吉本さんのおくりもの



  目 次

   項 目  掲載月 
1. 出会いということ 2016.09.11
2. 対象そのものと対象像について 2016.08.31
3. 吉本隆明という存在 2016.12.25
4.  50パーセントを超える  2016.12.31 
5.  他者の言葉がわかるということ  2017.01.03 
6.  吉本さん追悼詩 (2012.3)  2017.03.19  
7.  「お鷹ポッポ」から (2015.5) 2017.03.30
8.  少しすっきりしたこと (2016.3)  2017.03.30
9. 吉本隆明「カール・マルクス」から現在へ (2016.4)  2017.03.30
10. 吉本さんの言葉というものの捉え方―〈言葉という次元〉(2017.2)  2017.03.30
11. 考え、表現することの二重性  2017.04.01
12. 知識の第一義的な課題 ★ 2017.04.07
13. 知識の起源から照らして ★★ 2017.04.30
14.  批評ということ ―『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』(柴田弘美 2014年)から  2017.08.22 
15. 言葉の素顔や表情 ―川上春雄宛全書簡より 2017.10.09 
16. 知識の最後の課題 ―『最後の親鸞』(吉本隆明)より ★★★ 2018.01.24
17. ひと言に凝縮するのは難しい 2018.10.15
18. 吉本さんの坊主頭の写真から (追記2021.12.22) 2019.09.13
19 実感ということ 2020.08.22
20 ぜひこれだけは ―吉本さんの語った言葉から 2022.02.07

 ※ ★印は、ひとつながりの文章。



 1.出会いということ


 本など読んでのわたしの印象では、吉本さんとの出会いで多いのは安保闘争や学生運動時代の、吉本さんの言葉が社会の前面に出ていた頃の出会いだと思う。わたしはそれらの時代状況以後の世代であるから、そのような状況での出会いではなかった。わたしの場合は、地方に住むまだ高校生で、自分の身近な小さな生活圏以外のことは馴染みもなくよくわかっていなかったから、吉本隆明という存在も知らなかった。

 したがって、本屋の店頭に平積みにされていた『共同幻想論』との偶然の出会いから、わたしの言葉としての吉本さんとの付き合いが始まった。吉本さんは、この国に限っても無類の言葉、無類の存在ということが次第に感じられていった。そして、その無類さはどこから来るのかということが、吉本さんの言葉に向かうわたしの言葉の片隅に絶えず在り続けている。なぜなら、そのことの偶然性と必然性とを明らかにすることが、吉本さんという存在の総体、あるいは、存在の中枢を明らかにするということにつながると思えるからである。と同時にそのことは、フロイトに倣った吉本さんの、個の歴史と人類史とを対応させて捉え得るのではないかということ(『母型論』序 P7 吉本隆明)を踏まえると、この列島の人間の、いやもっと普遍的に人間という存在の、秘密についても逆に深く照らし出すかもしれないという思いもある。

 この人間界の内に生まれ育っていく中で、人は誰でも人やものごととのいろんな出会いを繰り広げていく。今日は、途中で突然空から魚が降ってきたので(そういうことがあり得るらしいが)遅刻しました、というような普通はあり得ないようなふしぎな出会いというものもあり得るかもしれない。しかし、どのような形の出会いであれ、普遍としていい得ることは、人は誰でも他の人と関わりを持って存在していて(たとえ山奥や都会で引きこもった生活をしていても、他人との負の関わり合いの意識を持つ)、したがって、誰でもなんらかの出会いをくり返しながら生きている存在だということである。その出会いには、人間界での生身の出会いもあれば、書物などによる言葉や音楽や映像を介した出会いもある。また、星野道夫のような幾分かは人間界を超えた大いなる自然との出会いもある。

 さらに、その人と人との出会いには、どのような層で出会っているかという問題がある。人の意識に、表面層や中間層や深層、そして無意識層などが想定できるように、人と人との出会いにおいても、その人の意識の層と対応するような出会い方があるように思われる。因みに、浅い付き合いや深い付き合いという関係の有り様を示す言葉もある。吉本さんの例で言えば、吉本さんが亡くなってからの追悼関連の文章をネットなどで読んで感じたことだが、吉本さんを評価する人が多いなという印象を受けて少し驚いた。ただ、それがどういう出会い方や関わり方をしているのかということが少し気になる。別に、どんな出会い方や関わり方をしようが咎め立てられる筋合いはないと思うのだけれど、吉本さんの場合は、単にある対象に対する卓見とかに終わらないものがあるからである。つまり、批評の言葉であれ、詩の言葉であれ、この世界の総体の中枢を貫こうとする意志や情感が吉本さんの言葉のベクトルには内在しているからである。わたしの場合は、不明の靄が打ち払われることはないけれども、吉本さんの全体の層と出会おうとしてきたと思っている。

 ところで、この人間界という関係的な世界で、ひとが生まれ育ち日々を生きているということは、つながり結んだり、あるいはつながりから離反したりと様々な劇を繰り広げている。そのことがひとり一人にそれぞれの固有な曲線沿いに何らかのものを降り積もらせていくはずである。形式的な挨拶としては、それらの自らの経験を言葉で説明できるかもしれないが、その経験の本質は、人の内臓感覚や心から意識に渡る総体的な世界であり、経験の総量として捉えようとすれば言葉で表現し尽くすことは難しい気がする。だから主要には沈黙で感じ取るべきものであるような気がする。例えば、吉本さんの『追悼私記』は味わい深いものであるが、それは、人という存在の孤独な光が互いに共鳴し合うような場、共に沈黙で感じ合うような場を、沈黙の共鳴を響かせるように言葉を行使しているからだと思われる。

 他人の目をじっと見て話すべきだ(わが国では互いにあまり目を合わせないのが普通だったと柳田国男は記していた)とか、言葉で明確に説明できるはずだとか、こうした欧米流が現在では普通になってきているが、「筆舌に尽くしがたい」(英語にも同様の意味の「beyond description 」がある)という言葉があるように、この日常世界にはささいなことでも言葉にしがたいことがある。そして、それを無理に言葉にしてしまえば形骸しか残らないということがある。まさしく、人と人とが関わり合う場での特に深い付き合いの劇には、言葉を超えたものがある。それは、この世界の有り様やそこでの人の有り様の不思議さと共に、人が沈黙の内に感じるような、あるいは、体の肌感覚で感じるようなものだと思う。このような沈黙や肌合いの感覚は、人の言葉がその固有性に蓋をしてイデオロギー化して行くにつれて、喪失されていく。あるいは、乾いた砂漠の砂のような言葉に変貌していく。

 わたしが、吉本さんの言葉を介しての出会いをくり返しているのは、吉本さんにはそのような人にとっての沈黙の重要性に対する深い洞察と考察(「沈黙の有意味性について」などや晩年の「言葉の幹は沈黙である」など)が早くからあるからだ。そして、そのことはわたしたち人間存在とこの世界の有り様にとって根源的で大切なことだという思いがあるからだ。この書かれたり語られたりする言葉重視に対して差し出される沈黙ということは、閉鎖的な知識世界に対して差し出される生活世界の具体性の関係とも対応しているように見える。

 わが国では、時枝誠記や三浦つとむなど、外来の概念や思想を咀嚼した自前の優れた言葉についての考察が例外的にあるとしても、主流としては、相変わらず外来の輸入思想を操ることに終始してきたのではないかと思う。つまり、日本語の具体的な現実を対象とし、自前の言葉についての思想を築こうとはしなかったのだと思う。この病は、経済思想や教育思想や哲学思想など知のあらゆる領域で、現在でも依然として受け継がれてきているように見える。しかし吉本さんは、それらとは無縁な場所から、それらを超えて、言葉との関わりで沈黙の重要性を取り出して、本格的に考察した。そのような人(表現者)は、わたしの知る限り少なくともこの列島には誰もいない。






 2.対象そのものと対象像について


 私の若い頃の知人で、父親が亡くなったために、学校を中途で辞めて、跡を継いで農に専心した者がいた。いつも熱心に農を営んでいて、昔の篤農家というのは、彼のような人を言うのだろうと思っていた。
 あるとき、家に立ち寄った際に、素朴で幼稚なことを訊ねてみた。日本の農業の稲の品種は南方系のものだと聞いている。でもどうして、新潟だとか秋田だとか寒い地域でいい米が獲れるのかということだ。
 彼の答えは単純で明快だった。作物は、日日刻々と天候によって変化するもの。毎日のように、時刻ごとに観察し、その表情に対応して気配りすれば、いいお米ができる。とくに寒さが厳しい地域では、温暖な気候の土地とちがって、きちんと育てるために、小まめに観察し、注意深く手入れをして、対応を怠らないからだと、彼は答えた。
 品種改良、地味、寒暖など、ほかにもたくさんの条件があるのだろうが、それらについては何も言わなかった。素人に言っても仕方がないと思ったのかもしれないが、私は流石に彼は篤農家だと感銘を受け、これに倣わんと思った。
 (「陸ひぢき回想」P172-P173 『開店休業』 吉本隆明 2013年)



 本書は、二〇〇七年から二〇一一年にかけて雑誌に掲載されているから、吉本さんの最晩年の文章ということになる。しかも、目が悪いなどにも関わらず自筆で書かれた文章である。吉本さんは、戦時中の勤労動員だったかで農作業を少しやったことがあるとどこかで語られていた。しかし、農に限らないが、農という日々具体性を伴う世界をよくわからないなりに、農を営む知人の、吉本さんの質問に答える言葉から彼の農の日々を吉本さんは想像を巡らせている。

 吉本さんは、自分の専門とする文学の領域に限らず、あらゆる領域に入り込んでいく。マルクスと同じように吉本さんの場合も、あらゆる人間的なものは自分の関心の対象であると見なしていると言えそうだ。そして、自分の抱えている諸問題を具体像を含めて捉えよう、言いかえれば、実感を込めて捉えようというモチーフから様々な疑問や追究が伸びていく。必要ならば、他の領域にも越境していく。ここでの知人へ尋ねてみたことを単なる世間話程度のものと見なさないならば、そういう背景の下に吉本さんの言葉はある。

 この場合の吉本さんのモチーフは、一方にこの列島を「南方系」の品種の稲を携えてある人々が移動し、列島の南から北まで現地の自然環境に適応させて稲を栽培してきたという疑いようのない歴史があり、「でもどうして、(引用者註.「南方系」の品種なのに)新潟だとか秋田だとか寒い地域でいい米が獲れるのか」という歴史の中の農の具体像のイメージを追い求めるところからきている。

 ただ、この場合、この農の専門家に対する文章のように、その領域の内側で日々実践しているその道の専門家に対する礼節は尽くされている。また、マルクスに触れて何度か言われたことがある、それ以上突き進んだら危ないことになる、つまり真が揺らぐ、マルクスはそれを心得ていて、危ないことは言っていないと。そしてまた、吉本さんもそれを心掛けていたと思う。危ない言葉を言わないためには、ある領域の内側の言葉を、具体像として、実感として自分の言葉に繰り込んでいくことが重要である。

 作物は、日々の天候によって変化するから、小まめな観察と対応や気配りが大切だ、そうしたらいいお米ができるという吉本さんの知人の農の実践家の言葉は、農の内側に少し入り込んで趣味的に農に携わっているにすぎないわたしにもわかる気がする。彼は学者ではなく農の実践家であるから、作物に関わる諸条件やそれらの関わり合いの構造などとは述べないのであろう。

 たとえば、今回の台風の影響による久しぶりの少雨の日、雨が止んだ午後に今年初めて試みる「秋キュウリ」の苗を植え、水やりした。その後2日秋晴れのような日が続いたけど畑には出る余裕がなく、3日目の今日ちょっと心配だったので水やり用の水を携えて畑に出た。「秋キュウリ」の苗が少し萎びたり枯れたりしていた。このように、農の仕事は吉本さんの知人の言葉のような心がけと実行が大切である。他の作物より少し強いサツマイモでも苗を植えて晴天続きだったら枯れてしまうこともある。人間の小さい子どもの世話と同じで、作物も後はほったらかしで良いとしても最初は小まめに面倒をみなくてはならない。農の内側に居れば、このようなことは誰でも自然に身に付いてくるものである。

 このようなことは、たぶんどんな分野の小世界でも同様であると思われる。そして、誰でもある小世界の内側に在りつつ、他の小世界に対しては外側に在るというようにこの社会に存在している。自分がその内側に居る小世界の有り様が他の小世界と同質の面もあれば、それぞれの小社会毎の特殊性もあるはずだ。したがって、自分がその内側に居る小世界の基準で他の小世界やその内側に生きる人々を論じると間違うこともあり得る。間違わないまでも、その小社会の内側に生きる人々の具体像や実感とは乖離しているということがあり得る。

 つまり、わたしたちがある対象に意識を向けてその対象の像を獲得しようとする場合に、大切なのはある対象そのものの世界に降りたって、できるだけその対象の内側の具体像や実感を手にして対象像を形作っていくことが大切である。

 付け加えれば、この文章はもちろん現下のネットのSNSや社会内に飛び交う不毛な言葉たちを意識して書かれている。






 3.吉本隆明という存在


 吉本さんのおくりもの 3
 ―吉本隆明という存在。吉本さんはいわゆる「頭の良い人」ではない。



 ある人はこの世界に生きて、関わり合う人の数だけそれぞれの人に「ある人」のもたらす感受やイメージや像を生み出す。つまり、人はこの世界に生きているということだけで、まるで重力波のように本人も気づかないような所で他者に影響を与える。そうして、それは当然のこととして相互的である。

 その場合、それぞれの受け取る感受やイメージや像は、それぞれの人の固有なフィルターや屈折率を通過して生まれたものである。ちょうどある物語作品を読んで百人なら百人の微妙に違った作品の切り取り方や印象やイメージなどがあるように。しかし、百人に共通するおおまかな共通性のイメージや印象というものもある。吉本さんが作品を百回読めば読者の印象やイメージはある共通の場所に収束するのではないかと述べていたことは、人そのものについても言えることではないだろうか。つまり、ある人と深く付き合えば付き合うほど、「ある人」の共通のイメージや印象の場所に収束するというように。

 そしてそのことは、「ある人」の外からはどのようにささいに見えることの中にも、ある固有の普遍性として貫かれているように思われる。わたしは吉本さんとは二三度顔を合わせた程度で、主に表現者としての言葉の吉本さんとの付き合いということになる。しかし、その言葉から推察すると、日常の立ち居振る舞いも出来不出来は別にしても表現者としての思想と同期して一貫した生活思想としてあったように思う。ここでは、吉本さんという存在もまたわたしたちの中である共通のイメージや印象の場所に収束するということを意識して、吉本さんという存在について少し考えてみる。


1.吉本さんにも当然ながら人並みのミスも勘違いもある。


 遙か昔のことで、わたしの記憶もぼんやりだけど、吉本さんの『詩学叙説』に関して、その本が出た頃誰かが引用された詩(富永太郎だったか?)について資料的なミスがあると指摘してしている文章(たぶん雑誌に載っていたような)を流し読みしたことがある。

 次に挙げるのは、わたしが少しずつ柳田国男を読み進めていて、偶然に出会ったことである。これは吉本さんの記憶違いに当たる。柳田のその箇所を読む前に、わたしにはどこに書いてあるかは忘れていたけれど、当然のこととして、以下の『母型論』「序」に書かれている言葉、「柳田国男はどこかで、日本列島の全土をせめて一メートルくらいの深さでもいいから掘りかえしたうえで、考古学的な結論をやってほしいと言う意味のことを述べている。」ということの、その言葉に近い大雑把な記憶があった。



 わたしはおなじようなことを、じぶんの方法を使って、いつかやってみたいと、ずっとかんがえ、空想してきた。柳田国男はどこかで、日本列島の全土をせめて一メートルくらいの深さでもいいから掘りかえしたうえで、考古学的な結論をやってほしいと言う意味のことを述べている。これが日本列島のいたるところに足跡をのこし、いたるところの住民と結びつけてみせた柳田国男の自負だったといえる。「海上の道」は、そういう経験知が積み重ねられ、ある厚味の閾値を超えたとき、超えた部分から経験知の集積がイメージに転化した文章だ。「海上の道」には、そんなふうにしてしか得られぬイメージが、いたるところにあり、この論文を一個の作品にしている。もっといえば普遍文学にしている。
  (『母型論』「序」P9)


 吉本さんがたぶん触れた柳田国男の該当箇所は、次のようになっている。


 人類学の方でもこのごろはもはや天孫族だの出雲族だのという大雑把な語は使わなくなった。日本人くらいよく周遊移動した国民も少ない。いかなる東北の辺隅の村でも、一色ばかりの苗字から成り立った部落はほとんどない。婚姻のためにはむしろ異分子と接近して行く必要を認めていたらしい。海から移るを得意とする種族、山を越え嶺を伝わってばかり動いたものもあれば、落ち付いて耕作ばかりしていられぬ家族も多かった。この人々の配合の如何によって、生活相がきっと変わっているはずであります。それが熱心にしらべて行くうちには、わかるかも知れないという希望、その希望の光が明るくなってから、我々の学問は急に活気を帯びて来たのであります。ただしまだこれだけでも不足なのは、今までの研究が第一にあまりに上代に偏している、第二にはその捜索は田舎の隅々に届かぬことである。性慾学の大家としてのみ日本には知られている、ハブロック・エリスは、かつてその随筆中にこんなことを言っている。遺跡遺物の学をして人類運命の解説者たらしめんには、地球の表皮を深さ約二丈か三丈、全体に引きめくってみなければならぬと。それはやや無理な難題ではあるが、少なくとも考古学の取り扱っている遺物なるものが、縦にも横にもはなはだわずかなる一標本、いわゆる大海の一滴、九牛の一毛であるという謙遜の態度だけは必要だと思います。現に遺物という名こそ与えられていませんが、人類学の取り扱おうとしている「我々活きた人間」もまた一種の遺物である。
  (「東北と郷土研究」P492-493 『柳田國男全集27』ちくま文庫)




 この柳田の話は、「原因が遠く数万年の昔になかったなら存在し得ざることは同じである。この意味において我々は、今日の日用言語というものを最も貴重なる遺物に数えている。」と続き、当時の国家政策から下って来た「方言の軽率なる『匡正(きょうせい)』」を批判してこの段落は終わる。

 吉本さんには、―吉本さんの柳田国男把握風に言えば―柳田国男が今までに全国隅々を渡り歩いたり、方言や文物を渉猟してきたその蓄積の頂から、その深みから突き上げて来るような言葉によってイメージの線分が引かれ、イメージの流れが造成される様を記憶に止めていたのかもしれない。その中のハブロック・エリスの言葉を踏まえた柳田の言葉という微細な差異は流れに溶けてしまっている。吉本さんも、自分の記憶がおぼろなことを自覚しているのは、「柳田国男はどこかで、……と言う意味のことを述べている。」という言葉からもわかる。吉本さんの「一メートルくらいの深さでもいいから掘りかえし」と言う言葉の発言主体は、わたしたち読者としては柳田国男としか取れないけれど、実際はハブロック・エリスであり、また「せめて一メートルくらいの深さ」は、「深さ約二丈か三丈」(明治時代の尺貫法で、一丈が約3mだから、約6~9m。)とあるから、実際とは違っている。

 事実誤認に当たるが、ハブロック・エリスの言葉を踏まえて吉本さんが語ったことと同様のことを柳田が述べているから、ささいな問題だというべきである。記憶というものは誰にとっても、特に時間が経ちすぎた場合は一般にこうした曖昧さを持っている。


2.吉本さんはいわゆる「頭の良い人」ではない。


 吉本さんを読み込んでいる人は、意外に思うかもしれないが、実は吉本さんは「頭が切れる」とか「頭が良い」とかとは無縁の人だったと思う。その例証として、例えば、源氏物語の考察(『源氏物語論』大和書房 1982年10月)の後だったと思うが、専門家でも古文(『源氏物語』)をその当時の時代のように読みこなすことは不可能だと述べられていた。つまり『源氏物語』を原文で読み取れたとかわかったように振る舞う者は、うそっぱちだという趣旨のことが語られていた。この言葉は、『源氏物語』を読み取ろうという具体的な苦労を潜り抜けた体験から出てきた言葉だと思われる。吉本さんは、自己欺瞞を極力避けた人であった。吉本さんのそのような言葉は、古文がわかるってどういうことだろうなど古文に対して誰もが抱くような素朴な疑問とつながっている。

 いわゆる「頭の良い」人は、カッコつけたりしてこのようなことを普通語ってくれないものである。また、よくわからないことに出会っても、石と石との間など気にもせずに飛石を飛んで川を渡るのだろう。そうして、わたしは川を渡ったと答えるのだろう。そこには、意識的にか無意識的にか、自己欺瞞がある。高校の国語の先生を10年もしていたら誰でも、例えば伊勢物語の筒井筒や源氏物語の若紫の場面などに毎年のように何度も出会うから、表面的な意味や話の流れは覚えてしまってだいたいわかってくる。しかし、そのことが、作品が生まれた時代と作品の中の言葉をほんとうにわかっているかということとは別のことである。

 あるものごとに一日も欠かすことなく十年やれば誰でも一人前になれる、とか、ある作品を百回読めば読者はある共通の作品理解の場所に出会う、とか、吉本さんが語った言葉の眼差しは、いわゆる「頭の良い」人のものではない。そういうことは才能でも手品でもなく、誰でも必死に研鑽(けんさん)を続ければできることだよ、驚くことではないよと語っている。これを逆から言えば、ほんとうは「頭の良い」とか「頭が悪い」とかは、別にたいした問題ではない、ということになる。そしてそのことは、現在にも相変わらず、才能や能力が人間の価値の上下のように見なされている経済社会や教育界や官僚世界などがあるが、ほんとうはそんなことは大したことではないという、わたしたち普通の生活者のまともな沈黙の言葉に通じている。もっと言えば、現在までのところ、「頭が良い」とかいうことはひけらかすものではなく、恥ずべきことなんだよ、とも言えるかもしれない。なぜなら、ひけらかすなどすることによって、ほんとうのあり方、ほんとうに大事なものが覆い隠されてしまうからだ。

 吉本さんの言葉は、途方もない日々の研鑽を通して、わたしたち万人の心や精神の有り様の普遍性に深く通じていたから、自己欺瞞のほとんどないほんとうの言葉、ほんとうの認識を語ることができたのだと思う。ただ、吉本さんのような研鑽は、、わたしたち普通の生活者や表現者にはとても困難なことで、親鸞の一回でも念仏すれば良いと言う他力の易行道(浄土門)ではなく、自力による修行によって悟りの境地に達する方法である難行道(聖道門)に見えてしまう。

