターテインメントとしては物語世界を十分に味わうことができたと思う。

 もう物語の終盤のはずだが、まだ全体を通した作者のモチーフはよくわからない。最近の作品の系列が対象とする主人公の年代から見ると、『1Q84』(2009年)は少年・少女期からの内面の深い傷を抱えた若い主人公たちの遍歴。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)は高校生という青年期の人と人とが関わり合う意識の世界、仲間内などの集団形成の問題。そして、この『騎士団長殺し』( 2017年)は、結婚生活に入った若い「私」の遭遇する問題。いずれの作品も様々な年代の抱える魂の問題とその回復への道行きを対象としているように見える。しかし、老年に近い作者は若者ばかりを中心に据えた物語を描いてきているが老年を直接にはまだ描いていない。

 ※『騎士団長殺し』(ウィキペディア)の「あらすじ」や「登場人物」のまとめは簡潔で、主人公「私」の年齢確認など参考にさせてもらった。







 『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌②


 2.絵画論として読む


 『騎士団長殺し』第1部顕れるイデア編を読み終え、第2部遷ろうメタファー編の60章まで読んだ。あと4章が残っている。物語にいろんな仕掛けが施され時々予兆(作品の未来からの言葉)も組み込まれていて、読者としては退屈することなく読み進められるのではないかという印象を持った。

 この作品に出て来る料理に触れた文章に出会った。


村上春樹『騎士団長殺し』の料理が昭和レトロな件。実際につくって検証してみた(特別寄稿・鴻巣友季子)エキサイトレビュー 2017年4月23日
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20170423/E1492849566524.html


 作品の批評は、もちろん作者のモチーフの線上に接近してモチーフと化した作者と対面しようとすることが中心的な課題だとても、作品は読者によってどのようにでも読まれ得る。したがって、作品の批評もまたいろんな角度から入って行くことができる。今まで流行を取り入れてきた作者であるが、この「料理が昭和レトロ」ということもこの作品世界や作者の表現の有り様を幾分か明らかにするものかもしれないと思う。つまり、どんな細部にも作品世界に込めた作者の意識的あるいは無意識的なモチーフと何らかのつながりを持っているはずである。

 わたしもそれに倣ってこの作品を作者、村上春樹の絵画論という角度から入ってみようと思う。『1Q84』の主人公天吾は数学が専門で予備校の先生をしているという設定だった。しかし、数学という世界からの認識が披露されることはほとんどなかった。

 この『騎士団長殺し』という作品では、主人公の「私」が画家であり、「私」を通して絵画についての捉え方が披露されている。わたしは素人ではあるが「私」の絵画などの造形に対する認識や考えはずいぶんその道の修練を積んだもののように感じられた。作者は、この作品の中で絵画的なものを造形するためにそれなりの絵画の世界の体験や修練を積んだはずだと思われる。なぜなら、作者を通してしか「私」の絵画把握や絵画観は物語世界にやって来ないからである。

 まず、素人なりのわたしの大雑把な絵画把握を書いてみる。

 言葉による物語の世界では、ある人が、〈作者〉に変身して〈表現世界〉に入り込み、何か表出の欲求が芽ばえ、具体的なモチーフとなって流れ出すとき、その表現世界という舞台では、それまで特定の時代の下周囲の世界と関わりながら固有の生活史・精神史を歩み積み重ねてきた〈作者〉が、〈語り手〉や〈登場人物〉を派遣してその〈表現世界〉という舞台にひとつの〈物語〉を築いていく。〈作者〉が〈表現世界〉で言葉(精神化された文字)を書き記していくわけであるが、〈物語〉を進行させて行くのは〈作者〉に派遣された〈語り手〉や〈登場人物〉たちである。〈作者〉は普通は〈表現世界〉上で〈物語〉の後景に控えていることになる。

 これは、言葉による表現である物語の場合であるが、絵画(美術)表現の場合も同様であると思う。ただし、物語の場合の〈語り手〉や〈登場人物〉は〈作者〉から分離・派遣されることはなく、〈作者〉自体が〈表現世界〉に入り込みそこに〈キャンバス〉を据えて精神化された〈キャンバス〉と対話しながら〈物語〉の場合の言葉ではなく、〈キャンバス〉に点・線・面を選択・構成したり色を選択しのせていく。つまり、〈作者〉は、情感を持ったり精神化した線や形や色を駆使して精神化された〈キャンバス〉と対話をくり返しながら、ひとつの固有の世界を造形していく。この表現の過程で湧き上がる言葉は、重たいとか暗すぎとか軽やかなど主要には内臓感覚的な言葉であり、言葉は線や形や色に溶け込んでいると見なせると思う。

 この作品は、作者の絵画論として読むこともできる。画家の「私」を通しておそらく作者の絵画についての捉え方や考え方が披露されている箇所を抜き出して見出しを付けてみる。全体として作者は十分に絵画修業をしてきてこの作品に取りかかっているように感じられた。絵画を長らく画いている人ならそれがどの程度か大体わかると思う。わたしの感じでは、絵画のことが言葉の描写で表現されているから作者の村上春樹の言葉の深さも関わっているが、付け焼き刃程度の絵画修業ではないという印象を持った。


 第1部
1. P262L6-P263L15
2. P281L5-L18,P282L8-L12
3. P299L1-P300L2
4. P33017-P331L181
5. P357L8-L16
6. P361L7-L15
7. P392L3-L10
8. P429L6-L19
9. P476L6-L17
10.P482L4-L15
11.P496L1-L11
 
 第2部
12. P13L11-P14L4
13. P111L2-L15
14. P155L10-L15
15. P218L1-L9

---------------------------------

 第1部
1. P262L6-P263L15
 (ひとつの情念につながる色。情念を統合するイデアのようなものが必要。)


 そうしてできあがった絵画を眺めているうちに、次の色が自然に頭に浮かんできた。オレンジ。ただのオレンジではない。燃えたつようなオレンジ、強い生命力を感じさせる色だが、同時にそこには退廃の予感が含まれている。それは果実を緩慢に死に至らせる退廃かもしれない。その色作りは、緑のときより更にむずかしかった。それはただの色ではないからだ。それはひとつの情念に根本で繋がっていなくてはならない。運命に絡め取られた、しかしそれなりに揺らぎのない情念だ。そんな色を作り出すのは簡単なことではない、もちろん。しかし最終的にには私はそれを作りあげた。私は新しい絵筆を手に取り、キャンバスの上にそれを走らせた。部分的にはナイフも使った。考えないことが何より大事だった。私は思考の回路をできるだけ遮断し、その色を構図の中に思い切りよく加えていった。その絵を描いている間、現実のあれこれは私の頭の中からほぼ完全に消え去っていた。・・・中略・・・免色のことすら考えなかった。私が今描いているのは言うまでもなく、そもそも免色の肖像画として始められたものだったが、私の頭にはもう免色の顔さえ思い浮かばなかった。免色はただの出発点に過ぎなかった。そこで私がおこなっているのは、ただ自分のための絵を描くことだった。
 どれくらいの時間が経過したのか、よく覚えていない。ふと気がついたときには室内はずいぶん薄暗くなっていた。秋の太陽は既に西の山の端に姿を消していたが、それでも私は灯りをつけるのも忘れて仕事に没頭していたのだ。キャンバスに目をやると、そこには既に五種類の色が加えられていた。色の上に色が重ねられ、その上にまた色が重ねられていた。ある部分では色と色が微妙に混じり合い、ある部分では色が色を圧倒し、凌駕していた。
 私は天井の灯りをつけ、再びスツールに腰を下ろし、絵を正面からあらためて眺めた。その絵がまだ完成に至っていないことが私にはわかった。そこには荒々しいほとばしりのようなものがあり、そのある種の暴力性が何より私の心を刺激した。それは私が長いあいだ見失っていた荒々しさだった。しかしそれだけではまだ足りない。その荒々しいものの群れを統御し鎮め導く、何かしらの中心的要素がそこには必要とされていた。情念を統合するイデアのようなものが。しかしそれをみつけるためには、あとしばらく時間を置かなくてはならない。ほとばしる色をひとまず寝かさなくてはならない。それはまた明日以降の、新しい明るい光の下での仕事になるだろう。しかるべき時間の経過がおそらく私に、それが何であるかを教えてくれるはずだ。それを待たなくてはならない。



