表現集 1 (2018.1~2021.1)






 目  次


        批評    日付
150 イメージ(像)を獲得する方法の変位 2018年01月03日
151 表現の現在―ささいに見える問題から 27
 ― 『吹上奇譚 第一話ミミとこだち』(吉本ばなな 2017年10月)
2018年01月07日
152 メモ2018.1.13―ささいに見えることから 2018年01月13日
153 覚書2018.1.22 2018年01月22日
154 覚書2018.1.24― イメージの同一化問題 2018年01月24日
155 主流論・続 (2018.1.28) 2018年01月28日
156 「ネトウヨ」考 (1) 2018年03月13日
157 「ネトウヨ」考 (2) 2018年03月25日
158 「ネトウヨ」考 (3) 2018年03月31日
159 現在のための覚書 2018.4.12 2018年04月12日
160 覚書20180423 2018年04月23日
161 『家の中で迷子』(坂口恭平 2018年)のためのメモ ① 2018年07月22日
162 『家の中で迷子』(坂口恭平 2018年)のためのメモ ② 2018年08月02日
163 『家の中で迷子』(坂口恭平 2018年)のためのメモ ③ 2018年08月05日
164 ファッションについてのメモ
  ― 鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』を読んで
2018年09月03日
165 子の物語についてのメモ 2018年10月01日
166 RADWIMPSについて再び― 「RADWIMPS 18祭」を観て 2018年10月25日
167 読書についてのメモ 2018年11月10日
168 覚書2018.11.24 2018年11月24日
169 メモ ※ブログに掲載してHPには掲載してなかった分を掲載。 2018年12月23日
170 覚書2018.12.30 2018年12月30日
171  表現の現在― ささいに見える問題から 28
 ― 作者なぜとても古い感覚やイメージを表出するか
2019年01月03日
172 覚書2019.1.15 2019年01月15日
173 覚書2019.1.27 2019年01月27日
174 メモ2019.2.3 2019年02月03日
175 問題の所在のためのメモ ― 動的な渦中としての現在から 2019年02月05日
176 問題の所在のためのメモ・続 ― 図表から 2019年02月08日
177 問題の所在のためのメモ・続々― 分布や流れとしての〈現在〉 2019年02月22日
178 メモ2019.3.1 ― 吉本隆明批判から 2019年03月01日
179 覚書2019.3.17 ― 批評ということ 2019年03月17日
180 表現の現在― ささいに見える問題から 29
    ― 『吹上奇譚 第二話どんぶり』(吉本ばなな 2019年1月)を読み始めて

 (追 記 2021.11.19)
2019年03月21日
2021年11月18日
181 「つけまつける」の歌の言葉の走法 2019年03月22日
182 メモ2019.4.3 ― 宣教師について 2019年04月03日
183 メモ2019.5.7 ― 天皇、天皇制について 2019年05月08日
184 メモ2019.6.19― 『人口から読む日本の歴史』について 2019年06月19日
185 覚書2019.7.15 ― 「くに」という言葉 2019年07月15日
186 覚書2019.7.31 ― シームレスということ 2019年07月31日
187 覚書2019.8.13 ― 芸術について考える 2019年08月13日
188 イメージの層の現在から 2019年09月07日
189 覚書2019.11.8 ― 〈生産性〉という経済概念の拡張について、考え中。 2019年11月08日
190 誰かがやっている 2019年12月17日
191 誰かがやっている・続 2019年12月20日
192 メモ2020.1.19 ―宮沢賢治の「心象スケッチ」②、付 メモ① 2020年01月20日
193 覚書2020.5.22 ―現在的な表現の場所 2020年05月22日
194 覚書2020.6.25 2020年06月25日
195 覚書2020.7.1―コロナウィルス問題に対するわたしの位置 2020年07月01日
196 覚書2020.7.13―言葉の舟 2020年07月13日
197 覚書2020.7.20―政治や政治家について 2020年07月20日
198 覚書2020.7.24―本を読んで気になったこと二つ 2020年07月24日
199 覚書2020.8.1―「ほんたうのこと」についてのメモ 2020年08月01日
200 覚書2020.8.28 ―大衆的契機ということ 2020年08月28日
201 メモ2020.9.21― ヘーゲルの『世界史の哲学講義』
(追記) メモ2020.10.8― ヘーゲルの『世界史の哲学講義』を読み終えた 
2020年09月21日
2020年10月08日
202 覚書2020.9.29 ―読書ということ 2020年09月29日
203 覚書2020.10.15 ― フェイクの現在に 2020年10月15日
204 覚書2020.10.26 ― 人間の初源の感覚は 2020年10月26日
205 スイーツの話 2020年11月07日
206 覚書2020.11.21 2020年11月21日
207 覚書2020.11.26―批評の現在 2020年11月26日
208 メモ2020.12.27 ― ヘーゲル『世界史の哲学講義』より 2020年12月27日
209 覚書2021.1.3 ― 作品の読みの難しさ 2021年01月03日






  『銀河で一番静かな革命』(マヒトゥ・ザ・ピーポー 2019年5月)読書日誌 日付
1. 作品の構成 2019年06月22日
2. 二重の視線 2019年06月28日
3. 世界の異変を感知する 2019年07月01日
4. 二つの世界の終わりのイメージ・直面する心の振る舞い 2019年07月18日
5. 死から照らし出された生のイメージ 2019年07月21日






  『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 日付
1. 物語世界の構造 2020年03月28日
2. 物語の渦中で、「崩壊」と「瓦礫」や「建設」とは何か 2020年04月05日
3. 物語の渦中で、「医務局」とは何か 2020年04月16日
4. 物語の渦中で、「わたし」の多重性 2020年04月20日
5. 場面の転換から 2020年04月22日
6. 神話的な描写 2020年04月25日
7. 登場人物名の命名法 2020年04月29日
8. 「終章」の意味 2020年05月01日











批評



150


 イメージ(像)を獲得する方法の変位


 「民の竈(かまど)は賑わいにけり」というエピソードがある。現在の社会について政府の経済・統計資料を調べていて、ふと「民のかまどは・・・」という言葉がよぎった。
 ところで、読み終えた『小沢一郎の権力論』にもこの話が載っている。


 長い演説をする時、僕は仁徳天皇の「民の竈」の話をする。あれが僕の政治活動の原点なんだ。
 どんな話かというと、民の竈から煙が立たなくなったのを見て、国民が貧しい生活をしていることに気づいた仁徳天皇が、宮中や行政の経費を削り、年貢を免除した。それで国民は息を吹き返し、再び、竈のあちらこちらから炊事の煙が立つようになったと。そういう逸話だ。
(『小沢一郎の権力論』(インタビュー構成集) P130-P131)


 関連して、新古今和歌集に次のような歌か載せられている。

高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古707)

 これは、所収本によっては作者不明とか仁徳天皇とかあるらしいが、このエピソードに添う歌であることは確かである。


 仁徳天皇(4世紀末~5世紀)が実在の天皇だったとして、どれくらいの規模の王朝・行政区などかは知らない。平安期のように東国への足がかりはまだない時代だったろうから、まだまだ全国的なものではなく、割と小規模だったのかもしれない。

 当時の人々の家計の状況は、高いところに上がって「煙」という直接的なもので測ることができた。あるいは、直接的なもので測らざるを得なかった。国見は権力の儀礼的な面があるのだろうが、これも高いところからその地の形勢を直接的に望み、測るということではなかったろうか。これを一次的なイメージ(像)の獲得方法とする。

 仁徳天皇の頃の税がどのような基準で課せられたのかはわからない。もっと後の大化の改新以後になるとより整序されたものになったようだ。先進中国からの律令制や文物がわが国に入ってきた時、土地や民衆の貢納などを測る技術やそれに基づく施策も入ってきたのだろう。こうして、一次的なイメージ(像)の獲得と併せて、土地や人数などの計測・計量などによっても、社会のイメージ(像)や入ってくる貢納の量などのイメージ(像)を獲得していたはずである。

 太閤検地以後、年々の天候などの自然条件による豊作や不作があるとしても、社会のイメージ(像)や入ってくる貢納の量などのイメージ(像)の獲得がより緻密になってきたと思われる。しかし、土地を実際に測ることによるイメージ(像)の獲得という点では、古代辺りからの連続した線上にある。

 ところで、昔読んだことがある柳田国男「火の昔」には、次のような箇所がある。


私は大正の始(ママ)め頃に、愛知県のある海岸の丘の上に登って、東海道の村々の夕方の燈火が、ちらちらとつくのを眺望していたことがあります。いつになったらこの辺の農家の屋根が、全部瓦葺きになり、そうして電気がついてその下で働くことになるだろうかと、よほど遠い未来のように想像してみました。ところがたいていの世の中の改良というものが待遠(まちどお)であるのに反して、これだけは予想よりはるかに早く、実現したのであります。その時からわずか一七八年の後、再び同じ場所の高みから里を見ると、見える限りの屋根屋根がすべて瓦葺きで、どの窓にも電気の燈があかあかと映っていたのにはびっくりしました。国には数千年を経ても少しも変らぬものが確かにありますが、一方にはまたこれほどにも激しくえらい速力で、しかも何人も気がつかずに、変って行く燈火のようなものもあるのであります。
 (「火の昔」P243 『柳田國男全集23』ちくま文庫)


 これも高台から村々を直接見渡すことによって得られた村々のイメージ(像)やそのイメージの変貌である。わたしが「一次的なイメージ(像)の獲得方法」と呼んだ古来から続いているもの、すなわち、わたしたちが直接に見渡すことによってイメージ(像)を獲得するという方法が、今後ともなくなることはないだろう。しかし、社会の主流になっている、イメージ(像)を獲得する方法は、近代以降の積み重ねによって二次的なイメージ(像)の獲得方法とでも呼ぶべきものに変位を遂げている。それは例えば次のようなものである。


例1.
その具体的な詳細は知らないけれど、人の遺伝子などの探査によって、人類の移動の足跡をある程度把握できるようになってきたこと。これは派生的なものとして、日本語の成立の足跡にも寄与するものがあるかもしれない。

例2.
以下の、安保徹の視線は、人の身体の起源からの視線によって現在の人の身体を見るという視線で、そういう視線を行使するかどうかにかかわらず、これは現在では一般的となってきた視線の向け方だろうと思われる。ここには、現在の人の身体というものが、人になる遙か以前の太古から現在までに上陸(水棲から陸棲へ)などいくつかの大きな変位を遂げてきていること、と同時に積み重なりとして現在があるという認識がある。人の身体の内部を大きな時間を内包した微細な構造として捉えるということで、これはもはや直接性の一次的なイメージ(像)の獲得方法ではなく、間接性の二次的なイメージ(像)の獲得方法と呼ぶべきものだと思う。


 免疫細胞の進化、多様化は、生物そのものの進化と関わっています。生物が水棲から陸棲になると、T細胞やB細胞といった進化したリンパ球を育てる胸腺や骨髄という器官ができました。この胸腺ができてはじめて、生物の身体に外来抗原を集中して認識するシステムができたのではないか、と私は考えています。陸に上がったことにより、生物が出会う抗原の種類が格段に増えました。というのも、水中よりも空気中のほうが抗原になる物質があきらかに多いからです。さらに、空気中を動きまわることにより、身体を傷つける機会も、水中にいたときより、格段に多くなりました。となると、外来抗原向けのシステムを大きく発展させる必要があったのです。それで、胸腺が発達してきました。
 それから、陸棲になったことに伴う代謝エネルギーの増大も、免疫系の進化を大きく促しました。水から酸素をとる世界から、空気から酸素をとる世界に変わったことによって、とり入れる酸素の量が一気に増えました。酸素が増えたから、使えるエネルギーも増え、前よりも活発に動きまわるようになり、重力対応もできるようになり、と、ありとあらゆる生体活動のスケールが大きくなりました。
 空気中の酸素を使うようになって、動脈血の酸素濃度はだいたい五倍にはねあがりました。水には一%の酸素が溶けています。ところが、空気中は二〇%です。身の回りをとりかこむ酸素の量が二十倍になったのです。でも、血液の中までは二十倍にならず、五倍になりました。それでも、とりこむエネルギーが五倍になったことで、代謝が亢進して、その結果、運動量も飛躍的に増加しました。その結果、抗原にさらされる機会もますます増えたわけです。そこで生物は、外来抗原向けの免疫システムをうわのせして生き延びたのです。
 胸腺というのはそもそもエラから進化したものです。エラは生物が上陸して肺呼吸をしはじめると退化しましたが、全部は消えませんでした。我々の身体の中にまだエラの残骸が残っている。それが胸腺なのです。肺呼吸をするために、肺が進化して胸郭いっぱいに広がりましたが、そのとき、もともとエラだった成分が胸腺になりました。エラというのは、魚類にとっては、大量の抗原がぶつかってくる場所でしたから、そこにはリンパ球がたくさん存在していました。それが上陸したときに、肺の拡大に押される形で胸郭におちていって胸腺になりました。そして、その胸腺は、エラだったときにももっていた、外来抗原向けのシステムを引き受けています。
 これは、生物の進化の上では、ひじょうに大きな変化です。
 (『免疫革命 』P272-P274 安保 徹 2011年、単行本は、2003年に刊行)



 旧来の一次的な直接性のイメージ(像)を獲得するという方法や視線では、例えば人類の発生や生命の起源などについてもうこれ以上先へ行けないのではないかと思われたことが、科学技術の高度化(遺伝子工学や衛星からの視線やバーチャルリアリティ等々)の助けにも支えられ、二次的な間接性のイメージ(像)を獲得するという方法への変位を遂げてきた。二つの例を挙げたけれど、このような例は全社会的なものとして浸透してきているように見える。以前テレビで観たことがあるが、農業の田植え機などを衛星からの視線(電波)によって操作できるそうだ。このように現状ではまだまだ大げさに見えるものもあるだろうが、衛星からの視線は自動運転車などにも応用されていくのではないだろうか。衛星からの電波のやりとりによる制御も、間接性の二次的なイメージ(像)の獲得方法と呼べるだろう。
 近代以降、特に近年は、科学技術や社会の変貌が加速度的になってきている。イメージ(像)の獲得方法も、その加速度的な流れに合わせてこの現在の次元を上り詰め高度化していくだろう。しかし、この二次的なイメージ(像)の獲得方法を上り詰めた先の、その次の次元については現在ところはわからないと言うほかない。






151


 表現の現在―ささいに見える問題から 27
    ―『吹上奇譚 第一話ミミとこだち』(吉本ばなな 2017年10月)


 物語作品は、いくつもの小さな場面が関わり合いながらひとつの大きな流れを構成していると見なすこともできる。次のような場面がある。



 そして、これほどに頭の中が文系で、船が浮いていたり飛行機が飛ぶことさえも恐ろしいと思っているような平凡な私に、異世界の話なんてお願いだからしないでほしいと思った。
 私にとってはそれは自分に関係あるはずのものではなく、地元に伝わる民話にすぎなかったから。
 こだちが生きているということは心の底でわかってはいた。でもその体が分解されたなどと聞くと、おそろしくてたまらない。あの有名な映画
(註.1)みたいに、戻るときにうっかりハエと混じったりしたらどうしよう、ついそんなことばかり考えてしまう。
 二卵性の双子ではあるけれど、私の体のどこかが彼女とつながっているしテレパシーのようなもので通じている部分がある(今考えると、それこそが私たちがハーフである証なのかもしれない)から、もしもこだちが死んでいたら必ずわかるはずだった。
 それでもこだちが生きているということを他の人の口から(たとえそれがあんな不気味な人たちであったとしても)聞くのはやはり嬉しかった。
 占い師の彼女たちと過ごした時間の、シャープで頭のすみずみまでを使うような感覚と、そのとてつもなく冷たい、情のない感触がまだ心に残っていた。
 それは私がこだちと普通に日常を過ごし幸せだった、何か甘い綿菓子のようなものにふんわりと包まれて安心であった、なにも考えないように努めていたぼやけた時間とは全く違っていた。
 あのひんやりした感触がもし圧倒的な真実の力というものだとしたら、私は自分の人生の中ではそれを否定してきたのかもしれない。
 極端すぎ、純粋すぎて、息苦しかった。
 しかしいつかは自分も真実を生きる世界に近づいていくだろうことが、さっきのセッションのおかげではっきりと予感できた。
 顔を上げて冷静に見ると、彼女たちの言う通り確かに街は変化していたからだ。
 (『吹上奇譚 第一話ミミとこだち』 P66-P67 吉本ばなな 2017年10月)

 (註.1)
『ザ・フライ』 (The Fly) は、1986年のアメリカ映画。1958年に公開された同名の映画(邦題は『ハエ男の恐怖』)のリメイク作品。(ウィキペディア「ザ・フライ」)その「ストーリー」もここに紹介されている。



 これは、双子の妹の「こだち」が姿を消した後、姉の「ミミ」(語り手)は一風変わった占い師を訪ね、その占い師の家を出た後の場面である。その占い師から、交通事故で亡くなった父親は地球人で目下眠り続けている母親は異世界人であり、その子のこだちやミミは地球人と異世界人とのハーフであることを教えられる。そして、ハーフゆえにこだちやミミは異能を持つことになる。また、ミミの将来や失踪した妹こだちがこの一話の終わり辺りで発見されるが、その発見の場面も予言される。

 ここでまず触れてみたいのは、この場面の(註.1)に記したような映画の場面が登場することである。『ザ・フライ』 はわたしは観ている。後にもいくつか同様のものが登場する。これらをもし知らないなら、それぞれの箇所がよくわからないもやに包まれることになる。こういうことは日常での会話でも起こりうることである。触れられたり引用されたりしたことがまったく不明なら何を相手が言っているのかわからないという場合もありうるだろう。しかし、この物語作品を味わう上ではほとんど差し障りになることはないような気がする。ただ知っていたらその表現のイメージがより鮮明になるのは確かである。

 次に、『ザ・フライ』からの引用などを作者の固有の体験から来る固有の出来事やイメージの喩とみなすと、今度はよりもやに包まれたような不明のイメージや意味を放ってくるかもしれない。しかし、現在を生きるわたしたちは、現在という共通のイメージ(「マス・イメージ」)の土台の上に、あるいは現在という共通のイメージの精神的な大気を呼吸しながら、ひとりひとりが固有の色合いを放っている。そのひとりひとりの固有性は、時代のマス・イメージと接続(親和であれ異和であれねじれであれ)されているから、いくらかの作者にまつわる不明を抱くことがあっても、作品世界に入り込んで行けるのである。

 ところで、「あとがき」で作者が触れているが、この作品は今までの作品世界と違って、異世界や異世界人や異能などが登場している。初めはそのことにずいぶん異和感を持ちながら読んでいった。しかし、この作品の終わり辺りに来るとずいぶんその作品世界の風景に読者としてなじんできたと思う。それはちょうど、『スタートレック』の場合に似ている。 アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズ ―わたしにとって特に印象深いのは、ピカード艦長率いるエンタープライズ号の『新スタートレック』 ―で、様々な異星人が登場して、初めのうちは面食らったけれども、ああこれは外国人と見なせばいいのだろうと思って割と自然なものと感じるようになったことがある。

 この作品は、まだ始まったばかりで次に続いていくようである。この一巻での感じでは、それらの道具立ては、母と子は言葉によらないでも胎内生活から引き継がれた「内コミュニケーション」によって気持ちや意思を交わし合うことができると言われているが、作者と読者とがその「内コミュニケーション」が相互に取れるようなものとして、そのファンタジー世界のような道具立てが貢献しているように見える。そこでの重要な要素は〈察知〉ということだと思う。

 また、「あとがき」にも以下と同様のことを作者は記しているが、よりまとまっているこの本の帯の方の作者の言葉によると、



 この物語は、五十年かけて会得した、
読んだ人の心に命の水のように染み込んで、
魔法をもたらすような秘密の書き方をしています。
もしよかったら、このくせのある、
不器用な人たちを心の友にしてあげてください。
この人たちは私が創った人たちではなく、
あの街で今日も生きているのです。




 たぶん、物語の推移する起伏よりも、このような言葉の流れ放ちこそが、この作品の生命の主流だと思われる。木材で器を作る職人さんでも「五十年」もやっているとどうやれば思うように削れるかなどがよくわかっているだろう。言葉の表現でもそういうことができるのである。いずれに対しても、そういう地平に立って同様のことをするには同じような修練を積むほかない。ただ、それらの地平から見えたり感じたりするものを「感じ取る」ということは、自分の生きてきている時間を研ぎ澄ませば可能であると思われる。実際、その「魔法をもたらすような秘密の書き方」をしている部分をわたしはチェックしてきた。

 この物語世界の登場人物である「この人たちは私が創った人たちではなく」というのは、事実に反してはいる。たしかに作者があるモチーフの下に、登場人物たちを物語り世界に呼び寄せ、登場人物の性格含めて造形してきたのである。しかし、作者がここで語っているのはそういう当然のことではない。たぶんそれは作者によって理想化されて抽出されているはずであるが、この世界で優れてすばらしい魂を持って日々生きている人々の存在が、作者の言葉を突き動かすように訪れてきたのだということを語っているように思う。したがって、作品の言葉は、この現実の小社会に生きて在る魂に触れているのだと思う。



 間違えたターゲットを狙い続ける自動人形、それらはあの占い姉妹と同じくらい切ない存在に思えた。
 じゃあお前の存在は切なくないのか?と私は私に問う。
 私は切なくない、と私の心の奥底は答えた。
 私は愛されて育ってきたし、いつもこだちがいたし、今もここに生きていて、どんどん軽くなっていっている。まるでこの墓場に吹く風のように自由だから。
 彼らは永遠に捕らえられているからこそ、どこかしら切ないのだ。勇も切ないし、住職も切ない。彼らがまだやってきた世界の姿をとどめているから、あんなでかい図体でもいまだに自由に物事を見聞きできないなんて。
(『同上』 P172-P173 )




 ここには、「この墓場に吹く風のように自由」な言葉と、もう終わってしまった過去、旧世界に「永遠に捕らえられている」言葉とが、対比的に表現されている。しかし、それらは対立的ではなく、「この墓場に吹く風のように自由」な言葉からは、「切ない」と捉えられている。たぶん、この視線は、この作品に自らのモチーフを込めた作者の視線と同一だろうと思う。この作品の対比と同じような構図を持つ、このわたしたちの現在に、作者のモチーフは「この墓場に吹く風のように自由」な言葉の流れを生み出し、それら相互の「内コミュニケーション」を、作品世界で実現しようとしているように見える。

 最後に、この作品を読みながら、昔の少女漫画のような、どこかぎこちない、素人のような表現の流れを感じたことがある。これはたぶん、この作品が、日々のこまごまとして具体を生きる人間の基層的な心や言葉の場所や流れを対象とし、すくい上げようとしているからではないか。そのような視線や言葉は、決して饒舌でも流ちょうでもスマートでもないからだ。






152


 メモ2018.1.13―ささいに見えることから


 以下の(1)は、(2)に挙げた「伊東静雄を偲ぶ 伊東静雄研究会 」の「掲示板」の記事を読んで、確か若い伊東静雄が書いた童話「美しき朋輩達」は、残されていなかったよなと思いながら「伊東静雄 美しき朋輩達」という言葉でネット検索して偶然出会った文章である。著者はもうずいぶん前に亡くなっている。


(1)
安永武人 「戦時下の文学 その八」伊東静雄の場合 (1978.10.30)
 ( doshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/01403.pdf )


 この卒業論文の提出まえに、伊東はみじかい児童もの二篇を発表
している。そのひとつは、大阪の三越が裕仁天皇の即位式典記念の
ため児童映画の脚本を『大阪毎日新聞』をつうじて募集したのに応
じた作品「美しき朋輩達」であり、一等に当選している。一九二八
(昭和三)年十月のことである。この原作は、こんにちみることが
できないが、わずかに『キネマ旬報』の「各社近作日本映画紹介」欄
で、その梗概を知ることができる。伊東はこの脚本について『大阪
の三越』に「作者より」という一文を寄稿している。

  皆さん少年の心は、それはきれいなきれいなものなのです。けれども只
  時々悲しい過を犯しやすいのです。その過を過と知り悔と涙で決心をし、
  お祈りしたならば皆さんは神様の様に美しく、世界は天国になるであり
  ませう。

と「私の大好きな子供達」に語りかけている。煙突掃除屋の少年三
吉の怪我、その静養をめぐって、稔・雄助・英一・ゆり江などの少
年少女と巡査・友成小父さんとのあたたかい交流を描いた作品であ
ったようだ。★原作者の伊東静雄を、壁静と勝手に改名した脚色者・
水島あやめの脚本をもとにした梗概であるから★、★どこまで原作の面
影をとどめているかわからない★が、「作者より」の文章からみて、
『赤い鳥』流の児童観にもとづいて、それをそのまま反映する童心
世界が創作されていたとみてまちがいはあるまい。その一カ月後、
伊東はさらに「(童話)山科の馬場」を書いた。
   (P15-P16)



(2)「伊東静雄を偲ぶ 伊東静雄研究会 (http://www.itosizuo.sakura.ne.jp/) 」の「掲示板」より


① 追悼
  投稿者:山本 皓造 投稿日:2018年 1月11日(木)
② 映画『美しき朋輩たち』と、原作者名「壁静」のこと(再掲)
   投稿者:Morgen 投稿日:2018年 1月11日


 (1)の★ ★で囲った二カ所を読むと、安永武人は、「原作者の伊東静雄を、壁静と勝手に改名した脚色者・水島あやめ」と判断し、そんな人の要約だから「どこまで原作の面影をとどめているかわからない」、つまりあまり信用できないと記している。また、(2)の②では、『詩人、その生涯と運命 書簡と作品から見た伊東静雄』や『詩人 伊東静雄』(新潮選書)など、伊東静雄研究で有名な小高根二郎についても「これを「ひどい改変」「大変な冒涜」と叱咤したものです。」と書き留められている。

 しかし、(2)の掲示板の記事を読むと、まだ伊東静雄の童話を映画にしたスタッフに直接つながる人の証言を紹介している。
 他所のホームページの掲示板の記事だから、本文そっくりの引用は控えるけれど、(2)の②によると、童話の「「募集規定」の中に「原稿はすべて匿名とし別に住所氏名を記して添付し云々」とあるのに、いまさらのように気づき、「美しき~」の原作に伊東氏は「壁静」という匿名を使われたのではないか、きっと、そうにちがいないと思ったことでした。」とある。また、童話の題名については、「伊東氏の原作の題名は「美しい朋輩達」でしたが、映画の題名は「美しき朋輩たち」としたものと思われます。」と推定している。


 こんなささいなことは、どうでもいじゃないかと一般には思われるかもしれないが、ここには重要な問題が潜んでいる。本人にとっては根拠のないささいなことを寄せ集めて、人は他人から批判されることがある。人と人との対人関係でも、個と集団や集団間でもよくあることだ。あるいはデマを流されることがある。

 この場合、作為的、意図的な場合もあるが、ここで取り上げたのはそれとは違う場合である。一般にAということとBということの間には、無数の事実の連鎖や切断や飛躍が横たわっているはずなのに、(1)の安永武人や小高根二郎の場合は、A→Bと直通させている。想像ではなく事実関係についての場合は、細心の注意や留保が払われるべきなのに思い込みやノー天気な判断をしているように見える。(2)の掲示板の記事が正しいとはわたしは断定しないけれど、できるだけ当時の真相に迫ろうという意志が感じられる。

 これで思い出したことがある。埴谷雄高が、吉本(隆明)さんの家の照明、シャンデリアを問題にしたり、吉本さんがモデルとしてだったかコム・デ・ギャルソンの服を着たことを問題にしたことである。どんなささいなことでも、人が独特の縫い合わせ方をしたり味付けをすれば、それらしいイメージをまとって浮上してくるものがある。現在は、もはや「恋と革命の時代」ではないとしても、個と個との対人関係でも、個と集団や、集団間でも、依然として対立や作為や陰謀などと無縁ではない。それらは、わたしたちの日常生活の中にも潜在している。

 もうひとつついでに書き留めておく。『〈民主〉と〈愛国〉』の小熊英二が、吉本(隆明)さんは「徴兵逃れ」の意識があったのではないかと書いているとか、浅田彰・柄谷行人はその対談で吉本さんの「徴兵逃れ」を匂わせる発言をしているなど、以前、ネットでだったかわたしも目にしたことがある。このことを、まだ読み始めていない『最後の吉本隆明』(「徴兵忌避という言いがかり」P48-P55 勢古浩爾)が取り上げている。

 勢古浩爾は、吉本さんと父親とのやりとりや吉本さんの言葉を細かにたどって、吉本さんがひとたびは徴兵に応じようとしたのではないかと推定している。(P52-P53)

 また、『続・最後の場所』(No5 2018年1月 菅原則生 発行) に宿沢あぐり「増補改訂『吉本政枝 拾遺歌集』その二(全二回)」が掲載されている。宿沢あぐりさんは、詳細を究めた「吉本隆明年譜」を『吉本隆明資料集』(猫々堂)に連載されているが、歌詠みだった吉本さんの姉の歌をよくがんばって収集されているなと感心しつつも、(しかしそれは吉本隆明という存在の本質とはあまり関わらないよな)と内心で思っていた。しかし、次のような姉・吉本政枝の歌が載せられている。


 一にも兵二にも兵なり吾が道は兵の外にはなしといふ汝
 さとします父に詫びつつい征かむと勢へる心遂げしめ給へ
 (引用者註.「隆明に」という詞書きがある4首より)
  ※これらは、当時の吉本の心情を、姉の政枝がどのように受けとめていたか、はじめて知るものだ。
  これらの作品が生まれた当時の情況について、吉本は後年つぎのように回想している。
 (『続・最後の場所』P51)



 として、宿沢あぐりさんは、次に『私の「戦争論」』(吉本隆明・田近伸和)から、インタビューに答える吉本さんの言葉(註.これは、先の勢古浩爾の引用したものとほぼ同じ箇所)を引用している。一九四四年(昭和一九年)米沢高等工業学校卒業時のことである。吉本さんは「『やっぱり兵隊になったほうがいいんじゃないか』と半分は思って、親父に相談をした」と語っている。二種目の歌からすると、姉も吉本さんと父親との話の場に同席していたのかもしれない。同席していないとしても、よく吉本さんの内なる悩みに通じていたことになる。姉の政枝さんの療養所生活の時期や自宅への帰省などの事情が分からないから、こう推定するほかない。ちなみに、吉本さんの『初期ノート』のはじめに「姉の死など」という文章が収められている。姉の政枝さんは、1948年(昭和23年)に亡くなられている。(註.1)

 最後に、目下、晶文社から『吉本隆明全集』が新たに出ている。その「37巻 書簡Ⅰ」は、川上春雄氏宛ての吉本さんの全書簡と、川上春雄氏のメモや川上春雄氏の吉本さんやその家族や知り合いなどへのインタビューなども含まれていて、とても興味深い一巻である。宿沢あぐりさんは、そこから川上春雄氏聞き書きの「吉本順太郞・エミ夫妻インタビュー」を引用している。これは前のインタビューの吉本さんの「親父に相談をした」という発言に対応するものである。これによると、吉本さんの父親の順太郞氏としては、戦死した吉本さんの兄・権平のことを考え、息子二人も戦死させたくないという内心の強い意思を持っていたことが語られている。そして、それといろんな事情が合わさって吉本さんが大学に行くということになったと語られている。

 以上から判断して、姉の歌や吉本さんの証言からすると一九四四年(昭和一九年)米沢高等工業学校卒業の時点で、吉本さんは徴兵に応じて戦争に兵士として加わろうと半ばは思っていたことになる。それが、父親との話で兵士はそんなに勇ましいばかりではないとか兵士や戦争の現実を聞かされたり、また「米沢の学校からも大学へやってくれって言ってきた」(父親の順太郞氏の言葉)ことも合わさって、吉本さんは大学の方に行くことになったのだと考えられる。

 上の伊東静雄の場合と同様に、その人を、そのことを、できだけありのままに近い形で捉えようとするためには、一見ささいなことも重要な手がかりとなり得るのだということをこれらの例は示しているはずである。そして、こうしたことは、知識や思想の世界に限らず、人と人とが関わり合う日常の生活世界についても大切なことだと思う。

 なぜなら、世の中には、知識や思想の世界に限らず、生活世界でも、小熊英二や浅田彰・柄谷行人などのように、軽い思いつきや歪んだ自分を鏡とする適当な判断で他人を判断することがあるからである。当人たちは、それが作為的でないとして、そのことが相手にとってどれほど大きなことになるのか想像もできないのだろう。そういう意味で、やはりこのような一見ささいに見える問題の掘り起こしは貴重なものであると、わたしは再認識をかみしめている。思い巡らせれば、この世の中には派手な表の世界にほとんど顔が出なくともたくさんの裏方たちがそれを支えていることがある。同様に、伊東静雄や吉本隆明という存在を粉飾することなくできるだけありのままの姿で浮かび上がらせることに、このような一見ささいに見えるもの(それもまたひとつの表現である)たちが、確かに貢献しているはずである。


(註.1)
この文章を公表後に気づいたこと。(2018.1.20)

 『吉本隆明全集1』(晶文社 2016年6月)の巻末「解題」(P557)によると、吉本政枝略年譜が載せてある。それによると、「昭和十四年十一月に胸部疾患を知る同年東京都南多摩郡多摩村厚生荘療養所に療養生活入る、爾後昭和廿三年一月十三日死去の日まで同所に休息の日々を送る」「享年廿七歳」とある。これによると亡くなるまで吉本さんの姉は療養所生活だから、吉本さん含めた家族がその療養所に姉を見舞いに訪れて、吉本さんのその話題が姉の耳に入ったものと考えられる。しかし、それがどこに書いてあるかは覚えていないが、吉本さんの姉に関する言葉によると、姉は自宅に時々帰省していたということだった。父親が他の子どもたちに病気が移るかもしれないという心配をしているようで、父は帰省する姉をあんまり歓迎していないようだと語られていたとわたしは記憶している。
 不明なことが、少し分かったけれど、事実の具体性にかかっているもやが吹き払らわれて事実が明らかになったわけではない。ただ、残された歌によれば姉の政枝さんが、吉本さんの進路に関する悩みを知っていたということだけは確かなことである。







153


 覚書2018.1.22


わたしたちは誰もが自然状態としては、現在のしかも小さな自分の周辺という重力下にあり、政治や遠い他人や他国の人々を切実に思うことはない。しかし、重力を突き破るようにテレビやマスコミを通して流れてくるものに、愛憎の心を響かせることはある。そして、吉本さんが述べたように、人はこのような自然状態からなんらかの逸脱するような傾向を持っている。スポーツや文学や知識の世界などに熱中して入り込み深みにはまっていくように。

その中には、その自然状態の重力を振り切って無意識のように日々の生活を送りながらも、相変わらず「右や左」などと虚妄のイデオロギー(集団思想)の重力下に迷い込んで抜け出せない人々もいる。ちょうど学者や評論家などが知識という世界に行きっぱなしでその世界の抽象性の言葉に溺れてしまうように。ほんとうは、これらは故郷でのイエスの言葉のように具体性を伴う生活世界とは異質なのだ。家族の中で、急に彼らがその言葉を語り出すところを想像すれば、その異質さは実感できるだろう。

一般に、社会の表面に漂うのは、政権などのソフトな扇動含めて、なんとか人々を突き動かそうという啓蒙性と作為性を持ったイデオロギーにイカレタ人々や評論家など、人の自然状態(生活世界)を抜け出てしまった人々の「大きい声」「大文字の言葉」である。そのような地平からすれば、立ち上がってこない、声をあげない、ように見える生活世界の内部にとどまる生活者は、自らの焦りの根幹であり、否定的な存在に見えてくるだろう。このことは、権力網を維持し強化しようとする側にもそういう社会支配の構造を打ち破ろうとする側にも、同様に見えていることだと思われる。

長らく続いてきて現在もなお残っている、旧来の貴人の存在や王朝や政権の推移が歴史であるというような歴史の叙述に対して、柳田国男が大多数の生活者(常民)の生活史や精神史を発掘し叙述しようとした。知識層のそんな叙述だけではなく、語り物に描かれるような貴人の活躍や運命に喝采する民衆もほんとはそんな歴史叙述の枠内に絡め取られていると見ることができる。柳田は書き留めていないように見えるが、このとき柳田国男はとても孤独であったような気がする。そしてまた、わたしたちの政治の現在もまた、同様に旧来的な政治の推移の歴史を続けている。

明治生まれの柳田国男は、若い頃農商務省や法制局の官僚だったが、兼任として宮内書記官も勤めていた。そういうつながりもあったのだろう、この列島の民衆の精神史の発掘者としては天皇制を遙かに突き抜けるものを持っていたが、天皇に対する敬愛の念を持っていた。

柳田は、保守思想家に数えられるかもしれないが、「保守」という固定したイデオロギーに収まるような人ではない。何がこの歴史を駆動し、歴史の主流を支えているかということに対する明確なイメージを持っていたように思われる。だからこそ、常民の精神史を深々と発掘してきたのだ。

また、かれがその書物の中で時折見せる、名もない普通の人々が幸せな様子をしていることを思い浮かべるイメージは、柳田国男の思想の中心の生命が息づいている場所をはっきりと示している。
 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






154


 覚書2018.1.23―イメージの同一化問題

=====================================================================================
「イメージの同一化問題」を、わかりやすく具体性を伴って言ってみる。
たとえば、他人が通常より輝いて見える、という時に「他人の通常」と
「輝いて見える今」をイメージで結びつけてしまうこと。これがもっと
極端になると、物語の舞台ですばらしかった俳優Aが、舞台を降りた
普通人A'になってもAのイメージで普通人A'を見てしまうこと。
=====================================================================================



 わたしには、はっきりとつかめないためにいろいろ考え続けていることがある。次のこともそのひとつである。一言で言えば、イメージの同一化問題である。村に回ってきた語りの者が一人称で語る小野小町の物語から、村人たちは語る者と小野小町を同一化したという柳田国男が書き留めた問題でもある。これを江戸期と見ても、背景には現在と全く異なる閉鎖的な地域社会とその文化状況がある。すなわち、地主層などは別にして村人たちは一般に中央の知識層の歌や知識上層のエピソードについてよく知らなかったという事情があったと思われる。

 このイメージの同一化問題というのは、太古の神々やその後の歴史時代の貴人たち、そして現在の有名人と呼ばれる人々に対することで、現在にまで形を変えつつ連綿と続いてきている問題だという認識がわたしにはある。

 「精霊の守人」が今週で最終回。本は以前読んでいたので、だいたい話はわかっている。昔テレビで物語の映像作品を作る途中の場面、舞台裏を少し見たことがある。俳優を吊って飛んでいるように見せたりもする。作品の観客としては、それは白ける体験である。しかし、アニメとかではない限り生身の俳優たちはそのような舞台裏を通してしか作品世界に登場することはない。

例えば、巫女さんが巫女的な身体に変身し巫女的な幻想との接続状態(トランス状態、変性意識状態)になる内的な過程についてはわたしはよくわからない。舞台裏を見るわたしたちの白ける状態の視線や感覚とは違って、俳優さんたちもいくらか巫女的なトランス状態を持たざるを得ないのではなかろうか。

 このことは、それらのトランス状態がずいぶん薄められた形であるが、さらに普遍化すれば誰もが日常で経験していることである。学校や職場などで、みんなの前で挨拶したり、説明したりすることも、その例に当たる。そういった場に立つとき、当事者は「表現的な自己」に変身している。これを逆に言うと、そういう場に立ったり立って何か話さなければならないことに一般に誰もが緊張するが、その中でも極度に緊張し恐れのような感情を持つ者もいる。このことが意味することは、ここで人は「ある幻の舞台」に立ち「表現的な自己」に変身しているということである。これをなんどもくり返していけば、普通人も芸能人もだんだん場慣れしていく。けれども、何度くり返しても離れできずに緊張する人もいる。そういう人は、ふだんの自分から見て「ある幻の舞台」に立ち「表現的な自己」に変身していくことに、恐れや異和感を持っているということは言えるだろう。自分の普通の世界とは異質すぎるのだ。

 俳優さんたちは部分的にも物語世界の要求する「表現的な自己」あるいは「表現的な身体」になりきらないと物語的な真に迫ったり、物語的な真を支えたりすることができないだろう。主人公の短槍使いの用心棒バルサ(綾瀬はるか)、その槍の師で父親代わりでもあったジグロ(吉川晃司)。わたしはいずれもカッコいいなと思う。

 しかし、寡黙なジグロは俳優の吉川晃司そのものではない。もちろん、吉川晃司の固有の個性のようなものはジグロに付加されてくることは確かだろうが、本質として、バルサ≠綾瀬はるかであり、ジグロ≠吉川晃司である。

 遠い昔から今もなお、バルサ≒綾瀬はるか、ジグロ≒吉川晃司という意識をわたしたちは持っている。例えば、韓流ドラマのロケ地を訪れたり、その登場人物役の俳優にワーワーキャーキャー言ったり、関連グッズを買ったりするのは、そういう意識に支えられていると思う。わたしは、俳優を見てその俳優が演じた物語のイメージがくっついてくることがあるとしても、物語作品と俳優は分離する。

 わたしは、そういう役をやり遂げたという俳優としての評価は別にする。しかし、そういう俳優≒物語世界という同一化の意識が、その俳優のコマーシャル出演した時の宣伝効果やグッズの販売やロケ地観光などのいろんな産業に貢献して、現代社会を経済活動やイメージ力として支えているように思う。それは、俳優やスポーツ選手や歌手などあらゆる「有名人」と呼ばれるものに当てはまる。

 このような遙か太古からの「イメージの同一化問題」をわたしは否定的にのみ考えているわけではない。もちろん、その現在的な有り様に異和感もある。しかし、これは人間の本性と深くつながっている問題であり、そう簡単に解きほぐせるような問題とは思わない。つまり、とっても根深い問題だと思っている。

 最後に、子どもっぽい素朴な疑問に見えるかもしれない時折浮かんでくる疑問がある。物語や映像作品に限らず、美術や音楽やダンスや・・・、つまり芸術は、言葉や映像や色形や音などの物理的なものを素材としつつも、また、たんなる人が作る「作り物」に過ぎないのに、それを味わうわたしたちはなぜ真に迫った感じを受けたり、身を震わせたり、感動したりするのだろうか。

 もちろん、理屈はなんとなくわかる。人類は、とても果てしない旅の中で、見慣れた現実の風景や人間以外に、言葉やイメージ力を獲得し、徐々にそれを練り上げて想像世界を築くようになってしまったからであろう。ここでのわたしの素朴な疑問は、吉本さんが『老いの超え方』(2006年)の「あとがき」で記した、ゲーテのあの問いと同質のものではないかと思い浮かべている。

 註.数学記号。

 「≠」、等しくない。
 「≒」、ほぼ等しい。

 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






155


 主流論・続 (2018.1.28)



 主流ということには、人間の心の層のように、大きく分けて表層と深層ということが考えられると思う。国家形成の太古より現在においてなお、政治支配上層や知識上層は、半ば以上は調子に乗って自分たちこそが歴史の舞台の中心を占め社会や歴史を動かしてきた、動かしているつもりかもしれない。しかし、歴史の主流の動因は、柳田国男が発掘して見せたこの列島民の精神の古層や精神史である。表層の具体的な現象としては、貴族から武家が権力を奪取したとか、明治維新が幕藩体制を終わらせたとか見えるのだろうし、それらのことが社会構成に影響したり社会内に降り注ぐことはあるとしても、歴史の主流の動因は、吉本さんが述べた「歴史の無意識」とも言いかえられる、大多数の人々の理想のあり方を追い求める集合的な意思だと言えると思う。しかし、その真の主流を支える大多数の人々は、政治性としてはほぼ無権力だったゆえに、表層の政治権力を握った層による仮の主流を許し、なかなか簡単には表面化しては来なかった。

例えば、今までの自民党が、カフカの巨大な毒虫みたいに変身して、復古的なイデオロギー政権や政治、あるいはグローバル経済の名の下の大衆収奪経済、これらが現在の主流を占めているように見えるのは確かである。政治権力や経済権力を掌握している層は、わたしたち生活者住民がなんとなく放任している限りは、このように主流を制御したり、主流として居座ることができる。しかし、大多数の生活者住民の理想を求める集合的な意思、あるいは植物が光を追い求めるような人類の「歴史の無意識」、これらから照らし出せば、現在の政治・経済の主流はあぶくのような仮象に過ぎないと見える。つまり、大多数の生活者の沈黙をすくい取ろうとしない、あるいはすくい取れない集団や政治は、真の主流とはなり得ないということは確かである。

 江戸時代の農民のやむにやまれぬ生活防衛の手段として百姓一揆があった。この政治性の発露は地域的なものであった。つまり、藩ではなく幕府を揺さぶるような力は持てなかった。わたしたちは家計消費がGNPの過半を占める社会に生きている。農業中心からそれに伴う自給性を払底した第三次産業中心へと移行してきた消費資本主義という産業社会がそういう有り様をもたらした。つまり、わたしたちは江戸期の民衆と比べて、政権を打つ倒すことのできる権力(経済的な権力)を知らない間に手にしているのである。しかし、まだまだそれを自己権力として行使する生活思想の政治性を持ち得ていない。敗戦後しばらくしての文学者の戦争責任問題の追究から吉本さんが引き出したのは、大衆的な契機を持つことと社会総体のイメージ(像)を獲得することだったと記憶する。そして、一方の知識世界に関わらない大衆としての課題としては、自立的な生活思想の確立があったと思う。

 戦争や死をまといつかせながらも敗戦後の社会を生きていく人々の内面は、戦争の痛手や身近な者たちの死の匂いに満ちていただろう。その無意識的な意思は、戦争なんてもうこりごりだ、もう自分や家族のことを中心にして生きていくというもの、いわゆる「私的利害の優先」であったろう。一方で、上層にいて戦争を遂行した勢力も生き延びた者たちがいた。現在から見渡せば、それらの負の遺伝子を受け継いだ層が、あたかも自分たちが主流であるかのように政権に居座り、社会に様々なくさびを打ち、社会を荒れ果てさせている。

 西欧では、一般に公と私をはっきりと峻別するという。仕事の居残りは管理職なら当たり前で、自分は定時に帰るという。こうした公私の明確な区別の意識は、この列島社会では稀薄である。もちろん、西欧もわが国もいろいろあげつらっていけば、プラスマイナスあるのだろうが、わが列島社会でもっとも切実なことは、公私をはっきり区別しもっと自己主張をということである。公私の区別と私の主張が、敗戦期の内省地点からまだまだ十分に進んでいないように見えるのである。

 現在の「ネトウヨ」現象を見るに、わたしなら自分の生活に直接にも間接にも関わってこない「国家」や「外国」や「外交」にわが事のように反応しお祭り騒ぎをする者たちの気が知れない。病的であると思う。わたしたちは、それらの中にアジア的な段階―あるいはそれ以前のアフリカ的な段階も含むのかもしれない―の負性である、個と家族と国家が直通する意識が依然として生きていることを確認するのである。たぶん「ネトウヨ」は、ネットやSNSに支えられながら自分の日々の生活の具体性と国家やイデオロギーなどの抽象性の間をオタク趣味のように無自覚にシームレスに生きているのだろうと思われる。

 この社会内部の各小社会や社会や歴史、それらの主流をほんとうに突き動かすのは、大多数の人々の理想のあり方を追い求める集合的な意思(「歴史の無意識」)である。とするならば、敗戦後70年にもなるけれど、相変わらずわたしたちは自立的な生活思想を形作り続ける課題を負っている。それはこの社会の具体的な現場で、ひとりひとりが公私の峻別や個の優位を実践していくという困難な課題である。



 ※前回の「主流論」は、2017年07月24日に公表しています。
    (007)142 主流論 2017年07月24日

 ※「歴史の無意識」に関しては、以下に触れています。
  「参考資料・「歴史の無意識」ということ 付.わたしの註」(批評)2016/07/11
     ―この現実世界の主流とその動きをつかむために
    (006)95 参考資料・「歴史の無意識」ということ 付.わたしの註  2016年07月11日






156


 「ネトウヨ」考(1)



 「ネトウヨ」は、「ネット右翼」の略だろうが、ネトウヨには軽蔑的な意味合いも込められている。一方、ネトウヨは、自分に反対するものは何でもかんでも左翼(「パヨク」)と呼ぶ。また、全部が全部とは言わないが、ネトウヨの大将を初めとしてよく嘘をつく、事実をねつ造する。生活世界では普通を装って暮らしているのかもしれないが、このような者たちの登場はわたしの想像外にあった。

 わたしも軽蔑を込めたものとして使っている。なぜそうなのかははっきりしている。わたしは生存感覚として、自己を放棄して何か大きなものにすがりついたり、その虎の威を借りて自分を強く見せようとすることが大嫌いだからである。これを理屈づけして言えば、現実の具体性を持った日々生活している他者(翻って自己)を虚構のイデオロギーやイメージで裁断する。憎悪をまき散らす。そのような存在を許すことはできない。

 このような存在が、清濁併せ持つ生身の具体的なひとりとひとりの人間存在を、他者を、ということは翻って自分を、大切にできるはずがない。こうした人々が学校のクラスの話し合いや町内の話し合いでそのままで話が通じる相手にはなれないのは明らかである。普通の話し合いでは仕方ないなとか思いつつもだいたい八割程度の人々が受け入れるような結論に落ち着く。しかし、「ネトウヨ」がそのままの形で話し合いに入ったら、話し合いそのものが成り立たないと思える。「ネトウヨ」というこの新しい事態について少し考えてみたい。

 まず、わたしは「左翼」も「右翼」もソ連崩壊後は死んで亡霊になっていると思うから認めない。もちろん、現実性を持たない思い込みの亡霊としては認めよう。なぜこういうことを断るかと言えば、相変わらず「左翼」や「右翼」という対立に持ち込むことによってこの社会に湧いてくる問題の本質が隠されてしまうからである。だから、わたしはいくらか問題性を含むかもしれないとしても、つまり、そういう立場が矛盾を呼び込むかもしれないとしても、徹底して生活世界の中にこだわるし、その外の他国との外交や「安全保障」などにはほとんど興味・関心はない。すなわち、外国に住むわたしたちと同様の地域住民の生活ぶりやその風俗習慣などには強い関心を持っているが、わたしたちの日々の生活に直接関わってこない、国家組織としての外国などにはほとんど関心がない。それはもう、ほんとうにそうとしか言えない。ただ自分より遠いところにあるというだけで、それに対して知的な興味や関心を持つということがわたしにはほんとうにないのである。

 他国との付き合いは、担当機関や政府ができるだけ平等に、互恵的に、うまくやろうと努力すればいいさぐらいで、わたし自身はあまり考えないことにしている。あるいは、「左翼」も「右翼」も存在として認めたとしても、わたしたちが生活世界に降り注ぐ諸問題を生活者としての視点から考える場合には、「左翼」も「右翼」も「知識人」も、さらには課長も社長も、あらゆる立場や肩書きのその上着を脱いで、ただの生活者として登場しなくてはならないと思う。これは、どれほど現実的な有効性があるかはわからないけれど、また、建前としては受け入れられやすいかもしれないけれど、無用なイデオロギーなども絡む対立や閉鎖性を避けるためのわたしなりの現在的な処方箋である。

 問題の本質とは、わたしたちが、この社会に個として、家族として、あるいは共同のつながりとして日々生活している中で、それらの生活を阻害(そがい)するように問題化してくることにある。そして、それらの諸問題は、各地域の行政や中央の政治・行政が、きちんと対応できているならわたしたち生活者住民としては文句はない。平穏な日々の生活こそが一番なのだ。したがって、イデオロギー(集団思想)を身にまとわずとも、この社会内に日々生きて問題も感じている自分の頭で考えれば良いことである。しかも、イデオロギー(集団思想)を身にまとえば、社会の具体性を超えたものを呼び込むことになる。現在のところイデオロギー(集団思想)は、誰もがそう考えるほかないというひとつの普遍思想(宮沢賢治のイメージした「ほんたうのこと」)ではなく、いずれも局所把握的であり、それぞれが対立的な形でしか存在できない。

 イデオロギーの良し悪しは別にして大まかに捉えれば、現在の社会の動向から退行しようとするか、社会の動向を前に推し進めようとするか、このふたつの傾向性がある。しかも、いずれも普遍性を装っても局所的、局所利害的(一部の層の利害追究)であるほかない。そして、イデオロギーというモビルスーツを身にまとうと、人は生活世界を抜け出してしまう。感情も硬直する。血は流れていてもいわば亡霊のような抽象的な存在になってしまう。日常の生活感覚や内省を遮断してしまう。新たに登場したネット社会を背景に、そのように振る舞う存在がいる。わたしは、このような存在を指して、「ネトウヨ」と定義する。「ネトウヨ」は「ネット右翼」の略称と見なされているが、もっと拡張された存在として捉えることができると思う。すなわち、生活の具体性を拭い去り抽象化された匿名的な存在として振る舞う、ネット社会を背景とした存在である。このような抽象的な存在は、国家とかイデオロギーともオタク趣味の延長のようにして容易に結びつく。たぶん、自己の万能感とまでは言わないが、卑小な日々の自己の拡大・拡張感を感じていることは確かであろうと思う。

 そうしてわたしは、そのような「ネトウヨ」は、「ネット右翼」だけに限らず、この新たなネット社会がわたしたちにもたらした利便性や世界の拡張の裏に張り付いた問題性として、誰もが「ネトウヨ」性を免れられないと感じている。






157


 「ネトウヨ」考 (2)



 もう一度、おさらいするようにたどり直してみる。まず、「ネトウヨ」を前回拡張して「ネット保守」以外にも適用してみた。この拡張版の「ネトウヨ」は、ネット社会やSNSがもたらした負性ということは確かなことである。つまり、従来なら自分の内心でぶつぶつつぶやくかあるいは知り合いに話すかしかなかったような、人の内面や社会の片隅にしか存在し得なかったようなものが、ネット社会やSNSによって仮想空間に引き出されてしまった。ということは、従来の親しい知り合いや小社会で話す場合なら何らかの抑制や倫理が発動するはずのものが、バーチャル空間の匿名性も加わったため自分の内心にある毒を含むような言葉をつぶやく歯止めの解除キーが容易に解除されるようになり、ネット社会やSNSによって連結された仮想空間に放出されてしまう可能性を持ってしまった。しかし、ネット空間でも生活世界での普通の対人関係のように、何らかの抑制や倫理を発動している人々もあれば、虚偽やねつ造や罵詈雑言を放ち、毒ある言葉に憑かれている人々もいる。しかし、可能性としては、対象に対する仮想的な近距離感と匿名性の下に、従来であれば個々の内心に閉じ込めていたようなことを、誰もがやすやすと放出できる可能性を手にしたことになる。

 こうした事態は、拡張版の「ネトウヨ」、すなわち、わたしたちすべてに関して到来している新しい事態である。ほんとうは、「ネトウヨ」=「ネット保守」に限定して、別の新たな概念を当てた方がいいと思うが、ここでは「ネトウヨ」的な状況が「ネトウヨ」に限定されるものではなく、わたしたちすべてがそのような可能性を持っているということで、ここでは拡張版「ネトウヨ」として論じることにする。

 わたしはケイタイやスマホを持たないのでその使用の内面をよく知らないのだけれど、人々がケイタイやスマホの利用に慣れ親しんで、マナー含めたその利用の仕方のある形をそれぞれが築き上げてきたように、ネット社会やSNSによって仮想空間(仮想社会)に結びつけられたわたしたちは、その仮想社会での仮想的な生活行動をしていく中でのある倫理のようなものをそれぞれが築き上げていかなくてはならないだろうと思う。つまり、わたしたちはネットという仮想空間に仮想的に参入しているわけであるが、その本体は生身の人間であるのだという自覚過程をたどらなくてはならない。今はまだ、残念ながらその過渡期、途上にある。そして、従来からの生活世界での人間関係における配慮や倫理などの持ち込みが一般的なのだろうと思う。しかし、その一般的な感覚は、それを無視する「ネトウヨ」的なものの氾濫にある戸惑いを感じているように思う。わたしたちは、従来からの一般的な配慮や倫理の感覚から「ネトウヨ」的なものの氾濫を潜り抜けて、現在という新たな事態に即応する、より新たになった形の配慮や倫理の形成を促されているのだろうと思われる。






158


 「ネトウヨ」考 (3)


 現在のわたしは、社会の風俗や流行や諸現象について疎いから、この「ネトウヨ」考 (3)で今から行うような分析や考察にはほんとうはわたしは不向きかもしれない。しかし、現在の「ネトウヨ」現象が主にバーチャル世界であるとしても或る負性としての社会的な場所を占めていて、わたしたちもそれとは無縁ではあり得ないという一般性も持っているから、わたしとしても「ネトウヨ」についても触手をのばさざるを得ない。

 どんな局所にも〈現在〉は同質なものとして現象するはずだという確信をよりどころにして、主にツイッターという狭い世界での体験をもとにして考察してみる。ツイッターというSNSで観察していると、避けようもなく「ネトウヨ」にも遭遇する。わたしはやりとりしたことはないけれど、「ネトウヨ」の中にもいくつかの層があるようだ。ツイッターなどのSNS世界に入り込んでいる者は、たぶん、以下のような層分類について、それぞれいろんな具体例を思い浮かべることができると思う。なぜなら、わたしは具体例を想起しながら層として分類抽出しているからである。しかし、大ざっぱな分類ではある。(ちなみに、後で何かの「資料」になるかもと、ツイッターで遭遇した「ネトウヨ」をInternet Explorerの「お気に入り」に「ツイッター3資料」の項目で採集している。目下240件閉じ込めている。)


1.従来からの「極右」と呼ばれていたような層。古くさい復古思想を古くさく崇拝している。これは若い世代ではないだろう。

2.盲目的なオタク趣味に熱中するように「ネトウヨの大将」を崇拝する「ネトウヨ」信者。古くさい復古思想と言うよりも、少し垢抜けて現在の軽めのオタク趣味の感覚を持っている。

3.「学者」「経済人」や「文化人」などと呼ばれる層。これは亜ネトウヨとも呼ばれるべき層。つまり、知的・論理的な装いを持っている。古くさい復古思想はほとんど見かけない。ただ、どのような経済的・精神的利害関係があるのかは知らないが、この層も政権擁護が著しい。


 いずれにしても、これらの全部の層について一般的に言えることは、いわゆる日常世界の常識が通用しないこと、生活世界での普通の会話が成り立たないことである。ネトウヨの大将と同じく平気で嘘をつく。事実の改竄もねつ造も平気でやる。彼らの言葉を目にすると昔テレビでオーム真理教の信者たちを目にしたときのような、奇妙な夢幻感にわたし(たち)は包まれる。この三つの大ざっぱな層分類の中で、わたしのイメージに過ぎないが2.の層が大きな割合を占めているような気がする。また、この1.から3.の「ネトウヨ」に批判的な「保守右翼」思想にも二三出会ったことがある。これは旧来的な常識としての節度を持ったものだろう。しかし、現在のSNSの仮想世界で主流を占めている「保守右翼」は「ネトウヨ」である。