 吉本さんの言葉や言葉への眼差しが、どうしてこのように万人の心を共通に流れるもの(その基底としては、「大衆の原像」)に開かれたものとなっているかはここでは深くは問わないけれど、吉本さんの固有の生い立ちと全存在の存立に関わる戦争の体験、それに実験化学の修練がその大きな屋台骨としてあるように思う。そうして、吉本さんは、大多数の人々と同じただの人と未だかつてない鋭く深い表現者の二重性を生き抜いた人だったと思う。






 4.50パーセントを超える


 吉本さんは、状況の変化をつかむ指標としてよく「50パーセントを超える」ということを語られていたようにわたしは記憶している。それはどこどこに語られていると挙げることはできないのだけれども、この言葉は重要なものを含んでいるように思う。

 人と人との関係でも、会社やサークルなどのどんな小社会の有り様でも、一国の経済や政治や文化でも、今までの関係や有り様の主流があってもそれの否定の支流が芽ばえ増大して「50パーセントを超える」と、主流の大変動と交替の可能性という重大な状況的な局面を迎える。このことは人と人との関係であれば、今までの関係の有り様の変貌を促されているということ、あるいは今までの関係の破局という場合もある。こうしたことは、誰もが実感として受け入れることができると思われる。

 その場合、それぞれの領域の流れの内部に居ても外部に居ても、自分が旧の主流と新の流れとのどちらに属しているか、あるいはいずれにも属していないか、こうしたことが、上方からの視線を行使してその流れの全体像をイメージする場合の、そのイメージの構成や質を決めてくるものと思われる。より正しく流れを像としてつかむためには、対立的な旧と新の流れのいずれにも属することなく、ある領域の主流のいわば成分分析をして、その動向のベクトルに目を凝らすことが大切だと思われる。この場合、そういうイメージの場所を占めないということは、例えば、衰微して退場していく場所にいくら固執してもそれは人間の歴史や文明史の主流の動向を読み間違えているということになる。身近な例で言えば、ラジオは、テレビは、洗濯機は、電子辞書は、ケイタイは、……人をダメにするなどとして否定するのは、そういうことである。それらの退行的な意識や言葉は押し流されていく運命にある。ただし、時代や社会の大きな過渡期には、必ずと言っていいほど旧と新は対立的に現象し、社会にある渦流を引き起こす。

 いずれにしても、あるものが主流ということは、あるものが「50パーセントを超える」ものであることは確かである。つまり、それほどの状況の変動を静止させようとする重力をもち、制圧する重力場を形成してきたということである。そうした状況が長らく持続していく中から、― 今までの人類の歴史でどんなに小さな領域においてすら否定する要素が全くないような完備されたものなどはあり得ないから― その否定の因子が芽ばえてくることになる。今までの主流が、次々に芽ばえてくる否定の因子を寛解しその内部に包み込むことができれば、否定の増大を押さえることができるかもしれない。しかし、それの否定の因子が増大を続け、「50パーセントを超える」と今までの主流と対立的な状況に到る。

 何事も、始まりは気づかれにくい。ある主流の中で、初めは否定の因子は余り気にも留められない、一風変わったものに見なされただけかもしれない。平安期に貴族によってガードマンとして都に引き入れられた各地方の武士も京の社会からは初めはそう見なされただろう。次第に貴族と武士が合力した戦から武士だけの自立的な戦となり、武家層が「50パーセントを超える」力を蓄えていって、貴族層が主流の社会から武家層が主流の社会に変貌していった。

 現在の大半が副業を持たざるを得ない作家たちとは違って、文学者としてデビューすれば割とその仕事で食って行けたような「文学」や「純文学」が主流であった時代の中から、「サブカルチャー」と呼ばれるものが芽ばえてきた。「サブカルチャー」という存在が目立ち始めて、「文学」や「純文学」の主流からの対立的な批判や論争もあったようだが、両者が主流として入れ替わるというよりも、いまでは両者が溶け合った状況が主流になっている。ただし、生真面目で暗い「文学」や「純文学」という一昔前の小説は、「サブカルチャー」に大きく浸食されてしまった。もちろん、旧来的な貧しい社会と対応した閉ざされた垣根が取り払われて、新たな社会の動向から生まれた、明るさも暗さも、軽さも重たさも、価値序列としてではなく、普通の人間の可能性の幅を拡げるような表現として、新たな表現の地平を獲得したことはすぐれた達成であると思う。こうして、両者の溶け合った状況といっても、「サブカルチャー」にどんどん追い上げられ深く浸透された「文学」や「純文学」という状況になっている。

 そういう状況になる前には、従来の主流からの視線では、「文学」や「純文学」=偉い、真面目で、深刻、一方の対する「サブカルチャー」=偉くない、軽薄、軽すぎなどの価値観を含んだイメージで捉えられていたと思う。おそらく「サブカルチャー」の表現者たちは、主流からの視線を浴びつつも黙々と表現に力を注いできたのだろう。一方、日本の社会が高度経済成長期を経て経済力を増大させ、わたしたち普通の生活者も慌ただしい労働と引き替えに一定の豊かさを享受できるようになり、生活の余裕を持てるようになってきた。「サブカルチャー」の表現者たちは、そういう新たな社会の豊かさや余裕の中から登場した。そして、わたしたち普通の生活者に時代や社会の空気や実感にふさわしい表現として受け入れられた。

 たぶん、「文学」や「純文学」の主流の世代は、そういう社会の主流の動向に対して、旧来的な社会の部分に対応していたのだと思う。つまり、これら文学の世界の主流の重心の交替は、社会における旧来的な貧しい生産中心の社会の部分と経済力の増大により生産から消費に重点が移っていく新たな社会の部分との主流の重心の交替と対応している。社会の大きな深い変動は、必ず全社会的に波及し、浸透していくものだからである。

 高度経済成長期をたどり、生み出された社会的な富が再分配されて消費が中心となるような社会が形成され、わたしたち生活者の中流意識が盛んに取り上げられた時代があった。そういう豊かさのイメージは、いまや暗転して「格差社会」という負のイメージと実体をもたらしている。(もちろん、家族の経済的な状況の悪化には、例えば老人ひとりの世帯の増大など旧来と違った家族のあり方、家族構成の状況の変化など他の社会的な要素も関与している。)このことは、労働者派遣法などによって派遣社員を増大させるなど、政治や経済の権力の強制力の行使によって社会の主流を一時的にねじ曲げることは可能だということ意味している。しかし、大多数の普通の生活者を軽んずる状況は社会の主流としての条件を持たないがゆえに、主流として持続できるはずがない。

 消費が中心となる現在の社会は、― ということは、盛んに広告宣伝がなされ、わたしたちはうんざりするほどそれを見聞きすることになってきているわけだが― わたしたち生活者の家計消費がGNPの過半を占めている社会である。そのこととそのことの意味は、吉本さんがわたしたちへのおくりもののように発掘して開示してくれた。わたしたち生活者は、まだそのことの重大な意味に十分に気づいていない。また、そのことに気づいて新たな社会運動(わたしのイメージでは、デモに出かけるわけでもなく寝転んでいても消費しないということができるのだから、たぶん、従来の社会運動の上下関係や権力性をずいぶん払拭する未来性のある社会運動になるだろう思う)を組織しようとする組織者も不在である。だから、わたしのような「社会運動」無経験のど素人が、「消費を控える運動」への意識的な参加を呼びかけるという、性に合わない口出しをしているわけである。

 おそらく現在は生活の苦しさや将来への不安から生活防衛的に、主に無意識的に家計消費の中の選択消費だけでなく必需消費も控えることが行われている。このことは、吉本さんの見識によると次のようなことを意味している。わたしたち生活者の家計消費がGNPの過半を占めているということは、わたしたち生活者がこの社会の過半の経済的な力(権力)を持っているということである。したがって、わたしたち生活者が一斉にその家計消費(選択消費)を控えることは、過半の経済的な力(権力)のそのまた半分くらいの力を社会に対して及ぼし得るということ、つまり、経済はひどく落ち込みどんな政権でもそれに耐え得ないということである。現実には、意識的ではなく、一斉でもないから、消費は悪化しながらこの政権は延命している。しかし、一斉に、全員でなくても、家計消費を意識的に控える人々が増加するにつれて、経済界や政権へのダメージは増していくはずである。この場合は、家計消費を意識的に控える人々が「50パーセントを超える」ことがなくても、政治の主流を切断することは可能だと思われる。わたしたちは、どんな政権であっても、わたしたち生活者の生活や意志を無視する諸政策を行い、居座ろうものなら、それらを無血で追い落とすことが可能な力(権力)を知らない間に手にしてしまったのである。

 そのことは、あらゆることがどん詰まりのこの社会において、わたしたちの最後の希望であり、それは同時にそのどん詰まりを突き抜けようとするある未来性の希望でもある。わたしたちが政治家や政治に近づいたり、お願いしたりするのではない。政治家や政治や経済界や官僚層が、この社会の真の主人公であるわたしたち生活者の方に絶えず耳を傾け、その大多数の民意に沿って行動すべきなのである。現政権も、わたしたち大多数の生活者の大きさと重さをある程度分かっているから、やっている諸政策は別にして、バレバレのウソを重ねつつも私たちの方に阿(おもね)った振りをすることを止められないのである。今から50年も前と比べると、店の対応も地方の役所の対応もずいぶんと変貌して、私たち生活者の存在に割とていねいに対応するようになってきた。こうしたこともこの社会の変動してきたことの小さな徴候と見ることができると思う。

 人類の知恵が加担した社会の主流の動向の渦中に、小さく日々生活しているわたしたち普通の生活者が、そこから観念的に少し抜け出て社会の動きを見渡そうとする場合、社会の流れの旧にも新にも属することなく、またそれらに付随するイデオロギーにもイカレることなく、わたしたち生活者の日々苦楽にまみれた小さな世界を自分の属する在所としながら、見渡す方がより歪みのない正確な社会像が手に入ると思われる。良いことでも悪いことでも、「50パーセントを超える」現象となってしまったら、状況の主流の交替可能性が浮上してきていることになる。わたしたちは、この社会に生起してくるささいなことに神経症的に次々に反応する必要はなく、主流の動向に少しゆったりと目を凝らせばいいと思う。

 吉本さんの最晩年のインタビューの末尾に次のような言葉がある。


心の中で、普通の人が「俺が総理大臣になったら
こうしようと思っている」ということをもてたな
ら、それでいいんですよ。あとは何もする必要な
いから、遊んでてください (笑)。
  (「吉本隆明インタビュー」 季刊誌『kotoba』2011年春号(第3号) 小学館)



 この吉本さんの言葉は、若い頃からの果てしない考察の積み重ねを歩んできた果ての、少しの余裕を持って「主流の動向に少しゆったりと目を凝ら」すことができるようになった場所からの深みのある言葉のように見える。

 吉本さんは、自分の生存の総体を根底から揺さぶるような戦争ー敗戦の体験の内省と戦争詩の批判や転向論などの検討から、自己の「内部の論理化」や「社会総体のイメージの獲得」ということを提起されていた。たぶん、その若い頃に提起されたもののいずれもがこの家計消費がGNPの過半を占めるということの分析や意味の考察にも貫かれていると思う。吉本さんの考えは、途中修正されたりしてきてはいても、吉本さん自身が述べていたように、通ってきた考えの道筋は誰もがきちんとたどれるようになっている。吉本さんの言葉は、こうした一筋のものに貫かれていた。


補註として

 付け加えれば、なぜ吉本さんには「先見の明」があるのか。例えば、現在では割とすんなり受け入れられるように見えるが、誰も指摘していないように見える(わたしは経済領域に通じていないから見えるとしか言えないが)時期から旧来的な主流の公共工事にお金を注ぎ込んでも無意味に近い、それよりも新たな主流として登場している第三次産業のサービス業の分野に補助金としてお金を注ぎ込んだ方が経済対策として効果的だと言われていた。それは、社会が消費中心の新たな段階に到っていること、何が社会の主流であり、何がそれを突き動かす主要な動因かなど「社会総体のイメージ」の獲得のための日々の研鑽を吉本さんが心掛けていたからである。手品でも才能でもないのである。






 5.他者の言葉がわかるということ


 他者の言葉がわかるということには、日常での人付き合いということも含まれる。互いに違った家族や環境で育った者同士が理解し合うというのも、誰もが実感するように難しいものがある。ここでは、文学作品や思想に表れた他者の言葉の理解ということに限定して考えてみたい。

 吉本さんの『遠い自註(連作詩篇)』(猫々堂)の最後の詩に「『さよなら』の椅子」(連作詩篇「野生時代」1984年3月号掲載)という詩があり、その中に次のような詩句がある。



さっきから黙ったまま
「さよなら」は 影絵みたいに
ひっそりと 主客の席にひかえてる
詩は 書くことがいっぱいあるから
書くんじゃない。
書くこと 感じること
なんにもないからこそ書くんだ

 (「『さよなら』の椅子」『遠い自註(連作詩篇)』、『吉本隆明資料集57』猫々堂)



 この部分の一連は、後にまとめられた『記号の森の伝説歌』の最終章「演歌」の末尾近くでは次のようになっている。行頭をそろえて示すと、


さっきから黙ったまま
「さよなら」は 影絵みたいに
ひっそりと 主賓の席にひかえてる
詩は 書くことがいっぱいあるから
書くんじゃない。
書くこと 感じること
なんにもないからこそ書くんさ




 2つを比較すると、わたしがその意味を調べてみた「主客」が「主賓」となり、「書くんだ」が「演歌」という題を意識してか「書くんさ」となっている。これは、詩作品の中の詩というものを捉えた言葉であるが、吉本さんの詩に対する捉え方と見なしていいのではないだろうか。この言葉もまたよくわからないままにわたしの中に保留されてきた吉本さんの言葉である。この言葉に初めて出会ったとき、わたしにはよく分からないなあという感じが残った。もちろん、以下に述べるようなことは頭の隅に置いた上ではあるが。


 まず、ある人が詩を書くことでいえば、次のような過程(段階)が考えられる。

1.読み味わう詩人の詩の影響もあり、ある言葉の蓄積とそこからの水圧のようなものの促しにより自然発生的に詩の言葉のようなものを書き付け始める。

2.詩を書くということを持続し、いろんなことを思い付いて、進んで(楽しんで)詩を書く。

3.何をどう書いたら良いかなど混迷して、詩を書くのが苦しくなったりしてくるが、それでも詩を書き続ける。

4.今までも自分のどこかに潜在していたとしても、本格的に問われることがなかったが、なぜ詩を書くのかという内省的な、詩への入口を再び反芻するような、還りがけの視線を内包しつつ、詩を書く。

 吉本さんの上の詩句は、この4.の段階から放たれた言葉だと思われる。吉本さんは若い頃毎日のように持続的に詩を書いていた時期がある。「日時計篇」として膨大な詩篇が残されている。批評や思想に持続的な力を注いで、途中詩を書くことが間遠になったりする時期もあるが、この時期は再び持続的な詩の活動期に当たっている。雑誌「 野性時代」1975年10月号の詩「幻と鳥」から1984年3月号の詩「『さよなら』の椅子」にいたるまで、若い頃のように毎日のように詩を書くということではないとしても、持続的に連載された。それがこの『遠い自註(連作詩篇)』の詩であり、それらの連作詩篇をもとに作り上げられたのが、『記号の森の伝説歌』(1986年12月)である。吉本さんが批評や思想の表現に力を入れて詩を書いていない時期は、たぶん〈詩〉はそれらの批評や思想の言葉の奥深くに潜在しているか、あるいはそれらの表現された言葉と言葉のすき間に微かに散布されたように存在していたのではないかと思う。

 この4つの段階のそれぞれに詩を書く者がいたとして、それは同一人物でも別人でもかまわない。1.の段階に居る者が、4.の段階に居る者からいくらていねいに説明してもらっても、実感として4.の段階のことは分からないと思う。このことは、段階の違いがある相互の間では言えることだと思う。
 
 わたしは中断していた詩を再開しいくらか書き込んできたが、現在のわたしは、先の詩に関する吉本さんの詩句がなんとなくわかるようになってきた感じを持っている。この問題を比喩を用いてさらに以下に説明してみる。


 わたしたちの日常的な生活実感に添うような比喩を使ってみる。

 A:はじめての山登りの登り始め
 B:はじめての山登りの中ほど
 C:はじめての山登りの頂上到着
 D:はじめての山登りの帰りがけ
 B':何回もこの山に登った者の、山登りの中ほど

  ※ 個々人の固有性を退けた上での一般化として考えるから、A、B、C、D、B'は、すべて同一人物と見なしても、それぞれが別人と見なしても、いずれでもかまわない。


 


 個々人の固有性を退けた上で一般化した場合、ほとんど山登りの経験のない者が、ある山にはじめて登ったとする。山に登る過程のA、B、C、D、それぞれの位置での人に湧き上がってくる感受や考えは違うはずである。しかしそれは、AからDの山の頂上に登る道程がひとつのまとまったものとして、ある波打つリズムのような曲線を描きながらたどる一連のものと見なせると思う。したがって、この場合の登る道程におけるA、B、C、D、という位置の違いによる感受や考えの違いは、心身の経験の量の違いではあるが、同一の経験の地平上での違いと見なせる。

 次に、はじめてのこの山登りのBと何度もこの山に登っているB'の間の感受や考えの違いも明確にあるはずである。これもまた、BとB'の間には心身の経験の量の違いが明確にある。この場合は、B'はBと比べて一連の道程を何度も繰り返してきているから、B'には何層もの経験が積み重なっているということであり、心身の経験の量の違いが質的な違いとなっているはずである。したがって、BとB'は同一の風景をいっしょに眺めていたとしても、感受や考えの言葉の地平が位相の違ったものとしてBとB'には現象しているはずである。そのことを表すために、上の図ではB'は、同じ山であるが、右にずらした位置の表示をしている。このような相違は、おそらくそんなに事細かに説明しなくても日常に経験するものとして実感的ではないかと思う。

 日常の経験でも、職人的な技でも、芸術の世界でも、同一人物であれ別人であれ、相互に違った段階にあるときは、そこから湧き上がって来る問題を風通しの良いものとして相互にわかり合うことは難しい。つまり、どんなに言葉を尽くしても互いがわかり合うことは難しい。ただ、未だ先の段階としてそれを経験していない者は、黙々と日々経験して先の段階に到達して、先の段階を経験している者のような実感を手にするほか互いがわかり合うことはできないように見える。この場合、両者は時間的に遅れて出会うことになる。親と子の関係もそれと同様なものとしてある。

 因みに、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の「序」や『心的現象論序説』の「はしがき」や「あとがき」がある。これらは対象との取り組みをなんどもなんども繰り返されたB'の位置からの言葉であり、その道の初心者がその言葉に対して何が語られているのかわからないとか不審に思ったり違うんじゃないかなどと思うのは、上で述べたBとB'の関係からどうしようもないものである。もし、Bの位置にある者が言葉というものや人間の心や精神現象について根本から理解しようと願うなら、黙々と登攀(とうはん)を続けるほかないのである。そうして、いつか少しずつ靄(もや)が晴れ上がっていくのを目にすることになる。ただし、この場合、吉本さんの成した優れて深い考察が手助けやおくりもののように前にあるからずいぶんと軽減された登攀ということになる。

 以上、日常生活世界では当たり前の実感について少し大袈裟に言葉を費やしてしまったが、人は日常生活世界の具体性の世界を抜け出して、文学や思想というある抽象性の世界に入り込むと日常世界の身体性や具体的なものにまつわる実感が消失してしまうことがある。そういうわけで、わたしの場合のわからなさということの自己確認の意味も込めて、言わずもがなのことを書き記してみた。

 また、以上述べてきたことを覆したり大きく揺さぶるように見えるかもしれないが、最後にもうひとつ付け加えておきたい。人が対象に対し対象の有り様を捉える眼差しには、上に述べたように当然経験の差ということがある。しかし、日常わたしたちが経験するように、会社の管理職や学校の校長などが深い洞察力と見識を持っているとは限らない、ということも確かなことである。あるいはまた、研究する対象世界に長く触れ続けている学者でもエコノミストでも、それって根本から間違っていないか、という印象を持つ場合が多い。何が問題なのだろうか。

 まず、上に述べてきたことは、確かなこととして言えることだと思う。しかし、その場合は、厳密にいえば、人が対象とする世界に対して自己の言葉を局所的に位置付けたり、イデオロギーを導入したりなどをしていないことを条件としている。つまり、人が対象とする世界に対して自己の言葉をできるだけ開ききるということを前提としている。現実には、そういう自己を世界に対して開いていない言葉が多いから、問題は複雑系になる。つまり、初心者でも年季の入った研究者に対する批判ということが「自己が世界に対して開かれた言葉」という人間的な地平において可能であるように思う。


 付記(上の最後の部分に関連して)

 例えば、わたしは10年位前に、 「専門的な修練を積んだまなざしからの言葉である。けれど、記憶を含めてあらゆる人間的な事象に素人も専門家も共通でありうるという地平も確かに存在するように思われる。そうした地平から言葉を繰り出してみるならば」として、精神科医の中井久夫の『徴候・記憶・外傷』の記憶というものの捉え方に少し異を唱えている。

 記憶の初源から (過去の文章から、2008年)
 http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/c5f9ec165f9fd10efbeeaad9ed6f8fa6






 6.吉本さん追悼詩(2012.3)


 吉本さんが亡くなった ①


隣の家の裏の畑に
満開の梅の花が見える

吉本さんが亡くなった

梅の花が満開だ

ぼくが花などいじるには
世界と和解しなくてはならない
ようなことをどこかで語られていたように思う

時には憩いつつも
上り下りしながら
つっぱった孤独なたたかいの
果てまで上り詰めた言葉たちが
しずかに収束するように
花びらを散らしている

まなうらに
まぼろしの梅の花たちも満開だ
薄紅の白い匂いに包まれて
ひとり しずかに
人界を越え
苦の母を越え
ていく
のが見える

小山に咲く梅 2012.2.8




 吉本さんが亡くなった ②


若い頃
吉本さんちに一度おじゃましたことがある
夏だったかスイカをいただいたことを覚えている
東京大阪博多小倉山口の講演会に出かけたこともある
ふだんの吉本さんはよく知らないけど
言葉の吉本さんとは長い付き合いで
四十年にもなる