2. P281L5-L18,P282L8-L12
 (何ひとつ知らない免色渉という存在を総合的なひとつの形象として絵画的に、画面に浮かび上がらせる)


 私はスツールから起ち上がり、絵の具箱の中から急いで白い絵の具をかき集め、適当な絵筆を手にとって、なにも考えずに分厚く、勢いよく、大胆に自由にそれを画面に塗り込んでいった。ナイフも使い、指先も使った。十五分ばかりその作業を続け、それからキャンバスの前を離れ、スツールに腰掛け、出来上がった絵を点検した。
 そこには免色という人間があった。免色は間違いなくその絵の中にいた。彼の人格は―それがどのような内容のものであれ―私の絵の中でひとつに統合され、顕在化されていた。私はもちろん免色渉という人間のありようを、正確に理解できてはいない。というか、何ひとつ知らないも同然だ。しかし画家としての私は彼を、総合的なひとつの形象として、腑分けできないひとつのパッケージとして、キャンバスの上に再現することができる。彼はその絵の中で呼吸をしている。彼の抱える謎さえもが、そのままそこにあった。
 しかしそれと同時に、その絵はどのような見地から見ても、いわゆる「肖像画」ではなかった。それは免色渉という存在を絵画的に、画面に浮かび上がらせることに成功している(と私は感じる)。しかし免色という人間の外見を描くことをその目的とはしていない(まったくしていない)。そこには大きな違いがある。それは基本的には、私が自分のために描いた絵だった。
 
 私はそれからなおも半時間近く、スツールに座ってそのポートレイトをじっと見つめていた。それは私自身が描いたものでありながら、同時に私の論理や理解の範囲を超えたものになっていた。どうやって自分にそんなものが描けたのか、私にはもう思い出せなくなっていた。それは、じっと見ているうちに自分にひどく近いものになり、また自分からひどく遠いものになった。しかしそこに描かれているのは疑いの余地なく、正しい色と正しい形をもったものだった。




3. P299L1-P300L2
 (ある意味ではあなたはこの絵を発見したのです)


 私は彼の顔を見た。その目を見て、彼が本当の気持ちをそのまま語っていることがわかった。彼は心から私の絵に感心し、心を動かされているのだ。
「この絵には私がそのまま表現されています。」と免色は言った。「これこそが本来の意味での肖像画というものです。あなたは間違っていない。実に正しいことをした」
・・・中略・・・
「しかしどのようにして、あなたはこの絵を発見することができたのですか?」と免色は私に尋ねた。
「発見した?」
「もちろんこの絵を描いたのはあなたです。言うまでもなく、あなたが自分の力で創造したものだ。しかしそれと同時に、ある意味ではあなたはこの絵を発見したのです。つまりあなた自身の内部に埋もれていたこのイメージを、あなたは見つけ出し、引きずり出したのです。発掘したと言っていいかもしれない。そうは思いませんか?」
 そう言われればそうかもしれない、と私は思った。もちろん私は自分の手を動かし、自分の意志に従ってこの絵を描いた。絵の具を選んだのも私なら、絵筆やナイフや指を使ってその色をキャンバスに塗ったのも私だ。しかし見方を変えれば、私は免色というモデルを触媒にして、自分の中にもともと埋もれていたものを探り当て、掘り起こしただけなのかもしれない。ちょうど祠の裏手にあった石の塚を重機でどかせ、格子の重い蓋を持ち上げ、あの奇妙な石室の口を開いたのと同じように。そして私の周辺でそのような二つの相似した作業が並行して進行していたことに、私は因縁のようなものを見ないわけにはいかなかった。ここにあるものごとの展開はすべて、免色という人物の登場と、あの真夜中の鈴の音と共に開始されたようにも思えた。




4. P33017-P331L18
 (いっさいのプランを持たず、何も考えずに、まず一本の縦の線を引いた。私が語るのではなく、線とスペースに語らせるのだ。線とスペースが会話を始めれば、やがては色が語り始める。そして平面が立体へと徐々に姿を変えていく。)


 (註.「私」が妻に別れようと言われて車で放浪の旅に出たその旅先で見かけた男、「白いスバル・フォレスターに乗っていた中年男」の肖像を書き始める)

 今回、私は下描きから始めることにした。私は起ち上がって木炭を手に取り、キャンバスの前に立った。そしてキャンバスの空白の上に男の顔の居場所をつくっていった。いっさいのプランを持たず、何も考えずに、まず一本の縦の線を引いた。そこからすべてが始まっていくはずの、中心をなす一本の線だ。そこにこれから描かれるのは、痩せて日焼けをした一人の男の顔だ。額には深い皺が何本も刻まれている。目は細く、鋭い。遠くの水平線を凝視することに慣れている目だ。空や海の色がそこに染み込んでいる。髪は短く刈り込まれ、まばらに白髪が混じっている。おそらくは寡黙で我慢強い男だ。
 私はその基本線のまわりに、木炭を使って何本かの補助的な線を加えていった。そこに男の顔の輪郭が起ち上がってくるように。自分の描いた線を数歩下がったところから眺め、訂正を加え、新たな線を描き加えた。大事なのは自分を信じることだ。線の力を信じ、線によって区切られたスペースの力を信じることだ。私が語るのではなく、線とスペースに語らせるのだ。線とスペースが会話を始めれば、やがては色が語り始める。そして平面が立体へと徐々に姿を変えていく。私がやらなくてはならないのは、彼らを励ますことであり、手を貸すことだ。そして何より彼らの邪魔をしないことだ。
 その作業が十時半まで続いた。・・・中略・・・その時点までに仕上がった下絵を、私は少し離れた場所から、あちこちの角度から眺めてみた。そこには私の記憶している男の顔があった。というか、その顔が宿るべき骨格ができあがっていた。しかし少しばかり線が多すぎるような気がした。うまく刈り込む必要がある。そこには明らかに引き算が必要とされていた。でもそれは明日の話だ。今日の作業はここらで止めておいた方がいい。




5. P357L8-L16
 (見ればみるほど鮮やかに息づいて見える)


 (註.「私」は、雨田具彦の息子の政彦と美大時代からの知り合いで、その縁で伊豆高原の施設(療養所)に入っている画家、雨田具彦が住んでいた家に今住んでいる。)