 かれらにもわたしたちと同様の生活世界があるはずだから、普通の生活の場面では憑きものが落ちた状態で生活したり、あるいは憑かれている状態をセーブしているのかもしれない。例えば、職場や近所付き合いや町内会などで、排外主義的な言葉を吐いたり、アベそうりはすばらしいです、とか言えば、場違いであるということは当人たちにもわかるはずだろうと思われるからだ。

 時代の大きな過渡期には、個としても集団としても、現在を過去の方に押し戻そうとする心性と未来の方に突き進めようとする心性との、対立的な状況が起こる。その小規模なものとして、新しい器具や道具の登場、例えばケイタイ(スマホ)の登場と利用が始まった時期のケイタイ初期の人々の反応がある。おそらく時代の流行や先端にいる若者を中心として進んでケイタイを受け入れ利用するのに対して、老年世代などはケイタイの使用に抵抗を示したのではなかろうか。ケイタイ(スマホ)がずいぶん普及して、こりゃあいいということが実感されてそれらの初期の対立は解消された状況になっているのだと思う。こうしたことは、今までに何度もくり返され、今後もくり返されていくものだと思う。こうした過程で、時代や流行に反発して退行する心性は、それらから疎外されたり取り残されていると感じるだろうから、被害性と攻撃性とを帯びやすい。

 ところで、現在の日本会議等-安倍政権-ネトウヨ応援団というような組織性は、この戦後に限っては未だかつてなかった政治の組織性である。さらに、これらは組織的に現政権や安倍晋三よいしょや誇大宣伝活動や作為的な虚偽のばらまきなどにも力を入れているように見える。またややこしいことに、現在の欧米中心のグローバリズム、新自由主義を受け入れつつ、退行的、復古的なイデオロギーにイカレている。ちょうど、戦前と同様にグローバル資本主義の現在と超復古主義のイデオロギーとが、まるで現在を享受しつつオタク趣味にふける心性のように、矛盾なく二重化している。

 国会議員や地方議員、芸能人や宗教界などあらゆる分野にはびこっている日本会議等の威力のほどは知らないけれど、それらの復古的な思想やイデオロギーの影響下に現在の安倍政権とその取り巻きの「ネトウヨ」が存在する。この集団的なイデオロギー反応は、先に述べた時代の過渡期への二つの反応のひとつである。しかも、時代の変動を過去の方に押し戻そうとする復古イデオロギーである。わかりやすい例えを使えば、全自動洗濯機や自動運転の車があるとして、洗濯板や荷車を使うように言ったり強制しようとする考え方である。しかも、自分たちだけは現在の文明のそのような恩恵をちゃっかり享受しながら、わたしたち普通の生活者には主に観念としての洗濯板や荷車を強制するものである。

 ずいぶんと欧米化が進んで、社会の隅々やひとりひとりの意識にまでその欧米化の影響は、浸透してきている。しかし、おそらくその欧米化は私たちの意識の深層にまでは十分に到達していないのではないかと思う。このような時代の内面に対する危機感から、後ろ向きに押し止めようとする心性を組織したものが、日本会議等の復古的な思想やイデオロギーである。それは、現在のグローバル資本主義には無批判でも、進行している社会的な心性(マス・イメージ)の変貌に対する、心の奥底のわけのわからなさから来る恐怖感や危機感を集団的に表出しているものである。したがって、それが現実的にもはやあり得ない空想的なものであろうとも、現在の国家・社会をかれらのふるほけたイメージで改革・改造し自らの不安や危機感をなだめようとしている。

 普通の生活者の視線や感受では、「ネトウヨ」は異様に見える。しかし、生活世界では普通の人でも宗教やイデオロギーにとり憑かれると(もちろん、本人たちは取り憑かれているなどとは微塵も思っていないわけだが)、誰でも「ネトウヨ」になれる。この宗教やイデオロギーの威力は、現在でも依然として強力であり、外部から語りかけても、あるいは生活世界の言葉を投げかけても、一般に交通は成り立たない。彼らから憑きものが落ちるのを待つほかにない。

 現在、あらゆる分野で問われているのは、わたしたち生活者としての言葉であり、口先だけや単なる枕詞ではなくわたしたち生活者を第一とする政党、政治、経済である。また、大多数の普通の生活者の感じ考え方をくり込んだ知識である。一言で言えば、局所的にしかあてはまらないとか局所的な利害を突き抜けた普遍を目指す、知識、政党、政治、経済である。現在はまだ、それらへの端緒でさえつかんでいない。したがって、局所的な経済的・精神的利害のぶつかり合いを避けられない状況にある。

 ツイッターで見ていると、「ネトウヨ」がネトウヨの大将の名前をときどき間違えるのを目にすることがある。「安倍晋三」を「安部晋三」などと書き間違う。これをフロイトの言い間違いの研究のように有意味なものとすれば、彼ら「ネトウヨ」をとらえているのは、私人公人併せ持つ、すなわち生身の安倍晋三総理ではなく、単なる記号やイメージとしての「アベシンゾウ」なのではなかろうか。「アベシンゾウ」を支持したり、崇拝的に持ち上げることに、自らの精神的な支えや生の充実感を見いだしているように見える。それは生身の「安倍晋三」ではなく、いわば少し垢抜けたオタク趣味的に変換された「アベシンゾウ」イデオロギーに憑かれているのであろう。そこでは、時代の移り行き中での自らの内なる奥深い不安が仮想的に解消されているのだろう。

 以前、この国の古い段階の国家・社会に対する感覚や意識が現在にまで残存していることを取り上げたことがある。以下の文章である。

「現在にまで残るこの列島の古い社会・国家観の遺伝子」(2017年02月25日)
https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/bf20f94e082c7255c1528b754624851d


 このようなわが列島社会の住民の社会も国家も未分離な意識については、吉本さんも敗戦そしてその後の西欧の国家と社会観に触れて衝撃的に感じたと語られていた。
 現在の「ネトウヨ」的な排外主義の紋切り型のイデオロギーの破片もその空虚な言説も、あるいは民主主義的な考えも、いずれもこの列島社会に十分に根付いたものではない。我が身を振り返っても、いずれも社会も国家も未分離な意識が裏側に張り付いているように感じる。

 この現下の「ネトウヨ」の問題は、ふたつ問題性を提起する。この列島社会の住民は、意識の表層から中層にわたってずいぶん西欧化されてきたとしても、まだまだ深層にまでは西欧化の波は十分に届いていないこと。それは深層とどういう折り合いをつけるだろうか、つけたらいいだろうか、という問題がひとつ。

 もうひとつは、それとも関わるが、この国家・社会の未分離意識は、西欧社会的な視線からすればまったくの負性にしか見えないかもしれないが、逆に言えば、わたしたちこの列島民は、自らの生活世界から国家などの論理世界に遠く旅立つことが不得手で、なんでも生活世界の方に引き寄せたり、地続きで考えるという心性と理解することもできる。これにまったくの負性ではなくいくらかの積極性を持たせて考えることはできないかということがふたつ目である。

 たぶん、「ネトウヨ」ふくめて、ほとんどすべての人々が、(人は、気ままに豊かな生活をできるのが理想と思う)ということを認めるだろうと思う。このことと、わたしたちの国家・社会の未分離意識ということを合わせて言えば、わたしたちは、町内での生活や町内会での話し合いのように、町内(社会)の問題のみに限り、町内(社会)の問題に関わる限りで行政や国家に言及し、国家間の外交などの町内(社会)を超えたものについては留保する、語らない、という倫理を意識的に持つべきだと考えている。大多数の人々が、局所的考えをそれぞれに持ち互いに対立し合うという現在的な段階ではなく、いつかある普遍の考えを持つようになる段階への過渡として、無用な対立を避ける意味でも、こういう意識的なあり方はいいのではないかと思っている。それと同時に、現在までこの列島の生活社会に培われてきた、お互いに配慮し合い、お互いに助け合う(相互扶助)という今では廃れてしまったように見える気風を磨いていかなくてはと思っている。たぶん、この現在の社会のいろんな所で、そのような試みを実践している人々がいるような気がしている。

 現在は、町内(社会)の問題をはぐらかしたり、その矛盾を隠蔽するために、北朝鮮問題や韓国や中国が持ち出されているように見える。テレビが専門家なる者を招いて頻繁にそれらの話題を振りまいているが、ほんとは、わたしにとっては北朝鮮問題や韓国や中国なんてどうでもいいのである。日々の生活にほとんど無関係である。ただ、たぶん同じ出アフリカのわたしたちと同じような、それぞれの国の内に生活している人々については、興味関心を持ち、思い巡らすことはある。

 また、人がこの世界のことを思考の対象にして自由に考えるという世界では、あらゆる境界を超えて、自由に思い巡らせればいいと思う。わたしもそうしている。
 (おわり)


 ※「ネット保守」(ネトウヨ)の人口や出自については以下に古谷経衡氏の考察がある。
「都知事選で見えた『ネット保守』人口=250万人」 古谷経衡 2014/2/10
 https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20140210-00032514/

 ※「ネット保守」(ネトウヨ)に関して、以前、古谷経衡 氏の本を読んで文章を書いたことがある。
 『若者は本当に右傾化しているのか』(古谷経衡 2014年)を読む 2015年03月12日
 http://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/42ecb0cb20511b4401396bd2048b63e5


 「ネトウヨ」考 (1)
https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/0bd51a077383e8fead914667887c8b67

 「ネトウヨ」考 (2)
https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/37e9aea58a9cedf6163b9023c44d2f8d






159


 現在のための覚書 2018.4.12



 まず、人は誰でも、家族(あるいは施設)に生まれ育ち、隣近所、周辺地域、学校という小社会に関わって生活していく。大人となっても自宅や職場や地域などとの小さな関わりの中で生活している。そういう小世界で誰もが遭遇する心や精神の受難や喜びの物語を深くすくい取る表現に出会えば、物語であれ、美術であれ、音楽であれ、多くの人々が共鳴する。

 家族や職場や隣近所周辺の地域、この小社会でひとりひとりができるだけハッピーな生活をできることこそが全てであるだろうと思う。遙か歴史の始まりから眺めて、本来性のイメージからいかにずれた逆立ちした人類史を歩んできたとしても、本来なら、そのための地域行政や国家でしかない。国家や国歌にイカレるなんてどうかしてるぜ。個の不安や不満を幻の国家などに吸収・解消させるなんて。といっても、そんなものに取り憑かれるのが人間だ。

「この国に生まれ 育ち 愛し 生きる」「この国で泣いて 笑い 怒り 喜ぶ」( 「ゆず」北川悠仁 「ガイコクジンノトモダチ」註.1)

 生活具体性を持つ「この街」ではなく、このように「この国で」と歌い出すとき、表現上の「私」は「この国」という幻の国家を引き寄せている。あるいは、「私」=「国家」と同一化している。

 つまり、表現する作者も歌(歌詞)に表現され歩み出す「私」も抽象化・イデオロギー化され、万人のそれぞれの小社会での具体性や実感を伴った心や精神の受難や喜びの物語の地平から離脱していく。つまり、万人の心に触れようとするモチーフを捨て去ることになる。これは、わかりやすく例えてみると、この「ガイコクジンノトモダチ」という歌詞は、カタい形式張った校長の話に相当する。その空虚な話に立ち会わされ聞かされているわたしたちは(それは違うだろう)とか内心でつぶやく生徒みたいなものである。こういうわたしたちの生活実感から離れているという感覚は、学校時代に大多数の者が体験したことがあるはずである。

 ところで、戦争・敗戦という万人レベルの深手の経験にも関わらず、戦争を担ったイデオロギーのDNAは安倍政権やネトウヨにアニメ感覚で受け継がれ、また、私たち普通の生活者にも私と公の未分離の遺伝子として残っている。その部分では、この歌詞はなんとなく受け入れられるということがありそうだ。わたしたちの意識の深層部分に残存する公私未分離の意識がこういう存在を許してしまっている。

 ここで「アニメ感覚」と記したのは、もはや復古思想や復古イデオロギーが存在できる現実的な基盤は払底されてしまっているからである。したがって、それらは時代の大きな過渡に現象する、危機意識からの病としての退行や不毛な空想趣味に過ぎないことになる。

 ゆずファンが今回発売のCDの別の歌詞をUPしてたので二、三読んだら、この「ガイコクジンノトモダチ」と同工異曲だった。歌詞から判断する限り、生身のハートを喪失した概念化した言葉や安易な社会批判など概念化した現実認識に満ちていた。

 よく知らないからおそらくと言うほかないが、「ゆず」も四十歳代になり今までの若者の悩み苦しみ喜びの物語を歌うモチーフからの転位に失敗している無惨な姿が今回のCDではないだろうか。ほんとうは、現在の自分たちに合わせて今度は大人の世界のそれに転位していくべきだったのに、それに失敗している姿ではないか?流露する情感ではなくカタい概念化した言葉の多用からはそんな印象を受ける。

 音楽表現に関してこれ以上の関心は、わたしは「ゆず」に関してはないのだが、ただ「ネトウヨ考」としては興味深い考察の資料となるかもしれない。人はなぜこの煩悩に満ち満ちた具体的なこの世界から上昇して、情感あふれるそこに還ることなく、すなわち言葉の肉体性を喪失して、形骸ばかりの概念やイデオロギーというべつの煩悩の世界に入り込んでしまうのかと。若い吉本さんが分析批判してきたが、70年以上前の戦時期の、ほとんど全ての表現者が雪崩れ込んだ「戦争詩」もまた、そういう無惨な表現の世界であった。


註.1

ガイコクジンノトモダチ  ゆず
作詞・作曲 北川悠仁

外国人の友達ができました
納豆はあまり好きじゃないけど
お箸ならうまく使えます

外国人の友達が言いました
「私、日本がとても好きなんです。
あなたはどこが好きですか?」

僕は少し戸惑った だって君の方が
日本の事をよく知ってそうだから

この国に生まれ 育ち 愛し 生きる
なのに 知らないことばかりじゃないのか?
この国で泣いて 笑い 怒り 喜ぶ
なのに 国歌はこっそり唄わなくっちゃね
美しい日本 チャチャチャ

外国人の友達が祈ってくれました
「もう二度とあんな戦いを共にしないように」と

TVじゃ深刻そうに 右だの左だのって
だけど 君と見た靖国の桜はキレイでした

この国で生まれ 育ち 愛し 生きる
なのに どうして胸を張っちゃいけないのか?
この国で泣いて 笑い 怒り 喜ぶ
なのに 国旗はタンスの奥にしまいましょう
平和な日本 チャチャチャ
美しい日本 チャチャチャ


  (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)






160


 覚書20180423


 表面化しているものもそうでないのも、現在的な問題は、現在の素材のみで解決できるとは限らない。吉本さんは、それを「現在的な課題」と「永遠の課題(永続的な課題)」と呼び、その二重性を踏まえた思考や対処の必要を提出した。

 「セクハラ」問題もほんとうは根が深い。
 わたしは苦手な方だが、太古からの開けっぴろげで大らかな性的な言葉や振る舞い―わたしの小さい頃の自宅での結婚式での余興や、大人になっていろいろ見聞きしてきたが―には、割と肯定的である。もちろんそれが、相手や周囲にとって「セクハラ」(性的嫌がらせ)になるようなら控えるべきだと思う。二昔前と現在とでは、「開けっぴろげで大らかな性的な言葉や振る舞い」に対する大衆的な反応がずいぶん変貌してきたように思われる。

 二昔前には、母親たちが家の外で胸を開け広げて子どもに乳を与える光景をしばしば見かけた。また、男たちが外仕事などで上半身裸もよく見かけた。その頃は、開けっぴろげで大らかな性的な言葉や振る舞いは、現在と比べてもっとひんぱんに見られたのではないかと思う。付け加えれば、今から三十年ほど前までは、大工さんなど昼休みか三時の休憩時にはビールなどを飲んでいた。これは現在の視線からは、きつい眼差しにもなるのかもしれないが、わたしには消えたのが惜しまれる大らかさに見える。こうした代替する「おおらか」を生み出すことなくおおらかさを喪失していったものはいろんな分野でいろいろあるように見える。もし、自動運転が進化して飲酒運転でも安全であるように進化していけば、それは代替する「おおらか」を生み出したことになる。

 産業社会の変貌とともに、わたしたちの生活環境や生活形態も大きく変貌してきた。ここではそれを細かに追うことはできないが、おそらく「太古からの開けっぴろげで大らかな性的な言葉や振る舞い」は旧来的なものの象徴であり、現在的な心身の清潔さの追求や個の自由度の増大は、その否定の上に成り立っているように思われる。社会的なマス・イメージや流行で言えば、重たいとかダサいとかではなく、軽いとかしゃれているとか旧来と現在で対比的に見ることができるだろう。わたしは、それが旧来的なもののいい意味での否定も含んでいるとしても、この現在的なマス・イメージや考え方に必ずしも全面肯定的ではない。たとえて言えば、若者の生活感覚や生活イメージを、現在という地平において一色で塗りつぶして、子どもから老年までの生活感覚や生活イメージと同一と見なさなくてはならないからである。
 
 現在の「セクハラ」(性的嫌がらせ)問題は、平等な個人間の問題と上下関係などの権力関係を伴ったものと分けて考えなくてはならないと思う。たぶん社会的に問題となっているのは、職場の上司であるとか取引先の相手であるとか相手が自由な拒否や拒絶を行使できないような権力関係を伴った「セクハラ」(性的嫌がらせ)問題のように思われる。この「セクハラ」(性的嫌がらせ)問題なら不当であるとたぶん現在の大多数の人々が認めると思う。

 もうひとつの平等な個人間での「セクハラ」(性的嫌がらせ)問題は、一般化されて個と個との人間的な関わり合いの問題になる。嫌な相手なら遠離ればいいことであるが、同じ学校であるとか同じ職場であるとかで嫌な相手から遠離ることが難しいという場合も多いと思われる。わたしの体験的な印象では、どんな小さな集団でも自分と馬が合わない、嫌だと思う相手は必ず居る。したがって、ストーカーのようなひどい場合でなければ、個と個との付き合い方の問題、人間のむずかしい永続的な課題の問題になってくる。






161


 『家の中で迷子』(坂口恭平 2018年)のためのメモ ①


 この作品も最近作の『現実宿り』(2016年10月) や『しみ』(2017年4月)と同様の、従来からあるようなある性格を持った登場人物がいて語り手がいるという作品ではなく、従来的な作品からの視線で見たら、変幻自在でめちゃくちゃな作品である。つまり、物語作品と呼ぶのが戸惑われるようなわけのわからない作品である。しかし、家族の中で心安らいだり心乱れたりしながら自分の場所を模索する、躁鬱を抱えた主人公の「私」の物語である『家族の哲学』(2015年)は、普通の物語性を持った作品であった。この『家の中で迷子』は、その主人公「私」の中にダイブした物語と言えようか。

 ところで、わたしたち読者が従来の眼差しや印象をこの作品に向けないとすれば、どういう視線があり得るだろうか。ここで少し寄り道をする。吉本さんの講演「イメージ論」に「『ハイ・イメージ論』でやりたかったこと」という小見出しの部分に次のような言葉がある。



 ハイ・イメージ論でやってきた問題は、自分としてはどういうモチーフがあってやったかといいますと、ひとつは前に僕は文学の理論的な考察として『言語にとって美とは何か』という仕事をしたんですが、それは文学というものを言葉の芸術として扱った場合に、どういう問題が出てきて、どういうことが言えるかをやったわけです。そういうことをやってきた後で結局何が変化してきているかというか、変化してきているものは何かと考えてみると、ひとつは言葉というものが基本にあって、あらゆる芸術の分野の表現が行われているという考え方を取ると、言葉は人間に付随したものだから理論的な考察ができると考えてきたんですが、少しその考え方を変えて、文学を言葉の芸術と扱わないようにして、文学も音楽も絵画も、その他デザインでも何でも、映像から画像に至るさまざまな分野の芸術の表現の中のひとつとして文学の表現を扱うという扱い方をしたらどういう扱い方になるだろうかということが、どうしてもやってみたかったわけです。
 われわれの年代と現在は多少年代的な相違があって、いまの若い人は文学を基盤に考えるというよりも、文学も絵画とか映画とかその他のさまざまな分野の芸術表現の中のひとつと考えるほうが非常に考えやすいし、そういう考え方をしているような気がするんです。文学も絵画とか映画という映像の分野と同一の次元、同一の考え方で扱える扱い方がどうやったらできるだろうかというモチーフがあります。
 そうすると一種のイメージとして、言語の芸術あるいは言語の表現として文学を考えるのではなくて、イメージの表現として文学を考えるという考え方がもしできるならば、文学もほかの映像諸分野も画像の諸分野も同じ論理構成というか、同じ考え方で相対的に扱うことができるんじゃないかというモチーフがあって、それを何とかやってみようということがひとつあったわけです。
 もうひとつは、イメージの分野で一種の究極イメージが技術的につくれるようになったというのが、僕の頭の中に非常に引っかかってきたことです。究極イメージというものを一種の念頭において、そこを基盤にして、イメージの理論として文学も一緒にはめ込んだまま全般的に芸術の分野を扱えないかどうかということが、僕の非常に大きなモチーフでした。
 (「イメージ論」吉本隆明の183講演 A092 1986年5月29日講演、講演テキストより ほぼ日)




 吉本さんは、過去の自分の『言語にとって美とはなにか』から『ハイ・イメージ論』へのモチーフと考察方法のシフトを、「言語の芸術あるいは言語の表現として文学を考えるのではなくて、イメージの表現として文学を考える」と述べている。この背景には、吉本さんが成してきた各幻想論を統合しようとするモチーフがある。だから、そのイメージの表現としての考え方は、文学以外の映像や画像の諸分野も同じ考え方で相対的に扱えるだろうと考えられている。このことを坂口恭平の『現実宿り』や『しみ』や『家の中で迷子』などの最近の作品に対応させて考えてみる。

 「言語の表現として文学を考える」は、従来からの固有の登場人物や語り手がいて物語の筋書きも普通にたどれる物語作品とそのような物語理解に相当する。坂口恭平にもそうした言わば「普通」の作品はある。一方、新たな「イメージの表現として文学を考える」は、作者が自らの混沌とした内面にダイブし、その内面から噴出するイメージ流の作品とも言うべきものである。『現実宿り』や『しみ』や『家の中で迷子』がそれに当たる。そして、読者もまた従来の読者の位置から変位して従来のような物語作品としてではなく、イメージ流の発生し展開する作品と見なし味わうことになる。

 別の言い方をすると、従来からの登場人物や語り手がはっきりした物語作品を具象画のような作品と見なせば、『現実宿り』や『しみ』や『家の中で迷子』の作品は、登場人物や語り手が自在に変幻する(ように見える)抽象画の作品と見なすことができる。これは作品をイメージとして、イメージ流の分散、連結、滲透、感応、飛躍などのドラマとして読まれるべき作品のように見える。そして、従来からのはっきりした登場人物や語り手は不在というのではなく、それぞれが十分な固有のかたちを成すことなく作品に潜在化してしまっているように思われる。

 『幻年時代』という作品に次のような言葉がある。


 四歳の私は言葉を詳細に語ることができない。しかし、映像は、空間の感触は、記憶することができる。そこで私は、四歳の坂口恭平という現象が持っている技術と通信、録音、録画システム、空間把握コントロール器を操りながら、詳細にその人間という動物の持つ暗号を解読する鍵を探すための諜報活動を続けている。
 (『幻年時代』 「十 暗号」P161 幻冬舎文庫)

 わたしは、最近「データベース・吉本隆明を読む」(http://dbyoshimoto.web.fc2.com/ )の「項目505 発生期の状態の保存・発動」の備考欄に、北島正の『こころの誕生』から、人間の四歳辺りの原初記憶の喪失と記憶等の新たな編成替えについて述べられている所を引用したことがある。人間にとって一般にこの四歳辺り以降とそれ以前とは断層と言っていいほどのものが存在するらしい。つまり、そこは後に身に付けた十全な言葉の世界以前だから、そんな後の言葉によってその世界に入り込むことはとても困難なことである。探索しようにも、記憶がないような世界である。

 とすれば、『家の中で迷子』に描写された「四歳の頃」の迷子の体験やそれ以前、これを人類の歴史に対応させれば文化や法制度などが整序された古代よりも以前やさらに遡った太古の時間、そうした十全な言葉以前の世界には、イメージやイメージ流と化した「私」として入っていくほかないのではないだろうか。そして、登場人物も語り手も十全な固有の性格や言葉をもつことなく、イメージ群のようなものとして登場してくるのだろう。

 この作品も、従来の作品同様にさまざまな角度から論じることができるだろう。わたしたち読者は、十全な言葉中心の世界に十分に慣れ親しんできていて、次のようなことにあまり慣れていないけれど、作者の無意識的な思いとしては、この作品を十全な言葉の物語としてではなく、イメージ流そのものとして受け止め味わって欲しいということかもしれない。

 坂口恭平の作品をこのようなイメージ流の放出と捉えるのは、以前坂口恭平の別の作品に触れたとき、自分にとって書くことはどういうことかなどについて作者が語っていたことに基づいている。
大雑把に捉えるとそう思われるが、作者が自分の内なる世界をのぞき込み、あるいは内なる世界からイメージ流の放出をし続けるとき、そのイメージの分散、連結、滲透、感応、飛躍などのドラマが、なぜそういう「分散」だったり、「連結」だったり、「滲透」、「感応」、「飛躍」なのかを読者が追跡して行くのは抽象画の理解と同じように難しい気がする。また、作者もどこまでが意識的でどこまでが自動記述的かは見定めにくい。ただ読者として、作品やイメージ流の明るい、暗い、重たい、軽やか、遠い、遙か、深いなどの、感覚的、情緒的な把握や、例えばイメージAとイメージBがよく接続されるなどの把握も可能だと思われる。






162


 『家の中で迷子』(坂口恭平 2018年)のためのメモ ②


 わたしたち人間は、おそらく赤ちゃんとしてこの人間界に生まれてしばらくは言葉がなく、主に母親と赤ちゃんの喃語のようなものから「内コミュニケーション」(註.1)によるやり取りをくり返す中で、言葉のようなものを磨き、しだいに言葉を獲得していく。人類にもこのような言葉以前や言葉のようなものの段階が長らく続いたはずだ。ここで「おそらく」と記したのは、わたしたちは誰でもその道筋を通ってきたはずなのに、その記憶がないからである。

 ところで、わたしたちの赤ちゃん時代が、現在のわたしたちとまったく無縁であるとは言えないように見えるけど、それらがわたしたちの現在にどんな形で保存され、どんな発動に関わっているかということはよくわかっていない。少なくとも赤ちゃん時代は、植物の初期と同様にわたしたちの核の部分を形作っていることは確かなことであろう。

 こうしたそれ以外は考えられないような微かな通路やつながりを手がかりにして、わたしたちは自分の幼年時代や乳胎児期に出会おうとする。このことは、言葉を獲得する以前の人類、人類の幼年期と出会おうとする場合も同様である。

 現在のところ、言葉がなかった時代や十全な言葉以前の言葉のようなものを持っていた時代には、現在のこの言葉で、言葉という舟に乗って行くしかないと思われる。これは矛盾である。しかし、親がまだ言葉をしゃべる前の赤ちゃんの喃語(なんご)に対する場合は、言葉としてはいい加減な言葉を話していることになるのだろうがその喃語に類するレベルでの気持ちを込めた言葉のようなものを親もしやべりながらコミュニケーションをとるのだろうが、その赤ちゃんの喃語を理解しようとする場合には、〈言葉〉でそれを捉えようとする以外に方法がない。

 ここで、表現された言葉は、自己表出と指示表出による織物であるという吉本さんの言葉の捉え方(『言語にとって美とはなにか』や『詩人・評論家・作家のための言語論』など)を借りる。言葉というひとつの構造を構成する自己表出と指示表出という分かち難いものを分析的に取り出せば、自己表出は快や不快などの内臓感覚的な心の表出で、指示表出は目で見たり耳で聞いたりする感覚器官の動きと対応する表現で何かを指し示すものである。こうした自己表出と指示表出による織物である言葉も、赤ちゃんの言葉以前の言葉のようなものという段階では、快や不快などの内臓感覚的な表出が優位なものになっている。説明的な指示表出が希薄だからその赤ちゃんに慣れていない親以外の大人は、その赤ちゃんの言葉のようなものの意味を捉えることは難しいはずである。

 このことを逆に言えば、赤ちゃんの世界や人類の幼年期の段階の世界を〈言葉〉で捉えようとしたり、〈言葉〉で再現的に表現したりしようとする場合、その具体性はさておき、〈言葉〉を内臓感覚的な表出である自己表出を中心的に行使すればいいということになりそうだ。
 
 この『家の中で迷子』という作品は、先にイメージ流の作品として考えたが、それを別の言い方をすれば、説明的な指示表出が希薄で、〈言葉〉を内臓感覚的な表出である自己表出を中心的に行使した作品であると言えるだろう。普通に見かける作品にある物語の一連の起伏や説明的な指示表出が極度に切り詰められているから、当然のこととして「わかりにくい」作品と見られるのだろう。しかしこの作品は、普通の言葉や物語では「迷子」と捉えるほかない世界の内側に入り込んだ、内臓感覚的な自己表出性が中心の言葉のようなものによる表現と言っていいかもしれない。それは普通私たちが行使している十全な言葉によっては尽くしがたい世界である。それでも、この作品の「迷子」への入口と出口はきちんと作り整えられている。また、付け加えれば、フロイト-吉本さんが、人の幼年期が人類の幼年期と対応すると捉えたことに、響き合うように、この作品でも人類の太古のイメージとのつながりが描写されている箇所がいくつかあった。


(註.1)
「内(ない)コミュニケーション」

 内コミュニケーションは、視覚的なイメージで思い浮かぶこともあれば、何を意味しているのかがすぐにわかってしまうこともあります。このわかり方は、だれにでも大なり小なりあって、その能力がいつ、どこで生まれてくるのかをまず話してみます。
 どこで身につけるのかとかんがえてみると、この能力はまず母親のお腹のなかで獲得します。人間の胎児は母親のお腹のなかで、受胎から三十六日目前後に「上陸する」とされています。つまり、水棲動物の段階から両生類の段階へと進むわけです。
 この進化を確定したのは日本の発生学者、三木成夫(一九二五~八七)さんです。三木さんの『胎児の世界』(中公新書)によれば、人間の胎児は三十六日目前後に魚類みたいな水棲動物から爬虫類のような両生動物へと変化します。つまり「上陸する」わけですが、そのとき母親はつわりになったり、精神的にすこしおかしくなったりします。たいへんな激動を体験しているわけです。三木さんによれば、水棲動物が陸へあがるときに鰓呼吸から肺呼吸に変わるわけですが、いかに困難な段階かということはそれでよくわかるということです。
 受胎から三ヶ月ほどたつと、胎児は夢をみはじめます。その夢は、いわゆるレム睡眠の状態でみます。次の段階の五ヵ月目ないし六ヵ月目で、胎児は感覚能力、たとえば触覚、味覚がそなわるとされています。六ヵ月目以降になると、耳が聞こえるようになり、母親の心臓音、母親や父親などいつもまわりにいる人の声を聴き分けます。つまり、耳や鼻や舌など、人間のもつべき感覚器官が全部そろうわけです。受胎後七~八ヵ月になると、人間がもつ意識が芽生えるとされています。五~六ヵ月目以降の胎児はだいたいにおいて、父親と母親の声を聴き分け、母親がどんなショックを受けたかもわかっています。つまり母親の精神状態、こころの変化、感覚の変化は、胎児に伝わっているわけです。

 ですから、五~六ヵ月目以降の胎児は感覚的なことがほとんどわかっています。少なくとも母親の精神状態、母親の声、母親とよく話している父親の声はだいたいわかるようになっています。つまり受胎後五~六ヵ月で、胎児と母親の内コミュニケーションはすでに成立していることになります。       (『詩人・評論家・作家のための言語論』P8-P10吉本隆明)


 相手の考えやイメージを察知する能力は、胎児期の内コミュニケーションの過敏さ、鋭敏さが原型をなしています。たぶん超能力者や霊能者は、修行によって内コミュニケーションを鋭敏にする修練をしているのでしょう。ふつうの人でも、顔の表情から相手の考えがだいたいわかることはあるわけです。
 人間にとっていちばん肝心な、相手の表情をみてたとえば憂うつなことがあったんだとわかる能力は、胎児・乳児のあいだに形成されます。これは恋愛感情に必要な条件で、鈍いとニブカンなやつだと相手からおもわれます。この能力は五~六ヵ月の胎児から一歳未満のあいだに形成されるとかんがえるのが、いちばん妥当な考え方だとおもいます。とくに恋愛感情では相手の動作ひとつ、言葉ひとつで、こうかんがえているな、こうおもっているなとわかることがあります。これはみなさんも体験しているだろうとおもいます。
      (『同上』P19-P20)



 ※ フリーアーカイブ「吉本隆明の183講演」のA124に「言葉以前のこと―内的コミュニケーションをめぐって」という講演があります。講演テキストもあります。これは、上に引用した『詩人・評論家・作家のための言語論』(1999年)に収められています。






163


 『家の中で迷子』(坂口恭平 2018年)のためのメモ ③    (※これでおしまいです。)


 この作品を物語としてみるならば、四歳の頃の迷子の体験(P6から)の冒険譚ということになるだろうか。そして、それはこの普通の十全な言葉によって書かれるほかない。しかし、その迷子の内側から見た感じた世界、すなわち内景は、幼い子どもの普通の冒険譚としてではなく、イメージの流れ、切断、飛躍、連結などとして描写されている。普通の十全な言葉が行使されているようで、どこか違っている。普通の物語の時空ではなく、微妙に時空変容している、してくる。それは静的ななものではなく動的な印象を与える。これは、〈私〉以外に登場する〈トクマツ〉〈アゲハ〉〈イシ〉〈ハジ〉などのおかげであり、彼らが〈私〉が〈世界〉と対話する仲立ちや〈世界〉への導き手としてとしての役割を果たしているように見える。そして彼らは、たぶん兄弟や祖父や友達など〈私〉となんらかのつながりを持ってきた人々がそのイメージ源になっていると思う。

 この作品は、大人になった〈私〉が遙か昔の小さな子どもの〈私〉のイメージ世界にダイブした作品、あるいはもっと正確には、現在の大人の〈私〉の中に潜在し湧き出してくる太古(〈私〉の小さな子ども時代)を描写した作品であろう。つかの間の迷子体験は、親などの外からの視線では自分たちからはぐれてしまい道に迷ってどこかをうろうろしていたのだろうということに一般にはなる。しかし、「迷子」となった〈私〉の世界体験を内から語り描写すれば、その内景はこのような複雑で豊かな世界イメージになるということだろう。わたしが、この文章の①と②の部分を必要としたのは、わたしたちがこの作品の入口であれこれ準備体操をしなくてはならなかったということであり、それはわたしたちがこのような新たな形の作品に慣れていないからである。
 ここでは、わたしはまだ大雑把な読みしかできていないのじゃないかと思っているが、この作品に感じ考えたことを少し取り出してみたい。

 作品の中から、イメージの連結や飛躍や接合の例を取り出してみる。


1.
 右手が軽くなっていた。
 手をつないでいたはずの母も、家族もどこかへ消えていた。
 焦って辺りを見回すと、籠を持った母がこちらを向いて立っていた。安心して近づいてみたが、母はガラスの中に閉じ込められており、顔はのっぺらぼうだった。背後を灰色の制服を身につけた男たちが、全速力で駆け抜けていく。
 ガラス越しに店内を覗くと、ベージュ色のスカートが目に入った。母のスカートだ。店内には植物やヨットの模様の布がぶら下がっていた。島に行ったときのことを思い出した。いつかの夏休みだ。母は麦わら帽子をかぶって、同じ色のスカートをはいていた。島には船で向かった。屋根があるだけの小さな船だった。船は島に近づくと、徐々に速度を落としていった。
 声が聞こえたので顔を上げると、老人がこちらに手を差し出している。下の名前で呼ばれたが、知らない人だった。顔のシワがミミズみたいに動いていて、落ち葉をめくったときの匂いがした。老人は体じゅう日焼けしていて、手のひらだけが異様にしろかった。
 港と言っても粗末なもので、海底に突き刺さっている柱にはフジツボがたくさんくっついていた。猫のおしっこの匂いもした。老人は聞きなれない言葉を口にしていたが、母は老人と笑い声をあげながら話している。親しげな雰囲気だったが、船に当たる波は警告音のように感じた。父は後ろのほうで黙っている。老人の手をつかむと、怖さのあまり飛び上がるように上陸した。怖がっていることを母がわらっているような気がしたが、眩しい日差しのせいで母の顔は見えなくなっていた。ベージュのスカートに近づき、ただそれをつかむことしかできなかった。
 振り返ったのは母ではなく、知らない女性だった。さっきまでの地下街の雑踏の声は消え、店内には静かなギターの音が鳴っている。木の椅子に座った白髪のおばあちゃんが奥から眼鏡越しにこちらを見ていた。白髪のおばあちゃんは手招きすると、テーブルに置いてあるガラスのコップに麦茶を注いだ。
「あんた、初めて見る顔じゃないね」
 一口飲むと、喉が渇いていたことを思い出し、一気に飲み干した。頭の中ではまだ島を歩いていた。港から歩いてすぐのところに森があった。店の床に当たっている光は、その森の木漏れ日のようだった。森で見たはずの木が生えている。よく見ると、それは試着室のカーテンの柄だった。老人と二人で森の中を歩いた。あのとき、家族たちはどこにいたのだろう。そんなことを考えながら、試着室に顔を突っ込んだ。試着室の中はさらに森の奥へと道が続いていた。苔で覆われた大木のまわりには、顔よりも大きな葉っぱや、見たこともない色の花が生い茂っていた。ここは試着室なのだから、きっと目の前にあるものは鏡だ。カーテンの柄が映り込んでいるのだろう。ところが、鏡には自分の顔だけがどこにも見当たらなかった。 (P7-P8)


 この場面での〈私〉の視線、あるいは視線からイメージの流れを追ってみると、

福岡の天神地下街→迷子になったと気づく→店内を覗いて、ヨットの模様の布を目にする→夏休みに島に行ったときを思い出す→店内でのことに島に行った時のイメージが二重化したり、接合されたりしてくる。

というようになっている。「試着室の中はさらに森の奥へと道が続いていた。苔で覆われた大木のまわりには、顔よりも大きな葉っぱや、見たこともない色の花が生い茂っていた。」と現在〈私〉がいる店内のイメージと夏休みに島に行ったときのイメージが連結され接合される。そしてすぐに、「ここは試着室なのだから」という、たぶん現在の大人の〈私〉の内省がやってくる。そして、イメージの連結や接合が解除される。つまり、こういう描写であれば、割と普通の描写といえるだろうし、わたしたちの現実感覚とも合致する。しかし、もしここで、「ここは試着室なのだから」という、たぶん現在の大人の〈私〉の現実感による内省が起こらないで、異種または時間や空間の異なるイメージが連結され接合されたままなら、読者にとってはわかりにくい抽象画のような世界が展開されることになる。引用部の最後に「鏡には自分の顔だけがどこにも見当たらなかった。」と書き留められていることは、迷子の〈私〉が現実感覚を喪失した抽象画のような世界に入り込んでいることの喩であろうと思う。

 わたしたちが、文学的な物語の表現をする場合、その具体的な過程では、あるモチーフに沿って、登場人物たちが語り手の下に動き出す。思いついた言葉が、走り出し別のことにつながりその場面を描写し、そこからさらに転換してまた別のことをというふうに進んでいく。その場合、言葉と言葉や場面と場面の連結や展開は、この十全な言葉の世界の現実感覚に沿っている。すなわち、一般には、具象画のように描写されていく。これは物語作品をイメージの流れとして見ても同様である。しかし、この『家の中で迷子』という作品は、人が十全な言葉を獲得する以前の世界を対象としている。もちろん、そうであっても十全な言葉でその世界を描写することも可能ではあるだろう。ただ、その場合はその迷子の内側からではなく外から描いたような不満が残るのではないだろうか。

 この『家の中で迷子』という作品では、「ここは試着室なのだから」という、たぶん現在の大人の〈私〉の現実感による内省が全体的には解除されて、十全な言葉以前の世界を生きる〈私〉にとって、しっくりくるような言葉のようなもの、イメージ流のようなもの、それらが奔流している作品だと思われる。しかし、わたしたち読者は、十全な言葉の世界をこそ生きていて、もはや十全な言葉以前の世界やそこに生きていた〈私〉の見たり感じたりする世界をぼんやりと以外に想像することができない。この十全な言葉の世界と十全な言葉以前の世界との大きな断絶がこの作品の読みを難しくさせている。


2.
 老人といると、祖父のことを思い出した。しかし、顔はまったく違っていた。
「わしの名前はトクマツ」
老人は言った。 (P10)



わたしたちがイメージする場合、そのイメージの源泉は、現実に自分が体験したことか、あるいは他人の話や書物などから知識として得たことである。他になんら現実感を伴わないような自在に空想するイメージもあり得る。この作品世界は、〈私〉の小さな子ども時代だから、そのイメージの源泉は友達や家族や親戚の人々が大きいと思われる。老人と祖父がなんらかのイメージ的なつながりとして意識されている。


3.
 周囲にはコンクリートで作った堤防のようなものがあったが、大部分は砂で埋まっていた。見渡しても海はどこにもない。太陽の光が強すぎるのか、植物は枯れ果てていた。喉は渇いていなかった。喉の奥の食道には草みたいな毛が生えていて、大粒の水滴がその上をしたたり落ちていった。
 アゲハは化粧をしていて、顔を見ようとすると、ひょいと跳ねながら逃げていった。目尻が青かった。その青は、ここが海だったときのことを思い出させた。船が何隻か浮かんでいて、船どうしがぶつかる木の音が時間を遅らせるように鳴っていた。 (P50-P51)



 この「喉の奥の食道には草みたいな毛が生えていて、大粒の水滴がその上をしたたり落ちていったる」は、そのすぐ前に「喉は渇いていなかった。」とあるから、〈私〉の喉であるだろうから、自分の喉の中をのぞき込んでいるような奇妙なねじれた描写である。
 アゲハの目尻の青からここが大昔に海だったことを連想しているのは、よくあり得るイメージの連結だろう。しかし、その後は、音の感覚を伴って大昔の船の様子が如実感とともに描写・接合されている。先に述べた「イメージ流のようなもの、それらが奔流している作品」の場面の描写と言えるだろう。


4.
 視線を下ろすと、木の茂みが見えてきた。トクマツは一本の木の根元に寝転がっていた。何も敷かずに地面の上に寝ていた。離れたところに金だらいが置いてあり、満杯に水が入っていて、スイカが二個浮かんだままぶつかりあっていた。スイカも同じように水を浴びている。井戸の水だった。井戸の口には白いタオルが被せられ、そこから水が滲み出ていた。
 (『家の中で迷子』 P26)



 井戸に近づくと、水口は錆びついていた。口の先端に被さった白いタオルは、井戸水をろ過しているつもりなのだろう。タオルは風船みたいに膨らんでいた。膨らんだタオルを見ると、すぐに風呂を思い浮かべた。漏れ出る水に手を差し出すと、ひんやりとしたが、頭の中の風呂桶には温かいお湯がたまっていた。
 父と一緒に風呂に入ると、よくタオルで風船をつくってくれた。タオルを広げたまま水面に浮かべ、風呂の中で両手で縛るようにすると、中に空気が入って膨らむ。父がつくるタオル風船は大きく、クラゲみたいだった。お湯の中に入れたまま手で潰すと、あぶくが出て、まるでおならをしたようになる。それがおかしくて自分でもやってみようとするのだが、なかなかうまくいかなかった。
 自分でやるよりも、父の大きな風船を見ることが好きだった。
 水口の先で膨らんだタオルを見ながら、人間の体も、もともとは濡れた一枚のタオルのようなもので、それを縛ってあるだけなのかもしれないと思った。
 スイカの入った金だらいは重く、持ち上げられなかった。トクマツのところまで金だらいを両手で引きずっていくことにした。
 (『同上』 P28-P29)



 木の根元、金だらい、スイカ、井戸、白いタオル、風呂、タオル風船というイメージの走行とイメージの連結。たぶん作者(〈私〉)が具体的に小さい頃に体験したことと思われる箇所を拾い出してみた。読者によっては、また別の所を指摘することもあり得るかもしれない。うまく説明的には言えないけれど、これらの情景は、作者(〈私〉)の体験から来ていると思う。そういう体験的な具体性のイメージを感じさせる。わたしも大きな金だらいにスイカが冷やしてある光景や水道の蛇口に白い布きれが巻いてある光景は目にしたことがある。また、自分の子どもが小さい頃いっしょに風呂に入っていて、「タオル風船」で遊んだことがあった。子どもが小さい頃だけでそれは終わった。この作品で何十年ぶりに「タオル風船」―わたしはそういう呼び方はしなかったけど―をなつかしく思い出した。

 これらのイメージ群は、〈私〉の子ども時代から湧いてきたと思われるが、「父と一緒に風呂に入ると、よくタオルで風船をつくってくれた。」や「自分でやるよりも、父の大きな風船を見ることが好きだった。」という表現から判断すると、これは回想的な表現になっている。初めに、「この作品は、大人になった〈私〉が遙か昔の小さな子どもの〈私〉のイメージ世界にダイブした作品、あるいはもっと正確には、現在の大人の〈私〉の中に潜在し湧き出してくる太古(〈私〉の小さな子ども時代)を描写した作品であろう。」と述べたが、この回想的な表現から判断すれば、まさしく「現在の大人の〈私〉の中に潜在し湧き出してくる太古(〈私〉の小さな子ども時代)を描写した作品」と言えると思う。さらにまた、この作品の出だしが、「家の中で迷子になっていた。」にはじまり、現在の大人の〈私〉の「迷子」状態の感覚の描写がされているから、現在の大人の〈私〉の中にもそのふしぎな時空変容するような「迷子」状態が潜在し、持続していることを意味している。






164


 ファッションについてのメモ
  ―鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』を読んで


 鷲田清一の『ひとはなぜ服を着るのか』を読んだ。
 鷲田清一は、哲学を専攻していたということは知っていて、朝日新聞に載っている「折々のことば」でなじみがある程度だが、吉本さんの鷲田清一の本(『モードの迷宮』)の書評 https://allreviews.jp/review/824 がきっかけでこの本を読んでみた。

 まず、哲学を研究していてファッション論というのはちょっと意外である。もっと正確には、旧来的な哲学のイメージや旧来的な知の感覚からの視線では、意外であると言うべきである。鷲田清一は、「はじめてファッションについて論じたとき」の周りの知の視線について記している。


わたし自身が―わたしは大学ではいちおう西洋哲学・倫理学の教師として講義をしている―哲学者でありながら、ファッションについて文章を書きだしたときには、相当な抵抗があった。抵抗といえばかっこいいが、要するに侮蔑され、冷笑されたのであった。わたしがはじめてファッション論を書いたとき、哀しい想い出だが、哲学の恩師のひとりに、ファッション雑誌の言語分析をしたロラン・バルトの『モードの体系』のことを言うふりをして「世も末だな」と言われた日のことはいまも忘れない。
 (『同上』「はじめてファッションについて論じたとき」 P277-P278)



 哲学が、この世界の渦中での人間的な諸活動や行動について本質的に考えるものだとすれば、ファッションについて論じてもなんら的外れではない。しかし、純文学同様に哲学も旧来的な威勢の良さを失ってきているといっても、いろんな分野において旧来的な感覚や考え方の残骸が現在でもまだまだたくさん残っていて、学問世界に拘わらず、人間社会でも誰もが日々当面している問題だと思う。哲学や純文学の凋落と大衆文学(エンターテインメント文学)の隆盛というような過程は、言葉が、凝り固まった局所性を打ち崩して総合性としての人間にさらに近づき人間的な課題に真に包括的に答えようとする過程のように見える。これは言葉の主流の振る舞いのように見える。

 本書の記述や本の紹介によれば、ファッションを服飾等の分野としてではなく、人間的な表現や思想として取り上げ論じてきているのは西欧、特にフランスだったようである。鷲田清一は、ジャン・ボードリヤール(消費社会の分析をした人とか名前しか知らない)のファッションに関する言葉も援用している。そのせいか、本書の文体は、日常の身近な気づきを織り込みつつも少しポストモダンがかった言葉になっている。

 鷲田清一の文章からいくつかひろい出してみる。まず、ファッションが万人の日々の生活に関わるものとして、さらにそれがわたしたちの世界との関わり方を示していたり、関わり方を変えたいという欲求の表現(スタイル)でもあると把握され、つぎのように描写している。


ひとはこうした感受性のモード(様相)を、センスだとかテイストと呼ぶ。今日、ファッションはそういう感受性のモードをひとびとのあいだでもっとも濃(こま)やかに確認する媒体となっている。あのひとの生き方、あのひとのふるまい方、あのひとの感覚・・・・・・そう、ファッションとは生存と感受性のスタイルのことだ。
 服の趣味、ネクタイやトランクスの好み、眉や髪のかたち、眼鏡やバッグの型といった身体の表面だけではない。心地よい音楽、壁に貼るポスター、ベッドのシーツ、お気に入りのアーチスト、買い置きのドリンク、行きつけのバー、休日に乗り回すバイク、ひとのネットワーク。それら身体環境のすべてがファッションの構成要素となりうる。じぶんが身体を浸す空間の雰囲気、その感覚的な様相がファッションなのである。その様相の感覚というのは、時とともに大きく揺らぎながらも、それじたいとしては想像以上に緻密である。
 (『ひとはなぜ服を着るのか』 P253-P254 鷲田清一 ちくま文庫)


もういちど言おう。化粧、着衣、装飾。ファッションとは身体の表面の変換作業である。そして、身体がわれわれの感覚媒体であるかぎりで、ファッションは世界との関係のモード(様相)変換そのものを意味する。その意味で、ファッションとは感受性のスタイルであり、そのたえざる変換として定義できる。じぶんの限界を超えたいという欲望が、ファッションという都市の表面に鳥肌が立つように浮き立つのである。
 (『同上』  P256)



 この鷲田清一のファッションの捉え方―そのどこまでが西欧のファッションの捉え方の影響で、どこからが鷲田清一独自の考えかを区別することはわたしにはできないが―からすれば、わたし(たち)はなんと貧しいファッションのなかに埋没していたのだろうという思いがする。わたしの場合はファッションというものに大して気を配らず無頓着であった。今もそうした状態にさして変化はない。中学校から高校までは一日の大半が制服という事情もあるが、大人になっても男は特にそんなに積極的にファッションに関心を示さないというのが一般的な社会だったように感じている。

 ところで、「ファッション」という言葉は、わたしの耳の記憶や歴史の中では日常生活から外れたものとしてイメージされる。現在ではわたしたちの日常生活の中に根を下ろしていて、その言葉に異和感や場違いだという意識はなくなっている。それだけわたしたちの生活や社会が以前より豊かになり余裕も出てきたのだろう。別の言い方では、大きく変貌して十分に西欧化されてきたと言ってもいい。

 わたしが育ってきた昔の感覚では、「ファッション」などに凝るのは「不良」のイメージが強い。二昔前には、社会的なイメージとしては、服や頭髪などの「ファッション」に凝ってエレキギターを弾いたりするのは、「不良」のイメージだった。振り返れば、あっという間に社会の様相が変貌してしまった。もちろん、いい意味であり、ずいぶん開放的で自由になったと思う。それはわたしたちのアジア的なものの中から生まれ出たのではなく、残念ながら外来の西欧的なものの滲透が促したものだと思う。そうしたことと対応するように鷲田清一が上に述べているような人間的な表現や活動としてのファッションということは、わたしたちに異和感なく受け入れられるようになった。この鷲田清一のファッション概念によれば、芸術や文学の表現もファッションの表現も人間的な表現として同一の地平で見わたせるようになっている。本書はすぐれた考察だと思う。

 従来なら、例えば文学の領域からファッションの世界を眺めたら、ちょうど文学自体の中で純文学と大衆文学とが価値序列の中にあったように、ファッションの世界を自分たちの文学的な表現と同列の人間的な表現という見方は一般になかったと思われる。ファッションは表現と見なされず文学より劣ったものと見なされていたと思う。それと対応するように、ファッションの世界の中でも自分たちの作り上げるものを表現や作品であるという意識は薄かったろうと思う。こうして現在の芸術や文学の表現もファッションの表現も人間的な表現として同一の地平という捉え方が割と人々に受け入れられやすい状況になってきた。

 昨日、9月2日(日)のテレビ番組『情熱大陸』は、ヘアメイクアーティストの活躍の番組だった。偶然途中から観てしまった。ファッション論であるこの『ひとはなぜ服を着るのか』(鷲田清一 ちくま文庫)を読み終えたばかりだから、なおさら興味深かった。しかし、顔に化粧を施したりしていくのを見ていて、女性には普通のことかもしれないが、男のわたしからはそこまでするのかという印象だった。つまり、そんなことにまで細かく心配りするなんてめんどくさいなあという感じだった。


 次に、私の関心に沿っていくつか抜き出してみる。



 そう言えば、顔というのは不思議なものです。じぶんの印というよりじぶんそのものであるのに、その当のじぶんには絶対にじかには見えません。じぶんからは無限に隔てられています。その顔に、他人は語りかけ、反応してきます。わたしの顔はまずは他人にたいしてあるのです。
 服にもそういう面があります。服というとすぐ「センス」が問題にされますが、それは〈わたし〉の自己表現であると同時に、いやそれ以上に、他人の視線をデコレートしたり、他人の存在を迎え入れたり、ときには他人の存在を拒絶したりもする、そういうそのつどの他者へのかかわり方の様相(モード)のことを言うのではないでしょうか。衣服はじぶんだけのものではないのです。他人を拒絶する場合でも、他人が唾を吐きかけそうな服をわざと身につけることによって、そういう姿勢を他人に向けてしめすのですから。(『同上』  P161-P162)



関係が顔にとって本質的であるというのは、理由がある。じぶんの顔は、じぶんでは見えない。じぶんの顔は、じぶんの顔をまなざす他人の顔のその変化を見ることで、わたしが想像するものでしかない。つまりわたしの顔じたいが、他者の顔を介してはじめて手に入れられるものであるのであり、他者の顔についても同じことがいえるのだから、本質的に顔は関係のなかにあるのであって、けっしてそれだけで自足している存在ではないわけである。(『同上』 P168-P169)



 化粧とは顔の表面の造作を演出することだと言えるが、しかし化粧を見る側からいえはそうなるが、化粧する本人からすれば造作がどう変わったかほんとうはじかに確認しようがない。じぶんの顔はじぶんでは絶対に見ることができないのだから。つまり、化粧するときひとは、ほんとうはじぶんの空想的なイメージと戯れているだけなのだ。わたしたちはいつも、じぶんが想像するものを真似ているだけなのである。(『同上』 P178)



 自分の「顔」も「服」も「化粧」もその全体を自分が見渡すことができないということ。したがって、それらは本質的に関係のなかにあるというふうに鷲田清一は捉えている。こういう自分の顔や化粧や服を自分では直接見わたせないと言うことは、たぶん誰もが気づいたり思ったりしたことがあると思うが、そういう万人に当てはまる感覚や感受を思想に取り込むことはとても大切なことだと思う。この件に触れている箇所がある。


ファッションこそ他人がじぶんにたいして抱くイメージ、じぶんがじぶんをそこへと挿入するセルフ・イメージのモデルを提示するものだからである。
 ファッションにどうしてそんな力があるのか。ファッションは、ひとがまぎれもないひとつの身体として他人たちのあいだに現れでるときの、その様式を意味するからだ。そして、ここが重要なのだが、そういう身体の存在そのものが当の個人にとっては、物ではなくイメージというレヴェルでしか確証できないものだからである。わたしは他のひとたちが見るこのじぶんの顔をじぶんではけっして直視することができないし、じぶんの髪型もからだ全体のシルエットもふるまいの型もじぶんではじかに確認することはできない。じふんで見たり触れたり聴いたりできる身体のいくつかの部分、他人の眼が教えてくれるもの、鏡や写真の映像・・・・・・それらの断片的な情報をまるでパッチワークのようにつぎはぎしながら、想像力の糸でひとつの全体像へとじぶんで縫い上げるよりほかに、じぶんの身体全体にかかわることはできないからである。そう、他人がわたしにたいして抱くイメージとどんなずれがあるかをも勘定に入れながら、ときに深く傷つきもしながら、おそるおそるみずからの身体像をかたちづくってゆくしかないのだ。
 そのようなセルフ・イメージは、わたしたちが「共同体」のなかに深くはめ込まれて生きているときには、なにか確固とした枠組みのなかで思い描くことができたし、またそうしかできなかった。が、今日、わたしたちは好むと好まざるとにかかわらず、生まれてすぐに「社会」というもののあらゆる象面に接続され、そこに深く組み込まれてしまう。ひとりひとりの存在様式は、外見やふるまいの様式をそのつど選択し、わがものとしてゆくなかで、つまりは「社会」の広大な神経組織のなかで編まれるしかない。そのモデルをファッションが提供してくれる。(『同上』 P254-P255)



 ここでは、単に現在的な状況だけが切り取られて語られているわけではない。太古の「わたしたちが『共同体』のなかに深くはめ込まれて生きている」状況もきちんと踏まえられている。過去や太古は、形を変えながらも現在に深く潜在しているはずである。したがって、あらゆる思想や論考は、単に現在のみを切り取るのではなく過去や太古における人間の振る舞いも考慮に入れる必要があると思う。いわば、現在まで歩みたどってきた人類の総合性において考えることが、その思想や論考を普遍的なものにすると思われる。

 例えば、人間は自分の顔や姿を直接的に全体を見ることができないが、鏡を用いると間接的ではあれ自分を見渡すことができる。この「鏡」というものは現在では、辞書の「人の姿や物の形を映し見る道具」という機能性で捉えられている。初めて鏡に触れた子どもなら、また別様の感じや感覚を持つのかもしれない。

 鏡には「水鏡」という言葉もある。その言葉ができたのは新しいかもしれないが、鏡が普通の人々に普及する前は、その水鏡を用いて自分の姿を見ていたのかもしれない。また、祭りの化粧などでは、互いに他人の化粧を施し合って、他人の姿から自分の姿を想像していたのかもしれない。歴史の具体のイメージを肌合いで理解するのはむずかしい。しかし、おそらく現在の同様の振る舞いの中にも太古の姿は保存されているような気がする。

 鏡は、古事記の天岩戸の場面にも登場するし、三種の神器の一つと言われる八尺鏡(やたかがみ)も古事記に登場する。また、「中国の歴史書『三国志』「魏志倭人伝」には239年魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜した」とする記述もあるという。つまり、「鏡」に対する意識は、太古の宗教性を帯びたイメージや視線と現在の機能的な視線というように大きく違っている。しかし、鏡が広く普及してくるとそういう宗教性を帯びたイメージや視線も少しずつ薄らいできた。鏡ひとつとっても、このようなイメージと視線の変位がある。たぶんふるいイメージや視線は、わたしたちの意識の深い層にしまい込まれていると思う。このことも現在のイメージや視線に何らかの形でくり込んで考えるべきだと思われる。