高校生の頃
佐世保の本屋で共同幻想論に出会った
なんて横着な野郎だ
と自分を投影してつぶやいたのを覚えている
それからあれこれ読み進んだから
少しずつ自分がほぐれていったのかもしれない
孤独なひと筋の光のように
言葉は染みわたってきた

「吉本主義者」や「吉本信者」
という言葉を発明して得意げになっていた馬鹿な奴がいた
自立思想の吉本さんとは無縁のものである
意味ありげで無意味な言葉が多すぎる
ひと刷毛 ふた刷毛
無数の苦の刷毛で
沈黙の領野にひとつの深淵が浮上する
それはそれは
寂しい「ある抒情」
個の宿運を超えようと
母から国家に渡る無類の時間の旅
たぶんその足跡は匂いや色合いとともに
言葉に記されている

吉本さんは
この列島に限っても無類の人だから
ほんとうは
わたしたちも無類の言葉の風景に出会うことになる
血も滲む

言葉から滴るものがふうっと途切れて
文字が滲んで見える
哀しいというより
しずかな さびしさの滴が
からだ全体に沁みてくる






 7.「お鷹ポッポ」から (2015.5)


 NHKの大河ドラマは観ないけど、木曜時代劇は時々観る。今は『かぶき者 慶次』を観ている。時は、江戸初期、上杉家に仕えていた前田慶次(藤竜也)が主人公で、舞台は米沢。この第5回(2015.5.7放送)で、前田慶次(藤竜也)に仕える下男の又吉(火野正平)が木彫りの「お鷹ぽっぽ」を彫り、それを雫(壇蜜)という女性にあげる場面があった。「お鷹ポッポ」を見るのは初めてだったが、その場面(言葉)からわたしはすぐさま吉本さんを思い浮かべた。



 もうひとつ、親しみを感じた理由があった。その店の庭先には、私が山形県米沢市の高等工業学校にいたとき、「お鷹ポッポ」と呼んでいた、おそらくアイヌの鷹をかたどったにちがいない、木を削っただけでつくった置き物が飾ってあった。
 うれしかった。これを知っているのは東北も山形県あたりの人だろう。もしかしたら、お兄ちゃんも米沢出身かもしれないと、勝手に空想をたくましくした。
 そういえば、高等工業学校時代、首が細く長い教授は、「お鷹ポッポ」というあだ名だった。思い出は果てしない。
 (『開店休業』吉本隆明/ハルノ宵子 「せんべい話」P82 2013年)



 何でもないせんべいの店だと思っていたところ、私は、あっと驚くほど感動した。東北の小さな町で学校に通っていたとき、小型のものを買って持ち帰ったり、町筋の店では飾られている大型のものを見かけたりした。あの馴染み深い「お鷹ポッポ」が店先に飾ってあったのだ。
 「お鷹ポッポ」は、一刀彫で一本の木材を切り開いて、鷹の形に仕上げてつくる見事な民芸品で、思い出すのは学生時代、顔が小さく細長く、首筋も細長い、とある名物教授を親しみを込めて「お鷹ポッポ」という、あだ名で呼んでいたこと。
 私は第二の故郷と言っていいほど愛着を感じていたその土地と、教授先生に誰もが感じていただろう愛情と同じような感情を、このせんべい店に感じた。
 それからは遠回りになってもときどき店に寄って、世間話を交わすようになった。
 (『同上』 「塩せんべいはどこへ」P227)




 本書は、食にまつわる話であるが、身近な食の話に触れながら吉本さんが全力を掛けて生涯考察してきたことの頂からの、未だに決着が付かない問題を考え続ける言葉の表情を窺うことができる。たとえば、「塩せんべいはどこへ」の末尾には、「人間と自然との相互関係には、不可解なところがある。」とある。ということは、わたしにはよくわからない部分にも遭遇したけれども、食に触れながら単なる随筆風ではなく、老いて尚対象の本質的な姿を追求して止まない思想者の新鮮な姿がある。娘ハルノ宵子の文章が吉本さんの文章に唱和するように各回付けられていて、吉本さんの言葉がいくぶん相対化され、本書はいい構成の本になっていると思う。
 「お鷹ポッポ」がどういうものか、以下の引用のページでもその画像を見ることができる。



「お鷹ぽっぽ」に代表される笹野一刀彫は、山形県米沢市笹野地区に伝わる木彫玩具です。お鷹ぽっぽの“ぽっぽ”とは、アイヌ語て“玩具”という意味。 米沢藩主上杉鷹山公か、農民の冬期の副業として工芸品の製作を奨励したことにはじまり、 魔除けや“禄高を増す”縁起ものとして、親しまれてきました。 (「東北STANDARD」 https://tohoku-standard.jp/standard/yamagata/otakapoppo/ )



 この説明によると、近世の起源とある。wikipedia「笹野一刀彫」によると、「お鷹ポッポ」以外の木彫りを含めて、「地元の伝承では、806年(大同元年)開基とされる笹野観音堂の創建当時から伝わる、火伏せのお守り・縁起物とし、1000年以上の伝統があると主張している」とある。こういう伝承自体は、すぐに事実とすることはできないが、かといって近世に過去との何の脈略もなく生まれたとも考えにくい。

 確かにアイヌ語との関わりなどを考えると、そのような木彫りのものは古い歴史を持つだろうと想像される。また、アイヌには木の棒から作られるイナウという祭具がある。そして、今では「民芸品」となっているこうしたものは全国的に様々に存在していると思われる。今では軽い品々になってしまっているけれども、元々は、「お守り・縁起物」のような宗教性をもったものだったのだろう。

 柳田国男が調べていた、東北地方で信仰されている家の神である「オシラサマ」は木で作られているという。木が霊力を持つと見なされていたのだと思われる。当然のこととして、それらの起源を考えれば、「オシラサマ」も「イナウ」も「お鷹ポッポ」も、また全国に残っているそれらと同様のものも、近世や古代や縄文時代を超えて、自然や自然のものに宗教的な霊力を強く感じていた人類の段階へと果てしなくさかのぼることができる。

 現在では、その霊力や宗教性はずいぶん薄まってしまっている。しかし、人類の起源からの流れは脈々とつながり、形を変えて保存され、流れてきていることになる。

 人がある懐かしさ(あるいは、痛ましい思い)で過去を振り返ることがある。単なる観光旅行ではなく、人がある地に一定期間生活していた場合を考えてみると、過去はもはや通り過ぎられてきたものであるが、ある地の様々な場面での風物や人々とのくり返してきた出会いがあり、そのことはその人に何ものかを刻みつけているはずである。そして、あるもの(ここでは、「お鷹ポッポ」)を媒介として、その過去の時間や空間がイメージとして蘇ってくる。そして、その湧き上がってくるイメージは、その人固有の色彩や匂いや情感に彩られている。



 何でもないせんべいの店だと思っていたところ、私は、あっと驚くほど感動した。東北の小さな町で学校に通っていたとき、小型のものを買って持ち帰ったり、町筋の店では飾られている大型のものを見かけたりした。あの馴染み深い「お鷹ポッポ」が店先に飾ってあったのだ。
 「お鷹ポッポ」は、一刀彫で一本の木材を切り開いて、鷹の形に仕上げてつくる見事な民芸品で、思い出すのは学生時代、顔が小さく細長く、首筋も細長い、とある名物教授を親しみを込めて「お鷹ポッポ」という、あだ名で呼んでいたこと。
 私は第二の故郷と言っていいほど愛着を感じていたその土地と、教授先生に誰もが感じていただろう愛情と同じような感情を、このせんべい店に感じた。
 それからは遠回りになってもときどき店に寄って、世間話を交わすようになった。
 (「塩せんべいはどこへ」P227 『開店休業』吉本隆明/ハルノ宵子 2013年)



 この文章のイメージや情感の流れを取り出してみると、「何でもないせんべいの店」→「あっと驚くほど感動」→「あの馴染み深い『お鷹ポッポ』」→「とある名物教授、あだ名」→「愛着を感じていたその土地」→「教授先生に誰もが感じていただろう愛情と同じような感情」→「このせんべい店」となっている。もちろん、このイメージや情感の流れは、吉本さんが現場で想起したり感じた流れそのままではないかもしれない。つまり、文章にする過程で付け加えられたものもあるのかもしれないが、そこは分離することはできない。

 まず、外国人に関してはわからないけれども、この列島の住人であるわたしたちには、こういう文章を読んでも異和感はないであろう、つまり、そのイメージの湧き方や情感の流れにスムーズに入り込んで行けると思われる。

 ここから、類推してみると、わたしたちは、それぞれ生い立ちが異なるものがそれぞれの固有性を携えつつ、同一の地域(または、小社会)で、同時代に生きるということは、ある地域(または、小社会)的な共通性を共有しているということである。このことは、昔にさかのぼるほど強かったものと思われる。現在では、このような地域的な固有性は、欧米文化やその考え方の浸透とそれらによる全社会的な均質化のなかに解消されつつある。

 しかし、そんな状況にあっても、この列島に住むわたしたちの精神や心に刻まれた数万年にも及ぶ遺伝子は、現在の状況を許容しつつも、その全体的な解消を許容することなく、避けられないグローバル化(人類の地球規模の再会)の中で、欧米主導のグローバリズムに対しては半ば無意識的にも反発しているものと思われる。そのわたしたちの意識的、無意識的な部分が、効率や競争や市場等々のキーワードに象徴される欧米主導のグローバリズムにやられっぱなしなのか、それともある独自のものを形作ろうとするのかは、これからのことに属している。






 8.少しすっきりしたこと ―吉本さんの言葉の癖 (2016.3)


 以前、「参考資料―吉本さんの『ほんとうの考え・うその考え』のこと」(「消費を控える活動の記録・その後 2 (2015.6~10)」)の「わたしの註」の末尾で、吉本さんの「対称」という言葉の癖のようなものについて触れたことがある。そんなに重要な問題とは思わなかったけれど、ずいぶん長く気になっていたことである。

 最近になって、「短歌味体Ⅳ―吉本さんのおくりもの」を書き進めている関係で、遠い昔に買って若い頃読んだ『吉本隆明全著作集 2 初期詩篇Ⅰ』(勁草書房 昭和46年)を何十年ぶりかで開いて見ていたら、巻末の「解題」(川上春雄)にそのことがちゃんと書き留めてあった。後振り返れば吉本さんの著作の数は膨大で、雑誌に載ったり、本として出版されるものを次第に追っかけて読むようになっていった。傍線が引いてあるから、遠い昔一度は読んだはずのその「解題」のことはわたしの記憶のどこにもなかった。



 用字仮名づかいについては、この解題でふれておかねばならないことは、著者の用語、仮名づかい、あるいは修辞の上で甚だ特色に富むことである。ついては、この企画の第一回配本がこの第二巻『初期詩篇Ⅰ』となる関係から、第一巻の刊行を待たずに、ここに一括して用字用語の大概を記しておく。

 且てたれもがそうとはおもはなかつた不思儀な対称が視られるでせう。

 右の文でたとえば、著者の意識的な好みなり、無意識的な誤謬なり、その混在なりの一端がみられる。しかも、そう(「そう」に傍線)はあるときはさう(「さう」に傍線)となり、対称は、ひとつの文章のなかにおいてさえ、対象、対照を併用していることもあるから一貫した用法ではない。これを校正係から[嘗て]あるいは[かつて]と訂し、[不思議][対象]と訂することの申出があれば、著者はただちにこれを諾するであろうということは、このようなことに固執しない人柄からみて、およそ明らかである。文学的な記録を意識的に行為するようになった米沢在住時代以降、昭和四十三年(一九六八)の現在にいたるまで、依然として、

 (且て)(たれ)もが(そう)とは(おもは)なかつた(不思儀)な(対称)が(視)られるで(せう)。(引用者註.カッコの部分は、傍線あり。)

 というような筆記法によっている。もちろん手紙の文面でもおなじである。



 しかしながら、かつて「不思儀」を「不思議」と書きかえしなかった編集者校正者は存在しないのであったが、この著作集全般の校訂に際しては、あえて原型をのこして、著者の作風、感性を保存しようとつとめた。慣例、適切、常識、精確というような点では、あるいは一般的用字法に折合わなくても、著者独特の語法に拠って、原作にたちかえることを旨とした。
 (『吉本隆明全著作集 2 初期詩篇Ⅰ』「解題」P410-P413)




 そういうことだったのか、と少しすっきりした気分になった。しかし、まだ不明のこともある。そのひとつに電車の中の席取り競争について触れた文章がある。その一度読んだ文章を何度か全著作集で捜したけど、見つからなかった。家族の行楽帰りだったか、もし家族の者がひどくくたびれ果てていたら、自分は席取り競争に加わるかもしれないけど、原則的には席取り競争には加わらないという、生活世界での吉本さんの倫理を語った文章だという記憶がある。

 






 9.吉本隆明「カール・マルクス」から現在へ (2016.4)


 ここで、わたしたちの現在に戻ってくれば、わたしたちの現在は次のような自然に対する関わり合いやその意識が大きく変貌している段階に突入しているのではないかという問題がある。当然のこととしてこのことが作者とその言葉を介して生み出される芸術作品の表現にも影響を与え浸透しているものと考えられる。

 この今までにない時代の変貌は、世代によっても感じ方や捉え方が違うように思う。若い世代はその変貌を割と自然なものと感じているかもしれないし、わたしのような老年に近づいた世代なら前段階と比べることによってその変貌の徴候を見つけ出しやすいということがあるかもしれない。わたしたちの世代なら小さい頃の見聞きした体験からすれば、まだ「百年前の日本」の風景にあんまり異和を感じなかっただろう。そして、成長するに従ってそれとの連続性をどんどん離脱していったという感じを持っている。それは「高度経済成長期」に当たっていたと思う。いずれにしても、現実の渦中にあっては人はいろんな異和があったとしても少しずつ変化に慣れていって、それらを自然なものと化していく存在であるから、変貌の進行になかなか気づきにくい。しかし、それらがある程度積み重なってきた段階で、後振り返ってみると社会が大きく変貌していたということわかって愕然とすることがある。



しかし、わたしのかんがえでは、人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの<自然>哲学は改訂を必要としている。つまり、農村が完全に絶滅したところでは。
 たとえば、現在、アメリカでは、もっともそれに近づいており、ソ連、日本、ドイツ、フランスではそれにおくればせている。中国ではやっと都市と農村との分離がもんだいになり、農本主義を修正する段階にせまられている。現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖とその自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい。
 (「カール・マルクス」P191 吉本隆明全著作集12 思想家論 勁草書房)




 この「カール・マルクス」は、巻末「解題」によると、今から、50年ほど前の昭和三十九年(1964年)に発表されている。わたしが学生時代にこの引用部分に出会ったとき、吉本さんはこの世界における人と世界との関わり合いとその行く末をそこまで見通しているのか、と深い衝撃と感動を味わったのを覚えている。

 さて、そこから50年ほど経っている。わたしたちの現在では、すでに「このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。」という段階に到っていると思う。わたしたちはその渦中に生きている。例えば、キュウリやトマトが年中あって従来のそれらのイメージとは違ってきているとか、銀行などの対面でのお金の出し入れや送金等だったのが、機械装置やネットワークを介して行うようになってきているとか、徴候はいろんなところから引き出すことができる。ここでは、前回利用した政府統計で、「産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年)」を利用して、 産業社会の変貌を確認しておきたい。

 ここには表として挙げないが、その政府の統計の、各産業の「就業者数及び割合の推移」(大正9年~平成22年)というのは、産業の従事者数であって産業の規模そのものではないだろうが、その時代的な推移は、各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の社会に占める割合に対応していると見なすことができる。

 各時代での(第一次産業、第二次産業、第三次産業)の従事者の割合。
1.「都市と農村問題」が切実だった戦前(大正9年)では
  (54.9、20.9、24.2)

2.上記の吉本さんの「「カール・マルクス」」が書かれた頃(昭和40年)では
  (24.7、31.5、43.7)

3.現在に近い時期(平成22年)では
  (4.2、25.2、70.6)

資料
表8-1 男女,産業(3部門)別 15 歳以上就業者数及び割合の推移 -全国(大正9年~平成 22 年) (www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/final/pdf/01-08.pdf)より


 この統計データによると、わが国では農村が縮小して均質化された都市の中に小さく収まってしまったイメージが得られる。もちろん、わが国でも農業は相変わらず存在するし、昔と余り変わらない農業の形態もあれば、機械化が十分進んでいる形態もあるだろう。また、それらの一方に例えばネットやパソコンによる農の制御や管理、あるいは「植物工場」など高度化してきている農業の形態もある。しかし、上の統計データでわかるように、社会内では農業は存在しても「農村が完全に絶滅したところ」に近いと見なすことができる。

 わたしたちは、一次的な自然との関係から一段高度化した自然との関係という新たな社会の段階に到っている。この社会のあらゆる問題群の現象が象徴するのは、この社会のあらゆる分野でこのような現在的な問題を検討することをわたしたちは促されているということだろう。

 吉本さんが、若い世代の現在の詩について、自然というものがない、それらは「無だ」というようなことを述べていたことがある。(『日本語のゆくえ』2008年) おそらく以上のような社会の大きな変貌の現在を生きる、わたしたちの感性や意識の現在的な自然性とそれらの内省とが表現の世界でも促されているということであると思う。

※この文章は、「表現の現在―ささいに見える問題から⑫-補註3 (吉本隆明「カール・マルクス」に触れ)」を解題しました。






 10.吉本さんの言葉というものの捉え方〈言葉という次元〉 (2017.2)


吉本 
 ぼくは言葉というのは、表現しかないと思ってるわけです。表現されなければ言葉はないと思うわけね。だから、ぼくが言葉って言うときの言葉は、表現された言葉になるんですよ。


 ぼくの論理で、言葉っていう場合には、表現された言葉っていうふうになるんです。表現された言葉っていうのは、何が違うかっていいますと、表現する途端に内部ができる
(註.1)ということだと思うんです。つまり、内部がここにあって、言葉が何か言われるっていうことは、ほんとは全く嘘だと思うんですけど、しかし、表現された言葉っていうのができたときに、同時に内部ができるっていう、そういう対応の仕方になると思うんです。


表現された言葉だけが問題なんで、表現された言葉というのがあると、言葉を表現した途端に、反作用で、自分は言葉から疎外され、疎外された分だけ内部がそこに生じる。なぜ内部が持続的に生ずるように見えるかっていうと、そういうことを人間は繰り返しているから、何となくいつでも同じ内部が子供のときからずーっと連続しているみたいな気にさせられるわけです。それは全く幻想なんだけども、どうしてその幻想が生ずるかっていったら、やっぱり表現する途端に内部ができるから。表現しなければ内部なんかないんだけど、途端に内部ができるみたいな、そういう対応関係があるところで、内部と言葉っていうものとの関係が出てくるというところで扱いたいわけなんですよね。


 ぼくは、内部っていうのが持続的、実体的に人間にあるっていうふうにちっとも考えてないんですけれども、言葉を表現した途端に内部は生ずるものだ、同じ言葉を何回も発してると、内部がいかにも形あるように見えちゃうもんだよっていう意味合いで、内部というのを問題にするわけなんです。

(「内なる風景、外なる風景」(後編) 鼎談 吉本隆明・村上龍・坂本龍一
 月刊講談社文庫『IN★POCKET』1984年4月号)



 (註.1) 「表現する途端に内部ができる」ということについて

 「表現する途端に内部ができる」ということは、わたしたちの現在的な状況としても、あるいは言葉のようなものを表現し始めた初源の人間の起源的な状況としても、二重に捉えることができる。後者から見ると次のようになる。
 人間が途方もない時間の中で内部になにか「しこり」のようなものを形成してしまって、ある時そこから促されるように「あ」とか「う」などの言葉のようなものを表現してしまったとすれば、その表現自体が反作用のように人間にその言葉に対する印象や感じのようなものを与えてしまう、つまり、「内部」が浮上する。

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 吉本さんが、言葉について本質的なことを語っている。
 わたしは、解剖に立ち合ったことはないし映像で見たくらいだが、人を解剖しても内面的な内部と呼ばれる実体的な部位が見つかるわけはない。このことはおそらく誰もがなんとなく認めそうな気がする。しかし、人間の記憶ということになると、学者の中には「記憶細胞」というものが実体として存在すると考える者もいる。あるいは遺伝子を探索しているかもしれない。記憶には植物レベル、動物レベル、人間レベルというものがあると思う。人類は未だその記憶というものの機構がよくわかっていないが、少なくとも人間的な記憶は植物レベルや動物レベルの記憶と何らかの関わり(連続性と位相差)を持っているはずだ。そして、わたしの手持ちのものからは漠然とした推測程度でしか言えないのだが、人間的な記憶は上の吉本さんの言葉という次元の捉え方と同様のものではないかという気がする。もちろん、実体としての脳の各部位やその間の神経網の活動や化学物質などが記憶というものを支えているのは間違いないはずだが、それとは違った位相に言葉やイメージとして表現されるように見える。

 人間的な諸活動は、その機構がわたしたちにはっきりとわかっていなくても、わたしたちのその機構の捉え方がたとえ誤っていたとしても、人間的な諸活動自体は心臓が動いている不随意運動のように日々持続している。50歳代辺りから記憶を引き出すのが少し困難になる物忘れなどのわたしたちの日々の経験や、あるいは人が以前より長生きするようになったから問題化していると思われる「認知症」などの新たな経験が、わたしたちの記憶の機構の捉え方に以前にも増して深い洞察を促すかもしれない。それらのことは、わたしの素人の推測によれば、支えられる実体とは別次元の記憶や認知などのシステムが、支える実体的な次元の消耗や老化などによって、クリアーに機能しない事態のことを指しているのかもしれない。

 言葉は、実体的な次元(音や文字や身体など)を必ず伴うけれども、吉本さんが述べているようなそこから飛躍した位相の異なる幻想的な次元の時空に表現される。一方、読者や観客は実体的な次元(音や文字や身体など)を介して幻想的な次元に表現された言葉や映像などを味わうのである。しかも、言葉は幻想に過ぎないのに人の心を深く傷つけたり、あるいは深く感動させたりもする。言葉の表現に限らず、職人さんの技能でも、ともに先ほどの記憶ということも関与しているはずだが、体の中に実体として技能が存在するわけではない。未だその微細な機構はよくわからなくても、言葉の表現でも或る技能でも日々くり返していくと幻想的な次元に蓄積するように、幻想のつながりとして強化されていくのではなかろうか。そして、その表現の場に座ると、蓄積、強化された幻想的な言葉や技能の次元にたちどころに接続されるのではないだろうか。