 雨田具彦が日本画の筆と顔料で描きあげた架空の人物が、そのまま実体をとって現実(あるいは現実に似たもの)の中に現れ、意志を持って立体的に動きまわるというのは、まさに驚くべきことだった。しかしじっと絵を見ているうちにだんだん、それが決して無理なことではないように、私には思えてきた。おそらくそれだけ、雨田具彦の筆致が鮮やかに生きているということなのだろう。現実と非現実、平面と立体、実体と表象のはざまが、見ればみるほど不明確になってくるのだ。ファン・ゴッホの描く郵便配達夫の姿が、決してリアルではないのに、見ればみるほど鮮やかに息づいて見えるのと同じだ。『騎士団長殺し』という絵を眺めながら、私はあらためて雨田具彦の画家としての才能と力量に敬服しないわけにはいかなかった。



6. P361L7-L15
 (音楽表現も絵画表現と同様のものと見なしている。おそらく作者の考えと同じ。)


  (註.「イデア」が「形体化」して登場した「騎士団長」が、「私」に語る場面。)

「あるいは諸君はその絵を描くことによって、諸君が既によく承知しておることを、これから主体的に形体化しようとしておるのだ。セロニアス・モンクを見てごらん。セロニアス・モンクはあの不可思議な和音を、理屈や論理で考え出したわけじゃあらない。彼はただしっかり目を見開いて、それを意識の暗闇の中から両手ですくい上げただけなのだ。大事なのは無から何かを創りあげることではあらない。諸君のやるべきはむしろ、今そこにあるものの中から、正しいものを見つけ出すことなのだ。」
 この男はセロニアス・モンクのことを知っているのだ。
「ああ、それからもちろんエドワードなんたらのことも知っておるよ」と騎士団長は私の思考を受けていった。




7. P392L3-L10
 (言葉の作品と違って、置かれた場所や見る角度によって絵画作品はイメージが異なる。)


 (註.免色に依頼された肖像画が出来上がり、「私」の谷向かいに住む免色宅を「私」が訪れた場面。)

 私はその革張りの椅子に腰を下ろし、緩やかなカーブを描く背もたれにもたれ、オットマンに両脚を載せた。胸の上で両手を組んだ。そしてあらためてその絵をじっくり眺めた。たしかに免色が言ったようにそこは、その絵を鑑賞するための理想的なスポットだった。その椅子(文句のつけようもなく座り心地の良い椅子だった)の上から見ると、正面の壁に掛けられた私の絵は、私自身にも意外に思えるほどの静かな、落ち着いた説得力を持っていた。それは私のスタジオにあったときとはほとんど違った作品に見えた。それは―どう言えばいいのだろう―この場所にやってきて新たな、本来の生命を獲得したようにさえ見えた。そしてそれと同時に、その絵は作者である私のそれ以上の近接をきっぱり拒否しているようにも見えた。



8. P429L6-L19
 (絵画作品の読み。事実と作者のモチーフ。)


 (ヨーロッパ留学から強制送還のようなかたちで帰国し、日本画に転向した雨田具彦が、秘かに屋根裏にしまっていた「騎士団長殺し」というテーマの絵を「私」が見つけた。)

 構成は完璧だった。これ以上の構図はありえない。練りに練られた見事な配置だ。四人の人々はその動作のダイナミズムを生々しく保持したまま、そこに瞬間凍結されている。そしてその構図の上に、私は一九三八年のウィーンで起こっていたかもしれない暗殺事件の状況を重ねてみた。騎士団長は飛鳥時代の装束ではなく、ナチの制服を着ていた。あるいはそれは親衛隊の黒色の制服かもしれない。そして胸にはおそらくサーベルなり短刀なりが突き立てられていた。それを突き刺しているのは、雨田具彦本人であったかもしれない。そばで息を呑んでいる女は誰なのだろう?雨田具彦のオーストリア人の恋人なのだろうか?いったい何がかくも彼女の心を引き裂いているのだろう。
 私はスツールに座って、『騎士団長殺し』の画面を長く見つめていた。想像力を巡らせれば、そこからいろんな寓意やメッセージを読み取ることが可能だった。しかしいくら説を組み立てたところで、結局のところすべては裏付けのない仮説に過ぎない。そして免色が話してくれたその絵のバックグラウンドは―バックグラウンドと思われるものは―公にされた歴史的事実ではなく、あくまで風説に過ぎないのだ。あるいはただのメロドラマに過ぎないのだ。すべてがかもしれないで終わっている話だ。




9. P476L6-L17
 (画家である「私」の対象を見つめる視線、画家の視線の滲透。)


 (免色に頼まれて、「私」が秋川まりえの肖像画を描くことになる。秋川まりえは、「私」の絵画教室にも通っている少女で、同居している少女の父の妹、秋川笙子と一緒に「私」が住む家にやって来た。)

 秋川まりえと秋川笙子が並んで座っているのを見て、人がまず思うのは、二人はどの点をとっても顔立ちがまるで似ていないということだろう。少し離れたところから見ると、いかにも似合いの母子のような雰囲気を漂わせているのだが、近くに寄ると、二人の相貌のあいだには共通するところがまるで見当たらないことがわかった。秋川まりえも端正な顔立ちだし、秋川笙子も間違いなく美しい部類に入るのだが、二人の顔が人に与える印象は両極端といってもいいくらい違っていた。秋川笙子の顔立ちがものごとのバランスを上手に取ろうとする方向を目指しているとすれば、秋川まりえのそれはむしろ均衡を突き崩し、定められた枠を取り払う方に向かっているみたいだった。秋川笙子が穏やかな全体の調和と安定を目標にしているとすれば、秋川まりえは非シンメトリカルな対立を求めていた。しかしそれでいながら、二人が家庭内で心地良い健全な関係を保っているらしいことも、雰囲気からおおよそ推察できた。二人は母子ではなかったが、ある意味では実際の母子よりもむしろリラックスした、ほどよい距離をとった関係を結んでいるように見えた。少なくとも私はそんな印象を受けた。



10.P482L4-L15
 (人物を描くというのはつまり、相手を理解し解釈することなんだ。言葉ではなく線やかたちや色で) 


「今日はこれから君をデッサンする。ぼくはいきなりキャンバスに向かって絵の具を使うのも好きなんだけど、今回はしっかりデッサンをする。そうすることで君という人間を少しずつ、段階的に理解していきたいから」
「わたしを理解する?」
「人物を描くというのはつまり、相手を理解し解釈することなんだ。言葉ではなく線やかたちや色で」
「わたしもわたしのことを理解できればと思う」とまりえは言った。
「ぼくもそう思う」と私は同意した。「ぼくもぼくのことが理解できればと思う。でもそれは簡単なことじゃない。だから絵に描くんだ」
 私は鉛筆を使って彼女の顔と上半身を手早くスケッチしていった。彼女の持つ奥行きをどのように平面に移し替えていくか、それが大事なことになる。そこにある微妙な動きをどのように静止の中に移し替えていくか、それもまた大事なことになる。デッサンがその概要を決定する。




11.P496L1-L11
 (デッサンの意味)