165


 子の物語についてのメモ


 『小岩へ―父敏雄と母ミホを探して』(島尾伸三 2018年8月)を読んだ。
 島尾伸三が、作家島尾敏雄の子どもであり、写真家であるくらいは知っていた。今回、この本を手にしたのは、作家島尾敏雄に対する関心からではない。子という存在のこうむる受難についての関心から読んでみようと思った。

 わたしたちは誰でも子という存在をくぐり抜けてくる。言いかえると、わたしたちは家族(あるいは、本当の親代わりの擬似的家族)の中で、親子関係や子ども同士の関係の織りなす世界を体験する。そうしてその家族から独り立ちして、自らもまた同様の家族を形成していく。ただし、現在では、結婚しない単身の「家族」や親との同居生活も増加しているという状況の変化もある。

 島尾敏雄の家族内の夫婦関係のいざこざや果てしないいさかい、妻が精神の病に陥ったことなどは、作家島尾敏雄の作品やそれに対する批評から少し知っていた。どうしてそうした夫婦の悲劇に落ち込んでいったのかはよくわからない。しかし、特攻艇という死を覚悟した戦争から敗戦で運命のいたずらのように生の側に放り出されてしまったということ、それが敗戦後を生きざるを得ない島尾敏雄の精神に大きな負荷を与えたことだけは確かなことだと思う。

 ここで、もし島尾敏雄が特攻艇に関わっていなかったら、この夫婦の悲劇はなかったかもしれないなどの仮定は無意味である。もしそうであれば、島尾敏雄はその妻とも出会っていなかったかもしれないなど、仮定は様々なことを引き寄せてしまう。つまり、人の現在的な有り様や人と人との出会いの現在は、仮定で語っても仕方がない不可逆的なものとして存在している。

 その夫婦が織りなす家族の内での主流は、「ヨブ記」のヨブほどではなくても、二人にとってわけもわからず邪悪な受難の主流に引きずり込まれる日々であったのだろうと思う。たぶん、それでもそんな主流に抗うように二人ともいろんな小さな意志の発動や回避や選択をしてきたのであろうと想像する。しかし、時に穏やかな時間が訪れても、絶えず背後に流れる邪悪な受難の主流を意識せざるを得なかったのだろう。

 こうした夫婦の関係の悲劇が、家族内の主流として流れているとき、子どもたちはそれとは無縁にいられるわけがない。つまり、夫婦の関係の悲劇は家族全員を巻き込んで家族の悲劇となるはずである。

 家族が悲劇を引き寄せなければ次のようなことは問題にもならないかもしれないが、突き詰めていえば、子どもは親を選べない。子どもは自分が日々生きる家族という場を選べない。たとえ、子どもが惨(むご)い非行に陥ったとしても、子どもは、その家族の現場に耐えて、そこから後々まで尾を引く深く刺さった棘をなんらかの形で納得したりしながら解き放つしかないのかもしれない。本書はそのような流線のベクトルを持っているように感じられる。そのことには、島尾伸三が書き留めているように穏やかな奥さんとの出会いと結婚生活が深く関わっているように見える。

 幾多の生活経験を重ねてもう老年になる島尾伸三の、子としての目には父と母は次のように映っている。


 どうして二人は互いを許すことなく人生を終えてしまったのでしょうか。ええ、二人とも人前では穏やかなことを言っていましたが、その心中は不愉快な暗闇に覆われていたに違いありません。子ども時代の私は、ずっと病弱だったんですが、それは両親の健康な身体であるが故の乱暴な精神生活が、父にしてみれば小説を書くための材料だったとしても、それが子ども達の健康に災いしていたような気がします。子どもには迷惑千万でした。
 そこのあなた、格好だけでもいいから家族を大事にしていますか。いくら立派なことを言ったり書いたりしたって、実生活がボロボロでは、全てに嘘をついて生きているようなものだと思いませんか。
 父も武田泰淳も、「男はマゾくらいがちょうど良い」なんてなこと言っていたけれど、私は信用しないね。無頼派のおじさんたちのように、よそに愛人や不良の友達や悪い文学仲間がいたって、それは人それぞれだからしょうがないことだろうけれど、父のように自分をマゾだとさえ喩えながら、文学や歴史やそんな他人事を大事にして、最も身近な家族と楽しく付き合えないなんて、どういうことなんでしょうか。芸術や表現がそんなに大事だなんて。  (『小岩へ―父敏雄と母ミホを探して』 P208-P209)


 この子からの言葉に父も母も生きていたとしても返答のしようがないように思われる。人は誰でも、人と人とが関わり合うこの世界を意識的、無意識的に日々生きてきている。それを後から、どうしてああだったのか、こうなってしまったのかなど問いただされてもまともには答えようがないような気がする。なぜなら、それぞれの生い立ちがあり潜り抜けてきた時代や社会があり、そういう二人が、おそらくたびたびの軌道修正しようとする意志にも関わらず、夫婦として家族という関わり合いの場でそうなってしまったとしか言いようがないように思われるからである。人には、自分の意志でどうにかなる部分はそんなにたいしたことなくて、それよりも大きなものとして自分の中の無意識的な蓄積や押し寄せてくる世界というものが存在しているように思われる。


 たぶん、家族の中に大きな波乱を起こしてきたと思われる太宰治は、死んだ年に発表された短編「桜桃」という作品の出だしで、次のように書き記している。


 子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話になろうなどという図々しい虫のよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌ばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。
  (「桜桃」 太宰治 青空文庫)


 この「私」の家族は、作者である太宰治の子どもたちと人数も年齢も合っているという。しかし、太宰治が家族の場面でこの描写通りだったかは分からない。娘は作家であるから、その点について何か記述があるかもしれない。太宰治も島尾敏雄も、子どもたちからは責められるかもしれない。そして、そのことがたとえ本書のように言葉にされなくてもその思いは正当だろうと思う。一方、作家、表現者としての二人の表現もその家族という生活世界とは違った次元において、正当に評価されるはずである。そして、悲劇的なことに、生活者と表現者と言っても同一人物だからその二つの世界は相互に浸透、浸食し合う。

 では、どこで子どもとしての物語は、収束へと向かうのだろうか。おそらくそれは、父母の死後にまで持ち越される長い時間のかかる課題だと思う。家族を抜け出た後の自らの歩んできたことと照らし合わせながら、子としての自分は父母を受け止めたり和解したりということを静かにやるほかないのだろうと思う。






166


 RADWIMPSについて再び
    ―「RADWIMPS 18祭」を観て


 大根を1本もらったのでおでんを作ろうと思い立ち、作りながら録画していた「RADWIMPS 18祭」(NHK 10/8)を観た。これを観たのは、先にRADWIMPSの「HINOMARU」についてという短文を書いたからだ。その関心つながりからきている。

 これだけ見ればRADWIMPSっていいんじゃないというNHKの番組構成だった。「RADWIMPS 18祭」を作り上げていく過程と、本番の「RADWIMPS 18祭」で歌われた「万歳千唱」と「正解」の2曲を観た聴いた。RADWIMPS歌う「正解」の時には、涙ぐんだり泣き濡れている若者たちがちらちら見えた。深く心揺さぶられたのだろう。

 それらの歌は、若者たちと同じような目線で大人社会やその規範を批判したり若者たちの内面を優しく慰撫したり力づけたりしている。参加者(ファン)はその会場の励起状態のふんい気においてであるが、そのハートの本気度みたいなものを敏感に感じ取っている。だからそれほどに深く感動するのだろう。悪く言えば、宗教団体の集まりに見えた。これはコンサート一般に言えそうだが、しかし宗教団体の集まりとはならない。観衆の熱いあるいは静かな身心のたかぶりの中には、神は降りては来ない。ただ身心の熱狂と発散のうねりがあり、優しい風が観衆の肌をなでその心の襞にまで滲透するようなある場が開示されるだけだ。

 詩は孤独だけど、歌は孤独に聞くのもあるだろうが、こういう会場では集団的だ。一般に歌い手は現代でも巫女さんやシャーマンにならざるを得ない面があり、その名残を持っているように思う。こういう観客巻き込み・参加型の走りは、よく知らないけどAKB48(「モーニング娘」などその前身もありそう)だろうか。

この「RADWIMPS 18祭」のようなイベントの企画・構成にはRADWIMPSグループの所属事務所などとの関わりがあるのだろうが、どこが企画したのかは知らない。また、普通ならこの1000人の若者たちはコンサートの観客として入場料を払うけど、この場合は入場料のようなものを払ったのかどうかは分からない。つまり、運営の経済面に関心があるけどよく分からない。歌の表現自体とは何も関係ないけど、こういう形態のコンサートは力強いファンの中核部隊を形成するだろうなと思った。しかし、そのような観客獲得などは、表現の本質とは何の関係もない。因みに、ネットで見つけた「万歳千唱」と「正解」の歌詞は、今回はコピーアンドペーストできた。次に少し立ち入って触れてみる。

 例えば、「正解」という歌の場所や性格は次のようなところによく表れている。


あぁ 答えがある問いばかりを教わってきたよ
そのせいだろうか
僕たちが知りたかったのは いつも正解などまだ銀河にもない

一番大切な君と仲直りの仕方
大好きなあの子の心の振り向かせ方

なに一つ見えない僕らの未来だから
答えがすでにある問いなんかに用などはない


あぁ 答えがある問いばかりを教わってきたよ
だけど明日からは僕だけの正解をいざ探しに行くんだ
また逢う日まで
(RADWIMPS「正解」から 作詞作曲:野田洋次郎)

 ※ 初めの三連は一つながりの部分。


 「あぁ 答えがある問いばかりを教わってきたよ/だけど明日からは僕だけの正解をいざ探しに行くんだ」という月並みな言葉のフレーズでも歌に乗せると増幅されるし、若者たちはそのような歌の全体をそれぞれの日々の経験の実感において出迎え、受け止めるのだろうと思われる。いわば、歌と観衆の若者たちの身心とが共鳴している。このことは、この件に限らずコンサート一般として言えると思う。観衆がある歌に何の共鳴を起こすようなものがないならば、歌はそこでは生きて立ち上がってこない。いわゆるヒット曲というのは、良し悪しは別にして深さと人数において観衆の歌への共鳴度の高さを引き出しうるものであると言えよう。

 次に、下に引用している「万歳千唱」。歌の出だしの「濡れた瞳で明日を目指す意味を/僕は今でも探し続けてるよ」に象徴されるように、月並みな言い方をすれば、この歌も「正解」同様の青年期の「自分探し」の歌である。青年期の若者たちは、まだ将来の進学先や職業が決まっていなかったりで、はっきりした自分の場所がまだ持てない不安定な時期に当たっている。また、いじめ問題含めて学校などの小社会での人間関係の悩みが殺到することもある。大人から見れば、青年期の若者たちは、まだ社会に出る以前で、身心が割と不安定な時期に当たっている。こうした状況から、若者たちがそれらの大人社会以前の、今・ここの、日常生活経験から浮上する問題に思い悩むモチーフが置かれるのは必然である。わたしの若い頃は「自分探し」とか意識したことはなく押し寄せる世界に何とか自分の場所を確保しようとしてきただけだったが、「自分探し」はその時期の若者たちの生存の有り様の喩にほかならない。

 しかし、それが大人の世界から見て月並みに見えるのは仕方がない。大人はその若者たちの今・ここという世界をもう通り過ぎてしまっていて、それは遙かな過去になってしまっているからである。大人でも家族の中や職場でのいろんな人間関係の悩みがあるとしても、一応安定した椅子に座っている。現在のような経済社会の下の会社の職場ではその椅子もぐらぐらしているということがあるのかもしれない。そういったいろんな分野で先が見通せない社会の下では大人も不安に背中を押されて密かに「未来探し」をしているのかもしれない。

 ところで、青年期の現在をモチーフとする歌は、その渦中においてはそれが全てと見えても、人間の生涯という時間や過程から照らせば、生涯の半分もカバーできないことになる。ほんとうに、人は年を重ねてみないと分からない、見えてこない世界があるのである。

 この「万歳千唱」という歌は、今年33歳になるという作者(作詞者)とおぼしき、同じく「自分探し」を続けている青年の「僕」が、「君」(観客、青年たち)に寄り添うように歌いかける作品である。観衆の若者たちにとっては、おそらくこの歌(作者たち、RADWIMPS)は自分たちのことをよく分かってくれる同行する者たちで、しかも、いろんな物事を見通せる力を持った存在として受け止められているのではないかと思う。自分(たち)と同列の存在として自分(たち)に親身に語りかけてくるように見える、感じられるから、観衆の若者たちはグッとくるのだろう。おそらく太古の書き言葉以前の民衆の相聞歌のやり取りも原形はこのようなものだったろうと想像する。

 ところで、「僕」の悲しみや苦しみは、笑顔と対立的な負性のものとして捉えられている。正性の笑顔を奪い悲しみや苦しみをもたらすのは、「彼ら」や「ヤツら」と漠然と示されている。たぶんこれは、社会関係の負性の象徴として指示されていると思う。しかし、これらの捉え方は少し平板すぎると思われる。

 若者を主な観客とするミュージシャンたちは、自分たちが若者世界を離脱していくとともに、難しい問題を抱えるだろうと想像する。例えば厳しく言えば、作詞者は別人だが若い舟木一夫が「高校三年生」を歌うのは分かるけど、大人になった舟木一夫がその歌を歌うのとでは、昔若かった頃の観客にとっての懐メロでないとすれば、若者にとっては歌手から受けるイメージ含めて肌感覚的な微妙な感度の違いがありそうな気がする。自分が若者世界を離脱するということは、そのこと自体によって世界に対してどうしても外に立つようになってしまうからである。先のRADWIMPSの「HINOMARU」という歌は、そういう難しさからの逃避のようにも見える。なぜなら、そのような歌は若者たちの今・ここという魂の現場から離れてしまっているからである。



RADWIMPS「万歳千唱」


濡れた瞳で明日を目指す意味を
僕は今でも探し続けてるよ

笑われたりしないことが君の生きるゴールなの?
笑われてもビクともしないモノを探していたんでしょ

思い出せるかな 僕が今まで描いては路地裏にポイ捨てした夢の数
だけどこの街はそんな夢さえ吸い込んで新しい明日を吐き出す

騙されたりしないように生きるのに少し疲れたよ
アンテナの傘もとうにボロボロになってしまったよ

君の中のカナシミを喜ばせて
君の中のクルシミを勝ち誇らせて

なぁどうすんだよ おいどうすんだよ
その影に隠れ震える笑顔の手を取れるのは
君だけだろう

悲しみは君の涙を栄養にすくすくと大きくたくましく今日も育っていく
ほらまたその大きな溜息が何よりの彼らのごちそうでヨダレ出して待っている

そうさヤツらの敵は君のハチ切れそうな
その笑顔と声さ それで木っ端みじんだ
君がどんな顔で笑うかを彼は知っているよ

打ち上げ花火みたいに笑う君がいるよ
君が笑わないとさ それじゃ思うツボさ
さぁいざ、迎えにいこう

君の中のカナシミを喜ばせて
君の中のクルシミを勝ち誇らせて

なぁどうすんだよ
おいどうすんだよ

その影に隠れ震える笑顔の手を取れるのは俺だけだろう
君の中のカナシミを喜ばせて
君の中のクルシミを勝ち誇らせて

なぁどうすんだよ
おいどうすんだよ

君の笑顔にさせてやろうぜ万歳三唱
万歳千唱

濡れた瞳で明日を目指す意味を
僕は今でも探し続けているんだよ
旅し続けているんだよ
(RADWIMPS「万歳千唱」より。作詞作曲:野田洋次郎)
https://bluesea0925.com/television/2413/#RADWIMPS18-3







167


 読書についてのメモ


 いま吉本さんの戦後文学でのお薦めの一人、武田泰淳の『富士』(中公文庫 682P)という長編小説を少しずつ読んでいる。今は半分近くの300P辺りまで読み進んでいる。この作品は、富士山を背景にした戦時下の精神病院が舞台となっている。富士山は、単なる自然の景観ではなく象徴的な意味を持たされているようだ。書かれたのはおそらく雑誌に掲載された一九七〇年前後だろう。

 映画やテレビドラマやテレビ番組は、1,2時間ものがほとんどで、人が付き合いやすいようにできている。つまり、1つの作品を何回にも分けて見る必要がないように作品の構成が成されている。ただし、アメリカのテレビドラマは特に、第何シーズーンというように何年にも渡って作品作りがなされ、放送されているというのもある。例えばわたしが見続けた『ER緊急救命室』という作品は、「アメリカ合衆国のNBCで放送されたテレビドラマシリーズ。1994年9月9日から2009年4月2日にかけて331エピソードが放送された。日本ではNHKで1996年4月1日から2011年3月10日にかけてBS2で放送された。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)というように、15年位も続いている。

 このような長く続くテレビドラマを観るのは、長編小説を少しずつ読んでいくのに似ている。1、2時間で完結の作品と違って、このような長く続くテレビドラマ(物語としてゆるやかに続き変貌しながら1話完結型のドラマもある)や長編小説は、次第に物語の初めの頃の記憶は薄れてくる。ちょうど、わたしたちの日常での人付き合いのように、過去の出来事は記憶の底に次々に沈んでいきながら作品世界の登場人物たちにしだいに慣れ親しんでいく。このことは、作品を作り続ける作者にとっても同様だろうと思われる。

 わかりやすく本質的だった三浦つとむふうに言ってみると、創作も読書もともに人間の観念的な活動である。創作は、芸術(物語)という形式に芸術(物語)的な美や醜として結晶させられていく。読者は、その美や醜として結晶させられた作品を物語世界の入口から入り込んで観念的に追体験し味わっていく。作品は書き言葉を用いて書かれるあるまとまりを持った観念の表現であり、それが外化されたものである。と同時に、創作活動自体が精神の高揚し充実した消費だと言える。一方、読書は作品としてかたち成す言葉の森を何があるのだろうと高揚した気分で探索し、喜び悲しみなど感性的な体験や考えるという精神活動をしながら、そのことが同時に精神の充実した消費になっている。

 この創作や読書という人間活動のごく一部に関する捉え方は、人間がこの世界を日々生きている構造と同型だと言えそうである。人は、遠い将来の目的や目標のために現在を生きているのではない。そんな一面があるのは確かであるが、現在を味わう、消費すること自体に生存の無意識的な重心がある。

 と言うわけで、わたしはそのように読書を捉えるが、読書をどう捉えるかは人それぞれでいいと思う。ちょうどある作品の読書が人によって様々なちがった印象をもたらすように。しかし、次の内田樹の読書についての言葉は、説教臭い学校の先生みたいでちょっとちがうんじゃない?と異和感を持った。これがこの文章を書くことになった動機である。


本を読んだら、それについて人に語る、それについて書く、それにインスパイアされたことを実際にやってみる。そこまでしてはじめて本を読んだことになる。出力されない読書は実は読んでいないのと同じです。書いているうちに過去に読んだ本の意味がわかってくる。書きながら読んでいるのです。
  (内田樹 ツイッターの2018.11.8のツイートより )



 読書して何も「出力」されなくても、そこではある充実した場が体験され時間が消費されたのである。そして、本を読むということもわたしたちの内面に目には見えなくても何らかの反作用(影響)をもたらすはずである。こういうことは、わたしたちの日々の実感を内省してみればわかると思う。

 ところで、一般に人は様々な考え方を持ち得る。これが読書しての様々な違った目の付け所や印象に反映する。また、社会は、現在のように大多数の人間から見て人間的な理想に遠い形態や状況を取ることもできる。しかし、人や社会の現実的な考え方や姿がどうであろうと、また次に述べることがなかなか実感されないとしても、人間の本性のようなものが促す理想のイメージへ突き進むという主流は様々に蛇行しつつも黙々と貫かれているように見える。「読書」をどう捉えるかという考えひとつとってもそうだろうと思う。ちょうど不毛に見える会議の席で、ほんとうの問題の主流は表面で様々に議論されていることとはあんまり関係なく深く底を流れているように。






168


 覚書2018.11.24


 バーチャル(仮想)な宇宙的視線、すなわち超高度からの視線から地上のわたしたちを眺めれば、人間的な諸活動を示す光の分布が得られるだろう。わたしとあなたはその中の極微の光の粒であり、その光の分布に埋め込まれ溶け込んでしまっていてバーチャルな宇宙的視線からは見えない。

 もし、その宇宙的視線が超強力な分解能を持っていてわたしとあなたの光の粒を分別できたとしても、その内在する固有の差異は分別できないだろう。したがって、超高度の宇宙的視線からは、わたしもあなたも、わたしたちすべての人間が等価なものと見えるだろう。

 また、赤ちゃんから老年に渡る人の生涯(に近い)時間性を持った地上的な視線からわたしとあなたを眺めても、「能力」や「個性」などのこの人間界の価値観は溶けてしまって、ただ人として等価な存在に見えるだろう。もちろん、老いて仕事を引退しても、依然として成年期の価値観の残骸に囚われているということもありうる。

 現在の人間界のただ中の成年期の地上的な視線によれば一般に、わたしとあなたは、ある価値の序列の上下や良い悪いというイメージをもたらすかもしれない。もちろん、その一般的な視線を内省する批判的な視線はあり得る。また、この一般視線は人間を部分的にしか見ないから、例えば「障害者」や「老人」は本当は眼中にない。

 しかし、この人の生涯の一時期である成年期の地上的な視線は、それが人の生涯でもっとも活動的な時期だとしても、人間の生涯の一部分に過ぎないものである。赤ちゃんにとっては成年期の世界はほとんど関心の圏外であるだろうし、仕事を引退した老年の人にとっては成年期の世界は遠い無価値・無縁の世界に見えてくるかもしれない。

 ひと言で言えば、この成年期という人の生涯の部分的な時間が生み出すものの感じ考え方や価値観は、絶対的なものではなく、部分的なものだという謙虚さが実態にかなっているはずである。それはまた、時代とともに推移もする。人間界を超えた宇宙的視線や人の生涯(に近い)時間性を持った地上的な視線は、そのことを告げているように思う。






169


 メモ
  ※ブログに掲載してHPには掲載してなかった分を掲載。


メモ2018.12.23


 吉本隆明(1924~2012)はむずかしい。これまでけっこう読んできたが、難解な部分は飛ばしていた。雰囲気だけで満足していたきらいがある。自分の頭の悪さを棚に上げて言うのはなんだが、おそらくぼくの周囲では、だれもがそうだったのではないか。
 吉本の思想を完全に理解するのは、これからもたぶん無理だと思う。ぼくの頭ではとても無理だ。しかし、われらの時代、吉本は時代の情況(これも吉本語)を反射して光り輝くミラーボールのような存在だったのだ。
 (「あのころ吉本がいた(1)──吉本隆明『情況』から」より)
 (https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2018-12-23 ブログ「海神日和」2018-12-23)



 ちょっと違うような気がする。吉本隆明は、この世界及びわたしたちの中に共通に眠り動いている無意識的、不随意的なものを徹底して取り出そうとしてきたということではないか。どうしてそういう世界に向かったのか。向かうことができたのか。それは個人的には彼の出生の不幸が、戦争-敗戦による根源的な生存の喪失ということを契機として深く駆動され、新たな生き直しとして深く鋭く新たな世界を欲求したからというほかない。それは外の世界(社会や国家)に対しては不変の言葉や論理を深く欲求し、それをたどっていくこととなった。しかし、そういうことは、吉本さんのいう「十年やれば一人前」と同じく、やろうとすれば誰にでもできる可能性はあると思う。ただ、やる者が稀少なだけである。





 メモ2018.12.8
 ―『大航海時代の日本人奴隷』(ルシオ・デ・ソウザ 中公叢書 2017年4月)を読む


 わたしは、その奴隷としての具体的なイメージはよくわからないなりに、「魏志倭人伝」には中国に日本から献上したとされる「生口」(奴隷)についての記述があるのは知っていた。

 また、10年くらい前に、藤木久志の『雑兵たちの戦場 ―中世の傭兵と奴隷狩り』によって、わが国中世の誘拐や戦場での奴隷狩りによる「奴隷」の存在を知って驚いたことがある。

 本書は、主に江戸期以前に海外に連れ出された日本人の「奴隷」を何らかの形で残された史料からたどっていったものである。本書の骨になる部分を抜き書きしてみる。本書によって、通俗的な「奴隷」イメージとは少し違った実際にいくらか近づいたイメージが得られるように思う。


本書は、わずかながらでもその欠(引用者註.「ポルトガル人による日本人の人身売買について」の「実証的かつ体系的に論じた本格的な研究の欠如」)を補うべく、平易な表現で、ポルトガル人がおこなった日本人の奴隷取引の実態と、その国際的なネットワークを、実証的に明らかにすることを命題としている。
 (『大航海時代の日本人奴隷』「はじめに」P33 ルシオ・デ・ソウザ 2017年4月)

 日本の感覚では、年季奉公は「奴隷契約」ではない。つまり、ヨーロッパ人の「期限付き奴隷」に対する考えと中世日本社会の「年季奉公」の慣行に対する意識の間には、相当の隔たりがあったことを前提に、日本における国際的な「奴隷取引」の環境は考察されねばならないのである。
 (『同上』「序章」P37)

 ヨーロッパ人は、「未開の地」と見なす故国以外の土地では、宗教的道徳心に基づく合法的な取引を守る必要はないと考える傾向にあった。商人たちは異人種が自由を失う理由などは、まったく意に介さなかった。
 (『同上』「序章」P61)
(これの補足として、ポルトガルの奴隷商人などは、家畜にするのと同様の熱した烙印を「奴隷」に押していた。またその烙印を押す命令をポルトガルの国王が文書で命令している。P136-P137)

 以上から、一六世紀半ば以降、メキシコには確かに日本人がいたことが判明する。彼らの身分は一様ではなく、奴隷、商人など様々な階層があった。とはいえ、実際には、多くの日本人がポルトガルとスペインの商業ネットワークの中で奴隷としてアメリカ大陸へ運ばれたと考えるのが、自然であろう。」
 (『同上』「第二章スペイン領中南米地域」P129)

書記官ドン・ミゲル・デ・コントレラスがおこなった人口調査からは、一六〇七年から一六一三年の期間、リマ市(引用者註.ペルー)に二〇人の日本人が在住し、生活を営んでいたことがわかっている。
 (『同上』「第二章スペイン領中南米地域」P131)

 当時、カトリック教会は、ある種の原則に従って奴隷の使用を合法と見なしていた。その合法理由の一つが、正戦と非正戦の区別に基づくものであった。その定義は、権力者によって都合よく解釈されたが、前提として、「正戦」で捕虜となった者は、フランシスコの契約書に記されるとおり、奴隷の身分として扱うことが許されていた。
 一六世紀、スペイン、ポルトガルの海外進出、とりわけアメリカ大陸におけるインディオに対する侵略、虐殺行為を「キリスト教の拡大」のために、「正戦」と定義しようとする動きと、それに反発する動きがあった。十字軍運動に始まるようなヨーロッパ世界の神学に基づく法的理解を、これまでヨーロッパやキリスト教とは無縁であった新世界に持ち込もうとすること自体、現代からみればナンセンスであり、当時でもドミニコ会士バルトロメ・デ・ラス・カサス等によるスペインの植民地政策に対する激しい糾弾があり、スペイン国内の神学者の間で議論が紛糾した。
 (『同上』「第二章スペイン領中南米地域」P131-P142)

 ルイス・フロイスの『日本史』によれば、一五八八年、薩摩の島津軍と豊後の大友軍との戦闘に際し、多くの豊後領民が捕虜として生け捕りにされたとある。これらの人々は肥後地方からさらに高久へと売られ、島原や三会では、四〇名もの豊後から来た女、子供が束になって売られた。
  (『同上』「三章ヨーロッパ」P164)

戦国時代に流出した日本人の奴隷は、このような戦争捕虜であるばかりでなく、誘拐された子供、親に売られた子供なども多くあった。これらの事例では往々にして、日本人側の理解では、「奴隷」ではなく、期限付きの隷属、すなわち「年季奉公」の感覚であった可能性が考えられる。というのも、メキシコやアルゼンチン、ポルトガル、スペインなど、世界中に残る一六世紀の日本人奴隷に関する史料のうち、「自分は本来ならば奴隷ではない」ことを主張して、わが身の解放を求める訴訟に関するものが、相当数存在するからである。
 一六世紀のポルトガル人による奴隷貿易は、日本やアジアに限らず、全世界的な現象であった。人間が商品として売買されることが、最も日常的であった時代の一つである。とはいえ、映画などからイメージされるような、奴隷商人が銃や縄で追い立て、悲惨な待遇で人々を家畜のように船内に押し込むシーンは、やや限定的なものであることにも注意せねばならない。(そういったことがまったくなかったという意味ではない)。
 最も意外なことには、彼らが取引される際には、「文明化」すなわち「キリスト教化」の儀式が伴った。つまり彼らは、ポルトガル人の奴隷になる際に、洗礼を授けられる習慣があった。それは長崎でもおこなわれた。つまりイエズス会の宣教師は、奴隷として売買される人々の存在を知っていたし、その取引が正当化されるプロセスにも関与していたと言わねばならない。一五七〇年に日本人の奴隷取引を禁じたポルトガル国王ドン・セバスティアンの勅令は、「ポルトガル人が日本でおこなう奴隷取引が、キリスト教布教の拡大を妨げる」ことを理由に、イエズス会の働きかけによって発せられたものであった。しかしながら同時にイエズス会は、日本における奴隷貿易に関与せざるを得ない状況にあった。日本において、奴隷貿易そのものや、イエズス会の介入が完全に断たれる状況になったのは、慶長三年(一五九八)にルイス・デ・セルケイラが日本司教として長崎に到着し、奴隷取引に関わる者すべてを、教会法により罰すると定めたことによる。
 ポルトガル人側での日本人売買をめぐる禁令とは別に、日本の為政者からも、日本人の海外への売却を問題視する動きがあった。それは秀吉による有名な「伴天連追放令」である。・・・中略・・・イエズス会は奴隷売買のプロセスにおいて、紛れもなく一機能を担っており、それを秀吉は見逃していなかったのである。
 (『同上』「おわりに」P173-P175)


 ルイス・フロイスの『日本史』は全巻読んだことがあり、「一五八八年、薩摩の島津軍と豊後の大友軍との戦闘」のことは覚えているが、そこでの奴隷として売られた云々は記憶がない。

 埋もれた歴史の具体像を、その背景の抽出された一般性とともに得ることはほんとに難しいなと思う。そのことはわたしたちの現在自体に対してもまた。





 メモ2018.12.4


「衣着て小貝拾はん種の月」

 この芭蕉の俳句を読んで、よく意味が取れなかったので調べてみた。背景に、「西行の歌「潮染むるますほの小貝ひろふとて色の浜とはいふにやあらむ」(『山家集』)に触発されて作られている。」とのこと。 また、わたしは「種」は「たね」と読んだが、それはなぜか「いろ」と読ませ、福井県敦賀市、敦賀の西北部の海岸にある地名の種の浜(色の浜)とのこと。作品を読むのは、むずかしいなあ。


(参考)
1. http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/tanehama.htm

2.https://blog.goo.ne.jp/t-hideki2/e/93d9388c2a5085a023e2a893d7a5b719


 ちなみに、思い出したように時々柳田国男の「俳諧評釈」(『柳田國男全集25』ちくま文庫)を少しずつ読んでいる。柳田は当時の風習含めて作品をだいたい読めているようだが、わたしにはほとんどわからない。時代や風俗習慣が変わればこんなものなのかと驚く。また、俳句の場合は、語数が短く指示性(説明)が切り詰められているというせいもあるだろう。

 ところで、「海神日和」さんが、時々芭蕉についての文章を書かれている。
「伊良古へ──栗田勇『芭蕉』から(18) [芭蕉]」
https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2018-12-01





 メモ2018.10.27


渡辺京二の『逝きし世の面影』における視線は、江戸期の把握においては、家の軒先でたらいに子ども(あるいは大人も)が入り水浴び(風呂代わり?)している場面があったと思うが、ちょうど外からその軒先を眺めているような視線だったように記憶する。だから、石原慎太郎も絶賛できたのかもしれない。

ツイッターの最近のTLで江戸期を評価する言葉を目にした。過去(自分の過去含め)への入り方はつくづく難しいなと思う。『日本残酷物語』の〈1〉〈2〉を読み終えて、今『日本残酷物語〈3〉鎖国の悲劇』(平凡社ライブラリー)を読んでいるけど、現在で言えば、派遣社員などで経済的な貧困の層や犯罪を犯してしまった人々などに照明を当てている。

渡辺京二の江戸期の人々に対する視線は、このもう一つの視線によって相対化されなくてはならないように思う。ちょうど現在の総体を捉えるのに、ある程度経済的に余裕のある層への視線だけでなく、派遣社員などで経済的な貧困の層や犯罪を犯してしまった人々への視線も、どちらも欠かせないように。





 メモ2018.9.15


NHKテレビで知った「Sputniko!」(スプツニ子!)さんのツイッターのプロフィールに「Just an Artist ただのアーティスト」とある。「ただの」と付す意識には、否定的かどうかに関わらず「ただじゃない」が、どこかで意識されているはずだ。それは仕方がないことではある。で、それをまねてわたしが言えば、

「偶然に、表現者です。」あるいは「何の因果か、表現者です。」

ちなみに、吉本さんは藤田まことのファンだったのだろう。藤田まことに書いてもらった色紙には、「恥ずかしながら一生芸人です」と書いてあるのをどこかで目にしたことがある。これもいいねえ。

短い言葉にも、いろんなことが込められるし、込められているんだなあ。

調べてみたら
「米沢より愛をこめて・・ 」
https://ykkyy.exblog.jp/17711296/
に、「思い出:故藤田まことさんから、故吉本隆明氏へ贈られた色紙 」という文章が載っている。





 メモ2018.9.14


 AR詩、拡張現実を用いた詩というのについ先ほど初めて出会った。たぶん創始者のni_kaさんがウィキペディアに説明書きをしたのだろう。(戦前のゴチック文字など視覚表現を取り入れた詩というのは昔見たことがある。)

 「AR詩、浮かんでいます」
http://d.hatena.ne.jp/floating_view/20110220/1298154805


 この作品を見て、ポケモンGOを連想した。現実世界と仮想世界の連結、あるいは二重化。

  さらに調べてみると、「ARとは「Augmented Reality」の略で、一般的に「拡張現実」と訳される。実在する風景にバーチャルの視覚情報を重ねて表示することで、目の前にある世界を“仮想的に拡張する”というものだ。」なるほど、ポケモンGOの世界でもある。

 遙か太古には、今で言う舞踊や音楽や美術や詩は総合的なものだったと思われる。そこから遙かに現在に向かって分岐しそれぞれ専門化してきた。遙か太古の形の現在的な形での新たな総合性というのはありうると思われるが、どうだろうか、わたしはやる気ないけど、いろいろ試みてもいいんではなかろうか。

 わたしはスマホ持たないからポケモンGOをやったことはないけど、これが登場したとき、おっと思った。やっている当事者たちの内面として最初はちゃちな感じもあったかも知れないけど、だんだん馴染んで自然なものになっていったのではないかと想像する。これは現在の何かの未知の徴候のように感じた。






 メモ 2018.5.22


 今、『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅 2000年)を読んでいる。少し前に読んだ同氏の『宮沢賢治から〈宮沢賢治〉へ』(1993年)でも、宮沢賢治の最晩年に当たる東北砕石工場勤めのことは大まかに触れてあったが、ここでは徹底してそこを対象としている。前回で尽くせたとは思えなかったのだろう。思うに、以下の部分が本書の核心部分に当たるような気がする。


「ただし、「特攻隊」の様相にかんしては共通している。片道切符だけを手にして、計算なしにたちまち走りだす。いったん疾走にうつると、倒壊するまで自分も他人もとめようがない。東北砕石工場技師としてのそのさまは、第三章において、つぶさにみてきた。

賢治の豊饒な創造性を知るものには、それはあまりにも理不尽かつ無意味なことにうつる。なぜ、たかが肥料販売にあったら生命をすりへらさなければならなかったのかと、ほとんど憤りさえまじえて慨嘆する。私自身、長い間そうだった。

しかし、このとき賢治は「たかが」という価値判断を無化した場所に、自分をおいたといってよい。資産家の家の出であること、学問を身につけていること、創作に手をそめている表現者であること、それら社会的レベルからいったら上昇志向にある価値を、すべて無化した場所にみずからをおいた。

したがって「たかが訪問販売員」といういいかたは、当をえていない。いくばくかの反応があればこおどりし、こばまれれば屈辱をあじわう「ただの販売員をこそ生きようとした」というべきだろう。これを本質的には「ただの人間をこそ生きようとした」と言い換えることもできる。」
(『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』P173-P174)



 わたしは伝記的なことを含めて宮沢賢治についてよく知らなかったが、最近、『兄のトランク』(宮沢清六 ちくま文庫)も読んでみた。この佐藤通雅氏の宮沢賢治論も賢治の実際の生活を追いながら表現の世界を明らかにしている。以前より、宮沢賢治の像がよりはっきりしてきたように感じている。

 宮沢賢治は、私たち普通の人々のありふれた世界をこそ実際に具体的に生きようとしたのだろうが、もはや宮沢賢治、最晩年であった。佐藤通雅氏は、一方にある賢治の理想化とは無縁に、賢治の書簡や詩作品をていねいにたどりながら宮沢賢治の内面の旅程を明らかにしていると思われる。すぐれた宮沢賢治論と思う。


註.
佐藤通雅氏には、「路上通信」というホームページがある。わたしはこの中の「往還集<路上通信>」をときどき読ませてもらっている。
http://rojyo.net/





 私人・公人に関してのメモ 2018.3..29


 遙か太古にはたぶん小集落の共同に埋もれるようにまどろむように生きていた人というものが、小集落→大集落→国家→・・・・・・個・家族・近代社会・国家へという風に環境世界の分離・高度化と対応するように、特に近代以降に、「個」という存在が分離・抽出されてきた。

 現在は、この先鋭化した個が中心になっている社会である。しかし、一方でこの先鋭化した個が中心になっている社会を十分に享受しながら、戦前まで根強く残存していたこの列島の遺制である、個≡社会≡国家というすべてが未分離の意識を受け継ぐ者たちがいる。いわゆる「ネトウヨ」である。

  「ネトウヨ」は、個の存在を集団(社会や国家)の中に埋め戻そうという考え、イデオロギーにイカレているが、強権政治で一時的にはそれが可能だとしても、もはや過去の歴史の段階にの有り様に押し戻すことは不可能である。だから、『北斗の拳』のケンシロウの言葉は借りれば「おまえはすでに死んでいる」である。

 例えば、学校の授業中熱中していた生徒が、先生に「おかあさん」と呼びかけてしまったら場違いである。また、同一人物なのに、家族や友達間や学校や職場でそれぞれ名前の呼ばれ方も違う。同一人物なのに、私人・公人と分離するのも、現在の社会構造とその中のそれぞれの位相の違いを区別せざるを得ないからであり、その区別に対応している。






 ふと思いついたメモ2018.1.24


============================================
「大日本帝国憲法」と現在の戦後憲法について。
「押しつけ憲法」論議の不毛の先へ。
============================================



 現在の戦後憲法は、アメリカの押しつけとかいう言い草があるが、それなら「大日本帝国憲法」は更なる押しつけ以外の何ものでもない。つまり、それは明治維新という疑似革命と関わるけど、たとえ下層武士などがそれをになっていたとしても、私たち大衆の世界とはずいぶん無縁な革命だったように見える。

つまり、ヨーロッパの近代性を法や制度として模倣し取り入れてはいても、江戸幕府から明治維新政府への政治上層の首のすげ替えだったように見える。いかに慌ただしい変革だったとしても、そこには大衆の生活世界に働きかけたりそこからくみ取ろうということがとても稀薄だった。

夏目漱石も『現代日本の開化』で、明治維新を内発的ではない、西欧を模倣するばかりの外発的な開化、上滑りの開化と捉えていた。また、旧憲法の発布を、「絹布の法被(はっぴ)」が配られると大衆は勘違いしたというエピソードが知られている。このことは問題の所在に関して象徴的である。

旧憲法を作り上げた明治維新の官僚層や政府と大衆の間にはそんなとても大きい言葉の溝があった。この溝は、少なくとも遙か古代国家辺りから連綿と続いてきている。というわけで、大衆性をくみ取れていない旧憲法は勝手に政治上層が作り上げ交付したもので、これこそ押しつけ憲法以外の何ものでもない。

それに対して、戦後の憲法は、アメリカ占領軍が憲法制定に中心的な役割を果たしたとしても、少なくともこの国の数百万人の戦争に関わる死者たちの無言の気持ち、ほんとうの意思をくみ取り、非戦の意思として体現したものになっている。これだけでも、旧憲法とは比べものにならない。

問題はどこにあるのだろうか。この列島の遙か太古からのわたしたち大衆の負の遺伝子とも言うべきものにあるだろう。社会に上から変なものが覆い被さってきても、わたしたち大衆はそれに文句を言ったりそれを蹴ったくったりしてこなかったという心性に。

敗戦後70年にもなるのに、官僚層や政治上層には、戦争推進に上層で荷担した者たちの子孫たちがその負の遺伝子を受け継ぎ時代錯誤の言説を振りまきつつ居座っている。政治や社会が、その密室性や独占性に風穴を開けられ、そろそろ普通の人々に開かれて行くべきだとわたし(たち)は黙々とした意思で思っている。
 (ツイッターのツイートより)






 詩を読むメモ2017.12.30


 ブログの「谷内修三の読書日記」で、荒川洋治の「代表作」という、おそらく最近書かれた詩に出会った。


 代表作
         荒川洋治

1. あすはどんな定食ですかと・・・↓(気になる言葉)
2. わざわざ聞きにくる人がいる・・・「わざわざ」
3. ナスの炒めなど二種類しかないのに・・・「・・・のに」
4. あすは、親しいけれども大切な人たちと・・・「けれども」?
5. 楽しい昼食なのかもしれない・・・「楽しい・・・かもしれない」
6. それをあらかじめ知ることなのだ・・・・・・★
7. 代表作のまわりにはいつも誰もいないのだ・・・★
8. 婦人はそれを知ると
9. うれしそうに店を出て・・・「うれしそうに」
10.霧の吹く長い道を歩く・・・「霧の吹く(?)長い道」
  (※行番号を付した)
  荒川洋治「代表作」(「現代詩手帖」2017年12月号)


  わたしは詩を書いているけど、読み取る感度は普通以下ではないかと思っている。しかし、それでも吉本さんの「百回読む」ということをすればそれは補えるのではないかという思いはある。ここではまだ二三読で書いている。

 この詩は、わたしもよくわからない。しかし、ほとんどの人はこの詩がわからないのではないかという思いもある。

 6.7.行目を抜くとほとんどありふれた詩になる。しかし、いろいろ疑問が起こる。語り手の「私」が言う、「親しいけれども大切な人たち」の「けれども」ってちょっと変ではないか?なぜ「定食」なのか?なぜ電話で済むことを、おそらく行きも帰りも「長い道」を歩くのか?「霧を吹く」は知っているけど「霧の吹く」って何?この詩の眼目は指示性が希薄で断定的な6.7.行目にあると思われるが、それとそのような疑問の内で関わっているものがあるような気がする。

 比喩的に言えば、少し変わったところがあるがありふれた日常の風景画に6.7.行目(10行目もか)という抽象の線を引いている。そうして、どこかに読者を誘い出そうとしているが、それがどんな場所なのかよくわからない。

 この詩を日常で比喩すれば、なにか途中から訳のわからないことをまくしたてて立ち去っていくような人に似ている。また、「代表作」という言葉自体にもわたしは何の思いもないから、ついて行けない。しかし、そんな作者自身は、何をしているのかわかってはいるだろう。

 わたしの「詩を読む」、なかなかとりかかれないけど、そのモチーフの線上で考えてみた。
この詩に関しては、今はそれくらいで保留としておく。







170


 覚書2018.12.30


 例えば、元号をいつ発表すべきかなんてささいなばかなことや日々のひどい政治・行政や日々生活苦であえいでいる人々や・・・何にも考えないわけではない。おそらく誰でも日々の自分やその周辺のことを重力の中心としているが、それだけでなく、ちらりとでも社会についても思い考えることはあるだろう。
 
 人は生命力盛んな成年期ばかりではない。社会以前の赤ちゃん時代も社会から一歩退いた老年期もある。また、人は、目覚めて活動している昼間の時間ばかりではなく、夜の眠りの時間もある。(夜間の仕事の人々は、昼夜が逆になるかもしれない) 同様に、人は外に表出される言葉だけではない。
 
 人は誰でも沈黙の中でも思い考えるものだ。その世界は、外に表現される言葉よりある意味重く深い。成年期中心、目覚めている時中心、外に表現される言葉中心で、―そのこと自体はいいとしても―その中にそれ以外のものが総体として意識されていないならば、それらから生まれる考えは人間総体を踏まえたものではなく部分的なものとならざるを得ない。
 
 また、若い時は―わたしもそうだったが―自分はこの世界の根幹や全てをわかったと勘違いしたり、横着になりやすい。しかし、例えば、社会に出る以前でまだこの世界を十分経験していない少年が、この世界を十分にわかることは難しい。思い込みを含めて少年期なりのわかり方はあるだろう。
 
 長く生きていればわかってくるが、この世界はわたしたちが年を重ねる毎にまた違った地平に違った顔つきで現れてくる。少しずつ世界は深みと表情を変えていくように見える。誰もがいくらかは見誤って、ああそれはまずかったなあと後から内省することがある。

 少年でも大人でもあり得ることだが、また誰でも多少はそれはあることだが、無意識的に自分が今いる場所のみをすべて思い込む感じ考え方は、人間存在を本質的に見誤ると思う。それは、自分を、そして他人をも見誤るだろう。もちろん、見誤っても現実は推移するだろう。しかし、それは見誤りに沿ってではなく、人間の無意識的な主流に沿ってであると思われる。






171


 表現の現在―ささいに見える問題から 28
    ―作者なぜとても古い感覚やイメージを表出するか


 たぶんこのことは一度は以前に取り上げたことがあると思う。わたしたちの意識が層を成していると見なせば、古い層としてその深みにあって、何かに触発されて意識の表層に現れ出てくるようなとても古い感覚やイメージのことである。わたしたちが、動物のように現在のみに生きているならことはもっとわかりやすいのかもしれないが、この現在自体もいくつもの歴史の積み重なりの現在としてあり、また、わたしたち自身の現在もそれと対応するようにいくつもの精神史が降り積もっている。意識の表層では、ある程度現在の先端のイメージや感じ考え方に同調しているとしても、わたしたちをそれぞれ身心の総体として見ればことはそれほど単純ではない。現在の先端的な感覚やイメージもあればとても古い感覚やイメージもあり、それらがひとりひとり意識の地層に眠っている。時には、現在の先端的な感覚やイメージの方に身を寄せればとても古い感覚やイメージは迷妄だとひとりの内部で、あるいは他者に対して対立し合うこともある。

 昨年の十二月に出た佐伯泰英の『空也十番勝負 青春篇―未だ行ならず』からとても古い感覚やイメージを取り出してみる。以下の引用文の中の★・・・★で囲んだ部分がそれに当たっている。



「こんな大きなエリザ号(引用者註.座礁した)を浮上させるなんてことが和人にもできるのですね」
「周防国は瀬戸内海に面しているわ。廻船の事故などに立ち会い、浮上させる技を身につけたのね」
 と麻衣が言ったとき、空也は久しぶりに★尖った殺意が身に突き刺さる感触を持った★。
 この監視の眼は、戦いがそう遠くないことを教えていた。
「妙ね、ぞくぞくするわ」
 麻衣も同じ殺意を感じ取ったか、空也を見て呟いた。
「薩摩の衆だと思います」
 前置きした空也は、江戸の薬丸新蔵のもとへ、酒匂兵衛入道の次男酒匂次郎兵衛が訪れ、尋常勝負をなしたことを告げた。
「どちらが生き残ったの」
「新蔵どのです」
 (『空也十番勝負 青春篇―未だ行ならず 下』P278-P279)



 磐音は、朝稽古を終えて尚武館道場から母屋に戻る途中、庭で不意に立ち止まった。
 ★胸騒ぎを覚えた★からだ。
 修羅場に身を置いた剣術家ならではの感覚だった。胸騒ぎは、この江戸ではない、と思った。
・・・中略・・・
 とすれば長崎にいる空也の身辺でなにかが起ころうとしていると、磐音は考えた。
 (『同上』P291-P292)



 二人が崇福寺の坂下に達したとき、★崇福寺境内に静かなる戦意が膨れ上がっていることに気付いた。★
(もはや戦いは始まっておるのか)
 寅吉はもはや手の打ちようはないかと考えた。
 (『同上』P314)



 太郎兵衛の薩摩拵えの剣が虚空へと翻り、反対に虚空から盛光が落ちてきた。
 空也が地表に着く前に、二つの刃が相手の体に食い込んだ。
「ああーっ」
 麻衣は悲鳴を上げていた。
 空也の盛光が太郎兵衛の首筋を断ち切り、太郎兵衛の刃が空也の胴に斬り込まれて、二人はその場に絡み合うように倒れ込んだ。

 神保小路の坂崎邸で磐音は★胸騒ぎに目を覚ました。★
「どうなされました」
おこんが磐音に質した。
「夢を見て、魘(うな)された」
「空也の身に事が起こりましたか」
 磐音はしばし沈思して答えなかった。
 (『同上』P319-P320)



 空也は長崎に戻り、長崎奉行所の道場で独り稽古に打ち込んでいた。
「朝に三千、夕べに八千」
 の続け打ちを終えた後、奉行所の面々が稽古に姿を見せる。だが、すでにそのときには、稽古着姿の空也は★未だ目覚めていない長崎の町★を走り抜けて、浦五島町の福岡藩長崎屋敷の道場に向かっていた。
 (『同上』P276)



 この物語の主人公空也は、父磐音の子で今は長崎で武者修行をしている。十六歳で武者修行を開始して今はたぶん十九歳になる若者である。薩摩での武者修行のトラブルから薩摩の酒匂家の者から付け狙われている。その間の事情は、江戸にいる父親の磐音の耳にも入っている。

 江戸の坂崎(磐音)家の尚武館道場を中心とする登場人物たちの関わり合いは、この殺気を敏感に感じ取る感性と同様の、口で言わなくても通じ合うわかり合うような親和感に包まれている。そのような親和感は、この『空也十番勝負』もその父親の磐音を主人公とする『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズも、物語世界のイメージや価値の中心をなしている。

 このような「口で言わなくても通じ合うような親和感」が中心の世界は、人の生涯で言えば、母と幼子とが交わす「内コミュニケーション」(吉本隆明)の時代であり、人類の歴史の段階では、遙か太古のまだ言語以前の段階に当たっている。

 引用した①から⑤の文章の中の★・・・★で囲んだ部分の表現は、読者はあんまり異和感を感じることなく読み過ごす、あるいは受け入れるような気がする。それはわたしたち読者もまた、現在でもその表現と同質の感覚やイメージを意識の古層に持っていて、時には表面に流れ出てくるということを経験しているからだと思われる。例えば、身近な人や親戚の者が亡くなったとき、その人が夢枕に立ったなど今でも耳にすることがある。

 引用の①と③は長崎の空也の場面。②は長崎から遠く離れた江戸の尚武館道場の父磐音の場面。④は長崎の空也の場面と江戸の磐音の場面とが連続した場面。いずれの★・・・★で囲んだ部分の表現も現代人のわたしたちには不可能の表現となっているが、一方で、それらの表現は何となくわかる表現でもある。ここで不可能の表現という意味は、対象と人間との空間配置から見て、その人間が対象の存在やその様子を感じ取るのが普通は不可能であるということを意味している。わかりやすくいえば、感じ取れるというのは「非科学的」な表現に当たっている。しかし、武道をやっている人々がどれほどの鋭い察知力を持っているのか知らないけれど、『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズの読者ならばそのような察知力はおなじみのものである。つまり、作者はそのような姿の見えない敵の存在を察知する主人公磐音の場面をくり返し描写してきている。

 ライアル・ワトソンの本でだったか、アフリカなどの人々で道に残された動物の足跡から、その動物は何でどんな体調にあるかなどが即座にわかるという描写に出会ったことがある。太古には誰もがそのような微細な直接性としての自然感覚やイメージを持っていたのだろうと思われる。そのような自然にまみれた世界がどんなものだったのかは興味深くわかりたいと思うが、わたしたちはそこから遙かに断ち切れた、科学的と称する世界に対する感覚やイメージを主流とする現在に生きている。しかし、そのような微細な直接性としての自然感覚やイメージは完全に消え去ってしまったのではなく、現在のわたしたちの割と科学的な自然感覚に少し溶け込んだり、あるいは意識の深層に眠ったりしているのだろう。そのような古層にあるものは、例えば臨死体験などの感覚やイメージに出現したりしているものと思われる。

 わたしたちは、日々計画性や思考することを中心にして生きているようで、実は不随意的にあるいは無意識的にも日々わたしたち自身として人間的に振る舞っている。しかし、そのことの意味を十分にわかってはいない。つまり、まだまだわたしたち自身の存在自体をよくわかっていない。おそらく、この作者は、現在ではすり切れてしまって稀少になってきた察知や親和感にあふれた物語世界を描きながら、それらは現在の先端的な感覚やイメージからすれば非科学的な古い感覚やイメージに映るだろうが、それらの古い感覚やイメージはこれからどうなるんだ?と問いかけているようにわたしには感じられる。

 引用の最後の⑤、「未だ目覚めていない長崎の町」という表現は、ときどき目にする表現であり、普通の比喩表現と見なされるかもしれないが、このわたしの文脈で言えば、人ではない自然や土地を人のように表現していた時代の名残のように思える。あるいはまた、幼児が描写したり童話が描写するような表現に見える。






172


 覚書2019.1.15


 現在、晶文社が刊行中の『吉本隆明全集』の第17巻に「ミシェル・フーコーへの手紙」が収められている。これは、1978年4月に東京でフーコー・吉本対談が行われ、その翌年1979年に書かれたと判断できる文章である。どういう事情があったか、フーコーとの対話はなされなかったという。そして、その「ミシェル・フーコーへの手紙」は、この全集で初めて公表された。ちなみに、フーコーは、1984年6月に57歳で亡くなっている。

 現在は、吉本隆明「ミシェル・フーコーへの手紙」(1979年)から、四十年近く経っている。この固い文章(おそらく現在の若者たちにとっては)を、無視・受容・反発などどう評価するかは、グローバル化が進行している中での私たちの意識の現在の姿を明示するリトマス紙となると思う。

 もちろん、吉本隆明「ミシェル・フーコーへの手紙」を読まなくても、その手紙の中、吉本さんが西欧の知性の尖端を走り続けるフーコーとの対話の場で配慮した問題は、おんなじ人間だからでは済ませられない文化・文明の地域差がもたらす大きな断層の存在であり、この現在の日々に生きるわたしたちの意識の場に関わることであり、その問題に対する判断・考え・行動を誰もが日々無意識的にも実行している。

 私たちの意識内では、意識の深層(古層)と折り合いを付けながら意識の表層から中層に渡って西欧化の度合いを深めてきた。つまり、古代から先進中国との関係でそうしてきたように、和洋折衷の接ぎ木をなしてきたが、一方、どうしても折り合いを付けられない部分の排外的なギクシャクした噴出として現在の日本会議・ネトウヨ系があると思う。大きな転換期には、受容と反発とが必ず湧いてくる。

 しかし、何度も使う例えでいえば、全自動洗濯機を使えるようになった現在に、洗濯板の洗濯や川での洗濯を薦めたり強制するのは、人間と文明の進展の法則を理解していないというほかない。北朝鮮のような独裁国家で、国家的な強制力を使って一時的にニセの主流を形成することはできても、それはほんとうの主流とはなり得ない。
  (ツイッターのツイートに加筆訂正。)






173

 

 覚書2018.1.27


 SNSによって、老若男女誰でもが、私たちの内面に黙ってしまっておくことなく、善意も悪意も可視化できるようになった。以前のリアルの近距離世界では、言わずに黙っておこうとか今回は我慢しておこうとかで一般には対処していた。

  それが、大げさに言えば世界中がバーチャルな近距離世界として結びつけられてしまい、パンドラの箱のように悪意を含む内面がバーチャル世界にさらけ出されやすくなってしまった。それはバーチャルだけど、人は言葉によって傷つくことがあり得るように、人の身心に刺さる。

 リアルの近距離世界ならこれ言ったらマズいかななどの抑止力も働くが、匿名性のSNS、すなわちバーチャルな近距離世界では、そんな抑止力の鍵が解除されてしまった。同様にリアルの近距離世界でなら、古い言葉を用いれば「長幼の序」のように自分より年長の人には敬意を払うということが、 今でも一般的だと思うが、匿名性という事情もあり解除されてしまった。

  何が問題なんだろうか?SNSは、私たちに従来なら不可能だった新たなバーチャル次元の人と人との出会いや付き合いや情報との接触を可能にしたが、同時に人間の持つ濁りや悪意も放出したり、組織化したりすることを可能にした。

 こうした事情は何度か触れてきたが、結論は月並みだ。人間というものを濁りや悪意の方に引きずって行こうとするのではなく、パンドラの箱にちなんで言えば、なけなしの「希望」の方へ新しい倫理を形作っていくしかない。先ずは、そんな自覚をひとりひとりが芽生えさせることが大事だと思う。

  この社会の欠陥と対応した「オレオレ詐欺」のような悪は簡単にはなくならないだろうけど、そして長い時間で見れば、たくさんの人々のそれらの意志や言葉、すなわち新しい倫理が、少数の人間的な濁りや悪意の放出を包み込んでしまえるようになることが大事だと思う。それは社会も変える。

 現在では、社会や行政や政治などあらゆるものが意識的か無意識的かは問わずに閉ざされていたものが知らぬ間にオープンになってきている。政治家でも社長でも―当事者の自己イメージと大多数の人々が彼らに対して持つイメージとでは差異があるのかもしれないが―ずいぶん普通の人間化したイメージになってきていると思う。したがって、それに対応するように、いろんな問題が表面化しやすくなっている。

  付け加えると、政治家や文化人、専門家と呼ばれる知識層も、SNSなどで自己の内面を平等にさらけ出すようになった。わたしたちと同様のバカさ加減も持っているんだとわかるようになった。こうした社会のフラット化は好ましいことだと思う。

  社会のフラット化と言えば、現実条件からはまだまだ空想になるけれどわたしの素人考えでは、今までは差異(逆に言えば、共通を志向する意識)をもとに経済も思想も文化も、為替相場も金融もあったように思う。これが社会や様々な分野、最終的には国家間などがフラットに均質化、共通化されてしまう段階に至ると、また別様の世界の地平に出会うような気がする。






174


 メモ2019.2.3


 『超ソロ社会―「独身大国・日本」の衝撃』(荒川和久 2017年1月)を読んだ。
 各種統計データと聞き取り調査をもとに、現在のわが国の社会が入り込んでいる流れ、「超ソロ化社会」という新たな社会の流れの像や人々の意識を明らかにしようとしている。
 