 ただし、技能の場合は、言葉と比べて身体性との関わりが強いように思われる。わたしの経験を持ってくると、福岡で高校の教員になりたての頃飛騨高山にスキー修学旅行に行ったことがある。スキー修学旅行はその高校では初めてだったので下見もあり、わたしも下見に行った。このとき初めて飛行機に乗った。スキーなんて一生縁がないと思っていたが、三日間のスキー教室は、十数人に一人コーチがついて生徒も教員も三日間でまずまずの滑りができるようになった。とても楽しかった記憶がある。ところで、それから二十数年後阿蘇の人工スキー場で偶然二度目のスキーをすることになった。滑ってみて二十数年前とは比べものにはならない滑りではあったが、自分の身体が、スキーで滑る感覚をうっすらと記憶しているように感じられたのは驚きであった。たぶん、自転車乗りも同様のことが言えるのではないかという気がする。技能の場合も言葉と同様のイメージや幻想性があると思われるが、それ以上に言葉を離れた身体感覚的なイメージや記憶が大きな部分を占めているように感じる。それは動物性の記憶に近いと言えるだろうか。

 現在の実体的なものを重視する自然科学の科学者は、言葉を考察したり言葉を考慮に入れたりということをほとんどしないだろうが、したとしてもこうした言葉の捉え方はしないのではないかと思う。しかし、例えば自閉症の理解やAI(人工知能)の研究では人間にとっての言葉とは何かということが大きく関わってくるはずである。実証や実体的なものを重視する(自然)科学は、次々に細分化され狭苦しい世界に迷い込んでいるように見える。

 ヨーロッパのルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチは、音楽・地理学から解剖学・物理学まで、あらゆる学問に通じていたと言われている。おそらくヨーロッパの中世期以降に本格的に学問が文系と理系というように分離し、細分化してきたのかもしれない。わが国では明治期にそれを輸入して現在に到っている。進学校の高校生ならほとんどその区分けを自然なものとして受け入れているような気がする。大学では、必要に迫られて理系内での科と科にまたがったり文系と理系の境界を横断する学問も学部新設などで試みられてきた。わたしは学問という世界とは無縁だが、学問というか知の世界というか、この未来的なイメージを描くとすれば、細分化の状況は今後も続くだろうが、総合性としての人間という観点からあらゆる人間的なものを対象とする〈科学〉というものが必然として生み出されていくのではないかというイメージをわたしは持っている。人類の歴史は、細分化されてきた近代に対して近代以前の総合性をまた新たな形で反復するというようなことをこれまでにやって来ているからである。

 ところで、この鼎談以前には、『言語にとって美とはなにか』(1965)、『共同幻想論』(1968)、『心的幻想論序説』(1971)と吉本さんの主要な著作がある。つまり、ここでの吉本さんの〈言葉という次元〉という考えの背景には、それらの大きな諸考察を経てきたという経験がある。また、長い詩作や思索を持続してきたその経験の実感が込められている。単なる思いつきではないのである。『言語にとって美とはなにか』や『心的幻想論序説』には、この〈言葉という次元〉という考えと同じような考え方が述べられてもいた。

 一般的には、吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、まだなじみがないような気がする。しかし、わたしには妥当な捉え方だと思われる。そして、それは今後大きな基本的な視座になっていくと思う。現在的な主流の捉え方にもなぜそう捉えるのかという人間的な自然慣性からの必然的な理由がありそうに思うが、このわたしたちの文明史が更なる自然を掘り起こしていく中から、その妥当性も徐々に普遍的なものとなっていくような気がする。なぜならば、人類史の本流は、支流にずれ込んでも必ず人間というものの本来性に従うように修正されていくと思うからだ。そして、吉本さんの〈言葉という次元〉の考え方、言葉や内部という捉え方は、吉本さん自身の詩作体験やものを考える体験の実感から出発して人間の普遍に開かれているように見える。つまり、人間的な本質や人類史の本流に深く届いているとわたしは思っている。

※この文章は、「吉本さんの言葉というものの捉え方 付「わたしの註」 」がもとになっている。







 11.考え、表現することの二重性


 知り合いの奥野健男が太宰治を対象とし、江藤淳が夏目漱石を対象として、それぞれが深く追究しているようだから、もう自分は太宰治や夏目漱石を論じなくてもいいか、と吉本さんが対談かインタビューで語ったことがある。こういう考え方はや姿勢は、科学の研究では一般的なものである。

 現在では科学者間の熾烈な競争があることは確かだろう。企業の研究開発部門にいる場合は、いっそうの競争の熾烈さがあるだろう。だから、海外の情報を含めて自分の研究分野に関係することは、誰がどんな風に研究していて今どの段階までいっているのかということを研究発表論文などを頻繁にチェックして把握しているはずである。

 他人の研究が自分の研究分野と同じでも、他人が研究したものを別のやり方でたどり、別様の展開が予想されるなら、他人がやってしまった研究分野でも依然として推し進めていくということはあるだろう。しかし、一般的には、他人がある分野の研究を十分に渉猟し尽くしていると判断したら、そこはその人に任せて自分は違う分野を追究するだろう。 
 吉本さんの語るところに寄れば、『言語にとって美とはなにか』はその様にして成立している。つまり、近代批評というものを打ち立て格闘した小林秀雄がまだやってないのは言葉の考察だということで、表現された言葉という誰もが受け入れるだろうことを出発点として言葉や表現や芸術の考察に取りかかったということである。

 科学者のそうした研究に対する考え方や研究姿勢は、科学者の倫理というより、研究開発は経済社会と密接な熾烈な競争であるということと対応しているからである。研究開発が経済活動とリンクする特許と結びついたりするから、他人がやった研究をたどったりすることは無意味なのである。もちろん、学校での科学の教育は別としても、この世界の有り様を明らかにするという科学研究の本質性から見ても、他人がやってしまった研究は特に疑念が起こらない限りたどる必要はないと言えるだろう。吉本さんの太宰治や夏目漱石を取り上げるのはもういいかという考えや判断は、こうした現代の経済社会を背景とする科学者としての体験から来る自然性、つまりそういう判断や姿勢を自然と見なすところから来ているだろう。

 しかし、この問題は、もう少し先まで広げて考えることができるかもしれない。
 まず、わたしたちが考え、表現することには次のような二重の意味が考えられる。

 考え、表現することの二重性
1.個としてのよりよく生きようという固有の動機
2.同時代の他者や後の世代の人々への無償の贈与


 現在は、考え、表現することをプロの仕事としている人々は、経済社会や著作権などとまだ結びついている。そして読者や観客は、それらのプロの仕事にお金を出して本を買ったり、講演を聴いたりする消費という経済活動として参加している。経済の視線からすれば大方はそれでお終いかもしれない。しかし、それがすべてではない。作者たちの考え、表現する過程には自らの精神的な消費(個々の充実感など)も伴っているし、読者や観客にも精神的な消費(個々の充実感など)がある。そらになんらかの精神的な生産へのきっかけをも含むかもしれない。したがって、作者たちと読者や観客たちのあいだで受け渡されるものが経済活動の中に収まってしまうわけではない。

 あの親鸞でさえ名利(みょうり、名誉や利得。)に囚われる自分というものを内省したように、人間世界の現実界では名誉欲や人を出し抜こうとかもっと生々しいものが渦巻いているのかもしれない。それらは経済社会の競争というものに思想や芸術も組み込まれているから人の本性のようなものがそれらによって開拓され増幅されて出てくるのだろう。一方で、吉本さんも述べていたように経済社会の競争というものは行きがけだけは人が思想や芸術を磨くのを手助けしてくれるという面も持っている。

 人が考え、表現するということは、プロの場合はそうした経済社会に囚われその渦流に揺さ振り続けられるということがあるとしても、それが考え、表現するということの本質ではない。人は、個の固有のモチーフから出立し、時代や歴史的な現在というものとぶつかり合いながら、考え、表現していく。その個の固有のモチーフは、一方で自らがより良く生きようというモチーフから出立し、その生存の流れに還流していく。もう一方では、本人が意識しようがしまいが同時代の他者や後の世代の人々への無償の贈与として、〈おくりもの〉として言葉は放たれることになる。すぐれた考察や思想は、著作権などの経済や法などの現世的なしばりを超えて、無償の〈おくりもの〉として言葉は贈与されるのである。そして、その〈おくりもの〉を受け取った人は、同じようなことを反復することになる。







 12.知識の第一義的な課題


 吉本さんは、知識世界に長く深く関わってきた。以下の引用部分では、知識というものの本質に触れている。わたしたちは、知識の現状にはいくらか通じているかもしれない。あるいは、知識の現状に到る道筋についてもいくらか通じているかもしれない。ギリシアを何度も反芻した末の近代ヨーロッパ哲学(ヘーゲルやマルクス)とロシア革命以降の「マルクス主義」、ロシアや中国の革命の無惨な結末と構造主義やポストモダンの潮流。わたしはそれらにイカレた覚えはないがいくらか触れたことはある。「東西対立」という虚構の神話の崩壊の後、知らない間に一時期の流行だったように思想やイデオロギーの潮は引いていった。この列島では知識世界はいつもそのような現象を呈しているように見える。もちろん、それらの思想が生まれた国々では発生する必然性とそれなりの重みをを持っていたはずである。

 わたしたちの生活圏における感受や感覚はずいぶんと欧米化を遂げてはいる。しかし、それはわたしたちの意識の表層から中層にかけてであり、意識の深層は太古から連綿と少しは形を変えつつ連続しているように見える。そのようなわたしたちの意識の深層に出会うためには欧米の流行思想ではなく、むしろ、柳田国男をこそ読むべきではないかとわたしは思っている。そこには柳田国男というすぐれたフィルターを通して見つめ蒐集されたこの列島の人々の生活世界の主流の精神史が独特の色合いや匂いを伴って像を結んでいるからだ。

 わたしたちは、知識というものをヨーロッパ近代以降や古代の中国文明期以降などからもっと時間を遡るべきなのだ。少なくとも、ちょうど知識(宗教性)というものが発生して集落世界から分離され始める時期にまでは。そこでは知識(宗教性)が集落の普通の人々にとってどういう必然として生み出され、どういう相互の関係にあったか。そこでの有り様が、遙かわたしたちの現在の姿にたどりつく運命を秘めているはずである。そのような知識(宗教性)の起源の場所から照らし出せば、現在の知識の大層な姿や空無さにはある深い目まいを感じるべきなのだ。少なくとも知識の世界に入り込んでしまった者は。



10 知識とは何か

しかし、しかしですよ、もし人間に知識という富というものが、もし備わっているとするならば、それが大事なもの、知識という富が大切なものだとするならば、労働者だってこんだけのことしか感じられないところで、これだけの全部のことを感ずるっていうふうになることができるわけなんです。また、インテリっていうようなものは、知識についてはいわば無際限に拡大する能力と、それから想像力っていうようなものを行使する。たとえば、部分的でありますけれど、行使する自由っていうのは、一時的でありますけれど、自由っていうのをもっているわけです。だから、その自由っていうようなものは、やっぱり問われなければならない。どういうふうに問われなければならないかっていうと、その自由っていうのは無限大にまで拡大しなければならないっていう、そういうことを絶えず問われているんですよ、インテリっていうのは。つまり、インテリゲンツィアあるいは知識っていうものが問われるっていうことは、これだけしか感じない人が世の中にはいるんだぞっていうことを、そういうことを知らなくちゃいけないっていうことはどうでもいいんです。つまり、悪いことじゃないんですけれど、それは第二義的なものなんです。知識にとっては第2番目のことなんですよ。知識にとって最大限に重要なことは、無限大に、知識っていうのは無限大に感じ、それから、無限大に想像力を働かせ、無限大に考えるっていう、そういう知識っていうのはいわば、議論をもってるぞっていう、それが知識にとっての課題なんですよ。知識のためにいろいろな、たとえば経済的な制約のために、労働者、大衆っていうようなものは、これだけしか感じられないんだよ、かわいそうなんだよっていうようなことを、なにも同情はするなんてことはどうでもいいわけなんですよ。つまり、どうでもいいっていうのは第2番目のことなんですよ。しかし、そうじゃなくて知識っていうのは、本当は無限大に感じなければならない。あるいは無限大に考えなければならないのに、たったこれだけのことしか考えることをしていないとすれば、それは知識が問われるわけなんです。知識の怠慢っていうようなものは、そこで問われるわけなんです。だから、知識っていうのは、その時代の人間が感じている自由っていうものを、自由の範囲っていうようなものを感じているとすれば、その範囲を同じ時代の人が感じているよりもはるかに多くの自由っていうようなものの範囲を感じ、考えなければならないっていうものが、知識にとって第一義的なことなわけなんです。


11 工場体験の意味

 つまり、その観点から言いますと、僕はヴェイユっていうのは、そこがダメなような気がするの。僕の考えでダメだっていうんですよ。ダメなような気がするんで、つまり僕とは違うなって思うの。考え方が違っているなって思うの。なぜかっていうと、ヴェイユはそこで、無際限の知識っていう富を自分が持っている。しかも、ヴェイユっていうのはソルボンヌの秀才ですから、当代の第一級の知識人ですから、なおさら罪を感ずるわけですよ。罪なんです。知識を持たない人に対して、あるいは、制約された場所でもって働いているそういう人たちに対して、無限大の罪を感じていたわけなんです。だから、そこに無限大に自分を同化していくことによって、なにかを獲得していこうっていうふうに考えていくわけなんです。
で、この考え方、決して僕は馬鹿だとかなんとか言いませんけれど、しかし、僕はそれは違うと思います。ヴェイユの考え方の中で、違うところがあるんです。違うと僕が思うところがあるんです。それは、ヴェイユだけじゃなくて、宮沢賢治なんかでもあるんですよ。似てるところがありまして、つまり、知識っていうものは罪悪だって、つまり、知識っていうものに罪を感じるっていう観点があるのですよ。宮沢賢治にもあるんですよ。自分を無限に超人的なところに追い込んでいくわけです。この追い込み方っていうのは、非常に宮沢賢治とよく似ているんです。
しかし、その考え方は違うと僕は考えます。こういうことを宮沢賢治でも言います。宮沢賢治の詩の中にも童話の中にもしきりに出てきますけれども。自分も農学校の先生をしてましたから、宮沢賢治は生徒たちに与える詩みたいのがありますけど、君たちがのっぱらに出て、畑や田んぼに出て、それで、ひとつひとつ耕しながら、そして、身につけていく、そういう学問の方が、学校行ってテニスをしながら教わるような、そういうものに比べたら、本当の学問っていうのはそういうのだっていうような言い方を、宮沢賢治もします。
しかし、僕はそうじゃないと思ってる。それは間違いだと思っています。つまり、知識っていうものは、いったん拡大した、獲得した、人類が獲得した、人類の誰でもいいんです。最大限に獲得した知識、あるいは感受性、そういうものは、それが一見退廃的であろうとなんだろうと、いったん獲得した精神の範囲っていうものは、逆に戻るっていうことはありえないのです。つまり、これを逆に戻すことはありえないのです。そういうことはないのです。知識っていうのは技術よりも、科学技術よりも、もっと確かなんです。科学技術っていうものは、やっぱり人間が統御すれば、わざとシンプルな機械を使ったりすることはできる。そういう社会を作ることもできるんです。しかし、知識だけは、いったん獲得された、人類の時代が長い間あれして獲得した知識の範囲っていうものは、これをせばめることはできないのです。だから、これを乗り越えるためには、それよりもより大きな自由っていうもの、より大きな感受性、想像力、それから思考力でもって、これを包括する以外に知識がそれを乗り越える道っていうのはないのですよ。ここのところが非常に重要なんです。
つまり、ここのところで、僕たちは、いつでも大衆っていうようなことを考えたり、あるいは貧困っていうことを考えたり、あるいは虐げられし人っていうものはどうなってるかとか、あるいは圧制されているものっていうようなものを考える場合に、いつでも突っかかってくることは、そこなんです。そこの問題です。そこでいつでも突っかかります。そこで、いつでも岐路に立たされます。知識っていうのはいつでもそこで岐路に立たされます。おまえはこういう人たちがいるっていうことを理解するところに、おまえは理解力を行使したり、また、その中に飛び込んでいかなければならないっていうような言い方が一方でなされます。しかし、一方でそのなされ方、言われ方の中に、一種のいつでも欺瞞が含まれます。いつでも一種の、どう言ったらいいんでしょうか、この息苦しさっていうのは名付けようがないけれど。しかし、それは間違いであろう。感覚が告げるところでは、それは間違いであろうっていうものが、いつでも付きまといます。それで、いつでも当面するものは、いつでもおんなじです。だからその気張っている中で、気張っているところで、ヴェイユがヴェイユなりに、知識の課題を無限の罪のところにもっていくわけです。
しかし、僕の考えではそうではありません。宮沢賢治もそういうふうにもってきます。だから、自らも超人的に自分も超人的なところに追い込んでいくわけです。しかし、それで潰れるわけです。潰れてしまうわけです。それは壮絶な潰れ方ですけども。しかし、僕はそうじゃないと思います。僕は、それは違うんだと思います。それはどこが違うんだって言うと、今言いましたように、知識っていうのは、いったん人類が獲得された知識、あるいは感覚とか思考力っていうようなものは、絶対にそれは逆戻りはしないっていうことなんです。だから、これに対して対立する知識を持ってきたってダメだっていうこと。これを克服するには、あるいはこれを総括してしまうには、これを無視して否定してしまうには、これ以上に知識を、あるいは感受性、想像力、思考力の範囲を拡大する以外に方法がないっていうことなんです。
だから、そこのところでたぶん、ヴェイユの考え方っていうのは、一種の凄まじい倫理観に追い込まれるっていいますか、そういう最初の兆しっていうようなものが、そこで現れてきます。これがたぶんヴェイユが当面した工場体験って言いますか、工場生活で体験したいちばん大きな問題なわけなんです。それでたぶんこういうところで、ヴェイユは何をしたかっていいますと。ひとつひとつたとえば、労働者っていうものに、知識や判断力や、それから教養とかゆとりとかっていうのを与えるには、どういうやり方をしたらいいんだろうかっていうのは、どうやったら日々の息苦しさっていうところから自分を一時的にであれ、自分を開放するみたいな、そういうことをどうやったら実現できるだろうかっていうことをしきりに考えていきます。

「シモーヌ・ヴェイユの意味」(吉本隆明の183講演 FreeArchive A050 講演のテキストより) ※これは『言葉という思想』に手を入れて整序された文章として収められているけど、生の語りの方を引用した。




 この引用部分では、二つのことが語られている。まず、人間的な活動の自然(必然)性から次々に増大していったり深まったりする「知識」というものの第一義の課題は、「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」ということだと言われている。二つ目は、「知識」の世界に入った者が知識を罪悪なものだと見なすことがあるということが語られ、その例としてシモーヌ・ヴェイユと宮沢賢治が挙げられている。

 「知識」の第一義の課題は、人間というものの本性(それは未だ十分に明らかにされているわけではないが)に根差した捉え方だと思う。共通性として分離・抽出してみれば人間には、人を思いやるような性向(結(ゆい)などの様々な相互扶助組織の存在)もあれば、邪悪な性向(国家による経済・政治・文化の独占の歴史)もある。これらの人間の二つの性向が共同性として組織化された様々の形態をわたしたちは現在までの歴史の中に見出すことができる。

 しかし、柳田国男の貴重な「おくりもの」によって過去の人間の生活世界の推移や動向を捉えてみたら人間のその前者の性向が束ねられて歴史の無意識的な本流を駆動してきたのは間違いないと思われる。そして、吉本さんの「知識」の第一義の課題ということも、その歴史の無意識的な本流に添って「無際限の知識っていう富」として捉え返されたものである。その歴史の無意識的な本流に潜在する、大多数の普通の人々の、より良い生活、より良い人と人との関わり合い、より拡大された自由などの潜在的な欲求に、「知識」というものの第一義の課題は「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」ことによって答えることではないか。そのことは同時に「知識」を無限大に追究するその人自身のそれらに答えることでもある。さらにそのことは、知識(宗教性)というものがなぜ生み出され、それによって何をしようとしたかという知識(宗教性)の起源を反芻して捉えられた知識の意味や課題だと思われる。

 ところで、語られている二つ目の「知識を罪悪なものだと見なす」ことはどこからやって来るのだろうか。思うにこのことには、「知識」の起源ということとそこからの歴史的な展開の事情ということ、そして人間的本質の性向などが関わってくる問題である。

 シモーヌ・ヴェイユも宮沢賢治も抱いてしまったという「知識っていうものは罪悪だ」ということは、知識というものが荘厳な台座の周辺のものとして長らく支配上層や文化上層によって独占されてきたという歴史的な自覚とそのことに対する自己倫理が促してきたのかもしれない。また、その自己倫理(罪悪感)を逆に組織化すれば、政治や社会を転倒しようとする革命によって、共同的に組織された負の出来事として中国の文化大革命など歴史は無数の血なまぐさい過ちを持っている。

 知識(宗教性)は起源においては科学であり宗教性であり世界観であったはずである。つまり、その当時の人々の感じ考え方の総体としてあったはずである。そしてそれは世界(自然や神々)と交通する力を持つなにかすばらしいものと人間には見なされていたと思う。しかし、大多数の普通の人々よりも世界とうまく深く通じることができる知識(宗教性)を持った人々が巫女やシャーマンとして登場し、次第に専門化していった。ここに、「知識(宗教性)」は分離の徴候を持ったことになる。さらに国家が成立し、政治や文化上層が高度化するにつれて、そのことによって「知識」の活動も格段に促進され、と同時に専門家独占化されていった。つまり、大多数の普通の生活者と政治・経済・文化上層との二層分離である。

 初めは、単に普通の人より物知りだったり、大いなる自然(神々)とよりうまく意思疎通ができるなどから、次第に普通の人々から〈特別な眼差し〉を向けられたり、特別な扱いを受けたり、自身も自分は〈特別な人〉なんだという自覚やおごりを持つ者となり、知識(宗教性)が集落の生活世界から浮遊していく。知識(宗教性)の中空性と二層分離が、知識(宗教)がそれに携わる者におごりや特権性や権力性を持たせることにつながっている。これを負性と見たのが、シモーヌ・ヴェイユや宮沢賢治が抱いた知識に対する罪悪感だったと思う。いずれも知識の自然性としての有り様に沿ってなぞられている。そして、この本質とそこから生まれるそのような二種の反応は、太古以来現在でも不変である。