 私は秋川まりえの三枚のデッサンを何度も手にとって眺めた。それぞれの姿勢と、それぞれの角度。とても興味深く、また示唆に富んでいる。しかしその中からどれかひとつを具体的な下絵として選ぶつもりは、私には最初からなかった。私がその三枚のデッサンを描いた目的は、彼女自身にも言ったように、秋川まりえという少女のありようを私が全体として理解し、認識することにあった。彼女という存在をいったん私の内側に取り込んでしまうこと。
 私は彼女を描いた三枚のデッサンを何度も何度も繰り返し眺めた。そして意識を集中し、彼女の姿を私の中に具体的に立ち上げていった。そうしているうちに、私の中で秋川まりえの姿と、妹のコミ(註.十二歳で病死した)の姿とがひとつに入り混じっていく感覚があった。それが適切なことなのかどうか、私には判断を下せなかった。でもその二人のほとんど同年齢の少女たちの魂は既にどこかで―たぶん私の入り込んでいけない奥深い場所で―響き合い、結びついてしまったようだった。私にはもうその二つの魂を解きほぐすことができなくなっていた。




 第2部
12. P13L11-P14L4
 (画家である「私」の対象を見つめる視線と感覚的な対象把握)


 よく見ると、秋川まりえの目にはどこか免色の目を想わせるものがあった。以前にも感じたことだが、その共通性に私はあらためて驚かされた。そこには「瞬間凍結された炎」とでも表現したくなる不思議な輝きがあった。熱気を含んでいるのと同時に、どこまでも冷静な輝きだった。内部にそれ自体の光源を持つ特殊な宝石を想起させる。そこでは外に向かう率直な求めの力と、完結に向かう内向きの力が鋭くせめぎ合っていた。
 でもそう感じるのは、秋川まりえはひょっとしたら自分の血を分けた娘かもしれないという、免色の打ち明け話を前もって聞かされているせいかもしれない。その伏線があるために、私は二人のあいだに何かしら呼応するものを見いだそうと、無意識に努めてしまうのかもしれない。
 いずれにせよこの目の輝きの特殊さを、画面に描き込まなくてはならない。秋川まりえの表情の核心をなす要素として。彼女の顔の端正な見かけを貫き揺さぶるものとして。しかしそれを画面に描き込むための文脈を、私はまだ見出すことができなかった。下手に描けばそれはただの冷ややかな宝石としか見えないだろう。その奧にある熱源がどこから生まれてきたのか、そしてどこに行こうとしているのか。私はそれを知らなくてはならなかった。




13. P111L2-L15
 (描く対象と対象からの画家への働きかけということ)


 仕事は緩やかに、しかし滞りなく進んだ。私はキャンバスの上に秋川まりえの上半身を描いていった。美しい少女だったが、私の絵には美しさはとくに必要とはされていなかった。私が必要としているのは、その奧に隠されているものだった。別の言い方をするなら、その資質が補償として要求しているものだった。私はその何かを見つけ出し、画面に持ち込まなくてはならなかった。それは美しいものである必要はなかった。場合によっては、醜いものであるかもしれない。いずれにせよ言うまでもなく、その何かを見つけるためには、私は彼女を正しく理解しなくてはならない。言葉やロジックとしてではなくひとつの造形として、光と影の複合体として彼女を把握しなくてはならなかった。
 私は意識を集中し、線と色とをキャンバスの中に積み重ねていった。時には素早く、時には時間をかけて注意深く。そのあいだまりえは表情をまったく変えることなく、椅子の上に静かに座っていた。しかし彼女が意志の力を強くひとつにまとめ、それをじっと保持していることが私にはわかった。そこに働いている力を私は感じ取ることができた。「何もしないわけにはいかない」と彼女は言った。そして彼女は何かをしているのだ。おそらく私を助けるために。私とその十三の歳の少女とのあいだには、交流のようなものがまぎれもなく存在していた。




14. P155L10-L15
 (頭の中の架空のスケッチブックに、架空の鉛筆を使ってその老人の姿を描いた。)


 あてもなく考えを巡らせることに疲れると、私はさきほど目にした雨田具彦の身体の輪郭を脳裏に再現した。そして記憶を確かなものにしておくために、それを簡単にスケッチした。頭の中の架空のスケッチブックに、架空の鉛筆を使ってその老人の姿を描いた。それは私が日常的に、暇があればよくやっていることだ。実際の紙や鉛筆を必要としない。むしろない方が作業は簡単になる。数学者が脳内の架空の黒板に数式を並べていくのと、おそらくは同じ成り立ちの作業だ。そしていつか私は実際にその絵を描くことになるかもしれない。



15. P218L1-L9
 (作品が声に出して語りかけてくる)


 同時進行させていた二つの絵のうちで、先にできあがったのは『雑木林の中の穴』の方だった。金曜日の昼過ぎにそれは完成した。絵というものは不思議なもので、完成に近づくにつれてそれは、独自の意志と観点と発言力を獲得していく。そして完成に至ったときには、描いている人間に作業が終了したことを教えてくれる。(少なくとも私はそう感じる)。そばで見物している人には―もしそのような人がいたとすればだが―どこまでが制作途上の絵なのか、どこからが既に完成に至った絵なのか、まず見分けはつくまい。未完成と完成とを隔てる一本のラインは、多くの場合目には映らないものだから。しかし描いている本人にはわかる。これ以上手はもう加えなくていい、と作品が声に出して語りかけてくるからだ。ただその声に耳を澄ませているだけでいい。


 







 『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌③


 3.物語世界を潜り抜けて


 わたしたちは、映画を見終えてその余韻を引きずりながら外に出る。世界は少しまぶしく感じられる。物語世界でも同様であろう。わたしたち読者は、その余韻をひきずりながら、いつもの日常に帰っていく。物語世界を潜り抜けた経験は、何らかのものを読者に残すのだろうが、一人一人の固有性によって引き寄せられたり切り取られたりとそれがどんな形なのかは言うことができない。そして、作者が無意識的な部分も含めて作品に込めたこまごまとしたことは、わたしたち読者には絞り込まれていくつかの流れや支流として受けとめられる他ないのかもしれない。

 太古には物語というものは普通の人々の持つ世界観を具体性を伴う語りを通して共同で反芻することだったのかもしれない。現在では物語はひとりの作者によって生み出され一人一人の読者によって読み味わわれるようになってしまった。しかし、太古の名残は、作者が時代の共通の感覚やイメージとして作品に取り入れ、わたしたち読者がそれを作品の中で反芻するということによって今なお残っていると言えそうだ。

 わたしはこのエンターテインメント性を持った作品を十分に楽しませてもらったが、少しきまじめになって、作者のこの作品に込めたモチーフについて触れておかなくてはならない。批評が作者の思想的なモチーフの直接的な表現とすると、小説は物語世界(語り手・登場人物)を介した作者の思想的なモチーフの間接的な表現である。この作品に底流する主流のイメージとしてそれは読み取れると思われる。

 画家の雨田具彦は、戦前ウィーン留学中にナチス高官暗殺未遂事件に関与し、恋人たちは殺されて自身は拷問を受けて沈黙を強制されて日本へ送還され、秘かに「騎士団長殺し」という絵画を描いて自宅の屋根裏に隠していた。雨田具彦の息子の政彦によって父親が使っていたアトリエを主人公の「私」は借りて生活する。「私」は、偶然屋根裏から「騎士団長殺し」という雨田具彦の絵画を発見する。この絵画がきっかけになって、「私」は雨田具彦のことを知り、またその弟のピアニストを目指していた雨田継彦は、20歳の時に徴兵で中国へ配属され、「南京虐殺」の渦中を体験して復員後に自殺したということも知る。そして、公開することなく屋根裏にしまっていた「騎士団長殺し」という絵に雨田具彦が込めたモチーフを「私」は探っていく。「騎士団長殺し」という絵は、鎮魂ということをモチーフとしていることが解き明かされる。