「最後に、家族の形自体もまた多様性を発揮していくいくだろう。
 男女のカップルが結婚をするという形だけではない。同性婚の合法化や性的関係を伴わない同性同士の友達婚というパートナー関係も出てくるかもしれない。」「どんな形にせよ、人は人とのつながりがないと成立しない。ソロ社会というのは、一人ひとりが別々に住んでいたとしても、どこかで誰かとつながって、安心して生きていける社会なのだ。そのための生活サービスは新たに開発されていくだろうし、それを実現するために人工知能やテクノロジーはある。」 (「第6章 ソロ社会の未来」P269『超ソロ社会』)

 
 わたしたちは、日々の生活ではどこかすばやく慌ただしいなという感覚を持っているが、わたしたちの浸かっている社会は相変わらずのようでもありつつその深みでは日々大きな変貌をゆっくりと遂げているようにも見える。わたしたちの日々の実感は小さくても社会の一部にあり、また社会全体の物質的・精神的な大気を呼吸しているから、社会の全体的なイメージを獲得する上でその実感は大事である。その上でよりはっきりした社会全体の像やその動向をつかむには、ここでなされているような統計や調査が必須であるように見える。したがって、今回の厚生労働省の「毎月勤労統計」が不正な方法でなされていて統計の体をなしていないということは、政府・行政の統計が使い物にならないこと、むしろそれが誤った社会像を与えてしまうということで、社会的に重大な問題である。

 テクノロジーは急激な進歩を遂げている。一方、わたしたち人間の方は少しずつゆっくりと新たな事態に慣れてそれを自然なものと見なすようになる。テクノロジーとわたしたちの生活意識は直接対応ではないが互いに関わり合いながら新たな生活の舞台を今現在も進んでいるのだろう。例えば、本書でも触れられている「人工子宮」(P258-P259)―初めてその言葉に出会ったのは吉本さんの文章だった―は、今ではまだ誰もがゆめまぼろしみたいなイメージしか持てないと思われるが、それも安全で完備されたものとして現実化されれば、わたしたちの未来の新たな生活の形に大きく寄与するだろう。

 ところで、わたしはほとんどスーパーの方を利用している。コンビニは振り込みやFAXで何回か利用した程度に過ぎない。コンビニは日々生活に必要なものは一応そろっていて品揃えは良さそうに思ったが、商品はスーパーより割高である。どうしてコンビニをよく利用する人々がいるのかふしぎに思ったことがある。本書では、コンビニは、特に「ソロ男」や「ソロ女」のニーズにぴったり合致する条件や充実したラインナップ(商品などの品ぞろえ)をしているからだと説明されていた。また、彼らはコンビニとスーパーを使い分けているともあった。 (「第5章 ソロたちの消費」P176-P178『同上』)

 わたしたちひとりひとりの日々の実感では本書のような明確な像は得られないだろう。種々の統計データや調査データ及び聞き取り調査などのなせる技である。

 社会やその中の人々の生活状況をつかむのに、古代ではたぶん儀礼的な要素もあったと思われるが、「国見」ということがあった。新古今和歌集に載せられている次の和歌は仁徳天皇の作と言われているが、そういう事情は問わないとして、これは高い所からの「国見」という現実の視線を向けることによって、社会状況を把握するというものを示している。

 高き屋にのぼりて見れば煙けぶり立つ民のかまどはにぎはひにけり

 古代律令制の時代になると、人民や土地や租税の納入量など数量の判断や現実把握や先の予測なども問題として浮上してきたのではないかと思われる。本格的な数字や数式による統計は、近代に始まるのだろうが、古代でも国見も含めて統計的な考えが行われていたと見なせるように思う。現在では、統計は人間社会の様々な分野で使われているように見える。また、物理学など自然学の分野でも統計が使われている。それは、より細分化され、より専門化されてきているようだ。

 古代の国見に対応するものとして、アメリカの人工衛星が捉えた宇宙から見た地球の夜景(夜間光)というのがある。それによって地上の夜間の照明や産業活動などを光の分布として計量したりイメージしたりすることが可能になった。わたしたちは、人工衛星からの視線を活用することによって、わたしたちの地上での諸活動や産業活動に内省を加えて活動できることになる。また、人工衛星からの電波を利用して農機具を制御し無人での作業も可能になってきている。古代の国見は現実的な視線だったが、現代の人工衛星からの視線はバーチャルな視線とも言うべきものになって視線の次元がくり上がっている。今後は、このようなことがさらに加速され緻密化されていくにちがいない。また、地上的には、現在はひと昔以上に店や企業は消費者のニーズとそれに対する対策を取ってきているだろうが、今後は個々人のカードなどと店との間がさらに密接に関係づけられて、双方向的にいろんな情報としてやり取りされていくだろう。それを良い意味として考えれば、店側から見れば当然店の利潤を求めるより効率的な経済活動だが、私たちから見ればわたしたちの利便性を今まで以上に高めてくれることになる。






175


 問題の所在のためのメモ
   ―動的な渦中としての現在から


 落合陽一『日本再興戦略』、古市憲寿「ニッポン全史」第1、2、3回(註.1)、佐藤航陽『お金2.0―新しい経済ルールと生き方』など、三十代くらいの若い世代の文章や本を最近読んでいて思ったことがある。現在がすでに新たな自然感覚や自然認識の水準に突入した世界にあるということを背景として、その現在の尖端に浸かっているという感触から落合陽一や佐藤航陽の言葉は出てきている。つまり、同時代に生きるわたしたちが割と無意識的に日々生活している世界を、それぞれの言葉の中身の正否は別にして、その世界の渦流の尖端を自覚的に歩こう、あるいは疾走しようとしているように見える。中でも、佐藤航楊は、時代状況や時代の推移に関する感度の良い見識を持っていて、彼の別の本も読んでみようという気持を起こさせるものを持っている。

 わたしは、『子どもでもわかる世界論のための素描』の「8.層成す世界 3 (覚書)」で、人間の「自然認識」を0次元から4次元の層に分けて粗描的に考察したことがある。( https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/8e824f8ad7441ceb304a18757771de76 ) また、わたしは、柳田国男が「火の昔」でたどって見せたような、火から電灯へなどの変貌や時代の推移の仕方というものにも、特別の関心を持ってきた。

 ところで、このようなわたしたちの自然認識の水準などを初めて問題にしたのは、わたしの知る限りマルクスに学んだ若き吉本隆明である。わたしは、二十代の頃、当時はその言葉の意味するものがよくわからなかったが、以下の言葉を印象深い言葉として覚えている。時々その言葉を思い起こすことがあった。


しかし、わたしのかんがえでは、人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの<自然>哲学は改訂を必要としている。つまり、農村が完全に絶滅したところでは。


現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖とその自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい。
 (「カール・マルクス」P190-P191、『吉本隆明全著作集12』勁草書房 1969年10月)




 これは、1966年頃、今から50年位前に当時の状況を基に書かれた文章である。ここに描写されたような未知の世界にわたしたちはすでに浸かっている。そのように変貌した社会を敏感に感じているのは、言葉で言えば言葉の若い芽の部分であり、世代として言えば、若者たちだろうと思われる。
 若い世代の文章や本を最近読んでいて思ったことの問題の所在を少しでも明らかにするために、以下メモとしていくつか取り出してみる。その問題の所在というのを、ひと言で言い換えてみれば、同時代の現在の渦中に誰もが日々生きているわけだが、世代的なまとまりの一般性として抽出すると、同じ現在を呼吸し享受しているにもかかわらず、〈現在〉というもののイメージについて世代間でずれや違いがあるように見える。それらのずれや違いの中からどうしたら全体的な〈現在〉のイメージが得られるかというモチーフということになる。


1.〈現在〉とはなにか。
 わたしたちは、個として見ればひとりひとり絶えざる〈現在〉を生きている。この現在は瞬間的な時間である。しかし、その現在も生きられる、あるいは消費されることによって遠離り過去となっていく。こうした生命活動の機構をわたしたちは日々生きている。

 ここで像として取り出してみたい〈現在〉は、そうした生命活動の瞬間的な機構としてではなく、また、近代以降を現代と呼ぶほどの長い時間でもなく、10年前後の社会も意識も大きな変動を被らないような時間の幅を具体性としては想定している。


2.〈現在〉を微分してみる
 同じ現在といっても、人それぞれ違う。その違いを超えてある程度の共通性として、現在に生きる人々全体とか、あるいはその中に世代的なまとまりとかとして抽出できそうに見える。

 〈現在〉というものにわたしたちが視線を向ければ、そこにはあるひとつの普遍性として内蔵されたものがあり、それを大きく分けて比喩的に言えば新しい芽の部分と古い胴体の部分とがあり、層をなすように分布している。そこからいろんな具体性を介して普遍性としてのある構造が外に現れ出てくる。そして、その現在に生きる人々すべてをその普遍性が貫き、影響下に置こうとするとしても、その現在に生きる人々は固有の生い立ちを持っており、現在を呼吸し感受し考え行動する形は、一般的に同一ではない。一般に、世代的に見ると、若い世代が現在の新しい層、すなわち先端的な部分の感性を象徴し、老年世代は現在の引きずっている古い層、すなわち消えかかっていく古い部分を象徴している。


3.〈現在〉から抽出する
 まず、わたしたちが、いま・ここに生きて在る〈現在〉を対象として、ひとつの抽象性として、抽出し取り出してみようとする場合、わたしたちは外にある対象を対象として捉えるというようにはいかない。たとえそのように見えても、わたしたちは〈現在〉の渦中にありながら〈現在〉を対象としようとしているのである。物理学ではこうしたことから来る問題として不確定性原理というのがある。そのようなわたしたちの視線と〈現在〉との関係の構造は、一般にもよくあり得るもので、変えようがないものだ。そこで注意事項を挙げるなら、わたしたちは〈現在〉を不随意運動のように無意識的に生きている面も大きいから、できるだけ内省的に、特に自分の属する小社会以外にも想像力を働かせながら、しかも過去や過去からの流れをできるだけ参照しながら、〈現在〉を対象とすべきだと思われる。付け加えれば、わたしたちの現在は、このようなことや内からの視線と外からの視線の関わり合いの問題などを意識したり考慮したりせざるを得ない段階に至っているということである。わたしたちが、対象を捉えたり了解したりする場合の一般性としての注意すべきことである。


4.〈現在〉の渦中のふるまい
 2.でも一度触れたが、ある共通性として抽出されうる同じ現在に生きている人々といっても、その内側ではまた世代的な共通性としていくつかの形で抽出できるように見える。個の固有の生い立ちからくる微細な違いは捨象したとして、一般的にいえば、青少年が〈現在〉の尖端に近く、壮年期・中年期は現在の産業的生活の中心近くに位置し、老年が〈現在〉の出自である過去の方により近く位置している。
 おそらく〈現在〉におけるこういう世代的な意識の分布状況があるから、ある新しい事態が社会に登場したときの初期段階には必ずと言っていいほど現れる人々の感受や意識の反応の型、すなわち、親和・中性・反発というものが現象してくるのだろう。柳田国男の時代のラジオの登場の時もそうだったし、現在の電子辞書やケイタイの登場の時もそうだったろう。しかし、〈現在〉は、時代は、そうした状況の渦の中、動きを止めることはない。人々をしてそれらを自然なものとして慣れさせていく。こうして、時代は推移してきたし、これからも推移していくだろう。


(註.1)
 「ニッポン全史」 古市憲寿 
  第1回 「家族」と「男女」の日本史 (『波』2018年12月号、新潮社)
  第2回 未来の歴史 (『波』2019年1月号)
  第3回 戦争と平和の歴史 (『波』2019年2月号)
  ※ わたしが偶々とっている新潮社のPR雑誌「波」に連載され始めたもの。






176


 問題の所在のためのメモ・続 ―図表から




註.
(図1-1)、(図1-2)は、それぞれ、精神的な面(精神史として)からの一般性
としての抽出、物質的・産業的な面(文明史として)からの一般性としての
抽出であり、ともに時間の層をなしている。


註.
AからDは、現在を生きる人々を世代として一般性として抽出したもの。
●の大きさは、年齢の大きさと対応する。


a~dは、(図2)の各世代から任意に抽出された一般性としての個である。
80歳のaは、6年程度は先の戦争期の時間である。


 以下、もう少し説明を加える。

★(図1)について
 わたしたちはそれぞれの具体的な地域のある住まいを中心に日々具体的な生活があるばかりであるが、これを抽出して一般化すると、わたしたちは現在という地平に生きている。社会の精神的な大気を呼吸し、社会の産業的なものと関わりながら誰もが日々生活している。そうした中で、両者の一般性を吸収しながら、ひとりひとり固有の考え方を形成していく。

 したがって、(図1-1)は、精神史としての時間の層をなす現在であり、、(図1-2)は、文明史の時間の層をなす現在である。両者とも層の上の方が現在の尖端部分に対応し、層の下の方が、昔の尖端的な部分、つまり過去の時間を示している。


★(図2)について
 わたしたちは、等しく〈現在〉を生きている。現在という地平に同じく立っている。そういうひとりひとりのわたしたちを世代として抽出したのが(図2)である。
 同じ世代に属していても、ひとりひとりの考え方は千差万別である。しかし、(図1-1)と(図1-2)で書いたように、わたしたちは、自然的、無意識的に、社会の精神史の現在と文明史の現在と一般性として関わり合っている。その社会の精神史の現在と文明史の現在を割と自然なものとして背負ったものが世代という概念(考え方)である。


★(図3)について
 (図2)の世代から任意に抽出した個であるが、当然のこととして個の固有性を捨象した一般性、抽象性と見なしている。この図の年齢という生きてきた時間の深さが、層をなす精神史や文明史の層の深さと対応している。すなわち、世代的な様相を形作る要素になっている。

 しかし、現在を生きる人々は、自然なものとして慣れてきたという無意識的なレベルでは、層をなす精神史や文明史の特定の層と対応する「世代」としての共通性として抽出されるとしても、例えば、現在の「ネトウヨ」現象のようなこともある。ネトウヨは、若者も壮年も老年も、一方では現在の消費社会を享受しつつも、そのことと相反するような復古思想や排外主義と結びついている。個と国家を平気で短絡するようなこの列島の古い感性を持っている。


 近代が上り詰めてきてその矛盾が、人々の内面にある危機感を醸成させて、文学・思想に限らず、獲得した近代性を打ち捨てて全社会的に退行の感性(遠い昔がなつかしい、帰りたい、などなど)や思想へ先祖返りさせたことがある。先の戦争期にはそれが全社会的に顕著に現象した。このように危機的な状況においては、人間は「世代」としての共通性は打ち破って、より古い精神史の層に退行できるからであろう。ちなみに、人が瀕死の危機的な状況では、臨死体験というというものが起こることがあるという。その場合、ベッドに横たわる自分を斜め上方から見ている視線があるという。吉本さんは、これは人間が遙か鳥だったときのイメージが退行的に出ているのではないかと捉えていたように思う。


 そこで皆さんとともに考えてみたいのは時代の変化、世の中の移り替りというものにも二通り、ある一つの時を限りにはっと改まってしまうものと、いつを境ということもなしに、誰も気づかぬうちにそろそろと、古いものが新しくなるのとがあって、どちらかと言えば第二の方が多いということであります。少なくとも我々のあかりなどはこの方でありました。たとえば都会には電燈より他のものは知らず、元は行燈(あんどん)でありまたは蝋燭(ろうそく)であったことくらいを、やっと知っている人が多いのに、今でも東北地方の振わない田舎に行くと、まだ石油ランプの恩恵すらも知らずに、あぶら松の割裂きを焚いている家も少しはあるのです。そうかと思うと一方には、昼間でも電気をつけてその下で働く人もあり、さらにその中間の石油燈や種油の行燈をもって、ただ一つの夜のあかりとしている家々が、捜せばまだ少しは国の内にあるのであります。しかもだんだんと昔へ遡(さかのぼ)って行けば、今日は電燈の明るい光の下に夜を送る家でも、もとは一度はランプに石油をともし、行燈の燈芯のくらい火をたよりにしていた時代があり、なお今一段と昔の世になると、どんな身分の高い方々でも、松のあかりで辛抱なされた時代があるのであります。
 (「火の昔」P247-P248『柳田國男全集23』ちくま文庫)



 柳田国男は、この「火の昔」(昭和18年頃の文章)で、文明のもたらした灯りの歴史をさかのぼると、電燈→行燈→松のあかりとなっていくが、現在の列島の都市や田舎を調べてみると、この三つの灯りの形態がまだ分布しているということが語られている。これは文明のひとつの具体例である灯りの歴史であるが、文明の時間的な進展の歴史は、一挙に全社会的に変化するわけがないから、空間的には新・旧が現在に分布していることになる。これは、現在を眺め渡してもいろんな場面で実感できることだろう。

 また、このことは、文明の推移に限らず、精神史の推移についても同様に言えるのでないかと思う。そうしてこうしたことは、現在のわたしたちの世界についても同様に言えることで、法則性のようなものだと思われる。強力な政治権力を行使して、文明史も精神史もある日を境に一挙に変わるということはあり得るとしても、表面的にはそう見えても地下深くではまた別様に進行しているはずである。

 (図3)で、世代によっては古い時代、すなわち古い精神の層に浸った時期の経験を持っている。これを同時代の現在という地平で眺めると、ちょうど柳田国男が現在までの灯りの歴史の段階の新・旧が現在に分布していると語ったのと同じく、より古い精神の層に浸った時間体験を持つ者もそれを少なくしか持たない者もあるいはまったく新しい時代の精神の経験しか持たない者も、現在という地平に同時的に分布しているということになる。

 人間が生み出した「精神史」と「文明史」、それらと〈現在〉という地平でわたしたち人間が関わり合いつつ生きているということの考察とそのイメージ、以上のことは、当たり前の普通のことかもしれない。しかし、その普通のこと、普通のように推移しているのを捉えるのは難しい。そして依然として、それは明確な像になっていないように思われる。

 このメモのきっかけは若い世代の本を読んだことだが、メモに取りかかっていて、微かに、あるいはちらちらと念頭に現れたのは、吉本さんの次のような言葉である。その以下に引用する文章は、『子どもでもわかる世界論のための素描 ―宇宙・大いなる自然・人間界論』の「7.層成す世界 2」に一度引用したことがある。わたしの、時折思い出しつつ、ずっと考えていることである。


 まだ熟した考えではありませんが、最近ぼくはこんなことを考えています。
 人類史というのは、人間がおサルさんと分かれたときから現代までずっと続いていて、ふつうはわれわれの身体の外にある環境(外界)、つまり政治現象や社会現象などの歴史も一応、「人類史」と考えられています。ところが、このあたりのことをもう少し細かくいうと、これまで考えられてきた古代史以降の環境の歴史というのは、いわば文明史あるいは文化史にすぎない。人類史全体ではないということになります。したがって人類史を探るにはやっぱり人間がおサルさんと分かれたところまでさかのぼる必要があるのではないか。
 それからもうひとつ、「人類史」にはそうした人類史のほかに、もう一種類あるのではないかということを考えています。別種の人類史とは何かといえば、個々の人間がそれぞれの身体性のなかにふくんでいる人類史です。個々の人間の身体性の範囲のなかで行われる精神活動や身体の運動性は人類史を内包していて、文明の移り変わりとか社会の変遷といった一般的な人類史とは別個のものとして考えられるように思います。
 そうしたふたつの人類史を媒介するものが、身体性の順序からいえば、種としての遺伝子の変化、風俗習慣の変遷、地域的差異に基づく言語の発展の仕方の違い、文明・文化の進展具合と、その根底にある自然へのはたらきかけ方……これをつづめていえば、種、住んでいる地域的環境、言語、この三つがふたつの人類史を媒介している。いまはそんなふうに考えています。
 (『「すべてを引き受ける」という思想』 P70-P71 対談・吉本隆明/茂木健一郎 2012年6月)
 ※ この対談は、茂木健一郎の「まえがき」によると、二〇〇六年七月~十月にかけて行われたものとある。

 歴史というと、前にもいいましたように、未開や野蛮な時代からどのように進展してきたか、すなわち文明・文化の進歩の度合がどうなっているかといった「外在史」を意味するのがふつうですが、個々の人間の身体性もそれぞれ現在までの人類史を内包しています。身体性の順序でいえば、種としての遺伝子の変化、風俗習慣の変遷、地域的差異に基づく言語の発展の仕方の違い、文明・文化の進展具合と、その根底にある自然へのはたらきかけ方……といったものが、身体性の「内在史」と、ふつう一般にいわれる「外在史」としての歴史を媒介する項目だと思いますが、この媒介項が「思想」だと、ぼくは考えたわけです。
 言い換えれば、思想は、種の問題や遺伝子の問題を別とするなら、かなりの程度において地域的差異に基づいている。ひとつは地域的な風俗習慣の違い、もうひとつは地域的な言語の違いで、主としてこのふたつの差異に基づく考え方の違いと言えます。
 ( 『同上』 P192-P193 )


 だからぼくはいま、おサルさんと分かれたときからの歴史をやる以外にないよと考えているわけです。そうすればはっきりと見通しがきくというか、これから未来のことについてもわりあい誤解・誤用が少なく観測できるはずです。それ以外のやり方では、世界がどう展開するか、ちょっとわからないのではないでしょうか。また、わかるようにいってはダメだともいえます。ましてマルクス主義のように情況論だけしかないのはもうダメだ。つまり精神の問題として、あるいは精神活動の問題として、人間の歴史をぶっ通しにわかっていなければ多分間違えるだろうと思います。これが、ぼくがフーコーと対談したときに思ったことであり、それを契機にして考えはじめたことです。
 ( 『同上』 P179 )





177


 問題の所在のためのメモ・続々
   ―分布や流れとしての〈現在〉


 現在という地平には、時代の尖端部もあれば古い時代の名残もある。同様に、人の感性や考えも人の世代というものを介してそれらがその地平にまだらのように新旧が分布していると見なすことができる。したがって、人や人の世代を介して〈現在〉は新しい顔も古めかしい顔も様々な表情とともに社会の中に現象する。別の言い方をすれば、〈現在〉というものの広がりには、さまざまな新旧の時間性が分布している。

 政治・経済、マスコミ、ファッション、芸能、スポーツなどなどが時代の尖端の方で社会に引力を行使する。政治は上からの規制力として権力の力線を伴って延びてくるし、マスコミは政治と同じく国民に仕えることを本質となし得てないから、この国の歴史的な古い権力感性―― 一昔前よりはずいぶんフラット化してきてはいる ――を自然性のように発揮して、ある作為や誘導などの力線をもって社会に浮上してくる。

 それらの象徴的でわかりやすい形式は、日々洪水のように押し寄せてくるコマーシャルである。どこかトゲを隠し持つ政治・経済やマスコミと違って、よりソフトで自然のようにわたしたちに感じられる形式でやって来る。しかし、その本質から、商品を買わせるという「ある作為や誘導などの力線」がなくなることはあり得ない。それはコマーシャルの死だからである。

 そういう時代の尖端の方からやって来るものに引きずられるようにわたしたちの日常的な生活世界はあるように見る者もいるかもしれないが、――特にそれぞれの業界人や業界関係者たちはそう見なしているかもしれない――それは違うように思われる。それらを超えたところで、わたしたち人間の人間的本質が織りなす歴史の主流とも言うべきものが、無意識のようにして〈現在〉というものを、その尖端から後背地に渡って深みで駆動しているように思う。

 その歴史の主流に関わる大多数の人々の感性や意識模様の現在的な状況は、戦後70数年を経て産業社会の高度化と対応しながらもずいぶん様変わりしている。
 今では先の戦争時代を体験した世代、すなわち1945年(昭和20年)以前に生まれた世代は、歯が抜けていくようにだんだん亡くなっている。あることを実際にその渦中で直接体験したのと間接的に知識として学んだ体験とでは大きな違いがある。前者は肌感覚レベルの理解・実感があるが、後者は知識や概念としての理解に過ぎない。そうして、このような違いが存在することはいかんともし難いことである。このような直接経験と間接経験との違いが、どのような事態を引き起こすことがあり得るかを示すできごとがある。


 まず津波は地震があってから数分から数十分しないと来襲してこないものだということが分かっていれば、あわてふためかないで部落の人たちは充分に退避できるのである。それには古老の経験にもとづく知恵が大きくものをいった。たとえば明治二十九年、昭和八年の再度全滅した姉吉部落(宮古市)と鵜住居村両石(釜石市)で比較してみると、昭和八年の死者は両石では二、三名にすぎないのに、姉吉では救われた人がわずか二、三名であったのでもよくわかる。この生命災害の差は、両石には明治二十九年の津波を経験した古老がなお数人いて、その退避指導にあたったこと、姉吉は明治二十九年に全部死亡し、津波の体験者が皆無で、二十九年の津波当時の無知識ぶりをふたたび発揮しているのである。また被害を受けた低地の集落を高地に移住すれば、当然新しい災害を避けられるはずであったが、それを現実に実行するにははなはだしい困難をともない、したがって再度大きな被害をうけた場合が少なくなかった。
 (『日本残酷物語 4 ―保障なき社会』P209 平凡社ライブラリー)



 姉吉と両石の二度目の昭和八年の津波被害の大差が、前回の明治二十九年の津波経験者の存在の有無だったと述べている。明治二十九年に全部死亡した姉吉に住む人々(引用者註.その後他所から移り住んだか)も津波が来たらどうしなければならないとかは知識では耳にしていたかもしれない。しかし、経験があるかないかは、これほどの違いをもたらすのである。このことは、戦争をどう感じ考えるかという場合のその現実的な判断、すなわちきちんと捉えるか、空想的に捉えるかの判断においても同様なはずである。そういう中で、わたし自身を振り返ってみれば、経験あり経験なしの世代が、家族の中や学校や職場やその他の小社会で話などを通して相互交通する中で、直接経験・間接経験の間の溝が、個別的にほんの少しは埋められてきたのかもしれない。

 後から振り返って内省すれば、このようにわたしたちの先人の〈現在〉は、幾多の悲劇をくり返しながら歴史の流れの波をなんとか潜り抜けようとしてきたのだろう。本書は、明治、大正、昭和の敗戦までの政治、経済、文化の表舞台とはほとんど関わりなく、しかしそれらの諸政策に翻弄されつつ生きる、一般の民衆やさらにその下層民の〈現在〉をたどっている。わたしたちの現在を照らす上で一読の価値がある本だと思う。現在と違って、まだ貧しさ自体が中心主題の時代であった。もちろん、貧しさ自体からいくぶん解放されたといっても、わたしたちの〈現在〉も先人の〈現在〉とその本質はなんら変わらない。

 しかし、現在から見て100年後、1000年、数万年後となると、事情はさらに違ってくる。現代では昔と違って膨大な情報が記録として残せる時代になったとしても、この〈現在〉も、時間の海に埋もれてしまって過去となってしまうはずである。このような時間や歴史の海の中の〈現在〉の本質に変わりはないはずである。わたしたちは、現在のところ100年に近い生涯の中で、自身の直接経験の過去とさらに深い人類の過去ともいうべきものを無意識的に呼吸しながら現在を日々生きている。

 何が問題なんだろうか。おそらくわたしたちは、〈現在〉というものの構造を意識しそれをよりクリアーに明らかにすることを現在の世界の方から促されているのだと思う。 (終わり)






178


 メモ2019.3.1 ― 吉本隆明批判から


 橋爪大三郎の『増補版 永遠の吉本隆明』(洋泉社新書 2012年5月 ※旧版『永遠の吉本隆明』は、2003年11月刊行。)を読んでみた。橋爪大三郎については、国家や政治について現在の諸制度を前提として認めるような発想をしている位のイメージしかなかった。

 2018年9月に、未発表だった「ミシェル・フーコーへの手紙」が初めて収められた『吉本隆明全集』(第一七巻)が刊行された。その後同年末に、それに触れた橋爪大三郎の「日本の知についての絶望 吉本は身を縮こまらせ、恥じている」という文章にネットで偶然出会った。例えば、


この書簡で、吉本は身を縮こまらせ、恥じている。それでも礼儀は尽くすべきだと、背筋を伸ばして書簡をしたためた。しかし、返事の来なかった書簡を、発表することはなかった。晩年、吉本本人に、著作を西欧語に翻訳してはと薦めたことがある。「いや、私のは、そんなんじゃない」と身を縮こまらせるように拒否したのを、私はとても奇異に感じた。自身を含む日本の知について、私などが想像できないほど絶望していたのかもしれない、といま思う。
 (「日本の知についての絶望 吉本は身を縮こまらせ、恥じている」の末尾より 2018年12月7日 橋爪大三郎 週刊読書人ウェブ)



 「奇異」に感じたのは、わたしの方である。橋爪大三郎はこのときどんな場所にいるのだろうか。わたしは、「ミシェル・フーコーへの手紙」を読んで、ここまでていねいに言及しないと橋を行き来できないのだろうかと思った。ギリシア以前は靄の中のヨーロッパに住むフーコーと、アフリカ的な精神の古層を保存しながらその上にアジアやヨーロッパの大波をかぶってきて残骸のアジアと滲透するヨーロッパであるこの列島に生きる吉本さんと、その間には大きな断層がある。互いに違った段階の世界の断層にどうしたら橋が架けられるのか、とその途方もなさに驚きこそすれ、「身を縮こまらせ、恥じている」とか不可解なイメージを持つことはなかった。むしろ、ふたつの世界の間の断層に対する配慮のない社会学者あるいは思想家としての橋爪大三郎にノー天気さを感じた。

 こういうわけで、名前くらいは知っていた、橋爪大三郎の『増補版 永遠の吉本隆明』を読んでみた。


 私から見て、私と吉本さんの考え方の違いはどういうところか。
 吉本さんからすれば、私は中途半端に国家主義者で、現実を認め、戦争を肯定して、どうしようもないやつだ。たぶん、そんなことになるだろうと思います。『超「戦争論」』での批判的な言い方を借りるなら、「段階」というものがわかっていないんだよ、存在倫理を踏まえていないんだよ、ということになるだろう。
 (P131 『増補版 永遠の吉本隆明』 橋爪大三郎)

 
 
 このように述べた後、自説を語っている。吉本さんを十分に尊敬・尊重しているのは、この本の端々からわかる。橋爪は本当にそう思っているから吉本さんの考えに疑義を呈し、自説を展開している。しかし、どこかズレてるよなあという気がする。橋爪の主な疑義を挙げてみる。


 私はまえまえから、吉本の所説について疑問に思っていたことがある。それを、この「アジア的」という概念との関連から、次のように整理してみた。
(1)権力がなぜ、悪いのだろう?どうして権力は、最後に消滅しなければいけないのか?
(2)これと関連するが、いわゆる「逆立テーゼ」への疑問。共同幻想が自己幻想や対幻想に対して逆立する、とどうして言えるのか?そもそも共同幻想という概念は、どういう方法的根拠をもっているのか?
(3)なぜ、「アジア的」であって、「土着的」「日本的」と言ったのではだめなのか?一方で、西欧的土着性を視野に外においやり、もう一方で、アジアを日本の延長線上にひきよせてしまう、そんな区画になっていないか?
 吉本が知の批評的根拠として、アジア的な原イメージをあらためて手にしたのは、敗戦の体験(とくにそれを契機に転向の問題を深く追究したこと)を通じてだと思われる。愛国少年には、アジア的な共和社会(の像)がそのまま、もっとも近代的な国家の態勢に直通する(できる)、と信じられる一瞬がある。(あったはずだ!)。その虚妄がもろくも崩れ去ったとき、すべての知や権力の形態を、けっしてくずおれることのない原点によって照合しなければならない、という当為が受け取られる。この世代的な共通体験を、吉本は誰よりも深く掘り下げていった。
 (〈付録〉「吉本隆明はメディアである」P168-P169 1986.9 『増補版 永遠の吉本隆明』 橋爪大三郎)


 (1)現在までのところ権力は、一般に人の自由を制圧し、踏みにじることから免れていない。(2)とも関わるが、政治や行政などの権力の言葉は、そのことと対応するように、抽象的な一般性の言葉であって、社会に日々生活しているわたしたちの具体性の言葉とは対立的あるいは上下的である。言いかえれば、その抽象的な一般性の言葉(権力)は、抽象的な一般性のコードに引き寄せてすくい上げようとすることはあっても、社会内を生きる具体性の言葉を包括することはできない。これらのことはわたしたちの社会生活の実感として言えるはずである。


 (2)の「逆立テーゼ」は、「共同幻想が自己幻想や対幻想に対して逆立する」というよく疑義が呈されるものである。例えば、家族の中では母親を「お母さん」と呼ぶことはあっても、学校では先生を「お母さん」と呼ぶことはない。それは家族と学校という小社会とは、連続するものではなくて、位相が違うからである。それと同様に、三人以上の集団の取り決めの世界では、家族内とも、個の世界とも言葉の性格を始めいろんなことが違ってくる。これまた、それぞれ位相が違うからである。

 この「逆立」ということは、位相が違うと言いかえてもよいと思う。したがって、自己幻想の言葉は、対幻想や共同幻想の言葉とは直接対話することができない。わたしたちは、もちろん個としての他者に対しても言葉にならない思いを抱くことはあり得るが、一般に家族や職場や行政においては個としての自分自身を包み隠すことなく表現することはできない。なぜなら、両者の間には、言葉の質の違いがあり、世界の断層が存在するからである。

 一方そのこととは矛盾するように見えるかもしれないが、個が自己を過激にドライブして 国家と「同致」することは、巫女に限らず現在でも十分にあり得る。社会問題や世界政治を論じたりする場合、評論家か素人かにかかわらず、その論じる言葉の出所や個の拠って立つ場所がどこなのか、つまり、自分の具体的な生活世界と切断されていたら、それは自己幻想と共同幻想が「同致」する場所と言えるだろう。そのような言説が、わたしたちの生活世界の真の問題に真に触れることはできない。つまり、この場合の「同致」は、自己幻想が共同幻想に埋め込まれて自らを消失させていることを意味している。

 この「逆立」ということは、簡単に言えば、自分と職場の意思は違うなあなどとわたしたちが学校や職場などの日常で実感として誰もが持っているものにすぎない。

 少しその言葉に触れただけだが、橋爪大三郎の言葉の出自が気にかかる。調べてもwikiには、神奈川県出身、としか書いてない。したがって、わたしの単なる直感に過ぎないが、橋爪大三郎の言葉の性格は、橋爪大三郎の出自から来ているような気がする。そして、その自らの言葉の出自に割と無自覚なような気がする。

 吉本さんの場合は、実感ということ、この生活世界に生きる誰にも通じるような実感というものを、とても大切にしていたと思う。古い言い方で言えば、ちょうど理論物理が実験物理を必ず参照するように。また、自らの言葉の出自に十分に自覚的であった。出生の不幸や敗戦の痛手などの大きな契機によって、自らの言葉の出自をこの国で未だかつてないほどに開いてきたから、あのような本質的で普遍の言葉の場所に降り立てたのだと思う。






179


 覚書2019.3.17 ―批評ということ


 巫女やシャーマンという神や世界との橋渡しをする専門の人々の登場は、芸術における専門の人々の登場と同質のものを持っていると思われる。両者ともに、世界への人並み外れた感度や感応力を持っているという〈特別さ〉に押し出され押し出た人々だろう。

 専門の物語を語る者の登場は、当然のこととして大多数の人々が感じ考えてきた世界感覚や世界感情を踏まえたもので、おそらく長い長い時間、語り継がれていく中で物語も洗練され、〈世界〉や〈神〉も初期の混沌とした星雲状態から晴れ上がってきてある形を成してきたように、それと対応していくつかの物語の構成の型も形作られていたのだと思う。物語るという場で、専門の語り手もそれを聞く人々もともに生きている生命感覚の躍動や滲透を味わったのではなかろうか。

 太古においては、まだ〈批評〉は登場する余地はなかった。しかし古代になり、平安時代には和歌という分野で歌合が流行した。歌合には、判者という歌の良し悪しの判定(批評)をする者がいて、作歌の現場に立って良し悪しを論じたり勝ち負けを下した。これは、現在の批評につながる批評の契機を持ったものだと言える。この頃から「古今和歌集仮名序」を初めとして「歌論」も出始めている。

 物語に限らず芸術作品を読み味わうのは、それぞれの自由。思い込みも誤読と言われても自由。でも、いろいろかき分けてできるだけ作者の固有の現場にたどり着き、立ち会って、この同じ世界の現在を呼吸する作者がその固有性から発射した花火を、その意識的なところから無意識的なところに渡って、目や耳や肌合いで感じ取ることが、現在的な〈批評〉じゃないかと思っている。そうして、すぐれた批評は、作品がそうであるように、作者や批評する自身に対して新たな世界への端緒をもたらすだろう。太古と比べて現在では、個と個との関わり合いのレベルになってしまっている。

 ちょうどすぐれた精神科医が、半ば自分の立場を忘れるようにして病める人の奥深い現場に立ち会ってその病める魂の声を聞き取ろうとするように。批評は、自分はこういう新しい角度から作品を分析してみたぜなどの論理のアクロバットの競い合いではなく―別にそれはそれで構わないけど―、総合性として生きている普通の人が表現としての人、すなわち〈作者〉に変身してわたしたち読者(観客)の前に登場する時、表現された世界や表現としての作者にその場で立ち会い、たどる旅のことではないかと思う。






180


 表現の現在―ささいに見える問題から 29
    ―『吹上奇譚 第二話どんぶり』(吉本ばなな 2019年1月)を読み始めて

 ※ 末尾に追記 (追 記 2021.11.19)あり。

 ケーブルテレビの番組で、アメリカのテレビドラマを観ている。今は「HAWAII FIVE-0」(ハワイ・ファイブ・オー )のシーズン8と割と荒唐無稽なストーリーの「ARROW」(アロー)シーズン6の二つを観ている。他に「Mr Robot」のシーズン3と「THE BLACKLIST」(ブラックリスト)のシーズン6が始まるのを待っている。

 「シーズン8」というのは、八年目ということになる。一時期観た韓国ドラマも長かったが、アメリカのTVドラマは長い。何年も観ていて物語世界になじんでもいるが、もうこれは、いつ終わっても文句ないなあと思う時がある。一方、制作側は、経済性などいろんな作品制作の動機と作品自体のモチーフがあり、次から次にいろんな展開をくり広げている。わたしの「もうこれは、いつ終わっても文句ないなあと思う」のは、もう物語の起伏(筋)のおもしろさはわかったよ、もうそれはいいよ、そうして、それとは別の、物語を底流する登場人物たちの心のやりとりや親和の形が自分には見えてきたし感じ取れたから、もういつ物語が終わっても構わないな、という思いである。

 今観ている二作ともだいたい一話完結で、一年に一シーズンの放送だが、各シーズンゆるやかに話がつながっている構成になっている。また、それらの娯楽映画でも、よく起こり得る人間関係のトラブルや親和や機微はきちんと描き込まれている。

 読者であるわたしたちが、登場人物たちの過去をよく覚えていないとしても、脚本の作者やドラマ化の監督たちは、当然のこととして、登場人物たちの性格や彼らの様々な過去に通じているはずである。

 吉本ばななの『吹上奇譚 第二話どんぶり』(2019年1月)を読み始めて、ふとそんなことを思った。前作『吹上奇譚 第一話ミミとこだち』(2017年10月)との間に、1年ちょっとの時間が流れている。わたしたち読者は、前作第一話の話の流れや登場人物のことなど薄れてきている。普通は、何度もくり返して読むということはしないし、この1年位の間作品の物語の森から遠離っていたからである。一方、作者は、この作品にかかりっきりではないはずだ。それでも、その1年位の間に少しずつ準備や書き込みをしていただろう。そういうわけで、作者には物語の森や街、そこに登場する人物たちによく慣れ親しんでいたということになる。

 割と長い時間のかかる絵画や美術作品の場合も、この小説を作り上げていく事情と同じようなものではないかと思う。毎日か飛び飛びかは分からないが、ひとたび制作中の作品と向かい合えば、前回の作品創作の流れに接続できるのだろうと思われる。

 このことは、誰もが日々の生活の中でおこなっていることと同じことではないだろうか。毎日、自宅と職場や学校などを行き来しながら、昨日の仕事や勉強と同じように、一般にはそれらにスムーズに接続していく。

 そういうことを作品製作の日々でくり返していて、今日は前回とは違うイメージや道が見えてくるということがあるかもしれない。吉本ばななの『吹上奇譚 第二話どんぶり』の次のような、登場人物の語る言葉が文字として見える人には見えるという着想は、そうやって日々掘り進んでいて、ふうっと湧いてきたイメージのように思える。それは、童話あるいはファンタジーのようではある。つまり、荒唐無稽ではある。


 墓守くんのテントの中からは、前髪が顔の前でぼさぼさで幽霊のようになっている、異様に白くて少女のように細い女性が這い出してきた。
「あなたとは会ってもよいと、さっきから話を聞いていて思った。」
 とその人は言った。
 しかし、それは厳密に表現するなら「言った」のではなかった。
 私は目の錯覚かと思って、ベタな動きとして目をごしごしこすってみた。人間って信じられないものを見るとほんとうに目をこするんだなと思いながら。
 でも目の錯覚ではなかった。
 彼女の言葉は、ちょうどこんぺいとうくらいの大きさの小さな丸っこい文字として、口からぽろぽろこぼれてくるのだ。そして雪の結晶のようにふわっと消える。実際に声は出ていない。そしてなんの音もしない。アニメだったらきっとチョロン、ポロロン、みたいな音が出るのだろうに。
 ライターのバイトを長年していた私は、
「良いは漢字ではなくてひらがなに開くのか」と彼女の胸元に消えていく字を見ながら思った。
 それどころではないのはわかっていたのだが、私の心臓が逃避したかったのだろう。
「様子を見て驚いているんだけど、君には見えるの?彼女の言葉が。ほんとうに?」
 墓守くんは目と口を大きく開けて私を見た。
 (『吹上奇譚 第二話どんぶり』P33-P34)



 〈私〉(引用者註.語り手でもあるコダマミミ)と墓守くんには、墓守くんの恋人の言う言葉が文字になって見えるという。そして、彼女の言葉は、また言葉というものは本来、次のようなものだと語り手の〈私〉は思うのであるが、これはこの作品に込めた作者の大切だと見なしている考えでもあるはずである。


 彼女も黙って春の華やかな景色を眺めていた。そして言った。
「しょうちゃん、お茶ある?」
 そういえば、墓守くんの本名は正一というのだった。新鮮な感じがしたしこそばゆかった。ミーハーな気持ちでこの面白いカップルのことをずっと見ていたかった。ここのうちの子どもに産まれたら一生退屈しないだろうとうらやましく思った。
 しょうちゃんという言葉も、お茶という言葉も、そうして文字になるととてもきれいなものに思えた。そして淡く光って消えていく。全てがほんとうはそうなのだ。私たちが言葉をただたれ流すようになってしまっただけで、ほんとうはみんなきっとこんなふうなんだ。
 言葉って、歌だし、すぐ消えていく夢なんだ。
 なんていいことを知ったんだろうと私はうっとりした。
「ああ、常温のならそこにあるよ。」
 墓守くんは水の中で冷ましていたガラスポットを指差した。
 (『同上』P39)



 初めに観ているテレビドラマについて「もうこれは、いつ終わっても文句ないなあと思う時がある」と書いた。この『吹上奇譚』にも荒唐無稽さを装ってはいるが、物語の起伏(筋)がある。しかし作者は、物語の起伏(筋)のおもしろさよりも、別のことに力こぶを入れているようなのだ。先に述べた「物語を底流する登場人物たちの心のやりとりや親和の形」のようなものに作者は力を注いでいるらしいのである。そして、それを読者の方にそっと差し出している。


 地上を生きること、肉体を持っていること、どれも厳しく苦しい要素の大きなことばかり。だから人はそれぞれの夢を見る。そしてことさらに夢が必要な不器用な人たちがいる。その夢が人生を片すみに追いやるのではなく、人生にとっての魔法の杖となるような。
 そんな夢を見るための力を、このおかしな人たちがみなさんに与えてくれますように、つらい夜にそっと寄り添ってくれますように。
 そんな人に「いいから寝ろよ」とミミちゃん(引用者註.作品中の主人公とおぼしき〈私〉)が男らしく言ってくれますように。
 (『同上』「あとがき」P185-P186)



 物語の起伏(筋)は、物語世界内の語り手の働きにより作者の作品に込めるモチーフに仕えながらも、語り手の導きによって登場人物たちに〈心〉を消費させる。そのことが、読者にわくわく感などの心の緊張を与え、読者がその物語の流れをたどっていく過程で、読者に心の充実した消費を提供することになる。一方、物語の底流には作者のモチーフが潜在していて、物語の起伏(筋)とともに流れて行く。この両者は、深く関わり合っているが、分離して取り出してみることができそうである。読者を楽しませる物語の起伏(筋)と潜在する作者のモチーフである。

 ここで、吉本ばななはこの作品に潜在する作者のモチーフこそがとっても大切で微妙なものだと語っている。それは、引用部の微妙な描写、藪をかき分けて小さな道筋をたどっていくような描写として実現されようとしている。



-------------------------------------------------------------------------------------

 (追 記 2021.11.19)


 「登場人物の語る言葉が文字として見える人には見えるという着想は」、荒唐無稽である、と述べたことは訂正しなくてはならない。『カエルの声はなぜ青いのか?―共感覚が教えてくれること』を読んでいたら、以下のような記述に出会ったからである。これは一度出会ったことがあるぞと思って、すぐに吉本ばななの『吹上奇譚』の登場人物を思い浮かべた。しかも、一度触れていた。


 際立った共感覚者で知人のスザンヌの場合、誰かが話しているのを見ると、それが文字になって文字通り、口から出てくるらしい!ちょうど、(海外)漫画の吹き出しのように、口から吐き出された言葉はまさに、左から右へ、そして下へ向かって零れ落ちていくのだ。
 (ジェイミー・ウォード『カエルの声はなぜ青いのか?―共感覚が教えてくれること』P174 青土社 2012年1月)








181


 「つけまつける」の歌の言葉の走法


 古代に、従来の話し言葉の倭語を新たに〈書き言葉の世界〉に載せるとき、古代の律令制度で中国の土地制度や法制度を借りてきて模倣したように、漢文そのものを借りて済ませるわけにはいかなかったのだろう。漢語を借りて、万葉仮名と呼ばれる〈書き言葉〉を生み出した。土地制度や法制度の場合には、それまでに中国の制度から見たら貧弱に見えるかもしれない土地制度や法制度などがあったかもしれない。しかし、万葉仮名の場合は、たぶんそれまでの長い助走があったとしても、まったく新たに作らざるを得なかった。万葉仮名は、漢字の音のみ借りているが、読み取る側からすれば錯綜としている。例えば、地名がそうだが、ほとんどが語の漢字の意味は地名の意味と無関係なことが多い。しかし、漢字というものに慣れて地名に相対する側はどうしてもその表意性を持つ漢字に惑わされやすい。

 きゃりーぱみゅぱみゅが歌い踊る「つけまつける 」を、古代に万葉仮名を生み出さざるを得なかったような言葉の問題として取り上げてみる。もちろん、その規模の違いはとても大きい。しかし、その言葉の問題は、互いに相似であるように思われる。

 この場合、万葉仮名が従来の話し言葉の倭語を新たに〈書き言葉の世界〉に載せるために生み出されたのと対応させれば、この時代に生きる新しい感覚を今までにはなかった形で、すでにある〈音楽の世界〉に載せるために「つけまつける」の歌の言葉の走法はあったと言うべきである。それはどのようなものであろうか。

 きゃりーぱみゅぱみゅの「つけまつける 」という歌については一度取り上げたことがある。(註.1) ここでは、「つけまつける 」という歌の歌詞を言葉の表現のもんだとしてのみ取り上げてみる。


 つけまつけま つけまつける
 ぱちぱち つけまつけて
 とぅ CAME UP とぅCAME UP つけまつける
 かわいいの つけまつける
 (「つけまつける」の第一連 )



 ここで、「とぅCAME UP とぅCAME UPつけまつける」の部分は、この歌を聴いてみると分かるが、(とぅけいむあっぷ)→(とぅけいまあ)→(つけま)というように、外国語としての英語も意味は関係なく(歌としては表れることはないが、歌詞としては「come up」のやって来るや上るなどの意味も掛詞のように意識しているかもしれない)音で織り込んでいく。そうすると「つけま」と聞こえるようになっている。

 この部分は、第四連でもくり返され、最終の第七、八連でもこれと似た表現になっている。すなわち、この第一連の部分がこの歌の中心部分を成している。この歌を意味として受け取れば、つけまつげするのっていいなかわいいなということにすぎない。しかし、意味としてはつけまつげに限らず誰もが何らかの形で体験するようなもので単純に見えても、その心的世界は豊かなものとしてイメージされている。その少女たちの豊かな内面のイメージがこの第一連の部分に集約されている。その豊かな内面のイメージを担うのは、言葉のリズムと身体からあふれるリズムである。その心の躍動は、歌だけでは十分でなく、やはりダンスも必須な気がする。

 この「つけまつける」の歌は、「同じ空がどう見えるかは 心の角度次第だから」のような旧来的な意味性も付加されてはいるが、倭語に万葉仮名を当てるように、少女たちの豊かな内面のイメージ世界に言葉のリズムや身体のリズムを当てようとしたのだと思う。

 このような歌に類例を探してみると、小さい子が、特に気に入った何らかの場面でリズムはあるがあんまり意味もない言葉を自然に発しながら踊り出す所作が浮かんでくる。これは小さい子には一般的なものである。さらにこれを言葉の表現の段階として考えてみると、遙かな太古の表現性を持っているように見える。わかりやすく言えば、それらは幼児性(あるいは歴史の幼児的な段階)ということになるが、わたしたちの誰もが内に持っているものであり、そこから発掘したと言うべきである。


(註.1)
「006 消費を控える活動の記録・その後 4」の
92 「きゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」の歌を観て、聴いて。」(2016年06月29日)





182


 メモ2019.4.3 ―宣教師について


 加藤治郎の作品に次のような歌がある。

 千々石ミゲル、さみしいなまえ夏の夜のべっこうあめのちいさなきほう 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 4/2)
 わたしは千々石ミゲルについては、「天正遣欧少年使節」の一員だった位しか知らない。「千々石ミゲル」(Wikipedia)によると、日本に戻ってから、「次第に教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。 」とある。また、「1601年、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。」「千々石は棄教を検討していた大村喜前の前で公然と『日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである』と述べ、主君の棄教を後押ししている。」と、どんな資料によるとは書いてないが、このような記述もある。

 少年の千々石ミゲルは、初め純粋な心と希望を胸に遙かなヨーロッパの地を目指したのだろうが、宗教が政治や地上的な利害と結びついている様を目の当たりにして失望したのかもしれない。こうしたことや秀吉の1587年と1596年の禁教令の動向も関わりがあるのかもしれない、千々石ミゲルは棄教している。こういう状況で生きていく千々石ミゲルのイメージは、「さみしいなまえ」とならざるを得ないだろう。

 昔は、晴れやかな若々しい時代もあったかもしれないが、棄教して「千々石ミゲル」を脱ぎ捨てた千々石ミゲルは、目立たないさみしい晩年を送ったのかもしれない。ちょうど「夏の夜のべっこうあめのちいさなきほう」のように。これを私たちに拡張すれば、誰でも遠い未来から振り返ればそのようなちっぽけな儚いイメージに映るのではないか。と、〈私〉はイメージを走らせ、イメージを収束させている。

                         *

 昔、ポルトガル人でイエズス会の宣教師だったフロイスの『日本史』シリーズを読んだことがある。フロイスは仏教徒を悪魔の手先と何度も毒づくけれど割と公正な判断力を持っている人だったと思う。その記述からは宣教師たちの宗教と国家とが結びついている様子もうかがえた。フロイスはまた、布教の方法として我が国では上(藩主など)を改宗させれば民衆にも早く広まりやすいとも記している。その後、別の所からであるが、当時奴隷売買に関わっていた宣教師もいたことも知った。

 ところで、今、ゴロウニンの『日本俘虜実記』の三巻目に相当する、『ロシア士官の見た徳川日本 ―続・日本俘虜実記―』(講談社学術文庫)を読み始めている。ゴロウニンは、今まで読んできた印象からすれば聡明で公正さを持っており、その記述の信頼性は十分にあると思われる。そこに、宣教師に関する記述を見つけた。フロイスたち宣教師を外から眺める資料となっている。ただし、ゴロウニンは幕末頃の人だから、二百年くらい前の宣教師たちの振る舞いについて述べていることになる。したがって、彼の判断は、書物や耳から、また俘虜の時の日本人からの聞き取りなどからきていることになる。

 過去のことであれ、現在のことであれ、わたしたちが物事をできるだけありのままに捉えることは難しい。そのために少しでも貢献するだろうと思われるので、ここに挙げておく。


 日本は十六世紀の半ばごろにヨーロッパ人に知られるようになった。最初にこの国を発見したのはポルトガル人である。そのころは新発見地征服熱は当時の最強海軍国の間で最高に達していた。日本征服の意図を持ったポルトガル人は、例によって通商とこの国の温和な住民の間にカトリック教を布教することによってこの事業を始めた。日本に渡来したポルトガルの宣教師たちは、始めは日本人たちの心を捉え、国内の奥地まで旅行する自由を得、新しい弟子たちをキリスト教に改宗させるのに信じられぬほどの成功をおさめた。しかし十六世紀末に君臨した世俗的皇帝太閤(テイゴ)は賢明、慧眼(けいがん)で果断な人物であったから、イエズス会員たちが自分の信徒たちの魂を救うよりむしろ日本の金を集めることに熱心なのを見破って、日本国内のキリスト教を殲滅(せんめつ)することを決意し、領土内から宣教師たちを追放したのである。
 シャルバ(引用者註.ここで唐突に出てきた名前、歴史家か)は彼の歴史のなかで、太閤がキリスト教を殲滅し宣教師たちを国外へ追放しようと決心したのは、あるスペインの船長の陳述を聞いたためである、といったようなことを書いている。その船長は日本人から「その方の国王はどんな手段によって世界中の各地、特にアメリカであのように広大な土地を征服することができたのか」という質問を受けて「国王は最も容易な方法で手に入れたのです。つまり、征服しようと予定した国で、まず国民を自分たちの宗教に改宗させるのです」と答えたというのである。
 この話が正しいかどうかについては私は何も言えないが、日本人にもその正否は分からなかったと思う。キリスト教と迫害の主な原因、というより唯一の原因は、イエズス会員やスペイン人に続いて派遣されてきたフランシス会修道士たちの恥知らずの行為と、同様にポルトガル人商人たちの貪欲であると日本人は考えている。いずれも彼らの目的の達成と富をつくるため、あらゆる無法を行ったのだ。したがって太閤ほど慧眼の君主でなくても、これら司祭どもを動かしたのはただに貪欲であり、信仰は自分たちの目的を達成するための道具にすぎなかったことを容易に見抜いたであろう。それはともかくとして、太閤とその後継者たちによってはじめてヨーロッパ人を自国の領土から追放し、キリスト教を根絶するという望みが達成されたのである。
 (『ロシア士官の見た徳川日本』P33-P35)


日本から追放された宣教師たちは、自己の弁明と、欺き損なった国民に対する憎悪から、ヨーロッパ人の眼前にこの日本人を狡猾で、背信で、恩知らずの復讐心の強い国民だと見せかけた。一口に言うと、日本人より醜悪で危険な人間は想像することもできないと、日本人像を描き出したのである。ヨーロッパ人は修道士の悪意に満ちたこれらの作り話をそのとおり真実だと受けとった。そしてキリスト教に関係するものはすべて嫌悪し、外国人を領土内に入れず、自国の海岸から遠ざけけるという賢明で要心深い政策は、この聡明な国民に加えられた根拠のない中傷が真実であると裏書する形となった。
 ついには想像の所産にすぎない醜悪な日本人の性質がヨーロッパ人の間で真実だと思い込まれるようになり、諺にまで「日本人の敵意」とか「日本人的狡猾」などとさえ言われるようになった。しかし運命は私に二十六ヵ月間この国民の俘虜となって、全くその反対であることを身をもって知るよう巡り合せをつくってくれたのである。私の俘虜の手記の第一編、第二編は、日本人がヨーロッパの知識人が想像しているのとは全く違うということについて、十分に納得できる根拠を含んでいる。日本人が聡明で慧眼なことは、外国人との交渉や国内統治の態度で十分に証明されている。日本人が誠実なことを体験する機会はたくさんあったし、また経験によって不幸な隣人に対する彼らの同情は、いろいろの場合に確信した。彼らの客のもてなしのよいことは、カトリック宣教師たちが自分で経験しているにも拘わらず、宣教師たちは後になってそれに対し、とんでもないお返しした上に、全世界に日本人を悪く言ったのである。
 (『同上』P36-P37)



 ゴロウニンの『日本俘虜実記』は、1816年に官費で出版されたと言う。ヨーロッパで、過去の宣教師たちによる日本や日本人についての風聞やイメージが、どの程度ヨーロッパに広まり残っていたかわからないが、このゴロウニンの『日本俘虜実記』が日本や日本人についてのイメージを修正するあるいは形作るものではあったようだ。現在の日本や日本人についてのイメージがどうなっているか知らないが、このゴロウニンの記述は、そんなに立派でもないよと面はゆいところがある。例えば、「技能実習制度」によって受けいれた外国人に対する悪待遇や現在の政権のお粗末な外交や政治運営を目にしていると、恥ずかしい限りであると言うほかない。






183


 メモ2019.5.7 ―天皇、天皇制について


 改元のせいか、最近は天皇や天皇制の言葉に出会うのが多い。わたしは、消極性で言えば、天皇や天皇制に関わりの意識を持たないから、それにまつわるこまごましたことはよくわからない。呼び方や女帝云々などは馬耳東風になる。積極性で言えば、いろいろとある。

 鎌倉期から武家政権が二重権力として、箔を付けたり名誉つながりで落ち目の天皇を細々と政治利用してきたが、明治期に大規模な政治利用として天皇制を政治権力に組み込んだ。そうして、先の敗戦で天皇制は臨死した。が、戦後あいまいな象徴天皇制として生きのびた。天皇制が2000年も生きのびてきたのは理由があると評価する考えも見かける。

 しかし、これはなかなか変わらないこの列島のわたしたち大衆の負の精神の遺伝子のせいだと思う。つまり、この列島の私たち大衆は自立性が弱くいろんな困難なことの決断や「元気をもらう」存在として、諸アイドルや有名人と似たようなレベルで名誉会長的な存在を求め許しているからだと思う。

 したがって、外国の政治指導者からは今なお子ども扱いされているように見える。私たちの自立性という観点から照らせば、このような天皇制的なものは偽主流だと言える。真正の主流は相変わらず底流している。天皇は、今は権力を持っていないが象徴天皇制の下、強いられた無垢の人を演じなくてはならないのだろうが―その利害損得なしの無垢さがまた人々に受けるのだろう―、産業社会や私たちの意識の変貌とともに、徐々に消えるべき時に消えていくような気がする。

 だから、目くじら立てずに成り行きに任せればいいと思う。ところで、政治担当層を蹴ったくりたいほど社会の空気が悪すぎだが、私は、とりあえず「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」。