 こうしたことを背景として、大多数の無名の人々に眼差しを向けたシモーヌ・ヴェイユも宮沢賢治も、自らがその「知識」の世界にいることから負の自己倫理(罪悪感)を喚起されたのだろうと思う。言い換えると、その落差の歴史性を歴史性そのものと捉えることなく、重圧として自らに促す自己倫理として受けとめたからであろう。こういうことは、日常世界でもよくあることである。もし自分が多く持っていてそれが精神的な負担なら他人に分かち合えばいいことである。シモーヌ・ヴェイユや宮沢賢治の場合なら、「知識」の第一義の課題に黙々と邁進することがその分かち合いに当たっている。


※ この文章は、以下の文章に少し加筆訂正したもの。
  知識の第一義的な課題 付、わたしの註
   ―「シモーヌ・ヴェイユの意味」(吉本隆明)より (2017年03月11日発表)






 13.知識の起源から照らして


 前回も知識(宗教性)の起源を考慮に入れて知識というものを考えなくてはならないと述べた。知識というもの知識世界というもの、これは知識の起源から照らしてわたしたち一人一人やわたしたちの生活世界にとって本質的にはどんな位置にあり、どんな意味があるのかを考えてみたい。
 がんにかかった姪に触れた吉本さんの言葉がある。



―例えば若い看護師がターミナル期を迎えた患者さんのそばに行ったときに、たまたまその患者さんに「おれはもう死ぬだろう。死んだらおれはどうなるんだ」と質問されたとします。そのとき、ケアのプロである看護師はどんな答え方が良かろうと、吉本さんはお思いになりますか。

吉本 僕は姪が子宮がんで亡くなったときに、「おじさん、どういうふうに考えたらいいの」と盛んに聞かれました。今だったら何か言えそうな気もしますが、そのときはこの段階でおれが言うことはみんな切実さに欠けているという感じがして言えませんでした。「車いすで病院の中でも散歩するか」と言っただけで、何も言えませんでしたね。今だったら多少何か言えそうな気もしますが。
 でも、どんなことを言っても、死については野次馬的にしか言えない。ご本人がどういう状態か、精神状態は了解できるところもありますが、全体としてどうきついのかは全く分からない。分かるほうがおかしいのであって、分からない。そんなことで何かを言ったら、余計なことを言うな。死という切実な問題でないときだったらいくらでも意見を言います、僕ならそうなります。
  (『老いの超え方』P243-P244 吉本隆明 2006年)


 吉本さんのこういう体験に類する、もう少し小規模のものは、誰もがこの生活世界で経験する。つまり、相手の陥っているある失敗や失恋などの悲しみや不幸の状態の度合いの違いはあっても、そうした知り合いなどにどう言葉をかけたものかと悩みつつ結局は通り一遍のなぐさめの言葉をかけたという経験は誰にもあるような気がする。しかし、この場合は相手が死に直面しているという場合で、生活世界での悩みのもうそれ以上はないような最上級に当たるものである。

 この吉本さんが姪の問いかけにうまく答えることができなかったというエピソードを私が初めて目にしたのは上の引用とは別の文章で、自分の思想の問題と関係づけて述べられていた。吉本さんの晩年に近い本だったと思うが、それを今は捜し出すことができない。その文章に初めて出会ったとき、わたしはひどく驚いたように思う。自分の思想や思想の言葉というものを総点検するような衝撃を吉本さんが姪の問いかけの言葉から受け取ったということについてである。そしてそれから、思想や思想の言葉というものを深く万人に届くことができるようなものとして構想するのは吉本さんの思想や思想の言葉ならそうだよな、と思い直した。

 そこで、わたしが初めて目にした文章ではないけれど、『心的現象論 本論』のあとがきに同様の文章があるらしいとわかったので、「吉本隆明資料集」(猫々堂)の分冊を持っているから買わないつもりだったその本を取り寄せてみた。



  『心的現象論』を書きはじめた時、個人の幻想が共同幻想につながるところ、それは集団性と社会性につながるところまで伸びていけばいい、その意図が推察してもらえるところまでいけばいいというかんがえで、「このように完成する」という意味合いはなく、「だいたい、いくところまでいったな」というところで止めて、そのままになっているのですが、その間、わたしの姪が子宮癌になり、医者から「これ以上の治療はない」といわれた。姪から「あてがないのならば、治療を打ちきりたい」という相談が来たのです。
 ・・・中略・・・当人はもうよくわかっていて、わたしに「おじさん、どうかんがえたらいいの」とたずねられた。要するに死ぬとわかったばあいのじぶんの気持ちをどうかんがえればいいのと聞かれて、それに答えられなかったのです。今も答えられないかもしれませんが、その時はもろに答えられなかった。
 何をどういっていいのかじぶんでもわからない、病院の中だけで車椅子で散歩しながら、世間話、何気ない会話をする以外何もできない、じぶんは何もできない、ほんとうに答えがない。


 『心的現象論』を連載している最中に、姪たちからそのことをいわれて、ほどほどまいったというか、反省にもなりました。つまり、通りやすいところばかり通るな、通りやすいところばかり通ると必ず抜け落ちてしまう重要なことがあって、実際問題としては、人にとっては重要なのであり、そこを適当なところで済ましているのではないか、それはきちんとしっかりかんがえぬかねばならない、それでなければ思想などといえないとおもったのです。
 答えることができないこれでは駄目だ。こんなことに答えられないのに、何か書いたり、やっていたりしても、そんなことでは意味がない、ほんとうに駄目なのだとおもいはじめるようになって、そのことをそれなりに一生懸命にかんがえたりしたのですが、姪のことでじぶんの思想的範囲、囲い、守備範囲の中では答えるだけのものは、じぶんにはない。徹底的に、はじめからこれは駄目だ。これについては、もしじぶんなりにやるならば、これからかんがえていかなければいけない、そういうふうにおもうまま、姪は亡くなったのですが、それは今でもひっかかっています。何とかじぶんなりの出口はないのか。じぶんだったらどうなのか。そういうことは今でもじぶんでわからないけれども、ひとつの問題としてはいつでもあります。
 (『心的現象論・本論』「あとがきにかえて―『心的現象論』の刊行にあたって」)


 そのことは、言語の表現にももちろん成り立つわけで、マルクスの基本的な自然哲学、自然にたいする考え方、じぶん以外の外界にたいする働き方における考え方の根本にそれがある。こういうマルクスの自然哲学であると、観念でわかっても、実感として、具象性を帯びたひとつの考え方としては、どうしてもこちらには入ってこなかった。
 「表現は自己疎外のひとつだ」という言い方をこの本でしていると思いますが、
 「それをじぶんはほんとうにわかっているのだろうか」とたいへん疑問であり、具象性を帯びて、わかったという感じにはならなかった。それが嫌で、この本を刊行するという話が出ても流れてきたという案配です。これをまとめる気にならないというかんがえになっていたのです。
 今はほとんど、それが具象性を持っている気がじぶんではしています。マルクスの考え方は最終的に、未だ滅びていない、とじぶんが信じているところなのです。
 ( 同上 )



 こちらの方がより詳しく語られている。
 わたしたちは例えば『心的現象論序説』の原生的疎外や純粋疎外という概念が何を指しその枠組みがどこから来たのか、つまりなぜ導入されたのかはわかるだろう。つまり、人間の身体的かつ心的な振る舞いというものをより構造的に捉えようとする基軸として。しかし、その背後に控えている表現者としての吉本さんの内面や言葉の揺らぎのようなものはわたしたち読者としてはなかなか突きとめるのは難しい。この『心的現象論』の刊行に対するためらいのように本人に語ってもらわないとそこまでたどり着くのはわたしには難しい気がする。このためらいは、おそらく姪の問いかけにうまく答えることができなかったというエピソードなどと連動していると思う。

 わたしの若い頃は、吉本さんの繰り出す概念やそれらが生み出す構造の理解に力を入れつつああ難しいなと思いながらたどっていた。しかし、吉本さんの対談や対談集が出るようになって表現者の深い舞台上の具体性や様々な揺らぎを知ることができるようになった。そうして、そういう微妙なことは表現されるあるいは表現された言葉にとってとても大切なことだという気がする。

 この社会は青年期や大人期を中心として稼働してきているように見えるが、人は、当然ながら青年期や大人期のみを生きるものではない。したがって、人の生活上でも知識世界上でも言葉はその本質は不変だとしても、幼年期、少年期、青年期、大人期、老年期と同一の人の言葉でも深みや色合いを推移していくもののように見える。

 人は、知識世界に限らず生活上のことでも、一般に若い頃は小さなくいちがいや微妙な揺らぎは飛び越えて大雑把な目の荒い言葉で対象(世界)を捉えがちだと言えそうだ。自分を振り返っても、そして吉本さんにもこのような内省が訪れたということは、そうだろうと思う。よりきめの細かい言葉で内省すると自分ががむしゃらに走行してきた言葉の軌跡が姪の問いかけによって大きく揺らいだのだと思う。

 この吉本さんが姪の方の問いかけにうまく答えることができなかったというエピソードは、知識の世界や知識の課題にとって何を意味しているのだろうか。現在の生に重心があるからそれは必然的でもあるが、現在の芸術も経済も政治も教育も、つまりあらゆる領域のものがまるで遙かなそれらの起源は忘れたかのように激しくどん詰まり感漂う中を走行し続けている。つまり、自分はなぜこのようなことをやっているのだろうかなど静かな深みで遙かな起源からの照り返しが時折問われることはあっても、本格的に問われることはめったにない。ただし、遙か起源からの照り返しへの内省が現在におけるよりよい走行にとって大切だといっても、遙かな起源を深く意識せざるを得ないということは、現在が病的であるということを意味しているのかもしれない。

 動物生から抜け出し自然とは異質な存在として自分を区別し始めた人間生を歩み始めた人間の、知識の遙かな起源を想起してみれば、その自然と人間の分離の意識の根っこから、根っこに向かってという二重の意識の志向性に知識は起源を持っているはずである。そこから遙かな時間が経過して、国家以前の小さな集落レベルの世界では、知識はこの世界をよりよく知ろうとする志向性自体であり、それは同時にそういう志向性を持ってしまった人間とは何かという問いを志向するものであったろう。人間的な活動の無意識的な部分も含めるとそうなる。そういう途方もなく長い日々くり返される時間の中から、人間のよりよい生き方やよりよい社会(関係)というものが生み出されてきたのだと思う。こうした途方もない長い時間の中で形作られてきた知識というものの原型は、たとえ一方に知のアクロバットを競い合ったり、知をひけらかしたり、知を政治利用したりするような現在的な風景があるとしても、現在の知識の中にも深く内在しているはずである。

 したがって、生活世界(集落)から離陸して、そこから遠く複雑になってしまった知識の世界は、生活世界と無縁なように振る舞うことができるとしても、その起源(生まれ)を抹消することはできない。ほんとうは、知識の複雑な世界を上り詰めてきたとしても、知識の言葉は、吉本さんが姪の問いかけに虚を突かれて内省の言葉を走らせたように、大多数の普通の人々が生活世界で抱くありふれた疑問に深く本質として答えることができなくてならない、あるいは知識の起源からしてそのような問いかけに答えるような言葉でなくてはならないということだと思う。






 14.批評ということ ―『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』(柴田弘美 2014年)から


 『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』(柴田弘美 2014年)を少しずつ読み継いでやっと読み終えた。頭が痛くなるほどカタイ本ではあったが、中途で投げ出す気にはならなかった。「頭が痛くなるほどカタイ」と言っても、また、わたしにはまだ十分な視界とまではいかないけれど、著者の説く数学的な構造に慣れてすっきりした視界を手にすればそうでもないだろうと思われる。わたしは高校生の頃たぶん『ガロアの生涯』を読んだ辺りからと思う、現代数学に関心を持ち、その後若い頃に遠山啓の諸本や野口宏の『トポロジー 基礎と方法』などなどたくさんの本を読み漁ったことがある。アインシュタインの相対性理論も関心を持ちその本を少し読んだり解説本も読んだことがあるが、現代数学同様これもあいまいさのイメージに包まれたよくわからないものであった。独学であり、またそれらは例えば海外での生活に差し迫って必要とする語学のようなものでもなかったから、中途半端のよくわからないままに終わってしまった。

 読者としての一方的な言い分としては、めったにないけれども、読書を途中で投げ出すこともある。例えば菅野覚明『吉本隆明―詩人の叡智』は、終わり近くまで来て読み終えずに投げだした。吉本さんの表現をあれこれ参照しつつ細かに拾い上げてはいた。「固有時」という言葉を物理学の概念として割とていねいにたどり説明もしていた。つまり、批評対象との応対はていねいではあった。ただ、なぜ吉本隆明なのかというという対象を批評として取り上げるモチーフが希薄な感じを受けた。著者の批評のモチーフとしての生命感が感じられなかったのである。簡単に言えば、校長の話を聴かされているようでおもしろくなかったのである。

 一方、本書は細かいところではいくつかアラはありそうにも感じたが、吉本さんの批評に数学的な構造(連続、基底、ベクトル空間、作用素、同型など)が一貫したものとして駆使されているのを心はやる思いとともにていねいにあとづけている。これは初めての試みではないかと思う。本書を読みながら考えたことがある。『言語にとって美とはなにか』の基軸となる二つの概念である自己表出と指示表出、そして両者が関係し合いながら表現空間に表現としてかたち成す構造、『心的現象論(序説)』の基軸となる概念の原生的疎外や純粋疎外と両者の関係する構造、こうした概念の創出やそれらの構造としての描出の背景にあるのは、吉本さんの科学的思考の修練や実験化学の具体的な修練と日々の人間的な経験、すなわち実感から来ているのではないかくらいでこれまでは済ませていた。だから、数学的な構造把握と構造的な措定とがそこまで徹底したものとして駆使されて考察されているという筆者の跡づけていく過程は驚きであった。

 しかし思えば、『言語にとって美とはなにか』の数年後に刊行された『共同幻想論』の「序」では、「論理性あるいは法則性というものの抽象性のレベルというものに対する理解」ということが語られている。つまり、吉本さんの行使する論理に対する方法的な自覚と論理の世界の統一像が語られていた。その箇所は、わたしが初めて読んだ若い頃、十分に理解できないとしてもなにか大切なことが語られているぞと立ち止まってくり返し読んだ覚えがある。



 だんだんこういうことがわかってきたということがあると思うんです。それは、いままで、文学理論は文学理論だ、政治思想は政治思想だ、経済学は経済学だ、そういうように、自分の中で一つの違った範疇の問題として見えてきた問題があるでしょう。特に表現の問題でいえば、政治的な表現もあり、思想的な表現もあり、芸術的な表現もあるというふうに、個々ばらばらに見えていた問題が、大体統一的に見えるようになったということがあると思うんです。
 その統一する視点はなにかといいますと、すべて基本的には幻想領域であるということだと思うんです。
 (『吉本隆明全集10』「共同幻想論」の序 P273 晶文社)



 つまりそういう軸の内部構造と、表現された構造と、三つの軸(引用者註.自己幻想、対幻想、共同幻想のこと)の相互関係がどうなっているか、そういうことを解明していけば、全幻想領域の問題というものは解きうるわけだ、つまり解明できるはずだというふうになると思うんです。そういうふうに統一的にといいますか、ずっと全体の関連が見えるようになって、その一つとして、たとえば、自分がいままでやってきた文学理論の問題というのは、自己幻想の内的構造と表現の問題だったなというふうに、あらためて見られるところがあるわけです。そして、たとえば世の人々が家族論とか男女のセックスの問題とか、そういうふうにいっていた問題というのは、これは対幻想のもんだいなんだというふうにあらためて把握できる。それから一般に、政治とか国家とか、法律とか、あるいは宗教でもいいんですけれども、そういうふうにいわれてきた問題というものは、これは共同幻想の問題なんだなというふうに包括的につかめるところができてきた。だから、それらは相互関係と内部構造とをはっきりさせていけばいいわけなんだ、そういうことが問題なんだ、こんどは問題意識がそういうふうになってきます。
 そうすると、お前の考えは非常にヘーゲル的ではないかという批判があると思います。しかし僕には前提がある。そういう幻想領域を扱うときには、幻想領域を幻想領域の内部構造として扱う場合には、下部構造、経済的な諸範疇というものは大体しりぞけることができるんだ、そういう前提があるんです。しりぞけるということは、無視するということではないんです。ある程度までしりぞけることができる。しりぞけますと、ある一つの反映とか模写じゃなくて、ある構造を介して幻想の問題に関係してくるというところまでしりぞけることができるという前提があるんです。
 (同上 P274-P275)



 それではなぜそういう欠陥が出てきたかといいますと、そういう人たちはおそらく論理性あるいは法則性というものの抽象性のレベルというものに対する理解がないんだと思うんです。つまり、現実の生産社会、技術の発展というものがあるでしょう、それを一つの論理的な法則、あるいは一つの論理の筋道がたどれるものとして理解する場合には、すでにある段階の抽象度が入りこんでいると思うんです。経済学でもそうだと思うんです。経済学でも、あるがままの現実の生産の学ではないのです。それは論理のある抽象度をもっているわけです。その位相というものがある。つまり水準というものがあるわけで、それがどういう水準にあるかということをよくつかまえることができないで、あるがままの現実の動き、あるいは技術の発展とか、また言語のばあいでもいいですよ、そういうものがなにか論理の抽象度というものとしばしば混同されてごっちゃになって考えが展開されるから、そこのところでひどい混乱が生まれてきてしまうということがあると思うんですよ。やっぱり全論理性というものの中でも、その抽象度というもの、あるいは抽象の水準というものをはっきりとつかまえて論理を展開していかないと、非常に簡単な未来像が描かれてしまったり、技術の発展に伴って非常に楽天的な社会ができてしまうんだというような考え方になっていってしまうけれども、それはおそらく論理の抽象度のある混同というものがあると思うんです。あるいはそれの把握しそこないがあると思います。
 (同上 P279)



 わたしがここで提出したかったのは、人間のうみだす共同幻想のさまざまな態様が、どのようにして綜合的な視野のうちに包括されるかについてのあらたな方法である。そしてこの意味ではわたしの試みはたれをも失望させないはずである。なぜならわたしのまえにわたし以外の人物によってこのような試みがなされたことはなかったからである。ただこのような試みにどんな切実な現代的な意義があるのかについてはひとびとのいうのにまかせたいとおもう。
 (同上 P284)




 ここには、黙々と荒地を耕すように論理の不毛な言葉の大地を突き進んできた吉本さんの姿があり、その自らの孤独な営為に対する自負が語られている。



 ところで、柴田弘美の『言語にとって美とはなにか』への入口は次のような箇所に語られている。


 吉本隆明の思想史として主要なことは、経験的実験科学に、そして少青年期を支配して来たナショナリズムの思想に、すべて絶望していた敗戦期に、遠山啓の「量子論の数学的基礎」という特別講義を聴講したことである。・・・・・・(略)・・・・・・吉本隆明は、それをもっと深く思想的基礎において受けとめたにちがいない。
 ・・・・・・(略)・・・・・・遠山啓氏によって触発された、単純因果律とは違う開かれた現代科学的思考は、文学、思想の場の核心となる。
  (奥野健男「自然科学者としての吉本隆明」、
          『科学の眼・文学の眼』、236~237頁)

 奥野のこの記述によって、「もしかしたら私の勝手な思い込みにすぎないかもしれない」という迷いは少し退いた。実際、吉本の初期以来の諸論考を、このような現代数学が与えた影響とその痕跡を探るという明確な問題意識を携えて辿りはじめるや、「深く思想的基礎において」受けとめるべく模索する青年・吉本の姿に幾度もつきあたることになる。・・・中略・・・私の目には、遠山の特別講義によって与えられた現代数学の諸概念を、思想と科学の方法にもち込もうとする懸命な姿にみえる。本稿で後に幾度も触れることになるが、この試みはしだいに、そして真っ直ぐに『言語・美』へと結実していったと私は考えている。即ち、今、私にとって、『言語・美』は次のようなものとしてみえるのである―唐突、常識はずれという反発は覚悟のうえで、まず述べておきたい。

 『言語・美』は量子論に数学的基礎を与えた「位相解析学」を導きの糸として、これとほとんど同型の構造をもって成立している。
 この構造は、いわゆる構造主義の系譜とは大きく異なる別の出自から来ており、性質が異なる。端的に、変化、運動、ひいては歴史を扱うことができ、『言語・美』はまさしくそれを実行している。
 (『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』P8-P9)


 一つの集合に基底を与える、あるいは基底を見出す、という時、その集合を単なるものの集まりではなく、ひろがりのある空間として把握することを意味する。そしてこの基底によって、さまざまなモノの集合において、各要素の「位置」やその「変位」、「運動」を抽象的ではあるが表現し、検討できることとなった。
 若き日の吉本は次のように記している。

 僕は一つの基底を持つ。基底にかへらう。そこではあらゆる学説、芸術の本質、諸分 野が同じ光線によつて貫かれてゐる。そこでは一切は価値の決定のためではなく、原理の照明のために存在している。
      (『箴言Ⅰ 原理の証明」、『全著作集』15、勁草書房、121頁)

 一九五〇年、25歳の時にこれほどの重みを込めて書かれた「基底」は、10年の時を経て『言語・美』に甦った。「自己表出」と「指示表出」の一組である。この二つの概念によって言語の集合は方位や座標が抽象化、一般化された「基底」を与えられて、ひろがりのある空間性をもつこととなり、その内部で変位や運動を保証された。
 (『開かれた「構造」―遠山啓と吉本隆明の間』P22)



 吉本隆明が遠山啓の特別講義で出会い、獲得したと考えられる「構造」の世界では、「行為する人間」は「作用素」として、むろん高度に抽象化、形式かされてはいるが、その本質を保持し存在することができるのではないか。言い換えれば、いわゆる「構造主義」が捨ててきた「人間」あるいは「主体」という概念は、日常的で具体的な生身のそれとしてではなく、疎外-外化された「作用素」として、つまり「構造」という把握が成り立つレベルの抽象水準において、「構造」世界に生きぬくことができるのではないだろうか。 (『同上』P27)