 「本当のことを話しても、ほかの誰にも理解してはもらえないと思った。たぶん頭がおかしくなったと思われるだけだろう。なにしろ筋の通らない、現実離れした話だからね。でもきっと君になら受け入れてもらえると思ったんだ。そしてまたこの話をするからには、相手にこの『騎士団長殺し』の絵を見せなくてはならない。そうしないと話が成立しないからね。でもぼくとしては君以外のほかの誰にも、この絵をみせたくなかった」
 まりえは黙って私の顔を見ていた。その瞳には少しずつ生命の光が戻ってきたようだった。
「これは雨田具彦さんが精魂を傾けて描いた絵だ。そこには彼の様々な深い思いが詰まっている。彼は自ら血を流し、肉を削るようにしてこの絵を描いたんだ。おそらく一生に一度しか描けない種類の絵だ。これは彼が自分自身のために、そしてまたもうこの世界にはいない人々のために描いた絵であり、言うなれば鎮魂のための絵なんだ。流されてきた多くの血を浄めるための作品だ」


 「わたしに手伝ってほしいことがあると、先生はさっき言った」と秋川まりえが言った。
 「そうだった。そのとおりだ。君にひとつ手伝ってもらいたいことがあるんだ」と私は言った。「この二枚の絵をしっかり包装して、人目に触れないように屋根裏に隠してしまいたい。『騎士団長殺し』と『白いスバル・フォレスターの男』を。ぼくらはもうこれらの絵を必要としないと思うから。できればその作業を手伝ってもらいたい」
 まりえは黙って肯いた。
 (第2部 P446-P448)




 こうして、作者のモチーフはひとつは、戦争世代の雨田具彦が「騎士団長殺し」に込めたものをくみ取ることによって、そのことは同時に戦争世代への現在からの鎮魂でもあり、さらに現在を生きる「私」がそれを受け継いでいくというモチーフであると思われる。もうひとつのモチーフは、妻だったユズとの間に「私」が抱えていた魂の問題を解くということ(註.1)、これら二つのモチーフが、第二部後半の異界巡りによってエンターテインメントとモチーフの貫徹という二重のことがなされているように思う。この「私」の異界巡りは、失踪した秋川まりえを助けるために、イデアが形を借りて騎士団長になった者に言われた通りに騎士団長を殺すことによって、雨田具彦の療養所の床から地下世界の異界へ入り込んで行くことになる。その間秋川まりえは免色の家に侵入していたことが後に判明する(60章)。そこはわたしは想像できなかった。考えてみれば、免色の家にあると噂されていた「開かずの部屋」が物語として触れられなくてはならなかった。

 まず断っておかなくてはならないのは、敗戦後、戦争下の知識層の振る舞いの自己批判や批判は、少しはなされてきた。吉本さんの戦後の歩みもその戦争体験を深く根に持ったものとしてあった。しかし、振り返ってみると戦後70年になると言われるが、わたしたち戦争を体験していない世代が中心の社会となり、戦争体験世代はこの雨田具彦のように次々に消えゆく状況になってしまった。しかも、戦争-敗戦の指導層はもちろんとして、大衆的な規模での戦争の徹底した反省もなかったように思う。すなわち、負の反省からなんらかの将来に向けた取り決めや法制度などを自力で残すこともなかった。そのことが、現在の体たらくな政治状況とつながっているはずである。非戦の意志はほんとうは戦争の死者たちや生き残った者たちの意志として現実化されるべきだったのが、アメリカに隷属しつつずるずると現在のようなあいまいな政治や自衛隊の現状をもたらしてきた。(とそういう流れをついつい許してしまいそうなこの列島人の心性を自分の中にも認めつつ思う。)

 そういう意味で、この作品で作者の村上春樹がモチーフの一つとしたと思われる、「騎士団長殺し」という絵を媒介にした戦争世代の雨田具彦-戦争を知らない世代の「私」や秋川まりえというつながりの中での、鎮魂と受け継ぎのモチーフは、残念ながら依然として現在的な問題であり続けている。

 最終章で、雨田具彦の『騎士団長殺し』と「私」の『白いスバル・フォレスターの男』という二枚の絵を「ぼくらはもうこれらの絵を必要としないと思うから」として屋根裏にしまったが、その小田原の家が火事で焼け落ちたと知らせが来る。もちろん、それらの絵も消失したことになる。しかし、鎮魂と受け継ぎのモチーフは「私」の中に確実なものとして内在しているはずだ。個の物語としてはそういうことが、歴史を生きるということだと思われる。


(註.1)
 「私」の妹の「ユキ」は十二歳で病死したが、この作品中に何度が「私」によって想起され呼び寄せられている。わたしはフロイト流の解釈は苦手でよくわからないけれど、「私」にとっての「ユキ」は、宮沢賢治にとっての妹トシのような存在として描かれている。つまり、「私」と心通わせるものであり、「私」のことをとてもよく理解してくれる者である。つまり、そのような妹を失うということは、一般に残された家族の者に何らかの精神的な痛手を残すとしても、それ以上の痛撃を「私」に与えたと思われる。それは少年の「私」の生存の存立を大きく揺さぶるようなものとして、そのような痛苦の喩として表現されている。「私」の作品中の描写にはそのような深い傷の匂いは表現されていないように見えるが、妻のユズとの結婚生活の破たんは「わたし」の方から眺めればそのような少年期の精神的な深い傷が関与したものだったと見なせるかもしれない。







 『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌④ (終わり)


 4.イデア(観念)のかたち成した騎士団長


 わたしは村上春樹の近年の作品からは割と自覚的に読んでいるが、以前はなんとなく読んでいたこともあり以前の作品についてはもうほとんど記憶がない。つまり、このようなイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在を物語世界に導入していたかどうかは記憶にない。この作品には、祠と穴が登場するが、以前の作品では何度か井戸の底の描写があったのは記憶している。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』にはこのような存在は登場しなかったと記憶するが、『1Q84』には登場している。「リトル・ピープル」や「空気さなぎ」などなど歴史や宗教に名を借りて登場するが、あまり歴史的な現在性としては捉えられていなくて、痛快活劇のようなおもしろさはあったけれど、それほど現実性はわたしには感じられなかった。

 このイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在は、「イデア」「メタファー」「メタファー通路」「二重メタファー」などなどの物語世界の異世界や異空間とひとつながりの世界イメージとして作者の中にはあるのかもしれない。そしてそれは、作者の現在的な世界イメージや世界観から来ているのかもしれない。たぶん、作者はそのような世界イメージを描くことを一方で楽しみながらも真面目な力点を置いているのだと思われる。

 ここではイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在に限って考察してみたい。イデア(観念)のかたち成した騎士団長というものの特徴を作品世界から拾い出してみる。



1.「騎士団長」は現実的な存在ではない。
2.「騎士団長」はしゃべり方がちょっと変だ。


 しかし絵の中に描かれた人物がそこから抜け出してくるなんてことが可能なのだろうか?もちろん不可能だ。あり得ない話だ。そんなことはわかりきっている。誰がどう考えたって・・・・・・。
 私はそこに立ちすくみ、論理の筋道を見失い、あてもない考えを巡らせながら、ソファに腰掛けている騎士団長を見つめていた。時間が一時的に進行を止めてしまったようだった。時間はそこで行ったり来たりしながら、私の混乱が収まるのをじっと待っているらしかった。私はとにかくその異様な―異界からやってきたとしか思えない―人物から目を離すことができなくなっていた。
  (第1部 P348)
(註.1)