 思えば小学生の頃、昭和天皇の「地方巡幸」があり、わたしたちは動員された。場所は今でも覚えている。高い台が設営されていて、そこから帽子を持ってだったか手を振っていた。わたしにはこの人物やこの催しが何のことかわからなかったが、訳知り顔の子どもがなにやら手の振り方はどうのと周りで説明していた。その人物が高台の上にいるせいかわたしにはサーカスの人のように見えた。しかし、このせいで交通規制が成されたなどを知って、その特別扱いから、わたしは天皇に反感を持つようになったように思う。これがたぶんわたしの天皇との初めての出会いであり、現在では反感は消えてただの知らない他人になっている。





184


 メモ2019.6.19―『人口から読む日本の歴史』について


 『人口から読む日本の歴史』(鬼頭 宏 講談社学術文庫)を読んだ。「歴史人口学」という学問があるという。資料を駆使した実証的な方法による歴史像や歴史の推移の像の獲得である。わたしは以前この系統の本として速水 融の『歴史人口学の世界』を読んでいる。

 本書の終章で、「現在起きている日本の人口変動」(「少子化問題」)に触れている。少子化についてはずいぶん前に話題になっていた時に、「少子化」は悪そのものではなく何か良いことももたらすのではないかとわたしは考えたことがある。具体的には、当時も雇用者側が優位であったが、「少子化」によって就職する側がより優位に立てるよう有利に働くのではないか想像したことがある。実際はそういうこともなく、派遣社員の増大など雇用・労働環境は荒れ果て、政府-企業は、外国人労働者を入れることで人手不足問題を乗り切ろうとしている。

 ところで、特に政治上層に居たり観念的にその位置に同化する評論家などの人々は、「少子化」を否定すべき像としか描かないように見える。しかし、「少子化」は、この列島社会を生きる人々が意識的無意識的に選択したことの総和としてある。したがって、否定すべき像と捉えて澄ますわけにはいかない。本書は、そういう否定像から解き放たれて何が起こっていて何が本質なのかを提供してくれる。私たち人間の活動や歴史を大きな視野から捉えたものである。小さな視野からのものは、人々の内面を照らし出して見せる文学の仕事であろう。

 日本の少子化(引用者註.本文の小見出し)
 日本の出生力は減退を続けている。少子化は高齢化を一段と加速させる。また、日本人口の減少が二十一世紀初頭には確実にはじまると予測される。一般に少子化は、社会を弱体化させ、国を滅ぼすものと憂慮されている。われわれにとって経験したことのないこの変化は、たしかに大きな脅威である。少子化の功罪は、プラス、マイナス評価はさまざまに分かれるが、全体としては明らかにマイナス面が強調されている。しかしすでに、少子化を認めるか、それを否定してなんとか出生率を引き上げるべきか、どちらがよいかというような問題ではない。間もなく人口が減少に転じるのは確実なのだ。
 人口の歴史をみると、現在起きている日本の人口変動も、異常な事態とはいえない。人類史上、人口が停滞する時代が何度か存在した。また人口減少は、ひとり日本のみならず、いくつかのヨーロッパ諸国でも予測されていることなのである。
 私は現在進行している日本の出生率低下は、人口転換の最終局面を実現するプロセスではないかと考えている。出生率低下によって間もなく始まる人口減少や著しい少子高齢化はわれわれにとって初めての経験である。しかしだからといって悲観することも、あわてて出生率の反転上昇を期待して資金や時間を投じることもない。
 人口停滞を高度成長期以後の経済停滞や、豊かになった社会でいつまでも成熟しない若者の身勝手によるものと考えられることが多い。このような説明は半面はあたっていると言えそうである。なぜならば、歴史的に見て人口の停滞は成熟社会のもつ一面であることが明らかだからである。縄文時代後半、平安時代、江戸時代後半がそうであったように、人口停滞はそれぞれの文明システムが完成の域に達して、新しい制度や技術発展がないかぎり生産や人口の飛躍的な量的発展が困難になった時代に起きたのである。人口停滞は文明システムの成熟化にともなう現象であった。
 もうひとつ重要なことは、文明システムの成熟にともなう人口停滞社会では、人口成長が止まるだけではない。新しい水準における人口学的均衡の背後で、新たな人口学的システムが成立した。江戸時代を例にとってみよう。現代日本で起きている人口学的な地殻変動は、(1)少子化、(2)長寿化、(3)晩婚化もしくは非婚化、(4)核家族化とその結果としての高齢者単独世帯の増加、そして(5)人口の都市集中である。このことはひるがえってみれば前近代の人口は、(1)多産、(2)短命、(3)早婚・皆婚、(4)三世代同居の直系家族、(5)農村社会であったことを物語っている。
 (P267-P269)


 すなわち、われわれが伝統と考えているような人口学的な特徴も、農業社会における市場経済の発展と生活水準の上昇に対応して生みだされた歴史的産物であったということである。現代日本で起きている結婚の変化、少子化、高齢化、家族形態の変化も、一概に社会病理や社会問題としてみるのではなく、工業化をともなうひとつの文明システムが形成され、やがて成熟してきたことに随伴する現象であり、ここに近代日本の新しい人口学的システムが形成されつつあるとみるべきなのである。
 (P270)


 したがってわれわれにとっての課題は、少子高齢化をどのようにして防ぐか、ということではない。

 われわれがなすべきことは明確である。人口をどの程度の水準へと誘導するかということ、およびどのような成熟社会を構築するかということである。

 一番大きな問題は、人口が減ることにあるのではない。四〇年以下と推計される江戸時代の人々の寿命(出生時平均余命)からみると、現在の日本人の寿命はその二倍以上である。人生五十年が国民的規模で達成されたのは、戦後間もない一九四七年あった。その年に生まれた人々二六八万人のうち、八〇%以上が無事に五十歳を超えている。生まれた子供のほとんどが還暦を迎え高齢者の仲間入りをすることができるようになった長寿社会の日本人は、江戸時代とはまったく異なったライフ・サイクルと生態をもつ、別種の生物種に生まれ変わったといわなければならない。解決すべき問題は大きく、新しい価値観と社会システムの構築には時間がかかるであろう。しかしどの時代にも、苦心の末に文明システムの転換を実現してきたことを思い出すべきである。
 (P271-P272)


 






185


 覚書2019.7.15 ―「くに」という言葉


 「私の国は福井ですが、家が貧しかったもので、尋常小学校を出て、大阪の法律事務所で書生をしておりました。広瀬徳蔵先生という代議士の事務所でしたが、・・・」
(『回思九十年』P239 白川静 平凡社ライブラリー)
 「国」や「書生」など今では死語となってしまった古い言葉が使われている。
 
 昔、英語の「country」という言葉に「 国」の他に「田舎」の意味があると知って驚いたことがある。わが国の「国」も二つの意味があった。地域と国家の意味である。ここには、言葉の背後に二つの意味を巡る分離と接続のドラマがありそうだ。接続というのは、例えばある地域に住む自分を簡単に国家に同調させることがありうるということ。

  ブリタニカ国際大百科事典の「国」によると、「日本に農耕生活が始り,人々が政治生活を営むようになると,従来の「むら」が「くに」と呼ばれるようになった。『後漢書』に,1世紀の倭国に百余国があったというのは,このような「くに」の分立状態を示している。」とある。

  つまり、「むら」と「くに」という言葉は、変化した時代性とともに地域性の規模の違いも指示しているということだろうか。うまく発掘できるかどうかは別にして、使われる言葉には変貌しながらも長らく無意識のように保存されているものがある。






186


 覚書2019.7.31 ― シームレスということ


 わたしたちは、衣類を身につけていて、その縫い目を意識することはほとんどない。しかし、一般に衣類には縫い目があり、つなぎ合わされてできている。また、衣類を身につけていてサイズが合わずに窮屈だとか、麻などの生地でごわごわするとかない限り、その素材の肌触りを意識することもない。いわば、わたしたちと身につけている衣類との関係は、一般にシームレスなものになっている。言いかえれば、わたしたちは衣類を身につけて異和感などとして意識したりすることのほとんどないある自然さの中にある。

 一方で、例えば衣類を製造する側から見れば、素材の生地や色合いやデザインなどについてとても厳しい視線を向けて吟味するだろう。つまり、衣類に関して意識的な状況の中にいるはずである。しかし、そういう人々も衣類を身につけている時の意識はわたしたちとほぼ同じある自然さの中にいるだろうと思われる。

 NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組を観ることがある。この番組が成り立つためには、少なくとも次のようなことがある。まず撮影スタッフなどが現地に行って歩き回りながら撮影したり現地の人に話しかけたりする。次に、持ち帰った映像などを編集する。効果音を加えたりもする。それに現地に訪れたわけでもない語り手が用意されたナレーションに沿ってナレーションを加える。番組の構成としては、現地で〈撮影スタッフなど〉が現地で出会う人々と交わした言葉に沿いながら、編集作業を経て、〈語り手〉はたぶんスタッフによって構成された語りを語っていく。わたしたち番組を観る側からすれば、わたしたちはそのことにシームレスなものとして感じていて、異和感をあまり持っていないように見える。しかし、現地で登場する人物・建物などと現地に出向いた撮影スタッフなどがくり広げるドラマがまずあり、次にそれが編集作業や効果音やナレーションを加えていくことによって、よりシームレスなものとして再構成されて作品として登場することになる。内省的になれば、それぞれの番組がそのようなものとして「作り上げられている」ということは、たぶん誰でもわかるだろう。しかし、わたしたちはそういうことはほとんど意識しないシームレスなある自然さの中に日々生きているように見える。

 したがって、たとえばその番組の語り手は、現地に行ったわけでもないから現実体験ではなく疑似体験として作品世界に同化していることになる。役者の演技に近いと言えるだろう。

 人は誰でも誰か(家族)のもとに生まれる。子どもは母の胎内にいる時からコミュニケーション(「内コミュニケーション」、吉本隆明)があり、また生まれ落ちても親は自分の子どもとして当然の自然さで向き合うから、親子の関係は一般にシームレスなものとして形作られていく。親子関係がうまくいかず、子どもが家族内で何度もトラブルを抱えたときには、自分はほんとうは他所の子ではないかなどの異和として表出されることもあるだろう。しかし、家族の主流としては、家族の形が時代的に変貌してきていても、家族はシームレスという自然さの時間の中にある。

 わたしたちの生存や社会の有り様は、このようにシームレスなものとして、ひとつの自然性として、主流はできているように見える。そして、わたしたちひとりひとりは、世界間の断層やある世界に誘い込む作為などが存在するとしても、あるいはまた〈苦〉の道に難渋しているとしても、日々いろんな世界間を割とシームレスに行き来しているように見える。






187


 覚書2019.8.13 ― 芸術について考える


 宮台真治が、語ったこととして次のような記事に出会った。今回のあいちトエンナーレ問題の後の宮台真治からの聞き書きである。

自由な表現としてのアートは、200年前に「社会の外」を示すものとして成立した。作品の体験後に日常の価値に戻れないよう「心に傷をつける」営みとして、自らを娯楽から区別してきました。
 (「朝日新聞」2019年8月9日)


 このアートが、芸術全般を指すのか不明な印象を与える。また、200年前に成立した自由な表現としてのアートというのはよくわからないが、おそらくヨーロッパのアートのことだろうと思われる。「社会の外」を示すや作品の体験後に日常の価値に戻れないよう「心に傷をつける」営み、など言わんとするところはなんとなくわかるが、わたしには作者が鑑賞者(読者)に対して上からの啓蒙的な視線を持っているように感じられ、異和感を持った。そこで、わたしなりに芸術というものを考えてみた。

 大上段で「芸術とは何か」と問う以前に、わたしたち人間は何かを生み出したり味わったりする芸術活動の中に入り込んでしまっていた。ちょうど、気づいた時には話すことができて話言葉を割と自在に操っていたように。だから、芸術も言葉もその現在までの有り様の中に、こうでしかありえない人間的可能性や未知が横たわっていると言うほかない。「芸術とは何か」についても、近代以降の西欧的な芸術概念としてではなく、人類史のレベルで考えてみたいのだ。

 芸術表現は、近代以降は個の内面世界が生み出す表現となってきた。そして、わたしたちはそのことに十分に慣れてしまっている。人間が生み出し積み重ねてきた人間社会の現在を呼吸して生きる個で、日々の生活の中で誰もが感じたり表出したりする喜びや悲しみや異和などを、現在まで専門的に積み重ねられてきた表現を介して、専門的な修練を重ねることによって芸術的な表現にまで高める人々が芸術家であり、普通の読者や観客がその作品に感動するのは、ベースとしてともに感じ考える共通の精神の場所を占めているからである。

 どうして、そういう芸術が生み出されるのかに対しては、人間はそのような存在にできているからというほかにない。人は、大いなる自然(この宇宙)の下、この人間界に偶然のように生まれ落ちて、日々の小さな生活世界が重力の中心のように生きている。この点では、人間も動植物と同じである。しかし、動植物がその自然さに埋もれた生活をしているのに対して、人間はその自然を超え出て、対象を捉え、指示し、なにものかを感じ言おうとする欲求を持ってしまった。すなわち、言葉を生み出してしまった。このことが、芸術ということの本質に深く関わっている。

 そこで、太古からの芸術の起源を意識しながら現在的な有り様から芸術を捉えてみる。そのためのいくつかの基軸を導入してみると、芸術には、

1.吉本さんの言う「自己慰安」。
2.人間の自然性、すなわち無意識的なものを超えていくこと。
2.この社会を生きる誰もが漠然と感じていることに照明を当てる。
3.善も悪も描ききる中から人間や人間社会の理想のイメージを追い求める。
4.この人間界に生きる意味を探索する。ある場合にはそれは人間界を超えて、大いなる自然(この宇宙)の下の人間存在について考えを巡らせる。

というような本質がありそうだ。

 






188


 イメージの層の現在から


 今年初めての彼岸花が咲いていた。
 彼岸花が救荒食物で、飢饉の時には球根のデンプンを水にさらして毒抜きして食用としたということをわたしがネットで知ったのはそんなに昔のことではない。
 今では単なる植物の一つになっている。その鮮やかすぎる赤の色合いと彼岸の頃に咲く花で曼珠沙華という仏教的なイメージの別称を持っているのが何かふつうの植物とは違うなという感じを起こすのかもしれない。しかし、それだけではないような気がする。

 この彼岸花という言葉が指示する意味は、江戸期の人々と現在のわたしたちでは同一であっても、その言葉が放つイメージの層とその情感のようなもの(自己表出)は違っている。江戸期の人々は、たとえ飢饉に見舞われない年でも救荒食物であるという飢えのイメージや危機のイメージを喚起するのを振り払うことはできなかっただろうからである。この言葉のこのような江戸期のイメージにつきまとう情感のようなもの(自己表出)の残存が、現在のわたしたちに(何かふつうの植物とは違うな)という感じを与えているのだと思う。

 例えば、親から子に彼岸花という言葉が語られたとして、それにまつわることをいろいろと説明されなくても、何度か耳にするうちに子は「ひがんばな」という音に込められた親のイメージの情感のようなもの(自己表出)を受け取り共有していくのだろうと思われる。

 同様に、家族の中の「夫」や「妻」という家族関係を示す指示性としての意味は江戸期でも現在でも同一だが、それらのイメージの情感のようなもの(自己表出)は違っているはずである。

 江戸時代の武家社会の相続法―農民の相続法は違うらしいが―を継承したと言われる明治民法の長子相続は、家長や長男を家族の中で法的に重要視したことになる。それ以前のことはよく知らないが少なくとも江戸期から昭和の敗戦までは、わかりやすい言葉で言えば法的あるいは社会の表面的には「男中心社会」だったのだろう。しかし、吉本さんも触れたことがあるが、学者の研究による江戸期の「三下り半」問題で明らかになったように、そんな簡単に夫が妻に「三下り半」を突きつけることができるものではなかったということ、そこにも母系性社会(わかりやすい言葉言えば「女中心社会」)の名残が残っていたということ。

 また、柳田国男は、「妹の力」で女性が社会的に持っていた力について触れている。家における「主婦」の座の重要性とその掌握力にも触れていた。

 現在の家族中でも、そのような女性の「主婦」としての力能は保存され発揮されているように思われる。吉本さんがどこかで触れていた覚えがある。女性が家族の中で子を生み育てていくと、いつの間にかいろいろと控えめ無く大胆に振る舞うようになっていくと。たぶん、そこには横着さなどの否定的な意味合いも含まれていたような気がする。若いわたしはそのときはふうんとよくわからなかったが、後に実感できるようになった。これは、子どもを産み育ててきたとか家族内のことを中心的に取り仕切ってきたという個人的な経験によるばかりではなく、女というもののイメージにつきまとう情感のようなものの歴史性(自己表出)をいろんな場面を通して受け取ってきたからではないかと思われる。

 昭和の敗戦後、明治近代以来二度目の欧米思想の流入によって、民主主義や自由・平等(男女平等)の考え方が社会に次第に普及・滲透してしてきた。例えば、わたしはそれに触れたことはないが、現在の「フェミニズム」などの考え方もその源流は欧米思想にあるのだろう。

 内田樹が離婚した妻について、触れている。


 しなければならないことは「苦役」だと思わない。これは思えば、結婚生活を送っていたときに身につけた知恵でした。
 妻はフェミニストでしたので、男女の公平な家事の分担にこだわる人でした。
 でも、家事は公平に分割できるものではありません。やるべきこと、やっておいたほうがいいことは家の中にはいくらでもあるからです。
 それをリストアップして100%公平に分担しようとすると、リストアップして、分担を決める話し合いだけで途方もない手間がかかってしまう。
 あらゆる仕事には、「誰の分担でもないけれど、誰かがしなければいけない仕事」というものが必ず発生します。誰の分担でもないのだから、やらずに済ますことはできます。でも、誰もそれを引き受けないと、いずれ取り返しのつかないことになる。そういう場合は、「これは本当は誰がやるべき仕事なんだ」ということについて厳密な議論をするよりは、誰かが、「あ、オレがやっときます」と言って、さっさと済ませてしまえば、何も面倒なことは起こらない。
 家事もそうです。どう公平に分担すべきかについて長く気鬱なネゴシエーションをする暇があったら、「あ、オレがやっときます」で済ませたほうが話が早い。
 ですから、最初から「家事は全部オレの担当」と内心決めていたほうがメンタル面では気楽なのです。
 相手に期待せず、押しつけず、全部自分でやる。だから、相手がしてくれたら「ああ、ありがたい」と感謝する気持ちになれる。
 もちろん、結婚しているときは、それほど達観できませんでした。
 でも、離婚して、家事労働は全部僕一人でやらなければならなくなったときに、「家事労働のフェアな分担」のために結婚している間、どれほど不毛な言い争いをしてきたのかが痛感されたのは本当です。
 (『そのうちなんとかなるだろう』P153-P155 内田樹 マガジンハウス 2019年7月)



 家族の中で、江戸期から昭和の敗戦までの「男中心社会」の感性を背に夫(男)が威張る場合もあれば、あるいは逆に母系制社会の古層からの名残に促されて妻(女)が威張る場合もあるのかもしれない。さらに、敗戦後の「男女平等」の流れに乗っかって、昔の内田樹の家族の中のような波風立つ場合もあるのかもしれない。

 いずれにしても、家族の中の夫や妻を左右する女や男のメージにつきまとう情感のようなもの(自己表出)の古層を、すなわち歴史性を引きずりながらの解体的な現在の風景があり、社会の速度のすばやい流れの圧を受けつつも、主流としては家族は夫婦も親子もフラットな関係になっているように見える。この平等化の傾向は、家族の存立基盤を揺さぶりながら将来的にも止むことはないだろう。そうした主流の流れに浸かりながら、誰もがいろんな折り合いをつけながら家族の渦中にいる。


(註.) ここで私が使った「自己表出」について

吉本さんが生み出した「指示表出」や「自己表出」という概念は、ものを考える世界で残念ながら未だ十分ふつうの概念として流通していないので、言語に内在する二重性である「指示表出」や「自己表出」という概念について少し註釈としてメモしておく。

 三浦つとむは、『日本語はどういう言語か』で時枝誠記や言葉の現実的な振る舞いを踏まえて、言語には客体的表現と主体的表現があると述べている。何人か次のことを指摘しているのを目にしたが、吉本さんの「指示表出」や「自己表出」という概念は、吉本さんが語っているようにマルクスの使用価値や交換価値から着想されたのかもしれないが、この三浦つとむの概念も踏まえているとわたしも思う。特にこの「自己表出」という概念は、三浦つとむのいわば無時間的な「主体的表現」に歴史性という時間を導入して動態化されている。


 この人間が何ごとかをいわねばならないまでになった現実の条件と、その条件にうながされて自発的に言語を表出することのあいだにある千里の距たりを、言語の自己表出として想定できる。自己表出は現実的な条件にうながされた現実的な意識の体験がつみ重なって、意識のうちに幻想の可能性としてかんがえられるようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱してゆく水準をきめている。それとともに、ある時代の言語の水準をしめす尺度になっている。言語はこのように、対象にたいする指示(引用者註.「指示表出」)と、対象にたいする意識の自動的水準の表出(引用者註.「自己表出」)という二重性として言語本質をつくっている。
 (『定本 言語にとって美とはなにか』P29吉本隆明 角川選書)


 言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりをふくむようになり、それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき、はじめて言語とよばれる条件をもった。この状態は、「生存のために自分に必要な手段を生産」する段階におおざっぱに対応している。言語が現実的な反射であったとき、人類はどんな人間的意識ももつことがなかった。やや高度になった段階でこの現実的な反射において、人間はさわりのようなものを感じ、やがて意識的にこの現実的な反射が自己表出されるようになって、はじめて言語はそれを発した人間のためにあり、また他のためにあるようになった。
 (『同上』P30-P31 吉本隆明 角川選書)


このように言語は、ふつうのとりかわされるコトバであるとともに、人間が対象にする世界と関係しようとする意識の本質だといえる。この関係の仕方のなかに言語の現在と歴史の結び目があらわれる。
 この関係から、時代または社会には、言語の自己表出と指示表出とがあるひとつの水準を、おびのようにひろげているさまが想定される。そしてこの水準は、たとえばその時代の表現、具体的にいえば詩や小説や散文のなかに、また、社会のいろいろな階層のあいだにかわされる生活語のなかにひろがっている。
 (『同上』P44 吉本隆明 角川選書)


わたしがここで想定したいのは、・・・中略・・・言語が発生のときから各時代をへて転移する水準の変化ともいうべきもののことだ。
 言語は社会の発展とともに自己表出と指示表出をゆるやかにつよくし、それといっしょに現実の対象の類概念のはんいはしだいにひろがってゆく。ここで、現実の対象ということばは、まったく便宜的なもので、実在の事物にかぎらず行動、事件、感情など、言語にとって対象になるすべてをさしている。こういう想定からは、いくつかのもんだいがひきだされてくる。
 ある時代の言語は、どんな言語でも発生のはじめからつみかさねられたものだ。これが言語を保守的にしている要素だといっていい。こういうつみかさねは、ある時代の人間の意識が、意識発生のときからつみかさねられた強度をもつことに対応している。
 (『同上』P46 吉本隆明 角川選書)








189


 覚書2019.11.8 ― 〈生産性〉という経済概念の拡張について、考え中。


 たぶん、誰かがすでにやっているのだろうが、生産・消費を物語を書くことやそれを読むことにそれぞれ適用して考えたことがある。つまり、経済概念を表現活動などの精神的な領域にまで拡張したことになる。目下の所、経済概念としての窮屈さのため、少し固い感じが伴うのは仕方がない。

 〈生産性〉という言葉がある。知らない外国語に出会った時のように、日頃使うことがないから出会ったら毎回調べて再確認しなくてはならない。しかし、会社の経営者や管理職などの経済社会の上層の当事者たちは、この言葉を熾烈なものとして感じ考え体現し周囲に振りまいているだろうと思う。

 〈生産性〉という言葉は、この社会の経済領域に属する経済概念である。つまり、現在の社会では経済のウェートが大きくなってきたとはいえ、社会全体を覆い尽くす概念ではない。また、〈生産性〉という概念は、その中身が実質としては昔からいくらかあったとしても明確な形を持ったものとして生み出されたのは、近代以降のものである。言いかえると、それ以前には〈生産性〉という概念のなかった長い歴史があったということである。

 〈生産性〉という言葉は、そのベクトルの性質からして効率や成果などと結びつくもので、それがいくら富の創出に関わるものであってもその富が現在までの所すべての人間に割と平等に還元されるものではない以上、人間的(総体としての)にみれば窮屈な感じを持っている。そうして、その〈生産性〉という感じ考え方は経済概念ということを越え出て、実質として社会の隅々にまで流れ出して、滲透して、わたしたちのものの感じ考え方に影響を与えているように感じられる。

 わたしは何を考えているのかといえば、生産・消費や〈生産性〉という経済概念を、その経済という局所性や効率・成果などの窮屈さを越えて、意識的なものとして精神的な領域を含む人間的な全領域にまで拡張できないかということである。

 たとえば、実感的に言ってこの社会がギスギスした関係のものではなくゆったりしたものを自然なこととして受け入れるようになれば、それと対応して経済社会の性格も〈生産性〉という経済概念も変容していくはずである。そういう未来性を意識して、人それぞれの中で拡張された〈生産性〉という概念も考えることができそうに思っている。もちろん、それは新たな別の包括的な言葉や概念として生み出されても構わないわけだが。






190


 誰かがやっている


 吉本さんの長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」に、次のような詩句がある。


「妹」 その「声符(せいふ)は未(び)」
まだ愛恋(あいれん)を販(う)らなかったのに
「姿(すがた)」 その「声符は次(し)」
「それは『立ちしなふ』形であろう」
「立ち歎(なげ)く女の姿は 美しいものであった」



 ずいぶん前に『記号の森の伝説歌』を読んでいて、これは辞書からの引用のようだが、白川静からではないかと『字統』と『字訓』に当たってみたことがある。載っていなかった。たぶん、別の辞書だろうがわからないなということで終わった。

 上に引用した『記号の森の伝説歌』(1986年12月)の「演歌」の部分は、ほとんど同じ形で「メッセージ」という詩(『遠い自註(連作詩篇)』、『吉本隆明資料集57』所収 猫々堂)の中にある。『吉本隆明全集20』の解題によると、その「メッセージ」が『野性時代』に連作詩篇63として掲載されたのが1984年1月号。白川静の『字統』が1984年8月に刊行され、『字訓』が刊行されたのは1987年5月。以上のことを調べていたら、白川静の『字統』と『字訓』からの引用ではないなとわかるはずだったが、その論考をなそうという気持ちではなくただ読み味わうという軽い気持ちだったから、そこまで調べていなかった。『記号の森の伝説歌』の発行日から見ても、『字訓』の方は考えられないことになる。しかし、「メッセージ」という詩の掲載時期まではわからなかったかもしれない。また、上記の辞書でないとすれば、図書館にある辞書を当たるしかないけど、そこまでは考えの手を伸ばさなかった。ちなみに、今、わたしの住んでる市の市立図書館のネットによる図書検索システムで検索したら以下の辞書『漢字類編』はなかった。

 高知の松岡祥男さんが、長らく発行してきた『吉本隆明資料集』がとうとう終わった。一読者として、終わってしまったのか、とさびしい思いがした。毎月送られてくる『吉本隆明資料集』を少しずつ読みながら、あ、これは大事だなと思ったら『データベース ・吉本隆明を読む 』の項目作成にも活用させてもらった。今回、購読者に贈られた『吉本隆明さんの笑顔』(松岡祥男、吉本隆明資料集・別冊2 猫々堂)を読んでいたら、上の詩のことが書いてあった。上の詩の部分を引用した後、次のような吉本さんの言葉が紹介されている。なあんだ、そうだったのか、と不明が溶けて少しほっとした。


 誇らし気に言うと、この辞書(『漢字類編』―引用者註)から「姿」という字が、女性のしなう立ち姿からきたのだというヒントをもらって、なまめかしいイメージにショックをうけ、詩作のなかに使わせていただいたことがある。
 (吉本隆明「白川静伝説」)



 吉本さんが白川静について触れた文章は読んだ覚えがあるが、この「白川静伝説」(『白川静著作集』内容見本)は読んだ覚えがなかった。ネット検索していたら、『白川静読本』(2010年3月 平凡社)に収められていた。市の図書館にあったので借りて見たら1Pほどの文章だった。また、ネットに『隆明網(リュウメイ・ウェブ)』があり、その中の「猫々堂『吉本隆明資料集』“ファン”ページ」に、『吉本隆明資料集』の全号の書誌(目次)があるのを知っていたので、ひょっとしたらと思って、その全号の書誌を、愛用しているエディターソフトの「秀丸」にコピーして、「白川静伝説」で検索するとヒットした。『吉本隆明資料集 23』にあった。わたしはその頃はまだ『吉本隆明資料集』を購読していなかった。たぶん現在は、このような「検索」が自然なものになってきている。例えば、万葉集の中のある詩語を調べたいときは、検索ソフト付の万葉集で検索すればいいというふうになっている。ずいぶん手間は省けるようになっている。

 わたしたちは、このように「誰かがやっている」ことによって助かることがある。これは文学や思想の世界に限らず、日常の生活世界にも当てはまることだろう。誰もやっていなければ、自分でやるしかない。それが自然に他者にとって「誰かがやっている」ことにいつかつながるのかもしれない。今度は他者にとって自分が「誰かがやっている」の当事者になるわけである。こうしたことは取り立てて言うことではないにしても、このことも一種の人間社会の相互扶助(無意識的な無償の行為)ではないだろうか。ある行為や表現がたとえお金の関わる経済活動を含んでいたとしても、そのことは言えそうな気がする。







191


 誰かがやっている・続


 初めてこの長編詩『記号の森の伝説歌』に出会った時には、ほとんどこの詩の世界に入り込めなかった。すなわち、わけがわからなかったが、何度か読むうちに少しは入口が見えてきたような気がする。

 長編詩『記号の森の伝説歌』を何度か読んだ上で、目次を眺めている。この長編詩は、「舟歌」「戯歌」「唱歌」「俚歌」「叙景歌」「比喩歌」「演歌」のパートからなっている。おそらく、作者は、深い歴史の流れの中の現在(現代)を生きてきた〈わたし〉に、それらの多様な歌を通してこの世界の有り様に立ち会わせている。詩句にもあるが、「概念がエロスだった」というように、言葉が行使されている。あるいは、言葉が流露している。ちなみに、長編詩『記号の森の伝説歌』のもとになった連作詩篇を『遠い自註(連作詩篇)』(猫々堂)に編集した松岡祥男さんの「編集ノート」によると、『記号の森の伝説歌』について、作者は次のように語ったとのこと。


 私はそのモチーフについて質問したことがあります。吉本氏は「じぶんたちの世代は、歌といえば、唱歌か軍歌しかないから、歌を作りたいとおもっているんです」と語りました。


 現代詩は一般に、流行歌謡のようにやさしい言葉でなめらかにというわけにはいかない。長編詩『記号の森の伝説歌』では、十分に内容がたどれないとしても言葉のエロスが十分に放出・表現されている、その感触は、読者に伝わると思う。そうして、吉本さんは、『固有時との対話』以来、詩の批評性というものを意識的に携えて来ているように見える。批評性とは、思想性や内省ととってもよい。したがって、この詩集を十分により深く味わい尽くすには、吉本さんの全思想を踏まえることが大切だと思う。

 せっかくだから、長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」の部分とそのもとになった詩のひとつ、「連作詩篇」の「メッセージ」とを対照してみたい。


1.
 メッセージ

読者は森に集って
車輪で圧しつぶされた文字の
残骸を悼んでいる ちらばった
扁を指して嘆くのなら 文字の
起源について泣くべきだ

「妹」 その「声符(せいふ)は未(び)」
未だ愛恋を販らなかったのに
「姿」 その「声符は次(し)」
「それは『立ちしなふ』形であろう」
「立ち歎(なげ)く女の姿は 美しいものであった」

ひとりひとり
イメージの鳥になって
月の輪に影をついばんでいる やがて
うなだれた塑像みたいに
こわれたキイ・ワードを
組み立てはじめる

その一語のために色づいた
村の妹たちに触れてきた 乳房は
森のうしろ 双(ならび)が丘になった
風に揺られ 神話のなかでは
概念がエロスだった
永遠という旅の途次の字画よ

そのままで どうかそのままで
こわれた村の妹たちは 都会で
「新見附」という文字に抱かれている

いつか明け方
陸橋のしたの路を
森に入りそこねた活字を束ね
新聞配達が通りすぎる
 (『遠い自註(連作詩篇)』、『吉本隆明資料集57』所収 猫々堂)



2.
 長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」
 詩「メッセージ」との対照で言えば、L1の「集って」が「あつまって」に、L7の「未だ」が「まだ」に変更され、新たにルビが付けられている語がある。もとになる詩「メッセージ」全体が長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」の一部に取り込まれていて、以下のようになっている。両者の異同については、ルビを除く異同がある箇所はその行の最後に「★」記号で示す。


         *****
         * (引用者註.この記号は、「Ⅶ 演歌」の「6」の意味のようだ)

読者は森にあつまって 

車輪で圧(お)しつぶされた文字の
残骸(ざんがい)を悼(いた)んでいる ちらばった
扁(へん)を指して嘆(なげ)くのなら 文字の
起源(きげん)について泣(な)くべきだ

「妹」 その「声符(せいふ)は未(び)」
まだ愛恋(あいれん)を販(う)らなかったのに 

「姿(すがた)」 その「声符は次(し)」
「それは『立ちしなふ』形であろう」
「立ち歎(なげ)く女の姿は 美しいものであった」

ひと画ひと画が 
★★
イメージの鳥になって
月の輪に影(かげ)をついばんでいる やがて
うなだれた塑像(そぞう)みたいに
こわれたキイ・ワードを
組み立てはじめる

つくられた一語に色づいた 

村の妹たちに触れてきた 乳房(ちぶさ)は
森のうしろ 双(ならび)が丘(おか)になった
風に揺(ゆ)られた神話のなかでは 

概念(がいねん)がエロスだった
永遠という旅の途次(とじ)の字画よ

そのままで どうかそのままで
こわれた村の妹たちは 都会にでて 夜ごと 

「新見附(しんみつけ)」という文字に抱(だ)かれている

いつか明け方 窓(まど)から見おろすと 

陸橋のしたの舗装路(ほそうろ)を 
★★
森に帰りそこねた活字たちを束(たば)ね 
★★
新聞配達が通りすぎる

         *****
         **

 (長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」P144-P147 角川書店 1986年12月)
 ※この長編詩の組み方は各行が上下しているが、「吉本隆明インタヴュー」(「而シテ」1989年)でそれは自分の意向ではないと吉本さんは語っている。読みづらいので各行頭揃えにしている。


 まず、もとになった連作詩篇「メッセージ」と長編詩『記号の森の伝説歌』の「演歌」では、「連作」と「長編詩」というなんらかのモチーフを持つという点では共通していても、そのモチーフの固有性は違っていると思われる。もしモチーフが同じとするならば、あえて長編詩『記号の森の伝説歌』としてまとめ上げるのではなく、『遠い自註(連作詩篇)』という詩集としてまとめ上げればよかったはずである。この件についても、上記の松岡祥男さんの「編集ノート」によると、『吉本隆明全集撰』第一巻(1986年9月刊)の川上春雄氏の「解題」(1986年8月16日付け)にその事情が記されているという。これに当たったみた。


 近刊が予定される吉本隆明詩集『記号の森の伝説歌』の成立は、もともと角川書店『野性時代』に連載された作品を発端としている。すなわち、一九七六年五月号に発表された「雲へ約束した」を連作詩篇1,六月号に発表された「夢の手」を連作詩篇2というタイトルで以後断続的に六十五回ほど連載された詩と、その前年一九七五年の『野性時代』十月臨時増刊号に発表された詩「幻と鳥」とをあわせたものが詩集の本体と考えられる。
 本体とも原型ともいうべきこの作品群に加筆訂正のうえ、やがて『遠い自註』を詩集名として角川書店から刊行されると知らされていたが、今春になると、さらに連作詩篇から長詩へという発想に発展したことを著者から聞いたのであった。
 こんどの『全集撰』において「祖母」への愛惜、追想を含む「演歌」の部分が、著者の意志によって最後の総括部に収録されるのである。


以上をまとめてみると、
1.「連作詩篇」の掲載は、『野性時代』1975年10月の臨時増刊号~1984年3月号まで。
2.「連作詩篇」に手を入れて、『遠い自註』を詩集名として角川書店から刊行予定と川上氏は聞いていた。
3.1986年の春に、連作詩篇から長詩へという発想に発展したことを川上氏は聞いた。
4.1986年9月刊の『吉本隆明全集撰』第一巻に長詩の「演歌」の部分が掲載された。
5.「解題」(1986年8月16日付けの時点で、「近刊が予定される吉本隆明詩集『記号の森の伝説歌』」とあり、それは1986年12月に刊行された。

 ということは、吉本さんは、連作詩篇を書き上げた頃から出版社との話がついてひとたびは連作詩篇を集めた詩集『遠い自註』を刊行する心づもりであったが、それらを総合した新しい詩的作品世界を長詩として構想したということだろう。4.5.を考慮すると、1986年の春に川上春雄氏が吉本さんから長詩の構想を聞かされた時には、すでにその長詩にとりかかっていたものと思われる。

 作者は、「演歌」のこのパートでは、ここではその詳細には触れないが前のパートのつながりから、連作詩篇の「メッセージ」を全部このパートに生かすことにした。連作詩篇と長編詩『記号の森の伝説歌』を少し対照させて調べた限りでは、連作詩篇の詩を一部取り入れた部分もあり、このようにほとんど全部取り入れた部分もある。連作詩篇から新たな固有のモチーフ(ここではそれにはあまり触れないが)の舟に乗り、言葉と言葉のぶつかり・連結などから、とてもいい感じの形に切り整えたり、変更したりしていく。上に印を付けた★はそうした軽い切り整えであり、★★は、固有のモチーフの流れからの変更であると思う。


 長編詩『記号の森の伝説歌』の固有のモチーフ関わることをこの場面について少し触れておく。詩「ある抒情」(1973年9月)と「五月の空に」(1974年8月)は、いずれも『吉本隆明新詩集』(1975年11月)に収められているわたしの好きな詩であるが、そのような「世界のない世界へ/微風のない微風へ/岸辺のない岸辺へ/知の岸辺へ」から言葉の森へ深く入り込んだ、あるいは迷い込んだ、「み籠よ 口ごもる」「恋うる生存」の〈わたし〉が、概念がそのままエロスのような世界の流露に出会っているように感じられる。遙か太古に始まる大きな人間の歴史の流れの中で、自らが生きてきた時代(歴史)の変貌は、概念(エロス)の変貌であり、同時にそれはその概念(エロス)を背負った具体性を持つ人や自然の変貌でもあった。その両者が、作品世界で二重に重ね合わされているように見える。だから、この作品の詩語は概念と同時にエロスを意識的に担わされている。これは詩語しても詩としても新たな詩の表現世界の開示ではないのか。







192



 メモ2020.1.19 ―宮沢賢治の「心象スケッチ」②


 宮沢賢治の「心象スケッチ」についてまた調べてみた。
 なぜまた「心象スケッチ」を検索したかというと、「ますむらひろし」氏が昨年末にツイッターで、「これこそ賢治の心象スケッチ、『詩なんかじゃあない、あんなツギハギじゃない』と本人が言った意味を含む。」というツイートをしているのに出会ったからである。前回引用した1929年の書簡では、宮沢賢治は「心象スケッチ」を「大へん古くさいこと」とネガティブに捉えていた。また、前回は引用しなかったが、以下のような手紙もあった。


前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものでないのです。・・・中略・・・出版者はその体裁からバックに詩集と書きました。私はびくびくものでした。亦恥かしかったためにブロンヅの粉で、その二字をごまかして消したのが沢山あります。辻潤氏 尾山氏 佐藤惣之助氏が批評して呉れましたが、私はまだ挨拶も礼状も書けないほど、恐れ入ってゐます。私はとても文芸だなんといふことはできません。そして決して私はこんなことを皮肉で云ってゐるのでないことは、お会い下されば、またよく調べて下されば判ります。そのスケッチの二三篇、どうせ碌でもないものですが、差し上げようかと思ひました。
(大正十四〈一九二五〉年二月九日 森佐一あて封書 その一部)



 これを前回の手紙と合わせると、宮沢賢治の「心象スケッチ」は「詩」とは次元が違うものだということはわかるが、「到底詩ではありません」や「ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません」という言葉によれば、宮沢賢治は「詩」に対して恐縮しているようにわたしは受け取っていた。だから、「詩なんかじゃあない、あんなツギハギじゃない」という積極性の言葉に驚いたのだ。私が読んだ書簡集にはなかったようだが、どこでそんなことを語ったのだろうと検索していたら、見つかった。HP『宮沢賢治の詩の世界』の中の「賢治 日めくり」に見つかった。わたしの『新修 宮沢賢治全集』第十六巻 書簡集(1980年8月30日)にはなぜか載っていないようなので、そこから孫引きする。


・1925年12月20日(日)(賢治29歳)、岩波書店店主岩波茂雄にあてて、自作を同封した手紙を出した(書簡214a)。
 前年に自費出版した『春と修羅』の売れ残りと、岩波書店が出している「哲学や心理学の立派な著述」とを交換してくれないかという大胆な依頼で、最近の作品「鳥の遷移」(『春と修羅 第二集』の謄写刷りを同封した。文面は謙虚なようでいて、自分の作品に対する強い自負もうかがわれる。作品の由来の説明の部分は、「心象スケッチ」に関する最も早い時期の自己規定としても重要である。
 賢治は岩波茂雄を当時随一の出版人と見て、自分の作品にどんな反応をするか試してみた面もあったのかもしれないが、結局岩波からの返事はなかったようである。
 「とつぜん手紙などさしあげてまことに失礼ではございますがどうかご一読をねがひます。わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。友人の先生尾山といふ人が詩集と銘をうちました。詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。辻潤氏佐藤惣之助氏は全く未知の人たちでしたが新聞や雑誌でほめてくれました。そして本は四百ばかり売れたのかどうなったのかよくわかりません。二百ばかりはたのんで返してもらひました。それは手許に全部あリます。
わたくしは渇いたやうに勉強したいのです。貧るやうに読みたいのです。もしもあの田舎くさい売れないわたくしの本とあなたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません。わたくしの方は二・四円の定価ですが一冊八十銭で沢山です。あなたの方のは勿論定価でかまひません。
粗雑なこのわたくしの手紙で気持ちを悪くなさいましたらご返事は下さらなくてもようございます。こんどは別紙のやうな騰写刷で自分で一冊こさえます。いゝ紙をつかってじぶんですきなやうに綴ぢたらそれでもやっぱり読んでくれる人もあるかと考へます。
    ご清福を祈ります。」

 (「賢治 日めくり」12月20日 http://www.ihatov.cc/today/12_20.htm)


 「ますむらひろし」氏の述べたそのままの言葉ではないけど、「詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。」と述べている。この述べ方は「詩」に対して恐縮しているわけではなさそうだ。まあしかし、「つぎはぎしたもの」という詩に対する理解は外面的な捉え方に見える。しかし、宮沢賢治が詩とは次元の違った世界に「心象スケッチ」を位置づけイメージした、そこから見渡した時の印象だったのだろう。現在のわたしたちからすれば、宮沢賢治の「心象スケッチ」は、「詩」の概念の拡張を意図したものに当たっていると思われる。

 宮沢賢治の「心象スケッチ」について検索していたら、元良 勇次郎(もとら ゆうじろう)の「心理学概論」を宮沢賢治は読んでいたのではないかと植田敏郎が推測していたという記述に出会った。また元良勇次郎(1858-1912)は、「日本最初の心理学者である」。私にとって元良勇次郎といえば、吉本さんが若き岡井隆を批判していた短歌の批評などで出て来た名前だった。アマゾンで調べたら、古書として元良勇次郎の『心理学概論』(1915年)があった。宮沢賢治の年譜によると1915年は、賢治19歳、「春と修羅」に収録される詩を書き始めるのは1922年、「春と修羅」の自費出版が1924年4月とのこと。


「岡井は、読みもしない元良勇次郎の詩論(「精神物理学」明治二十三年七・八月)を「多分幼稚なものだったろうと想像する」などと云っているが、今後はこういう文学青年じみたはったりは云わぬようにせよ。そんな根性ではロクな歌人にはなれまい。 元良の論文は、岡井のような無学な歌人が逆立ちしてもできない方法と論理で、何故、日本の詩歌が、五・七律を主体とするかを『精神物理学』的に考察している。わたしが、五・七律に表現される感性の秩序と、現実の秩序を対応させて考えようとするとき、元良勇次郎の労作を思い浮かべるのは、当然なのだ。」(吉本隆明「定型と非定型」)


 わたしは、まだまだ宮沢賢治の作品に降りていくつもりはないけど、これで、宮沢賢治自身の「心象スケッチ」という概念に入っていく準備のひとつができた。


同じHPにもうひとつ、「2019年4月21日 なぜ岩波茂雄あてに」という文章がある。
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2019/04/

※ 以下に、前回のメモを載せておきます。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 メモ2019.11.19―宮沢賢治の「心象スケッチ」①


 宮沢賢治に「心象スケッチ」という言葉がある。宮沢賢治の「心象スケッチ」という考え・方法を私たちは割と目新しいもの・積極性として受け取りがちのように感じるが、本人はそうでもなく、地理や歴史への問い・ほんたうの幸福とはなどの『銀河鉄道の夜』の中に挿話としてあるように、ほんとうはもっと突き抜けた課題に関心があった。


「文芸へ手は出しましたがご承知でせうが時代はプロレタリヤ文芸に当然遷って行かなければならないとき私のものはどうもはっきりさう行かないのです。心象のスケッチといふやうなことも大へん古くさいことです。そこで只今としては全く途方にくれてゐる次第です。たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめようとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。ところがそれをどう表現しそれにどう動いて行ったらいゝかはまだ私にはわかりません。」(『新修 宮沢賢治全集』第十六巻 書簡 P234 昭和四年 一九二九年 日付不明 高瀬露あて 下書より)







193


 覚書2020.5.22 ―現在的な表現の場所


 まず、歴史的に見て、歌は集団的なものであり同時に個的なものであった。集落の人々が白熱した巫女やシャーマンの語りや歌を聞くとする。この場合、巫女やシャーマンは、話者としての脚色を加えながらも集落のほとんどみんながそうだと思うような神々やその振る舞いやこの世界の有り様を、より鋭く深く語る。集落の人々は、そうだそうだよとほとんどみんなが同じように共鳴しながらも、一人一人の内面ではその心情にそれぞれ固有のものとつながっている。この事情は、わたしは経験がないけれど、コンサート会場でのミュージシャンと観客の関係として、現在でも同型の構造を持つのではないかと思われる。

 社会や産業構造の変貌とともに、太古の宗教性、濃密な世界観が薄れていくと、宗教性や集団性に仕える巫女やシャーマンから、語りの者が分化してきた。神社の創設などに象徴されるように巫女やシャーマンはより宗教性に純化し、語りの者は物語りに仕え、人々の意識も宗教性と物語りの分化に対応する意識になっていく。

 社会や産業構造の変貌とともに、集落の人々の宗教性や濃密な世界観は薄れ形骸化し、その隙間を埋めるように語りの者の物語りが受け入れられていく。つまり、集団性の中に埋もれた個としての人間から、個が集団性がら抜け出ていこうとする過程である。これは、個的な表現者や芸術のはじまる道筋であると思う。そうして、このような道行きはとても大きな時間スケールの中でたどられてきている。

 そのような歴史の歩みから現在でも、歌(に限らず芸術全般も)や歌い手には、巫女性と個性、集団性と個性が二重性として内包されている。したがって、先の戦争中の戦争詩に限らず、現在でもなお時の政権や政治や現在の中心的な社会の考え方(マス・イメージやイデオロギー)に同調する歌もやすやすと生まれてくる。ただ、そのような「儀式歌」やイデオロギー的な歌は、個々人の切実な内面をすくい上げたり触れたりすることができないから、歴史的な現在の文学的水準から見れば白々しい歌、死の文学というほかない。しかし、例えば毎年放送されているチャリティーの24時間テレビの「愛は地球を救う」というスローガンやそれに基づく番組構成に大衆受けする面があるように、「儀式歌」や儀式的な物語は存在し続けている。それらは、巫女性や集団性の伝統に連なるものであろう。

 現在、テレビ(ネットも含めて)の位置は、わたしたち生活者にとっても、またわたしたちを突き動かそうとする層にとっても、重要な位置を占めているように見える。私たちにとっては、テレビは娯楽や自己慰安であり、企業や政治にとってはテレビは商品を購入させたり、ある政治的なイメージを流したりわたしたちをある方向へ操作しようとしたりするものとしてあるようだ。もちろん、わたしたちは観る自由と観ない自由の意志と選択を持ってはいる。

 太古から眺めれば、人間は集団性に埋もれた個から、そこから抜け出して個の先鋭化の時代に至っている。このことは、現政権やそれを支える宗教グループのように過去の段階への退行や復古主義の考え方で押し止めようとしてもどうにかなるものではない。ラジオやテレビ、パソコンやケイタイなど新しいものや新しい事態が社会に登場したときには、必ずと言っていいほど二種の対立傾向がわたしたちの意識に現れる。親和と退行である。一般には、新しいものに若い層が受容的であり、老年世代が反発的、退行的である。しかし、現在を見ればわかるように、幾多の試練を乗り越えてそれらの新しいものや事態は、わりと自然ものとして着地しているし、着地していくのである。

 太古はいざ知らず、現在における芸人の芸や歌や文学は、現在を生きる人々の心や意識の有り様の現在的な水準によって生み出され、その水脈を無視しては成り立たない。もし、ある芸や歌や文学が「白々しい」と大多数の読者や観客に感じられたなら、それらの作品は現在的な水準や水脈からズレているのである。すなわち、わたしたちが生きて呼吸している〈現在〉からズレているということになる。







194


 覚書2020.6.25


1.人間の感じ考えることには無限の自由度があるように見える。

2.確かに、人間の感じ考えることの枝葉にはひとりひとり異なる多様性と固有性があるように見える。

3.しかし、人間の感じ考えることの根幹は、いくつかの型に分類できそうだ。

4.そして、その根幹は、一般に時代性に、時代性に見つからないように見える時は現在まで人類が生み出してきた感じ考えのいずれかに収束するように見える。そうして、それらは時代性の現在に潜在している。

5.つまり、数千年、あるいはもっと下って数十万年、この時間の深みから湧いてくる人間の感じ考えることの型やその道行きには、〈人間性の有り様〉から来る必然のようなものがありそうに思われる。

6.そういう〈人間性の有り様〉に規定されて絶対性に近く見える人類の歩みの流れにも、例えば「人柱」という考え方や行動は迷妄であったじゃないかというような内省もあり得る。こうして人間は、戦争一つとっても容易には変わらない、数々の負の歴史遺産を受け継ぎながらも、それらに対抗して現在から絶えず目ざそうとする人類の理想のイメージの主流をも思い描いてきたことも確かである。

7.長らく毛沢東の専属医師だった李志綏(リチスイ)の『毛沢東の私生活 上』(文春文庫 1996年)を読み終え、今『毛沢東の私生活 下』の半分ほどまで読み進んだ。それで知り得たことを踏まえて言えば、例えば、共同性の悪と残虐の限りを尽くしたスターリンのソ連や毛沢東の中国やポル・ポトのカンボジアは、〈革命〉がどうしてそんなことになってしまったのかという人類史の負の遺産としてしかわたしたちには残されていない。皇帝政治や専制政治の亜種とも言えるそれら近代の〈革命〉が、始末の悪いことに「マルクス・レーニン主義」というイデオロギーの印籠を振り回しながら、共同性として組織化されると悪と残虐の限りを尽くすことがあり得ることを示した。装いは、「マルクス・レーニン主義」というイデオロギーにもとづく近代的な革命だが、内実は、最後で最悪の皇帝政治、専制政治であったと言えるだろう。毛沢東の中国は、誤った政策や権力闘争によって、数千万人もの人々を餓死や死に追い込んでいた。

 しかしそれでも、人間や人間社会の有り様として、現在から絶えず目ざそうとする人類の理想のイメージとしての〈革命〉が死滅することはないが、それら近代の負の〈革命〉とは絶対に違った道を踏むべきことを教えていることだけは確かである。

8.吉本さんは、晩年によく、お猿さんからぶっ通して人類をたどり直さないと現在や未来を読み間違うと言われていた。このことをわたし流に捉えれば、本質的にはこうでしかありえないという人間という存在の有り様とそれが織り成す歴史、それはなぜか表舞台ではなく歴史に底流するように存在してきている、しかし、それこそが人類や歴史の真の主流であり、それをはずしたら、人間の思考は無限の自由度の海を空想的に泳ぐほかないだろう、ということになる。

 このことは、大きな歴史の動向や社会の動向に限らず、ひとりの人間について、その有り様と心意を捉える場合にも同様に言えると思う。







195


 覚書2020.7.1―コロナウィルス問題に対するわたしの位置


1.コロナウィルスの医学的な把握や、コロナウィルスに対する社会的対処法などに関心がないわけではない。ネットに溢れている文章もいろいろ読んではきた。石弘之の『感染症の世界史』も読んでみた。

2.しかし、わたしが素人かじりで医学的な知見に何かを加えたりできるわけでもないし、またコロナ対策の責任を持っているわけでもないから、基本は自分や家族の毎日の生活のことにある。逆に、医学的な知見や処置の判断やコロナウィルスに対する社会的対処法には、わたしたち生活者の実情をきちんと繰り込むことは必須だという考えは持っている。だから、論じるとすれば、一生活者の視点から考える、あるいは生活者の視点を繰り込んで考えるということになる。このことはわたしの場合、一般にこの社会に生起するあらゆることに対しても同様である。

3.したがって、コロナウィルスの場合はインフルエンザと比べて死者数がどうだこうだ、だから・・・という発想は、わたしにはない。そういう発想もあり得るのだろうなとは思うが、それは生活世界やそこに生活するひとりひとりから離れた考え方である。

4.コロナウィルスは、ヨーロッパとアジアでは違うのではないかとか、治癒後の後遺症の問題とか、まだまだよくわかっていないことがあって、そのことがわたしたちに不安をもたらしているし、普通のインフルエンザ並みの受けとめにはなっていない。

5.大いなる自然の猛威に襲われたように、社会も経済も近年では未だかつてないほどの大変動をこうむっている。そうしたやり切れない状況で、仕事や生活で苦境に立たされている多くの人々がいる。

6.わたしの場合は、地方都市に住んでいるせいもあってか、またコロナウィルスの感染者が初めて出てからその後新たに出続けていないという現状もあって、今までとあんまり変わった生活をしているわけではない。もちろん、スーパーに行けば、レジなどはビニールシートがかかってはいる。毎月行く病院のときはマスクしている。この状況がさらに悪化することなく、収束することを願うばかりである。







196


覚書2020.7.13 ―言葉の舟


 1.

 当たり前と思われるかもしれないが、同じ言葉でも発する、あるいは受けとめる人によって言葉は固有の色彩やイメージを持っているように見える。もちろん、言葉は誰にでも通じるという概念や意味やイメージの一般性(共通性)も持っている。例えて言えば、「言葉の舟」という点では共通でも、それぞれ大きさや形や飾りや速さの違う言葉の舟によって言葉は運ばれ、そのような言葉の舟によって受けとめられる。遙か太古からの長い時間のくり返しの中で、そのことは割りと自然なものとなっている。


 八月六日の昼前磯介が久しぶりに泳ぎに誘いに来た。僕は彼と連れ立って海へ向って歩き出した。
「米屋の兄さまが死んだとよ」と磯介はしばらくしてから不意にいった。
「えっ?」
「米屋の兄さまって、松の姉さんの」
「これよ」といって、磯介は拇指を立てて見せた。
「本当に死んだのかい」
「アメリカの飛行機に撃たれてな。舞鶴で何やら作業をしとった時にやられたとよ」
「機銃掃射に会ったんだね」
「それよ」と磯介はいった。「キジュウソウシャに会ったんやと」
「気の毒だね」
「ああ」と磯介はいった。
 (『長い道』P423 柏原兵三) 中公文庫



 主人公の少年杉村潔と知り合いの磯介とが話している。磯介は、説明しながらたぶん「機銃掃射」という言葉が出て来なかったのだろう。「キジュウソウシャ」というカタカナ書きの言葉は、その言葉が自然に出て来る杉村潔と違って磯介にとっては知ってはいても十分に使いこなせる自分の言葉になっていなかったということが表現されている。これらのやりとりは、「機銃掃射」という言葉自体とは別の、先に述べた言葉の「固有の色彩やイメージ」の二人における違いを示している。

 ここでは、「機銃掃射」以外の二人の会話は自然に運んでいるように見える。しかし、磯介の語った言葉を「〈アメリカ〉〈の〉〈飛行機〉〈に〉〈撃たれ〉〈て〉〈な〉。〈舞鶴〉〈で〉〈何やら〉〈作業〉〈を〉〈しとっ〉〈た〉〈時〉〈に〉〈やられ〉〈た〉〈と〉〈よ〉」と分解してみるとわかるように、ここにはたくさんの言葉(単語)が連結されている。しかも、この言葉の内容は、磯介が誰かから聞いた伝聞の言葉である。こうした言葉のやりとりが、自然になされているということはなんらふしぎには見えないが、それは人類の歴史や個の歴史の中でくり返しくり返して培われてきたからと言うほかない。人の生涯においても、まだ言葉の経験が少ない小さい子どもにはこういう言葉の表現や理解は不可能である。


2.