 今ここで述べておくべきは、この「互いに独立」という一つの関係性は先に触れた「基底」に要請される基本的な条件だということである。空間を「張る」もしくは「生成する」ために「基底」はこの条件を満たさなければならない。そして吉本は言語の空間構造把握に際して、史的必然性を担うものと、個体的な偶然性、一回きりの現存性を担うものと、二つの概念を〈互いに独立な〉「基底」として定立し、史的決定論とも、反ないし没歴史的「構造主義」ともはっきり違う理論を構成していったのだと考えられる。
 (『同上』P30)



 言語の自己表出は「(人間の:著者註)意識の構造にある強さをあたえるから、各時代がもっている意識構造は言語が発生した時代からの急げきなまたゆるやかな累積そのものにほかならず、また、逆にある時代の言語は、意識の自己表出のつみかさなりをふくんでそれぞれの時代を生きる」(『全著作集6,37頁』)・・・中略・・・
 これらの立言を本稿の主要な関心事に即して言い換えれば、意識としての人間は言語を媒介、仲立ちとして自分自身(の意識)を作り、人間相互に(意識を)作りあい、同時に言語を表出してきたのであり、したがってある時代の人間の意識の強度の水準は、またそれを担う言語の「自己表出」の強度は、意識のまた言語の発生の当初から「連続」して転化し続けている、言い換えれば、各人はその時代の意識の強度また自己表出の水準を受け入れつつ、なお彼の意識生活の結果としての微小な増加分を付け加え続けている、と考えられる。・・・中略・・・
 一方、言語の指示表出についてみてみると、「指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間の諸関係そこからうみだされる幻想によって規定されるし、強いていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によっても決定的に影響される。また異なったニュアンスをもっている」。これは言語の本質にまつわる「時代性」、類性に対する「個性としての差別性」言語本質の「対他の側面」であり、「おびただしい時代的な変化をこうむる。このような変化はその時代の社会の多様な関係、そのなかでの個別的な環境と個別的な意識性と対応し」「この意味で、言語(の対他的側面)は、ある時代の個別的な人間の生存とともにはじまり、死とともに消滅し、またある時代の社会の構造とともに生存し死滅する側面をもつ」とされた。

 右のように整理した時、確認すべきことが二点ある。一つは第三節に述べた、連続性についてである。本稿は先に『言語・美』の基本的な志向を次のようにまとめておいたのだった。

 作家、表現者個人の主題的意識を偶然に選ばれたにすぎないものとしてこれを遠ざけたのちになお、言語と文学表現のうちに歴史的に累積し、個々人の偶然性を越えて「連続」する何ものかを見出して、それを言語や文学の普遍的な測度(引用者註.著者の「補註(1)によれば、本稿では数学概念の「測度」は日常的な「尺度」と見なしてよいとある)として定立したい。

 即ちここで、言語の「自己表出性」が時代を通じて前の時代の水準を前提的に引継ぎ何がしかの強度を付け加える(微小な増加分を付け加える)といった意味で歴史的に連続に転化するものであることを了解するなら、右のような測度としての役割が期待できることとなる。
 一方、指示表出についてのまとめをみると、ある時代の言語の指示対象の全体像と別の時代の指示対象の全体像とを安易に比較することはできないと考えなければならない。つまり歴史的につながりをもたないことをみておかなければならない。また同時代にあっても、個々の人間が指示対象として切り取る現実はその人間の個体性の発露であって、他の人間のそれと比較してもしかたのないものなのだ。
・・・中略・・・
 つまり言語表出や言語表現を比較較量する測度としては「自己表出性」がその可能性をもち、指示表出性は測度になりえない、という『言語・美』の全体をつらぬく原則的な考え方が示された。
 もう一つは、第一章第七節に述べた史的必然性と一回きりの現在性との〈矛盾〉の問題である。右に整理したように、「自己表出性」はにんげんの類的本質力としての自己対象化の能力が発動され、その結果として自然の動物段階から人間自らを引き剥がすようにして発生し、それを前提にして後代の人間は生き、同様にして自己表出性を積み重ねていくものとして抽出されたのであるから、一方向に後戻りなしに進行する史的必然性をもっている。いっぽう、「指示表出性」はその先端的動向においては抽象性、普遍性、類性を増大させる傾向をもつけれど、その内部では各人は各々の個的事情にうながされ、また関心のおもむくまま、さまざまに対象指示を行いつつ生きるのであって、その時代の時代性、現在性、個的偶然性を示すことになる。『言語・美』が構造思想によって史的決定論に陥ることなく歴史を扱いうる、という時、このように、二つの「基底」に史的必然性と個的偶然性、一回性を振り分けて担わせ、現実の言語表出(表現)は両方を何がしかずつ同在させて実存する、という把握の仕方を指しているのである。
 (『同上』P50-P53)





 柴田弘美の『言語にとって美とはなにか』への入口部分に照明を当ててみた。そのことは同時に『言語にとって美とはなにか』の基本構造、いわゆる骨組みを明らかにすることにもなっている。それは柴田弘美が、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の具体的な現場そのものに立つことは一般的にも不可能だとしても、吉本さんの現場と同型性を持つある抽象度の水準の現場において立とうとすることを意味する。引用の後半では、自己表出の史的連続性と指示表出の時代制約的な固有性を『言語にとって美とはなにか』の構造を明らかにする大切な二つの〈基底〉として捉えている。このことによって、自己表出はその史的連続性ゆえに〈表出史〉として「表現転移論」(『言語にとって美とはなにか』 第Ⅳ章)として描きだれる必然性を持つことになる。ここでは批評は、吉本さんが『言語にとって美とはなにか』を書くに到った固有のモチーフや固有のイメージはあまり問われることなく、一挙に『言語にとって美とはなにか』の世界自体を開示しようとしている。

 本書で論じられている吉本さんの『言語にとって美とはなにか』の刊行が1965年で、数学的な表現も駆使した『ハイ・イメージ論』が1989年であることを考えると、柴田弘美が本書で述べているように、吉本さんが遠山啓との出会いでおそらく数学の概念や捉え方を学び自分のものとして批評に自覚的に活かし続けてきたと言えるように思われる。

 海外の思想や学者の概念や言説を紹介して、あるいはそれらに乗っかって何事かを言ったつもりになるのは、この列島の古代から今なお続く悪しき伝統である。清少納言の『枕草子』にもそんな悪しき伝統を背景とした作者の無邪気な物知りをひけらかすような描写があった。こうした連綿と続いてきているマレビト思想とでも呼ぶべきものとは無縁に、近代以降西欧の波を被ってきていることが背景としてあるとしても、抽象や論理ということが不毛なこの列島の言葉や思想の世界で、抽象レベルに自覚的で数学的な構造や概念を自分のものとして批評の世界に導入したのは、吉本さんが初めてであり、そして本書の著者は吉本さんのその現場近くに立ち合うようにして、それを追跡してゆく。このこともまた、初めて本格的に成されたものである。

 〈批評〉という概念や表現がはじまり流通し出したのは、わが国では近代からである。もちろん現在からの視線で、平安期の歌合の判詞が歌の評価や批評に当たり、また歌論も歌の批評に当たると見なすことはできる。しかし、現在に通じる近代批評が本格的に始まったのは小林秀雄からである。その背景には、主要に近代以降に先鋭的に抽出され社会的に押し出されてくる個という存在がある。

 ところで、わたしは〈批評〉という行為やその本質を作者(表現者)の言葉の現場に近づいて立ち合おうとすることであると捉えたことがある。その観点からすれば、本書は正しくその〈批評〉の本質にかなった批評であり、ひとつの作品であるということができる。わたしたちは、すぐれた作品(表現)に対しては、作者(表現者)の言葉の現場近くに立ち会い、その風景をていねいにたどることが、〈批評〉の前提的な本質だと思う。そうして、そのような〈批評〉の場においてこそわたしたちは、ある言葉の未知に出会うのだと思われる。つまり、自分でほんとうに考えを進めるきっかけを手に入れることになる。






 15.言葉の素顔や表情 ―川上春雄宛全書簡より


 『吉本隆明全集37』(書簡Ⅰ、晶文社 2017.5.10)には、吉本さんの川上春雄宛全書簡と川上春雄氏の吉本さんや吉本さんの両親や吉本さんの知友への訪問記やインタビューやメモの「川上春雄ノート」などの資料がおさめられている。

 わたしたち読者は、一般には言葉と化した作者(表現者)に表現された言葉を通して出会うことになる。作者は、書くという世界になじんでしまっており、しかも商業出版という世界に関わって生活している。そうしたことの詳細や具体についてはわたしたち読者はよくわからないし、作者たちもそうしたことをあんまり公開することはない。そうしたことは、表現自体にとっては瑣末なことかもしれないが、わたしたち読者が作者の言葉の肌触りのようなものまで含めた理解ということを目指すならば大切なことだと思われる。この第37巻は、作者の言葉の素顔や表情やふんいきのようなものまで含めた、つまり、深さを持った理解ということを追究する場合の大きな助けになると思う。

 わたしたちは誰でもこの社会でいろんな人と関わり合いながら生きる。その関係には、仕事上の付き合い、顔見知り程度、恋人や家族関係、親友と呼べる関係など、関係のつながりの深さの違いや濃淡の差がある。わたしたちはその多様なつながりを割と自然に使い分けて生きている。吉本さんと川上春雄氏との長年に渡る関わり合いは、「創成期はどんなばあいでも、文学は、思想的に『進退を共にする』もの」から始まった。もちろん、出会いの初めからそうだったわけではない。

 吉本さんと川上春雄氏との出会いと川上春雄氏の人柄については、資料Ⅰ「川上春雄ノート」の「吉本隆明会見記」(一九六〇年七月十九日)と資料Ⅳの「著作集編纂を委かされた川上春雄氏」(一九七〇年十〇月二六日)でだいたいのところがわかる。二人の表現活動に関わる関係は、信頼に基づく生涯にわたる深い関わり合いを持つものだったように見える(註.1)が、その関係の持続の最初の根底的な関門は次のようなものであった。



 1.アイサツ状とは馬鹿なことをしてくれたと思います。
 それは、「事業上」からも、「試行」出版部の名前にかけても、まったく愚かな猿ヂエだと思います。そのことを貴方が身に沁みて知るでせう。だが、「事業上」の不利は貴方が負えばよいが、せっかく創造的な運動をさらにおしすすめるために、貴方をさそった「試行」の名前にたいして貴方はどんな責任を負うのか、こちらが、歯を喰いしばって非妥協的に耐えているのを、貴方は裏からつきくづす方向にすすみつつあるといえます。この方向を、そっ直にではなく、陰ですすめれば、即座に、貴方との関係を断ちたいとおもいます。不悪。貴方は、ちょうど、斉藤「深夜」氏とおなじ程度の「事業」上の才覚と、編集者的感覚でいるのです。どうして、ほんのしばらくでも、黙ってついてこられないのか!小生は、出版事情についても、ライター層についても、思想情況についても、貴方よりよく知り、よく考えつくしているつもりです。返答を欲しいとおもう。繰り返し、言う。何と馬鹿なことをしてくれたものだ!
 ・・・中略・・・
 貴方の返答をまちます。それの如何では、小生も、貴方と一切関係ない旨の文書を各方面に配布せざるを得ないでせう。決して気を悪くしてはいけません。
 貴方が、お前も人間なら、おれも人間だ、何も一から十までお前のいいなりになる必要はないという鬱積を抱くのは当然であるかもしれないが、小生は「実利」上からも、思想上からも、「試行」に関するかぎり何も利得していないのである。文字通り、物心両面の不如意が、それから得た小生の「実利」である。創成期はどんなばあいでも、文学は、思想的に「進退を共にする」ものでなければ、共同できないことは自明である。貴方に、その気があるかのか、どうか、しかと賜りたい。返事を待ちます。
 (川上春雄宛書簡56 1964年7月12日 P92-P93『吉本隆明全集 37』書簡Ⅰ)


 ところで、貴方の方からみるとこういった小生の原則は、ゴウマンであり、また他人に強いる理由のないものであるという考えがどっかにあって、今回の案内状となったとおもいます。これは、小生の原則からは、耻かしくて頭を上げられないような気持です。村上、谷川両君とやっていたときでさえ、それだけはしませんでした。二、三の出版社から「試行」を引き受けるからという申出があったのに、それを敢えて断わって、はじめたくらいだからです。
 また、逆に、この一見するとゴウマンにみえる原則は、結果として、「実利」をもたらしました。あらゆる雑誌が、大商業誌、小同人誌、左翼文芸誌をふくめて、赤字、借財のうえに成立っている現状のなかで「試行」だけは、赤字、借財で苦しむことなく存続してきました。「実利」の上からも、貴方が配布した案内ハガキの代金に匹敵するだけの効果が、案内を出したことから得られないだろうことを、小生は断言することができます。だから、貴方の今度の処理は、「実利」上からも、「原則」上からも、何と馬鹿なことをしてくれたのだ、という小生の発言に要約されるのです。
 ふたたび、くり返します。
 一、貴方は以上申述べた「試行」の原理を承知の上で、なお協力体制をとってくれるだろうか。(そうしてくれるかぎり、貴方に欠損や借財を負はせることはない、という責任を小生は保証することができます)
 二、ムダな金は、出版広告のためつかわず、ハデな宣伝もせず、地道に悠然と、よく球をえらんで出版部を継続してくれる意志があるだろうか。
 三、むこうから自然にやってくるのではなく、こちらからすすんで中小出版の仲間入りをする愚挙(中小出版は全て赤字、借財のうえに自転車操業をしているものだということを小生はよく知っています)を避けて、地味にふるまうということに耐えてくれるだろうか。
 もう一度、素直にお訊ねします。
 (川上春雄宛書簡58 1964年7月15日 P95-P96)



 この書簡56に付された註によると、「アイサツ状」は、『初期ノート』の広告文のことで、それを「川上はこのダイレクト・メールで少しでも購入者の範囲を広げようとしたのに対し、著者は『ディス・コミュニケーションの方法』を出来るだけ狭く厳密にまもりたいと考えていたのだとおもわれる」とある。
 
 この頃の吉本さんは、安保闘争の敗退の後でいろんな精神的な傷を負いつつ出版界からも干されるような情況の中、その情況にツッパル自立的な表現の場として谷川雁、村上一郎とともに三人で「試行」を創刊した。その「試行」が、吉本さんの単独編集になっていた時期である。吉本さん40歳。資本主義は表現者の片道は助けてくれるが、また表現者をダメにする面も持っていると吉本さんは何度か書き記したことがある。そういう吉本さんの表現者としての出版界での経験が十分に見えていない川上春雄氏とのくいちがいからこの問題は起こっている。圏外にいるわたしたちからは、そんなささいなことと見えるとしても、思想の現実性は、具体的な場ではそんなささいに見えるところに立ち現れる。

 吉本さんは、「小生の方は、かつてこれほどのショックはないというほどの衝撃を貴方からうけました」(川上春雄宛書簡60 1964年7月20日)と述べている。そして、その言葉の少し後に、次のような吉本さんの真情が書き記されている。



 こんな、情けないことで、大の男が何べんも通信を交わさねばならないとは、小生のはじめて体験することです。けれどどうしても、何よりも大切な問題が、今回のことのなかにはふくまれていますので、繰り返し繰り返し(引用者註.二度目の「繰り返し」は繰り返し記号が使われている)貴方を説得した次第です。どうか素っ直な能[態]度を示されるよう。また、お互の一家にこれ以上いやな空気がこもることのないよう祈ります。少なくとも、小生の家に伝えられる貴方の案内状の余波は、いづれもやりきれないものばかりでした。貴方の御家族もきっと小生の通信でいやな思いをされていると推察します。



 この吉本さんと川上春雄氏の危機的なすれちがいは、吉本さんの提案(「川上春雄宛書簡60」の中で提案)による、「試行」出版部の出版案内を送ったことを取り消すという内容の「廻状」を、川上春雄氏が「アイサツ状」を出した相手に送るということで落着したようである。同年8月上旬頃のことである。

 川上春雄氏は、2001年9月9日に78歳で亡くなられている。そして、吉本さんは「川上春雄さんを悼む」という追悼の文章を書いている。これは川上春雄氏が亡くなられた後に、吉本さんが二人の交渉史と川上春雄氏の人物像を反芻して出てきた言葉であろうと思われる。真情のこもった本人の言葉で語ってもらうと、



 川上春雄さんとはじめて通信を交わすようになったのは、わたしが飯塚書店版の『高村光太郎』を出版した折だったと思う。それまでまったく未知だった川上さんが、詳細な誤植の訂正個所を挙げて送ってくれたことから、手紙や葉書の往復がはじまった。物ぐさなわたしでも、黙っていては相済まぬと思うほど詳細を極めたもので、御礼状を出さずにおられなかった。川上さんはその頃、詩誌「詩学」の研究会に属して詩を書いておられたと記憶する。力量のあるいい詩作品だった。じぶんよりずっと若い詩人だと考えていた。交渉が生じてからは、ますますわたしの著作にたいする読みは深くなり、訂正や感想の類いもまた以前より細部にわたり、たんに誤植の訂正にとどまらず、わたしの認識の誤解にまで及び恐縮するばかりだった。そしてだんだんと〈ああ、おれはいい読み手をもったな〉とわれから思えるようになった。・・・中略・・・
 山形県米沢市の学生時代、会津出身の同級生が二人いたが、二人の共通点はテンポがあまりはやくないが、考え方にも行動にも筋金が入っているという印象だった。おなじ性格は当初から川上春雄さんにも共通していた。筋が通っていて頑固ともいえるし強情ともいえる。一旦、思い込んだところから思考は単一で根気に充ちていて、わたしなどの言い分で抑止されるものではなかった。この資質は得難いもので、わたしなどが尊重してやまないところだった。川上さんへのわたしの親愛感と信頼感はそこを源泉に形成されたような気がする。わたしのようなちゃらんぽらんな性格は、そこから沢山のことを学んだような思いがする。
  (「ちくま」2001.12 、『ドキュメント吉本隆明①―〈アジア的〉ということ』所収 弓立社)




 吉本さんが、上に引用した「川上春雄宛書簡60」で川上春雄氏をくり返しくり返し説得したのは、おそらくこの追悼文に表現されたような、川上春雄氏は自分にとって得難い人だという直感を持ったからではないだろうか。


<あなたは他人に寛大でゆるしているようにみえながら、あるところまでくると、他人には唐突としか思えないような撥ねつけ方をするよ。決してその都度、わたしは、そういうことは好きでないとか、いやだからよしてくれとは言わずに、ぎりぎりの限度まで黙っていて、限度へきてから、一ぺんに復元しないような撥ねつけ方をするよ>
 (「情況への発言」1973.9 P277 『「情況への発言」全集成1』所収 洋泉社)



 この他者(たぶん奥さん)の批判は、「かなりうがっている」と受けとめつつ、吉本さんの自己像としては「しかし、依然として〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げるほかない」と述べている。吉本さんの内心は別にして現象としてはそのような吉本さんの他者との関係の取り方に見えるのだろう。ここから、吉本さんと川上春雄氏との初めての衝突を眺めてみると、吉本さんは自分の前に現れた川上春雄氏を得難い人だと思っていたのに、それが裏切られるように暗転して「かつてこれほどのショックはないというほどの衝撃」を受けた。たぶん、吉本さんの衝撃は人並み以上の物だと思われる。つまり、それだけ過敏な反応だったろう。そして、その吉本さんの反応の型は、「〈いや、ちがう〉という無声の声を挙げる」自己探索の旅程でもあった『母型論』(1995年)へと追究されていくことになる。しかし、これが初めてのことで相手が得難い存在であったから、「撥ねつけ」ることなくくり返しの説得を試みたのだと思われる。

 ところで、「創成期はどんなばあいでも、文学は、思想的に『進退を共にする』ものでなければ、共同できないことは自明である。」(川上春雄宛書簡56)と吉本さんは述べている。吉本さんと批評家芹沢俊介との関係も、そのことに近いものとして始まったのかもしれない。おそらく雑誌「試行」に文章を寄稿してから吉本さんとの交渉が始まったと思われる芹沢俊介は、「一九七〇年から続いていた三十数年の親交にいつの間にか空白が生まれていた。」(「吉本さんとの縁」『文学界』2012年5月号)と書いている。そこでの芹沢俊介によると、吉本さんが『生涯現役』(2006年)で芹沢俊介がホスピス運動のようなものに関わってしまっているという批判を語っていたということである。「こんな『妄想』を生むほどに視力が弱まってしまったのだと考えれば、吉本さんに直に会って、一言、直接抗議することですませられる」けど、会えば、ののしりあいにまで発展するかもしれず、迷っているうちに足が遠退いてしまった、と芹沢俊介は書いている。それが吉本さんの娘さんの計らいで亡くなる少し前に芹沢俊介は吉本さんに病院で会えたということである。吉本さんがどうやって芹沢俊介がホスピス運動のようなものに関わってしまっていると判断したかやこの両者の食い違いに、ここではわたしは判定を下そうとは思わない。ただ、芹沢俊介が書いているように目を不自由していた吉本さんだろうが、「妄想」とは思えない。吉本さんはそう捉えたのだということは確かなことであり、芹沢俊介との関わりを「思想的に『進退を共にする』」に近い関係と見なしていたと思われるから、とても残念なことと衝撃を受けたものと思われる。

 付け加えれば、わたしは芹沢俊介の文章をずいぶん読んできてある程度のいい評価を内心で下していた。しかし、別の文章(「『吉本隆明追悼』のひとつから」 2012年5月)で一度触れたことがあるが、吉本さんに後継としての弟子がいるのだろうか(弟子が必要だ)、というような少し思わせぶりの下の芹沢俊介の発言は、わたしを唖然とさせた。自立思想の吉本さんから何を学んできたのかという思いで、わたしには衝撃だった。


 吉本親鸞説というのがあります。現代の親鸞になるためには、吉本さんはまだ何か一個付け加えなくてはならないのです。
 アメリカの9・11について、吉本さんは、加藤典洋さんとの対話で「存在倫理」という考え方を加えました。ただしまだ一個だけかけていました。
 それは親鸞には唯円(親鸞の死後書かれた歎異抄の作者と言われる)がいましたが、吉本さんに唯円がいるかどうか、ということです。
 今回は吉本隆明さんを追悼するおしゃべりでした。
 (「いのちを考えるセミナー 2012年3月21日 芹沢俊介さん講演ーー吉本隆明さん追悼その5――殿岡秀秋筆録」)