 騎士団長は奇妙なしゃべり方をする(註.語りかけるひとりの相手に「諸君」と呼んだり、打ち消しの表現を「・・・ではあらない」と話したりする。)かわりに、話をするのは決して不得意ではないようだった。むしろ饒舌と言っていいかもしれない。しかし私の方は相変わらず一言も言葉を発することができなかった。現実と非現実が私の中で、まだうまく折り合いをつけられずにいた。
  (第1部 P349)



3.「騎士団長」は霊ではない。限られた時間しか形体化することができないとか招かれないところには行けないなどいろんな制限を受けて存在している。

 「で、諸君のさっきの質問にたち戻るわけだが、あたしは霊なのか?いやいや、ちがうね、諸君。あたしは霊ではあらない。あたしはただのイデアだ。霊というのは基本的に神通自在なものであるが、あたしはそうじゃない。いろんな制限を受けて存在している」

 「制限はいろいろとまめやかにある」と騎士団長は言った。「たとえばあたしは一日のうちで限られた時間しか形体化することができない。あたしはいぶかしい真夜中が好きなので、だいたい午前一時半から二時半のあいだに形体化することにしておる。明るい時間に形体化すると疲労が高まるのだ。形体化していないあとの時間は、無形のイデアとしてそこかしこ休んでおる。屋根裏のみみずくのようにな。それから、あたしは招かれないところには行けない体質になっている。しかるに諸君が穴を開き、この鈴を持ち運んできてくれたおかげで、あたしはこの家に入ることができた」
  (第1部 P352)



4.「騎士団長」は身長は60センチほどである。


5.「騎士団長」は人の心を察知する力を持っている。



6.「騎士団長」は「二つの出来事」の「継ぎ目のような役割」を果たしていたこと。
7.「騎士団長」は現実離れしているという認識が主人公の「私」にはある。


 「とにかくいろんな人の手助けを受けて、ぼくはその地底の国を横断し、狭くて真っ暗な横穴を抜けて、この現実の世界になんとか帰り着いた。そしてそれとほぼ同時に、それと並行して、君もどこかから解放されて戻ってきた。その巡り合わせはただの偶然とは思えないんだ。君は金曜日からおおよそ四日間どこかに消えていた。ぼくも土曜日から三日間どこかに消えていた。二人とも火曜日に戻ってきた。その二つの出来事はどこかできっと結びついているはずだ。そして騎士団長がそのいわば継(つな)ぎ目のような役割を果たしていた。しかし彼はもうこの世界にはいない。彼はもう役目を終えてどこかに去ってしまったんだ。あとはぼくと君と、二人だけでこの環を閉じるしかない。ぼくの言ってることを信じてくれる?」
 まりえは肯いた。
 ・・・中略・・・
「本当のことを話しても、ほかの誰にも理解してはもらえないと思った。たぶん頭がおかしくなったと思われるだけだろう。なにしろ筋の通らない、現実離れした話だからね。でもきっと君になら受け入れてもらえると思ったんだ。そしてまたこの話をするからには、相手にこの『騎士団長殺し』の絵を見せなくてはならない。そうしないと話が成立しないからね。でもぼくとしては君以外のほかの誰にも、この絵をみせたくなかった」
  (第2部 P445-P446)

 すべてが夢の中で起こった出来事のように思えた。私はただ長く生々しい夢を見ていたのだ。というか、この世界は今もまだ夢の延長なのだ。私は夢の中に閉じ込められてしまっている。そういう気がした。しかしそれが夢でないことは、自分でもよくわかっていた。これはあるいは現実ではないかもしれない。しかし夢でもないのだ。私と免色は二人で、あの奇妙な穴の底から騎士団長を―あるいは騎士団長の姿かたちをとったイデアを―解きはなってしまったのだ。そして騎士団長は今ではこの家の中に住み着いている。それが何を意味しているのかは私にはわからない。それがどんな結果をもたらすことになるのかもわからない。
  (第1部 P354-P355)
(註.2)



 この騎士団長が「何を意味し」、「どんな結果をもたらすことになるのか」、主人公の「私」はこの時点では知らないけれど、当然のこととして作者は大体わかっている。
 このイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在は、そのことに作者が意識的か無意識的かにかかわらず、わたしたちの人間世界の現在が、旧来的な自然感覚から一段飛躍した人工的な自然感覚の段階に突入している現状と対応している一種の「揺らぎ」の表現だろうと思える。

 わたしたちは、ケイタイやスマホやネット、銀行の自動現金出し入れやネットでの支払い等々高度な技術や社会のシステムがもたらすものに次々に徐々に慣れていく。そうして、それらを割と自然なものと見なしていく。しかし、その自然化の過程には当然ながら異和や揺らぎが発生する。ちょうど(註.1)の部分の「私」の思いのように。ここの「私」の意識は旧来的な現実、自然な感覚に支えられている。そういう現在の新たな社会の動向の未だ自然性としてわたしたちが受け入れていないクラック(裂け目)からの象徴的な表現だと思われる。(註.2)の「私」の現実でもなく夢でもないというような揺らぎの意識は、「私」がそのクラック(裂け目)に立っていることを示している。しかも、イデアという言葉自体からしても、また霊とは違うということ(3.)から見ても、イデアやその形体化は、太古から一昔前まで続いてきたこの列島の霊魂や霊の現象とは異質な近代以降のヨーロッパ由来のものと見なすことができる。つまり、物語世界を駆動するものとして割と新しい概念を援用している。

 主人公の「私」は、「本当のことを話しても、ほかの誰にも理解してはもらえないと思った。たぶん頭がおかしくなったと思われるだけだろう。なにしろ筋の通らない、現実離れした話だからね。」(第2部 P446)と語っている。これを作品の表現の積極性として捉えるならば、現実と何らかのリンクの役をするこのイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在や、「イデア」「メタファー」「メタファー通路」「二重メタファー」などなどの物語世界の異世界や異空間とひとつながりの世界イメージは、現在の社会のクラック(裂け目)からの象徴的な表現、言いかえると未来性のイメージの喩としての表現を担っているのかもしれないとわたしには思われた。







 『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌⑤


 付記


 わたしは、『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌で、以下のように書いた。


 この『騎士団長殺し』という作品では、主人公の「私」が画家であり、「私」を通して絵画についての捉え方が披露されている。わたしは素人ではあるが「私」の絵画などの造形に対する認識や考えはずいぶんその道の修練を積んだもののように感じられた。作者は、この作品の中で絵画的なものを造形するためにそれなりの絵画の世界の体験や修練を積んだはずだと思われる。なぜなら、作者を通してしか「私」の絵画把握や絵画観は物語世界にやって来ないからである。
 (『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌② 2.絵画論として読む)


 ところで、村上春樹のインタビュー、「小説家40年と『騎士団長殺し』」(『毎日新聞』2019.5.23)を読んだ。絵画のことが触れられている。


――この小説の主人公は画家です。油絵の肖像画を描いています。

村上 油絵を描いたことがないので、本で学んで書きました。でもあとで何人かの絵を描く人に訊いたら、間違ったところはとくにないと言われました。絵も小説も、ゼロからものを創り出すという基本は同じですから。