 柏原兵三の『長い道』という作品は、村瀬学『いじめの解決 教室に広場を』(言視舎2018年)の「第3章 いじめを描く文学作品の読み解き ―「文学の力」へ」で取り上げられている。それがきっかけで読んでみた。

 この物語は、主人公の少年杉村潔が、昭和十九年九月に戦時下の「縁故疎開」(学童疎開)で東京から父の故郷の北陸の舟原村にやって来るという話である。そこで、学校を中心とする場でいじめを含む少年たちの徒党を組む物語が展開する。そういう徒党を組む、媚びへつらう独特の少年期の権力構造が切開される。いじめられたりもする主人公の、中立を選びたいとかはねのけたいと思いつつ付き従ってしまう、揺れ動く内面の劇がこの作品のモチーフだと思われる。その内面は、わたしたち読者にはたぶんよくわかると思われるが、学校の教師や家族の父や母からは見えないもの、見えにくいものとして描かれている。この作品は、依然として現在的でもあり、長い時間に耐える作品である。つまり、人間が容易には解決できないいじめと徒党を含む人類的な課題、個と集団の問題に触れているからである。

 このことを、言葉の問題に引き寄せて言えば、ひとりひとりの個の固有性と自由を制圧したり抑制したりすることのない、あるいはそのようなものを欲求する言葉や物語は、どのように描かれるかという問題になる。

 『長い道』という作品は、序章・全十二章・終章の構成になっている。九章で物語の流れが大きく転回し、学校を主な場として続いてきた進の徒党権力がつぶされ、松の徒党権力にとって変わられる。学校へ通う「長い道」は、主人公の潔に課せられた未来の見えない底なし沼のような試練である。こうした閉塞的な精神の状況が死を呼び寄せるのは自然であろう。最後は、主人公の潔本人による解決ではなく、敗戦が縁故疎開を終わらせて東京に引き揚げることになる。いじめの状況がこうした現実の小さく見える偶然によって解除されることも少しはあるのだろうと思う。

 そうした偶然によって潔は救われることになるが、作者は主人公の潔の揺れ動く内面に誠実に付き合おうとしてきているように思われる。当然ながら、「ひとりひとりの個の固有性と自由を制圧したり抑制したりすることのない言葉や物語」は、ここで描かれているようないじめの現実や構造を白日の下に描き出すことの中からしか小さな明かりのようなものとして未来に光を放つことはあり得ない。言ってみれば、「ひとりひとりの個の固有性と自由を制圧したり抑制したりすることのない言葉や物語」は、言葉の舟がネガティブでしかあり得ない現実のなかを進みゆく様を、言葉は隠し立てすることなく描写する欲求を持っていると言うことができる。それが作者の表現の倫理であろうと思われる。







197


 覚書2020.7.20―政治や政治家について


0.政治や政治家は、帰りがけの課題を持たないなら、現在までの政治や政治家のガラクタの歴史に埋もれるほかない。

1.帰りがけの課題とは、なぜ「政治や政治家」が生み出されざるを得なかったかということを反芻し、「政治や政治家」が解体される・終わるイメージ、すなわち普通の人々に開かれるイメージを持つことである。そういうイメージには、それを助けるものが引き寄せられてくる。例えば、先々にはネットなどの技術力の成果が直接民主に近い「政治」を可能とするかもしれない。現在では、定期的に実施されている民間の「世論調査」によって、わたしたち生活者大衆の考えや意志を計測・表示できる。政治は、それを無視し得なくなってきている。

2.わたしはまったくの「無党派」だが、現在の「政治や政治家」や政党を絶対化すれば、党派的な閉鎖性と党派の護教となり、異なる他者への攻撃性を呼び込むことがありうる。だから、わたしには現状では「無党派」こそが現在的な積極的政治性に見える。

3.知識層含めて「政治や政治家」や支持者たちの考えは逆立ちしがちだが、普通の日々の生活こそがこの世界の重力の中心にあると意識的に思い定めることが大切だと思う。彼らの発想の源はここにあるべきでそこに帰るべきものである。







198


 覚書2020.7.24―本を読んで気になったこと二つ


 多和田葉子の『献灯使』(2017.8.9 講談社文庫)を読んだ。作品そのものは、あんまりおもしろくなかった。作者は意識的にだろうが、何が起こったのかと読者が焦れったく不審に思うほど、大地震や汚染の描写が断片的であいまいにぼかしてある。その大災厄後の列島社会は、今までの生活様式が破壊され自由な行き来もできないようになり、廃墟の中の生活みたいな退行的な生活ぶりの描写に、そんなことはあり得ないだろうと思いながら読んだ。

 しかし、作品を読んでいて気になったことが二つある。一つは、

1.人間にはどのように時間は保存され、また発動するか。

 義郎は、玄関で靴を脱ごうとしてよろけて片手を白木の柱につき、木目を指頭に感じた。樹木の体内には年月が波紋になって残るが、自分の身体の中に時間は一体どんな風に保存されているのだろう。年輪になって波紋を広げていくこともなく、一直線上に並ぶこともなく、もしかしたら整理したことのない引き出しの中のように雑然とたまっているのではないか。そう思ったところで再びよろけて左足を床についた。
「どうもまだ片脚で立つ能力が不足しているな」
 と独り言を漏らすと、それを聞いて無名が目を細め、鼻を少し持ち上げて、
「曾(ひい)おじいちゃん、鶴になりたいの」
 と尋ねた。声を出した途端、風船のように揺れていた無名の首が背骨の延長線上にぴたっと定まり、眼もとには甘酸っぱい茶目っ気が宿った。
 (『献灯使』P11-P12 多和田葉子 講談社文庫 2017年8月)



 わたしが時々思い起こすこと。人間にはどのように時間は保存され、また発動するかということ。この場合の時間には、個の過去の時間と人類史の時間との二種類がある。そうして、それらは相互にどんな関係にあるのか。「樹木の体内には年月が波紋になって残るが、自分の身体の中に時間は一体どんな風に保存されているのだろう。」を読んでまた思い起こしてしまった。

 難しい問題であるが、わかっていることもある。日本社会が近代を上り詰めて、人々の中で旧来のものや感性や秩序との軋轢が深まってくると、古い時代が慰藉のように呼び寄せられる。それは先の戦争期に全社会的に開花したと言えるだろう。つまり、危機に陥ると太古の古い感性への退行が、個のレベルや社会的レベルで発動されることがあるということである。

 よくわからない点として、記憶として呼び寄せられるほかないように見える個の時間や人類史の太古からの時間が、わたしたちの内面に保存されているのは確かであるが、それは地層のように層を成して保存されているのか、それとも、現在のわたしたちの意識が呼び寄せるものに接続されて登場するのか。あるいはまた、記憶として呼び寄せられる他に、時間の旧と新とがわたしたちの心身にシームレスに接合されて存在しているのか、今のところよくわからないとしか言いようがない。

 これに関わることに今日ひとつであったので付け加えておく。


今日は、その後、J-waveのラジオにリモート出演をするので、一度、チェックをした。出演が午後3時で普段であればアトリエにいる時間なので、その前にパステルの絵を描こうと思って、早めにアトリエへ。やはり日課が一番大事である。イレギュラーなことが起きる時は、最初に日課を早めにやっておく。そうすることで、揺れ動きやすい精神が、ある程度おさまってくれる。ラジオ出演するくらい、別に気にすることじゃないだろうとも思うが、でも、その大小の問題ではなくて、揺れ動くということ自体に対して、まだ警戒心がないわけではないということなんだろう。別に気にしなければいい。はっきりいうと、日課なんてなくてもいい。小学生の僕はそう言う。なるほど、次はそういう状態を目指してもいいかもしれない。もう何にも気にせずにその瞬間瞬間にやりたいと思ったことをそのままやる方法に。まだまだ先は長いと思うが、それもまた面白そうだ。でも、今はまだ修行の身、精神状態は今までにないくらい相当安定しているが、用心はしておこうということで、僕はやっぱり日課である絵を描くことをはじめた。なんといっても、絵を描きたいからだ。
 (坂口恭平「土になる」第2部(14) 2020/07/24 )
 ※現在、ネットの「note」に毎日連載中。



 「やはり日課が一番大事である。イレギュラーなことが起きる時は、最初に日課を早めにやっておく。そうすることで、揺れ動きやすい精神が、ある程度おさまってくれる。」という判断と行動は、〈僕〉の現在的な判断と行動である。「ラジオ出演するくらい、別に気にすることじゃないだろうとも思う」は、その判断や行動に対する内省である。しかし、その次の「はっきりいうと、日課なんてなくてもいい。小学生の僕はそう言う。」は、「小学生の僕」がなければ、現在の判断や行動に対する内省と区別が付かない。この「小学生の僕」というのは、小学生頃の自分の判断や行動を指している。つまり、現在の〈僕〉の中には、「小学生の僕」が何らかの形で存在していることが示唆されている。


 二つ目は、作者・語り手・登場人物に関係することである。
 
2.〈語り手〉が、主な登場人物の〈義郎〉や〈無名〉と同化したような描写が心に懸かった。
 〈語り手〉は、上に引用した「1.」の部分のように、登場人物の外面を描写したり内面に入り込んでその内面を語る(説明する)ことは一般によくあるが、それとは少し違うようなのだ。

 遙か太古においては、作者・語り手(巫女やシャーマン)が、自分たちに恵みとともに猛威ももたらす〈大いなる自然〉=〈神〉の内心を推しはかったり、〈大いなる自然〉=〈神〉をなだめたりしたこと、そのことを語る宗教性が、〈物語〉の原型であった。もちろん、芸術としての〈物語〉は、そのような宗教性を原型としながらも、その宗教性からの飛躍と切断によって獲得された表現である。作者・語り手(巫女やシャーマン)は、物語の世界に登場する〈大いなる自然〉=〈神〉に近づいたり、その思ったり語ったりする言葉を聞いたり、推しはかったりすることはできる。したがってこの〈物語〉は起源としては、〈語り手〉(巫女やシャーマン)は、〈登場人物〉たちと同じ物語の世界に存在するといっても、互いに同一化するには余りに隔てられ過ぎた存在の関係になっている。ただし、イタコが当事者に乗り移るように、〈語り手〉(巫女やシャーマン)のイメージや意識の中での跳躍によっては同一化は可能である。すなわち、〈語り手〉(巫女やシャーマン)は後景に退いて、あるいは溶け合って、神本人になりきって語ることもあり得るように見える。これは、〈語り手〉(巫女やシャーマン)のイメージや意識の中での跳躍によって同一化をくり返してきた経験の中から獲得されたものであろう。アイヌの物語には、そのような神自身が一人称で語る物語がある。それは例えば、『アイヌ神謡集』の「シマフクロウ神が自らをうたった謡」などに見ることができる。(『アイヌ神謡集』知里幸惠編訳 青空文庫)


 義郎の朝には心配事の種がぎっしりつまっているが、無名にとって朝はめぐりくる度にみずみずしく楽しかった。無名は今、衣服と呼ばれる妖怪たちと格闘している。★★布地は意地悪ではないけれど、簡単にこちらの思うようにはならず、もんだり伸ばしたり折ったりして苦労しているうちに、脳味噌の中で橙色と青色と銀色の紙がきらきら光り始める。寝間着を脱ごうと思うのだけれど、脚が二本あってどちらから脱ごうかどうしようかと考えているうちに、蛸のことを思い出す。もしかしたら自分の脚も実は八本あって、それが四本ずつ束ねて縛られているから二本に見えるのかもしれない。だから右に動かそうとすると同時に左とか上とかにも動かしたくなる。蛸は身体に入り込んでしまっている。蛸、出て来い。思い切って脱いでしまった。まさか脚を脱いでしまったわけじゃないだろうな。いや、ちゃんと寝間着を脱いだようだ。さて脱ぐものを脱いだのはいいけれど、今度は通学用のズボンをはく必要がある。布が丘になっていて、その丘を突き抜けてトンネルが走っている。脚は列車だ。トンネルを走り抜けようとしている。またいつか明治維新博物館へ行って、蒸気機関車の模型で遊びたいな。トンネルは二本あるから、一本は上り列車が入っていく口で、もう一本は下り列車が出て来る口。であるはずなのに、右足を入れても左が出てこない。かまうもんか。肌色の蒸気機関車がトンネルに入っていく。しゅ、しゅ、ぽ、ぽお。★★
「無名、着替えはできたのか。」
 曾おじいちゃんの声を聴くと、蛸はあわてて靴下の中に隠れ、蒸気機関車は車庫に滑り込んで、無名だけがその場にとり残された。着替えというたった一つの仕事さえまだできていない。
「僕はダメ男だなあ」
 と無名がしみじみ言うと、義郎が吹き出して、
「いいから早く着なさい。ほら、」
 と言いながら、しゃがんで通学用のズボンを両手で持ち上げてみせた。
 (『献灯使』P112-P114 多和田葉子 講談社文庫 2017年8月)


 この〈語り手〉が登場人物の〈無名〉と同化したような描写が、★★印を付けた部分に見られる。ここには上げないが登場人物の〈義郎〉に対しても同様なことが行われている。これは作者の意識的な描写だろうと思う。引用の出だしから二行目の★★印を入れたところまでは、〈語り手〉による普通の語り(描写)になっている。〈語り手〉は、〈登場人物〉義郎や無名の内面に入り込んだり推しはかったりして語っている。ところが、それ以降は〈語り手〉は、〈無名〉と同化して〈語り手〉=〈無名〉と化している。ちょうど巫女さんが神に乗り移ったような状況になっている。したがって、これはこれであり得るかなと思うが、ほとんどなじみがなかったので異和感を持った。

 物語の世界で日頃見かけないこの〈語り手〉の振る舞いはどういう事態なんだろうか。人がどういう生まれ育ちをしたかが、その後の生涯を大きく規定するように、物語の起源はの有り様は、その後の物語を規定する。起源の有り様を振り切って物語が自由に表現されることはない。例えば、芥川龍之介は、「羅生門」でもそうだが、〈作者〉を物語世界の中に登場させたことがある。読者としては、虚構の物語世界に入り込んでなじみかけているのに、急な作者の登場でシームレスな物語世界との接続に水を掛けられたような気分になったことがある。このような恣意的な自由の行使が、神的な世界、今風に言えば仮想の世界という物語の起源性の有り様にそぐわなければ、そのような表現に永続性はない。

 以前、作者・語り手・登場人物について遙か太古の起源から考えたことがある。ここでもまた、太古からの宗教性の世界、そこからの飛躍・断絶した物語の世界ということをおさらいして、この問題を考えている。なぜならば、起源の有り様は現在を深く規定しているからである。

 芸術としての〈物語〉にまで飛躍したその源流の太古の宗教的な段階を想像してみる。
 〈巫女〉のような〈物語り〉の専門家が登場すると、〈語り手〉(巫女)は、何を考えているのかよくわからない、人間より優位に立つ至高の〈登場人物〉(大いなる自然、神)と対話、交渉し、その神意を聞き取ったり、人間の願い(意志)を神に伝えたりする存在であった。この場合、〈語り手〉(巫女)は、神的な世界、今風に言えば仮想の世界、その世界内の存在であり、至高の〈登場人物〉(大いなる自然、神)と向き合っている。

 〈語り手〉(巫女)の有り様にはもうひとつある。〈語り手〉(巫女)は、自分が神的な世界(仮想の世界)で体験したことを〈聴衆〉(読者)に物語る存在でもある。ここから、〈語り手〉(巫女)が〈聴衆〉(読者)に向って物語る有り様には二つ考えられる。ひとつは、〈語り手〉(巫女)が至高の〈登場人物〉の有り様を三人称として語ることである。もうひとつは、イタコが当事者に乗り移るように、〈語り手〉(巫女)が心的な跳躍によって至高の〈登場人物〉になりきって語ることである。

 これらは、宗教的な段階の表現の有り様であるが、この原型から〈語り物〉や書き言葉の〈物語〉へと転位していった場合、前者は三人称の物語へ、後者は〈わたし〉の一人称の物語へとつながっていったように見える。宗教性では、〈語り手〉(巫女)と至高の〈登場人物〉(大いなる自然、神)との対話、交渉の場面があり、次に、それを〈聴衆〉(読者)に物語るという二重の場面がある。そこから芸術にまで飛躍した〈物語〉では、〈作者〉(〈語り手〉)のモチーフに従って〈語り手〉が語ることによって登場人物たちが駆動され物語がうねり出す。それが、〈聴衆〉(読者)の前に登場することになる。

 近代以降の個が先鋭化して社会の舞台に登場し始めた段階では、何を考えているのかよくわからない神と同様に人間の他者(登場人物)も何を考えているのかよくわからないが、〈語り手〉は太古の神の時と同様に〈登場人物〉を外から観察したり、心の内をのぞいたりして語っていく。三人称の物語である。また、何を考えているのかよくわからない神の一人称語りに対応するのは、同様に自分自身というものがよくわからない〈わたし〉の一人称物語である。

 というわけで、ここで取り上げた2.の〈語り手〉が登場人物と同化したような描写は、イタコが当事者に乗り移るように、〈語り手〉が心的な跳躍によって至高の〈登場人物〉になりきって語るということで、起源的にもあり得ることである。ただし、この作品は、三人称の物語が基調になっているから、この場面では〈語り手〉が白熱して思わず〈登場人物〉になりきって語ってしまったと見なすほかないだろうと思う。

 最後に、遠い将来には、文字で書かれ読まれるという物語が 変貌して、作者・語り手・登場人物が融合し、ホログラフィーのようなイメージ流の物語になってしまっても、物語の世界を流れるイメージ流の振る舞い(語り手・登場人物)として、その物語の起源との同型性は保存されると思われる。







199


 覚書2020.8.1―「ほんたうのこと」についてのメモ


 人間をお猿さんからたどり直さないと、人間の現在や未来を読み間違うことになる。吉本さんは晩年によくそういうことを語られていた。その時は、ふうんとよくわからない感じがあった。しかし、例えば人間の根っこの本性がそうではないのに、人間はそうであるべきだ、そうしてそれに沿って社会を再構築していかなくてはならない、などの把握や構想が、人間の根深い本性とずれていたら、人間や人間社会の現在や未来を読み間違うことになるということだろう。今では、わたしはそのように感じ捉えている。人間の根深い本性とは、個や集団としての人間の振る舞い方と言ってもいいだろう。

 ところで、「あなたは個人や社会や国家間の平和を望みますか」と聞かれたら、ほとんどの人々は「はい」と答えると思う。(レベル1)

 では、そのために何をしたらいいかという話になったら、その一致した「はい」は、枝分かれしていく。(レベル2) 国家間の平和に関してなら、国家が軍事力を持っている現状を見ての軍事力が重要だという考えがあるだろう。また、外交的な話し合いや多国家間の連携が必要であって軍事力は必要ないという考えもあり得るだろう。この両極の間には、またいろんな考えがあり得るように見える。

 つまり、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の作品の中に書き留めた「ほんたうのこと」は、ひとつの共通した言葉の着地点にではなく、分岐せざるを得ないという現在までの状況がある。したがって、レベル1ではほとんどが対立することなく同意できても、レベル2にまで下ってくると、それぞれの考えが対立し合うことになる。

 なぜこういうことになるのだろうか。

 戦争やいじめを何千年間もなくすことができないでいる現在の世界の有り様とレベル2での人間の考えの恣意的な自由さと局所的な考えが普遍の顔をして登場するというわたしたちの考えの現在とが、わたしたちの現在には避けられない〈関係の絶対性〉(現状は、そうでしかあり得ない関係の構造ということ)として立ちはだかっているからというほかない。しかし、現在まで何千年間もなくすことができないでいるこの問題で言えば、従来の対立的なレベル2の考えや思想はすべて無効ということになるかもしれない。

 もうひとつある。人間の根深い本性、すなわち人間の個としてや集団としての振る舞い方の歴史というものがあり、おおもととしてはその歴史の流れや現在的な水準というものが、現状を深く規定しているように見える。

 こういう状況で、この世界の自然な流れや推移とは別に、わたしたちに何ができるのだろうか。今のわたしが思いつくことは、〈気づき〉ということしかない。うすうす自分の内で感じたり気づいたりしていることをオープンにし、ひとりでも多くの人がそのことに気づくことである。例えば、

1.まず、対立的な考えや思想は不毛しか残さないから、個としてそれらのいずれかにつくということを意志的にしないこと。一般に、何かやることが何にもしないことより価値があると見なされやすい。しかし、何かやることよりも何もしないことに意味がある場合がある。
2.何千年間もたいして変わらない人間の振る舞い方(個として、集団として)を内省し理解しようとすること。
3.そのような人間の本性を汲み取った考えや思想、すなわち普遍を目ざす思想に注目し続けること。







200


 覚書2020.8.28 ―大衆的契機ということ


 知識世界を上り詰めていくとき、大衆的な契機への自覚や繰り込みがなければ、その人やその知識は空想的な現実性しか持ち得ない。このことは、吉本さんが戦争期の文学や思想の批判から導き出したことである。知識は大衆の原像を繰り込まないかぎり局所性や空想性へと偏向していく。そうして、国策に取り込まれていく。このようなことは、あらゆることに当てはまるものであり、身近な職場の言葉にも当てはまる。
 
 このことを別の言い方をしてみると、人は赤ちゃんから育って成人の今があるように、知の起源の場所は明らかに遙か太古の小さな集落の生活世界にある。人間の日々の生活の有り様の中に知識は生まれ、飛び立ち、知識世界が独り立ちして行った。したがって、元来は、大衆的な契機(知識を生み出した場所の動因)が知識を突き動かしていたはずである。
 
 吉本さんが戦争下の文学や思想の批判的な検討と自省の中から導き出したそのような教訓は、現在でも十分に生かされていないように見える。ほんとうは、知識世界に限らず、教育、行政、政治、そして現在進行中のコロナウィルス対策においても、それぞれの基本的な動因となっている大衆的な契機をこそ基本に据えるべきなのだ。わかりやすく言い直せば、生活者(市民、国民)を中心に据えた態勢を取るべきなのに、国民の生活を守るなどの口先だけの状況が相変わらず続いている。







201


 メモ2020.9.21― ヘーゲルの『世界史の哲学講義』 


 昔、岩波文庫のヘーゲル『歴史哲学』は読んだことがあるが、新版ということで買っていた『世界史の哲学講義上・下』(講談社学術文庫 2018年)をやっと読みはじめている。これは各地域や人々の具体性が関わるせいか、他の作品よりは比較的読みやすい。日本列島の各地を歩き回った柳田国男と違って、たぶん、ヘーゲルは自分の抽象のイメージと資料を頼りに、東洋世界からギリシア世界、ローマ世界、ゲルマン世界へとイメージの時空を旅している。その背後にあるのは、ヘーゲルの生きた時代の歴史段階の促しから意識的に構成された人間的意識の推移のイメージである。

 若い頃、ヘーゲルの『精神現象学』を少し読んで、何か人間の意識について深いことが語られているということはわかったが、固い言葉の連続にちんぷんかんぷんで途中で投げ出したことがある。それからすると、『世界史の哲学講義』はいくらか読みやすい。そうして、それが語られた時代から現在は200年ほど経っている。しかし、ヘーゲルの取り組んだ問題は、現在でも生きているように思われる。つまり、十分に片が付けられていないということである。

 ヘーゲルの世界史の哲学をわかりやすく例えてみる。川というのは、山の水源から湧き出て平地に下り海に注ぐ、これは世界普遍である。そして、川の高低差や川幅や川の蛇行の仕方などは、世界の各地域の自然の景観と対応して地域差を形成している。また、そこには各地域の人間の歴史の推移・動向も関わっている。こういうことを人の幼年、少年、青年、壮年と対応性を持つような感じで人間の意識の推移についてヘーゲルは言っているようなのだ。この限りでは、ヘーゲルは妥当なことを鋭く語っているように見える。そしてそれは、ヘーゲルの根っこの所で、『大論理学』(若い頃買ったが、旧漢字のせいもありまだ読んでいない)の人間の意識の起源、発生論と関わるような気がする。

 収集した具体性の連鎖から目や耳などを働かせて日本の意識の考古学の各層を抽出した柳田国男と、自分が生きた時代の歴史水準から類推したイメージと書物から人間の意識や歴史の推移のイメージを織り上げたヘーゲル、両者にそんなに違いはないように見える。ただ、歴史段階としてのヨーロッパとアジアの片隅という言葉の自然性の違い、言葉の振る舞いや旅の仕方の違いはある。

 わたしたちの現在は、ヘーゲルや柳田国男の時代とは違って、言葉によって思考したり探索したりするだけではなく、自らが自然のように行使するその〈言葉〉自体に対しても内省を加えざるを得ない歴史の段階に至っているように思われる。すなわち、ヘーゲルや柳田国男の言葉やイメージの根っこやその構成法について、さらには言葉というもの自体について考えざるを得ないのである。



 メモ2020.10.8― ヘーゲルの『世界史の哲学講義』を読み終えた 


 ヘーゲルの『世界史の哲学講義上・下』(講談社学術文庫 2018年)を読み終えた。『アフリカ的段階について―史観の拡張』の吉本さんの理解の助けもあり、うとうとしながらも大まかな流れはわかったと思う。要は、人類史の未来(過去)をどう読むかということ。

国家成立以降は、わたしの言葉で言えば、国家が悪(人々に閉じている)である歴史が長かったし、依然としてそうだから、個の人間的本性の自由な表現・開花は深層的な主流とならざるを得ない。そうして、表層には国家を背景とする社会が主流の顔をして制圧的に居座っている。

したがって、人間的本性の自由な表現・開花は、長い時間がかかってしかも限定的に表層に湧き上がらざるを得ない。歴史の〈主流〉には、深層と表層とがある。もちろん、いずれも人間の本性が個や家族や集団の場でその本性を表したものではある。







202


 覚書2020.9.29―読書ということ


 今のところ、わたしはネットの何人かの文章を追いかけて読んでいる。十分に読みこなせないなという思いがある。それは、何人かのものが次々に公表されてくるというせいもあるが、何かに急かされているようでゆったりと読むということが難しいということである。このことは、現在の社会を生きるわたしたちに社会の現在がもたらす心的な加速感や加圧感から来ているような気がする。もちろん、その心的な加速感や加圧感は、例えばゲーム世界などではわたしたちに快や多幸感をもたらしているという面も持っている。だから、そのこと自体を退行的に批判したり解消できると思うことはできない。複雑な機構になっている。ただし、わたしたちにやってくる心的な加速感や加圧感を一時でも解除するスイッチというべきものを創出・装備することはできる。社会がそういうものを創出・装備してくれれば手っ取り早いのだが簡単には望めそうにはないから、その解除の具体性についてはわたしたちひとりひとりが知恵を絞るしかない。

 そんな現在を生きるわたしたちには、なぜか〈ゆったりと〉ということが、もう過ぎ去ってしまった牧歌的なものに見えてしまう。学校を流れる時間の密度が少し緩和されることはいいことだろうと思っていた「ゆとり教育」も廃止されてしまい、社会の流れに対応したもとの加速度的な流れに戻っている。これは病的な流れを突き進んでいるではないかという思いは、現在のわたしたちの生活感の内省と対応している。つまり、この流れは全社会的な流れなのだ。わたしたちに社会のもたらす心的な加速感や加圧感を一時でも解除するスイッチというべきものを創出・装備しなくてはならない所以(ゆえん)である。

 書くということにおいてわたしの場合は、まずメモを取り、少し書き出して、しばらく寝かせたり、そうしてやっと一気に書き上げたりするという形が多い。そんなにあくせく急がないでもいいさという思いもあるが、ネットの表現の場合、ごく少人数の読者であったとしても、何らかの思いを持って読みに来てくれているのだろうなという思いが一方にある。だから、それに応える意味でも割りと定期的な公表のリズムを心がけている。このことは、現在の社会の割りとすばやい速度の流れに浸かっているわたしたちの感受や行動や生活感覚とその中での倫理ということと対応しているように思える。例えば、会社や役所内のあることで過度に責任(感)を突き詰めて自死に至る場合がときどき社会に事件として浮上してくる。自分の生存の根っこがさらわれるような場合は、投げ出しても仕事をやめてもいいんだよと外からは思えても、渦中の倫理やその後の生活不安からなかなかそこへと解除できないで、自死に至ってしまう。社会を裏面から眺めれば、わが国では年間の自殺者も多く、ひとりひとりが生きのびることが社会的なテーマになるような病的な領域に入り込んでいるような気がする。ちなみに、本日のツイッター(午後2:09 2020年9月28日)で坂口恭平は、「僕は生き延びることだけ考えてる。もちろん、楽しく、という条件で。」とツイートしていた。

 読むことは、吉本さんの言う「自己慰安」でもあると思う。すなわち、これまた吉本さんが『言葉からの触手』で触れていたと思うが、食べ物を食べるように文章を読むことは精神の栄養を摂取することになるのだろう。そうして、精神の栄養を摂取することは自己を癒すと同時に、考えを巡らす、内省をすることでもある。吉本さんは、この二つを含めて「自己慰安」(フーコーの言う「自己への配慮」)と語っていた。(『データベース 吉本隆明を読む』「言葉の吉本隆明②」項目662「自己慰安 ②」を参照)

 ところで、自分があることについてすでに考えを巡らせていて、そのことについてだいたいわかっているなら、そのことについて触れた本を読む必要はない。また同じく、ある物語作品と同じようなモチーフを持ち、同じようなイメージとして織り上げた物語世界を持っているなら、他者の物語作品を読む必要はない。しかし、同時代の共通するマス・イメージに浸かって、同じ大気を呼吸していても、ひとりひとりイメージしたり考えたりする世界は違っている。だから、わたしたちは自分にないものや自分の知らない世界に出会うために、
読書するのだ。読書を通して他者に会いに行くのだ。ほう、こんなことを考えている人がいる、このイメージやふんい気はなんとなく新しくていいな、などなど、わたしたちは読書で新しい他人に会いにいくのだ。







203


 覚書2020.10.15―フェイクの現在に


 私たちは二昔前とは違った社会に生活している。二昔前までなら、多数の人々の生活圏はあの山からこちらの狭い生活圏であった。山向こうの世界は巡り来る僧(六部など)や語りの者や行商の者から耳にした。その真偽を確かめる手段はほとんどなかったろう。柳田国男が『遠野物語』で収集した村落内に支配的な説話に、村人たちが外の世界に対する恐れや不安を媒介にして生み出した世界観や世界認識は込められていた。

 さて、情報過剰の現在においても、わたしたちはの社会に流通する世界観や世界認識はまだまだ二昔前のそれらを笑うことはできない。社会内から湧いてくる事件や外国の出来事に対してのわたしたちはの理解は、表面的であり、外面的だという気がする。例えば、福井で女子高校生の孫を祖父が殺害したというのは事実なんだろう。しかし、そこからニュースの断片をつぎはぎして、その殺害の動機を断定したり、その祖父を断罪したりするコメントに出会ったことがある。法や司法が現在のところはそれを執行するのだと思うが、ほんとうは祖父や孫の女子高校生の内面、孫の家族関係など、こうしたことをできるだけ明らかにしてこの事件の背景の像を描いてみせることができるのは、依然として精神医学や文学の問題だという気がする。逆にいえば、わたしたちはそのくらいの慎重さを持つべきなのだ。

 インターネットの普及の自然さの中で、わたしたちは居ながらにして世界中のどんなところにも行けるし、ある対象の中にも入り込めると錯覚してはいないだろうか。わたしたちは、ある対象(ある出来事や人物)に関する断片的な情報を元に、対象の理解と称してあるイメージを形作る。しかし、たとえ大手の新聞社からの情報の断片だとしても、無条件に信頼できるはずがない。その新聞社のある記者の、新聞社を背景とした主観と選択が働いているからである。さらに、日本列島の中にあってもまだ地域的な差異がいくらか存在するし、世界が舞台となると風習や文化などの大きな違いがあって、わたしたちの世界と直線的に結びつけられるものではないように見える。

 世界も自己も起伏に満ちた丘陵のようなものであろう。それらは、さらに表面層も深層も持っている。それなのに、表層ののっぺりとした短絡的な理解で捉えきれるわけがない。例えば、学者かどうかよくしらないが高橋洋一は、学術会議のプラスチックゴミの削減の提案→レジ袋の廃止と政権の責任をすっ飛ばして、レジ袋廃止は学術会議の責任と10月8日にツイートしていた。また政治家の甘利明は、8月6日付のブログ「国会リポート第410号」で、日本の学術会議が中国の外国人研究者を集める国家事業「千人計画」に積極的に協力していると述べ、中国の軍事研究への関与も示唆していた。これに対して、「誤った情報だ」との指摘が相次ぎ、記述を修正している。このような、よく確かめも調べもしない短絡的な理解は、全社会的なもののように感じる。それが、意図的な場合のフェイクニュースならさらにたちが悪い。

 理屈ではわかっていたとしても、わたしたちはある出来事や事件に対して外からの視線による把握でそれに対する判断を下しがちな気がする。しかし、ある問題性を持った場面での自分の内面を振り返ってみれば、すなわち、内からの視線による捉え方をしてみれば、外面的な捉え方の単純さに気づくとはずである。二昔前の恐れや妄想をふくらませたような外の世界や対象に対する捉え方から抜け出るには、絶えず自己内省することとその対象の内部からこぼれてくるものに注意深くなくてはならないと思う。

 そういうわけで、中国のコロナウィルス下の武漢の様子が語られているという『武漢日記―封鎖下60日の魂の記録』を読んでみようと思った。武漢の内からの、著者の小さな生活圏からの、生活者の視線に徹したいい本だった。







204


 覚書2020.10.26 ― 人間の初源の感覚は 


 「ブーバキキ効果」について知ったのは、松本孝幸さんのホームページ『読書倶楽部通信』でだったと思う。
 ウィキペディアの「ブーバキキ効果」によると、


ブーバ/キキ効果(Bouba/kiki effect)とは心理学で、言語音と図形の視覚的印象との連想について一般的に見られる関係をいう。心理学者ヴォルフガング・ケーラーが1929年に初めて報告し、命名はV.S.ラマチャンドランによる。

それぞれ丸い曲線とギザギザの直線とからなる2つの図形を被験者に見せる。どちらか一方の名がブーバで、他方の名がキキであるといい、どちらがどの名だと思うかを聞く。すると、98%ほどの大多数の人は「曲線図形がブーバで、ギザギザ図形がキキだ」と答える。しかもこの結果は被験者の母語にはほとんど関係がなく、また大人と幼児でもほとんど変わらないとされる。(「ブーバ/キキ効果」 wikipedia)


 


 わたしも、この「ブーバキキ効果」について、以下の文章で軽く触れたことがある。
「表現の現在―ささいに見える問題から ⑩」
https://ameblo.jp/okdream01/entry-12112156111.html


 捉えられる形は目で見る視覚に属し、聴こえる音は耳で聞く聴覚に属するが、この場合、形と音の結びつきは視覚と聴覚から入ってその背後の内臓感覚から来ているように思われる。形のもたらす感覚と音のもたらす感覚との連合の共通性が内臓感覚レベルで存在するようなのだ。

 ブーバ・キキという音(言葉)と形の結びつきは、言葉というものの初源性を感じさせる。これは、まだ言葉を知らない幼児の感じることとしゃべる言葉のようなものの段階と見なすこともできる。あるいは、人類の歴史で言えば、言葉のようなものを生み出したそのはじまりの時期とも言える。そのような人間の言葉の初源性を保存していると言えそうだ。大多数の人々が、言葉以前の感覚で了解し反応している共通性がそのことを証しているように思う。

 ここでは、対象の形と音(言葉)とがある対応性を持っていることが示されている。幼児期の言葉のようなものとか人類の歴史の初源性の段階のものとか言わないとすれば、対象把握と発する音(言葉)との間に介在する人間の内臓感覚の固有な有り様を示している。そうだとすれば、この「ブーバキキ効果」は、人間のような言葉を持たない動物においても当てはまる可能性を持つように思われる。

 動物同士や動物と人とが出会うときも含めて、わたしたちが他者や他者の語る言葉や書き言葉に出会う時、その舞台の渦中ではこの「ブーバキキ効果」が発動しているのではないか。

 ところで、吉本さんは人間の意識や言語は歴史的に積み重ねられたもの(歴史的な現存在)と述べている。


 ある時代の言語は、どんな言語でも発生のはじめからつみかさねられたものだ。これが言語を保守的にしている要素だといっていい。こういうつみかさねは、ある時代の人間の意識が、意識発生のときからつみかさねられた強度をもつことに対応している。
 ・・・(中略)・・・ある時代の人間は、意識発生いらいその時代までにつみかさねられた意識水準を、生まれたときに約束されている。これとは反対に、言語はおびただしい時代的な変化をこうむる。こういう変化はその時代の社会のさまざまな関係、そのなかでの個別的な環境と個別的な意識に対応している。この意味で言語は、ある時代の個別的な人間の生存とともにはじまり、死とともに消滅し、またある時代の社会の構造とともにうまれ死滅する側面をもっている。  (『定本 言語にとって美とはなにかⅠ』P46-P47 角川選書)



 人間の意識や言語(の表出、表現)は歴史的に積み重ねられたものの現在性だとして、わたしたちが知りたいのは、そのつみかさねられ方と現存在における発動の仕方である。最後に、疑問点を含めてメモ書きしてみると、

1.意識や言語は地層のように層を成して積み重ねられているのか。時間の積み重なりから言えばそのように層を成していると言える。しかし、この列島でまだ交通が十分に行き届いてなかった段階、すなわち古代以前などの中央の国家権力がなく、その言語から文化、行政全般にわたる支配的な網の目が十分にかぶさっていなかった段階を想定すると、それらの層は地層における小断層のようになっているのかもしれない。つまり、統一国家の下のようにわりと均質にはなっていない段階もあり得たように見える。
 これらのことは、世界レベルへも拡張できそうな気がする。つまり、大きな地層としては、アフリカ的段階、アジア的段階、ヨーロッパ的段階、グローバルな未知の段階、・・・・が層を成しており、それぞれの層の積み重なりに脱けている層や大断層があるという風に。

2.統一国家の下で層を成して積み重ねられているとして、現在的なマスイメージ(世界観)がその層の表層を覆っていることはまちがいない。そして、その力は無意識的な自然性としてわたしたちの感受や意識を強力に規制している。

3.統一国家の下で層を成して積み重ねられているとして、より古い層からの発動も個やその住む地域の意識性の志向性や選択によって現在的に現れているのか。例えば、親戚の者が亡くなる前に枕元に立った、などの現在からは古い感覚を今でも時々耳にする。

4.近代社会をその矛盾とともに上り詰めてきた戦争期の危機的状況では、とても古い層への先祖返りの意識、すなわち古層からの発動が全社会的になされた。

5.意識の最下層には心の原基のような内臓感覚と対応する固有の層があり、これは「ブーバキキ効果」における感受と反応のように、現在的なわたしたちの意識の振る舞いに同時的に織り合わさって発動されているのではないか。

6.この問題は、後に三木成夫の考察と対応させた吉本さんの〈自己表出〉と〈指示表出〉に関わってくるように思われる。


 もっと生理的に、人間の身体に結びつけてかんがえれば、自己表出は内臓そのものにかかわりのある表現です。胃が痛くて、おもわず「痛い!」という。心臓がドキドキして、おもわず「あっ」といったりする。つまり、人間の内臓に関係づけられるこころの表現は、言葉の自己表出の側面が第一義的にあらわれると理解するのがいちばんよいとおもいます。
 さらにいえば、言葉の自己表出は人間がもつ植物神経系とかかわりが深いとかんがえればよいでしょう。人間の内臓は、脳で意図して動いているのではなく、植物神経によってひとりでに動いているのです。
 指示表出は感覚とかかわりが深い言葉の表現です。感覚は植物にもないわけではありませんが、反射神経的な動きしかありません。動物のようにじぶんで体を動かしたり、眼を働かせたり、耳で聞いたりすることはない。目や耳など動物神経で働いている器官は感覚器官ですけれども、それを介して脳に結びついており、それを第一義とする表現は言葉の指示表出に関係があるとかんがえればわかりやすいとおもいます。
 いいかえれば人間の身体は植物部分、動物部分、そして人間固有の部分を含んでいるとかんがえるのがよいでしょう。
 (吉本隆明『詩人・評論家・作家の ための言語論』P78-P80 1999年3月)


そして三木さんの書いた『胎児の世界』を読んでいるうちに、この人の考え方とぼくの言語論とを対応させることができるんじゃないか、と気づいたのです。
 やや乱暴にまとめますと、三木さんは人間について、大腸、肺、心臓など植物神経系の内臓の内なる動きと、人間の心情という外なる表現は対応し、また動物神経系の感覚器官と脳の働きは対応しているとかんがえています。そのうえで三木さんは、植物神経系の内臓のなかにも動物神経の系統が侵入していくし、逆に血管のような植物神経系の臓器も動物神経系の感覚器官の周辺に介入しているといっています。ですから、内臓も脳とのつながりをもっていることになります。何らかの精神的なショックを受けて、胃が痛くなるとか、心臓がドキドキするということがあるのはそのためです。
 そのとき人間は、動物神経と植物神経の両方にまたがる行為をしているわけです。植物神経系と動物神経系は、内臓では植物神経が第一義に働き、感覚器官では動物神経から脳へという働きが第一義に働きますが、第二義的には人間の精神作用は、心の動きと感覚器官の織(物)なのです。三木さんはそういっているのだとおもいます。
 ぼくがはっとしたのはそこのところで、それならぼくの言語論における自己表出は、内臓器官的なものを第一義とした動きに対応するのではないかとおもったのです。必ずしも、対象を感覚が受け止めたりみたりすることがなくても、内臓器官の動きというものはありうるし、人間の精神の動きや表現はありえます。つまり植物系器官を主体とした表現を自己表出といえばいいのかとかんがえました。
 では指示表出は何かといいますと、眼でみたり耳で聞いたりしたことから出てくる表現です。たとえば、ぼくがだれかの顔をみて、「あいつの人相はわるい」と表現したとすれば、それは指示表出です。これを三木さんの考えと結びつけていえば、指示表出は感覚器官の動きと対応することになります。
 そうかんがえていきますと、・・・・・(中略)・・・・・・自分の言語論の体系を文字以前のところまで拡張することができるんじゃないか、と気がついたわけです。
 (吉本隆明『同上』P81-P83)








205


 スイーツの話 


 スイーツという言葉と食べ物がある。今では社会に定着した言葉や食べ物となっている。この言葉が生まれ風俗として浸透しはじめたのは近年だという印象がある。調べてみると、


1.「スイーツ番長」より
「キャリアとケッコンだけじゃ、いや。」という大胆キャッチコピーで、昭和63年に世に出た女性向けの雑誌は「Hanako族」という社会現象を生み、翌年の平成元年の流行語大賞に「Hanako、Hanako族」が選ばれるほどでした。ケーキ、チョコ、アイス、デザートなど全てを「スイーツ」と最初に称したのが「Hnako」。まさに平成はスイーツと共に始まったのです。


2.「ヤフー知恵袋」より
スイーツって、誰が最初に言い出したんですか?

日本で使われるようになったのは1990年代からですね。 2005年には女性週刊誌を中心に頻繁に使われるようになって、市民権を得た感じですね。 本来はイギリス英語での甘いお菓子を意味しています。 昔からあった語彙です。 有名なとあるパティシエが子供のケーキと差別化して大人の雰囲気を演出するために使い始めたそうです。 色々なお菓子に使われるようになって、いつの間にかスイーツというカテゴリーが出来た感じですね。 もし見れたらこれも参照してください。
http://zokugo-dict.com/13su/sweets.htm 日本語俗語辞書

 日本語俗語辞書より
『スイーツ』の解説

スイーツとはケーキやプリンなど甘いお菓子のことで、英語(イギリス圏)で甘いデザート・お菓子を意味する"sweet(米語ではdessert)"からきたカタカナ英語である。
日本でのスイーツは当初、有名店のパティシエによる高級洋菓子など子供のお菓子と区別し、大人が味わって食べるお菓子という意味で使われていた。2005年に入ると女性雑誌を中心にスイーツがブームとなる。 このブームによりスイーツという言葉が普及していく中で、国内の菓子メーカーもスイーツ・ブームに参入。「お手軽スイーツ」や「和風スイーツ」といった形でスイーツは甘いお菓子全般を意味する言葉となる。



 ある物を発明した人は誰かとかいうこと違って、流行語の始まりと同じようにものごとの発生点を突きとめようとするとあいまいさが伴う場合がある。雑誌の命名が先か店での命名と製造が先か二つの引用からははっきりしないところがある。それはともかく、「スイーツ」は1990年代頃から始まったもので、言葉やイメージとして英語起源ということになる。そうして、そのスイーツの波はどんどん進んで例えば「和風スイーツ」というように、従来のものをそのままの形としてではなく新たな形やイメージとして「スイーツ」に取り込んできているようだ。「スイーツ」の定着と深まりである。

 わが国の社会にはスイーツ以前にも同様な甘い菓子類はあった。スイーツ以前には、大きなくくり方で言えば、和菓子と洋菓子、その下の饅頭やケーキなど具体的な名前と食べ物があった。それなのになぜ、「スイーツ」という新しい名前を必要としたのだろうか。

 吉本さんは、いろいろ分析・検討した結果この社会の最大の転換点を一九七三年から、七四年、七五年の三年間に見定め(1990年9月14日の講演「日本の現在・世界の動き」、 『吉本隆明資料集174』 猫々堂 2018.4.15)、そこから一九八〇年代に天然水が初めて商品として売り出されるようになったことに象徴される社会を「消費資本主義」 (註.1) と呼び、この社会が新たな段階に入り込んだと分析した。それに関わることでいえば、


吉本 僕は、日本が六十年代から八十年代までの、どっか中間のある所で、かなり急速に西欧型先進資本主義社会に転換していったということは、重くみる方ですけどね。〈アジア的〉な農耕社会の残存物というものは、専ら我々の意識構造、特に意識の共同性の面において、現在でもかなり残存していると思います。そして、僕は、〈アジア的〉ということについては、西欧的な先進性が入ってしまった日本とは、楕円の軸のように二つに重ならない軸をもって、その両方で回っていて、どっかで重なる部分があって、そして重ならない部分もあるというような、そういうモデルが一番いいと思ってますがね。
 (「万博マス・イメージ論」P61 『筑波學生新聞』1986.1.10、 『吉本隆明資料集174』 猫々堂 2018.4.15)



 このことは、わが国が欧米の先進諸国同様に第一次、第二次産業中心からサービス産業が経済社会の主流となり、消費中心の「消費資本主義」の段階に入り込んでいることと関わっている。そうしてそれは、わたしたちの意識、社会性において、〈アジア的〉な農耕社会の残存物がより薄れ、西欧的なものがより深まってきた事態にあることを示しているように思われる。

 吉本さん自身も上の「日本の現在・世界の動き」で語っているが、こうした大規模な社会の転換の徴候はいろんな所に現れるはずである。「スイーツ」の出現もそのひとつではないだろうか。

 「スイーツ」の出現は、吉本さんがこの社会の最大の転換点とした一九七〇年代前半よりだいぶん遅れているが、社会の変貌は一気にではなく徐々に波及・浸透していくものだろう。この「スイーツ」も消費中心の「消費資本主義」の段階に入り込んだという社会の転換の徴候を示していると思われる。

 慌ただしい日々の中のくつろぎや知り合いや恋人とのかたらいの場で、「スイーツ」を仲立ちとして人々は楽しみやくつろぎのイメージに彩られてあるのだろう。

 また、ペットボトルのお茶の出現と普及も近年だったような気がする。わたしもそうしたペットボトルの濃い味のお茶をよく飲んでいる。テレビの場面や現実の話し合いの場で見かけたことがあるが、昔なら主に女性のお茶の係の人がひとりひとりに注いで回らなければならなかったことが、ちいさなペットボトルのお茶の出現によって、そうしたことが無用になっている。しかも、ペットボトルのお茶は、各社の競争もあって、消費者の欲求に応えるように日々研究開発に力を入れられているように思う。こうした、小さな新たな事態の総和が、現在の消費中心の「消費資本主義」の段階を構成しているが、それぞれが従来の社会の有り様に変革を自然な形で加えているように見える。

 このようにわたしたちは、社会の大きな転換の中、そこから生まれ波及してくるものは、例えば産業的時間の速度や密度の増大とともにうつ病の増大が出てきているなど良いことばかりではないが、良いと感じ思えるものは「スイーツ」やペットボトルの飲料のように、わたしたちは享受しているのである。初めは、好奇心やはやる心があったかもしれないが、次第に自然なものと受けとめられるようになり社会内に定着していく。


(註.1)
「消費資本主義」について

ぼくなどは、「消費資本主義」ということばで呼んでいますが、その消費資本主義というのは産業経済学からみた産業とか生産とかの段階の概念です。資本主義の産業経済的な最高の段階、あるいは産業が爛熟し老境に入った段階といいましょうか、そういう社会を指して、消費資本主義社会というふうに呼んできました。そして現在、消費過剰の資本主義段階に突入してしまっている地域は、第一にアメリカであり、第二にECの先進国がそうであり、そして第三に日本の社会だというふうに認識できます。
 消費資本主義の概念は、どういうことで定義したらいちばん考えやすいか、ひとつは個人所得を例にとってみます。それは平均の働く者の所得のうち半分以上が消費に使われている社会のことです。もうひとつは、消費支出のうちまた半分以上が選んで使える消費になっていることです。つまり、個人支出でいえば、個人がそれぞれ自分の自由に選んで使える消費が半分以上になっているような社会です。この二つの条件を満たす社会を消費資本主義社会と呼ぶとすれば、そういう段階に、現在、日本なんかは入ってしまっています。
 (J.ボードリヤール×吉本隆明『世紀末を語る』-あるいは消費社会の行方について より P47 1995年6月)








206


 覚書2020.11.21


 大きく言えば、宮沢賢治の「ほんたうのこと」に関わることであるが、私たちの考えの〈真〉を保障するものは何だろうか。現在でも、自分こそが〈真〉だとそれぞれが〈真〉を主張し対立し合う状況は続いている。社会的なことや政治的なこと宗教的なことに関しては特にそうだ。

 現在の人間の考えをスペクトルの帯のように並べてみる。中央が多数で、両端は少ない。その中央値の帯域が大多数の人々の考えということになりそうである。社会内の様々な自主的な話し合いでは、自然とその中央値の帯域、すなわち現在的な常識的なところに落ち着くように見える。

 また、家族内で親が子どもの希望や主張を認めなかったり、子どものために良かれと思って別のことを子どもに強制しようとすることはあり得る。しかし、人が自分の考えの誤りを絶えず現実から突き付けられるように、家族内でも子どもの生き難さなどの状況から修正を迫られたりしっぺ返しをくらうこともある。

 親子であっても人間関係は相互的であり平等性は付きまとうからである。こうした私たちのあらゆる考えが、収束する場所は先のスペクトル帯の中央値の帯域、すなわち現在的な常識的なところだが、そこには遙か太古から積み重ねられた人間的な知恵と同時に現在的な大多数の考え方とが含まれている。

 それは例えば「新自由主義」「効率」「成果」「競争」などの現在の支配的なイデオロギーに影響された、しかもそれに対する批評性をも含む考え方である。だから、大多数の考えが収束するスペクトル帯の中央値の帯域は、それが現在の絶対的〈真〉であるとまでは言えないが、あるゆるやかな信頼性を私たちにもたらしていると思われる。

 例えて言えば、テレビや新聞などのマスコミの編集や放送が、事実のいくらかのねじ曲げや大衆を動かそうという意図や作為をいくらか含んでいたとしても、その情報のある程度の正しさは中央値として信頼性を持っていると見なせるということである。しかも、現在の情報過剰社会では読者たちによってチェックされやすい。

 現下のことで言えば、トランプが大統領に押し出された動機は切実な大衆の生活の欲求にあったろうが、安倍晋三同様にフェイクを振りまいてしまった。支持者を含めたトランプの現在の選挙に対する主張は、中央値の帯域ではなくスペクトル帯の両極端に位置しているはずである。

 人間の考えのスペクトルの帯で、中央値の帯域を設定できるということ、そしてそこには人類の知恵の積み重ねのようなものも含まれていて、一定の信頼が持てるということ。これは個と家族と社会関係の網の目を日々行き来して生きている私たち人間もまんざら捨てたものではない存在だということと同じだと思う。

 私としてはさらに、その人間の考えのスペクトルの帯の中央値の帯域の"無意識的なもの"として、"真なるものへの欲求"と"内省"を誰もが持っていると想定したい、そんな幻の帯域が想定できるのではと思っている。







207


 覚書2020.11.26―批評の現在


 批評も当然歴史を持っている。平安期の歌合での歌の優劣や良し悪しを論じた判詞(はんのことば)辺りが、現在の批評につながる源流みたいに思えるが、当然それ以前の太古からの流れるがある。語りの者(巫女など)が神への言葉や神からの言葉を語ったり、この世界の成り立ちを語る場面で、人々が(おお、そうだそうだ)とか、(いや、もう少しきつくお願いしないと神様には届かないだろう)とか、普通の人々の内心の言葉であるが、この辺りが批評の源流のように思える。

 現在から見れば、印象批評のレベルから近代批評として西洋の概念や文化の波を浴びた言葉を駆使して批評というものを問い詰め打ち立てていったのは小林秀雄である。その後、吉本さんが表現としての言語そのものの有り様や振る舞いを問い詰めていった。こうした流れは、現在の絶えざる細分化の流れと対応しているように見える。しかし、それは避けられない必然の流れでもあった。現在は、全社会的に細分化の時代である。知識世界もそうである。それは避けられない必然性も持っている。その上で、不毛な細分化であるかどうか、統合できないかなど、批評性を発揮するほかない。

 現在は、吉本さんが「カール・マルクス―マルクス伝」(註.1)で予想したように、自然的な社会から、仮想的-自然的社会という二重化した社会に変貌してきている。当然、わたしたちの感じ考えも二重化してきている。それは例えば、以前の銀行窓口での対面のみのやりとりの自然性から、銀行の現金出し入れ機をくり返し体験するようになり、それが自然なものと感じ考えるようになった事態を指している。

 さて、本格的にはそれは吉本さんにはじまると思っているが、現在以後につながる批評は、作品や作者や時代の無意識のレベルまで触れ、捉え、語ろうとするもののように見える。このことは、仮想的-自然的社会という二重化した社会の有り様やわたしたちの意識の有り様と対応しているはずである。批評というものも難しい難所に入り込んでしまったものだと思う。現在にはまだ様々な批評が現れ出ていると思われるが、現在の無意識的な主流は、この作品や作者や時代の無意識のレベルまですくい取ろうとする批評であると思われる。

 吉本さんの批評で、『言語にとって美とはなにか』や『悲劇の解読』や『母型論』に限らず、吉本さんのすべての批評の行為がそのことを実践してきたように感じている。


(註.1)
 しかし、わたしのかんがえでは、人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの〈自然〉哲学は改訂をひつようとしている。つまり農村が完全に絶滅したところでは。


現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖と、その自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい。
 (『カール・マルクス』P102-P103吉本隆明 光文社文庫)
 ※初出は、1964年








208


 メモ2020.12.27 ― ヘーゲル『世界史の哲学講義』より


  動物性や自然性に対するヘーゲルの捉え方について
 
 『世界史の哲学講義』で、ヘーゲルが動物性と人間性をどう考えているかを抜き書きしてみる。このことは、ヘーゲルの歴史哲学の根幹の場所に関わっているように感じられる。また、ボッブスやルソーなどの「人間の自然状態」に対する考察にはここでは触れないけれど、そのような当時のヨーロッパの動物・自然・人間に対する観念や思想の時代性のようなもの、それらの歴史的な段階のようなものが、ヘーゲル含めてそこに生きた人々の自然性や無意識的なものとして背景にありそうに思われる。

 ヘーゲルのこの文章を読みたどっていると、ヘーゲルにも当時の〈現在〉にまで上り詰めてきた人間の歴史の頂から、人類の歴史を自らの方法で捉え尽くすことができる、捉え尽くしているという思いがあったように見える。しかし、現在と比べて太古の時代を想像してみればわかるように、わたしたちの現在同様に太古には太古の世界認識やものごとの了解があったし、この世界についてまだよくわかってなかったことがあったとしても、それなりの世界把握が成されているという思いがあったはずである。

 わたしたちの現在からは、自然も人類の歴史も、すなわちこの世界の総体を現在から捉え尽くすことはできない、という認識は自然なものだろうと思える。ということは、わたしたちは現在の人類の段階としてそこから見えるものや見えないものを把握できるだけではないか。人間は、そういうことを積み重ねていくほかないのではないか。このように世界は見える。ともかく、この世界の有り様や人間の認識は、人類の歴史の深さを持ち、その歴史の深さとともにこの世界は違った姿を見せるのではないだろうか。

 ヘーゲルが時代の段階の無意識的なものに押し出されるようにして書き留めた動物性と人間性についていくつか取り出してみる。


 〔精神の発展としての歴史〕
 さて、精神という概念の、より具体的な〔歴史の〕連続に入っていくことにしよう。これが、われわれの対象として関心のあるところである。
 この連続の最初は、歴史の始まりに関係している。歴史の始まりは一般に自然状態として、つまり無垢の状態として描かれるのが常である。精神についてのわれわれの概念からすると、精神の最初の直接的で自然な状態は、不自由の状態、すなわち精神そのものがまだ現実的になっていない欲望の状態である。[一つの]そのような状態についてよく作為されるのは、空虚な理想であり、「自然」のもとにしばしば事柄の概念や本質が理解される時の、「自然」という言葉についての誤解である。その際に自然状態ということで理解されているのは、人間の概念に従って人間に帰属すべき自由の自然権であり、また精神の概念に従って人間に帰属する自由ということである。しかし、人間が生まれつきもっているものを見るなら、「自然状態から出発した」(スピノザ)と言えるだけである。これは不自由と感性の状態である。しかし、それによって精神が自然な状態にあることを取り違えるなら、それは間違い[である]。というのも、精神は自然状態のうちにとどまるはずもなく、そこではそれが感性的な欲求や欲望の自然状態だからである。自らの感性的な現存の形式を止揚することによって存在し、そしてそのことによって自らを自由なものとして据えることこそが、精神の概念なのである。
 (『世界史の哲学講義 上』P58-P59「序論 世界史の概念」B人間的自由の理念)



 ここからつなぎ合わせるようにしてヘーゲルの言葉を取り出すと、
 「精神についてのわれわれの概念からすると、精神の最初の直接的で自然な状態は、不自由の状態、すなわち精神そのものがまだ現実的になっていない欲望の状態である。」「精神は自然状態のうちにとどまるはずもなく、そこではそれが感性的な欲求や欲望の自然状態だからである。自らの感性的な現存の形式を止揚することによって存在し、そしてそのことによって自らを自由なものとして据えることこそが、精神の概念なのである。」
となる。ヘーゲルは、否定性の運動性を内蔵した精神という概念を中心に据えている。これをわたしたちの現在に置き換えてみる。ヘーゲルの人間の歴史の推移に関する言葉、すなわち「不自由と感性の状態」から抜け出て自立的な精神の概念を獲得していくことに人間的な価値のようなものを置いている言葉は、――ヘーゲル自身は「価値」とかではなく人間の歴史の運動の必然と見ているのかもしれないが――人間の生涯との対応で言えば青年期から壮年期に対応している。もちろん、ヘーゲルの歴史哲学は乳胎児期や少年期に対応する自然にまみれた生活をしていたアフリカ的な段階や少年期から青年期に対応するアジア的な段階にも触れている。しかし、それらは精神の概念からは抜け出すべき否定性と見なされている。どうしても、ギリシャに始まる精神の有り様に価値やアクセントが置かれているように見える。

 つまり、ヘーゲルの歴史哲学は人間の生涯との対応で言えば青年期から壮年期に価値とアクセントを置いている。乳胎児期や少年期や老年期は否定性として見られているようなのだ。具体像として言えば、人間社会で働き盛りの青年期から壮年期に価値とアクセントが置かれていて、乳胎児や少年や老年や心身の障害を抱えた人々などは、正の人間的価値とアクセントを置かれていないということを意味する。