(註.1)
吉本さんと川上春雄氏との出会いと交渉から来た川上春雄氏の人物像については、上に触れた「川上春雄さんを悼む」(「ちくま」2001.12)という吉本さんの追悼の文章の方が、わたしたちによりわかりやすく実感的に伝わってくると思う。






 16.知識の最後の課題 ―『最後の親鸞』(吉本隆明)より


〈知識〉にとって最後の課題は、頂を極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂を極め、そのまま(「そのまま」に傍点)寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」(「そのまま」に傍点)というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」(「そのまま」に傍点)というのをやってのけているようにおもわれる。


 どんな自力の計(はから)いをもすてよ、〈知〉よりも〈愚〉の方が、〈善〉よりも〈悪〉の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく〈愚〉に近づくことは願いであった。愚者にとって〈愚〉はそれ自体であるが、知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。
 (『増補 最後の親鸞』 P5-P6 吉本隆明 春秋社)



 前回の「知識の第一義的な課題」は、容易に受け入れることができても、この「知識の最後の課題」は容易に受け入れることは難しいような気がする。それはなぜだろうか。
 
 知識を大事なものと見なし知識を獲得することに人間的な活動の価値を置く考え方は社会的に流布されている。学校もまさしくそのような価値観の下に運営されている。義務教育ではない高校や大学には行かないという選択肢はあるけれども、学校の内部で、知識を獲得することなんてくだらねえ、なんて忌野清志郎の歌みたいに公然と発言しても空しく押しつぶされていく。管理運営する学校側もそこで勉強する子どもたちも、学校という場やそこでの知識獲得に価値を置く感じ方や考え方を割と自然なものとして身に付けているからである。もちろん、その自然な感じ方や考え方は、自分が社会に出て職に就くためには、この学校をくぐり抜けるしかないとか学校は仕方がないとかいう現実性に支えられている。また、両親が子どもを勉強に追い立てるにしろ放任するにせよ、社会に出て職に就くためには学校をくぐり抜けるしかないという意識的無意識的な親の意思を背中に感じている。その一方で、あまり表面化することがないにしても、子どもたちの多数の者が勉強なんていやだなという気持ちも持っている。子どもが先生などに時折ぶつける「何のために勉強するのですか」という問いかけは、その子の現在が勉強というものにくだびれているということを証している。

 こうした知識や知識の獲得に価値を置く感じ方や考え方は、現在的な主流を成しているが、人が知識を獲得し増大させ深化させていくのは人間の自然な本性に基づく知識の自然な運動である。そして、社会的に流布されている、知識を獲得することに人間的な活動の本質的な価値を置く考え方は、威勢のいい上りがけ、行きがけの捉え方である。その知識の行きがけの過程を内省的に捉えたのが前回の「無限大に想像力を働かせ、無限大に考える」という「知識の第一義的な課題」であると思われる。

 ところで、この「知識の最後の課題」は、知識の行きがけの問題ではなく還りがけの課題であり、そこに容易に受け入れがたい理由があるように見える。特に、青少年や年若い大人にとっては、まだ知識世界の上りがけの時期でもあり、いっそう実感がわかないはずだ。

 まず、この「知識の最後の課題」は、個の生涯では青少年期や成年期には一般に受け入れがたい言葉だと思われる。また、現在の人間界の社会規範のようなもの(マス・イメージ)を基準にすると受け入れがたい言葉だ思える。しかし、人が無意識的のように慌ただしく生きてきて、人生の残照の中やっと生きることの意味をゆっくりと反芻すると思われる老年期には割と受け入れやすいのではないかという気がする。つまり、自分はこの人間界をもうすぐ去るのではないかという気配の中では、知識もヘチマもないから受け入れやすいのではないかと思う。しかし、この老年期からの視線には、この人間界を超えたものの負荷がかかっている。それは、人間が知識を持ちその自然過程をはせ上っていくのも知識を放棄したり知識を殺したりするのも等価ではないか、たいしたことじゃないのではないかという、比喩的に言えば人間界を超えた世界からの視線が加わっている。それは死というものを意識したところからくる視線と言っても良い。こうした途方もない規模で考えると、人間界に喜怒哀楽を放ちながらあくせく生きてきた人間というものは何なのか、という生きることの意味の方に言葉は吸い寄せられていく。

 ここで、人間界で個によってになわれる〈知識〉の運命というものをたどってみる、それは当然ながら、ちょうど人の子の人間界への誕生から死にわたる生涯の曲線と対応する過程をたどっていく。まず、小さい子どもの言葉以前の言葉とも言うべき、アワワなどの喃語(なんご)と呼ばれる段階から話し言葉を少しずつ身につけていく段階へ。たとえば、「りんご」というものが〈りんご〉という言葉や果物という概念と関係づけられ了解されていく。こうしたことをくり返してしだいに概念の世界も踏み固められ霧が上がって晴れ上がっていく。学校に通うようになると、書き言葉の世界に出会い複雑な概念や構造や抽象的な言葉も身につけていく。それらを文章から読み取ったり、文章に書き表したりする力を獲得していく。青年期や成人期に入っていくと、それらの概念や言葉の抽象度もさらに上がり複雑さの度合いを深めていく。そして、老年期に至って概念や言葉は複雑な色合いや含みを持つようになる。そして、概念や言葉も衰えや死の匂いが付きまとってくるように見える。

 つまり、人の心身の成長曲線に対応するように、概念や言葉に対する人の意識、すなわち〈知識〉の運命はたどっていくように見える。個の身体が死を迎えるとき言葉もまた死を迎えるのである。文字が生み出されて書き言葉の世界が現れて以後でも、個が死んでしまったら〈知識〉や思想や言葉(特に話し言葉)はひとたびは死を迎えるように見える。ただ個が死んで後も、残された人々の心に言葉(亡くなった人の話し言葉や書き言葉)は時折よみがえることがある。こうして、個を訪れる言葉の運命は、個における〈知識〉の運命と同じとみることができる。また、このような個の誕生から死にわたる生涯と知識の命運は、植物の発芽から成長そして花開き実を結び、種を残して枯れていくという過程と似たものではないかと思い起こさせる。

 吉本さんの〈知識〉にとって最後の課題は、おそらく読者を複雑な思いの森に導くと思われる。つまり、すんなりとは納得して受け入れることができる言葉だとは思えない。

 吉本さんの〈知識〉にとって最後の課題は、上に述べたような個にとって〈知識〉の誕生から増殖そして死に至るという〈知識〉の運命、〈知識〉の自然過程ということとは別のことである。また、現在までの人類史の主流が、大いなる自然=神々を知ることに発し、この世界の仕組みを探索するようになり、そしてそのような〈知識〉に人間的な価値を見いだし、それをになう人々(巫女やシャーマン、神官、知識層)を特別の存在と見なすようになり、今なおそれを止めていないということとも別のことである。

 この別のことという意味は、今なお〈知識〉やその獲得に価値を置くという現状が社会的な主流のような顔をしていても、社会内のわたしたちの家族や小社会や対人関係には、言いかえると生活世界の基層には、そのような主流の影響は受けつつも、あるいは主流に絡みつかれながらも、例えば〈知識〉の有る無しは大したことではないというような、人を心身の総体で感じ考えるような言葉や視線が確かに存在し続けてきているからである。それは遙か太古から脈々と受け継がれ積み重ねられてきた人類の叡智の深みのようなものであろうか、固い言葉で言えば、他者を直接的な総体性として捉える視線とも言うべきものであろうか。これは生活実感として私の中にある。

 それでは、吉本さんの〈知識〉にとって最後の課題という言葉は、どこに着地するのか、どういう場において生きるのかと考えた場合、わたしたちの生活世界に保存されてきたそのような人類の叡智の深みとも言うべき生活者の言葉や視線に対応しているように思われる。この生活者の他者を直接的な総体性として捉える視線や言葉は、数万年やそれ以上の人間という存在の始まりからの他者(自己)と関わり合う時間の蓄積のことと言いかえても良い。そして、それは表だった主流とは違って、(吉本さんの「歴史の無意識」に対応する)潜在する主流とでも言うべきものである。この意識的、自覚的な〈知識〉の還相の過程において、〈知識〉の自然過程をぶっ飛ばしていく往相は、―その〈知識〉の老いによっても内省を迫られることがあるかもしれないが―、君は何をしてきたのか何をしているのかという自らへの内省に出会うのである。〈知識〉に価値を置く〈知識〉の往相は、国家の成立辺りから人間界の知識・文化上層では力を持ち続けてきた。しかし、それは人間界(社会)の総体においてではない。また、国家成立以前にはたぶん異質な〈知識〉の捉え方の膨大な人類史もわたしたちは持っているだろうと思われる。つまり、現在の〈知識〉の自然過程である往相は、人類にとっての〈知識〉ということのほんの一部ではないかという思いがある。

 吉本さんは、若い頃からずっと親鸞を考え続けてきたのだと思う。若い頃には『吉本隆明全集1』に収められている「歎異鈔就いて」(『季節』1947年7月掲載)がある。次に、ほぼ日刊イトイ新聞の「吉本隆明の183講演」には、1972年11月12日講演の『親鸞について』(吉本隆明183講演 A29)がある。そして、1976年10月に春秋社版の『最後の親鸞』が刊行されている。吉本さん51歳の時である。40歳代から50歳代のこの辺りで、吉本さんは本格的に親鸞を捉えようというモチーフを表に出してきた。つまり、「知識の最後の課題」は、吉本さんにおいても壮年過ぎに切実に訪れてきたモチーフだったと思われる。『カール・マルクス』(試行出版部刊 1966年)における、マルクスも普通の無名の生活者も等価だというような人間の本質的な生存の捉え方やこの親鸞の「知識の最後の課題」に至る吉本さんの知識や思想の道程には、戦争の体験とそこからの内省とが色濃く記されているはずである。そして、そのような実感を伴った内省が、吉本さんを〈大衆の原像〉やこの「知識の最後の課題」のようなこの人間界での本質的な課題を捉える道を激しく上り詰めるように歩ませて来たのだという思いがする。

 〈知識〉に対する ―それは人間や人間世界に対すると言ってもいいけれど ― わたしたちの一般的な視線には、二つある。一つは、個の誕生から死に至る生涯というものの時間の総体を含んだ視線である。もう一つは、人々が小さな集落で生活し始め知識を生み出していった人類の初期(起源)を含んだ視線である。〈知識〉に対するわたしたちの現在的な視線は、現在の〈知識〉にまつわるマス・イメージに浸かっていて、ふだんはあまりその二つの視線を意識することはない。しかし、学校生活や受験など現在の〈知識〉の場で、くたびれ果てて「ここから脱け出たい」という感情や意識を抱いたときには、それら二つの視線は顕在化してくることがあり得るように思う。

 その二つの視線は、まず、わたしたちに知識や知識世界について、なぜそんなものが存在するのかという内省をもたらす。次に、その内省に促されるようにして、この断ち切られることなく連綿と続いてきた人間界の歩み、その現在の中で、日々わたしたちが生きているということは何なのだろう、という問いから教育(家庭教育や学校教育や社会教育)を含めた知識というものが何なのかという問題が浮上してくる。これらのことは、この人間界における人の存在の本質的な価値として吉本さんが捉えた〈大衆の原像〉と関わってくる。

 この吉本さんの「知識の最後の課題」は、まず、親鸞が関東の地で仏教のようなものを携えて当時の民衆の世界に入り込んで行ったとき親鸞が鋭く感じ取った課題であった。どうしても〈知識〉を引きづっていて〈知識〉を完全には放棄できない親鸞の最後の課題だった。次に、この課題は、この人間界での人の存在のあり方の本質を〈大衆の原像〉という本質的なイメージとして捉えてきた吉本さんの、そこから〈知識〉へと逸脱してしまわざるを得なかった自分の最後の課題として問われている。つまり、親鸞の時代から遠く離れた現在の、現在的な問題として問われている。

 〈大衆の原像〉は変貌してしまったとかよく批判されるが、これは本質的な存在のあり方として抽出されたイメージである。つまり、具体性のレベルではないある抽象度を持ったイメージである。たとえば、柳田国男が捉えた常民の具体的な生活世界やその具体的なイメージと現在のそれらは大きな落差や違いがあるように感じるだろう。大衆の具体性としての有り様は、高度経済成長期以後の消費資本主義の世界の下の、大衆が知識世界に普通に出入りするようになった段階とそれ以前では大きな変貌があるだろう。また、知識人と知識には無縁な生活者という構図も、純文学と大衆文学という構図も、解体されて現在ではその断絶と境界が曖昧になってきている。しかし、数万年に及ぶこの列島の住民の精神的な遺伝子がそう簡単に変わらないのと同様に、大衆の具体的な有り様ではなく、大衆のこの人間界における有り様の本質的なイメージとして抽出された〈大衆の原像〉は、不変的なものとしてある。そして、この吉本さんの「知識の最後の課題」は、家を抜け出した放蕩息子が様々な放浪の旅の末に我が家に帰ってくるように、〈知識〉世界に逸脱してしまった自分が、最終的に還っていく世界が価値のイメージ(像)として指示されていることになる。

 あぶくのような知識の優劣を競ったり、知識をひけらかしたり、自らの生活実感とは無縁に何やら固い抽象語を振りまわしたりということを、今なお知識世界の住人は止めていない。そんな知識界の住民を尻目に、この吉本さんの「知識の最後の課題」は、わたしたち人間界の内部での大きな課題として考えられているはずである。

 しかし、人間界の規模を超えた大いなる自然(宇宙)というレベルからの反照する視線(というものを比喩的に仮定して)を導入すると、この吉本さんの「知識の最後の課題」も粉々に砕けて、ただなぜかはわからないがこの大いなる自然(宇宙)の下に人間というものが存在し、宇宙から見たら人間という本質的に受動的な存在、親鸞の絶対他力的存在というあり方をしているということになるだろう。ちょうど人工衛星から(のデータを画像処理して)列島を見たとき、なにか生命が分布して生命活動を明滅させているものの静止画像を見たときのように。しかし、人工衛星からこの列島やそこに住む人々を見ようとする視線は、もはや比喩ではない現実的なものとして人類が獲得してしまった。吉本さんはこの上方からの視線を「世界視線」(『ハイ・イメージ論Ⅰ』) (註.1)と呼んでいる。この世界視線は、人間界の科学技術の成果がもたらした人間的な視線であるが、人間界を突き抜けるものを持っているように思われる。自分が地上の内部にいながらそこから遙かに突き抜けた外部の遙か真上からの視線である。言いかえると、大いなる自然(宇宙)が内省というものをすると見なせば、それを代替するような内省する視線のようにも感じられる。しかし、ここではこれ以上それには触れない。



 (註.1)
「世界視線」

 ランドサット映像が世界視線としてあらわれたことの意味は、わたしたちがじぶんたちの生活空間や、そのなかでの営みをまったく無化して、人工地質にしてしまうような視線を、じぶんたちの手で産みだしたことを意味している。この視点はけっして、地図の縮尺度があまりに大きいために細部を省略しなければならなかったとか、さしあたり不必要だから記載されなかったということではない。ランドサット映像の視線が、かつて鳥類の視線とか航空機上の体験とかのように、生物体験としての母体イメージを、まったくつくれないような未知のところからの視線だということに、本質的な根拠をもっている。いわば、どうしても人間や他の生物の存在も、生活空間も、映像の向う側にかくしてしまう視線なのだ。
 (『ハイ・イメージ論Ⅰ』 P155 吉本隆明 ちくま学芸文庫)







 17.ひと言に凝縮するのは難しい


 NHKのテレビ番組で知った「Sputniko!(スプツニ子!)」さんのツイッターのプロフィールには「Just an Artist ただのアーティスト」とある。「ただの」と付す意識には、否定的かどうかに関わりなく「ただじゃないもの」がどこかで意識されている。「ただじゃないもの」とは分離したものとして自分の表現の場所や表現そのものを位置づけている。「ただじゃないもの」を敬っているのか、どうでもいいものと思っているのかはわからない。にもかかわらず、「ただのアーティスト」にも、自分の表現や表現の場所に対するこだわりや自負があることは確かだろう。

 もしわたしが「ただのアーティスト」をまねて言えば、「偶然に、何の因果か、表現者です。」となろうか。ついでに言えば、わたしは若い頃、何百万言も費やして考えを述べている書物たちを尻目に、この世界の根幹を簡単な短い言葉で言い表せないかという強い欲求を持ったことがある。

 吉本さんが芸人の藤田まことのファンだということは、吉本さんが藤田まことから色紙をもらったということを知るまで知らなかった。わたしが藤田まことを知ったのは、まだ少年の頃で白黒テレビの番組「てなもんや三度笠」でだったろうか。その頃は喜劇俳優のイメージだったが、ずっと後にテレビなどで見かけたときには、シリアスなドラマや映画に登場する存在感のある俳優として登場していた。「必殺仕事人シリーズ」がわたしには印象深い。その藤田まことから吉本さんがもらった色紙(註.1)には、「恥ずかしながら 一生 芸人です   藤田まこと  吉本隆明さま ‘98.2.5」とある。この藤田まことの色紙に書かれた言葉は、たぶん藤田まことの芸人としての人生をひと言に振り絞った言葉であろう。これもなかなかいいと思う。「恥ずかしながら」がこの言葉の重心だろう。


 ここ数年来、「何かコトバ」を書けと読者に言われると宮沢賢治の言葉を自分なりにアレンジして好きな文句を書いてきました。次のようなものです。

 ほんとうの考えと
 嘘の考えを
 分けることができれば
 その実験の方法さえ
 決まれば―
   宮沢賢治より
       吉本隆明記

 わたしの特に好きな宮沢賢治の言葉は「その実験の方法さえ決まれば」のなかの「実験」というコトバの使い方です。
 そこからなかなか離れられないで居ります。
 (「受賞のひとこと」P53-P54『吉本隆明資料集175』猫々堂、初出『第十九回宮沢賢治賞イーハトーブ賞』パンフレット 全文 2009年9月22日 )



 吉本さんが宮沢賢治の作品から取り出した言葉は、以下のものである。


けれども、もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。
(『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治 青空文庫 角川文庫版)



 吉本さんは、色紙などに書くような短い言葉を人から乞われるようになって、まず自分の言葉を探さなかったとは思えない。吉本さんが今まで書いたり語ったりした言葉から見れば、吉本さんは自分から積極的に何かに立ち向かうと言うよりも、押し寄せてくる世界に強いられるように割とネガティブに生きてきたから、自分の生存を短い言葉に絞り込むことはむずかしいなあ、面倒だな、と思ったかもしれない。自分の好きな人の言葉で自分の切実な場所に近しい言葉ならそれでいいやと思って宮沢賢治の言葉を取り出したのかもしれない。ちょうど苦手な歌うことを望まれて、少しは気に入っていて歌いやすい誰かの歌を選んで歌うように。

 「宮沢賢治の言葉を自分なりにアレンジして」というのは、取り出した言葉を、詩句のように行わけにして、少し言葉を切り整えていることを指すのだろう。ここで、「もう信仰も化学と同じようになる。」という結びが省略されているのは、吉本さん自身がその「実験」の方法を強く模索し願っていること、その現在性を示しているからだと思われる。

 吉本さんが「実験」という言葉にこだわるのは、化学実験のように誰もが認めざるを得ないような、すっきりする実験方法や判定の方法を生み出せたら、まずは人間間の集団を介した無用な対立に終止符を打つことができる、と考えるからだろう。だから、「決まれば―」の後に吉本さんの内心で続くのは、そうなったらなんてステキなんだろう、せいせいするな、ということだと思う。



(註.1)
以下のブログの記事が、その色紙に触れている。
 ・ブログ 『米沢より愛を込めて・・』https://ykkyy.exblog.jp/17711296/
 ・記事  「思い出:故藤田まことさんから、故吉本隆明氏へ贈られた色紙」(2012年03月23日)
  ※この記事中に、吉本隆明氏『思想のアンソロジー』(2007年)で藤田まことに触れている箇所が引用されている。

一度は読んだことのあるその本にこの色紙の言葉や藤田まことに触れた文章があることは忘れていた。私の持っている本から関連を一部引用しておく。吉本さんが「自前の言葉」を考えてみたことも記されている。


 《解説》
 子どもの友人の娘さんが愉しい人で、藤田まことの色紙を頂戴してきてくれた。そんな私的な色紙のなかの言葉を意図的に択んだ。なぜかと強いていえば、言葉そのものが著名な芸能家がファンに与えるという位置に立っていないし、とうていそんな気持ちをもてないような謙虚な人柄が滲みでているからである。わたしも自前の言葉を色紙に頼まれたら、一度は、耻ずかしながら、生涯物書きですという模倣をさしてもらおうとおもった。
 誰にとっても生涯の職業は恥ずかしいものだ。何故なら、他の何にもなれなかったから、そうなってしまって米塩の資を得ているからだ。
 (『思想のアンソロジー』「藤田まこと」P23 吉本隆明)


 ※《解説》の前に、藤田まことの色紙の言葉が掲げてある。その中では、「耻」ずかしながら、となっている。《解説》では、「耻」と「恥」の両方の表記がある。





 18.吉本さんの坊主頭の写真から


 吉本さんの坊主頭の二枚の写真(註.1)にネットで出会った。二つは同時期のものだろうと思うが断定はできない。
 作家という表現者とってその日常の生活での振る舞いや表情は問題にならない。『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 』によると、村上春樹も作家の時と生活者の時をはっきりと区別していた。しかし、思想者としての表現者には日常の立ち居振る舞いが問題となることがある。言葉ではそういう思想を述べているが、家族の中でもほんとうにその考えを貫こうとしているかなど、読者に指摘されなくても自分の思想から問われているはずである。吉本さんの場合は、本人が書物の中で書いたり語ったりした中の端々からはそのような原則を貫いていた様子がうかがえる。(娘の就職について吉本さんが語られていた話を今思い出した。)

 ところで、この一枚の写真の件は、何も取り上げて論じるには値しない個人生活的なものかもしれない。読者は作家や表現者の作品や思想以外のなんにでも興味を持つということからではなくて、そこを敢えて取り上げてみるとどうなるだろうか。