 「絵も小説も、ゼロからものを創り出すという基本は同じ」と言われても、例えば自由詩を書いていた者がすぐに短歌や俳句を作れるかといえば、ある程度の水準のものを生み出すのは難しいと思われる。それなりの修練を積まないと一定の水準にはなれないはずである。

 しかし、この場合は、絵画作品そのものを創り上げるのではなく、絵画作品についての感じ方や考え方である。そういう事情から、「本で学んで書きました」ということで作者はうまく適応することができたのだろう。思えば、ドラマの俳優も医者や看護師の役作りをする場合は、村上春樹のように「本で学んで役作りしました」ということがありそうに思う。さらに、いろんな医学用語の説明を受けたり、病院とかでの実地研修とかまでも場合によってはあるのかもしれない。

 わたしは、「絵画の世界の体験や修練」として実地の体験も想定していたが、このインタビューによると違っていた。というわけで、わたしの読みが違っていたとここに訂正しておく。







 『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌⑥


 付記ヘの追加


 今、「村上春樹インタビュー集1997-2011」を読んでいる。作家の内側が少しのぞけるようで、おもしろい。村上春樹は、書き続け積み重ねてきたひとりの表現者として、そのイメージ力やそのイメージの創出や構成に自信と信頼を持っているように見える。つまり、実際に絵を描く経験をしなくても、絵を描く過程をイメージとして創出し構成できるように、風景描写についても同様のことが語られている。表現者として書き続けるという長年の経験に裏打ちされたイメージの創出や構成に対する自信と信頼であると言うべきだと思う。


 ― 村上さんの風景描写は読者に特に強い印象を与えるようですが、中国語に翻訳されたものも、真に迫った描写が読者の想像をかき立てます。風景描写について何か特別な工夫をされていらっしゃいますか。

 村上 「風景描写のために、現場に行って写真撮影などの取材をする。それから写真に基づいて絵を描く」僕はこういうやり方はしません。現実的なものをすべて取り去ったあとに、脳に浮かびあがった記憶だけに頼って、あらためて情景を描写しています。このようにして産みだした情景は、現実に存在しているもの以上に現実性を獲得することができます。もちろん何度も何度も丁寧に綿密に書き直す必要はありますが。
 (『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』P42 文春文庫 2012年9月)※ インタビュー「現実の力・現実を超える力」(「時報周刊」1998年8月 台湾)より



 以下にも、村上春樹は絵画に触れている。物語と絵画は形式や構成の具体の違いはあっても、表現の本質としては同一だと見なされているように見える。


 いま僕の頭の中にあるのは、そういうことができるかできないか、実際にやるかどうかはわからないけれども、複合した物語です。ミクロコスモスみたいなもの。そういうものを書きたいなという気はするんですよ。どんどん物語に乗っけていくというのは、やり尽くしたとは言わないけれど、もうひとつ上にいきたいなという気はするんです。でも、それは時間がかかりそうだなあ。
 そのためには、やっぱり人物というもののタイプをいくつもいくつも出していかなくちゃいけなくて、たとえば大きい絵を考えてもらえばいいと思うんですけど、その中にいろんな人の姿を描き込む力がなければ、そういう大きな絵というのはできないですよね。たとえば中世のブリューゲルとかの絵がありますね、そこにはいろんな話が情景として描かれている。その細かいところ、もう一度この細部を見たいという気持ちで何度も読み返してもらえるようなものを書きたいなという気はするんですよ。
 (『同上』P151)
※ インタビュー「『海辺のカフカ』を中心に」(「文學界」2003年4月号)より



 ところで、表現者として書き続けるという長年の経験に裏打ちされたイメージの創出や構成に対する自信と信頼と述べたが、経験に湛(たた)えられたイメージ力の貯水池にあるのはなんだろうか。それは、長年書き続けてきたことがもたらすイメージ力の強度や厚味のようなものであろう。このことは、吉本さんが語ったように「十年やれば一人前」で、誰もがある程度のイメージ力の貯水池を築くことができるのだろうと思われる。

 現実の風景を見ないでも「風景描写」ができる、絵を描く経験をしなくても、「絵を描く過程のイメージ」を創出し構成できる、これは何を意味するだろうか。当然のこととして、人は見たことがないものや経験したことがないものをイメージしたり、描写したりすることはできない。たんなる空想としては可能ではある。まず、村上春樹も普通の人々と同じように風景の数々を見てきた経験がイメージ群として自らの中に保存されている。そこから、書き続けてきた修練がもたらしたイメージ力を行使して、「脳に浮かびあがった記憶だけに頼って」イメージを引き出し、イメージとしての風景を描写できるようになっている。そして、その背後には、物語も絵画も表現の本質としては同一であると信じられているように、どの風景もある程度の同質性を持つということが信じられている、ということがあるように思われる。






























































ツイッター詩



[ツイッター詩57] (1月詩)


冬 日差しが差す
はじまりの
差している 体温が上がる
ほのかな
温かい ふゆ 殖ゆ 冬 富有
推移する
イメージの イメージ野
しずかに収束する
遊能? 愛能! ふぅゆう






[ツイッター詩58] (2月詩)


つっぱってはいても
生まれ落ちては
この世の習い
いくつも着せ替えられて
ランララン
ずいぶんと身は馴染んできた

大気や光や音の
変容する配合を呼吸して
ランララン
街のショーウインドウには
ひとり 見慣れた顔が映る
おお もう来るのか老年!

ふと襲い来る過呼吸に
幻の前世を
のぞき込む
バーズアイビュー(註.1)
クリアーなグーグルアースと違い
ランララン
靄に包まれて
何が何やら判別できない

遙か
大空は真っ青
海も青
大地は緑
と見えても
ランララン
倍率次第で像は変貌する
幻のように滲みている
あらゆるものの死の予感
そして ここ。

(註.1)バーズアイビュー(bird's eye view)は、鳥瞰図。





[ツイッター詩59] (3月詩)


長らく凪(な)いでいた
海面が
何か  どこか
蠢(うごめ)き  出す  気配に
もぞもぞ
揺れ始めている
波の内面
傾斜していく
波の発生の方へ

衣装は違っても
太古より
今に続く
果てしない
波の
打ち寄せ  返す
響き  響き合い
揺れるという不変の中
更新される
波動法

気づく
より素早く
波は繰り出し  退いていく
暗い海底の
ある空隙(くうげき)のような所から
大きな主流の
垣間見える
上の方  きらりと跳ねる魚たち

波の死に  響きの死に
冬枯れの草花が添う
茎や地下茎が
新しい春に傾斜している
新たな波に  新たな響きに





[ツイッター詩60] (4月詩)


闇の中
前の晩の熾火(おきび)は
灰に埋もれて
微熱の夢を静かに巡り

薄明かりから
降りてくる
降りてくる朝のけはい
気づきばかりが
くり返しくり返し対流し
出立の気配に
沈黙は眠そうに
夜の底に黒々と滞留している

百年前も今も
変わらない
大きな主流がある
ちろちろ輝きはじめる
朝の小さな熾火
時間を超えて
くり返し流れ出す
エナジーフロー

ひとつの言葉が
波間から顔を出し
ひとりひとり飛び魚のベクトルとなって
朝の空気に
突き刺さってゆく
あるいは
溶け込んでゆく
あるいはまた
負のベクトルと化す





[ツイッター詩61] (5月詩)