 人間的なものは、動物の愚鈍さから発達することはできなかったけれども、人間の愚鈍さからは発達することができた。しかし、自然的な状態から始めるとすると、これは動物的な人間性であって、動物性でもないし、動物の愚鈍さでもない。動物的な人間性とは、動物性とは何かまったく異なるものである。精神は動物から発達するのでも、動物から始まるのでもなく、精神から始まるのである。精神からとはいっても、しかし、その精神はようやく自体的であるにすぎず、自然的な精神である。その精神は、すでに動物的なものではなく、人間の性質が刻印されたような精神である。それで、理性的になるという子供の可能性は、発達した動物ともまったく何か異なるものであるし、ずっとより高次のものである。動物には自分自身を意識するようになる可能性がない。[確かに]子供に理性性があるとみなすことはできない。しかし、子供の最初の泣き声は、すでにして動物の鳴き声とは異なっていて、そこにはもうすでに人間的な特徴がある。子供の単純な運動のうちに、すでに何か人間的なものがあるのである。
 (『世界史の哲学講義 上』P61「序論 世界史の概念」B人間的自由の理念)



 現在までの知見を踏まえて、生命の発生から動物に至る過程は問わずに動物段階から振り返ってみると、動物から人間に至る過程には、次の過程が考えられる。

1.動物段階・・・(対応するヘーゲルの言葉)「動物性」
2.動物から人間として分離されていく段階・・・「動物的な人間性」、「萌芽としての精神」
3.動物と人間として区別される段階・・・「精神」

 ヘーゲルがここで問うているのは、2.以降の段階においてである。1.の段階はヘーゲルのここでの問いには含まれていない。

 ヘーゲルが述べていることは、2.から3.の段階のものと見なせば、正しいと言えるかもしれない。ヘーゲルの時代と現在とでは乳胎児期や老年期に関する知見の相違があることは差し置いても、ヘーゲルの言葉は1.や1.以前と3.以降、特にわたしたちの現在のように、個の存在や意識が先鋭化し割りと内閉的になってきている人間的状況は含まれていない。つまり、ヘーゲルの言葉が上に挙げた人間以前から人間的段階に渡るすべてに当てはまると考えてみると、ヘーゲルの述べていることは現実からの乖離に遭うと思われる。このことは、いつの時代でも避けられぬ時代性というものの壁であるのかもしれない。

 ともかく、わかりやすい対応でもう一度締めくくると、ヘーゲルの言葉は、この人間社会の表舞台で一番活動的な時期である、人間の生涯の内の青年期から壮年期に言葉の視線を向けている。そうして、その部分を人間の生涯に渡る言葉として、すなわち歴史のなかのすべての人間の有り様の抽象として述べているということになる。







209


 覚書2021.1.3 ― 作品の読みの難しさ


 永田和宏の「あなたと出会って、それから・・・・・・―河野裕子との青春」第十三回 「はろばろと美(は)し古典力学」を読んでいたら、次のような自作の歌と自註があった。


  スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろと美(は)し古典力学
                       永田和宏『黄金分割』

 後年作った歌であるが、私の初期の代表作と言っていただくことの多い一首でもある。秋の夜空、葉を落として枝ばかりになった木の梢の向こうに、星座が見える。スバルは昴とも書き、六連星(むつらぼし)とも呼ばれる星座だが、秋の代表的なその星たちが梢をゆっくり渡っていくのが見える。あの星たちもまちがいなくニュートンの運動方程式に従って運行している。
 ・・・・・・と、ここまでが表の意味であるが、この歌は、実は物理からの落ちこぼれを嘆く歌でもあるのである。ああ、あの古典力学の美しさに没頭していられた頃はなんて良かったのだろう。量子力学の数学的記述についていけなくなっていた私が、「はろばろと美し」と郷愁のように懐かしんでいたのは、己の落ちこぼれ感の故なのでもあった。
 (「あなたと出会って、それから・・・・・・―河野裕子との青春」永田和宏 『波』2021年1月号 新潮社)



 この文章によると、この歌の背景として、若い永田和宏の、大学院進学と近々の結婚を含む河野裕子とのことと短歌を詠むことと自分の家族との関わりといういくつかのことに絡め取られて何とも身動きが取れないという自己の有り様があった。もうひとつ、専門の勉強を怠けた背景として当時の学生運動との関わりもあったようだ。そうして、この作品は「後年作った歌」とあるからそれらの渦中から抜け出ていくらかの余裕と内省の中で表現されたものかもしれない。

 まず、作者が自作を解説している「表の意味」までは読者はなんとかわかるだろう。しかし、その表層的な意味を下って作者が解説しているような場所にまで至るのはこの一首のみからはとても難しい。作者の身近な知り合いならその頃の作者の状況を少しはわかるかもしれないが、その内面の総合性まで知るのは難しいことだろう。だから、作者の詳しい年譜や後年の作者によるこのような文章がないと「表の意味」からさらに下って行くことはとても困難である。

 歌の中の「と」の用法がよくわからないが、作者の自作自註によると、〈わたし〉が眼にしている風景と抱いた印象や思いの歌のように見える。調べてみると、スバルは「『すばる』の名で有名な、肉眼でも観察できる美しい散開星団です。初冬の東の空に、細かな星が集まった姿が誰にでもすぐ分かります。」とあるが、見えるのは冬場とは限らないらしい。だから場面が夜であることはまちがいないが、この歌自体からは季節は特定できない。しかし、作者の自作自註によると「秋の夜空」という。なぜか〈わたし〉は夜に外にいて夜空の星をしばらく見つめた体験があってこの歌ができたのだろうと思われる。雲の動きなら眺めていてわかるが、1時間で15°星が東から西へ動いて見えるという知識はあってもどのくらいの時間見ていたら星の動きがわかるのかは経験がないからわたしにはわからない。だから、「その星たちが梢をゆっくり渡っていくのが見える」というのは、現実のことなのか〈わたし〉の天体理解を含んだイメージの付加によるのかはわからない。「はろばろと美(は)し」というのは、スバルの星々がはるかに瞬きつつ移動する姿の美しさとそれが古典力学(ニュートンの運動方程式)のシンプルな美しさに従って運行していることとの二重にかかっている。

 しかし、くり返すが、作者の詳しい年譜や作者の自註などがなければ、この歌の言葉自体からは「表の意味」からさらに下って行くことは不可能に近い。これが後年作られた(この歌が収められている2冊目の歌集『黄金分割』は、永田和宏30歳の年に刊行されたという)と知らされても「ああ、あの古典力学の美しさに没頭していられた頃はなんて良かったのだろう。量子力学の数学的記述についていけなくなっていた私が、『はろばろと美し』と郷愁のように懐かしんでいたのは、己の落ちこぼれ感の故なのでもあった。」ということは、歌の言葉自体からはわかりようがない。作者はこの歌を現在形として語っているし、歌の言葉自体からも「郷愁のように懐かしんでいた」という過去形や回想は出てこない。短歌というこういう短い形式での表現することも難しいことだが、読者として作品(他者)を読み味わうこともつくづくと難しいなと思う。

 ところで、作者自身にとっても自作に対する思いは違ってくるということがあるのかもしれない。先の永田和宏の歌は三十歳以前の作品である。この文章を書いている同じ作者は、もう七十三歳である。そうして妻の河野裕子はすでに亡くなっている。この四十年ほどの年輪の違いが自作の歌に対するイメージや理解として微妙な違いというものがありそうに思われる。

 なぜそういうことを思ったかと言えば、吉本さんの『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ―』(1990年10月)にある、「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」という若い頃の詩「分裂病者」(二十九歳頃の作品)の詩句とそれに対する吉本さんの現在(本書は1989年のインタビューが元になっているから、六十五歳頃)の理解や考えというものを読み考えていて、そういうことが思い浮かんだからである。

 若い吉本さんが、後に読者によく知られるようになる上の「分裂病者」の詩句を書き記した頃、そこまで言っていいだろうかなどの行きつ戻りつかがありつつ書き記したと思える当時の詩的な内面の事情が『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ―』で語られている。しかし、その内面の現場が遙かな〈大洋期〉(『母型論』)に、その〈母の物語〉に由来することまでは見えていなかったはずである。吉本さんは、今なお当時の詩句の余韻があると語っている。これはそれほど根深い問題である。『母型論』が刊行されるのは『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ―』よりもう少し後になるが、『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ―』のインタビューの頃には『母型論』(1995年11月)にまで下って行って切り開いた世界をもうだいたい自分のものにしていて、そこから若い頃の自分と現在の自分とを照らし出せるようになっていたのだと思われる。

 こうした事情は、おそらく永田和宏の場合も同様だろうと思われる。そうして、そのことはまた、生活世界のわたしたち全てにも言えることであろう。一般に、わたしたちは若い頃と同質の余韻の内にありながら、すこし余裕を持ってその若い頃や現在の自分を見渡せるようになっているようだ。だから、混迷の若い頃からいろんなものを潜り抜けてきた大人のさりげなく語られる言葉には、それが若者たちに伝わるかどうかに関わりなく、またそれがいろんな屈折を含んでいたとしても、人が生きていくということのある普遍の姿や表情が込められていることは確かだろう。そうしてまたそこには、表現者としてであれ、普通の生活者としてであれ、お互いに他からはうかがい知れないような理解が難しい部分もあるように見える。




















 『銀河で一番静かな革命』(マヒトゥ・ザ・ピーポー 2019年5月)読書日誌 1


 1.作品の構成


 マヒトゥ・ザ・ピーポーの『銀河で一番静かな革命』(2019年5月)を読んだ。初めて聞く名前で作者のことはよく知らない。初めての小説らしい。半ば過ぎまで登場人物関係を誤解したりして少し難渋した。この作品は、何人かの別々の普通の人々の日常生活がそれぞれの章で描写される。相互のちょっとした出会いの場面もある。また、ホームレスの老人、その人がある所で亡くなったのではないかと耳にして光太がその近くに置いた赤い花などが、そのそれぞれの人々を連結しているというようなこともある。

 この作品は、まず題名が大げさだなと思い、一度は引き返そうかなと思ったが手にしたものである。よしもとばななの推薦の言葉に促されて読んでみた。読み進めていて、なんか普通のありふれた小説じゃないか、がっかりだなと思った。ところが、90ページで急に登場人物「ゆうき」のアイフォンに、この世界が終わるという「『通達』という題名の短い文章がトップ画面に表示」される。読み返せば、そんな世界の異変の兆候はそれよりも前に登場人物の少女「いろは」には感じ取られていた。しかし、その「通達」という題名の短い文章は、作品中で開示されることはなかったように思う。なぜかはわからないが、十二月三十一日でこの世界が終わるということだった。しかし、この物語を読み終えた後、なにげなく表紙カバーをめくってみた。そこには次のような「『通達』という題名の短い文章」と思われる文章が書かれていた。


人間の皆さん、唐突ではありますが、極めて重要な案件
になりますので、ご一読必須としてお願い申し上げます。な
お、この通達は全世界196ヶ国、ならびにその他複数の
地域の言語に翻訳され一斉に送信、連絡しています。
地球における、犯し続けた失敗、その反省のなさから、この
星との契約が解除されます。本日より10日後の12月31日
以降、世界の電源を落とし、シャットダウンする運びにな
りました。度重なる審議に時間がかかり、ご連絡が遅く
なってしまったこと、お詫び申し上げます。
かねてから、映画や音楽、小説、その他諸々の芸術全般
で心理的準備として描かせてきた、いわゆる"世界のお
わり"というやつであります。
人間という契約星員であったという事実は、地球での人
間活動そのものに多大な影響を及ぼすため、現在まで
ミュートされてきましたが、この通達の1分後からその
回路も順々に復活いたします。
つきましては、すべてのこの世界の法則、ならびに、この
星の約束の下で星員であった事実を思い出していくこと
になります。今現在、この文面を承諾できかねる方もご
安心ください。回路の復活次第、必ず理解できるプログ
ラムになっております。
31日のシャットダウンに際しまして、円滑に事を遂行す
るために、その前後、多少のバグが生ずる可能性があり
ます。身体的な痛みなどは伴わない形を取らせていただ
いておりますが、あらかじめご了承ください。
どうか、動揺なさらぬよう、地球での残りの人間活動
を健やかに過ごされることをお祈り、お願い申し上げ
ます。



 この末尾の一文は、作品が始まる前の扉にも書いてある。この通達の文章が、作品中に書かれていなかったとしても、本の表紙・裏表紙に書かれているということは、物語世界とリンクすることになる。この文章の語り手は、明示されてはいないが人間以外の存在であり、従来からの概念で言えば、人間が考え出したもの、人間がそう捉えたものではあるが、神に当たる存在になる。とすると、この文章はこの作品を通俗的な圏内に引き込んで行くことになる。この点が、この作品をありふれたおとぎ話風の通俗的なものにしている。

 わたしたちは、この世界の終わりということを知っている。現在の宇宙論の知見に拠れば、星の生誕から死までの過程は知られている。同様に、この太陽系の終末のイメージも大まかにつかまえられている。数十億年後人類がそのときまで生きのびて世界の終わりに立ち会うことがあり得るとしても、しかし、それらは人間的な生涯の時間を遙かに越えた大きな時間スケールでのことである。またその頃には、人(人以前の人)が海から上陸して姿形も変えて生きのびてきたように、今度は宇宙に本格的に上陸して行くのかもしれないが、現在の私たちには、無縁と見なしていい事柄である。

 この世界の終わりには、もうひとつある。この小さな人間界の中で病気や事故や寿命が尽きた場合におこる死、すなわち、その人にとってのこの世界の終わりである。いつどんな形で訪れかわからないこの世界の終わりなら、現在のわたしたちにとっては切実な課題だと言ってよい。それをどう受けとめ、日々をどう生きるか。この地点からこの作品を読むならば通俗性を脱した作品としてわたしたち読者の前に立ち現れるかもしれない。だから、物語としては、こういう文章を付すことなく通俗性を振り切ってあいまいなままの世界の終わりという表現にした方が物語のリアリティを持つことができたと思う。

 ところで、この作品は章と見なせる部分の扉に詩句のようなものが書かれていて、それが章を追う毎に書き足されている。最終章(と思われる)で最終行を除いた一篇の詩ができあがるようになっている。この詩は、最終行を加えて「いろは」と「ましろ」の除夜の鐘を聞きながらのかわりばんこの言葉のやり取りとして作品内に描かれている。(P230)この辺りは、「いろは」や「ましろ」が普通語る言葉とは思えないから、作者(のモチーフ)が表に出てきたところと言えそうである。

 この作品の章立て(場面)を挙げてみる。
1.バンドの追っかけしている25歳の「ゆうき」(語り手)とバンドのメンバーの一人「光太」
2.結婚して家庭を持っている34歳の「光太」(語り手)
3.母親の「ましろ」(語り手)と娘の「いろは」
4.母親の「ましろ」と娘の「いろは」(語り手)
5.「ゆうき」(語り手)
6.「光太」(語り手)
7.母親の「ましろ」(語り手)と娘の「いろは」
8.「光太」(語り手)、「いろは」
9.「ゆうき」(語り手)
10.「ゆうき」(語り手)、「いろは」
11.「光太」(語り手)、「ゆうき」他
  ※最後の詩句が書かれた章を最終章と見なせば、この章は、語り手が何回か入れ替わっている。
   つまり、母親の「ましろ」と娘の「いろは」の場面も含まれている。

 主な登場人物は、以上である。語り手が章ごとに変わっていることから見ても、だれが主人公とは言えないような作品だ。強いて主人公を捜せば、主人公はこの地上で人間の生み出した諸幻想やイメージや価値観などに囚われながら日々を普通に生きる人々、わたしであり、あなたである。登場する人物たちがお互いに出会ったり、ホームレスの老人や赤い花などでお互いに結びつけられたりしている。ただ、それらの人々がこの世界の終わりをどう受けとめ生きていったかということにこの作品のスポット・ライトが当てられている。それが作者のモチーフだろう。

 これは、一読の読書日誌である。作品の途中や、最終章(あるいはそれ以後)もよく読み込めてないところがある。しかし、上に捉えた作品のモチーフは、何回読んでも変わらないだろうと思う。








 『銀河で一番静かな革命』(マヒトゥ・ザ・ピーポー 2019年5月)読書日誌 2


 2.二重の視線


  母親の「ましろ」と娘の「いろは」は、道後温泉に向かうため飛行機に乗っている。P55の記述に拠れば、ましろは三十三歳、いろはは十歳である。


1.
 機内アナウンスで目を覚ますと、夕暮れの気配はとうになく、外の世界は真っ暗になっていた。わたしの肩に寄りかかり、口を開けてまたいつのまにか眠っている娘をゆすり起こす。
「いろは。起きな。つくよ。」
「ううん。」
 目をこするいろはにシートベルトを締めさせて、いつしか夜になった窓の外を見る。
「ねえ、ましろ。この光の数だけ人が生活してるんだよ。信じられる?」
「そうね。たくさんだねえ。」
 ★空から見下ろす街には小さな光の点が黒い夜空の星からこぼれ落ちたみたいに散らばっている。ガソリンスタンドにコンビニ、マンションやアパートの食卓を照らす灯、リズミカルに並べられた街灯と車のヘッドライト、電光掲示板の点滅。赤、黄、青。★
☆★「近くで見たら色々だけどさ、空の上から見ると、どれもみーんなキレーだね。」☆★
 いろはは目をキラキラさせて言った。
☆★「そうだね。遠くから見たら全部が綺麗だね。」☆★
 ( P53 )


 これは別に取り立てて目新しい描写ではなく、飛行機に乗ることが誰にでもあり得る現在のわたしたちにとっては普通に見えるものかもしれない。また、ここに書かれているような地上の視線と上空からの視線を交えるとなんか不思議な感覚を覚えるということもおなじみのことかもしれない。

 このような二重になった視線を、吉本さんの視線の概念(註.1)を借りて言うのだが、★・・・★の前半部分は、人の高さの水平な視線に対して直交する上空からの垂直な視線である。航空機の飛ぶ高さだから離着陸時などは眼下の建物などがより大きく見えることもあるが、通常の夜の飛行の高度では、「小さな光の点が黒い夜空の星からこぼれ落ちたみたいに散らばって」見える。しかし、後半部分の「ガソリンスタンドにコンビニ、マンションやアパートの食卓を照らす灯、リズミカルに並べられた街灯と車のヘッドライト、電光掲示板の点滅。赤、黄、青。」という描写―特に「マンションやアパートの食卓を照らす灯」―は、あきらかに地上の水平な視線であり、その視線が想起され上空からの垂直な視線に溶け込んでいる。

 ☆★・・・☆★の部分も★・・・★の部分と同じと見なしていいと思う。人の高さの水平な視線とそれに直交する上空からの垂直な視線との二重の視線が交わったイメージとして表現されているように見える。そして、この場合の二重の視線が交わったイメージの表現は、物語の中の〈現在〉の飛行機から見下ろす視線に、地上での水平な視線の生活体験が想起(イメージ)され眼前に呼び出されるという形での二重の視線が交わったイメージとして表現されている。
 しかし、少なくとも物語を書き記す作者のイメージの中では、二つの視線が同時に行使されていると言えるだろうと思う。

 このような上空からの垂直な視線の描写は、現在のわたしたちには普通で自然なものになっている。しかし、現在から半世紀前くらいの二昔前にはそうではなかった。調べればわかると思うがたぶん高度経済成長期辺りから海外旅行も増え飛行機に乗るのが普及しだしたのではないかと思う。そういう意味で、このような描写は二昔前には一般にはあり得ない表現で、吉本さんの言う現在の「究極イメージ」の表現ということになる。


(註.1)

 僕らが文学、芸術の諸分野をイメージとして統一的に捕まえようと考えた場合、そこがいちばん基本的な考え方になります。要するに地面に水平な視線と垂直な視線の交点のところに描かれるイメージが非常に重要で、それがうまく描かれるならば、それは究極イメージだと考えていたわけです。理論的な骨組みをつくるのは、そこのところでだいたい可能になったと僕らは考えました。
 (講演「イメージ論」の「概念とイメージの関係」(小見出し)  『吉本隆明の183講演』A092)
 ※講演日:1986年5月29日









 『銀河で一番静かな革命』(マヒトゥ・ザ・ピーポー 2019年5月)読書日誌 3


 3.世界の異変を感知する


 この飛行機の中のからいろはが見た情景は、以下のように帰ってから思い出される。


2.

 飛行機で、ましろと傷をいやすツアーに行ってる時に見た不思議な空。空に傷口ができてて、そこから涙を流してるみたいだった。でも悲しいから泣いてるわけじゃないみたい。嬉しいでも悲しいでもなくて、ただ涙がこぼれていくようだった。そういうこと、いろはにもたまにあるんだけど、そんな空って初めてだったから見とれてしまった。ましろも最初は起きてたんだけど、いつの間にか眠っていた。周りを見渡しても、大人はみんな一人残らず寝ていて、さっきまでずっと泣いてた赤ちゃんと目が合った。赤ちゃん、笑ってた。あの時間。まるで、大きな怪獣の温かい胃袋の中で揺れてるみたいな静かな時間。生まれてくる前のお腹の中に戻って浮かんでいるような、そんなことを思ってたら、いつの間にか、外は夜になってて、窓ガラスにはいろはの顔が映ってた。しばらくその見慣れた顔を見ているうちにいろはも眠たくなってしまったんだ。
 ( P77 語り手は「いろは」)



 飛行機に乗っていた時ましろによって語られたこれと照応する場面がある。


3.

 わたしに有無を言わせず席を替わると、いろはは窓に顔を押し付けて流れていく景色にかじりつく。
「窓あけたいな。」
 分厚い窓には、押し付けた鼻の脂の痕がついている。
「いろは、冗談よね。この窓が開いたらとんでもないことになっちゃうんだよ。」
「そっかー。もう夏おわったもんねー。風冷たいよねえ。あー、空すごーい。何だこりゃあ。こんなの見たことないやー。」
 いろはは驚いたように口を開けて言ったが、窓の外は先ほどまでと何の変わりもない、見たことある白銀世界が流れていくばかり。この子は時々、変なことを言って、わたしはついていけない。

 午後五時、西日が雲に反射して、機内に橙色の静かな時間が訪れる。
 さっきまで泣いてた赤ちゃんは、すやすやとお母さんの肩にあごをのせて気持ちよさそうに眠っている。
 筆で描いた抽象画家の作品のような青と赤の混ざり合う夕さりの時間はため息が出るほどに美しく、娘の肩越しに眺めているとうとうとと睡魔に誘われて知らぬ間に眠りに落ちていた。ごうごうというエンジンの音が子守唄のようでなんだか心地いい。
 ( P51-52 語り手は「ましろ」)


 この2.と3.を突き合わせてみると、3.でいろはは 「あー、空すごーい。何だこりゃあ。こんなの見たことないやー。」と空の異変をすでに感じ取っている。しかし、母親のましろには別に普通の景色にしか見えない。2.は、3.の場面で母親のましろを含めた大人たちが眠ってしまった後の場面ということになる。

 ところで、「空に傷口ができてて、そこから涙を流してるみたいだった。」それは「嬉しいでも悲しいでもなくて、ただ涙がこぼれていくようだった。」「そういうこと、いろはにもたまにある」という〈涙〉というのは何のことだろうか。よくわからない。この空の傷口と涙の場面の入口には母親は立ち会っていて何も異変を感じ取っていないから、たとえ大人たちが眠り込むことなく起きていてもこの空の傷口と涙は見えない、感じ取れないものなのかもしれない。つまり、作者はここで、この世界の異変をより早く感じ取れるのはいろはのような子どもだと言いたいのではないか。

 そしてそれは、うれしいから泣く、悲しいから泣くというわたしたちの普通の内臓感覚ではない。「嬉しいでも悲しいでもなくて、ただ涙がこぼれていく」ということはわたしにはよくわからないが、そういう場面をいつか見たような気もする。作者は男であるが、女性にあり得ることではなかったろうか。ともかく、ここでの表現の意味として考えてみれば、すでに進行している世界の異変をより早く感じ取れるのはいろはのような子どもであり、普通の五感を超えたようなもの、からだ全体で感じ取れるようなものと言いたいのかもしれない。
 この感覚は、次のように展開していく。


4.
「ここにいてはいけない。」
 いろはは急ぎ足でアパートを背に、雨の景色の中を走った。直感で思う。何かの蓋が開きかけている。一秒でもその闇と目を合わせていたくなかった。・・・中略・・・

 耳を塞いでみてもその音は鳴り止まなくて、音という音、その全てのボリュームが上がったみたいに、肺や頭に反響する。
 雨をぬぐい、目をうっすら開けて空を見ると、膿んだ灰色の曇天が真っ二つに割れていて、そこから堰を切った涙のように濁った雨が溢れていた。雪になる直前のような冷たい雨。飛行機の上から見た空の傷と似ている。でも、よく見ると傷口は一ヶ所ではなく、たくさんあって、それを見ていたいろはの目からは、悲しくもないのに、いつしか涙が溢れてた。
 声をあげてわんわんと泣く。
 でも泣き声は大きな空の涙にかき消され誰にも届かなかったと思う。後で思ったことだけど、その時は、きっとみんな各々のやり方で泣いていたから。錆びた階段の手すりも、階段脇のドブを流れる空き缶も、あの渡っていったたくさんの鳥も、枯れた草も、イルミネーションを這わされ垂れ下がる枝も、墓石のように立ち並ぶビルも、静かに雨を浴びるお寺の鐘も、傷だらけの窓ガラスも、赤い花も、アパートの通路の闇も、みんなみんな知らず知らずのうちに泣いていたんだと思う。鳥や空は一足先に気づいてた。人間が気づくのが一番遅かったんだ。いろははポケットの中の青いガラスを強く握りしめていた。

 ( P82-P83 語り手は「いろは」)


 ここで、先の「涙」がさらに展開されている。この世界の大きな異変に感応して、命あるものに限らず、この大地に存在するもの皆全てが「涙」している。

 ところで、釈迦が亡くなったとき、あらゆる生きものたちまでもその別れを悲しんだということを耳にしたことがある。「釈尊涅槃図」にも描かれているという。このことは、輪廻転生を含めてまだ人間と動物とが今以上に身近な距離にあった人類の歴史の段階や、わたしは釈迦の教えについてはよくは知らないが、その段階と対応して釈迦の教えそのものが動物たちにも及ぶ規模のものだったことによるのかもしれない。この作品に描かれた「涙」の規模はこの世界の終わりに際してのものだから、その釈迦入滅の時の涙に勝るとも劣らないものとして描かれているはずである。

 この「空の傷」や「空の涙」、そしてこの大地に存在するものすべての「涙」という喩の表現やイメージは、吉本さんの言う地上の水平な視線とそれと直交する上空からの視線の交わるところのイメージ(前回の註.1参照)とは違ったものであるが、「究極イメージ」の表現と言えるのではないだろうか。なぜなら、人間は現在までに大洪水や縄文海進・海退や大規模地震などを経験してきている。それはこの世界が終わるような感受やイメージとして受けとめられたはずである。そしてこの描写は、現実性としては空想性を帯びているとしても、それを超えた世界自体の終わりの感受やイメージだからである。言いかえれば、「水平な視線とそれと直交する上空からの視線」自体を空無化するイメージだからである。

 こうして、90ページで急に登場人物「ゆうき」のアイフォンに、この世界が終わるという「『通達』という題名の短い文章がトップ画面に表示」される。








 『銀河で一番静かな革命』(マヒトゥ・ザ・ピーポー 2019年5月)読書日誌 4


 4.二つの世界の終わりのイメージ・直面する心の振る舞い


 世界の終わりということには、二つのイメージがある。

 この世界が終わるという「終末のイメージ」や「終末論」は、いちいち挙げないが現在までにたくさん生みだれてきている。それには当然ながらモチーフがあった。一つは、この人間界や人間の生み出す悪行などの負性によるもので宗教との関わりが深いもの。もう一つは、大洪水や大地震などの大いなる自然の猛威によるものである。

 現在のわたしたちは、この大地や地球が、人間の100年あまりの生涯の時間よりも大きな時間のスケールで周期的な活動をしているらしいということはなんとなくわかっている。また、星の誕生から死までの生涯の道行きやこの太陽系の寿命も大まかに捉えられるようになっている。したがって、大いなる自然の猛威によってこの世界が終わるというイメージは、一般的には現在のわたしたちと無縁なものと思われている。もちろん、見知らぬ大きな彗星などが突然現れて地球に衝突するということは、絶対にないとは言い切れないから、この世界の終わりが絶対にないとは言い切れない。

 世界全体の終わりではないが、もうひとつの世界の終わり、すなわち個の死の場合は誰にも関わりがある。あるひとり個が死んでも今までと変わりなくこの世界は存在し、推移していくように見える。また、あるひとり個が死んでも、その人のイメージは身近な人々の内に存在し続ける。しかし、あるひとり個自体にとっては、世界の終わりに当たるだろうと思われる。もはや他者が直接には触れることができない存在になって、つまり物質に還元されてこの宇宙に戻っていく。

 世界の終末が集団的なものとして現れるか、個人的なものとして現れるかの違いがあっても、両者ともにひとりひとりの個によって世界の終わりは受けとめられ感じ考え反応することになる。この場合、世界の終末は死というものと同義であるから、一般には、次のようなことになるのだろう。

 死を前にした人の心的な振る舞いの一般性についての考察に、ずっと昔に読んだエリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』がある。ネットのまとめから引用すると、死を突きつけられた者は一般に次のような心的な過程をたどるという。

第1段階 否認と孤立
第2段階 怒り
第3段階 取り引き
第4段階 抑うつ
第5段階 受容


 避けられない現実に襲われた時の人間の心的な反応は一般にそういうものだろうと思う。この作品では、集団的なものとして現れる世界の終末に対して、主要な登場人物たち以外は語り手の「ゆうき」によって次のように描写されている。


 幸せのモデルを程よく提供してくれる存在に人は群がり、用意された救いの言葉にすがって、この世界のおわりをなんとか乗り切ろうと、自分にあったサンプルを探すことに必死になっているのだと思う。
 過剰になっていく自己啓発の洪水にワタシはついていけない。
 割られたショップのガラス、大きく描かれた落書き。取り締まるべき警官は職務を放棄したのか、ストリートは大きなキャンバスとなり、詩は壁から壁をまたぎ、自由に思想が描かれていた。回収されず放置され、散乱したゴミ袋を猫がつついている。足元には捨てられた免許証。並んでいる自動販売機のいくつかは電源が切れ、倒れている原付の横を何もないかのように素通りし、目的地にただ急ぐ人々。行き場をなくした倫理や希望が宙ぶらりんのまま、渋谷の交差点でゴム鞠のように跳ねている。風紀は恥ずかしいほどに乱れ、平衡感覚を失った人の破綻していく様子が街の表情として現れ始めていた。
 (P157)



 「世界のおわり」を前にした人々の心の様子が、風景を描写することによってその気配のようなものとして描写されている。上のキューブラー・ロスの死を前にした人の心的な過程の第1段階から第4段階までの描写に当たるだろう。人間のような本格的な心や意識を持たない動植物なら、人間のようにデカダンスに陥ることもなく「世界のおわり」をただ自然として生きるのだろう。

 この部分の語り手の描写と背後の作者のイメージや考えは、同一と見てよいように思われる。この語り手の描写の出自は、当然ながら作者であり、この世界の終わりには人間はどう振る舞うかを今までに見聞きしたいろんな素材を織り込んで作者が想像したことであろう。語り手の語る風景の様子の中に破局を前にした人のデカダンスの様子が現れている。

 昔読んだ野呂邦暢『落城記』に「世界のおわり」に直面したときの似たような人々のデカダンスの様子の描写があったことを思い出した。これは戦国時代、諫早(伊佐早)を支配していた西郷家が二十里ほど離れた佐賀(佐嘉)の龍造寺家に滅ぼされる数日間の出来事、史実をもとにした物語で、その「落城」(「世界のおわり」)に至る事情は作品の言葉によると次のようなものであった。


 (佐嘉へ送り込まれていた間者の虎次の報告)
「申しあげまする」
「聞こう」
「龍造寺家晴公の家中は、かねてより米味噌干魚など買いいれておりましたが、このたび伊佐早出陣のお触れが出ました。日どりは七月三十日すなわちきょう、陸と海の二手にわかれて攻め参りまする。討ち入りの名分についていうところを聞けば、御家が島津征伐に参陣しなかったこと、ならびに九州へくだられた関白様のご機嫌うかがいに博多までまかり出なかったこと、よってわが西郷家は天下の御威光をおそれぬ不埒者ゆえ関白様が御家のご領地を家晴公に与え給うた由でごんす」
 (『落城記』P13-P14 野呂邦暢)


 ところで、「落城」(「世界のおわり」)を目前にした人々のデカダンスの様子は、この物語の語り手の「大殿さまの血をひく娘」である於梨緒(おりお)によって、次のように語られている。


 わたしは広場を離れた。
 ムギがどこへ去ったのか気にかかっていたのだ。縫いあげた合印をかごに山もりにして四、五人の女中が厨の方から急いでくるのとすれちがった。ムギの居場所をたずねたけれども、知らないという。
 御書院の裏手まで本丸広場のさわがしい人声はとどかなかった。侍たちは女房に酒をつがせてへべれけに酔っており、大声でらちもないことを叫ぶかと思えば笑いだし、そして泣いた。順征や忠堯より年かさの重役たちである。彼らは山崎丹後守や東伯耆守のように城を見すてて逃げる度胸もなく、かといって御家のために命をなげ出す性根もすわっていないのだった。
 抜刀して書院の柱に切りつけてみたり、床の間の掛け軸をずたずたに裂いたりして荒れ狂った。いってみれば彼らは西郷家の家臣としてうまれたわが身の不運をなげいていたのである。庭を横ぎろうとするわたしの足もとに、盃がとんできて砕けた。わたしをめがけて投げた盃ではない。手当たりしだいに狼藉のかぎりをつくしているだけだ。空徳利までとんできて、割れた。わたしはいっさんに庭を駆けぬけた。皿小鉢を踏み割ってあばれる侍にその者の女房がおろおろととりすがっているのがあわれであった。

 馬小屋の中でかすかな物音がした。
 わたしの足にからみついたものがある。手にひろいあげてみると、絹布である。御書院から射すうす明りにかざしてみた。青色の襷にちがいなかった。目が闇になれると、馬小屋の藁をつんだあたりにぼんやりと人影の動くのが認められた。せわしない息づかいが聞えた。わたしは襷をほうりだし、急いでそこを離れた。
 人影は馬小屋の中だけではなかった。
 厠の裏、木かげ、植えこみ、御書院から見えないものかげには必ず男と女がいて苦しそうに呻いていた。はずされた襷が青い蛇のように草むらにのたうっていた。足軽たちが脱いだ腹巻や腹当もわたしの足にぶつかった。からみあった男女につまずいたこともあった。二人はわたしに気づかないようである。闇の底ではどの女中もどの足軽も同じ顔であり、同じ声をあげた。
 (『同上』P133-P134)


 例えば、『信長公記』(しんちょうこうき、信長の旧臣の太田牛一が書いた織田信長の一代記)を昔読んだことがあるが、当然ながらというか、こういう滅び行く者たちの内部から描かれた記述はなかった。ただ、城を攻め滅ぼしてその城の家来や女子ども三百人くらいだったかを数軒の家に閉じ込めて、火を放ったという著者も何とも言えない思いになったという外からの残虐の記述はあった。野呂邦暢が描写したようなデカダンスの描写はなかったし、たぶんこうした記録にも載らないのではないかと思う。また、島原の乱を内側から描いた飯嶋和一『出星前夜』を読んだことがあるが、当時のいろんな資料(と言っても、幕府側の資料がほとんどだろう)を当たるにしても、最後は作者のモチーフや人間認識が、作品の細部の描写を支えているのだと思う。

 つまり、作品の描写を具体的に書き留めるのは作者であり、上の野呂邦暢の作品の描写も当然作者を通してしか作品にやってこない。では、作者はどこからそのイメージを汲み上げたのだろうか。歴史の資料にはそのような内部の様子の記述は残らないだろうから、作者の感性や想像からやってきたと見なすほかない。人は、このような破局や世界の終わりには、たぶんデカダンスにおちいりそのようにふるまう人々もいるだろう、と。

 しかし、わたしにもそういうことはあり得るだろうなと思えるから、これは作者の単なる空想ではなく、『死ぬ瞬間』でキューブラー・ロスが死に直面した人々がたどる心的な過程の一般性として描いたように、人間的な有り様の一般性から来るものだろう。さらに付け加えれば、そこには作者の心の深層に保存されているこの列島の古い精神の遺伝子とも言うべきものが加わっているように見える。それは例えば、先の大戦で、生きて捕虜になるな、自決せよというような軍の規律や考え方にも表れている。これはたぶん、閉鎖的な島々の住民の太古からの精神の負の遺伝子によるもので、負けたら何をされても仕方がない、逆に言えば、勝ったら相手にどんな残虐をも行うことがあるという怯(おび)えからくるデカダンスの感性や考え方と同質のものだと思われる。(註.このことに関しては、吉本さんが『心的現象論』で考察していたと記憶する) (註.1)

 最後に、二つ目の個にとっての世界の終わりということがある。それは、事故や病や自然死などの違いはあっても誰にも訪れてくるもののようである。わたしたちは誰も死自体を体験できないからこのように言うほかない。おそらく、ひとりひとりキューブラー・ロスが描いたような心的な過程をたどりながら、この世界の終わりを迎えるのだろうと思う。そうして、たぶん人類が世界の終わりを迎えないかぎり、残った人々はこの(その人にとっての「その」)世界を旅するのだろう。

(註.1)
それは、「上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)より」の末尾に引用しています。

この文章は、「消費を控える活動の記録・その後 5 (2017.1~)」のNo135にあります。
135 「上村武男『遠い道程 わが神職累代の記』(2017年)より」 2017年04月22日







 『銀河で一番静かな革命』(マヒトゥ・ザ・ピーポー 2019年5月)読書日誌 5


 5.死から照らし出された生のイメージ


 前回触れた野呂邦暢の『落城記』に、「世界のおわり」に照らし出されて人の生きることのイメージが表現されている箇所がある。


 降るような蝉しぐれである。高城がおち、本丸が炎上し、御家一統が滅びることになろうとても、蝉が絶えることはあるまい。大楠も枯れることはないであろう。わたしは青緑色の宝石のように輝く楠の枝葉を眺めた。朝日をあびて大楠はよろこばしげであった。梢はそこに強い風があたっているからか、かたときもじっとしていなかった。幹は地中に根をおろし、どっしりと動かなかった。
 父上が腹を召され、左内たちが首をとられ、七郎さまとわたしがこときれ、今、高城でがつがつと焼味噌つき握り飯をむさぼり喰らっているすべての侍足軽、年寄りや女子供が死にたえようとも、蝉はなきたてるのである。大楠は朝日と夕日に輝くのである。そう思うと、日ごろやかましいだけの蝉の声が、きょうはしみじみとありがたく聞こえた。
 大楠のてっぺんで、風に身をもんでいる梢がいじらしく見えた。
 わたしは城が燃えさかるとき、この世を去っているだろう。七郎さまも。わたしはこと切れても生きているだろう。わたしがこの世からいなくなることはない。わたしは楠である。わたしは草である。わたしは蝉となってあの大楠にとまり、夏の朝、身をふるわせてよろこばしく鳴くだろう。わたしは死なない。死なないと思いさだめたからには、死を怖れるいわれはない。
 (『落城記』P149 )



 この部分は、最初からの作者のモチーフと言うよりは、この物語を書き継ぐ過程でこういうイメージの場面を生み出さざるを得ないと思った作者に湧き上がったイメージであると言ってもいいと思う。これは、輪廻転生思想の残がいが今でも残っているように、この作品にも湧き上がったのだと思われる。この物語の語り手である於梨緒(おりお)は、意志的に「死なないと思いさだめ」ている。太古の輪廻転生の考え方が主流の時代には、思い定める必要はなく、そのような生まれ変わりは自然なものと感じ考えられていたはずだ。於梨緒はもはや輪廻転生思想の残がいを拾い集めて意志的に思い定めるほかなくなっている。これは戦国時代を生きた於梨緒の世界観というよりは作者野呂邦暢の世界観であろう。もう今では通俗的になりすぎている感じがする。つまり、生命感のないものになっている。


 『落城記』からおよそ40年後に書かれた 『銀河で一番静かな革命』では、世界の終わりを目前とした時、その死から照らし出された生のイメージはどのように描かれているだろうか。この間の社会の変貌が、無意識のように言葉に刻まれているように見える。作者によって選ばれた主な登場人物たちに現れた生のイメージや感受を取り出してみる。最終章(と思える)の「光太」の場面にもあるが、「いろは」と「ましろ」の場面から抜き出してみる。状況は、「いろははそんなことを独り言のように呟いているが、調べたところで、もう行くのは無理なんだよ、いろは。だって今日は十二月三十一日。時計を見ると、二十時半をさしていた。」(語り手、「ましろ」)と「世界のおわり」が目前に迫っている。


「じゃあ、ここでお別れだね。」
 雪がさらさらと音もなく散り、いつもの景色を白銀に染め上げている。
「そうじゃな。」
「じゃあ、いろは、お家に帰ろう。」
 大きすぎるコートに埋まっている袖からいろはの手をとり、ましろはそう言った。
「うん、おじいちゃん、またね。」
「ありがとうね。お嬢ちゃん、さようなら。」
「ううん、さようならじゃないよ。またね。」
 足元の赤い花を見ると、植木鉢の端で新しい小さな青い芽が、土から顔を出していた。おわりからもちゃんとはじまりがあるのを、いろはは知っている。
 できたらまた人間として生まれたいな。今みたいに不完全で、迷子のままでもいいからさ。
「あい、またね。」
 そう言うとさしたままの傘をじいちゃんはましろに渡した。
 (『銀河で一番静かな革命』P212)


 「本当に外にいなくてよかったの?面白いものもっと見れたかもよ。」
 わたしはストーブの電源を入れ、雪で濡れたいろはの髪をバスタオルで拭き取りながら言った。
 ・・・中略・・・
「いーの。」
 いろはは短く答える。
「でもさ、いつも、」
 話し始めたわたしの会話を遮るようにしていろはは言う。
「ましろ。今、目の前で起きてることも、明日この世界がどうなってるかも関係ないよ。いろはの世界をいろはが主人公のまま続けたいだけ。」
 いろはは、タオルでぐしゃぐしゃにされながら言った。
 壁掛けの時計を見ると、もう二十三時を回っている。じきに、NHKでやっている紅白歌合戦もフィナーレへと向かうだろう。一分一秒、きっと窓の外の世界はもっともっと不思議なことになっていくにちがいない。わたしがわたしでいられる時間はもう、そう長くはない。
「どういうこと?」
 わたしはいろはの言い回しにわからないところがあった。
「いろははね、明日を信じてるんだ。今日だって花に水をあげた。英語だって勉強する、映画のスタンプだってためるよ。想像する。いつかいろはは世界中を飛び回るし、またあの小さな映画観で暗闇の中で夢を見るんだ。」
 いろはは、タオルで髪を拭き取るわたしの手を止めて、わたしの顔を睨むくらい強い目で言った。そのタオルの隙間からのぞかせる目は相変わらず澄んでいて、その鋭さに明確な意志を持っていた。こういう顔をするようになったのはつい最近。子どもの成長の速さにあっけにとられ、何も返せずにいると、いろははわたしの脇腹をくすぐった。仕返しに、くすぐり返すわたし。
「本当におわるなんて信じらんないな。」
 受け入れられない気持ちを持たぬよう、大人ぶって背伸びをして、この数日過ごしてきたけれど、いろはと笑いあったのは、まさにそんな時間だった。本当におわるなんて全然、信じられない。ずっと続くかのような時間。
「いろは、もう一つ、林檎剥こうか?」
「うん。あ、でもいろは、歯磨きもうしちゃった。」
「ちゃんと口ゆすげば大丈夫よ。」
「本当?」
「うん。」
 (『同上』P214-P216)



 世界の終わりを目前とした時、その死から照らし出された生のイメージは、野呂邦暢の『落城記』においては割と通俗的な捉え方になっていたが、この作品ではありふれた日常の生活の中にきらりと光るように埋め込まれている。例えば、「いろは」の「ううん、さようならじゃないよ。またね。」の「またね」という言葉へのこだわりのように、この世界を生きる姿勢として意志的な表現が込められている。引用部分の全体をひとつの歌と見れば、その歌のふんい気やイメージの収束していく小さな場所が浮かんでくるように感じる。その微妙さを言葉で捉える(説明する)のは難しいという気がする。

 娘の「いろは」と違って、母の「ましろ」は、「(世界のおわりを)受け入れられない気持ちを持たぬよう、大人ぶって背伸びをして、この数日過ごしてきたけれど」とあるように、もう目前に迫った「世界のおわり」に心引きずられている。この「世界のおわり」を規模を小さく取って、個に訪れる病による死と考えると、人は一般に目の前の死という現実に引きずられるだろうと思う。だから、「いろは」に作者が込めた生きる哲学のようなものは普通ということをいくぶん突き抜けたものになっている。明日「世界のおわり」(死)が訪れようが、いつもと同じように、小さな夢や希望を抱きながらこの今を生きていくんだ、というイメージは、ありふれているようで貴重なものだと思う。そのイメージや考えの根柢には、書き記されてはいないけれど、この世界(人間界ではなく、宇宙レベルの世界)における人間存在の絶対的な受動性ということがある。そうして、それはこの世界でのわたしたちの生存の有り様を深く規定している。

 世界の終わりを目前とした時、その死から照らし出されたこのような生のイメージと関わるものとして、吉本さんの次のような人間の生存の有り様についての言葉がある。


 それからもうひとつは、教育という意味あいを、そうせざるをえなかったのだという不可避性の問題としてかんがえれば、それは教育なんでしょうけれども、しかし生きざまだから、願望だからわからないけれども、ぼくでも死ぬまではやりたいですね。死ぬまでは、じぶんの考えを深めていきたいですし、深めたいですね。それは説きたいとか、教育したいとかというのとはちょっとちがうんですよ。しかし死ぬまでは、できるならばちょっとでも先へ行きたいよ、先へ行ったからってどうするのと云われたって、どうするって何もないですよ。死ねば死に切りですよ。死ねば終わりということで、終わりというと怒られちゃうけれど、ぼくは終わりだ、死ねば死に切り、何にもないよ、ということになるわけです。それじゃ何のために、人間はそうしなくちゃならんのと云われたら、人間とは、そういうものなんだよ、そういういわば逆説的な存在なんだよ。つまり役に立たんことを、あるいは本当の意味で誰が聞いてくれるわけでもないし、誰がそれを信じてくれるわけでもないし、どこに同志がいるわけでもないし、だけど死ぬまでは一歩でも先へすすんでという、・・・・・・ものすごく人間は悲しいねえーという感じがぼくはしますね。人間とは、そういう存在じゃないんでしょうか。そういう存在じゃないんだろうかということが、親鸞に「唯信鈔文意」とか「自力他力事」とかを書き写しちゃ弟子たちに送るみたいなことをさせたモチーフじゃないでしょうか。それがぼくの理解です。いわゆる教育ではありません。誰ひとり、じぶんの考えを本当に理解してくれる人なんていなくたって、それはそうせざるをえないんですよ。つまりそうせざるをえないというのは、何の促しかわからないけれども、そうせざるをえない存在なんですよ。だから親鸞もそうしたんでしょうというのがぼくの理解の仕方ですね。
 (「『最後の親鸞』以後」、『〈信〉の構造』所収 P323-P324)
 ※この講演は、ほぼ日の「吉本隆明の183講演」の、A040「『最後の親鸞』以後 」。
 ※講演日時:1977年8月5日



 次は、晩年の吉本さんに身近に接した人々の外側から描写である。


糸井
見えなくって、歩けなくって、元気でいろ、って
難しいです。
吉本さんは、最後はもうご自身の感覚だけで、
いわば思考の中で、
行き来していたような感じはありました。
どんどん体がダメになってって
たのしいことが減って生きる、というのは、
ぼくは正直、ちょっとつらいところがあります。

ハルノ
うーん‥‥でも、
それが父らしいのかもしれない。

糸井
そうなんだよ。
吉本さんは、それを自分で選んでいるところがある。

ハルノ
そうですよね。
私はつくづくね、
人間は生きたなりに死ぬなぁ、と思いますよ、
母を見てても(笑)。
 (「父と母と、我が家の食事。」 第6回 だめ具合を見せたふたり。 ハルノ宵子×糸井重里 2013年 「ほぼ日刊イトイ新聞」所収)
 
 
 2000年代半ば頃になると、いよいよ父の眼は悪くなってきた。テーブルを挟んで目の前にいる人も、男女の区別もつかない。「常に赤黒い夕闇に中にいるようだ」とも言っていた。さらに脚もかなり悪くなっていた。以前は家の近所1周300m程を休み休みでも歩けたのに、家の中をはって歩くだけになった。耳だって齢相応に悪くなる。さながら自分の肉体に閉じ込められているようだ。"老い"とは、かくも残酷なものかと思い知らされた。
 しかし相変わらず、精神の活動だけは活発だ。だが五感から入ってくる情報は限られている。
 (同封の月報18「ボケるんです!」ハルノ宵子、『吉本隆明全集17』晶文社)



 吉本さんの世話をしていた娘(ハルノ宵子)であっても、どこまで吉本さん本人の内を捉えきるか、こういうことは一般に難しい。外からは、「たのしいことが減って生きる」とか「自分の肉体に閉じ込められているようだ。"老い"とは、かくも残酷なものか」と感じられても、ほんとうにその通りか、そのようにすっきりと切り整えられた言葉で捉え尽くせるかは疑問だ。言葉にしても仕方がない吉本さんの老いの具体性の日々があったろう。今のわたしにはわからないとしか言いようがない。ただ、上の講演は1977年で、下の話はそれから30年近く経った2000年頃。それでも、吉本さんは「生涯現役」で、上の講演で語られたように生きたのだと思う。

 物語世界では当然ながら、世界の終わりの時登場人物たちも語り手も消失する、退場する。しかし、作者は存在していてすべてが退場した後に、物語の終わりを宣告して書くことをやめる。そうして、作者のモチーフとイメージがくり広げられる物語世界として、読者の前に登場することになる。

 最後に、この作品を読むわたしたち読者に照明を当ててみると、この世界の今を生きるわたしたちにとって、この作品世界の「世界のおわり」は、もっと小規模な立ち塞がる日々の困難に置き換えられる。そうして、そこでどのような生き直しを試みるかという内省の問題に変換される。


註.

この読書日誌を書いている途中で出会った「町田康×マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)、創作と人生を巡る対話」を、書き終えたので読んでみた。町田康の実作者としての経験からくる言葉が少し目新しく思われたが、わたしに付け加えることはない。ひとつ、思ったのは、作品中で「いろは」が理由もないのに涙がこぼれてくるという描写(読書日誌 3)があり、男の作者なのに女の子の微妙な感情がわかっているのだろうか、とふしぎに思ったことがあったが、これは次のような作者の固有性と関係があるのかなという印象を持った。


マヒト:感情と行動が伴わない感覚はよくあります。お腹が減ってご飯を食べるように、気持ちと行動が連動するのが普通の感覚、普通の人間だと思いますが、そうじゃないことがたまにある気がします。その度合いが酷過ぎると、いわゆる「マトモじゃない人」になるんでしょうけど。自分で決めているはずなのに、実は決められている現実が多い世の中で、最近鏡を見ることにハマってまして……。鏡に映った自分が他人に見えてしまうんですよね。ナルシストという感覚ではなくて、「何者だろう、こいつは。」という気持ちで鏡を見ています。


マヒト:気持ちと行動が綺麗に合わさって上手く回るのは効率的かもしれないけど、そうじゃない場合もあるよな、という感覚は大事にしたくて。明確な答えではなく、気持ちと行動の間にある曖昧な「揺れ」に興味があるんだと思います。
 (「町田康×マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)、創作と人生を巡る対話」)














 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ①


 1.物語世界の構造


 近代小説は、一般に作者・語り手・登場人物という基本要素を必要とし、作者は物語世界の後景に位置し、太古とは違って個としての作者のモチーフを担った語り手が、登場人物を引き寄せたり登場人物たちに促されたりしながらそれらを語る(描写する)ことによって、物語世界は駆動され、展開していく。もちろん、言葉を書きついでいくのは作者である。この場合の現場の様子としては、作者は、例えば、ある人が自分の職場の結婚式場に出かけて結婚式の司会をやるように、変身した語り手に憑かれるように、あるいは語り手になりきって言葉で描写していく。このような物語世界の構造にも時に乱流が起こることもある。

 普通の物語と違って、芥川龍之介の作品には物語世界に作者が登場するものがいくつかある。西欧の作品にもそういうものがあるのかどうかは知らない。「羅生門」では「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門下で雨やみを待っていた。」と語り手が語り物語世界を開いていくが、途中で「作者はさっき、『下人が雨やみを待っていた』と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。」というふうに急に作者が登場する。これは旧時代の語り物の名残ではないかと思う。佐伯泰英の時代物、『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズを読んでいる時にも感じたことがある。物語の時空を抜け出たようにしてある場所の歴史的な説明が急に入る時がある。これは江戸時代に下り立った語り手ではないから、作者が顔を出しているのだとみるしかない。現在に残る語り物でも、時には物語世界から語り手が抜け出て、ある出来事や場所の歴史的説明が入る時がある。必要だという配慮からそれらはなされているのだろうが、観客(読者)としては物語世界への没入に水をかけられたようで少し興ざめになる時もある。現在でも、いくらかこのような部分を残しているといっても、上記のような作者・語り手・登場人物という基本要素からなる物語作品が、現在の主流の形となっている。

  坂口恭平の『現実宿り』に見られる独特の物語世界の構造については、以前に触れた。(「『現実宿り』(坂口恭平)を読む」2016.12.10)それは、作者・語り手・登場人物という基本要素からなる近代以降の小説の物語世界とは少し違っているようだった。今回取り上げる作品『建設現場』も『現実宿り』と同じような物語世界の構造に見えるので、その以前の自分の文章で引用した『現実宿り』に関する作者のツイートを再び引用する。


1.(2016.8.05)
とにかくぼくはプロットも構成もそもそも着想自体なく鬱のまま書き始めているので何がなんだかわからないまま書いている。書かないと死にそうだから書いているだけなので、今日の文章教室ではそのことだけを伝えます。きっとただみんなほっとするだけの会になると思います。才能の問題ではありません


2.(2016.10.14)
新作「現実宿り」は10月27日に発売されます。今年の1月に鬱で死にそうになっていたときに頭の中が砂漠になって布団の中でもがきながら書いた本です。自分でも何を書いたのかわかっていないので買って読んで電話で感想ください。予約開始中 


3.(2016.10.24)
雨宿りという言葉は雨がただの避けるものではないということを示していて、気になっていた。雨音聞きながら寝ると気持ちいいし、雨の日に部屋にいると安心する。軒先を宿だと思う感覚も面白いし、軒先から見る雨は自分を守る生きた壁みたいに見えて何かが宿っているようにも見える。


4.(2016.10.24)
という「雨宿り」という言葉に対しての興味から、僕の仕事もただ現実からの避難所を作りたいわけじゃなく、一つそういった軒先のような空間があれば、現実に対する目も変化するのではないか、なんてことを考えながら、雨宿りから着想して「現実宿り」という造語をつくりましたー。


5.(2016.12.03)
「現実宿り」昨日久しぶりに数ページ読み返してみたが僕が書いたと思われる箇所がほとんどなくびっくりした。ほんと何度、ページ開いても不思議な感覚です。よく本になったなあと。そして、よくぞ他の人が読んでくれてそれぞれにいろいろ僕にくれたもんだなあと。僕に主題がないどころか僕が書いてない


6.(2016.12.08)
僕の場合、資料などは一切、入手しないでただ書く。目をつむらないで、目を開かないで、ぼんやりとしたあたりに、窓があって、そこからすかしてみるみたいな感じだろうか。嘘は書いちゃいけないと思っているので、創作した部分は結局最後には消すことになる。でも、そのまま書くと、ほんとむちゃくちゃ



 作者のツイートの1.2.6.は、表現の舞台に立っている(立たざるを得ない)時を振り返った作者としての実感、表情や思いである。3.4.は、表現の舞台を下りた作者が自分の表現の行動に与えた冷静な内省的な言葉である。これは通常の感覚である。

 『現実宿り』の時の読書感で言えば、シュールレアリズムのような表現が次々に転換し連結されていくような感覚や神話的な描写でもあるなという感覚を持ったが、この『建設現場』でもそのような印象がする。前回、上のツイートを引用した後に、この作品は、虚構という物語性の稀薄な、作者である「わたし」の切実な「心象スケッチ」と見なすべきだと思う、と書いた。この『建設現場』でもそれは言えそうだ。すなわち、この『建設現場』の物語構造も、『現実宿り』に見られる独特の物語世界の構造と同型であると思われる。そのことにもう少し立ち入ってみる。

 ところで、太古の巫女さんが、集落の人々の前で物語り(神のお告げなど)をする場合、神(大いなる自然)に促されて語り手の巫女さんが語ることになる。もう少し現代風に言えば、巫女さんは、集落の人々が内心に持っている世界観や世界イメージ(マス・イメージ)に促されてそれに応えるように、神自身に成り代わったり、神を讃えたり、神に訴えたりして語ることになる。ちなみに、『アイヌ神謡集』(知里幸恵編訳 青空文庫)には、「梟の神の自ら歌った謡」など神自身が一人称で語る話が残されている。

 この作者の「不思議な感覚」(ツイート5.)からすると、『建設現場』は、作者にどこからか訪れてくる緊迫した〈鬱的な世界〉とその時間が、作者のモチーフや物語性に取って代わっているのではなかろうか。そのために、ツイート5.に見られるような「僕が書いたと思われる箇所がほとんどなくびっくりした」となるのではなかろうか。作品で部分的には自分が書いたとは思えないと言う作者の言葉には出会ったことがあるような気がする。たぶん、作者たちは日常世界を離脱していくぶん我を忘れたように、あるいは、物語世界に憑かれるようにして書いているだろうから、いくらかはそういう場合があるのだろう。しかし、坂口恭平の場合は、それと違って全面的に見える。

 先の太古の巫女さんの物語りの例で言えば、巫女さんの物語りを突き動かすのが集落の人々が内心に持っている世界観や世界イメージ(マス・イメージ)であるのと同様に、坂口恭平の場合は、自らの内から沸き立つモチーフというよりは、緊迫した〈鬱的な世界〉とその時間が、作者を物語り世界に追い込み、突き動かしているように見える。素人の推測に過ぎないが、物語世界の中での作者の受動的な緊迫した時間の強度とそこから離脱した日常のふだんの時間の強度との落差の大きさが、醒めたときの自分が書いたものとは思えないという言葉になっているのではないかと思う。

 坂口恭平の『現実宿り』や『建設現場』という物語世界は、作者・語り手・登場人物を基本要素とする一般的な物語世界の、作者のモチーフに促された一般的な語り手とは違って、他の何ものかに促されたり迫られたりしている受動的な作者-語り手なのではないだろうか。ちなみに、出版社の『建設現場』の紹介コメントには、「これは小説なのか、それとも記録なのか。」とある。この作品が、普通の物語作品とは見なされていないということだろう。読者としていつものように物語の筋をたどろうとすると、世界の時空の理路がゆがみ、シュールリアリズムのイメージが連結されていくような、あるいは神話的な自在さのような印象を持つ。それらのイメージ流とも言うべきものの流れや展開に慣れていない読者としては、読んでいてきついなと思う。