 このような坊主頭の吉本さんの写真をいつかどこかで見たような気がするが思い出せない。吉田純写真集『吉本隆明』(2013年2月 河出書房新社)にも載っていない。

 写真家は、言葉ではなくて像で言葉以前のイメージを表現する。人物を撮る場合、撮る角度や陰影や距離や背景など感覚的に判断しながら一枚の写真を撮るのだろうか。人物が言葉ではなく顔かたちや佇まい自体で表出したり語りかけたりしてくるのを受けとめ画像に構成する。だから、このようにいつもと違った髪かたちをしていたら、わたしたち普通人以上に写真家は敏感になりそうな気がする。かといって、娘の吉本ばななが写真にコメントしているように「母とけんかして、頭を丸めたら許すと言われたとき」という事情が背景にあるということまではわからないだろう。

 坊主頭、丸刈りは、もちろんいろんな歴史を背負って現在に至っている。明治近代以前は、名前の通りお坊さんの髪型であったろう。お坊さんも武士も近代の軍隊や学校も、実用的な事情や自然な流れも含め普通の生活世界とは違った新たな規律に基づく世界を築く一環として坊主頭(剃髪)やちょんまげや丸刈りが捉えられたのだろうと思う。現在でも見かける丸刈りは、これらの歴史の流れを受け継いでいるはずであるが、さらにさかのぼって古代の〈清祓〉までつながっているように感じられる。現在でも、わたしたちが急に丸刈り(坊主頭)にしてきた者に対して持つイメージは、何かよくないことをやらかして、その謹慎や祓い清めとしてそうしたんだなということである。

 吉本さんの『共同幻想論』の「規範論」に〈清祓〉(はらいきよめ)のことが触れられている。


 はじめに確かにいえることは、〈法〉的な共同規範は、共同体の〈共同幻想〉が血縁的な社会集団の水準をいささかでも離脱したときに成立したということだけである。
 未開な社会ではどんなところでも、この問題はそれほど簡単にあらわれない。またはっきりと把握できる形ももっていない。そこでは〈法〉はまだ、犯罪をおかした人を罰するのか、犯罪行為を罰することで〈人〉そのものを救済しているのか明瞭ではない。そのためにおそらく〈清祓〉(はらいきよめ)の儀式と罰則の行為とが、未開の段階で〈法〉的な共同規範として並んで成立するのである。〈清祓〉の儀式では行為そのものが〈法〉的な対象であり、ハライキヨメによって犯罪行為にたいする罰は代行され〈人〉そのものは罰を負わないとかんがえられる。だが罰則では〈法〉的な対象は〈人〉そのものであり、かれは追放されたり代償を支払わされたり、体罰をこうむったりする。
 しかし未開的な社会での〈法〉的な共同規範では、個々の〈人(格)〉はまだそれほど問題にはなっていない。また行為そのものもあまり問題とならない。ただ部族の〈共同幻想〉になにが〈異変〉をもたらすかが問われるだけである。〈神話〉のなかにあらわれる共同的な規範が〈法〉的な形をとるときは、そこに登場する〈人(格)〉はいつも、ある〈共同幻想〉の象徴でだということができる。
 (『共同幻想論』規範論 P426 『吉本隆明全集10』晶文社)


 『古事記』のなかで最初に〈罪〉と〈罰〉の問題が〈法〉的にあらわれるのは、いわゆる〈天の岩戸〉の挿話のなかである。そして犯罪をおかし罰をうけるのは、農耕民の始祖で同時に種族の〈姉〉神アマテラスの〈弟〉に擬定されているスサノオである。
 ・・・(古事記からの引用略)・・・
 そこで部神たちが合議して、天の岩戸のまえで共同祭儀をいとなんで常態にもどしてから、スサノオは合議のうえ物件を弁償として負荷され、鬚と手足の爪とをきって〈清祓〉させられ、共同体を追放されるのである。
 ここでスサノオが犯した罪は、たとえば『祝詞』の「六月の晦日の大祓」にでてくる〈天つ罪〉にあたっている。すなわち「畔放ち、溝埋み、頻蒔き、串刺し、生け剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸」等々の〈罪〉にあたっている。
 これらの〈罪〉にたいしてスサノオに課せられる〈罰〉は、物件の弁償、部落からの追放、鬚や手足の爪を切る刑である。この刑は、南アジアの未開の社会(たとえば台湾の原住族)などで慣行となっているものとおなじで、かくべつの問題はないと考えられる。
 (同上 P426-P428)



 スサノオが犯した罪に対する〈清祓〉には、髪を切ることは載っていないが、身体の一部を切り取る意味で同類のものと見なせるだろう。血縁的な社会集団から国家の下の社会へと変位していくとともに、〈清祓〉は〈法〉的な共同規範(法律)へと移行していくことが述べられている。そして、「ハライキヨメによって犯罪行為にたいする罰は代行され〈人〉そのものは罰を負わないとかんがえられる。だが罰則では〈法〉的な対象は〈人〉そのものであり、かれは追放されたり代償を支払わされたり、体罰をこうむったりする。」と血縁的な社会集団の中の未開的な〈清祓〉の慣習(A)と国家の下の社会の中の法と処罰(B)との違いが語られている。

 現在のわたしたちが、急に丸刈り(坊主頭)してきた者に対して持つイメージは、(B)を模倣する意識とも考えらることができるが、むしろわたしたちの意識の古層に保存されている、まだ法が関わらない(A)の問題から来ているような感じがする。この写真の場合、吉本ばななの証言を踏まえると、夫婦げんかをして吉本さんに分が悪かったのか、吉本さんが奥さんからのけんかの収束提案を受け入れたということになる。吉本さんが丸刈りになって奥さんの鬱憤は祓い清められ収束に向かったということだろう。こうしたことは、どこの夫婦にも無縁ではない。


 (註.1)
 二枚の写真

1.文化科学高等研究院(E.H.E.S.C)出版局の出版本の紹介ページの
「山本哲士のページ」 3.吉本隆明さんとの交通『戦後55年を語る』
に掲載されている吉本さんの写真
http://ehescbook.com/yoshimoto/y_worldtext/y_world03.html

 ( 写真に付されているコメント)
『戦後50年を語る』のとき、めずらしい坊主頭の吉本さん。
これで、親鸞を語られたのだから。
(EHESCにて、1995年)


2.吉本ばななオフィシャルブログ「よしばな 日々だもん」「若い頃の写真」2019-07-01
https://ameblo.jp/yoshimotobanana/entry-12489013956.html

 ( 写真に付されているコメント)
「お父さん、なぜムショ帰りみたいな
母とけんかして、頭を丸めたら許すと言われたとき。ちなみに浮気ではありません」


(追記2021.12.22)


  上の(註.1)の1.より引用 1995年

 『吉本隆明全集12』の栞を読んでいたら、娘ハルノ宵子の「ヘールボップ彗星の日々」に次のような言葉があった。


 一九九七年にやって来た「ヘールボップ彗星」 (註.2)は、今のところ私の人生で最大の彗星だ。
・・・中略・・・
 その頃、我家は最大の家庭崩壊の危機に陥っていた(それまでも何度もあったが)。ヘタをすると今回は、もっと最悪なことが起きる予感すらあった。
 とある父の著書――正確に言うと対談本の内容が、母を激怒させていたのだ。私は母より先に読んでいたのだが、「あちゃ~! また調子に乗ってベラベラと・・・こりゃ~修羅場必至だな」。位にしか感じなかった。私や妹だって、父の著作には何度も傷付けられた。事実誤認はもちろん、やはり家族のことに触れると、どうしたって父親目線・夫目線という"バイアス"がかかるのだ。きっと芸人の家族なんて、もっと面白おかしく脚色されたネタとして披露され、こんなもんじゃ済まないんだろうな――とは思うが、我家の場合腹立たしいのは『吉本の言葉は真実である』と、熱心な読者に信じられてしまうところだ。
 その本を読んだ母の怒りと絶望は、私の予想をはるかに越えていた。内容のある部分が琴線に触れたのだ。母は自分の人生を全否定されたように受け取ったのだと思う。お定まりの「出ていく!」「イヤ、オレの方が出てくから!」もあったが、父は前年に西伊豆の海で溺れ死にしかけ、それをきっかけに眼も脚も急激に悪くなっていた。母にしたって身体が弱く病気がちで、お互いそんな体力なんてあるわけが無い。そして母は、父への最大の復讐として"自死"を決意していた。
・・・中略・・・
 一方父は、心配して電話をかけてきた妹に、「オレたち今度は本当にダメみたいだ」。と打ち明けていた。妹は父に「やっぱ女は宝石だよ!ダイヤの一つもプレゼントして、頭丸めてあやまってみれば?」と、実に無責任な家庭外目線にして最強の最終手段をアドバイスしていた。
 果たして父は、折りしも四月一日、本当にそれをやってのけた。「プッ! バカね」と母は小さく吹き出し、プレゼントを受け取った。小さな小さなダイヤモンドのペンダントだった。丸坊主になった父は、祖父にそっくりだった。まぁ・・・根本的な解決にはなっていないので、その後も"家庭内離婚"は続いていたが、父の渾身のパフォーマンスによって、母の感情は動き出した。


 この栞の全文を読めば、ヘールボップ彗星が吉本家の人々と関わっているのだが、ここでは必要な部分だけ引用した。

 ところで、「父は前年に西伊豆の海で溺れ死にしかけ」とあり、それは1996年8月のこととわかっている。だから、吉本さんが丸坊主になったのは、上の文章からは1997年4月1日のこととなる。ということは、「山本哲士のページ」の一番下に吉本さんの上の丸坊主の写真があり、コメントともに(EHESCにて、1995年) と記されているのは、山本哲士の勘違いか、でなければ1995年にも吉本さんが丸坊主になったということになる。わたしには、いずれとも断定できない。しかし少なくとも、吉本ばなながブログにUPしていた吉本さんの丸坊主の写真は1997年4月1日以降、その頃のものであると言える。

 「私や妹だって、父の著作には何度も傷付けられた」とある。そんな記憶は読者のわたしにはほとんどないが、ひとつだけ言えば、詩の中で、娘達が道端で何か物売りをしていた、というような表現に出会った覚えはある。もちろん、詩は幻想の表現だから「娘達」とあっても、実際の吉本さんの娘達と直接につながるわけではない。

 娘ハルノ宵子の描写によると、吉本さんの奥さんの衝撃はとても大きいものだったと書かれている。その「対談本」―たぶん、その当時出たものであろうか―の表現には興味がひかれるが、ここでは詮索しないことにする。

 時々、当人達の不倫などの恋愛事情を、その一方がマスコミなどの外に、社会にばらまく人がいる。対幻想(家族)の問題を共同幻想(社会)の力によって解決しようとする傾向だ。普通の家族では、そういうことは可能ではないが、芸人などのいわゆる有名人ではそういうことが可能のようである。吉本さんの場合は、娘達も表現者として文章を書くようになったから、家族内の内情がこのようにしてわたしたちの前に漏れ出てくることになった。


 (註.2)
ヘール‐ボップ彗星

1995年7月22日に、アメリカの天文学者ヘールとアマチュア天文家ボップによって発見された彗星。ニューメキシコ州に住むヘールは熱心な彗星観測者で、既知の彗星の観測中にこの彗星を発見している。アリゾナ州に住むボップは、仲間6人と星雲・星団の観望中に発見している。発見時の彗星は太陽から7天文単位、木星軌道と土星軌道の中間ぐらいのところであったが、その位置にしては11等級と明るく、巨大な彗星であることが推測された。
彗星の明るさを予想するのは大変難しく、往々にして期待はずれになることが多いが、1年半後の近日点通過(1997年4月1日)前後の数ヵ月間には、地球にはそれほど近づかなかったにもかかわらず、最大でー1等級前後の雄大な姿を見せ、多くのアマチュア天文家、天文ファンを楽しませた。太陽から遠い位置で発見されたため観測期間も非常に長く、1年以上肉眼で見えたのは記録が残る中では最長と考えられている。
彗星核は直径50km程度と見積もられており、過去に観測された彗星の中でも最大級と推定されている。核からのジェット、ナトリウムの尾、重水素の量、有機化学物質など、非常に多くの発見があり、彗星研究においては画期的な発展となった。公転周期は約2530年。
(ネットの「天文学辞典」より 公益社団法人 日本天文学会)








 19.実感ということ


 吉本さんの文章をよく読んでいる人ならわかると思うが、吉本さんは「実感」という言葉をよく使っている。吉本さんのインタビューや対談でよく「実感」という言葉に出会う。吉本さんは、自分の論理や考えの支えとして「実感」を大事にしているように見える。このことは、『 データベース 吉本隆明を読む』の中の「言葉の吉本隆明②」の項目628「実感に基づく思考」で一度取り上げたことがある。そこで引用した二つの文章を再度取り上げる。


1.
― 今回は、中国とか韓国から文句をつけられた「新しい歴史教科書をつくる会」の『新しい歴史教科書』(扶桑社)についてお話をお願いしようかと思っているんです

吉本 『新しい歴史教科書』については、とにかく一等最初、どうしても僕が前提として言いたいことは、要するに『新しい歴史教科書』の内容がどう中国と韓国に対して見解が違うかとか、認定が違うかっていうこと以前に――日本の場合には歴史教科書の内容を変えて学校で使うっていうこと、それから中国と韓国についていえば、そのことに文句をつけてるわけですね。それは内容以前の問題として、僕なんかはもう気に食わない(笑)。気に食わないっておかしいけど、前提として否定的だっていうことを言いたいわけですよ。どうしてかっていうと、それはリアリズムじゃないっていうか、学校教育制度なり教育制度の現実的な状態なりにいずれも反するからです。どう反するかっていえば、日本がそういう教科書を作った、その記述が勝手に日本にとって有利にしてあるかどうかっていうことを抜きにしても、それ以前に教科書を作り替えれば学校の制度として、生徒っていうのはそれを勉強して「なるほど」というふうに思う、と考えてること自体がおかしい。それが僕の前提にあります。これは経験上よくわかるわけだけど――自分がわかるっていうことは大部分の生徒がそうだと思ってるわけですけど――大部分の中高生にとっては歴史の教科書を―― 一般に教科書っつってもいいんですけど、歴史だったら特にそうだけど――読んだ揚げ句の認識に永続性があるとかね、長く認められるような見解とか考え方を形作るっていう考え方自体が僕は違う、と思っています。つまり、歴史の教科書なんていうのは自分の実感で言うと、試験の前日ぐらいに読んで年号とか主な事件のことを暗記したりして、試験が終わればそれはぺろっと忘れてしまうというのが実情だと思います。それがリアルな認識だと思うんですよ。だから教科書をこういうふうに記述すれば、教育的に、生徒の認識とか考え方が変わるだろうという考え自体がおかしいと思ってるわけです。だから、もちろんそれに文句つける奴もおかしい(笑)。つまり中国とか韓国とか、いやしくも現代の一国の政府が、他人の国で作ったそういうものに、ちょっと記述が現実と違うっていう考え方で、政府として抗議するとか直してくれっていうふうに言うこと自体が、また輪をかけておかしいと思います。だから全部そういうのはナンセンスであるっていうことは、僕は前提だと思いますね。エリート主義者どうしの空中戦になってしまう。

― なるほど。
 (『吉本隆明が最後に遺した三十万字 下巻 「吉本隆明、時代と向き合う」』P103-P105 ロツキング・オン 2012年12月) インタビュアー 渋谷陽一



2.
 ほとんどのひきこもりの人は、気質的に人と交わるのが嫌いで、家の中でも必要なこと以外あまり話したくないから、一人でゲームをやったり本を読んだりしていたい、というようなタイプです。医者の治療が必要な人たちとは違うのです。
 ぼくは、子どもの時から「気質的ひきこもり」だったから、そういうことが実感上とてもよくわかります。人の中に出るのが苦痛で、ただおとなしくその時に興味のあることをやっていれば、一日が過ぎてしまうのです。
 (『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ』P54 吉本隆明 大和書房 2002年12月)



 1.の「歴史の教科書なんていうのは自分の実感で言うと、試験の前日ぐらいに読んで年号とか主な事件のことを暗記したりして、試験が終わればそれはぺろっと忘れてしまうというのが実情だと思います。それがリアルな認識だと思うんですよ。」という吉本さんの実感は、わたしたちにも思い当たる実感だろうと思う。ただし、きまじめに教科書に書かれていることを受け取る優等生も少しはいるだろうから、優等生の実感はそれとは違っているかもしれない。しかし、大半の子どもたちは吉本さんの実感と同じだろうと感じる。それは人間の実感の主流と言うことができる。

 2.は、吉本さんが子どもの時から「気質的ひきこもり」だったから、「ひきこもり」の内側の世界を体験してきていて、実感としてひきこもりの人の心の内がわかると語られている。1.も2.も、吉本さんがそれらの「内」にいて、「内」にいる他の多数の者と共有できるある感じのことが語られている。

 実感を「内」にいる他の多数の者と共有できるある感じとはいっても、それは良いか悪いかは意味しない。そういう現実であるということを意味している。それに関することを言葉にしたり語ったりする時には、その実感としての現実性から出立しないと、論理や考えが局所的なもの、恣意的なものになってしまい、普遍性を獲得することはできない。

 この言葉の論理や考えと実感の問題は、吉本さんの思想の根幹に関わるとても重要なことでもある。この実感というのは論理や思想の肉体性に相当するもので、論理の正しさや普遍性を獲得するためには必須のものである。この言葉の論理や考えと実感の問題は、知識や思想における「大衆の原像」やその繰り込みの問題と同型であり、また、理論物理は実験物理を参照するという問題とも同じである。

 「実感」といっても、ある事柄に対してひとりひとりは違ったイメージや感じの実感を持つ。そんな中でも、大多数に共通する実感の共通性というものがありうる。ひとりひとりの心や意識の底の方ではひとりひとりいろんな違いがあっても、心や意識の上の方ではひとつの共通性を持っているイメージとして想定できると思う。こういう実感の共通性の現実を踏まえ、繰り込まずに、無視する言葉や論理や考えが、現在でも相変わらず知識の世界やマスコミや政治の世界であたかもそれが主流であるかのように流通しているが、それらは空無の言葉というほかない。それらはまた、大衆は遅れている存在であるから指導されなくてはならないという過去の前衛-大衆の考え方と同じであり、さらに大昔からの流れでもあるように思う。知や知識層や政治の病ともいうべきものである。







 20.ぜひこれだけは ―吉本さんの語った言葉から


 吉本さんの語った言葉で、わたしの中でこれだけは外せないなという言葉がある。それを3つだけ上げてみる。1つ目は、主にこの人間世界で人はそうせざるを得ないようにできているという人間の存在的な不可避性。これはこの世界で人間の生きる意味とも関わっているような気がする。2つ目は、人間が生み出し積み重ねてきた知識の世界に深入りする人々がいる。そんな知識世界に思想家(表現者)の存在する意味。3つ目は、『最後の親鸞』で語られた思想者(表現者)と生活者の二重性の始末のつけ方のイメージ。


1.
ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。それは説きたいとか、教育したいとかというのとはちょっとちがうんですよ。しかし死ぬまでは、できるならばちょっとでも先へ行きたいよ、先へ行ったからってどうするのと云われたって、どうするって何もないですよ。死ねば死に切りですよ。死ねば終わりということで、終わりというと怒られちゃうけれど、ぼくは終わりだ、死ねば死に切り、何にもないよ、ということになるわけです。それじゃ何のために、人間はそうしなくちゃならんのと云われたら、人間とは、そういうものなんだよ、そういういわば逆説的な存在なんだよ。つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。そういう存在じゃないんだろうかということが、親鸞に「唯信鈔文意」とか「自力他力事」とかを書き写しちゃ弟子たちに送るみたいなことをさせたモチーフじゃないでしょうか。それがぼくの理解です。いわゆる教育ではありません。誰ひとり、じぶんの考えを本当に理解してくれる人なんていなくたって、それはそうせざるをえないんですよ。つまりそうせざるをえないというのは、何の促しかわからないけれども、そうせざるをえない存在なんですよ。だから親鸞もそうしたんでしょうというのがぼくの理解の仕方ですね。あなたのおっしゃったことに対するぼくの答え方はそうですね。で、ぼくは五十いくつだから、もう幾年生きるのかわかりませんけれど、しかしやっぱり死ぬまではやるでしょう。じぶんの考えを理解してくれる人が一人だっていなくても、やっぱりそうせざるをえないでしょう。人間とはそういう存在ですよ。ある意味じゃひじょうに悲しい存在であるし、逆説的な存在であるし、人間のなしうることといったら、無駄だと思ったら全部無駄なんだよ、でもそうせざるをえないからそうするんだよ、それが人間の存在なんだよ、というのはぼくなんかのいつでもある考え方ですね。
 (「『最後の親鸞』以後 」、『〈信〉の構造』)
 ※ ほぼ日の「吉本隆明の183講演」、A040「『最後の親鸞』以後 」の講演後の「質疑応答」部分より


2.
 ひとりの思想家が、いずれにしろ、生涯においてなしることは大したことはありません。しかし、何がためにひとりの思想家は、ある時代に存在し続けるかとかんがえてみますと、いわば、じぶんが一刻もそのことを頭から去らないほど労苦してかんがえにかんがえぬいてやっと掴(つか)まえたものが、後の世代の人たちにとって、何となく独りでに、自然に身につけてる、その地点に出遭うためです。それが、ひとりの思想家が生涯にわたって存在し続けることの意味だとおもいます。
 (「竹内好の生涯」、『超西欧的まで』弓立社)
 ※ ほぼ日の「吉本隆明の183講演」、A040「竹内好の生涯」という講演より。


3.
最後の親鸞は、そこ(引用者註.『教行信証』のこと)にはいないようにおもわれる。〈知識〉にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま(引用者註.「そのまま」に傍点)寂かに〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。橫超(横ざまに超える)などという概念を釈義している親鸞が、「そのまま」〈非知〉に向うじぶんの思想を、『教行信証』のような知識によって〈知〉に語りかける著書にこめたとは信じられない。
 「どんな自力の計(はから)いをもすてよ、〈知〉よりも〈愚〉の方が、〈善〉よりも〈悪〉の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく〈愚〉に近づくことは願いであった。愚者にとって〈愚〉はそれ自体であるが、知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。
 (吉本隆明『最後の親鸞』「最後の親鸞」春秋社 1976年10月)



 これらの言葉は、わたしにとってなんども汲み尽くし、味わい、考え、何事かあればそれを付け加えるべきものとしてある。







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