星野道夫の
文章の
どこかに
太古のある夕べ
漁から帰る夫と岸辺で出迎える妻
を思い浮かべた
場面があった

たぶん現在の
それぞれの日々の小さな場面
と同じく
遙か太古から時間の海は流れている
同じように波立ち
時には大きくしぶきも上げ
「清光館哀史」も浮上する

魂の舟は
なんどもなんども送り出され
魂の航路も変わり
舟の装備や飾りも派手になったけど
送ることは変わらない

変わらない日々と言っても
ハイスピードカメラのように日々走る
撮影され展開された像の中に
疲弊した魂のスローモーション





[ツイッター詩62] (6月詩)


時には
ひらがなのように
やわらかな
日差しを浴び
みどりと風に
さそわれ
うとうと眠れ

世界は
せ・か・い・・・
消失していく
ありふれた
この小さな場所
ひらがなの灯りの下
木の葉が風の歌をうたい
みどり匂い流れる

消失した世界の
誰もが持つ
特異点で
ひとり 深く中心に
眠れ

(ああ 今日もいい日だった)
(人と人)
(ある深みで信号する)





[ツイッター詩63] (7月詩)


即興の
言葉の谷を下る
七曲がり八曲がり
言葉の塩はむずかしくても
言葉の清水は
杖を突き立てるまでもなく
湧き出す場所はあり
そこにもあそこにも人がいる

流行の
ふしぎファッションも
誰もが見慣れた
言葉の谷から上ってくる
のは間違いない
異国の歩き方真似ても
この地に育つ
からだから匂い立つ
谷の言葉
谷のリズム
谷の清水
の匂う

谷を下りに下っても
乾いた大地と草原と濁った水
には行き着かない?
この列島の
みどりの風に
言葉はなびいて来る





[ツイッター詩64] ( 8月詩)


あのひとの気持
わかる わからない
わかるわからない
わかるからない
この世界に目覚めた者が
世界の主(ぬし)の無言の意志
を推しはかる
花占いは まだ
気まぐれな恋心の少女のもの
ではなく
世界の猛威に 傷つき果てた
人々の祈りのような

生贄(いけにえ)も人柱も特攻も
この世界をわかり損ねた
人々の哀しい花占いの形式
救われる 救われない
救われる救われない
すくわすくわない
自然は 無縁顔で
静かに運行している

何かいいもの
もたらす もたらさない
もたらすもたらさない
もたらもたもたない
太古の
花占いの形式は
今もどこかに残留している
自然は 無縁顔で
静かに運行してゆく






[ツイッター詩65] ( 9月詩)


ひとつの水たまり
にも始まりと
移りゆきと
終わりがある
大気や風や日差しと
虫や草花や人と
関わり合いもある

人の心の内にも
ひとつの水たまりがあり
大気や風や日差し
虫や草花や鳥や人に
かたち成して
水たまりを訪れてくる
しずかな穏やかさの中にも
小さな異変はある

振り返ると
父も死に母も死に
時間は構成と形態と色合いを
変貌させている
秋の枯れ葉たちも
昨年と同じように
通路に積もりゆく
けれど何かびみょうに違う
今年の秋

今年の秋
手のひらで触れてみる
無量のおもい
は言葉にならない
言葉を手にする以前の
幼子や人類のように
しずかに内に吹き荒れるおもい
に触れる





[戯れ詩2017.9.16]



はじまりの
遙か太古の集落で
一瞬、と言っても割と長い間
巫女や代理業務者たちが
集落に背を引かれながら
晴れがましくも壇上に上り続ける
穏やかな日々があった

まだまだ付かず離れず
分離せず
ジェアラート!は鳴らない
子どもらは駆けまわり
静かに集落は暮れてゆく

人は現場を離れると
空語空言空事を平気で言うようになる
人が群れると
狼男のように変貌することがある
ジェアラート! ジェアラート!
長い日々の内に
変身が完了する
(ああ、あの人たちは人が変わってしまったね)
人々の声は届かない

ジェアラート! ジェアラート!
もはや背を引かれぬ者たちが
集落のニワトリ蹴散らし水がめ割り
土煙を上げて走り回り
今度は集落の背を引きはじめる

遙か太古より
今もなお
負の遺伝子は受け継がれ
群れた者たちが勘違い
キリッとスーツに身を包み
違うだろー!と大声出したり
富を私物化したりと
そこかしこで得意げだ

ジェアラート! ジェアラート!





[ツイッター詩66] ( 10月詩)


江戸期の飢饉の様子の描写を
古い農業書で読んだことがある
百年前のクジラ取る小さな舟の写真を
見たことがある
小さい頃秋の収穫祭の
場にいたことがある

現実の内に
流れ匂い立つ
のはたぶん外からの想像を超えて
「悲惨」でも「喜び」でも「希望」でもない
やむにやまれず 言葉を超えて
ただその場に生きること
ただその場を生き続けること
人間界を超えた大きなものに促されるように
生きる

誰もが
言葉にならない
こじんまりした世界の内を日々生きているが
若者ばかりでなく
カッコ付けた言葉の船に乗り
エンジンふかせて
「悪意」や「希望」を振りまく者たちがいる
肥え太ってしまった人間界で
空中浮揚した横着者たちが騒音を立てている

人は
気まぐれな母のような
自然の慈愛と猛威にさらされ続け
人間界を肥え太らせてきた
きみはどのような祭りの中にいるか いないか
不在の風景ばかりが降り積もっている
けれどきみは 人並みに
祭りの輪から目をそらすことはない
けれどきみは
流れに浸かって ひとり 固有の渦を成している





[ツイッター詩67] ( 11月詩)


(遙か太古の
人々は
石に霊魂が籠もってる
と見なした)
と語るとき
石、マグマが冷え固まり
石、堆積し途方もない時間で固まった
と無意識につぶやくきみの視線も
走っている
時間の峠を越えていく
 
二昔前までは
(運んでいた塚の石が
そこに据えよと
急に重くなった)
という民話がまだ生きていた
 
時間の波が入れ替わり
もはや 肌合いでは
入れない
感じられない
イメージできない
新しいイメージの地層に
時の岸辺に
きみは立っている
こうして人のイメージ群や位相は変位してゆく
 
けれど
同時代でも
石に祈る人がいる
信の内にいても外に居ても
他人(ひと)のまなざしの
ということはまた
自らのまなざしの
無言の生命イメージの総量を
感じ取るのはむずかしい
けど人ゆえに
つい触手を伸ばしてしまうのだ





[ツイッター詩68] ( 12月詩)


つぼみだす
小さな蕾の
冷たい冬風に吹かれている

(濃縮する 濃縮する
のうしゅくしゅく
濃縮される時間)

日差ししだいに高まり
あったかくなってゆくと
蕾ふくらみ匂い出す

(力込め 力込め
ちからこめごめ
膨張する か・た・ち)

春風のぬくもりに
誘い出されて
花ひらき
大気へ匂い立つ

(イメージは
言葉の舟に乗り
イメージの
細道から思いっきり手を広げ・・げ・ては
翼はばたきゆくベクトルの)

春 はる
待っていたぞ
このはるを










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