 作者のツイート1.2.にあるように、この『建設現場』でも作者は「書かないと死にそうだから書いている」のだろう。そのことが現在を生きのびることになっている。つまり、ふいと訪れてくる避けられない〈鬱的な世界〉とその時間の制圧に抗うように書いているように見える。そうして、そうした状況で〈書く〉こと自体が作者にとって、鎮静剤や「自己慰安」のようになっているようである。








 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ②


 2.物語の渦中で、「崩壊」と「瓦礫」や「建設」とは何か


 坂口恭平の『建設現場』は、出てからすぐに買って2,3回数ページ読んで、これはすいすい引き込まれるような普通の物語作品とはちがうなという感じがして、ずっと寝かせていた。やっと読み進むことになった。

 語り手でもある登場人物は、とりあえず「わたし」であり、その「わたし」は、「わたしはずっと忘れていたことを思い出した。わたしの名前はサルトだ。」(P48)とあるから、「サルト」という名前ということになる。ここで、とりあえずと書いたのは、「わたし」が自分の名前を忘れていたということもふしぎなことであるが、のちにこの「わたし」は多重化したものとわかるからである。今回はそのことには触れない。


 『建設現場』という物語世界は、次のように始まる。もちろん、作者にとっても読者にとっても書き出されてはじめて物語世界は浮上し、可視化される。しかし、作者の内では、物語世界の徴候はそれ以前にも存在し、書き留められた物語世界の終了の後にも、その徴候はいくらか変貌しつつ存在し続ける。


 もう崩壊しそうになっていて、崩壊が進んでいる。体が叫んでいる。体は一人で勝手に叫んでいて、こちらを向いても知らん顔をした。崩壊は至るところで進んでいて、わたしは一人で気づいて、どうにか崩落するものに布なんかをかけようと探してみたが何もない。隣にいる者に声をかけてみたが、男は一切しゃべらず、それ以外にもまだたくさんの人間たちがいた。
 現場ではいろんなものが崩壊していたが、それもこの建設の一つの仕事なのかもしれない。わたしは想像するしかなかった。しかし、昨日も寝ていない。もう数日寝ていない。正確に言うと、寝ていないことはなかった。宿舎はなく、眠る時間になるとその辺に散乱している毛布にくるまった。拳を枕がわりにして、それぞれ寝ていた。わたしも彼らの寝姿を見ながら、寝てもいいのだと知り、寝るようになった。
 ところが寝ていても、夢の中ではまったく同じ場所があらわれ、わたしは同じように働いていた。隣の男は違う顔だった。向こうにいる男たちの顔は確かめることができない。夢ですらそんな調子だった。わたしはずっと働いていて、休むことができなかった。寝ているときでも汗をかいていたが、冷や汗ではなかった。それはちゃんと労働したときの汗で、それなのに体は疲れを知らず、声が聞こえてくるとすぐに起きあがった。
 崩壊はまだ続いていた。建てても建てても定期的に揺れ、崩れ落ちていく。そのたびに日誌に被害の状況を逐一記録しなくてはならなかった。しかし、こんなことをやっても無意味だと多くの人が思っているのか、報告する側もされる側もどちらも上の空で、誰も何も聞いていないようにみえた。
 (『建設現場』の出だし P4-P5 みすず書房 2018年10月)



 引用部のはじめに、「体」も「わたし」もともに「崩壊」を感じてはいるが、「体」と「わたし」の二重化というか分離した感覚が表現されている。ここでの描写の流れを少し追ってみる。

→ わたしは想像するしかなかった。 → しかし、昨日も寝ていない。 → もう数日寝ていない。 → 正確に言うと、寝ていないことはなかった。 → 宿舎はなく、眠る時間になるとその辺に散乱している毛布にくるまった。 → 拳を枕がわりにして、それぞれ寝ていた。 → わたしも彼らの寝姿を見ながら、寝てもいいのだと知り、寝るようになった。

 前々回、この作品は、虚構という物語性の稀薄な、作者である「わたし」の切実な「心象スケッチ」と見なすべきだと思う、と書いた。昔風の言い方をすれば「私小説」的な作品だということになる。そうして、前回は、ふいと訪れてくる避けられない〈鬱的な世界〉とその時間の制圧に抗うように書いているように見える。そうして、そうした状況で〈書く〉こと自体が作者にとって、鎮静剤や「自己慰安」のようになっているのではないか、と書いた。それを受けて引用文の流れを見ると、「しかし」→「もう」→「正確に言うと」という文頭の言葉の推移は、物語世界の舞台に立った「わたし」の内面 ―それは作者の内面と対応しているように見える― を内省している言葉の表情に見える。その後の部分の「わたしはずっと働いていて、休むことができなかった。寝ているときでも汗をかいていたが、冷や汗ではなかった。それはちゃんと労働したときの汗で、それなのに体は疲れを知らず、声が聞こえてくるとすぐに起きあがった。」も、「わたし」≒「作者」の内省的、実感的なところから来る言葉のように感じられる。

 では、「わたし」≒「作者」にとって「崩壊」と「瓦礫」や「建設」とは何だろうか。物語世界からいくつか拾い出してみる。


1.「崩壊」に関わる言葉から


 崩壊ですらわたしには自然な現象に思えた。しかし瓦礫を見るかぎり、この崩壊は決して天変地異ではなかった。明らかに何者かによって意図的に行われている。崩壊はいつも別のところで起き、同じところで連続して起きることはなかった。怠惰な管理部はそのことすら理解していなかった。労働者を崩壊とはまったく関係のない場所へ派遣しつづけた。労働者たちは必死に作業を行ったが、どれも無意味だった。
 そもそもここで行われているあらゆる労働が無意味だった。だからわたしはやめた。すると突然、言葉を話せなくなり、頭の中で像を結べなくなってしまった。体は健康そのものなのに感覚を統合する力がなくなり、混乱状態に陥った。
 (『同上』 P154)



 崩壊、崩壊って言いながら、実はまだ何も起きていない。この目で見たことはなかった。アナウンスでは「今日何人が負傷、何人が死んだ」と報道されていたが、書類も誰かが適当に書いたとしか思えなかった。現場に貼り出されているものなど誰も見ていなかった。最近では人間の気配さえなくなっていた。こんなに労働者が集まって毎日働いているっていうのに不気味だった。そろそろここでの仕事も終わりにしたかった。
 (『同上』 P156-P157)



 「われわれは崩壊が起きるように建設している。崩壊は完成に向かっているという合図なんだ。崩壊しているようで、実のところは構築されている。アリの巣みたいにな」
 よくわからない?そりゃそうだ。おれ(引用者註.「ルキ」)にもさっぱりわからん。崩壊のことなら、もっと話がわかるやつがいる。ディオランドへ行く途中にある酒場にバルトレンという道化師がいただろ?あいつは何十年もこの辺で暮らしてる。いつもぼうっとしているように見えるが、実はずっと研究しているんだ。バルトレンは崩壊のことを調べるというよりも、あいつは気配を感じ取って、数値に置き換えたりしているらしい。
 (『同上』 P168)



2.「瓦礫」と「建設」に関わる言葉から


 わたしが作っているのは時計だ。この時計台だってわたしが作った。すべてこのへんに転がっている瓦礫を使って作った。長い時間をかけて少しずつ作った。この空間はもともとあるものじゃない。計画されたものでもない。わたしはまだ若かった。若くて何もわからなかった。もともとは労働者としてここで働いていた。ところがすぐ仕事をやめてしまった。理由もなく。ある日、突然やめた。やめても家に戻ることはできない。一歩踏み入れたらもう戻ることはできなくなっていた。家も何もなくなっていた。
 新しくやり方を見つけるしかなかった。もちろん簡単じゃなかった。食べることすらままならない状態で、わたしはまずこのへんの地理に詳しくなる必要があった。
 ・・・中略・・・
 これはわたしが作った言葉だ。言葉ですら一からつくりだす必要があった。この時計台は、わたしの言葉で作られている。★実際は焼け野原となんら変わらなかった。★ここにはもともと森があり、川が流れていた。地層を見たわけじゃない。★わたしはただ語っているだけで実際に見たことはない。★
 一度だけこんなことがあった。わたしは夜、瓦礫を探すためにあてもなく歩いていた。歩けば歩いただけ地図が広がっていくので、わたしは毎日、書き足していった。ところが地図は雲みたいに書いた瞬間から変形した。わたしはそんな場所で生きている。この状況を受け入れるだけで数年が経った。毎日、自分のいる場所が変わった。目を覚ますと知らない場所にいた。そのうち眠ることすらできなくなった。それでもついうとうとしてしまう。次の瞬間にはもう変わっていた。
 はじめは変化に気づけなかった。当たり前だ。立ち止まっているのに移動するなんてことを経験したことがないんだから。★わたしはずっと一本道を歩いていると思っていた。間違わないように紙に地図を描いた。地図を見ながら慎重に歩いていた。ところがあるときまったく同じ風景をみた。★それでわたしは一周したと思った。★そんなわけがなかった。一周するどころか、わたしはただ道に迷っていた。★
 (『同上』 P153-P155)



 すべて瓦礫だったとしても、何かをつくりあげることはできる。つくることをやめたらすべておしまいだ。いつまでも諦めないでやること。そうやって石を積み上げ続けているやつがいるのを知っているか?F域の中にいるって話だ。おれ(引用者註.この前の話「56」の「おれ」=「ルキ」だと思われる)は見たことがない。おれはな、自分の中から湧き上がってきているものを、ただずっと集めているだけだ。本当にただ集めているだけで、選別もなにもしない。瓦礫はそれが何かの欠片だろうが一つの惑星みたいに見えた。崩壊したあとの瓦礫は元の形を想像することすらできない。おれがやっているのは瓦礫をただ見続けること。
 (『同上』 P169)



 例えば、相手が何を話しているのかよくわからないとして、その相手の話を録音したり文章化したりして、その全体をたどっても話がよくわからないとする。ここでは、物語の全体ではなくごく一部を取り出しているが、そうした方法で作品世界に近づくほかない。引用の描写の世界は、通常の言葉の選択や連結、展開とは違っていて、意味がたどりにくい。小さい子が息せき切ってやって来てある出来事を報告する時のように話の要領を得ないと思われるかもしれない。一般化すれば、言葉が定常状態か励起状態かに拘わらず、そのような他者の言葉の理解の問題ともなり得る。ただ、物語世界の言葉が息せき切ってやって来た子どもの話のように言葉が励起状態にあるようなものだから、読者は見慣れない感じで不明感にとらわれるだろう。

 「崩壊」は何者かによる作為的ものと捉えられている。そうして、「崩壊」の正体もいつどこで起こるかもわからないから、「わたし」は強迫的に迫ってくる世界の「崩壊」にたいして受動的な存在となるほかない。そのような「わたし」は、世界の崩壊感の中、世界の方から押し寄せるイメージ流とでも言うべきもの ―実際は、「わたし」が生みだしているイメージ流のはずだが― に対して、普通の内省や気づきも現れている。(2.の★・・・★の部分)。いつどこで世界の「崩壊」が起こるかわからない、不明感と受動感の中、「わたし」≒「作者」が、病に押し流されてしまうことなく、抗いながら必死で自らを立て直そうとするのが「瓦礫」を用いた「建設」ではなかろうか。

 どこからかふいに訪れてくるように思われる〈鬱的世界〉によって励起・制御されたイメージ群が、「わたし」≒「作者」に次々に訪れてはひとつのイメージ流を成していく。〈鬱的世界〉の有り様がわたしにはわからないから、おそらくとしか言えないが、〈鬱的世界〉の繰り出すイメージ群に「わたし」≒「作者」が何度も反復して出会っている親しいイメージもあるのかもしれない。そこは読者にはよくわからない。ただ、イメージを感じ生みだしているのはあくまで「わたし」≒「作者」だとしても、「わたし」≒「作者」には〈鬱的世界〉が強迫的な気配で「崩壊」のイメージを強いてくるように感じられている。そこで「崩壊」などの正体がはっきりしないことが、「わたし」≒「作者」の受動性や〈鬱的世界〉の強迫性と対応しているように見える。

 引用の個所では、「わたし」は「崩壊」による「瓦礫」で「時計(台)」を作っている。その行為は、世界の崩壊感の中で「わたし」の生きのびようとするとする意志の表現と見ることができる。「すべて瓦礫だったとしても、何かをつくりあげることはできる。つくることをやめたらすべておしまいだ。いつまでも諦めないでやること。」という「おれ」=「ルキ」の言葉は、「わたし」≒「作者」のものでもあるはずである。そのことは、作者に戻せば「書く」ことを続けることに当たっている。しかし、その書くことも徒労感に襲われることがある。


 わたしは息をするように書き続けた。わたしがこれから何をしようとしているのかは知らないままだった。それどころか、わたしは自分のことを間違っていると思った。こんなことをしても無駄だと感じていた。「無駄なことはなにもない」と言っていた者がいたが、わたしは無駄だと思いつつ書いた。わたしには書く理由がなかった。わたしは積極的に書いているわけではない。書くこと自体は息をすることに近かった。息を止めることは苦しかった。
 わたしは目も耳も鼻もないと感じていた。体自体がなかったのかもしれない。わたしは知覚することができなかった。感覚を探す気力もなかった。食欲もなかった。わたしはすべてが嫌になっていた。それなのに、書くことを止めようともしなかった。書くことで、どうにかしようとした。しかし、それはいつも徒労に終わった。
 (『同上』 P139)


 それでも、書くことが身体活動の息をすることと同じようなものと「わたし」≒「作者」に感じられているから、〈鬱的世界〉のもたらす徒労感に抗して書いて行かざるを得ない。








 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ③



 3. 物語の渦中で、「医務局」とは何か


 物語世界が、現在の世界を呼吸する作者によって構築された幻想の世界である以上、そこには現在の世界にある風物が作者の意識的あるいは無意識的な選択により写像されてくる。そして、その選択には街の風景の描写のように割と自然な場合もあれば、物語世界に欠かせないものとして選択される場合もある。次の「医務局」は、後者の例のように見える。本文中から、「医務局」に関わる表現を拾い出してみる。


3.「医務局」に関わる言葉から

A.
 タダスの話によると医務局という場所があり、混乱した人間たちはそこに運ばれるという。モリと呼ばれていた医務局は、いま働いている現場、C地区の中にある。C地区は広大で、医務局だけでも三つあるという。
 (『建設現場』P33 みすず書房 2018年10月)


B.
 「今日は定期検診だ」
 しばらくするとロンがまた口を開いた。定期検診など受けたことがなかった。体調の悪い者は、自己申告すればいつでも医務局で診てもらうことができた。わたしは健康体そのもので、自分が普段思い巡らせているこのよくわからない頭の動き以外は風邪一つ引かなかった。★定期検診という存在自体知らなかった。ロンに聞くと、それは誰もが受けるわけではなく、定期的に無作為に一人の人間が選ばれ、その人間を診察し、他の労働者たちの体調を予測するためにデータを取るという。それで今回はわたしが選ばれたというのだ。★
 「どうやって選ばれるの?」とわたしは聞き直した。
 (『同上』P71-P72)


C.
 医務局での女による面接・質問の場面 (『同上』P76-P81)

 女はそこで質問を終えた。一切、わたしに触れることもなく、血液検査などもなかった。問診というよりも、ただの質問だった。★わたしに関することを異常に詳しく知っていた。わたししか経験していないはずのことを、なぜ女が知っているのか。もちろん労働者の行動は人工衛星で管理されている。しかし、女はわたしが見た夢のことも知っているような気がした。ただそんな気がしただけだが、そういうかすかな気づきですら女は感じ取っているように見えた。人工衛星で管理しているといっても、わたしの思考回路まで知ることはできないだろう。それなのに、女はわたしのことをすべて知っているような気がした。しかも、頭の中まで感じ取っていた。★
 (『同上』P80)


D.
ウンノは「おれ、建設現場から離れて医務局にいた」と言った。
 「ぼくも定期検診の途中なんだけど」とわたしが言うと、ウンノは何かわかっているのか、笑顔で「冗談は寄せよ」と言った。
 「ここはサイトって呼ばれてて、医務局を出てきたやつら、つまり入院中だった労働者がリハビリを行うところなんだよ。本格的に建設現場へ戻るまでの間、しばらく集団生活をするんだ」
 ウンノは説明しながら、わたしを二階建ての白い建物の前に連れて行った。
 (『同上』P97)


E.
 医務局内の椅子に三十人くらいの労働者が座っていた。実際に働いた経験のある者は一人もいなかった。しかし、手は汚れ、作業服も破れていた。中には女もいた。女はどうしてここにきたのかわからないようで、ひとりごとをつぶやいていた。
 ★医師たちは労働者たちの疑問に答えることなく、黙々と診察をはじめた。★目を開き、小さなライトを当てると、瞳孔の動きを確認した。瞳孔をカメラで撮影したあと、大きく壁に映し出した。いくつかの測定を同時に行っていた。
 労働者たちは働く必要がないと気づくまでにしばらく時間がかかったが、それがわかるとみな笑顔になった。食事は好きなときにとることができた。医務局に十年以上滞在している者もいるという。中にはここで結ばれた者たちもいた。
 家族をつくった労働者たちには仕事が与えられた。仕事の内容は、いくつかの薬を飲みながら、家族と生活を続けていくというものだった。はじめは彼らも戸惑っていたが、そのうちにどうでもよくなったのか、家族ですらないものも、家族の一員だと言い張ったりしだした。しかし、医師たちは彼らの言う通りに従った。
 医務局では患者たちにすべての決定権があった。彼らの意見は法律よりも強かった。「動物国をつくりたい」と子どもが言った翌日には建設がはじまった。しばらくすると彼らは医務局の敷地すべてを、彼らが見た夢の世界と同じものにつくりかえてしまった。●完成までには長い歳月がかかっていたが、実際は一瞬の出来事だった。●医者は労働者たちの一瞬の思いや記憶、創造性に注目していた。
 (『同上』P141-P142)


F.
 「なぜ医務局に戻ってきたの?」
 「報告のためです。わたしは感じたことを、さらに進めました。地理的調査と同時に、そこで暮らす人々の頭の中で起きていることも記録に残しました。それは思考回路とは幾分異なるものでした。彼らは手足を動かすのと同じように頭の中で見つけた風景のことを写真に写したり、そのための機械をつくりだしたりしています。その行為のもとになるもの、●その力そのものの研究を行うために、わたしは毎日、歩き続けました。しかし、一歩も外に出ていないような気もしています。足は一切汚れてません。●むしろ、体はだるく、外の空気を吸った実感がまるでないのです。」
 「あなたの名前は?」
 ★「サルト。名前は自ら思い出しました。しかし、以前にもサルトと名乗る人間がいたことがわかっています。B地区内にある登録課で判明しました。・・・中略・・・わたしはサルトという名前が、ある動物から発生したのではないかと考えています。しかもこのことが現在、A地区の工事が遅れている原因と関連がありそうなのです。★しかし、これはわたしの想像である可能性は否定できません」
 (『同上』P172-P173)


G.
 わたしは医務局から抜け出してきた。君もそうなんじゃないのか。違うのか。そういうふうにしか見えない。着ているのは患者服じゃないか。じゃあ、君は患者のふりをしているってことか。なんのために。ここじゃ誰もが患者にだけはなりたがらない。それよりも労働者のほうがいいと言う。


今では医務局にいたせいか分からないが、勝手に自分の意見ではないことまで頭に浮かぶようになってしまった。それで困っていると、また次の薬、それを止めるためにまた次の新しく開発された薬が投与された。わたしは薬物中毒になっていた。それでもまだ逃げることができた。ほとんどの人間は逃げる気なんかなくなってしまって、うめき声なんかひとつも聞こえず、聞こえてくるのは恍惚とした声ばかりだった。
 わたしの頭は少しばかりおかしくなっていたからか、いつも別の景色が見えていた。それはこの近辺の景色だった。昔の姿なのか、これからの姿なのか、わからないところもたくさんあった。それでも見えていたことは確かだった。
 (『同上』P222-P225)



 この作品に出てくる医務局関連の部分を抜き出してみた。そのA~Gの部分の中で、★・・・★で囲った部分は、わたしたちが病院に対して持つ一般的なイメージと違う部分であり、作品世界の「わたし」≒「作者」の疑念や被害感からの表出ではないかと思える部分である。Fの★・・・★で囲った部分の後には、「しかし、これはわたしの想像である可能性は否定できません」という言葉が付け加えられている。これは、「わたし」(サルト)の相手に投げかけられた内省の言葉であると同時に、「わたし」≒「作者」の作品世界に対する内省の言葉でもあるような気がする。いわば、★・・・★で囲った部分の自己の了解に対する留保の言葉になっていると思う。

 次に、A~Gの部分の中で、●・・・●で囲った部分は、物語や話の現実性としては矛盾する表現の部分である。たとえば、普通では「完成までには長い歳月がかかっていた」=「実際は一瞬の出来事だった」は成り立たない。しかし、作品世界の「わたし」≒「作者」にとっては、二つのイメージの等号あるいは接続は認められている。作品世界の「わたし」≒「作者」には、そのようなイメージ流として体験されたということを意味している。

 Bによると、「定期検診」は、「わたし」含めて受け身的なものと見なされている。毎月1回通院しているわたしの場合もそうだが、通院は受け身的なものとして感じている。病院(医務局)とはわたしたちにとってできれば行きたくないようなところだと思う。したがって、「定期検診」が「わたし」に受け身的なものと見なされていることはわたしたち誰にも当てはまることだから別に問題ではない。問題は、その受け身性からCの描写にあるように、「わたし」が人工衛星で管理されているとか頭の中まで感じ取られているというような、追跡されているとか察知されているとかの被害感の存在である。ここが、普通の病院体験とは異質な描写になっている。

 作者がうつ病で病院にかかっていることについては、昔ツイッターで見かけたことがある。また、Gの記述にあるように、処方される薬が薬物中毒をもたらすこともあるとツイートにも出会ったことがある。この作品世界での「医務局」は、普通の病院のイメージとは違っているように見えるが、「医務局」のリアリティーの根っこにはうつ病の作者の通院の体験があるのではないかと思う。その時の体験が作品世界に写像され織り込まれているように見える。









 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ④



 4.物語の渦中で、「わたし」の多重性


 わたしが、この作品中のの「わたし」の多重性に気づいたのは、以下に引用するA.では、「わたし」は、医務局で「定期検診」を受けたのに、C.では、「わたしだって病気一つしないから、医務局にすら行ったことがない。定期検診のことも聞いたことがない。」という言葉に出会った時だ。あれ、なんかおかしいぞと思った。もうひとつ挙げてみる。「わたしは崩壊そのものととなって、こちらに向かってくるガルを眺めていた。感情も何もないのだから、記憶できるわけがない。わたしは崩壊そのものとなって当然のように崩れ落ちていった。」(P123)とあるのに、後の方では、「定期検診後、時間は停止しているように感じられる。わたしはまったく別の思考回路で地面の上を歩いていた。わたしはまだ崩壊していない。崩壊は別のところで起きていた。」(P174)とあって、矛盾した表現に見える。しかし、よく読みたどってみると、B.に引用しているように、その間に「もう一人のわたし」についてすでに描写されていた。

 「わたし」の多重性に関わる文章を抜き出してみる。


A.

 「わたし」は、医務局で「定期検診」を受ける。(P75-P82)

ワエイは一体どこを設計していたのだろうか。詳しいことは何もわからないままだった。医務局へ行けば戻れるかもしれない。しかし、あれ以来医務局からは一切連絡はなかった。連絡を取るための方法も知らない。(P197)

 わたしは医務局から抜け出してきた。君もそうなんじゃないのか。違うのか。そういうふうにしか見えない。着ているのは患者服じゃないか。じゃあ、君は患者のふりをしているってことか。なんのために。ここじゃ誰もが患者にだけはなりたがらない。それよりも労働者のほうがいいと言う。(P223)


B.

 子どもたちは目が見えないのかもしれない。地中の動物のように目が退化しているのだろうか。しかし、目はぱっちり開いていた。明らかに何かを見ていた。焦点が合っているのは、わたしではなく、もう一人のわたしだった。今起きていることは、わたしの内側ではなく、外側で起きていた。いや、内側と外側がねじれていた。F域にいるからか。確かめようにも子どもたちとはまったく何も話せない。
 わたしは、目を覚ましたもう一人のわたしのことを以前にも書いていた。しかしそれは、もう一人のわたしが書いたのではないか。わたしはそう感じている。ここではわたしが「場所」になっていた。F域とは関係なかった。
 わたしは彼らにとっての「言葉」にもなっていた。彼らが何を話しているのか聞こえないのも、それはわたしが言葉だからだ。言葉には聞くという機能はない。わたしは淡々と書いている。手が勝手に動いていた。わたしに見えている風景ではなかった。(P118-P119)

わたしは今、この場所にいることが奇跡のように感じていた。わたしはここで起きている現象に見とれていた。しかし、何も見えていなかった。見えていないのに見とれていた。つまり、わかっていたことだが、わたしが見ているのではなかった。
 前方に一台のガルが止まっていた。アームを動かしながら瓦礫を積み込んでいる。そのガルの荷台の上に男が立っているのが見えた。目をこらすと、その男はもう一人のわたしだった。男はわたしの頭の中にいたわけではなかった。わたしから発生しているわけでもなかった。自分の足で立って遠くを見ていた。(P122)

 森の奥に広場があった。わたしは腹が減っていたので、迷うことなく中に入っていった。地下に設計部があった。・・・中略・・・働けと言われたら、そのまま受け入れるだけだった。いつだってわたしはには決定権がなかった。わたしが働いていたのかすらわからなくなるときだってあった。それは設計部にきても変わらなかった。なぜわたしは設計をやる羽目になったのか、振り返るよりもずっと昔に、これが決まっていたってことなのかもしれない。これはわたしとは別の体で起きていた。ところが別の世界ってわけじゃない。世界はいつだって一つだった。要はわたしが、一つじゃなかったということなんだろう。(P150-P151)


C.

 今では誰もそんなことを想像できないだろう。ここは町なんかじゃなかった。ここはただの雑草が生えた草原だった。ただの砂漠だったかもしれない。わたしの記憶がおかしくなっているのだろう。労働者たちは誰も気が狂ったりしていない。暴動一つ起こらない。わたしだって病気一つしないから、医務局にすら行ったことがない。定期検診のことも聞いたことがない。何か体の調子でも悪いのか?(P187)



 前々回、この作品は、昔風にいえば「私小説」的な作品で、「わたし」≒「作者」と見なせると考えた。「わたし」の他に「もう一人のわたし」の存在が「わたし」によって認められるということは、「わたし」の多重性ということであり、「わたし」≒「作者」から言えば、「わたし」の多重性≒「作者」の多重性ということになる。

 この物語世界では、「わたし」は主要な登場人物であるとともに、「わたし」=「語り手」だから、「わたし」が多重化しているということは、「語り手」も多重化している可能性もあり得る。B.で「わたしは、目を覚ましたもう一人のわたしのことを以前にも書いていた。しかしそれは、もう一人のわたしが書いたのではないか。わたしはそう感じている。」と「わたし」はその可能性を考え、語っている。しかし、これは「わたし」の疑念であり、「わたし」の不安の表現と見るほかないと思う。

 なぜならば、「わたし」の多重化に対応して「語り手」も多重化していると考えると、物語世界で、「わたし①」=「語り手①」、「わたし②」=「語り手②」・・・となって、作品世界を統合する主体が不在になってしまう。したがって、あくまでもう一人のわたしを感知する多重化した意識を持つ「わたし」が、物語世界の主体になっていると考えるべきだと思う。そうしてそうした状況は、「わたし」の見聞きしたり、感じたりするもので物語世界を統合する「わたし」≒「作者」の揺れ動く不安定な状況を象徴していることになる。もちろん、そうした事態は〈鬱的世界〉がもたらしているものである。

 作中では、「わたし」がメモを取っているというか文章を書いていることになっている。その「わたし」の書くことに触れている部分がある。


確かにわたしが書いている。しかし、わたしは複数に分裂していた。別の言語で考えているのではないか。そんな気もした。書いている内容を完全に把握している自分もいた。体の力を抜くと、誰かが乗っ取ったように自動的に手が動き始めた。手は何かを書いている。これはわたしではない者によるメモだ。医務局に提出できるような代物ではなかった。しかし本来、提出すべきはこういった類のメモではないのか。わたしではない者が侵入している証拠になっているはずだ。わたしの体は侵入経路がわかる生きる資料になっていた。(P174)


 作中の「わたし」≒「作者」と見なすわたしの考えからは、これは作中の「わたし」の有り様であるとともに作者の有り様でもあると思われる。多重化している状況が語られている。

 わたしは、〈鬱的世界〉の外側から〈鬱的世界〉の渦中の「わたし」≒「作者」の振る舞い、すなわち、表現されたイメージ流の世界を見ていることになる。ということは、わたしの言葉はそのイメージ流の内側での「わたし」≒「作者」の苦や快などの実感からは遠いということになるのかもしれない。物語作品を読むことも、一般化すれば、語られたり書かれたりする表現された世界を介しての他者理解の範疇に当たる。この場合でも、表現された世界の内側に入り込むことは難しい。くり返し読んだりていねいに読みたどったりして、表現された世界のイメージ群が収束していくところの作者のモチーフに近づこうとする。この場合、同時代的な感受やイメージの有り様の一般性が前提とされている。しかし、この作品の場合には、その前提が稀薄である。つまり、作品世界の「わたし」≒「作者」が浸かっている〈鬱的世界〉の感受やイメージの有り様の特異さが、この作品の理解を難しくしているように感じられる。

 しかし、一方で、その世界は、わたしたち読者には豊饒のイメージ世界とも映る面がある。後で取り上げるが、この作品には古代の神話的な記述と同じではないかと思える個所もある。〈鬱的世界〉の渦中の「わたし」≒「作者」にとっては、それらの動的なイメージの飛び交う世界は〈苦〉をも伴うのかもしれないが、ある種のイメージについては変奏されながらもくり返し目にしてきた見慣れた感じや親和感もあるのかもしれない。









 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ⑤



 5.場面の転換から


 この作品の各場面の内ではシュールレアリズム風で話の筋がうまくたどれないような描写もあるが、一般的に物語に存在する、構成の問題、すなわち場面の転換を繰り広げながら形成される話の筋はどうなっているだろうか。「物語」の場面の転換を大まかにたどってみる。


・C地区の「崩壊」と「瓦礫」と「建設現場」の話 初め~
・タダスによるとC地区内に医務局があり、混乱した人間たちはそこに運ばれるという話 P33
・町の話 P56ーP64
・C地区内にあるF域の話 P67
・「わたし」の定期検診の話 P71-P82
・「設計部」の話 P84~
・医務局を出た者のリハビリ施設「サイト」の話 P96~
・「崩壊現場」へ、「崩壊現場」での話 P103~
・A地区の話 P136~
・設計部はA地区とB地区の間にあった。 P148~
 「わたし」の仕事は水平を測る仕事に変わっていた。 P158
・「労働者たちが夢の中で勝手にこしらえた」(P165)「ディオランド」という街の話 P163-P166
 ※この「ディオランド」と言う言葉や話は、「わたし」≒「作者」に固執されたイメージのように以後も何度か登場する。
・B地区内に地下駐車場があり、その一角に名前を収集している「登録課」がある話 P167
・「わたし」が医務局に戻る話 P172
・「ラミュー」の話 P177-P180
・設計部にある「手順部」と「管理部」という二つの部署の話 P187-P190
・「ラタン色」と老婆の話 P194~
・「書店のような店」の話 P197~
・ムジクという地域のふしぎな植物や水の話 P199~
・夢か現かの話 P202~
・マウとビンの話 P206~
・A地区とB地区を結ぶ地下通路の話 P212~
 ( 以下、略。 作品全体のページは、P4-P311まで)


 このようにこの作品の構成を見るために、作品全体ではないが場面の転換をたどってきた。作者が、前作についてだったか自分の内に生起するイメージを自分は書き留めているだけだというような言葉に出会った記憶があるが、この作品の読み進むイメージから来る、ランダムな構成かなという予想と違って、割りと一般の物語の場面の転換、構成になっているように見える。「わたし」≒「作者」を圧倒する〈鬱的世界〉の渦中で、「わたし」≒「作者」は意識的か無意識的かそれぞれの度合は不明だとしても、場面を設定しそれらを連結していくという表現世界での構成への意志を当然ながら働かせているということになる。この意志は、〈鬱的世界〉がもたらす多重化する「わたし」を統合しようとする欲求と対応しているのかもしれない。

 また、語り手(「わたし」)や風物が安定的でなく揺らいでいて、抽象画をつなぎ合わせていくような場面の転換になっているように思われる。これは〈鬱的世界〉の圧倒性が「わたし」≒「作者」にもたらす揺らぎや屈折であろうか。









 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ⑥



 6.神話的な描写


 わたしたちの現在が現在の共同的なイメージ・了解の世界を持っているように、現在から見渡せば古代以前の精神では神話的な世界を持ち、そこから生み出されたたくさんの神話を持っている。しかし、近代以降は特に、そのような神話的な精神の世界や神話は壊れた破片のように精神の地中に存在し、振り返られることはほとんどなかったように見える。しかし、今は亡き中上健次は、物語作品の中でそのような神話的世界の破片を寄せ集めて賦活させようと試みたように思う。

 現在では情報や機能や交換や効率など頭中心の世界にとって変わられて、ほとんど振り返られることがないようになってしまった神話的な精神の世界や神話であるが、この作品には、神話的な描写と同一ではないかと思えるような描写がある。まず、その中からいくつか取り出してみる


A.

 雨が降っていた。これが崩壊ならば、わたしになす術はなかった。ただ味わうしかなかった。わたしは動きを止めるどころか、★排泄するように瓦礫は体から溢れ、そのまま積み重なると子どもたちが暮らす家の屋根や壁となって、次の瞬間には破裂するように飛び散った。破片は途中で向きを変え、記憶の中の植物や、建物の影になりかわっていた。★わたしは、自分が自分でなくなっているような感覚に陥ったが、もう気にしなくなっていた。投げやりになっていたわけではなく、むしろ明晰になっていた。すべてが見えていた。蒸発し、霧になると、そのまま落下した。淀むことなく、まわりの細胞とつながると同時にわたしは生まれ、次の人間に生まれ変わっていった。男がこちらを見ていた。子どもたちもまたこちらを見ていた。彼らにはこれが日常なのか、驚いてはいなかった。わたしは残像のように次々と生まれ変わっていた。
 (『建設現場』P124 みすず書房 2018年10月)


B.

 マウはまだ子どもだった。赤ん坊といってもよかった。しかし、マウは言葉を持っていた。腹が減っている様子でもなかった。口のまわりには何か果物でも食べたあとみたいにべたついていて、ビンがマウを抱きかかえたときには異様に臭かった。ビンはこの子を育てることにした。ある日、マウは指をさしたり、つねったりしながら、ビンをある場所へ連れていった。
 そこにあったのは、古い宮殿だった。ビンには確かにそう見えた。つくりあげたのがマウだとはビンには信じられなかった。綿密に設計された建造物だった。マウは宮殿をとても小さな石ころを積み上げて一人でつくりあげたと言った。石のことをマウはニョンと呼んでいた。ニョンは火山岩のようだった。持つと硬いが、ニョンどうしをぶつけると粉々に砕けた。
 マウは寝る間も惜しんで、ひたすらニョンを拾い集めては、宮殿作りに没頭した。マウは鉈を使うことができた。マウに鉈を作ってあげた人間がいるはずだが、親たちが鍛冶屋だったのかもしれない。周辺に鍛冶屋は一軒もなかった。誰も鉄のことすら知らなかった。
 ビンがつけていたマウの観察日記は膨大になっていった。★ビンはマウという人間に大きな集団を感じた。実際にマウは一人ではなかった。生きのびるために都市をつくりあげていた。マウは法律や通貨なども生み出していた。実際に数百人の住人がいて、マウはその支配者というわけではなく、あくまでも一人の子どものままだった。マウは何の指示も出さなかった。都市に漂う大気そのものだった。大気ははじめ澄んでいたが、次第に汚染されていった。マウが咳き込むたび、石ころは崩れ落ちていった。彼の動きはかすかな振動ですら宮殿に影響を及ぼした。しかし、つくるのもマウ自身であり、都市に労働者はいなかった。・・・中略・・・
 都市では毎日、開発が行われた。掘り出された土砂は、決まってマウの糞便となった。マウは彼自身が一つの土地、気象、大気となった。ときに彼の小さな体は高層の建造物となり、人々の住まいとなった。★
 (『同上』P208-P209)


C.

 ここで生まれたことよりも、われわれがどうやって辿りついたのかを考えたほうがたやすい。まず、われわれは川沿いにいた。ここには昔、川が流れていた。われわれよりも思考する川だった。川はいくらでも形を変えることができた。気候とは関係なかった。氾濫するのも彼らの意図するままだった。川とともに暮らすことをはじめたわれわれは、人間であるよりも川沿いの植物やらと同じ生命を持つものという認識しかなかった。川のしぶきが体に当たると、われわれは何か思いついた。そうやって刺激は信号となって届いた。われわれの感覚が動くよりも先に、川の手足が伸びた。触覚のような水滴は、そこらへんに生息する生命を確認するように、われわれに景色を見せた。すべてがそうやって生まれた。
 分裂したわれわれが、それぞれに思考しているなんてことは思いもしなかった。われわれは集団で行動していたのではなく、川の思うままに生き、そして、死んだ。変化はわれわれにとって息をすることよりも大事なことだった。われわれには判断する頭がない。もちろん記憶もない。水滴は常に移り変わるものだ。われわれは常に状態でしかなかった。われわれは感じることがなかった。川は常に一つで、無数だった。われわれは川の器官の一つだった。川が唯一の生命だった。
 川は枯れてしまった。われわれは人間だと名乗りだした。彼らは手足を感覚であると言い張り船をつくった。水中を知り、潜っては魚をとった。食欲を獲得した。どこかへ行こうとした。この場所ではないところを見つけ出そうとした。見たことのない場所を想像した。川の起伏を変えた。川の動きよりも、太陽や星の動きに体を任せた。気づくとわれわれは完全にわかれてしまった。それぞれに名前を持つようになった。
 われわれは人間ではなかった。言葉もなかった。川は言葉よりも柔らかい。われわれの知覚は、常に与えられていた。決して獲得するものではなかった。川が枯れたとき、われわれはそれぞれに泣いた。いつまでも止まることなく泣いた。泣き止んだとき、われわれは川であることを忘れてしまった。川は枯れるとそれぞれ人間にわかれていった。われわれの知覚はそうやって生まれた。・・・中略・・・
 人間ももとはわれわれと同じ川だった。それを忘れたまま祭りをやっても、人間の先端までたどることしかできない。いつまでも到着しないままだ。空中の時間が流れるだけだ。時間をさかのぼるのは容易ではない。
 枝葉集められたものではなく流れてきたものだ。川の一滴となってわれわれのところに届いた。流れてきた。それはわれわれと違う感覚だ。それこそが感覚である。感覚がいま、届いている。水滴。水蒸気。川の記憶は至るところに、何度も流れてくる。
 (『同上』P261-P263)


 上のA.B.の★・・・★の部分は、神話的な描写の部分である。C.は太古の長老が人間や世界の成り立ちを集落の人々や子どもらに語っているような興味深い場面で、全体が神話的な描写になっている。

 では、神話的な描写というのはどういうものだろうか。戦前戦中までの世代と違って、敗戦後の思想的、文化的な転換のせいもあって、わたしたち戦後世代は日本の古代の神話には慣れ親しんでいない。そんな神話から拾い出してみる。


 天の沼矛(あめのぬぼこ)という、美しい玉飾りのついた矛をおさずけになりまして、高天原(たかまのはら)の神々は、「このただようばかりの国々の形をととのえ、確かなものにせよ。」とお命じになったのです。
 ご命令をうけたイザナキの命(みこと)とイザナミの命は、高天原と地上とをつなぐ天の浮き橋の上にお立ちになりました。そして、頼りない陸の姿を浮かべてとろとろとただようばかりの海原に、天の沼矛の先をお下ろしになったのです。
 海の水の中には、生まれようとする陸地の手ごたえでもあったのでしょうか。とろとろとかきまぜられた塩水は、音をたててさわぎました。そして、イザナキ、イザナミの二柱の神がその矛を引きあげられたとき、濃い海の水はぽたぽたとしたたって、そのまま島の形となりました。このおのずと凝りかたまってできた最初の島の名を、オノゴロ島と申します。
 (『古事記』上巻 国生み 橋本治訳 少年少女古典文学館 講談社)


 イザナミの命の出された大便からは、粘土の男神(おがみ)と女神が生まれました。粘土をこねて火で焼くと土器になるのは、このためです。
 イザナミの命のもらされた小便からは、噴き出す水の女神が生まれました。強い火を消すのには水をかけるという知恵は、この女神がもたらしたものです。
 (『同上』)


 オオゲツヒメの神は鼻をかみ、げろをし、お尻からはうんこをしました。それがやがて、オオゲツヒメの神の力でりっぱな食べ物に変わるのですが、しかしそんなことを知らなかったのが、追放されて高天原を去っていくとちゅうのスサノオの命でした。
 オオゲツヒメの神が体から生み出した物を、神々のためにりっぱな器に盛りつけているところを見たスサノオの命は、「なんということをするのだ。」と思いました。・・・中略・・・
 (引用者註.スサノオの命に殺されて)オオゲツヒメの神は死んでしまいましたが、その死骸からはさまざまなものが生まれました。
 頭からは、絹の糸を吐く蚕が生まれました。ふたつの目からは、稲の実が生まれました。ふたつの耳からは粟の実、鼻から生まれたものは小豆です。股のあいだからは、牟岐の穂が生まれて、お尻からは大豆が生まれました。オオゲツヒメの神は死んで、でもそれだけ豊かな物をあとに残されたのです。
 (『同上』)



 これらの神話は、国土や穀物がどうやってできたかの起源譚にもなっている。まず、現在のわたしたちが神話の描写に感じるのは、そんなことは現実にあり得ないという荒唐無稽さであろう。古事記として神話がまとめられた古代の時期やそれ以前のその神話が生み出された時期においても、穀物の種を土地に蒔かないと芽が出て育つことはないとか、風水害などの自然の猛威によって土地が破壊されたのだとかいう事実性の認識はあったものと思う。しかし、それらの認識の背後には、事実性の認識に張り付いた神話的なイメージと了解の世界があったのだろう。現在のわたしたちには、その世界はなかなかわかりにくいけど、そのことが「オオゲツヒメの神のうんこ」→「食べ物」というイメージの連結を可能にしていることは確かである。

 おそらくまだ世界が固まっていなくて漂っているような世界に生きている小さい子どもの世界では、サンタクロースを受け入れるのと同様に、この神話の描写は受け入れられそうに見える。個々の神話が語られた時期とそれが古代にひとつに編集された時期とかあり少し錯綜していて、いつの時期かはよく分からないにしても、すくなくともこの場面の登場人物のスサノオには、「オオゲツヒメの神のうんこ」→「食べ物」というイメージの連結を信じられていないように見える。

 このように、神話的なイメージや神話的な描写は、現在から見たら荒唐無稽に見えるものであるが、例えば、「虫送り」→「稲の虫が退散する」や「地下で大ナマズが暴れる」→「地震」などのイメージや了解と同様に、「オオゲツヒメの神のうんこ」→「食べ物」というイメージの連結が、事実性の認識の背後に信じられていた歴史の段階があったのだろう。そうして、「オオゲツヒメの神のうんこ」→「食べ物」というイメージの連結を信じられている世界が、神話的世界であり、そこから神話的な描写は湧き出してくるのである。

 この古代の神話にも、オオゲツヒメの神の行為を見たスサノオの命は、「なんということをするのだ。」と思いました、と語り手の語りがあるが、現代の物語のような個々の人格を持った普通の人間の描写とは言い難い。『建設現場』の場合は、揺らぎがあったとしても「わたし」という個の存在感はしっかりと出ている。『建設現場』の場合も、「オオゲツヒメの神のうんこ」→「食べ物」というイメージの連結するようなイメージの性格は共通していても、その世界が「わたし」≒「作者」という個を訪れているという点が古代の神話とは異なっている。

 神話的な描写とは、わたしたちの日常的な視線からすれば、超人的で荒唐無稽な描写と言えそうである。しかし、世界がまだ十分に固まっていなくて漂っているような世界に生きている小さな子どもは、大根や汽車がしゃべったりするのに抵抗がないように、あるいはサンタクロースを受け入れるのと同様に、神話的な描写を受けいれやすいのではないかと思う。これは逆にいえば、小さい子どもの世界は、人類の歴史の幼年期の精神世界と対応するように、神話的なイメージ・了解の世界に近いのではないだろうか。

 ということは、この『建設現場』の作品世界で、一方の大きな中心である〈鬱的世界〉の本質が、神話的世界のイメージの世界と同質のものを持っているということになるだろうか。これをもう一方の表現する主体の方から言えば、「わたし」≒「作者」が、無意識的に神話的世界のイメージ・了解を呼び寄せたということになるだろうか。そうして、なぜそういう世界を呼び寄せた、引き寄せてしまったのかというのは、わたしにはよくわからない。おそらく作者自身にもよくわからないのだと思う。ただ、今までたどってきたことから類推すると、〈鬱的世界〉は、C.の大いなる自然(川)が人間を圧倒していた歴史段階を思わせる描写やこの作品の繰り出すイメージ世界の性格から見ると、人類の深い時間の海、人類の幼年期の方から湧き上がってきているのではないかと想像される。これを作者の個体史の方に返せば、一般にそれは誰にとっても無意識的であるが、作者の無意識的な乳胎児期や幼年期などの方からやって来ているのではないだろうか。









 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ⑦



 7.登場人物名の命名法


 ふと登場人物たちの名前が気になった。物語の世界にとっては、登場人物たちの名前は、村上春樹の作品中で語られるチノパンツ同様、あるいは自然描写の木々や通りの様子などと同様に大きなウェートはないとみてよい。しかし、それらは物語の世界でウェートがとても小さいとしてもなくては困るものである。そうして、登場人物たちの命名にも作者の好みや傾向や無意識などが関わっているはずである。


1.作品全体から登場人物名を取り出してみる

P77,P173 サルト(わたし、語り手)
P9 ロン(トラックの運転手)
P12 チャベス
P17 マレ(白髪の労働者)
P17 ウンノ(若者、伝達係のような仕事)
P19 サール
P19 マム(売店の老婦)
P20 ムラサメ(労働者)
P27 ペン(現場の頭)
P33 タダス
P36 バルトレン(大道芸人)
P45 クルー(労働者)
P79 2798(医務局の担当医の番号)
P85 マト(設計士)
P85 ボタニ(設計士)
P85 リン(設計士)
P87 ワエイ(設計士)
P89 ライ
P90 サザール
P104 ルコ(若い男)
P144 ノット(郵便係)
P149 ジュル(盗賊のボス)
P149 カタ(盗賊のボスの右腕)
P159 オイルキ(へどろを収集する人間のこと)
P161 ギム(料理人)
P167 ルキ
P203 ジジュ
P206 マウ
P207 ビン(植物採集業者)
P212 モール(ゲートの守衛)
P216 エジョ
P218 ホゴトル
P225 ザムゾー(病院内の道具の修理店店主)
P250 ヤム
P266 メヌー


2.登場人物の名前に関係すること

おれはルキって呼ばれてる。名前を思い出すやつは珍しいからね。お前も思い出したんだろ?それだけでたいしたことなんだよ。おかげで自分の故郷までの帰り道が分かるかもしれないんだからな。ルキって名前はおれがつけたわけじゃない。そうやって呼ばれていたやつが昔いて、ある日突然いなくなった。おれはずいぶん探した。・・・中略・・・おれはルキを探しているうちに、いつのまにかルキって呼ばれるようになっていた。ルキがどんな意味なのかは知らない。 (P167)


 名前を収集している登録課ってところがある。・・・中略・・・(引用者註.B地区内の)地下駐車場の一角に登録課がある。まずはそこへ行ってみたほうがいい。そこにお前の名前だって記載されているはずだ。
 たとえ忘れたとしても、それぞれの名前はちゃんと残っている。消えたわけじゃないんだ。崩壊が起きても名前はいつまでも残っている。別の問題なんだ。ルキはおれに向かってこう言っていた。 (P167-P168)


 ここが自分の場所なんだ。ここに住んでいるのが本当に自分なのかってのはいつも考える。体はここにいることに感動している。ここで考えることがすべて体の中で起きているということに驚いている。それで自分がここで何かをするたびに、それこそ焚き火ひとつ起こすたびに、声をあげてしまうんだ。
 その声を聞いて、だんだん人が集まってくるんだよ。彼らは見たことのない人たちばかりだ。その人たちに名前をつけることはできない。なぜなら彼らはずっと前からここにいる人たちだから。たとえそれが自分の体から出てきたとしてもね。
 出てくる瞬間を見たことだってある。口から白い息を出して遊んでいると、のどの奥がつまってきた。数人がかりで舌をロープみたいに引っ張ってよじ登ってきた。彼らは小さな人間みたいな形をしていて、口から出てくると、焚き火にあたりはじめた。 (P254-P255)



 この『建設現場』という作品世界の内部では、例えば「ルキ」という登場人物は、わたしたちの通常の命名とは違った形で「ルキ」という名前を受け継いで「ルキ」になる。また、ルキ自身は 「ルキがどんな意味なのかは知らない」。「わたし」のサルトも同じような名前の引き継ぎだったと語られていたように思う。この作品世界では、人の名前に対する感覚がわたしたちの生活感覚とは違っている。おそらくこの読書日誌 ④で取り上げた「わたし」の多重性と関わっているものと思われる。

 ところで、「だんだん人が集まってくるんだよ。彼らは見たことのない人たちばかりだ。その人たちに名前をつけることはできない。なぜなら彼らはずっと前からここにいる人たちだから。」というのは、よくわからない。これは前後のつながりから言えば、「ロン」の話の場面と思える。「ロン」にとって、「ずっと前からここにいる人たち」は自分たちとは違った世界の住人であり、「見たことがない人たち」、すなわち不明だから名付けようがないということなのか。作品世界の内部で、ある登場人物が他の登場人物にその正式の名前以外に「名前をつける」というのはニックネームを含めてあり得るとしても、この作品世界の内では、上に述べた「ルキ」の名前の由来からして、ある登場人物が他の登場人物に「名前をつける」というのは、ちょっと場違いに思える。したがって、ここは「ロン」の語る話の場面だとしても、「その人たちに名前をつけることはできない」というのは、語り手の「わたし」≒「作者」のその登場人物たちに対する不明感の反映と見るほかない。

 わたしは、この『建設現場』という作品を、作者≒「わたし」の私小説的な作品、あるいは、作者≒「わたし」に訪れる〈鬱的世界〉の促す心象表現と見てきたから、作者≒「わたし」を含めて登場人物たちの名前に対する意識もそのような心像に彩られているはずである。

 では、作品世界の内から外に出て、作者が名付けた登場人物たちの名前という所で考えてみる。〈鬱的世界〉が作者に促す登場人物たちやイメージ流だとしても、語り手や登場人物たちを表現世界に派遣する主体は、あくまでも作者であるから、作者が登場人物たちの名前を考え名付けたと見てよい。

 例えば、宮沢賢治は人名や地名などにわが国の命名法とはちがった命名法を行使している。
 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」の場合の命名は、宮沢賢治の擬音語への嗜好からきている場合のように見えるが、宮沢賢治の命名法は、わたしは深く探索してはいないが、「カムパネルラ」「イギリス海岸」や「イーハトーブ」、「ポラーノ広場」、「グスコーブドリの伝記」など印象程度で一般化して言えば、西欧風のイメージを借りながら、架空の世界を作り上げる、そのための命名法のように感じられる。もちろん、選択され名付けられた言葉には作者宮沢賢治の好きな語音やリズムというのも含まれているのかもしれない。

 それでは、『建設現場』の作者の場合はどうであろうか。誰でも気づきそうなことを挙げてみる。

 命名の特色
1.2音か3音の言葉が多い。
2.日本人名離れしている。つまり、外国人を思わせる名前である。
3.即興で名付けられた感覚的な語の印象がある。

 3.に関しては、固有名詞ではないが、命名法が即興で名付けられた感覚的な語の印象を推測できる場合がある。P159に、「オイルキ(へどろを収集する人間のこと)」が登場する。これはおそらくへどろの上にうっすらと浮かんでいるオイル(油)のイメージから命名が来ているように思う。そういう意味で、これは感覚的なイメージから来ている命名だと思われる。

 1.と2.に関しては、作者自身もわりと無意識的な好みや選択による命名ではないかという感じがしている。そこにはたぶん外国の音楽にも関心を持ちながら音楽表現もやっている作者の語感の反映がいくらかありそうにも思えるが、断定はできない。


 ※ これでだいたい終りです。もしかしたら、あと一回続くかもしれません。







8.


 『建設現場』(坂口恭平 2018年10月)読書日誌 ⑧


 8.「終章」の意味


 『建設現場』では、章の番号が付されている。しかし、118の章の次の章、すなわち最後の章は章の番号が付されていない。この最後の章は、「終章」に当たるものであるが、章の番号が付されていないということは、前章に接続するもの、すなわち『建設現場』の作品内部の流れそのものにあるもの、ということではなさそうである。『建設現場』の作品内部の流れから少し抜け出たところから言葉が繰り出されているように見える。

 「終章」は、次のようにはじまる。


 突然、崩壊は起こりました。誰も知らずに、気にもせずに、いつのまにか崩壊のアナウンスもなくなり、誰もが平和に暮らしていました。それでなんの問題もなかったのです。ところが、崩壊が起こると、突然、われわれは考えなくてはいけなくなりました。それができるための脳みそをつくりだそうとしました。われわれは感じていることを、そのまま手のひらで表し、意思伝達を行っていました。われわれはもともとここに住んでいた人間たちと約束を交わしたのです。われわれは何が起こるかを知っていました。しかし、伝達できずに困っていました。われわれは自分たちですぐ考え出しました。それは本能よりも強靱なものでした。われわれは食事をするよりも眠るよりも考え、そして仕事をはじめました。
 仕事というものは、不思議なもので、突然、そこに現れます。つまり、必要に応じて、生まれるのではなく、突然、崩壊のように現れます。だから、いまも同じなのかもしれません。われわれはいま、崩壊しています。しかし、これは想像していた通りのことが起こっているだけなのです。だからこそ、この日誌の言葉が生まれたのです。
 これはもともとある言葉です。だから、不思議なことは何一つありません。こうやって、よくわからないことを延々と書き続けることはおかしなものです。こうやって堂々巡りをするのです。当たり前の反応です。どうすればいいのかわからないのですから。どうすればいいのかわからず、われわれはどこにいっていたのでしょうか。これは壁ではありません。われわれはそれでも問題がないと思って、突き進んでしまったのです。仕方がありません。崩壊は起こるべくして起きました。だから、不安を感じずにいられないのです。
 これはこれからはじまることで、終わりではありません。恐ろしいかもしれませんが、われわれは知っていたのです。それで、これから起きたこと、もうすでにこれは起きています。起きました。それでもわれわれは生きています。まずそれを確認してください。これはもうすでに起きて、何年も経っているのです。だから記録になっているわけで、これはもう過去のことです。それをまだ起きていないものと思っているのはわれわれの頭でしかありません。そこで起きていること、そこに生まれている時間や空間について、われわれはなにも言えないのです。それでも進むしかありません。ここまでひどいことになるとは想像もしませんでした。しかし、これはわれわれが選んだことなのです。
 すべてのものが、離れていきました。そして沈黙がやってきます。これからずっと静かな状態になるのです。もうこれで終わりではなく、静かな状態がはじまります。それはわれわれにとって悪いことではありません。それでもまた次の日はやってきます。・・・中略・・・
 われわれがこの記録を読みあげているのは、これで終わらせようとしているからです。記録をつくることを終わらせるのです。そのかわりにわれわれは起きることができるようになります。そして、沈黙することを覚えていくのです。それはわれわれが求めていたことです。それをこれから言葉にするのです。もちろん、これはわれわれがつくりだしていたことともつながります。いつか、こうなることがわかっていた。だから、われわれはつくりだしたのです。この街を。この建設現場を。それは関係があります。あらゆることが関係しています。
 空間が生まれてしまったのは時間が発生したからです。なによりも先に生まれてしまったのは時間で、その時間にわれわれは取り込まれてしまっています。それに対処するために、われわれは崩壊という方法を選んだのかもしれません。だからこそ、もう一度、われわれがつくってきたものを振り返る必要があります。
 (『建設現場』P307-P309)



 今までは物語世界は、ほとんど「わたし」が主人公で語り手であった。もちろん、多重化した「わたし」ではあった。いろんな人々が、この世界の登場人物として現れた。また、98章は「わたし」ではなく「われわれ」が登場する。これは「わたし」の多重化と見ていいと思う。この終章の「われわれ」も多重化した「わたし」と見ていいと思うが、『建設現場』の作品内部の流れから少し抜け出ているように見える。この「われわれ」の語るよくわかりにくい話をつなげていくと、

「突然、崩壊は起こりました」→「もともとここに住んでいた人間たちと約束を交わした」→「仕事をはじめました」→「われわれはいま、崩壊しています」→「想像していた通りのことが起こっているだけなのです」→「この日誌の言葉が生まれた」→「よくわからないことを延々と書き続ける」→「おかしなものです」→「これはもうすでに起きて、何年も経っているのです」→「だから記録になっているわけで、これはもう過去のことです」→「われわれがこの記録を読みあげているのは、これで終わらせようとしているからです。」→「そのかわりにわれわれは起きることができるようになります」

 こうしてたどってみると、この終章が実際にいつ書かれたかは別にして、設定としては『建設現場』という作品世界を何年も前に書き終えた後の「作者」としてのモチーフについて語っている場面に見える。「われわれ」となっているが、これは先に述べた多重化した「わたし」と見てもいいし、作品世界に登場した人物たちを含めたスタッフ一同を代表しての「作者」と見てもよいように感じられる。そうして、『建設現場』という作品世界とちがって、「です」「ます」体になっているのは、「作者」自身との自己対話・自己格闘でありながらも、わたしたち読者の方を見て語っているからだと思われる。「これはもう過去のことです」や「われわれは起きることができるようになります」は、鬱の苦しい世界に直面して寝込みがちだった日々から起き上がって通常の生活へ帰還したことを指しているのだろう。

 この物語は、作者にとっては切実な苦しい物語であるように見えるが、読者にとっては心ときめかすような物語の起伏に富んだ作品というより、よくわからない不明の物語という印象を与えるように思われる。その横溢するイメージ流は、作者がいくらかなじんでいる部分があったとしても、作者自身にとっても不明の根を持つものかもしれない。しかし、この作者にとって切実で孤独な自己対話・自己格闘の作品をもっと一般化すると、病のような深刻な世界に落ち込んだ「わたし」の内的世界は誰にとっても無縁であるとは言えないが、そうしたある普遍の場でひそかに他者(読者)と出会いを求めている作品とも言えるかもしれない。

 ※(おしまい)











inserted by FC2 system